『ポップと軸』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
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     あらすじ・作品紹介
 突然、彼女はこの世界に降り立った。理解できない奇妙なファンタジーな世界に、彼女は段々惹かれてゆく――

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 ごつごつとした、褐色のレンガを掴む。ひんやり冷たかったがそんなことは構わない。同じような色のレンガが列なった建物から顔をひょっこりと出した。
 そこはヨーロッパ風の建物がいくつも並んでいて、花屋、パン屋、レストラン、様々な統一感の無い建物たち。モノクロだったりやけに明るかったり、しかしどれもこれも全く劣らず整った外見ではあった。
 そして行き交う人たち。中国人、日本人、アメリカ人、インド人、国問わず色んな人たちがまだ灯らない街灯の下を歩いている。全く奇妙な光景である。
 軽快なメロディも流れていた。元はどこなのか全く分からない。そのポップな音楽はスピーカーも全く見当たらない場所で、この場所全体に響いている気がした。
 サーカスでもやっているのか、向こうでは人の笑い声が聞こえる。遠目で見ても分かるくらいに明るい色をまとった、ピエロも踊っていた。明るい明るいまるでファンタジーな絵本をそのまま描いたようだ。

 そんな中に私はいる。比べると少し薄暗い路地裏からやっと抜け出した。オレンジのシンプルなスカートの泥を払いながら、行き交う人々の中に自然に入り、歩いてみる。私の前にいるのは二十代ほどの女性で、多分中国人と思われる。後ろにいるのは中年の男性。これは、アジア系の顔に見えた。
 適当に歩いていくと、段々私が最初にいた路地裏が遠のいていった。確実に私は歩んでいっているということだ。不思議なのは、私とすれ違う人たちが皆私を見て振り向くということ。どうしてなのかは分からないが、今はそんなことを考えている場合ではない。
 ここはどこだろう。どうして私はここにいるんだろう。
 私は気がつけばここに居たのだ。何もかも分からない状態でこんな不思議な場所にいる。怖くて怖くて仕方が無いはずなのだが、どうにもそんな感情を抱く気にはなれなかった。
 これは夢だろうか。その割には五感が研ぎ澄まされている気がする。現に今、パン屋の匂いやケーキ屋の甘い匂いが漂っているのだから。ポップなメロディもはっきりと聞こえる。
 とにかく私は歩くことにした。止まっていても仕方が無い。何もしなければ恐怖が増すだけだし、何も変わらない。
 そこで、パン屋に行ってみよう。パン屋は今私の眼と鼻の先にあり、この人の流れから抜け出せばすぐに着く。そうと決まれば実行あるのみで、私は流れを縦断し、やけにカントリーチックなパン屋の目の前に立った。
 なんとも言えないのだが、とにかくおしゃれだ。ガラス越しに見えるパンはどれもこれもおいしそうで、白いレンガの中よく映える黒の扉のノブに手をかけた。
 それからスカートのポケットを探ると、銀貨が一枚出てきた。百円。パン、買ってみようかな。

「いらっしゃい」

 中に入ると一気にパンの匂いが押し寄せてきた。甘い匂い、しょっぱい匂い、辛い匂い色々、突然腹の音が鳴りそうになって堪えた。
 どうやらこのパン屋は白で統一されているらしい。レジも白、棚も白、パンはさすがにばらばらだが、とにかくそれのお陰で全体的にシンプルな雰囲気が漂い、またシックでもある。
 そのレジに居るのは優しそうなおじいさん。年齢は六十代ほどだろうか。やはり服もエプロンも白だった。

「あの、私道に迷ってしまって」

 まあ、これが一番良い言葉だと思う。
 突然ここはどこですか? なんて言ったら怪しいにも程があるし、それからの追求で私は上手く答えられず記憶喪失として警察に突き出されるかもしれない。
 この言葉はちゃんと通用して、おじいさんは眼鏡越しの瞳を少し揺らした。多分客じゃなくて少し驚いているのだろう。

「もしや、観光の人ですかな?」
「え?」
「見慣れない方なもので」

 どうして観光客という答えにたどり着くのだろう。それが謎で私は眉間にしわを寄せた。
 それに気づいたのかおじいさんは慌てた様子ですぐに答えてくれた。

「この町の人たちは皆記憶しているのですよ。それが、当たり前」
「ああ、だから……」

 そんなに小さな町なのか。とりあえず発言の意味には納得した。
 さてどう答えれば良いだろうか。本当に突然の出来事だったし、そんな言葉なんて全く考えてはいない。とりあえず今必要なのは身の回りの情報と、これからの行動。おじいさんに言っても、やっぱり怪しい人間として記憶されてしまう。
 なかなかいい答えが見つからず、しばらく考え込んでいたらおじいさんから話しかけた。

「まさか……異国の民ですか?」
「異国の民?」

 聞き返すと、おじいさんは怪訝な顔をした。さっきまでの優しそうな顔とは違い、焦ったような、困ったような顔。
 私は何かまずいことをしたのか? 何も言えず固まるしかなかった。
 さっきから漂っていたパンの香ばしい匂いはレジの向こう、白い扉からかすかにみえる厨房から流れているらしい。空気の流れが少々違う気もするが、今はその発見も謎もどうでもいい。おじいさんが全く喋らなくなったのがとても不安で、異国の民の意味を必死に探すことにした。失言してしまったのだろう、この反応を見ると。
 その時、やっとおじいさんが口を開いた。

「異国の民、とはですね。この世界とは違う世界から来た人物を差すのです」

 突然の膨大なスペックを処理するには時間が掛かることを悟った。異国の民? 違う世界? ファンタジー過ぎて理解できない。このおじいさんは一体どこからそんな単語を引っ張りだしてくるのだろう。
 笑顔も焦った表情も今は無く、ただ無表情でとつとつと打ち明ける。静かな声音は大きくないのに自然とこのパン屋に通っていた。それはまだ客が一人も居らず、他と比べれば小さいからかもしれない。

「この人が作り出す奇妙な想像から創りだされた奇妙な世界――いわば現実から逃れたい者のみが来れる世界です」

 表情は真剣である。どうやら嘘では無いらしい。が、それを受け止める寛大さが私には無い。というよりも、今まで普通に起きては寝て起きては寝てと、自分の持つ職業について以外は他の人間と同じ生活を繰り広げてきた私だ。突然そんなことを言われてああそうですか、なんて理解できるほうがおかしいのだ。
 しかしどうにもこのおじいさんを疑う気にはなれない。人が良さそうで騙すような人間には見えない。元々騙す理由が無い。

「私が……現実から逃げたい……?」

 もう一度聞き返す。おじいさんは黙ってこくりと頷いた。
 確かに否定できないのだ。こんな世界今まで見たことがない。異国だと思ってはいたが夢でも無いらしいし、現実とは思えない。

「ご職業は……」
「小説家、です……」
「ああ、やっぱり」

 その言葉に胸が響いたような気がした。
 そういえばそうかもしれない。私は現実から逃げたがっていた人間だ。小説家という職業から大スランプに陥り、何もかけなくなって机に向かえば頭が真っ白になって、人間が一度は体験するスランプにかかっている。それも私は、一年に渡って。
 両親は居るには居るのだが、親の反対を押し切り小説家を目指すため、今私はそこから随分離れた地域のアパートで毎日を暮らしている。小説ができなければお金はもらえない。お金がなければ生活ができない。親の仕送りに頼れるわけがない。
 そんな苦しい生活を続けていて、ふと気がついた。
 小説、やめようかなと。
 若かった自分が懐かしい。あの頃は小説がただ大好きで小説家を夢見て、憧れだけで自分の人生を頭の中で勝手に繰り広げていた。ペンと書くものと、想像。それさえあれば書けるのに、簡単そうに見えて難しく練りこまれるストーリー、分かりやすく伝える情景描写、どれだけ美しく表現できるか、色々考えなくてはならない。
 そんな奥深い小説が好きだったのだ、あの頃は。なのに今ではそんな気持ちはちっとも無い。
 私はまだ二十歳、大学生だ。小説家になろうと決めたのは確か十八歳。たった二年しかやっていないのに疲れるだなんて、あまりに小説に失礼だ。
 資格が無いからやめるだなんてかっこいい理由じゃない。やっぱり小説を続けることに疲れてる。
 しかしやめてどうする? 生活ができなくなる。今は全く会っていない担当も私には呆れて、きっと今小説を創り上げても見てはくれないだろう。そんな状況に居るのだ私は。
 現実から逃げたい。何も考えずに生きていきたい。
 そう考えるようになっていたことを思い出して、頭に一瞬で今までの感情が溢れてきた気がした。

「私……現実から逃げたいって思ってました。だから私はここに来たんですね」
「ええ、そうです」

 嬉しいのかどうかよく分からない、変な感情だった。ここにいると全てが狂わされる気がする。感情もきっとそのせい。
 じゃあ今の私は自由だ。何も考えず過ごしていられるのだ。このファンタジーで奇妙に包まれた世界で。それは幸せなことじゃないか!

「嬉しい……」

 思わず呟いてしまった。声に出して再確認する。私は今、嬉しい。大嫌いだった現実から逃れることが出来た幸運者だ。こんな体験滅多にない。
 少し曇った窓から外を見る。モノクロ、カラー、一色。何から何まで私が今までいた世界には何も無い。向かいにあるケーキ屋を少し覗いてみると、ケーキの形をした飴がうっすら見える。周りにはチョコレートのようなものをまぶし、フルーツもふんだんに使ってあった。あんなもの見たことが無い。私だけかもしれないが。多分とても贅沢。
 また、行き交っている人々の着ている服も小粋なもので、中国人と思われる若い女性が、着物を着ていた。その着物は着物と思えないほどフリルが使ってあり、丈もミニスカートのようなものである。あっちの世界ではとても考えられない服装だが、ここではまるで当然のように着こなしている。素敵だと思った。
 視線をおじいさんに戻すと、おじいさんはまたにこやかな顔に戻っている。私もつられてにこりと笑うと、おじいさんが何か思い出したかのような顔を見せた後、私からは死角になって見えないのだが、レジについてある引き出しを開けて何やらごそごそと探っているようだ。それから目当てのものを見つけたのか、チャリ、と音を立てたそれを私の前にゆっくり差し出した。

「この時計をあげよう」
「時計?」

 しわが目立つ手の平には、赤い腕時計があった。別に変わった様子は無く、赤い皮、ただ時間を見るためだけに創られた時計としか見られない。おじいさんにこれは何かと、受け取る前に目で訴えた。おじいさんは笑みを絶やさず、おっとりと続ける。

「これはタイムリミットを差す時計だよ。この時計を持っている人間は、君以外いない」

 何のタイムリミットか、と訊こうと思ったがおじいさんはそのまま説明をしてくれるらしく、何も言わずまじまじとおじいさんを見ていた。赤いふちの眼鏡が印象的な老人である。とりあえずここにいる間はしばらくやっかいになるかもしれないし、ここから出た時また戻ってこれるよう、せめておじいさんの外見だけでもよく覚えておこう。と、聞きながら考えていた。
 やがておじいさんが当たり前のようにまた口を開く。

「君が帰りたいと思う時間さ。どこかって、現実だよ。現実に戻りたいと思ったら、またここにおいで」
「時間は、いくつあるの?」
「見れば分かるさ」

 言われ、受け取った時計に目を落とす。なるほど、この時計は逆周りに動いている。つまり三時間ぴったりまでこの時計が逆周りするまでに、帰りたいと思ったらここに帰ってくれば良いのだ。

「ただしそれまでに戻ってこなければ、君は二度とあちらの世界に戻ることはできない」

 笑顔が一瞬消えたような気がした。言っていることが言っていることなので、多分見間違いでは無いだろう。
 この時計が三時間を指した時、私はもう現実に戻ることができなくなる。
 ――別に、良いんじゃないか? 私は一生デビューすることが無いと言われるくらいの、どうしようもない小説家。かなわぬ夢は早く捨てるものだ。特に困ることも無いし、別にこんなことをしなくても私は一生ここに住みたい。それはとても身勝手な行為かもしれないが、このまま事が進めば私は二度とあっちに帰れないわけだし、だれにも責められない。何もかもを忘れることが出来るのだ。

「おじいさん私ここに住みたいです」
「ああ、確かにそうかもしれない。だけど人間は時に、前言撤回することだってあるものさ」

 まあとにかく、今はこのおじいさんに従っておこう。本当に、もしも、のことがあれば必要だ。
 もう一度ここにおいで、ということはしばらく外に出ろ、ということだろうか。それなら本能がむくままにこっちの世界を思う存分楽しもう。そして私は帰らない。
 簡単にこの状況を受け止めている自分が居るのは、きっとそれほど現実に戻りたくないから。こんなことでも信じてしまうほど逃げたかったのだ、私は。その願いが叶った、それだけのこと。思わず笑みがこぼれそうになる。

「それじゃあ行っておいで。必ず時間内に帰ってくるんだよ」

 私は一礼しておじいさんに背を向けた。立ち込めたパンの匂いがする室内を遮る白い扉のノブに手をかける。くるり、とまわすと扉は簡単に開いて、途端に風が吹いた。私の髪を揺らしてどこか遠くまで飛び、きっとまた戻ってくる。
 その感覚が少し面白くて、いや、いつもなら本当にどうでも良いことなのに、今だけは全てが楽しい。ずっとここに居られると思うと幸せ、だ。

「そうだ君、名前は?」

 その一歩目を踏み出そうとした時、おじいさんから声がかかる。レンガの道路をくるり、と振り向いて笑顔で答えた。

「みつばです」
「そうか、みつばちゃんか

 聞いた後おじいさんは気をつけて、と言って扉を閉めた。改めて周りを見回すと、色んな国の人々が歩み、またへんてこな建物がいくつも見える。パラレルワールド。とても素敵な世界に胸を躍らせた。
 この時計だって必要無いのだが、とりあえず腕につけておく。見たところ全くカラクリがあるように見えないのだが、よく見るとボタン一つ無い。奇妙な時計。しかし慣れているのでそんなことは気にしないのだが。


 *


 考えればどこに行くのかを決めていなかった。貴重な時間を潰すわけにはいかないし。後で必ずパン屋に戻ろうとは思ってはいるのだが、あんまり進みすぎると戻ってこれないかもしれない。でも、遠くにはいきたい。
 これを途方に暮れるというのだろう。予想しなかった、いや、よく考えずに行動を起こした結果である。この世界を自由に飛び回りたいのに。
 
「どうしようかな……」

 意味も無く呟く。誰も拾ってはくれない言葉。行き交う人々は、皆目的地があるというのに。そこから連想した言葉は、現実の世界だった。「目標が無い私」
 そんなことは関係ないだろう、今は。今は忘れる。忘れて、楽しむ。私の目的はそれだ。地図さえあれば何とかなる。後は根性でも連れていけば大体のことはおさまるだろう。私はここで立ち止まってはいられない。自由に、跳躍する。
 先を見ると、ただひたすら歪に列なったレンガが続く。色はどれもこれもでたらめで、赤、黒、青、白、橙……、統一感の欠片も無いのに、なぜか綺麗に見えた。これもまた、この世界のせいだと思う。
 二十歳、立派な成人。だけど楽しみたいときは楽しみたいし、今は子供心に帰ろう。ばさばさになっていた私の黒いショートヘアーを手で軽く整えて、私はレンガを踏みしめつつ歩き出した。
 人、人、食、食、色、色。見れば見るほど段々素敵に見えてくる。まるでどんどん引き込まれていっているようだ。最終的には私も引き込まれてしまう。まあ、今は引き込まれてはいけない。そうするとこの場に永遠に居なければならないような気がする、からだ。何となく、の妄想の産物。
 手に持った地図は先ほどボランティアの人が配っていた。どうして地図にボランティアが必要なのか不思議だったが、ありがたいので詮索はしないことにする。大体そんなことを言い出せばこの世界にとってはきりがない。広く寛大な心を持たねば。そういう広い視野で見れば、この世界は私の理想の全て。
 さっきから結構な距離を歩いているのだが、一向に進んでいない気がする。いや、しかし、確かに建物は流れていって、人々も同じ人とはめぐり合わない。変な感覚のまま進んでみるもやっぱりなれず、だけど確実に進んでいるのだ、確実に。この歪なのに全部同じ並べ方となっているレンガが原因だろうか。錯覚を狂わされている?

「不思議……」

 春の軽快な音楽はまだ流れ続けている、源も分からないまま。そんなことはどうでもいい。私の歩む隣にある美容院、名前は……カッティング・アワー。の店内を少し茶色を帯びたガラスから一瞬、通り過ぎる間に覗いてみる。丁度カットをするところだったらしく、女性店員が三十歳ほどの男性の座っている椅子に近寄り、何か楽しそうに喋っていた。どんな髪形になるのか、どういう切り方をするのか、現実とは違うことが起きる気がして、わざわざ立ち止まる。あやしがられるかもしれないので、地図を読むふりをしながら。
 しばらくすると会話が止んだのか、女性がどこからか雑誌を持ってきた。どうやらヘアーを決めるらしい。男性は悩む素振りを見せ、やがて一つのものを指差した。女性はにこやかな表情を崩さないまま、用意にかかる。しかしその用意が奇妙で、はさみもシャンプーも何も無い。ゼロからの状態で何かをしようとしている。何をするつもりだろう。考えても結果は想像できそうにないので、時間が経つのを待つことにした。
 その女性は私の死角で見えない場所に向かい、やがて何か女性の等身大ほどの機械を持ち出してきた。なんだ、あれは。謎は膨らむばかりだが、そんなことを知る由もない女性と男性は仲が良さそうに会話している。そして女性が行動にうつし、その機械のなにかをぽちりと押した。多分、スイッチだろう。
 機械は上の部分が丸みを帯び、中が空洞になっているらしい。男性の頭をすっぽりと包み込んだ。何事かと、思わず声を上げそうになる。だが女性は笑顔。男性も取り乱さないところを見ると、きっとこれが日常茶飯事なのだ。
 それからほんの十秒ほど。機械は音を立て、空洞の部分は男性の頭から徐々に離れていき、ヘアーが露となってきた。髪の毛はオレンジと紫のメッシュで、巻かれている。とんでもない事態に私は眩暈がしそうになった。
 女性は何もしていない。たった十秒で、あんなありえない髪型になるだなんて。今はその似合わない事に笑っている場合ではない。まるで魔法。いやきっと、魔法だ。こんな世界なのだから。
 男性は何事も無かったかのように笑顔で女性に返し、やがてレジへと向かった。私のいる位置、窓の大きさからレジで何をしているのかは見えなかったのだが、とにかくただならぬ事態である。あんな髪型現実では論外だ。いやそれよりも、あの機械は一体何なんだろう。不思議で不思議で仕方が無かった。
 その後、女性は室内で笑いをこらえていた。同じ作業員も現れ、共に笑っている。あの男性の髪型のことを笑っていると悟った。似合わなかったのだ、中年男性がオレンジと紫のメッシュで、髪を巻いているだなんて。全くのミスマッチだがあそこまでいけば賞賛するものである。そんなことを考えているうちに、男性は美容院から上機嫌で帰っていった。周りからの視線を浴びながら、過ぎていく人皆が振り返っている。まあ、当然のこと。ここで言うのはきっとおかしいだろうが、モラルを考えるべきだと思う。
 それにしても、素敵。こんな世界が広がっているだなんて私はいくら望んでも叶わなかったのに。小説家だけあって妄想だけは桁外れ。こういった展開も想像していたが、こんな豊な世界は今まで一度も創造したことは無かった。なんて素敵。素敵。

「ねえ、入らないの?」

 一人で浸っている時、声がかけられた。突然のことにびっくりし、すぐに振り向く。こんなに人たちの流れが出来ているのに、どうして私に声をかけるのだろう。入らないって、美容院のことか? 様々な思いを、振り返る瞬間に色々考えていた。

「ずっとこの美容院見てたじゃん」

 赤いニット帽子。チェックの上着、黒のTシャツ、紺と黒で作られた水玉模様の短パン。に、銀色の髪と銀色の瞳を持つ、なかなか顔の整った少年。が、そこに立っていた。声も軽く、私よりも年下だと推測できる。

「どうしてそれを……」
「ん、目立つよ。この流れの中、美容院のすぐ傍で地図読んでるとかさ」

 にこ、と無邪気が笑顔が向けられた。とても可愛いと思う、が、それどころでは無い。やっぱり怪しかったのか、私の行動は。後悔と羞恥に駆られ、驚愕の顔を隠せなかった。新しい世界に来ているのだから、こういうことでも大事に思えてくる。
 それにしても。この少年はどうして私に声をかけたのか。たとえ怪しくても無視して通り過ぎれば良いのに。いまだ綺麗な笑顔を見せたままの少年を訝しげに見つめた。

「あ、うん。大丈夫大丈夫心配しないで。さっきのは嘘。本当はその、時計」

 ブレスレットが何個かついている腕で、私の腕を差した。その先へと視線を落とすと、さっきおじいさんからもらった赤い時計。どうしてこの時計があるから近づいてきたのか。聞こうと思ったが、多分それは少年が口に出すはずだ。私はとりあえず、よく分からない顔を見せた。

「あんたあれでしょ、異国のやつだよね」
「異国……」
「それあのじーさんからもらったろ。珍しいから跳んできちゃった」

 跳んできた? 跳ぶって、跳躍のこと? いや飛んできたの聞き間違いだろう。そうなんだ、と適当に相槌を打っていたら、少年が視界から突然消えた。驚いて辺りを見回すも、居ない。居るのはさっきから途絶えることのない人の流れだけだった。今の状態は、パニック。ああありえない、突然人が消えてしまうだなんて。

「あはは、驚いてら」

 さっきから変わることのないトーンと口調で、はっと上を見上げた。そこには、ズボンのポケットに手をつっこみ、ガムで風船を膨らましている少年の姿があった。今度こそ本当にありえないぞ、これは。とにかく私は眼をこすってみた。どうかこれが夢でありますようにと。あれ、こんなことをしてもこれは本当に夢の世界なのだから、これは実際に起こっている、のか?

「あ、あんた、飛べるの……」

 今更こんなことを言っても仕方が無い。だって、さっきから「ありえない」光景は何度も目にしているじゃないか。慣れろ、私。きっとここでは全く珍しくも無いことなんだろう。
 だから冷静に少年の体を見つめた。スニーカーにはやけにポップな、小さな翼がついている。そうか、これで飛んでいるのか――。

「飛んでるっていうか、跳んでる。おれ高く跳べるんだよ」

 じゃあさっきの跳んできた、とはこのことだったのか。私は深い溜息をつき、状況を理解しようとした。もうこの際めちゃくちゃで良い。こういう世界なんだった、ここは。
 人々は何事も無く通り過ぎていくし、やっぱりこれは、普通。少年は良い笑顔で私を見下ろしていた。私の斬新な反応が面白いのだろう。

「お姉ちゃん、名前は?」

 と、と地面に軽い音を立てて少年は着地する。それと同時にかけられた質問に、戸惑いを覚えつつ答える。

「みつば……みつば、っていうの」
「おれはロッドね。宜しく」

 笑顔で手を差し出すから、私も当然手を伸ばした。ぎゅっと握られて、そうか、これは挨拶。だから私も軽く笑ってみた。少年の笑顔は何となく憎めない。この状況から察するに、少年はきっと近所でも評判の悪戯小僧に違いない。それを想像すると、思わずくすりと笑ってしまった。それを見て、少年は何? と尋ねてきた。

「なんでもないよ。宜しくね」

 初めて、この世界の住民らしい住民に出会った気がする。さっきのおじいさんも多分特殊な人間なのだろうけれど、私は一見したわけではない。この少年の跳躍は種も仕掛けも無い、正真正銘の魔法、だ。小説家であるからこそ最も信じなかった世界が、今ここにある。何度もかみ締めるように、手を握ったまま心の中で、素敵、と呟いた。


 *


「お姉ちゃんはさ、なんか不便とかないの?」
「不便……?」

 どうしたことか、このロッドという少年は私と一緒に町を歩く、と言い出したのだ。どうやら暇らしい。確かにそう見える。人の前で軽々と跳躍して楽しんでいるのだから。しばらく考えた結果、今一緒にこの商店街のような場所を歩き続けている。私は一人でこの何か全く分からない世界に居る。これほど怖いことはない。まるで、一寸先は暗闇だ。真っ暗な世界をぽつぽつと歩いているような感覚。そう考えると、彼は光だ。光ほど安心できるものも、これまた無い。少年は嘘をつかないような真っ直ぐな瞳をしていて、惹かれた。彼と一緒に歩こう。
 周りの人間がじろじろとこっちを見ている。通り過ぎる人物、全員だ。それは私へと注がれる視線ではなく、今後ろで腕組みをしているロッドへと向けられていた。あ、やっぱりロッドは近所でも有名な、悪がき設定だな。ただのお遊びの仮定が、本物に近づいていく事が何となく面白かった。
 それで今尋ねられた質問だが、不便、とはなんだろう。その疑問はそのまま口に出た。

「不便って、何?」
「ほら、お姉ちゃん一人でここに来たんだろ? よく分かんないこととか絶対あるでしょ。だからおれついてきたんだし」
「そうなの!?」

 驚いた。少年は初対面の私に随分と優しい。ならばこの子は近所でも評判な悪がきで、でも人一倍思いやりのある設定、なのかもしれない。少年は冗談を言っているようには見えないし、ただ暇という理由でここに来たわけではないということが今分かる。少しだけ感動した。

「そうねえ、不便といえば……」

 不便。不便なんて、ありすぎてどう説明すれば良いのか分からない。言わせてもらえば全てが分からないことになっている。あっちの世界では常識でも、こっちの世界ではありえない事だってあるかもしれない。また、その逆も成立するはず。考えている内に自然と時計へと目が向き、残り二時間四十分。まだまだ時間はある。何にせよ三時間後はおじいさんのところへ戻らなければいけない。この時計、返さないといけないし。

「あ!」

 その時、少年が思い立ったかのように私の時計を小さな悲鳴と共に指差した。この時計がどうかしたのだろうか。つられて私までびっくりする。

「な、なに?」
「その時計、適当に持ち歩いてたらやばいんだって!」

 適当に持ち歩いていたら、やばい? 全く意味が分からない発言に私は首を傾げる。そんなおっとりした私とは対照的に、少年は本気で焦りながら私の腕を力強く引っ張った。痛い。

「痛い! 痛いよロッド君!」

 その声は聞こえていないのか、少年はすさまじいスピードで走り出す。私を引きずるようにして。長ズボンをはいている私だが、やっぱり痛い。行く人皆驚いた顔をしている。あ、私を見て驚いてるんだ、きっと。私新入りだし。考えている内にスピードはどんどん上がっていって、一つの言葉が頭に出てきた。し、ぬ。

「ロッド君! 空! 空跳ぼう! ロッド君跳べるでしょ!」
「その時計誰にも見られないように隠しといて!」

 話が、かみ合っていない! 少年は最後まで、少年の目指す場所にたどり着くまでこの体勢で私を引きずるように走り続けるつもりだ。ここの世界は不思議なことに砂や石が無いから出血まではいたらない。長ズボンの効果もあるが。しかし平面のレンガはぶつかって痛いのではなく摩擦熱が痛い。もうどうにもならないようなので、私のこの体勢を持ち直す努力をしようと思う。あと、少年が私を無視して、控えめに叫んだ言葉の通りに。この時計、私のジャンバーの裾に隠しておこう。どうしてだか、分からないが。
 大体なんでこんな猛スピードで走る? さっきまでは本当にゆったりと進んでいたというのに、この小さな体から出てくるこの壮大な速さは一体なんだ。怖い、今までと違った意味で怖い。結構人たちに私の身動きがとれない足ががんがんぶつかっている。少年、もうちょっと考えよう。なんでそこまで急いでいるのかは知らないけれども!

「ど、どこまでいくのっ」
「時計隠した!?」
「……はい」
「おれの知り合いのじいちゃん家!」

 また会話がずれるかと思ったら、最終的に答えを言ってくれた。今思えば答え聞いても、何の意味も無い。私場所なんて知らないし。ああ、いつまでこのもどかしい痛みが走るのであろう。少年、痛くないのかな足。こんなスピードで走ったら、私なら確実に筋肉痛起こして三日は立てないね。でもこの世界のことだからこれも、また普通? そんなばかな。
 少年は段々とスピードを落としていく。それに気づいた私も結構凄い。全然体勢を立て直すことはできなかった、けど。このスピード、落としているのは落としているけれどまだまだ早い。オリンピックで楽々金メダル取れる。二位との差は確実に十秒は、空く。十秒空くということは、確か以前十一秒台の選手がいたとすれば百メートルが一秒。よくもぎ取れないなあ、私の体。
 そうこう考えていたら、徐々に瞬間的に流れ行く光景が落ち着きを取り戻してきた。目がちかちかする。足も痛い。摩擦熱や、人たちにぶつかるのが痛かっただけでジーンズは破れてはいなかった。ことまで確認できるほどスピードは無い。そろそろ目的地につくのだろうか。突然の出来事に何もかもが理解できないよロッド君。

「ほい、ついた」

 気がつけば人は誰もいない。さっき思い切り曲がった角には私が最初に来た路地裏とはまた別の路地裏が広がっていて、あるとすれば確か猫くらいだったと、思う。なかなか広かったから壁にぶつからずにはすんだ。そうか、あそこで曲がった時から人はほとんどいなかったんだ。確かその路地裏を終えたあたりからスピードは落ちていったわけだから。
 周りの建物も無い。あるのはビルや何かの店の裏側。窓も無いので、表の華やかさとは全く違い、コケやつるが蝕んでいた。いや、それでも、綺麗。


2006/11/19(Sun)15:22:05 公開 /
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■作者からのメッセージ
 コメント遅れて本当に申し訳ありません。こんにちは、@です。実は二日前にコメント送信したんですがなんか表示されませんでした。それというのも確認画面で何を思ったのかウィンドウ閉じたからでしょうね(※100%此方に非が)。
 とにかく、私の大好きな奇妙ファンタジーを詰め込もうと思います。最近はこういうのをメルヘンというのでしょうが……。メルヘン大好きですので、この際ファンタヘンというのはいかがかと(アメリカンジョークですよ軽く流してあげてください)
 アラは沢山見つかると思います。どうか、やんわりと指摘してやってくだされば幸いです。短編っぽい連載のポップと軸、宜しくお願いします。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。