『クルツ曜日【1〜5】』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:甘木
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1.くちゅん
「浩之、あんた暇そうにしているけど勉強の方は大丈夫なの? 今年は高校三年生なんだから受験の準備しなくていいの?」
俺が居間のソファーで横になってマンガを読んでいたら、頭の上から母さんの声が降ってきた。世間の高校は春休みの真っ最中だし、俺の通う高校も世間の例に漏れず春休みだ。ましてや高校三年生にはまだなっていない俺が受験勉強などしていないのは何の不思議もないはず。
「ん、大丈夫だろう。別に一流大学を目指しているわけじゃないし。俺は身の丈にあった大学を受けるからさ」
「浩之がそう考えているなら、いいけどね。それよりそのマンガ面白い?」
「まあ暇つぶし程度には面白いよ」
「じゃあ後で読ませてよ」
「タダでか? 俺が金を出して買ってきたマンガだぜ」
古本屋で買ったとはいえ俺の貴重な金を費やしたんだ。冬休みにバイトして貯めた金もそろそろ底をついてきたし、読みたいといっているのは母親だ。少しぐらいはレンタル料を請求しても罰は当たらないだろう。
「育てられた恩も忘れて代価を要求するなんて、そんな風に育てた覚えはないわよ」
「別に読んでもらわなくたっていいんだよ俺としては」
わざとらしくショックを受けたような表情をしている母さんに向かって、俺はマンガを見つめたまま努めて感情を押し殺してこたえる。
「しょうがないわねぇ、浩之にはこれあげるわよ」
俺がマンガから顔を上げると、母さんはストーブの上で焼いていた干し芋一枚を差し出している。それも凄く名残惜しそうな顔で──ストーブの上には何枚も干し芋が載っているのに。一人で全部食べるつもりだったのかよ。ひでぇ母親もいたもんだよ。
ま、俺もその提案で手を打ったけどさ。だって嫌だといっても俺がいない間に勝手に読んじゃうだろうし、焼いた干し芋は俺も嫌いじゃないからね。
四月まであと僅かという時期ながら、俺の家の石油ストーブは二十四時間で活躍している。まるで往年の少年マンガの主人公の瞳のように赤々と熱く燃えている。が、いかんせんストーブが年代物であることと、俺の家がぼろいため、温かいのはストーブのある居間の周辺だけだ。居間から離れたトイレや台所じゃ冷気が足下からしのびあがってくる。
ましてや風呂釜が壊れてシャワー専用となった風呂場は──温かい時期はいいのだが、寒くなったら誰も使わない。俺の家じゃ夏が終われば銭湯通いになるんだ──言語道断、空前絶後の寒さで、水を張ったバケツを放置しておけば一晩でカチンコチン。天然の冷凍庫に早変わり。だから寒いシーズンの風呂場は臨時食料保存庫として活躍している。
そんな暦の春とは縁遠い北海道の三月のこと……。
* * *
俺の家にはネズミが生息している。猫がいるのも関わらずにだ。
ふつう猫が家にいれば、天敵の気配を察してネズミは家に寄ってこないものだ。仮にネズミが迷い込んできたとしても、ネズミが音を立てれば矢のように飛んでいってネズミを獲ろうとするのが猫の本能だろうと思う。
が、俺の家の猫……もとい、無駄飯ぐらい……もとい、クルツは別だ。
クルツは家の中でネズミどもが騒ごうが我関せずを決め込んでいる。ネズミの被害が台所奥の物置にとどまっているせいか、はたまた自分のエサをネズミに横取りされていないせいか、物置の方で音がしてもストーブの前で腹をだして寝ている。
ネズミがクルツのエサに手を出さない代わりに、物置での略奪に目をつぶるという密約を結んでいるんじゃないかとさえ疑ってしまう。
実際、暢気な顔で寝ているクルツをたたき起こして疑問をぶつけたことがある。
「最近ネズミがやたらと騒いでいるけど、どうして獲りに行かないんだよ。まさかオマエ、ネズミどもと不可侵協約でも結んでいるんじゃないだろうな」
けれどクルツは不機嫌そうにシッポを一度振ったきり、肯定も否定もすることなく眠ってしまった。
クルツとネズミとの談合疑惑は晴れぬまま、ネズミどもは行動範囲を広げていた。三月になった頃には物置から臨時食料保存庫にまで被害が出始めやがった。
風呂場には秋に俺や親父が取ってきたキノコの塩漬け、ジャガイモやニンジンの野菜、正月に買い込みすぎた餅など。それらが湯船や洗い場に所狭しと置かれている。
そして母さんの好物である干し芋の山も。
俺の家では九月にストーブをつけ始めると同時に母さんの干し芋焼きが始まる。もう連日、母さんが家にいるかぎりストーブの上には干し芋があるような状態。いつか夕飯に干し芋が出てくる日も遠くないんじゃないかと思うほどだよ。問題としては冗談抜きで干し芋だけで夕飯が出来るほどの量が風呂場にあることだ。いつか母さんが干し芋をつかった創作料理に手を出すんじゃないかと、俺も親父も、そしてクルツさえも戦々恐々としていたんだ。
昨日までは。
「クルツ、ちょっとこれ見なさい」
母さんはソファーで仰向けになり、だらしなく弛緩しきっているクルツの鼻先に特大の干し芋の袋を突きつけた。袋は端が破れボロボロになった干し芋がはみ出している。
「こんなになっちゃったのよ」
クルツは眠そうな目を開け、仰向けのまま首を伸ばして干し芋の匂いをかぐ。二、三度鼻をひくつかせ、新しい遊び道具でも来たかのように前足ではみ出した干し芋に猫パンチを繰り出す。食い意地の張ったクルツといえども干し芋は食べない。だからクルツにとっては干し芋は遊び道具でしかない。
「クルツぅ、遊んでるわけじゃないのよ」
干し芋を二枚引きずり出したところで飽きたのか、クルツは「なぁ」と小さく鳴いて母さんを見上げる。
「『なぁ』じゃないわよ。ネズミが囓ったのよ。私の干し芋を!」
山ほどあるんだから、ケチくさいこと言わないで一袋ぐらいネズミにくれてやってもいいじゃん。と、思っても俺はそんなことは絶対言わない。言えばクルツに向いている母さんの怒りが俺に向かってくるのは必定。
「クルツ」
母さんはクルツを睨みつけている。けれどクルツは興味を無くして腹をだしたまま前足を伸ばしきって、まるでスーパーマンを裏返したような格好で寝ている。
「クルツ!」
ぱたふ。尻尾を小さく振る。
「クルツ!!」
母さんの相手をするのも面倒になったのか尻尾すら振らない。
「…………」
母さんの顔が怒っているのと笑っているのとの中間のような複雑な表情になってきているんですけど。なんかヤバイ雰囲気になってきたんですけど……。
「駄猫!」
「にゃぎゃ!」
クルツの悲鳴じみた鳴き声と同時に、クルツが干し芋に変身した。いや、干し芋に埋め尽くされる。
「浩之! あんたがクルツの飼い主なんだから、クルツに代わってネズミをなんとかしなさいよ!」
クルツに干し芋をぶつけただけじゃ気が済まないのか、俺を睨みつけ理不尽な文句を残して居間を出て行く。
ちょっと待てよ。俺がいつクルツの飼い主になったんだよ。クルツを家につれてきたのは母さんじゃないか。それを考えれば母さんが飼い主じゃないのかよ。だいいちクルツは自分が飼われているなんて思ってねぇよ。
それにさぁ『だねこ!』って言ったけど、それ正しい日本語なの? だって犬なら『だけん』じゃん。犬を『けん』と呼ぶのなら猫は『びょう』じゃないか。でも『だびょう』って変な日本語だな……って、そんなことはどうでもいいんだ。ともかく母さんの怒りをなだめないとどんなとばっちりがくるか分かったもんじゃない。
「おい、クルツどうする?」
クルツはノロノロと干し芋の中から這い出ると、この邪魔な干し芋をなんとかしろよって感じで俺に向かって「なうぅ」と鳴く。そして何事もなかったように毛繕いを始めた。
「元はと言えばオマエが原因なんだから少しはすまなそうな顔をしろよ」
が、クルツはすまなそうな顔をするどころか、散らばった干し芋の上で改めて寝始める。
「こ、このぉ駄描!」
この日の夕飯は母さんの家事ボイコットによってカップラーメンだった。
* * *
幸いなことに母さんの怒りは干し芋をぶつけた一日だけで収まった。代償としてネズミから逃れるべく、ストーブが無くってクソ寒い俺の部屋に干し芋の山が築かれることにはなったが。
春休みも終わりが時間単位で数えられる程になった。なのに春とは暦の上だけで、気温的には厳冬って感じがする。ストーブは相変わらずガンガン燃えているし、干し芋に萌える母さんは相変わらずストーブの上で焼き続けている。
そしてクルツは今日も腹をだして野性味ゼロの弛緩しきった状態で寝ている。
そんな時、風呂場の方でカタカタと小さな音がした。
と、いつものクルツからは想像できないほど機敏な動きで跳ね起き、風呂場に向かってすっ飛んでいく。まるで普通の猫みたいだよ。
あれから母さんはクルツの顔を見るたびに、ネズミを獲れと言い続けたことが功を奏したのかもしれない。いや、単にクルツの気まぐれかもしれないけど。
「やっとクルツもやる気を出したわね。言い続ければ猫にも効果があるのなら、浩之にも勉強しなさいって言い続けたら効果があるかしら」
母さんは俺を見ながら嫌な笑みを浮かべる。
「さて、クルツの奮闘ぶりでも見てくるかな」
これ以上居間にいたら何を言われるか分かったもんじゃない。それにさ、クルツを飼いだして結構な年数になるけど、クルツがネズミを獲る瞬間を見たことがないから興味もあったし俺は風呂場に逃げた。
クルツは風呂場の一番奥、排水溝の横にできたコンクリートの割れ目のような穴の前でうずくまっていた。鼻を近付けたり、飛びかかる時のためのベストポジションを探しているのかモゾモゾしている。しばらくモゾモゾしたすえ、割れ目から少し離れたキノコを塩漬けにしているポリ容器に陰に陣取った。
さすがは猫だ。クルツが選んだ場所はネズミからはたぶん姿が見えないし、少し動くだけでネズミの退路となる割れ目を塞ぐこともできるベストポジション。この場所ならばいくらクルツが太っていて動きが鈍くてもネズミを獲れるだろう。
さあ早く出てこいよネズミ!
……。
…………。
………………。
………………寒っ!
寒い。冷気に全身が包まれて筋肉が硬直する。急に動いたら間接がバキバキと音を立てそうだ。つま先なんて冷たすぎて痛いくらい。居間から暖気が流れこんできているはずなのに、氷点下十度を氷点下五度くらいにするくらいの効果しかないようだ。
たぶんまだ五分くらいしか経っていないと思うけど、もう限界。クルツは毛で覆われているから平気かもしれないけど、俺はTシャツにジーパン、足下は素足にスリッパという北海道の典型的な冬スタイル。とてもじゃないが付き合っていられない。
「クルツ、頑張れよ」
割れ目を見つめて微動だにしないクルツに声をかけて居間に戻った。
「ひふぉひゅき、ふぇずみゅとりぇたぁ?」
居間に戻るや母さんが地球外言語で声をかけてきた。
「人間の言葉を話せよ」
母さんは頬張っていた干し芋をゆっくりと味わうように咀嚼して、さらにストーブの上に置かれた干し芋をつまみ上げ口に入れる寸前、
「ネズミは捕まえた?」
思い出したように聞いてくる。
「いま行ったばかりだろう。ネズミだってそう簡単に出てこないよ」
「そうなの。トムとジェリーじゃ、ジェリーさんはすぐに出てくるのにねぇ」
「あのなぁ、アニメと一緒くたにするなよ……」
「ひょうねぇ」
母さんの興味は干し芋に戻っている。
「母さんは干し芋を食っていていてくれ」
母さんの相手をするのもバカらしくなってソファーに横になった。
風呂場に籠もって一時間ほど経った時、クルツがのそりと居間に姿を現した。
「おかえり、クルツ」
寒さのためか少しばかりクルツの動きがぎこちない。俺の声も届いていないのか反応することなく、壊れたオモチャのような鈍い動きでストーブに近付いていく。
「それでネズミは獲れたの?」
母さんは焼いていた干し芋の最後の一枚をくわえてクルツの方に振り向く。
クルツの口にはネズミの姿はない。
代わりに小さな鼻の穴から鼻水を垂らしている。
「ダメだったのね……しょうがないわね。でも頑張ったわね、クルツの努力は認めてあげるわよ」
母さんのいたわりの言葉にクルツは、「くちゅん!」と巨体に似合わない可愛らしいクシャミでこたえた。
「じゃあ次は浩之が捕まえる番ね」
母さんはクルツのためにソファーを空けてやると、俺を真顔で見つめる。
はい? なに言っているんだよ。
「ネズミを獲るのは猫の役目だろう。俺は猫じゃない」
「飼い主はペットに似るって言うじゃない。浩之はクルツの飼い主だし、子供の頃からクルツと一緒に育ったんだからネズミの一匹くらい獲れるでしょう」
「獲れねぇよ」
「浩之は物覚え悪かったもんね」
母さんはわざとらしくため息をつく。
待てや、どこの世界に子供がネズミを捕ってきて喜ぶ親がいるんだよ。
あのよぉ、俺だって今年は受験生になるんだぜ。ネズミ取りを覚えたって役に立たないだろう。ま、大学受験にネズミ取りが出るんならクルツに教えてもらうよ。
「くちゅん!」
クルツはクシャミと一緒に鼻水しぶきを盛大にまき散らす。
しかしネズミを獲りに行って、ネズミを獲れず鼻水垂らして帰ってくる猫は世界中にどれくらいいるんだろう?
「くちゅん!」
どこかの大学でネズミ取りが入試に出ても、俺もクルツも受かりそうにはないなぁ。
2.痛たたた
猫を飼っている人に、猫のどこの部位が好きかと尋ねれば、多くの人は肉球とこたえるのではないだろうか。
ぷにぷにと柔らかくて、触っているだけで心の奥に積もった嫌なことが溶けてしまいそうな気持ちになる。肉球をこちょこちょとくすぐると、身もだえるように短い指をピクピクさせながら開く姿も可愛らしい。それにマッサージでもするように猫がにゅうにゅうと前足を何度も押しつけてくる感触は、指圧師の技にも引けを取らないほど気持ち良いものがある。
世間の肉球至上主義に異論を挟む気はない。でも猫の好きな部位に森泉家的見地から少しばかり追加させてもらっても罰は当たらないだろう。たぶん……。
* * *
【俺的見地】
俺は自他とも認めるマイナー志向だ。肉球の魅力は認める。けれど俺が好きなのは、二番、シッポの感触。一番、お腹の毛なんだ。
クルツは毎朝俺を起こしにやってくる。朝六時を過ぎると居間の引き戸に爪を引っかけて器用に開け、ボロ屋の木製階段をギシギシと軋ませ登り、二階にある俺の部屋の押し戸を六キロの体重をかけ押し開け入ってくる。そして布団で寝ている俺の枕元にやってきて「なぁぁん」「なうん」なんて鳴いて俺を起こしにかかる。
だが、俺には朝六時に起きてジョギングしたり、その日の予習をしたりしようなんて健康野郎な趣味はない。目覚まし時計が無情にも俺をたたき起こす瞬間まで寝ていたいのがたったひとつの願いだ。だから、クルツが鳴き出すと同時に布団の中に引っ張り込む。すると起こしに来たはずのクルツは大人しくなって、俺と一緒に目覚まし時計のベルが響くまで爆睡している。
けれど夜更かしした時なんかは、クルツが鳴こうが眠くて動く気にならない時もある。いくら鳴いても俺が動かないと分かると、こんどは寝ている俺の胸のあたりに乗っかって俺にケツを向けてうずくまりシッポを乱暴に振り続ける。
なぜ不機嫌そうにシッポを振るんだよ。布団の上に載っているんだからそれで満足しろよ。ともあれクルツがシッポを振ると、位置的にちょうど俺の顔を打つことになる。けど。
ぺして、ぺしてと頬に触れるシッポの感触は、流れる毛の心地良さとくすぐったさが混ざってなんとも言えない。はっきり言って気持ちいい。幸せって案外身近にあるんだなぁ……なんて単語が素直に浮かんでくる。
けれど幸せを享受するためには胸に六キロもの重量物を載せなければならないことが問題なんだ。寝ている時に胸に物が載っているとメチャクチャ苦しいし、相手は毛の塊だから暑い。
シッポの気持ちよさは味わっていたいのだけど……重い。俺は重苦しさに負けてクルツを布団の中に引っ張り込むことになる。頬を打っていたシッポの気持ちよさに名残を惜しみつつ。
俺は半分寝ている頭で、こんなにシッポは気持ちいいのだから、電動シッポを作るのもいいかな──長くて柔らかいシッポが付いた機械さ──なんて考えていた。素材は○○○○で、本体を覆う毛は……おお、設計図は完璧だ……あとは特許を取って…………。
人類に幸福をもたらすはずの新製品だったが、目覚ましの時計のベルが鳴り響く同時に柔らかいシッポの触感を残して消え失せた。
俺が一番気に入っているのはクルツのお腹の毛だ。
硬くて流れるように生えている背中の毛と違って、お腹の毛はほわほわと柔らかくって暖かくって、手のひらが柔毛に包まれる感触は幸せの代名詞と同じだ思っている。
お腹の毛のわしゃわしゃと撫でていると時間が経つのも忘れるほどだ。
だが気をつけなければならないこともある。あまり撫ですぎると摩擦熱で熱くなるのか、クルツの不興を買う。撫でていた手に爪を立てられたあげく猫キックの連発を喰らって手がボロボロになる。でもリスクを差し引いてもやめられないんだよなぁ……。
と同時に、自分のストレス発散を俺の手でするために、俺が撫でることをクルツが狙っているフシもある。俺がヒマしていると俺に前にやってきては腹を上にして転がるし、わざとらしく「うなぁん」なんて誘うように首をかしげて鳴いたりする。それはいつものふてぶしさはなくって本当にかわいい声なんだ。その先には猫キック地獄が待っているのに、手が意志に反して伸びていく。確実な死が待っている炎に魅入られる蛾のように……。
うなぁん……うなぁん……手が勝手に……ああ、ほわほわ……あっ、クルツ。その前足はなんだ……あだだだだ!
【親父的見地】
親父は猫のどこが好きだとは言っていないが、普通に肉球が好きなのだと思う。
でも、その愛情表現は遠回りな上に児戯じみている。
親父は酔っぱらうとクルツを連れて隣の和室に行くことがある。なにか二人っきりで語り合いたいのかもしれないけれど、襖を開けっ放しにしているから丸見えなんだけどさ。で、親父が何をしているかというと……床にあぐらをかいた親父はクルツを前に座らせて説教をしている。
やれ、クルツの姿勢が悪いだの(猫だからしょうがないだろう)。やれ、無精髭が伸びてだらしないだの(どこが無精髭なんだよ)。やれ、真面目に生きていないこと(猫にとって真面目ってなんだ?)。
ま、九割九分九厘言いがかりなんだけど、神妙な顔(?)をしたクルツに向かって支離滅裂な説教をグダグダと言ったあげく、迷惑そうなクルツの前足を取って「わかってくれたか。オマエはいいヤツだなぁ」なんて言って握手している。
その握手が長いんだ。親父はクルツの前足を包み込むように握ると、握った指を何度も動かしている。あれはたぶん肉球の感触を確かめているんだと思う。
大人の男というのは素直じゃないよなぁ。肉球を触りたいなら素直に触ればいいのに、触るためにもっともらしい理由をつけてさ。
でも、どれだけ誤魔化そうとしても、クルツの肉球を触っている親父の顔を見れば一目瞭然さ。親父の表情には酔い以外の恍惚感が浮かんでるもん。いい加減な親父だけど会社では色々苦労もあってストレスも溜まっているんだろう。クルツの肉球でそれが発散できるなら俺はなにも言わないよ。
クルツも大人の雄猫だから親父の気持ちが分かるのか、なすがままに前足を差し出している……差し出している……差し出して……あっ、噛んだ!
どうやらクルツには親父の気持ちは分からないようだ。
【母さん的見地】
「クルツ『おはな』しようよ」
母さんは丸くなって毛饅頭ならぬ毛鏡餅(特大)と化しているクルツを抱き上げる。
「クルツも『おはな』したいわよね」
「…………」
両前足の下に手を差し込まれ母さんと対峙しているクルツは、中途半端な抱き方をされているのに抗議の鳴き声も上げることなく、弛緩したように四肢をだらんとさせている。
「ね、クルツ♪」
「…………」
クルツは上司に無理難題を押しつけられた中間管理職のような諦観混じりの人間くさい表情を浮かべる。かたや母さんはキラキラと瞳を輝かせチョロチョロ動くオモチャを見つけた猫のような顔をしている。
おい、人描表情が逆じゃないのかよ。もう、どっちが猫だか……。
「『おはな』するわよ」
ところで、おはな──とは何か?
当たり前のことだが、母さんはクルツと生け花をしようとしているわけではない。十年以上生きて猫としての野性味を失った代わりに、妙な人間くささを纏わせているクルツといえども生け花はしない……はず。ひょっとして。と言う思いもあるが、どう考えても猫の前足で切り花を持ち、あまつさえ花瓶にそれを挿すと言う芸当はできないだろう。
俺としてはそのぐらいの芸を覚えてくれた方がありがたいのだが、クルツには花鳥風月を愛でる日本的な情緒はないようだ。クルツが興味を示す植物は好物であるホウレン草と茹でたトウモロコシとマタタビくらいなもの。どんなに美しく芳醇な香の花があろうと、腹の足しにならないとばかり見向きもしない。
仮に、仮にだけど、クルツが深紅のバラをくわえてポーズを決めても様にならないのは確実だ。若くて凛々しくてスマートな雄の黒猫がバラをくわえていればミステリアスな雰囲気もあるだろうが、太っていて表情にしまりがなくって使いこんだ雑巾のようなくすんだ色のトラ猫のクルツではギャグでしかない。
話が逸れてしまった。
では、母さんの言う『おはな』とは何か──それは『鼻』のことなんだ。
母さんはクルツの鼻が好きなんだ。クルツの鼻に自分の鼻を押しつけたり、クルツの鼻梁を撫でたり、ちっこい鼻の穴にこよったティッシュを差し込んでクシャミをさせて喜んでいる。
母さんに言わせればクルツの鼻ほどかわいい部位はないと言う。鼻は小さくて愛らしいし、しっとりと湿った鼻が自分の鼻の頭にくっつく感触は何物にも代えられないそうだ。それに鼻梁にみっちりと生えた細かい毛の感触はシルクのように滑らかで何時間触っていても飽きないらしい。
俺が言うのもなんだが、母さんの嗜好はおかしい。クルツも同意見らしく母さんが鼻を触るたびに迷惑と諦めが混ざったような表情を浮かべている。
「クルツ、クルツ、クルツ」
で、母さんはクルツの迷惑なんかお構いなしに鼻を押しつけている。
「クルツ、クルツ……あら」
クルツは前足を突っ張らせて必死に母さんの顔から逃れようとする。でも、爪は出ていない。肉球の部分で母さんの顔を押しているだけだ。仮に俺が同じことをしたらひっかかれるか、鼻の頭を囓られている。やっぱりクルツも母さんを怒らせたら自分の食生活に多大な影響が出ることを理解しているんだろうなぁ。
クルツの必死の抵抗も『おはな』に萌えた母さんの前ではしょせん蟷螂の斧。
「クルツ、おてて邪魔よ」
簡単に前足を払われて鼻をうにゅうにゅと押しつけられる。クルツは両目をぎゅっとつぶって顔をしかめ、前足をだらんとさせる。シッポだけが誰かに助けを求めるように弱々しく揺れている。
母さん、いい加減でやめてやれよ。数少ない素肌の部分なんだからさ、すり切れない程度にしてやれよ。
クルツ、悪いけど助けないぜ。母さんの機嫌を損ねると俺にとばっちりが来るからな。
それとさ母さん、動物の場合は手じゃなくって前足だぜ。
3.はむはむ
俺は日曜日の朝寝と言うものは黄金にも代え難い貴重な時間だと思っている。腹がへって我慢できなくなるまでうつらうつらする心地は、穏やかな浜辺で寝ているような安らぎがある。もし天国がこんな感じなら早めに行ってもいいかな、なんてことさえ思ってしまう。階下から聞こえる雑音さえ耳に心地良い……。
「浩之! 浩之!」
……うるせぇ! 俺の甘美なひとときを邪魔する親父の声が階下から響いてきた。
だが、どれだけ呼ばれようと俺は寝るのをやめる気はない──世間のサラリーマンたちは「仕事が忙しくて疲れているから日曜日くらいゆっくり寝かせてくれ」なんて言うが、高校生だって同じだ。自分が何を習っているのかさえ理解できない授業の毎日は結構ストレスが溜まる。おまけに数ヶ月おきにはテストの形でさらにストレスを倍増しやがる──俺は疲れているんだ。
だいいち親父が俺を呼ぶ時はロクでもないことが多い。親父は思いつきだけで行動するから、いちいち付き合っていたらきりがない。だから俺は寝る。
「浩之にはもうパパの声は届かないのかい。パパは悲しいぞ。昔はパパの言うことを聞く良い子だったのに。どこで道を違えてしまったんだい」
パパ……良い子…………寒っ!
あまりの気色悪い親父の言葉に眠気も吹っ飛んでしまった。布団を跳ね上げると、三文芝居以下のクサいセリフをやめさせるべく階段を駆け下りる。その最中もふざけたセリフは続く。
「浩之がグレて社会から見放されても、パパだけは浩之を見捨てないからな。世界中が浩之の敵に回っても、パパだけは浩之の味方だからな」
興がのってきたのか、親父の声には哀調まで帯びてきたよ。やめてくれ。それ以上言い続けるなら本当にグレるぞ!
俺は親父の声がする四畳半に飛びこんだ。
「なにがパパだ! パパって顔かよ!」
「おっ、やっと起きたか、愛しの浩之」
床にあぐらをかいた親父は策が成功したとばかり、ニヤニヤとした表情で俺を見上げ満足そうにタバコの煙を吐き出す。
「やめろ、気持ち悪い!」
「パパの気持ちを分かってくれないのかい愛する息子よ」
わけの分からない荷物に囲まれた親父は、高知なすと書かれた段ボール箱の上に置いた灰皿にタバコを押しつける。
「だから、やめろ。鳥肌が立つ」
「やめて欲しいか、世界でもっとも愛おしい我が子よ」
「あたりまえだろう!」
「だったらこの荷物を物置に運んでおいてくれ」
いつもの口調に戻った親父は部屋中に乱雑に積んだ荷物へ顔を向ける。
「なんだよこれ?」
段ボール箱や古びたラジカセ、何に使うか分からないような化学実験器具みたいなものまである(たぶん親父が会社から持ってきた物だろうけど、買った可能性も否定できない)。けど、見覚えがある。そうだ、押入に突っこまれていたガラクタじゃないか。
貧乏な家によくこんなに物があるもんだ。いや、物があるから貧乏なのかもしれない。親父は給料を人並みにもらっているはず。でも、親父は自分の欲望に正直な男だ。欲しいと思ったら後先を考えず買ってくる癖がある。そのくせ買ったらすぐに飽きるというガキのような癖までありやがる。目の前に広がっている光景は、親父が買っては飽きて四畳半の押入に放り込んでいた結果ということだ。
「こんなに引っ張り出してよ。何をするつもりだよ」
「それはな」素晴らしいアイデアが思いついたとばかり、親父は嬉しそうに表情を崩す。「この押入を俺専用の物入れにするんだよ。銃や釣り道具、それに銃の本や釣りの本を仕舞うんだ。いいだろう」
「…………」
なんと言えばいいんだ? 親父は家長で、家計の大半も親父が稼いでくる金だ。親父が模様替えをしたいのならすればいい。扶養されている俺が文句を言う筋合いはないさ。
でも、なんで俺が手伝わなきゃいけないんだよ。
俺が黙っていると、親父は腰に手を当てわざとらしく大儀そうに背筋を伸ばす。
「荷物を運びたいのだけど……パパはもう腰が痛くて。心優しい浩之はパパのささやかな頼みを断るなんてことはしないよな」
「パパって言うな!」
「浩之はおかしなことを言うな。パパはパパじゃないか」
親父のヤロウ……俺が運ぶまで気色悪い言い方を続けるつもりだな。そんな手にはのるか。
「勝手に言っていろよ。俺は出かける」
もう親父の相手なんかしてられない。
「はぁ、わかったよ」親父は鼻の頭に苦渋のしわを寄せ、ため息をつく。「荷物を運んだら小遣いをやる」
「ん?」
親父の提示した金額は大満足とは言えないにしろ、十二分に考慮に値するものだった。
「じゃあ、さっさと片づけようぜ」
重かった……段ボール箱はなんとか運び終わったぜ。段ボール箱の中身が本だと知っていれば、もっとバイト代の値上げ交渉しておけばよかった。ま、あとは小物ばっかりだから楽だな。
俺は某有名ブランド名がサイドにでかでかと書かれているスポーツバッグを手に取って……重っ! なんだ?
遊んでくれるの? と言う顔のクルツがバッグの中から俺を見上げている。どうりで重いはずだ。
「おい、何してる?」
クルツはバッグの口から顔を出し、あたりを確かめるように鼻をひくつかせた。ヒゲが顔の前に集まったと思ったら、カメのようにバッグの中に顔を引っ込めてしまう。
なにがしたいんだか……どうして猫ってヤツは袋とか箱の中に入りたがるのかね。
あっ、顔を出した。
「楽しいのか? それともカメのコスプレか?」
クルツはこたえることなく顔をまた引っ込めた。まったく猫の気持ちは分からねぇ。
また顔を出した……出たり入ったり鬱陶しい。
クルツがまた顔を出した時、俺はバッグのジッパーを引き上げ顔を引っ込めないようにしてやった。けど、クルツにはどうでもいいようで、何事もなかったようにバッグから顔を出したままでいる。
ひょっとしたらこの状況が気に入っているのか?
つまんねぇ……しゃあねぇ片づけを続けるか。
「親父、このバッグはどうする?」
クルツの顔が出たままのバッグを持ち上げてみせる。
親父はしばらくクルツの顔を眺め、
「それも物置でいい」
あっさりと言い切った。
「クルツ、親父に見捨てられたぞ」
俺の言葉にクルツはちょっと首を動かしたきり、もう手も足も出ないから好きにしてって感じで黙っている──ジッパー閉めちゃったから本当に手も足も出ないんだけどさ。
ま、カメコスプレのクルツは放っておいて残りを運んでおこう。
屋外にある物置と四畳半の往復を何度したろう。小遣い欲しさとはいえ我ながらよく働くよ。朝飯も食わずにさ。空腹過ぎて胃が痛くなってきたころ、やっと荷物の運搬が終わった。
クルツが入ったバッグを除いて──て言うか、バッグがない。
ありゃ?
荷物を運んでいた時から気になっていたんだけど、バッグに入ったクルツが動いていたような気がするんだ。物置から戻ってくるたび、クルツが入ったバッグが少しずつ居間の方に近付いていたような気がする。
でも俺が見た限りクルツは何が面白いのか分からないけど、バッグからだした頭をゆっくり上下させているだけ。ジタバタと動いている様子はなかった。だから俺の気のせいだとは思う。
ひょっとして、俺が物置に行っている間だけクルツがバッグの中で跳ねて、その反動を使ってびょんびょんと移動……って、ことはないよな。
ひょっとして、ひょっとして、クルツが首を伸ばして前方の床や荷物に噛みついてずっつずっつと自分を引っ張ったとか……こっちはもっとあり得ないよな。
ま、目の錯覚か、親父がイタズラして動かしたんだろう。たぶん。
じゃあ、どこに行ったんだ? やっぱり、びょんびょん……それとも、ずっつずっつ……無理あるなぁ。
消えたクルツの謎。なんて単語が脳裏に一瞬浮かんだけど、腹の虫がそんなことはどうでもいいから早くメシを食えと騒ぎだす。もっともな要求だ。クルツじゃ腹は膨れない。まずはメシだ。メシ、メシ。
「母さん、なんか喰うものある?」
俺は居間のソファーに座っている母さんに声をかける。
「お父さんの手伝い終わったの。ごくろうさま」
母さんは下を向いたままこたえる。
「朝からエライ目にあった。もう腹減って限界だよ」
「パンしかないわよ。そう言えば冷蔵庫に卵とソーセージが入っているから目玉焼きできるわね」
「ん、それでいいや。頼む」
母さんは顔を上げニッコリと微笑む。
「浩之が作ってね。あ、私の分もお願い。それにコーヒーも欲しいわね」
「あのなぁ、俺は疲れているんだよ。母さんが作ってくれよ」
「んーダメ」
「ダメってなんだよ。マジにつかれているんだからさ」
「クルツが許してくれないのよ」
はい? クルツ?
ソファーの背で見えなかったけど、母さんの膝の上にはバッグクルツが載っていた。クルツは母さんに喉を撫でられへにゃとした表情を浮かべている。
こんなところにいたのか。
「それどうしたんだ?」
「ソファーのそばで横倒しになっていたのよ」
ソファーのそば? 親父が運んだとは思えないよなぁ。親父が運んだとしても横倒しにして置いておくことはないだろう……やっぱ自分で動いたのか?
俺の疑惑の視線を受けても、喉を撫でられているクルツは満足げに目を細めているだけ。
「お父さんにこのバッグどうするのって聞いたら、『いらない。ゴミ、ゴミ』って言うから拾ったのよ。まだ使えるからもったいないじゃない」
使えるというのはバッグのことですか? クルツのことですか?
バッグはともかくクルツは使いようがないと思うけど。
「クルツなんて放っておいてメシ作ってくれよ」
「だから、クルツが許してくれないのよ」
「なんだよそれ」
「んーとね」
母さんは苦笑いような表情をつくると撫でていた手を止める。
「なっ」
クルツは小さく鳴くと首を器用に伸ばして母さんの手に噛みついた。にゃふんにゃふんと母さんの手を噛み続ける。
「しょうがないわね」
母さんは小さく息をついて、またクルツの喉を撫でる。
クルツは気持ち良さげに目をつぶって母さんの手に顔を預ける。
「でね、またやめるとね」
母さんは喉を撫でていた手を止めた。
「!」
クルツが目を開き、ヒゲを前に集めたと思ったら、また母さんの手に噛みつく。
「甘噛みだから痛くないんだけど、喉を撫でるまで噛み続けるのよ。しつこいのよ。ほら」
母さんはクルツに食いつかれたままの手を上げてみせる。
おっ、離れない。クルツも根性あるな。
「まるでカメみたいでしょう」
「なんかカミツキガメみたいだな」
「そうでしょう、私も家の中にカミツキガメがいるとは思わなかったわよ」
クルツはまだ噛みついている。噛みついているだけじゃなくって、にゃふにゃふと咀嚼するように口を動かしている。
「喉を撫でないとクルツは私を食べるつもりなのよ」
いや、それはないから。
「浩之も私が食べられちゃうと困るでしょう。だから浩之がご飯作ってね。とりあえず先にコーヒーお願い」
と言うと、母さんはカミツキガメならぬカミツキクルツの喉を撫で始めた。
ひょっとしてクルツは俺がジッパーを閉めたことを恨んでいて、嫌がらせしているんじゃないだろうな……。
クルツは喉を撫でられながら目を開け、いいだろうって顔で俺を見やがった。
【カミツキガメ】爬虫類カメ目潜頚亜目カミツキガメ科。北米南部から南米北部に生息。性格は攻撃的で対象物に噛みついて攻撃する。顎の力は人間の指を噛み千切るほど強力である。
【カミツキクルツ】哺乳類雑食目潜体亜目バッグネコ科。北海道の森泉家に生息。性格は……理解不可能。喉を撫でていないと首を伸ばして噛みついてくる。噛みつく力は弱いが、撫でるまで噛みついている。
4.ずりずり
問題。 次の与条件から森泉浩之の現在の行動を類推せよ。
環境条件──うらうらと柔らかい暖かさに満ちた天気の良い春の休日の午前中。
位置条件──森泉家の庭。
*ただし、爆睡中、勉強中ではない。
答え。 森泉浩之は額に汗して大根畑の耕作中。
* * *
俺の家は庭が広い。東京的な敷地活用をすれば十軒以上は家が建つと思う。
その庭だけど昔から生えている杏やイチイや栗や松の木が見事に枝を伸ばしているし、その周りには母さんが植えたラズベリーだの花蘇芳だの猫柳だのモミジの中木や、ユキノシタ、バラ、ボタン、芝桜、菖蒲、テツセンだのが何の計画性もなく植わり、手入れもされずになかば野生化している。
と言ってもそれは庭の一部だ。空いた敷地のほとんどは家庭菜園として活用されている。菜園では毎年のようにエンドウ豆、インゲン豆、大根、人参、蕪、茄子、胡瓜、南瓜、トマト、ホウレン草などが作られている。その他にもフキ、フキノトウ、イチゴ、アサズキ、アスパラガス、ミツバ、シソ、ヤマワサビは勝手に生えてきては少しずつ勢力版図を広げている。
家庭菜園のおかげで俺の家の食卓は潤っている。俺も新鮮な野菜類は好物と言ってもいい。だから畑作りは疎かにはできないん。
* * *
鍬を振り上げた時、
「ケモノ!」
と、声がかかった。不意をつかれた俺は腕の力が抜け、鍬は力無く地面をかく。
ケモノ?
声をする方に顔を向けると、台所の片づけが終わったのか、母さんが庭先に置いたイスに座って俺の方を見ている。頬杖をついて目を細めている母さんは、表情を変えず「ケモノ!」ともう一度言う。
ケモノ? 男はみんなケモノとでも言いたいのか?
そりゃ情欲に突き動かされてバカなことをする男はいる。俺だって下半身のリビドーに悶々とすることだってあるさ。でも、たいがいの男は理性で抑えているんだぜ。それなのにケモノはないだろう。
だいいち母親が息子に言っていい言葉じゃないだろう。男っていうのは母親の言葉に敏感なんだぜ。母親の何気ない一言がトラウマになって、女性に対して過剰に遠慮し、その結果ホモの道に走るかもしれないんだぞ。
ま、俺の人生設計の中にホモという選択肢はないけどさ。
それにだぜ、遊びたい盛りの高校生が休日の朝っぱらから家庭菜園作りをしているんだ。親からすれば孝行息子と褒めてこそあれ、ケモノとけなす理由はないだろう。
文句のひとつでも言ってやろうかな。なんて考えながら母さんを睨むように見る。
母さんは俺の視線に気がついたのか、頬杖をついたまま俺の顔を見てにっこりと笑い、
「ケモノ」
と、楽しそうにまた言う。
ああそうかい、どうせ俺はケモノだよ。勉強もできねぇし、ツラだっておっかねぇよ。
でも、どうしてあんなに楽しそうな顔しているんだ?
て言うか、何が言いたいんだ?
「ケモノ、ケモノってさっきからうるせぇな。なんで俺がケモノなんだよ」
「違うわよ」
母さんはオモチャを見つけた猫のようににやけた顔をする。
「ケモノが浩之を狙っているのよ」
は?
「ケモノ?」
北海道でケモノと言えばヒグマぐらいしかいない──危険という意味ならキタキツネも入るかな。エキノコックスという治療が難しい寄生虫を持っているから、ある意味ヒグマより危険だ──でも、近所でヒグマやキタキツネが出たという話は聞かないし、仮にそんなものがいれば母さんが我先に逃げているだろう。その証拠に庭を見渡しても何もいない。
「どこにケモノがいるんだよ」
「いるわよ。浩之のすぐそばに」
なに言っているんだか……周りにあるのは杏の大木と、まだ開墾されていない雑草が生い茂る畑予定地だけ。
「やっぱ、何もいな……うわぁ!」
俺が言い終わる前に雑草が揺れ、右足のくるぶしあたりに衝撃と鈍痛が走った。
なんだ?
視線を落とすとクルツが足にへばりついていた。
「おい、邪魔だ。何がしたいんだ?」
妙に興奮したクルツがにゃふんにゃふん言いながら俺の足に齧りついている。
ジーパン越しだしクルツも本気じゃないから痛くはない。が、はっきり言って六キロもある毛の塊が足にまとわりついている状況は邪魔でしかない。足を振って振り飛ばそうとすれば、なんかさらに興奮して前足だけで俺の足を登り始めやがった。こんどは爪が出ているからマジに痛い。
「痛たたたっ!」
「だから言ったじゃない。ケモノが浩之を狙っているって」
クルツを引っぺがして放り投げた俺に、母さんの笑い混じりの声が降ってくる。
「さっきからクルツが雑草の中で浩之を襲う機会を狙ったのよ」
「だったら、はっきり言えよ」
「嫌よ。クルツだって一生懸命だったのよ、かわいそうじゃない」
おい、おい、額に汗して働く実の孝行息子より、穀潰しのバカ猫をかばうのかよ。いや、クルツもクルツだ。なにも俺を襲わないで、猫らしく鳥でも虫でも獲っていればいればいいだろう。
クルツにも文句のひとつも言ってやろうと放り投げたあたりを見たが姿はない。
どこに逃げたんだ。ま、邪魔者がいなくなっただけでも良しとするか。
「浩之、気を抜いちゃダメよ」
は?
「またクルツが狙っているわよ」
母さんは相変わらずニヤニヤした笑いを浮かべ、忠告になっていない忠告を発する。
「また?」
俺は五感すべてを動員して周りを見る。かすかな動きも、わずかな音も、肌に感じる空気の変化をも逃すまいと、神経を張り巡らせて見渡す。クルツはどこにいやがる。ジャングルと化した庭か? 雑草生い茂る杏の下か? どこなんだ……見つけられねぇ。
「母さん、クルツはどこにいるんだ?」
「近くにいるわよ」
近く? 見あたらない。本当にいるのか?
いや、いる。確かにいる。
クルツの視線をビンビン感じる。ヤツは俺が気を抜いたら、また襲ってくるつもりだ。でも、ヤツの居場所が分からない。ちくしょう、なんだか緊張する。どこにいるんだよ……動けない。ヘタに動けば必ずクルツは襲ってくる。
もどかしいぜ、クルツの気配を感じ取れない……どこだ?
「クルツが近付いているわよ」
母さんの声は弾んでいる。
明らかに俺が窮地に陥っているの見て楽しんでいやがる。
「クルツはどこにいるんだ。教えろよ」
「だーめ。これは浩之とクルツの戦いなのよ。わたしが教えたら不公平じゃない」
「戦いってなんだよ。俺は農作業をしているんだぞ。クルツと遊んでいる暇はないんだ」
「あら、クルツはそうは思っていないみたいよ。浩之が遊んでくれていると思って楽しそうよ」
「あのなぁ、俺は忙しいんだ。昼までにこの作業を終わらせて出かけたいんだよ。だからクルツに関わっている時間はないの」
「えーっ、男同士の戦いじゃない。ちゃんと戦ってあげなきゃかわいそうよ」
男同士じゃねぇ。男と雄だ。いや、そんなことはいいんだ。
「農作業の邪魔なの!」
「農業は色々な脅威に晒されるからこそ、収穫の喜びが大きいのよ。ある時は開墾中に熊に襲われ、ある時は撒いたばかりの農作物の種を鳥に荒らされ、またある時には収穫物を野生動物に食べられちゃうのよ。でも、お百姓さんはそれにくじけないで頑張ってきたのよ。浩之も見習わなくっちゃ」
なにワケ分からないこと言っているんですか。俺は農家じゃなくって高校生なの。
「七人の侍って映画の中で言っていたわよ、『最後に勝つのは百姓だ』って。だから浩之も最後の勝利を勝ち取るための試練だと思って、めげないで畑を耕して」
母さんはいま自分はいいことを言っているわ、って感じで真面目な表情でうなづいている。
「七人の侍って山賊に襲われる村人が武士を雇って山賊を退治するって話しだろう。クルツは関係ないじゃん」
「クルツを山賊の親分だと思えばいいじゃない。森泉猫兵衛とか虎柄猫左右衛門って名前の山賊の親分よ。虎柄猫左右衛門なんてかわいくていいじゃない。ねぇ浩之はどう思う?」
「…………」
あーそうかい、俺をダシに遊んでいやがるな。だったら俺にも考えはある。
「さっさとクルツの居場所を教えてくれないなら、俺はもう畑作業やめるぜ。山賊に狙われながら仕事なんてできないからな。あとは母さんが勝手に耕してくれ」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。わたしの大根はどうなるのよ」
俺の家では畑作りは俺の仕事、種付けから収穫までの手入れは親父の仕事となっている。そして、収穫をするのは母さん。家庭菜園作りを手伝わないくせに収穫を人一番楽しみにしているのは母さんなのだ。しかし、いまここで俺が耕作を放棄すれば今秋の大根は収穫できなくなる。
「さぁ。俺は大根を食べなくてもいいし」
「なに言っているのよ。ふろふき大根でしょう、ブリ大根でしょう、おつけ物でしょう、色々と楽しみにしているのよ。浩之だって嫌いじゃないわよね」
食い意地の張ったことだ。どうせ親父か俺に作らせるつもりのくせに。
「嫌いじゃないけど、危険を冒してまでは食べたくねぇもん」
「言うわよ。言えばいいんでしょう。クルツは浩之の真後ろ二メートルのところにいるわよ」
母さんはふてくされたような声でそっぽを向いてこたえる。
あん? 真後ろ?
振り返ればこげ茶と黒の中間点のような色の土くれだけ──未来の大根畑であり、現在は単なる地面でしかない。雑草は抜いてしまったから、クルツが隠れようにも隠れる場所なんかどこにもないはず。現に見わたしてもクルツの姿はない。
「いないじゃないか」
「いるわよ。よく目を凝らして地面を見なさい」
地面? んんんーん……あっ! 地面が動いている。いや、姿勢を低くしたクルツがゆっくり動いていた。
地面に張り付くようにしたクルツが、首を前に伸ばしシッポを下に這わせたまま、コマ送りのトカゲのようにずりずり這い寄ってきている。左の前足をすーっと伸ばし、左足を引き寄せ地面の具合を確かめるように一度動きを止める。そしてこんどは右の前足を伸ばす……。
クルツはくすんだ色合いのトラ猫だ。地面に張り付くと地面の色と同化して見分けがつかない──迷彩効果というヤツだな。本当に隠れて見えなくなっちゃうんだもん、自然というものは凄いよ。これならデブのクルツでも鳥でもネズミでも獲れる。
おっと感心している場合じゃない。いつの間にか一メートルまで近付いている。そろそろ飛びかかるつもりなのか尻をモゾモゾさせていやがる。
「クルツ!」
俺の声にクルツの動きが止まる。大地と同化しようとでもするように、さらに姿勢を低くして体を地面にぺったりつける──普通の猫ならぺったりくっつくんだろうけど、クルツはデブ猫だからデカイ土の塊のように見える。
しばらくじっとしていたが、またゆっくりと動き出した。どうやらまだ俺に見つけられていないと思っているようだ。
バカが、丸見えなんだよ。
「クールツぅ、なにしているのかな?」
俺はしゃがみ込み、クルツに顔を近付ける。
びくんっと尻尾をふるわせると、またも地面に体をくっつける。俺の視線を受け続けてもじっとしてやがる。動かないでじっとしていれば見えなくなると思いこんでいるようだが、もう見え見えなんだよ。
「クルツさーん、見えているんですけど」
クルツは俺の言葉を無視してじっとしたまま。
母さんから「クルツじゃないわよ。虎柄猫左右衛門よ」なんて声がかかるが当然無視だ。
「聞こえてますかクルツくん」
……尻尾の先がピクリと小さく揺れる。
「クルツちゃん、お耳聞こえなくなっちゃったのかな」
…………耳を後ろにやって微動だにしなくなった。
「浩之、クルツって呼んでも答えないわよ。いまクルツは虎柄猫左右衛門なのよ。虎柄猫左右衛門って呼ばなきゃ」
母さんが勝手に決めただけだろう。
「虎柄猫左右衛門よ、虎柄猫左右衛門」
母さんは自分命名の虎柄猫左右衛門が気に入っているのか盛んに連呼する。
あーうるせぇ。呼べばいいんだろう。呼べば。
「虎柄猫左右衛門」
当然と言えば当然だが、クルツはなんの反応も示さない。なんと呼べば反応するんだよ。考えてみればなんで俺は猫相手に会話を試みているんだ。バカか俺は。
「もう、ばれているんだよ」
俺はクルツの鼻を軽く突いた。
電気でも走ったかのように背中をビクンとふるわせ、クルツは俺の顔を見上げる。一瞬、しまったと言うような表情を見せたが、何事もなかったかのように前に向き直る。そして、いま獲物を狙っている最中だから俺の相手はしていられないの。とばかり、姿勢を低くしたままずりずりと密林と化した庭に向かって進んでいく。
ずりずり、ずりずり、ずりずり。
ばれたことの照れ隠しなのか、意地になっているのか、クルツは地面と一体となったまま俺の横を通り過ぎ……庭の藪の中に消えていく。
「どこに行くんだ? 藪の中に面白いものでも見つけたか?」
クルツは振り返ることも、答えることもなく姿を消す。答えなくてもいいけどさ。
「ほら、山賊は去ったわよ。やっぱり最後に勝つのはお百姓さんでしょう」
母さんは勝ち誇るように言う。
勝っちゃいねぇって。その前に俺は百姓じゃないっつうの。
「でもね、虎柄猫左右衛門の脅威は去ったけど、こんどは来留津猫之丞が狙っているわよ」
来留津猫之丞って誰だよ……えっ、また狙っているの?
藪が動いたと思った途端、さっきの姿勢のままクルツが突進してきた。地面に体をくっつけた状態で俺に向かってずりずりと。ぶっとい蛇みたいで気持ち悪い。と、一瞬動きを止めたと思ったら飛んできた。
にゃふん、にゃふん。
さっきより興奮して俺の足に噛みついてやがる。鬱陶しい。
「クルツが邪魔だから、母さんが相手してやってよ」
「いやよ。男同士の戦いに女は口を挟まないものなのよ」
だから男同士じゃねぇ。男と雄だ。
へばりついたクルツごと足を振り上げたら、クルツは見事にぶっ飛んで雑草の中に落ちていった。
おーぉ、よく飛んだ。ま、これで懲りたろう。
あれからクルツは襲ってこない。たぶん俺を襲うのに飽きて、どこかに遊びに行ったのだろう。でも母さんはまだいる。クルツはいなくなったのに、何が楽しいのか母さんは俺の農作業をずっと見ている。監視されているようで何となく居心地は悪いが、あれから変なことも言わないから無視しておく。
午後からは友達と会う約束もあるし、俺は急いで畑を耕し続ける。クルツがいないとはかどるぜ。
「浩之、ハゲタカ!」
と、またも母さんがワケの分からないことを言いだした。
日本にはハゲタカもハゲワシもいないだろう。
「ハゲタカが狙っているわよ。上よ! 上を見なさい!」
上? 見上げると、樹上の枝にクルツが乗っかっていた。
俺と目が合うとクルツの野郎は瞳に喜色を浮かべて…………あっ、その顔は…………バカ、待て…………飛びかかってきやがた。
わぁあ!
教訓:農作業の本当の敵は天候でも鳥でも害虫でもない。暇をもてあましたバカ猫こそ最大の脅威だ。
5.猫まっしぐら
世間一般で飼い猫はお腹が空くと甘えるような鳴き声を上げたり、飼い主をひっかいたりしてエサを要求するらしい。
しかしクルツは声高にエサを要求することはない。
なぜなら俺の家ではご飯を炊いて最初によそうのはクルツのエサ皿だ。茶碗一杯分のご飯に味噌汁とその時々のオカズが混ざったいわゆる猫まんま。最初に自分のご飯をもらえることが解っているから、ご飯ができるまで悠々と惰眠をむさぼっている。と言うか、先にエサを与えないとうるさくて俺たち家族はゆっくりご飯を食べることもできない。
ご飯の時間になるや、むっくりと起きだし、予約してあるレストランにでも行くかのように、ゆっくりとした足取りでエサ皿に向かう。そしておもむろに猫まんまに口をつける。猫は猫舌のはずなのに、クルツはものともしない。熱々のご飯も味噌汁も意に介さずにゃふにゃふと食べ続ける。
クルツは雑食だから何でも食べる──さすがに猫には毒のネギ類やイカは与えないけど──主食は白米だし、人参だろが大根だろうが好き嫌いはない。
エサ皿として使っている丼に顔を突っこむようにして一心不乱に食べ続け……が、半分食べたところでクルツは食事をやめる。
満腹になったから? まさか。
こんどは俺たちが食べている食卓にやってくる。自分のイスに乗っかると食卓に並ぶ皿をゆっくりと眺め、盛んに鼻をひくつかせる。まるで自分のオカズと俺たちのオカズに違いがあるかチェックするように。自分の好きなオカズを見つけると「にゃぁうん。にゃう。んにゃうにゃん」と、そのオカズは自分が食べてこそ食材も喜ぶと自説を述べるがごとく、妙な抑揚をつけて鳴き続ける。
にゃぁうん。にゃう。んにゃうにゃん。
んにゃんにゃう。にゃんにゃうん。にゃぁぁぁなん。
鳴いては少しずつオカズの方へと首を伸ばしていく。そのクビのよく伸びこと、伸びること──三世代もこの行為を繰り返していたら、環境適応してキリンのように首が長くなるんじゃないかと思うほどだ。が、決してオカズに手を出すことはない。
それがクルツのルールなのだ。人間のオカズに直接触れない限りどんなに顔を近付けても、怒られる理由はないという身勝手と言うべきか、生活の知恵と言うべきか、ともかく根拠も裏付けもないルールに則っている。そして、お目当てのオカズを見つけると鳴く。そして狙われるのは、たいてい俺のオカズなのだ。なぜならクルツのイスは俺の隣りにあるから。
「浩之、クルツがオカズを欲しがっているわよ。可哀想だから少しあげなさいよ」
母さんは自分に被害がないものだから勝手なことを言いやがる。
「嫌だよ。俺は育ち盛りだから栄養が必要なんだ」
「もう高校三年生なんだから、いくら食べても上じゃなくって、もう横にしか育たないわよ」
「大きなお世話だ! 上だろうが横だろうが育ちたいんだよ」
俺は腹がへっているんだ。何が悲しくて猫畜生ごときに貴重な栄養源を分け与えなきゃいけないんだよ。
「クルツ、あなたの兄弟は冷たいわねぇ」
母さんは自分のオカズに顔を向けてきたクルツの鼻先をちょんと突く。
「ちょっと待て。俺は猫と兄弟になった覚えはないぞ」
「いつも同じ釜のご飯を食べているじゃない。そう言うのを義兄弟というのよ。ほら、生まれた場所は違っても、同じ釜のメシを食った義兄弟は死ぬ時は一緒って言うじゃない」
「言わねぇよ」
「言うわよ。浩之は世間知らずねぇ。ヤクザ映画とか見たことないの? 見たことないなら一度ビデオ屋さんから借りて見た方がいいわよ。少しは任侠道とか知らないと社会に出てから苦労するわよ」
頼むから息子に任侠道なんか勧めるなよ。俺は切った張ったの人生は遠慮したいんだよ。小市民的な人生で充分なんだ。
にゃぁうん。にゃう。んにゃうにゃん。
母さんとのワケの分からないやりとりの間も、クルツの強訴は続いている。
「クルツが浩之は義兄弟だと言っているわよ」
言っていないです。こいつが言っているのは「早くオカズをよこせ」です。
母さんと話していれば疲れるし、クルツはうるさいし──結局、うさざったくなって俺がオカズを分け与えるはめになる。
強訴によって得たオカズを平らげてもクルツは食卓にいる。人間の食事が終わったらテーブルに上がって一皿一皿確認する作業があるからだ。皿の上にオカズが残っていないか見て回り、皿についたソースや肉汁をなめ──クルツは食べ終わった後の皿はなめても怒られないと決めつけている──まるで嫁いびりの姑のようにしつこく皿を確認する。
すべてを確認すると悠然とテーブルを降り、自分の残ったエサを食べに行く。
クルツにとってはエサの半分は前菜で、人間のオカズがメインディッシュ、そして残ったエサがデザートなのだろう。クルツが自分のエサをどう食べようと関係ないが、俺のオカズを毎日毎日狙うのはやめて欲しいよ。
クルツは一日三回の主食の他にもおやつを食べる。それは猫用のドライフードと煮干しだ。エサ皿の横にいつも口の開いたドライフードの袋(徳用)と煮干し一袋(開封済み)が置いてある。普通の猫ならばドライフードが主食になるだろうに、クルツにとってはおやつでしかない。昼ご飯と夕ご飯の間とか、夜中とか、小腹が空いた時に袋に直接顔を突っこんで食べている。それなりの量をだ。
なのに三度の食事はちゃんと食べるし、俺のオカズはとるし……クルツが六キロの体重になったのは、このようなたゆまぬ努力があったからなんだろう。
* * *
雑食動物の頂点を極めたようなクルツにも嗜好はある。
まずはホウレン草。初めはホウレン草のおひたしの上に乗っている鰹節が目当てだったはずなのに、いつの間にか鰹節=ホウレン草という公式が組み上がったようで、いまではホウレン草だけを喜んで食べている。ウサギかおまえは!
次にチキンラーメン。チキンラーメンをバリバリ割ったものを与えると、パリポリパリポリといつまでも食べ続ける。でも、生(?)のチキンラーメンはしょっぱいのか、食べている途中に何度も水を飲みに行く。そして水を飲んではまたポリパリ……乾燥麺を食べて水を飲むものだから腹がパンパンになる。いつもならご飯を食べ終わった後はお腹を上にして大の字になって(いや、尻尾があるから木の字と言う方が正しいのか)寝る。でも、チキンラーメンをむさぼり食った時は、腹の中でふやけたラーメンで苦しいのか四肢をだらしなく伸ばし、横になって人間みたいに「にゃふん」と重い息を吐いている。
その他にもカジカ、牛乳パン、母さんの創作料理(絶対に味覚がおかしいよ)などがある。その中でも一番の好物はトウモロコシだ。
親父の勤める会社は食品開発する関係で広大な実験農場を持っている。そこでは品種改良のため、たくさんのトウモロコシが植えられている。しかし、研究に使う量はたいした量ではないので、残りは会社内で配られることになる。収穫シーズンになると親父は三〇キロ入りの袋に詰めたトウモロコシを何度も持ってくる。色々なトウモロコシを市場に先立ち食べられるから、俺の家では歓迎される親父の土産となっている。母さんも俺も楽しみにしているし、なによりクルツが一番楽しみにしている。
トウモロコシを大きな鍋に入れ、ほんの少しだけ塩を入れて茹でただけの簡単な料理だけど、これが本当にうまい。
取れたてだからトウモロコシの粒も瑞々しく張りを持っている。かぶりつくと一粒一粒が軽い抵抗をみせた後、ころりころりと舌上に落ちてくる。きゅるっとした歯触りの粒を噛むと、ぷちっとはじけて柔らかい甘みが口内に広がる。一本食べ終われば、思わず次の一本に手が伸びる。俺も母さんも二本も三本も食べてしまうほどさ。
茹であがったトウモロコシはクルツにも分け与えられることになる。それも一本まんまの形で。
大好物を前にクルツがじっとしているわけがない。少々湯気が立っていようが、床に置かれたトウモロコシにかぶりつく。前足でトウモロコシを押さえ、小さく並んだ前歯でかりかりと削り取るように食べる。真ん中に食らいついて、顔を左右に動かしながら両サイドの粒も残すことなく食べていく。
クルツは一列分を食べ終わると、前足の爪を引っかけて器用にトウモロコシを回転させる。そしてまた、かぶりつく。
けど、トウモロコシの形状はおおむね円柱状。爪を引っかけて回転させるということは、バックスピンをかけるようなものだ。円柱物体にバックスピンをかければ、手前に転がるのは世の理。手前に移動してきたトウモロコシに合わせるようにクルツも後退り。そしてまたかぶりつく。
ころんと転がしては食べ、また転がす。ころん、はぐはぐ、ころん、ころん……。
「おい、クルツ。どこに行くつもりだ」
クルツは俺の言葉に反応することなく、トウモロコシと共に玄関の方に向かって後退っていく。一直線に……あっ、玄関の廊下に行っちゃったよ。
「玄関に行っちゃったわねぇ。ねえ、浩之。クルツを連れ戻してきてよ」
「食っている最中なんだから放っておけばいいだろう」
「でも早く食べないとなくなっちゃうじゃない」
まだ一二本もあるんだから、なくなることはないだろう。親父はもう晩酌をはじめちゃったから食べないし、俺だって晩飯前に何本も食べる気はない。ん? ひょっとして今日の晩飯はトウモロコシだけということはないよなぁ。まさかねぇ……。
「母さん、夕飯の準備をしなくていいのかよ」
「あら、いま食べてるじゃない」
母さんは囓りついていたトウモロコシから口を離し、何を言っているのとばかり小首をかしげる。
「お父さんは食べないけど、私があと三本食べるでしょう。残りは浩之とクルツの分じゃない」
やっぱりそのつもりだったのか……トウモロコシは美味いけど、限度というものがあるだろう。
「クルツぅ、早く戻ってこないと浩之に全部食べられちゃうわよ」
母さんは玄関に向かって声をかける。
あのなぁ、いくら俺でもそんなに食べねぇよ。
母さんの言葉に反応するように、口の周りをなめながらクルツがのそりと戻ってきた。そして次の一本をよこせとばかり「なぁう」と一声鳴く。
「じゃあ次はこの大きいのをあげるわね」
母さんが置いたトウモロコシにクルツが襲いかかる。野生動物が獲物を押さえつけるように爪をかけ、とどめをさすみたいにかぶりつく。ころん……こんどは台所に向かって一直線。
キャットフードのコマーシャルじゃ好物に向かって猫がまっしぐらに駆けてくる。でも俺の家では、大好物と一緒に後ろに向かって猫まっしぐらなんだ。
2006/11/13(Mon)00:50:41 公開 /
甘木
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■この作品の著作権は
甘木さん
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■作者からのメッセージ
今回は更新ではありません(まだ第6話は書けていません)。原因不明ですがクルツ曜日の1から4話が消えてしまったため、5話とくっつけて再度投稿させていただきました。若干の手直しもしました(語句ぐらいですが)。
1話から4話までにいただいた感想が消えてしまったのが本当に残念です。感想を書いて下さった皆様、ありがとうございました。
このような拙い作品ですが読んでいただけたら幸いです。また、御意見・御感想がありましたら甘口辛口を問いませんので一言いただけたら幸いです。
作品の感想については、
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