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『忘却回路』 ... ジャンル:異世界 SF
作者:ネオンテトラ
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あらすじ・作品紹介
◎A地区に憧れる少年ニゼル。このまま大人になって、一生D地区で暮らすのなんて嫌だ。そう思っていたある日、彼は不思議な能力を身につける。幼馴染の少女タオは、ニゼルに起きたこの現象に見覚えがあった。◎全体のテーマは「記憶と感情」です。<超能力 青春 事件 殺人 冒険 少年少女 記憶 愛 管理都市 楽園 博士 AI 宗教>などのキーワードが好きな方、どうぞ。
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空は曇天。
喪服をまとった人々が数人、ひとつの棺を取り囲んでいる。永遠の眠りについたのは一人の若い女性。死化粧を施された顔は頬に赤みがあり、まるで眠っているようだ。幸せそうに。
そこから少し離れた墓地の外れに、子供が二人並んで立っていた。赤毛の少年と、黒髪の少女。そのうちの少女は静かに泣いていた。手で顔を覆ったりはせず、黒い目で真っすぐに前を見つめて。透き通った涙の粒が頬を伝い、緑の芝生に吸い込まれていった。ぽたり、ぽたり。悲しい雨は止むことがない。
ついには本当の雨まで降りだした。
霧雨の中、少年は隣にたたずむ彼女にささやいた。
< 1 >
始まりは、幼なじみから聞いたうわさ話だった。
くすんだ色の家々がごちゃごちゃと並んでいる。日の光は強く地上に降り注ぎ、くっきりとした光と影のコントラストをつくり出した。少年の地元である十七番街の狭い通りには、建物と建物の間に器用に干された洗濯物の影が落ちている。
風になびく洗濯物越しの狭い空を見上げて、赤毛の少年は大きなため息をついた。彼は雑多なこの町があまり好きではなかった。一言で言えば、退屈なのだ。
「D地区十七番街……」
近くに立っていた標識を何となく読み上げてみる。その時、「ニゼル!」と声がした。少年が振り向くと、ひとりの少女が立っていた。つやのある黒髪と黒い色をしたまるい目が印象的な女の子だ。白い服が日差しを反射してまぶしかった。彼女の名前はタオ。少年の幼なじみである。
「ニゼル。今日もサテライトに来なかったでしょ」
タオは少し怒った調子でニゼルを追及した。
サテライトとは、ここでいう教育施設のことである。サテライトでは実技系を除いて、教壇に立って直接授業をする教師は基本的に存在しない。プライマリーと呼ばれる初級学校を卒業した生徒は、衛星(サテライト)の放送でさらに専門的な科目を履修することになっている。(プライマリーまでは、教師による直接的な授業だ)政府の意向で、数年前からこのD地区でも導入されたのだ。
「頭が痛かったんだよ」
「最近そればっかりじゃない。あやしいなあ。でもまあいいや。ねえ、それよりも、聞いた? 十八番街に出た幽霊の話!」
ニゼルは最近サテライトをサボり気味だ。面倒くさいというのもあったが、実は本当に頭も痛かった。彼女は真面目な性格なので、そういうことに対しては昔からすごく厳しい。しかし、今日は説教をさっさと切り上げてしまった。
「幽霊? 何それ」
「ほら、十八番街のはずれに古い共同住宅の建物があるでしょ。黄土色の」
「ああ、老朽化が激しくて、今はもう誰も住んでないっていう」
「そうそう。でね、昨日、ニカたちがそこで変な光を見たんだって! 誰も居ないはずの窓から光る、青白い光!……あれ? ニゼルあんまり恐がってないね」
「だってそれ見たのニカなんだろ? 何かうそくせーもん。みんな騙されてんだよ」
ニゼルはあまり驚かなかったし、興味もそそられなかった。ニカというのはサテライトの友達だが、少し調子に乗りすぎるところがある。きっとみんなの注目を集めたいだけだろう。まったく、プライマリーを卒業したのに何を騒いでいるのだろうか。馬鹿らしい。
「ニゼル、ちゃんと最後まで聞いてよね。変な光を見た人はニカたちだけじゃないんだよ。ちょっと前から何人も見てるんだって!」
「ふーん、じゃあニカの見間違いじゃなさそうだ。案外本当に幽霊とかなのかもな」
「やっぱりニゼルもそう思う? それで、この話にはまだ続きがあってね、昨日の夜、そこから帰ってきた後、ニカったら家の階段から落ちて大怪我したんだよ。多分、ニカのことだから本当は大したことないと思うけどね」
「それってただニカが偶然足を滑らせただけじゃ?」
「でも、ニカったら今日すっごい包帯ぐるぐる巻きにしてサテライトに来たんだよ。それでみんなに言い回ってるの。あの幽霊屋敷に近づくと呪われるって!」
タオは熱弁を振るった。こうしている時などは、三年前、彼女が心に大きな傷を負ったことなど嘘のようだ。彼女にはヨキという姉がいた。三年前までだが。
ニゼルやタオが生活しているここは「D地区」と呼ばれている。この国「ジョイネシア」は、五つの島から成り立っている。五つの島はそれぞれそのままA・B・C・D・E地区となっている。島と島、つまり地区と地区は恐ろしく長い橋でつながっている。しかし、現在、中央政府は地区間の行き来を厳しく禁止している。橋の入り口には関所があり、不正に橋を渡ろうとする者を厳しく取り締まっているのだ。例外として正式に橋を渡るには、政府発行の通行証が必要だった。
A地区の郊外で若い女性の死体が見つかってから、もう三年が経つ。その死体には一切の傷が無く、まるで眠っているようだったという。自殺か他殺か、あるいはただの事故か、その結論を出すには情報があまりにも少なかった。
そして、彼女には不審な点がもうひとつ。それは、彼女がD地区の人間だったということだ。政府発行の通行証も持っていなければ、記録にも残っていない。D地区の彼女がどうしてA地区に居たのか、結局わからなかった。彼女は一年前、すでにD地区から消えていたらしい。そこから死体が見つかるまでの間、彼女がいったい何をしていたのかもとうとう解明されることはなかった。その死体が生きていた時の名前はヨキ。タオの姉だった人だ。
「――じゃあ、明日はニカを馬鹿にしに行こうかな」
「ひどいなあ。すぐそうやってけんかするんだから。あ、そういえば、もうすぐサテライトも夏季休暇だよ」
「そうか、もうそんな時期だったっけ」
「うん。私、今年も銀河浜に行きたいな。すごく良い場所を見つけたんだよ。いつも銀河浜って夏は混むけど、少し歩いたところに綺麗な入り江があるの」
タオは嬉しそうに報告した。夏季休暇に、銀河浜に行くのは彼らの恒例行事である。毎年行くので、目新しいことなどはない。彼らは銀河浜が好きだったので、それでも構わないのだった。
例の彼女の姉が亡くなってもう三年。喪失感という心の傷もようやく癒えてきた。ニゼルとタオは幼なじみで、小さな頃から兄弟のように育ってきた。もちろん、ニゼルは亡くなったヨキのこともよく知っていた。きれいな黒髪、鼻の形、まるい目。タオとヨキはよく似ていた。性格は正反対だったが。
姉のヨキは妹のタオに比べて物静かな人だった。ニゼルとタオは昔からよく喧嘩したが、それを仲裁するのはいつも彼女だった。きれいな人だった。優しかった。でも芯はとても強くて、間違ったことは嫌いだった。
だから、三年前の出来事には首をかしげてしまう。だって、ヨキが死んでいたのはD地区ではなく、A地区だったのだ。通行証が発行されていないのに、他の地区へ行くことは堅く禁じられている。しかし、当時の彼女は通行証を持っていなかったし、発行記録も残っていなかったらしい。つまり、ヨキは法を犯したことになる。
生活に不満を抱いた者がA地区へ不法侵入するのは大して珍しくない。(大抵は、橋を渡りきる前に連行されることになるが)だけど、とニゼルは考える。ヨキがそんなことをするはずないのだ。あれからずっと彼は疑問に感じていた。それはきっとタオも同じだろう。けれど、その問いに答えてくれる人は、残念ながらここにはもういない。
* * *
次の日もニゼルはサテライトに行かなかった。十七番街の小さな自宅で背中を丸めて寝ていた。頭が痛い。昨日よりもさらに。まるで、誰かに頭を強く掴まれているみたいだ。それに吐き気もする。
固いベッドから起き上がると、彼は水を飲みに居間へ歩いていこうとした。頭を動かすと、余計に調子が悪くなるようだった。足がふらついて上手く歩けない。しまいには自分の足につまづいて床に倒れこんだ。
異常なくらいのどが渇いている。けれど、起き上がれない。体が熱い。しかし、何よりも頭がものすごく痛いのだ。うずくまった状態のまま視線を上に向けると、テーブルの上に水の入った瓶が目に入った。断水用に汲み置きしておいたのだ。
ニゼルは必死で手を伸ばしたが、届かない。でも、水が飲みたい。そうでないと、自分は死んでしまうかもしれない。あんなに近くにあるのに! ニゼルは恨めしそうな目で、数十センチ上にある瓶をにらみつけた。すると、不思議なことに瓶がぐらぐらと揺れだした。地震でもないのに、瓶だけが揺れている。瓶は次第に大きな円を描くように揺れ、やがて、ごとりと重い音をたてて床に落下した。
ニゼルは何とか瓶に手を伸ばすと、ふタオ外してのどを潤した。水は生ぬるかったが、あっというまに半分近くを飲み干してしまった。満足すると急に力が抜けた。そして、ニゼルは気を失った。手から離れた瓶は、再び床に放り出されて、中の水は床にこぼれた。
* * *
ニゼルは小さい頃に事故で両親を亡くした。タオの両親は、亡くなった両親と友人で、よくニゼルの面倒を見てくれた。タオとニゼルが兄弟のように育ったというのも、このことが原因だ。ニゼルは、肉親を失うという強烈な恐怖を小さい頃に知ってまった。それは、やはり耐え難いことだった。頭ではわかっていても、いつまでも心が納得しないのだ。家族で住んでいた家の、母と歩いた通りの、父と遊んだ共同公園の、いたるところに思い出があり、そこを通るたびに色々な記憶を思い出してしまう。
黒い目。
黒い目に映る小さな自分。ぽろぽろと泣いていると、いつも女の子が見つめていた。一緒になって座り込み、ニゼルの顔を覗き込んでくる。最初の頃、その少女のことはあまり好きではなかった。人の顔をじろじろと見やがって。その哀れむような目が、ニゼルの小さな心臓をぎりぎりと苦しめるのだ。嫌いだ。自分は何でも持っているくせに!
父も母も姉も、幸せな家庭も持っている女の子。いくら追っ払っても、ふと気がつくとタオはニゼルのとなりに存在していた。黒い髪は短くて、その頃のタオは少年のようだった。だからよけいに、ニゼルは彼女に対して容赦とか手加減をしなかったのかもしれない。二人は取っ組み合いのけんかを何回もした。それでも、ニゼルが一人でいると、彼女はとなりに座り込むのだ。大抵は黙って、何もせずにただ座っていた。なぜだかたまに、彼女のほうが泣いたりしていた。その繰り返しが、半ば習慣化してきた頃、ニゼルはやっと理解できたのだ。自分が彼女に、どれだけ救われていたのかを。けんかや、彼女に腹を立てているとき、彼女のことを考えているとき、あの強烈な痛みを忘れていられたことに。
* * *
目が覚めたとき、あんなに酷かった頭痛はすっかり治まっていた。体を起こすと、床に転がっていた瓶が目に入った。手にとって見ても何もない。底を見たが、特に変わった凸面ではなかった。当然ながらテーブルもいつもどおり平らだった。さっきの奇妙な現象はいったい何だったのだろう。地震か?
首をひねっていると、玄関の扉をたたく音がした。声からしてきっとタオだ。入ってきていいよと許可する前に、彼女は部屋に侵入していた。居間に入ってきたタオが見たのは、床に広がる水たまりと、元気のない様子で座り込んでいた幼なじみだった。
「うわっ! 何これ。何で水がこんなにこぼれてるの? それに、ニゼル死にそうな顔してるけど大丈夫?」
「なんでもないよ。ちょっと、頭が痛くて……。それよりも、お前、今日のサテライトは行かなくていいのか?」
そう言われた彼女は不思議そうな顔をした。
「だって、もう夕方だよ」
「うそっ!」
ニゼルは驚いて窓の外を見た。確かに十七番街は真っ赤な夕日に飲み込まれようとしている。向こうのほうでは、すでに暗闇が迫っていた。気がつかなかったが、彼はほぼ一日、気を失っていたのだ。
「もしかして、ニゼル、ここで眠ってたの? そんなに頭が痛いんだったら、早めにドクターのところに行ったほうがいいと思うけど」
タオは、呆然と窓ガラスに張り付いているニゼルを心配そうに見た。
「とりあえず、ニゼルは寝てたほうがいいよ。床は私が拭くから」
タオは半ば無理やりにニゼルをベッドに寝かせて、床を拭くタオルを探しに消えた。しばらくもしないうちに、彼女からタオルの場所がわからないと叫ばれた。やれやれ、とニゼルは起き上がった。頭痛や吐き気は、目覚めると同時にどこかに吹き飛んでくれたらしい。タオはニゼルを見ると、「寝てていいのに」と不満そうに言った。
「だってわからないって言ったじゃん。でも、何かもう大丈夫だから。目が覚めたらよくなったみたい。それに、タオルは戸棚の上にあるから、タオじゃ届かないよ。おれが取るからちょっとどいて」
キッチンの戸棚はかなり高く、その上に白い箱が置いてあった。ニゼルは手を伸ばして箱を取ろうとした。しかし、ふと手を止めてじっと考え込む。それから、数歩少し後ろに下がって、手をすっと上に向けた。彼の手の先に目を向けて、タオは驚いた。白い箱がぐらぐらと揺れているのだ。その揺れはどんどん激しくなり、やがて箱は戸棚から落下した。床に激突した箱は簡単に開き、中のタオルが飛び出して散乱する。
タオは驚いて手で口を覆った。何が起こったのか理解できなかったようだった。しかし、彼女がとなりを見ると、ニゼルも同じくらい驚いていた。少し間を空けて、二人は顔を見合わせた。
「な、何? 今の。ニゼルがやったの?」
「たぶん。でも、まさかできるとは思わなくて」
「それってどういうこと?」
ニゼルは、話してもいいのかどうか少し迷ったが、結局はさっきのことを全部タオに説明した。今の現象を見られてしまった以上、言い訳をしても彼女は納得しないだろう。小さい頃からお互いを知っているので、彼らは隠し事をするということに罪悪感を覚えさえするのだった。いつのまにか夕日は沈み、部屋の中には影が満ちていた。
「……じゃあ、自分でも何が何だかわからないのね」
「ああ、さっきだって、もしかしたらって思ってちょっと試してみただけなんだ」
ニゼルは、今度は床に散らばったタオルや布を何枚か浮かせて見せた。一度目はテーブルの上にあった瓶を。二度目は戸棚の上の箱を。そしてこれが三度目。もう偶然ではないことは明らかだ。不自然に宙を舞う白い布たち。やっているうちに、少しずつ要領がつかめてきた。あんまり、頭で考えては駄目なのだ。これはかなりの集中力が必要らしい。ニゼルは汗をぬぐった。タオは、そんな彼をじっと見つめていた。何か考えているようだった。そして、決心したように顔をふっと上げた。
「ねえ、ニゼル。お姉ちゃんが失踪する前のこと覚えてる?」
「覚えてる……けど」
「私、思い出したの。お姉ちゃんが一時期、すごく頭が痛いって言っていたこと」
タオは真剣な目をしていたが、ニゼルにはわけがわからない。
「頭が痛い痛いって言っていて、ある日、ついに倒れちゃったの。私はそのとき、そこに居たからあわてて駆け寄った」
ヨキは真っ赤な顔をして床に倒れていたという。タオがゆすると、彼女は水を欲しがったらしい。すぐに飲ませてやると、そのまま気を失ったように眠り始めた。心配した両親とタオは、ドクターにヨキを診せたが、何の問題もなかった。眠りから覚めたヨキは、すっかりよくなっていたらしい。今までの頭痛がまるで嘘のように。
そこまで話を聞いて、ニゼルはすぐに気がついた。自分と似ている。なかなかおさまらなかった激しい頭痛。きっと、彼女も死ぬほど水が欲しかったのではないだろうか。
「お姉ちゃんが、ニゼルみたいな力を手に入れたのかはわからない」
けれど、それからだという。ヨキが家を空けるようになったのは。最初のうちはあまり気にしてはいなかった。しかし、そのうちに、彼女の様子が何だかおかしくなっていったように感じられたのだ。タオや両親の顔をじっと見つめたり、意味のわからない言葉を口走ったり。そしてついに、彼女はこの町から消えてしまった。
二人の周りは沈黙に包まれた。部屋の中が闇につつまれても、まだ彼らはじっとしていた。まるで、恐ろしい敵に巣の周りをうろつかれている小動物のように。ヨキは、どうしてここから居なくなったのだろう。答えが出ないことはわかっていたが、考えずにはいられなかった。
* * *
D地区十八番街にある古い共同住宅の建物。例の幽霊屋敷だ。
その屋上にひとりの影があった。ここD地区には見られない服をまとっている。布をベールのようにかぶり、顔の半分は隠れている。上半身も何枚かの布で包まれているらしかった。すらりとした足が地面に向かって伸びている。
「ああ、そこにいたんですか?」
がちゃり。錆びた扉を開けて、もう一人が屋上に出てきた。ブラウンの髪の毛が風にさらされて光る。そして、となりに並んだ。
「なんかこの屋上いいよね。僕、気に入っちゃったんだ。ほら、ここからだと池も見下ろせるんだよ。ここにベッド持ってこようかなあ」
「何冗談言ってるんですか。あんまり外から見えるようには立たないでくださいね」
少年は、彼の胸ほどしか身長がない。ソプラノの声からしても、かなり若い、というか幼いようだった。真っ白のブラウスを着て、エナメルの黒い靴を履いている。この地域ではめったに見かけないが、彼の服装は貴族のそれだった。少年は太陽に手をかざした。
「見えたってきっと大丈夫だよ。」
彼はのんきに笑った。顔の半分は布の陰になっているので、少年からは白い歯しか見えなかった。
「何でですか。もし見つかったら色々と厄介なんですよ。知ってるでしょう」
「えー、だってここって幽霊が出るって噂でしょ。子供は近づかないって。もし、僕たちの姿を見られても、きっと幽霊だって思われるよ。大人たちははじめから、こんなぼろっちい建物に興味ないだろうしね」
「まあ確かに、この前ここに来た少年には、ちょっと痛い目にあってもらいましたけど。でも、用心するに越したことないですからね。ここに来たいって言い出したのはそっちなんだから、それくらい気をつけてくれないと困ります」
「ごめーん」
頭からすっぽり布をかぶった人物は視界に広がる町を見ながら言った。もちろん、反省などしていない。A地区と違って、ここは建物がぎちぎちに詰まって並べられている。高層ビルなどはなく、一見した感じ高い建物でもせいぜい十階程度だろう。強い日差しに照らされて、小さな建物たちはそれぞれ濃い影を伸ばしていた。
「ぼくには、ここがそんなに良いと思えません。日差しも強いし、ほこりっぽいし」
「ああ、ごめん。ここちょっときついよね」
彼はあわてた。たまに忘れてしまうが、この子は日の光とほこりに極端に弱いのだ。彼は頭にかぶせていた布をとり、少年にかぶせてやった。
「あ、ありがとうございます」
少年はとなりを見上げた。布の下から現れたのは、青い目を持つ青年だった。ほとんど白に近いプラチナの髪が風になびく。少年ではないが、かといって大人に分類するにはまだ早い。どこか動物的な雰囲気の顔立ちと、華奢な体つき。服装といい、顔立ちといい、彼ら二人はこのD地区には異質だった。
少年は美しい声で歌い始めた。乾いた空気に流れる、午後のアカペラ。プラチナの青年は黙って聞いていた。彼が歌うのはいつも同じ曲。
「レンブラント」
ぼくらは月の子ども
ああ、会いたいよ、レンブラント
ぼくらはたまらず旅にでた
口ずさむのは
Dマイナー 18小節のラブソング
ぼくらは月の子ども
いちばん初めは
青い鳥のくちばしのさき
上を向いたら空に向かってgood luck!
琥珀色のランプを手にとって
恐れずに闇を切り裂いていこう
13匹の黒猫に従うのも
今日はわるくない
銀河への階段を駆け上がったら
ぼくらの硝子球はきらきらひかるよ
さあ、あなたに会うまでの
最後のカウントダウン
ミサ 遠く 死後 西 珊瑚 闇
< 2 >
大きな画面に女性の姿が映されている。
――……皆さんも知っているとおり、わが国「ジョイネシア」は五つの島から成り立っている連合国です。各島はそれ自体がすでに小さな国のようで、その小さな国が集まって大きな国「ジョイネシア」になっているのでしたね。
五つの島はそれぞれA・B・C・D・Eと、地区として扱われています。A島と言うより、A地区と言ったほうが皆さんにはしっくりくるかもしれませんね。
ジョイネシアでは、中央政府が国民の居住区を指定・管理しています。地区(つまりは島ですが)と地区は、とても大きな橋でつながれています。しかし、その橋を渡り自由に他地区へ行き来することは禁じられていますね。橋の入り口には関所があります。皆さんの中にもその建物を見たことがある人がいるでしょう。不正に橋を渡ろうとする者を厳しく取り締まっています。橋は政府発行の通行証がなければ、決して通ることが出来ません。つまり、政府公認の特殊な運送業などしか地区を移動できない決まりになっているのです。
はい、皆さんの中には、このことについて疑問や反発を感じる人もいるかもしれませんね。きっと、A地区に行ってみたいと思っている人もいるのではないでしょうか。しかし、政府が他の地区への行き来を固く禁止しているのには、もちろん理由があります。これについては、次回お話しましょう。
さて、地区にはそれぞれ、かなり違った特徴があります。A地区は、ジョイネシアで最も豊かな場所です。このサテライト放送を製作している本部や、中央政府もそのA地区に設置されています。東部の列強諸国に負けないくらいの近代建築の建物が立ち並んでいます。次に、皆さんが今暮らしているのは、D地区ですね。D地区はジョイネシアの中でも最も綺麗な海があるところです。それから、B地区は……――
あの日から、ニゼルは訓練をはじめた。もちろん、例の突然目覚めた不思議な力のだ。サテライトには面倒くさいので行かなかった。だが、ひとつ困ったことがある。家に居たのでは誰かに見られる危険があったのだ。一人暮らしとあって、サテライトの友達がしょっちゅう唐突に訪問してくる。それに、タオの両親も彼を心配して様子を見に来ることがあるし。彼はタオ以外の人に、このことを話したくなかった。
この不思議な力を使ってどうこうしようとは考えていなかった。ただの好奇心にすぎない。だってこんな面白いこと、普通ならめったに起きないのだ。D地区での暮らしは退屈。世界は広いのに、それを制限されている。
「なあ、どっかいい場所ないか? あんまり人が来なくて、ひとりになれるところ」
ニゼルは振り返ってタオを見た。今思うと、どうしてあの時、彼女が見ている目の前で力を使ってしまったのか。少し後悔している。すでに二人の日常は、ゆっくりと非日常にむかって進んでいた。
タオもタオで、はじめのうちは自分のことのように興奮していたが、ここ数日は人が変わったようにおとなしくなってしまった。
「ねえ、もしかして、おれのこと恐い?」
返事がないので、ニゼルはそう質問した。考えてみれば、これは異質な事態なのだ。あの日から毎日こうやって練習しているので、そのことをつい忘れそうになっていたが。
「ううん、ちがうよ。私が考えてるのは別のこと」
「なに?言えよ」
「うわさ。不思議な力を手に入れた子供の」
「うわさ?」
なかなか話を進めない彼女に、ニゼルはいらいらした。タオはうつむいて何か考えているようだった。
「D地区には、たまに不思議な力を手に入れる子供がでるんだって。大人じゃだめなの。力を手に入れた子供は、喜んでそれをつかいまくる。でも、そういう子はある日、突然消えちゃうんだって。何人も何人も。誰も彼らがどこへ行くのかはわからないの。そういううわさ」
「あー、なんか聞いたことあるかも。おれらが子供の頃からあったよな。でも、なんで今? ただのうわさだろ?」
「私もそうだと思ってた。でも、お姉ちゃんは消えたんだよ。この前も言ったけど、お姉ちゃんもその力を手に入れていたんだと思う。でなきゃ、失踪なんか絶対しないもん」
彼女が泣きそうなのでニゼルは焦った。タオから聞いた話では、この一連の出来事は、彼女の姉のヨキと酷似しているらしい。確かに、慎重なヨキのこと。もし力を手に入れても、それを誰かに見せるなどということはしないだろう。実際、ニゼルだってできれば誰にも知られたくなかった。
「なるほど。そのうわさからすると、次に消えるのはおれなわけだ。でもまあ、おれはどっかに行く気はないから安心していいよ。本当、ヨキ姉はなんで失踪なんかしたんだろうなあ」
ニゼルは遠い目をしてつぶやいた。彼はヨキのことを親しみをこめて「ヨキ姉」と呼んでいた。
「居なくなるちょっと前から、お姉ちゃん、何だか変だったの。すごく恐かった。聞いたこともない変な言葉を言いだしたり……」
そう告白する彼女は、今にも泣きだしそうな様子だった。ニゼル自身も、数回だがその時のヨキを見かけたことがある。「変な言葉?」タオは頷いた。
「ワコードは運命だったとか、漆黒は間違ってる、とか。ね、意味わかんないでしょ」
「ワコード? 運命? 漆黒?」
「私にもさっぱり。多分、お姉ちゃんの妄想だと思うけど」
室内に何とも言えない重苦しい空気が漂ってきた。それを吹き飛ばすかのようにニゼルは勢い良く立ち上がった。
「思いついた!」
「いきなりどうしたの?」
「ほら、十八番街の幽霊共同住宅! あそこならここから結構近いし、誰も来ない!」
「えっ、あそこにいくの?」
「なに、お前幽霊とか祟りとか信じてんの?」
図星だったタオは恥ずかしそうに頷いた。
「大丈夫、何にもないよ。いつも気に食わないと思ってたけど、今回ばかりはニカに感謝だな」
彼があの建物は呪われてるだの、近づくとたたられるだの言い触らしたせいで、最近ではサテライトの生徒は誰として近寄らなくなっていたのだ。あの辺の地域はもともと寂れているし、条件は揃っている。
「気が進まないなら、おれだけで行くけど」
早くも玄関に向かいながら、ニゼルは独り言のように言った。もちろん、タオがついて来ないはずがないと確信して、だ。
* * *
十八番地はもともと人が少ない。十五番地方面に、商店街や交通機関がそろっているからだ。数十分後には、二人は十八番街に足を踏み入れていた。午後の日差しが暑い。
例の共同住宅の建物は、四階建てで、壁は黄土色をしている。ところどころにひび割れが目立ち、その古さが感じ取れた。辺りはしんと静まり返っている。
「本当に行くの?」
後ろから、タオの不安げな声がした。ニゼルはそれを無視して、内部に乗り込んだ。彼の予想通り、入り口の扉は老朽化していて鍵さえかかっていなかった。
ひんやりとした冷たい空気。建物の中は薄暗かった。窓から差し込む明かりが、壁に縞模様を映し出している。廊下は長く、そこからそれぞれの個室に繋がっていた。
ニゼルはその内の一部屋に足を踏み入れた。今までの長い間、ここを訪れた人は居ないらしく床はほこり塗れだった。部屋の壁にはなにやらライトらしきものも設置されていたが、それも汚れて白くなっていた。足元から煙のように、ほこりが立ちこめる。タオが後ろで咳き込んでいるのがわかった。
「……ここは汚すぎて駄目だな。もっときれいな部屋がないか探そうぜ」
一階にある全ての部屋を見て回ったが、どこもほこりまみれで秘密基地にはなりそうもなかった。廊下の一番端に階段がひっそりと続いている。おそらく最上階の四階まで続いているのだろう。
「ニゼル! なんだかこの部屋きれいだよ」
タオが見つけたのは、四階の一番端の部屋だった。ニゼルも彼女に続いて部屋に入ってみる。確かに、一階に比べるとだいぶ片付いていた。部屋の中央には、白い円卓と椅子が二脚。
「ほんとだ、ここなら良さそう」
ニゼルも彼女の後に続いて部屋に入ってみた。ここなら人も来ないだろうし、例の力の練習や実験にはぴったりだ。そこで彼は早速、試してみることにした。置いてあった椅子に意識を集中させる。目でしっかり物体を認識し、頭の中でそれが浮いているところを想像する。今はそれ以外に何も考えてはならない。そして、充分にイメージした後、それを現実で行う。
最初、椅子はがたがたと不自然に揺れていた。だんだんと揺れは大きくなり、ついには反動をつけたかのように、椅子は床から浮き上がった。ニゼルは自分が汗をかいていることに気がついた。重ければ重いほど、集中しなければならないし疲れる。この不思議な力を身につけてから今日まで、何度も練習を繰り返してきた結果わかったことだった。
その異変に最初に気が付いたのもタオだった。彼女は目を見開き、視線を固定させたまま、彼の上着の裾をひっぱった。ニゼルが彼女の視線を辿ると、入り口に誰かが立っているのが見えた。顔は良く見えない。廊下の窓から差し込んでくる光のせいで、逆光になっているからだ。しかし、それにしても何だか妙なシルエットだ。
ニゼルの制御を受けなくなった椅子は音を立てて床に落ちた。音が響く。心臓が熱を帯びている。その熱さは循環する血液にもめぐった。落ち着くんだ、ニゼルは自分を制することに努力した。サテライトの生徒だとしたらなんとかごまかせるかもしれない。おそらく、自分たちが何をしていたのかはわからなかっただろう。大人だとしても、間違って迷い込んでしまったとでも言えば切り抜けられるかもしれない。
ニゼルは楽観的に考えをまとめ、心を落ち着かせた。その侵入者の影はゆらりと傾くとそのまま二人のほうへ近づいてきた。しだいに光に照らされて、その姿態が明らかになる。残念ながら二人の知っているサテライトの誰かではなかった。今まで二人が会ってきたどんな人とも似ていない、何だか独特の雰囲気をした人。その人はこの辺ではあまり見かけない服をまとっていた。大きな薄い布を寒さから身を守るようにして(今は夏だが)頭からかぶっている。さっき見た影の形が、奇妙だと思ったのはこのせいだった。
「面白いことをしていたね」
その声から、人物が男性だとわかった。しかし、そんなことはどうでもいい。まずい、見られていたんだ。ニゼルは頭の中で、どうやってこの状況を切り抜けるか考えをめぐらせたが、いい案は浮かばない。ちらりととなりを盗み見たが、タオも固まっていた。
二人が黙っていると、彼はかぶっていた布を脱いだ。プラチナの髪に、浅黒い肌、それに大きな青い目をした青年だった。このような人を二人は今まで見たことがなかったが、それでも彼が非D地区住民だというのは直感した。原則的に、他の地区に行き来することは禁じられている。政府が公認しているのは、特殊な運送業の人だけだ。となると、彼はそれなのだろうか。
依然として二人が何も言わずにいると、彼は楽しげに微笑んだ。そして、細長い指でニゼルを指した。
「君もワコードなんだね」
彼はさらりと、まるで今日の天気の話題を口にするような感じで言った。ニゼルとタオは驚いて顔を見合わせた。ワコードというのは、ヨキの造語か何かかと思っていた。しかし、たった今彼がそれを打ち消したのだ。
「ああ、ごめんごめん。君たちには馴染みがないよね」
ニゼルたちが驚いた理由を勘違いした彼は、申し訳ないという感じで軽く笑った。
「ワコードっていうのは、なんていうか超能力みたいなもののことだよ。それを使える人のことにも言うけど。そっちの女の子は知らないけど、君は使えるんだろ」
「じゃああなたは? あなたはそのワコードを使えるんですか」
一方的に話が進むのが気に食わなかったので、ニゼルは質問を無視して逆に問い掛けた。
「はは、まずはこっちからってわけね。さっき見た感じでは君は物体を移動させたりするのが得意らしいね。僕は物体から記憶を読み取るのが得意だよ。サイコメトリーっていうんだけど。ねえ、これでいいかな。僕の名前はロッソ。君たちの名前も聞いていいかい」
「……おれがニゼルで、こっちはタオ」
柔らかな物腰に、つい答えてしまった。根拠はどこにもないが、悪い人ではないと感じた。
「へえ、二人ともいい名前だね。えっと……こんなところじゃなんだから、まあ座りなよ」
ロッソと名乗った青年は、倒された椅子を元の位置に戻すとそう言った。二人は彼に勧められるまま、おとなしく席に着いた。この瞬間、二人の今までの日常は遠くに姿を消してしまったのだった。
「あんたは、いったい誰? おれたちみたいなD地区の人間はそんな肌の色をしていないし、それに、その着ている服も見たことない。政府公認の運送業の人?」
ニゼルは直球勝負に出た。敵意をむき出しの目で青年を見上げる。(椅子が二つしかないので彼は近くに立っていた)ロッソはそれを自分の事ながら興味深げに眺めていた。ニゼルたちD地区の人間は、ほとんどが淡褐色(黄色)の肌をしている。髪や虹彩の色はさまざまだったが、彼のような色素の薄い髪は、実際に見たことなかった。
「ロッソさんでしたっけ。えっと……、もしかしてあなたはC地区からきたのではないですか?」
タオが遠慮がちに尋ねた。ロッソは、何かを彼女の中に見るように彼女を見つめ返した。
「タオ、なんでわかるんだよ」
「この前のサテライト映像で見たの。確か、C地区は民族意識が高くて、ロッソさんみたいな服を着ているってあったと思う。ニゼルがさぼった日のことだよ」
そうですよね、と少女はロッソを見上げた。
「あたり。そっちの子に比べて君は博識だね。僕は元C地区の人間だよ。アビルダン教って知ってる? 僕らが信じている宗教なんだけど。女神アビルダンを信じているものはみんなこういう服を着ているのさ」
アビルダン教とは、主にC地区で信仰されている宗教である。心の正しい者には女神アビルダンが進むべき道を享受するという教えだ。女神は艶のある黒髪の美しい女性として描かれている。
そこまで説明したとき、ロッソは唐突に手をたたいた。ぱっと顔が明るくなる。そして、タオを見て微笑んだ。
「さっきからずっと感じていたことがわかったよ。君はそのアビルダンにすごくよく似てるんだ」
彼は思ったことを何でも口に出してしまう性分らしい。すると、ニゼルがくすくすと笑い出した。さっきまでの突き刺さりそうな敵意は、今の一言で消えてしまった。
「はっ、このタオが? こいつ、おとなしそうに見えて実はかなりおてんばなんだぜ」
「ちょっと! ニゼル!」
「そうかな。彼女そんな風に見えないけど」
みるみる顔が赤くなっていく彼女を無視して、ニゼルは腕まくりをした。ロッソは、彼の二の腕に大きな古傷があるのを見せられた。
「これ見てよ! 昔おれが暮らしてた家の近くに大きな樹があってさ。本当に大きな樹で、太さがこんなにあるやつ」
ニゼルは両手を思いっきり広げた。
「おれはその樹に登るのが好きだったんだ。で、ある日、タオが自分も登りたいって言いだした。無理だからやめとけって忠告したんだけど、聞かなくってさ。仕方ないからおれが先に登って、ひっぱってあげようとしたんだけど、途中でタオが足を踏み外して……。落ちる途中で尖った枝にやられたんだ、この傷」
多分一生残るだろうなあと、彼は横目で彼女をちらりと見た。ロッソも笑い出した。彼女のおかげで、まわりの空気がふわりと軽くなった。
「ちょっと、ロッソさん!」
いきなり部屋に誰かの声が響いた。入り口に小さな影が立っている。二人はさっと緊張して身構えた。ロッソはこの声の正体を知っていたが。
「ああ、二人とも心配しなくて良いよ。あの子は僕の友達だから」
かつん、かつん、と硬い音がだんだん近づいてくる。夕日に照らしだされた少年は、どこか人形のように見えた。硝子玉のように光る目が、じろりとロッソを捕らえた。
「どういうことですか」
「ニゼル君と、タオちゃん。さっき友達になったんだ。こっちは、僕のパートナーでのコハクだよ」
「ロッソさん、ぼくもいいかげん怒りますよ。あなただって、ぼくたちの置かれている状況を理解していないわけじゃないでしょう」
コハクと呼ばれた少年はロッソに食って掛かったが、彼は慣れっこといった様子で少年の頭をなでた。
「そんなに怒らないで聞いてよ。ニゼル君は、僕らの仲間なんだ」
どういうことですか、とコハクが眉をひそめる。
「ワコードなんだよ、彼も」
ロッソは嬉しそうに少年に伝えた。ワコードという言葉が冷たく響いた。コハクは驚いた様子でニゼルを見つめる。当のニゼルは自分の置かれた状況が飲み込めず、黙っていた。
「ね、驚いた? やっぱり、D地区に来てよかったでしょ?」
ロッソの能天気な声だけが部屋に漂う。ニゼルとコハクはお互いに睨み合っていた。二人はしばらくそうしていたが、やがて、コハクのほうが先に目をそらした。
「今日はもう遅いので、二人とも家に帰ったほうがいいでしょう」
冷たい目で彼は言った。ニゼルとタオは、自分たちよりも明らかに幼いこの少年に強い威圧感を覚えた。確かに、窓の外はもう暗くなっている。ニゼルには待っている人が居ないが、タオは違う。いささか不本意だったが、二人は少年に従うことにした。
ニゼルは部屋を出る直前、後ろを振り返った。赤く照らされた部屋の中に、二人の影が長く伸びている。少し不気味だった。
< 3 漆黒と決断>
――……今日はジョイネシアの建国の歴史について大まかにですが触れたいと思います。皆さんは「ゲーテ」という鉱石を見たことがありますか。名前は知っていても、実際に実物を見たことがある人は少ないかもしれませんね。(画面には、青い綺麗な石が映し出された)ゲーテは大変貴重な鉱石です。A地区の限られた場所でしか発掘されません。
わが国は遠い昔、東部列強諸国の植民地でした。理由はこの鉱石、ゲーテにあります。東部諸国はみな、この青い石を求めて五つの島を欲しがったのです。現在でも、このゲーテはジョイネシアに豊かな富を与えてくれます。しかし、わが国の歴史を知っている人の中には、ゲーテがなければ植民地にならずにすんだし、今の国内鎖国にもならずにすんだと考える人も少なくありません。
さて、ジョイネシアの植民地時代についてもう少し詳しくお話しましょう。ゲーテはA地区でしか発掘されませんが、当時の東部諸国はそれを知りませんでしたので五つの島すべてを自国の領土にしたがりました。何回かの争いの結果、五つの島はそれぞれ別の国によって長いあいだ支配されることになりました。
ジョイネシアには五つの島があり、ひとつの国として存在しています。しかし、宗教や人種的な外見など、かなりの差がありますね。みなさんも、一度は不思議に思ったことがあるでしょう。これには、先ほどお話した東部の植民地時代のことが深くかかわっています。五つの島は東部からの支配を受けましたが、それは全て別の国でした。そして、長い年月のうちに人々は交じり合い、また、それぞれの文化を形成してきたのです。島によって様々な特徴や差があるのはこのためです。
五つの島は、およそ百年前に独立を達成し、連合国「ジョイネシア」として生まれ変わりました。国中を行き来できるように、政府は島と島に巨大な橋を架けました。しかし、長い間のうちに積み重ねてきてしまった考え方の違いから、内乱が多発します。はじめは、子どもの言い争い程度でしたが、それはあっという間に戦争レベルにまで発展してしまいました。
A地区の中央政府は、この状況に終止符を打ちました。つまり、地区をつなぐ橋を閉鎖したのです。そして、徹底的に他地区への行き来を制限しました。全ては、争いを無くすためです。しかし、みなさんにもわかるように、それは一時的な政策に他なりませんね。地区同士の交流がなければ、余計に格差が酷くなってしまいます。
現在、少しずつですが本当の意味での「ジョイネシア統一」に向けて政府は計画を進めています。皆さんがこのサテライト放送を見ているのも、その計画のうちのひとつです。以前は他の地区の情報を収集することすら禁止されていましたからね。今はまだ、他地区への行き来を禁止していますが、近々、それもなくなるでしょう……――
放送を終えた画面は暗くなり、ニゼルはスイッチをオフにした。サテライトに通う生徒なら、自主的に今までのバックナンバー放送を見ることが許されている。ここ数日、彼は自分の身に起こったワコードとかいう不思議な能力のことで精一杯だった。だから、サテライトにもほとんど来ていなかったのだ。それでも別に構わないと思っていたのだが、真面目なタオがどうしてもというので、今日は渋々画面の前に座っている。
こんこん、とドアをたたく音がした。ここは個室になっており、各生徒が集中して学習できるようになっているのだ。
「終わった?」
「終わった。疲れた。なあ、もう今日はこれで勘弁してくれよ」
「えー、まだニゼルが来なかったときのやつがたくさんあるのに」
タオは残念そうにつぶやいた。見ると、彼女は両手にいくつかの箱を抱えていた。「東部列強諸国について」「碧い奇跡ゲーテ」「各地区の特徴シリーズ」「月世界計画」「AI・人工知能について」……放送はすべて円盤型の記録ディスクに収められている。このサテライト放送による教育が始まってまだ数年。ようやくニゼルもこの教育システムに慣れてきた頃だ。
A地区には近代的で空にそびえ立つ建物が溢れかえっているらしいが、ここD地区にはそんなものは存在しない。サテライト導入のために造られたこの建物も、そういった意味では明らかに浮いていた。
「じゃあ、これだけ見てみようよ」
タオが差し出したのは「ジョイネシアの宗教――アビルダン教」という放送だった。有無を言わせず用意を始める。彼女はこのサテライトが始まってから、どんどん知識を吸収している。もともと好奇心の強い子だったし、こういうことが楽しいのだろう。数年前まで、政府は他の地区への行き来はもちろんだったが、その情報を収集することさえ禁止していた。自分の地区以外のことを知れるようになったのは、本当に最近のことなのだ。教師でさえ、他の地区の情報を知ることが出来なかった。教師の存在しないサテライトが始まったのもそのような理由からである。教師たちも今、必死で生徒と同じように情報を吸収している最中なのだ。
しかし、とニゼルは考える。当たり前のことだが他の地区の情報が自由に手に入るといっても、それは単調な映像での話だ。実際に自分目で見たり、触ったり、感じたりはできない。政府は橋の閉鎖の解除も近いと言っているらしいが、具体的なことはまだ何もわからないのだ。このままずっと自分はこのD地区で暮らすのだろうか。楽園があるのは事実なのに、自分にとってはそれが真実でないなんて。
「アビルダン教……どっかで聞いたことがあるなあ」
「C地区の宗教だよ。ロッソさんが言ってたでしょ。探したら偶然見つかったの」
早々と用意を終えたタオはニゼルのとなりに腰掛けた。偶然に、というのはきっと嘘だろう。昨日、彼女はロッソにそのアビルダンに似ているとか言われていた。だからその女神のことが気になるのだ。
放送が始まると、部屋の明かりは自動的に暗くなった。放送中、筆記をしたい者のために明かりをつけることも可能だが。ニゼルはあまり興味がなかったので、そのままにしておいた。いつもと変わらない単調な女性の声が小さな部屋に響く。
放送自体はさして見る気のなかったニゼルにとってはつまらないものだったが、ひとつだけ目に留まった箇所があった。女神アビルダンの姿だ。褐色の肌に、色素の薄い髪と碧眼が多いC地区において、彼女は異彩を放っていた。もはや伝説のように語り継がれているだけで、彼女を実際に写した映像や記録などはもちろん存在しない。絵画などでしか彼女を目で捉えることができないのだ。
アビルダンは美しい女性として描かれていた。中でも、綺麗な海辺を背景にして佇んでいる絵がニゼルの心には残った。彼女は裸足で、ロッソの着ていたような変わった服を着ていた。長く伸ばした黒い髪が、流れるように風になびいている。ほんのり赤く染まった頬に、漆黒の髪がさらさらとかかっている。色白の肌と、海の青の対比が綺麗だった。彼女は優しい目でこちら見ていた。黒い目。確かに、となりで熱心に画面を見つめている少女に似ているかもしれない。
「アビルダンさんを見ることができて満足?」
放送が終わり、再び部屋には光が戻ってきた。ニゼルが意地悪く尋ねると、タオは恥ずかしそうに笑った。
「やっぱり気づかれてた? 実を言うと、昨日、ロッソさんに似てるって言われてからちょっと気になってたんだ」
「うん、わかってた。でも本当、どの絵にもすごく綺麗な人として描かれてたね」
タオは照れくさそうに後片付けをしていたが、ふとその手を止めた。
「でも、私よりもお姉ちゃんに似てると思うなあ」
「ヨキ姉に? まあ、言われれば似てるかも。姉妹だしな」
「うん。お姉ちゃん、綺麗な人だったし。ほら、放送に出てきた絵があったでしょ。海辺に立っているアビルダンの。あの絵見たとき、ああ、お姉ちゃんみたいだなって思ったの。お姉ちゃん、銀河浜が好きだったからよく一人で散歩してたし」
タオは遠い目をして話した。銀河浜というのは、D地区二十一番街にある広い海辺のことだ。ニゼルも何回も行ったことがある。水は澄んでいて、ゲーテにだって負けない美しさだ。
「……あのさ、昨日のことだけど」
タオが次の放送を流す前に、ニゼルは言い出した。実は、今日の朝からずっと言いそびれていた。もちろん、彼女だって気になっているはずのことだ。
「ロッソとコハクっていったいなんだと思う?」
「やっぱり、気になってたんだね。会いに行きたいんでしょ」
ニゼルは黙ってうなずいた。昨日の彼らの話がずっと気になっていたのだ。自分が突然身に着けたこの力は、彼らの間ではワコードと呼ぶらしい。それに、もしかすると、死んだヨキについても何かわかるかもしれないのだ。
* * *
ロッソは屋上に即席のベッドを作っていた。下の階から使えそうな家具をわざわざ上まで運んできたのだ。それを器用に組み立てる。最後にできるだけふかふかしたシーツを敷いてできあがり。日陰では相棒の少年があきれた目でこちらを見ていたが、いつものことなので彼は気にしなかった。
「うん、少し居心地は悪そうだけど、いい感じ。もうすこし建物が高ければ見晴らしもいいんだけど、D地区だから仕方がないね。僕、今日はここで寝ようかな。ああ、もうひとつコハクの分を作ってあげようか?」
結構です、と間髪を入れずに返ってきた。冗談なのに。コハクは自分よりもずっと幼いが、こんな子ども染みたことはしないのだ。ロッソは出来上がったばかりのベッドに寝転がった。
「これでサンクチュアリが聞ければ最高なのになあ。確か、今は月世界計画特集をやってるんだ」
彼は手のひらに乗るくらい小型のラジオを残念そうに見つめた。サンクチュアリとはA地区で発信されているラジオ番組のことだ。主に歌を、たまにニュースや特集などを流している。確か、今はどこかの有名な博士が近年建設予定の月基地について講義するらしい。その記念式典も近々A地区で行われると聞いた。
休日、サンクチュアリを聞きながらゆっくり過ごすのがロッソは好きだった。もしかして、と思ってここにくるとき持ってきたのだがやはりD地区までは無理らしい。
「そういえば、ぼくたち、もう少しで帰らないとですよ。昨日の夜、本部と連絡をとりました」
彼は本部との連絡役を買って出ている。彼のワコードは強力なテレパシーのようなもので、遠く離れたA地区の本部との通信も可能なのだ。
「うん、そうだね。でも……」
「ああ、昨日の子供のことですか」
お前もまだ十分子供だろう、という言葉を飲み込んでロッソは頷いた。昨日、ニゼルという赤毛の少年と、女神アビルダンに似た少女タオがここを尋ねてきた。そして、偶然ロッソたちと出会ったのだ。いや、あれは女神アビルダンが用意した運命だったのかもしれない。実は、ここに来る前にロッソは女神の夢を見たのだ。
「彼はワコードだよ。僕が見たんだから間違いない」
「それで、ロッソさんは彼をどうしたいんですか」
その時、不意に屋上の扉が開いた。ぎぎぎ、と錆びた音が乾いた空気に散る。現れたのは昨日会った、例の少年だった。彼の影に隠れるようにしてタオも立っている。
「やあ、ちょうど君の話をしてたんだ。昨日はあまり時間がなくてゆっくり話せなかったからね」
ロッソは大げさに腕を広げて歓迎の姿勢をとった。辺りは静かで、時々風が吹き抜けて木の葉を揺らしていくくらいだ。
* * *
「ニゼル君、突然だけどA地区に行きたくないかい?」
ロッソの声は低く響き渡った。
「ど、どういうことですか」
「気が付いてるかもしれないけど、僕たちはA地区から来たんだ。ワコードの集まる特殊な組織があってね、僕らはそこの人間なのさ」
「組織」
「そう、漆黒って呼ばれてるんだ。君もワコードなら漆黒に来る権利があるのさ。ねえ、僕たちと一緒に行こうよ」
「漆黒……」
タオが自分の背中をつつく。漆黒、というのもヨキが漏らした謎の言葉だった。ワコードに漆黒、それにA地区。これらはきっとヨキに通じているに違いない。ニゼルもタオも心臓が早くなった。
いきなりのことなのでニゼルは戸惑ったが、しかし、A地区へ行けるというのは大きな魅力だった。今まで強く憧れながらも、決して叶わなかった望み。それが今、手を伸ばせば届きそうなところまで来ているのだ。なぜ迷う必要がある。
「僕たち、そろそろA地区に帰らないとなんだ。だから、早めに決めてほしいんだけど」
「いきなり言われても」
ニゼルはとなりで立ちすくむタオを見た。もし、彼の話が本当だとして、自分が彼らの仲間になるのなら。
「あの……私は駄目ですよね」
ほんの少し希望が見え隠れする目でタオは問い掛けた。
「うん、残念だけど。ワコードでないと原則的にはメンバーになれないんだ。ごめんね」
ロッソは本当に残念そうだった。でも、これは決められたことで、ロッソのような組織の末端構成員にはどうすることもできないらしい。彼は場違いな即席ベッドに腰掛けて、ニゼルたちを自分の隣に招待した。
「A地区で暮らしてる人って何考えるのかわかんないな」
ニゼルがタオに耳打ちすると、後ろから「変なのは彼だけです」と抗議の声が飛んできた。
「じゃあ、漆黒について説明するよ」
「ちょっと待ってください。ロッソさん、部外者への情報提供は禁止事項ですよ」
コハクはタオをじろりと一瞥した。ニゼルはいいが、彼女は駄目だというのだ。
「コハクは少し真面目すぎるよ。連絡係の君が黙っていれば済むことだろ。それに、タオちゃんに伏せたところで、どうせニゼル君が教えちゃうと思うよ」
ロッソはいたずらっぽく少年に笑いかけた。
漆黒――全てを塗り潰す色。最強の色の名前を掲げたこの秘密組織は、ワコードによって構成されている。ワコードとは、様々な特殊能力を持った者のことだ。ワコードたちは、その能力を提供し協力することでA地区での恵まれた生活が保障される。彼らはA地区に限らず、ジョイネシア中から集められている。
さて、漆黒の一番の目的は、ワコードを使った資金集めである。漆黒の活動範囲は自国に限らず他国にまで及ぶ。むしろ、政府上層部は秘密裏にだが、彼らを他国に対しての新しい資金源として考えている。というのは、今までジョイネシアを潤してきた鉱石ゲーテの発掘量が近年減少してきているからである。
「――じゃあ、ワコードはお金儲けのために利用されてるの?」
「そういうことになるかなあ。僕たちは下っぱだから上の命令に従っているだけだけど、結構良い暮らしをさせてもらえるよ。僕は満足。休みは少ないけどね。今みたいに、他の地区へ行くことができるくらい長い休みは年に一度あるかないかくらい。だから……」
ロッソはその続きを言わなかったが、ニゼルは理解できた。つまり、D地区には当分帰って来られなくなるのだ。
「私、今まで全然知らなかった。そんな組織があること」
タオがつぶやくと、少し離れた日陰からコハクが口を挟んだ。(彼は日陰で強い日ざしを避けているのだ)
「それはそうですよ。漆黒は秘密組織なんですから。この存在を知っているのは、漆黒を組織しているメンバーとワコード、それに政府の上層部くらいです」
自分たちは今、大変なことに手を出しているのだ。タオは息をのみこんだ。
「ねえ、それでどうする?僕たちと一緒に来る気になった?」
ニゼルはすぐに答えることができなかった。A 地区へは本当に行きたい。子供の頃からずっと憧れていたのだ。この機会を逃したら、次はいつになるかわからない。政府が言う橋の閉鎖解除も何年先のことか。
「タオ、おれ、やっぱりA地区に行ってみたい」
ニゼルはタオの目をしっかり見据えた。このまま彼らと別れたら、きっと後悔する。幼なじみはやはり予想していたようで、あまり驚いた様子も見せなかった。彼女と長い間離れることになるのは残念だが、一生会えなくなるわけではないのだ。
「ねえ、じゃあ、A地区へ行く前の日に四人で銀河浜へ行こうよ」
「銀河浜? それって僕たちも行けるの?」
「D地区は海が綺麗なんですよ。今はサテライトの夏季休暇なので、普通、銀河浜は混むんですけど、私いい場所を知っているんです」
彼女に逆らうものは居なかった。
ロッソたちがA地区へ帰るのは七日後だと言う。
< 4 銀河浜にて>
A ニゼルの憧れ
ニゼルの七日はあっという間に過ぎていった。今まであまり好きではなかったD地区の色あせた町並みや、D地区には少し場違いなサテライトなどが、どれも不思議と愛おしくさえ感じられた。
漆黒へ入れば、服から部屋から普段使う細々したものまで何でも揃えてくれるという。ニゼルが持っていかなくてはならないものなんて特にないのだった。彼は自分の狭い部屋をあっという間に片付けてしまった。生まれてから十数年、この町にずっと居たのだ。どこへ行ったってこの場所を忘れることなんて出来ないだろう。
写真を持っていくかどうか迷ったが結局やめた。写真はニゼルの瀬間い部屋にはなく、全てタオの家に保管されている。わざわざ、彼女に頼むのも何だか恥ずかしい。物として残さなくても、本当に大切なものは心の中に留めておけばそれで充分なのだ。
銀河浜はD地区二十一番街に位置している。サテライトやプライマリーは、数日前から夏期休暇に入った。そのせいだろうが、銀河浜辺にも遊びにきた人々が沢山いた。
「ねえ、銀河浜に来たのはいいけど、やっぱり僕たちって目立つんじゃない?」
ロッソはあたりをきょろきょろ見回した。C地区の人間がこんなところに居るなんて、普通ならありえないことなのだ。コハクはなんとかD地区住民に見えないこともないが、褐色の肌をした青年はやはりここでは酷く目立ってしまう。
「大丈夫、みんなこっちに来て」
タオは自信ありげに三人を案内した。銀河浜は白い砂地がずっと向こうまで続いている広い浜辺だ。しばらく歩いていくと、町からも浜辺からも岩場に隠れて見えない入り江に出た。遠くのほうで人の声が響いているが、この近くには誰もいないようだ。小さなかくれがのようなところだった。
「わあ、綺麗なところだね」
「でしょ。私のお気に入りなの。ここまで来る人はめったに居ないから安心してください」
ロッソは感嘆の声を上げた。彼はいつも素直だ。D地区は透き通る海が有名なのだ。コハクも声には出さないものの、硝子玉のような目を見開いて静かに感動しているようだった。ニゼルが見た限り、コハクはロッソに比べて冷静で生真面目だった。そんな冷めた彼の心を動かすものなど何もないように見えたので、この彼の様子は意外だった。
「ロッソさんって、何か変わってるよなあ」
「そうですね。ああいう人は珍しいです」
ニゼルは、コハクのとなりに座り込んだ。岩場の陰は涼しい。少し汗ばんだ首筋にさわやかな風があたって気持ちよかった。となりを見たが、コハクは汗などかいていないようだった。驚くほど白い肌は、陰の中で青くさえ見えた。
「本当にぼくたちと一緒にA地区へ行くんですか」
「うん。おれ、昔からずっと憧れてたんだ。知ってるか、D地区の子どもの間ではA地区のこと楽園って言うんだぜ」
ニゼルは遠く、海の向こうを見つめた。エメラルドのようなこの海をどれだけ進んだら、楽園があるのだろう。コハクはもう一度、本当に行くのかとニゼルに尋ねた。海の色を写し取ったような二つの目がニゼルを見つめる。しかし、もう何を言われても気持ちは変わらなかった。
B コハクの憂鬱
ニゼルの真剣な目を見て、コハクはこれ以上彼に尋ねるのを断念した。何を言っても、彼は一緒について来るだろう。楽園。D地区の子供の間ではA地区のことをそう呼ぶらしい。確かに、漆黒メンバーになってのA地区での暮らしは、最高基準を約束される。そういった意味では、あそこは楽園と呼ぶにふさわしい。
「じゃあ、出発は明日ですね」
「ああ、これからよろしく頼むよ」
赤毛の少年はすっと手を差し伸べた。コハクは少し戸惑ったが、結局は彼と握手した。コハクは、あまり他人との触れ合いを好まない。けれど、ニゼルの動作があまりに自然だったから、つい手を出してしまったのだ。
「なあ、A地区にはどうやっていくんだ。あの橋を渡っていくのか」
地区と地区を移動するには、橋しか考えられない。しかし、政府は現在も橋を閉鎖しているので、普通ならどこへも行けないのだ。
「ええ、橋を渡ります。漆黒は政府の上層部とつながりがあるので、それも可能なんですよ。通行証の発行は履歴が残ってしまうので、駄目なんですけど、他の地区へ行ってしまったら使う機会なんてないですから」
「歩いていくのか」
「まさか。出来ないこともないですけど、普通はしませんよ。ぼくたちは、A地区で車を一台借りてここまで渡って来たんです」
その後も、二人はぽつりぽつりと話をした。話してみるとニゼルという人間は、気さくでコハクが安心できそうな性格だとわかった。正式に漆黒の一員になったら、おそらく自分たちと同じ班になるのだ。そういった意味で、彼の人間性はかなり重要である。
だけど、とコハクは考える。心の片隅に、真っ黒い染みが広がっていく。彼は近いうちに、群青を手に入れ、インディゴにも出会うだろう。自分たちと一緒に漆黒にくるなら、それは避けられないことだ。そうなってしまったら、自分は何もできない。ソレントの意志には絶対に逆らえないのだ。コハクは、無邪気に期待している彼のこれからを予想し、自分の無力さにため息をついた。せめて、自分が今できることはいったい何だろう。コハクは人形のようにじっと思案していた。
C ロッソと幻
少女は素早く靴を脱ぐと、波打ち際に走っていった。ばしゃばしゃと波が光る。ロッソも裸足になり彼女を追い掛けた。頭にかぶっていた赤い布を途中で空に放り投げた。
「ねえ、きみ、変わった格好をしてるね」
突然、背後から声がした。気さくそうな女性の声。ロッソは驚いて振り返った。赤い布がひらりと舞うその向こう側に、若い女性が立っていた。光に包まれた彼女は、微笑を浮かべていた。薄い白のワンピースが光を反射して眩しい。
「アビルダン」
ロッソは立ちすくんだまま呟いた。
「ロッソさん、これ見てくださいよ」
タオに呼ばれて気を逸らした一瞬、そこにはもう誰も居なかった。波の打ち付ける音が静かに響くばかりだ。タオは不思議そうな顔で彼を覗き込んだ。
「どうかしました?」
「ううん、なんでもないよ。それより、何持ってるの?」
「さっき拾ったんです。すっごい綺麗な貝殻!」
少女はまだ水のついた貝殻を手に乗せた。白い貝殻は欠けているところもなく完璧なフォルムを保っていた。
「ロッソさんにあげます」
「本当に?わあ、ありがとう。僕、こんなに綺麗な貝殻なんて見たことないよ」
ロッソは目を輝かせた。A地区にあるのは人工の浜辺で、こういった貝殻などはないのだ。もちろん、天然の浜辺もあるのだが、あまり美しいとは言い難く、観光地化されていない。
「A地区には何でもあるんでしょう。サテライトで見ました。私があげられるものなんて何もないんです」
「いや、A地区にないものだってたくさんあるよ」
ロッソは、貝殻をくれた彼女の真意を考えてみた。彼女にとって、自分達の行為はおそらく歓迎されるものではないだろう。
「なんかさあ、僕たち、ニゼル君を奪うみたいでごめんね」
タオは少し寂しそうに笑った。足元で透き通る水面をじっと見つめる。
「ニゼルは私の幼なじみなんです。ニゼルの両親は、彼がまだ小さいうちに亡くなってしまって、彼の遠い親戚が面倒を見ることになったんですけど、あんまり上手くいかなかったみたいで。結局は親同士仲の良かった私の家が彼を引き取ったようなものです」
「へえ、そうは見えないけど、彼も結構つらい過去を背負ってたんだね」
ロッソは後ろを振り返った。ニゼルは岩場でコハクと何やら話している。時折、笑っている様子をみると、そんな過去があったなんて想像できない。ロッソは彼を気に入っていた。漆黒のルールでは、他の地区でまだ漆黒に入っていないワコードを見つけた場合、とりあえず本部に連れて行くべきだとされている。しかし、もし、ニゼルがロッソと馬が合わない少年だったら、彼は本部に連れて行こうとはしなかっただろうし、コハクには連絡さえさせなかっただろう。コハクは漆黒に対して、あきれるほど忠実だが、ロッソはそうではなかった。出来る限りは自由に生きていたいのだ。
「うん。あの頃はニゼル、すごくぎらぎらした目をしてた。そのくせ、物陰に隠れてしくしく泣くんだもん。何ていうか……」
「かわいそうだと思った?」
「うーん、そういうのとはちょっと違うかも。最初は、好奇心と嫉妬から彼に近づいたんです。なんか、変な男の子がお母さんを奪いに来た、って。それで、私が近づくと、彼はすごく嫌な顔をしました。多分、ニゼルも私のことが気に入らなかったんだろうと思います。それで、私たちは毎日けんかしました。はっきりした理由なんかなくて、その頃は顔を合わせるとけんかが始まる感じでしたね」
ロッソは彼女の話を静かに興味深く聞いていた。彼には、そういう友達がいない。幼い頃の記憶はもうあまり鮮明に覚えていない。うっすらと靄がかかったように遠くにある。物心がついたころには既にワコードとして漆黒に居た。赤毛の少年の話をするタオは、どことなく楽しそうだった。この前、ニゼルが腕の古傷について話してくれたが、そのときの様子と似ている。彼女らはお互いを大切に考えているのだと思うと、ロッソはうらやましかった。
「そのうちに、ニゼルがあまり泣かなくなって、あの嫌な目をしなくなったんです。理由はよくわからないけど。物心がついて両親の死を受け入れられたのかもしれません。それから、私たちはずっと一緒に育ってきたんです。だから、はっきり言うと、私はニゼルに置いていかれるのはすごく悲しい」
「じゃあ、何で止めなかったの?」
ロッソは心に思ったことを素直に質問した。すると、彼女は大人びた様子で笑った。自分よりも年上なのにそんなこともわからないのですか、といった感じだ。
「止められるわけないじゃないですか。だって、ニゼルが決めたことなんだもん。彼がA地区に憧れてたっていうのは本当だし、それが叶うチャンスなんて、次はいつくるかわかりませんもん。一生会えなくなるわけじゃないので、帰ってきたらA地区はどんなだったか、沢山聞かせてもらおうと思ってますけど」
D タオの決意
銀河浜での時間は穏やかに過ぎていった。コハク以外は服が濡れるのも気にしないで走り回って遊んだ。汗で濡れたのか、それとも海水か、どちらかわからないくらい三人はびしょぬれだった。特に、海を珍しがったロッソは小さな子供のように喜んだ。タオはロッソにならニゼルを任せられると安心した。だって、子供のような心を持った人だもの。
やがて、太陽がだんだん水平線に近づいてきた。海は光を反射して、魚の鱗のように見える。ロッソは彼の相棒のところに休みに行った。残された二人は、どちらからともなく波打ち際に腰をおろした。規則正しく押し寄せてくる波、波、波。
「ニゼル覚えてる?」
「何を」
「お姉ちゃんの葬儀」
「ああ、確か雨が降ってた」
「うん。その時、ニゼルが私に言ったことは?」
タオの脳裏に雨に濡れた芝生がよみがえった。
空はいつ雨が降ってもおかしくない灰色だった。タオは、彼女の死を悼む人々の群れを遠巻きに眺めていた。こうべを垂れる漆黒の群れ。ヨキは一年前、ふらっと消えた。最後に彼女と会ったのはいつだっただろう。タオははっきりと思い出せなかった。伏し目がちの優しい瞳。
「何でお姉ちゃんは死んじゃったんだろう」
タオは誰に言うでもなく疑問を口にした。隣に立っていたニゼルは、何か言おうと口を開けたが結局ふさわしい言葉を見つけられなかったので黙っていた。彼女はA地区で発見された。通行証は持っておらず、橋を渡った記録もない。本来なら当然罪を問われるところだが、容疑者はすでに死体となっていたのだ。政府は彼女をD地区へ搬送してくれた。せめて故郷の土で眠れるように。
タオもついさっき、ヨキに最後の別れを告げてきた。死化粧を施された顔は、まるで静かに眠っているようにしか見えなかった。息をひそめているだけで、突然「驚いた?」とか言って起き上がるのではないか。そんなこと、あるわけないのに。まだ子供でもそれくらいは理解できる。タオも、だから静かに涙をながした。ぽたり、ぽたり。悲しみをたっぷり含んだ涙は、次から次へと地面へ落下していく。ついに、雨が降ってきた。雨が降り注ぐ音があたりを包み込む。雨の音は他の雑音をかき消した。
赤毛の少年はタオにささやいた。
波打ち際で、ニゼルは三年前に自分が言った言葉を恥ずかしそうにもう一度口にした。
「――おれ、死ぬまでタオと一緒に居るから」
タオがそれに「絶対に忘れない」と続けた。二人ともしっかり覚えていた。というより、忘れることなんてできなかったのだ。
「でも、ごめん。おれ、いきなりA地区に行くとか言い出して」
これは彼の本心だとタオは確信した。少し捻くれていて、昔はA地区の存在すら疑っていたニゼル。そのくせ、数年前の約束はしっかり覚えている。やっぱり、自分は彼のことが好きなのだ。
「ううん、いいよ、気にしなくて。帰ってきたらたっぷり話聞かせてね。ただ……」
「どうかした?」
「お姉ちゃんは帰ってこなかったってこと」
ヨキはきっとA地区へ行ったのだ。しかも、ニゼルと同じ理由で。そして、漆黒に行ったヨキはそれっきり。最後は死体となって帰ってきた。ヨキに何があったのかはわからない。けれど、ニゼルが同じ運命を辿ってしまうかもと考えると、タオは苦しい。
「あのね、ニゼル。ロッソさんや、コハクくんはきっと大丈夫。私、そういうことは結構勘が良いんだ。ニゼルの味方をしてくれると思う。でも、A地区には気をつけて欲しいの。漆黒って普通じゃない秘密組織なんでしょ。何があるのかわからないじゃない」
「そんな心配しなくても大丈夫。むしろ、漆黒に行ったらヨキ姉についても調べてくるよ。何かわかるかも」
「それは嬉しいけど、慎重にこしたことはないわ。お姉ちゃんは漆黒と何か関係があったと思う。だから気をつけて欲しいって言ってるの。しかしたら、お姉ちゃんの死には漆黒がかかわっているかもしれないもの」
「考えすぎだと思うけどなあ」
ニゼルは笑ったが、それでもタオは心配だった。
「大丈夫。おれ、絶対帰ってくるからさ。約束するよ」
「うん。待ってる」
タオは泣くのをこらえた。ニゼルは彼女をただじっと見つめていた。おそらく彼は、今日のことを忘れないだろう。絶対に。彼らの頭上には一番星が光っていた。
「青春だねー」
ロッソは遠巻きに二人を見ながら言った。黄昏の薄光が二人の影を縁取っている。
「僕、また四人でここに来たいなあ」
「そうですね……。ぼくも本当にそう思います」
< 5 A地区へ>
橋の入り口には関所が存在している。不正に橋を渡ろうとする者を厳しく取り締まるためだ。必要以上に大きな建物は、それだけで圧迫感を与えている。その日の早朝、彼らはこの橋を渡ろうとしていた。朝日を受けて、橋の白は薄い橙色に染まっている。
ニゼルは橋の内部に立っていた。案外あっけない。関所には数人の男たちが居たが、すでに政府からニゼルたちの橋の利用許可がでていたらしい。だから、何の問題もなく彼らは進むことが出来たのだ。
「これで行くの?」
それは、ラインと呼ばれる乗り物だった。四輪の小型自動車である。青いボディと丸みを帯びたフォルム。D地区では滅多に見ることができないが、A地区ではありふれているものだ。A地区では、主に自家用として使われている。
ニゼルは感心しながら未知の物体に触れた。ガラス張りの前面からはラインの内部が見える。前に二席、後ろに二席。青いボディに合わせたグレーのシートだ。
「実はかなりの旧式なんだけどね。これは自分で運転しなきゃいけないし。今のラインは大抵どれも自動運転装置がついてるのさ。目的地を入力すればあとは眠っていてもいい。さあ、乗って」
ロッソが持っていた鍵をラインの側面に差し込むと、ドアがすばやく開いた。独特のにおいがする。ニゼルは少し緊張しながら、後部座席についた。
「コハクが来るまで少し待ってね」
「そういえば、どうしたんですか」
「ラインで待っててって言ってたよ。詳しく聞かなかったけど、多分、本部と連絡をとっているのさ。連絡は彼の仕事だからね」
「仕事?」
「ん、ニゼル君に言ってなかったっけ。コハクはテレパシーを使うことができるワコードなんだよ。それも、かなり遠距離でね。だから、彼は本部との連絡役なのさ。普通の通信機器だと、どこかに電波をキャッチされちゃう可能性があるらしいよ」
へえ、とニゼルは声を出した。ここから遠く離れたA地区と連絡が取れるなんてすごい。と同時にニゼルは不安になった。自分はワコードとしてはまだまだ未熟なのだ。何せ、能力が出たのはついこないだのことなのだから。どんなことが出来るのか自分でもまだわからないところが多すぎる。
「その点は心配しなくて良いよ。向こうに着いたらいくらでも練習すればいい。それに、いいものがあるんだ」
ロッソは胸元から小さな小瓶を取り出した。その中には青い錠剤が入っていた。彼はふたを外すと、手のひらに何粒か落とした。
「何ですか、それ」
「僕たちの秘密兵器。漆黒の科学班が研究して作ったんだ。それを飲むと、ワコードの能力がぐんと上がるんだよ。効果は一時的に過ぎないけどね。コハクもまだ来ないみたいだし、ちょっと試してみようか」
ロッソはニゼルにそれを飲ませた。
つづきます。
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2006/11/22(Wed)23:23:08 公開 / ネオンテトラ
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■作者からのメッセージ
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