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『瑠国春秋』 ... ジャンル:時代・歴史 未分類
作者:タカハシジュン
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一
バルセイ帝(※1) の御世というから、未だ瑠国(※2) は平穏であり于氏(※3) の治世は磐石であると思われていた頃である。剣戟の響き、弓矢の嘶き、馬蹄の轟きは、突発的にその辺境に兆すことはあっても瑠国の全土を脅かすことを知らず、人々は市井の者も貴族諸侯も概ね戦乱というものを話の中に伝え聞くだけで体験することなく、そうして幾世代かが経ていた時代であった。
その戦乱が、バルセイ帝の治世に於いて何の前触れもなく生じたわけではなかった。そもそも治乱、或いは興亡といった歴史の様々な移り変わりは、必ず因果があり、何らかの事象が他に影響を及ぼすことによって次の結果を引き起こすものだからである。故にその世に於いて生じたのは、この世の生き地獄とも言うべき紅蓮の光景には遠く到達せぬ、真白の絹布が古び色褪せゆく中に生まれた、ひとつの黒い染みとも、陰りともつかぬものであったかもしれない。だがそこから後につながる様々な連鎖が流れ落ちていったのだと、俯瞰して事態に臨むことのできる後の世からは解析することができる。無論、当事者たちにその鳥瞰図は存在しない。ただし人は、神ならぬ身でありながら、翼もたぬ哀れな身ながら、故に何の脈絡も根拠もない手段を用い、それでも現在と未来とを見つめようとする。
バルセイ帝即位後十有余年を経たある年、天候は不順で物生り悪しく、一方に洪水があれば他方に旱魃が、次いで地震が襲うという天災も続いた。帝自身の健康も思わしくなく、朝廷の重臣らは鳩首を突きつけ故実を引き、天文を窺い星の運行より潮流の盛衰を朴する星覧の儀を御前にて執り行うことを決した。
帝都たるパルシュナを出でて十数瑠里(※4) 常し風が奇岩の風景を彫塑する代わりに草木の萌ゆるを拒絶する荒野に、星宿と相対すべく巨大な台(うてな)が造営された。遠く北東パルフェイム山塊に台座の岩石を求め、鈍く影を宿すほどにその表面を磨き抜く。気の遠くなるほどに行列を連ね、ころの丸太を並べて運搬し、大勢の名もなき庶人が動員され、筋肉をきしませ歯を食いしばり石を積み上げた。台には所々に蛍石、水晶の類をちりばめ、祭壇へと至る石畳の階梯の傍らには、于氏を象徴する大蛇の紋様が事細かに刻まれた。それら作業のために動員された職工が、糖蜜に群がる蟻のように建設中の台にへばりついて物言わず手を動かし続けていた。
一年以上の歳月を費やし、一辺数百歩四方のひとつの台が築かれた。その神聖空間を護持するための結界として遠大に植樹が行われ、荒野に水壕を巡らせるために延々と水路が穿たれた。それらをもたらすために莫大な財貨が蕩尽され、急くに急いた短い工期のため労役に借り出された多くの者が動かなくなった。その死者達に連なる無数の家族縁者らは、不作ゆえに食うに困る上に働き手を失い、困窮し堕ちていった。
卜占により吉日が選ばれそれを儀の日とし、皇帝とそれに付き従う朝廷の百官は期日に合わせ、八色の幟を棚引かせ、綾の絹服綺羅の鎧に身を包み、美々しく装飾を調え、数多の兵士を連ねて帝都を出で、台まで行軍した。時は晩秋であった。楽隊の奏でる行軍の音曲は銅鑼を鳴らし角笛を響かせ、賑わい厚いものであったが、時折下る重々しい氷雨は音曲を喧騒なだけで空虚であるが如くに聞こえさせるのだった。
行軍に折々加わる集団があった。皇帝によって地方の領地に封ぜられている諸侯とその私軍であった。勢揃いというには不足していたが、各地の諸侯が皇帝と朝廷の儀式に従順に参加してくるというのは皇帝の勢威を物語るものであった。大諸侯の頂点たる選帝侯(※8) を初めとする大小さまざまの諸侯は皇帝の行列に連なり、共に台を目指した。
かくて期日、皇帝の近衛兵団と諸侯軍とが彼の地に兵馬を揃えた。よどむことなき澄み渡った秋天の蒼は、日が没するに至って突き刺すような星の煌きを散りばめる黒い帳となって広がった。百官も軍勢もまた浄闇に押しつぶされんばかりに包まれて己の姿を消し、ただ台の階梯へと延びる石畳の通路の左右に配された屈強の兵士の連なりばかりが、手に燃え盛る松明を携えて佇立し、微動だにせぬ強張った表情を炎で揺らめかせていた。
晩秋の寒気は、夜を得ていっそう冷え込みを増し、あたかも支配的にその神聖な領域を凍えさせ、圧迫し続けた。
台座は重苦しくその場にあり、ただ配された蛍石や水晶が微かな光を吸って危うく輝く。
純白の法衣に身を包んだ神官が台の前に躍り出、ぼんやりと松明の光の届くその場に於いて台座に額づき再三拝礼し、終えると立ち上がり、祭文を広げて天に向かい、彼ら瑠国の者でも解せぬ難解な古語を呪術のように読み上げた。星落つ暗夜にそれはか細く漂い、奇怪な抑揚、やはり奇怪な語韻が連なる。
神官が腕を大ぶりに動かした。白衣の袂が闇の中でぼんやりと過ぎった。どこからともなく等しい白装束に身を包み、白布で頭巾をした幾名かが松明を掲げて生じ、均衡の乱れない動きで松明を振った。闇の中で焔が円を描きながら右に左に動き、蛍のように宙を舞った。やがてそれらは巧みな演舞を闇の中に穿ちながら、左右一対となって一列に並び灯され続け、時折蝶が鱗粉を広げるように火の粉を零すその他は、その切っ先の僅かな揺らぎも示さず動きを止めていた。
やがて闇の内から単の紫衣に身を覆うひとつの姿が浮かび上がった。それはあまりに華奢な姿であった。闇より歩み出、此方に近づくに、火影が漸く相貌を照らした。茜の焔の照射を受けその色が入り混じり、その瞳の色、髪の色は定かならなかったが、見事に調和して波打つ長髪の有様、肉付きの薄い鼻梁、寒風ゆえか固く結ばれながらも下卑た様子が微塵も見受けられぬ口元の様子、どう見ても年端も行かぬ貴種の少女であった。紫の単は少女の肢体を覆い、その体躯の輪郭を傍目からわからぬように包んでいたが、それでも少女が小柄で華奢であることは見て取れる。襟元から裾まで下る衣の合わせ目は固く結ばれていながらも、不思議なことにその裾より下は少女の素足の脛がむき出しで、石畳の上の裸足の姿と共に痛々しいばかりに白く浮き上がっていた。
その姿を、皇帝はじっと凝視していた。
我が娘よ。やがてそう低くつぶやくと、据えられた玉座より出で立ち、台の階梯の足元にある少女のところに歩み寄る。青褪めた表情を、少女は皇帝に対して向けた。娘といい父といっても常の父娘の情愛や交流が結び渡される環境にはない。娘の母親は父帝の何十番目かの側妾で、帝族の胤を一人でも多く宿すために用いられた腹であり、皇帝もその肉体に刹那的な情動を感じたことはあっても、慣れ親しみ睦みあったわけではない。その娘もまた、皇帝にとっては血を同じくする肉塊という実感をもたらさぬほどに平素隔てられていた。それ故に儀式の生ける形代として数ある皇女の中より選ばれたのかもしれなかった。
少女は、我が身に訪れる生々しい行為に対する実感はなくとも、さすがにその知識は有していた。表情から血の気が引いているのは寒さのせいばかりではなかった。皇帝は、娘に語りかけた。おそらく少女が生まれてこの方、はじめて直接皇帝にかけられた優しい言葉であったに違いない。
「案ずるな」
皇帝が手を掲げると、盆に玉杯を載せ携えるひとりの従者が進み出た。瑪瑙色に鈍く輝くその玉杯の内には、その色彩と対を成さんばかりの琥珀の液体が満たされて、皇帝がその玉杯を取ると、微かな刺激臭が玉杯より生じ鼻腔に兆した。
皇帝は玉杯を少女の口元まで運んだ。固く結ばれた口元は容易に開かなかったが、皇帝が玉杯の縁をその唇に触れんばかりに寄せると、皓歯が僅かにのぞくほどにほころばせ、やがて啄ばむように琥珀の液体を口に移した。
液体は、濃い葡萄酒に麻沸散(※9)を混ぜたものであった。少女はひとくち、またひとくちそれを口に含んだ。
少女は、その場に立ち尽くしている。酒の火照りで青褪めた相貌に僅かに赤みが差す。
神官が身振りで軍鼓を促す。常闇の只中を思わせる深遠の中に、形容しがたい律動で軍鼓が重々しく響き渡る。揺らめく焔、響く鼓。微動だにせず石造を思わせる、息を潜めた人影。少女の肩を軽く抱く皇帝。次第に、瞳が焦点を結ばぬようになり、昂ぶりを張り詰めた表情の内側に宿し始める少女。
皇帝の傍らに額ずく従者が、恐懼の様を見せながらも皇女の相貌を覗い、やがてそこに、薄っすらとしてではあるがまぎれもない陶酔の弛緩を見て取ると、控えめに皇帝に目配せをし促した。皇帝はうなずくと軽く手を上げた。神官はそれに慌て、押しとどめるように軍鼓の響くを抑えさせる。
無音。松明より盛る炎の微かな声がするばかりである。
そこに微かな響きがあった。薄絹が穢れない雪原のような肌を滑り石畳に落ちる衣擦れの音だった。紫の単の下は一糸まとわぬあられもない姿で、寒気の只中にあって少女のか細い裸身が露となった。未だほころびを待たぬその相貌の有様に似つかわしく、豊かな曲線はその裸身にはまだ含まれてはいない。薄い乳房は可憐でもあるが悲痛でもあり、ふたつの細い脚は寒風に折れそうですらあった。
少女はその姿のまま、肯定に耳元でささやかれた言葉にうなずき、台の頂に至る石畳の階梯を、おぼつかぬ足取りで一歩一歩進んだ。儚げに伸びる後ろ背の肉付きの薄さ、少年のそれに等しいやはり薄い臀部が、浄闇の中で神韻を含んで見え隠れする。
少女が頂に達すると、皇帝が次いだ。やがてこの壮年の君主も頂に達すると、ひとつ、またひとつ、それを契機に灯火は炎を潜めんばかりに消され、星明りのみで完全な闇が兆すようになると、物音すら忌むよう人は気息を抑えた。
台の上の敷物に立ち尽くす皇女を、皇帝はゆっくりその腕に抱いた。冷気にさらされ肌身は怯むほどに冷え切って硬直していたが、その表情に苦痛も怯みもなく、蠢く皇帝の愛撫の手の動きを、結ばぬ焦点のままに感受し続ける。
天と交信し、天の声を聴く。そのために神聖な血と血の純血の交わりを結ぶ。それがこの儀式であった。星覧台の頂にあって瑞気を吸い、自らが瑞気と化した皇帝は、形代たるべき我が血を分けた娘とまぐわい、そこに神々の声を宿らせようとしたのである。
麻沸散が少女の内に充溢した。使命への嫌悪感、肉親という禁忌、交渉に対する生理的な拒絶、そういった人の歯止めとしての情感が、混濁と陶酔の中で壁の落ちるように崩れ、肌身は鈍くも鋭くもなり、訪れさえ覚えのなかった快楽が突如としてその扉を乱打する。純潔の少女はそれを嫌というほど吸い尽くした盛りの女の表情と等しくなって歓喜を受け入れ、やがて、父帝を引き入れることにより身を引き裂かれる苦痛と喜悦とが同居し天地が鳴動する混濁の渦中に自ら降り下った。
敷物の上に、痴態が描かれる。幼い口元から荒く息と言葉を結ばぬ千切れた言葉が漏れる。その有様を、頂の隅に潜んでいた人影が感情のこもらぬ瞳で凝視し続ける。
時を経て、皇帝は皇女の躰を離し、皇女は瞑目したまま意識を失った。人影はいくつか、急いで物陰から躍り出て皇女の元に駆け込むと、携えていた大布でその肢体を包むと共に、下敷きにあった敷物を引き寄せた。この織に刻印された寝乱れの様子と、酩酊した皇女の端々の言葉、そして只今の星の運行と星宿結ぶ複雑な線と線の交わりによって、星覧の儀式は卜占へと移った。台の袂のいくつかの祭壇に再び焔が灯されて、儀式の炎が燃え上がり、紫煙立ち昇る香料が焚かれた。神獣や抽象的な紋様を模った様々な鉄やら象牙やらの串が、幾何学的な直線と曲線の複雑に入り混じる図式の描かれた白布の上に、一定の法則に基づいて正しく並べられ、台の頂より下ってきた者のささやく声に従って更に串や骨牌を続け並べゆく。天文官は刻々と変容する天文の運行を刻限ごとに記載した天中図を、その傍らに積み上げた。
暗中、一隅にのみ喧騒が残され、儀式は終焉した。
それより一月余。とうに帝都に帰還した皇帝の下に、天文官と神官、卜占国師らが拝謁を願い出、星覧の儀の卜占の結果を伝える儀式が行われた。
星覧の儀を執り行った天文官、神官、卜占国師らは青褪めていた。儀式どおりに結果を口にするも、その内容は難解で、皇帝は不機嫌そうな気色を浮かべいま一度説明することを彼らに強いた。
卜占国師は意を決し、皇帝にもわかりやすい言葉で説明を始めた。
「今を下ること幾数十余年、瑠国に動乱が訪れ、そこに至って東狼星と西禽星が交錯すると卦には現れ出ております。狼禽相食むその趨勢は星には示されておりませぬが、その災禍の中で、……畏れながら我が王朝は、……断絶の兆候を示していると」
皇帝は詰問した。東狼星とは、或いは西禽星とはいかなる星で、いかなる災厄の形を取って現れ出るのか。もしくは我が王朝の断絶の兆候とはいかなるものであるのか。
だが、その問いに対して卜占国師は沈黙したままうつむいた。
皇帝はその左右を射抜くように見やった。天文官も神官もやはり顔色なく視線を下げたままだった。
これは妖言である。皇帝はそう断じた。厳しい緘口令を下すと、怠慢であるとか不敬であるとかと理由を並べ立て、卜占にかかる三人の責任者を即座に処断し、その首をさらした。そして、そのことによってこの忌まわしい言葉を忘却の彼方に押しやろうとした。
結果として、皇帝にとってそれは不快な嫌がらせ以外の何物でもなかった。その在位中、ついに予言にある東狼星と西禽星の交錯も、ウルヴァール朝を破滅に導く大乱も生じず、この卜占の頃より十年ほど経過した後に死の床についた彼は、それを存分に嘲笑うことができたのだった。だが、それは未来を指し示す予言ではないというところまで皇帝は洞察することができなかった。その妖言は希望であり願望として用いられた。いかに皇帝が厳重な緘口令を下しても、言葉は僅かな隙間を縫って水が行くように少しずつ伝播し、やがて瑠国の隅々でそっとささやかれるようになった。東狼西禽両星の交錯、それこそがウルヴァール朝崩壊の兆し。帝国の支配を受け搾取に甘んじざるをえない有象無象の人間たちは、いずれその日が訪れることを内心で大いに期待したのである。旭日が一旦は没しても翌日再び昇るように不滅であろうかと思われた帝国が、時流の中で崩壊しうる存在なのだという発想は、その人々に新鮮さを与えた。
そのような土壌が形成される中で、東狼や西禽が舞台の上に登場するのではなく、我こそが東狼たらん、或いは西禽たらんと欲する人間がやがて生じてくる。彼らは、ウルヴァール朝はいずれ滅びるのではなく、ウルヴァール朝をいずれ滅ぼすという不逞な野心を胸中に抱くのだった。
それを知らず、未だ存分な于氏の栄華に包まれて崩御したバルセイ帝は幸福であったといえるだろう。だが、治乱興亡の因果が伏流のように地下を脈々と流れながら表土は何ら無関係に静まり返るように、一見停滞と弛緩ばかりが永劫続くと思われるこの頃の瑠国にも、ひそやかに後の動乱の起因となる火種が埋まっていたのだった。
その火種は、やがて表層化する。バルセイ帝崩御より三十有余年後、十三代皇帝カイウスの代に瑠国西方で一大動乱が勃発、これが引き金になり帝国に従属する諸侯が離反、独歩するようになってウルヴァールの勢威は貶められるようになるのである。
そこまでは史書が記載する。だが、薄幸の皇女の行く末までは触れていない。
注
※1 バルセイ帝
ウルヴァール帝国第九代皇帝(※5) バルセイ・ルド・ウルヴァールのこと。その治世は大過のない保守的な行われようであったが、晩年後継者氏名に禍根を残し、後の衰運の基を作ったと評される。
※2 瑠国
リューカス国と同義。リューカスは東西に広がる本島と周辺の小島を併せ持った島嶼国で、長い歴史を有する。現政体の正式名称はリューカス共和国(Republic Lyucus)。
※3 于氏
ウルヴァール氏のこと。古くは七王国時代の一雄として瑠国の一角に君臨し、ガイナ・ルシュア(※6) が出るに及んで瑠国全域を制覇する。それと共に瑠国皇帝を称し、以降二百年余りその地位を代々世襲した。
※4 瑠里
リューカスの距離単位。成年男子が一時間に歩く距離とされ、メートル法に換算すると約5,6キロメートルとなる。
※5 皇帝
皇帝という称号は王号に対する優越を企図して用いられるもので、多民族国家群を従える諸王中の王という意味合いがある。瑠国はほぼリューカス人による単一民族国家であってこの概念からすると帝号の使用は不自然に思えるが、これは于氏が瑠国全土を制覇する以前、瑠国は七王国時代(※7) と呼ばれる長い分立の時代にあり、それぞれに王を頂く王国が散らばっていたためである。これら他の六国を制圧した于氏は既存の王号を超越すべく帝号を称したのである。
※6 ガイナ・ルシュア
ウルヴァール帝国初代皇帝。七王国時代のウルヴァール王国の王太子として生まれ、王位を継承する以前から勇猛果敢で才知に長けた英邁な存在として瑠国にその名を轟かせる。
あまりに傑出した力量を有するため、再三父王パッペンフェルトに猜疑されるも、ついに王位を半ば強奪し、父王を引退させてウルヴァール王国を掌握する。
以降ディセルニア王国王太子セラムと一進一退の激しい攻防を繰り広げ、七年をかけてこれを打破すると、その後は次々に諸国を征服、併呑、ついに瑠国全土を掌握し、ウルヴァール帝国の開闢を宣して自らは皇帝の地位に就く。
この偉業ゆえに始祖帝、太祖などと称される。
※7 七王国時代
于氏による統一以前の瑠国の分立時代のこと。ウルヴァール王国はその中にあって最も新興の王国で、文化制度は他に比べ著しく劣っているとされたが、猛気を宿す強靭な兵団と鉄の綱紀で他国に互し、ガイナ・ルシュアが出るに及んで六国を征服し七王国時代を終焉させた。
※8 選帝侯
瑠国の王制には選挙王制の伝統はなく、従って厳密な意味に於いて皇帝を選出する権限を有する選帝侯という存在もありえない。ただしその称号は形式的には存在し、大諸侯に付与されている。
これはウルヴァール朝始祖ガイナ・ルシュアが帝位につくに及び、諸王中の王という建前上、諸王諸侯からの推戴という形式を採用したことを発祥としている。殊にその当時は七王国時代が長期間続いたこともあり、ガイナ・ルシュアの併呑戦役の過程で旧王国は皆滅亡したものの、それら旧領地の統治に当たってはガイナ・ルシュア自身がその地の王号を兼備し、また一族の者に王を称させるなどして鎮撫せざるをえなかった。これらの形式的な王号が諸王諸侯の推戴による帝位就任という更なる形式を生み、やがて皇帝の代替わりごとに選帝侯の称号を得た大諸侯が形式的にその即位を承認し推戴の形を取るという伝統につながっていったのである。
※9 麻沸散
瑠国原産の芥子の一種から精製される麻酔薬、幻覚剤。宗教儀式等の際、経口吸入によって用いられることがあった。阿片類であるため現代の分類では当然麻薬に該当する。
二
太陽は階(きざはし)を駆け上がり、中天に達し地平を焼いた。風なく空気はたぎり、地表は湿り気を失って黄色く干からびひび割れた。麦穂は色褪せ、その場に立ち枯れる。
恨めしげに太陽を眺めやるみすぼらしい身なりの農夫の足元には、危うい程に色濃く影が触手を伸ばしていた。彼方に陽炎が立ちのぼり、ゆらめきを凝視すれば気が遠くなりそうであった。
盛夏、とはいえ異様であった。灌漑の水も干からびた。川もその支流が次々に水を失い、露呈した川底に痩せ衰えた魚がうずまって腐乱した。痩せこけた野良の犬猫が餓え、怯みながらもそれを喰らった。腐乱が口を伝わった。やがて、白く乱れた泡を吹き、倒れ、新たな腐乱を呼ぶ屍となって折り重なった。
瑠国西部、ただでさえ水の潤沢ではない乾燥帯の多い地域である。
この一円の民は常日頃より水を蓄え、容易に散ずることのないように気を配り、豊かではない大地と根気強く向かい合って生きてきたが、かくのごとき旱魃は、その殊勝の心がけを嘲笑うようにして無残に一掃した。労苦が身を結ばぬその無情に、人々はただ、土気色の乾いた風の音を聞き、その往くのを呆然と眺めやるだけになる。
これほどまでの旱魃は、かのバルゼイ帝の御世にまで遡らねば思い出せぬ。そう土地の古老はささやきあった。
その中にあってささやきに耳を傾けつつも、ディズルは愚直にも、その放置され干からび果てた畑にひとつ、またひとつと鍬を振り上げ振り下ろし、その都度荒く息を吐き出し、悲鳴をあげる代わりに土を掻いた。
炎光、炎熱の只中にあって既に赤銅色に染め上げられた肌は更に焦げる。汗を滴らせ、荒く息を吐き、体の節々は軋み腕に力は入らず、それでも強張った筋肉を波打たせ、また振り上げ、また振り下ろす。
植える作物もなく、撒く水もない。それでも土を和らげようと耕す。意味がないことは承知している。だが、しがみつくように体を軋ませ耕していなければ、この無残さに気狂いしてしまいそうだった。
足掻いても、抗っても、天地は覆らぬし水は戻らない。雨雲は来ぬし熱気は失せない。逃げ出したい。死んでしまいたいとすら思う。だが、先年儲けた幼子の顔がディズルを叱咤する。また穿つ。
やがて苛烈な太陽が西に傾き始めると、ディズルはふらふらと体を揺らし、畑の中に尻餅をついた。
手を伸ばした。
熟さぬ青畑の麦穂を引き寄せる。
幼い頃からの労働がそうした節くれだった泥だらけの手、それで麦穂を愛撫する。青臭いばかりの臭い。薄い実り。幾許も収穫できぬに違いない。
ディズルは土の中で何度も首を横に振った。食いつなごうと思えば、一家、冬の間中薄暗い顔をして押し黙りながら耐え、春を待つことはできるかもしれない。どうにもならぬほどひもじいだろう。だが、年寄りと子供にはなるべく食べさせてやって、自分が我慢すれば、どうにかなるのではないか。ディズルの家は格別豊かではないが貧農から見れば十分に分限者で、父祖以来の畑地も散ぜずにある。本来であれば多少の不作であっても一家で十分食らっていけたし、希に見る旱魃であっても飢餓の来訪は他所よりずっと遅いはずであった。
だが、ディズルは表情を暗くする。
租税がある。
収穫の半分は、それで失われる。
手元に残った半分の実りから、来年の種籾を差し引くと、この不作でいくらも残らぬに違いない。そうディズルは目算する。
太古は、いい時代であったと古老らは折々につぶやく。事実であるか絵空事なのかわからぬ、伝承の中の聖王の御世である。かつて大地が飢え、人民が飢えた時、王もまた共に飢え、その藩屏の貴種らもまた等しく飢えた。世の上も下も苦難を共にし、三度の食を二度とし、乏しい金穀を敢えて持ち寄っては貧しき者、弱き者に率先して分かち与えた。それだけに豊穣の実りがもたらされると、身分の上下に関わらず人々は集いあい、笑い声を音曲の奏でに乗せ、歌い、踊り、供物を捧げ神々に感謝したのであった。
真かどうかさえ定かならぬ遠い昔の話である。ガイナ・ルシュアの頃なのだろうかとディズルは少年の頃思ったが、古老たちは皺ばかりの顔に更に眉根を寄せ、顔をしかめた。ガイナ・ルシュアの頃であるものか。あの血統は今でこそ皇帝などと威張りかえっているが、元は東の果てより生じた蛮族、剽盗の類いぞ。ひとりが口火を切ると諾、また諾と声が連なる。そうだ、皇帝はリューカスの全てをしろしめると称しつつ、やっていることといえば、我ら西国より搾取した財貨を東に運び、神殿、離宮と贅を尽くした建物を建造して驕り耽っている。皇帝などといいつつ所詮は東人なのだ。我ら西の民など土くれ程度にしか思ってはおらぬ。
大人たちは繰り返す。今でこそ我ら西国の民は、于氏に支配され、隷属し、血肉に等しい我らの財貨を吸われ続けてはいるが、我らは千古より等しく東人に屈服していたのではない。
瑠国の文明は西より生じ、西に於いて先ず栄え、それから東に伝わった。七王国の頃も先に栄えたのは西の雄国であった。東は遅れ、後に続き、その中の最も未開のウルヴァールが草莽より表れ出、文明を知らぬ野蛮な猛気で瑠国を奪ったのだ。
西国は、武威に屈した。以来二百年の屈辱の歴史が連なった。だが忘れてはならない。かつて我ら西の民は、東国の者どもなど歯牙にもかけなかった。それが逆しまに覆ったわけだが、かつてウルヴァールがそうであったように、我らもまたこの世を覆すことも決して不可能ではない。だから忍従するのだ。忍従して機会を待つのだ……。
西人二百年の忍従と怨念のささやきは、幼い子らの耳にしっかりと刻印され、その子守唄となった。ディズルもまたそうだった。それは長じて後も、時折何の前触れもなく、ディズルの脳裏に蘇ってくる。
だが、
尻餅をついたままディズルは深く嘆息した。忍従し、父祖以来の憎きを晴らすどころか、今年のこの有様では租税を奪われた後冬を越せるのだろうか。
平素でさえ、豊かに遠い。毎年どこか、村の中や近隣の集落で一戸は租税を納めることができぬ家が出る。家人の放蕩、放漫ならば自業自得といえなくもないが、人に天地の運行を定める力がない以上、些細な天候不順や害虫の被害といったものから、野盗の略奪、縁者の借財の肩代わりという人災もあり、何ら己に落ち度なく責め苛まれることも珍しくはない。
税を払わねば、罪人となる。罪人となって囚われるが、それは一家の主、働き手であって、残された女子供がいかに休みなく働いたところで、次の年に満足な収穫を得ることは難しく、翌年また別の罪人が囚われるのを見送るだけとなる。
それゆえ、畑地を売って穀物に代え、それを租税として差出す。急場はそれでしのげるが、自前の畑を失えば穀物を得ることはできなくなる。やむなく、他人の畑を手伝っておこぼれをもらって糧とするようになる。畑地も、商人は足元を見て買い叩く。時には全ての畑を手放しても租税に及ばない。やむなく娘を売り、妻を売る。女たちははした金で身を売り、男たちに弄ばれる境遇を受け入れなければならない。
ひどければ我が身の自由さえ売った。奴婢となるのである。
少々ものなりが悪いという年でさえ、そういう戸は出る。ましてこのような……。
ディズルは一族の女たちが見ず知らずの男に買われ躰を開き、一族の子供らが奴婢となって牛馬と一緒になって使役されている姿を思い浮かべ、奥歯を噛み締めた。そのようなことをもたらしてはならなかった。ゆえに焦る。無駄だと知りつつも耕し、また井戸を深く深く穿って少しでも多く水を得ようと必死になる。
だが、ディズルは、自分のその必死さを当然のことと思いつつも、虚しさを禁じえずにいた。こんなことを必死にやって、何になるのだろうか。来年、再来年、その次、こうして未来永劫、不作に脅え、天地の気紛れ、皇帝や朝廷の慈悲なき支配に右往左往し、そうやって生きていくのだろうか。必死になって同じ状況を巡りまわり、その忠良さを認めてもらって皇帝に頭を撫でてもらいたいのか。このような世の中の仕組みだからといって、ただひたすら従順にしていることで、何の保証もない我が身の安泰を図りたいのか。
黄金の色合いを増して光り輝く、傾いた日差しの中の刻限に、長い影がひとつ、ゆっくりと近づいてきては立ち止まった。ディズルは溢れる光の中で目を細めながら、影の主を瞳で追った。長袖、素白の布衣がその主であった。その身なりでディズルはそれが誰であるかがわかった。
布衣は東人の用いる衣裳であり、被服としては簡素である。それがため庶人や下級官吏などが好んで身にまとう。だが西国はその織りも縫製も、この時代に至っても東国に対しなお優位にあり、素朴なその衣服は賤しまれた。それゆえ、常日頃この衣を用いるのは、身なりを一様に東国風に揃えんとする名もない下級の地方官吏くらいのものであった。
その人々の中でもおそらく最も律儀で、質朴であろう男が麦穂の向こうに現れたことを、ディズルは気配だけで知った。男の名前はアルケナドア。その素白の布衣が律儀に示すとおりの下級官吏である。
ディズルは、粗末な身なりのアルケナドアが、うつむいて手元の帳面に鵞筆でこまかに何やら書き進める姿を見て、鼻で笑った。こいつはほんの子供の頃からそうだったと、お互い幼子がいる年頃になっておりながら遠い昔の光景を回想した。
夕暮れ時、ディズルは幾人かの仲間と野山を駆け回って戻ってきた。沈み行く夕日の光彩が見慣れた世界を朱色と黄金色、そして闇とに彩っていた。その只中にあって、共に駆け回ることをせず、それどころか走ることさえ知らないような、痩せた、小柄の子供が、堕ち行く夕陽の残滓の光を惜しむかのようにして、表でなにやら書き物をしている。ディズルら腕白な子供たちは、それが勉学というものであることを両親から聞いていた。
両親は言った。あそこの家の子は、大人になったら地方のお役人になる。だから勉学というものをしなければならないのだ、と。
僕はどうなんだ。
お前? お前は農夫に決まっている。お前は生涯、この畑を手放さぬように耕して耕して、死ぬまで生きるのだ。
それは決まっている。定まっている。だから今だけ、ほんの子供の時分だけ、お前は駆けられるだけ駆ければいい。叫べるだけ叫んでおけばいい。いずれ口をつぐみ、黙々とただ働くだけになるのだから。
じゃああそこの家の子は違うのか。
いや、そうではない。同じだ。あの家の人々もまた口をつぐみ、死ぬまで黙々と働く。畑を耕すか、文字を書き続けるかの違いだ。
子供には、そんなことはわからない。
ディズルは幼い悪友たちと、アルケナドアの勉学を妨げるいたずらやいじめを繰り返して、その都度楽しそうに笑った。
やがて、幼い日々は終わりを告げた。
ディズルが徐々に口数を減らしながら、自分の汗を自家の畑に染みさせることを始めた頃、アルケナドアは州の州都に赴いて、より上級の学問に励むことになった。
以来、ディズルは畑を耕し続け、アルケナドアは帰郷と遊学を繰り返し、同じ小さな村に住みながら、ほとんど顔をあわせることもなく日月を過ごした。互いに、その姿を見かけることは幾度もあったが、声をかける気にはなれなかった。
そのアルケナドアが素服に身を包み、畑を回り巡ってこまごま書き物をしている。どうやら麦の様子、秋の収穫の予想などを調べているらしい。
ついディズルの内面に、幼き日の、無邪気な残虐の心地が兆した。あの頃、自分たちの仲間に加わらず、勉学という、自分たちが理解をすることもできなければ手を伸ばすこともできない遠い世界にたたずんで、まるで自分たちを見下し、自分たちに見せ付けるが如くその作業に没頭しているアルケナドアに対して、ディズルは回らぬ舌では言葉にすることのできぬ反発や悪意を感じ続けていた。自分たちと同じではないアルケナドアに対して、その首をねじ切ってしまいたい衝動に駆られた。自分たちと違うものを押し倒し、泥まみれにし、その顔を拳でいやというほど殴りつけて、自分の手の届かない違う世界を屈服させてみたかった。
それは、素朴で単純な情動だった。その情感の根太がアルケナドアに対する劣等感にあることは明白だった。いや、或いはその中に、ディズルの言葉にならない反発心が備わっていたかもしれない。アルケナドアに対してではない。死ぬまで、自分は畑を掻いて生きるしかないという親の言葉に。そしてそれが忠言でも説教でもなく、自分にも親にもどうすることもできない、重たすぎる歴然としたただの事実であるということに。そして、そうある己に劣等感を抱き、そうではないアルケナドアに対しての憎しみを沸き立たせるのだ。
実際大人というものになるまで将来に横たわっていた、重苦しい歴然たる事実というものは、そこに至るまでには漠然とした、だが明確な不安と不満をもたらし、その渦中に降り立ってからはディズルから豊かな言葉を奪った。ただ黙り、口をつぐみ、従順に租税を払い、周囲の村人の気色を損なわず、集いには飲めぬ酒を飲み、共に笑み共に泣くことを己に向かって強いる。
その中に、アルケナドアはいない。遊学を終え、村に戻り、半ば盲いた父に代わって徴税をはじめとする村の様々な吏務を取り扱いながら、村人たちとは常に一線を画し、容易に打ち解けようとせず、目前と仕事をさばいてばかりいた。
そのアルケナドアがめずらしく表に出、畑を見に来た光景に、ディズルは形容しがたい反発を感じ、昔を思い出した。追い詰められ、野兎のように震えながらも、しかし少年たちの仕打ちに憤り、決して屈服せぬことを強く色宿す幼い瞳。それを目の当たりにして、踏みにじってやりたくなる衝動。
「おい」
田舎芝居の泥じみた役者のような、わざとらしさの臭う野太い声で、ディズルは穂波の向こうに声をかけた。アルケナドアは即座にその声に気づき、戸惑ったような表情を浮かべながら、麦穂の合間のディズルの姿に向かって軽く目礼した。
麦の青臭さが、土の臭いと混ざって、その合間に横たわった。
この日照り、俺たちが為す術もなく、このように困窮して畑を耕しているのに、お前は今更帳面つけか。
皮肉にしては脈絡なく、罵声にしては意気あがらない。アルケナドアは曖昧な表情をしたままそれを受け、終わると答えた。今年の不作の模様を、報告せねばならないのだ。
報告。誰に。ディズルは問いただした。アルケナドアは曖昧な表情のままに微笑した。その表情を金色の光が彩り、それに伴う陰りが隈取った。
ディズルは再び問いただした。揶揄の気持ちがなかったわけではなかった。ゆえに、報告するのは皇帝にか、そう言ってみた。無論ディズル自身、こんな寒村の収穫の模様が皇帝に直裁に報告されるものだとは思っていない。
果たしてそうであった。アルケナドアは苦笑すると、皇帝に報告するのではないとつぶやいた。
ならば何者に対してか。宰相か。ディズルがやや執拗な語気で問い重ねると、アルケナドアは首を振った。今、朝廷においては宰相位は空位であって、何人もその任に携わってはいない。そう言った後、アルケナドアは朝廷中枢の、宰相の職責に変わるべき幾人かの高官の名とその肩書きを言い並べた。それらのひとつひとつはディズルにとっては全く初耳の響きであり、また記憶の中にそれらの名称をとどめるには煩瑣でありすぎたが、しかしアルケナドアの語り口には不思議な明瞭感があって、耳にした時には、ああそのようなものかと、疑いもなく納得させられてしまった。そのために、ディズルは泥畑の只中に尻餅をつきながら、于氏の朝廷などという気の遠くなるほど遠い世界をつまびらかにされたような心地を味わった。
奇怪なほど虚心に、ディズルはアルケナドアに納得させられ、やはり奇怪なほど虚心に、ディズルはアルケナドアを偉いやつだと感心した。長らく忌んでいた別の世界の住人は、確かに虚偽なく別の世界の扉をいとも容易く開いて見せてくれるのである。それゆえにディズルが、ではお前はその高官の中の誰に対して報告をなすのかとつぶやいたのは、アルケナドアを追い詰めてやろうという心境からは遠く、またその不思議の別世界をより見てみたいという好奇心でもなく、アルケナドアという男が足を踏みしめている地面を確かめたいという渇望、それもディズル自身にとって何ら脈絡なく、自覚もない欲求が、不意に兆したせいであるのかもしれなかった。
それは気まぐれといわれれば、確かにそうであったし、ディズル自身にもよくわからない。深刻でないといえばそういうことにしておいても差し支えのないはずのものだった。
その辺りの機微は、無論アルケナドアに伝わるわけもなかった。幼い頃より自分を睨めまわし続けた土くれの臭いのするこの暴君が、どうして今日はこのように些事について執拗で、それでいて追求や糾弾を強いて来るでないのを奇妙に思いはしたが、忌避し続けた存在がこの日に限ってはその心を害意で燻らせず、よどみも見せぬのが、うれしくないわけではなかった。
アルケナドアはいくらかは街人馴れしていて、問いに対して諧謔を含ませ、瀟洒に返答をする程度の才気を見せることはできた。だがディズルの朴訥な問いに対して、いかにも都邑かぶれの態度を示すことは、滑稽であり醜悪でもあるという自制が働きもしたから、煩瑣でない程度の懇切さで、それら高官に対しても何の報告も為さないし、私程度がかかわりを持つことも生涯に於いて決してありえないと、彼にとって当たり前すぎることをごく当たり前に答えた。
ディズルにはその答えが意外だった。アルケナドアという別の住人は、彼にとって別世界の人間であると共に、その別世界に於いては第一等の貴人であり、またそうでなくてはならないという、妙な理屈が先のアルケナドアの答えによって育まれていた。ディズルには学問はわずかほどもなく、己の名前すら文字に置き換えることもできなかったが、しかしアルケナドアが受け答えの中で垣間見せた学問の深遠さについては、ディズルなりに十分にわかったつもりになっていた。勿論それは、学ある万人を公平に見定めた上で、その中より一人アルケナドアを選び抜いたものではないから、ディズルの得手勝手な主観でしかない。だがディズルにすればそれは第一等の学問を体得した人間としか思えぬのだった。
その男が、皇帝はおろか朝廷の高官にも生涯に於いて何らかかわりを持てぬという。では何か、お前が関わりを持てるのは何様までなのか。それを先程から比べればやや語気荒く、ディズルは尋ねるのだった。ディズルのその語気の荒さには、自分でも不明瞭なある憤りが内包されていた。それだけを抽出してディズル本人に開陳してやれば、彼自身ですらその感情を理不尽であると認めようものだった。だが、彼の叫びに言葉を付与してやれば、それはこの世こそ理不尽であるというものに置き換わったに違いない。何故だ。何故この男が立身ままならぬというのだ。
「帝国の直轄地であれば州に刺史が、或いは要地には総督が置かれ、更にその下部の郡には郡太守が、その下の県には県令が任じられるものだが、私の報告書などは精々その県令のところに届くかどうかというところだ。諸侯領であっても私のような卑官は、騎乗の陪臣にさえまともに相手にしてもらえぬだろう」
「何故だ」
「何故? 何故か。そうだな。私が地栄えの地方官の家に生まれたからで、地方官として父の職責を継ぎ、地方官として死ぬことが定めであるからだろうな」
どちらかといえばアルケナドアは、幼い頃の、怨を含んで唇をかみ締めるあの依怙地そうな風貌を拭い去って、飄々とした面持ちで、淡々と語り、ディズルが言葉を失うと軽く目礼して再び自分の作業に没頭し始めた。
ディズルは叫びたくなって、その衝動の通り叫んだ。脈絡がないことは自分でもよくわかっていた。
「お前は、お前はそれでもいいのか。学問をして、それだけ利口になって、だというのにこんな小さな世界で蛆虫のようにしていていいのか」
アルケナドアは顔を上げた。言葉を捜し求め視線は宙をただよい、やがて言った。
「人には超えられぬ垣がある。それに、私は別段賢才でもなんでもない。分相応だ」
達観したようなその口ぶりに、わけもなくディズルは憤った。
頭の痛い報告になりそうだ。やがて四面の畑の様子を見定め終え、夕暮れの中からアルケナドアの声がした。ディズルにとっては、気が遠くなりそうな声の響きだった。
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2006/11/17(Fri)20:58:31 公開 / タカハシジュン
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■作者からのメッセージ
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わかりにくい部分も多いと思いますが、奇をてらうゆえでないことが伝わればとてもありがたいです。
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