『一脈の世界』 ... ジャンル:リアル・現代 アクション
作者:夏樹 空                

     あらすじ・作品紹介
最大の危機をテーマに描きました。世界的規模に発展した事件を刑事組織が立ち向かうというストーリー。過去と未来、そして世界と時間的空間的つながりを求めて書きました。海外ドラマ「24」がお好きな方には最適だと思います。

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序章

――――――イギリス、ロンドン

静けさを失ったロンドン市警に午後三時、一通の手紙が届いた。差出人名はない。宛名は「ロンドン市警特別捜査本部の諸君」とあったが、この文字は不自然で異彩を放っていた。
ロンドン市警刑事局長(すなわち警視総監である)ブレック・アンパニーは、特別捜査本部の総責任者でもあり、この本部の全指揮を任されている男である。特別捜査本部とは、普通の警察とは違い緊急時のみ出動する組織であった。普段は警察署の受付や窓拭き、警視総監の秘書などと警察に通じている職に就いているのだ。彼らが招集されることはめったにないが、警視総監及びブレック・アンパニー刑事局長が相談した結果、直面している犯罪が国家を揺るがす大犯罪だと判断した時のみ、召集され任務に就く。総勢七人という少数で構成されており、彼らの存在は公にはされていなかった。
 だからこそおかしいのだ、こんな手紙は。特別捜査本部の存在は警察署内でも上層部にしか知られていない極秘事項で、本人たちはそのことを口外することを世界会議で決められていたのだ。世界会議自体の存在は、イギリス、アメリカ、フランス、オーストラリア、エジプト、ロシア、イタリア、スペイン、ブラジル、日本の首相、大統領とその秘書のみが参加する最大級の厳秘事項なのである。大統領の口を通して国家公安委員会最高責任者と警察庁最高責任者すなわち警視総監に決められたことが伝えられるのである。勿論その事も口外されない。この手紙の内容は次のようである。

《八月三十一日天下を揺るがす太陽が残した黒点を亡霊の現われし頃頂戴に参る》

暗号めいた犯行予告である。手紙を受け取ったブレックは翌日、特別捜査本部の捜査官を暗暗裏に招集するのだった。


          一章

――――――イギリス、ロンドン、市警特別捜査本部某会議室

朧雲のかかる昼の空に包まれたロンドンはいつもの光景だった。世話しそうに昼食をとる会社員や、町の間を駆け回る子供たち、テムズ川のほとりで戯れる小鳥、そして交番の警察の姿。ただひとつ、シャーロック・ホームズの銅像がいつもとは違い少し笑ったように見えるのだった。
ブレックが突然捜査官を召集したためにその集まりは悪く、三人しか会議室にはいなかった。就いている職によってイギリス内を転々とする者や、国外に活動する者もいたからである。会議の存在も公にしてはならなかったので、彼らは最善の注意を払ってここに来てくれていた。
 議題は勿論、手紙について。会議出席者は全部で四人と外で警備をしている刑事が二人。ビック・ベン国会議事堂内に特別に設けられた会議室である。警察機関として許可をもらい、設置したものだ。その中は十三畳ほどと小規模だが、会議するだけならば何不自由のないものだった。
「集まってもらったのはこの手紙のことだ。」
右手に握られた一枚の手紙を持ち上げ、そう言った。召集の際の連絡では召集理由を話すことはできなかったのだ、盗聴という危険性のために。この会議室は盗聴不可能という構造になっていた。盗聴器があるとすぐに警報装置が作動する仕掛けになっていたし、国会議事堂にもそのような構造になっていた。
コピーされた手紙を彼らに配り終えたところで話を続けた。
「おそらくは盗みの予告だと思われる。どうだろう?」
顔をあげ問いかける。三人のうち一番年配だと思われる男が不敵な笑顔を浮かべて頷いた。他の二人も遅れて頷く。もう文章の意味することがわかったのだろうか。
「それでまず問題なのは……我々の存在が知られているということだ。」
真剣な面持ちで切り出すと、先程不敵な笑顔を浮かべた男が一考して答えた。
「そんなことは問題ではないだろう。警察に向けた手紙でも我々に向けた手紙でも関係はない。」
ブレックは一時的にまごついたが、それは仕方のないことだった。自若とした態度で笑みを浮かべた男はブレックの上司にあたる捜査官だったのだ。ブレックが総責任者に任命された時、彼は七人の捜査官に自分の上司で表向きの職は国家公安委員会本部長であるネヴィル・サッチャーを選出した。ロンドンにある国家公安委員会はイングランド全域の秩序を統率する役割を持つ重要な任務を任されているものなのだ。そして国家公安委員会はウィンストン・ロイド・チャーチル首相の命を受け、思慮した後ロンドン市警をはじめとする各警察機関にそれを伝える。だからロンドン市警刑事局長のブレックは国家公安委員会本部長のネヴィルの部下にあたるわけである。しかし国家公安委員会もその上層部しか特別捜査本部の存在を知らない。そしてロンドン市警から選出した特別捜査本部総責任者は任意に七人の捜査官を自分で選ぶのだ。普通は部下を選ぶのだが、ブレックはネヴィルに絶大な信頼をよせていたため、彼を選んだ。しかし特別捜査本部の中ではブレックはネヴィルの上司なのだ。
 ブレックはこの関係がなんだか嫌いだった。ネヴィルに総責任者を代わってくれと頼んだが、他人との交代は規則で禁止されているのでネヴィルは断り、ブレックは仕方なく責任者の座についている。三十二歳という若さでこの職についたブレックには少し重荷になっており、十歳年上のネヴィルには頭が上がらなかったが警視総監の使命はきちんとこなしていたため、国家公安委員会は全てを彼に一任することにし首相もそれを認めた。
「何かわかったことはありますか?」
口調が少し変わる。敬語交じりのその言葉にはネヴィルに対する敬意が表れている、緊張と共に。一方のネヴィルはそんなことは特に気にした様子もなく、暗号解読に精を出していた。
「犯人、もしくは犯人グループかも知れませんが、国家レベルのことをしようとしているのではないでしょうか?」
誠実そうな若者が口を開いた。会議室にいる四人の中で一番年下のようだ。しかしスーツを着こなし、知的な眼鏡をかけ前に垂らした茶色の髪の毛がその若さを主張していた。左手にボールペンを握り、やる気満々といった様子。
「特別捜査本部に挑戦状を叩きつけたのだからな。」
少し威厳を取り戻したのか、ブレックがそう言う。彼の優秀な右腕であるデイビット・アトリーは嬉しそうな顔をしてブレックを見たので彼の脳裏にわずかな不安がよぎった。事件を楽しむ癖、それがデイビットにはある。そんなお気楽な性格が長所でもあり短所でもあるのだが…。
彼は警視総監ブレック・アンパニーの秘書兼ロンドン市警科学捜査本部部長をこなす若き捜査官である。その容姿端麗な風貌の裏には天才的な変装術に加え、話術も相当なものであったため、今潜入捜査担当としてここにいる。
「国家レベルの盗みとはどういうことでしょう?」
「盗んだら国に多大な被害を及ぼす物………世界遺産か?」
少しの会話がなされた後、会議室に沈黙がながれた。数分後ノートパソコンでなにやら調べていた三人目の捜査官ジュリアン・ウォーが口を開く、ため息交じりの声で。
「国家指定のすなわち世界遺産に指定されているものはイギリスに五十三あります。そのほとんどが建造物や土地そのものです。盗めるものはないかと……。」
ジュリアン・ウォーは現在ロンドン市警受付の職に就いていて、特別捜査本部の中での役割は情報管理・収集である。元々はアメリカのFBIに所属しており、その時の実績を買われ特別捜査本部に在中していた。
彼女はパソコンに映っていた世界遺産のリストを皆の方に向けながら言った。文化遺産、自然遺産、種類は様々だが盗めそうなものはリストにはない。だとすれば国家に関わる盗みとはなんだろうか。少しの沈黙の後、答えはすぐに出てきた。特別捜査本部の人間は別名「七人の探偵」とも呼ばれているのである。
「国家レベル………海外に影響を及ぼす…国の存亡が危うくなる……海外関連……。」
デイビットは考えついた言葉を不規則に並べていく。その独り言を聞いていたネヴィルがジュリアンのノートパソコンを手に取り何かを調べ始めた。ジュリアンはしかめ面をして見ていたが、彼が検索していたサイトを黙視していたらジュリアンもひらめいた様子になった。
「大英博物館……ナショナルギャラリー…ともに盗みやすいものが多い。かつ他国の過去の遺産が貯蔵されている。特に大英博物館には古今東西の国々の歴史的価値の高いものがある。それらは過去にイギリスが略奪したものだ。」
大英博物館のサイトを画面に映し出し皆に見せる。
 ロンドンにある大英博物館内には約百のギャラリーがあり、ほぼ常設スペースで展示されているが、すべての所蔵品が常に展示されているわけではない。しかし五千ものの品々が展示されている。アフリカ、アメリカ、アジア、ヨーロッパ、世界中のものが展示されている最大の博物館。展示品としては美術品、古写本、メダル、コインなどその他多岐にわたる文化財、考古学資料がある。各地からの観光も多い。何かが盗まれるとそれは世界に広まってしまうのだ。それが国家に多大な被害をもたらすかは別として。
 一方、ナショナルギャラリーはロンドンのトラファルガー広場にあるイギリスの国立美術館のこと。イタリア・ルネサンスの作品を中心とし、フランス、オランダの作品も充実している。ミケランジェロの『キリストの埋葬』、ゴッホの『ひまわり』などの作品が展示されている。
「もしかしたら犯行予告場所はこのどちらかなのでしょうか?」
ブレックはネヴィルの目を直視して言った。ネヴィルはそれに気づくと、
「ああ、そのようだ。」
まだ余裕を見せた表情で返答する。彼にはもう答えは出ていたのかもしれない。勿論、デイビットもジュリアンも答えは出ていたようだ。それを悟ってネヴィルが口を開く。
「《天下を揺るがす太陽》……これはすなわち十九世紀フランスで国民的英雄と言われ、各地の革命の発起人となった皇帝ナポレオン・ボナパルト一世のことだ。」
デイビットが続く。
「そして《残した黒点》とは黒色の玄武石でできていて、ナポレオンがエジプト遠征の際発見し、シャンポリオンによって解読されたロゼッタ石のことですね。そしてそれは今大英博物館に所蔵されています。」
「《亡霊の現われし頃》の亡霊とはおそらく切り裂きジャック、Jack the Ripperのことでしょう。彼が現われたのは午前二時から午前四時くらいでしたね。確か第一の被害者メアリ・アン・ニコルズが殺害されたのはダーウォード・ストリート、時間は午前二時三十分から午前三時四十分の間……犯行予告に記載されている八月三十一日に彼女も殺されていますわ。しゃれた犯人ですこと。」
彼らの推理をまとめるとこういうことになる。
 「午前二時から午後四時(おそらく午前二時三十分から午前三時四十分)の間に、大英博物館に所蔵されているロゼッタ石を盗みに行く。」
ということである。彼らの意見は合致したのだ。誰一人その推理を否定するものはいなかった。
 予告日時まであと一日、特別捜査本部は対策を練り始めるのだった。

              ◆

―――――――ロンドン、大英博物館

 八月三十日、午後五時三十分。グレート・ラッセル・ストリート沿いに聳え立つ建物。過去と未来をつなげる国立博物館である。ローマのパルテノン宮殿を思わせるような外装で、正面には何本もの石柱が立てられている。建物自体も世界最古という歴史を持っていた。そしてその大英博物館の入り口前はイギリス人、アメリカ人、アフリカ人、日本人と様々な人種が混ざり合って列を成していた。
 空には鈍色の雲が散らばっていたがまだ雨は降っていなかった。八月だと言うのに肌寒い風が大英博物館を覆う。捜査官たちの目に長袖の観光客が留まった。
「はじめまして、館長のスタンリーです。」
「ロンドン市警警視総監のアンパニーと言います。」
軽く握手をしてから、ブレックは特別捜査官の三人を紹介した。紹介された捜査官たちはスタンリーに会釈をする。ブレックは今回のことが極秘任務だということを告げ、館内を案内してもらうことにした。
 正面ゲートを抜けると左手に階段があり、それを抜けて目に飛び込んできたのはグレート・コートと呼ばれる巨大なホールであった。ガラス天井のこのホールの床は白い大理石でできており、差し込む光が反射し見事なものである。円形のリーディング・ルームやレストランが完備されているため、多くの観光客が足を止め賑わっていた。
「いつもこんなに人がいるのですか?」
あたりをキョロキョロと見渡し、何気なくデイビットが質問した。
「ええ、閉館間際までこれくらいのお客様はいらっしゃいますよ。」
そう言いながら営業スマイルといった表情で捜査官たちを見る。捜査官たちも一度はこの博物館に訪れたことがあったため、光り輝く大理石には目もくれずスタンリーの笑みを正視していた。
 彼はここの歴史を詳しく語り始めた。しかしそれは創立者など事件には全く無関係なものだったので、ブレックは愛想笑いと適当な相槌を、捜査官たちは完全に無視をしている。それでもスタンリーは語る、ひたすら。彼が熱心に本館の歴史について語っていると、ブレックの携帯電話が不意に鳴り響いた。
「刑事さん、ここでは携帯は切っておいてください。お客様の迷惑になりますから。」
「すいません。しかし大切な用件かもしれませんので、外で電話をかけてきます。」
そう言うとブレックは急いで館外に出て行った。残された捜査官とスタンリーは気まずそうに顔を見合す。
「局長の電話はいつも長いですから。」
デイビットがあわてて声をかけ、きちっとしめたネクタイを緩めながら館内の喫茶店に入った。ジュリアンもふっとため息をついた後、近くにあるリーディング・ルームで「ロンドンの光と影」という本を手に取り、読み始めた。もちろんネヴィルもどこかへ。残されたスタンリーは気まずい空気から解放され、安堵のため息をもらした。ジュリアンのため息とは質が違ったのはいうまでもないだろう。

「もしもし、アンパニーだが。」
外に出たブレックは、柱に身を預けて会話を続ける。声の調子は軽やかで、緊張しているようには見えなかった。携帯電話の着信画面から誰からかかってきた電話なのか確認したからだろう。その声の抑揚は部下に対する時のそれだった。
「ああ、頼んでおいた件は……見つかったか?……そうか、ありがとう………連絡先は………ああ、わかった。」
ピッ。通話を切る。彼は大英博物館に来る前、部下にあることを頼んでおいたのだった。その命令とは「残りの特別捜査官を見つけ出すこと」である。残り四人の捜査官は世界のどこにいるかわからずにいたからだ。
 雲がたなびく青い空が目に入る。空は果てしなく続くことを再確認したようだった。終わりのない空。どこが果てなのか、どうやったら辿り着けるのか、そんな答えは一生見つからないだろう。雲に手をかざす。だがその雲は風で流れていき、ブレックの手からすり抜けた。彼はかつての英雄を思い描いた。自らが五代目だということ以外は何一つ聞かされていないが、先代の捜査官を心に浮かべようとする。しかし顔のない英雄は虚空に消えてしまった。
ロンドンの特別捜査本部は世界的にも活躍しており、特に一九六〇年に命を受けた初代特別捜査官の三人(当時は三人だった)は、世界各国の大統領たちに一目置かれる存在だった。
当時、世界政府にとって脅威であったテロ組織を一網打尽にしたのが彼らである。その組織を壊滅させるために考案されたのが特別捜査本部であるのだが。二〇一〇年の今、すでに五代目である。世界会議で定員は七人になった。この改正は一脈通じるある悲劇が関係している。二代目、三代目はまだ三人。初代特別捜査官が壊滅させたテロ組織。その残り火は消えてはいなかった。彼らの前に二代目、三代目は敗れ去り殺害されてしまった。改善された犯罪組織は各地で猛威を奮う。その勢威は時代の流れにすら反発できるようなものだった。その存在は世界に知れ渡たり、特別捜査本部はその力を失いかけた、その存在意義さえも。アメリカ合衆国大統領は世界会議にて、全ての特別捜査官を結集させて組織の壊滅を急いだ。テロ組織の本当の目的は世界の破滅ではなかった。特別捜査本部の壊滅…であったのだ。それにより今から三十年前、暗闇の中で戦いは始まった。
時代はどこに向かっているのか、空と海の区別もつかない。周りにいる人間は敵なのか、味方なのか。死ぬのか、殺すのか。捜査官のほとんどが消えていった。その分の成果を残して。テロ組織は完全に消えてなくなった。その記憶も時間が経つにつれて薄れていった。世界に多大な影響を与えたこの事件は闇に消えていく。一般の人には戦いの全貌は知らされていない。刑事記録からも完全に削除さえた。もう二度とその惨劇を繰り返さないため。思想のゆがんだ人も中にはいたからだ。一般の人々の中には、このテロ活動に賛同するものもいた。だからである。抹消された記憶、メディアがこれを報道することを法で規制した。テロ活動とは主に政府の建造物の破壊、一般市民の殺害はなかった。捜査官の死も内輪だけでとどまった。時間が止まったような一年間、たった一年間。
その後、世界会議によって捜査官の人数は七人と決まった。
電話の内容は「たった一人だけ、捜査官が見つかりました。ジョン・アスキス、昨日エジプトから帰って来て、今ちょうどケンブリッジにあるトリニティ・カレッジに行っています。連絡してみてください。」とのことだった。トリニティ・カレッジとはニュートンの母校でもある名門大学である。ノーベル賞受賞者を三十人ほど輩出。ジョンはそこの大学生で、今専攻している経済学の講義を受けているそうだ。彼はブレック・アンパニーの甥で、アメリカ・ドイツ・フランス・ロシア・イタリア・日本・エジプトに旅行経験があり、七ヶ国の言語を自由自在に操ることができた。普段は通訳として活動、若干二十一歳にして。
 ブレックは聞かされた連絡先に電話をかけることにした。まだ講義中だとは思ったが、緊急の事件だったので仕方がなかった。ジョンはこの手紙についてまだ知らされていない。自分から電話をかけてくることはおそらくないからだ。
……ピロロロロ

重い空気の重圧がこの部屋を完全に支配していた。心臓の鼓動さえも聞こえてしまいそうなくらい、あたりは集中力で縛られていた。その時、ジョン・アスキスはかすかに予感を感じる。理由もなく、ただもうすぐ皆の視線が自分に向けられるであろうという予感。
すると突然、講義室の静寂を突き破って、彼の携帯電話が空まで届くような高音を響かせた。思いもよらぬというわけではなかった。すでに心得ていたはずだった。しかしその高音はただの着信音には思えなかった。何か別の悪いことを開始させる合図のようだ。彼の体はこわばり、いうことをきかなかった。教授に怒られることを心配したからではない。闇に吸い込まれそうだったから。高音は止む様子をみせなかったため、その騒ぐ口を閉じる。その際に彼は不意に携帯電話の受信画面を見てしまった。そこには自分が予想していたとおりの三文字が並んでいた。「非通知」。特別捜査本部とのやり取りは全て「非通知」で行われることが原則である。だから彼はこの三文字を用意に予想できた。
「先生。」
ジョンは教壇に立つ男性に向かって叫んだ。
「なんですか?携帯を鳴らして授業を中断したアスキス君。」
しかめ面をして応対する。その表情は彼の性格を“厳格”と表わしていた。ジョンは少しまごついが、打ちひしがれたわけではない。
「親から緊急の電話のようなので失礼します。」
と率直に言う。目はさきを見据え、もはや教授の厳格な顔などどうでもよかった。彼がそう感じたのは事件という闇が持つ魔力のせいか、その行動が逃れることのできない運命として位置づけられているのか。彼は教授の返答を聞く前に外に出て行ってしまった。あたりは再び静かになる。だがそれは講義室が元の静寂に戻る、ただそれだけのことだった。

ピロピロピロ………
呼び出し音が繰り返し流れる。空の浮かぶ雲のように。普遍的で何の変哲もない音が繰り返される。その音はジョンに安心感を与えた。まだこちら側の世界にいるのだということが確認できる唯一の手段であったし、もし誰かが出てしまったらその瞬間からこの普遍性はもう味わうことができないだろうと確信していたからだ。闇に入ってしまったら、何もかもが非日常的だと感じてしまう、もちろん電話の呼び出し音ですら。
「やっとつながったか。」
もしもし、という普遍性を含んだ言葉を聴きたかったジョンにしてみれば、予想外の言葉だった。ブレック・アンパニーの声を久しぶりに聞いて、ジョンは闇に引き込まれる。だが彼はすぐさまそれに順応した。仕方のないことだと割り切って。
「用件はなんでしょうか?召集ですか?」
ジョンの目はすでにブレックやネヴィルらと同じような捜査官の目をしていた。
「召集ではない。もう事件は始まっている。すぐに大英博物館に来い。詳細はそれからだ。ロナルドも一緒にいるのか?」
「いいえ、私だけです。」
「そうか、早くな。」
そう言うと電話は切れた。ブレックが切ったわけではなかった。ジョンは大学に止めてあった自分の車で大英博物館に向かった。きっと彼は、やっとエジプトから帰ってきたばかりなのにな、と考えているに違いない。

 ブレックが戻ってきて、捜査官たちは何も言わずに集まってきた。どこに行っていたのか、お互い尋ねることもしない。スタンリーはその光景に少し戸惑ったが、ブレックが続きを案内してくれ、というので案内を再開した。
 グレート・コートを一周した後、二階に上がり今回の標的が展示されている六十二号室に入った。エジプトの産物が飾られている六十一から六十六号室のエリアには、多くの観光客で賑わっている。入り口からでは標的の姿が確認できないほどに。ブレックたちはスタンリーに連れられて、標的の前までやってきた。【ロゼッタ・ストーン】といいう金字がガラスの隅に書かれている。ガラス越しに見たその石はひときわ輝いていた。証明があたっているせいかもしれない。人々が周りに集まる、まるで吸い寄せられるかのように。スタンリーによるとこんなに混んでいるのは珍しいとのこと、月に一度あるかないか。
「とても盗めるようには思えませんね。」
デイビットが率直な意見を述べる。それは皆が思っていたことだし、頑強そうなガラスと外に漫然と構えている警備員がそれを不可能だと示唆していた。(不可能……不可能…………、絶対に無理だ。警戒する必要なないか……)、ブレックはふとそんなことを考えた。しかしその刹那、脳裏によぎった最大の不安要素。それだけがこの盗みを可能としている。捜査官ネヴィル・サッチャーと指揮官ブレック・アンパニーだけがそのことを理解していた。デイビットとジュリアンは、
「深夜に忍び込んだとしても、センサーが感知。盗もうとしてもガラスはちょっとやそっとじゃ割れない。」
「ええ、それに警備員は二十四時間見張っているわ。集団で来たとしても、侵入したり、センサーを解除しようとしたら、ロンドン市警に連絡がいく。ですよね、本部長?」
ネヴィルを見て、返答を期待した。だがネヴィルはなにやら考え事をしていたらしく、それどころではなかった。
「…本部長?」
ジュリアンが心配そうに見つめると、ネヴィルは口を開いた。だがこの事件の一脈性を訴えるその言葉はブレックに向けられたのだった。不安と期待が入り混じったような目をブレックに向けている。それに気づいたのか、ブレックは深く頷いた。
「まさか……」
そうネヴィルは言ったのだ。
ブレックの脳髄は動揺で満たされていた。目には輝きはない。【ロゼッタ・ストーン】が展示されているガラスケースに手を当てた。読むことのできないヒエログリフ(古代ギリシャ文字)を見つめ、歴史を思い描いた。それは【ロゼッタ・ストーン】やナポレオンの歴史ではない。教科書に載るような出来事でもない。ただ自分が遭遇した事件の中で、最も不可解な事件の「歴史」だったのだ。

              ◆

―――――――十年前。イギリス、ロンドン

 昨日ロンドン市警特別捜査本部の四代目が新たに決められ、今起きている大事件の調査にあたった。なぜなら四代目がある組織の暗躍で全て殺害されてしまったからである。世界規模で行われたテロ活動だったが、それぞれの国の捜査官たちは自国で出来した事件で手一杯で、他国にかまっている暇はない。世界会議が開かれる暇もなく、それぞれが独自で判断し解決していかなくてはならなかった。イギリスで現在起こっている事件は全部で五つ。その三つがここロンドンを中心に広がっており、犯人側の狙いもおそらくロンドンであろうことが予測できた。特別捜査本部は秘密の捜査機関だったが、今回ばかりは警察諸機関をはじめ、ロンドン最大の私立探偵組織ディティクティヴワーカーズ(通称DW)、大統領護衛組織シークレットサービス、最近になってアメリカ合衆国のCIAを見習いイギリスに設置された情報収集機関MIT、がこの事件に終止符を打とうと協力している。それは仕方のないことだった。起こっている事件の一つは首相の誘拐だったからだ。これはロンドン、ダウニング街十番地(官邸、ナンバー十と呼ばれる場所)を中心に行われた反政府行為とみなし捜査を進めている。誘拐の際、三人のシークレットサービスが殺害されている。犯人からの要求は依然としてなく、解決の糸口は全くといってなかった。さらに二つ目の事件は建造物破壊事件である。被害を受けたのは、チャリング・クロス駅前のエレアノールの十字架、ウェストミンスターのトラファルガー広場に聳え立っていたネルソン記念柱、世界の名画を取り揃えたナショナルギャラリー、イギリス陸海軍本部、国防省がすでに破壊されていた。対策を講じる暇は全くなかった。全てはほぼ同時に爆破されたのだ。しかしながら一般市民の死亡者は全くおらず、政府役人のみだった。第三の事件は国家公安委員会会長、警視総監暗殺事件。全てが同時に勃発している。ロンドンは大混乱となり、警察は市民を宥めるだけで精一杯だった。彼らは真実を手に入れるための扉に手をかけてすらいなかったのだ。

―――ロンドン、ダウニング街十番地、官邸

 官邸の前にはベンツ、パトカー、リムジン、ワゴンといった様々な車が停留している。つまり政府諸機関の役人、捜査官が終結しているということだ。
 家の中には案の定、国家公安委員会副会長、副警視総監などといった幹部が重い空気の中に佇んでいた。緊張した空気が部屋に立ち込める。犯人からの電話を待つどの時間は苦痛以外のなにものでもなかった。
「早く主人を見つけて頂戴!」
首相夫人に理性という歯止めが欠如してしまい、先刻からこのような感じである。そわそわしながら家の中を歩き回り、時計を見てはため息をつく。
首相がいなくなったのは午後三時。エレアノールの十字架爆破の一時間後、記者会見を開くため官邸から出ようとしたところ、銃声を聞く。夫人もそれを聞いており首相が外を見てくる、と言って出て行ったきり帰ってこなかったそうだ。
現在五時半、すでに先に挙げた建造物は全てこの世から姿を消してしまっている。暗殺はまだだが…。何時間もそんな光景に神が飽きたのか、突然電話が鳴った。緊張した部屋にその音が反響し、一瞬、誰もがたじろぎ電話に出るのをとまどった。夫人でさえも息を呑み、声を殺す。新たなシークレットサービスや警察関係者が電話に出る準備を急いで行った。逆探知装置、録音、音声認証装置、衛星、といった最新機器である。衛星とは電話のかかってきた位置を特定できれば、そこがどういうところかすぐに教えてくれる装置だ。捜査官は身を引き締めて受話器を取る。
「も、もしもし。」
声が裏返りそうになったが、こらえて平静を装った。
「はじめまして、誘拐犯です。」
返答はすぐに返ってきたが、その内容は稚拙で、驚いて次の言葉が浮かんでこない。
「要求はなんだ?」
やっと口から出てきたのがそんなありきたりな質問だった。しかしそれは今最も重要な質問である。
「ああ、要求ね。わかっているはずだと思ったけど…。まあいいや。それと逆探知は無駄だよ。できないようになっているから。」
捜査官たちは顔を見合わせる。
「要求は世界会議の『ファイル』。すなわち『アイズ・オンリー・ファイル』。これを渡してくれないか?」
ふざけているのか?何だ、それは?などという疑問が捜査官たちの間に流れた。それもそうだ、世界会議の存在自体首相とその秘書しか知らないのだから。
「何だ、それは?」
「ああ、大統領の秘書さんにでも聞くといい。じゃあ三十分後にまたかけてあげるから。」
「ちょっと待て。その文書には何が記されているのだ?」
「文書?本当に何も知らないんだね。まあ全て、とでも答えておくか。」
「?それを渡すとどうなる?」
「さあね。」
沈黙が流れた。一瞬だけだが…。
「質問は終わりかな?」
「最後に一つ………君の名前は?」
「……マイケル。じゃあな、ブレック・アンパニー捜査官。」
プツン…電話が切れた。その後、ツーツーという音が空しく響く。ブレックが周りにいる捜査官たちに目をやるが皆首を傾げる。ブレックはそのことを予期していたのだがその状況に順応できず、即座に対策を練ることができなかった。大統領夫人は、どういうこと?、とブレックに尋ねてくる。しかし彼にもなんのことかさっぱりだったため、まずは秘書に事実を確認することを急いだが、突如の出来事に記者会見を行わなくてはいけなくなった秘書メアリー・パーシバルには、連絡が取れなかった。ブレックは仕方がなかったので、そこにいる捜査官を集め今後の進行方法を話し合うことにした。
「逆探知は?」
答えはわかっていたが、一応聞いてみる。
「妨害されています。特定できたのは欧州のどこかということです。」
部下らしき人がそう答えた。
「世界会議とは何かわかるか?」
「察するに、世界のどこかの大統領が集まる会議でしょうか。」
また別の部下が言った。
「三十分後を待つしかないのか…。」
ブレックがそう言う。妥協したのか、屈服したのか。それはわからないがあきらめたことに変わりはない。
三十分の制限時間をわずか一分に縮めてしまっていた。
 そこへ黒いスーツを着て、サングラスをかけた若い男が官邸内に入って来る。捜査官たちはその見慣れない「日本人」を不思議そうに見た。そしてある者は腰に備えた銃に手をやり、ある者は彼に飛び掛る準備をしている。
「はじめまして、こういうものです。」
流暢な英語でブレックに話しかけた。名刺を差し出した手は白人のものでも黒人のものでもない。ブレックは渡された「紙」を見ながら、「日本人」の顔をまじまじと見る。
「DW社 派遣探偵局本部長 NATSUKI KEIGO…」
不確かな発音で名刺を読み上げた。
「夏樹圭吾です。よろしく。」
軽く微笑み握手を求めた。ブレックもそれに答え手を伸ばす。握手を交わした後、ブレックは何故探偵がここにいるのか、尋ねた。
「そこに私の部下がいます。」
そう言い、部屋の隅にいる男を指差すとその男は軽く会釈した。
「ああ、先ほどIDを確認しましたよ。確かヘンリー・ベラム君でしたかな?」
「ええ、彼が私に連絡してくれたのです。電話の内容とあなたのあきらめの早さを。」
少し皮肉っぽく言った。ブレックはしかめ面をして微笑む。
 DW社とはここイギリスで最も勢力を振るっている会社である。探偵会社といったほうが正しいかもしれないが。ロンドンにその本部があり、大事件には常にかかわってくる会社だ。それを警察が認めているのはある理由があるからだ。それはDW社会長がロンドン市警刑事局長でもあるということだった。彼はDW社と警察が協力し、ロンドンの秩序を守るという理想があったようだ。その結果、ロンドン市内の探偵事務所を併合し全国から推理力のある人材を引き抜き構成された。そして今回は情報収集担当であるヘンリーが官邸へ視察に行き、事件の全容と捜査官の動向を逐一NATSUKIに報告していたというわけである。
「それで……何故ここへ?」
ブレックは答えのわかっている質問を問いかけた。彼から名刺をもらい、DW社の名前を読み上げた時点で全てを悟っていたのだ。しかしブレックはあえて質問をする。自分のも何かできるのではないかという最後の「あがき」だったのかもしれないが…。
「全指揮権をDW社に任せて頂きたい。今回の事件は我々が解決いたします。」
夏樹圭吾は媚びることなく断言した。
「しかし我々も警察です。黙っているわけにはいきません。」
ブレックは最後の「あがき」と提案をしてみた。
「どうでしょう?我々警察とDW社の共同戦線というのは…。」
少し間がある。一分間くらい圭吾はその場で目を閉じた。その六十秒は果てしなく長く感じられた。周りの捜査官もそうに違いない。大統領夫人は先ほど疲れて眠ってしまったようだが。
「……わかりました。ではそうしましょう。先ほど電話をしたら首相秘書が会見を切り上げ、こっちに向かっているそうです。後十分はかかるでしょう。次の電話まで……十七分ですね。では秘書が来るまでに少数のテロ対策機関を立ち上げます。」

―――イギリス、バーミンガム

 ここバーミンガムにはイギリス独自の刑事機関PFT本部がある。アメリカ合衆国のFBIと同じようなものだ。ここにいる捜査官二人がテロ対策機関に召集された。
『ライアン・ベル   PFT捜査官』
『レイ・セリット   PFT捜査官』
次の電話まで後十五分

―――イギリス、リヴァプール

 スパイ捜査専門機関SSPより二人召集。
『ジョージ・ホールズ   SSP本部長』
『ウィリアム・ベンティック   SSP捜査官』
次の電話まで後十二分

―――イギリス、ロンドン

ロンドン特別捜査本部より二名。
『ブレック・アンパニー  ロンドン市警捜査官』
『ジョン・アスキス    ロンドン特別捜査官』
首相秘書、到着。テロ対策機関に参入。
『メアリー・パーシバル   首相秘書』
DW社より四名。
『夏樹圭吾   本部長』
『ヘンリー・ベラム   夏樹圭吾の右腕』
『夏樹亜子   夏樹圭吾の姉  現在日本』
『イ・ソンホン  DW社韓国支部捜査官  現在韓国』
後者二人は連絡を受けてすぐにイギリスへ向かう。
次の電話まで後五分

――――――ロンドン、ダウニング街十番地、官邸

「遅れてすみません。会見は途中で切り上げてきました。はじめまして、メアリー・パーシバルといいます。」
そういうとその場で指揮を取っていた圭吾に握手を求めた。
「はじめまして、夏樹圭吾です。さっそくですが、本題です。『アイズ・オンリー・ファイル』とはなんのことです?」
メアリーの顔を影が覆った。一瞬だったが彼女はドキッとしたようだ。
「すみませんが、それは極秘なので。」
うつむき加減にそう言った。
「首相の命がかかっているのです。わかっているでしょう?」
少し声の抑揚が変わっていた。興奮気味なその言葉に自分自身も戸惑った様子である。
「早くしないと電話がかかってきてしまう。」
怒気のこもったその言葉に圧倒されたのか、それともこの状況を把握したのか、メアリーは一枚の紙を圭吾に手渡した。そこにはある住所が記されている。圭吾は何のことかわからずに首を傾げている。メアリーは当然のことのようにそこに書いてあることの意味を説明し始めた。内容は驚くべき事実であり、誰もが予想し得なかった『アイズ・オンリー・ファイル』というものの存在だった。
《八八三五七 グレイストリート ラスベガス》
そこに記された住所である。ラスベガスの都心に近い住所だ。
「『アイズ・オンリー・ファイル』はそこにいます。」
一通り説明を終えたメアリーが真剣な顔つきでそう言った。早く行って来い、と言わんばかりの表情である。
プルルルル………
官邸に鳴り響く音。いつもの着信音ではない。空には暗雲が立ち込め、今にも豪雨が降り注ぎそうな雰囲気だった。メアリーが話した事実、知ってはいけない事実、隠しておくべき事実、それを知ってしまった捜査官にはわかっていたのかもしれない。パンドラの箱を開けてしまったと。着信音がそれを示唆し、それは箱を開けたことで起きる第一の不幸なのかもしれないと。
「もしもし……」
圭吾が受話器を取る。この部屋には全ての捜査官はまだいない。ブレック・アンパニーが心配そうに見つめる。四人の捜査官は相手の返答を待った。数秒の余地がせめてもの救いだったのかもしれない。
「やあ、『ファイル』のことは聞いたかい?」
圭吾以外は先刻の電話の主の声だとすぐにわかったように頭を抱えた。「マイケル」と名乗ったその少年は異様な空気を纏っているようで、そして闇の住人のような気がして…。
「ああ、聞いた。しかし何故君は『ファイル』のことを知っている?」
「当然でしょ?だって首相を誘拐してるんだよ、彼から聞いたよ。」
マイケルは何食わぬ調子で答える。圭吾は友達と話すかのような印象さえ受けた。
「我々捜査官のことも首相に聞いたのか?」
核心に迫る質問を次々にする。しかしマイケルはその質問にも声色を変えず、単調に答えた。
「そうだよ。」
マイケルは続ける。
「要求なんだけど、『ファイル』を渡して欲しい。首相、住所は教えてくれないからさ。」
「……わかった。しかし三日は時間がいる。」
「何故?」
不機嫌そうに言ったその言葉は子供のようで、圭吾は何か親しみを感じた。何故誘拐犯と名乗るのだろうか、などという疑問が次々と頭をよぎる。答えは見つからない……。
「それは言えないが、三日は必要だ。」
少し間があった。マイケルは何を考えているのだろうか、おそらくこちらの意図は察しているだろう。
「わかった。いいよ、待ってあげる。その代わり、待つのは三日だけだから。」
そう言い放ち通話が終わる。後にはなんともいえないものが残っていた。
 ロンドンで起こった爆破事件の現場検証が全て終わり、目撃者の証言から容疑者も絞り込まれた。しかしその容疑者は全部で十五人。各建造物に容疑者が三人ずついるというわけである。何故そんなに多いのか。捜査官たちは頭を悩ましながら十五人の取調べを始めた。
 長い長い取調べとなるかと思ったが、十五人は皆すぐに口を割った。全員が同じことを言ったのだ。「キアス・セリダーという女にやれと言われた。報酬は一万ポンド(日本円で約二二〇万円)である。」と。個の十五人は留置所に拘留しているが、取調べを行った捜査官たちは何か腑に落ちなかった。調べによると、キアス・セリダーはアメリカ人だったのである。しかも現在服役中の囚人だ。

『キアス・セリダー   ロサンゼルス爆破事件の一味として現在サン・クェンティン刑務所に服役中。
 (三十一歳)     一一〇年の服役を命じられ、十年の刑期を終えた。仮釈放はいまだない。家族
            は爆破事件によりほぼ死亡。唯一生き残った兄マイケル・セリダーは一度妹に
            面会に来るが、その後行方不明。ロサンゼルス爆破事件の犯人グループは壊滅
            したが、そのリーダーのリング・パーカーはまだ捕まっておらず三十年たった今も指名手配犯            として世界に知られている。』

 テロ対策機関の捜査官は『アイズ・オンリー・ファイル』を手に入れるため、キアス・セリダーに会う
ためにアメリカ合衆国へ飛ぶことにした。



――――――アメリカ合衆国、ロサンゼルス、空港

 殺伐とした空気を漂わせる捜査官とは裏腹に、空港内は賑やかで観光客でいっぱいだった。様々な国の
人がいると即座にわかるくらい人が多い。日本人もいれば、アラブ系の人もいる。ここには国境がないの
だ。知らない言葉が飛び交う。その多すぎる人間が広いはずの空港を狭く感じさせた。早く外に出たい、
そんな印象さえも受けたくらいだ。
 暑い夏にもかかわらず黒いコートに身を包んだ捜査官たちは、いやでも人々の目に留まった。ロサンゼ
ルスに派遣された捜査官は全部で六人。残りはロンドンに待機していている。
「では、任務を終えたら連絡します。」
そう言ったのはPFT捜査官のライアン・ベルである。彼はキアス・セリダーを訪ねるべくバーミンガム
から合流した捜査官だ。PFT捜査本部は現在ロンドン爆破事件に携わっていた。PFT捜査官のレイ・
セリットもライアンと同じ部隊に入っている。それともう一人、SSP捜査官のウィリアム・ベンティッ
クもこの部隊に入る。この三人でサン・クェンティン刑務所へ行くこととなった。彼らの目的はただの面
会。ロサンゼルス爆破事件について聞くだけである。拷問・尋問をする気はまだない。
 一方で『アイズ・オンリー・ファイル』に会いに行くのは、夏樹圭吾、ヘンリー・べラム、ジョージ・
ホールズの三人。彼らはロサンゼルス空港からラスベガスに向かった。


――――ロサンゼルス、サン・クェンティン刑務所

その空間だけは違っていた。風すらも避けているようである。ロサンゼルス全域は快晴、雲ひとつない
空模様だったが刑務所には影が差し、曇っているのではないかと錯覚したほどだ。訓練された捜査官ですらそこに入ることを一瞬ためらった。囚人が収容されている本館と広大な庭で構築されたサン・クェンティン刑務所。刑務所前を通る車は急ぎ足、歩道には人がほとんどいない。都心から隔離された場にあるためであろうか、殺気のこもった雰囲気が人を寄せ付けないのか。
 捜査官たちはひとまず刑務所長に話を聞きに行くことにした。入り口でそれぞれのIDを見せて中にいれてもらった。中は異彩をはなっている。なんだろう、ここにいたくない。そんな気持ちが充満しているようだった。受付に所長室へ通してもらう。所長室は本館とは別の別館にあった。別館三階、所長室と書かれた部屋がある。捜査官たちは少し構えて部屋に入った。
「はじめまして。」
小太りの男がそこに立っていた。受ける印象からは刑務所長という感じではない。しかしその温和な顔は何かを暗示しているようで、捜査官たちは緊張の糸を解かなかった。
「はじめまして、ロンドンから来ましたテロ対策機関の者です。」
代表してライアンが自己紹介をする。
「所長のデイビス・エコーです。話は聞いています。昨日ロンドン市警の方から連絡がありましたから。」
エコー所長は一笑して言った。
「キアス・セリダーですが…」
レイがそう問い質す。早くにここから出て行きたいようだ。レイは元々デスクワークを得意とし、前線で捜査するような捜査官ではなかった。PFT捜査本部でも前線に行く捜査官をバックアップする役目であった。しかし今回の事件で人手が不足し、仕方なくテロ対策機関に参入した。しかしライアンの信頼は厚い。
「はい、本館四十七番に収容しております。すぐ行きますか?」
「はい。」
レイがすぐさま答えた。捜査官たちはエコー所長に連れられ、本館へ向かった。
 サン・クェンティン刑務所。レベル五以上の犯罪者収容所。又の名をヘル・ゲート刑務所、つまり地獄へ通ずる門というわけだ。レベル五とは極悪犯罪者で刑期が二十年以上の者で、レベル六が死刑囚である。この刑務所は民衆からは悪魔と呼ばれた者を収容している檻なのである。番号が大きいほど凶悪というわけだ。本館五〇番から死刑囚レベル六、本館四十五番からは刑期が百年前後の者。キアス・セリダーは一一〇年という刑期を負ったレベル五の凶悪犯罪者なのであった。
 ロサンゼルス爆破事件とは、死者百万人を記録した爆破事件であり無差別に行われた大量殺人だ。その爆破は一瞬の出来事で対処のしようがないくらいだった。約五分の間にそれは起こったのだ。犯人一味は死刑と思われたが、首謀者すなわちリーダーが見つからないために一味は死刑にならず百年以上の懲役にとどまった。本館四十五〜四十八番まではこの事件の一味が収容されている。
「ここからが本館です。」
エコー所長は鉄格子の入り口に手をかけてそう言った。その分厚い鉄格子は囚人の風貌を物語っているようで不気味である。ライアンが軽く頷く。看守がそっと鉄格子のドアを開いた…。


――――アメリカ合衆国、ラスベガス

 まだ空は明るい。ロンドンの空気とは違うものを感じる。ロンドンを闇とたとえるなら、ここは光。ギャンブルの都市ラスベガス、昼間だというのに光り輝くネオンが目に留まった。犯罪が多い都市といわれるがこのネオンを見る限りではそうは感じられず、むしろアメリカという国は平和だと錯覚してしまうような都市であった。それもそのはず、ここラスベガスでは小規模な犯罪は多数存在しているが、大規模で国家を揺るがすようなテロ事件は全く出来していないのである。特に際立った建物、政府の重要建造物がないのもその理由の一つだ。
 三人の捜査官の足取りは飛行機疲れのせいかまだ重い。同時に未知の世界に足を踏み入れているようで―――そこのない泥沼に足を入れているようで――――やはり足取りは重かった。しかしさっそく渡された住所へ向かおうと、すぐさまタクシーに乗り込んだ。圭吾は助手席に、ヘンリーとジョージは後部座席に乗った。ロンドンでのジョージの姿はすでに消え、そこにいたのはまったく別の紳士である。デイビットと同じく変装術をたくみに利用するスパイ捜査のスペシャリスト、味方ですらだまされてしまうくらいだった。隣に座ったヘンリーはふっと一息笑いを漏らした。その変装が滑稽だったわけでも、その変装に何か不都合があったわけではなく、ただ実際のジョージよりいくらか顔立ちのいい紳士が登場したことに少し面白さを感じたのだ。
「グレイストリート 八八三五七に。」
圭吾が運転手にそう呟いた。運転手は軽く頷き車を即座に車を走らせる。ネオンの入り乱れる街を通り抜けるとそこは近代化の進んだビジネス街だった。背の高いビルが立ち並び、こんなところに家があるのだろうかと思うほどの混雑っぷりである。ものの十分で望んだ場所には着いた。 


2006/10/25(Wed)22:55:50 公開 / 夏樹 空
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