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『季節が変わる頃』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:あひる
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彼女は死にたかった。
彼女は変わりたかった。
季節は夏から秋へと、変わろうとしていた。そしてわたしも、このうんざりした生活から、新しい生活へと、変わろうとした。親に止められながらも、既に色素の薄い髪を、もっと薄くして、耳にピアスの穴を開けた。スカートの長さは、学校指定の膝上3センチをやぶり、膝上20センチにした。
全てが変わって、見慣れない風に途惑う時もあったけど、もう万引きだってした。あたしは母親に縛られた世界から、解放されたんだ。もう言いなりにはならない、全てはわたしのために、あなたもわたしのためにいる、そう考えられるようになった。
自分でもこの変貌ぶりには驚ろくものだった。三つ編で眼鏡な地味女から、こんなに脳味噌が軽そうな女になるなんて。
けど幸せは長く続かないんだって、耳を強く引張られるように、教えられた。
それ以前に、あたしには幸せなんていうものは無いんだって、思い知らされた。現実の壁にぶつかって、それでも起き上がったあたしだけど、今回だけはもう戻せない。黒の絵の具の上に、白い絵の具を混ぜても、真っ白にはならない。汚い色になって、その色はもう使えないっていわれて、捨てられてしまう。あたしはそんな存在だった。
「浅倉、なんだその格好は。後で職員室に来なさい」
先生からの言葉には、酷く傷付いた。夕暮れの廊下で、先生に注意された。理由は分かっていたのに、納得できない自分がいる。それに無性に腹が立った。
先生の目が怖かった。
目をあわせたら、殺されそうなほどの恐怖感を覚える。どうしてだろう。何故か自分の頭の中でつくられていく、妄想の先生の顔。酷く引き攣っていて、あたしをいつも叱る。
「……はい」
静かに返事をして、すぐ傍の窓から景色を見つめる。色褪せたような赤と蜜柑色をした夕焼けが、わたしを馬鹿にするように見ている。今までの自分は、怒られることなんてない、褒められるだけの偉い自分。それなのに、授業をサボったり、テストを放ったりで、自分は中身も全て変わってしまった。
いい所なんて無い。わたしは運悪く落とし穴にはまってしまった馬鹿な人みたい。いい部分だけとられて、悪い部分だけの自分が、とても醜く感じた。綺麗な夕焼けは、そんなわたしがちっぽけに感じさせる。
勉強がとりえの地味でなんの意味のない自分から、もっと楽しくなるように変わったつもりだった。
―――つもりだった
それなのに今の自分はどうだろう。とりえなんて何処にもない、全てが持ち出されて、体だけのわたし。馬鹿みたいにへらへら笑って、仲間に話を合わせている。母親から見放されて、ただ一人街をぶらぶらと彷徨う。
脳味噌のない頭で、考える。自分は何をしたかったんだろう。いい所なんて何もない人間になりたかったのだろうか。いいや違う。こんな自分に呆れて、悲しくなって、死ぬほど追い詰めた。だから変わったんだ。それなのに何も得るものはなかった。
「唯、どした?」
仲間から呼ばれる。けど答える気にもなれない。あなたたちの所為で、あたしはこうなった! と言いたかった。けど本当は、認めたくないけれど、わたしが選んだ道だ。あたしは仲間に話した。注意されたの、昔の事を思い出したの、辛かったの。受け止めてもらいたかった。母みたいに、自分が思っていることを吐いたら、ちゃんと聞いて、全てを受け止めてくれるみたいに。
けど、わたしが選んだ道は、耕された土のように柔らかいものではなく、アスファルトのような冷たく、硬い道だった。
愛情のない者に抱き締められても、なんの幸せも感じない。今のあたしはそれと一緒。優しくあたしの名前を呼んでも、あなたが偽善者だってことはすぐに分かってしまうの、皮はすぐに剥がれてしまうの。それならば、そんな偽りの優しさなんて欲しくない。
「センコーに呼ばれたくらいでショゲるなよ。優等生ぶってるつもり? もうお前は不良なんだ、相手にされなくて、当たり前なんだよ」
冷たく言い放される言葉に、酷く傷つけられる。あたしはうん、と曖昧に返事をすると、その場を離れた。
怖い、これが自分の選んだ道なのに。目を瞑って選んだモノを、一生背負ってなんて、生きていけない。あたしはそう思った。
放課後も、何処も行く所がない。そういえば先生が後で職員室に来いって言われていたな、けど怒られるだけなんだ、やっぱ行きたくない。色んな思いが頭の中で行き交う。そうやって悩んでいるうちに、街をすぎ、商店街をすぎ、住宅街の真ん中、懐かしい我が家についていた。
一番最後に親を見たのは、いつだったろう。髪を染めると言ったら、反対されて、どうしようもない怒りがこみ上げてきた。今思えば、どうして、なんで怒ったんだろう? と不思議になるほどの、つまらない理由で。そしてあたしは、家を出て行ってしまった。その後はもうぐちゃぐちゃ。初めて出会う難問ばかりで、当然痛い思いをしたし、けれど何よりも精神的に辛かった。
重いドアノブに、手を掛ける。まわすとぎぃという軋んだ音がした。懐かしい、と感じながらも、ドアノブを引くことはできなかった。この中には愛しい家族が居る。会いたい。ごめんねって謝りたい。けどもう遅いんだ。こんなあたしを見て、親は如何思う? ショックを受ける、こんな格好で、やさぐれたあたしを見て。
ドアノブを引くことはできない。会いたい。けど会えない。それも自分勝手な理由で。愛おしいほど、会ったときの辛さは増倍する。その時の親の顔が、絶対に見られない。あたしはドアノブを握ったまま、強く唇を噛み締めた。情けない。だけど償えるものは何もない。けど、見守ることならできる。
あたしは決心して、裏庭の方へと回った。大きな窓に、リビングが見える。いつもカーテン閉めてって言っているのに。あたしは懐かしさでいっぱいになった。リビングには料理を作る母、その母と話をする妹たち、そしてテレビを見ている父。
何も変わっていない。そう、何も、全て。
「今日はね、学校で図工があったの。楽しかったよ」
「あたしもあったー」
「よかったわね」
「おい、母さん。夕刊は何処だ?」
「ちょっと待ってね、そこらへんにあるから」
「お母さん、あたしの体育着は?」
「洗濯物、そこにあるでしょう?」
誰が抜けたの、誰が居なくなったの、何が変わったの?
抜けてないよ、誰も、居なくなってないよ、誰も。あの家族に、何かが欠けたなんて思えないの。あたしなんて、最初から居ない、実在しない人物だったの? こんな風景を見て、あと1ピースつで完成するパズルが崩れる。パズルのピースは全て飛んでいってしまって、何処に行ったのか分からない。あたしは迷路にいるように彷徨って、一人、途方に暮れている。一生懸命探したのに、何一つ見つからないの。
ホームランを出した。それなのにそのボールは何かの理由でファールになった。ちゃんとホームランを打ったのに、バットにボールを当てたのに、なんでファールになったのか分からない。あたしの信頼は無くなって、レギュラーじゃなくなって、補欠になってしまう。ちゃんと打ったよ、ちゃんと打ったのに、何かがいけないの、反則はしてないの、見ていたでしょう? 必死に訴えるのに、誰もあたしの声なんかに応えようとしない。見向きもしない。ただあたしは一人なの。 そんな気分になった。誰もあたしを見てくれないの、手伝ってくれないの、あたしは独りなの。寂しくて、何も出来ないような感覚に陥る。
あたしの特等席の、母の隣。誰もないのに、違和感がない。いつもと同じ風景で、あたしが抜けたことなんて分からないくらい。この家族は笑顔がいっぱいで、きっとあたしがいなくなっても、皆は変わらないで、笑顔でいるんだろうと思った。現にそうなのだから。
そう、変わったのはあたしだけ。そう思うと悔しさが溢れてきた。もうあたしはいらないの? 居場所はないの? どうすればいいの?
何かがぷつんと切れて、溢れた。今まで溜めてきた何かが、涙と一緒に流れていくのを感じた。家からそっと離れて、とぼとぼと歩き始めた。途轍もない悲しみと、あふれ出る怒り、そしてどこへぶつければいいのか分からない、寂しさ。あたしには何もなくて、本当に一人になったんだって感じられた。
高校生にもなる女が、道端で、大声で泣いているなんて、変だ。けどあたしは、その涙が途切れるまで、ずっと泣いていた。もうあたしのために叱ってくれる人もいない、笑ってくれる人もいない、泣いてくれる人もいない。あたしはずっと、あたしのために泣いていた。寂しくて、もうどうしようもない気持ちになった。
あたしは泣きながら立ち上がって、道を歩き始めた。いつも通学路として使用しているこの道は、何処にも辿り着かない、永遠に続く道と思えた。
あたしは何がしたいんだろう、何を求めているんだろう。 戻りたい。あの幸せな頃に戻りたい。どうして変わりたいなんて思ったの。あたしの前の生活に、不自由な所なんて一つもなかったじゃない。
自分に自分で問いかけた。けどあたしは答えられない。きっと変わりたいと思ったのは、
一時の迷い。少し憧れていたんだ、自由に過ごしている人たちを。けどそれはただの憧れだった。なりたいとは思ってなかった。あたしはあたしの気持ちを、勘違いしてしまったんだ。ただの勘違い、所詮勘違い。けどそれで、あたしの運命が全て狂った
その時あたしは、改めて自分が愚かだと感じた。
そしてそれは、突然の出来事だった。
あたしが変貌してから1ヶ月たったある日、下駄箱に明らかにラブレターではない、何かが入っていた。それはただの紙切れなのに、何故かあたしを変に期待させるものだった。
あたしは不自然に周りを見回した。別にそうしなくてもいいのに、その行動は自然に出てきてしまう。そして周りの人がいなくなったのを確認する。
今、あたし変だったかな。自分の行為に恥ずかしさを感じつつも、あたしは誇らしげに紙切れを見た。これは初めてあたしに送られてきた手紙だ、第一号なのだ。けれど、もしかしてこれは手紙じゃないかもしれない、悪戯なのかもしれない、けれど喜んでしまうのは何でだろう。
ゆっくりと丁寧に折り畳んである紙をあけてみる。真っ白い紙に、黒いペンで、可愛らしい文字が羅列していた。宛て先は、何とも不思議なもので、死んでもいいと思っている人。短くて、不思議な内容だった。
「死んでもいいと思っている人。それなら誰かの役に立ちましょう。あたしのために、心臓1つと魂1つ、くださいな。
あなたのこと、屋上で待っています」
やっぱり誰かの悪戯だろう、そう思っているものの、どうしても信じてしまうあたしがいた。歌うように、口ずさむように、手紙の文章は可愛らしかった。書いてあることは残酷なのに、あたしの頭の中では、幼い子が小鳥と一緒に、温かい湖山で、あたしに向かって歌っている。切り株に座って、小鳥の囀りと一緒に愛らしく笑っている。この可愛らしい字からも、そんなイメージが沸く。
もう一回文章を読み直す。なんだろう、このふつふつとわき上がる温かい気持ちは。
嬉しい。これはあたしの為に、送られてきた手紙なのかなと考えると。これを送ってくれたのは、こんな文なのは、あたしの事を見てくれているからじゃないのかな。色んな考えが、頭の中で膨らんで行く。こういう人なんじゃないかな、もしかしたらあの人かも。そうやってあたしは、ずっと笑っていた。あたしがこの様に変貌してから、こうやって笑ったのは、初めてだった。本当に辛い事があって、死にたくなったら、屋上に行こう、そう思った。
あたしは手紙をもとのように折り畳んで、スカートのポケットにいれた。普通悪戯だと思えば、捨てるだろう。けどあたしは、どうしてもとっておきたかった。初めてのあたし宛の手紙だから。
例えそれが悪戯の手紙だったとしても。
教室ではいつも憂鬱だった。あたしは不良仲間からも、一目置かれる存在だった。教室では、真面目から不良に変わった変人。いつも居心地が悪かった。授業はサボることが多く、二人一組や、グループでやる授業はとても辛くて、必ずサボった。
「おはよー」
楽しい朝の時間。教室では色々な声が飛び交う。おはよう、宿題やってきた? 昨日のテレビ見た? そんな中、あたしは一人、本を読んでいる。
あたしが教室に入ると、皆が小声になる。あたしはきっと、あたしの事を言っているんだと思う。それはあくまでも予想だけど、小声とは気分が悪くなるものだ。
あいつマジウザイよね、なんかあいつが教室にいると、雰囲気暗くなるっていうか。殺したくなるんだよね? ああ、そうそう。ていうか、あいつの思考回路読めないんだけど。超キモイー!
たまに聞こえる、小声。小、中学校の頃から、がり勉とか言われていて、慣れているけれど、やはりキツかった。高校になると、特に女子の声が鬱陶しい。一々五月蝿いんだよ、とキレそうになる時もこの頃ある。
ちゃんと日本語で言ってよ。意味分かんない。あたしはそう思っているものの、声には出さなかった。いや、出せなかった。それほどあたしが臆病だから。
なかでも沢村中心の男子グループは、嫌いだった。けれどリーダー的存在の沢村は、あまり小声にはならなかったし、あたしを避けたりもしなかった。
けれど何故だろう。そんな沢村が嫌いだった。いつも明るく笑っていて、あたしとは大違いで、鬱陶しかった。あの笑い声が、楽しそうな笑顔が、いつも満足気な表情。クラスのリーダー的存在で、いつでも真ん中にいる。皆が沢村のために動いている。先生でさえも、沢村に慕っているような気がして。
全てが嫌いだった。沢村がいつも楽しそうな人間、というわけではないのだが、どうしても自分の前でいつも笑っている沢村は、好きになれない存在だった。
あたしはHRに出ると、嫌いな授業だと図書室にサボりに行く。今日も廊下を走って、図書室へ向かう。あたしは昔から本が好きだった。こんなになってしまったあたしだけど、本が好きなのは、変わらない。それに図書室は入りやすい。司書のおばさんは、いつも眠っているので、楽々とゲートを潜れる。そうするとあたしは、窓際の暖かい席を選んで、座った。お気に入りの本を何冊か手元に置き、秋風に頬を撫でられながら、ページを丁寧に捲っていった。それがあたしの日課。サボっているという感覚なんかなくて、ただ自分の自由の時間みたいだった。唯一羽を伸ばせる場所、時間。だが今日は、違った。
「今日寒いもんな。体育なんかできるかって」
元気な声が聞こえる。あたしは反射的に本棚の影に隠れた。誰だろう。いつもは此処に来る人なんていない。一時間目からサボる奴なんていない。あたしは必死に空の脳味噌で考えた。
「だよな。けど図書室でサボるって、なんかカッコいいよな」
この声は沢村?
あたしは体を震わせた。なんで沢村がいるの、授業はどうしたの、内申下がるよ。あたしはこっちに来るな、と必死で願った。きっとからかわれる、無視される、 変な目で見られる。恐怖で顔が引き攣るのを感じた。
「そーか? 俺は保健室がいいけど。そだ、行こ、保健室」
沢村と喋る、もう一つの声は遠ざかっていく。あたしはほっとし、胸を撫で下ろした。きっと沢村も一緒に出て行く。保健室に行く。大丈夫。
「いや、いい。お前一人で行けよ。俺、読みたい本あるから」
だが沢村の声は、遠ざかるどころか、近づいてくる。あたしは沢村の足音らしき音を、怯えて聞いていた。
「ああ、分かった。後で保健室来いよ」
二人きりにしないで。あたしは小さな身をもっと縮めて、見つかりたくないとずっと思っていた。けれど事は上手くいかないのだ。自分のわがままで全てを失った女に、神様は幸せなんてくれない。
「あれ……浅倉?」
近づいてきた足音が止まる。床がぎしっと体重がかかった音がした。顔をあげる勇気なんてない。必死で顔を隠したのに、なんで分かっちゃうの?
「浅倉だろ? いきなり髪染めるから、ビビったよ」
腕の間から見える沢村は、笑ってた。自分が幸せそうに、あたしの事を見下しているんだ。そう思うとどうしようもなく腹が立って、大声で叫びたくなった。何か分からないけど、大声で、思いっきり、何かをぶつけたい気持ちになった。
「いつも此処でサボってるわけ? いいよな、此処。温かいし、サボってる気がしないっていうかさ」
押し黙っているあたしに、沢村は気にも止めず話し続ける。あたしはそんな沢村が、何故だか嫌いと言い切れなくなった。
「司書のおばさん、意味ないよな、ずっと寝てるし。浅倉は此処好きなわけ?」
探っているという感覚より、あたしのことを知ろうとしてくれるみたいで、なんだか嬉しいなんて感情が、浮き出てきた。そんな沢村に、あたしはつい、口を滑らせてしまった。
「……好き」
この場所、好きだよ。沢村もすきなの? 知ってた、此処って一杯本があるんだよ。沢村のすきそうなのもあるの。史書のおばさんは、いつもパートをやっているから眠くなるんだって。言いたいことは、一杯あった。隠しても隠し切れない寂しがり屋のあたしだから、本当は構って欲しかった。たとえ相手が沢村としても。
沢村はこんなあたしに、やや驚きながらも、柔らかい笑みを見せてくれた。
「うん、俺も好きなんだ」
心の中の何かが、溶けたような気がした。初めてあたしの言う事に頷いてくれた。嬉しくて、ちょっとだけ涙が滲んだ。
それからあたしたちは、少しだけ話をした。どうしてこうしたのか、どうしてこうなったのか、あたしの主張はどうなのか。あたしのいう事を真っ直ぐに受け止めてくれて、仲間とは大違いだった。優しく、一つ一つをあたしの言葉から考えて、ああそうだね、と相槌を打った。適当に返事しているとは思えなく、話していて不快感を与えなかった。その逆に、話していて気持ちが清々したのは何故だろう。
「―――自分勝手だけどね、変わりたかったんだ。そうしたら自分じゃない自分になっちゃったの」
あたしはぽつりぽつりと、今まで言えなかったことを簡潔に、搾り出しながら話した。軽蔑されたっていい。この思いが伝わればいいんだ。あたしはそう思いながら、涙声になりつつも、今の自分の心情を伝える。
こんなに自分の気持ちを素直に伝えたのは初めてだった。母親には、本当は勉強が嫌だと言えなかった。先生には、本当は大学なんて行きたくないと言えなかった。本当は何もかも嫌なんだって、いえなかった。全てがぐしゃぐしゃ。自分の思いを伝えられなかったのに。今のあたしは、魔法がかかったみたいに沢村に話していた。
「そうか。でもさ、俺思うには、浅倉すごいと思うよ。だってさ、変わったんだ。自分のなりたいものに、変われたんだ」
すごい? あたしが? こんなあたしが?
「……違うよ。あたしはわがままなの。自分に嫌悪感を覚えたから、変えたの。あたしはあのままで幸せだったのに。これは自分の所為なの。あたしがわがままだからいけなかったの」
家族にも、友達にも、学校にも、全てに迷惑を掛けて、やっとの思いで変わったあたし。それなのに何も得るものはなかった。馬鹿みたい。何を望んで、こんなことをしたのだろ
う。
「だからさあ、浅倉はなんで自分を責めるわけ?」
違う。責めてないよ。あたしはちゃんと分かっているんだから。あたしがいけないこと、迷惑かけたこと。自分が責められる人だって事。
強い意志を持った目で、あたしに訴えてくる。居場所が狭くなった。せっかく聞いてくれているのに、なんで言わないの? チャンスなのに、自分から言えないあたしにとっては。
ぐっと目に力を入れた。涙が零れないように。沢村に心配をかけたくないから。
「まだ浅倉は戻れる! 外見は変わったけど、まだ浅倉は浅倉のままだ。ただこんな自分に、驚いて、焦っているだけなんだ」
それなのに沢村は、あたしを感情的にさせる。自分はまだ戻れる、あの笑えた日々に。沢村の言葉は、あたしを魅了した。それはあたしを分かってくれているから、こんなことがいえるんだ。あたしの事を見下ろすわけでもなく、同じ目線から、あたしに声を掛けてくれた沢村に、感謝の気持ちを伝えたい。
「……そうかな。あたし、戻れるかな」
あたしがそう呟くと、おおと、沢村が相槌を打った。そしてあたしは、久しぶりににっこりと笑った。嬉しい。話が通じたんだ。一人じゃなくて、もう沢村がいる。
そんな時、あの声が聞こえた。保健室に行こうと、一緒にサボりにきた男。あたしが反応すると、沢村が優しく言った。
「俺のダチ。クラスメートの宮下。変な奴じゃねえからさ」
そう言って沢村は、おい、こっちだと大声で叫んだ。そんな大きな声で言ったら、司書のおばさんが起きてしまうのではないかとひやひやしながらさっきは声しか聞こえなかった沢村の友達の宮下を少し期待しながら待った。
けどそんなに現実は甘くない。偶然に沢村が優しかっただけで、沢村の友達の宮下も優しいわけじゃないのに。だからあたしは言い聞かせたのに。大きな壁にぶつかって、痛い目を覚える前に、その予防をしておけと。それなのにあたしは、馬鹿だった。
「沢村! 来いって言ったのに。……誰こいつ」
沢村の友達、宮下は、あたしのことをまるで汚物のように見る。あたしは少し宮下を睨んだが、効果無しだった。
「色々な理由があってさあ。ほら、浅倉」
沢村の言葉に、宮下が顔を歪ませる。さっきまで馬鹿みたいに期待していてあたしに、少し恥じらいというものが沸く。あたしは床を見た。新しいものは、時間が経てば汚くなるの。あたしは汚くなったの。何考えているのよ、あたし。馬鹿じゃない。全てがあたしの為にあるわけじゃないのよ。
「ああ……不良になっちゃった浅倉サンね。すごい変わりよう。何がしたかったんだか。俺にはサッパリ。てかさ、何お前打ち解けちゃってんの?」
宮下の牙が、沢村に向く。あたしは俯いた。何も成すすべもない、沢村を助ける事も出来ない。自分の無力さに呆れたのだ。けれど沢村は、宮下の毒づいた言葉を、するりと交わしていく。
「別に? ただ浅倉がいたもんで、話しただけ。別にそんな意味深な事はないけど」
「ふーん、そう、つまんない。ていうかさ、浅倉何したいわけさ。んなとこ突っ立って」
ぐっと手に力をいれる。別に悪い言葉じゃないけれど、心の奥に引っかかる。
「……あたしは……分からない」
何をしたいのか、何の為に此処にいるのか。そんなの分からなかった。あたしはただ何をすればいいのか分からなくて、困って、誰かに流されて生きているのだ。そんな虚しい生き方しか出来ないあたしは、本当に人間だろうか? と考える部分もあるほど。
「違うだろ、浅倉」
だけど沢村は、そんなあたしを変えようとしている。
「は……? 何が? 本当に分かんないんだもん」
自分の意見も、まともに言えないあたしを、積極的にしようとしている。ちゃんと話せる勇気を備えようとしている。こんなあたしを、治そうとしてくれる。
「ほら、話してくれたじゃん、俺に。忘れたわけじゃねえよな。それが、お前のしたいことだろ」
話してくれたこと、それはあたしが変わりたかったって事。あたしは勇気を振り絞って、宮下に言った。
「あ、あたしは、変わりたいんです。もっと、自分に自信が持てるように、変わりたかったんです……」
それが意味のないことだったとしても、どうしても変わりたかった。意味がない日を送るだけじゃつまらない、そう思って変わった。そうしたらもっと、自分の思うようにいかなくて、失望した。失敗したんだと思っていたら、沢村が現れた。失敗したんじゃなくて、まだ元に戻れるんだよ、だって昔の自分に変わりたいって思ったんなら、また変わればいいことでしょ? あたしに教えてくれた。あたしは変わって、さっきのままの自分が一番なんだってことに気づいた。意味のない日じゃないんだって、気づいた。それがあたしの毎日で、家族がいて、友達と喋って、いい成績をとって色んな人に褒められて、自分の帰る家がある。それが幸せな日々なんだってことを、気づかせてくれたんだ。
全てのことを吐いた。そうしたら、何故かスッキリした。宮下は、こんなに沢山喋るあたしを見て、呆然としていた。あたしは沢村の方を向いて、微笑んだ。有り難うって気持ちを込めて。
「彼女は、こう思ってるらしいよ。分かった?」
「ああ、こんなに馬鹿みたいに喋る女、初めて見たわ」
宮下は、なおも鋭い目で見ていたけれど、あたしは気にしなかった。
「すいません、こんなずらずらと」
あたしが笑いながら謝ると、宮下は
「沢村があんなに楽しそうにしてるの、初めて見た」
と言って図書室を後にした。それはどういう意味か、そんなもの恥ずかしくて考えられなかった。
公園で毛布をかぶって寝ていた。もう秋だ。寒気がするのは当たり前だろう。あたしは温かい我が家を思い出しながら、のそのそと起き上がる。冷たく、硬いベンチに横たわるあたしはなんか馬鹿みたいで、いつも犬の散歩に、早朝から来る人に見られないように、早く起きる。昔から寝起きはいい方で、起きようと思った時間に、確実に起きられたのだ。
白い息が目立ってきたこの季節。それはホームレスたちに立ちはだかる壁。特にあたしみたいな、夏用の制服しか持っていない奴にとっては。どうして冬服を持ってこなかったんだろう、後悔が体を埋め尽くす。
「はよー、浅倉!」
そんな感傷に浸っていると、どこからか元気な声が聞こえた。この辺りに住むホームレスの声じゃないのは確かだ。あたしが振り向くと、そこはジャージ姿の沢村がいた。
「さわっ……」
驚いて、声が漏れる。先端部分から、徐々に赤くなってくる手で頬を冷やした。本当に沢村、なんで此処にいるんだろう、色々な思いが体中を駆け巡る。
「昨日見つけたんだ。部活の帰り、違う道で帰ってみたらさ、ほら浅倉がいるんだぜ。マジ
ビビってさあ。 あ、ストーカーじゃないぜ?」
沢村は階段を駆け下りて、土手から公園へと下りる。下り終わったら、フリスピーを投げて、それを取って戻ってきた犬のように、笑顔であたしの元に駆けて来る。可愛くて、ふふと笑いが込み上げる。青い学校指定のジャージに身を包み、寒さで赤く染まっている頬が、チャームポイントみたいで可愛い。そしてあたしの前で立ち止まり、そう言った。
最後の言葉に、吹き出す。可笑しくて、ずっと笑ってた。けど、だんだん涙も混じってき
た。次第に頬を伝う雫は多くなり、あたしは両手で目を押さえた。
こんな些細なことで泣くなんて、涙腺緩んだのかな。
いつも中心に立っていて、嫌いだった沢村が、こんなにも自分の身近な存在になっていた。こんなに温かくて、優しくて、あたしの心の中で支えてくれる存在になっていた。こんなになってしまったあたしを認めてくれる人も、喋りかけてくれている人も、いないと思った。それなのに、沢村はあたしに自ら歩み寄ってくれた。それがすごく嬉しかった。
「浅倉……? おい、何泣いてんだよ? え、気に障ること言った?」
動揺する沢村に、あたしはさっきまで眠っていたベンチに腰掛けて、呟いた。
「ううん……嬉しかったの。ごめんね、沢村。迷惑掛けて……」
目尻に溜まる涙を、指で掬い上げる。沢村は少し、あたしに躊躇いながらも、さっきから
持っていた大きな紙袋をあたしのほうへ差し出した。何の意味を示しているかわからなくて、あたしは自分の方に指を指して首を傾げてみた。これ、あたしに? と言うように。そうすると沢村は笑顔で、頷いた。
あたしは紙袋を受け取ると、中に入っている大きなビニール袋を取り出す。何が入ってい
るのかなど、なんの期待もしなかった。プレゼントなのか、それとも何か学校関係のものなのか、そんなのあたしには関係ないと思っていたし、そんなものもらったことがないから。
「……それ、開けてみろよ」
沢村がビニール袋を指す。あたしはこくんと頷いて、セロハンテープで雑に両端を閉じてある大きなビニール袋を開ける。セロハンテープが破けて、中身のものが露になる。布、紺色で、赤いタイがついている。もっと破いて、中のものを取り出した。
「冬……服?」
それはあたしがさっきまで求めていたものだった。もしかして思いが通じたのかな、なんて馬鹿なことを考えながら、沢村を見る。どうして持っているの、と問うように。
「お前、一人だけまだ夏服だろ。家に帰れないって昨日言ってたからさ、お前の家、行ってきたんだよ」
「あたしの家に? なんで? どうやって持ってきたの?」
あたしの顔が歪む。あたしはベンチから立ち上がって、叫びながら沢村の腕を掴む。
わざわざあたしの家に行ったの? 親は、なんで渡したの? あたしの事、なんて行言ってた?
あの笑顔の家庭を、壊しに行ったの、沢村は。それとも何事もなかったの? あの、あたしが入る隙間もない家族に、いきなりあたしの話題を持ちかけて。それを考えただけで、おぞましくなった。あたしは何か爆発したように、沢村に叫び付けた。
「やっ……沢村は壊しに行ったの?! あたしは見ているだけでよかったの……!」
あたしは、見ているだけで幸せなの。あたしの家族が幸せであれば、いや、もう家族なんて呼べないよね。勝手に失望して、勝手に落ち込んだ。
「寒そうだから、行ったんだよ。そしたらやっぱ警戒されてさ、けどな、お前の母親、お前の事心配してたぜ」
痛そうに顔を歪めながら喋る沢村を見て、慌てて手を離す。ごめん、と謝りながらも、その頭の中はぐちゃぐちゃで、ごめんなんて思ってなかった。心配、あたしのことを? 心臓にナイフが刺されたような寒さを感じた。どうしよう、苦しめたくなかったから、出てきたのに、反対に心配させてしまうなんて。
「……あたし、何ができるのかな」
あたしは、親の為に何ができるんだろう。できる事があるのならば、ちゃんと実行したい。迷惑をかけてしまったから、その償いもしたい。少し涙声になったが、沢村はちゃんと答えてくれた。今時の世の中、こんなことをちゃんと言ってくれる人なんていない。
「―――俺が思うには、きっと家に戻ってきてくれることを望んでいるよ」
その言葉に、何かの衝動を覚えた。あたしが家に戻れば、親は安心するの? 本当に?
「あ、俺部活の途中だったんだ。ごめん、それじゃ学校でな」
沢村は腕時計を見て、そう呟いた。靴紐を直して、また公園の門から出て行った。
言わなきゃ、有り難うって。あたしはぐっと手を握り、勇気を振り絞って、
「有り難う!」
と叫んだ。それが沢村に聞こえてなくても、きっと気持ちは伝わっているはず。
本当に有り難う、沢村。この気持ちを気づかせてくれて。きっとあたしは戻れるから。
白黒の写真に、色がついたように、あたしの気持ちは軽くなった。パレットに今まで使えなかった新品の絵の具を出して、筆で丁寧に塗っていく。例え何年もかかっても、きっと完成する、そんなあたしを、色んな人に見つめて欲しい。あたしがどのように苦しい道のりを超えてきたか。
家族、沢村、あたしを心配してくれる人はちゃんといた。一人で泣いているなんて惨めな事はやめて、この毎日に頑張って、色をつけていこう。
あたしは幸せだった。今なら何でもできると思えるほど、自信はあった。一人じゃないと思えた。味方が沢山いるような気がした。
けどそれは全て偽りなんだって、運命の悪戯に気づかされた。
寒い。怖い。寂しいよ。
それは突然訪れる悲劇。あたしの体が悲鳴をあげる。労わることもできないで、あたしの体も心も、滅びていくのだ。寒い冬は、一人じゃ越せないんだ。例え沢村がいたとしても、きっとあたしの役には立たないの。
「浅倉」
その時はまだ気づいてなかった。あたしはいつも話しかけてくれる優しい沢村に惹かれていたのは、本当の事だったから、あたしが傷付かなくきゃいけない原因がないとは、言い切れないのだ。
「ちゃんと宿題やってきたか? 俺忘れちまってよ」
さり気無く生活に役立つものをくれたり、たまに公園に遊びに来てくれたりして、今度家に帰ろうって約束もして、でも怖いと言ったら、ちゃんと着いていくから、怖がらなくていいと言ってくれたのは、沢村だった。あたしは沢村の優しさに溺れていたのだ。前までは嫌いだと言っていたのに、今度は優しさに甘えて、自分勝手なことしか考えていなかったのだ。
「バッチシ」
意外にモテている沢村と仲良くするなんて、女子の反感を抱くのは、分かっていたのに。
「あんた何考えてんのよ」
ナニモ知ラナイヨ。
「嘘言うんじゃないわよ。分かってるんだから」
本当ノコトダヨ。アナタタチハ、何モ知ラナイ。
五月蝿イ。鬱陶シイ。ヤメテヨ、アタシニ近寄ラナイデ。
あまりの圧迫感に、耳を塞ぎそうになる。怖くて、誰も助けてくれないのは知っていたけれど、誰かの名前を呼んで、助けてもらいたい気分になった。寂しい。こんな時、誰も助けてくれないなんて。悔しい。こんな時、何も言えないなんて。
「ちょっといい?」
そう女子の大群に言われたとき、悪寒はした。なにか、可笑しい、変だ、と。けれどあたしはおとなしくついて来てしまったのだ。なんで言われたときに、逃げなかったの?! トイレに連れて行かれるとか、とてもベタな場所じゃない! 過去の自分に攻め寄る。けどあたしは、こんなこと予想もしていなかったんだから、しょうがないことだったのかもしれない。
けど今頃過去の自分にいっても、遅いものは遅い。過去には戻れないから、過去に選んでしまったものをしょうがなく使わなきゃいけない。自分が選んだものなんだから、ちゃんと責任をとらなきゃいけない。
あの人たちは人間で、同じ女子、そして同学年。同類だと思ってた。けど人の価値観は、ヤバイほどに違う。あたしがあの子はいいな、と思えば、あなたはあの子は嫌いと言うの。あたしは一緒の教室にいるのに、女子と意見が食い違っていた。考える事も全て、すれ違い。
「あんた、自分が生意気だっていうこと、分かってる?」
ばん、とトイレのドアが吹き飛びそうなほど大きな音で、背の高いリーダー的な女子―――確か田鍋さんといったような気がする―――が、トイレのドアを叩く。そんな音に体を少し震わせる自分がいる。なんとも情けなく感じた。
生意気じゃない! そう叫びたいのに、あたしの体はその言葉を強制的に飲み込みさせる。女子たちの攻撃を避けるように、後退りをする。けれどもうおしまい、と言うように、後ろには壁が迫っている。そしてあたしはトイレの壁にもたれかかる。
「沢村はね、先輩たちにも人気があるの。独り占めにできるわけないじゃない。しかも、あんたみたいな意味不な子にね」
その田鍋さんは嫌味っぽく。挑発しているように言うと、ねえ先輩、と後ろに居る茶髪の女に問いかける。女子たちの視線が、そこに注がれる。
「ええ、沢村のことを想っている三年は多いわ。わたしは貴方を潰す為に此処にいるけれど」
その時あたしは初めて分かった。この人たちは、沢村のファンもいるけれど、あたしが嫌いなんだ。あたしを潰す絶好のチャンスだと思って、駆けつけてきたんだ。沢村のことがなくても、あたしはこうなる運命だったんだ。
目の前にある大きな壁は、叩いても崩れない、石を投げつけても、壊れない。それほど丈夫だった。跨ぐには高すぎる、周りなんてない、あたしを塞ぐ壁。何も、得られない。あたしを困らせる、壁、現実を見せない、壁、真実がない、壁。壁壁壁壁壁。
ふふ、と鼻で笑う先輩が、憎らしくなった。あなたは、何をしたいの、あたしは、何をしたいの。
「ていうか、あんた沢村の周りちょろちょろしてて、ウザいんだけど、消えて?」
暴言は続く。ウザイ、キモイ、死ね、造語が女子の口から飛び出す。嫌悪感を覚えつつも、耳を塞がずに、聞き流す。苦しいけど、頑張らなきゃ、踏ん張らなきゃ、この事態は悪化するばかりなのだ。
「沢村と付き合っているわけでもないのに」
「そうよ」
ええ、そうよ、そうよ、そうよ……。何回も繰り返される言葉。耳の辺りで永遠に、蝿のようにブンブンと五月蝿い音を出してあたしを囲む。
ぐさっと心臓に突き刺さる言葉。そうだよ、付き合っているわけでもないの。それなのに、沢村はあたしに優しくするの。だからそんな沢村の心に、甘えてしまうの、あたしは。沢村の膝の上は、心地良い。嫌な事は見ずにすむから。沢村はあたしの救世主だよ。そう、付き合ってなんか、いないの。無関係なの。意図的な問題じゃなくて、これは自然に出来てしまう真実。
誰もがあたしの返事を待っている中、あたしは押し黙った。何も言えずに、トイレの壁にもたれかかり、俯いたまま、押し黙っている。そんなあたしを見て、先輩も、田鍋さんたちも、嫌悪感を覚えたのか、いきなり吠え出した。
「鬱陶しいなあ、もう! 何よ、この根暗! 陰気野朗っ!」
罵られて、壁にもたれかかる力が、増して来る。一生懸命あたしを罵る言葉を考えて、思い浮かんで、それをあたしに言って、あたしが傷付いたら、クリア。そんなゲームをしているようだった。あたしは犠牲、サイコロ、あなたの言うがまま。
なんで沢村は助けてくれないの? 救世主じゃなかったの? なんで必要な時に、隠れるの?
「沢村は来ない、あなたなんかを助けに来ない! あなたは捨てられたの、見捨てられたの、どうでもよくなってしまったの!」
頭の中で、思いが爆発する。
「五月蝿い!」
もうこの身なんて捨てていいと思った。沢村に捨てられたなら、もう生きている必要はない。死んだあたしに、息を吹き返せ、生きろ、まだ戻れるといったのは、沢村でしょう。それなのに、また沢村の所為で死にたくなったの。最悪じゃない。人の言うがままで、何も自分が思ったとおりにできないの。できたとしても、失敗する。きっとあたしは、失敗していたんだ。沢村はすごいとか、勇気があるとか、そういうあたしを励ます言葉ばっかり言ったけど、信じたあたしが馬鹿だったの。
「もう何も言わないで」
何も身につけてない、無防備な言葉があたしの口から飛び出す。こんな事を言って、余計傷付くのは分かっている、相手の思うままになってしまうことは、分かっている。けれど今のあたしには、正直に話すことしかできない。
「何よ、ウザい女! あんたは好きなわけ、沢村の事が!」
田鍋さんの声が、あたしの脳内で、リピートされた。
“好きなわけ”
あたしは“スキ”なの? 沢村の事が“スキ”なの? “アイシテル”の? 沢村のために、涙を流せるの?
駄目だ、できない。人のために、そんな無防備な事、出来ない。あたしはわがままだから、あたしがいいように考えてしまうの、あたしが得するように考えてしまうの。だから人を愛するなんて、できない。あんな人生をたどってきたあたしに、恋をする資格はないの。
「ねえ、聞いてるの?!」
ヒステリックな田鍋さんの声が、あたしの耳に10倍小さくなって聞こえる。
“スキ”その言葉は、そぼろになって、雪のようにあたしの頭上から降ってくる。あたしが触れた“スキ”は全部壊れてしまうの。“スキ”は繊細すぎて、あたしのような者に触れられると、全ての細胞が死んでいってしまうの。
―――それなのに。
「……ない」
「は? もっとハッキリ言いなさいよ」
「分からない……」
ハッキリと言えないあたしが憎い。“スキ”に触われないのに、とても触りたがるあたしがいる。沢村のことが“スキ”だと言える資格なんてないのに、そうじゃないよ、と言えない自分がいる。
「分からないの……知らないの……言えないの」
あたしは涙ながらにそう伝えた。自分のことなのに、何も言えない、分からない、知らない。どうしていいか、分からないの。
「意味分かんない……」
田鍋さんはそう言うと、あたしの腹部を思い切り蹴った。苦しくなって、咳が出る。ゴホゴホと、静まり返ったトイレに、あたしの咳が響く。
「―――そんなハッキリしないなら、沢村に近寄らないで! あたしがどんな想いで、貴方を見ている、か……」
あたしは鈍い音を出して、その場に座り込む。田鍋さんは、涙声になった。咳で苦しい中、涙で視界が狭くなる中、あたしは田鍋さんの頬を涙が伝うのを見た。
「そうよ……! あたしたちの事も知らないで、勝手なことしないでよ!」
色々な人が、蹴る。蹴る、蹴る、蹴る、蹴る、蹴る。
肉体的にも、痛いはずなのに、精神的に傷付く。痛くて痛くて、しょうがない。田辺さんたち沢村ファンがそういう風にあたしを見ているなんて、知らなかった。自分のしていることが、恥ずかしくなる、情けなくなる。
「ねえ、あんたたち! 何やってるの、先生にバレるよ、もしかしたらこいつ、沢村にチクるかもよ!」
そう言うあたし目当てに来ていた先輩たちが、慌てて田鍋さんたちを止める。けれど田辺さんたちはとまらない。むしろ、激しくなる一方だった。
「黙ってください! チクったっていい、退学になったっていい! あたしはただ、沢村を愛することしかできないんだから!」
そう言って田鍋さんは、座り込み、あたしの顔面を殴りかかった。
痛い、血が飛ぶ。真っ赤な真っ赤な、赤い血が、あたしの血が。口から飛び出す。
「愛される事なんて、望まない! 沢村が幸せならいいの!」
そう言う田鍋さんは、どうしても憎めなかった。自分の全てを、愛すべき人に捧げる。すごい決心、すごい勇気、あたしなんて、到底できない。
それなのにあたしはどうだろう。曖昧な考えで田辺さんたちを傷つけた。
やっぱあたしは、誰かを愛する事なんてできないんだ。
「あなたなんて、いなければ良かったのに!」
最後の言葉は、あたしも納得した。ごめんなさい。あたしがいなければ、皆苦しまずにすんだんだから。本当にごめんなさい。
意識が朦朧とする中、あたしはずっと謝っていた。
だってあたしがいけないんでしょ。あたしが原因なんでしょ。あたしがいなければ良かったんでしょ。
部活に行こうとしている生徒、大きな声で喋りながら帰る生徒、と騒がしい放課後。
あたしが、一歩、また一歩、と廊下を歩くと、皆声が小さくなり、誰もがあたしを避ける。
ズタズタに引き裂かれた制服に、髪の毛はぐしゃぐしゃ、体の所々から血がでて、痣も数ヶ所出来ている。そんな惨めなあたしを、誰も見ようとしない。口からも流血しており、廊下に点々とあたしの血が滴り落ちていた。
あんな人に触りたくない、関りたくない、同じ場所にいたくない。
皆色々な思いがあると思うが、そそくさと帰っていく姿は、あたしの惨めな感情をより引き起こす。次第にそれはエスカレートしていった。早く教室に行って、カバンを持って、家とは言えないけれど、あの公園に帰るんだ。
涙が滲んで、狭くなった視界で、廊下を歩く。それなのに残酷な運命とも出会う。あたしの歩く道に、足をワザと出して、あたしを引っ掛ける。
足をとられて、転ぶ。鼻の頭が剥けた様な感覚がした。けれどそれも、体中の痛みに比べれば如何ってこと無い。あたしは涙と血が混ざる中、必死に立ち上がった。
膝の頭が擦り剥けている。痛そう。けど痛くない。感覚が薄れてきている。この世界から、消えたい。苦しい。皆が笑ってる。あたしは笑い者だ、除け者だ。少しでも希望が見えてきた、なんて言って浮かれているあたしが、馬鹿みたいだ。
それなのに、なんで貴方はこんなに優しいの? こんなことを考えているあたしに、なんで優しくするの? けどね、もう遅いの。
「浅倉、ほら」
目の前には手を差し出す沢村。周りの男子たちが、ヒューヒューと口笛を吹く。そうすると沢村がうるせえ、と叫び散らした。そんなやり取りが鬱陶しくて、たまらない。
まるで救世主ね、けれど皮を剥がせば、何が待っているのかしら。一番あたしの必要とするときにこない救世主なんて、裏があるに決まっているの。
そんな事を思っている、悪いあたし。沢村は悪くないのに、何故かそう思ってしまう。八つ当たりしてしまう。そんな自分が、なんて馬鹿らしいか。
あたしは沢村の手を払い除けた。そんな事したら、沢村が傷付くと知っていたのに、何故か手を払った。
「あさ……くら?」
当然呆然とする沢村。あたしは無言で、無表情のまま、沢村を見つめていた。何の感情もない。ただ、ただ、この世の中が信じられない。沢村は、どうして? という表情であたしを見つめる。あたしだって、どうしてか分からない。ただ、その表情がムカついたの。
振られた、振られた、と騒ぐ男子共が鬱陶しくて、五月蝿いと怒鳴る。
あたしは静かに自分の手で立ち上がると、何も言わずに立ち去ろうとした。けれど沢村は、納得いかない顔をして、あたしの腕を掴んだ。
「お前、どうしたんだよ! その傷、その態度! 何があったんだよ!」
あたしの腕を掴んで、強い意志で叫ぶ。あたしはそんな沢村に、同情したい気分になった。あたしなんて心配したって、何の得もないんだよ?
「何も無い! 沢村には関係ないの!」
そう言って走り出した。
ただ、ひたすら、何かから逃れたくて、頑張って走った。
大きな壁が待っているのも知らずに、何処にたどり着くのかも知らずに、ただ、ただ、悲しみを吹きとばそうと、恐怖から逃れようと、走った。
あたしと沢村が、幸せに一軒家で、暮らしている夢。そんな夢を見た。夢は欲望とか言うけれど、それはきっと嘘だよ、きっと。
「大丈夫か、浅倉!」
深い、それはとても深い眠りから目覚めたようだった。目を開けると、沢村の顔があった。驚いて、起き上がると、頭痛がした。
驚いて周りを見回すと、此処は保健室で、カーテンの隙間から覗く元気な大きな声、温かい日差し、今が昼だって事が分かった。真っ白いベッドとシーツは、汚れたあたしを消毒しているようだった。
「さわ……むら?」
その言葉と一緒に、あたしは沢村に酷いことをしたということを、思い出す。もう逢っているけれど、合わせる顔がなくて、反射的にそっぽを向いてしまった。嫌な奴だと、思われている。
けれど沢村は、あたしの首根っこをつかんで、沢村の方に無理矢理向かせる。やめてよ、と嘆きながらも、大人しく従う。沢村は今から何を言うんだろう。期待と不安が混ざった。
「貧血だよ、絶対。大体お前、血流しすぎだから!」
けど沢村は、こうやって、何も無かったように接してくれる。あたしを心配して、叱ってくれる。誰よりもあたしの存在を認めてくれる。そんな沢村が、とても優しくて、安心できる存在だった。
「……ごめんなさい」
あたしは小さな声で謝って、俯いた。救世主じゃないとか、肝心な時にいないからもう嫌だとか、考えていたあたしが恥ずかしい。沢村はちゃんと、あたしの傍にいるという役割を果たしてくれたじゃない。そんなことに気づかないあたしは、なんて馬鹿なんだろう。
「いや、無事で何よりだ」
沢村はそう言って、あたしの頭をぽんぽんと撫でた。心地良い、場所、あたしが安心して居座れる、唯一の居場所だった。
それと同時に、今までずっと溜まっていた涙も溢れてきた。痛い。寒い。寂しい。怖い。あたしはどうすればいいんだろう。何をすればいいんだろう。
手首には生々しい痣、足や手には、幾つか傷ができているだろう。それを見て何があったの、と聞かれるのが怖かった。ただ、彼女たちの気持ちを考えれば、痛みもなんとか我慢できるものだった。彼女たちも、辛い思いをしていたのだ。今もなお、それは継続されている。
そうだ。
彼女たちは、苦しんでいる。
あたしの所為で、あたしの行動で、今も、あたしと沢村が、一緒に居る事が原因。
―――貴方ナンテ、居ナケレバ良カッタノニ……
悲しそうに、ヒステリックに、絶望的にそう叫んだ田鍋さんの声がリピートされる。
あたしが居なければ、田鍋さんたちは幸せに過ごせてた。あたしの存在が、いけないもの。生きていたら、可笑しい存在?
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
あたしが悪かったんです。こんな自分勝手な考えして、質問一つにも答えられない下らない女。皆にも迷惑をかけたし、沢村と親密になったのもあたしの所為。こんな惨めな思いをするんだったら、生きたくない。そんな事さえも思えるようになってしまった。
「……浅倉?」
ハッとし、沢村を見る。その目、やめて。心配しているような、目、あたしを哀れんで、あなたの世界に引きずり込もうとする。沢村の所為ではない。けれど、どうしても責めてしまう自分がいる。
そしてあたしの目には、透明な雫が浮かんでいた。
「っ……ごめんなさい!」
なんだか自分が制御できなくなっていた。泣きたい、と思っていないのに、自然に涙が出てしまう、嘘が出てしまう、人を傷つけてしまう。
これ以上、あたしがこの世界にいては、この世界が狂ってしまうだけ。
一体どうすればいいのよ。あたしにどうしろというのよ。あたしに何を求めているのよ。
「……今は1人になりたいだろ。少し、保健の先生と話してるから、ちょっと考えてみて。きっと今とは違う世界が見えるよ」
そんなブラックなことを考えているあたしとは裏腹に、無理してなのか明るく笑って、沢村が保健室から出て行った。
ねえ沢村、今日は保健の先生休みだって知ってるよね。なんでそんなに優しいのよ。
あたしが1人で泣いていると、スライドドアが開いた。あたしは制服の裾で目をこすり、涙を止めた。
「さわ……」
けれどそこに立っていたのは、沢村じゃなかった。あたしの望んでいるものではなかった。
「ご機嫌如何、浅倉さん」
田鍋さんだった。その強い意志を宿す目から、謝りにきたのではないということが分かった。
あたしは唾を呑み、渇いた喉を潤した。そして、決心したように言葉を出す。
「何の用ですか、田鍋さん」
「ムカついたから来たの……また、沢村に助けてもらったんですって?」
なんでここまで情報収集が早いのかしら、と思いながらゆっくりと頷く。それは真実に変わりない。どうやってフォローしても、嘘はバレてしまうのだから。
その途端、歪む田鍋さんの顔。また、胸が苦しくなった。
「あそこまで言ったのに、どうして分からないの? 何を言えば分かってもらえるの? 貴方は知っているはずよ、貴方が傍にいて沢村は傷つくばかりだと!」
本当のことを言われてしまうと、言葉が返せなくなる。あたしはまた押し黙ってしまった。
「また黙るの? 黙って終わると思わないで、逃げれると思わないで」
「じゃあ何、貴方はあたしの言葉を待っているの? だったら言ってあげるわ、貴方が満足するまで……けど、あたしは頑張るもん。沢村があたしの傍にいても、傷つかない日まで、頑張るから!」
あたしの決意は、固まった。ほら、ようやく分かったよ。あたしにだって、分かるじゃない。“スキ”が。
「……駄目よ、無理よ、貴方には到底無理よ。沢村のために何も出来ない貴方になんて」
「できるわ、何か、何かあるはずよ。あたしにだって、できること」
“スキ”と言う言葉が、やっと原型で見える、触れる。今までは、あたしが触ると、ぼろぼろになって壊れてしまった気持ちが、今はハッキリと分かる、言える、感じる。やっと気づいた。
あたしは沢村に“スキ”という感情を持っていたんだ。
「あたしは、スキだから。沢村のこと、好きだから。貴方たちのほうが沢村のことを想ってるかもしれない。けど、あたしはあたしで沢村のことをいっぱいに好きなの」
失われていた感情、気持ち、真実。奥に潜んでいた本当の気持ち。彼女のおかげかもしれない。麻痺していたものが、カチカチに凍っていたものが、全て溶けて、元の場所に戻ってきた。
溶けてゆく。何かが、ぼろぼろと。壊れて、溶けて、崩れて、あたしがあたしじゃなくなっていく、そんな気がした。それは快感に似ていて、爽快にも似ている、そして絶望的な感覚にも思えた.
そう言って彼女は、泣くあたしを温かく迎えた。今まで誰もしてくれなかったこと、あたしがして欲しかった事、言って欲しかった事、少女には全てが丸分かりだった。
そう言って彼女は、あたしの髪を割れ物のように触る。その言葉を聞いた途端、あたしは何故か、安堵感からか、涙が零れてきた。
情けない。けど、苦しみは嘘のように病んでいく、無くなっていく。
何かが、崩れていく、崩壊していく。あたしの、緊張して動かなくなった体の一部、苦しんできた場所、飢えた感情。全てが治ったような気がした。涙と共に、いらないものが零れていく。
「……っ……酷い、貴方は残酷だわ」
気が付くと、田鍋さんの目にも涙が浮かんでいた。それは哀れで、惨めで、見ているこちらまでもが辛い気持ちになった。
「ごめんなさい」
「謝らないで、もっと惨めになるから」
田鍋さんが潤んだ瞳でそう言い、早々と保健室を出て行った。
一体なんだったんだろう、そんな勢いで去ってしまった田鍋さん。けれどあたしの心は晴れていた、今までにもないくらいの勢いで晴れていた。
認めてもらえた。
あたしが沢村の傍にいても、沢村が傷つかない日がくると、そう言ってくれた。あたしが“スキ”を持つことが許された。こんなあたしであっても、人を好きになれた、なってもよかった。
「遅くなってごめ……って、お前何泣いてるの? 傷が痛み出したのか? 大丈夫か?」
沢村がきても、あたしは開放感でいっぱいだった。
「嬉し涙だよ、初めての」
あたしたちはそれぞれ家に帰った。あたしは何も言わず、沢村と肩を並べ、帰った。そして、別れ際にこう言った。
「あたし家に帰る」
それは一大決心だった。自分でよく考えた結果だった。変わりたい、そう強く願って今の姿になった。けれど何も変わらなかった。それより、もっと酷い現実を見た。
けれど、大切な、幸せな、残酷な、色々なことを知った。そして経験も積み、家に帰る勇気も備わった。
沢村はそんなあたしの言葉を聞き、何も言わずに暫くあたしの顔を見ていたが、やがてこう言った。
「頑張れ」
それがいかにあたしにとって嬉しかったことか。誰にも分からないだろう。
「もし、暇だったら一緒に来てくれないかな」
そして約束をした。お互いの細い小指を絡めて、ふふと笑い合った。
「当たり前じゃん」
そしてあたしたちは、沢村の家からおよそ10分ほどで懐かしき我が家についた。
決心したにも関わらず、目の前に行くと足の震えがとまらなかった。考えは悪い方へと進み、吐き気さえもしてきた。戻ろうか、戻ってしまおうか。けれどここまで付いてきたくれた沢村に悪い。行かなくちゃ。そんな思いが頭を駆け回る。
そんなあたしを見かねてか、沢村が優しい言葉をかける。
「今行かなくてもいいんだぞ。まだ明日があるし、時間はまだまだあるから」
けれどあたしは首を横に振り、玄関に一歩近付いた。渇いた喉を自分の唾で潤す。震えはとまることを知らず、強まる一方だった。
その時、あたしの手に温かいものが触れる。
「沢村……」
あたしの手は、沢村と繋がれていた。しっかりと、お互い握り合って。そんな優しさに胸が高鳴った。
「ほら、前見て」
素っ気無くいう沢村だが、手から優しさはあふれていた。握り直して、また一歩、また一歩、と歩き、チャイムを震える手で鳴らした。
心臓がドキドキ言って、沢村に聞こえてしまうかと心配になった。もしかしたら外に普通に聞こえてるかも、などの馬鹿らしい考えも浮かんだ。
「はーい、ちょっと待ってくださいね」
そういう暢気な声とバタバタという足音が、ドア越しに聞こえる。
お母さんだ!
沢村の手を握る力が強まる。次第に手が汗ばんでいく。
「はーい、なんでしょ……」
ドアが開いた。母さんは口をぽかんとあけて、あたしを見つめた。あたしは緊張しながらも、しゃんと立ち、何か言おうと必死になって脳を動かした。
「……唯」
お母さんがそう言った。心臓が高鳴る。あたしの名前を呼んだ。よかった、まだ忘れてくれてなかったんだ。
そんな考えをしていると、あたしの頬に衝撃が走った。それがなんなのか、最初はいきなりで分からなかったが、次第に熱いじんじんとした鈍い痛みが頬一杯に広がってきた。そこで初めて、あたしは叩かれたんだと感じた。
「った……」
痛みと驚きで、あたしの体が飛ばされる。そんなに勢いはないのだが、気持ちが緩んでいたため、大きな負担となってしまった。命綱だった沢村との手も離れてしまった。
「貴方、あたしたちがどんなに心配したか分かっているの?!」
お母さんの罵声が飛ぶ。それは何よりも痛くて、身体に突き刺さるような冷たさを感じた。だけど心のどこかで、またお母さんと言葉を交わせるので、嬉しく思っていた。
「ごめんなさいっ……! けどあたし、これで良かったと思っているの。お母さんたちには迷惑をかけてしまった、けどね、これでやっとあたしは本当の現実を知れたの。もしあのままだったら、あたしは世間知らずのお嬢様よ。だから、あたしはっ……」
涙が零れる。一気にいいすぎたのかもしれない。けれどこれが、お母さんたちへの本当の気持ち。嘘なんか吐いても、意味がないから、ちゃんと言うわ。
あたしは濡れた瞳を拭って、またお母さんの方に向き直る。お母さんの驚いたような悲しんでいるような顔。ごめんね、心の中でもう一度言って、また口を開けた。
「でも、もうどこに行かない。あたし、改めてお母さんたちの大切さを知った。家族ってとってもいいものなんだって、知った。だからもう、お母さんたちの傍を離れない。というよりも、離れられないわ……」
だから今までの経験を無駄なんて言わないで。きっとあたしは、この数週間で立派になった、大人になった。きっと前よりももっと、強く、強くなったわ。それはあたし1人で出来たことじゃないけれど、ねえ沢村。小さく小さく、また心の中で言う。
沢村、有り難うって。
「だから、だから、要らないなんて言わないで……」
泣き崩れる。馬鹿、弱くなったところを見られてどうするの。けれどあたしの体は、言うことを聞かなかった。
沢村が駆け寄り、大丈夫かと聞いてきた。あたしは力の入らない足を張らせて、大丈夫よと沢村に言う。けれど力が入らない。また、恐怖が押し寄せてきたんだ。あのときのように、要らないなんて言われる日が来ることを恐れてしまった。
「馬鹿な子ね、要らないなんて思ったこと……一度もないわ」
だが、そんな考え、すぐに吹き飛ばされてしまった。
そう言って、あたしを抱き締める。あたしの涙は一層酷くなる。あたしもお母さんを抱き締める。此処にお母さんはいるんだよね、と手の温もりでお母さんを感じ取る。そしてあたしも此処にいるんだよ、と確認させる。ごめん、そして有り難う。あたしは此処にいるよ。もう何処にも行かないよ。だからお母さんも、あたしをいらないなんて言わないでね。
何も言えないまま、何も言わないまま、あたしは抱き締められる。その腕からは、優しさがにじみ出ていた。
そして長い間の抱擁が終わった。お互い何も言わずに、絡まっていた腕たちをゆっくりと離した。あたしがお母さんの目線を探して上を向くと、ちょうどお母さんと目が合う。あたしはゆっくりと微笑んで、
「お母さん、行ってきます」
静かに言った。もうどこにも行かない。ちゃんと帰ってくる。だからお母さんも、帰ったときには「おかえりなさい」って微笑んで言ってね。
あたしはゆっくりと振り向くと、沢村の手をとった。こんな積極的なことはしたことがなくて、そのうえお母さんも見ていたから恥ずかしかったけれど、手をとった後沢村もあたしの目を見て微笑んでくれたから、あたしも笑顔が零れた。
「行ってらっしゃい」
お母さんの口から零れた言葉。それはあたしがずっと待ち望んでいた言葉であり、とても心地の良い言葉。どっちにしてもあたしが安心することに変わりなく、自然と嬉しさが込み上げてきた。あたしはゆっくりお母さんに微笑むと、沢村と一緒に走った。どこに行くのかは分からない。けれど帰るところはあるから、大丈夫。
「公園……寄ろう」
足の速度を弱めて、小さな公園のベンチに腰掛けた。今頃かもしれないけど、心臓が爆発しそうに高鳴っていた。隣に座っている沢村に聞こえてしまうのではないかと考えたほどであった。けれどさっき、これは恋だと認めてしまった。そして沢村の事をもっと前から好いていた彼女たちよりも、遥かにチャンスはあった。何回も二人きりになったし、今だって告白しようと思えばできた。
「あのっ」
有りっ丈の声。上擦っちゃったかな、変だったかな、いやだ、恥ずかしい。恋するって大変だ。一々気にしていたら、きりがないよ。
「ん? どうしたの」
「えと……」
迷う。今あたしが言うべきことは何なんだろう。第一優先すべきのは、告白ではない。そう気付いた。だって今のあたしがあるのは、沢村のおかげだもの。
ほら、なんて言うの、あたし。此処までついてきてくれて、有り難う。あたしと出会ってくれて、有り難う。何よりも嬉しいのは、いつもあたしの支えになってくれて、有り難う。
言葉に詰まらせているあたしを見て、ふと沢村があたしの肩を優しく撫でた。その温かさが優しくて、優しすぎて、ああ、やっぱり沢村は沢村なんだなって思った。
「大丈夫、落ち着いて」
宥めるようなこの声。落ち着く、安心する。そして安心からか、涙が溢れてきた。頬を伝い、ゆっくりとあたしの何かを洗浄していくかのように。
「ごめっ……なんか安心したら、なんか緩んで……」
涙を拭いながら、ゆっくりと肩を寄せ合わせた。ねえ、恋人同士に見える? 言葉は出ない。けど、涙はあふれるばかりだった。
小さく笑うと聞こえる吐息が、とても愛おしかった。ねえ、有り難うなんて必要ないよね。もう、あたしたちには。
まだ幼い顔を並べて、小さな唇を合わせる。そして誓いを立てる。
「いつか、あたしたちの家に帰ろうね」
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2007/05/24(Thu)21:09:25 公開 / あひる
■この作品の著作権はあひるさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。前は色々と失礼しました。
言われた事はちゃんと守ったつもりですが、まだおかしいところがあると思います。もしよければ教えてください。
そしてやっとの完結です。今まで応援して下った皆様、ありがとうございました。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。