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『オーボエ吹きと白い羽』 ... ジャンル:ファンタジー 異世界
作者:千切れ雲
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prologue
白華が舞い落ちるかの如く、一枚の羽根が風に揺れる。
夜空を蒼く彩る月光を浴びて、白銀のそれは眩しく煌いた。やがて地に辿り着いたそれに、また別の影が重なる。
無数の羽根が降り注いでいた。そして、夜闇に紡がれたその白い幻想の中から、一人の少女が降臨する。
肩にかかる程度に切り揃えられた銀の髪がふわりと踊り、膝を抱えるようにして丸めたその肢体は透き通る白。その背には、彼女の身体を遥かに上回る大きさの翼が在った。
風が止み、少女はゆっくりと目を開けた。綺麗な顔立ちに浮かぶ瞳は漆黒。彼女の白い肌に、それはよく映えていた。立ち上がり、振り仰いだ先に捉えた満月を見つめる。
皓々と光を湛えるその向こうから、澄んだ音が聞こえていた。愁いを帯びたそれは、誰に捧げられた演奏であるのか。悲しげに震えながら紡がれ流れる音楽。ゆったりと奏でられる旋律は一つであるというのに、少女が耳にしたことのある音の中でそれは何よりも美しかった。
夜月と見事に調和した曲はやがて終焉を迎え、儚げな響きを持って幕を閉じた。同時に、吹き抜けた風が散乱していた羽根を一掃し、独り残された少女はようやく我を取り戻したように改めて周囲を見回した。
荒涼とした大地。草木一つ無い赤茶色の土が永久に広がっているようであった。彼女はつまらない景色から目を逸らし、再び月を見た。
今や静寂のみ佇む満月のもと、彼女は沈む月目指して歩き始める。近い暁に、薄くなり往く月明かりが消えぬうちにと、少女は歩く。淡い陽光と月光に照らされ、双方に伸びた少女の影。折りたたまれていた翼が、静かに開かれる。
風塵が、舞った。
第一章 「月下の出会い」
木々の隙間より注ぐ陽光が、辺りの緑を鮮やかに照らす。風の囁きに呼応するかのように葉がざわめいて、淡く差し込む光の帯はそれに合わせてゆらり揺れていた。森は、爽やかな息吹に包まれたように心地よくそこに在った。
千年の樹。深緑の中、堂々と聳えるその一本の大樹を、人はそう呼び、平和の象徴として守り続けている。逞しい幹より感じられる歴史の始まりを知る人は居らず、名の所以となるほどの遥かな樹齢を誇るそれは、生い茂る葉の量もさることながら、温もりを覚える優しい雰囲気が何よりの魅力であった。訪れる者は皆、風と葉の紡ぐ静かな旋律に酔い、樹の重厚な穏やかさに癒され、時の経つのを忘れるほどまでに心奪われる。人は日々の疲れを忘れるため、散歩ついでによくこの涼しい木陰に来るのである。それでも樹が傷ついたりしないのは、樹の持つ威徳故であろう。
その千年樹に、背を預けるようにして佇む男の姿があった。
腕を組み、顔を伏せった様子から、彼は眠っているようである。涼風に揺れる髪は漆黒。鮮やかなその髪と比べ、彼の装いは色褪せたものであった。なめし革の胸甲や肩当、その下に覗く藍色の衣もまた、かつては麗しくあったであろうに、今はその面影は感じられないほどになっていた。腰に帯びた剣もまた使い古したようで、革製の鞘は所々破れ、そこから見える鈍い輝きは、とても手入れされているとは思えない光沢であった。しかし、彼の足元にある黒革のケース、片手で持ち運び出来そうなそれは、痛んだ様子も無く、置かれている。
彼は、森を抜けた先にある荒地、その向こうに建てられた砦に配属された傭兵隊の一人であった。北方より攻め入ってくる敵国の軍の侵攻を阻止せねばならないはずの彼であったが、それを知ってか知らずか、彼は眠っている。それも一人で。
爽やかな風が吹き抜けて、彼は目を覚ました。寝起きであるというのに、彼は険しい表情で辺りを窺っているようであった。若い容貌を忘れさせるほどの沈静な様子。鋭い眼光が、太陽に照らされた森を射抜き、凝視された先には恵みの風が通り抜けて往く。緑の息吹とは不釣り合いな彼の表情であったが、そんなこと男にはどうでもいいことのようであった。
去り往く風の来た道、木々に隠れて見えないがその先にあるであろう荒野の砦の方角を彼は振り仰いだ。
「親友よ。悪いが、もう戻れないのでな」
誰かに話しかけるようにも、自分に言い聞かせるようにも聞こえた呟き。彼は後悔を断ち切るようにして視線を元に戻すと、一度屈んで足元のケースを取り上げた。帯びた剣よりも大切そうに、それを眺めると、彼は歩き始めた。森の東には人の村が、西には滔々と流れる川を挟む谷があるが、彼の足は西の方へと向かっているようであった。
地面の表に飛び出た太い根の丘状の道を早足に行く。遮るように垂れ下がった枝を振り払いながら、彼は目的の“人知らずの谷”へと迷い無く進んでいった。この森は人の手が加わったことの無い森であるから、抜けるには一日二日は費やすであろう。しかし、疲れを知らぬような彼の足取りはどんどんと先へと進み、先程の千年樹での仮眠を入れても彼はまだ月を一度しか見ていない故、鳥のさえずりは激流の音へと変わっていくのにそうかからなかった。強靭な体力は傭兵の訓練の賜物。彼は皮肉ったような笑みを一瞬浮かべると、最後の一枝を払いのけた。
空は黄昏に染まっていた。その夕暮れに彩られた谷の光景は、荒々しくも、情緒を煽る哀愁を帯びているようであった。岩壁は沈む日の影に覆われ、川は暮れる日に色を染め、滔々と流れ往く姿は勢いよりは趣あるそれとして感じ取れる。
ほう、と彼の口から溜息が漏れた。深緑の生命力より、彼にとってその光景は素晴らしいもののようであった。
確かに、夕焼けを浴びた彼の背は、高く唸る風と重なって憂いを帯びているようで見事調和しているようである。彼は崖下を覗けるくらいまでにぎりぎりのところへと歩み、腰の剣を鞘ごと抜き取った。
「所詮、傭兵。たかが駒の命果てようとも、支障あるまい」
低く呟き、彼は随分と痛んだ剣を宙に放った。それは一瞬空で止まったように見えたが、すぐに重さに引かれ崖下へと落ちる。視界から剣が消えると、彼は満足気に腰を下ろした。遠くの奥底より、金属が岩にぶつかる鈍い音が聞こえた。
もう戦わない。
誓った彼は、兵としての命を絶った。今宵一人の戦士が死んだ。
男は何気なく背後を振り見た。森から突き出た巨大な樹。僅かな休息をくれたそれは、夕闇の中でも聳えていた。その力強い影に、彼は親友の姿を想う。暗闇の中でも、決断を貫くその頑なな姿と、親友が重なったのである。
「すまない、マルク」
親友との時間もまた、僅かな休息であったのだろうか、とそう思うと彼の心は苦しかった。彼は森から目を背けるようにして、そのまま移した視線で手にした黒革のケースを見つめた。剣を捨てた彼に残されたのは、それだけであった。
◆
突如、夜に紡がれた旋律。
深い呼吸から流れ出ずるアダージョに始まり、哀愁に満ちた甘美な音色が響き渡る。
単音気ままにいつまでもカデンツァ。月光よりも儚い音楽が、豊かなビブラートに揺れながら奏でられている。
奏者は谷の岩場に腰掛けて、オーボエを奏でていた。黒革のケースに眠っていたそれは、唯一彼に残されていた宝物。二枚のリードが震え、そこから生まれる縦笛の音色は悲哀を歌う人の声を思わせる。漆黒の笛は、注ぐ月光に照らされてそのキーは銀色に煌き、流れる音楽と相重なって幻想に包まれた世界を描いていた。
やがて、フェルマータの余韻に消えた彼の演奏。男はリードから口を離し、月夜に聞こえる音の名残に耳を傾けるようにして目を閉じて、それからすぐに目を開けた。
静寂を取り戻したはずの谷に、拍手が聞こえる。乾いた音でパチパチと、それは一人の拍手のようであった。
男の顔に、厳格な表情が戻った。鋭利な視線が闇を貫き、拍手が聞こえる森へと届く。何も見えないはずの闇にぼんやりと影が揺らぎ、拍手の音が近づいてくる。
たった一人の客は、男の敵か味方か。彼はそれを見極めようと暗闇を凝視した。生憎、背後は崖であるし、剣は捨てた。手に握ったオーボエは決して人を傷つけるものでなく、楽器。彼はオーボエを庇うようにそれを背に持っていくと、岩から立ち上がり身を低く構えた。
茂みを払う草の音。だんだんと大きくなる拍手。
戦慄が走り、高まる緊張。脈は速くなるばかりで、彼は息を呑んで時を待つ。
最後の一枝を払い除けて、とうとう客は姿を現した。
少女、であった。銀の髪を揺らして、小さな白い手で拍手している。幼い顔に浮かぶ笑顔は、その純粋そうな瞳をもってして男を困惑させた。そして何より、男は少女の背に見える翼に目を奪われていた。
白銀の翼が、それは確かに少女が携えているものであり、決して作り物と思わせない神聖さをもって月に照らされている。白いワンピースや白い素肌、銀の髪、白銀の両翼。闇に浮かんだ白い少女は、まるで雪のように、まるで天使のように愛らしく拍手し続けている。
「もう一回」
彼女は言った。
「もう一回、やって」
拙いお願いに、男は声が出なかった。
敵か味方か、その区別以前に、彼女は人外な存在である可能性がある。まさかコスプレとか、そういう類のものでもないであろう。男は一歩後退りして、それから庇っていたオーボエを体の前に持ってきた。
「それ、なあに?」
幼いながらも、少女の声は凛としていた。歌でも歌えば、それはよく通る響く声であろうと思う程の綺麗な澄んだ声。
「それで、音出すの?」
男は無言のまま頷き、唾を飲み込んだ。
「聞きたいの。もう一回」
凛とした声の終わりは掠れていた。よく見ると、透き通るような彼女の肢体の美しさ、というのは、軽く触れれば壊れてしまいそうな儚い美である気がした。声の掠れ、あるいは歩み寄ってくる足取りの弱々しいこと。
「聞かせて」
言いながら、突然少女は崩れ落ちた。
白い羽根が宙に舞い、幾枚かが暗い地に散乱する。荒い呼吸をする少女に向かって、男は思わず駆け寄った。触れ難い雰囲気を纏う少女。見たところの外傷は無さそうであったので、試しに男は彼女の額に手を当てた。
「……熱いな」
男は手にしたオーボエを一度平らな岩の上に置くと、空いた両手で少女を抱えようとした。しかし、背に回した手を、男は思わず引っ込めてしまった。彼の手が覚えた感覚というのは、柔らかな羽が確かに彼女の背から生えていることを確信させた。決して飾りではない、本物の翼。咄嗟に辺りを見回して助けでも求めようとするが、真夜中にこんな谷に出歩く物好きなどいるわけもなく、独りであることを改めて思い知った彼は思い切って少女を抱え上げた。
軽々と少女を抱えた男は、平らで冷やかな岩場に少女を寝かせた。背の翼をどう処理すればよいのか迷ったが、折らないように広げて寝かしてやった。
さて、と男は呟き、周囲を見回した。出来ることといったら薪でも集めて暖を取る程度であろうこの谷では、熱を下げるようなものも無く、あるいは少女をこのまま放っておくことも出来なくもないのだが、男はオーボエを手にした。
男にとって、少女からの拍手は非常に暖かなものであった。今まで傭兵として生きてきた彼にとって、オーボエはただ自分だけを癒すものであった。傭兵どもの宴会といったら、それはオーボエが奏でる甘美な音色にそぐわないものであり、酒飲み物食らい、騒ぐだけ騒いで荒々しいだけに終わる。故に、少女は男にとって初めての客であった。それがたとえ有翼の人間であったとしても、それは変わりない事実。
元来喧嘩は嫌いであった。しかし、売れない音楽家の家に生まれた彼が食っていくために残された道は、雇われ兵、あるいは音楽の二つであり、親の不幸な音楽人生を見てきた彼にとっては、音楽に一生を奪われるのは抵抗があった。故に選んだ兵士の生き方。しかし、もう嫌であった。剣で人を切るのが、彼にとってはひどく辛かったのである。それはもう生まれつきの彼の気質であったし、どうにもならないことであった。
男は再びオーボエを手にし、口にくわえた。深く息を吸い、暖かな息を笛に注ぐ。
彼女は客だ。聞こえているか否か。それは分からないが、彼は奏で続けた。演奏するとはこういうことなのだ、と彼は思う。暖かな音色で、彼女を目覚めさせないように、それでいて彼女に届くように。緩やかなテンポで、流れる音楽。今やどうして自分が見知らぬ少女を保護し、なぜ曲など奏でているのか、男は理由を忘れていた故に、想いだけで演奏する。
月夜に男と少女。満月の下、二人は出会った。
◆
冷やかな朝の風が吹き抜ける。
潤いを忘れた風。剥き出しの岩肌。赤銅色の大地。暁の日差しに照らされた荒野は、いつも通り荒涼としていた。
荒れ果てた地に石を積み上げ即興に完成した砦は、砂塵のせいでかすみがかっているように見える。いざ戦闘になったとき、それは果たして砦として機能するか否か非常に不安なそれは、その屋上に木材を積み上げた簡素な見張り台を携えて、さらに朽ち果ててしまいそうな雰囲気を纏っていた。
乾いた風に赤髪を揺らして、男は一人、見張り台に佇立していた。
手入れの行き届いた革鎧など身につけて、兵として誇れるであろう煌く剣を腰に帯び、彼は荒野を眺めている。厳しい表情で遠くを見つめ、軋む見張り台に緊張しているわけでもなく、彼は一人戦慄を纏っていた。彼方に僅かに望む緑の断片。土地の者は千年の森と呼ぶそうだが、この朽ちた荒野との対比はひどく鮮やかである。男は、どこを見ても砂にまみれた空を仰ぎ見た。
切れ長の目は、鋭利な刃物の如く空を貫き、彼は呟く。
「裏切り者め」
怒りに隠れた失望、悲しみ。叫びにならない悔しさにも似た感情が、言葉に宿っていた。天を仰いでも決して晴れることの無いそれに、男は唇を噛み締めた。
足元に気配と物音を感じ、男は見張り台の梯子に視線を移した。
「マルク、交代だ」
上がってきたのはマルクの先輩兵士であった。豊かな髭を撫でながら、筋肉質な身体で無遠慮に上がり込むと、二人分の重みに見張り台が悲鳴を上げたようである。限界を告げる軋む音。マルクはすぐに立ち退こうと梯子へと歩み寄る。
「お願いします」
「おう、マルク」
「はい?」
呼び止められて、マルクは降り掛けた足を止めた。
「いつまでも、グレイのことを恨んでるんじゃねえぞ」
マルクは無言のまま俯くと、返事をする前に降り始めた。上で呆れたような溜息が聞こえたが、彼はどんどんと降り、砦の屋上に着地して、それから幾分か低くなった視線から再度荒野を眺める。
刹那、北の方角から、唸るような怒声、咆哮が轟いた。
マルクは咄嗟に上を見上げ、同時に警鐘が乱暴に鳴り響き、砦の内部からも慌ただしい音が聞こえ始める。
彼は腰の剣を確認すると、すぐに階段を駆け下りた。戦いが始まる。緊張を誤魔化すために、深呼吸を一つ。落ち着かない雰囲気が充満する荒野の砦で、今、戦闘が開始されようとしていた。
◆
日は昇り、時は朝。
冷たい岩に腰掛けて、男は脇に寝かせてある少女を観察していた。
とはいえ、何か新しい発見があったかといえば何も無く、彼女が目を覚ましてから話でも聞かない限り、結局は何も分からないまま。男はただしひたすらに時を待ち、昨夜の宴を思い返し独り微笑んだ。
谷間を流れる川は相変わらず荒々しく、横に広がる森も変わらず青々と茂り、自然の息吹を直に感じられる。穏やかな空気に、男は微かなまどろみを覚えた。心地よい風と相合わさって、男は欠伸を漏らした。
同時に、男の低い欠伸とは異なる、まだ幼い欠伸が彼の耳に届いた。見れば、少女が上半身を起こし、そのか細い手で目を擦りながら男の方を見つめている。
「……お兄さん、誰?」
幼い凝視。男に向けられた視線に、彼は目を背けた。
「グレイ」
「グレイ」
繰り返す少女。白銀の髪を揺らしながら頷き、彼女は自分を指差しながら言う。
「私は、ユン」
「そうか」
グレイはまじまじとユンと名乗った少女を見た。そして、改めて彼女の背に伸びる巨大な翼を眺めた。絹のように柔らかそうで、白銀の光沢が眩しい。神秘的な美しいそれに、グレイは息を呑んだ。
「不快な思いをしたら申し訳ないのだが、お前は何者だ?」
「私?」
「あぁ、有翼の人間など、見たことが無い」
ユンは困ったような顔をしてみせた。それは冗談めいたそれではなく、真剣に悩む顔。やがて、ユンは言い難そうに口を開いた。
「分かんない」
「身寄りは?」
「分かんない」
「……出身は?」
「分かんない」
ユンの言葉に、グレイは舌を巻いた。彼女には記憶がないようである。
かろうじて名前は覚えていたようであったが、ユンは自分がそれしか知らないということに関しては深刻に考えていないようであった。偶然飛んできた蝶を追いかけるユンの姿を見ながら、グレイは溜息をついた。
グレイは、荒野の砦から義務を放棄して逃亡してきた兵である。たかが傭兵一人に追っ手がくる可能性は非常に低いであろうが、顔の知れた連中に出くわせば裏切り者として捕らえられることは十分に考えられる。裏切り者の告発、捕獲。ともに大きな稼ぎとなるのは確かであろう。そんなグレイがこのような白銀の翼の少女と歩いていれば、人目に付かないはずが無い。逆に捕獲される可能性は大幅に上がってしまう。かといって放っておくのもいかがと思う。それは、昨夜の宴然り、情が芽生えたということであろう。
「ねえ、グレイ」
いつのまにか、蝶を追うのに飽きたらしいユンがグレイの前に立っていた。
「私、昨日、綺麗な歌を聞いたの」
「歌?」
「そう、グレイが歌ってたの?」
グレイはふと、ケースにしまってあるオーボエに目をやり、それから、彼女の言う歌、の意味をなるほどと思った。確かに、オーボエの音色というのは人の声に近いとも言われている。
「それはオーボエだ」
「オー……ボエ?」
「あぁ、歌でなくて、楽器だ」
ユンはしばらく考え込むような難しい顔をしていたが、やがて理解したような明るい表情でグレイを見た。
「でも、歌っているみたいだったよ」
「そうか」
彼女の笑顔を見ていると、グレイは心が落ち着くようであった。また、初めての演奏会での感想を、まるで歌のよう、などと褒められたために、非常に喜ばしい気分であった。ユンが何者であろうか、などと考えている自分はいつの間にか消えてしまっている、そんな錯覚にも似た感覚で、しかしそれは決して不快でない澄んだものであった。それは全て、ユンの魅力のようなもののせいであろう。
「ユン、お前はこれからどこへ行くつもりだ?」
「私?」
自分を指差し、首を傾げるユン。
「……分かんない」
だろうな、とグレイは呟いた。それから、ケースを掴み腰掛けていた岩から立ち上がると、ゆっくりと森へと歩き始める。呆然と見つめるユンの視線を感じたからなのか、それとも初めからそうするつもりだったのか、グレイはすぐに立ち止まった。視線は森へ向けたまま、彼は背中越しに一言。
「来るか?」
無愛想な声。優しさを隠した抑揚の無い声であった。しかし、それでもその不器用に覆われた優しさに呼応するかの如く、温かな風が吹き渡り、それに背を押されるようにして少女は男の立つ方向へと一歩。
「うんっ」
追う少女。歩く男。楽しげに舞う羽根が、空へと飛翔した。
第二章 「覚醒の戦慄」
森を東に抜けた先にあったのは、小さな村であった。
畑が広がり、質素な木造の家が点在する静かな村。黄昏の夕日色に染まりつつあるそこは、野良仕事を終えた人々の姿や、草陰で鳴く虫たちの小さな歌声のおかげで非常にのどかな光景を描いていた。
その村の郊外に、唯一立派な造りの社があった。他の家とは異なる、風格を伴ったそれは、千年の樹を祭るために設けられた神聖な場所。千年樹に眠る平和の神を降下する儀式を行う目的で存在しているものであるが、それを知らずとも、そこがそういった類の殿舎であることは誰もが感じ取れるであろう。
石段を上り、白砂が広がる地の真ん中に敷かれた石畳、その先にある御社。美しい木肌を見せる木材は、当時の匠が選びぬいた逸品であるし、それらは入念に削られ一寸の狂いなく準備され社を構成する。柱は力強く、表面は繊細に神々しく、漆で彩られた部分は艶やかに、それは当時の技術を巧みに使って作られた芸術とも言えるものであった。
その千年社のある郊外に、男の影一つ。名をグレイ。
彼は荘厳なる千年社を一瞬眺めると、特に興味を持った風でもなく村へと足を運んだ。日もほぼ暮れ、暗みを増した夕焼けが空を彩る。そろそろ夕食時なのか、食欲をそそる香りが村へ近づくにつれ鼻に触れるようになってきていた。
ユンをこのような人里に連れてくるわけにも行かず、しかし何かしら食糧等得る必要もあったため、グレイはユンを森に残しここを訪れていた。用を済ませ、グレイが村を離れたら、人々が寝静まったうちに彼女が空を飛んでグレイのもとへ来る、という計画であった。
「おう、旅の人かね」
畑の横道を通り過ぎようとしたグレイの背に、のんびりとした村人の声が掛けられた。
「どっから来たんだぁ?」
まさか砦から逃げてきた傭兵です、などと言えず、まして北からなどと言えばスパイ扱いされるに違いない。
「……西の、カラサから」
「へえ、随分と遠いとっから来たなぁ。んじゃ、“人知らずの谷”も超えて来たのか?」
グレイは頷いて返した。
「兄さん、たいした者だぁな。でも気ぃつけなぁよ」
「と言うと?」
どこか抜けた村人の表情が、急に険しくなった。
「北の連中が攻めてくるってんで、向こうの方には砦まで造ったっていうでねえか。いつ戦争になるか分からんからなぁ。んだから」
村人はグレイの背後を指差した。
「あっちに御社があったろ。あそこのヤナギさんに頼んで平和の御加護でも賜ってくといいだよ。千年樹様は偉大だからなぁ、きっといいことあるだ」
「そうか。感謝する」
その後、食糧を買えそうな店の場所を聞き、グレイは畑を通り過ぎた。
いつしか日は完全に沈み、望む風景は夜となっていた。相変わらず静かだし、虫は心地よく歌い、田舎であった。
まだ家の明かりがちらほらと見える。ユンが飛び出るにはまだ早い時間帯であった。グレイは村の入り口近くにある巨大な岩に背をもたれ、時を待つことにした。
平和の御加護か、と小さく呟くと、グレイは自嘲気味に肩を震わせ微笑した。逃亡兵。平和を望むという根本的な考えは同じであろうが、グレイのした行為というのは、兵士たちの目から見ればひどく情けないものであろう。彼らは戦って、その最大の報酬が平和であると考えている。しかし、グレイは戦場から逃れ、孤独な平和を望んだのであった。故の嘲り。グレイは溜息混じりに夜空を仰いだ。
霞がかった月。朧な月光が雲に滲んで、曇った輝きでもって空を照らしている。その光景はグレイの不安を象徴しているようで、グレイは視線を落とした。不安。追っ手が来るかもしれない。戦争に巻き込まれるかもしれない。そしてユンのこと。
一体彼女は何者なのであろうか。改めて考えるも、グレイはすぐにそれを諦めた。手掛かりが無さ過ぎる状況での推測は所詮妄想。不安な気持ちに波紋を寄せるだけと、グレイは目を閉じた。
刹那、遠くから何か大きな声が聞こえた。
グレイは岩に預けていた背を起立させ、それから村の外を振り返った。夜の闇の中、走って村の方へと駆けて来るのは一つの人影。だんだんと近づいてくるそれは、村の入り口に到着すると、大きく深呼吸。そして、
「敵が攻めてきたぞーーーーー!!」
閑静とした村が、一斉に焦燥に満ちた。知らせに来た男の一声により、村人たちはしきりに騒ぎ始める。警鐘が鳴り響き、人々はやがて避難の準備をし始め、それから村の入り口に集まり始めた。どうやら、南へと逃げるらしい。しかし、若い男たちは村に残り、あるいは森を抜け荒野へと向かい、荒野の砦で逃した敵の残兵狩りに努めるという。
グレイは人々とは逆方向へと走っていた。行く先は森。目的はもちろん、ユンをどうにかするためである。森はおそらく今に焼かれるなり何なりされるであろう。安全である確証など一切失ったそこに、少女一人を置いておくわけにはいかない。
畜生め、グレイは吐き捨てた。おそらく、砦はもう突破されたに違いない。どうしてその知らせが砦の連中から届かなかったのか。と考えたところで、彼は唾を飲んだ。最悪な予想が、彼の脳裏を過ぎった。
全滅。
残してきた兵士は、皆死んだのではないか。それは親友も含め、全てが落ちたのではないか、と。
ひどく嫌な気分であった。後悔にも似た、罪悪感にも似た、しかしそれでいて自分を庇おうとする何かと、生き延びたが故の喜びと、ぐちゃぐちゃな渦が混沌として心中に生じた。渦が肥大化するにつれ、彼の足は遅くなり、森の入り口に達したところで完全に停止してしまった。
不安は具現化しつつある。その事実が彼を止まらせた。おそらく、彼を追うものはいないであろう。砦の裏切り者は、その存在を抹消されたのである。敵の軍により、裏切りを知る者はおそらく死んだ。
「砦はもう落ちた!! さっさと逃げろーーーーーーー!!」
先程の男の声が遠くに聞こえた。砦は落ちたそうだ。グレイはまた自身を嘲るように口元を引きつらせた。皆死んだ。
グレイがたとえ砦に残ったとしても、おそらくは皆と共に死すべき運命にあったであろうが、彼は逃げた故に生き延びていた。逃亡を決心したときから携えていた葛藤が、今になって漠然と彼に圧し掛かってきていた。
ユンを助けなくてはならない。グレイはそう思いながらも、進むことができないでいた。あらゆる物事が、後ろ向きな思いの中で不自然に結びついてしまっていて、先を見ることができない。
その時であった。ユンの悲鳴が聞こえたのは。
咄嗟に、グレイは動いていた。重い足取りながらも、走っていた。彼に生じた混沌は、一度その姿を伏せったようである。少女の名を叫びながら、グレイはひたすらに森の奥へと身を進めていった。
◆
刹那の出来事であった。
木の陰に身を潜めていた少女であったが、その背に携えた翼は少しばかり身を隠すのには不便であり、かつ少女自身その翼の大きさというものをあまり意識したことが無かったため、その白い片鱗が覗いてしまっていた。
その時、丁度荒野の砦を突破した北の兵、僅かながらその先発隊の数人がその不思議な光景に出会ってしまったのである。
何だ何だと、興味を示す兵たち。落ちた枝を踏み鳴らしながら、彼らは近寄り、その音に気付いた少女はふと木の陰より身を飛び出した。双方共に沈黙し、先に動いたのは兵士たちのほうであった。少女の異様な風貌に、彼らはひどく驚きながらも咄嗟に腰の剣に手を当てた。
「おっ、おい、ありゃあ一体」
「知るかよ、天使とかそういうのじゃねえか」
「おいおい、俺らはまだ生きてんだぜ」
「おう、迎えが来るには早すぎるだろ」
「軍のほうから言われてるだろう。南の奴は皆殺しだと」
「あと怪しい奴も」
「……」
怪しい南の奴。それに当てはまるかどうか判断しようにも、とりあえず怪しいには該当する少女。隊長と思われる人物が一歩前に踏み出し、それから剣を抜いた。梢より注ぐ月光に煌き、鈍く光を放つそれに続いて、後ろの兵たちは各々剣を抜く。
「少女よ。そなたは何者か」
隊長の問いに沈黙で返す少女。少女はじっと男たちを見た。磨き上げられた刃。血の付いた革鎧。嫌な目。
少女は不快感を覚えていた。彼らから生ずる血の臭い。その心をかきむしるようなそれにに、少女は俯いた。
「もう一度聞く。貴様は何も……の」
言い終える前に、“刹那”は起こった。
少女が飛んだのである。白い羽根を散乱させながら、荒々しく飛翔した彼女は森の枝々を吹き飛ばしながら上空へ辿り着いた。かつて見た優しい穏やかな瞳は消え失せ、そこにあるのは夜を射抜く鋭利な眼光。彼女はそのまま森の中へと急降下する。
思わず空を振り仰いでいた兵士たちは、突如降下してきた少女に度肝を抜かした。翼を左右に限界まで広げ、しかもその翼というのが先程見たそれとは明らかに異なるものであったからである。翼は白銀の刃となっているようであった。枝を払う、というよりは、明らかにそれを切断して落ちてくる。硬度が増して巨大な武器となった翼を携えて、少女が兵士たちに落ちる。
方々に散った兵士たちであったが、下降から生じた衝撃が真空の刃を伴い至るところに飛び散り、そのせいで手足胴を見事に断ち切られその場に倒れ痙攣しやがて動かなくなる。衝撃波から逃れた隊長は一人走り、森を北へ向かっていた。殺される。その恐怖だけが彼を走らせていた。故に、少女という存在を出来事の元凶であるにも関わらず忘れていたようであった。そのくらい必死であった。
着地した少女は残兵が逃げた先を見据え、それから翼で空を凪いだ。同時に、翼から放たれた幾枚かの羽根が、無論刃の如く切れ味を持ったまま、逃げた兵を的確に捉え、音も無く突き刺さりターゲットを貫通する。
それはもうあまりに一瞬の出来事であった。
やがて静寂を取り戻したそこは、もはや森ではなかった。木々は幹を切断され倒れていたし、生々しい血と脂の臭いが立ち込めていた。落ち着きを取り戻した少女、その目はもう先程の殺意は無く、辺りの光景に呆然としてしまっていた。決して記憶が無かったわけではなく、これは自分がした行為であることはしっかりと覚えていた。それ故に、この残酷な風景に恐怖を覚えた。
叫んだ。声の限り。
それから膝をつき、自分を抱きしめるようにして両腕でそれぞれの肩を掴み、翼で身体を覆うようにして座り込んだ。震える身体。立ち込める戦いの臭い。身体に残る残酷なそれに、少女は絶望していた。
◆
グレイは唖然として立っていた。
薙ぎ倒された木々、視界の隅には切断された肉体。生々しい、そこだけが殺戮の跡を確実に残している。
その中央に、月光に照らされて白銀にぼんやりと光る小さく丸い何かが見える。それは紛れも無くユンであった。自らの翼で自らを覆い、小さく震えるその背中に、グレイはそっと近寄った。
残酷な風景とはかけ離れて、彼女の美しいことといったら驚きであった。天使が舞い降りたかのような神聖で厳かな空気に、微かな風に揺れる羽根が愛らしさを添え、そこは人の世ではないようであった。
グレイは畏敬の念を抱いていた。直感的に、これはユンがしてしまった結果なのだと思った。散乱する羽根に飛び散る鮮血。腐ったような臭いが鼻について、彼は息をするのも嫌であった。得体の知れない恐怖を、彼は直に感じている。
「ユン?」
ぴくりと肩を上げ、それから名を呼ばれたユンは声のした方へゆっくりと顔を向ける。
泣いた跡がその白い頬に残っていた。赤く腫れた目にはまだ涙が浮かび、その瞳が揺れたかと思うとユンはグレイに抱きついた。グレイは、震えるユンの肩に手を回して、それから少し力を込めた。ユンも力を込め、グレイの胸に顔をうずめ嗚咽を上げて泣き止まない。
どれくらいそうしていただろうか、二人の真上に月が昇った頃、グレイはユンをその場に立ち上がらせた。服に付いた土埃を払ってやって、それからグレイは月夜を振り仰いだ。
「……グレイ。私ね」
「言うな」
ユンの言葉を制して、グレイは視界の隅に戸惑うユンを見た。言わせれば楽になるのかもしれないし、言わないほうが想起せずに済むであろう。どちらがいいのかなど、今のグレイに判断できるはずも無かった。彼自身、自分の問題を抱えている故、何をすればいいのか分からなかった。暗鬱な思いが、彼を沈静にさせていた。傍から見れば冷やかな態度以外の何物でもないのだが、彼にそれを改めるだけの余裕は無かった。
黙ってしまったグレイを見て、ユンは再び顔を泣き顔に歪ませた。グレイに背を向けて、嗚咽を漏らしながら頼りない足取りでグレイから離れていく。少女の背はあまりにも小さく、翼は萎れたようにたたまれていた。
ユンは不意に足を止めた。何かに驚いたかのように、立ち止まった。茂みから物音が聞こえ、それは確実に二人のいる方向へ近づいてきているのである。
刹那、ユンの翼が大きく開き、戦慄が走る。その張り詰めた雰囲気は、一瞬で冷やかに周囲に広がり、それに気付いたグレイは咄嗟に腰に手をあてがった。しかし、そこに剣は無く、同時に振り向いた先にグレイは鬼を見た。
先程まで泣いていた少女が放つ気配ではない、並外れた戦慄を纏い空気を揺らがしているその姿は、外見は天使と言えど鬼と表現するに拒む術は無いに等しい。
グレイは確信した。辺りの木々が倒れ、幾つか死体が見られるのは、ユンのせいなのだと。勘は確信となり、彼はそこに生じたはずの恐怖を超越した何かを心に覚えた。その曖昧な模糊とした感情が具体化する前に、彼は走り出していた。
冷徹な風が吹き渡り、ユンが飛び立とうと翼を振るわせた瞬間、グレイは少女に抱きついた。
「……やめろ」
グレイの静かな呟きに、ユンはすぐに正気を取り戻したようであった。弱々しい肩がぴくりと跳ね上がり、怖々と振り見たすぐそこにグレイの顔。無愛想な、それでもほんの少し温かい彼の視線と、ユンの視線が交じり合う。今にもまた涙を零しそうなユンの目。グレイは少女の身体に回した腕に力を込めた。
「やめるんだ」
言うと、グレイはユンの前に彼女を庇うようにして立ち、もうすぐそこにまで来ている何者かが現れるのを待った。
緊張が蠢き、冷静と焦燥の二つに煽られながら、グレイは息を呑んだ。武器は無い。しかし、守るべきはここに在る。その事実が、彼をどうしようもない緊張に巻き込んでいた。
闇で何者かの影が揺らぎ、とうとうその姿が現れる。
二人の前に現れたのは、白い袴を着た老人であった。厳格な雰囲気を纏った彼は、視界に映った二人を見て、ほうと呟いた。
痩せた顔に刻み込まれた皺に、何かを見据えた鋭い眼光が見える。グレイの眼光とそれがぶつかり、再び戦慄が生じたようであった。グレイの背後のユンが震え、それを庇うグレイが平静を装いながらも僅かに力む。対して、老人は余裕たっぷりに乱れた白髪を整えるなどして、しかしその視線はユンを確かに捉えているようであった。
「……老いた身体で戦地に赴くとは、感心しないな」
「お主こそ、剣の一つも持たずに人を守ろうなどと、随分と無理をしているようだが」
沈黙。しばらくして、老人の方がグレイとの間合いを詰めるようにして一歩、歩み寄った。
「わしは千年樹様に用があったのだが、たった今少しばかり状況が変わった」
「……どういう意味だ?」
グレイは体術の訓練で教わった構えをした。実戦経験は無いに等しいそれであったが、今更悔いても仕方のないことであった。少しの間を置いて、老人の口がゆっくりと開く。
「お主と、お主の後ろにいる少女に、話がある」
また一歩、間合いが詰まった。
◆
「しかし、何故先発隊は何の報告もよこさんのだ」
「さあな、本隊もほとんど帰っちまったしなぁ。このまま攻め込んじゃえばいいのにな」
「今回は威嚇に止めておけとの事です。仕方ありません」
「そんなことより先発隊は……」
墜ちた砦の瓦礫の上に、数人の北兵が見える。先の戦でそれぞれ新品だった鎧などは汚れ傷つき、彼らは大分疲れた様子で愚痴を漏らしあっていた。
即興に造られた砦は大砲を数発受けただけで崩壊し、その惨劇に巻き込まれ南兵の多くが死に絶え、残兵も士気昂り剣を構えた北兵に止めを刺されて呆気無く戦闘は終了した。
荒廃した瓦礫の山に砂塵が埃の如くつまらなく舞い、視界は砂に埋もれたかのような世界であった。乾ききった風が運ぶ砂は、北兵の勝利を祝うものとはとても思えないほど、それは廃れたものである。味気ない光景が永遠と続いているような砦跡にて、北兵の残留組は暇を弄んでいた。
「もっと南下すれば食糧もあるだろうし、女だっているぜ」
「だよなぁ。どうしてまたこんな荒野に放っておかれなきゃならんのだ」
「それは、軍師様のお考えがあってのことでしょう」
「軍師? そりゃあ、最近来たとかっていうえらく頭のきれるやつのことか?」
「はぁ? 新参者は軍師じゃなくてまじない師だろう?」
「いや、私は東方よりお出でになった軍師様と伺ってますが」
「まぁ、どっちでもいいけど……っ」
殺伐とした静寂に包まれていた荒野に、突如男の悲鳴が轟いた。
愚痴を言い合っていた彼らのうちの一人の足元から、剣が突き出ていた。それは立っていた男の足を見事に貫き、砂塵を縫って僅かに注ぐ陽光に鈍く輝き、鮮血でその刃は紅く染まっている。瓦礫を押しのけて飛び出てきたと思われるそれに、兵士達は恐怖のあまり思わずその場を離れた。足を貫かれ動けない男は狂ったように悲鳴をあげ、顔を真っ青にして助けを求めるが、仲間は怯えるばかりで手を貸してくれる気配は無い。
しばらくして、彼の足元の瓦礫が動いた。盛り上がるようにしてぬっと出てきたのは人間の頭であった。やがて上半身だけを這い上がるようにして外界に身を乗り出したそいつは、尖った眼光でもって己が剣がしとめた獲物を睨んだ。さらに甲高くなった悲鳴に、嫌気が差したのか、半身出たそいつは力を込め、とうとう全身を瓦礫から抜け出すことに成功した。
赤毛の男であった。名をマルク。彼は兵士の足から剣を抜き取ると、その返り血を浴びながら、笑った。
血染めの剣を高々と掲げ、彼は肩を震わし笑い続ける。
「親友よ、砦は落ちた」
狂人の如く、彼は吐き散らす。
「貴様の愚行を知る者は息絶えた。嬉しいか、かつての友よ。見えるぞ。貴様の、あたかも全てを悟ったような澄ました顔が。貴様が戦の何を知っているのか、我が剣を貴様の胸に突き立て直に聞いてやろうじゃないか」
炯々と揺らぐ瞳は血走り、もとから赤い髪は血に染まったかのように錯覚させる。憎悪に塗れたその姿に、かつての“マルク”は見えなかった。裏切り者への復讐に全てを奪われた、狂人。
「……さて、まず」
彼は剣を下ろすと、その刃先を怯える兵士たちに向けた。
「貴様ら、邪魔だ」
刹那、男たちの悲鳴が響き渡り、そして血が舞った。
第三章 「真実」
「わしはヤナギという。東の村で、千年樹様を守っておる」
ヤナギと名乗った老人は、グレイとユンを千年樹のもとへ連れてきた。朝日が丁度差し込み始めた頃、彼らはそこにたどり着いた。落ち着いた穏やかな空気が、先程の殺伐とした雰囲気を吹き飛ばしてくれるようであった。静かな夜風が時折木々の葉を揺らし、心地よい音でもって静寂に波紋を起こしているようである。
「北兵が攻めてきたというが、わしは役目故に逃げるわけにはいかんのだ」
「それで、俺らをここに呼んだのは?」
今だ震えているユンを背に庇うようにして、グレイは一歩前に出た。
「最近の若者は気が早くていけない。少し肩の力を抜かんかい」
呆れたようにヤナギは肩をすくめると、千年樹の幹に手を当てた。
「……北で不穏な動きがあると、その情報が丁度村に届いた頃、この千年樹様の葉が一枚、枯れた」
「……」
「千年樹様は平和の寿命を知っておられる。この葉一枚一枚に平和は宿り、つまりはこの緑が一枚でも残っている限り平和は生きている。一枚でも枯れれば、それは何処かで平和が命を失うということ。言い伝えを信じるならば、この地の平和はすでに死んだ、ということになる」
ヤナギは一息置くと、また続ける。
「言い伝えには続きがあってな、千年樹さまの寿命は千年と定まっており、その千年の節には子孫を何らかの形で後代に残し、それで今までの長い歴史を見守ってこられた。そして、今。そろそろ、その節が訪れる。つまり、この千年樹様の子孫が何らかの形で現れる、ということ」
グレイはヤナギの説明が終わる前に、悪寒にも似た感情を背筋に覚えた。朝の風が吹き渡ったにも関わらず、晴れない気分がグレイを覆い尽くしていた。
千年樹の子孫。不定形なそれに、グレイは覚えがあった。つまりは人外な存在なのであろう。決して、人とは言い難いそれに違いないのである。
彼は首を背後へと向けた。今の話を聞いていたのか否か、依然として泣き顔のユンがそこにいた。思わず、グレイはヤナギを見やった。送られた視線は、確認を伴ったもの。それを受けたヤナギは、曖昧に首を横に振った。
「おそらく、わしの考えとお主が今思ったことは同じであろうな。ただ、確信は無い」
「……ユンが、千年樹の……」
「根拠は無い。ただ、その可能性は十分に考えられる、ということだ」
グレイは再びユンを見た。状況を把握していない彼女は、泣き止んだばかりの顔でグレイに視線を送り返した。無垢な表情であった。純粋に、自分がしてしまった殺戮に対して悲しんでいる、そんな表情で向けられた視線に、グレイは沈黙した。
「仮にその少女がそういう存在だったとしたら、彼女は平和の種子ということになる。もしお主が今後彼女を連れてゆくというのなら、そういう可能性を持った存在とともにいるということを自覚して欲しい。これは、千年樹を守るわしからの忠告だと思って聞いてくれればよい。わしにとって、お主にこのことを告げるのはわしの義務であるとわしは考えている。わしはこの樹と共に命果てるつもりだ。故に、今後のことはわしにも分からぬ。無責任と思うかもしれないが、わしは、そう思われても構わない。わしには、どうにもならないことじゃから」
ヤナギは千年樹を見上げた。
「この戦を終わらせることができるのは、多くの犠牲が払われる時の流れ。あるいは」
グレイはユンを見た。ヤナギもまた、彼女を見た。
「その子じゃ」
風が止んだ。真の静寂が、森に降り注いだ。
◆
「グレイ」
「何だ?」
ヤナギと別れた後、二人はひたすらに南下していた。目的など無かったが、戦渦から僅かでも逃れようと、二人は歩いていた。気難しい表情をして歩くユンの数歩先をグレイが行く。夕日を背景に、その寂しい光景は随分とよく映えていた。
「ちょっと、休憩しよ」
立ち止まったユンを振り返りながら、グレイは周囲を見回した。くるぶし程の背の低い草が一面に生えているそこには、人の気配は一切無かった。半ば黄昏の紅に染まった寂寞とした草原地帯にあるのは、二人の影だけであった。
「……あぁ」
二人の距離間はそのままに、ユンは膝を抱えるようにして腰を下ろし、グレイは神妙な面持ちで遠くを見やっていた。
夕日が沈み、辺りが暗くなるまで、二人は黙っていた。互いに口を閉ざし、互いに何かに気を遣っているような、落ち着かない雰囲気の中、二人は静寂に身を任せていた。
「ねえ、グレイ」
どれくらいそうしていただろうか。ようやく口を開いたのは、ユンの方であった。
「オーボエ、吹いて」
言われて、グレイは自分の手元を見た。そこに握られた黒革のケース。口を閉じたまま、その視線は遥か向こうを捉えながらも、彼は落ち着いた手つきでオーボエを組み立て始めた。
暮れる夕日がもたらす仄かな暗闇の中、オーボエは彼の手に納まっている。先端のリードを僅かに口に含み、そっと湿らせ、それからようやく視線をユンへと向けた。ユンの目は、憂いを帯びた期待に満ちていて、その不安げな視線を向けられたグレイは深く呼吸をした。瞑目し、キーに指を置き、その感覚を確かめるようにして、いつしかなめらかな演奏は始まっていた。
南から北へと縦断する山脈の影に落ち往く日。そこにちらと飛ぶ鳥の影が、寂寥の感漂う夕風に乗って、やがて姿を消す。その淋しげな光景の儚い空気を、オーボエの音は哀愁を帯びて震わせていた。深く音は響き、連符は情緒煽るようにして綺麗に奏でられる。草原を揺らす静かな風と相重なって、その広々とした夕焼けに、音は染み渡っていた。
切ない旋律は、落日と共に終焉を迎え、グレイはリードを口からゆっくりと離した。目を開け、すっかり日の暮れた辺りの風景の中に、彼は涙を見た。
ユンが泣いていた。しかし、以前のような怯えたそれではなく、少女の頬を伝う涙は別の感情によるものであった。
少女は立ち上がると、一歩、グレイに近づいた。
「グレイ、私、いろいろ思い出した」
真っ直ぐな視線が、グレイを捉えている。その強さに、彼は目を逸らすことはできなかった。
「一つだけ、思い出せないことはあるけどね、それ以外は、思い出した」
また一歩、近づいて、少女は告白する。
「私、千年樹から生まれたの」
グレイは黙っていた。新鮮な驚きとか、そういうのは一切感じなかった。だから、黙っていた。
「私が、ある呪文を唱えれば、世界は平和になるの。ただね、その呪文が思い出せない。でも、私がそういう存在であることに嘘は無いの。ヤナギさんが言ってたような、そういう存在なの」
改めて、グレイは少女の白銀の翼を見た。辺りは闇に染まっているというのに、そこには美しいそれが確かにある。決して華美ではない、落ち着いた美しさでもって輝いている。
「ねえ、グレイ。私といると大変でしょう? だって、私人間じゃないもの。血を見ると、その臭いを感じると、とんでもない存在になっちゃうもの。だから……」
「……ユン」
これまで一切口を開かなかったグレイが少女の名を呼んだ。そのあまりに強い響きに、ユンは思わず口を噤んだ。自分が言おうとしていた別れの言葉を見透かされたに違いないと思い、咄嗟に俯いた。
「俺は、北方の荒野にあった砦の傭兵だった。今やその砦は全滅してしまったと聞くが、俺はそこから逃げてきた裏切り者だ。俺は、戦いとか、そういうのが嫌だった。血を見るのが、ひどく嫌で、でも食っていくためにはそのくらいしか仕事が無かった。俺は戦争が憎い」
ユンにとっては、初めて聞くグレイの過去であった。グレイは淡々と、それでも所々強い口調で続ける。
「砦には、幼い頃から世話になっていた親友がいた。俺の生まれた家は貧しかったから、よくあいつのとこで飯をもらったりして、それでいつしか共に剣の腕を競うようになった。強くなれば、金持ちになれるんだと、あいつは言っていたし、事実だった。だから、俺は生活のために兵士として生きる道を選んだ。あいつと一緒に」
ユンは顔を上げた。グレイは何かを堪えているようであった。
「あいつは頭が固くてさ、傭兵として、戦士として誇りを持って生きていた。そんな親友と共に過ごした時間ってのは、時に窮屈であったかもしれないが、それでも楽しかったし、学ぶことも多かった。あいつの一途な生き方は、羨ましいくらいだった。だが、もうあいつはいない。砦に残っていたから、全滅ってのは、そういうことだろう。俺は親友を見殺しにしてしまった。否、それだけじゃない。砦にいた兵士仲間全員を」
グレイの拳は震えていた。
「償い。他に言いようが無い故、そういう名目のもと、俺はユン、お前に御願いがある」
「……グレイ」
「俺がユンのような偉大な存在のために何が出来るかなんて分からない。だが、いいだろうか」
「……」
「一緒にいさせてくれ」
夜風が吹き抜けた。ユンの頬に雫が一筋光り、グレイはじっと彼女をみつめた。やがて、ユンが駆け出し、喜びの嗚咽を上げながらグレイに抱きついた。月光が差す闇の中、一人の男の影に、白銀の羽根を携えた少女の影が抱きつく瞬間の美しさといったら、それはもう素晴らしかった。少女の泣き声が、夜空に響く。止まぬ喜びを、グレイはその胸にしかと受け止めたようであった。少女に腕を回しながら、グレイは月を振り仰いだ。蒼光に照らされた顔は、とても穏やかであった。
その刹那、一陣の風。吹き抜けた先に不意に現れた不吉な気配に、二人はその方向を共に振り向いた。
草原を凪ぐ風の向こうに、ただならぬ形相をした男が佇立していた。
赤髪が揺れ、覗く瞳は狂気に満ちた視線でもって二人、否、グレイを射抜いている。グレイは、その赤毛の男に十分すぎる見覚えがあった。赤毛の男の手には鞘から抜かれた、血染めの剣が握られており、紅の刀身を月光に照らして禍々しく煌いている。その切っ先を真っ直ぐとグレイに向け、裂けたかの如く笑った彼の口からは、低い唸りのような声が漏れる。
「地獄の淵より蘇ったぞ、友よ」
地を這う如く声が、戦慄を帯びて聞こえる。
「久々に手合わせ願おうか。貴様の鈍い腕では、今の俺には掠り傷一つ付けられないだろうが」
瞳に炯々と光が宿る。
「貴様が受ける罰としては、十分だろう? グレイ」
赤毛の狂人の名は、マルク。グレイの親友であった。
◆
北の国を治める皇帝が住まう宮殿。
その一室にて、一人の男が休息を取っていた。白く清潔な壁が四方を囲い、大きく開けた窓の外には広々としたベランダが中庭に飛び出している。部屋の隅に置かれた柔らかなソファーに腰掛けて、彼は外界を眺めていた。
吹き込む風に色褪せた金髪が揺れ、そこから覗く蒼い瞳は遠くを見やっているようである。全身に黒衣を纏い、力なく垂れた四肢は透き通るほどに白く、その高貴な空間に、彼はあまりに儚い存在であった。
男の耳にノックの音が届いた。彼は首を扉の方へ向けると、随分と疲れた表情でそれを見据えた。
「失礼します」
声がして、しばらくしてから侍女が扉を開ける。侍女は、御辞儀を済ませると、愛らしい笑顔を男に向けた。長らく笑顔を見ていなかった彼にとって、久々のそれは、作った笑顔であったとしてもどこか新鮮であった。
「昼食の準備が出来ました。エルミエム様が、食事を御一緒したいとのことですので、食堂へお願いします」
言い終えた侍女はドアノブに手をやり、扉をそっと閉めようとした。しかし、彼女はすぐにその手を引っ込めた。男の冷めた視線が、侍女を捉えていたのである。それが、まだ行くなと言っているように思えて、侍女は閉じかけた扉を再び開いた。
「……あの、何か御用がおありですか?」
「……」
男は黙ってソファーから腰を上げると、立ち上がって真っ直ぐと侍女を見つめた。その表情は、彼女を視界に捉えていながらも、それを遠い世界に存在する幻として見ているような、虚ろなものである。男は垂れた前髪をかきあげると、ようやく口を開いた。
「……あなたはこの宮殿に仕えておられる。ならば、疑問を覚えたでしょう?」
「どういう意味でしょうか?」
「戦など興味を持ったことのない穏やかな皇帝様が、突然、南を攻めると宣言したこと。変に思いませんか?」
侍女は少し考えてから、御辞儀をすると部屋の中へ入り、そっと扉を閉めた。
「そのようなこと、私のような者に尋ねてどうするというのです?」
「尋ねてはなりませんか?」
「いえ、そのようなことは」
「なら、よろしいではありませんか。変に思われたでしょう?」
「……えぇ」
侍女は神妙な表情で男を見返した。男は相変わらず無表情であった。
「少し話をしていきませんか。仕事を放る言い訳など、私がしてさしあげましょう」
「お話なら、エルミエム様に」
「いえ、あなたにしておきたいのです。私の話を」
疲労が滲む男の顔つきからは想像し難い丁寧な口調で、またそれには随分と強い響きが込められていたため、侍女は断ることが出来なかった。男はソファーを勧めると、自分はベランダのほうへ足を向けた。窓辺に佇む男は、眩い陽光に照らされ、影に覆われている。
「どうぞお座りください。立ち話するには、少し長すぎる話になるかもしれませんから」
「は、はい」
侍女は落ち着かない様子でソファーに腰掛けると、緊張した面持ちで男を見た。横顔のシルエット。意外と高い鼻に、前髪が垂れては揺れる。侍女が座ったのを確認すると、男は窓辺に背を預け、天井を仰いだ。白いそれを見つめながら、男はようやく話をし始めた。
◆
今から、およそ千年も前のことです。今と同じように、北と南は戦争をしていたことを、あなたは知っていますか。
おや、知らないのですか。いえ、仕方のないことです。何しろ、時が経ちすぎましたからね。
話を戻しましょう。戦争のきっかけと言うのは、小さな国境紛争であったのですが、それが肥大化して全面戦争になってしまったわけです。当時の武器とは、大砲や剣といったそれもありましたが、特殊なものとして、また強力な兵器として魔術が存在しました。魔術は国境紛争を膨らませた一因でもありますが、まあ、その話は置いておきましょう。通常の武器、兵士だけではなかなか埒が明かないと考えた両国は国内で魔兵団を結成し、十分な訓練を行った後に、とうとう実戦に赴かせました。その戦場となったのは、丁度今の国境付近です。
結果、ですか。そう急かさないでくださいよ。でも、想像は容易いと思いますよ。今の国境を考えて御覧なさい。そうです、あの荒野ですよ。
両国の魔兵団は互いの魔術を全開にしてぶつけ合いました。それは非常に凄まじい光景でしたよ。炎が舞い、雷が鳴り、風は渦巻いて、多くの人が亡くなりました。そして、あの周辺の生命は完全に絶たれてしまいました。緑の息吹く余裕など欠片も無い、殺伐とした大地に枯れ果ててしまったわけです。それは千年後の今となっても、変わりません。
……ある男も、その魔兵団に所属していました。故郷には愛する人を残し、彼は戦地に赴いたのです。その魔術大戦の中、彼は生憎と生き残ってしまいました。それの意味することというのはつまり、そもそも彼の故郷は国境付近にありましたから、そういうことです。彼の愛した人は死んでしまったというわけです。彼は一人、生き長らえてしまったというわけです。さらに、彼の魔術の腕はなかなかのものであったようで、国からの申請もあって国家機密にも関わっていまして、その機密というのは不死の研究でありました。彼は一度、その研究の被験者となってしまいました。その時は異常無しで終わったものの、その効果は例の魔兵団の戦闘にて効果を表し始めたのです。激戦であり、彼は何度も魔法の直撃を受けました。それにもかかわらず、生き残ってしまった。彼は自分が異常な存在になったことを理解したわけです。
どうしてそんなことを知っているか、ですか。そうですねぇ、神の悪戯とでも言うのでしょうね。
平和の神は、平和だけでなく常に戦争と隣り合わせ故、戦争の存在を前提として平和を創造するわけです。常に平和であればそれを望む人はいません。それが失われるときがあるからこそ、人は求めるのです。平和を。
今あなたは混乱していらっしゃる。私の言う意味が分からないのでしょう。
要は、私は平和のための混沌を生むための運命を課せられた、悪魔とでも言いましょうか。私は平和の神の意思を感じ取り、こうしてこの国へ来たのです。神とてきっかけが欲しいのです。秩序と混沌の存在に挟まれた神は、どちらかを世界にある周期ごと託すため、そのきっかけを私に任せたのです。
こんな話を聞くと、私が戦争を起こしているみたいですが、それは違います。私を生んだのは神であり、神を生んだのは人々なのですからね。
◆
話し終えた男は、侍女の目を見据えた。
侍女は彼の言ったことの内容を理解することは出来なかった。ただしかし、彼女は尋ねた。
「あなたは、不死なのですか?」
その問いに、男は微かな笑みを口元に浮かべた。それから、目を逸らすようにして窓の外へと視線を投げた。
「私は死にますよ。その術を知った私は、むしろ死を望んでいるのかもしれません」
「では、私に、一介の侍女にすぎない私に向けた先程の話は、あなたの遺言ということですか?」
「どうして私なんかに、といった目をしていますね」
相変わらず視線を背けているにもかかわらず、彼は侍女の心理を言い当てた。侍女は思わず唾を飲み、今だ継続している緊張に背筋を震わせた。
「迷惑な話でしょうが、私は貴女にとある面影を見たのです。ですから、先の話は決して遺言などではなく、私は貴女に託したのですよ」
「何を……?」
「哀れな男の一生を、そのあらすじを貴女は知った。悪いことをしました。しかし、私はどうしても話したくなってしまった。それは、貴女に見た遠い面影のせいなのです。許してください」
男は扉のもとへ歩み寄ると、片腕を広げて侍女の退室を促した。しかし、侍女は動かなかった。
「私、帰れません」
「どうして?」
伏せった男の顔は、侍女が帰れない理由を確かに知っているようであったが、それを隠そうとしていた。声の調子からも、それは確かであった。僅かに上ずった彼の声に、侍女は食い下がる。
「一体、どうしろというのですか。そのような話を聞かせて。勝手に面影重ねて、一体私に何を望んだのです?」
男は顔を上げた。
「何も。ただ、あなたが私に聞きたいことがあるというのなら、答えましょう。それが私に出来る償いです」
言い切った男の表情を見て、侍女は息を呑んだ。
あまりにひどく、虚空を射抜いている瞳であった。私を通り越した、さらに遠くを、彼は見ている。笑うのと泣くのとが混ざってしまっているような、曖昧な表情で彼は待っているのである。侍女の問いを。
しかし、一方の侍女は呆然としてしまっていた。彼の茫漠とした表情のその背後に漂う気配が、直に彼女に触れているような気分であった。男の力無い身体に、侍女はなぜか圧倒されていた。
「あなたは」
ようやく、侍女は声を絞り出した。
「あなたは、人間ですか?」
その言葉に、男は口元に微笑を浮かべた。前に垂れた金髪のせいで、目の表情はうかがえないが、口元は確かに笑った。
「自分でも計りかねてはいますが、あまりに長く孤独に晒されていた身故、生気は薄れているやもしれません。つい先ほども、死者の憎悪を増大させることで死者を蘇らせるまじないを施したりしましたから、私はあなたの思う人間からはとんでもなくかけ離れた存在やもしれません」
言い連ねた男はさらに深く俯いた。
その時、侍女ははっとした。俯いた男の足元に、雫が光った。それを見た侍女は、自分が何かとんでもないことをしてしまったかのように思えて、咄嗟に目を逸らした。
しばらくの沈黙。停滞した空気は、一切震えることなく、静止している。その静寂を破ったのは、男の方であった。
「あなたもお疲れでしょう。休みなさい」
「はっ、はい」
侍女は逃げるようにして、男が開けてくれた扉を潜り抜けた。礼儀など欠片も無いその退室に、別段男は気分を害したようでもなく、一人残された彼は再びソファーに腰掛けた。そして、男はそのまま眠ってしまった。満足したような、していないような、曖昧な寝顔が、俯き加減にまどろんでいた。
第四章 「嘆きと別れの哀歌」
憎悪に染まったマルクの刺すような視線に、グレイは一際強い戦慄を覚えた。同時に、彼は隣の少女からひしひしと伝わってくる、荘厳な戦慄に気付いていた。横目に見ると、ユンは何か必死に堪えるようにして、小さな拳を震わせているようであった。
「謀反者に問う。貴様の目的を、己が剣に誓ってここに晒せ」
グレイは黙ったままユンを庇うようにして立った。それから、マルクに圧倒されぬよう、自身も敵を威嚇するかの如く答える。
「剣など捨てた。今我が手にあるのは一つの楽器のみ。私はすでに、戦士を辞めた」
聞いたマルクの殺気はさらに研ぎ澄まされたようであった。高らかな笑い声を上げると、その狂った勢いのまま続ける。
「舐めた真似をしてくれたものだな。戦士として生きたその血に塗れた手で奏でる音など、随分と腐った楽士様じゃないか」
「……」
「戦より逃亡した成れの果てがそれか。笑わせる。それが貴様の目的か。今更、戦いの意味など伝えようとでも言うのか?」
「……戦いから得られるものなど、無いだろう。ならば」
「止めろと? 貴様そう言うのか。我々戦いに生きる者皆愚かだと、そう言うのだな?」
だんだんと強くなるマルクの口調に、グレイは何も返せなかった。
「どうして戦うのか、貴様の如き愚者に、この俺が教えてやろうじゃないか。冥土の土産に、心に留めておきな」
マルクは剣を構えた。一瞬の沈黙。
「失わぬために戦う」
刹那、一陣の風が吹き抜けた。
「それだけだ」
同時に、マルクが突進する。
グレイは咄嗟にユンを振り見た。膝を着き、震える彼女に彼は手にしたオーボエを差し出した。
「……持っててくれ」
怖々と顔を上げたユンは、黙ったまま頷くとそれを受け取ると、その場から離れるようにして駆け出した。
それを確認したグレイは、目前にまで迫っていたマルクの狂気の刃を紙一重で避けた。縦に振りかぶられたそれはすぐに横様に切られ、グレイは退いてそれを逃れ、振り切った故に生じたマルクの隙を狙い、蹴りを入れる。脇腹に食らったマルクは、体勢を崩しながらもすぐに切り返してきて、その縦斬は惜しいところで空を切り、勢い余って地面にぶつかった刃の平面に、グレイは再度蹴りを加える。しかし、強く握られた剣が飛ぶことは無く、素早い切り返しにグレイの胸甲に大きな傷ができた。怯んだグレイに追い討ちをかけようと、突撃の構えを取るマルク。地面を蹴り、迷うことなくその切っ先がグレイの腹を貫通するかのように思えたその瞬間、白銀が走った。
グレイと狂剣の間に、白銀の翼が割って入っていた。柔らかかったはずの翼は、緊張したように強張り、その硬度はマルクの突きを遥かに超越していた。
「……貴様、用心棒でも雇っていたか」
一度退いて体勢を整えるマルク。
「まさか有翼の少女などを連れるとは、随分とロマンチックなことだな」
翼を広げた少女は、いつもとは異なる気配を放っていた。殺気。神々しい殺気であった。威圧感の塊。グレイは思わず唾を飲んだ。
瞬間、少女が翼で空を薙ぎ、生じた衝撃は大地を這うかの如く、風刃を伴ってマルクに飛ぶ。体勢を取り戻していた彼は、その衝撃波を寸でのところで横に飛び回避するも、余波に掠り傷を作り、左腕より血が舞った。
「ふざけたことを」
静かに呟くと同時に、マルクの赤毛が逆立った。突如彼の周囲の気は昇り、それは禍々しい闇と共に混沌と蠢いたと思うと、一瞬で彼の剣に集約された。血と闇に染まった赤黒い刃を握るマルクの手に、さらに力がこもる。
「貴様死にたいのか。そのような愚者を庇うなど」
奇声と共に、マルクはその剣を横に薙いだ。一閃の闇が、重厚な剣圧から生まれる衝撃を伴って少女を襲う。しかし少女もまた風刃を放ち、二者の間でそれらは互いに互いを相殺する。ひどい爆発がそこに生じ、辺りの草々は焼け焦げ、煙が止み静寂を取り戻す頃には剥きだしの大地が赤茶色の地肌を晒していた。
マルクが剣を構え突撃する。少女もまたそれを迎え撃つべく回避の構えを取り、しかし一瞬手にしたオーボエに目をやった。
――持っててくれ
半ば我を失っていた少女であったが、漆黒の笛を目にした途端に、自分が今、グレイの宝物を預かっているということの重みに気がついた。グレイが、自分を信用してくれて、自分を守るために渡してくれた。その事実が、少女の動きを一瞬止めた。
故に間に合わなかった。狂刃の突撃を回避するだけの時間を失った。彼女は、オーボエを守るために身を呈さねばならなかった。
「……俺の勝ちだ」
マルクの剣が、ユンの小さな身体に深々と刺さっていた。白い肢体を、黒い剣が貫いていた。
見開いた目がやがて閉じられ、肉を裂く音と共に剣が抜かれ、そこからは真っ赤な血が噴き出し、ユンは膝をつき、そして倒れた。翼も力なく伏せ、血に滲んでいくその光景は痛々しかった。
ユンの返り血を浴びながら、マルクは視線をグレイに向けた。
「少女を身代わりにしてまで生き長らえたかったのか、貴様は。どこまでも、くだらない奴だ」
グレイはただ立っていた。倒れた少女の背中を見つめながら、呆然と立っていた。
少女には無関係であったはずの人間に、少女は殺された。それは一体誰のせいだというのか。決まっている答えに、グレイは重い虚無感に襲われていた。かつて自分の演奏に耳を傾けてくれた人が、彼女以外にいたであろうか。自分の過去を、弱みを、晒すことのできる人を、彼女以外に知っているであろうか。
倒れたユンのもとに力無く歩み寄り、グレイは膝をついた。すぐ傍にいる少女は、もう動かない。
「どうして、どうして」
嘆きが虚しく風に消え、傍らに立ったマルクはグレイを蔑むようにして視界に捉えた。
「逃亡し手にした一時の平和など、そのような時間、すぐに消えるに決まっているだろう?」
ユンの血滴る剣を垂らしながら、マルクは嘲笑した。
「言ったはずだ。何故戦うのか。貴様はそこから逃げ出した、その報いの一つと思え。そして」
切っ先がグレイに向けられる。
「……死ね」
瞬間、繰り出されたマルクの斬撃。しかし、振り下ろされるそれよりも僅かに早く、グレイが動いていた。
地に伏せていたユンの翼から、彼は羽根を一枚取っていた。そして、振り抜かれた剣の隙を縫うようにして立ち上がると、そのすれ違いざまに羽根を刃の如く翻したのである。
刹那グレイの顔面にマルクの血飛沫が飛ぶ。マルクの胸当ては胴体に届くまでに切り開かれ、それは明らかに致命傷であった。止まらぬ血に、マルクは苦しげに胸を押さえると、やがて前のめりに倒れた。しかし、そこから首を捻り、背を向けたグレイに彼は憎悪に視線を向ける。
「許……さぬ」
やがてこと切れ、目が虚ろに死んだマルクに背を向けたまま、グレイは膝をついた。
彼の望みはこのようなものではなかった。どうして、自分の傍にいてくれた者が、血に塗れて倒れているのか。全ては自分が招いた結果であり、しかしその自覚故に彼は苦しんだ。
「……俺は、どうして」
涙に歪んだグレイの顔。その伏せった影の傍らに、血染めの赤い羽根が一枚、ひらり落ちた。親友の胸を裂いたその凶器は、風に揺れることも無く、重くそこに在った。
「どうして、どうして」
嘆きは、夜に震えて染み渡った。
どれほど経ったであろうか。グレイは力なく立ち上がると、虚ろに地面を見た。倒れている二人の影。血流れる草原に、グレイはどうしようもなかった。無力な自分。馬鹿な自分。どうして、あの日あの時自分は逃げたのだ、と、悔やみ悔やみきれず、彼はただ地を見つめるしかなかった。この世界は平和の種子を失った。誰のせいか。それは、グレイという男のせい。
しかし、その瞬間絶望に打ちひしがれていた彼の瞳が、大きく見開かれたのである。
一枚の羽根が、眩い白銀の光を皓々と湛えていた。溢れるようなその光は、やがてその輝きを増し、あたりを白銀に包み込む。その神秘的なあまりに眩しすぎた光景は、やがてグレイの意識を奪っていった。
◆
それは不思議な光景であった。
色褪せたセピア色のそこは、どうやらどこか自分の知らない家の中のようであった。あまり広い家ではない。その玄関口に、質素ながらも一応武装していると思われる若い男が立っていて、その視線の先には、まだ少し幼い女が男を見つめていた。
「……行くの?」
「あぁ、行ってくる」
男は背を向けると、ドアノブに手をかけた。悲痛な静寂に、扉を開ける音が響く。
「待って」
「……」
「行ったら、死んじゃうかもしれない」
「……」
「だったら、逃げよ」
「……」
「戦争に行ったら、もう」
「俺は」
女の言葉を遮るように、男は半ば怒鳴るような声で彼女を制した。それから、今度は落ち着いた優しい声で言う。
「俺は、生きて帰ってくる」
「……でも、そんな」
「大丈夫だ。お前を独りにさせたりはしない。約束する」
女は口を噤んだ。それから、男に背を向けるようにして、小さな両手で顔を覆った。そんな彼女の様子を、穏やかな目で少しの間見守り、やがて男は外へ出て行った。
◆
侍女はそこで目が覚めた。
ベッドの上で上半身を起こし、今の夢を思い返す。彼女は気付いていた。今の映像にいた男のこと。彼は、先日私を部屋に引きとめ不思議な話をしたあのまじない師であった。それから、もう一つ、侍女の気付いたことがあった。それは、夢の女の風貌が、自分によく似ていたということ。
――迷惑な話でしょうが、私は貴女にとある面影を見たのです。
男の言葉が蘇る。淋しげに、彼はそう言っていた。
なぜだかじっとしていられなくなり、不思議と高鳴る胸を抑えようと、彼女はベッドを離れ、回りの侍女たちを起こさないよう静かに窓際へ歩み寄った。夜風がカーテンを翻し、隙間より注ぐ月の淡い光が、侍女の顔を照らした。
――彼は一人、生き長らえてしまったというわけです。
彼の話に出てきた、ある男の結末。
それは決して他人事では無かったに違いない。きっと、自分自身のことであったのだろうと、侍女は思った。
――私はあなたの思う人間からはとんでもなくかけ離れた存在やもしれません。
つまりはそういうことなのであろうか。
言った男の表情は見て取ることは出来なかったが、彼は非常に辛い運命を課されているのかもしれない。どこまでが本当で、何が嘘なのか。侍女は分からなくなっていた。
その時、思わず侍女は息を呑んだ。
ふと落とした視線の先に、中庭の塀に背を預け、ぼんやりと月を仰いでいる男の姿が在った。やがて男は侍女の視線に気付いたのか、侍女に目を向けた。その目は笑っているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。
侍女は、彼に聞かねばならないことがあるような、そんな気がした。じっとしていられない自分に、彼女は気付いていた。彼女は窓を開けたまま、早足に部屋を出た。それから、真っ直ぐと中庭へと続く廊下を駆け足に行った。あの男のもとへ、侍女は走った。
◆
「……意外ですね。貴女の方から、来てくれるとは」
男は黒衣を整えながら、穏やかな瞳で侍女を迎えた。侍女の息が落ち着くまで、彼はその視線でもって彼女を見守るようにして見ていた。
「もっとも、半ば私が呼んだようなものかもしれませんが」
男は自分の足元を示した。そこには不思議な円形の模様が土に描かれていた。
「幻の投影。それを応用した、まあ、夢見の魔術とでもいいましょうか」
侍女は黙って男の言葉を聞いていた。それから、ゆっくりと男の方へと歩み寄る。
「聞きたいことがあります」
「何でしょうか?」
「……貴方は千年も生きているのですか」
その問いに、男は目を弓と細めた。それから、肩を震わして、微かに笑い声を漏らしながら笑ったようであった。
「どうでしょうね。私が“生”を感じたのは、途方も無く昔のことですから」
「……どうして、あなたは」
侍女は男をきっと睨んだ。その目には涙が少しばかり浮かんでいるようであった。
「あなたは、そうやってごまかすの? あなたが私に、恋人の面影を見て、それで勝手に訳の分からないことを話して、それで、どうして全てを隠そうとするの?」
男はしばらく考えるようにして目を伏せると、しかしすぐに顔を上げて真剣な表情で侍女を見据えた。
「言葉とは、あらゆる情報の比喩である限り、それは虚構でありそれ以下でもそれ以上でもない。そんな戯言で良ければ、千年を教えて差し上げましょう」
侍女は黙ったまま頷き、しばらくの静寂に男の返答を待った。男は月を振り仰ぐと、再び塀に背をもたれかかり、目を閉じて、ようやく話し始めた。
「人は、永久の平和に身を任すことは出来ません。前も言いましたが、彼らが求めるのは、戦争を前提とした平和でしかありません。故に神は、平和のみを司ることは出来なかった。人が創造した偉大なる平和の神は、常に剣と盾とを持つことを余儀なくされた。そして、彼は剣を振るうと同時に盾も構え、つまりその姿に秩序が宿り、戦争と平和はその秩序の一環として存在している。ただ、今現在起こっている戦いは、神の転生の時期と被ったが故に、少々強引なそれとなったようにも見えます。要は神の世代交代。神とて不滅ではなく、そこに滅ぶ理由があれば滅びる。その空白の時期に、秩序を守る存在がいないのがたとえ僅かな間であろうと、そこに戦が起こるのは半ば当然のことなのです。今や平和の種子がどこかに芽生えているはずですから、この戦争も何らかの形で決着するでしょう。ですが、神のいない世界で、神以外の誰かが種子を育てる必要があります。そのための存在が、私なのです。戦争を前提とした平和。それをこの世界にもたらすために、私はここにいて、ただ、そんな運命に生を覚えることなど無かった。私は誰よりも強くある必要があった」
男は一度息をつくと、大きく深呼吸した。
「王を唆し、禁断の術を解放し、それらは全て、私の運命」
「そんなの、おかしい」
「理解など、求めていません。しかし、これがあなたの知りたかったことなのでしょう?」
男の悟ったような目が、侍女を射抜く。しかし、侍女は退かなかった。代わりに、更に一歩踏み出た。
「あなたはどうしたいの?」
「……私、ですか?」
侍女は頷き返すと、震える声で続ける。
「運命とか神とか、難しい事並び立てて、そんなの貴方の人生じゃない。あなたは、逃げてる」
「……」
「貴方が背負ったものの重みなんて、私には分からない。でも、その重荷は、運命なんて言葉だけで片付けられるものじゃないでしょう? だって、貴方、辛そうだもの。そんなの、そんなの」
男は、侍女の涙声に哀しげな微笑を浮かべた。色褪せた金の髪に月明かりが煌き、夜風に揺れたそこから覗いた目は、懐かしいものを見るような穏やかであった。
「貴女に似た人も、運命という言葉が嫌いでした。私のことを、ただ流されている人間だと、泣きながら罵りました」
男は背を向けた。
「私が強く生きるためには、ここに在るための口実が必要でした。決して妄想ではありませんが、秩序を司る一部を任された、その役割を知りえただけでも、私は少なからず幸福です。そして」
男はゆっくりと歩き始めた。そして、その後姿が宮殿の中に消え往こうとするところで、侍女を振り見た。
「貴女に会うことができましたから」
小さく会釈して、その顔には微かに笑顔が浮かんでいて、彼は宮殿の闇に消えた。
一人残された侍女は、ひどい脱力感に襲われて、その場に膝を着いてしまった。ひんやりとした土を足で感じながら、彼女は夜空を仰いだ。
そこにはただ月が在るだけで、その儚げな光に見た影は、ついさっきまで会話を交わしていた男のようであった。侍女は、根拠も無いが知っていることがあった。あの男は、もうこの国からいなくなるに違いない、と。
彼の最期の姿を見たのは、きっと、自分であり、自分に宿った彼の愛した面影であったのだろう、と。
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2006/11/17(Fri)22:59:48 公開 / 千切れ雲
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■作者からのメッセージ
久々の更新です。では〜。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。