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『バケツの初恋』 ... ジャンル:恋愛小説 お笑い
作者:有
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あらすじ・作品紹介
人が恋をするということは当然だとおもう。 だけどその人にとっての初恋が永遠のものとなったことがあっただろうか?誰もが初恋を永遠のものとしたいと願うが、ほとんどの人が挫折し、それを可能にできるのは人類史上を見渡してもほんの一握りだと思う。この物語はそんな初恋を永遠のものにしたいけどできない切なさを一人の純情な少女に語ってもらう青春白書である。
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――プロローグ――
私はいま恋をしている。
しかも、生まれてはじめての初恋。
君にも経験あるかな。
病気でもないのに胸がジンジンとうずいて。
体だけじゃないの。こころもね……あの人のことを求めてる。
私はこんなの初めて……
あの人と話をしているときなんて特にそう、顔なんて絶対に見られないし求めているはずなのにあの人から離れようとする。
そして、彼が言葉を発したら最後、頭の中が真っ白になって。理性なんかぶっ飛んじゃって。
それから彼との会話が終わってから私は冷静を取り戻す。
その時、混乱からさめた私は改めて彼が“好き”だってことに気ずいたんだ。
私は人を愛するってこんなにも素晴らしく、自分は幸せなんだって感じた。
でも、あの人が他の女の子と話をしているのを見てると、私の胸はズキズキッとする。
とてもいやな感じ、惨めで、悲しくもなる……しばらくして、これが嫉妬なんだなってきずいたんだけど、私って嫉妬するんだ。と思ったら急になんだか自分が小さくなった気がして寂しくなったりもした。
恋ってうれしいし幸せだなって思う時もあれば、時には辛く寂しくなっちゃうときも出てくるんだね……
私は恋の全てを知っているわけじゃないし、ひょっとしたら本当は自分は恋をしていると勘違いしているだけなのかもしれない。
それでも私は彼に会いたい。
私。森下 バケツは今日もあの人に会いに行いきます。
――第一話――
人が人を好きになる。
これを読んでいる人である皆様なら当然の事実ではないかと思いでしょう。なら人がその人のどの部分から好意をもつのかといえば、ほとんどの方が顔などの外見からターゲットに興味を引かれるはず。
しかし、森下バケツはルックスではなく彼の優しさに心を惹かれたのであった。
ある日、バケツが愛犬のシルバー カッシュと散歩をしているときの事。運悪く接触してきた車に愛犬が引かれてしまい、愛犬は血だらけのひん死の状態におちいってしまった。
さらに、車は気がつかずに走り去ってしまい突然のアクシデントにより動揺と混乱でバケツにはどうすることもできなかった。
そのとき、たまたま近くを通りがかっていた同じ学校に通う男子生徒が無力と化したバケツの前に現れ。血だらけの犬に自分の着ていた制服を包帯代わりに巻き、
「こい!!」
と犬を担いでバケツとともに600m先にある野獣病院を目指して息を殺しながらも必死に走った。
結果。一時間の手術の末に犬は無事に一命を取り留めることができた。
医者は、
「いや〜、犬に制服巻いて血を抑えてたから良かったんだなあ。これしてなかったら危なかったと思うよ。それにしてもお譲ちゃんカワユイね、おじちゃんビックリ!」
スケベな獣医だった。
バケツの横で座り続けた彼は犬の無事を聞くと何も語らないまま帰ってしまった。
台風のように過ぎ去ったアクシデントの幕が下がり、バケツは犬の血が染み付いた彼の制服を見つめた。
自分が生まれて、これほどまでに男の子に親切にしてもらったことは今までに無い事だった。そう思った瞬間、バケツの胸の高まりが全身を刺激し、なんだか顔も熱くなってきた気がした。
バケツは家に帰り、さっそくお風呂に入る事にした。お気に入りのファシャータの花の香りがする石鹸は自分の汚れと疲れを洗い流してくれた。だけど不思議なことに今日、出会った彼のことは石鹸で洗い流した後でも頭から消えることはなかった。
夜、長く大変だった一日が終わりを告ぎ、バケツは睡眠につくため布団に入ることにした。だけど、布団の中でさえ彼の存在は頭の中から離れることはなかった。
なぜ自分は彼のことを思い続けてるんだろうか。
そんな自問自答を繰り返してる内にバケツはようやく眠りにつくことができた。そして、深い眠りの中で自分が初めて恋をしているのだと気ずいたのだった。
――第二話――
ここ、篤山市は江戸時代に栄えた格闘柔術と種子島の密輸が盛んだった事で知られる古い伝統と黒い歴史をかね備えた場所である。
篤山市内のちょうど真ん中に位置する時乃流高校では12時30分から13時40分までを昼休憩とし、生徒達は堅苦しい授業から開放されると、各自持参してきた弁当や食堂での学食でそれぞれの昼食をすませる。
森下バケツも授業が終わり、賑やかに盛り上がった教室内で。いつもの通り向かい合って楽しくおしゃべりがしやすいように、2人の学友とともに3人で机を囲って。それぞれ持参してきた弁当で昼食タイムを楽しんでいた。
ごく平凡で見慣れた教室の中を見渡すと、ざっと20人くらいの生徒達がそれぞれの席で昼食を食べ始めていた。昼食の内容は人それぞれで、親から作ってもらった弁当を食べる生徒もいれば市販のパンやコンビニ弁当を食べる生徒もいる。
授業中のように席が均等に並列しておらず、好きなもの同士で席を固め、ばらばらに移動した机を見てると、学校という決められた集団生活の中で唯一、昼食こそが縛られない自由な時間なんだろうと感じることができる。
バケツの今日の弁当は真っ白いご飯と、見事なフットボールの形状をした大きなプレーン オムレツをメインに、ピンポン玉サイズのミニトマトと薄いクリーム色が特徴のカリフラワーが添えられている。
いつもはこうして、友達とわいわい楽しく会話を楽しみながら食事をするのだが、今はそんな気分になれなかった。
なぜなら最近、バケツの頭の中はある男子生徒のことでいっぱいになっており、食事を楽しむ余裕すらなくなっているのだ。
ここ最近のバケツの変化を悟っていた友人は、弁当のウインナーを箸で突っつきながら、
「ねえバケっちゃん、あんたさあ最近変わったよね」
と言ったのはバケツの右側に座っている。ショートカットのボーイッシュな髪方が特徴なバケツの中学からの親友である漫良子である。
良子は授業中、普段一生懸命黒板を見つめ、先生の話に耳を傾けていたバケツが、なぜか上の空で窓の外をじっと見つめていたのを何回か目撃していた。
良子が突拍子もなく話しかけてきたので、完全に上の空だったバケツは不意をつかれた。
「えっ! そ、そうかなあ? そんなことないよ」
ビックリしたように答えたバケツの顔は真っ赤なスイカ色に染まっていた。
バケツは一瞬、自分がある男の子に思いを寄せていることがばれてしまったんではないかと焦ってしまったのだ。
「バケっちゃ〜ん、恋ですな〜〜」
いや……ばれていた。
バケツの反応を覗き込むように見ている良子は明らかに楽しんでいた。
(私って顔にでちゃうのかな)
バケツは良子に自分の心を見透かされていたのかと思うと、気が気でなくなり、とても恥ずかしくなった。
ちなみにバケツとの付き合いの長い彼女は事あるごとにバケツにちょっかいを出して、それに対する様々なリアクションを見て楽しむという邪悪極まりない悪しき心の持ち主である。
そのことを長い付き合いから熟知していたバケツは。どうせ隠そうとしてもかえって良子の好奇心に油を注ぐだけなので、無駄な抵抗はよした方が良いな。と観念するように、
「そ、そんなこともないことも……ないかな」
スイカ色に染まったバケツは今にも火が消えそうな小さなロウソクの様な小声で白状した。
(ああ、すっごい恥ずかしい。やっぱ言うんじゃなかったかなあ……)
と少し後悔しながら、バケツはオムレツを口の中に運んだ。
友人の“青春宣言”を聞いた良子は、やっぱりそうだったのかと目を輝かしながら、
「えええっっ!! 誰なの? 我らが“純情アイドル”バケっちゃんのハートを射止めた罪深きハレンチ野郎は?」
まるで、修学旅行中に抱き合ってるアベックを発見して興奮する男子生徒のような甲高い声で良子ははしゃぐようにいった。
(正直うざい。良ちゃんにだけは話すんじゃなかったかなあ)
バケツは心の中で無茶苦茶、後悔してた。
ちなみに、森下バケツは高校2年生の今頃になって初恋をしているだけに「校内きっての純情少女」としてなぜか学校内に名をとどろかしていた。
本人はこれまでTVや雑誌を通じて、恋とか愛といったものに憧れを抱くことはあるにはあったが。実際に私生活ともなると、さすがにドラマの様には進まないわけで、同学年の女子に見られるような衝撃的な恋愛感覚は感じなかった。
そう、彼とであったあの日までは……
「いや〜、それにしてもバケっちゃんにもようやく春がやってきたんだね。幼稚園児のおままごとカップルが父兄さん達の目の前でチュッチュ♪しているこの時代で高校2年でやっと初恋とはね〜〜、やってくれるわね」
「おいやめろよ、バケツちゃん困ってるだろ」
言いたいことを惜しみなく語る良子に、もう一人の友人である白浜枝美が無抵抗なバケツのために助けを出した。
高校からバケツ達の友達になった白浜枝美は特徴としてさらさらのロングヘアーと170cmを超える身長を兼ね備えており、3人の中で面倒見のある彼女は主に暴走する良子からバケツを助ける大人的 役割を担っていた。
無抵抗に口撃されまくっていたバケツは、
(ありがとう、枝美ちゃん)
と心の中でバケツは枝美に感謝した。
しかし、さすがに邪悪な悪しき心を持った良子はやめろといわれて引き下がるような堅実な性格は持ち合わせていなかったようだ。
良子は枝美の忠告を聞き入れないまま遠慮なしにバケツに迫ってゆく、
「で、その罪深き恋泥棒はこの学校のひと?」
「うん」
「学年は?どこのクラス?誰なの?誰なのぉ?」
良子は鼻息をあらし、目を輝かせながらバケツに迫っていった。
(もうやめてよ)
とバケツは心の中で助けを訴えながらも仕方なく良子のいやあらしい質問にこたえてゆく、長年の付き合いで今の良子に何を言っても無駄なんだと知っていたからだ。
それに、この漫良子という女。自分だってろくに恋愛などしたことがないくせにやたらと人の恋路にちょっかいを出してくるという非常にいやあらしい野次馬根性の持ち主でもあった。
「学年は一緒で」
「うん、うん」
「クラスはC組」
「うん、うん、うん」
「名前は―――」
「うん、うん、うん、うん」
「高見飛朗くん」
「―――……!!!」
バケツがその名を語ったとき、3人の間に非常に重い沈黙が訪れた。
飛朗の名を聞いた二人は、なぜか重い表情で固まってしまい、口を閉ざしてしまった。
(どうしちゃったのかな?)
バケツには何がなんだか分からない。
「え……マジ?」
思わず、枝美の右手に握られていた箸が ポトッ! と落っこちてしまった。
さっきまでやあらしい野次馬根性むき出しではしゃいでいた良子ですら重い表情で固まってしまってる。
このことこがバケツには不思議に感じた。
「……? そうだけど」
一人取り残されたバケツは何がなんだか分からない状況にいた。
何で二人とも飛朗の名前を聞いたとたんにおかしくなったのか。
その理由がバケツにはさっぱり分からなかった。
「バケっちゃん……いや森下バケツぅっっ!!」
突然、良子がさけんだ。
フルネームで名前を叫ぶ所が、妙に緊迫感を感じさせる。
「あいつだけはやめろ、やめるんだ、やめてくれええ!!」
良子はそれだけ言うと机の上に顔を伏せてしまった。
――第三話――
森下バケツの高校二年でやっと訪れた初恋は彼女とその友人達にとって、思わぬ事態を招くこととなった。
バケツの中学からの付き合いのある漫良子が、突然大声でバケツの初恋の相手を否定してきたのだ。
良子は事あるごとにバケツにちょっかいを出して、それに対する様々なリアクションを見て楽しむという邪悪極まりない悪しき心の持ち主であるが、今回の発言はいつものじゃれあいとは違った真剣身を帯びていた。
これはただ事ではないかも知れない。
とりあえずバケツは良子になぜ彼に好意を寄せてはいけないのか尋ねてみることにした。
「やめろって、それどういうこと?」
自分の好きな相手を真っ向から否定する友人に対してバケツは恐る恐る尋ねた。
このバケツの質問に良子が困ったように、
「う〜ん、そのね〜、彼、バケっちゃんには合わないかなあって」
とても申し訳なさそうに答える。
自分に合わないとはどういうことだろう。この謎の言葉にバケツはだんだん不安になっていく。
困惑するバケツに今度は枝美が、
「噂なんだけど高見飛朗は高校生のくせにホストをやって働いているらしいんだ」
と大人びた口調で枝美が答えた。
「ホスト?」
「そう、聞いた話じゃあ 結構、お店じゃ人気があるらしいよ」
「それに学校側にホスト業を認めさせるために理事長に取り入ったっていう噂も耳にするし」
そういえばバケツは彼に車に引かれた犬を助けてもらった時以来、多少の交流ができて、ちょっとした挨拶やくだらない世間話を交わしていていたものの、彼がどのような生活を送っていて、今までどのような道のりをたどってきたのかまったく知らされてはいなかった。
それだけに彼がホストをやって働いていたことはバケツにとって驚くべき新発見であった。
又、同時に新たな疑問が浮かんだのである。
「ホストってなに?」
「―――――!!!」
ホストといえば、ご存知のとおり女性客をターゲットに絞った飲酒接客業で、いわば男版のキャバクラ嬢といったところ。夜の街とは無縁な普通の女子高生ですらTVや雑誌の片隅から得た情報で、いかがわしいイメージを浮かべるのが容易な職業だ。
その大人びた知識を校内きっての純情派と知られるバケツが知らないのは当然のことといえるのかもしれない。
このバケツの質問は二人にとって予期していたこととはいえ、とてもショックな内容だった。
(やっぱ知らねーのかよ!さすがに高校二年生まで乙女の純粋さを失わずにやってきたことだけはあるな)
(良子、バケツちゃんに教えてあげたほうがいいんじゃないのか?)
(やめろ! 乙女の汚れなき心を踏みにじむようなまねはよせ)
(そうだよな。もしホストがいかがわしいものだって知ったら絶対に傷つくな)
(しっかし、やっと訪れた初恋の相手が女慣れしまくってる遊び好きのホストとはな〜〜)
(本当に可哀想だな、私が男だったら絶対にバケツちゃんを幸せにしてあげるのに……)
友人二人は器用にも、純情な初恋の危機的状況がバケツに悟られないようにお互いの目だけで意思を伝え合っていた。
もしバケツがホスト野朗と付き合うことになれば、バケツの純情なハートがホストに弄ばれて最後には粉々になってしまうんじゃないか。
二人はバケツの一途な純粋さを他の誰よりも知っていたので、その不安はしだいに大きくなっていった。
「……? ねえ、ホストってなに?」
心の無線緊急会議に一人取り残されたバケツが痺れを切らした。
(この娘、本当に少女だね)
良子は口には出さなかったが。大人の性的興味が全然ないバケツにあきれる反面、そんな無邪気な少女を傷つけたくないという複雑な思いがあった。
仕方ない。二人はバケツをなるべく刺激しないように軽くごまかそうとした。
まずは、バケツの純粋さを慕たっている枝美がゆっくりと口を開き、
「ホストっていうのは、まあ 女性客専門の飲食店で働いている人のことかな」
われながら上手い。と枝美は思った。
言ってることは大体あってるし、間違ってもいない。
続いて良子が、
「そうそう、主に女性客の話を聞いたりしながらお酒を……グフっ!!」
と言いかけた良子の腹部めがけて枝美の左のボディアッパーが炸裂した。
(馬鹿、余計なこと言うんじゃねえ!)
(す、すまん)
腹部を押さえながら良子はうずくまった。
ひょっとして、バケツが今のやり取りを見て気ずいちゃったかな。と二人は不安になったが……
「それって、レストランみたいなもの?」
幸い不自然な二人のやり取りをバケツは気ずいていなかった。常人に聞かれてたらすでにアウトであっただろう…… しかし、あまりにも鈍すぎる反応と独特の勘違いに二人は混乱した。
(レストラン?)
(どうしてそうなるんだ?)
このバケツの言葉は予想外なものだったので思わず二人は慌ててしまい、
「そ、そうなんだ 今人気のファミレス系のレストランで健康にもいいことから内閣総理大臣も推奨してるし、美容とストレス解消にもいいんだ」
「そうそう、それにアメリカでも流行っているんだよ。ハリウッドも注目してるし、NASAの最新技術も駆使しているんだよ。決していかがわしいものじゃないよ、あはははは」
慌て過ぎた二人は、何とか話をごまかそうと無我夢中で話をでっち上げた。
しかし、出来上がった空想上のホストクラブは、何がなんだか訳が分からないレストランになっていた。
(いくらなんでも、こんなレストランないって……)
(これはさすがにまずかったな……)
もちろん、この非常に苦しい言い訳を語った本人達はものすごく後悔していた。今度こそばれてしまったか……
「今日いってみようかな」
「え?」
「彼が働いてる、最近人気で健康にもよくて内閣総理大臣も推奨してる美容とストレス解消にもいい、アメリカでも流行でハリウッドも注目していて、NASAの最新技術も駆使しているファミレス系のレストランに行こうかな」
「ええええぇぇぇ?!!」
「なにぃいいいい?!!」
突然のバケツの申し出に二人は思わず絶叫してしまった。
(信じてる―――!!)
それにしても驚くべきは、さっき二人が苦し紛れにでっち上げた空想上のホストクラブをバケツが信じきっていたという点だ。
ひょっとして校内一の純情派少女は“疑う”という概念を持ってはいないのであるろうか。もはや、これはひとつの奇跡と呼んでも差し支えないのであろう。
友人二人の“嘘”はばれずにすんだが、なんだかすごい疲れが溜まってきた。
「二人とも付いてきてくれるよね」
(キタ――――――――ッ!!!)
とても恐ろしい発言だった。やっぱり私らついていかなきゃならんのかいな。と二人は顔を青ざめた。
二人は残酷な誘いを聞き、どうやってこのピンチを切り抜くか、泣きそうな顔をこらえてお互いの顔を見合わせた。
そして、これは断るしかないな。とお互いの意思を団結させバケツに申し訳なさそうに、
「いやあ、今日塾があって」
「私も病気がちな母の看病があるから」
明らかに苦しすぎる言い逃れだった。
良子は普段から自分は死ぬほど塾が嫌いだ、一生いかねえ! と公言していたし、枝美の母は昨日の昼放課に元気満々な姿で忘れ物の弁当を届けに来た。
普通に考えれば言ってはいけない嘘を、この短い時間で、1ラウンド3分間15ラウンド制の世界タイトルマッチを終えたボクサー並に疲れきっていた彼女達はこんな簡単なミスにも気がつかずにいた。
「そうなんだ、じゃあ仕方ないね。でも 私一人じゃ行く勇気なんなんてないしなあ……」
何と! 奇跡の善人であるバケツさんは二人の明らかに嘘臭い言い訳を一遍も疑うことなく信じきっていた。
まさに“純粋”という字が二本足で歩き回っているようなお方だ。
バケツが一人じゃ行けないと聞くと、二人はホッ! と胸をなでおろした。
「じゃあ今日はやめにして、又次の機会にしようよ」
助かった、と言わんばかりに枝美が身をのりだした。
「そうだよ、又今度みんなでいけばいいよ」
続いて良子もうなずく。
そして、バケツは仕方なさそうに、
「うん、又今度みんなでいこう」
(よっしゃ―――!!)
このバケツの返答は二人にとって高校入試の合格を知らされるときより歓喜するものだったそうな。
そして、弁当を食べ終え、友人二人にとって異様に長く感じた昼食タイムが終わりを告げると、三人はそれぞれ元あった場所に机を戻す。
ふいにバケツが席を立ち上がった。
「あ、私トイレにいって来るね」
そういうとバケツは友人二人の必死の気配りに気がつかないままウキウキと教室を出て行った。二人は椅子に座りながらバケツが教室から出て行くのを確認すると非常に重い口を開いた。
「おい、どうすんだよ……?」
猛吹雪に見舞われた雪山での遭難者のような凍えた声で枝美が良子に尋ねた。
「ああ、どうしよう……」
ポカンと大きく口を開け、ここではないどこかを見つめた良子が放心状態で答えるのだった。
今日は何とかバケツをごまかすことができたが、これから先どうなってしまうのやら。
二人がついた重いため息が、今の疲れを現わしているかのようだった。
――第四話――
森下バケツの親友である漫良子と白浜枝美の二人は、バケツの高校2年でやっとおとずれた初恋について非常に頭を悩ませていた。
なぜなら学校内で随一の純情派と知られるバケツの惚れた相手がよりにもよってホストをして働いているという噂の高見飛朗だったからだ。
ホストといえば、二人のもつイメージから女慣れしてる、遊び好き、ふしだら、いかがわしい等、どう考えても純情なバケツには荷が重過ぎる相手である。
二人はホストという言葉すら知らないバケツのために(とても苦しい)嘘までついてその場を何とか収めることができた。
学校が終わったその後、二人はバケツが帰宅して別れた後でも最寄りの喫茶店での緊急会議を開くことにしたが、結局いい作戦が生まれず、二人が帰宅した後でもお互いの携帯電話で会議は続行された。
電話会議の結論が出たのはなんと深夜四時という長時間に及ぶものとなった。
朝七時、篤山市内のちょうど真ん中に位置する時乃流高校へと続く、おなじみの通学路は、たくさんの生徒達が今日一日の学校生活を満喫しようと英気に養われた健康的な足取りで学校を目指して登校中だった。
そんな、生気みなぎる高校生達とは対照的に、少々疲れ気味の顔色で、充血した眠たい目をこすりながら良子と枝美は学校へと通うお馴染みの通学路を重い足取りで歩いていた。
(みんな元気だな〜)
睡眠が非常に不足している二人は周りにいる同じ学校の生徒達を見てそう感じた。
大勢で群がって楽しくお喋りをしながら歩く女子生徒、二人で昨日観戦した野球を語り合う男子生徒、一人わびしく登校する生徒とその登校スタイルは各種様々だが、今の二人より元気のない者はない。
まだ日が上がりきっていない早朝の朝日は不思議に光が乏しく見える気がする。
通学路の回りの建物を見渡すと、コンビ二などの無休営業を営むところ以外は、まだ7時過ぎということもあってシャッターや玄関が閉まっていて業務を活動していないところが目に付く。
こういった所で働いてる人たちはこの時間帯もまだ眠っているのだろうか。
社会の荒波を体感したことのない二人はふと、眠たい目をこすり、そう思った。
「二人ともおはよう」
二人の後ろから元気な声で挨拶が聞こえた。
振り返ると。今回の作戦のターゲットであり、重要参考人でもある森下バケツが二人に元気な笑顔を見せて手を振っていた。
「おはよう、バケツちゃん」
「おはよー」
バケツに気がつくと二人はお互いに挨拶を交わした。
二人の声がいつもより疲れて聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。
バケツは挨拶を交わすと、ふとそんな気がした。
まさか、自分のために午前4時まで徹夜で作戦会議をしていたなどと知る由も無い。
それからしばらく間を置いて、三人が軽い世間話をしながら並んで歩いていると、この時を待ちわびていたように枝美、良子の二人はまた例のごとくバケツに悟られないように無言で合図を伝え合った。
(おい 良子、例の作戦行くぞ)
(OK 任せとけ)
二人はさっそく徹夜の携帯電話会議でねった作戦を実行することにしたのだ。
今回の作戦はバケツの純情なハートを守る上でもっとも重要なものとなる。
失敗は許されない。二人は覚悟を決めると、まず枝美が、
「そういえば、バケツちゃんって高見君の仕事先はどこにあるのか知ってるのかい?」
緊張気味の硬い声で枝美がバケツにたずねた。
「ううん、私 知らないよ」
「そいつは弱ったねえ、実は私たちも知らないんだよねえ」
多少の演技を交えた喋りで良子が言った。
「どうしよう、場所が分からなくちゃ行けっこないね」
(やった―――!)
二人の貴重な睡眠時間を削った今回の作戦は、今まさに成功の兆しを見せていた。成功の秘訣は誰も彼の仕事先の住所を知らないということだ。
たったこれだけのために深夜四時まで時間を費やした自分達はなんと友達思いなのだろう。と二人は自分に言い聞かせた。
というより、そう思わなくてはとてもじゃないがやっていけなかった。
「でも別に、仕事先に行かなくても学校で高見君に会えるわけだし」
「そうだよ、バケっちゃん あんた、行ったとしてもお店に入れてもらえな……ウゴ!!」
余計なことをほとんど言いかけた良子の左足のももに枝美の上から振り下ろす角度の右のローキックがクリーンヒットした。
相当痛かったのか食らったあと思わず涙目になっていた。
「なにすんだよ!!」
すかさず良子は、仕返しにと左のローキックを枝美に仕掛けたが、軌道が単純で体重も乗っていなかった為に見切られ、すぐさま足を浮かせた膝でブロックされた。
「くそおお」
「馬鹿なこと言うからだ」
「なに〜〜」
二人がくだらない言い争いをしてると、その横でバケツがうつむいたまま顔色を曇らせていた。二人はそのことに気ずくと、はしゃぐのをやめてバケツを心配した。
「どうしたのバケツちゃん?」
バケツの純粋さとやさしさを人一倍慕っている枝美が心配そうにたずねた。
「何でもないよ。私、高見君の事をなんにも知らないし、学校でしか会えないから高見君が働いているところに行って、もっと高見君の事を知りたかったなって思ってたの」
そうだった、バケツは高見飛郎に思いをよせていたのだ。
どういうきっかけで二人が知り合って、バケツが思いを寄せるようになったのかは知らないが、彼の働いてる一面をなんとか知りたかったという願いが今、こうして駄目になってしまったのだ。
そんなショックを抱いてる彼女の前で、はしゃぎまわってた自分達は軽率だったかもしれない。そう思うと二人は反省しても悔やみきれなくなった。
バケツは自分に気を使ってくれている二人の友人の気持ちを察すると、
「でも、私は後悔してないよ、高見君の働くところを知ることはできなくなっても好きだっていう気持ちは変わらないし、良ちゃんも枝美ちゃんも協力してくれたしね」
この、マイナスイオンに注がれた森の木陰にたずさわる、清く静かに流れる小川のような美しい台詞に良子と枝美は心をうたれた。
(なんて健気なげなんだ。バケっちゃん)
(かわいい、幸せにしたい)
このとき二人はとても愛らしいピュアな恋心を抱いているバケツの力になりたいと心底思った。
彼女に幸せになってもらうためには、やはり、ちゃんとした相手と恋をしてほしい。
そのためにも今回のことは自分達で隠し、守りきらなければいけない。
だから結果的に彼女に嘘をつくこととなってもこれで良かったんだ。二人はそう自分に言い聞かせ納得した。
「バケっちゃん。私、たまに意地悪しちゃうけどずっとバケっちゃんの味方だからね」
良子がバケツの手を握り締めながら励ましの言葉を送った。
「ありがとう、良ちゃん」
たまに意地悪しちゃうけどという言い方がかなり引っ掛かったが、バケツは素直に感謝した。
「バケツちゃん私も味方だよ」
「ありがとう枝美ちゃん」
枝美の励ましもバケツにとってうれしかった。
「バケツちゃん どうしても恋愛がうまくいかなかったら、私のことを“枝美お姉さま“って読んでいいからね」
「……? あ、ありがとう枝美ちゃん」
「枝美お姉さま? なに言ってんだ お前?」
枝美の最後の台詞には友情以外の別の品質の愛が込められていたが、ほかの二人は気がつかずにいた。
とにかく、これで三人の友情は深まったし恋に奥手なバケツにも頼もしく感じた。
枝美、良子の二人にとってもバケツをなんとか応援したいという気持ちと幸せになってもらいたいと思う願いは絶対的なものとなったはずだ。
三人がお互いの友情を深め合っていると、そこに二十歳半ばのパーマのかかった髪を茶髪に染めた女性がだるそうに自転車に乗ってやってきた。
「ちぃ〜〜〜す」
自転車をこぎながらそっけない挨拶をした女性は、三人のクラスの担任である岩本恵美だ。
「岩本先生おはようございます」
バケツが元気な声で挨拶すると。
「おはようございます先生」
と続いて良子と枝美が声をそろえて担任に挨拶をした。
恵美は生徒の三人と目を合わせると改まった態度で。
「かわいい生徒の諸君、私の話を聞いておくれ。うん聞きたいか、では聞かせよう」
そう言うと恵美は誰も聞きたいと言っていないにもかかわらず、勝手に話を始めた。
「日曜日に競馬にいったらさー これが全部外れちゃってすってんてんよ。で、その後帰りにやけ酒 ふっかけってたら知らない男が話しかけてきてうっとうしいのなんの。それで俺とどこか行かないかって一杯おごられて。まあ、ありがたく飲ませてもらったけどねー。けど甘いね、それだけじゃデートしないし、着てる服が趣味悪くって最悪なのよ。はっきし言ってタイプじゃなかったね。第一男らしさを語るフェロモンが足らんのよ、それに……」
次々と大人のダークな部分がにじみ出る担任教師の会話を聞いてた(無理やり聞かされた)女子高生三人はうんざりしてきた。
(うっ、うぜ―――……)
このままほっといたらこの先生、健全な生徒達の前で何を言い出すか分かったもんじゃない。
「先生、先生」
長く、くだらない、どうでもいい話の途中で良子が先生に声をかけた。
「あによ?」
話の腰を折られた恵美はとても不服そうだった。
「先生、高校生にそんなアダルト率の高い話しちゃまずいですよ」
と良子が言うと、
「なによー! 愚痴ぐらい聞いてくれたっていいでしょ。これも社会勉強なのよ。きぃいい〜〜〜〜〜!!」
と、いい大人が子供達の目の前で駄々をこねるようにわめく。
(ほんと、しょうがねえ先生だなあ)
良子が恵美のパワフルトークに手が付けられない状態にいると、今度は枝美が冷たい眼差しで、
「よくないです。ちなみに社会勉強ではないとおもいますし、特に森下さんには悪影響です。先生みたいに汚れてしまいます。醜いげせ話はひかえてくさい。ッて言うか研修しなおせっ!!」
きっぱりとした枝美の切れ味のある優等生的な発言がぐさっと効いたのか、恵美はしょんぼりとおとなしくなってしまった。
(相変わらずヒデーな)
枝美はバケツの純粋さを誰よりも慕っている反面、バケツの純粋さを汚そうとする輩には容赦なく切り捨てるという氷のようにクールな一面があった。
バケツにちょっかいを出して楽しむ良子も教育上よろしくない行為は枝美の前ではなるべくしないようにしてる。
しばらく間をおいて、このぎこちなくなった空気の流れを穏やかにするためにバケツは軽い世間話をしようとした。
「先生、先生は最近人気で健康にもよくて内閣総理大臣も推奨してる美容とストレス解消にもいい、アメリカでも流行りでハリウッドも注目していて、NASAの最新技術も駆使しているファミレス系の女性客専門のレストランで働いているホストって知ってますか?」
とバケツが恵美にたずねた。
(バケツちゃんまずい)
(っていうかこの子まだ信じてるよ)
友人二人の心の響きは周りにつたわることはなかった。
もし、これでホストの本質がバケツに知られ、先生にもよからぬ疑いをかけられてもしたら大問題だ。
しかし、もう口から言ってしまった後である。
こうなったら先生の教育者らしい情操教育上、生徒の誤感性に触れることのない、人に教える立場としての正しい道徳的意見にかけるしかなかった。
「ああ、ホストってふしだらで、だらしない格好した男達が女の客にこび売って、色目使って金を搾り上げる、いかがわしい夜のお仕事のことじゃないの?」
「うわあああああああ!!!」
「なに言ってんのおお!!!」
枝美と良子の魂の叫びが通学路に響いた。
あまりにも的確で正確な先生のお言葉に今まで隠し通してきたことが暴露され、睡眠時間を犠牲にしてまでうまくいってた作戦は無残に砕け散ってしまった。
「なに言ってんのって、ホストってそういうもんじゃないの? っていうか あんた達まさかホストクラブなんて行ってるんじゃないでしょうね」
「いや、私たちがじゃなくて」
「そのぉ、C組の高見君がホストで働いてるって聞いたもんで、先生ご存じないですかね?」
とにかく悪い印象を避けるために枝美と良子は必死に弁解しようとした。
しかし、必死だったとはいえ高見飛朗の名を出してしまったのはまずかった。二人は言った直後で後悔した。
「ああ、高見飛朗の仕事先のことなら私、知ってるよ」
「ええええええええ????」
担任からの思いもよらぬ一言は皆を驚かせたのだった。
――第5話――
時乃流町の三丁目は様々な飲食店や、パチンコ店、ゲームセンター、カラオケ屋、商社ビルが立ち並ぶごく普通の街中だ。
その連立している建物の中で、人通りのよい恵まれた立地条件の中でひときわ目を引く地下1階、地上2階建ての建物がある。
新築からまだ時間が経っていないのが分かる、きれいな外装は大人びた高級感を漂わせる。
おしゃれにコーディネートされた入り口は、訪れるものをリッチな気分にさせてくれる凝ったつくりになっていて、その玄関の真上を見てみると、つややかな黒い大理石の長方形の看板に、大胆なゴールド色でこう書かれていた……
“ホストクラブ レイジ”
そう、ここが森下バケツの恋心を寄せている高身飛朗の勤めているという問題のホストクラブである。
時間はちょうど17時30分を回っており、学校での一日の宿務を終えた森下バケツ、漫良子、白浜枝美の三人はさっそく、三人のクラスの担任教師である岩本恵美から渡された高見飛朗の仕事先の住所が書かれたメモを頼りに、“ホストクラブ レイジ”の入り口前まで足を運んだ。
一方、ホストの仕事内容を知ったバケツだが、学校での生活中はさほどのショックを見せずにいた。
いつもと違い、一言も喋らずに喜怒哀楽の表情を見せていないことから、顔には出してはいないが心の中ではかなり動揺しているということが他の二人には容易に察することができた。
なぜなら、いつもの彼女は常に”笑”、”怒”、”悲”、”疑”を愛くるしい顔で様々な表情を友人達に振舞うのであるが、今日は感情をださない”無”の表情のみ。これはバケツが何かを思いつめているときの緊急信号だということを友人二人は知っていた。
それに学校で顔をあわせて一言も喋らないなんて事はこれまで一度も無かったことだ。
相当ひどいショックを受けたということが容易に想像できる。
ホストクラブの住所が明らかになったことで結局、行くべきか止めるべきなのか、その答えは当然バケツにゆだねる事になった。
答えがでたのは授業終了後、帰宅直前になにかを吹っ切ったようにバケツが“行く”と答えた。
友人二人の気持ちもはっきりしていた。
こうなったら、どんな結末が訪れようともバケツの決着を見届けたい。いや、自分達が見届けなくてはならない。
それが、嘘をついてしまった自分達への償いでもあり。また、そんな自分達を責めることなく心意を表してくれたバケツへのけじめなのだと感じたからだ。
こうして、三人はホストクラブの目の前に立っているわけなのだが、さすがに夜の商売を営むところは昼の世界とは違うようだ。
このあと早速、三人はとんでもないものを目撃してしまうのだった。
バケツたちが上品な造りで出来たドアに近ずくと、奥から怒鳴り声が聞こえてきた。どうやら、女性と男性が言い争いをしている様子だった。
三人は恐る恐るドアをゆっくりと開き、中の様子を確認した。
店の中は三人が驚くほど豪華なつくりになっていて。店内には高価な机と椅子が綺麗に並べられ、天井を見てみると豪華でまぶしい光を放つシャンデリアが店内を照らしていた。
そして、入り口に見えるショーケースには沢山のお酒がずらりと並んでいる。どれも、高そうだった。
店の真ん中では女と男が言い争いをしていた。
よく見てみると、二人のほかに店の中では誰もいないよだ。
女は名前は分からないがとにかく高級そうなブランド物の洋服とズボンを着こなし、頭はパーマの掛かった茶髪で、顔は化粧が濃く年齢は二十歳前半といったところだった。
男の方はホストらしい派手な白いスーツを着て、髪は鮮やかな茶髪にワックスをふんだんに使っているらしく、艶と硬さでとんがった髪を保っていた。
言い争いをしてるブランド女と男のホストは玄関先で傍観している女子高生三人に気がついてはいないようだった。
そして、次の瞬間、三人はその光景に度肝を抜かれた。
なんと、ホストが女にすがって喚くように泣きだしたのだ。
「――――……!!」
これまで、社会の黒き闇の世界にまだ足を踏み入れたことがなかった堅実な女子高生達は目の前での阿鼻驚愕(あびきょうがく)の地獄絵図にただ、驚くばかりであった。
彼女達の私生活において大人の男性が女性に泣きを入れる場面というのはまずない……
(いったいこの人達、何があったんだろう?)
自分達が普段目にしているTV番組で、これとにたようなシーンは幾度か目にしているが、実際に目の前で起こるのとではわけが違う。
これが夜の世界か。それも、まだ18時前だというのに。
もし、この時間帯が深夜になってたらいったいどんなことが起こっているんだろう。
三人には到底創造もつかないことだ。
高見君は本当にこんな環境で働いているんだろうか?
バケツは驚きと不安と絶望の狭間に耐え切れずに全身が、がくがくと震えているのが分かった。
気ずくと、バケツほどではないにしろ、他の二人も不安と驚きに耐えかねて硬くなった表情で顔をこわばらせて体を震わせていた。
女と男はまだバケツ達には気ずいていない様子で、さらに、トラブルの内要をエスカレートさせていく。
「俺を見捨てないでくれよお!!」
と、男のホストが泣き叫ぶとブランド女の足にしがみ付いた。
「うっさいわよ、このごく潰しがああああっ!!」
ブランド女がしがみ付かれてた足を振り払うと、もう片方の足で、男の側頭部にムエタイ選手張りのきれいなフォームで、ミドルキックを容赦なくはなった。
「ぐえええええぇぇ!!」
地面へはいつくばった男のなんともいえないうめき声が、ほのぼの少女達の恐怖心に拍車をかけた。
「ひえええええぇぇ〜」
見てはいけないものを見てしまった三人は思わず悲鳴を上げてしまう
目の前の惨劇を前にして三人は、
「マジで帰りたい」
と心から願った。
バケツにいたってはショックがあまりにも大きかったせいか大粒の涙を流さずにはいられなかった。
地面に這いつくばったホストの男がピクピクっと、まさに虫の息のじょうたいで、
「俺を捨てないでくれよお、恵美ぃ」
地面に這いつくばったまま、最後の力を振り絞るように男が女の名前を呼びかける。
「恵美?」
どこかで聞き覚えのある名前だなと、三人は改めて女の顔をじっくりと見てみると、
「うそおおおおお?!!」
「恵美先生!!!」
「何やってんすかああああああ!!!!」
いたいけな生徒3人がそれぞれの驚きを胸に、思わず叫んだ。
派手なブランド品を身につけ、化粧も普段よりも濃く、何より雰囲気が自分達の知っている岩本恵美 先生とは違っていたため、気がつかずにいた。
もう一度、よく見てみると、間違いなく目の前にいる這いつくばった男の頭のうえにハイヒールのかかとを乗っけているのは自分達のクラスの担任である岩本恵美先生ご本人だった。
生徒達の魂の叫びによって恵美先生は初めてバケツたちの存在に気がついた。
恵美は男の頭からハイヒールをどけると、三人の方を向いた。
「あら、あなた達、何しにきたの?」
恐ろしくて危険な香りのする怒鳴り声が、いつの間にか三人の知る気さくな口調で語る恵美のものになっていた。
「私タチハ、ココニ高見君ガ働イテイルト聞イタノデ、ソレヲ確カメニキマシタ」
いつもは無邪気に親しげな口調で担任と会話をする良子だが、今は慎重に言葉を選びながらロボットのような緊張しきったタカタカな声で、できるだけ粗相の無いように答える。
それほど、さっきの惨劇のショックが大きかったのであろうか。
というより、今の先生のお怒りにふれれば命の危機にさらされる危険性があったとおもったのであろう。彼女の手には冷ややかな汗がぎっしりと握られていた。
「あらそう、でもまだ来てないわよ」
と恵美は投やりな言い方で答えた。
一方のホストもバケツたちの存在に気がつくと、ムクっとゆっくり立ち上がり、バケツたちに対して厳しい目つきをしながら、
「おいおい、ここは女子高生の来るところじゃないぜ!」
さっきまで恵美に気の毒な目に合わされていたホストの男が立ち上がると、頭のダメージを気にしながら、すぐさま女子高生達に注意を促がした。
このホストの存在を気になっていたバケツは恵美に尋ねてみることにした、
「先生、こちらの方は?」
「ああ、こいつは……」
「俺様はここのホスト・クラブNo1のレイジ様だ!」
恵美が答える前に、俺はNo1だと言い切るとレイジと名乗った男は威張った態度で強気な笑顔を見せた。
「No1? とてもそうは見えないけど……」
良子がいつものペースを取り戻したのか、遠慮のかけらもない挑発的な言葉をレイジに浴びせる。
良子は筋金入りの皮肉屋で、自分の目上の人間だろうと容赦なく挑戦的な言葉を浴びせて、相手が自分の侮辱に屈することを喜びとしていた。まさに邪悪な女だ。
良子の挑発を置きに召したのか、レイジの額の血管がプチプチっと反応している。
職業がらアルコールの取りすぎなのか、それとも良子の挑発に完全に切れたのかは分からないが、額に浮かび上がった太い血管を見て、この男の血圧はそうとう高いのだろうと、うかがえた。
「ふふん、俺がいったいどれだけすごいホストなのか今から教えてやるぜ?」
あくまでクールに、レイジが落ち着いた口調でいった、
社会人として、女子高生になめられるわけにはいかないが、もともと我慢強い性格ではなさそうだ。顔が少々引きつっていた。
さらに面白がるように良子が、
「え? さっきまで女にすがって泣きべそかいてたのに、その強気はいったいどこからくるの〜?」
この良子の完全に馬鹿にした売り言葉に額の毛細血管がプチプチっとレイジの怒とともに広がっていく。まるで地中のミミズの群れが大暴走して地面に浮かび上がってくる様に見えた。
(なんかすごいキャラがでてきたなあ)
三人は目を点にしながら、レイジの頭を流れる浮かび上がった無数の血管をみて思った。
「けっ、言っとくがなあ、俺がこの一ヶ月で稼ぐ金額はおよそヨイナニクナンソ通貨にして2千万フォ〜ン、2千万フォンだぜえ!!」
レイジが自慢げにほえまくった。
「なんだって、2千万フォン?!!」
こりゃたまげたと言わんばかりに良子が驚くが、為替ルートに疎い良子は2千万フォンがどれだけの値打ちか分からなかった。
でも、雰囲気的にすごい値段なんだろうな。と思っていたが、
「現在100フォンは日本円にして約1円よ」
恵美が冷たいそぶりで言った。
フォンはアフリカ中央に位置する“ヨイナニクナンソ王国”の通貨で、今、反王政組織のテロ攻撃の影響でレートがとても安くなってしまってる、100フォン=1円(作者調べ)
「少なあぁっ!!」
レイジのはったりにまんまと喰わされた良子ががっかりした。
「じゃあ、20万円しかないって事じゃん!!」
No1がこの稼ぎでは、なんだかこのホスト・クラブのお寒い財政状況が分かってきた気がした。
ついでに、よくこんな豪華な店を維持できるなあ。と関心すらした。
皆が気の毒そうにレイジに注目すると。
調子に乗ったレイジは聴いてくださいといわんばかりに、経営破綻に追い詰められた中小企業のオジサン社長のような暗い雰囲気で勝手に語りだした。
「ホスト業界もちょっと前まではドラマや漫画の影響でマスコミにも取り上げられて盛り上がっていたんだが、ホスト・バブルがはじけた今じゃあ寂しいもんさ。金持ってる客は都会のホスト・クラブに取られちゃうし。こんな田舎の町中でやってくる客は金のない貧乏人だらけ…… 今は店の赤字を出さないぐらいが精一杯。経営者の俺しかホストはいないしなあ……」
レイジの今言った言葉に、バケツが真っ先に反応した。
「え、ホストが一人しかいない?」
「ああ、そうさ」
「じゃあ、高見君は?」
「高見? そんな奴しらねえよ、ホストは俺だけだって言ってるだろ」
バケツはレイジの言ったこの言葉の意味がしばらく理解できなかった。
おどろいたことに月収入がたったの20万しかないこの店は、人件費を賄えないため。オーナーのレイジ一人で切り盛りしているようだった。
ということは高見飛朗はここでは働いてはいないということになる。
新たな謎にバケツの不安が深まっていった。
新たな謎にバケツの不安が深まっていった。
では、飛朗はいったいどこで働いているんだろう? ひょっとして店を間違えたか? いやそんなはずは無かった。ここに来るまで何度かメモを確認をしたはずだ。
バケツが頭を悩ませている間に、レイジが恵美に向かって必死に訴える、
「それよりも恵美、お前はウチの一番の客なんだ。お前しか6万のリシャルールを頼んでくれる客がいないんだよ。俺をすくって……ぐひゃやあああ!!!」
すべてを語る前に、恵美の腰をフルスイングした右フックが、レイジの顎を捉えた。
腰のヒネリを生かし、上半身の体重を拳に乗せた、近代ボクシングの教科書のようなきれいな右フックだ。
「黙んなああ!!! このヘッタレがあああああ!!!」
恵美先生は、ものすんごい形相でほえた。
さっきのフックの衝撃で脳内がシェイクされたプリンのように揺れ、意識がもうろうとして足元がふらふらになっているレイジの胴体に。
今度は、止めを刺さんとばかりに恵美の天に向かって突き上げるような右膝でのニーリフトが炸裂した。
「ひぎゃあああああっっ!!」
哀れなレイジの悲鳴が店中に響き渡る。
その威力といえば、蹴られた瞬間にレイジの身体が4秒間ほど空中に浮かんでしまうほどのもので、運悪くすれば、内臓と骨がただではすまないだろう。
「ったく、生徒の前で恥じかかすんじゃないよ」
担任教師・岩本恵美先生は汚らしい汚物を口から吐き捨てるように冷たく言い放つと、ペッ! と唾を地面にうずくまったレイジに吹っかけた。
(恵美先生、キャラ違うくねえ?)
生徒三人は担任の変貌ぶりをただ、ビビりながら見届けるしかなかった。
いつもと違う一面を見せた恵美は正気に戻ると、
「ふふふ、あなた達には大人の女の事情ってやつを見られてしまったわね」
とても風格漂うお言葉だ。
どこか味を帯びてる言葉でもあった。
ただし、大人の女というより、どちらかというと殺人鬼に近かったような……
そんな事、口で言ったら殺されそうだったので優秀な生徒3人は黙っておくことにした。
そんなことより、本来の目的であった高見飛朗探しの真相は、ホスト・クラブ経営者であるレイジの口から、思いもよらない事実を告げられたのだった。
高見飛朗、彼はこの店では働いてはいなかったというのだ。
では、いったい彼がこの店で働いているという噂はなんだったのか?
そもそも、恵美先生は彼がいるという事でここの所在を教えてくれたはずだ。
バケツは話をまとめようとしたが、難しく考えるたびに余計に謎が深まっていく。パニックに陥ったバケツの後ろから、
「あれ、森下?」
と誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。
「森下、こんなところで何やってんだ?」
自分を呼ぶ男性の声、バケツは声に振り向くと、よく知っている男の子が自転車にのったままホストクラブのドアの外からバケツたちを眺めるように見ていた。
「高見君!!」
バケツたちの目の前にいたのは間違いなく高見飛朗、本人だった。
――第6話――
夜。時刻は21時を回っていた。
時乃流町の2丁目3番街には昼間ほどの人通りはなく、立ち並ぶ建物の明かりが細々と照らされていた。
このあたりは仕事帰りの大人たちの好きそうな、飲み屋の類がまったくといっていいほど無いせいか。不思議なほど静かで、自分達の足音とたまに通る車の音以外は何も聞こえないほど静かだった。
街頭に照らされた夜の歩道を森下バケツと高見飛朗は横に並びながら一緒に歩いていた。
先ほど、“ホスト・クラブ レイジ”の入り口前で、飛朗とばったりであったバケツと親友の漫良子、白浜枝美の3人は飛朗と担任の岩本恵美の口から意外な真実を聞かされた。
高見飛朗がホスト・クラブで働いているという噂だが。
実はホスト・クラブと同じ建物の地下一階にもう一軒、別の洋食料理店が存在し、飛朗はそこでアルバイトという形で働いているという。
飛朗の主な仕事は接客、調理場補助、出前などで、さっき自転車に乗ってバケツたちと出会った時があったが、それは出前の帰りだった。
その料理店の仕事以外にも、人のいいオーナーが上の階のホスト・クラブの人手が足りなくなった時に、その助太刀にと飛朗と他の従業員を派遣に向かわせる。
そのホスト・クラブは従業員が経営者一人しかいないため3人以上客が入ったらすぐに人手不足になってしまう。
飛朗はそこでも、注文をとるウェイターや酒の肴を作る調理を任され、それらの仕事のためにホスト・クラブに出入りをすることから、来た客が勘違いして飛朗がホスト・クラブで働いているという噂がたったという。
そして、その噂をかぎつけた学校側に、ホスト・クラブの客でもあり、飛朗の事情を把握していた恵美が他の先生方を説得した。夜遅くまで働くわけでなし、仕事内容も教育上悪影響を及ぼすものでもないことから、そういうことなら別にいいだろうと特別に学校側も認めてくれた。
この話を聞いた三人は、
「なーーーんだ」
と安堵のため息を一斉に漏らした。
バケツが恋心を寄せる飛朗がいかがわしいホスト・クラブで働いていると勘違いしていた3人は今日一日が気が気ではなかったが、こうして無事腫れ物が取れると、とても気が楽になった気がした。
バケツの初恋の行方を心配していた友人二人は余計な心配が無くなって晴々とした顔をしていたが。さすがに、真剣に飛朗を心配していたバケツは、話を聞いてからしばらくして飛朗が仕事場に戻り、三人の前から姿を消すと、バケツは思わず泣き崩れてしまった。
緊張と不安、いらだち、焦りなどの“負の感情”をいろいろと溜め込んでいたのだろう。良子と枝美は泣き崩れたバケツをやさしくなぐさめた。
友人二人は飛朗がバイトを終える21時までバケツとともに一緒に待ってあげると。気を使ってバケツと飛朗を残して先に帰ってしまった。
担任の恵美はその頃すでに姿は無く、いつの間にか三人が知らない間にいなくなっていた。
飛朗は女の子一人で町の夜道を歩かせるわけにはいかないので、町を出る間だけバケツを見送る事にした。夜のひんやりとした空気に浸りながら二人がしばらく無言で歩いていると。
バケツが思い切ったように決意をし、飛朗に話を持ち出した。
「高見君って偉いよね、こんな夜遅くまで働いてるなんて」
どんな話題を話せばいいのか迷ったバケツだったが、これが一番シンプルだし、飛朗の仕事のことは一番興味があったので話題にしてみた。
「偉いってほどでもないけど……」
ちょっと照れてるそぶりを見せながら飛朗が言った。
「でも、すごいよ。私、まだ一回もバイトってやったことないから、何か買いたいものとか、目的でもあるの?」
「そんなんじゃないよ、バイト代はほとんど生活のため」
「え?」
「実は。俺、今は母方の実家に住まわせてもらってて、その前まではよその町で暮らしてたんだ」
「…… そうなの?」
バケツは初めてそのことを知った。今まで飛朗とは軽い世間話はしていたものの、こういった身の上話は本人から聞いた事がなかった。
「俺の親父が前の住んでた町でレストラン経営してて、店が潰れたんだ。そのための借金で家を払って、こうして親戚の家にお世話になってるわけ。俺も高校生やらしてもらいながらバイトだけど生活費の足しにって、少ないけど出してるんだ」
「―――……」
高見飛朗はバケツの眼から見ても、どこか普通の高校生より大人びた雰囲気をもっていたが、まさか自分と同じ年でこれほど苦労を重ねていたとは思わなかった。
それに、知らなかったとはいえ、無神経なことを聞いた自分が恥ずかしく思えた。
飛朗はバケツの横顔を見て、表情が暗くなり、少しうつむいているのが自分の話のせいだと察すると、
「ハハハハ、気にすんなよ。そりゃあ、初めは辛くて、何で俺だけこんな目にあうんだ! って惨めな気持ちになっていたけど、親父や兄貴もがんばってるって思ったら。俺もガンバらなきゃだめだって思ってさ、そしたら仕方なくやってたバイトが楽しくなってね、今じゃバイトも楽しみの一つさ」
とても、明るい口調だった。苦労話を話しているはずなのに全然暗い気分がしない。むしろ、明るく話すことで飛朗の魅力がさらに増してゆく気がした。
バケツは、この話を聞いて飛朗がとてもたくましく、そして、頼もしく見えた。
バイトが楽しみと強気で言うが、遊びたい盛りの自分達普通の高校生がもし、彼と同じ状況に陥ってしまっても、はたして彼と同じ心境でやっていくことができるのだろうか。
バケツには完全に別世界の話にきこえた。
「親父と兄貴は俺と母さん、妹、ばあちゃんを親戚の家に残して、別の町で働いてんだ。又もう一度、家族そろって一緒に暮らすんだ! てね。俺も兄貴や親父ほどじゃないにしても働いて早く借金を返したんだけど、なんせ高校生じゃあなあ、遅い時間まで働かせてくれないし、学校もあるしな」
父と兄を語る飛朗の目はとても輝いていた。それはまるで、小さい子供が自分の憧れのヒーローを語る様にも見えた。彼にとって自分の父と兄はそれほど偉大な存在なのかもしれない。
飛朗の苦労話を聞くたびにバケツは自分がいかに小さい人間だったのかを思い知らされる。
一流企業に重役として勤めてる父と、きれいな専業主婦の母に、惜しみない愛を与えられて育った一人っ子のバケツは、何一つ不自由をしないで生きてこれた。
一方の飛朗は父の経営していたレストランが潰れ、住む家まで借金に当てられ、親戚の家にお世話になり、学校に行きながらも、空いた時間で生活と借金の返済ためにアルバイトをしてがんばってる。
いままで、自分と同じ学校へ通っている同じ学年の男子生徒だと思っていたのに、同じ17年を生きてきたはずが、内容があまりにも違いすぎた。二人の住んでいる世界があまりにも違っていた。
自分は飛朗に恋心をよせていたが、ひょっとして自分は飛朗にふさわしくないんじゃないのか。
飛朗の苦労話を聞くたびバケツの不安と絶望が広がってゆく。
「森下、俺がホストをやってるっていう噂を聞いて、やってきたんだろ?」
「どうしてそれを?」
「岩本先生が教えてくれたよ」
先生はバケツ達のいないところで飛朗にフォローを入れて置いてくれたようだ。
「バカだな〜、普通に考えて高校生がホスト・クラブで働けるわけないだろ」
「……」
可笑しそうに笑いながら飛朗が言うのだが。まさか、自分はホストがどういうものなのかすら知らなかったとは、とても恥ずかしすぎていえなかった。
「でも、ありがとう」
不意に、飛朗が感謝の言葉を送ってきたのでバケツはビックリした。
「えっ!?」
「俺を心配して来てくれたんだろ」
薄い笑みを浮かべながら、飛朗がきりりと引き締まった顔でバケツの目を見つめながら言った。
カッコイイ笑顔。
バケツはそんな気がした。
この感謝の言葉と笑顔にバケツは思わず照れてしまい、顔が一瞬にして真っ赤なスイカ色に変化した。
「でも、本当にうれしいぜ。森下に告白して、ふられてからも、こうして友達として付き合ってくれるんだもんな」
「……え?」
意外すぎる一言にバケツの思考回路は一気にパンクした。
――森下?
――私のこと?
――告白?
――飛朗君が私に?
――いつ?
――人違い?
――どういうこと?
様々な情報、思考、分析がバケツの脳内で組み込まれ、解析されていったが混乱は一向に解決できない。
「なんだ、覚えてないのか?」
そういわれても、バケツには思い出せないし、そもそも、自分の方が飛朗に思いを寄せていたはずだった。
「まあ、無理ないか。森下はもてるから、いろんな奴らから告白受けてたもんな。しょーがねーか」
と、飛朗はいったが、そんなことがあっただろうか。
どうしてもバケツは思い出せなかった。
そんな混乱がうずくまる中で、飛朗からとんでもない一言が飛び出る。
「これからも、友達として仲良くしような」
「は?は? はいいいいいいぃぃぃぃっっ?!!」
彼がホストをやっていたという疑いが晴れたが、片思いを寄せていた男の子はすでに自分に告白していて、自分は彼をふっていた。
と、披は言う。
そして、とどめに彼から“友達でいましょう”宣言され。まるで、告白できずに遠回しに振られてしまった気がした。バケツには、ものすんごいショックだった。
バケツの初恋はどうなってしまうのか。
――第8話――
夏。
青々と広がる広大な空に目も当てられぬほど眩しい太陽がさんさんと輝いている。
そして、水源の富んだ日本独特のじめじめとした湿気が空気中に散漫し、どこえ行ってもセミの奏でるステレオが耳を刺激する。
時之流高校では生徒全員が冬服から夏服へ衣替えを済ませ、なまいきにもクーラーの効いた涼しい教室で学業に励んでいた。
一年A組ではちょうど1時間目の授業が終わり、15分の放課に入ったところだ。
先の授業が全科目中、トップ・クラスの難しさを誇る古典だったこともあり、一年A組の生徒達の開放感は充実していた。
教室内を見渡すと、机の上に乗っかて、おしゃべりをする女子や先の古典の授業で脳内の神経回路をオーバーヒートさせてしまったために疲れて机に顔をうずめる男子生徒、教室の窓ガラスに映る自分の姿を元に、シャドー・ボクシングに没頭するものなど、生徒達は様々な手段を用いてそれぞれ、放課を過ごしていた。
森下バケツも中学からの友人である漫良子と今年の春から友達になった白浜枝美の三人で、教室の窓際で立話をしながら会話を楽しんでいた。
そんな三人の姿を教室の外の廊下から眺めている一人の男子生徒がいた。
男子生徒は五分くらい教室のドア越しで彼女達を見つめていると。やがて、決心したように、
(よし!)
と頷き真剣な赴きで、緊張からなのか足をがくがく震わせながら硬い表情で三人に近ずいていった。
バケツら三人も自分達に近ずいてくる男子生徒に気がつく。
そして、三人が近ずいてくる男子生徒に注目していると、男子生徒が三人の前に立ち、バケツの方に正面を向けた。
男子生徒はバケツに対し、ガチガチに緊張しきった声で、
「一年C組の高見飛朗です。森下さん、俺と付き合ってください!」
高見飛朗と名乗った男子生徒は。精一杯、肺中の酸素をその一言のために消費すると、バケツに対して深々と頭を下げた。
しばらくして、バケツがとても困ったような表情で口をパクパクさせながら、
「ィャ……その……ぇぇッと……」
口は動いているんだが声が出ていない。というより突然の出来事に困惑しているようにも見えた。
告白の返事はどうなったんだ。
不安げに頭を上げながらバケツの口に注目してると、バケツの横にいた枝美がバケツの前に出てきた。
枝美はどギツイ視線で飛朗をにらむと静かに口を開く。
「私が変わりにお伺いしましょう」
と感情のこもっていない事務的な喋りで答えた。
「……え?」
飛朗にとっては意味が分からない。
なんでバケツに告白したのに、その友人が変わりに出てきて返事を受け持つんだ。
飛朗の疑問を、お構いなしに枝美が話を続ける。
「森下さんはそういった類の話はお断りしているんです。迷惑ですので消えてくださるようお願いします」
丁寧だが、とても刺々しさを前面に出している科白だった。
自分は森下バケツに交際を申し込みに来たのに、本人から答えを聞いていない。
それどころか変な女に邪魔をされて「消えろ」とまで言われた。
(大体、この女誰だよ)
このままでは引き下がれないので飛朗は理不尽な枝美の態度に文句を言おうとした。
「ちょっと、俺は森下さんに……」
と言いかけた途中で、枝美がなりふりかまわず、
「バケツちゃんは困ってる。大体、バケツちゃんに交際を申し込むこと事態が恐れ多いんだよ。この馬鹿たれがあ!」
飛朗はこの女のやり取りに、あっけを取られた。
生まれてこの方、女性に怒鳴られたことは、せいぜい母ぐらいで、同じ年頃の女子からの叱咤は結構ショックだった。
だが、飛朗は告白したバケツから肝心な返事を聞かされていない。告白する前に振られる覚悟はできていたが、振られるにしても本人の口から言ってもらわないと、全然納得できない。
それに、自分が突然押しかけて勝手に告白して困っているというのは分かるが、返事に困っているからといって友人が変わりに答えるというのは、あまりにも失礼な話しだし腑に落ちない。
飛朗は改めて抗議しようとしたが、
「あの〜、次いいですか?」
飛朗の後ろから男の声が聞こえた。
よく見ると、飛朗の後ろからざっと、6人ぐらいの男子生徒がきれいに一列で並んで待機していた。
なんだ、こいつらは?
飛朗が後ろの行列を作っている男子生徒達をじっと眺めてると、飛朗の真後ろの男子生徒が勝手に飛朗とバケツの間に入ると。
いきなりバケツに対して、
「2年G組の近藤です。森下さん、どうか僕と付き合ってください」
なんと、いきなり会話に割り込んできた男子生徒は、先の飛朗とまったく同じようにバケツに告白しだしたではないか。
ということは、ひょっとして、ここに並んでいる6人の男子生徒たちは……
「ダメ!」
例のごとく枝美が容赦なく切り捨てる。
嫌な予感は的中した。これを期に、行列を作っていた男子生徒たちはいっせいにバケツに対して告白しだした。
「次ぎ、3年F組。山田太いきます」
「うせろ!」
「2年の上原だ」
「死ね!」
「わたし、隣のB組の網野妙子といいます。森下さん、私と……」
「帰れ! バケツちゃんは私のお姫様だ!」
「―――……」
こうして6人の男子生徒たち(途中女子生徒が一名)はバケツに告白したが全員撃墜された。
しかも、告白した全員がバケツ本人ではなく、連れの白浜枝美に容赦なく切り捨てられていった。
このやり取りの途中で、飛朗が小耳に挟んだ所、今日はまだ少ない方で多い日には学校外も含めて13人くらいの告白を受けるらしい……
この凄まじい光景を始めから傍観していた。飛朗は、
(13にん…… まじかよ。毎日こんなに大勢に告白されたんじゃ俺なんか見てくれるはずないな。俺もばかなことを考えたもんだぜ……)
と、あきらめて自分の教室へ帰っていった。
一年前の暑い夏の日の出来事だった―――
―――以上がバケツが高見飛朗本人から聞き出した、歴史上の真実である。
あの日とまったく同じ状況下での放課の立ち話の最中で、バケツは友人二人に昨日飛朗から聞いた事実を話した。
「良ちゃぁん、枝美ちゃゃん、私どうしたらいい?」
バケツが二人にすがるようになきついた。
(えぇ―――――……)
まとめよう、森下バケツはもてた。とにかくもてた!!
バケツが時之流高校に入学すると、入学式当日に30件以上もの告白があったほどだ。
その中のほとんどが男子生徒だが、一部の教師や女子生徒にも支持され、幅広い層に恋心を寄せられた。
その年頃の女の子に見られる性的興味をまったく示さないバケツは、誰かと付き合うということに抵抗があり、とても恥ずかしく思えたので、恋愛をするという気にはなれなかった。
しかし、そんなバケツの思いとは裏腹にバケツに恋心を抱く人々は急増。むしろ、そんな乙女チックな恥じらいがよりバケツの魅力を引き出していった。
中学からの付き合いのあった漫良子はこの事をネタにバケツをからかっていたが、すぐにシャレにならなくなった。
登校2日目にはとうとう全校男子生徒による暴動にまで発展しかけた。
そんな非常事態にバケツの警護を買って出たのが、白浜枝美だ。
彼女はK−iファイターの父とムエタイ女子ウェルター級のチャンピオンの母の間に生まれ。
なんと、わずか1歳8ヶ月から空手とキックボクシングを習い。言葉より先にハイ・キックを覚えてしまったとさえ言われ。わずか15歳にして極拳流空手の免許皆伝の偉業を成し遂げたほどの逸材だ。
枝美は持ち前の打撃格闘術とバケツの純粋さを汚す輩への容赦ない敵外心を武器に、2年間バケツを守り抜いた。
その当時のエピソードに、バケツに強引に迫ってきた高校相撲の横綱(身長197センチ、体重180キロ)に、
「豚があぁ!! 私のお姫様に近寄るんじゃねえ!!」
とブチ切れて、横綱のあごを右フックで叩き割ったことは今でも相撲部員と格闘技ファン達の間で語り草となっている。
そんな、枝美もバケツ本人が恋愛を望むなら自分は応援すると心に決めていた。
しかし、まさかあの時、後に自分がバケツの恋心を寄せることになる高見飛朗を追い払っていたとは……
「すまない、バケツちゃん」
なんと! 立ち話の最中に、自分の行いを悔やみきれない枝美がバケツに対して土下座を始めたではないか。
枝美の反省行為は周りの視線を集め、教室内の生徒達が「なんだ?なんだ?」と注目しだした。
バケツは人目にさらされる恥じらいもあったが。何より、気高い枝美が土下座をする姿に耐え切れなくなったので枝美を起こそうとした。
良子も同じ気持ちだったのかバケツと一緒に手伝った。
「気にしないで枝美ちゃん、私もあの中にまさか飛朗君が混ざっていたなんてしらなかったんだから」
そうなのだ、バケツはてっきり散歩の最中に車にひかれた愛犬を彼に助けてもらったときが飛朗との初対面だと思い込んでいたが、実は一年前から彼は自分に好意を寄せていた。
その当時、膨大な量の告白を受けていたバケツは、いちいち告白してきた相手の名前と顔を覚える暇が無かったのだ。
そういえば、飛朗は面識がないはずの自分とすぐに仲良くしてくれたし、名乗る前から自分の名前も知っていた。
あの頃、妙に不自然な気がしたが、そういうことだったのか。
自分の鈍感さが改めて恥ずかしく思えた。
「しっかしね〜。飛朗君がバケっちゃんにほれていたとはね〜」
気まずくなった空気の流れを変えようと良子がゆったりとした口調で言った。
良子は続けて、
「問題は高見君がバケっちゃんの恋心を知らずに、まだ自分は振られたまんまだと思ってるって事だよね? だったら、こちらから告白するしかないんじゃない」
と良子がバケツに言うと、
「やっぱり、それしかないかな……」
とバケツはとても不安げに答えた。
自分が鈍感で気がつかなかったとはいえ、自分は過去に飛朗の好意を無視してしまったのだ。
それをいまさら本人に付き合ってくださいといって、飛朗は納得してくれるのであろうか。
ひょっとしたら都合のいい女だと、軽蔑される恐れもある。
不安と絶望がバケツの頭をよぎった。
「バケツちゃん、そう焦る事はないよ。高見君はバケツちゃんに思いを寄せていたって事は今でも可能性があるってことだし。彼、バイトで忙しいから他に彼女を作る余裕も今のところ無いから、長期的に信頼関係を築いていったほうがいいんじゃないかな……」
枝美は的確で優等生らしい、きちんとした言葉でスラスラと意見を述べた。
確かに、飛朗が自分に好意を持っていてくれたことは分かったし、彼は家の事情でバイトに明け暮れて忙しいはず。
つまり、他の女の子と付き合う可能性は極めて薄いわけだ。
いま、仮に、直接告白しても飛朗は困って戸惑ってしまうんじゃないか。
ここは枝美の言ったと通りに落ち着いていこうとバケツは思った。
右も左も分からなかった恋愛という未知の世界に新たなる兆しと目標が生まれて、バケツの気が軽くなった気がした。
しかし、楽観的に考えているバケツに良子が、
「甘いね」
と右の人差し指をチッチッチと左右に振って、枝美の意見を否定した。
「男子生徒の情報に疎い君達はしらないだろうけど、高見君は結構もてるぞ」
「ええぇ!?」
良子の口からおどろくべき新事実が二人に言い渡された。
確かにバケツと枝美はこれまで、男子生徒に興味を持ったことが無かったため、異性の話題にはまったくといって良いほど無関心だった。
その点、漫良子は学校内で“時乃流高校の歩くワイドショー”と言われてるほど学校内での男女間での情事ネタや、裏話、流行には敏感で鋭い事で有名だった。
あまりの情報収集能力の鋭さに、椅子に座りながら眠ったような仕草で数々の殺人事件を解決して世間をにぎわしている“眠りの留五郎”こと、名探偵の毛利留五郎(45才)も舌を巻くほどだった。
とある殺人事件で毛利氏は良子と知り合い。彼女の情報収集(とくにHなネタ)に対する才能と熱意を目の辺りにして驚かされた。
良子の集めた情報は事件解決におおいに役には立たなかったが、毛利氏は、
「彼女の情報(とくにHなネタ)に関する情熱はすごい。ある意味、殺人犯よりも凶悪だったよ。とにかく励みになった……」
と後に語っていて、なにかしら事件の捜査に影響を及ぼしたようだった。
そのことを、あるTV番組の収録のインタビューで、毛利氏は「本気になった彼女の情報収集能力はC2A(世界的有名な情報機関)にも匹敵する」と語り。その事で良子の名は多くの情報関係者に知れ渡ることとなった。
世間では情報関係といえばコンピュータと相場が決まっているが。実際の情報の世界では、コンピュータはただの機械で道具にすぎず、インターネットで拾った薄っぺらな情報より、プロが自分の足で集めた生の情報の方がはるかに価値があるのだ。
良子はそんな価値ある情報(とくにHなネタ)を集めることに類まれな才能を持っていた。
そんな経緯から、時乃流高校では彼女にネタにされることを多くの生徒達が恐れ、同時に嫌がっている。
青春まっただ中であるはずの時乃流高校の生徒達の間で浮いた話が乏しいのはこの女のせいで、実はみんな迷惑しているのだ。
「私の情報では高見君は主に2年生のマダム達に人気で、バレンタインにもらったチョコは20個、一ヶ月に貰うラブレターは3通、携帯電話に登録してある女の子の番号は5人。少ないね。あと、実は秘密のファンクラブまであるって話だよ」
良子がさっそく得意の情報を披露した。
なぜか携帯電話の個人情報まで知っていることが、彼女の情報に対する熱意を感じさせ、ちょっぴり犯罪をにおわせていた。
「ほんとかよ。お前このあいだ、高見君がホストをしてるとか言って全然違ってただろ」
枝美がすかさず横槍を入れた。
「うっ、それは……」
その件に関して突っ込まれると良子は弱い。バケツの重大な恋愛ネタを把握できなかったことは彼女自身にとって痛恨のミスだった。
「大体、高校生にマダム(奥さん)はいねえだろ。いい加減なこと言うなよ」
「でも本当に高見君はもてるんだよ〜〜」
「ふん」
枝美が聞く耳持たないそぶりで馬鹿にするように鼻笑いして無視した。
(ちっくしょ〜〜、白浜枝美。いつか絶対お前の恥ずかしい情報を手に入れて馬鹿にしてやるからな〜)
と心の中で誓うのだが、よく考えると。そんなことをすれば枝美の打撃格闘術をもって酷い目に合わされそうだったので、やっぱやめようかなと思ったりもした。
そんな…… 自分以外にも彼に好意を抱いている女子生徒がいたなんて。
恋愛経験のないバケツは自分だけが飛朗に思いを寄せているはずだと思い込んでいた。
そもそも、恋というものは自分ひとりで行うものではない。惚れた相手とそれを取り巻く環境。そして、時には同じ恋心を抱くライバル達の存在も……
それらが複雑に絡み合って恋の炎は燃え上がる。
必ずしも成功するものでもないし、むしろほとんどの人たちがその結末を涙で迎えているのだ。
自分の浅はかな考えにバケツは絶望を覚えた。
「そういえば、高見君って、顔のほうも整のってるし。バイト先でもホストと間違えられるくらい顔が綺麗だよね……」
枝美が思い出すように言った。
そうなのだ。高見飛朗は洋食店のバイトの傍らにホスト・クラブで厨房補助や注文をとるウェイターの仕事を受け持っているが、彼の整った顔立ちが店の雰囲気にマッチしてしまうため、来たお客さんが飛朗をホストと思い込んでしまうほど彼には美貌が備わっていた。
「それに運動神経もいいし、勉強もそこそこできるみたいで、バケッちゃんほどじゃないけど結構もてるみたいよ」
と今度は良子がいった。
確かに、バケツほどもてる人間というのは滅多にいないだろうが、それでも十分脅威的に聞こえてきた。
バケツは生まれて初めて恋の障害の一つである“競争”という過酷なレースが存在することを知った。
それに勝たなければ、バケツは彼との関係を手に入れることはできない。
しかし、もともと争いごとを嫌い、人と競い合うことに慣れていないバケツは不安がつのるばかりである。
また他の人を蹴落としてまでつかむ勝利の愛に疑問を感じた。
こんな苦しい思いを恋をしているほかの女の子たちもしているのだろうか。バケツは悩んだ。でも、その悩みも青春の試練のひとつなのである。
「キーン、コーン、カーン、コーン」
立ち話の途中で授業再開のチャイムが鳴り響いた。
席を乱した生徒達は授業という学業の規則の中にまた縛られてゆく。三人もそれぞれの自分達の席につくのだが、バケツの足取りは重かった。
〜〜第8話〜〜
3時間目の授業は体育だった。
この学校の体育は主に2クラス共同で行われ、バケツの所属する2年A組も2年C組と同時に体育を行う。
2年C組といえば、バケツが恋心を寄せている高見飛朗の在籍しているクラスである。
いつもは女子と男子に別れて、女子生徒は外でマラソンを行う予定であったが、あいにくの雨天により体育館で男子の見学を行うこととなった。
C組の飛朗に思いを寄せるバケツにとって、これは願ってもないチャンスだった。これまで、バケツは憧れの飛朗の運動するシーンというのは見た事がなかったからだ。
―――飛朗君の、スポーツしている姿が見れるんだ。
そう思うだけで、もう体中の血液が葛藤して熱くなり、胸が張り裂けそうになってしまう。
だが、飛朗の事をもっと知ることができるという期待がある反面、不安もあった……
それは、飛朗が自分だけでなく他の女の子にも人気があり、ひょっとしたら飛朗を見守る自分のほかにもバケツと同じ気持ちを抱いているライバルがいるかもしれないということだ。
もし、同じ恋心を抱くほかの女の子達と競い合うことになっても、自分は勝てるのだろうか。
いや、たとえ勝ったとしても他の誰かが自分の代わりに傷つくことになるのだ。そんな、自分の幸せの ために誰かが傷つく恋愛に何の意味があるのだろう。
これほど複雑な気持ちをバケツは今まで一度も味わったことが無かった。
恋愛経験のないバケツは「こんなやるせなさを、他の女の子も感じているのかな? ひょっとして自分だけが勝手に傷ついてるのかもしれない……」と不安になったりもした。
バスケットコートが3つほど収まる体育館の真ん中に畳が敷かれ、その周りをA組とC組のジャージ 姿に着替えた女子がそれぞれの場所で囲むように足を組んで座っている。
そして、道着に着替えたA組、C組の男子生徒たちが畳の上で“受身”の練習を行っていた。
バケツは良子と枝美とともに三人横に並んで、足を組みながら畳の上で受身を取っている男子生徒たちに目を向けている。もちろんバケツの視線はあの男の子に釘付けだった。その男の子とはもちろん高見飛朗のことだ。
「ねえ、バケっちゃん見なよ。高見君けっこう、ええ体してるよ〜」
ニヤニヤと顔を緩めながらエロい口調で良子がバケツに言った。
「たしかに、一見細身に見えるが、肩と胸に筋肉の張りがある。重いパンチとすばやいスピードを生み出す。それに、柔軟性も兼ね備えたいい体だ……」
格闘技経験の豊富な枝美が的確な判断能力で飛朗の肉体の特性を見抜いた。
しかし、残念なことに枝美以外、だれも飛朗の戦闘能力に興味を抱いてはいなかった。
「…………」
バケツは飛朗の体に注視した。
たしかに、枝美のいったとおり、飛朗の道着からははだける胸元にはうっすらと肉厚がめにつき。たくましく、胸板が真ん中で割れていた。
照れのせいなのか、それとも、本当にHな気分になったのか分からなかったが、これ以上見ることが恥ずかしくなり、直視できなくなってしまい、バケツは思わず目をそらしてしまった。
良子はそのことを見逃さなかった。悪魔のようにいやあらしい良子はバケツをからかうように、
「バケっちゃん。高見君に抱かれると、ちょうどあのたくましい胸元に顔をうずめることになるよ」
この良子のエロい言葉に、思わず、自分が飛朗に抱かれて顔を胸に押し付けられている様を想像してしまった。
「りょ、りょうちゃぁんっ!!」
バケツは顔を真っ赤にして怒った。
「うっひひひひひ〜」
バケツの反応に良子は大満足な様子だった。西洋の邪悪な悪鬼の様な、やあらしい笑みを浮かべた良子の顔に女子高生の面影は無く、単なるエロ親父をほうふつとさせていた。本当にどうしようもない女である。
さらに、良子はジャージのズボンポケットからメモ帳とペンを取り出した。
「12月8日、牛の刻。森下バケツが 高見飛朗の生チチを見て興奮するっと……うっひゃっひゃっひゃ〜」
おどろくべきことに、良子は友人達の目の前で、なんともうれしそうに、中学からの親友のHなネタをメモりはじめた。
「――――!!!」
バケツと枝美はそんな奇妙な光景をみて、目を丸くし、「何してんのコイツ?」といった感じの、おかしなものを見る表情をしていた。
良子はHなネタに関してはハイエナのような執念を持っている。その情報を得るためならば友人のハートに傷がつくのもおかまいなし。自分が傷つくのは嫌だけど……。
良子がバケツの色恋沙汰にちょっかいを出してくるのは毎度のことだが、今回はさすがにバケツもカチンと頭にきたようだ。
バケツは久しぶりに良子をぶっ飛ばしてやりたい衝動に駆られた。
ちなみに良子のHなネタ帳はこれで1049冊目となり、家の本棚には学校の教科書や漫画と一緒に1048冊のメモ帳が大切に保管されている。
そのメモ帳の中身にはバケツのこと以外に、著名な芸能人やプロスポーツ選手、政治家、医者、作家などのHなネタがぎっしりと書かれているらしく、多くの情報関係者が手に入れたくなるほどのものだった。
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2006/12/29(Fri)09:06:59 公開 / 有
■この作品の著作権は有さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
有と申します。
今回、創作活動をするにいたって、私生活での個人的な感情や話題性、人間関係、環境などの経験を生かして作品を作り上げることが心よりの楽しみです。
なお、作者は気軽に楽しく感想を伝えて、お互いの創作意欲をかきたてる創作仲間を募集しております。もしよろしければ本話を読んだ感想をお聞かせください。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。