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『風と魔導き』 ... ジャンル:異世界 ファンタジー
作者:タカハシジュン
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一 砂礫
1
風が吹き、そしてその風が通り過ぎ、しばしの間、風は鼓動を休めた。
舞い散る砂塵、肌寒い冷ややかさ、涙も枯れ果てたような水気のない音。
砂塵は流れ行く。風のままに。
其処は、一粒の緑の芽吹きもない、灰色と黄土色ばかりで塗り固められ、そのせいで彼方の空をもくすんで見える砂礫の世界のように見えた。だがそれは、大いなる自然が自ずから作り出した過酷な環境とは決定的に違っている。大地に爪痕を刻むその礫の横たわる有様を凝視すれば、それが風化により岩盤から削り落とされたものではなく、明らかに人の手による幾何学的な造形の建造物が破壊された後の瓦礫であることがわかる。さらに左右を見れば、地面に穿たれた巨大な窪や切り落とされたかのような崖なども、全て自然の営為によって作り出されたものではないという違和感が跳ね返ってくる。いずれも禍々しい力でえぐられたかのような痛ましさを伝えてくるのだった。
時折、風にあおられて羽虫が音を立てて飛ぶ。それ以外は、目に付く生物の姿はない。人影のひとつもない。
いや、あった。
砂塵をまとい、風をまとい、砂塵の中にたたずむひとつの背があった。
その姿勢は、風に抗うでなく、砂を払うでなく、それでいて弄られるでなく、乱れもしなければ崩れもせず、ただ静かに佇立している。
女であれば、その背丈は高い部類だろうが、男ならばそうでもない。そして取り立てて突出しているわけではない身の丈に比べて目を引く、後姿の肩幅の広さや頑強な様相が、その者が男であることを物語っていた。
男は、何かを凝視し、その場に立ち続ける。
男の手先や首といった肌の色や、長靴がなめした革の色合いも程々に褪せ、砂塵の風の色合いに近しくなる他は、身に着けた衣服も、むき出しのまま風に流れるさして長くもない頭髪もあつらえたかのように同色で、漆黒というにその奥底で鮮やかな藍が潜む。
さながら砂礫の中に浮かび上がるひとつの影のようでいて、その輪郭は曖昧ならず、そして暗がりの中に何かの横溢を連想させる鮮やかさがあるのだった。
もっとも、男の固く結ばれた口元や鋭い眼光からは、殊更にその鮮やかさを企図しようとしたある種の浮薄さは到底窺い様がない。男の表情を見ずにただそれだけを連想したとしても、次いでその想像を容易く打ち消してしまうほどに、男は険しく周囲の光景を見つめていた。容貌の造りは若い部類に属する男のものであったが、そう断言するには表情が沈静でありすぎた。
風が、鳴いている。
男は、その風の声に耳を傾けた。
それは、滅びたもの、失せ果てたもの、死に絶えたもの、それらに捧げる哀歌にしては、何の同情もなくただ物言わず、その残骸の上にうっすらと砂を多いかぶせてゆくだけの酷薄すぎる歌声のように、男には思えた。
男は、凝視を止め、そっと瞑目した。風は鳴り止まなかった。男の意を介し、共に哀悼を捧げる気を、風は起こさぬようだった。
風は、滅びたものらの、滅びる以前の謳歌に対し何も難詰しない。そして骸に褥をかけてやるように、その地に眠るものたちを、風は砂と共にゆっくりと埋めてゆく。
男は、残骸と化したかつてのその街の名を知っている。カシュガル、旧世界に焦がれたこの街の人々がそう呼び出した街。騒乱の中、さしたる意味もなく小さな街の小さな政変に狂奔し、呼び込むまでもない戦を招き寄せた街。魔導によって滅びた街。魔導によって緑の息吹も生命の躍動も失せ果て、永劫戻らず、ただ風ばかりが吹き、砂ばかりが覆うだけとなった、今では瓦礫と残骸の、砂漠と同様の街。
やがて男は歩き出した。残骸に近寄ろうとする。
その男の懐が、不自然にうごめいた。これまでどこにどう隠れていたのか、服の中でなにやら動き回るものがある。それが、やがてぴたり収まると、次には衣の合わせ目から不意に飛び出した。白い体毛、犬の頭であった。二つの耳は長く垂れ下がりながらも微妙に揺れ動き、茶色の鼻もまた微かな音を立てて呼気を出入りさせている。が、全く健康そうなその様子に比べ、瞳は目つきの悪さを連想させるほかに、どことなくぼんやりとしてもいる。
「寝起きか。高いびきだったぞ。スー」
男は低くよく通る声色で犬にそう話しかけた。スーというのはその白い犬の名であるらしい。
犬は、ふんと鼻を鳴らした。どうやら人の言葉がわかるようであった。その表情には一片の殊勝さもなければ含羞もない。もぞもぞと緩慢に動き、男の懐から外に出て、そのまま宙に浮きっぱなしになった。すとんと地面に落ちては飛び上がるのを繰り返しているわけではない。宙に漂うように浮いている。それだけでない。眠気を払うためなのか、犬は浮かび上がったまま、大きく伸びをした。その姿は十分に不可思議であったが、どことなく滑稽でもあった。それは犬の不恰好な姿のせいだった。白い犬はその頭の大きさのわりに、手足の長さ、胴の長さの釣り合いがいかにも取れていなかった。三頭身ほど、子犬のバランスといえばそうである。だがその顔の大きさとどことなくふてぶてしくもある表情は到底子犬には見えない。
犬の浮かび上がる姿を見て、男は別段慌てる様子もない。ただ、
「大層なご身分だ」
太平楽なその様子に、やはり低音で皮肉のひとつもつぶやいた。
やはり犬は人語を解するようだった。またもやぎろりと男の顔をにらむと、鳥の羽ばたきのようにぱたぱたと耳を揺らす。それだけでもいい加減常識はずれであったが、犬はそれだけにとどまらなかった。
「寝る子は育つ」
口を開閉し、その口から甲高い声色の人語を飛び出させた。もっとも、それで男が虚を突かれて慌てふためくことなどはない。犬の言葉、それもなかなかに口達者なそれを、ごく当たり前に聞いている。ただし、犬の減らず口に閉口しながらではあるが。
「お前な、飼い主に対してもう少し殊勝な気持ちになれないのか」
「おっさんこそ、おいらのような図抜けた犬、天才犬に対して、もうちょっといたわりの心や感謝の想いを抱いたほうがいいぜ」
犬は殊勝さなど砂粒ひとつほどもない口調で男に減らず口を返した。そのこともそうであったが、そもそも、毎度のことであるとはいえ、飼い犬におっさん呼ばわりされることに男はやや憮然とした。
「おっさんなあ。おいスー。俺はこれでもまだ二十代なんだが」
「はたち過ぎてんじゃ、おっさんに決まってるだろ。おいらはぴちぴちの三歳児」
「……あのなあスー。俺はお前を飼いはじめて、もう六年か七年は過ぎているんだがね」
「おいらはそういう時の流れを超越しているからね。見よ、永遠の三歳児」
口の減らない犬だった。
男と犬の主従は(主従といっても犬のほうにその自覚は微塵もなかったが)、高尚とは無縁のそういった会話を繰り広げながら、石垣や壁の崩れ落ちた町並みの残骸まで近寄った。
筒状に石を組み、それが半ば崩れ落ちた跡が見つけられた。かつての井戸のようだった。当然干からびている。穿たれた穴底をのぞいても、砂が覆うばかりで水気すらない。
その井戸をかつて覆っていただろう木製の屋根は、柱の一本を残して跡形もなく失せている。柱の名残はかつてのその高みの半ばをとどめるにいたり、欠損したその先端には業火に焼却され炭化した黒い刻印が生々しくあった。
石も、その表面が焼けただれている。
傍らの建物の残骸の有様も、その井戸の様子を見て推して知るべきものであった。炎熱が過ぎり、炎熱が薙ぎ、破壊したものを燃やし尽くし、そしてその痕跡だけをとどめて炎熱は去り、代わって砂と風が現れたようだった。
男は嘆息した。スーという名の犬も、さすがに不遜さを潜め、犬なりに顔をしかめる。
「カシュガル、七日七晩燃え続けたらしい。もう何年も昔のことだ。罹災して逃げおおせた住民も少なからずいただろうが……」
「この様子じゃ、……この場所でくたばったやつらも多かったろうね」
犬の言葉に、男はうなずいた。
「瓦礫を取り払えば、そういった骸もたくさん出て来るのだろうな。掘り起こして、一つ一つ埋葬してやるのが本当だろうが、……きっとそれは風と砂がやってくれる」
犬は宙に浮いたままゆっくり左右を見渡し、男のほうを見ずにつぶやいた。
「なあおっさん。人間ってやつは愚かしいな」
嘆息交じりで、男は不遜な犬に答えた。同意した。
「お前の言うとおりだ。つくづく人間というものは愚かしい。俺自身を含めてな」
そう言って、男は視線をあらぬほうに向け、つぶやいた。
「旧世界が滅び、人はそれを糧として魔導の力に目覚めながら、結局その魔導でまた旧世界のように闘争し続ける……」
男は天を仰いだ。
「俺もその片棒担ぎだ。所詮」
男はそう言って押し黙り、犬もまた口を閉ざした。
しばし無言であった一人と一匹が、突如として耳をそばだてたのは、しばしその場に立ち尽くし、言い表せない想いをそれぞれなりに噛み締め続けた後である。
おっさん、犬は男に向かって声をかけた。男は即座にうなずいた。
「人の声がしたな。それも悲鳴だ」
犬はうなずくと、男の懐の中にひょいともぐりこんだ。矢継ぎ早にそれに次いで、男は聞こえてきた声のほうに向かって走り出した。尋常な速さではなかった。飛燕が地にその影を僅かだけとどめるような速度で、次の瞬間に男の姿は跡形もなく消え果ていた。
2
風が砂粒を運ぶその街の跡形の外れに、人の身の丈ほどに隆起した小さな丘があって、さほどのものではないにせよ少々の眺望がある。
風はその丘の上を、地面のくびきから離散した軽やかさで吹き抜ける。
そこには塚があった。
ふたつ。まるく土を盛り上げてある。
時期になると、干からびずに一日持たぬことを知りながら、ささやかに花が添えられる。
墓であった。それも極めて質素なものである。眠る者の名もそこには刻まれていない。
フィアにとってそれは、両親が永久に眠る場所であった。一年に一度、二日二晩かけて荒野を横断する苦難を堪え、滅びた街の丘の上に墓参にやってくるのである。この日も疲れ果てた体を引きずりながら、ようやくここにたどり着いた。
両親と別離して十年。少女であったフィアは歳月を重ねながらも、その容姿や肢体の様子はほとんど変貌を見せようとはしていない。童顔。目元はお人よしで善人であることを疑いようがなかった父親に生き写しであったし、つややかな栗色の髪は母親譲りのものだった。
生前、両親はフィアをいつくしむと共に、その容貌の愛らしさを繰り返し褒めたものだったが、フィア自身はそのことに微かに苦笑し、親の贔屓目と本気にはしていなかった。だが、化粧気乏しく口唇淡い彼女の相貌は、ごく控えめながら清楚な美しさを宿している。身なりは質素で廉潔であることが窺え、放埓や奇抜からは程遠い。
だがこの日彼女は毎年繰り返す両親との体面と心の中での語りかけを、時間を費やし物静かに終えることができずに、両親の眠る塚に背を向け、しりもちをつき、表情をこわばらせずにはいられないでいた。
三人の屈強の男が、下卑た笑みを浮かべながら、彼女を取り囲んでいたのである。墓参する彼女の後ろを、いつの間にか取り囲んだのだった。
男たちの職業は一目で知れた。
兵士。なめし革の胸甲や肩当をつけ、腰に剣を帯びている。いずれも官給品で、大した品でないことは容易に見て取れる。その形状から、リーヴァス王国というこの付近一帯に勢力を有する国家の兵士であること、それもさほどの階級にはない兵卒であることを、見る者によっては見抜くことだろう。
だがフィアにそんなことはわからない。そもそも平静でさえなく、普段は物静かな彼女からすれば別人であるかのような大声でひとつ悲鳴を上げたあとは、鼓動が音を立てて早まる一方で顔から血の気が見る見る失せていく感触を味わいながら、後ずさるに後もなく、それでもじりじりと地に付いた腰を後方にそらそうとしていた。
兵士たちはそれを見下して笑っている。
中央の一人が、ひげに覆われた顔の半面を品なく蠢かして語りだした。
「娘。我らはな、魔の徒の残党が跳梁すると聞いて、命を受け、こんな辺鄙な瓦礫の街にやってきたのだ」
傍らの別の一人が、唇の端を好色そうに吊り上げる。
「お前ら民を守るため、我が身を投げ出して我ら献身している。ゆえにそんな我らをもてなすことが、お前ら民にしてみれば当然ということだろう。わかるな」
兵士たちはフィアとの間をじりりと詰めた。唇を震えさせながらフィアは男たちを見上げた。
また別の兵士が口を開いた。青黒い、何か病にでも侵されているかのような顔色の悪さだ。それが笑うとひどく酷薄に見える。
「それともお前が魔の徒であるのかもしれないな。どれ、衣をはぐって、正体を確かめてやろうか」
蛇のような兵士の腕がフィアの肢体に絡みつくように伸びた。フィアは目をつぶって唇を噛み締め、悪寒が自分の肌の上をはいずり回る恐怖に脅えた。
其処は、別段太陽が強靭すぎるわけではない。ひとつの街は元来水に乏しいところではあったが、熱波にさらされて砂漠と隣り合わせになっているような場所ではなかった。其処が荒野となったのは、魔導が街を焼き尽くしたからである。ゆえに天にあるこの日の太陽は、薄曇を透いて降り、肌寒くもなく温むでもなく、街の名残と居合わせた幾人かを照らし、砂のうっすら降り積もる地面にいくつかのさして色濃くもない人影を作った。
ひとつの人影が、倒れこむ別の人影に対し、触手を伸ばすようにその腕を向けたとき、地にはもうひとつの黒い影が刻まれた。空から飛来した影だった。だがその主が音もなく着地したと思ったのもつかの間、影その主とは共に疾走し、瞬きの次には甲冑姿の三つの影と一瞬だけ重なり合い、転瞬その影の固まりは払われ、ただひとつが、倒れこむ寝姿の影の傍らに寄り添うようになった。
影と接し地に立つその後背の気配に気づき、フィアは恐る恐るまぶたを開いた。すぐ側に、ほんの僅かに藍を宿す漆黒の衣の男がフィアを護持する盾のように立ち尽くしている。
低い良く響く声が聞こえた。男の声のようだった。
「悲鳴が聞こえて、飛んでくれば、そこにいたのが下種どもか」
男は振り返った。砂色をした切れ長の鋭い瞳。耳までを覆う黒髪が揺れる。鋭い鼻梁、引き締まった口元。厳格で冷徹さを連想させる硬い表情。注がれる凝視はどこか厳しい。フィアはびくっとする。
一瞥。
すぐに男は振り返った顔を元に戻し、第一撃で自身が跳ね飛ばした地に転がり込む甲冑姿の兵士らを再び冷ややかににらみすえた。
「力ずくで女を襲う。それも墓前で。お前らの趣味だとすれば地虫も恥じ入り顔を背ける類のものだな」
男は口にそう唱えたが、それ以上にその眼光が兵士たちの蛮行を罵り見下していた。それが兵士たちにとって癇に障った。眼光に虫けらにさえ劣るという叫びがほとばしっている。
「貴様、何者だ」
精一杯の反抗で、兵士の一人が叫んだ。それに鼓舞され、他の二人が慌てて立ち上がった。
「我らリーヴァス王軍の魔導兵ぞ」
「王軍兵士に逆らうとは、王のご意向を恐れぬ痴れ者め」
男は兵士らの怒号を鼻で笑い、悠然と兵士らに背を向け倒れ込んだままのフィアを見やった。
「災難だったな。だが間に合ってよかった。どこか痛いところはないか」
低い声色は、先程までは兵士たちを罵倒する猛々しいものであったが、小声でフィアに向けられたそれは遠くに聞こえる漣のように穏やかなものだった。フィアはそれに惑い、男の言葉の意味も良くわからぬままにこくんとうなずき、伸ばされた腕にふらりと手を伸ばした。
その手を男がつかむ。乾いたぬくもりが感触として伝わり、次いで力がかかり、フィアの体は地面から引き上げられた。
「怪我はないか」
再び穏やかな声がした。フィアは童女のような素直さでまたうなずいた。男はその硬質の表情を一変させてはいなかったが、フィアを眺めるその中には幾分かのほころびに似たようなものが見え隠れしているようでもあった。
フィアははっとした。その男が不意にかがみ、自分の足元に手を伸ばした。動作の意味を解しかねてフィアは後ずさったが、次にはわかった。フィアが倒れこんだせいで、せっかく供えた花が乱れ散っていたのを、男が整え、静かに墓に供えなおしたのだった。その時男は沈静な表情の片隅に、見も知らぬ者の眠りを悼む微かな色を浮かべた。
「こちらを向け、不埒者」
完全に見向きされず放置された格好となった兵士の一人が激昂して男の後ろ背に罵声を浴びせた。男はそのままの体勢でひとつため息を吐いた。
「まだいたのか。さっさと逃げ出せばいいものを」
それから兵士たちに再び体の正面をさらし、憮然に近しい表情で対する。
髭面の兵士が口を開いた。どうやら一時の狼狽を沈静させたようで、表情に余裕と優越感とが満ちている。男が一人だけで他に仲間がいないことにも兵士の勇猛心が遠慮なく膨れ上がる原因となったのだろう。
「……勘違いも甚だしいようだが、我らはその娘を詮議しておったのだ。悲鳴を上げて大騒ぎしたのはそれゆえ。化生として人に憑依する魔の徒もおるというではないか」
「……」
「……その娘をかばい立てするとは、お主も存外魔の徒の片割れか、それに類する者ではないのか。いや、そういう類の者として、斬って捨ててやってもこちらは一向に構わぬのだぞ。何せ我らは、王軍である」
余裕を取り戻し、滑らかになった舌のさえずり。羞恥も廉恥もない傲慢な表情。沈静な顔つきの奥底で、男は憤りを静かにたぎらせた。
それが瞳に露になる。切れ長の瞳が、研ぎ澄まされた刃のような危うさで、鋭い眼光を遠慮なしに兵士に突き立てる。
一瞬だけ、気圧され兵士らは生唾を飲み込む。だが、
「…歯向かうというのか。王軍兵士たる我らに。ならば貴様は紛うことない謀叛人となる。貴様と、そこの娘。二人して首級を仲良くさらしてやろうか」
髭面の兵士はにやりと笑った。悠然としたものだった。漆黒の衣の男は髭面の兵士を冷ややかに見据えた。一陣風が吹き抜けた。髭面の兵士はその表情のまま自分のあごに手をやった。獲物を前に舌なめずりする際のこの男のくせだった。だがごく自然な身振りであるその動作に対し、髭面の兵士の手先の感覚は常と違う感触を伝えてきた。髭面の男は瞬時にその感覚のおかしさを解釈することができずしばらく困惑した。何度もあごを撫でた。しまいにはこすりつけんほどにその動作を繰り返した。何度繰り返しても同じだった。何の抵抗もない。感触がない。髭がない。それも、顔の左半面だけ。
半分だけ髭面の兵士は慌てた。夢でも見ているのかと思って目をこすろうとした。また唖然とした。左の眉毛も失せていた。漆黒の衣の男が眼前で、沈静な表情の奥に微かに笑みを浮かべていた。
3
リーヴァス王軍の兵士らに取り囲まれ危ういところであったフィアは、目の前の光景に唖然とし、次いで思わず噴出した。
「あ、あの人、髭がなくなっちゃってますね」
フィアに背を向け、無頼の兵士たちから遮蔽するようにその間に割って入り立つ、漆黒の衣をまとう男は、フィアの言葉を耳にして含み笑う音をこぼした。
「魔導を使ったいたずら。ちょっとしたものだろう」
フィアの視野の中で、髭を失った半面髭面の兵士が顔色を赤く染めたり青褪めさせたりしている。いや、青褪めて見えるのは顔色の悪さのせいでもあったが、髭を剃られた後の地肌が青く見えるせいかもしれない。フィアは忍び笑いつつも目を輝かせた。
「すごい。あんなことができちゃうなんて」
笑い交じりのフィアの賞賛に、漆黒の衣の男も沈静な表情を崩しはせぬものの、多少は気分良くなったらしい。
「おかげさまで、俺自身も朝の髭剃りに苦労したことはない」
言わでもがなの減らず口を向け、健やかな細身の肢体とごく控えめな雰囲気の容貌を持つフィアをまた笑わせた。
「でも、強いて言えば」
「……ん?」
悪戯っぽい視線を向けるフィアを、男は肩越しに振り返り、返答を待った。
「どうせならあの人の左半分の髪の毛も剃ってしまえば良かったのに」
控えめで愛らしそうな表情で、随分なことをさらりと言う。今度は男のほうが咽喉奥を震わせた。
「なるほど、一本取られた。なかなか言ってくれるな」
そういって男は興味深げにフィアを見やる。フィアは穏やかに微笑み、救いの手を差し伸べてくれた礼をいおうとした。だが、それは怒号によってかき消された。髭を半分失った兵士の声だった。
「貴様……。俺の髭を返せ」
漆黒の衣の男は叫び出した半面髭の兵士をちらと見やると、苦笑して肩をすくめ、わざとその兵士にも聞こえるような声の大きさでフィアに語りかけた。
「先方はどうやら髭は返してもらいたいようだが、眉毛はあのままでいいらしい。確かにその方が、男ぶりがずっと良くなったからな」
フィアは少女のようなあどけない表情でまた噴出した。その光景に、兵士は更に激昂する。
「この痴れ者。馬鹿にしおって」
「あ、髪の毛」
男の声に兵士ははっとして頭髪に手をやった。
「ある。ある。まだちゃんとある」
「きちんと手入れをしないと将来禿げるぞと忠告しようかと思ったのだが」
「ふざけるな!」
叫ぶのと同時に、甲冑姿の三人の兵士が十歩に満たぬ間合いの先から同時に飛び掛ってきた。
跳躍と共に、赤銅色によく日焼けした兵士らのふたつの腕が、筋肉を幾重にも巻きつけたように太さを増し、そしてよりいっそう赤黒く鈍く発光する。魔導の力を肉体の一部位に集約し、一時的に筋組織を肥大活性化させ、同時にその打撃によって敵の肉体に直接魔導を流し込む、零距離白兵戦闘を彼らは選択したようだった。
その肉体の変容と、猟犬じみた兵士らの血走った眼光に、凡夫ならば萎縮してしまったかもしれない。だが漆黒の衣の男は慌てふためくことなどなく、微動だにせず、ただひとつの腕のひとつの掌を間合いを詰めてくる兵士にかざした。
不思議なことが起こった。地を蹴りほとんど跳躍しながら前に行く兵士三人、見えない壁に阻まれたかのようにぴたりと前進を止め、そのまま真下にすとんと落ちた。
咄嗟に、兵士たちは何が起こったかわからない。が混乱には更に拍車がかかった。風切る音が聞こえる。何度もそれが反復される。しりもちをついたままの三人の兵士たちの顔や体の近辺を、何かが猛烈な速度でひっきりなしに通り抜けてゆく。うっすら降り積もった地面の上の砂の層が、時折、波飛沫が立ち上るかのように砂塵を上げ、すぐに沈静する。風切り音が繰り返される。
半面髭面の兵士の耳のすぐ近くを、空を突き抜けて何かが飛び去り、宙にその痕跡としての切り裂かれた波動をとどめ、それは音響となって兵士の耳に飛び込んだ。髭を半分失った兵士は飛び上がって耳を押さえた。鼓膜に達するまでの耳の中いっぱいに甲高い風切り音が乱反射して響き続けている。兵士は何度も首を振った。音は失せない。何か耳を押さえる手にぬるぬるとした奇怪な感触が残る。手をはずし、まざまざ見やる。血で赤黒く濡れている。ひっと息を呑む。見る見るふたつの腕の表皮にみみずばれが浮かんでくる。擦過傷の痛みに酷似した痛覚が腕に宿り、すぐさまに全身を駆け巡る。腕を見る。細かい引っかき傷が容赦なく浮かび上がっている。次には肌を裂かれた傷跡から血がにじむ。肩に違和感が訪れる。慌てて肩を見る。肩当に小さな、蟻の巣穴のような穴がいくつも開いて、虫が食ったようにぼろぼろにされている。
兵士は左右を慌てて見やった。病者顔の兵士も、もう一人も、やはり同じように衣服は千切れ、甲冑は見るも無残に侵食されてしまって、体のあちこちに血をにじませている。
相変わらず、砂地で細かい音が鳴り響く。砂、兵士ははっとした。漆黒の衣の男のほうを見上げた。合点がいった。漆黒の衣の男の攻撃は至って単純だった。ただ単に砂粒だの砂利だのの欠片を魔導の力で打ち出している、それだけなのだ。異様なのは打ち出される速度だった。
このままでは体が蜂の巣にされる。そう思った時、絞りつくされんほどに鮮血を撒き散らした自分の死に際の光景を連想してしまい、半面髭面の兵士は恐怖し震えた。
その気配を悟ったのか、漆黒の衣の男はかざしていた掌を納める。途端に風が止み、震える音は失せた。
一拍の静寂。そして、
「化け物だ」
病者顔ともう一人の兵士は、恐怖に顔を引きつらせて叫び立ち上がり、半分髭面の兵士を置き捨てて逃げ出した。それを見て漆黒の衣の男は、戦う興味も失せ後の始末が億劫だといわんばかりに背を向けた。
隙だらけの背。
地に倒れこんだままの半面髭面の男の目の前に、無防備な背中が投げ出された。脇腹、腰の上、刃で貫けばあっけなく肉をちぎることのできそうな部位が髭を失った兵士の脳裏でちらつく。もしかして殺せるのではないだろうかと思う。ふらりと、そんな気分になる。それは、たった今まで恐怖を感じていた自分自身とは奇妙にかけ離れ、浮遊しているかのような、地に足の着かない漠たる気分だった。
たった今まで、自分を圧迫していた人間を、容易く苦悶させ、絶息させる。それは濛々とした水蒸気の向こう側の光景のように現実感に乏しく、それでいて曖昧にどことなく甘美でもある。漆黒の衣の男の背が、右に左に、ふらふらと揺らめく。いや男自身が揺らめいているのではない。半面髭面の兵士自身がゆらめいている。
手、宙を漂わせた挙句、半面髭面の兵士は腰の剣の柄に手をかけた。にぎりしめる。柄を経て鞘の内の刀身に兵士の魔導が伝達されてゆく。吸魔導。魔導を用いた抜刀術。やれるか。やれるか。
立ち上がった。思ったより力強く跳ね起きたと髭を半分失った兵士は自分ではそう思った。飛び掛ろうとした。小さな種火から灯火が燃え上がったように、胸中に闘志とも殺気とも言える感情が湧いてきた。
だが、それがいけなかった。
漆黒の衣の男は、兵士のその闘気に過敏に反応した。
振り返りざま、切れ長の瞳をいっそう鋭くし、きっと兵士を見据える。
途端に、
(飛礫が迫る)
兵士はそう感じ、気が遠のいた。目には見えなかった。だが確実に感じた。十数歩の距離を隔てて繰り出した拳がこなたに到達したかのように、うねりを上げて空を裂き、腹部に衝撃が幾度も走った。鈍い音が激痛と共に訪れた。自分の肋骨が折れた音のようだった。
「しまった」
そうつぶやいたのは漆黒の衣の男のほうだった。兵士は放物線上に宙を舞い、着弾するのに等しく地に落ち、僅かに痙攣しただけで後は動かないでいる。
後悔したわけではなかったが、後味は多少悪かった。どうやら死んではいない様子だが、無意識とはいえ過剰反応したことに胸を張る気にはなれなかった。
漆黒の衣の男は、ひとつ嘆息した。やはり魔導などろくな代物ではないと今更ながらに思った。そして、おい無事かと兵士に声をかけようとしたとき、突然懐がもこもこと動き出し、合わせ目から頭の大きく、手足の短い白い体毛の犬が飛び出した。
「へっへっへ。やっちまったなあ、おっさん」
スーという名の犬だった。犬が突然出てきてしゃべりだしたことに、ほど近くにいたフィアが呆然とする。
「犬が、おしゃべりしてる」
スーはへへんと胸を張った。
「すごいだろ。見たか、おいらが天才犬のスーちゃんだ」
飼い犬の様子に、またもため息を吐いた漆黒の衣の男は、茫然自失のフィアをちらとだけ見ると、得意げな表情の犬にどうして飛び出てきたかを尋ねた。
「愚問だね。おいらがこの状況で登場する、その理由なんて、たった一つしかないじゃないか」
「……どういう理由なんだ」
「決まってる。こいつをさらにいたぶってやるためら」
そう言い、間髪いれずにスーは横たわり倒れこむ兵士に飛び掛った。
「くらえ、スーちゃんキーック。そして、スーちゃんパーンチ」
「……あのな、ひとつ聞いてもいいか、スー」
「なんだよおっさん」
「スーちゃんパンチって、お前それ手でなくて前足だろう」
「ふふん。おいらは世界で一匹の天才犬。進化した犬だからね。当然二足歩行ができるのさ。だから手なの、パンチなの」
減らず口を叩いたまま、更に兵士に飛び掛り、体中に無数の傷跡やあざをスーはつけていく。
見かねて漆黒の衣の男が止めようとした。
「おいスー、いいかげんに……」
「わかってるぜ、おっさん」
「……何がわかっているんだ?」
「こいつもう散々にぼろぼろにしたわけだろ」
「……それで」
「もういいかげん楽にしてやれと」
「そういうことだな」
「わかったぜ。ようし、おっさんそこでしっかり見てろよ。おいらが立派にこいつにとどめをさしてやる。一発だ、一発で楽にしてやるぜ。ほりゃあ、死ねえええ」
ぽこっと、スーは飼い主に後頭部を殴られた。
「あいたたた、痛いじゃないのよ。幼児虐待。動物虐待。愛護団体に訴えてやる」
「まったく、お前と一緒だと退屈することがなくて実に結構なことだ」
漆黒の衣の男は白い犬の襟首をひょいとつまみあげると、自分の懐の中に再び収めた。襟の合わせ目からスーはその大きな顔を突き出す。
「ちぇ、後もうちょっとでそいつ介錯してやれたのによ。まったく、野暮なおっさんだぜ。そいつせっかく武士の名誉を守るチャンスがあったってのによ。生き恥さらしちまってるじゃないかよ」
「……それよりお前が礼節や慈悲の心を持て」
ふん、犬はさも忌々しげに鼻を鳴らした。
4
フィアは改めてまじまじと漆黒の衣をまとう中背の男の姿を見た。
切れ長の瞳が人目を引きはするが、特別美男というわけではない。また少年の年頃とも違う。顔の造作は未だ若々しさを見え隠れさせているとはいえ、表情に虚脱したような童顔のそれはない。沈思、十分に抑制された物腰。同様に裏返り乱れることのない低い声色。挙措は容貌の造形にそぐわぬといえばそうである、歳月と熟慮を重ね経た落ち着き払った壮年の振る舞いに等しかった。
それだけでもこの男がどことなく均衡を欠く、というよりフィアがこれまで見たことがない類型に属する、不思議なたたずまいであるのだが、その上この男は懐に飼い犬を入れているのだから余計にちぐはぐである。
犬は顔だけがやたらと大きく、その表情は飼い主に似たのかどことなく無愛想で、おまけに人語を解し言葉をしゃべる。そして、しゃべる内容といえばどちらかといえば寡黙な印象を受ける飼い主とは違って、たいていの場合はろくでもないことのようだ。
「おう、なかなかかわいいねえちゃんじゃないかよ」
「ど、どうも」
品のない表現で犬に褒められたのははじめてだったから(当たり前といえば当たり前だが)、フィアはどう応じていいかわからず困惑したが、自分が未だ礼の一つも言わず、名も名乗っていないことを思い出し慌てて話し出した。
「あ、あの、救っていただいてありがとうございました。わたし、あの、フィアといいます。ここからあまりはなれていない、ルディアの村に住んでいるんです」
真っ先にそれに応じたのは犬のほうだった。
「へえ、フィアっていうんだってさ。覚えたかおっさん。かわいいねえちゃんの名前は即座にインプットだぜ」
漆黒の男は呆れ顔で懐の犬を一瞥しただけで、あとは無視した。その態度に犬は舌打ちしたが、疲れたのだろうか、図太くひとつあくびをすると目を閉じておとなしくなった。どうやら昼寝を始めたらしい。
漆黒の衣の男はフィアの白皙の容貌を眺めやった。
「ルディアの村か。悪いが聞いたことがないな」
「開拓村ですから。つい最近、といっても数年前くらいかしら、入植が始まったんです」
そうか、男はつぶやいた。
「あのお墓はふたつ並んでいたが、ご両親のものか」
フィアがうなずくと男はフィアから視線をそらし、空を眺めやった。相変わらず太陽はどことなく弱々しかった。
「せっかくの命日だったのに、とんだことだったな。しかし何事もなく良かった。おそらくご両親のご加護のお陰だろう」
そうですねと相槌を打ちかけて、フィアははっとした。
「あの……、どうして両親の命日だって、わかるんです? ううん、正確には父のほうは明日なのだけれど」
フィアの問いに、男は簡潔に答えた。
「墓参していたからだ。それに、今日はこのカシュガルの大破壊の日だからな。それが原因で亡くなったのではないかとの当て推量だが」
「当たってます」
フィアは男の話を先回りする聡明さに驚きながら、男がこの街が破壊された日を知っているのが意外でもあった。その違和感を僅かに浮かべた表情のまま、フィアは男に尋ねた。
「あの、あなたも肉親の方があの日ここで……」
男はかぶりを左右に振った。
「いや、俺に肉親はいない。ここに眠っているわけでもない」
「ではどうしてこの日をご存知なのです?」
「あの日ここにいたのだ。街が燃えるのを、とめられなかった」
漆黒の衣の男は、そう言い終えると瞑目した。
フィアも、あの日のことを思い出していた。
さほどに豊かではなかったが、夜昼なく誠実に働く両親は、フィアを近郊の都市の修道院に進ませてくれた。そこでの勉学が進めば末は高位の神職をめざすこともできたし、そこまで行かずとも町や村の協会で教師代わりになって子供たちの相手をする職につくこともできた。
修道院は寄宿舎だった。両親は笑顔でフィアを送り出した。そのときから数ヶ月もたたない頃だった。両親の笑顔もそのぬくもりも、いささかも色褪せてはいない時期だった。
ある夜、天を炎が焦がした。フィアは慌てて寄宿舎の扉を飛び出して外にでた。闇の帳の向こう側の地平線が紅く染まっている。カシュガルのほうだ、フィアは息を呑んだ。そして炎に向かってふらふらと歩き出した。いいえ、そうではない。あれはカシュガルのほうだけれど、カシュガルではない。カシュガルが燃えているのではない。そう思い、念じ、願いながら。
やがて、どれほど歩き、どれほど進んだのだろう。疲れ果て、崩れ落ちそうになる体を引きずり、それでも歩くフィアの行く手に、白々と夜は明け、柔らかな黎明の光と、その薄幕をゆっくり押し上げてくる一つの長く棚引く人影とが見えてきた。
父親だった。
フィアは駆け寄った。
父親は背に母を背負っていた。
二人とも、炎に焼かれ、衣服や髪はちぎれ、火傷が目立ち煤だらけだった。そもそもその歩き方から尋常でないことは一目でわかった。フィアは涙声で叫び、父を呼んだ。衰弱しきった父の沈み込んだ顔が上がり、震えるまぶたが見開かれ、しっかりと愛娘の姿をその目に捉えた。
「……神よ、恩寵に感謝いたします。ああ、娘に会えた」
父親は見る見る表情を柔和に弛緩させ、小刻みに震えながらふたつの瞳に涙を盛り上げ、背にある彼の妻を肩で揺さぶって呼びかけた。
「母さん。母さん。ほら、フィアだ。あの子がいる。ようやく会えた。会えたよ」
だが、夫に背負われたままぐったりとした表情のフィアの母親は、呼びかけに応じもしなければ目を見開きもしなかった。フィアも父もすぐに悟った。
「間に合わなかった。フィアにあれほど、最後に一目でいいからと、そう念じて、がんばってきたのに、母さんとうとう間に合わなかったか。あと少し。少しだけで。ああ……」
そして、フィアの父も崩れ落ちた。
涙が引いた後、フィアは両親の遺骨を、炎が去って瓦礫ばかりとなったカシュガルの一角に埋葬した。緑に溢れ、小鳥の囀る美しかったカシュガルは、見る影もなく、かつての光景からは想像もつかない砂漠となった。魔導のせいだった。
「魔導の力は、城壁を、鋼を、生命を、ついには砂へと変えてゆく。礫となり、砂となり、目には見えない微粒子となり、風に運ばれ、それでもひとたび帯びた魔導はなかなかに失せない」
フィアの目の前の漆黒の男は、そうささやきながらかがみ、足元の砂をひとつかみ握った。男の指と指の間から黄土色の細かな砂がさらさらとこぼれ落ち、その半ばは地につく前に風にさらわれる。
「魔導を帯びた砂は、緑を遮り、生命もこれを嫌忌する。ゆえにそこは砂漠となる。ほんの小さな区域でも、何年も、何十年も、雑草ひとつ生えてはこない。砂の中の魔導が完全に失せるまで」
男は再び天を仰いだ。
「あの日、魔導の炎は天を焼き、街を蹂躙した。まるで俺の無力さを嘲笑うような炎だった。食い止めようにも、どうしても食い止め切れなかった。僅か一夜で、カシュガルは灰燼と化した。あれは忘れられない。俺は、死ぬまであの日の炎を忘れないだろう。あの日俺は、何もできなかった自分を悔いて、心底力がほしいと思った」
風の響きに似た男のつぶやきに、フィアは穏やかに微笑んだ。
「でもカシュガルも、女の足でも二晩くらいでたどり着ける程度の、本当に限られた部分しか荒野になっていない。それは当時、炎を防ぎとめてくれた方々のお力でしょう。お陰で両親の墓参も毎年欠かさずにできるし、それに私、最後に父に会えたんですよ。それはきっとあなた方のもたらしてくれたものね」
男は、先程とは違った、やや意外そうな視線をフィアの表情に対して向けた。その中には幾分の興味も混ざっている。また、さほどに意地の悪い心地ではないながらも、フィアの言葉の信憑性を確かめたくて、視線で静かなその笑顔をなぞりもする。
やがて男は、ほんの僅かだけ微笑んだ。
「……俺はレヴィルという」
フィアはようやく告げられた男の名を耳にし、穏やかに優しげに微笑んだ。
視線が視線を尋ね重なり合い、それは元より唐突に思慕や情愛となって渇するように貪るものとは異なっていたが、一人の男と一人の女の間に親和に似た温みの感覚をもたらした。が、その雰囲気に唐突に無粋さが差し込まれた。か細い、だが耳にするだけで悲痛とわかる、乱れた呼気だった。フィアと、レヴィルと名乗った漆黒の衣の男は同時に物音のした方を見た。先程、レヴィルによって左半分の髭と左の眉毛を剃り上げられた兵士が、レヴィルの打撃を受け、苦悶の表情を浮かべていた。
レヴィルはちらとフィアの白皙の横顔を見つめた。
「どうするね」
フィアは説明を求めるしぐさでレヴィルを見返す。
「虎の威を借る卑劣漢だ。望むならば、砂と成し、砂に還してやるが」
フィアは少しだけ苦笑した。
「私はレヴィルさんのおかげでなんともなかったし、そんなことしなくても大丈夫です。それよりも助けてあげたほうが」
レヴィルもつられたように苦笑した。
「お人よしだな。こんな世の中で生きていくのに苦労するぞ」
5
仰向けに倒れこむ、髭を半分失った男の顔面からは血の気が引いていて、恨めしげに空の太陽を見つめている。口角には泡が浮き、唇の端には垂れ下がった血の跡が黒く干からびていた。
フィアは、華奢な姿態を軽やかに操ってその側に赴き、傍らに跪いてまず兵士の胸甲をはずそうとした。ところがほっそりとしたフィアの指は見た目の優美さのわりに小気味よく動くようではなく、甲冑などという代物のせいもあって、ひどく不器用そうにまごついてばかりいた。
レヴィルはしばらくその様子を見ていたが、やがて黙っていられずフィアの隣に並び、腕を差し出してフィアに代わって兵士の鎧をはずしてやった。
更にレヴィルは、兵士の鎧下の粗末な衣服も手と手に力を入れて縦に咲き、赤銅色のその半裸を露呈させた。フィアがわずかばかり目をそらす。患部、レヴィルが打撃した左脇腹付近のどす黒い内出血の痕がむごたらしいというよりは、胸板や腹部、無遠慮に密集する兵士の体毛などが目の毒であったらしい。そのせいもあるのか、フィアはやや闇雲に男の体の上に掌をかざし、患部の治癒を始めようとした。
「あの、わたし、修道院で勉強しましたから、簡単な治癒魔導くらいは使えるんです。初歩の初歩もいいところなんですけれど、それで、ええと」
何度も深呼吸をし、集中することを自分に対して念じ、肩には力が入りすぎてがちがちに固まっているのを無理に動かすようにして、フィアは魔導照射を行った。
レヴィルは嘆息した。
「……フィア」
「は、はっ、はい?」
フィアの口調は狼狽の色をそのまま写し取ってしまっている。声が上ずっているのは兵士の肉体に対面することと、レヴィルに自分の腕前を見られることへとの、ふたつの羞恥のせいであっただろう。
レヴィルは包み込むような低い声色で教え諭すように語りかけた。
「治癒の魔導といっても、医者が施す医療と同じだ。まず患部をよく見定める。内出血、炎症、おそらく損傷は臓器には達していない。そして……」
レヴィルは兵士の肉体にかざしていたフィアの細い手を取った。わずかばかり、フィアは驚き、自分の手の上に重ねあわされたレヴィルの手を見つめる。
「気持ちが乱れている」
レヴィルの言葉に、フィアははっとして、何度か深呼吸を繰り返した。
「そうだ。それでいい。そのまま、目を閉じて、五感を自分の手に集中するんだ。いいか」
つぶやきに似たその声がひとたび途切れると、その刹那、フィアは自分の感覚の変調に驚き飛び上がりそうになった。まるで熱い塊がとつぜんフィアの手を介して体の中に飛び込んできたようだった。
(熱い)
手を懸命に左右に振って振りほどいてしまいたいような熱さ。だが、それはどうにも分離せずにはいられない違和感としてあった灼熱のはずであったのに、鼓動の一拍がフィアの血液を体の四方に押し上げ、押し進める、ただそれだけで、次には塊と自分自身との間の境界線が脂と脂が混ざり合うように曖昧になる。熱さは続いている。だが、それが当たり前の、冬の最中に太陽にめぐり合ったときのような、穏やかで朗らかで心落ち着くものとなって自分自身と同居し始めたのだ。
その熱さが自分にとって当たり前となり、驚愕が波が引くように収まると、フィアの知性はその熱さが自分の手に重ねあわされたレヴィルの掌から飛び込んできたことを悟った。
ひどく遠くから、レヴィルの低い声色の声が聞こえてくる気がする。いや、潮騒のように響いてくる気がする。
「いいか、掌から魔導がゆっくり、静かに、放出されている。それは、ゆっくりとこの兵士の体の中に入り込み、あるものは体を通過し、あるものは反射して掌に戻ってくる。その微かな違い、掌に戻ってきた魔導の微かな感触を感知して、この兵士の体の中の様子を確かめる」
「そんなこと……」
「大丈夫だ。目を閉じて。頭の中に暗幕を思い浮かべる。そう、月も星もない、ただひたすらに真っ暗な闇夜だ。暖かいか?」
「……あ、暖かい」
「そう。その暖かさの微妙な違いが、掌に伝わってきている。俺には既に感じられている」
「違い? わからない」
「ほんの微妙な、平らだとかそうではないとか、そんな違いだ。ほら、ここにひとつ、小さな小さな波がある」
「……あ」
「そうだ。わかったな」
「わかった。わかりました」
「頭の中の暗幕に、何か浮かんでくるか?」
「あ、あ、うん。わかります。この人の肋骨の二番目と三番目」
「そうだ。二番目は折れている。三番目はヒビだ」
遠くから、遠くからレヴィルの声が聞こえてくる。乱反射しているようにその声色の輪郭ははっきりとせずに後を引くようでもある。その声を聞き、重ねあわされたレヴィルの掌から熱く、だが穏やかな魔導の波動が流れ込むのに身を任せていると、確かにその言葉のとおり、脳裏に何かの光景が浮かんでくるような気持ちが漠然と兆すのだ。
やはり遠くから、レヴィルの声が聞こえてくる。
「魔導は、人の意思。人の望み。人の思惟。心を集約し、具現化すべき光景を思い描く」
「心の、集約……」
「そう。今、何を求めるのか。倒すことか、従えることか、それとも」
「癒す、こと」
「そうだ。意識を集中させて」
「あ、わからない」
「そうではない。より具体的な、ひとつひとつを、根気よく思い浮かべる。あせらなくていい。ひとつひとつ。まずは患部の炎症だ」
「炎症、治す」
フィアが唇を微かに動かし、そうつぶやいた。目は閉ざされたままである。フィアの脳裏に、波が浮かんでくる。といってそれは汀の風景ではない。暗闇に浮かぶ、ただの線。のたうつ線。輝く線。波長。鼓動が響けば、その都度広がり行く波紋。
波に、波が重なる。ああ、フィアは理屈でなく直感的に悟った。後を追いかけてきてくれるもの、そっと寄り添い重なり合うもの、それは、レヴィルの波。
その瞬間、フィアは息吹まで、鼓動まで、傍らの漆黒の衣をまとう男と重なり合ったような錯覚を覚えた。それと全く同時だった。フィアの掌が鮮やかに透き通る緑玉色に光り輝き、直下の兵士の赤銅色の肉体に膨大な熱が注ぎ込まれた。
二度、三度、兵士の肉体が痙攣する。それを見て、フィアは大いなる安堵のほんの一隅で、その変化に惑った。だが、
「大丈夫だ」
声がする。耳に聞こえたのではない。流れる自身の思惟の中に直接、そっとささやきかけてきたような声。全く疑いを感じず、フィアはうなずく……。
微風に乗って霧がゆっくりと払われたかのような覚醒に、自分が至るまでに、どれだけの時間を経たのかフィアはわからなくなっていた。ほんのわずか、瞬きほどの時であったかもしれない、永劫となりの男と重なり合っていたのかもしれない、どちらともつかない、どちらであるともわからない、不思議な曖昧な感覚。理屈としては、天は動かず、太陽の傾きも変わらない。それはきっとほんの僅かのことだったのだろう。だが、長いとも短いともつかぬその時は、疑いようもなくひどく濃厚であった確信がフィアの中にある。そしてそれは、事実ではなく確信というかたちとなって手をすり抜け、記憶の中にとどめねば忘却の彼方に飛び去る天翔ける鳥のようにフィアには思えた。
そのことを、まるで宣告するように、不思議な世界の鎧戸を開け放ったのは、レヴィルの先程とはやや性質の変わった硬質の声色だった。
「あながち、こいつらの口実というばかりでもなかったのか」
レヴィルが凝視する地の一隅を、レヴィルに倣ってフィアも見つめた。
そこには砂塵の薄絹を隔て、ひとつの異形の影姿があった。
二本の腕と、二本の足。そのそれぞれに、三日月のように湾曲した鎌。黄土色に濁した彼我の間を透かして、ふたつの瞳が狂おしく紅く輝く。狼のように前に突出した鼻先と顎とを、見るからに獰猛な鋭い牙が幾本も上下していた。
魔の徒だ、レヴィルは沈着に、的確に判断し、冷然と断ずるようにそう言い放った。
6
魔の徒というその異形の者は、老婆のように腰を屈めながら、鉄片が叩き込まれたような強靭な肉体が、獰猛さとなって遠目からも伝わってくる。
気配。化外の者の醸し出す妖気。自ずから腰をかがめごく自然に相対するレヴィル。その漆黒の衣の懐の中にあって魔の徒の気配にたちまち午睡の膜を振り払い、視線を険しくするスー。
「おっさん。魔の徒がでてきやがってるじゃないかよ。生き残りってやつか」
「そうだな。絶滅したわけじゃないとわかってはいたが」
レヴィルは毛ほどの油断を見せないながらも、鋭い眼光で数十歩の距離の向こうにいる異形の魔の徒を牽制しつつ、そこからフィアを遮蔽できる位置に足を伸ばした。
「フィア」
隙を前方の獰猛な生物に見せぬまま、肩越しにフィアを見やる。
「は、はいっ」
口調が上ずっている。魔の徒に対する恐怖心がそうさせているのだろう。だが悲鳴を上げたり失神することがないのにレヴィルは感心した。
「存外平気らしいな。たいした肝っ玉だ」
フィアは肩越しに横顔を見せるレヴィルを恨みがましい瞳で凝視した。
「平気なわけがないじゃないですか。私は無力でか弱い女です」
「それだけ言えれば上等だ」
フィアは語尾を震えさせながらレヴィルに尋ねた。
「レヴィルさん、あの、あれが……」
レヴィルはうなずいた。
「そうだ。あれが魔の徒だ」
闘うことに疎く、魔導にも特別な才能があるわけではないフィアであったが、それで魔の徒のことを知らないということはない。顔色を蒼褪めさせながら、レヴィルの漆黒の体が遮蔽する行く手にいる一匹の異様な立ち姿を、恐る恐る眺めた。
魔の徒。
人を滅ぼさんと突如として表れ出た化生の者。
人の住む大地を殺戮で埋めんとする妖魔。
人は魔の徒によって過半の街を失い、過半の同胞を失った。
ゆえに人は追い詰められた。ゆえに人は、同胞への対立や憎悪を捨て、結束して魔の徒と対峙した。そして、人は魔の徒を打ち滅ぼすため、魔の徒の用いる異形の力を自らのうちに取り込み、魔の徒と同じ力でそれを滅ぼそうとした。
魔導。
フィアの目の前で、漆黒の衣の男の背中が微かに躍動する。
「動くなよ、そこを」
その言葉を発するのと同時に、レヴィルはその右腕を、そして彼方の魔の徒は鋭い爪の伸びた右の前足を、それぞれ突き出した。
途端、光流と光流とが互いに迸り、両者の中間で真正面、それは衝突する。
だがそれもほんの刹那。衝撃波が激烈な音響と閃光となってはじけたのが失せるのにさほどの時間を必要としなかった。そしてその寄せ波が引いた後、レヴィルと魔の徒はそれより前と寸分変わらぬ顔つきで同じ場に佇立し続けていた。
フィアはそれを後方から見つめ、息を呑んでいた。
魔導。
互いに用いる、同じ力。
レヴィルにとって最初の一撃は小手調べではあったが、初撃で片がついてしまえばこの上なかった。もっともあれが本当の魔の徒であれば、その程度で終わりはしないこともわきまえている。
(ちっ)
軽く舌打ちする。
魔の徒は様子をいささかも変転させない。
巨大な口を開き、上下に突き出された牙の縁取る口腔の中に、先端が二股に分かれた奇怪な、そして凝視をためらわせる赤くどす黒い舌がのたうっているのが見える。それが蠢く度に唾液が音を立ててはじけ、牙の隙間から一筋垂れ下がっても行く。
筋肉の隆起がはっきり見て取れるその外皮は茶褐色で、鎧をまとっているように誤認してしまうのは外皮が甲羅のように硬く体を覆っているからだろう。
四肢それぞれから突き出している湾曲した鈍色の刃は、あるかなきかの日の光を、更に減衰させて微かに反射させていた。金属ではない。おそらくこの者の躰から直接に突き出した何かが変質して刃のようになったのだろう。
レヴィルは冷静に魔の徒との距離を測った。
(近いな)
彼我の距離が近いことが気にかかる。
彼我の距離、レヴィルと魔の徒とのそれは魔導の戦士ならばショートレンジからミドルレンジの中間といったところと、言い表すかもしれない。更に彼らは、個人によって得手不得手もあろうが、闘うに悪い距離ではないと答えるかもしれない。この間合いを嫌がる者は、よほどクロスレンジの格闘戦に特化した戦士か、その逆の長距離射撃の専門か、いずれかというのが相場である。
レヴィルは、そのいずれでもない。彼自身何の制約もない状況で闘うならば、どのような闘い方をするのか選択肢の多々あるこの間合いを好むと回答しただろう。
ところが今はそうではない。気がかりなのは魔導の打ち合いをやって余波の降りかかってくるだろうフィアの存在だった。
もう少し距離があれば、向こうの攻撃も全てねじ伏せることができるが、近すぎた。幾分かは受け流すことで対処しなければならないかもしれない。最初の小手調べでレヴィルはそう見定めていた。
いっそのこと懐に飛び込んでクロスレンジで勝負するべきかともレヴィルは考えたが、格闘戦に移行し激しく体が入れ替わる。
フィアと魔の徒とを結ぶ直線が、格闘の推移によってがら空きとなり、その一瞬の隙を狙われたら……。
躊躇。
だがそれはほんの刹那でしかない。瞬く間にレヴィルは選択し、爪先の更に先端に力と魔導を集約した。鈍い音がして、レヴィルの長靴の先端が砂を穿ち、僅かに沈む。
レヴィルの瞳が、すうっと細まる。気配を察知したのか、魔の徒の開かれた口がゆっくりすぼまる。
フィアが、漆黒の衣の後姿を祈るように凝視する。
それを感じ取ったのだろうか。レヴィルは猛然と前に出た。
フィアははっと息を呑んだ。まるでレヴィルは突風のようだった。一瞬で異形の化生との合間を拳を交えるだけの近さに縮地した。思い切りの良さと魔導の力が重なり合わされ生じた尋常ならざる瞬発力だった。
最後の一歩、レヴィルは跳躍した。
太陽を背にはらみ、魔の徒から光を奪い、ひとつの漆黒の陰りとなって踊りかかる。
繰り出された右腕が赤褐色に発光する。
だが、異形の徒は微動だにしなかった。
交錯した。遠目のフィアにはそれだけが咄嗟にわかった。
次の瞬間、フィアは我が目を疑った。血煙、舞い上がる血潮、赤い血。それも、それも異形の化生からではない。レヴィルから。
鎌。魔の徒の体から突き出されたあの刃に肉を割られたに違いない。
フィアは愕然とした。そして、魔の徒が繰り出す次撃に再び鮮血が飛び散る凄惨な光景を想像し、足元がおぼつかなくなった。
駄目、逃げて、そう叫ぼうとしても声が出ない。震える瞳で必死に訴えかけようとレヴィルを見つめる。レヴィルは時が止まったようにその場に佇立している。魔の徒は……、フィアは驚く。魔の徒の姿がない。
レヴィルは微かに顔をゆがませた。
懐のスーが舌打ちする。
「おっさん、無謀もいいところだぜ。無意識魔導障壁を一時的に取り払って突撃なんてよ。とばっちりがおいらのとこにまできたらどうするんだ」
そうぶつぶついうと、犬は衣の合わせ目から顔を突き出して、レヴィルの左の袖を真っ二つに裂き、二の腕深くえぐった傷を見た。
「ああ、痛そう。血もダラダラ」
レヴィルは溜息に似た息遣いの呼気を吐き出すと、瞑目した。次いで、ぱっと瞳見開く。脱兎の行くように傷口が見る見るふさがっていく。
犬は皮肉にゆがんだ笑顔を見せた。
「魔導障壁があれば跳ね返しちゃうからね。跳撃がねえちゃんのところに行くのが怖かったから、承知の上で肉を斬らせて骨を絶つかよ。愛だねえ。それともおっさん、助平根性か」
「ちょっと黙っていろ。まだ終わってはいない」
先程の交錯、その時に、レヴィルの左手をえぐる代わりに、殴り飛ばされ、百歩の距離の向こう側に追いやられた魔の徒が、左腕をだらりとたれ下げながら、赤い瞳をレヴィルに容赦なく注ぎ込んできている。左腕が見るからに損傷し、特徴的であった鎌もその刀身の半ばほどから欠損しているのは、レヴィルの一撃のせいらしい。
魔の徒は、巨大な口をあけた。
咽喉奥が奇妙に発光する。
あそこから魔導を打ち込んでくるのかよ、スーは意表を突かれ驚いたが、レヴィルはまるで乱れない。
「もう遅い。この間合いでは何をやっても無駄だ」
その瞬間、魔の徒に向かってかざされたレヴィルの片手の掌から、激烈な閃光と轟音とを伴う金色の魔導波が奔流のように放出された。それは、雷をその身にまとう黄金の蛇となって、宙をうねりながら進み、魔の徒の邀撃も防御壁の展開もさせぬまま、ただの一瞬で魔の徒を包む。
その断末魔さえ包み込み、覆い隠してしまうように、閃光ははじけた。
しばらくの間、砂礫の地は息を呑み、風吹く宿命(さだめ)を見失っているようだった。
閃光が失せ、やがて砂塵はその本来の営みを取り戻し、再び息吹を伝えてくると、闘い終え気息をゆっくり整えつつある漆黒の衣をまとうレヴィルの元に、華奢な肢体のフィアが駆け寄ってきた。
「レヴィルさん」
男はうなずいた。「終わった」
男は仕草で、閃光をぶつけた魔の徒のいた辺りを見つめるよう促した。
フィアはそれに従い、そちらを見つめた。
何もない。光が去った後の空漠。そこはただの砂礫で、これまでがそうであったのと寸分たがわぬたたずまいを見せるだけであった。
「消えたの?」
フィアの問いかけに、レヴィルは首を左右に振って応じた。
「消えたのではない。砂になった。砂に還って行った」
レヴィルはそっと手を伸ばし、風をつかんだ。息吹はすり抜け逃げても、途中で握り締められた掌の中にいくらかの砂粒が残った。
レヴィルは、それを開いてフィアに見せた。
「人も魔の徒も同じだ。死んで砂に還る。だが、消えたのではない。見えなくなったのではない。人も魔の徒も其処に確かに生き、そして確かに死んでゆく」
レヴィルの言葉に、フィアは口を閉ざした。レヴィルの口調は砂孕む風の音に重なって聞こえた。だがそれでいて、フィアの耳には、このとき風は酷薄には響いてこなかった。
フィアは、心持背の高いレヴィルを軽く見上げるようにして、つぶやきながら問いかけた。
「レヴィルさん……。あなたはいったい何者なんですか?」
レヴィルは微笑し、その問いをはぐらかした。
「さて、墓参は中途で終わったのだろう。続きを済ませてくるといい。終わったら村まで送ろう」
「送ってくださるなんて、いいんですか?」
「かまわないさ。どうせ暇をもてあましているからな。それに、治癒も終わってとうに意識が戻っているのに、いつまでも気絶したふりを続けているそこの兵士がいる前で、ひとりきりにもできん」
横たわったままだった負傷した兵士は、それを聞き、半分失った髭や眉もそのままに飛び上がって驚き、それから、見苦しく満面に愛想笑いを浮かべた。
「へ、へへ、とうにお気づきでしたか旦那」
左右で風貌ががらりと違うちぐはぐさが、醜悪に輪をかける。
レヴィルは兵士をにらみつけた。
「命は助けてやる。失せろ。二度と同じことをやってみろ。瞬殺して寸断して、犬の餌にしてやる」
それを聞いて兵士は震え上がったが、スーはレヴィルの懐の中で不満げに鼻を鳴らした。
「ふん、犬も食わん。薪にして暖炉にくべてやる」
半面髭面の兵士はまごまごしてその場に立ち尽くしたままだった。
ちっ、またスーが舌打ちする。
「どうしてもおいらに止めをさしてもらいたいようだな。いくぜ、必殺、スーちゃんびーむ!」
叫び終わった瞬間に、スーはレヴィルに首根っこを押さえ込まれた。
「何するおっさん。やめろ、おいらを放せ」
じたばた暴れる犬と、渋面で首元を摘み上げるその飼い主。髭を半分失った兵士は、一人と一匹の不毛な争いを今が好機と一目散に逃げ出した。
墓参を終えたフィアが、この日一番の歓声を、くすんだ空に向かって高らかに歌い上げたのは、手を出してくれとレヴィルに願い出られた直後であった。
それまで重力によってその身を大地に縛り付けられていたフィアが、一瞬でそのくびきから脱し、宙にある。
驚愕し、悲鳴を上げ、それが一段落すると突然フィアはころころと笑い出し、握り締められたレヴィルの手から伝わってくる、不思議で、ほのかにぬくもりのある魔導の力の流れを体内に感じつつ、漆黒の衣をまとうその男と共に、地へと引き戻す重力や体を揺さぶる風から全く自由である空中の闊歩を楽しんだ。
「レヴィルさん!」
フィアは叫んだ。宙は風がそよぐ音がするほかは、しっとりとした空気の肌触りとまったく背反しない静けさが漂っている。傍らのレヴィルを呼ぶのに叫ぶ必要はどこにもなかった。だけれどフィアは笑い出したくなるくらい叫びださずにはいられなかった。どうした、レヴィルがきまじめな口調で問う。
「空も飛べちゃうなんて、夢みたい」
「魔導の腕前が上がると、ろくでもないことはいろいろやれる」
「ねえ、レヴィルさん!」
レヴィルは今度は僅かに顔をしかめた。
「そんな大声でなくとも十分に聞こえる」
「レヴィルさん、レヴィルさんは、いったい何者です」
「何者?」
「こんなことがやれるなんて天使? それとも黒いから悪魔?」
レヴィルは静かに笑った。
「そうだな。悪魔のほうかもしれないな」
自分のその言い草が気に入ったのか、レヴィルは続ける。
「ああ、俺は悪魔。魔の徒の、兄弟分だろうな」
一瞬言葉の意味を解せずぽかんとして見つめてきたフィアに、レヴィルは苦笑すると、浮かび上がろうとしていた自嘲の鈍いきらめきを包み隠し、茫洋とした表情にあらためた。
宙にあって指をさし、フィアは自分の村の位置をレヴィルに伝え、そこへとレヴィルが空を行く。
手を握り締められ、棚引くように共に飛ぶフィア。やがて、空から村へと降り立ったフィアは、下ろしてくれたレヴィルと握手をして、近いうちの再会を約すのだった。
曖昧な表情のままで否とも応とも答えず、沈毅な表情の片隅で僅かばかり照れているレヴィル。それを適度に隠すのに、適度に曖昧で、適度に再開の日数を延ばした返事をする。
「私、ちゃんとお礼がしたいんですから、必ず私の村に遊びに来てくださいね。約束ですからね」
「あ、うん。ああ」
だが約した日付より更に早く、この漆黒の衣の男と華奢な姿の妙齢の女とは再会することになる。それは、漆黒の衣の男に追い払われ、王都に駆け込んで、男の存在を歪曲して声高に語る、あの三人組の兵士たちが発端となったのだった。
二 毒物
1
リーヴァス王軍の南方駐屯地は、王国南部の要衝である、とされる。
南部辺境の地方の押さえであり、国境線の向こう側の隣国ににらみを聞かす、といえば聞こえはいいのだが、その内実は充実に遠い。
兵員の宿舎は天幕であり、城壁の代わりは木杭を打ち込んだだけの柵防。武器食料、馬匹、兵員の衣類などの官給品といった物資、それら全般の備蓄も乏しく、粗末な倉庫の中はがらんとしている。
そもそも、駐屯する兵員からして不足気味である。それも見るからに実戦経験の乏しそうな者ばかりで、寄せ集めとまでは言わないが精鋭部隊と称するには遠く及ばない。
それもやむをえないといえばそうである。
先の大戦、即ち魔の徒と呼ばれる異形の怪物と人類社会との抗争が、あがなえぬ惨禍を幾重も積み重ねながらも人の勝利に終わって十年余り。人の心の傷痕も、こうむった被害も、なかなかに癒えない。リーヴァスという王国にしても、復興のための様々な活力や資金を、建軍、それもこの南方駐屯地に特化して投入するような真似はできなかった。
「といって、それに近いことは結局やっているさ。いや、やらされているというべきか」
舌打ち交じりの、低音の、だが口調の若々しいそんなつぶやきが、駐屯地の敷地の中にある将領用の天幕の中で、くぐもって聞こえた。
薄陰りの中、その声色の主はたたずんでいる。
若い。声色の示すとおり、二十を超えていかほどもないだろう年頃に見受けられる。その口調には気品と共に若々しい歯切れのよさがある。含蓄、躊躇といったものふりた者のもつ曲線的な物言いはない。
そして若者の口調は、そのままその姿の様子を示してもいた。
流れるようなしなやかな身体を、質素で飾り気のない麻の衣で包む。それでいて貧を感じさせないのは、軽輩が身なりの粗末さに気後れし挙措に引け目が見え隠れするような陰りを、この男が微塵も持たないせいだ。
鼻梁、高雅に稜線を描き、眉目涼やかに流れる。口唇の結ばれる様は意志の強さを表し、落ち着き払った表情に聡明さがうかがえる。
帯刀、鞘や柄のこしらえも、質実といえば聞こえがいい。それでいて落剥したような色合いのその握りの造作に、蒼藍蔓草の織りが用いられているのを見る者が見れば判別できるだろう。
蒼藍蔓草、魔導の伝導力に秀でるとされる希少な素材である。
質素な身なりの若い男と陣幕の内を共にするに、端座する壮年の男があった。実直さが顔に浮かび上がるほどの謹厳さで、それでいて器の小ささを感じさせない。傍らには卓があり、積み上げられた書類と宝珠のいくらかが収まった小ぶりの指揮杖とが置かれている。
年頃といい、貫禄といい、また性質といい、この駐屯地を裁量するに相応しいものをこの壮年の男は有しているかに見える。
だが、それを前にしてはるかに軽輩微禄に甘んじていそうな粗末な身なりの若者の口調のほうが、はるかにぞんざいであった。
「この駐屯地が要衝であることは承知している。だが、我が軍はリーヴァス王軍などと称していればこそ聞こえもいいが、内実は僅々、健軍して十数年を経たに過ぎない。何もかもが足りん。物資も兵員も、人材も。ここにばかりそれをまわすわけにもいかん。本来ならばな」
壮齢の男は、嘆息しつつ慇懃な口調で応じた。
「確かに。軍主力たる魔導兵団の編成も、紆余曲折、ようやく緒についたばかりですからな」
若者は、冷ややかな視線を壮年の男に向けた。
「ところがだ、大戦終結よりたかが十年程度でまた戦争の準備を、それも今度は化け物相手ではなく人間様を相手にしての準備を、始めようとしている。バルナスめ。近年の軍備拡張、それだけでも十分に腹立たしいというのに……」
憤りの含んだ視線を、天幕の入り口から向こう側に若い男が向けた。
見れば、本来閑散としているはずの敷地内の随所に、白布が敷き詰められ、露天では忍びないと日差しよけの簡素な天幕が張り巡らされてある。
耳を澄ませば、そこここからうめき声が風に乗ってかすかに聞こえる。
かねてよりリーヴァス国境を越えて侵略してくると噂のあった隣国バルナスの軍が、リーヴァス王国のルシン要塞を突如襲撃、僅か二日で陥落させたという報せがもたらされてより幾日、ルシン要塞に比較的近いこの南方駐屯地には、バルナス軍との戦いで傷ついた兵士らが続々と運び込まれていた。そしてそもそも兵士の生活用品や医薬品など、物資が不足気味であった南方駐屯地は、たちまちにそれを食いつぶし、若い男と重厚そうな壮年の男とが愚痴をこぼすことになっていたのだった。
若い男は憤怒の表情を浮かべた。
「我ら人間は、国を越え対立を越え、手に手をとって魔の徒を討伐したはずだ。十年。ただそれだけで、今度はそのために培った力で、人間同士が抗争し始める。愚劣きわまる。だが、何より腹立たしいのは、それが愚劣であるとわかっていても、隣国が軍備を増しているのに我らが何もしないというわけにはいかないことだ。兵員の確保、物資の調達、設備の建設。金、金、金だ。金が愚劣なことのために湯水のように消えていく。国内では、……今なお飢えに苦しむ民、養う父母の代わりとてない戦災孤児らが大勢いるというのに」
壮年の男は、口を真一文字に結びながらそれを聞き、若い男が語り終えると口を開いた。
「お気持ちはわかります。だが現実は現実です。これが我らの住む世界の、紛れもない現実です」
若い男は苦々しげな表情のまま、それでもうなずいた。
憤りを率直に示しすぎたことが気恥ずかしくなったのか、ある程度視線をそらし、天井を軽く見上げている。
ややあって、胸中の様々な思いの中から、一見それとは無関係に言葉を結ぶ。
「……それで、ルシン要塞がこれほど簡単に陥落した所以は、つまるところはやはりあれか」
壮年の男はうなずいた。
「凄腕の、恐ろしい魔導使いがいたそうです。敗残兵がそう陳述しています。赤い髪、辰砂色の衣、紅玉の首飾りと耳飾をした紅蓮の魔導を用いる者だとか。苛烈な炎熱と爆煙とが城塞の外壁を穿ち、そこからの敵の突入を許してしまったそうです」
「紅蓮の魔導士か」
若い男が低い声色でそう口にすると、壮年の男はまたうなずいた。
「ええ。漆黒の悪鬼の次は、紅蓮の魔導士とのことです」
若い男はいぶかしげな視線を壮年の男に向けた。
「漆黒の悪鬼?」
その問いただす視線に、わずかに壮者は苦笑する。
「兵たちの噂話です。そう騒いでいる者がおるのです。旧カシュガルの辺りで悪鬼のような凄腕の魔導士に遭遇したと大騒ぎで逃げ込んできた輩がおりまして、ちょうどルシン要塞陥落の直前でしたな」
「私がまだここに到着する前だな」
「はい。まあ、大方、どこぞの場末の魔導士と喧嘩でもした兵士たちの戯言だとも思い、問いただすことも、緘口令を下すこともせずに放置していたのですが」
「何故場末とわかる?」
若い男の問いに、壮者は肩をすくめた。
「名前の知れた者ならば、我らかバルナス王国の連中かが高給で雇い入れているでしょう。実力のある戦争屋は、一人でも多く味方に欲しいですからな」
違いない、若い男も苦笑せざるを得なかった。
それから男は腕組みをし、考え込み、ややあってからおもむろに口を開いた。
「場末か。うん、だが一人でも多く魔導使いは確保したい。よし、その兵士らを私が詮議する」
壮者はそれに驚いた。
「直々に、……なされるというのですか?」
「どうせここにいてもすることはなく、間抜け面をして首都からの補給物品の届くのを待つだけだ。バルナス軍の侵攻はルシン要塞を陥落させたところで止まっているのだろう?」
「目下は」
「当然だ。連中の内情が我らと異なり裕福だ、などというはずがない。向こうも向こうで、一回戦で補給物資を食いつぶしてしまったのだろうさ」
壮者は穏やかに微笑する。
「彼らにしてみればあてがはずれたでしょうな。ルシン要塞に備蓄された物資を収めて、それを糧にしてさらに奥深く侵攻しようと目論んでいたのでしょうが」
若者は失笑した。
「呆れただろうさ。必要最小限の食い物しかないのだからな。全く、お互いこんな状況であるというのに、それでも戦を始めようとするのだから、つくづく度し難い。……まあいい、おそらくこれだから状況はしばらく動かん。その間漆黒の悪鬼とやらを詮議してやるさ。閑居ゆえの手遊びだ」
2
駐屯地の司令から呼び出しを受け、路傍にひざをついて座る三人の男の姿があった。
傍らには三領の鎧がある。巣穴食って見るからに使い物にならない。
相貌は、病み黒ずんだような表情の者、好色そうな瞳と唇とがこの時は怯みを見せている者とがいて、もう一人は眉毛がなかった。しばらく前までは立派な髭を蓄え、眉毛もちゃんとあったのだが、魔導士と喧嘩をしたとかで逃げ込んできて後は、髭も眉毛も綺麗にそり落としてしまって現在の風貌に至っている。
いうまでもなくこれは、以前漆黒の衣をまとう魔導士レヴィルによって手ひどい目に遭わされた、リーヴァス王軍魔導部隊の三人組の兵士である。
「この者たちか」
少し離れたところで駐屯地司令と、質素な麻衣に身を包んだ若い男とがささやいている。それをちらちらと見やりながら、三人組は小声で話した。
「おい、あの若いのは何者だ?」
「司令、いやに鄭重だな」
「どうせどこぞの名門の御曹司なんだろう」
三人組の、控えめではあるが遠慮を知らない視線が、若い男にまとわりついた。
若い男が、三人組を一瞥する。はっと、三人組はそれぞれ息を呑む。生まれついてのものなのか、若輩と侮られるだろう年頃のその男の眼光には、侵しがたい威厳があった。三人組の兵士は、相手の身分を慮ってではなく、ごく自然に頭を深々と垂れた。
若い男は、つかつかと兵士のところに近寄ってきた。
立ち止まり、横目で兵士らの破損した鎧が置いてあるのを見る。
「一点集約で鎧を突破したのではなく、完全にあちこちを穴だらけにするのだから、与太話というばかりでもないか」
一人合点し、男は兵士らに問いかけた。
「その漆黒の魔導士とはどこで出くわしたのだ」
かつて髭を蓄えていた兵士が答える。
「旧カシュガルの、今は荒れ果てた土地になっているあたりです」
ひとつうなずくと、しばし間をおいてから再び男は尋ねた。「何をしていたんだ?」
兵士らは口ごもった。自分たちが、まさか付近にいた娘を弄ぼうとしていたとは答えられない。
「……その、あの、やつはたまたまそこにいたどこぞの娘に、その、乱暴しようとしておりまして」
若い男の機嫌が見る見る悪くなっていく。
「けしからん話だ。少しばかり魔導が使えるからといって、力ずくで娘をか。男の風上にも置けん」
事実が知れ渡ったらとんでもないことになりそうだと思いつつ、兵士らは要領よく調子を合わせた。
「そう、それで、我ら三人力を合わせ、漆黒の魔導士に立ち向かってみたのですが、そりゃあもう、悪鬼のように強い男でして、我らもがんばったのですが、どうにもすることができず、どうにかその場を脱したのです」
若い男はそのいちいちをうなずきながら聞いていたが、兵士の言葉が終わると再び問いただした。
「それで、その後襲われていた娘とやらはどうなったのだ」
「へ? 娘?」
「漆黒の魔導士に襲われていたのだろう。お前たちもしや、娘を捨てて自分たちだけ逃げ出してそのままか?」
兵士たちは慌てて首と手を左右に振った。
「と、と、とんでもない。そんなことはいたしません」
「ではどうしたというのだ」
「その、漆黒の魔導士は、あの、その、あのですね、あ、うん、そうそう、我々と闘って満足したのか、娘を捨てて飛び去って逃げてしまったんですよ」
「逃げた?」
「は、はあ」
若い男は腕組みをした。
「ふうん、私には魔導士の心境などわかるはずもないが、あの連中は存外そういうものなのか」
若い男は得心が行かぬ様子ではありながら、しどろもどろの兵士どもの物言いが下手な言い訳と嘘に過ぎぬというのに、完全に騙されてしまっている。先程はこの男の侵しがたい威厳に怯んだ兵士たちではあったが、この様子に、世間知らずのぼんぼんだと内心で嘲笑に似た安堵を浮かべた。
若い男は腕組みをして考え込み、やがておもむろに言った。
「その漆黒の衣をまとった魔導士、私の前につれて来い。それが無理ならば私がその男の居場所まで赴く。恩賞は弾むぞ。気張って探せ」
兵士たちはお互い顔を見合わせた。
「あの男を探し出せとおっしゃるんですかい」
「それ以外の意味に聞こえたか?」
「い、いえ、しかしですねえ、あの男は気性は悪魔のようだし、何より腕っ節がそりゃあもう恐ろしいもんですよ」
若い男は、眼光鋭く兵士らをにらんだ。
「私が、その男に腕前で後れを取ると、言いたいのか?」
兵士たちは怯んだ。すると若い男は、羽毛が漂いながら緩やかに落下するかのごとき滑らかさで、そっと利き腕を腰間の佩刀の柄に伸ばし、つかんだ。
兵士たちはびくっとして思わず軽く飛び上がった。
耳元を矢羽根が掠めて飛ぶに似た音がした。振り返ると、漆黒の衣の魔導士によって巣穴だらけにされた彼らの鎧が、横一文字に両断されていた。
若い男は、佩刀を抜き払い、銀色に鈍く輝く刀身が姿を現していた。いつ剣を抜いたのか、残像さえとどめはしなかった。鋼の刀身は男の魔導を吸って、身じろぐように輝いた。
「得体の知れぬ魔導士などに、遅れをとる私ではない。手向かいすれば、このように両断してやる。お前たちは安心してその者を探し出すのだ。いいな」
三人が再び一礼すると、既に男の姿は消えていた。
その場を辞すると、途端に三人組の兵士は顔を寄せ合って小声でささやき交わした。
「おい、何だか厄介なことになってきたな」
「しかしあの青二才、いったいどこのどなた様だ?」
「知るか。そんなこと。いばりくさりやがって、どうせ貴族のろくでなしだ」
「だがよ、探し出せば恩賞をくれるといっていた。そうなりゃエディルネ辺りの、揚げ代も気位も高い娼婦(おんな)を買えるぜ、おい」
「まあ仕方ねえな。あいつにはもう二度と会いたくはないが、ご褒美と引きかえってんじゃやってやってもいい」
「といって、あの男、どうやって捜す」
「あの娘が、知っているんじゃないか? ほら、あいつだ。確か、あの近辺の、何とかという開拓村に住んでいるといっていただろう。俺たちが取り囲んだ時に」
三人はうなずきあった。
「そうだったな。それならば話は簡単だ。娘を捕まえる。捕まえて男をおびき出す。そうしたらあの御曹司に御対面させる。それでいいだろう」
「よし、その村に行くか」
三人の兵士は、そんなことをささやきあうと、許可を得て、数日前に逃げ帰ってきたカシュガル方面に向けて再び出発した。目先の恩賞に釣られ、今一度漆黒の衣の魔導士を求めようとするのである。
その、彼らが捜し求める漆黒の魔導士、レヴィルという名の青年は、リーヴァス王国南部辺境ヴィラム山塊に麓する樹林の只中の岡地にあって、一軒の簡素な屋敷の中の寝床の中で昏々と眠り続け、相棒で飼い犬のスーを呆れさせていた。
「よく寝るなあ。このおっさん」
白い体毛の、胴長短足でころころとよく太ったスーの口ぶりには、レヴィルを心配する色合いは全くといいほど含まれてはいない。
確かに、急激に高エネルギーの魔導を放出すると、人はその心身両面の疲労のために永い眠りにつくことはある。だが、
「このおっさん、そんなやわじゃないからよ」
スーはその点、全く心配などしていない。そもそも、疲労回復のために深い眠りに陥っているのではないのだった。
数日前、この小生意気な飼い犬と食事を取っていたレヴィルは、不意に立ち上がって顔色を微妙に変化させた。
「ちっ、お下品。マナー違反だぜおっさん。食事中に突然無意味に立ち上がるなよ」
そこまで言い終えた後で、スーも微細な空気の変調に気づく。
「おっさん……。何だこの感じ」
飼い主のレヴィルは、衣の色合いに比して深みの淡いやや灰色がかった頭髪を揺らしながらうなずいた。
「魔導だ。随分遠くの、だが遠くからでもわかる。強い魔導だな」
彼らにわかる大気の変調は、程もなく失せた。
「まるで自分の存在を誇示するかのように、力を解放し、すぐに閉ざした。
それからレヴィルは食事の後かたづけをよくしゃべるこの犬に押し付けると、自分は寝床にもぐりこもうとした。
当然スーはけたたましく抗議する。
レヴィルはそれを、うっとうしげに払った。
「あの魔導、大体目星はついた。だがはっきりとさせる。そのために夢見の魔導を使う。というわけで俺は今すぐ寝る。後は任せた。腹が減ったら何か適当にそのあたりにあるものを食べてくれ」
「横暴だ、それでも飼い主か。ちゃんと飼い犬の面倒は見るもんだ」
「急がないと奴の残存魔導が根こそぎ消えてしまう。今ならまだ波長を追いかけられる。というわけだ。さらばだ犬よ、達者で暮らせ」
今一度抗議しようとスーが口を開きかけた時、その時にはもうレヴィルは昏睡に近い深い眠りに潜り込んで、静かに寝息を立てていた。
3
夢の中に在る、潜りあることを忘れてしまう。そう、急な睡魔が襲ってきてうっ伏すように引きずり込まれるあの感覚のように、現世(うつしよ)と異なる夢幻の世界に浸っていく。
ただ一角、自身の中に冴えた感覚、夢見の魔導を使用しているという、明瞭な意識とをつなぐ一筋の糸が、レヴィルの放我をとどめ、その世界を展望させてはいたのだが、それすら時折危うくなる。
夢の中は、願望で満ちている。その光景に我を見、愕然とすることもあれば、その中に逃避せずにはいられない衝動に駆られもする。
泡沫の浮かび上がり、その膜の緩慢に破れるや飛沫の広がる、生ぬるい水に満たされ蠕動する柔らかな内壁に包まれた奇怪な世界。明るく、暗く、柔らかな血肉の色に満ちているようで、どこまでも透徹のようでもある。
探さなければ、冴えた一角の意識がレヴィルにそう強いてくる。
探す? 何を?
酩酊に似た神経が、自身のもたらす義務感に反問する。
何を探すのだ。何を求めるのだ。
そう、求めるべきものは、全てこの世界の中にあるはずなのに。
弛緩した表情で、レヴィルは降りてゆく。上とも下ともつかず、進んでいるのか戻っているのかさえわからぬ温い水の中を降りてゆく。
口元から呼気が洩れる。泡沫が零れる。瞳は瞑目したままであったが、見開いても閉ざしても光景は変わらない。
これではいけない。
やはり意識の冴え冴えとした部分が訴えかけてくる。
レヴィルは瞳を開く。
緩慢に両手を突き出し、水を掻く。
此方ばかりがただ暗く、彼方にひとつの光点が窺える長い長い回廊が見えた。
降り立つ。
床がある。地に足をつく。
回廊を歩みだす。
其処へは、気の遠くなるほど時を費やしたようでいて、瞬く間に至った心地もした。
ぼんやりとした光が訪れ、過ぎ去ると、感傷を誘う古びた記憶の中の光景が広がっていた。
仲間たち。そう、仲間であった人々。
尽きせぬ戦いの中で苦楽を共にし、恐怖を共に噛み締め、ままならぬ現実に涙を同じくし、ささいな間隙の滑稽事に笑い合う。そんな光の強すぎた太陽が満ち溢れんばかりの月日だった。
レヴィルは嘆息した。何と苛烈な、そして充足し続けていた日々だっただろうか。無我夢中でその日その日を生き抜いて、無我夢中で仲間の背中を追いかけて、幼すぎ至らなさすぎた自分を歯噛みしながらも、ただ翔けて、翔けた頃だった。疑いもしない、戸惑いもしない、歩みを止めもしない。ひたすらに前に進むこと、少しでも強くなること、それだけを念じ、文字通り血路を開き続ける日々だった。
魔の徒、或いは人。目の前を立ちふさがるのは全て短絡的に敵であった。迷いもなくそれを打ち倒し、それを殺し、前に進めばそれだけでよかった。そう、そのようにすればいいだけだった。
金髪碧眼、長躯の男が先頭に立ち、そのように指差す。大尉、その男のことをレヴィルはそう呼んでいた。その言葉の意味を知らぬまま、ただそれが自分の属する部隊の長を指し示す言葉であることを鵜呑みに用いていた。それは古い古い、失われた文明の中で用いられた言葉だった。大尉、ディヴァイン大尉、そう呼びかけると男は、瑕瑾もないほど整いすぎた肉付きの薄い相貌をほころばせ、柔らかく輝く金髪の下にある静かな笑みをレヴィルに向けた……。
蜻蛉のように、幾人かの仲間たちの姿が過ぎってゆく。屈強な体躯、熊のような大男は赤銅色によく日焼けした顔に屈託のない子供のような笑顔を浮かべている。瞑目する白銀の長髪の男は端正な表情を乱すことなくその横顔をレヴィルに向けて静まり返り、そして背の半ばほどに達する長い黒髪をした少女がその傍らからレヴィルに対して満面の笑みを投げかけ、大きな瞳を見開いて彼方から大きく手を振る。
ああ、うめくように息を漏らし、精一杯手をさし伸ばしてレヴィルはそこに向かおうとして、はっと立ち止まる。足元の亀裂、地割れ。笑顔は汚されぬまま黒い霧にさえぎられて霞んでゆく。一瞬躍動した胸中はたちまちに握りつぶされるような苦しみに浸される。夢なのだ。わずか一角のみ酩酊をさせぬ冴えた意識の力を借りずとも、夢幻の中から沸き起こるやるせない苦悶がたちまちにこの幻を冷ややかに否定し始める。足元の地割れをまじまじと見つめる。そう、まさにこのとおりなのだ。
光は去り、闇が兆す。暗色の夢。暗色の幻。漆黒の帳が幾重にも折り重なり、レヴィルは深い井戸の底に落ち行く思いを噛み締める。その中に、ひとつの感覚がもたらされた。
この波動。
レヴィルは息を呑み、胸中にある様々な感傷を敢えて踏み潰し、意識をそれに集中させた。
尽きることなく訪れる、湖面の上の波紋のように、魔導の流れが周期的にやってくる。複雑に入り組み、糸のもつれるがごとき波。目を見開いても見えぬ波。レヴィルをは瞳を閉ざしている。瞼のスクリーンにその波形が投影される。幾何学的な、淡いグリーンの線が漣のように寄せては消える。周期的な同形の繰り返しに、レヴィルは自らの魔導の波形を重ね合わせた。修正、やがて、全く同じ波を自らの体内に形成する。
緋色の皮膜が一瞬だけレヴィルの目の前を過ぎった。
うなずいた。やはり奴だ。
紅蓮の魔導士。かつての仲間。冷笑的で皮肉そうな横顔にはそれらと共に気性の激しさを表す炎のようなほとばしりが盛られ、残忍とさえ思えたその笑みは例えようもなく美しかった。
少年であったレヴィルが憧憬を抱くことさえ躊躇わずにはいられないような、気圧される美しさ。年上の女。
間違いがない。レヴィルは確信した。山奥の小屋にあって彼方に感じた強大な魔導の片鱗、夢見の魔導を用いてすら確かめずにはいられなかった波動、それは、かつての仲間である紅蓮の魔導士クリシュナのものに相違なかった。
夢幻の空間が、急速に萎えてゆく。必要事を確かめたレヴィルが意識を抜くと、途端に現世への覚醒が開始され、酩酊に近しかった神経が外界に開放されて見る見る明瞭になってゆくのだ。世界は白濁とし、暗がりは払われ、一面の白い光に還元されようとしている。レヴィルはその光の中に消滅していくかつての仲間たちの面影を、未練がましいと承知の上で凝視しようと視線を注いだ。
そこにひとつの幻影が横切った。不思議に思いそれを確かめようとする前に、覚醒は終焉し、樹林の只中の屋敷の天井が、常日頃の染み具合と寸分たがわずに蘇ってきた。
「う、うう、おはよう」
つぶやきながらベッドの上で半身を起こすと、低くうなり声を上げる白く丸い物体が目に入る。
「おお、スー。どうやら餓死してはいなかったようだな」
「……何日寝たら気が済むんだ、この三年寝太郎」
そもそも目つきの悪いこの犬は、いっそう険悪な視線を飼い主であるレヴィルに向け、再び凶暴そうにうなった。もっとも、うなったところで二頭身半の丸々太った間抜け面の犬である。迫力などほとんどない。
「お陰で餌ももらえなくて、痩せたんだぞ。このダメ飼い主」
「……そうは見えんな。むしろ太っただろ、お前」
ちらと横目で奥の部屋を見ると、ハムだの腸詰だのといった食料品がわずかな残骸を残して全滅している。レヴィルはため息をついて首を横に振った。
「まあ、こうなるだろうとは思ったが」
ふん、犬は鼻を鳴らした。
「ひもじかったんだぞ。何せおっさんが寝ている間、一度もデザートを口にできなかったんだ。ああプリンが食べたい。ババロアが食べたい。ケーキをよこせ。アイスクリームにシュークリーム」
「お前ね、そんな食生活していると、子豚のように太ってしまうぞ」
「おいら、だから痩せたんだって」
「うそをつけ」
「見てろ、おっさん」
そういうとスーはふわふわと宙を浮き、いくつかの分銅がついた台秤のところまで流れていってその上に乗った。
「ほらほら見てくれ。体重減った」
レヴィルは起き上がると秤の側まで行って、かるく犬の頭を小突いた。
「あいたたた、なにすんだ」
「お前、体重減ったって、秤の上で浮遊してごまかしているだけだぞ」
「そんなことないもんね。ちゃんと痩せたんだもんね。見よ、このスマートな体」
どう見てもわたあめにしか見えない犬に呆れて、レヴィルは嘆息した。
スーはお構いなしで、久々に起き出したレヴィルに食後のデザートをせがんだ。
「まあ、でかいケーキくらいで我慢しといてやるよ、なあおっさん」
だがレヴィルは、多少気難しい表情になる。スーはレヴィルのその表情を覗き込んだ。
「わんわんわん。どうしたおっさん。恋わずらいか」
「愚か者。ではない。夢見の魔導を使って、最後に何かが過ぎった」
「何か?」
尋ねるスーに返事もせず、漠然と残され姿さえ定かではない幻影の残照を手繰るために、レヴィルは瞑目して考え込んだ。やがて、はっとして目を見開く。
「間違いない」
「何が?」
「兆した幻影は、あれだ」
「あれ?」
「だから、彼女だ。フィアだ。カシュガル、あの砂漠の廃墟で出会った彼女だ」
魔導の力は、克明な予知能力をもたらすというわけではない。だが夢見の魔導からの覚醒に於いて、一瞬だけ夢幻と現世との感覚が入り混じる、最も先鋭化された精神の中にあって、レヴィルの感覚は時空を超越して或る獏とした幻影を捉えた。それにはフィアと、そして驚愕のヴィジョンとが重ね合わさっていた。
「彼女のところに今すぐ行く。嫌な予感がする。留守番してるか?」
ちぇっ、舌打ちしながらも、スーは共に行くことを選んでレヴィルの傍らに寄った。
「顔ぐらい洗って歯を磨けよ、おっさん。あと髪くらい梳かせ」
「……そうする」
恐ろしい速さで身支度を済ましたレヴィルにスーは呆れ顔を向けた。
「ちぇっ、深刻な顔して何考えているかと思えば、やっぱり女のことじゃないかよ。結局恋わずらいじゃないか。中年のくせに色気づきやがって」
レヴィルは再び犬を小突いた。
「そんな粋なものとは違う。大体俺はまだ二十代だ。中年には程遠い」
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2006/10/10(Tue)01:31:07 公開 / タカハシジュン
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