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『風のオリミチ』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:走る耳
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あらすじ・作品紹介
少し田舎の街で、高校生活初めての夏休みを迎えようとしている主人公『四条 雅春』。 期待と、部活への気だるさ、それに何もできないかもという不安。様々な感情を持って、迎えることになるハズだった夏休みは、ひょんなミスからおかしな方向に進んでいくことに。 彼方より神の息吹が降り立つ舞台で、最後まで踊り続けた人形と、最初で最後の観客が紡いだ物語。
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『風のオリミチ』
強い風が一度だけ吹いた。屋上の戸を空けた瞬間、強い日差しから逃げるようにして校内に舞い込んだのだ。熱気を帯びた風に少しひるんだが、屋上へと踏み出した。
途端、少年は炎の壁にぶちあたったかのような熱を感じた。それは、デパートに入るときに感じる涼しさの逆パターン、すなわち気持ちいい風とは相反するものである。
少年の年は十五、今年高校に入学した新一年。夏の制服を着ていたが、それさえも決して充分な通気性のある服ではないようで、半そでのポロシャツは上から三,四つのボタンが外れていた。身長は高一の平均とさしてかわらないように見え、ひょろりとしているようでもあるが、実際は着やせするタイプなので、同じ身長の男子のなかでは特にやせている方ではなかった。
四限が自習になって、退屈だから屋上にやってきたのだった。それは失敗だったと、彼は少し後悔した。
空にさんさんとまぶしい太陽と、同じくらいに照り輝く白いコンクリートが目に痛い。目を凝らせば蜃気楼さえ見えそうな世界を、彼は一歩一歩あるいていく。屋上を囲う柵までたどり着くと、片手に持っていた弁当を地面に置き、柵の網目をつかんだ。ガシャッという音は、すぐに耳を劈くような蝉の鳴き声に飲み込まれた。
彼はゆっくりと外界を見回した。
緑に覆われた山々が連なり、その間を縫うように川が流れている。それはいつもと何も変わらない顔だった。日差しを帯びて輝き、まるで白銀のように見えるその川の名前は天道川という。由来を少年は思い出そうとしたが、すぐにあきらめた。唯一思い出せたことといったら、小さい頃はその川と周りに見える山や丘が遊び場だったということ。しかし昔の記憶なんてものはあいまいで、楽しい時代だった、ああしてたこうしてた、なんていうなんとなくな日常風景の匂いを染み込ませているだけで、中学時代の思い出のように細かい記憶はほとんど残っていない。
しかし、ここから見える小さな街と自然、そして学校が少年の記憶のほとんどを占めているのも事実である。
とこのつまり、それがこれまでの彼を形成しているとも言えて、それを寂しく思う彼も本当で、少しばかり都会への憧れがあるというのも確かなのだった。少年は、自分の故郷である小さな街が気に入っていないのではない。バイト料の低さとか、TVによく映ってる高層ビルが全くないとか、そういう地味に細かい部分が気に入らないだけなのである。
握った手を放して、今度は柵に背中でもたれ掛かった。
空はどこまでも高く、広がっていた。遠くに見える山でさえ空の端の端を隠すだけだ。しかも山で見えない部分にも青が広がっていることが手に取るように分かる。遠くで青と交わる入道雲は天を突き抜けようと必死である。強い日差しに目が慣れると、今度は耳に痛いせみの音や、学校の横を流れる川の声が聞こえてきた。目を閉じれば、百年前の風さえ感じられる気がした。
風野という田舎町の夏の中、四条雅春は空に近い場所で一人、天を見上げていた。
◇
屋上から教室への廊下を歩いていた。すれ違った生徒は、顔面蒼白とはまさにこのことだと実感したに違いない。
四条はもう笑えなかった。吐き気すら感じていた。全部染井のせいだと思った。あの暑い中で染井が一人ダウトなんて始めるから、つい四条はトランプケースを屋上から投げ捨ててしまったのだ。それが運悪く、運ばれていた校長の壺に当たって、ガシャン。
五百万円だ。校長の五百万円の壺を四条は割ってしまったのだ。三日間以内に弁償しないと、退学なんていう話だった。
――そんな無茶な。
夏休み中なら、まだ可能性はあるにしろ、三日後の一学期の終業式までなんて現実味がない。校長の頭がヅラであるという噂よりも、裏山に戦国時代の埋蔵金が埋まっているというのよりも、はたまた祖父が総理大臣の先輩なんて自慢よりも現実味を感じない。
ああ、もしかしたら。これが全部夢で、本当に割れてしまったのは染井のトランプケースだったりしないだろうか。今も壺はピンピンとしていて、四条をビビらせるために、老教師はわざわざ指導室まで呼び出したのではないのか。そうだ、あの人は実は冗談が大好きなのだ。
四条は大好きな現実逃避に浸りながら、教室に首をうなだれて入っていった。
教室は、四条の気持ちなんてどこ吹く風といった具合で、相も変わらず騒がしかった。机を囲うように談話をしている幾つかのグループを避けて、四条は窓際の自分の席まで戻った。ガタン、と音を立てて椅子に座りこむと、そのまま頭を抱えて机につっぷした。
これはなんなのだろうか。淡い期待を一瞬でも感じさせるには充分、そんな実は大したことのないものの先端を、四条は丁寧に摘んでいた。
一枚の羽が机の中に入っていたのだ。五限目の教科書を取り出そうと思い、手で中を探った拍子に指先に触れたのである。取り出した羽はカラスのそれよりも少し小さく、純白だった。窓から入ってくる陽光に照らすと透けているように思えた。まるで天使の羽のようで、しばらく四条はその羽をじっと見つめていた。
これをなんとか金に換えられないだろうか……。
金策を練っている四条を尻目に、教室には話しながら教室に入ってきたクラスメイトの笑い声や椅子をずらす音が響いていた。開け放たれている窓から風が吹き込んできた。羽が揺れた。離してしまいそうだったので、四条はその羽をとりあえずポケットの中に入れた。前を見ると、女子が黒板の文字を消していた。昼休みがそろそろ終わろうとしていた。
結局、学校にいる間、頭はそのことで一杯だった。部活なんて出てられなかった。友達の声をテキトーに流すと、急いで四条は帰る準備を整えた。どうせ終業式までいやでも来ることになるが、もしかしたらこの三日間がが最後の学校生活になるかも、なんていうことを本気で思った。それでも、今はもう一秒だって、こんな場所にいたくないと、四条は学校を飛び出した。
◇
時刻は三時半だった。それでも、入道雲よりなお遠くに夏の太陽はあった。梅雨があけて、ここのところ日照りの日々が続いていた。最近敷かれたばかりのコンクリートは乾燥しきっていた。弱い風が吹いて、粉か砂かよくわからない物が空気と混じった。
今日も今日とて幸せに浸るはずだった七月十五日は、自分の軽率な行動が呼び寄せた『日常の中の非日常』のせいで、屋上で感じた一瞬のエクスタシーとその後すぐに訪れたカオスで構成することになってしまった。高校初めての夏休みはその行動一つで針路を定められてしまうのかもしれないのだ。不安と、部活に対しどこか感じる気だるさ、それを補って余りある期待。その全部が今では未来のものではなく、遠い過去のものにすら思えた。
これは、ヤバい。頭を抱えながら、四条は学校からの帰り道を歩いていた。
これは、マジでヤバい。叫びたくなる衝動を抑えながら、四条は学校からの帰り道を歩いていた。
いつもの交差点は右に行けば家のある住宅街、真っ直ぐに行くと商店街、左に曲がれば人気のない山に続いている。
当然、さっさと家に帰るべきだ。だがそれをする気にはなれなかった。部屋の布団にもぐりこんでも、畳に耳ありというやつだ、奴からは逃げることはできないのだった。
だから四条はささやかな逃避をすることにした。左に曲がり、山を目指したのである。
コンクリートの道の終わりまできてしまった。周りは閑々としていて、建物はなく、木々に覆われた土の道が目の前に続いていた。
―――まさに現実逃避だ。
だが、来る途中に四条は思い出したことがあった。
このまま坂道を登ると、右手に見えてくる小道がある。注意していなければ気が付かない、獣道のような道だ。それを進んだ先に、古い神社があるのだ。おそらく四条以外は誰も知らない場所だ。そして小さい頃、必死に通ったヒミツキチがその神社の裏にあるのである。
何故こんなことを忘れてしまっていたのだろう。いや、何故今思い出したのか、その方が四条には不思議だった。所詮小さい頃の思い出の欠片の切れ端だ、もうなくしてしまっていてもおかしくない。それでも、一度脳裏にちらつきと始めると、それは苛立つ程に音を立てて四条のことをせかすのだ。
何故せかさなければならないのか。それはきっと、過去という自分の半身を忘れ去っていたことが原因なのだろう。心の中に小さな罪悪感が芽生えてしまい、ヒミツキチに行かなければならないと四条は思った。
今踏みしめている森の中の道は、家からそう離れた場所にあるわけでもない。なのに、実際に来たのは小学校以来だった。今回ここにたどり着いたのは、壺を割ってしまったことからの現実逃避が理由だったが、もしかしたらその拍子に過去からお呼びの声がかかったのかもしれない。五百万は過去を思い出させる力もあるらしいと四条は思った。
小道は、思ったよりも見つけるのが難しかった。大人も知らないような神社だし、誰も管理をする人がいないために獣道がほとんど消えてしまっていたからだ。四条がいくら目を凝らしてみても、藪の間に道があるのを見つけることができなかった。自分の記憶が間違っていたかもしれない、そう思い左手の方も探してみたがやはり見当たらなかった。
神社への道が見あたらずにあせっている中、四条にはショックだったことがあった。自分の視点が、子供の頃の視点とはずいぶん違った高さになっていたのだ。いつの間にか普通になっていた目の位置。しゃがんでみても、子供の頃の風景は蘇ってこなかった。子供の頃の記憶一つ一つが一気に色あせていくのを感じた。ますます大事なものを忘れているという焦燥を感じさせられて、藪をあさった。
気が付けば、四条は地面に鞄を放り投げていた。必死で道に接している藪を手で掻き分けて、小道の痕跡を探した。本当に小さなものだって、絶対に見逃したくはなかった。もう、学校でのショッキングな出来事は関係ない。ただの思い出探しになっていた。
それでも、見つからなかった。汗だくだった。いつのまにか空の太陽がずいぶん傾いていた。だんだんと集中もきれてきて、動かす手もてきとうになった。
所詮、現実逃避がしたかっただけなのだ。もう帰って金策を練ろう。そうしよう。
最後に軽く全体を見回して、四条は帰ることにした。無駄な時間をすごしたという後悔があった。服は汚れていた。
鞄を拾おうと身をかがめたそのとき、目の前に一匹の動物が横切った。突然のことに、驚いてしりもちをつきながらも、反射的にその動物の後を追った。そいつは猪にも思えたし、あるいはもっと小さな兎だったかもしれなかったが、そんなことは四条にとってどうでもよかった。
とにかく、そのよくわからない動物は、さっきまで四条が道を探していた藪の中に消えていったのだ。まさに、「獣道」を通って。
急いでその道のところに走りよった。今通ったやつのおかげで、元々ほとんどなかった道は、姿の片鱗を見せていた。草や枝が折れ、四条の知る道の形に少し近づいていた。
おかしくて、座り込んで両手を地面に付き、仰ぎながら笑い出してしまった。
さっきの動物が通らなかったら、後何日探したって見つからなかっただろう。野生の動物だって一ヶ月に一度通るか通らないか、そう思わせるぐらい、その道は自然と同化していた。それは、四条が通わなくなってから誰も神社に行ってないということを意味していた。四条は気が抜けて、帰ろうかとも思った。もうさっき程、執拗に神社に行きたいわけじゃない。
でも、ここまできたら毒食わば皿までだ、ヒミツキチまで今日は行ってみよう。四条は獣道に踏み込んだ。
小さい頃と違い、半ズボンではなかったためどんどん踏み込んでいくことができた。随分と藪が深かったため、手には幾つか小さな傷ができたが、そんなものかまいはしなかった。つまるところ、やはり神社につくのが楽しみだったのだ。
思ったよりもすぐに、開けた場所に出た。四条は服に付いた葉っぱや花、虫をほろった。そして周りを見回した。
風に揺れて、神社を覆う木々がざわめいた。木漏れ日が揺れて、境内はそのたびに姿を変化させた。子供の頃の思い出の場所は、随分と草が茂っていたがその面影を強く残していた。
しかしその分、時の流れは感じさせた。木々に囲まれた広い場所に、ポツンと一つだけある神殿は、苔ややどりぎに覆われ、まるで太古からそこに放置されているかと思わせる風貌を呈していた。
―――時の流れというのは、何故これほどまでも残酷なのだろう。
近づいていき、柱や壁に手を触れる。ミシ、と神社は音を立てた。力いっぱい押せば、四条の力でも倒壊させられるかもしれないと思った。同時に、強い罪悪感が襲った。この場所を、何年もの間忘れていたのだ。何故来てやれなかったのだろう。自分は誰も知らないこの神社の、たった一人の友人だったというのに、何故裏切ってしまったのだろう。
四条は強く拳を握りしてしめて、行き場のない感情をもてあまし、天を仰いだ。風が頬をなでた。空と風だけは、あの頃と変わらなかった。
そのとき、ふと泣き声が聞こえたような気がした。耳を澄ませば、確かに聞こえる。風に乗って、小さいけれど確かに四条の元にその声は届いた。
ヒミツキチの方だ。そう直感した。
誰も知らない自分だけの場所だと思っていた。それが勝手な思い込みだったと思うと、急に現実に引き戻された。そしてすぐに、五百万円のことが頭に浮かんだ。セミが頭の中で鳴きはじめた。現実逃避という言葉が、同時に脳裏をちらついた。
どちらにせよ、ヒミツキチには行こう。ここまできて、あそこにいかないのはもったいない気がする。しらけてしまった気持ちを奮い立たせるように、四条は横っ腹を自分で一発殴った。
そしてゆっくりと神殿の正面に回った。また四条は一つ思い出した。この神社は、入り口らしい入り口がないのであった。第一、境内に鳥居がないのである。おかしなことに、小道から来ると、見えるのは神殿の背面なのだ。実際のところ、作りが古すぎてどちらが正面かよく見ないとわからないのだが、とにかく扉は小道の反対側にある。そして正面側から藪の方に進んでいくと、またさっきのような獣道があり、その先にヒミツキチはあった。
四条は昔の感覚を少しでも思い出そうとしながら、その獣道をまた探そうとした。
「……あった」
道はすぐに見つかった。驚いて、つい声に出してしまった。
その道は、あきらかに人が通っている形跡があった。草木が通りやすいように折られていて、さっきと違い、完全な道となっていた。
ふざけるなよ。一気に力が抜けるのを感じた。そのままそこに座り込んでしまいたくなった。
―――新しい友人を見つけたってか?
ふざけるなよ。四条は心の中でそう繰り返して、それでも小道を進んでいった。どこの誰だか知らないが、一つ文句を言ってやりたかった。四条にもおかしいということはわかっていた、しかし納得はできなかった。
途中で並んでいる大きな木を回って避けるようにして、道の延長上を進む。やはり誰か通っている。さっきのように長い草が手に当たったりはしない。誰かに踏まれて、折れていたからだ。
水の流れが聞こえてきた。
そうだ、ヒミツキチに行くには小川への橋を渡らなければならないのだ。そんなことも忘れていたのか、と罵倒したくなる一方で、昔のことを思い出せた喜びもあった。必死で足を動かして、道を進んだ。神社への獣道を探したときの疲労が、だんだん体にこたえてきていた。
視界が開けた。橋に辿り着いたのだった。ホントに、いつ作ったのかわからないぐらい古い木造の吊橋。小川のすぐ上にあるため、壊れて川に落ちたとしても大したことはないだろうが、落ちないことに越したことはない。最大限に気を使わなければならないと思った。
もう光は橙になっていた。
橋の手前で小川を見ると、まるで光の玉がはじけるかのように起こる水しぶきと、地面が見えるほど透き通っている水が流れていた。落ちたら、やはり痛いだろうが骨折とかはなさそうに感じた。
とにかく思い切りが大切だ。たかが十メートルやそこらの橋だ。渡ってしまったものがちだ。高校生になって、昔と違い重くなったが、多分、大丈夫だ。昔の人だって、大人が渡っていたはずなのだから、自分が渡ったところで切れてしまうことはないだろう。否、切れることは許されない。
木の手すりをつかんだ。神社と同じように、嫌な音を立てた。恐怖心が溢れかえる前に、歩き始めた。
吊橋を渡るときは、足元を見るなという。だが、この橋の場合、足元を見なかったら絶対に、川に落ちると思う。それぐらいところどころ木の板が破損していた。
怖。
しかし、足元を確かめながらゆっくりと前に進んでいく。一歩ごとにいちいち吊橋はきしみ、拭いても拭いてもなくならない額の汗はほうっておくことにした。
この先に、ヒミツキチがある。吊橋を渡ってすぐの、目の前にもう見えている木々に覆われた階段を上りきった場所に、ある。もう少しだ。
最後の二、三歩。だが意識しすぎて、つい力んだ。板を踏み抜いた。一瞬、空が見えた。必死で、両手と残っている足で踏ん張った。ミシっと音を立ててつり橋は揺れた。
本当に焦って、転がりこむようにして吊橋を渡りきった。吊橋が川に落ちる音を聞こうと耳をすませたが、ミシミシと音を立てて揺れただけだった。
緊張が一気に解けた。四条はもう目的を達成したかのような気持ちになった。腐りかけの吊橋を渡りきったのだ。さながらどこかのマンがの主人公のようにである。最後に踏み抜いてしまったときなど、バッドエンドを想像してしまった。あの時、確かに四条は物語の主人公だったのだ。
とにかく、目的地に辿り着いた。躊躇する必要はないだろう。
立ち上がって、ズボンについたドロを払うと、そのまま階段を一歩。そして四条は上を見上げた。一瞬目を疑った。
階段の上、鳥居の下。四条のヒミツキチだった場所に、黒いワンピースを着た少女が風に抱かれるようにして、舞っていた。
まず、こんなに階段が短かったかということ。五百段ぐらいあると覚えていたそれは、実際は五十段もなくて、階段の上の鳥居は、随分近くに感じられた。次に、こんなに木々が階段を覆っていたかということ。まるで、空へのゲートであるかのように、木々が階段のアーチになっていた。空までの滑走路にも思えた。
ああ、そんなことどうでもいい。本当に気になったのは一つだけだ。記憶との比較など、今はどうでもいいのだ。
ヒミツキチで、踊る少女。周りは彼女を際立たせる背景でしかない。
少女は踊る。体を動かすたびに、遅れてワンピースも踊る。動きはスムーズで、彼女が円を描くと、その指先からは光の残像が残るかのようだった。
黄昏時、空は近く、横切る雲は夕日影に染まる。風が山を揺らし、そのまま吹き抜けて街の人々の頬をなでる。
心は一人。少女は、たった一人の観客にも気づかず、踊り続けた。
ほう、と息をついた。声をかけられない神聖さが、彼女にはあった。必死に、まるでそうすることしか知らないかのように、激しい動きを彼女はこなす。
どんどん速度を増していく、クライマックスだ、そう思った時、両腕を交差させるように振り上げて、天を見上げたまま彼女は静止した。
蝉の声が戻ってきた。しばらく、その体勢を続けた後、彼女は腕を下ろした。肩で息をしていた。
つい、四条は拍手してしまった。二、三度鳴らした後、彼女が自分の存在に気が付いていなかったことを思い出して、あたふたと手を後ろに回した。
「えっ?」
だが、時既に遅しで、四条がいることを、彼女は気が付いた。
目が合った。すぐに四条は目線をそらした。でも他にどこを見ればいいかもわからなかったし、結局また彼女の方を見る。
彼女は何を考えているかよくわからない表情で、じっと四条のことを見ている。そこに言葉はなかったから、何を言いたいのかわからなかった。でも、勝手に踊りを見たことに対して、どこか罪悪感があるのも確かで、四条はとにかく声をかけなければいけないと感じた。
しかし、なかなかいい言葉が思いつかない。その間も、少女はずっとこちらのことを見ている。手の汗を、何気なくズボンで拭いた。ズボンについていた泥が手について、あわててそれをもう片方の手で払った。
それで、どこかにあった緊張が消えた。いい顔をしようとしていた自分に気づいたのだ。くだらないプライドか、あるいはまた別のものなのか、とにかく縛っていたものが緩んだ。素直に感想を述べるだけでいいのだ。
もう一度拍手をしながら、
「上手だな。メチャクチャ感動した」
たった一人の観客は、ヒミツキチという舞台で踊った彼女に対し賛辞を送った。それは当然の行為でもあった。
階段の上、鳥居の下。かつてのヒミツキチで四条のことを見下ろしている、黒いワンピースの少女。風に揺れる長い黒髪。
一瞬驚いたような顔をして、少女は周りを見回した。そして誰もいないことを確かめると、自分の顔を指さしながら首を傾げてみせた。四条は頷いた。それから初めて、少女は自分が拍手され、賛辞を送られたことに気が付いたのだ。
表情は変わらなかった。でも、少女は階段を急いで駆け下りてきた。まるで風のように、あわてているのに軽やかな足取り。近づいてくる少女に、内心かなりビビっていたが、四条はその場から動かなかった。
そして彼女は四条の前に立った。背は思ったより低かった。顔つきも幼く、四条の二つか三つぐらい年下だと思った。三、四段上の階段に立っている少女は、丁度四条と同じ高さの目の位置だった。
みていて、なんとかしてあげたくなるぐらいに少女は強張った表情をしていた。まるで危険物でも背負っているかのようだった。少女は初めての爆弾処理作業をしようとしているのだ。
「いつから?」
唐突に、少女はそう言った。あまり抑揚はない、しかし澄んでいる声だった。多分、いつから見ていたか、ということだと思った。
「最後の五分ぐらい」
少女は、少しがっかりしたような顔をしてうつむいた。
「最後は、まだ上手くできないのに」
驚いた。何に驚いたって、その言葉は、初めて少女に感情を感じさせるものだったから。そう、人形のような雰囲気さえ持っている彼女を、四条はまさに人形として捉えてしまっていたのだ。一気に親近感が沸くと同時に、やはり罪悪感を覚えた。
「そうなのか? 上手かったぞ。マジで」
嘘じゃない。まともに演劇や踊りを見たことなどないけど、確かにそう思ったのだ。
少女は顔を上げて、四条のことをまたじっと見つめた。さっきよりも硬さがほどけていた。それをみて、四条の肩の荷も下りた。
きっと少女は、とてもレベルの高い劇団の一員なんだろう。そして、みんなの中ではあまり上手い方ではないから、こうして人目に触れないところで密かに練習しているのだ。だから、人にほめられることが嬉しいんだろう。そうに違いなかった。
「一番得意なのは、はじまってすぐのところ。難しいけど、練習したから」
少女は、軽くステップをしようとした。しかし視線をそらして、体の動きを止めた。
どんな言葉を待っているか、わかるような気がした。そして四条は自分の考えに従った。
「ホント? なら、見せてくれない? いっそ始めから見せてくれるとうれしいんだけど」
少女はピク、と反応したが、ワンピースの裾を握り締めながら黙り込んでしまった。最後の一言は余計だっただろうか。四条はちょっとだけ後悔した。それとも、考えが始めから間違っていたのだろうか。
沈黙を共有できるのは、本当に中の良い人だけだと言う。四条にとって、この間は居心地が悪かった。
「いや、嫌ならいいよ。さっき練習して疲れてるだろうしな」
少女はあわてて、首を縦か横かよくわからない角度にふった。そして周りをまた見てから、階段を下りて、四条の隣に来た。
今度は目の高さがあわない。少女は自然な上目使いで
「……見てくれる?」
最後の方はかすれてよく聞こえなかった。でも、確かにそう言った。
―――もちろん。
四条の言葉に、少女が一瞬笑ってくれた気がした。
森がざわめいた。木の葉が何枚か、階段の上を横切った。風に乗って、きっと遠くまで飛んでいくに違いなかった。
少女は、ヒミツキチで踊った。今度は四条もヒミツキチまで登っていって、そこで少女の踊りを見た。
ヒミツキチは、記憶よりもずっと狭かった。草はあまり濃くなく、地面には土が見えている。そして、囲う木々の間からは街を見下ろすことができた。そんなに高くはないが、それでも街にはここより高い建物は一つもなかった。
少女は、始まりのお辞儀から最後のお辞儀まで踊りとおした。さっきよりも動きが少しだけぎこちなかったが、優雅な動きだった。彼女の自慢した導入部の踊りは、言った手前ということで力が入りすぎていて、つい「力を抜け!」と声をかけたくなった。
さっきのよりも感性のある踊りは、少女のお辞儀で終わりをつげた。
そのまま、少女はなかなか頭を上げなかった。さっきよりも、かなり呼吸が乱れていた。でも、そこにはやりきった感も伝わってきた。始めに見た踊りより、心地の良い呼吸のリズムだと思った。
四条は拍手をした。さっきと違い、遠慮する必要はなかった。
この踊りは、四条のためだけに披露されたものだったから。何かお礼をしなければならなかった。もちろんそんなもの持っているわけもないが、どうしても少女のことを喜ばせたかった。少女の踊りを上手いと思っている気持ちを、形にしたかった。
鞄があれば、何かあったかもしれないのにと、四条は残念に思った。仕方なく、普段は何も入れないポケットの中を探してみることにした。
指先に、何かやわらかいものが触れた。つまんで、それを取り出した。
天使の羽だった。学校でポケットに入れたものだ。かすかな風に揺れて、今にも飛び立とうとするように見えた。
これを、プレゼントしよう。
やっと頭を上げて、四条の方を見た少女、四条はその手を取った。少女は驚いて身をすくめた。彼女の手に、天使の羽をのせた。ゆらゆらと、踊るように彼女の手のひらで少し動いたが、すぐに手に収まった。
少女は何が起こったかわからないようだった。自分の手にふわりと乗っているものと四条の目を、交互に何度も見た。四条は少女の手を離し、今度は頭に手を載せて
「踊りのお礼」
少女は、羽のことを見つめた。もう太陽が山に姿を隠し始めていて、表情はよくわからなかった。その羽に魅せられたのか、少女の視線は羽から動かなかった。
そろそろ、家に帰らないといけなかった。この少女もきっと、家に帰らないといけないのではないだろうか。あるいは劇団の宿舎で寝泊りしているのだろうか、どこの劇団なのだろうか。結局、この少女について四条は何も知らないのだった。
少女の頭から手をどけると、やっと羽から視線をそらして、少女はこちらを見た。不思議な何かを見るような顔つきだった。
その目をみると、もう帰らないといけない、という一言が言い出せなくなってしまった。なんとか切り込もうと、覚悟の糸口を探していると、先に少女が口を開いた。
「名前」
その言葉に、四条は自分が名乗ってさえいなかったことを思い出した。ホントに、二人はお互いのことを何一つ知らないのだ。
「俺は四条雅春」
「四条雅春」
かみ締めるように、そう繰り返すと、少女はいきなり四条の横っ腹辺りの服の裾を握った。ビックリして、つい振り払いそうになってしまった。まるで子供が親からはぐれないようにしているようだった。
そして、もう片方の手で自分のことを指しながら、
「彩音」
彩音。それが少女の名前らしかった。少女にふさわしい名前だと思った。
「苗字は?」
少女は顔をぷるぷると横に振った。
教えたくない、ということだろうか。確かに名前しか教えなければ、どこに住んでいるか、どんな人なのか、調べようもない。
信用されてないのだ。考えてみれば当たり前である。突然あらわれた薄汚れた学ラン姿の高校生など、どの部分を信用すればいいのか見当も付かない。ましてや、初見なのに声なんかかけちゃって。
もうおそいし帰るよ、その言葉が頭に浮かんだ。もともと、ヒミツキチにちょっと顔を出すだけのつもりだったのだ。目的は果たした。ここに残る理由も、本当はどこにもない。ちょっと女の子が必死に踊ってたから、それを眺めたくなっただけ。まさに寄り道だ。街の方から、物凄い音を立てる改造バイクの音がした。田舎街に不釣合いなその音に、どこか今は共感してした。
少女は、困ったような顔をしていた。黙り込んだ四条のことを、下からチラチラと見ている。どうすればいいかわからない様子だった。
そのしぐさにまた覚悟が鈍る。でも、他にどうしようもない。帰って、金策を練らなければならないのも本音なのである。
だから四条は、ズルい言葉を発した。
「帰らなくて、大丈夫? 家の人心配してるんじゃない? ほら、もう暗いし」
言い出して、焦った。だから早口になった。どう捉えても、この言葉は「さっさと帰れ」という意味しか持たないように思えた。踊りを見せてくれないか、と言ったのは四条の方なのに、なんて自分勝手な言葉なんだろうか。
ジャパニーズスマイルだ。とりあえず顔は笑顔を作っておこうと思った。ぎこちないものでも、にらみつけるよりはいいだろう。
でも、少女の反応は予想と全く違ったものだった。
怒りもせず、「ハッ」と思い出したように少女はうなずくと、四条の服を離して、風のように階段を駆け下りていった。
訳がわからなかった。いや、それは最後のやり取りだけではなく、本当は最初からずっとそうだった。
ここに来て、疲れがどっと押し寄せた。その場に四条は座りこんで、光が灯っている街を眺めた。住宅地を探した。きっと、一番光っている商店街の少し隣にある明かりの集合がそうだ。今頃、晩飯を父と母で食べているのだろう。姉はどうせ、どこかで遊んでいて家にはいない。
今から帰れば、部活帰りと大して変わらない時間に帰れる。それに、鞄が放りっぱなしだ。重い腰を上げて、四条も階段を降り始めた。
風が四条のことを後ろから押してくれた。少女のこともそうしたのだろう。
鳥居に始まる、木造アーチ付きの階段は、神社に続いている。その前の吊橋を思い、四条は一つ、ため息をついた。
◇
四条の家は二階建ての一軒家である。小さな庭もあるが、時々草刈をするぐらいの手入れしかしておらず、洗濯物を干すこと意外には使われていない。
住宅地の中にあるその家に四条が着いたのは、夏の太陽はもう山の後ろに隠れているが、まだ山際が夕日影に照らされて明るい時間帯だった。道に面する窓のある部屋はダイニングルームなのだが、薄いレースのカーテン越しにぱっとみたところ、もう夕食は済んでいるようだった。
四条は、部活後の帰宅より疲れを感じていた。足を引きずるような形で門をあけて敷地に踏み込むと、後ろ手でそれを閉めて、いつものように表札裏のポストの中身を確認した。夕刊しか入っていなかった。
これは四条の数少ない家事の一つである。基本的にどこで誰が何をしていようが知ったことか、という姿勢の四条の父母は、朝刊のテレビ欄以外は新聞をほとんど読まないのだった。曰く、自分にかかわりのない人が一人死んだり、あるいは賞を獲得したりすることに一喜一憂する意味が分からないといっていた。だから、テレビ欄以外では、政治欄やトップを斜め読みするぐらいなものだった。そのため、夕刊に至っては重宝されていないどころか、日によっては誰も読まないで古紙行きなんてのもざらだった。
四条は夕刊を片手で引っつかむと、かぎのかかっていない家の戸を、空いている方の手で押し開けた。すぐに居間からテレビの音が聞こえてきた。それを無視し、ただいまの一言もなく、四条は靴を脱ぎ捨てると夕刊を下駄箱の上に放り投げて、二階にある自分の部屋に向かった。
部屋にゲームセンターでの戦利品やら小物を置く習慣のない四条には、六畳は広すぎるように感じた。服は壁に組み込まれるように設置されている物入れに入れているし、テレビやパソコンなんている高価なものはない。めぼしいものといえば、窓際のベッド、その隣にある机、ドアから入って右手にあるマンガばかり保管された高さ一メートルぐらいの小さめな本棚、そしてその上にある高校入学祝のコンポぐらいなものだった。さびしげな白い壁には、サッカー雑誌に付いていたバティストゥータのポスターが三枚貼ってある。
床に鞄を放り出すと、四条はそのまま最後の力を振り絞って、アメフトのタックルよろしくベッドに飛び込んだ。制服のまま眠り込んでしまおうかと四条は思った。だが、今日起こった様々なことが頭をちらついて、しばらく眠れそうになかった。
指導室に呼び出されての説教と、五百万。加えてその後、ヒミツキチでの少女との出会い。
特に五百万の件は四条の頭を悩ませた。他の出来事は、別に今後の四条の生活になんら影響を及ぼすとは思えなかったが、五百万だけは違ったからだ。
こんなことになったのも、全ては染井のせいなのだ。自分に非のあることだとは、四条には思えなかった。すなわち、五百万を払うのは、染井であるべきなのではないか。
頭を抱えて、四条はベッドの上を転がりまわった。一体どうすればいいのか、四条にはわからなかった。どうすれば、この危機を乗り越えられるのか。普段使わない脳をフル回転させて、この事態を収拾する術を四条は見つけ出そうとした。
そのとき、下から、母親が四条を呼ぶ声が聞こえた。多分、履き捨てた靴のことでいつものように小言を言おうとしているのだろう。だが、そんなことはやはり問題なのではない。問題なのは。
そうだ、何故こんなことになったかということなのではないか。それをより思い出すことで、何かこの変えられるのではないか。そう四条は考えた。
◇
希望に満ちた夏休み像が、まるで蜃気楼であったかのようにその姿を消したときのことをはっきりと覚えている。
あれはそう、いつものように屋上でボーっとしているときのことだった。
「はいはい、黄昏てんのもその辺にしとけよ、四条」
視線を屋上のドアの方向に向けた。そこに一人の男が立っていた。階段を走ってのぼってきたらしく、息がはずんでいた。
彼の名は染井春彦、小学校の頃からつるんでいる友人である。もっとも、同じ小学校出身という点については風野において特に珍しいことではない。なぜなら、風野にはそう多くの学校がないからだ。
二人が通っているのは風野第一高等学校である。月並みに一高と呼ばれていて、風野のかなり西寄りのところにある。彼らの小学校に通っていた児童の多くは、同じようにこの高校に通っていた。だから高一になったばかりでも、何人か先輩にも顔見知りが居て、小さい頃はよく一緒に遊んだ人が部長をやってるなんてこともざらだった。必然、上下関係はあまり強い高校ではなかった。
四条も例に漏れていなかったため、サッカー部に入部した時も心細さはあまりなかった。今は一年レギュラーなんてものを目指して日々練習中である。強豪校という訳でもなかったし、小学、中学とサッカーを続けてきたからそれもあながち夢の話でもないだろう。
染井は額の汗をポロシャツで拭きながら近くに寄ってきた。
「こんな暑い中、なんでこんなとこいるんだよ。探したぜ」
「いや、弁当でも食おうと思って」
染井は地面においてある弁当を見て、不満を漏らした。
「なんだよ、誘えよ、友達甲斐ねぇなぁ。第一、まだ四限だぞ」
「いや、昼練あるからさっさと食っちゃわないといけないし。どうせお前学食だろ」
その場に座り弁当に手をかけると、染井も横に腰を下ろした。地面は想像以上に太陽の光を吸収していて、布越しに尻が焼かれる心地がした。アルミ製の弁当箱は、今にも融け出しそうなくらい熱かった。恐る恐るひらいてみると、ご飯の上にテキトーに乗せられたおかずは、うまい具合に暖かくなっていた。
箸で昼食をつっつきはじめると、染井がまたぶーぶー言い始めた。
「だけど、声かけてくれりゃさ、購買のパン一つでも買ってこれたじゃん」
「悪かった悪かった」
二つ返事で言葉を返す。他にどうしようもない。この「ねこまんま」に見えなくもないものでも、四条にとっては午後のエネルギー源なのだ。とても大切なのだった。
四条は染井の存在を無視しながら、ひたすら弁当にがっついた。
染井は膝に頬杖を付きながらその様子を眺めていたが、四条が三分の一ぐらいを食べ終わった頃、突然思い出したように言い出した。
「そうだそうだ、ビッグなニュースがあるぜ」
弁当から顔を離して、染井のことを見た。
「え? なになに。一人ダウトを楽しむコツでも見つけたか?」
「いや、一人ダウトを楽しみ方はもうとくの昔にわかってる。そんなチープなことじゃない」
何を言い出すかと思えば。
「へぇー。じゃあやってみせてくれよ」
「仕方ないな、任せろ」染井はポケットからおもむろにトランプを取り出すと、全てのカードを手札とした。
小学校の頃から染井はいつだってトランプを持ち運んでいたのだ。何故そんなことをしているのかわからないが、別段口に出す必要もなかったのでつっこまずにいた。それに、トランプとは時間つぶしには最適だから、一人ぐらいこういう奴がいてもいいんじゃないだろうか。
「じゃあ、はじめるぜ」
準備を終えたらしい染井は数を数えながら一枚一枚ゆっくりと、裏向きに場に出しはじめた。
……。何も特別なこともせず、ただひたすらカードを重ねていくその作業は見ていて退屈だった。よく飽きないな、四条は少し感心すらした。その間にも、刻一刻と時間は過ぎていく。
この屋上に来ていたのは、四限が自習で、退屈だったからではなかった。
欲しい物というのは、手に入る前の方が輝いて見える。夏休みだってそうだ。こっちから何もしなくたって向こうから何か出来事が訪れて来るなどという、根拠のない期待が夏休みをより一層美しく見せた。まるでステンドグラス。差し込む光とその模様は、どこか現実離れしていて、神聖な感じすらする。しかし実際に向こう側の風景や、光のあたらないステンドグラス自体は大したものではない。夏休みだってそれ自体はどうせグダグダに過ごす人がほとんどである。
四条には、それが耐えられなかった。彼の学校の部活は、特別厳しいわけではない。でも、夏休みの練習ぐらいはもちろんはいっている。多分、半分の日数は部活に費やされる。それは、とてもたくさんの時間に思えるが、実はそんなことはないと四条は知っていた。怖いのは、そんなことではなかった。真に恐れているのは、夏休みが終わってしまうという焦りを感じながら過ごすことだった。でも、そうなるのはもう目に見えているのだ。
なぜなら、夏休みとは有限なのに、無限にも思える期待を背負わされるものだから。それが裏切られるのは必然で、それが故に避ける道もない。
だから四条は考えた。夏休み前から、夏休みのことをもっと練っておけば、後悔も少なくなるのではないか、と。それらのことを考えるのに騒音は妨害に感じられ、わざわざ屋上までやってきたのだった。
真夏の炎天下、太陽とコンクリートに照らされて、流れ出る汗は底をつく気配がしない。四条は顔の汗を、肩の辺りで必死に拭く。
キーンコーンカーンコーン。
自習時間だった四限の終わりを告げるチャイムが鳴り、昼休みに突入した。それでも染井は気にせず、一人ダウトを続けた。四条のポロシャツも下ももう湿ってきていて、髪からは時折水滴が垂れた。弁当はとっくに完食してしまっていた。そろそろサッカー部の昼練に行きたかった。
それからまた少し時計の針が進み、やっと手札も最後の一枚となった。染井はなにやら念をこめるようにブツブツとつぶやいて、一段と丁寧にその一枚を置いた瞬間
「ダウトォォォオォォォオオ!!」
染井はグワっとその一枚を乱暴に表向きにした。四であるべきそのカードは、スペードの二だった。
「くあー、惜しいぜ。最後の一枚だってのに、やり直しだ」
表向きにした拍子にバラバラに散ったカードを、手で集めて軽く整えると、また全てのカードを手札として持った。
そして同じ動作を繰り返し始めた染井のことを、四条は思わず止めにかかった。
「いや、まてよ。お前カード全部持ってんだからダウトもくそもないだろ。順番に出せばいいだけじゃん」
これ以上の灼熱地獄という拷問は勘弁してもらいたかった。
「いい事を聞く。そこが一人ダウトのコツでな、手札を真ん中のあたりで二つに区切って、交互に出すんだよ。で、数字が合わなくなった瞬間に『ダウトォォォォ』って威勢良く叫ぶんだ。ほら、お前もやってみ」
ニコリと微笑みながら染井はトランプを差し出してきた。それを、四条はおずおずと受け取った。そして暑さでいかれたのか、四条も少し笑った。
そのまま足元に置いてあるトランプケースを拾い、トランプをはみ出たりしないように丁寧に収納すると
「ダウトォォォオ」
あらん限りの力をこめて思いっきり遠くへ投げた。それは屋上を囲う柵を優に越え、一瞬空を舞う小鳥のようにどこまでも飛んでいきそうな気さえしたが、やはり弧を描いて校庭に落ちていった。
少しの間呆気に取られていた染井だったが、ハッと我に返るとあわてて柵に走りよってトランプの落ちていった方向を探した。だがどこに落ちたかなど見当も付かず、憤慨しながら四条の方に振り返った。
「な、な、何をするかぁ!」
「うるさいうるさい! この暑い中、くだらないことに付き合わせやがって」
「屋上に来たのはお前だし、話をふったのもお前だろう! 第一なぁ、俺だって必死にオチをつけたんだぞ!」
実際のとこ手札を二つに区切ったなんてのは後付けだったし、そう染井はカミングアウトした。その言葉を聴いた四条は、クラリときて頭を片手でおさえた。少しあった怒りはもう霧散して、今では自分の愚かさに対する後悔が頭の中で渦巻いていた。
あ、と何かに気が付いたように染井が言った。
「そうだ、元々俺はこんなことしにきたわけじゃなかった」
染井が腕で組んで得意そうな顔をしてみせた。また馬鹿なことを言い出すのか、四条は身構えた。
「……今度はなんだよ」
「俺はだな、わざわざ今日の授業時間の全部をメールについやして、森内加奈との約束を取り付けたんだ」
「どんな?」
染井のにやついた顔が目に付く。何も聞かずに顔面チョップってのもアリだな、なんてことを四条は思った。
「ふふふ、聞いて驚くな。いや、驚け。大いに驚け。約束ってのはな」
そこで言葉を一旦止めて、少しためを作ってから
「来たる夏休み、B組の森内加奈と一緒に海水浴に行く約束だ」
その約束がビッグニュースであることを、四条はすぐに理解することはできなかった。だから四条は頭をフル回転させた。そしてB組の森内のデータを、整頓されていない記憶の箪笥から必死で探した。祖父の家の倉庫から特定の物を探すぐらい無謀かと思われたが、それは案外簡単に見つかった。
―――B組の森内加奈って知ってる? いや、顔も可愛いけど、それじゃなくて……。胸、Dカップらしいぜ―――どこかで耳にした、言葉だった。
染井は得意満面な顔を爆発させるように、フハハハハハ、と笑い始めた。四条はおそるおそる尋ねる。
「マ、マジで?」
「マジマジ」
それから四条の取った行動は明快かつ迅速だった。飛び跳ね、その間に前かがみになり、両足をたたみ、両腕は腕立て伏せをするような形にして地面に着地。実際、結構痛い。だが人生初のジャンピング土下座に成功し、我ながらよくやったと刹那の間その喜びをかみしめたが、すぐに気を引き締めると、顔を上げずにそのまま
「さっきは本当にごめんなさい! 俺、何か間違ってたみたいです。トランプはいずれ弁償します。どうか、どうか俺を海水浴に同行させてください!」
全身を震わせるように、魂のボイスを発射した。染井は腕を組んだまま、四条の後頭部を覗き込むようにして言った。
「どーしよーかなー。こちとら誘うのに三時間かかってるんだよねぇ」
しつこいと思われるのがいやだから、一通に三十分ぐらい時間かけて考えて送ったのだ―――そう染井は加えた。いつだって、染井はくだらない努力はおこたらないのだ。
四条は下手にまわるしかなかった。
「そ、そうだ。染井、昼飯まだだよな? 俺、今日ちょっと余裕あるからさ、学食で何かおごってやるよ!」
顔を上げて、懇願しながら染井の顔を見つめる。完全に優位に立っている染井は、そんな視線も気にせず、
「いや、そんなことまでしてもらう必要はない。俺がして欲しいのは一つだけだ」
四条は飛びつくように答えた。
「お、なんだ? なんでもいってくれよ」
「なんでもといったな?」
「ああ。Dカップの可愛い女子と、海水浴いけるなら」
彼らのような高校に入って間もない生徒にとって、女子高生との海水浴―――しかもDカップとの―――なんて中枢神経と下半身に響き渡る極上のサプリメントだ。四条は犠牲を厭う訳にいかないかった。
染井は四条の返事にふんふん、と満足そうにうなずくと、腕を組んで言い放った。
「女子をもう一人、海水浴に誘え。理由は聞くな。これは勅命である」
意味はよくわからない。意味はよくわからないが、自分にできるのは激しく首肯することだけだった。
「よし、ならOKだ。七月三十一日だからな、何が何でも空けとけよ。うまくすりゃ、泊まりになるかもな」
そして二人は最高の笑顔で、屋上を後にした。四条は、自分が最高のラッキーな野郎だと思い、染井という友達を持ったことに感謝していた。女子一人海水浴に誘うなんて、もう簡単すぎてなんの重みも海水浴フューチャリングDカップ女子の前では感じられなかった。
このとき、両手には確かに海水浴の予定というものが存在して、それは最高の夏休みを予感させていた。
高校入学から始まった新鮮に思えた日々も、今はもう日常の一片に埋没していたのだが、七月十五日木曜日十二時四十五分、テストも終わって後は夏休みを待つだけというパラダイスな時期に重なるようにして、新しい非日常が届けられたのだった。砂漠の民の生活に例えれば、オアシスの水が突然乾ききってしまった、なんていう感じな悲劇的な非日常だった訳だが。
四条が、染井は元から四条を含む二対二の面子で行く約束をしていたと知ったのは、もっと後になってからのことだった。
◇
昼連をするために校庭へ出た男子生徒曰く、一瞬隕石が落ちてきたかと思ったらしい。それぐらいド派手に、そのガラス細工は弾けとんだのだ。
ガラス細工を運んでいた人は、奇しくも四条のクラスである一年C組の担任、伊藤忠だったという。荷台にガラス細工を乗せていた伊藤忠自身には、ガラスの破片はささらなかったらしい。まさに不幸中の幸いだ。
近くを歩いていた女子生徒曰く、伊藤忠は即座に屋上の方を「ジッ」と見て校舎に駆け込んでいったという。女子生徒が見上げた屋上は、丁度太陽に重なっていて、目を開いていることもままならなかったらしい。しかし伊藤忠は逆光を物ともせず、鬼のような形相で屋上を見たというのだから、大体この後の話も予想がつくというものだろう。事実、四条が伊藤忠に捕まったのはこの後すぐだった。
染井を先に学食へ行かせたことを、四条は激しく後悔していた。もし階段で彼を待たせていたなら、同じ結果にはならなかったかもしれなかったからだ。立ち入り禁止の屋上のドアの鍵を閉め忘れたのを思い出し、屋上まで戻ってピッキングの要領で逆に鍵を閉めているところを伊藤忠に見られたのが運のつきだった。弁明の余地など、そこにありはしなかった。
それでも必死に『もう屋上には入りませんから』とか、『出来心だったんです』とか的を外れたことを言っていたような気がする。とにかく、四条は窮地に立たされていた。いや、厳密には座っていたのだが。
「これが、何だかわかるかね」
窓のない、完全密閉の指導室に重い声が響いた。四条と伊藤忠は、学習用より少し大きめの机を介して対峙していた。
机の上にはガラスの破片がいくつもあった。四条はそれらを手にとって、眺める。どれもがキレイな曲線を描いていて、見る角度を変えると微妙に光方の色合いが変わる。全てを引っ付き合わせたら、何かの壺になるかのように思われた。
「……壊れた壺か何かですか?」
伊藤忠の顔からは感情を読み取れない。無表情、しかしそれは怒った顔よりも四条の心を不安にさせて焦らせた。
正しい読み方はいとうただし、生徒内のあだ名はいとうちゅう。定年の近いこの老教師は、二十代のころからずっと一高の教師をしている、学内有数の古参である。髪は少なくなったが黒は保っていて、精力溢れる行動と合わせてみると十歳ぐらい若くみえないこともない。
長年教師をしているだけあって、多少の貫禄もついていた。加えて校長とも長い付き合いだった。校長が最も信頼を置いているのがこの数学教師伊藤忠であり、今回の件も、二人の付き合い故に校長が伊藤忠にガラスの壺の運搬を任せたことが始まりだった。
―――うん。まあ大丈夫だとは思うけど、これ、古い知り合いからの贈り物だから。五百万はくだらないな、うん、違いない違いない。校長室もこれで華やかになるな、そうだ、モロッコで買った敷物があったね、あれの上に乗せたらどうだろう。なに、文化の違いなんて問題じゃないだろう。ん、じゃあ僕は終業式の日まで出張に行って来るから、このガラスの壺、君に任せたよ、割れやすいから気をつけてくれよ。
脳裏を一瞬過ぎった校長の言葉に、伊藤忠は鉄の表情を崩しそうになったが、眉間に力を入れてなんとかその衝動を抑えた。
「そうだ。では何故壊れているかわかるかね」
状況の全くわからない四条は、空気もうまく読むことができずに、思いついた言葉をつい声に出してしまった。
「先生がこけちゃった、とか」
「んな訳あるか!!」
ガバっと伊藤忠は立ち上がり、机を両手で思いっきりぶったたいた。普段表情をあらわにしない老教師の突然の変異に、四条は思わず飛び上がりそうになるほどびっくりした。老教師はまた怒鳴ろうとしたが、頭に血が上って血圧が高まるのを気にして、落ち着け大丈夫だ、と四条にも聞こえないぐらい小さな声でつぶやくとまた椅子に腰を下ろした。
その様子を見ていた四条だったが、混乱具合は伊藤忠にも負けてはいなかった。当たり前である。指導室につれて来られて、屋上にいたことをちょっと咎められるだけだと思っていたというのに、目の前にあるのは見覚えもないガラスの破片と、同じく見覚えのない伊藤忠の爆発なのだから。
伊藤忠は少し気持ちを落ち着けてから、また四条のことをジッと見た。伊藤忠自身、いつまた四条の言動に怒り出すか分からなかったため、早口で言うことだけ言ってさっさとこいつを追い返すことに決めた。
「お前が屋上から投げ捨てたトランプが、校長のガラスの壺に当たってこのように無残にも割れてしまった。あー、今校長は上京していていないから、まだ処罰については話せない。だが校長はこの壺を五百万はくだらないと言っていた。額の詳細はとにかく、校長の私物を壊してしまっただけに校内の問題にとどまらないかもしれない」
刹那の間、四条は言われたことがよく理解できなかった。だがすぐにトランプを投げ捨てた時のことを思い出し、血の気が引いていくのを感じた。ここにきて、大体何が起こったのかわかったのだ。暑さにやられていたとはいえ、軽率な行動をしたことを激しく悔いた。
「つまり……」
「退学や停学といった校内の処罰じゃすまんということだ。弁償することになると思う」
感情を必死に押さえつけながら、ああ面倒なことをしてくれた、と伊藤忠はつぶやいた。そしていらただしげに
「校長の機嫌のことを考えると、出張から帰ってくるまでの三日間で全く同じものを買うか、あるいはこの壺を直さない限りは、弁償だけじゃなく退学も免れないだろうな」
校長の機嫌がどうこうとかいう理不尽な動機はおいていたとして、五百万なんてもんを弁償するのは一生徒にはかなりきつい。それは伊藤忠も重々承知だった。もちろん、親に頼んで弁償してもらうことは可能だとしても、三日間の間に壊れていない現物を持ってくるのはとても無理な話である。つまるところ、退学を免れるのは不可能に近いということだった。
「何か打開策ができたら俺のところに来い。いいか、十八日の夜に校長は帰ってくるから、それまでになんとかならなかったら覚悟を決めておけ」
わかったら、さっさと行け。伊藤忠の言葉に背を押されるようにして、四条は指導室を出たのだった。
◇
ベッドから降りて、四条はとりあえず歯を磨いて落ち着くことにした。人間が一番リラックスできるのは、歯を磨いているときだと聞いたことがある。四条はそれにあやかって、何かいい考えが浮かぶのではないか、と考えたのだった。
部屋を出てすぐ正面のところにある、二階の洗面所。風呂場につながっている一階のものに較べれば簡易な作りではあるが、歯磨きや洗顔にはことかかないし、朝起きて髪の毛をセットしたりするのにも問題はない。いや、三面鏡が付いていることを考えるのなら、充分すぎる物かもしれない。
三面鏡のうち、右手の鏡を開くと、中の棚に歯磨きの収納場所がある。そこから自分の歯磨きを取り出すと、蛇口を軽くひねって歯磨きを濡らし、歯磨き粉をつけてから四条は歯を磨き始めた。
なるほど、なんとなくリラックスできてる気がする、と四条は思った。それとともに、一つの考えが頭に浮かんできた。その考えは、四条にとって救いのあるものだった。
なんで、壺割ったぐらいで退学させられなきゃいけないのだ。そもそも、学内の問題で収まらないとか伊藤忠は言っていたが、四条にしてみれば新聞の片隅に『生徒が校長の壺を割り、退学。校長は弁償を要求』なんて内容の記事が載るなんてバカらしいし、世間から叩かれるのは間違いなく学校側だと思った。
つまり。口の中のものを洗面器に吐き出して、そのまま顔だけを上げて正面の鏡にうつる自分の顔を見つめた。
お前はきっと大丈夫。そうさ、全然大丈夫さ。そう心で繰り返すと、四条はさっさとうがいをして寝てしまうことにした。
◇
だが、あんまり大丈夫度はキープできなかった。
四条は一晩眠って、気持ちよく起きて朝食を取り、歯磨きや洗顔を終え、制服に腕を通した。その瞬間、四条の思考の天秤のバランスが崩れ、ネガティブなものが四条を支配した。
鬱。やっぱり退学になるかもしれないと四条は思った。
生まれてきて十六年近く、これほどのピンチには未だ遭遇したことはなかった。未知との遭遇である。相手はエイリアンで、今にも口の中から違う口が伸びてきて、内臓を食い散らかしてきそうな具合だった。もちろん、それに対抗する術など四条には見当たらなかった。
五百万円である。どっかの番組なら問題を何問か解けば、上手くすれば持って帰れるだけの額だ。そう思えば少しは気も楽になったが、仮に『校長先生の壺を割ってしまい、すぐに同じものを買わないと退学にされてしまいます。僕は高校一年生で、まだまだ高校生活を楽しみたいんです。女子と海にも行きたいし、上京もしたいんです。都会に行く上に五百万円以上手に入るこの番組は最高だと思い応募させていただきました。どうか、番組に出させてください』なんて手紙を送ったところで絶対採用されるハズもない。
打開策が見つかればこい、と伊藤忠は言っていたが、これから犯罪してきます、と先生に公言してから盗みに入るなんていう愚行をする気は毛頭なかった。これから今すぐバイトに行ったらどうだろうか。これから寝ずに三つのバイト掛け持ちで一日二十四時間働いたら……。もちろん足りるハズもない。四条はうなった。どんなに働いたって五百万円には遠く及ばない。ならどうしろというのだろうか。
ちなみに時給六五〇円、それがこの街の基本的な時給である。労働基本法スレスレ。それどころか中学生を雇っている店は、グレーゾーンを飛び出してしまっているところもある。バイト無許可の中学校だから生徒側としても黙るしかないのが現状だ。かくいう自分もそうだった。時給五〇〇円なんていうスーパーの店員から、時給六五〇円の本屋のそれに変わったのだ。普段はなかなか一五〇円の差を実感させる機会がないが、二日間もまるまる働いた場合の二つの給料差を考えたら結構大きなもので、ちょっとだけ高校生になって得をした気持ちになった。ほんの、ちょっとだけだったが。
結局、普段のように登校した。もう残り少ない学校生活だ、思い切りエンジョイしたいのはやまやまだったが、四条の頭は壺を割ったことで一杯だった。それでも、なんとか授業を生き抜いて昼休みまで辿り着いたが、一時だって壷のことが頭から離れることはなかった。昼練なんてもう出てられなかった。こちとら、部活はおろか、学校ごとやめさせられそうな勢いなのだ。
四限の板書を消していた女子が、黒板消しを置いてこっちの方をちらりとみた。目があった。黒部美咲だった。
教壇をおりて、ここぞとばかりに集まって弁当をつついている生徒の間を縫い、黒部は四条の机の前までやってきた。そして近くにある誰も座っていない椅子を引いてきて、そこに腰掛けた。そして唐突に切り出す。
「昨日はどこに行ってたんだ?」
「昨日?」
なんのことを言っているのかよくわからなかった。
「放課後の話をしているんだ。サッカー部の連中が探していたぞ。ハル、サボったのか?」
ああ、そのことか。もう、どうでもいいことに感じた。徹夜後の、『なんでもできる!』という状態に似た精神状態まで四条は達していたのだ。もう退学でもなんでもドンとこい、といった感じだった。
ハッハッハ、四条はつい笑ってしまった。
「な、なんだ。何かおかしなことでも言ったか?」
「いや、なんでもない。もうなんか、色々ダメだな。最後のスクールライフ、美しく散りたいものだな」
黒部はいぶかしげに四条のことを見た。わかっている、何も知らない奴には、支離滅裂なことを言ってるように聞こえるだろう。
だが、四条は何かしゃべってないと、心が今にも割れ始めてしまう気がするのだ。追いこめられているのだ。ナチュラルハイでも対抗できないぐらい、テスト前の眠気なんかより強大凶悪なヤツに襲われているのだ。
「そういや、お前、喋り方男っぽいよな」
「そんなこと、今に始まったことじゃないだろう?」
「いや、そうなんだけどな。でもお前、やっぱ女の子な喋り方だよな。お姉さまキャラだな」
ああ、言いたいこともないのに捻り出す言葉は、矛盾とか矛盾とか矛盾とかで一杯だ。
でも黒部がどこか年上のような雰囲気を持っているのは事実である。肩の辺りで切り揃えた後ろ髪は、まるで枝毛がないかのようななめらかさで、黒独特の光沢を持っている。そして前髪は真ん中で自然に分かれており、二重の目にすれすれかからない程度だ。これ以上ないくらいのバランスで目や、鼻は顔の上に配置されている。きっと女子高に黒部が入っていたとしたら、後輩から何度も告白されたことだろう。どこか男性的な魅力も黒部は抱えているのだった。
一方、黒部は四条の言葉に、一瞬目を大きく見開いた。その後、照れ隠しのように机の上のシャーペンを手に取った。
「それは、誉めてるのか、貶してるのか、どっちなんだ」
トントントン。そのシャーペンを用いて、一定のテンポで机をつつく。多分、心を落ち着かせるときにする黒部の癖だった。小さい頃からよくそうしていた。本人は気づかれていないと思っているのか、なるべく隠すようにしていることが多かった。
「もちろん誉めてるって。大人っぽいんだお前は」
トン、音が止まる。見たら黒部は机の一点を見つめて静止している。何か考え事でもしてるんだろうと思った。何かしてないと気がすまない四条は、後ろを向いて、辺りを見回した。
教室の角で男子と飯を食っている染井と目が合った。染井が、何か手でジェスチャーをした。
それを見て、四条は重要な約束を思い出した。女子を一人誘うという、海水浴へ連れてってもらう条件である。脳内に吹き荒れる嵐は、こんなに四条にとって大切なことでさえ隅に押しやっていたのだった。
しかし、女子の知り合いなんて四条にはほとんどいない。それを知っている染井は、黒部のことを指差して、チョークスリーパーの真似をした。何故そんなジェスチャーを選んだのか四条には理解できなかったが、伝えたいことはわかった。
同時になぜか、四条を五百万の恐怖が襲った。四条は頭を抱えて天上を仰いだ。
背中を何かで突っつかれた。四条は後ろを振り向いた。心配そうな顔をした黒部が机に身を乗り出していた。机に付いた方と反対の手にはまだシャーペンが握られていた。
「頭が痛いのか? さっきからおかしいと思ったんだ。保健室行くなら、付き添ってやるぞ」
―――なんとなく安心する。
黒部は四条の幼馴染だ。だからかもしれなかった。ハッキリとはしないが、黒部のややおかしいとも受け取れる口調は、四条の心に平穏をもたらしてくれるのである。
そこでふと、一緒に何度か海にもいったことがあったのを四条は思い出した。彼女ならきっと四条の誘いにもしぶしぶながら乗ってくれるだろうと思った。
「な、なんだ、黙って人の顔をじっとみて」
黒部は時々視線をそらしたりしながら、こっちの様子を見ていた。考え込んでいたら、いつものまにか黒部の顔を見つめる形になっていたのだ。丁度いい、四条はそう思ってすぐに話を切り出した。
「あのさ、お前七月三十一日、暇?」
「え? いや、今は特に予定はないが。何かあるのか?」
「そりゃよかった。一緒に海行かないか?」
しばらくの間、黒部は何を言われたか良く分からないようだったが、意味を自分なりに読み取ると
「な、何を突然」
「特別なことでもないだろ? 何度も一緒に行ったじゃないか、ほら、泳ぎ教えたのも俺だし」
誰かに聞かれてやしないかと、赤面しながら黒部は周りを見渡した。予鈴は鳴ったが、生徒にとって昼休みはまだ終わっていないも同然で、騒がしい教室で二人の会話に耳をそばだてる者など一人もいやいなかった。黒部は少し安心したようだった。それでも声が大きくならないよう必死に抑えて
「いつの話をするんだ。最後に行ったのは小六の時だろう、それにしたって家族ぐるみだったぞ」
そこで一度、黒部は言葉を止めた。言葉を選んでいるようだった。しばらく黙り込んでいたが、結局良い言葉がみつからなかったのか、黒部はそっと小さな声で言った。
「親になんて説明すればいいんだ二人で行ったことなんてないじゃないか。」
なんだ、そんなことを気にしていたのか。ひとまずホッとする。四条とはどうしても行きたくない、という感情が理由ではどうしようもなかったが、体面を気にしているのならなんとかなりそうだ。
四条のこれは、お誘いではなくお願いともいえた。黒部は結局、頼みは断れないタイプの人間なのだ。
「安心しろ、二人じゃなくて二対二だからな」
「え?」
少しうつむいて視線を泳がせていた黒部が、顔を上げて四条の目を見た。
「それ、どういう意味だ?」
「話を振ってきたのは染井なんだ。アイツ、B組の森内って奴を海に誘ったんだけどさ、条件つきでOK出してもらったんだってさ。で、条件ってのがC組の男子と女子を一人ずつ誘うってことで、男子は俺に白羽が立ったんだけど、ほら、俺女子の知り合い少ないじゃん?」
「それで、私のことを誘ったって訳か」
黒部は肩を張って、強い意思を込めた目でこっちを見ていた。どこか声に怒気が帯びている気がした。言い回しがどこかマズかったのか、と思った。
五時限目のチャイムが鳴った。その間に次の言葉を考えていると、それが鳴りきる前に黒部は口を開いた。
「いいだろう、七月三十一日だな?」
返事は予想外のものだった。内容はともかく、口調は力強く、やっと黒部らしさが出たように思えたが、突き放した言葉とも受け取れた。
「いいのか? ほら、親とか……」
「そんなことは、お前に心配してもらう筋合いはない。第一、誘ったのはお前だろう?」
「でも」
そのとき、ドアを開けて数学の教師が教室に入ってきた。同時に、席を離れていた生徒は急いで自分の席に戻っていった。
伊藤忠だった。四条は老教師と目が合って、いつもどおりの無表情を見て、自分の置かれている状況を思い出した。
◇
五限の授業は数学だ。教師は伊藤忠、このクラスの担任である。定年までそう長くないこの教師は、今年はクラスを受け持ちたくないといっていた。体力的、精神的にもクラスを持つのが億劫に思えたのだろう。しかし彼の希望は通らず、こうしてまたクラスの担任になっている。しかも学年主任という、これがまた面倒な役職まで与えられたのだった。
一部の生徒は彼の授業を古典的だと言って嫌っているらしいが、黒部はそうは思っていなかった。その理由には、過去の授業形式を知らないくせに古典的だと騒ぐのは、ただ高校の数学の難しさを教師のせいにしているようで、滑稽にみえることが挙げられた。加えて黒部にとって伊藤忠の授業は簡潔でやりやすかったのだ。
黒部は、他の生徒が“ワカリマセン”と念仏のように繰り返す様を、頬杖をつきながら眺めていた。
予習さえしてくれば簡単な問題なのに。公式さえ覚えていればいいだけなのに。
高校生になったのだから、予習復習ぐらい最低でもやってくるべきだと、黒部は常日頃から思っていた。
自然に寄っていた眉間のしわに気付き、誰にも気付かれないようにそれを指でせりげなく伸ばすと、一つ大きく息をついた。
本当は、やや弛み気味に思える生徒の勉強姿勢なんて気になりはしない。いつも通りのことだ。もちろん、伊藤忠の着ているポロシャツに染みを発見したこととも黒部のため息とはなんら関わりはない。
不愉快なのは、後ろに座っている四条と交わした昼休みの約束のことだ。海に行こう、という話。二対二で海に行こう、という提案。後ろに振り向いて睨み付けたい気持ちを抑えつつ、黒部は額に手を添える。そして前髪を弾いてまた手を机に下ろした。
二対二でも満足しなければならないのはわかっている。元々は影さえ見えなかった話だ、贅沢を言うのはおかしい。それに考えてみれば、染井が立案したというこの話なのだから、染井はもう一人の女子である森内を狙っているのは明らかだ。だから四条はフリーになるのは必然。
いや、何を考えているんだ。黒部は我に返って、頭を激しく振った。四条は自分がいないと暴走するだろうから、他の女子がいっても微妙な顔見知りをする彼には楽しめなくなってしまうだろうから。だから私が行くのだ、そう考えてから黒部は納得したように頷いた。
四条と黒部は幼稚園の時から一緒、世に言う幼馴染だ。しかし風野ではそんなこと特に珍しくもなく、四条は他にも数人、同じ高校に幼稚園からの付き合いがいる。それらは大概が男子で、染井もその中の一人なのだが、黒部は例外で女子なのに四条と一緒に遊んでいた。理由は様々だが、一番大きいのは四条の親と黒部の親の仲が非常に良かったことだろう。小さい頃は御互いの家をいつものように行き来していたし、二つの家族で食卓を囲むことだってしばしばあった。
しかし、それも黒部が中学に入学した春までの話だ。今は違う。黒部は窓の外に視線をずらす。いつもと何ら変わらない夏の風景。風野の空と、風野の山。揺れる木々、弾ける水。いつもと、何も違わないはずなのに。期待と不安が今は窓越しの世界を少しだけ違ったものに思わせる。
遠くに蝉の声がする。それも教室には響かない。どこか不思議な静寂を教室は保ちながら、老教師の声だけが皆の耳に届く。それだって、指の間から落ちる砂のように黒部の元には残らない。黒部はおもむろにシャープペンシルで木製の机を一度突っついた。鈍い音がひとつ、心と共に宙をふらつく。
二つの家族の仲がおかしくなったきっかけは、黒部の家の方にあった。祖父、黒部勇一が知事になったのである。風野初の県知事。その話は風野に住む選挙権を持つ大人なら、誰でも知っている。
それ以来黒部の家の扱いは変わった。みんな祖父を名士扱いし、黒部家は名家であるという印象が皆の心に植え付けられた。そして、四条家の代わりに、週末になるとお偉い様が来るようになった。祖父の、うまくやっていくための付き合い。黒部が、うまくやっていけなくなるための付き合い。それでも、黒部はしっかりしなければならなかった。勇一の一人きりの孫、黒部美咲。彼女が品行方正、容姿端麗、文武両道でなければ祖父に何か悪く働くことがあるかもしれないと、子供心に思ったのだった。そして、それは今でもそう。言葉遣いが男っぽいのは、四条と二人で会話するときだけだ。
「六十四ページの問一から問四を。木村、後藤智樹、後藤大地、四条、それぞれ前に来て解け」
後ろで机がずれる音がした。机につっぷしていた四条が、勢いよく顔を上げて起き上がった際に机をずらしたのである。
それに反応して、生徒達は後ろを振り向いたり、隣同士で顔をあわせクスクスと笑う。教室はしばし授業の持つ緊張感からとき離れたが、それもつかの間静寂を取り戻す。これはいつもの授業風景。授業の退屈さになんとか耐えている彼らにとって、小さな出来事でも息を抜けるのなら何であっても重宝されるのである。
だが黒部は、皆と違った反応をした。ノートに視線を落とし、問題を確認したのだ。そしてこの問題が予習ですでに解かれているものだと確かめると、安堵の息をついた。
いつも寝てばかりの四条には、絶対にこの問題はとけない。暗記科目は一夜漬けであらかた覚えてしまう男だが、数学には滅法弱いのだから。黒部はそう考え、少し得意そうな顔をした。四条は前に出るときにいつも、黒部のノートを先生に気付かれないように借りていくのだ。そのために、わざわざ四条は黒部と同じノートにしたし、ノートに名前を書かないように強要してくる。
黒部は一度ノートをなくしたことがあった。名前を書いていなかったため、どうせ見つからないだろうと四条は高をくくってはいたが、職員室前の忘れ物棚を覗きにいった。やはりなかった。まだ試験まで日もあったし、四条はほかの人にコピーさせてもらうことにしたのだが、四条は人に聞き込みまでして、そのノートを探した。名前を書かせないようにしたのは自分だ、絶対に見つけ出してお前に返す、そう四条は言っていた。そして、テスト一週間前になんとか見つけ出してきた四条に対する反応にはやや困ったが、一応礼を言っておいた。
四条は、何気に責任感の強い男なのである。いや、もしかしたら罪悪感に弱いだけなのかもしれない。どちらにしろ、ノートを借りていく癖に教師から見つからないように細かい部分まで気に使うというのは、少し臆病だと黒部は思う。そこが玉に傷だな、黒部は含み笑いをした。
「早く前に出て来い」
黒板を軽く叩いて催促している伊藤忠の様子を見て、先ほど指名された生徒達は席を立ち始めた。黒部の後ろにいる四条も皆に少し遅れて立ち上がった。
椅子をずらす音を聞いて、黒部はノートを机の右端の方に置いた。四条がいつも黒板に向かうとき通る通路の方だからである。それは、四条がノートを持っていきやすいように、さりげなく黒部がいつも心がけていることだった。そんな心遣いをするくせに、海の件をまだ怒っているんだぞ、と四条にアピールするため、黒部はノートとは逆の方向を向いてよそよそしくしていた。
しかし、そんな黒部の右横を通り抜けて行く男子は、ノートには見向きもしなかった。愕然とした黒部は目を丸くして、ノートと四条の後姿を交互に見た。いつもより四条の背中が大きく見えた。一瞬、四条がまるで見知らぬ人に思える程、黒部には彼の行動が理解できなかった。
突然、窓のすぐ外でセミが鳴き始めた。天から風が降りてきた。しかしエアコンを使っている教室の窓は閉切られていたため、黒部までは届くハズがなかった。だが、山々を染める木々の緑、風に揺れた葉がこすれて音を立てる。ざあざあと、まるで黒部の瞳が捉える四条の視覚情報さえ乱れが生じたかのようだった。
◇
結局四条は的外れな答えを黒板に書いて、逃げるようにチョークを置いてその場を去る。戻ってくるとき、ジッと黒部が見つめていることに気がつきはしたが、四条は黒部の方に視線をやろうともしなかった。どこか自虐的にも見える引きつった表情のまま、席まで戻って静かに座った。
四条は、黒部のノートを無視したつもりではなかった。ただ気づかなかっただけだった。そんな毎日のような慣習さえ四条は忘れてしまっていたのだ。キリキリと胃が痛みだすのではないか、しかしそれも悪くないかもしれないと思い、あえて伊藤忠の方を見ながら黒板に向かったのだ。
四条が黒板に書いた答えは三だ。途中式はメチャクチャ、しかしとにかく答えは三。四条は正解がわからないときには二と書くと決めていた。記号問題もしかりだ。某四択のクイズ番組でも正解数は三番目の物が一番多いらしいし、四条が問題を出す立場であったなら、二か三に答えを集中させてしまいそうなものだからである。四条が席に着いたのを確かめると、すぐに老教師は答え合わせを始めた。
耳につくせみの音を無視して、伊藤忠は淡々と答え合わせを進めていく。
問一、丸。問二、丸。問三、丸。教科書に出てくる基本問題である。だから、すぐ上に書いてある公式に代入するだけで簡単に解けてしまうため、そうそうミスはしない。数学が全く出来ない四条でも、通常の脳の回転数だったなら解けたかもしれない。しかし残念なことに、四条の答えは所詮三であって、その答えは三角形の角度を求める問題ではそうそう出てこないのだった。
案の定、伊藤忠が黒板に走らせた文字は、でかいバツマーク。どこかから笑い声が漏れる。そして、伊藤忠が四条のコトを注意する様をこの眼で見てやろうと、それまで寝息すら立てようかという勢いだった生徒達も、一斉に顔をあげて四条の方を見た。
しかし、良いタイミングというべきか、授業の終わりを告げる鐘が四条と伊藤忠の間に挟まった。今まで四条の方に向いていた関心は一気にそれた。生徒たちは鐘が鳴り終わるのを待たずして、皆一様に教科書類をしまい始めた。
「四条、すぐに応接間にこい」
伊藤忠は仏頂面をしながらそう言い残して、教室を去っていった。耳ざとくそれを聞いていた生徒達は、老教師が教室を出たのを見るや否や奇声を上げて四条の元に集まってきた。調子のいい話だ、彼らは他人の不幸を嗅ぎつけた時だけ喜びを感じるのかもしれない。
蒼白な四条に対し、皆が思い思いの言葉を投げつける。
「お前もやってくれるねー、校長にいたづらするなんて」
「お前校長から直にお叱りを受けるのか。あそこ根性棒置いてあるらしいぜ、覚悟しとけよ」
「ってかお前何やったの? まさかさっきの問題解けなかったから呼ばれた訳じゃないだろ?」
なんとか気力を振り絞って、四条は軽口を返す。
「んな訳ないだろ。三者面談だよ、ほら、俺将来有望だから」
的外れなクラスメイトの言葉を聞き流しながら、四条は重い腰を上げた。とにかく、今は校長室にいかなければならない。
するとすぐ隣にいたショートヘアの女子が口に人差し指を当てながら、いかにも妙案が思いついた、という顔をして
「あ、ねえねえ、もしかして校長の大事な壺割ったのが四条君だったの?」
その質問に、四条の動きが止まった。固まった四条を見て、マジ? と女子は言葉をこぼす。同時に、教室の生徒達のテンションが一気にヒートアップした。それまで少し離れた場所で見ていた染井も、四条の目の前まで走りよってきた。
「うあ、まじかよ。やっちゃったな、いや、よくやったなー」
「お、お前のせいだろ! お前が一人ダウトなんかっ」
「あ? 一人ダウト? あー、やったね、そんなことも」
「あのなぁ、お前があんなことするから俺は今こうして……」
そう、事のあらましを知らない染井には一から説明してやらなければならない。しかし、そんな力はどこからも沸いてきたりはしなかった。
四条の肩に手を置いて、染井は一人勝手に頷く。
「照れるな照れるな。大丈夫だって、明日ちゃんと花瓶に花さして机の上においとくから」
「いや、殺されないっての」
フフン、と染井はにやけた顔を四条に近づけて言う。
「誰がお前が殺されるなんていったよ。俺が心配してんのはお前が自殺するかもってことだ」
考えてもいなかった可能性を染井が口にして、四条は少なからず驚いた。なるほど、もしかしたらそれが一番コトを丸くおさめるのにいい方法かもしれない。校長室に駆け込んで、おいてあるという根性棒を口にくわえたまま、床にヘッドバッドの要領で根性棒の先を叩きつける。……。
「お前マジやめてくれ。冗談でも本気で考えちゃうからさ」
「ああ、わかってるって。遺骨は川に流すんだったか?」
四条は言葉にならない叫びを振りまきながら、両手を大きくがむしゃらに振って、近くによっていた生徒を離れさせた。だが逆に、ついに壊れたか、と遠くにいた生徒までが四条のところに寄ってくる羽目になった。
OK、わかった。みんなそんなに俺が校長室で絞られてきて欲しいんだな。四条の心のつぶやきが口から小さく漏れた。
それから四条は素早く行動を起こした。机上に広がっていた数学の教科書類を机の中に放り込むと、机の横にかかっていた鞄を引っつかんだ。そして、今度こそ本気でそれを振り回して、四条の机を中心に展開されるクラスメイトの輪を崩し、扉までの道を切り開いた。その様は、まるでモーゼのようだった。四条は自分が救世主であるかのように錯覚したが、すぐにこの道が続く先に救いなどないことを思い出す。
「いいか、お前ら、よくきけ」
気分はインディペンデンスデイに出てきたアメリカの大統領の演説だ。周りのクラスメイトは、真摯な態度には見えなくても、静かに四条の言葉を聞いてくれていた。なんとなく気分が乗る
「俺は確かに校長の大事にしていた壺を割ってしまった。その非は認めよう。だが、何故校長がそのような壺を所持していたのだろうか? この学校はコンピューター室に置いてあるコンピューターが未だにウィンドウズ95だというのに、校長室の壁にかかっている絵画の数々はなんなのだろうか」
ここで両手を天井に向けてみたりする。四条は全身でそれとなく演説気分に浸っているのである。みんな、ここまではまだちゃんと聞いてくれているようだった。
「というか、どうしてこの程度の事で教師の口から退学なんて言葉が出るんだろうか。だってそうじゃないか、壷割っただけだよ? ここだけの話五百万程度の壷、俺という生徒が持つ未来の可能性に比べりゃ安いものだと思わね?」
皆、四条の言葉にあきれかえる。現実逃避をする、情けない男の姿がそこにはあった。
四条自身、そろそろ皆の視線が痛く感じ始めていた。しかし、まだ皆からカリスマ的な信頼を得られるのではないか、と四条は身振り手振りを交えながら演説を続けた。
そして、四条は自分のこれからの行為を正当化するのはもう不可能だと悟った。それまで体全体で語りかけていた四条だったが、今度は学生鞄を抱きしめて走り出す準備を整えた。ふと視界の右に、おなじみの席に座っている黒部が映った。四条のことを見ないようにしようと、髪を片手でかき上げた状態で机に顔をうずめている。また、左手の方にいる染井を見ると、笑いを必死でかみしめながら真剣な表情を保っていた。目が合うと、染井はしきりに頷いて見せた。周りを見渡すと、仲の良い男子達はみなゴーサインを出していた。四条は自分のこれからの行為の成功を感じた。
「いいか、最後にひとつだけ言っておこう。これは革命だ。学生の俺が出来る小さな革命なんだ。みんな、聞いてくれてありがとう!
それじゃあ、俺は」
――校外逃亡することにします!
最後にさわやかな、なるべく爽やかにみえる笑顔をみんなに送ると、四条は表情を引き締めた。教室の閉じている扉をキッ見つめて一直線に走る。扉の近くにいた男子が倒れこむようにしてその扉を開いた。
「いってこい四条! 生きて帰ってこいよ!」
わざわざ廊下に響き渡るような声で男子が叫ぶ。四条はエールの言葉としてそれを受け取り、コクリと男子に向けて頷くと、部活でも出さないような速度で廊下を駆け抜けた。昨日とは違い、リアルな意味での逃避行為だった。
四条が教室から出て行くと、染井ら男子を先導に、クラスメイト達は皆嬉々として廊下に出た。そして廊下の窓から校庭を眺める。この学校の出口は正門と裏門の二つ。裏門は校長室前を通らないと辿り着けないため、四条が正門を通ろうとするだろうと皆予想したのだ。なんだか浮かれている四条のクラスメイト達の様子を見て、他クラスの生徒も何事かと校庭を眺めはじめた。
皆が見守るこの広い校庭を横切ったその先に、四条にとっては自由という名の校外へと飛び立つ、滑走路とも言うべく校門が待っているのだ。
「お、四条だ! ほら、あそこ!」
一人の男子が真下を指差して声を張り上げる。
「どこどこ!」
皆が窓に乗り出すようにして覗き込んだ場所に、壁から飛び出た頭だけが見えるような具合に、キョロキョロと辺りを警戒している四条がいた。一年用の玄関から出てきたのだった。
「おーい、四条! 頑張れよー!」
声援に応えて一歩外で出て、体が完全に見えた四条が上に向かって手を振る。宇宙に飛び立つ宇宙飛行士のように、四条の顔には満足感と誇らしさが漂っていた。皆はそれを見て、ああ、コイツはめでたい奴だ、と感じながらも応援の手を休めない。
そのとき、突然四条が玄関の方を見たかと思うと、顔に驚きが浮かんだのが上からでも見て取れた。そして、飛び跳ねるように振り返って、校門に向かってダッシュを始める。
なんだなんだ、と玄関の方を眺めていた生徒達の視界に、何人かの教師が走りこんできた。罵倒を浴びせながら、猛然と四条を追いかけている。四条は鞄を抱えて、さながらアメフトでタッチダウンを奪おうとするランニングバックかのように、果敢に校門を目指して駆けていく。
「面白くなってきやがったぜ!」
そう叫んだのは染井。彼は何故かその手にメガホンを持って、実況を始めた。周りにいる男子も女子も、この突然の祭りに、これ幸いとノリノリで応援を始める。
ちらっと四条は後ろを振り向いて、教師の面子を確認した。
この春に一高にやってきたばかりの若いアメフト部顧問、マッスル武田。顔なじみのサッカー部顧問、栗丘五十歳独身。元陸上百メートルオリンピック強化選手であることが自慢のコマネチ。めぼしいところはこんなもの、他の教師達は心配する必要ないだろうと四条は考えた。遠くからメガホンで染井の言葉が聞こえてくる。
「おー、コマネチ、自慢の脚力を生かして四条の後ろに迫っているぞー、校庭の半分にも満たない地点で、四条はもう捕まってしまうのかー! 夢のタッチダウンまでおよそ後三百メートルだー!」
細かいアメフトのルール等知らないくせに、ノリで実況をやっている染井。だが、四条にはそんなことを気にしている暇はなかった。
後ろを確認する。直線的な走りで、コマネチが後ろに迫ってきていた。コマネチは、自分の得意な距離で四条を捕まえてしまいたいのだろう。
だが、そうは行くか。四条は曲線を描きながら走った。そのたびに横に振られるコマネチは、なかなか四条に手が届かない。しかし、代わりに他の教師が段々と四条に追いついてくる。
校舎の四階から眺めるこういった競技はなかなか面白い。まるで何かの良質なゲームのようにも受け取れる。それに、一人を数人が必死に追いかけているというシチュエーションで、しかも一人で逃げているのが生徒なのだ。みんなそちらを応援しないわけには行かなかった。甲子園やインターハイといった全国規模の大会とは無縁のこの高校で、おそらく史上最も熱い声援が、四条の背中を後押しする。
四条の動きにあらぬ体力を消耗させられたコマネチは、最後の力を振り絞って四条の足にタックルをしかけた。しかし、ロベルトバッジョが如く跳ねてタックルを交わすと、すぐに軌道を修正して四条は校門との直線上に移る。だが、コマネチのタイムラグは大きく、もう二人との距離はほとんどなかった。というより、純粋に校門に近いのはむしろ教師達の方で、彼らとしては校門前で待ち伏せればゲームセットといったところだった。
案の定、教師達は四条の方に流れてこようとせず、校門の方に駆けた。四条はもう走っても校門に先に辿り着けないと知り、少し距離のあるところで立ち止まった。
「これは四条ダイピンチ、だがわれらが四条だ、どんな時でも彼ならくぐりぬけられるハズだ」
無責任なことを実況が口走っているのが聞こえる。だが、今はそんなことはどうでもいい。四条の目には、学校の権化、体育会系教師の二人しか映っていなかった。もうすでに上がっている息も、汗で体に張り付いているワイシャツも、今は気にならない。
――我が胸に秘めるは、代々より受け継がれし自由を求める血。
時代が、制度が、校則が。何か、手に届かないところで蠢く思惑が。みんなの自由を縛っている。それを、ぶちこわしてやらなきゃならない。
「みんな、聞いてくれ!」
声を張り上げながら、校舎の方に四条は振り返った。たった数分の出来事なのに、校舎の窓は四条を応援する客で埋まっている。
満席の観客席を見て、即席の応援旗を見て、四条はこの校庭というフィールドこそ自分の死に場所にふさわしいと感じた。
「俺はこれから、あの二人を乗り越えて校外に出る。だが、もし俺が捕まってしまったら。お前らが俺の革命の血を受け継いでくれ! 革命はいつか生徒が日の目を見るまで終わりはしない!」
生徒の応援の勢いが一気に高まり、乾燥している空気が震えた。それを四条は、了解の印と受け取った。
夏の青い空。入道雲に溶け込むようにして横切る白い鳥は、きっと四条の来世に違いない。
校門に振り返り、四条は二人の教師をギッとにらみつける。二人の教師は、今は何も言うまい、といった具合に歯をぎりぎりとならして戦闘態勢を整えた。四条も鞄をギュッと抱きしめる。風が、ワイシャツから四条の体温を少しだけ連れて行く。一息つくと、心は逆に燃え上がる。
「行くぞ!」
後でどれだけ叱られるか、ということが一瞬だけ脳裏をよぎったが、それを軽く覆うだけの高揚感とノリで、四条は校門に構える教師に突進した。そして、伸びてくる手を潜り抜けようとしながら、教師の間に割り込むように飛び込んだ。頭が二人の間を抜ける。しかし、自由に向かって飛ぼうとする四条のワイシャツを、マッスルの毛の濃い手が掴んだ。ガクンと、四条が前に進む力が消える。
「ああっ!」
校舎が揺れたかと思った。それぐらい同時に、皆が悲痛な叫びを上げたのだ。
まだだ。四条は抱えていた鞄を片手に持ち替えて、強引に二人の間にその手を差し込んだ。
生徒全員が、四条と教師の対決の終焉を見た。皆一様に息を呑み、校舎は静寂に包まれた。
教師が四条の体を上から押さえつけている。四条の負けだ、甲子園の延長戦で点を取られたときの応援団のように、生徒の顔からは悲哀の情がにじみ出ている。
「へへ……」
四条は、小さく微笑んだ。校門の部分の地面はコンクリートだったので、飛び込んだ拍子に顔を打ち、口から血が出ていた。教師二人に上から押さえられ、四条はもう身動きが取れない。
「やってやったぜ、みんな……」
マッスルが気持ち悪そうな物を見る目を四条に向けている。逆に栗丘は四条と同じように達成感に浸っていた。普段サッカー部員をしごいている彼だが、なんとなくこういうノリが好きなのである。学生の運動が盛んだった頃を思い出すからかもしれなかった。
「タッチダウンだ!!」
死力を尽くして叫んだその声に教師二人は驚いて、四条の右手を見る。押さえつけられた体から抜け出すようにして、四条の鞄を右手がしっかりと地面につけている。校門より少しだけ先の、やはりコンクリートの地面に、確かに付いている。
「やった、四条選手、タッチダウンを決めました、逆転スリーランだー」
もう何の実況かすら定かではない染井の言葉に煽られて、生徒達は一気に息を吹き返した。何故か、
「ヤッター!」
なんて声が校舎中に響き渡り、抱き合っている女子生徒すらいた。このときだけは確かに、四条は生徒達にとってのメシアだった。
結局四条は、教師達に引っ張られながら校長室に連れて行かれた。それからすぐに六時限目開始の鐘が鳴り、生徒達は余韻に浸りながら教室に戻っていった。
◇
校長室の隣にある部屋の前につれてこられた。教師達は疲れきった面持ちで四条のことをここまで連行してきたのだが、その目には怒りの色だけではなく、哀れみの色も混ざっているのを四条は見逃さなかった。それが何故なのかはわかるはずもなかったが、もしや校長が早めに切り上げて帰ってきたのかもしれないと推測し顔を青くした。
「入りなさい」
隣にいた伊藤忠が肩に手を置いた。伊藤忠の顔がいつもどおりの仏頂面であることを確認すると、なんとなく安心した。
伊藤忠が入れといったその部屋のドアは他の教室の物とは違っていて、茶の色が濃い高級な木で作られていた。そしてプレートがドアの中央部分にはめ込まれていた。そこには『応接間』と書かれていた。
ドアノブを握る。金属性のそれは、ひんやりと冷たかった。捻ると音もなくそのドアは開いた。見えた応接間の壁は、真っ白な壁紙を張られていて、絵画が立てかけられていた。この部屋だけ、異世界を形成しているような気さえする。しかし入るより他にどうしようもないのだ。つばを飲み込むと、覚悟を決めて部屋に踏み込んだ。そして、
「お前が四条雅春か」
唐突に声をかけられた。腹に響くような重々しい声色である。加えて、疑問形なのか、ただ納得しただけなのかよくわからないイントネーション。四条は声の聞こえた方へ、反射的に視線を向けた。大理石を軸に円形のガラスが載せられているテーブルと、それを挟んで置かれているソファーがあった。テーブルには灰皿と何か書かれた紙とペン、そしてティーカップが置かれている。
ソファーの上には顔に黒い竜の刺青の入った、黒い外套の老人が座っていた。森厳とした空気を身に帯びながら、四条のことを審美している。
背は決して高くない。四条が刺青の男を老人と判断したのは、顔に刻まれている夥しい数の皺と、
「お前が、四条雅春か」
生きた年月がそのまま重なって生まれたかのような、声が要因だった。
目が合う。男の瞳は、濃い緑色をしていた。まるで、深く茂る森のようだ。風に合わせ、時にあわせ、その姿を揺らしながらも本質を変えはしない、森。呆けていると、男は軽く目を細め返事を催促する。四条はあわてて首肯した。
「そうか」
男はティーカップを手に取ると、残っていた紅茶を飲み干した。その時、手に手袋をしているのが見えた。とっさに、手に火傷でもしてるのかな、という無駄な想像力を働かしたが、その考えもすぐに頭から消えていった。
男は、ティーカップをテーブルに置くと、再び四条に向き
「単刀直入に言おうか、それとも軽い説明を入れたほうが良いか」
用件のことだろう。彼の威圧感にやや押されながらも、頭を必死に回転させる。
なんといっても、こんな男を前に話をするのは初めてのケースである。これまで話したことのある威圧感を持つ相手といったって、精々黒部の祖父ぐらいなものだった。それだって友達の祖父だったから、全く関わりのないわけでもなかったし、何より相手の正体がハッキリわかってたために気負いはなかった。
黒部の祖父は県知事である。四条と黒部が中学校に入学する前の年に当選してから、ずっとその席に座り続けている。そして、この出来事が二人の家の距離を大きく離れさせた要因となった。そんなことを四条は思い出していた。
しかしである。今はそんなこと考えていたって仕方がないのだ。とにかく、相手への返事を考えなければならない。
そう思い直すと、相手の質問がなんだったか忘れてしまい、必死に思い出そうと一人あせって頭をかいた。その間もずっと男の視線は四条に釘付けである。文字通り、四条は身動きが取れなくなってしまっていた。
「まあいい。人間とは判断の遅い生き物だ。それが決定的な失敗につながることを、短い生涯の中、いずれ実感するだろう」
男は軽く前かがみになって両手を重ねると、ゆっくりと話し始めた。相変わらず、重量のある声だ。しかしそれを聞いてさえいればいいという立場は、さっきまでの沈黙より数段楽なものに感じた。
「先日、お前が割った壷を覚えているだろう」
質問でもない、ただの言葉の中の一文。しかし、四条は息を呑んだ。用件のこと、と漠然と理解してはいたが、この男のことにばかり気を取られていて本題のことを忘れていたのだった。そうなのだ、自分が今ここにいるのは、まさに壷を割ったことに起因しているのである。
そこまで考えると、逆に肩から力が抜けた。どう転がったって、どうせ壷の話である。あらかた、この男は校長代理で四条に弁償金やらなんやらを要求するつもりなんだろう。なんだ、この男もスケールの小さな老人にかわりないじゃないか。
そう思う。本音だ、そう感じたのに嘘はない。しかし、男から威圧感は全く失われなかった。
「さて、聞いていると思うが、その壷は値段にして五百万だ。まずは聞いておかなければならないのだが、その金をお前は支払うあてがあるか?」
男の言葉に四条はかぶりをふった。
「だろうな。いや、そうでなければこちらとしても話を持ち出せずに困るところではあったのだが」
男は一瞬目を細めた。もしかして笑ったのか、と四条は思ったが、それも束の間男は話を続ける。
「では。用件に入らせてもらおう」
いよいよか。四条は強く一度目を閉じた。少しでもあの男の空気から逃れたいという気持ちからの行為だった。このまま、また応接間を飛び出して逃げたい。しかし、この男に背を向けたら、グサリと胸に何かを突き刺されるような気さえした。そんな男だ、どちらにしろ逃げ切れる気はしない。
四条は目を開く。そして三度男と目を合わせる。
「壷の件はこちらでなんとかしてやろう。その代わり、お前から買いたいものがある」
こちら、という言葉が何故かひっかかった。しかしそれ以上に四条の心を捉えた言葉があった。
――壷の件はなんとかしてやろう。
何度も瞬きをする。男から視線を一瞬はなして、窓の外を見る。高台にある学校である。一階のこの部屋からも、外の風景は見下ろすそれだ。遠く、一瞬捕らえた山腹に、ヒミツキチがうっすらと見えた気がした。
「なんですか、俺から買いたいものって」
男は今度こそ、にやりと笑った。すると、さっきまで感じさせていた物が少し薄らぐのを感じた。もしかしたらこちらが素なのかもしれない。心に設けようとする余裕で、そんなことを推測してみる。
咳払いを一つする。笑いを殺し、元通りの表情に直す。そして男は告げた。
「お前の夏休みだ」
◇
昼休みの騒然とした空気はどこへやら、食事を済ませた生徒たちは腹をさすりながらお昼寝の時間である。
机につっぷして、堂々と眠る輩もいれば、寝てないフリをしながらコクリコクリの輩もいる。教師である伊藤忠からしてみれば、大声で怒鳴り付けるのも役割の一つだろう。しかし、定年も間近に控えた老教師はそんな気力など、とうの昔に失っていた。
しかしである。この年になったからこそ、生徒たちに対する諦めが付いたというのも本当ではあるが、教師のほとんどがそうであるように、生徒たちの身を案じているのもまた確かなのだった。黒板の前を移動しながら、数式の説明をはじめる。もう何度目になるかもわからないその説明は、十年以上も前から一語一句変わらないものだ。世間ではゆとり教育がどうとか騒がれているし、実際この十年でも指導要綱はずいぶんと変化していったものだが、この範囲のこの部分は変わっていない。
少しでも生徒に声が届くよう、数式の書かれている黒板を数度叩いたりしながら、伊藤忠はその説明を続けようとした。
「よってここには……」
黒板に手を当てて、はて、何の公式が当てはまるんだったか、と伊藤忠は閉口してしまった。詩を暗誦するかのように、体が覚えていた筈の言葉がどうしても思い出せないのだ。
伊藤忠はそれぐらい、四条雅春のことを心配していた。問題児とは時として、その身に余る愛を受けるものなのである。
◇
老人の言葉は、思いがけないものだった。だから四条は口をぽかんと開けていた。しかし何の予想も立てていなかったのだから、思いがけないものであるのは必然であるともいえた。すかさず、四条は男に
「どういう意味ですか」
「どうもこうもないだろう。我々はお前に対し壷の代償を支払ってやろうというのだ。ならば、それに見合う対価を求めるのは当然のことだろう」
「そうじゃなくて……」
夏休みを買う、とはどういうことなのか。四条の聞きたいのはそれだった。一ヶ月半もの時間を男に買われる、それが意味することを四条には想像できなかった。男は四条の意図を感じ取り、ああ、なるほどという顔をした。そして失笑しながら
「まさか目が覚めたら夏休みが終わっていた、なんてことになるとでも思っているのか。時間とは非可逆的なものにして、絶対的な指針でもある。それをお前から抜き取るのは、物質世界のルールに反するものだ。私はもっとこの世界に合った話をしているつもりだったのだが、どうやらお前は幻想思考の持ち主らしい」
訳も分からない言葉を並べられた上、なんとなく馬鹿にされた気がした。でも、四条に何が出来たかといえば、ただ黙って老人の言葉の続きを待つことだけだった。壷という言葉をキーワードに、四条は老人の機嫌を損ねないようにしよう、なんて思っていた。
「夏休みを買うというのは、文字通り。夏休みの間、お前には私の元で労働してもらいたいということだ」
さっきまでに比べ随分わかりやすい説明だった。話の内容を理解して、安堵の息をついた。それも束の間、四条は自分の夏休みが労働に費やされることに対し、不満を感じた。なんといっても、高一の夏なのだ。漠然とではあっても、一生物の思い出だらけになると四条は確信していた。そこらの漫画を読むと、夏はイベントだらけだ。部活の合宿でマネージャーとなんとかとか、クラスの女子と肝試ししてどーとか、友達の従兄弟が経営する旅館に友達数人で泊まりに行って友達のせいで女湯入る羽目になったりとか。
そんなことを考えていた四条だったが、現実離れしすぎた妄想の反動で、一気に現実に引き戻された。
五百万のバイトである。あきらかに危険な匂いがぷんぷんとする。こちらにとってはおいしい話なのだが、いち高校生を一夏雇うだけで五百万は余りに高い。四条は訝しがり、契約書に目を落とした。字が細かくてめんどくさい。すぐに視線を上げ老人のことを見る。
「なんで、俺に五百万も払ってくれるんですか」
「お前でなくては、出来ないことがあるのでな」
「俺しか出来ないこと……? なんですかそれ」
老人は少し目を細めた。眉間に少ししわが寄ったのを見て、四条は少し怯えた。
老人はティーカップを右手に取ろうとしたが、もう残っていないのを思い出し、その動作を途中でやめた。行き場をなくした右手がどうなるのか四条は気になったが、ただ男は元のように手を組んだだけだった。
「この場では言えない。誰にも内容を知られたくないのだ。鍵穴に耳をつけ、会話を盗み聞きしようとしている輩もいるようだし、他のどこに耳があるかわからん。少々理不尽な物言いに感じるかもしれないが、提示された条件と比べ合わせるといい」
うまい話には裏がある、そう暗に老人は言っているのだった。どうしようもなかった。イニチアティブを握っているのはもちろん相手だし、それを奪還するだけのカードがこちらにはない。ある筈もない。仮に持っていたとしても、今のように切迫している状況では思い出すことも出来ないだろう。
とにかくである。本来ならば何年も働かなければならないところを、一ヶ月やそこらで五百万を手に入れられると思えば安い代償だ。それは間違いないのだが、やはり学生にとってそれ自体がビッグイベントとすら言える夏休みを手放すというのはどうなのだろうか、と顔を顰めたりもする。必死に打開策を考えようとするが、頭は上手く働かず、引き受けないという選択肢は見つけられそうもなかった。大事な局面で、初めての状況にびびっている自分が恨めしかった。腹をくくれ、どちらにしろ選択肢は一つしかないのだから、考えても仕方ない。そう自分に言い聞かせると、四条は決断した。
老人に頭を下げた。その行為だけで老人は四条の意図を読み取り、テーブルの上の紙とペンを四条の方向に向けた。契約書だった。
「犯罪的なことは何もないですよね?」
「もちろんだ」
名前を紙に書いた。ペン先が細く、少し滑りが悪かったので汚い字になってしまったが、そんなことは気にしていられない。後は隣に印を押すだけ。だが、朱に染まった親指は、紙の上で静止した。そして四条は目線を紙から上げると、冷やかな男と目を合わせる。
屋上での出来事が遠い過去のように感じた。投げたトランプが壷を割ったなんて、あの頃は知る由もなかった。だから夏休みはまるで、光を浴びたステンドガラスのようで……。それを今、自分から壊さなければならないなんて、まさに悪夢を見ている心地。それでも、たった一つの灯が四条の心をとらえて離さない。
「一つだけ、お願いがあるのですが」
印を押そうとする四条の指をじっと見つめていた老人は。
「聞こう。内容如何では、叶えることも不可能ではない」
一つ大きく深呼吸をする。そして、四条は絶対に守らなければならない物のために、勇気を振り絞って言った。
「7月31日だけは、休ませてもらえませんか?」
―――煌く海、輝く砂浜、夏といったらやっぱり海水浴! Dカップの美女が貴方をお待ちしています!
なぜか誰もいない、地中海ばりに美しい砂浜を美女が駆けていき、こちらに勢いよく振り返り、澄んだ声をあげる。その四条が勝手に作りだしたCMが、頭を巡った。そんなことを知る由もない男は肩すかしをくらったようだったが、軽く首肯してくれた。
「……いいだろう」
Dカップと海の約束が、心の拠り所となった。
◇
「明日の朝6時に正門に迎えに来る。家に迎えに行きたいのも山々なのだが、親御さんと出くわすことを考えると面倒だからな。それから終業式は明後日らしいが、その話はつけておく。こちらとしても一刻がおしいのでな」
男が四条を残し応接間を離れてからしばらくの間、四条はソファーにどっかりと腰をかけ、壁にかけられた絵画を眺めていた。地味な黒い縁で、大きさは縦1m、横1.5mといったところだろうか。芸術のことなど全くわからないが、どこかの名のある画家によって描かれたものかもしれない、そう四条は漠然と感じていた。
絵の具が何重にも塗り重ねられている。青をバックに、流れるような白はきっと風を表しているのだろう。白い衣をまとった少女、これは女神なのだろうか。それにしては幼すぎるようにも思える。ならば天使だろうか。しかし少女に羽はない。考えてみれば、羽もないのに空を飛んでいるというのはおかしな話だった。
しかし、である。四条はじっと少女を見つめる。彼女の有り方には、何の違和感も覚えない。風に抱かれている純白の少女は、おそらく、ちと交わることで始めて、不浄な存在となるに違いなかった。だからだろうか、間違いのない姿に、いいようもない悲しみを覚えてしまうのは。四条はそっと席を立ち、絵画に立ち寄った。そしてそっと絵に手をかけると、なでるように下ろした。微笑みかけてくれる少女から一寸の穢れも見受けられないことだけが、四条にとっては救いに思えた。
「なんてな、少し詩人の気分」
そう独りごちると、四条は少女に背を向け、応接間を出た。
六時限目はまだ終わっていなかった。しかし取り出した携帯電話は3時過ぎを示しており、もうそろそろ廊下は意気揚々と下校を始める生徒で溢れかえる頃合となる。もちろん、四条のクラスメイトの内数名、いや十数名、あるいはもっとかもしれない、は応接間に殺到することだろう。そんな奴らに捕まることを想像すると、げんなりしてしまう。かといって教室に置いてある鞄を夏休み中置いておくのは、中の弁当のことを考えるとあっちゃいけないことである。質問攻めも勘弁だが、それ以上に不名誉なあだ名を手にするのもいただけない。
よって、四条はまた、屋上で適当に時間を潰す事にした。少しトラウマになりかけていることもあるのだが、敢えて言うなら屋上よりもトランプが悪かったようにも思えるし、というか原因は全部染井が背負っているに違いないのである。だから屋上に行くこと自体に問題などないし、何よりあそこからの風景を眺めたいという衝動に四条は駆られていたのだ。
早めに終わるクラスもある。だから四条は急いで屋上に向かった。屋上の戸は、面倒臭がりの見回りの教師のせいだろうか、鍵をかけ忘れたままだった。四条が開けた後、伊藤忠に捕まって締め切れなかった戸である。ドアの窓越しに強い光を感じた。ドアノブに手をかけると、何時も通りきしんだ音を立て、戸はゆっくりと開いた。
途端、なにも遮る物のなくなった太陽が四条を迎えてくれた。植物ではないが、四条もそれなりに太陽の光に栄養を与えてもらっているように思えた。それは身体上のものではなく、精神上の光合成なのだ。いや、実際は太陽だけがそうしてくれるのではないだろう。四条は走って、屋上の端の柵に攀じ登り、その上に座った。
たたずむ山、流れる川、広がる空、描かれる雲、そして、降り立つ風。覚、聴覚で捕らえられるものだけじゃない、この世界の全て。どんなに敵が増えたとしても、どんなに嫌なことが合ったとしても、風野は全て受け入れ、いつでも味方でいてくれる。幼い頃から、ずっと見守っていてくれていたのだろう。今更ながら、四条は確信にも近い心持で、風野を眺めた。
少し田舎なこの街も、今の精神状態では全て完璧なものに、美しいものに彩られているように感じた。
◇
しばらく眺めていて、ふと思い出して携帯電話を見ると、もう五時に近かった。思えば校庭から部活連中のけたたましい声も聞こえてくる。突然、懐かしい感情に囚われたが、それに突き放すと、教室に鞄を取りに戻ってさっさと家に帰ろうと思い、柵を降りた。四条はまさかまだ教室に誰かいるとは思わなかったが、仮に部活している奴が忘れ物でも取りに来て教室で出会ってしまったら、さてどーしたものかと考えた。というのも、さっきに比べれば随分穏やかな気持ちになっていた四条は、質問の一つや二つ、ボケを交えて話してやってもいいと思い始めていたのである。
誰か教室にいる、運の良い、明日きっと教室で自分の代わりに質問攻めにあい得意顔になれるクラスメイトはどなただろうね、そんな具合に四条は階段を降り、どこかにやけながら教室までの廊下を歩いた。
果たして、教室に人はいた。窓際の席、四条の前の席だ。ああ、あれは……。四条のニヤケ顔が少し引き締まった。
黒部美咲だった。頬杖を突きながら、外を眺めている。文武両道のため、剣道部に所属している彼女だからあるいは、忘れ物をした運の良い部活連中である可能性も僅かながらあっただが傾きかけた陽を浴びて、おぼろげな印象を受ける制服姿にその可能性は簡単に打ち砕かれた。四条は始め、これが自惚れなのかもしれないと思った。しかし、足音に気づき、ふと顔をこちらに向けた黒部から、喜びとも焦りとも取れない表情を読み取ってしまった四条は、彼女が自分を待っていたと感じたのだ。
突如、記憶がフラッシュバックする。幼き日々の欠片。風に揺れる木の枝、幾枚かゆらりと舞い落ちる木の葉、その下を二人は笑いながら走り抜けていく。生まれた頃から、常に隣りあわせだった存在。それはただ簡単に、幼馴染と呼称できるものではない。自らが走る背中に、黒部が追ってくる安心感。幼稚園で、小学校で、何かしでかして思いっきり叱られた後、気づいたら近くに黒部がいてくれた。とこのつまり、それが二人の原風景とも言えるのだろう。
ああ、そうなのだ。きっと、黒部も風野の一部なのだ。ずっと見守っていてくれた、この世界の、四条の味方。いくつか考えていた『四条君がやらかしてしまった、お茶目ないたずら』の笑い話レパートリー、その全てを話してやろうと、四条は得意げに切り出しながら教室に踏み込んでいった。
「いやなに、俺のことを月給五百万で雇いたいって話があってさ、そこはやっぱり有望な俺だよな、さすがの伊藤忠もたじたじだぜ……」
◇
出発の朝。普段の生活ペースの乱れに加え、高度の緊張に見舞われた四条はまさに一睡も出来なかった。ほとんど開いていない目の下には隈が出来ている。ずっと窓から覗いていた星空は、今や雲ひとつない青空に変わっていた。時刻は5時。門先に立っている四条は一度家を見上げた。しばらく帰ってくることは出来ないだろう。いや、出来ないのだろうか。四条は泊り込みのつもりでスーツケース一杯に娯楽器具やら娯楽器具やら、着回し出来る服をつめこんできたのだが、今思えば老人もずぼらなものだ、泊り込みか否かはまったく聞かされていない。しかし四条は直感的にこの家にはしばらく帰ってくることができないと感じたのだ。
門をそっと閉めると、四条は学校までの道をゆっくりと歩き始める。実際学校までかかる時間は45分程、走ればもっと短い、だから5時に出なくても良いのだ。しかし四条は朝親と鉢合わせてくはなかったため、親の寝ている間に家を出られるように余裕を持ったのだった。つまるところ、四条はしばらく家を空ける言い訳が思いつかなかったのである。今リビングのテーブルの上には小さなメモ書きが置かれている。そこには『サッカー部の合宿が夏休み前から夏休み終了までと延長になりました。変な詮索はしないでください。あくまで合宿だからいないんです。雅春』と書かれている。
放任主義な親のことだ、きっと詮索せず信じてくれることだろう。四条は寝ぼけ眼にそんなことを祈りながら、とぼとぼと歩いていった。
夏とはいえ、朝の空気はそれなりにひんひりとしていた。校門についたとき、もう6時は目前だった。老人はまだ来ていなかった。五分前行動、五分前行動とつぶやきながら、引っ張ってきたスーツケースの上に座った。校門はまだ閉まっていて、このまま待ってたら開けにきた宿直に見つかってしまうかもしれない。四条はそわそわしながら老人を待った。
6時になり、しかし老人は来ず、ばったり宿直と居合わせて怪訝そうに見つめられ、あさっての方向を向きながら口笛を吹いた。四条はだんだんと不安になってきた。老人は朝早起きと聞くし、なんとなく威厳のありそうな人は遅刻なんかしないもんだと思ってたし、なによりぽっくりいくようなタイプには見えなかったためだ。遠くで救急車の音でも聞こえないかと耳を澄ましたが、無論聞こえたのは鳥のさえずりに川のせせらぎだけだった。
とにかく登校してくる生徒とは絶対に鉢合わせしたくなかったため、四条はキョロキョロとあたりを見回し続けた。すると、学校に向かって一台の黒光している車が走ってきた。高級そうな音を立てながら四条の前まで来ると静止した。そして後部座席の戸が開かれ、同時に
「早く乗れ。荷物はトランクに乗せろ」
という聞き覚えのある声に催促され四条は開いているトランクにスーツケースを入れると、勢いよく閉めて車に乗り込んだ。
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2006/11/19(Sun)13:25:55 公開 / 走る耳
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■作者からのメッセージ
どうも、走る耳です。
老人との会話を加筆修正しました。なんとも書ききれるか不安なのですが、これ、僕の構想では起承転結でいう『起』に当たる部分なんですよね。もうここまでにこんだけ時間をかけてしまった地点で、どーすればいいのかわからなくなってきました。
なんといいますか。展開するのが怖いから、逃げてるかのようです。
この作品にお付き合いいただいてる方には深く感謝しています。更新期間が随分あいた上に、更新分は少なくて申し訳ありません。次回以降は、せめて20枚以上書いて投稿したいと思います。
11/18 11時 誤字修正
11/19 1時 誤字修正、それから幾らか更新。BカップとかJカップとか……。あくまでB組の森内さんがDカップ、ならどっからJが出てきたんだって話ですね。不明。
感想・批評、なんでもお待ちしています。
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CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。