『雨とコーヒー』 ... ジャンル:ショート*2 リアル・現代
作者:セツ                

     あらすじ・作品紹介
おかしな喫茶店『雨やどりカフェ』での小さな物語。

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 本当の名前が何なのか、知らない。もし知っていたとしても、長いこと本当の名前で呼んだことがないから忘れてしまっている。
 その店は『雨やどりカフェ』と呼ばれていた。営業日は雨の日、休業日は雨の降らない日という何ともおかしな喫茶店で、狸のような、素晴らしい太鼓腹の中年男が主人だった。そういえば、主人の名前も覚えていない。
 『憂鬱な雨の日に、ささやかでも幸せな時を過ごして欲しい』がモットーのカフェの店内には、いつもラブ・ミー・テンダーが小さく流れていた。小学校でオーラリーだと習ったこの曲が、本当の曲名はそれなのだと知ったのは、この店でだった。当時、新米フリーライターだった私は、仕事に行き詰ると必ずこのカフェに足を運んだものである。そういう日は、たいてい雨が降っていた。

 雨の日、トーストをホットミルクで流し込み、ベンジャミンにいつもの半分だけ水をやると『雨やどりカフェ』へ向かう。大きな麻のトートバッグには、溜めに溜めた仕事が詰まっている。大降りの雨だと、傘を差しても服が塗れ、大中小様々の雨染みがよく出来てしまう。だから雨は嫌いだ。それでも、『雨やどりカフェ』に行く雨の日はわくわくする。雫がはねるように心が躍り、雨の日特有の湿った埃っぽいにおいも気にならなかった。
 その日は割りと空いていて、空いた席が目立っていた。私はカウンターの隅に陣取り、原稿用紙の束や資料等を積み重ねた。いつもの様に、ホットサンドどカフェオレを頼もうと店主を呼ぶと、ふとメニューが目に留まった。どうやら新メニューが出たらしい。メニューの紙の隅っこに小さくではあるが、色をつけて目立つようにメニューが付け加えられている。読んでみると、こう書いてあった。
『コーヒー(商品名未定)』
 商品名未定のコーヒーとは、なんとも奇妙である。一体どんなコーヒーなのだろう。
「新メニューを見てるんですかい?」
 しげしげとメニューに見入る私に、店主が声をかけた。
「え、はぁ。まあ」
「遠くから仕入れた新しい豆のコーヒーをメニューに加えたのですが、もうコーヒーはメニューにありますからね。名前を募集しているんですよー」
 店主の豪快に笑うリズムで、お腹がゆさゆさと揺れている。私は、カフェオレをやめて『コーヒー(商品名未定)』を頼むことにした。コーヒーはあまり得意ではなかったが、不思議な名前のそれにとても興味をそそられたのだ。
 運ばれてくるまでの間、ひたすら資料を睨みながら原稿用紙にペンを走らした。この店の和やかな雰囲気は、どうやら仕事の効率を促進させてくれる作用があるらしい。いつも、担当者にがみがみ叱られている私とは思えない程の進みっぷりで、出来るならこの店にオフィスを置きたいくらいだ。
 ふと、カウンターの奥を見る。アンティークなコーヒーメーカーが、こげ茶色の雫を上から下へと落としていっていた。一粒、一粒。ぽつり、ぽつり。苦味の利いた芳しい香りを広げていきながら。隣のコンロでは、ケトルが中身のミネラルウォーターを沸騰させている。しゃん、しゃんと薄い水蒸気が優しく立ち上り、空気中に静かに消えていっている。コーヒーを淹れるだなんて、どの家でもやっていそうなことなのだけど、なんとなくこのコーヒーは特別なのだと思った。立ち上る、しっとりした湯気も、コーヒーメーカーから滴り落ちるコーヒーの雫も、まるで今日みたいな雨の日のようだと思った。
「はい、おまちどうさま」
 コーヒーが運ばれてくると、私は店主を仰ぎ見て言った。
「コーヒーの名前」
「え」
「このコーヒーの名前、『雨やどりコーヒー』っていうのはどうですか?」
 雨やどりコーヒーねぇ……。と店主は少し考えるように上を向くと、日が差したような笑顔を私に向けた。
「うん、いいねぇ。その名前。それにします」
 店主は奥からマジックペンを持ってくると、ふっくりした手でメニューを取り上げた。角ばった字で新しい名前を書いていく。
「うん、いい感じですね」
 彼はそう言うと、ほかのお客のところへ去っていった。その『雨やどりコーヒー』は、少し酸味があって美味しかった。後から出たホットサンドをかぶりつつ、原稿用紙を埋めていくと、ふとあるフレーズが浮かんだ。ペンを握りなおすと、落書きのように、メニューの『雨やどりコーヒー』の横に書き加えた。
『憂鬱な雨の日に、ささやかでも幸せな時を過ごさせてくれる飲み物』
 うん、いい感じ。一人でくすくす笑った。外は、相変わらず大降りの雨だった。

 五年ほど経っているが、あの日から『雨やどりカフェ』には行っていない。仕事の都合で、他県へ移住することになったのだ。それでも、仕事が溜まってくると雨の日に一括して取り組むという習慣は、今でも変わらない。コーヒーもあれからよく飲むようになった。
 もう『雨やどりカフェ』は無いのかもしれない。あの場所には、高層ビルが建ってしまっているかもしれない。そうだとしても、雨の日になると心のどこかが騒ぐ。また、あのコーヒーを飲みたいと思う。
 雨の中に、あのコーヒーの匂いが、かすかに香ったような気がした。

2006/05/28(Sun)21:39:07 公開 / セツ
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