『たかちゃんざくら』 ... ジャンル:ファンタジー お笑い
作者:バニラダヌキ                

     あらすじ・作品紹介
たかちゃんシリーズ第7作――春のほのぼの短編です。今回は精神年齢10歳以上の方なら、保護者同伴なしで読んでも平気です(たぶん)。

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    【いち】 さんかんしおん


 三寒四温――よいこのみなさんは、そんなことばを、ごぞんじですか?
 寒い冬が終わり、いよいよぽかぽかの春風さんが、多摩丘陵の木々の枝に、せっせとちっちゃな芽吹きを宿らせはじめても、まだしばらくのあいだは、ちょっとこんじょーはいった負けずぎらいの北風さんが、ときどき北の方からゴロをまきに戻ってきたりします。
 もしせんせいが春風さんだったら、そんないじわるな北風さんなどは、優しくシメたのち火葬場のケムリにしてさしあげるところですが、生まれたばかりの春風さんはちょっぴり気が小さいので、こそこそとお山のかげにかくれてしまったりします。
 でもまあ世の中、ぽかぽかの風もひえひえの風も、それなりにあっちこっちでいさかいを起こしながら、それでもやっぱり、ほっとけばなんとか春になってしまう、そんなものなのですね。

    ★          ★

 その朝、まだ暗いうちから、たかちゃんはおふとんの中で、なぜだか目を覚ましてしまいました。
「……さむい」
 別に寒すぎて目を覚ましたのではなかったような気もするのですが、ねぼけているのでなんだかよく思い出せず、たかちゃんはもそもそとおふとんからはいだして、電気毛布のスイッチを入れます。
 それからねんのため、りょうわきに寝ているママとパパが夜中におばけにたべられていなくなってしまったり、しんぞーまひで息を引き取ったりしていないのをじっくりと確認したのち、またごそごそとおふとんにもぐりこみます。
 そうしてとろとろとまどろみながら、渓谷ぞいの桜さんたちは、きのう学校帰りに遠くからみたときとおんなしみたく、きょうも元気に花びらでふかふかしてくれているだろうか、そんなことを想っているうちに、夜明け前の深い眠りが、たかちゃんを優しくつつみこみます。
「くーくー」
 そうして、お窓のくりいむ色のカーテンが朝の光にぼんやり浮かぶころ、
「……あつい」
 またごそごそとはいだすと、パパのおふとんはぶよんとまあるく盛り上がったままですが、ママのおふとんはもうぺっしゃんこで、おだいどこのほうから、かちゃかちゃとおなべやおたまの音が、鈴の音《ね》のようにきこえてきます。
 ちゅんちゅんちゅん。
 お外では、もう早起きの雀さんたちが、みんなで遊んでいるようです。
「ほわあああああ」
 たかちゃんは、ねぼすけお目々をこしこしとこすりながら、
「……むにゃむにゃ」
 とりあえずパパをこーげきしようか、ママのおてつだいをしようか、しばらく迷います。
 でもそのうち、あるじゅーだいなじじつを、思い出します。
「……おはなみ!」
 たかちゃんは、ちょっと汗ばんだらすかるのぱじゃまのまま、ととととととおだいどこにかけだします。
「♪ おっべんと、おっべんと、うっれしいな〜 ♪」

 ――はい、こんなのが、さんかんしおんの、おわりごろなのですね。

    ★          ★

「いってきまーす!」
 ママといっしょに朝ご飯を食べたあと、たかちゃんはそそくさと朝の光の中に駆けだします。
 冬にまた大破してしまったお家は、ママお得意の巧みな保険の水増し請求によっても、さすがにまだ再建中です。隣町に臨時で借りたアパートの安っちい階段を、かんこんかんこんと駆けおります。
 おべんと、もった。
 すいとう、さげた。
 きょうは日曜なので、それ以外のしちめんどーくさいかくにんは、しょーりゃく可です。
「あ」
 たいせつなにんむを忘れていたのに気づき、たかちゃんはあわててお部屋に駆けもどります。
「とうっ!」
「ぐえ」
 ダイビングボディプレスでパパを起こしてあげるのを、忘れていたのですね。
 いつもはママもたかちゃんもまだ寝ているうちに、ひとりさびしくおでかけしないと会社に間に合わないパパなので、おやすみの日くらいは親こーこーしてあげないと、かわいそうです。
「おきた?」
「…………おっは」
 パパにしてみれば、たまの休日くらいは半日寝てすごしたいところなのですが、この娘に何を言っても無駄と悟りきっているので、
「……おまえって、日曜ばっかし、早起きなのなー」
 はんぶん起きあがって、なでなでしてくれます。
「えへへー」
 たかちゃんとしては、こーしてパパを覚醒状態でママといっしょに放し飼いにしておけば、そのうちかわいいいもうとやいじりがいのあるおとうとが出現するのではないか、そんな誤った期待をいだいております。
 ほんとはママのほうを並べて横にしといたほうが、効果的なんですけどね。




    【にい】 はるのおにわへ


 駅近くのアパートから、南の河原に駆け下りる途中、東西に交わる旧青梅街道ぞいに、くにこちゃんのおうちがあります。
 ひとむかし前まで廃屋扱いだった、崩壊寸前の木造家屋兼作業場兼店舗ですが、昨今の昭和レトロ・ブームにのって、駅周辺全体が市政をあげて『昭和の町』を旗印に町興しを図ったので、その貧しい下駄屋さんも、逆にいっぱしの街の顔と化しております。
 あっちこっちに古い映画の絵看板を飾り付けた商店街を、たかちゃんはとととととと東へ駆けていきます。
 くにこちゃんのおうちのお屋根には、昭和三十六年の邦画『名もなく貧しく美しく』の絵看板が飾られており、若き日の高峰秀子さんと小林桂樹さんの演じる貧しい夫婦がけなげによりそうその姿は、あたかもその下で暮らす長岡履物店一家の経済状態を、りあるに表しているかのようです。
「どぱよー!」
「おう、どんぱぱぱ」
 店先で赤ちゃんをおんぶしていたくにこちゃんが、あいかわらずいみふめいのごあいさつを返します。半纏姿で子守をしているその姿もまた、すっかりタイムスリップ・グリコのおまけフィギュアです。
 たかちゃんは、くにこちゃんの背中でごきげんに笑っている赤ちゃんを、ほっぺつんつんします。
「あぶう」
「……いいなー、いもうと」
「おう。こいつは、じょーとーなあかんぼだ。うまれたときから、一かんめも、あった。いまは、もう二かんめになった。このぶんだと、あっとゆーまに、ごじらみたくでっかくなるぞ。しょーぶが、たのしみだ」
「あぷう」
 くにこちゃんのきたいにだけはこたえてほしくない――たかちゃんは仮面の笑顔をうかべながら、赤ちゃんのぽよぽよおつむを、ものほしげになでなでします。
「たかちゃんも、ほしーなー、いもうと」
「おとうとなら、いっぴき、わけてやる。いもうとは、いっぴきしかいないから、やらない」
 お店の奥にいたちっこい双子の弟たちは、そんな会話を聞きつけ、あっちのねーちゃんのほうがなんぼかボクを幸せにしてくれるかもしれないと、すがるようなまなざしでたかちゃんをみつめます。
 でも、たかちゃんは、あくまでもいじりがいのある男の子でないと、おとうとにしたくありません。姉の強権下で萎縮してしまう程度の男たちでは、あんましおとうととしての将来性が感じられません。
「……ぱす」
 がっくしと肩を落とす、名もない弟たちでした。

    ★          ★

 さて、弟たちに店番を命じ、いもうとを奥の作業場にいる両親にあずけたくにこちゃんは、たかちゃんと並んで、ゆうこちゃんちをめざします。
 昭和レトロの街道筋を、ちょっと西に戻ったあたりで南に折れ、多摩川に続く坂道を下ります。
 そうして見えてくる長い長い煉瓦塀の中が、まるまるゆうこちゃんのおうちです。たかちゃんの仮の宿があるあたりに例えれば、駅前商圏まるごとひとつのおうちのお庭、そんな広さです。あんまし知っている人は少ないのですが、多摩川のいちぶは、ゆうこちゃんちのお庭を流れていたりもします。
「やっほー。あたし、たかちゃん」
 とんでもねーりっぱな門柱にくっついた、特注の典雅なインター・ホン――青銅らいおんさんノッカー風のお口にごあいさつしますと、
『おはよう、たかちゃん』
 女中頭・恵子さんのやさしいお声が、聞こえてきます。
 くにこちゃんも、負けじとたかちゃんのほっぺたにほっぺたをくっつけて、らいおんさんのお口にごあいさつします。
「おれも、いるのだ」
『はい、くにこちゃんも、どんぱぱぱ』
「おう、どどぱんど」
 なんかいろいろ回線の切り替わる音のあとで、
『……あの、あの、どんぱ。あの、ゆーこ、いま、いくの。おにわで、まっててね』
「おう。べんとー、わすれんなよ」
 しっかり食料チェックをしてあげる、くにこちゃんです。
「おかずも、わすれんなよ」
 ちなみにくにこちゃんのりゅっくには、しおむすびしか、はいっておりません。
 ぎー、と自動で開いた鉄柵のご門をくぐり、木漏れ日のポプラ並木をぶらぶら五分ほど行ったあたりで、大きなバスケットをかかえたゆうこちゃんが、とことことむこうから歩いてきます。とゆーことは、おうちのげんかんからご門まで、こどものあしだと約十分もかかるような前庭なのですね。それでも多摩川を含めた裏庭にくらべれば、まだほんのいちぶです。
「どぱよー!」
「ど、どぱ?」
 たかちゃんのくりだすどどんぱ語のバリエーションを、ゆうこちゃんはまだ学習しきっておりません。
「おらよ。もってやる」
 くにこちゃんはにこにこと、ゆうこちゃんのバスケットに手をさしだします。
 足弱のゆうこちゃんを気遣ったのは理由のはんぶんぐらいで、もうはんぶんは、バスケット内に収まっているはずのんまいおかず群を気遣ったのですが、ひとをうたがうことをしらないゆうこちゃんは、うれしそうにバスケットをあずけます。
「んじゃ、おはなみ、かいしー!」
 たかちゃんは、かってしったるたにんの庭、はるかあっち方向、川沿いの土手の桜並木にむかって、元気にしんぐんを開始します。
「♪ さ〜く〜ら〜 さ〜く〜ら〜 いざまいあがれ〜 ♪」

    ★          ★

 裏庭の広大な庭園を、あっちでもつれあったりこっちでじゃれあったり、たかちゃんたちはいつものように、亀さんのように迅速に進みます。ちなみにいちぶの亀さんは、ゆーぱっくさんのように実は速かったりしますが、それはあくまでも砂浜の下り斜面や海中を移動する小型海亀さんだからであって、たいはんの亀さんは、たいはんのゆーびんやさんと同じ速度です。
 そうして、もうちょっとで河原の土手が見えそうな林を抜けながら、
「ねーねー、ぽち、げんき?」
 たかちゃんは、ゆうこちゃんにたずねます。
「うん。とってもげんきに、なったって。お庭のおじいさん、ゆってたよ」
 くにこちゃんはそれを聞いて、なんだかほっとしたお顔になります。
「んむ。あいつはのらだから、きたえかたが、ちがうのだ」
 なかよしの、野良犬さんの話でしょうか。
 はい、そこでちょっと首をひねっていらっしゃる、ごくしょうすうのよい子のみなさん、みなさんには、『とってもよくできました』のスタンプを、おでこに押してさしあげましょうね。はい、ぽんぽんぽん、と。
 そうです。昔からたかちゃんたちを知っているよい子のみなさん、なかでもまともな記憶りょくをお持ちの方ならば、こんな疑問を抱くはずなのですね。――たかちゃんやゆうこちゃんはいざ知らず、くにこちゃんは野良犬をみつけると、なかよくなるまえに、とりあえずシメてしまうたいぷのお子さんだったのでは。
 そのとおり、なのですね。
 やがて林が開け、満開の桜さんがたちならぶ、土手道が見えてきました。
「あ、いたいた。ぽち!」
 たかちゃんは、とととととと駆けだします。
 くにこちゃんもゆうこちゃんも、とととととと後を追います。
 桜並木のはしっこで、まだちょっぴり小さい桜さんが、ほかの桜さんとはちょっとちがったかんじの野性的な枝ぶりを、青空にふかふかさせています。
「やっほー」
 たかちゃんは、その花の下に駆けていき、しゅぱ、と、ちっちゃいてのひらをさしだします。
「ぽち、お手!」
 くにこちゃんもゆうこちゃんも、ならんでお手々をさしだします。
 ざわざわ、ざわざわ。
 春の風に揺れながら、桜さんは、ちょっと困ってしまったみたいです。あるいは、なーんにも考えていないのかもしれません。
「ぶー」
 ひさしぶりのぽちなのに、ちっともはんのうがないので、たかちゃんは、おもいっきしほっぺをふくらませます。
「……ぽち、げんきじゃ、ない」
 くにこちゃんは、ぽちのあしもとに、かるーくケリを入れてみます。
「ねっこは、しっかりしてるぞ」
 ゆうこちゃんは、こんだけきれいなお花さんでふかふかしてるのだから、じゅーぶん元気なのではないかとはんだんします。でも『お手』をしてくれないのは、冬のあいだあんまし遊んであげなかったので、ごきげんななめなのかなあ、と、ちょっぴり心配になります。
 そんな三人のうしろから、くすくすと、嗄《しわが》れた笑い声が聞こえます。
「心配しなさんな」
 庭師のお爺さんが、いつもみたいに白髪のお顔で、優しく頬笑んでいます。
「こいつは、もうすっかり、元気じゃよ」
「でも、お手、しないよ?」
 たかちゃんは、こうぎします。
「ちんちんは、できないの。でも、お手は、できたの」
 長く三浦家専属の庭師、主に桜守として生きてきた老人は、それが子供達独特の夢と現実の混淆なのか、それともこの山桜がかつて本当にこの子供たちと山で遊んでいたのか、明確な判断を下す必要などありはしないのだ、そんな達観したお顔で、なお優しく目を細めます。
「お手のできない桜のほうが、ほんとうの、幸せな桜なんじゃよ」
 なんだかよくわからないけれど、このおじいちゃんのことばには、『あい』がある――すなおにこくこくとうなずく、たかちゃんたちでした。




    【さん】 ぽちとのであい


 それは、きょねんの秋のことでした。
 がっこうの遠足で、たかちゃんたちは、多摩川をちょっとさかのぼったあたりの、お山にでかけました。
 中腹の展望台きんぺんに、きゃいきゃいわあわあとシートをひろげ、青空と白い雲の下、赤や黄色に色づいた樹々に囲まれ、遠く青梅の町を見下ろしながらおべんとうをつっつきあったり、くにこちゃんにたいはん食べ尽くされたり、でもあらかじめそれを見越してママや恵子さんにいっぱい詰めてもらったのであんましイタくなかったり、なんかいろいろ、たのしく午後が過ぎていきます。
 たかちゃんやゆうこちゃんの水とうもあらかたのみほし、くにこちゃんは、ぷはあ、と、夏の会社帰りにビヤ・ホールへ繰り出した末端ろうどうしゃのような、ごーかいな息を継ぎます。
「いやー、のんだ、くった」
 いつものこととはいえ、やっぱしちょっと不義理も感じているのか、
「おれいに、あなばを、おしえてやろう」
 なんかアヤしげな路地に同僚を誘う不良社員のように、たかちゃんたちに目配せします。ふだんから強い対戦相手を求めて多摩丘陵をさまよったりしているので、きっと、だあれも知らないきれいな場所なども、はあくしているのですね。
 でも、かしこいたかちゃんは、先生から『遠くに行ってはいけませんよ』と何度もちゅういされているので、すなおにはしたがいません。
 ようじんぶかく先生の視界の外にいるのをかくにんしてから、
「こそこそ」
 こっそり、くにこちゃんにしたがいます。
 おしとやかなゆうこちゃんは、夏頃まではそんな無軌道なゆーわくにいささかの躊躇も覚えていたのですが、もはや朱に交わってズブドロの誤った連帯感にハマってしまっており、
「こそこそ」
 やっぱし、ふたりのあとに続きます。
 たとえ下賎な世間に迷いこみ、何かいわれなきぼーりょくに襲われたとしても、くにこちゃんがいるのであんしん。なんだかよくわからない世界にまぎれこんで、未知の超自然現象に見舞われたとしても、たかちゃんがいればおーけー。――そんな悟りに、たっしていたのですね。
 
    ★          ★

 まあ、あくまでもしょーがくいちねんせいのえんそくですから、もともと遭難や転落死なんてしたくてもできない、そこそこのお山です。
 その証拠に、展望台への道からそれて、わくわくと魔境探検に踏みこんだりしても、実はちょっと下ると、斜面を造成した新興住宅街が広がっていたりします。
 でも、さんにんぐみはそんな事実は知る由もなく、くにこちゃんを先頭に、じんせきみとうの深山にわけいります。
「わくわく」
「どきどき」
「――さあ、ここだ」
 藪をぬけて、くにこちゃんがじまんげに指さしたのは、林の中にちょっとだけ開けた、くさむらのようなところでした。たかちゃんが期待していたないあがらの滝も、ゆうこちゃんが期待していた誰も知らないひみつの花園も、みあたりません。ただの空き地みたいなところで、紅葉も終わりかけたなんかの木が一本、まんなかにはえているだけです。
「……いまいち」
 たかちゃんのぶーいんぐを、くにこちゃんが、まてまて、と制します。
「こいつは、なかなか、かしこいやつなのだ」
 その木の下に歩み出て、手近な枝に、お手々をさしのべます。
「お手」
 ざわざわ、ざわざわ――。
 風もないのに、ゆっくりと枝がおりてきて、はっぱの先が、くにこちゃんのお手々に、こちょこちょとさわります。 
「……おう」
 たかちゃんは、おもわず目を見張ります。
 ゆうこちゃんは、びっくりしてたかちゃんの背中にかくれますが、たかちゃんが大よろこびで駆け出してしまうので、やだやだやだやだとおびえつつ、やっぱしいっしょに駆け出さざるをえません。
「ぽち! お手!」
 たかちゃんが、はりきってつんつんさしだしたてのひらに、ずいぶんゆっくりではありますが、ちゃあんと枝の先が下りてきて、はっぱでこちょこちょしてくれます。
「うひゃひゃひゃひゃ」
 おもしろいのとくすぐったいのとで、おもわずグッド・トリップしてしまう、たかちゃんでした。
 ちなみに『ぽち』と呼んだのは、たんに昔パパの実家で生を終えた老忠犬が『ぽち』だった、それだけのこんきょです。むかしの『ぽち』は秋田系の雑種で、けして樹木ではなかったのですが、のんびり『お手』をしてくれるかんじが、なんとなく似ていたのですね。
 くにこちゃんが、ふむふむとうなずきます。
「ぽちか。いいかもな。おれは、『あかいゆーひのわたりざくら』にしよーか、アキラにしよーか、まだ、まよってたんだ。『赤い夕日の渡り桜』だと、ちょっとながくて、よびにくい。でも、アキラだと、あんましおそれおおいかもなあ」
 ゆうこちゃんが、おずおずと訊ねます。
「……わたりざくら、さん?」
「おう。はじめてあったときは、春だった。こーんなでっかい綿あめみたく、花だらけでな」
 くにこちゃんはそう言いながら、くさむらのはじっこを、ゆびさしてみせます。
「で、あそこのはじっこを、あるいてた」
 それから、はじっことここの、まんなかあたりをゆびさします。
「で、夏には、そのあたりに、いた」
 たしかに、くさむらには、なにかがじめんをたがやした跡のような、細長いくぼみが残っています。
「で、いまは、ここんとこだ。とゆーことは、きっと、ひとり旅をしているのだ。のらざくら、いっぴきおおかみだな」
 のらでも、きれいなお花を咲かせるさくらさんなら、あんまし恐くないかもしんない――ゆうこちゃんも、ちょっと『お手』してみたいかなあ、そんな気になります。
 もとよりたかちゃんは、まったく人見知りもなんだかよくわからないもの見知りもしないたちなので、すでにがしがしと幹をよじのぼり、たくさんの枝さんにからまれて、
「わひゃひゃひゃひゃ」
 ななめはすかいにぶらさがりながら、触手物のヒロインと化しております。
 くにこちゃんが、かんしんしたようにつぶやきます。
「……おれは、お手してもらうまで、ひと晩かかった」
 やっぱしたかこは、ただものではない――腹中あらためて感慨を深める、くにこちゃんでした。

    ★          ★

 さて、その後ゆうこちゃんもおっかなびっくり『お手』をしてもらい、じゆうじかんぎりぎりまでぽちと遊んだあと、
「ぽち、ばいばーい」
「んじゃ、またな」
「ぺこり」
 ちょっぴり寂しそうな――たぶん寂しいのではないかと思われるぽちを林に残し、なにくわぬお顔で展望台に戻ったたかちゃんたちは、みんなといっしょに、無事にお山を下ったのですが――。




    【よん】 ぽちのおもいで


 その晩、たかちゃんは、夢を見ました。
 ぽちの、夢です。
 といっても、たかちゃんがぽちと遊んでいる夢ではありません。
 たかちゃんが、なぜだかぽちになっている、そんな不思議な夢でした。

    ★          ★

 なにしろ桜さんになってしまったのですから、たかちゃんのひかくてきたんじゅんな思考回路にくらべても、もっとぼーっとしています。はやいはなしが、いちねん中お山の森にたたずんで、根っこからお水やなんかいろいろをじわじわ吸い上げながら、それがいまのことなのか、それともむかしの思い出なのか、なんだかよくわからない事象を、きわめて緩慢に認識しているだけです。
 思い出、という概念が山桜の木にあてはまるものかどうかはちょっとこっちに置いといて、ぽちも昔から、ぽちであったわけではありません。なんといっても桜さんのことなので、自分が桜である、という自覚すら、あんまし確かではなかったりします。
 それでも昭和の始め頃、なんかの拍子で奥多摩丘陵の人知れぬ森の中に芽吹いてこのかた、ずうっと桜の木をやっておりましたから、ときおり森をうろついている狸さんや狐さんや、根っこにおしっこをしていく野良犬さんや、枝にとまってちゅんちゅんぴーちくとお歌を歌ってゆく小鳥さんたちとは、ちがうたいぷのいきものなんだろう、そのくらいの認識はあったりします。
 その森は林道からずうっと奥にあり、湿気や腐葉土の養分は申し分なかったのですが、伸びほうだいの下草や、明治大正のみならず江戸の頃から古株の椚《くぬぎ》や楢《なら》さんたちががんばって茂っていたため、とっても日当たりが悪く、山桜の若芽さんたちにとって、あんまし住みよい場所ではありませんでした。ですから、初めはごきんじょで芽生えた兄弟姉妹たちも、いつのまにか立ち枯れてしまい、たった一本のぽちが、生き残っただけでした。
 といって、それほどつらい人生を送ったという自覚も、ぽちにはありません。
 椚さんや楢さんたちは、いじわるで日差しを遮っていたわけではなく、なんじゅーねんかん、ただぼーっとしていただけです。ぽちもまた、生まれてなんじゅーねんかん、ただぼーっとしていただけです。それでもただぼーっとしているうちに、春になると、じぶんだけがなんかふかふかの白いものでお化粧できたりするのだ、そんな晴れがましさにめざめたりして、ぼーっとしているなりに、冬がおわるといそいそおめかしのじゅんびを始めたりもします。椚さんや楢さんも、そんな毛色の変わった森仲間ができたことを、なんじゅーねんかんぼーっとしながら、そこはかとなく、よろこんでくれているみたいでした。
 まあひとくちに『よろこぶ』といっても、あくまで樹木さんたちのことですから、たとえば満州事変でお外の世界がなんかたいへんなことになりつつあるあたりに『う』っぽくぼーっとして、真珠湾攻撃あたりで『れ』っぽくぼーっとして、マッカーサーが厚木に降り立ったあたりで『し』、朝鮮戦争が始まった頃に『い』、そしてようやく占領が終わったころに『な』、つまり何十年かかって『うれしいな』っぽくぼーっとする、そんなあいまいなペースです。
 そんなぽちが、いつのいまにか『う』も『れ』も『し』も、『い』や『な』の気配も、あんまし感じられなくなったのに気づいたのは、にじゅーねん前だったのか、さんじゅーねん前からだったのか、それもまた定かではありません。
 お山のふもとのほうから、あっちこっちで森の木々が切り払われ、次々と新しい町ができはじめ、いつのまにか、土の下を流れる水脈そのものが枯れてきて、年老いた椚さんや楢さんは、なんにもいわないまま、ひっそりとその生を終えていきます。
 もちろんぽちはそんなこまかい事情などわかりませんから、むしろ陽の光がとてもきもちよく当たるようになって、それからとっても見晴らしがよくなってきて、やがては多摩川の渓流や、遠い青梅の町並みが見下ろせるほど周りがひらけてきたのを、やっぱしなんじゅーねんも、ぼーっとよろこんでいたのです。
 でも、やっぱり、なんとなく、なんか、アレなかんじ――。
 春の光の下で満開の花を咲かせたり、みずみずしい葉桜に夏の光をきらきら輝かせたり、楓さんほどではないにしろ、きれいなもみじで紅に染まったり――そんな季節には、樹木でも樹木なりにいそがしく、ひとりぼっちでもそんなにさみしくはなかったのですが、それから葉を落とし細い枝だけになって、ぴゅーぴゅーこがらしに吹かれたりしていると、やっぱし、なんかちょっと、アレなかんじなのです。
 やがて、やっと春風さんが、ぬくぬくになったころ――ぽちは、はるかな渓流にそって、じぶんと同じように白いふかふかの木々が、小さく小さく、でもいくつもいくつも立ち並んでいるのに気づき、ぼーっとながめておりました。
 いつもの春なら、アレなきぶんもちょっとは晴れるころなのに、なぜだかその春は、ますますアレなかんじがつのっていきます。
 そのアレなかんじは、ぽち自身には、なんであるのかよくわかりません。でも、夢のなかでぽちになっているたかちゃんは、きもちのほうもぽちっぽくなったりたかちゃんっぽくなったり朦朧としながら、それが『サミしいかんじ』であることを、そこはかとなく感じております。
 あっちに、いこう。
 その夏のおわりごろ、ぽちは、ようやくそんな観念に目覚めました。
 あっちに、いこう。
 
    ★          ★
 
 さて、そうして、世にも稀なる放浪山桜として覚醒したぽちでしたが、なんといっても根が桜さんのこと、ほんのちょっとあっちにいくのも、なかなかたいへんです。
 あっちにいくためには、あっちにいかなければなりません。
 ときどき枝にとまって、ちゅんちゅんぴーちくとお歌を歌っている小鳥さんたちみたく、お空をとんでいこうかな――。
 むりですね。
 ときおり森をうろついている狸さんや狐さんや、根っこにおしっこをしていく野良犬さんのように、じみちにお山をくだろうか――。
 これならば、なんとかできそうな気がします。
 ずりずり、ずりずり。
 こいつはまたなにをはじめたのだ――あきれ顔をしながら通りすぎてゆく狸さんの足はこびをさんこうに、右前あたりのねっこをちょっぴりじめんからひっぱりだして、ちょっと前のじめんにまたもぞもぞと根付かせて、こんどは左前あたりをひっぱりだして――。
 ずりずり、ずりずり。
 樹木としての常識はもはや超越しているわけですが、いっぽうで、なんぜん年にもおよぶ植物としてのほんのうも、ぶつりてきほうそくも、むしするわけにはいきません。ひるまにねっこを浮かせてしまうと、なんだかすごく喉がかわく――いえ、のどだがなんだかがかわいたのかなあみたいなかんじになるので、なるべくそれは夜中にするとか、倒れてしまわないようにじっくりちょっぴりずつ進むとか、そんなこんなで、進行速度はおよそ一週間にいちめーとる、がんばってもそのていどです。
 それでも、いちねんがんばれば、たんじゅんけいさんで五二めーとる、でも冬場はさすがにおやすみするので、おおむねいちねんに四〇めーとる――まあ、なんびゃくねんかがんばれば、『あっちにいける』わけですね。もともと『飽きる』『なまける』といった感情に無縁な植物のつよみ、なんじゅーねんかがんばったけっか、ぽちは展望台のちょっと裏の山まで、なんとか下ってきたのでした。
 そして、ある春の宵、ぽちはふしぎないきものと、であいました。

    ★          ★

 そのころ、ぽちはまた椚さんや楢さんのいる林の中にはいっており、きれいなお花を咲かせて久々にウケを感じたりして、あんがいゴキゲンでした。
 ねっこで歩くのにもずいぶん慣れてきて、ほぼ二足歩行――といってもやっぱり地中の水分や養分を吸いながら進むので、ひと晩二五センチ程度ですが、めいっぱい早送り再生してもらえば、いちおう二足歩行が可能です。
 ゆうがたから、そろそろ片足、いえ、片ねっこを上げる気合いをたかめ、お月様がのぼるころ、ずりずりと歩を進め――
「ぎく」
 よきせぬできごとに、ぽちは柄にもなく『アセり』をかんじます。たかちゃん本体だったら、こめかみにたらありと、ひやあせを流すところでしょうか。
 おさるさんとくまさんが、月下のくさむらで、すもうをとっています。
 まあ、ぽちはまだ国技館に行ったことがありませんし、お山には家電量販店も進出していないので、それが相撲であると認識したわけではないのですが、おさるやくまは、大昔、上のお山にも住んでおりました。でも、ふつう、おさるは熊と互角に格闘しません。また、そのおさるさんには、ちっとも毛がはえていません。そのかわり、なんだか白や紺色の、薄皮に包まれているようです。
 夢の中のたかちゃんは、『あ、やっほー、どんぱんぱー』などと、いつものTシャツにジーパン姿のくにこちゃんに手を振ろうとしますが、あくまでも夢の中ではぽちがしゅやくなので、精神的にもびっくりぽち主導です。
「…………」
 林から顔を出した桜さんを見て、くにこちゃんもまた、ぼーぜんとフリーズします。
 その隙をついて、いましもくにこちゃんにシメられつつあった月の輪熊さんは、こんなきょーぼーな小動物が棲息しているのなら二度と里には下りてくるまいと後悔しつつ、どたばた逃げ去ります。
「……こりは、おもしろい」
 くにこちゃんは、熊ならまたいつでもシメられるので、新顔のいきもののほうに、目を奪われます。
「しょーぶ、するか?」
 ぽちは、さらにアセります。こんなこわいいきものがいるのなら、こっちになんて、くるんじゃなかった――。でも、いっぺん根っこをふみだしてしまった以上、またなんじゅーねんもがんばらないと、逃げられそうもありません。
 くにこちゃんは、ぽちの気合いをはかりつつ、じわじわと間合いを模索します。
 ぽちは、やだやだやだやだと怯えつつ、それでも片根っこを上げた二足歩行途上のまんま、ざわざわふるえているしかありません。
 対峙すること、しばし――
「……やめた」
 くにこちゃんが、ふうっ、と弛緩します。
「おれの、まけだ。おまいには、かてない」
 さすがはほとけさまおたくのくにこちゃん、植物のかもし出す純粋な『仏性』を、きちんと感じとったのですね。
「よるの、さんぽか?」
 くにこちゃんは、こんだけきれいな月夜なら、桜さんだって出歩きたくなるのかもしんない、そんな結論にたっします。
「いっしょに、つきみ、するか?」
 ぽちもまた、根っこのほうにじゃれてきて「お手」とか「ちんちん」とか鳴いている毛のないおさるさんは、もしかしたらそれほどこわくないのかもしんない、そんなあたらしい情感に、めざめたりします。
 そして夢の中のたかちゃんも、くにこちゃんといっしょによぞらのまんまるおつきさまをながめながら、『わーい、おつきみ、おつきみ』などと、きわめてのーてんきに、はしゃいでいるのでした。
 
    ★          ★

 まあ、あくまで夢――それも爽やかな秋の夜の、とろとろ寝入り端の夢ですので、次の朝に目をさました頃には、いーかげんなたかちゃんのこと、きれいさっぱり忘れてしまっていたんですけどね。


 

    【ご】 おかわりたかちゃん


 さて、遠足からしばらくたった、お給食の時間のこと――。
 ちっこいきゅうしょく係たちがハンパなしくじりをやらかさないよう、いつものようにお世話を終えた給食委員のおねいさんが、あとからまたお世話をするため、前の給食台でまずいシチューをけなげにもおいしそうに食べておりますと、
「おかわり」
 なかよしのたかちゃんが、いつのまにか前に立っております。
 おねいさんは、はんしゃてきに、いつもの『たかちゃん専用おたま』をかまえます。またぶたにくのあぶらみやにんじんを残していたら、かぽんかぽんと教育してあげるためです。
 しかし、つきだされたお椀は、きれいにからっぽでした。
「おかわり。おーもり」
 ひさびさに、かぽんかぽんできると思ったのに――おねいさんは、ちょっとがっかりします。
「ごめんね、シチューは、おかわり残ってないの」
「ぶー」
 あ、ふくれたふくれた――おねいさんは、ちょっとうれしくなって、ここの担任の先生が今日は用事で職員室に下がっているのをいいことに、携帯のカメラで、すかさずスナップします。たかちゃんのほっぺがふくらんだ写真は、それがぷっくりふくらんでいればいるほど、給食委員仲間の女子に自慢できるのです。
 おねいさんは、まだ食べていなかった自分の食パンと牛乳を、たかちゃんにさしだします。
「こっちでもいい?」
「くれる?」
「うん。おねえさん、ダイエットだから」
「ありがとー!」
 うれしそうに席に戻るたかちゃんを見送りながら、おねいさんは小首をかしげ、隣の委員仲間のあんちゃんに話しかけます。
「ねえ、なんか、おかしくない?」
 あんちゃんは、こっそりおねいさんの胸元を覗いていたのがばれないよう、あせってしせんを泳がせます。
「うん?」
「あの子、どっちかって言うと、あんまし食べないほうだよ」
 おんなし六年生でもまだガキっぽい、でもなまいきにいろけづいた無名のあんちゃんは、おとなのおんなのにおいなどもかもしだしつつあるあこがれの女子に話しかけられたうれしさに、はりきってこたえます。
「だよな。となりの子なら、バケツいっぱい食っても、普通だけどな」
「だよねー。きょうはなんだか、おなかも、ぽんぽこだし」
 心配になったおねいさんが、たかちゃんたちの机くっつけグループをながめますと、たかちゃんの机には、すでにあっちこっちから略奪した牛乳が数本立ちならび、食パンもお皿にてんこもりになっております。
 たのもしげに見守っているくにこちゃん、はらはら心配そうにしているゆうこちゃん、その他興味津々の視線に囲まれつつ、
「ばくっ」
 ほぼ正方形に重なった食パンをいっきにほおばり、
「もくもく、もくもく」
 お顔の三ぶんの二をおかめほっぺたにして咀嚼したのち、
「おっく、おっく、おっく――」
 牛乳も連続一気飲みする、たかちゃんです。
 おねいさんは、驚愕します。たとえ一本は200CCでも、6本あれば1.2リットル――。
「――ぷはあ」
 あわててかけつけたおねいさんは、たかちゃんのおなかに、目をみはります。
「ちょ、ちょっと……」
 ぴんくのユニクロ・トレーナーが、ほぼ半球状に盛り上がっております。実は、それ以前にも、あっちこっちから食料援助を求めたシチュー数杯ぶんを、すでにおなかにおさめていたのですね。
 くにこちゃんは、あわてずさわがず、
「たかこも、きっと、そだちざかりなのだ」
 自分の尺度を世間の尺度と、かんちがいしております。
 ゆうこちゃんは、もはや泣きべそです。
「おなか、こわしちゃうよう」
 内部が傷む以前に、外に破裂してしまうのではないか――おろおろとたかちゃんのまんまるぽんぽんに手をさしのべたおねいさんの目の前で、
 ――ぷしゅううう。
 そのはちきれそうなおなかが、みるみる縮んでいきます。 
 たかちゃんは、けろりとしたお顔で、さらにおねだりします。
「おかわり」
 おねいさんは、ぼーぜんとたちすくみます。
「おなか、すいた」
 おねいさんは、おそるおそる、たかちゃんのトレーナーを、めくりあげます。
「のど、かわいた」
 まんなかのおへそは、ちょっと、でべそぎみです。しかしおなかそのものは、みごとにぺっしゃんこになっております。
「……てゆーか、超魔術? なんか、タネ、あり?」
 たかちゃんは、げんきに即答します。
「ないすばでぃー!」

    ★          ★

 おねいさんの報告を受けた担任のせんせいは、「ちゅーしゃ、やだやだ」とにげまどうたかちゃんをなんとか捕獲し、保健室に拉致して、校医さんに診察してもらいます。給食のおねいさんも心配して、いっしょについて行きます。
「ちゅーしゃ、やだ」
 小児科ベテランの老嘱託医さんは、
「はい、ぽんぽん、診るだけだよ」
 まだぎわくのまなざしのたかちゃんをたくみになだめすかし、聴診器をあてたり、むにむにと触診したりして、
「このところ、欠食してるようですね。腸までほとんど空っぽです」
 たんにんのせんせいは、『すわ、家庭内児童虐待!』などと身構えますが、きゅうしょくのおねいさんは、おずおずと進言します。
「でもさっき、給食、十人前くらい食べてたんですけど」
 当節の児童としては実直すぎるくらいの六年女子が真顔で言うのですから、それも嘘とは思えません。
 張本人のたかちゃんは、横の机に、じゅるるるとよだれをたらしそうな視線を投げかけております。
 校医さんがこれから食べようとしていた、出前のおやこどんぶりです。
「……おなか、すいた」
 校医さんは、ちょっと考えこんだのち、どんぶりと割り箸をさしだします。
「くれる?」
「はい、おあがり」
「ありがとー!」
 わしゃわしゃわしゃわしゃ。
「はいはい、よーく、かまなきゃだめだよ」
 かみかみ、かみかみ。
 そして、校医さんが淹れてくれたお茶を、ぐびぐびぐび。
「ごちそーさまー!」
 たかちゃんはおぎょーぎよく、『おててのしわとしわをあわせて、しあわせ、な〜む〜』します。
「はい、じゃあまた、ぽんぽん、みせてね」
「こくこく」
 こんどはすなおに、じぶんでトレーナーをまくる、たかちゃんです。
 ちょっとでべそっぽいおなかのうえに聴診器をあてて、ふむふむとうなずいていた校医さんが、うに、と眉毛をひそめます。
 当惑、困惑、疑惑――そして底知れぬふあんのまなざしが、たかちゃんのおなかぽんぽんに注がれます。
 ――私が無慮五十年に渡り従事してきた近代医学は、この最後の職場において、砂上の楼閣と化してしまうのだろうか。
「おなか、すいた」
 校医さんは、ぼーぜんとつぶやきます。
「……いや、消えるはずがない。何か、合理的理由が、きっとある」
 たかちゃんは、すかさず返します。
「ないぞうしっかん」

    ★          ★
 
 さて、そのご総合病院に送られて、小児科をパニックに陥れたたかちゃんは、レントゲン科に回されていちご味のバリウムやばなな味のバリウムをなんべんもおいしくおかわりしたりしたのち、しまいにゃ神経内科に送られますが、結局原因不明――というか、外から見る限りどこをつっついても健康そのもので、瞬間消化瞬間代謝、とでもしか、表現できない症状です。
 あまりのおもしろさに半狂乱になった院長先生によって、東大病院に搬送されそうになったりもしましたが、知らせを聞いて駆けつけたママが『科学特捜隊極東支部』の共済保険証を提示したとたん、すべてはやみにほうむられることになります。片桐芳恵およびその実子の健康管理に関しては、科特隊パリ本部がその全権を担う――へたにレントゲン撮影が成功したりしていたら、院長先生は発狂していたかもしれません。
 やがて夕方、ママといっしょに待合室に戻ってきたたかちゃんに、担任のせんせいや、給食のおねいさんや、くにこちゃんやゆうこちゃんが駆け寄ります。そしてなんかいろいろママとお話したりぺこぺこしたりしたのち、帰る方向がちがうので、二台のタクシーに分乗して――。
「……もしか、『餓鬼』が、憑いたかな」
 車中、くにこちゃんが、わけしり顔で蘊蓄をたれます。
「『ひだる神』ってのも、あやしーぞ」
 ゆうこちゃんは、ないしん『くにこちゃんとなかよくしてると、いつかこーなるのかもしんない』などと思いますが、それを口にだすほどむしんけーではありませんし、『じぶんもこんなにたくさん、おいしくごはんをたべられるように、なってみたいかなあ』、そんな気持ちもあったりします。
 そしてたかちゃんは、ママに買ってもらったポテチやサンドイッチを、くにこちゃんといっしょに、ひたすらおいしくたべあさっています。
「おいしーね、ぱりぱり」
「んむ、むしゃむしゃ」
 もしじぶんの仮説が正しかったら、じぶんもまたいちねん中、『餓鬼』や『ひだる神』に取り憑かれっぱなし――そんな自己矛盾など、ちっとも気にしていないくにこちゃんでした。

    ★          ★

「まあ、とりあえず元気なんだから、とりあえずかまわんのだが……」
 心配して営業先から直帰してきたパパは、ひさしぶりの平日家族団欒を楽しみつつも、ちょっと不安げに、たかちゃんをなでなでします。
「いま、何杯めだ?」
 ひたすらごはんをたべまくるのに忙しいたかちゃんに代わり、ママがお答えします。
「もう二十杯めくらいかしら」
「おかわり!」
「ちょっと待ってね、もうすぐ炊けるから」
 炊飯ジャーさんも、休む暇がありません。
「……Q太郎か、おまえは」
 あきれてつぶやくパパに、たかちゃんは、にこにことこうぎします。
「ばけらった」
 おばけのQ太郎よりも、弟のOちゃんのほうが、このみです。
「まさか、過食症ってこたあ、ないよなあ」
 このお気楽娘に過大なストレスなど生じるはずがないと思いつつ、パパは、ねんのため訊いてみます。
「たかちゃん、学校は、たのしいか?」
 たかちゃんは、ホッケの骨をつるつるになるまで猫ちゃんのようにしゃぶりながら、ちからいっぱいこくこくします。
「すごく」
「……ほんとは、誰か、いじめっ子とか」
「ぜんぜん」
 ママも、ねんのため、お訊ねします。
「もしか、なんか、いやな先生とか……」
「まったく」
 それは、そうですね。もしたかちゃんののーてんきな性格をもってしてもストレスが溜まるような学校なら、今頃生徒の大半が胃潰瘍で血を吐きながら悶死したり、先生たちまでいっしょになって校舎の屋上からダイブしたり、全校崩壊してしまっているはずです。
「となると、問題は、食費だな」
「まあ、お米は近頃安いからいいんだけど、お野菜やお魚が、ちょっとねえ」
 こんな事態でもしっかり栄養のバランスを心配してくれる、やさしいママです。
「明日は学校、休みだろう。こいつ、いちんち家で食ってるなら、今のうちに買い出しに行っとくか」
 土曜日も隔週出勤のパパは、のっそりと立ち上がります。
「お願いね。ご苦労様」
 ちなみにふたりとも、ひたすら備蓄食糧を喰らいつくしつつあるたかちゃんの肉体そのものに関しては、さほど心配しておりません。まあ、昔から、なにをやっても不思議ではない娘なのですね。
「ぐびぐびぐびぐび」
 茶腹もいっとき、とゆーわけで、たかちゃんが1.5リットルの烏龍茶ペットボトルをらっぱのみしておりますと、
 ぴんぽーん。
 どなたか、お客様のようです。
「ごめんなさい。しつれいつかまつります」
 まるで時代劇のご挨拶ですが、声の主は、くにこちゃんです。
「やっほー、どんぱんぱー」
 たかちゃんがととととととお玄関に駆けていきますと、なぜだか小坊主ルックのくにこちゃんのうしろで、ほんもののお坊さんが、にこにこ笑っております。
「おれの、おししょーさんだ。たいがいの憑き物はちょうぶくできる、ありがたい、おかただぞ」
 実際きわめて有難そうな、枯淡の禿頭と清浄な僧衣のたたずまいに、後から出てきたパパやママも、思わず深々と頭を下げます。
 よくみれば紫の衣も色褪せ、けして裕福なお寺さんとは思えないのですが、
「失礼いたします。上がらせて頂いても、差し支えございませんかな?」
 その柔らかいお声の一言で、パパもママも、もう一週間でもひと月でも泊まって行ってください、そんな気になってしまったのは、さすがにくにこちゃんが厳選した、大僧正の人徳なのでしょうね。

    ★          ★

 応接間に通されたお坊様は、たかちゃんのぽんぽんを診るでもなければ、パパやママに症状を訊ねるでもなく、
「まあ、この子は『憑き物』などと申しておりますが、無論、そんなものはどこにもおりません。『餓鬼』も『ひだる神』も、所詮は宿らせた人の心ひとつのものでございますからな。『仏』も同じです。たとえばこの子が顕現させる明王様にしても、それはこの子の心の内におのずから宿ったものを、この子が『明王』であると悟った、それだけのものなのです」
 もっともらしく合掌しているくにこちゃん、こくこくとうなずくパパとママ、悠然とお茶を啜るお坊様、炊飯ジャーからおしゃもじでちょくせつごはんをいただいているたかちゃん――。
「しかし、世間では、よく『祟り』などと言いますよね」
 お坊様の姿から連想したのか、パパはそっち系の不安に捕らわれてしまったようです。
「たとえば原因不明の奇病が、墓石や仏壇を粗末にしたためだった、とか」
 パパはなにしろもとおたくなので、そーいった超自然現象や伝奇ゲー的趣向は、大好きなたちです。
「私は三男ですから、菩提寺の墓などは郷里の兄に任せっきりなのですが、念のためこれから電話を入れてみようかと。なにしろ山奥の墓なもんで、手入れもままなりませんし、お供物とか、水とか――」
 お坊様は、霞のように微笑します。
「それはあなたが、ただ心で、先の方々をお慰めすればよろしい。戒名屋や墓石屋、仏壇屋や拝み屋――いずれもただ、人の生きるたつきでございましょう。まあ、墓石そのものの心、仏壇そのものの心と親しむのも無駄ではございませんでしょうが、少なくともご先祖様とは、無縁。それもまた拝む者の、心ひとつ」
 煙に巻かれたようなパパとママをよそに、お坊様は悠然と手を伸ばし、無制限食事中のたかちゃんのおつむを、なでなでします。
「さて、おじょうちゃん、あんたは何を宿らせてしまったものやら」
 たかちゃんは、とーぜんこれまでのこむずかしい話は聞いておりませんし、聞いていたとしても、理解できません。お坊様の真摯な視線をかんちがいして、かかえていた炊飯ジャーとおしゃもじを、お坊様にお勧めします。
「たべる?」
 お坊様はにこにこと、たかちゃんのおつむに触れたまま、皺の奥の細っこい瞳でたかちゃんのくりくりお目々をじっくり見つめたのち、やがて、くつくつと笑いだします。
 ――死ぬほど飢えて乾いているのに、なお無心に与えようとするものの宿世は、すでに如来か――。
「……わしはおなかいっぱいだから、その『ぽち』と、いっしょにお食べ」
 お坊様以外のみんなが、それぞれ別の意味できょとんとしておりますと――また、ぴんぽーん。
「あの、あの、どんぱ。やぶん、おそれいりられ……」
 たかちゃんがあんましおなかを空かせて餓死しているのではないかと心配になって、ゆうこちゃんがおみまいに来てくれたのですね。おねだり可能な限りいちばんおっきなケーキを買ってもらったので、ゆうこちゃんがケーキをかかえていると言うより、ケーキの箱にゆうこちゃんがしがみついている、そんなありさまです。
 ちなみにそのはいごには、それぞれ30キロの松阪牛ブロックを抱えた三にんのSPさんなども、続いたりしているのでした。




    【ろく】 ぽちといっしょ


 その、翌朝――。
 お山の林の奥の、くさむらに倒れたぽちは、もうほとんどなんにも考えておりませんでした。まあ、山桜さんとしては、このところちょっと、なにかとかんがえすぎだったのですね。
 このまえ、さんびきのかわいいおさるさんが遊びにきてくれたのは、いつだったかなあ――漠然と思いを巡らせても、もう、思い出せません。
 楽しく遊んでもらったあとで、おさるさんたちが帰ってしまって、またちょっとなんだか『アレなかんじ』になってしまい、『アセった』のが、いけなかったのでしょう。その晩、ちょっとバランスをくずしてコケてしまい、それっきり、横になったまんまのような気もします。
 もう秋で、のどだがなんだかがかわいたのかなあみたいなかんじで、そのつぎは確かいちばんさむくておなかだかなんだかがすいたのかなあみたいなかんじの冬になるので、もともと、歩くべきではなかったのかもしれません。
 でも、いーや。
 失われつつある意識の中で、ぽちは、ほほえみます。
 じぶんがほほえんでいること、なんだかよくわからないなりにけしていまは『アレなかんじ』ではないこと、そんないろんなことを、くさむらのまわりの椚さんや楢さんにも見てもらいたくて、ぽちは今、花を咲かせています。
 まだ紅葉を残した椚さんや楢さんのまんなかで、横になったまま咲いている満開の山桜というのは、かなり、へんです。たおれたときに、ほとんど土から離れてしまった根っこのほうが、もう先っぽから枯れ始めているので、もっとへんです。
 ぽち自身も、なんだかへんだなあ、なんぼ咲きたいと思っても、なんじゅーねんかん、ぽかぽかの春風さんが吹いているときでないと、咲けなかったみたいなかんじなんだがなあ、そんな『フシギ』という概念を今になって朦朧と習得したりしておりますが、その『フシギ感』もまた、失われつつある意識の中で、とろとろと茫漠の中にとけていきます。
 でも、ぽちは、感じます。
 椚さんや楢さんが、なんじゅーねんかんぼーっとしながらも、さすがにこの時期満開になるようなこんじょーのある桜は見たことがなかったので、『うれしいな』まではまだむりでも、もう『う』と『れ』のあいだくらいまでは楽しんでくれている、そんな気配が、秋の風に舞う紅葉にのって、ぽちの花々にも伝わってきます。
 あのおさるさんたちと、もーいっぺん遊んでみたかったなあ――ずうっとそう思っていたはずなのに、なんだかずうっといっしょに遊んでいたような気もして、やっぱしぽちは、ほほえんでいます。
 さむいけど、さむくない。
 根っこ、枯れても、のど、かわかない。
 おなか、すかない。
 はな、さいてる。 
 だから、もう、いーや。

    ★          ★

「こりは、びっくり」
 ととととととくさむらにはしりこんできたたかちゃんは、目をみはります。
「ぽち、おねんね?」
 たかちゃんがかっくらう大量の食糧を大半しょってきたくにこちゃんも、すでにはんぶん食いつくされたとはいえまだ数十キロはあるかと思われる背負子をものともせず、どどどどどとぽちに駆け寄ります。
「おい、おまい、びょーきか?」
 ゆうこちゃんは倒れたぽちの幹によよと取りすがり、
「ごめんね、ごめんね、ひっく」
 じぶんはなんにもわるくないのですが、ちかごろ口癖になってしまっているのですね。
 そのあとから、いっしょについてきてくれたたかちゃんのママと、ゆうこちゃん担当兼女中頭の恵子さんも、紅葉の樹々に囲まれたその不思議な一本桜に、歩み寄ります。
 末期の狂い咲きと言うにはあまりにもはかなく美しいその光景にしばし立ちすくんだのち、ママはれいせいに、ぽちの容体をさぐります。いぜんからたかちゃんたちのお話をごぞんじのよい子の皆様ならば、なんかいろいろ裏技に充ち満ちたママの真の正体なども、うすうす、いえ、おもいっきし感づいていらっしゃいますね? そう、スーパーのパートだけでなく、光の国関係のパートなども勤めている、なにかとうるとらなママなのです。
 しかし今、そのおたく殺しのちゃーみんぐなお顔には、予断を許さない危機感が浮かびます。
 ゆうこちゃんが、泣きながら訴えます。
「……ひっく、おうちに、つれてくの。……ひっく、おにわに、おにわのおいしゃさん、いるの、ひっく」
 なにしろ三浦家は、畏れ多くも皇居を凌ぐほどの庭園を維持しておりますので、当然、専業の樹木医なども雇われております。 
 ゆうこちゃんをよしよしと胸であやす恵子さんに、ママが訊ねます。
「……三浦さんのお宅に、大型ヘリとか、ないかしら」
 恵子さんも、たかちゃんたちとのおつきあいを通して、この程度のなんだかよくわからないものやなんだかよくわからないことでは、すでに動じないおんなになってしまっております。
「すみません。小型ヘリしか、ないと思います」
 ママのお顔が、さらに曇ります。 
 自分でなんかこっそりアレしたり、あっちにソレしたりできればいいのですが、ざんねんながら、その能力や組織は、巨大ナニ関係でないと使えないきまりになっております。
 恵子さんは、ふとひらめいて、はいごの木陰にこっそり待機しているはずの、三にんのSPさんたちにお声をかけます。
「あのう、えーと、皆さん」
 彼らもまた、今さら『我々はあくまでもお嬢様の生命を』などと、バックレられるキャラでもなくなってしまっております。
 不承不承迷彩服姿を現し、ぽちの三方に取り付いて――
 ぎっくり。
 年配の隊長さんのお腰に、破滅の音が響きます。
「隊長!」
「隊長!」
「……俺を置いて、貴様達は、生きろ」
 ごにょごにょ寄り合って、もっともらしく、無能を糊塗しようとしております。
 たかちゃんとゆうこちゃんは、とーぜんくにこちゃんに、期待のまなざしを向けます。
 きらきらきら。
 うるうるうる。 
「んむ」
 くにこちゃんが、雄々しくうなずきます。
 食糧の巨大背負子を軽々と外し、
「おらよ」
 残ったSPさんたちに、放り投げます。
「ぐえ」
「ぐえ」
 部下のふたりも、再起不能に陥りかけます。
 くにこちゃんは、ぐったりと横たわる、いいえ、材木のようにしゃっちょこばって横たわるぽちをかかえこみ、
「ぬおおおおおおっ!」
 すさまじい気合いで森の枝々を揺らしつつ、ぶお、とぽちを立て直し、桜吹雪の舞う中で、くるりと体勢反転――
「どおすこいっ!」
 みごとにぽちを背負い上げます。
 額に汗を浮かべながら、清々しい笑顔を浮かべ、
「あとは、下りみちだから、らくしょーだ」

    ★          ★

 まあ、その後たかちゃんたちがお山を下り、ぽちをゆうこちゃんちまで運びこむ途上の情景は、さすがに青梅市街を驚愕のるつぼと化しました。
 身長一二〇センチ弱の女児が推定数メートルの山桜、それも秋だというのに満開の桜をしょってのっしのっしと街道を進む姿とゆーのは、かなりキます。そしてそれにぴったり並んだちょんちょん頭の女児は、先に立った迷彩服のウロンな男の背負子から、ひっきりなしにお握りややきにくなどを桜担当女児に補給し、じぶんもまたひたすら食いまくっております。
 あとに続いてときどきひっくひっくとしゃくりあげている児童や、それをなだめる女性ふたりはまあ普通っぽいとして、最後尾で迷彩服のおっさんを背負って気息奄々になりながら「隊長! しっかりして下さい!」「……置いていけ」などと繰り返しているやはり迷彩服の青年などは、のどかなせかいのはての風物に、とことん不調和です。
 でも、じきに顔見知りの人々が、あれは長岡下駄屋の娘と、片桐さんちの母子と、三浦家関係の一団ではないか、そんな正体を広めますと、ああ、その娘ならたとえガスタンクを背負って市街を駆け巡っても不思議ではない、あの母子ならどんななんだかよくわからない光景を展開しても当然か、時々周囲の家屋に桜の幹がぶつかって損壊しても、三浦家がらみなら補償は万全だ――そんなこんなで、いっけん超自然的な事態も、ある秋の日のちょっとした椿事として、おのずと沈静してゆくのでした。




    【なな】 はなのしたにて


 そして、また、春。
 ちらちらと花びらの舞う桜並木の土手で、たかちゃんたちは、おもいっきし遊びまわります。
 もう『お手』をしてくれないぽちでも、げんきになってくれたのなら、ちょっぴりつまんないなりに、やっぱしとってもきれいな桜さんです。
 河原に下りてまだ冷たいお水を「うひゃひゃひゃひゃ」などとひっかけあったり、あたらしいおにごっこルールをかいはつ・もさくしたり――お昼にはもうすっかりおなかぺこぺこになって、ぽちの根っこにもどり、お弁当をひろげます。
 くにこちゃんが、いそいそとリュックからとりだしたのは、ほぼどっじぼーる大の、しおむすびです。あんまし大きいので、当然表面積も計り知れず、あっというまにぽちの花びらさんがたくさんくっついて、さくらしおむすびになってしまいます。
「がぶ」
 あんぐりとほおばるくにこちゃんに、ゆうこちゃんは、ちまちまとサンドイッチをつまみつつ、よこからお手製のはちみつ入りたまごやきを援助してあげます。
「もむ、むまみ」
 んむ、んまい、と言ってくれたみたいです。
「……ぽ」
 たかちゃんは、とっくにふつうの食欲にもどっておりますので、ママがラスカルのおべんとばこに詰めてくれた俵おむすびや秘伝のからあげさんを、あわてずさわがずでもむしゃむしゃと、花びらさんや春風さんといっしょに、ちっこいおなかぽんぽんに収めていきます。
 ふときづくと、くにこちゃんが、二こめのさくらしおむすびをかかえて、じいっとたかちゃんのおべんとばこをみつめております。
「……とりの、からあげ」
「こくこく」
「……おふくろさん、ひでんのすぱいす」
「こくこく」
「……くれ」
「おあずけ」
「……………………」
「よし」
「ばくっ」
 ゆうこちゃんは、くすくす笑っています。
 くにこちゃんの餌付けのあいまに、たかちゃんは、おつむの上でゆらゆら揺れているぽちの枝にも、餌付けをこころみます。
「はーい」
 さわさわ、さわさわ。
 やっぱし、のーさんくす、そんなニュアンスみたいです。
「ぶー」
 それは、そうですね。ふつうのげんきな山桜さんとして、いとこやはとこといっしょに念願の土手に根付いたぽちは、もう異常なエナジーをひつようとしません。
 陽の光、お水、それからちっそ・りん・かりなど、なんかいろいろの微量元素――そんだけあれば、とくにふへいふまんはありません。また、桜守のお爺さんによるお手入れなど、なんかきもちのいい心が日々そこはかとなく感じられれば、とくに『お手』を覚えている必要もありません。
 あのさんびきのおさるさんも、いまのぽちには、なんじゅーねんもぼーっとしていたなかの、記憶とも言えぬ、記憶の残滓と化しつつあったのですが――。

    ★          ★

 そのお昼休み、庭の東屋で昼食を終え、すぐに土手の見回りを始めた桜守のお爺さんは、お屋敷の側から登ってくる、見慣れた僧衣姿に気がつきました。
「やあ、和尚さん」
「いやあ、また若旦那にお願いして、入れてもらいましたわい」
 三浦家の菩提寺の、住職さんだったのですね。
 老境でもまだ矍鑠としたふたりは、並んで桜並木を歩き始めます。
「ここまで来ると、ほんとうに、くつろげますなあ」
 和尚さんは、ほぼ自然のままの川辺風景と、その向こうに広がる奥多摩の山々を、和やかに見晴るかします。
「どうも、途中の西洋風のあたりは、居心地がよくない。……失敬、庭師さんを相手に、これはちと失言でしたかな」
 桜守のお爺さんも、和やかに笑います。
「あっちのルネッサンス風対称庭園は、若い連中の仕事です。夢中になって手入れしておりますが、なんで若い者ほど様式にこだわるのか、近頃、不思議ですわ」
「去年、講師に招かれてパリ大学に行ったのですが、あすこのブローニュの森などは、むしろこっちの雰囲気でしたな」
「ええ、あれはフランス革命後の仕事でしょう。うちの西洋庭園も、あすこでも参考にしたほうが、よほど若々しくなるでしょうに」
 そんな会話を交わしながら、ふたりは並木の端にむかって、のんびりとそぞろ歩きます。
「あの山桜は、元気にしておりますかな」
「ええ、今、ちょうどあの子たちが、遊びにきておりますよ。――ほら、見えてきた。おやおや、遊び疲れて、寝てしまったようだ」
「陽はいいが、まだ四月だ。風邪をひかないといいが」
 心配した和尚さんが目を細め、見透かした彼方の山桜の下では、おなかいっぱいになったたかちゃんたちが、山桜の根っこを枕に、すっかり眠りこけております。
「くーくー」
「ぐーぐー」
「すやすや」
 でも、お風邪をひいてしまう心配は、ちっともありません。
 さんにんとも、ふんわりと積もった桜の花びらのおふとんから、安らかな寝顔だけをのぞかせて、
「むにゃむにゃ……ちんちん」
「うにゅ……ぬお……おまい、なかなか、やるな……」
「……ほら、こっち……くす、くすくす」
 なんだか、とっても楽しい夢を見ているようです。
 そして山桜さんの枝々は、花びらのおふとんにふりそそぐ春の陽差しをじゃましないように、また、三人のまぶたにだけは優しい影を落とせるように、いつのまにか、あっちによけたりこっちにおりたり、なんかいろいろ、形を変えているのでした。

 和尚さんは頬を緩ませて、なにがなし、西行法師の和歌を口ずさみます。

    ――願わくば 花の下にて 春死なむ
        その如月《きさらぎ》の 望月のころ――

 そう詠んだあとで、ちょっと首をかしげながら、
「……少々、抹香臭いですかな」
 桜守のお爺さんは、ことことと笑いながら、
「それでは、茂吉の若い頃の作は、いかがでしょう」

    ――水のべの 花の小花の散りどころ 
        盲目《めしひ》になりて 抱《いだ》かれて呉れよ――
 
「……少々、青臭いですかな」 

 青梅の春は、いま、たけなわです。





                                 ★おしまい★ 





2006/04/28(Fri)03:02:25 公開 / バニラダヌキ
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■作者からのメッセージ
今回は、ギャグは控えめに、純メルヘンをめざします。
せんせいも、今回だけは、かなりおしとやか。

4〜50枚で収まるかと思いきや、やっぱり少々長くなりました。つくづくクドい筆者です。

完結後の微修正を施しました。

……また微修正です。パパのキャラ設定を間違えておりました。どなたもお気付きではないでしょうが、今後もシリーズを続けるとしたら、直しておかないと。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。