『成層圏の色(修正)』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:甘木
あらすじ・作品紹介
散歩の途中、偶然にも成層圏の色を見た。それはボクの憧れの色。憧れ続けた成層圏の色を目の前にボクは……
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――あっ、成層圏の色。
それが目についたのは、ほんの偶然からだった。
風は強かったけど天気のいい日曜日。ボクはたいした目的もなく、ぶらぶらと住宅街を歩いていた。
――駅前のマンガ喫茶にでも行けば時間を潰せるだろう。
健全な高校生としては、せっかくの休みなのだから、昼寝三昧というものをしていたかった。いや、する気満々だった。なのに母さんがカラオケ教室の仲間を呼んで、自宅でカラオケ大会をはじめた。いい歳したオバサン連中が昼間っから酒を飲んで、ワケの分からない歌を歌いまくる。とても寝ていられるような状況じゃない。例え寝られたとしても悪夢にうなされるのは間違いなし。ボクは母さんたち熟女の――ババアなんて言ったら殺されちまう――毒気から逃れるべく自宅を出た。
どうせ時間はあるんだと、いつもとは道を変えて駅まで歩く。
と、ボクの目の前で紙が宙に舞った。
それは新聞折り込みの特売チラシかもしれないし、テストで悪い点を取ってお母さんに見せられずに捨てられたテスト用紙かもしれない。紙は風に乗って、蝙蝠のようにひらひらと飛び続ける。
ひらひら、ひらひら、ひらひら。でも、ときには紙飛行機のように、すぃーと真っ直ぐに。
紙の動きが面白くって、気がつけばボクは立ち止まって行方を追っていた。紙は自分が主役になったとでも思ったか、上昇する風に乗って、ひゅぃっとさらに高く上がる。
紙を追っていたボクの目に、
――蒼!
えも言われぬ青さが飛び込んできたんだ。
その色は〈蒼〉とでもいうのだろうか。地上から見上げる空の青さより深みがあり、深い海の青よりも濃い。
紺色でもない、縹色(はなだいろ)でもない、藍色でもない。褐色(かちいろ)、露草色、青黛色(せいたいいろ)、瑠璃色――ボクの知るどんな青にも喩えようのない色合い。一つの色でありながら色々な青が混ざっているみたいだ。
光の加減で、深い闇に潜む微かな青味のような鉄紺色から、仄かに緑色を帯びた納戸色へ、そして清涼感を持つ鮮やかな水藍色へと暈繝を醸し出す。深山の清流のような天空色にも、凛冬の夕暮れのような青鈍色にも、濡れる紫陽花のような紅掛空色にも、地表に露出した藍銅鉱ような群青色にも見える。一つの色に留まることなく変幻自在に色相を変化させていく。
しかし、〈蒼〉に周りの色が映ることはない。薔薇色、桜色、臙脂色、藤色、菫色、松葉色、若草色、黄檗色、女郎花色、栗皮色、木蘭色、空五倍子色、卯の花色……周りには幾十の色があるのに、〈蒼〉は〈蒼〉のまま。まるでそこの空間だけが周囲とは別のものでもあるかのように、他色に染まることなく弧を保っている。
この〈蒼〉をなんと表現すればいいのか……うまい言葉が出てこないことがもどかしい。
父さんの葬儀が終わった後、息苦しさから浜辺に行って見た水平線の青さではない。木枯らしが吹く日に見た空の滄ではない。盛夏に山頂から見た山を包む木々の碧ではない。
そうだ! この〈蒼〉は成層圏と同じ色だ!
子供の頃テレビで観たスペースシャトルから撮影した地球の姿に――地球の青さと、宇宙の漆黒の間にある、神秘的な深みをたたえた成層圏に――〈蒼〉があった。
成層圏はどこまでも広がる宇宙への入り口であり、命溢れる地球を守る殻のようにも見える。それは未知への冒険心を掻きたてる色であり、同時に安らぎをもたらす色でもある。強いて言えば、夢や憧れを具現化した色。子供だったボクは番組が終わるまで画面に目を奪われていた。
――成層圏はなんて綺麗なんだ。宇宙と地球の境目をこの目で見てみたい。あの蒼に触れてみたい。
あの日からボクは成層圏に行くことに憧れた。少しでも成層圏に、あの〈蒼〉に近づきたかったから、中学校では天文部に入部した。
でも、地上から見上げても成層圏は見えなかった。あの薄い皮膜〈成層圏〉は宇宙からじゃなければ見えない。宇宙に行かなきゃ、宇宙飛行士にならなきゃ…………ボクにはダメだ。宇宙飛行士になるなんて絶対無理。だって頭は人並みしかないし、なにより運動神経があんまりよくない。
中学生になれば少しは自分というもの、自分の限界というものが見えてくる。それは往々にしてもっとも見たくない形で……中三になった時にボクは天文部を辞め、成層圏への憧れも胸の奥にしまい込んだ。成層圏なんて忘れよう。あの〈蒼〉は決して手の届かないものなんだ…………。
この三年間、無理矢理忘れていた成層圏への夢。なのにいま、成層圏を思い出させる〈蒼〉が風にゆらゆら揺れている。
それは――蒼いブラジャー。
マンションの二階のベランダで、色とりどりの下着と一緒に干されている、飾りもない蒼いブラ。
普通ならフリルやレースの付いた煌びやかな下着の中にあって、シンプルな蒼いブラなんて極彩色の中に埋没してしまうだろう。でも、蒼いブラは周りの色に飲み込まれることなく、確固たる存在感をボクの目心に突きつけてくる。
別にブラが珍しいわけじゃない。ボクの家は母さんと、OL一年生の千春姉ちゃん、短大生の裕美姉ちゃん、高一の麻璃子。父さんは一昨年前に交通事故で死んでいるから、女ばかりの家なんだ。ブラなんて家中に干してある。色も形もさまざま、もちろん青いブラだっていっぱいある。
でも、あの蒼いブラと同じ色はない。
光沢のある柔らかな曲面で構成されるカップ――きらきら輝いているのではなく、水銀の表面のように鈍た光を湛えている。てろんとした表面は、触ればきっと上質の絹のように滑らかにちがいない。そして、どこまでも深みのある青さ。
ボクの心を捕らえて放さない〈蒼〉。
蒼、蒼、蒼…………あれは成層圏の蒼だ。
ボクの憧れ。ボクが欲しかった空の色。ボクが触れたかった成層圏の色があそこにある。
決してたどり着けない成層圏なのに、同じ色を纏ったものがすぐ近くにある。
忘れようとしていた成層圏への気持ちが蘇る。同時に成層圏へ行けないことへのもどかしさ、諦めてしまった自分自身への怒り、成層圏とひとつになれない悲しみも蘇る。失望という苦い味が舌の奥に広がる。忘れていたと思っていたのに……忘れられたと無理矢理思いこんでいたのに。
でも、あのブラがあれば、あのブラをつければ、きっとボクは成層圏とひとつになれる。ボクの心は成層圏へと上れる。理由なんて分からない。ただそんな気持ちがボクの中で大きくなっていく。
あのブラが欲しい!
マンションは塀で囲まれていて入れそうにない。けれど隣の廃屋の庭に大木が生えている。大木は四方八方に枝を伸ばして、そのうちの数本はマンションの方に太い枝を伸ばしていた。あの枝を伝っていけば。運動神経が鈍いボクでもなんとかベランダまで行けるかもしれない。
ベランダに行ければ……あのブラに触れることができる。あのブラをボクのものにできる。
下着泥棒は恥ずべき犯罪と言うことは理解している。けれどもどうすればいいと言うんだ。素直に『あなたのあのブラを下さい。お金は払います』とでも言うのか。冗談じゃない、そんなこと言ったって良くて門前払い、悪くすりゃ変質者と言うことで警察に連絡されちゃう。だから仕方がないんだ。
女の人ならブラなんて何枚も持っているさ。一枚ぐらいなくなったって、そんなに困るはずはないさ。ひょっとしたらお気に入りのブラってワケじゃない可能性だってある。だから一枚くらい盗ったって……。
ばれなきゃボクが盗んだなんて分からないはず。幸い人通りはないし、大木は葉っぱが茂っていて周りからは見つかりづらいと思う。この機会を逃したら、いつまたあのブラに会えるか分からない。これが最後のチャンスかもしれない。
ボクは錆びた門扉の隙間を抜けて、廃屋の庭に入っていた。
木は思っていた以上に登りやすかった。でも、登って初めて分かったことがある。それは、このマンションは半地下式とでも言うのだろうか、地面を掘りこんで建てられていた。道路から二階に見えたのは実は三階で、実際は一軒家の屋根の上と同じぐらいの高さはある。そのうえ下は駐車場になっていてコンクリートで固められている。落ちたらただじゃすまない、へたすりゃ首の骨を折って死ぬ危険だってある。
自慢にもならないけど、成層圏に憧れていたくせにボクは高所恐怖症だ。今だってシャレにならないほど怖い。枝に抱きついていても脇や背中に冷たい汗が流れている。なるべく下を見ないようにしているのだけど、ボクの心に反して目が勝手に下を見てしまう。胃袋が半分になってしまうんじゃないかと思えるほど収縮し、背筋に痛みを伴った冷たさが走る。
――怖い、怖い。怖いけれど早く行かなきゃ。早くベランダにたどり着かないと。
グズグズしていたら誰かに気づかれてしまうかもしれない。もっと急がなきゃ。頭上に張った枝に掴まってなんとか立ってみた。案外枝はしっかりしていてたわむこともない。ボクは動物園のオラウータンのように、両手で頭上の枝を掴んで横向きで進む。
手のひらに汗が滲んで滑りそうになるたび、ジーパンに手のひらをなすりつけベランダに一歩一歩近づく。
やっとのことでマンションのベランダに手が届いた。全身汗に湿っている。ここに来るまでに冷や汗で一キロは体重が落ちたかもしれない。ボクはベランダの柵に身を預けて呼吸が落ち着くのを待った。緊張を続けすぎてぼやける視界の隅で〈蒼〉が動いた。
――蒼!
目と鼻の先にあの〈蒼〉があった。無防備に風に揺れている。揺れるたびに〈蒼〉が光を吸い込んで、数限りない青の変化を見せる。まるで太陽の光を受けて輝く成層圏のように――ああ、やっぱりこれは地上に降りてきた成層圏なんだ。
おっと、見とれている場合じゃない。この状況を誰かに見られたらどうやっても弁明なんてできない。ボクは一度だけ大きく息を吐いて、蒼いブラを掴む。
じゅくっとした湿り気がボクの心に罪悪感というものを芽生えさせた。
――分かっている。これは犯罪だ。でも、どうしょもないんだ!
自分の弱さごとブラをパーカーの中に突っこんで、ボクはベランダの柵を乗り越える。
どこをどう伝わってきたかなんてほとんど覚えていない。途中で足を滑らせ枝から落ちかかって、枝を蹴ってぶつかるようにして幹に抱きついたことは覚えている。左腕を嫌な角度でぶつけ、叫び声をあげそうになったのを歯を食いしばって我慢した。その他にも脇腹や顔も熱を帯びたようにヒリヒリしているが、確認している時間なんてない。
死ぬ思いで地面に下りた時は、不覚にも腰が抜けたように座りこんでしまった。
何分座っていたのだろう。立ち上がった時には全身の汗が嫌に冷たく感じられていた。
ボクはジクジクと痛む左腕を曲げて、パーカーのお腹を押さえる。お腹にはじっとり湿ったブラの感触。パッドのふくらみが見えないようにパーカーの前ポケットに両手を突っこんだ。
――だ、誰も見ていないよ……な。
ボクは何度も周りを見回して。ゆっくり歩き出す。本当は走って帰りたいのだけど、急に走り出したら怪しまれるような気がして我慢した。前屈みになりそうな身体を無理矢理真っ直ぐにする。
心臓がドキドキしている。周りの風景が目に入ってこないのに、誰かに見られているような感じがして落ち着かない。ゆっくり歩かなきゃいけないのに、足がだんだん速くなっていく。
――早く家に帰ろう。一刻も早くブラをつけたい。
母さんたちはまだカラオケを続けていて、ボクが帰ってきたことに気が付いていない。ボクは足音が響かないように階段を上り、部屋に入ると鍵を掛けた。
――やった! やった! やった! 手に入れた。ボクはついに手に入れたんだ!
ボクはパーカーに手を突っこんでブラを取り出そうとするけど、気ばっかり焦って手がうまく動いてくれない。イライラしてきてパーカーを脱ぎ捨てた。ブラはパーカーと一緒に床に落ちる。ボクはブラを拾い上げ両手の上に置いてみた。まだ湿っていたブラは懐の中で人肌に温まっていた。そして湿り気を帯びた〈蒼〉は一層深みを増し、深遠なる宇宙の一端を垣間見たような気分させてくれる。
やっぱりこのブラは特別なんだ。このブラはボクを成層圏まで連れて行ってくれる。きっとそうだ。そうに違いない。
成層圏はもう目の前にあるんだ。これさえつければ……成層圏に。
ボクはブラをつけた。
………………。
…………。
……。
ぶかぶか……だ…………。
アンダーは同じなのにカップが違いすぎた。カップはEカップ――ボクのAカップの胸じゃ内側のコットンパッドまで届かない。どんなに脇のお肉を寄せても、虚しい隙間が広がっている。
同じ女なのにどうしてこんなに差があるの。
千春姉ちゃんも裕美姉ちゃんも麻璃子も母さんに似て胸はCカップ以上あるのに…………どうしてボクだけ胸が父さんに似ちゃったかなぁ。
蒼いブラの中にあるボクの胸とカップまでの絶望的な差。
それは、ボクと成層圏までの距離のように、決して届かない距離があった。
おわり。
2006/03/29(Wed)23:13:36 公開 /
甘木
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■作者からのメッセージ
SSにするつもりだったのが、ここまで長くなってしまいました。
現実ではあり得ない設定だとは思いますが、小説と言うことで勘弁していただけると幸いです。
このような作品ですが、読んでいただけたら、感想をいただけたら幸いです。
微修正いたしました。
作品の感想については、
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42文字折り返し
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