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『魔の名を呼ぶもの 【第四章】 <1>』 ... ジャンル:ミステリ サスペンス
作者:九宝七音
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あらすじ・作品紹介
私は、偶然にも中学生時代の同級生、徳丸彩と再会する。しかし、それは未曾有の事件『幼児連続《切断》事件』へと私達を巻き込むことになる……。事件の陰で見え隠れする《悪魔召還師》。事件を追う刑事、安土大五郎と新藤冴子。悪魔が棲む、と言われる館の謎を追う如月荘の管理人、影戸輝と私。複雑に絡み合う事件の数々は、やがて一つに繋がる……。
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【日記】
八月八日 はれ
きょう、ちかくのこうえんで、ともだちのてるくんとあきちゃんで、かくれんぼをしてあそびました。
さいしょのオニはてるくんで、わたしとあきちゃんはかくれることにしました。あきちゃんはドカンの中にかくれました。わたしもあきちゃんといっしょのドカンにかくれようとおもったのですが、中はとてもせまくてわたしは入れません。だからわたしはほかのところにかくれようとしました。でも、なかなかいいかくればしょがみつかりません。
だからわたしはズルをして、こうえんから少しはなれたところにある森の中にかくれました。ほんとうはこうえんの中だけなのに、あとでてるくんにおこられると思いました。
わたしは、森の木のうらにずっとかくれていたのですが、いつまでたっても、てるくんもあきちゃんもきません。お空の色もだんだんくらくなって、よるになってしまいそうでした。わたしもだんだんこわくなってきたので、こうえんのほうへもどろうとしました。
そのとき、もりのおくで何か音がきこえてきました。わたしはなんだろうと思い、音のしたほうへいってみました。
するとそこには、女の人がねていて、そのうえに男の人がのっていました。
男の人は手にナイフみたいなものをにぎっていて、ねている女の人のオナカをなんどもなんどもさしていました。チがいっぱいとんでいました。
やがて男の人は、女の人のオナカをあけると、中からへんないろをしたヘビやフクロを引っぱりだしていました。とてもきもちわるかったです。
男の人は、ニヤニヤしながらそんなことをしていましたが、わたしにきづいて、すこしおどろいたようなかおをしました。だけど男の人はわたしのかおをみ見て、やさしいわらいがおをしました。そうして女の人のオナカの中から何かにぎってくると、それをわたしにみせてくれたのです。
それはとても小さくて、きもちのわるいコビトでした。えほんにでてくるコビトとはぜんぜんちがいます。
男の人はいいました。
「これはアクマだよ。もし、このことをだれかにいったりしたら、このあくまがすぐに大きくなって、きみをたべてしまうぞ」
そうして、男の人はわらいました。
わたしはとてもこわくなって、ないてしまいました。でもアクマにたべられるのはいやだったので、うん、と返事をしました。
八月十日 くもり
きょう、お父さんとお母さんで、まちのほうへかいものにいきました。雨がふりそうだったので、わたしはカサをもっていきました。
まちの中をあるいていると、わたしはこのまえの男の人をみつけました。男の人は、わたしにきづいていないみたいでしたが、わたしはとってもびっくりして、おとうさんのうしろにかくれました。
でも、それよりももっとびっくりしたことがあります。その男の人のとなりには、アクマがいたのです。
わたしはなきそうになりました。アクマは、このまえオナカをあけられていた女の人にせいちょうしていました。わたしは、このまえのことはにっきにはかいたけど、だれにも言ってません。でも、なんだかアクマにたべられるような気がしたので、わたしは、お父さんとお母さんにないしょで、そのばしょからにげだしました。
だけど、まいごになってしまって、わたしはないてしまいました。でも、すぐにお母さんとお父さんがわたしをみつけてくれたので、とてもよかったです。
※
安土大五郎(あづちだいごろう)は日記のその部分だけを読んで、目の前にたたずむ少女を見つめた。
「この日記に出ている男の人の顔を、憶えてる?」
安土は目の前の少女に尋ねてから、その隣に座っている少女の母親のほうを見やった。
「憶えてるけど……。お話したら、アタシが悪魔さんに食べられちゃう」
少女は今にも泣き出しそうな表情でそういった。
「刑事さん……」
隣に座った母親が、心配げに呟いた。
安土はそんな母親に強くうなずいて見せて、それから少女のほうに笑顔を向けた。
「大丈夫だよ。オジサン達が、ちゃんと守ってあげるから」
少女は人差し指を咥え、一度だけ母親の顔を見ると、
「本当に?」
と、尋ねてきた。
安土は少女のその問いに強くうなずいて、じっと少女の次の言葉を待った。
【第一章 ヘンリーさんの館】
<1>
…大分県 大分市
八月三日…
どうも暑くてしょうがない。
様々な鳴声を披露する蝉たちの声は、更にその蒸し暑さを煽り、軋みをあげながら首を回す扇風機からは絶えず生暖かい不快な風が、だれた体に吹き付けてくる。
それらに耐えながら、私は団扇(うちわ)片手に読書に奮闘していたのだが、ついには耐え切れず(読んでいた本の内容があまり面白くないせいもある)、髪の毛を掻き毟りながらその場にバタンと寝転んだ。
…エアコンが欲しい!
この時期になると、心の底から何度もそう思う。勿論、そんなものを買う金などないし、実際そんなものなくとも今までこの『夏』と言う日を耐え抜いてきている。エアコンなどなくても、人間何とか生きていけるものなのだ。と、私は自分に言い聞かせ、顔面を団扇であおぎながら暫くは静かに目を瞑っていたが、ややあって起き上がると台所のほうへと向かい、埃をかぶって薄汚れた小型の白い冷蔵庫の扉を開け、中を覗いてみた。
めぼしいものは無い。昨日買ったばかりのミネラルウォーターもすでに四分の一程度になっている。私はそのペットボトルを取り出すと、残っていた水を一気に飲み干した。
…はぁ……。
一人大きく溜め息をついたあとで、何故だか自分が情けなく思えてきた。妙に暑くて、妙にだるくて、妙に退屈だ。まるで、砂漠に一人取り残されたかのような気分である。これも夏と言う季節が、一種の憂鬱にも似たこのような気分を導き出すのであろうか。
手に持った団扇を適当なところに投げると、私は目ざとく自分の財布を見つけ、ズボンの後ろポケットにねじ込んだ。そうして、ぼろぼろのサンダルを履き、玄関を開け、不快な熱の籠もった自宅を出て行った。
外へ出てみても、やはり暑さは変わらなかった。それどころか、直射日光が頭部を嫌というほど照りつけ、頭の中をぼうっとさせる。帽子でもかぶってくればよかったな、とおもってみても、後の祭りという奴で、歩みを進めるたびに額に浮き出た汗が頬などを伝って流れ落ちる。これではサウナの中を歩き回っているのとなんら変わりはない。
私は途中でバスに乗り、久しぶりに街中へでも行ってみるかと、暫くバスに揺られる事にした。
目的のバス停で降りると、私は重りでも付いてるかのような歩みを進める。煙草を取り出し、口に咥えてはみるが、気温が暑すぎて中々火をつける気にはなれなかった。
暫く歩いていると、竹町商店街に着く。大分(おおいた)の中心街でもあるこの竹町は、夏休みと言うわけだろうか、髪の毛を色とりどりに染め上げた学生らしき人間たちが、夏と言う季節に負けず、あちらこちらをふらふらとしている。やはりこれも『若さ』と言う奴だろうか。かく言う私もこうしてふらふらとしているわけだが……まだ二十六と言う年齢なのだからそれほどの違和感はないであろう。
アーケドの設置された商店街の通路を歩いていくと、ちょっとした広場に出る。そこには小便小僧の噴水があり、所々に木製のベンチが設けられていた。私はその一つに腰を下ろすと、ようやく今まで咥えていた煙草に火をつけた。噴水があるせいだろうか、ここは幾分涼しく感じられる。
煙草を半分くらいまで灰にした頃、不意に私は名を呼ばれた。
「おい、窪(くぼ)じゃねぇか」
名を呼ばれ、私は反射的に声のしたほうへ顔を向ける。
そこには、体躯の良い男が一人、私のほうを驚きの表情で見ている姿があった。
「あ、あれ、佐々木さんじゃないですか」
私も驚き、思わず彼の名を呟いた。
「お前、なにやってんの、こんなところで?」
佐々木は訝しげな表情をしながらも、私の隣に腰かけた。
体躯の良いこの男の名は佐々木清(ささききよし)と言って、私の住んでいるアパート『如月荘』(きさらぎそう)の管理人の友人であり、私とも顔なじみである。年齢は確か管理人と同じはずであるから三十になるかならないくらいであろう。体躯のわりには小さな顔で、表情を形作っている顔の部品一つ一つも妙に小さい。いつも剣山のようにつんつんに立てた角刈りのヘアースタイルで、一見強面に見えるのだが、実はよく見てみると意外とかわいらしい顔をしている。勿論、佐々木本人にそんな事を言えば、彼は怒りだしタックルをお見舞いされるであろう。彼は、大学時代ラグビーをやっていたそうだ。
「いやぁ、部屋にこもっていると暑くてしょうがないんで、少し出歩こうかなと思ったんです」
私が紫煙を吐き出しながらそう言うと、佐々木は眉間に皺を寄せた。
「お前、相変わらず馬鹿だな。この時期、外に出ても暑いだろう? どこかクーラーの効いた店の中にいるならまだしも、こんなところに座って煙草噴かしてて涼しいか?」
佐々木にそう言われて、私は返答に窮してしまった。確かにまったくそのとおりだ。どうしてそんな簡単なことに思いつかなかったのであろう。
「あ、ああ……。そ、それもそうですね。……えっと、今何時です?」
私はとりあえず、この場を誤魔化そうと、わざとらしく佐々木に時間を尋ねた。
「正午前だよ」
佐々木は腕時計に目をやって、呆れた表情でそう答えた。
「そ、そうですか。えっと……、佐々木さんお昼食べました? まだならご一緒しません?」
私がそう言うと、佐々木の表情がようやく緩む。
「お前のおごりなら」
小便小僧の噴水から遠ざかった私達は、『スカイ』と言う名のファミリーレストランの中にいた。ちょうど昼時であるからだろうか、若いカップルや家族連れがほとんどの席を占めている。
私達は窓際の席を陣取ると、取りあえずはメニュー本を開いてみた。冷房が良く効いていて、実に心地よい。
「ところで、佐々木さんはあんなところで何してたんです?」
私は、メニューに目を通しながら佐々木に尋ねた。
「俺か? ……俺はパチンコしてただけだよ」
佐々木は一瞬だけ私の顔を見やりそう言うと、再びメニューのほうへと視線を戻した。
「えっ、仕事は? 休みなんですか?」
「ああ、昨日から二週間の夏休みに入ったんだよ」
「へぇー、二週間も休みがあるんですか。いいですね」
「いいですねって……、お前は一年中休みだろうが」
佐々木は呆れ顔で私の顔を見やる。
「あ……、ま、まぁ、そうですけど」
確かに私は、この歳になっても無職の男であった。三年ほど前までは、ある印刷会社に勤めていたのだが、その仕事も辞めてしまい、今は時々清掃員やコンビニでのアルバイトをして生活費を稼いでいる身分であった。
「それで、パチンコの成果はどうだったんですか?」
話題を逸らすため、私はそんな事を尋ねてみる。すると、佐々木は大きな溜め息をついた。
「勝ってたら、お前なんかに昼飯なんておごってもらわねぇよ」
佐々木に言われて、私は軽く肩をすくめて見せた。要するに、パチンコ店に持ち金を全部寄付してしまったと言う事だろう。どうりで、佐々木の態度がいつもよりも威圧的なはずである。
そんな時、お冷を持ってきた中年のウェイトレスが注文を尋ねてきたので、私はハンバーグ定食を頼む事にした。佐々木もじゃあ、俺も一緒のでいいや、と私と同じものを注文する。
「ところでよ最近、影戸の姿見かけねぇんだけど、あいつどこ行ったんだ? 夕べも電話したけど、いねぇみたいだったし……」
ウェイトレスが厨房のほうへ姿を消すと、佐々木は煙草を取り出しながら不意に私に尋ねてくる。
影戸、とは私の住んでいる『如月荘』というアパートの管理人の苗字であり、少々ひねくれた性格の持ち主でもある。管理人と言っても、歳を食った中年の男性ではなく、佐々木と同い年の若い管理人であった。
「影戸君なら、二週間ほど前に知人に呼ばれたからドイツのほうへ行って来る、とか言って出て行きましたよ」
私も煙草を取り出し、口に咥える。
「はあ〜、また海外旅行か? まったく……、どこにそんな金を溜め込んでるんだろうかね、あいつは……」
佐々木が溜め息の後、呟くように言ったのを聞いて、私もうなずく。
「確かに不思議ですよね。如月荘の管理人をしているだけじゃ、海外旅行に行くお金なんてあるはずないですよね。この三年間、相変わらず住人は僕一人だけだし……。かえって、赤字になるような気がしますよね」
私が如月荘に越してきたのは、おおよそ三年ほど前のことで、私が越してきたときには、如月荘と言うボロアパートには管理人の影戸輝(かげとひかり)しか住んでいなかった。
「あいつとの付き合いも長くなるけど、いまだに謎多き男だからな」
本気で言ったのか、それともふざけて言ったのか、佐々木は微妙な表情で煙草に火をつけると、おもむろに紫煙を吐き出した。
「ははっ、謎多き人って言うか、なに考えているか解らない人、って言ったほうが僕にはしっくりきますけどね」
笑いながら私が言うと、佐々木も笑った。
「まぁ、それもそうだな」
暫く佐々木と談笑しながら煙草を噴かしていると、ややあってウェイトレスがおまたせしました、と注文した食事を持ってきた。
私は何気に、そのウェイトレスの顔を見上げた。先ほど注文を聞いてきたウェイトレスとは違い、若いウェイトレスだった。オレンジ色のシャツに、同じくオレンジ色のスカート。従業員が皆、同じものを着ているところをみると(勿論、男性従業員はスカートではなくズボンなのだが)、このレストランの制服なのであろう。一瞬だけ、その若いウェイトレスと私の目が合った。
「あれぇ、もしかして窪君……?」
不意にそのウェイトレスが私の名前を発したので、私は驚いて彼女の顔を真摯と見やった。
「えっ、そうですけど……。えっと……」
確かに、見覚えがあるような顔である。腰もとまである赤茶けた長い髪はうなじ部分で括られており、少々彫りの深い二重瞼に長い睫毛はなんとなく私の記憶の一部を刺激する。
…誰だったかな?
ずいぶんと昔に見た顔だ。
「憶えてないの? ほら、中学のとき一緒のクラスだったでしょう?」
ウェイトレスは、もどかしそうな表情で、何度も人差し指で自分の顔を指し示す。
「あ、ああ……」
よくは思い出せないが、とりあえず私は曖昧にうなずいて見せた。
「もう、解ってないでしょう!? ……私よ、私! 徳丸彩(とくまるあや)よ」
「トクマルアヤ……。ああっ、あの徳丸さんか!」
私はようやく合点がいって、思わずパチンと手を叩いた。そう言われれば、確かに当時の彼女の面影を残している。
彼女……徳丸彩とは、確かに同中学で同じクラスにいた同級生だ。しかし、当時から根暗だった私は、ほとんどクラスメイトの女の子とは話したことがなかった。そのため私は、クラスの中でも一番に影の薄い存在であったであろう。そんな私を彼女が覚えていて、さらに声を掛けてくるとは、私には奇跡にしか思えなかった。
「やっと思い出した? ……ハハッ、すごい懐かしいね! 窪君、あの頃と全然変わってないじゃん」
彩は満面の笑顔を私に向けて、そんな事を言う。
「そ、そうかなぁ。……それにしても徳丸さんはずいぶんと変わったね。昔は髪の毛短くなかったけ? 全然解らなかったよ……。十二、三年ぶりかな?」
「そうねぇ。早いものだと思わない? 気づけばもう二十六よぉ。ああーっ、嫌になっちゃうわ」
彼女は大袈裟に両手のひらを広げる。
こうして彩と話していると、曖昧だった私の記憶が段々と鮮明なものになってきた。そう言えば、彼女はあの頃から中々の早口で、少々大袈裟なジェスチャーを加えながら喋り、いつも明るくクラスメイトたちに振舞っていた。
「ねぇ、中学生の頃の友達と、まだ付き合いある?」
「あ、いや……、友達なんかいなかったから……」
「ああ、そうか! 窪君って、なんか暗かったもんねぇー」
久しぶりとは言え、私の心に突き刺さるような言葉を、彼女は何の躊躇いもなしに言ってみせる。しかし、事実であるので反論はできない。
「お、おい、窪! お前の友達か!?」
突然、佐々木が爛々と目を輝かせながら口を挟んできたので、私は一瞬躊躇ってしまった。
「友達と言うか……、昔のクラスメイトですよ」
私が佐々木に言うと、彼は何故か強くうなずき、私の耳元に口を寄せ小声で、
「お前もついに、人様のお役に立てる日が来たな」
と、訳の解らぬ事を囁いた。
「いやぁ、どうも! 徳丸さん……でしたっけ? ……ああ、俺はこの馬鹿の面倒を良く見ている、佐々木清と言う者です」
佐々木はにやけ面で自己紹介をすると、彩に握手を求めた。
「初めまして! 徳丸彩でーす」
彩はにこやかに佐々木の握手に応じる。
なんとなく、いやな展開が私の脳裏を過ぎった。と、言うのも、佐々木は独身であり、且つナンパな男であるのだ。
「ここでこうして会ったのも、きっと何かの縁だ。彩ちゃんの予定がなかったら、今晩あたり飲みに行かない? 俺、いい店知ってるよぉ」
案の定、佐々木はそんな事を口走った。
「えっー、今晩ですかぁ? ……うーん、ちょっと無理かな。予定が入ってるの」
当然の返答であろう。私はなんとなく安心して、目の前に置かれたハンバーグ定食に手をつけようとした。と、その時……、
「明日ならいいですよ」
彩が思ってもいない発言をしたので、私はフォークにつきたてたハンバーグを、思わず取り落としそうになった。
「えっ、マジで!?」
佐々木にとっても予想外の展開であったのだろう。自分で言い出した事なのに、ずいぶんと驚いた表情をしている。
「ねっ、窪君も明日いいでしょう?」
「へっ?」
一瞬、彩が私に何を尋ねてきたのか把握できなかった。
「何か用事でもあるの?」
「い、いや、別にないけど……。も、もしかして、僕も行くの?」
「当たり前でしょう。……そうねぇ……、コンパにしましょうよ! 私、暇な友達いっぱい知ってるから」
…なんてことだ……。
少し頭痛がしてきた。私は思わず溜め息を洩らしてしまう。しかし、そんな私の態度とは裏腹に、佐々木は今にもはしゃぎださんばかりの声を上げる。
「いいねぇ! よし、男前の奴を選んで連れて行くよ! ……人数は?」
その時、厨房のほうから彩を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ヤバ! 仕事中だったんだ。へへッ……。あっ、ちょっと待ってね」
彩は苦笑いを浮かべながら、スカートのポケットからメモ用紙のようなものを取り出し、そこにボールペンですらすらと何かを書き殴って、私に手渡した。
「それ、私の携帯の番号だから、今晩電話して。えっとね、八時ぐらいなら大丈夫と思うから。絶対電話してよ」
私はしばし呆然としながらも、そのメモ用紙を受け取った。
「じゃ、佐々木さん、後日お会いしましょう」
彼女は私たちに軽くウインクを投げかけると、足早に厨房のほうへ去っていった。
「よしゃ、窪! ちゃんと彼女と段取りを取っとけよ。話が決まったら、すぐに俺のところにも電話しろ! いいか、早めだぞ!」
彩が去った後で、佐々木は私に詰め寄るようにして言うと、ようやくハンバーグ定食に手を付け始めた。
「さ、佐々木さん……」
私は呆然としたまま、佐々木の名を呼ぶ。
「なぁ〜に、心配するなって。俺に任せとけよ。明日は気合入れていくぞ!」
佐々木はいつになく上機嫌になっていた。
…コンパなんて、したことないのに……。
私は、なんとなく泣きたい気分になってきた。もともと女性と話をするのが苦手な性質である。一体、どうなってしまうのだろうか……。
しかし、この徳丸彩との出会いが、後にあの『幼児連続《切断》事件』に私たちを巻き込む事になろうとは、この時には勿論、私は思いもしていなかった……。
<2>
ファミリーレストランを出てから、私は佐々木と別れ(買い物があるとかで足早に去って行ったが、私の予想では恐らく、合コンようの服でも買いに言ったのだろう)、暫く小さな本屋で立ち読みをしていたので、如月荘に帰り着いたのは午後も六時をすぎた頃だった。
私は自室に入る前に、如月荘なる木造のボロアパートを見上げた。一階に三部屋、二階に三部屋の計六部屋が横に並んでいて、私の住んでいる部屋は、二階の向かって一番右側にある二〇三号室である。瓦敷きの屋根の上には『如月荘』と、墨字で殴り書きされたような看板が畏怖堂々と設置されていた。
あれほど快晴であった空の色は、どんよりと曇り始めていて、夕立の気配を感じさせていた。ここで一雨降れば、少なくとも気分的には涼しくなるかもしれない。
私がそんな事を思いながら、錆びの浮いた鉄製の階段を上がろうと、手すりに手をかけたとき、不意に後ろから声を掛けられた。
「やあ、窪君」
今日はなんだかよく声を掛けられる日だな、と感じながら振り返ると、そこには大きなボストンバックを抱えた背の高い男が立っていた。
耳が隠れるまで伸びた赤みのある髪。切れ長の二重瞼の瞳の色は不思議な蒼色をしていて、縁無しの眼鏡を掛けている。一本筋がはっきり通った鼻筋に、形の良い唇。百八十センチ以上はある身長に、日本人らしからぬ長い足で、ずいぶんと華奢な肉付きだ。まるで、どこかのファッションモデル誌にでも出ていそうな男……。一見して、純粋な日本人ではないらしい。混血だろう……。
「か、影戸君!」
私は彼の姿を見て、思わず叫んでしまった。
「僕が留守の間、何か変わったことはなかったかね?」
そう言う彼こそが、この如月荘の管理人、影戸輝である。
「今帰り着いたんですか?」
私は彼の元まで歩み寄った。
「見れば解るだろう? そんな解りきった事を、わざとらしく聞くのが日本人の変な癖だね」
彼は肩をすくめながらそう言うと、一度ボストンバックを地面に置いてから、鼻先の眼鏡を人差し指で押し上げた。
私は暫く、彼のその理知的な表情を見つめた。同性であるにもかかわらず、彼のその容貌にはドキリとさせられる。無論、私にはそのような趣味はないが……。しかし、長旅のせいか、彼のその表情には幾分疲れの色が見えていた。
「実は、向こうでも色々と忙しくてね、あまり睡眠をとっていないんだ」
影戸は、私の心を見透かしたかのように言うと、紺色のラフな半そでのシャツの胸ポケットからガムを取り出し、それを口の中に放り入れた。
「このガムは、ドイツで買ったガムなんだけどね、ヨモギの味がするんだ」
彼はわざとらしく渋面をつくると、苦笑いを浮かべて見せた。
「忙しかった、って……、何しにドイツまで行ってたんです?」
私が問うと、影戸は、
「アドルフ・ヒトラーの《隠された秘密》を探ってたんだ」
と、意味不明な事を言って、ハハッと笑った。そうして、一度だけ大きく背伸びをすると、再び大きなボストンバックを持ち上げた。
「さて、さすがに疲れたから少し仮眠でもとることにしよう。……窪君、あとで僕の部屋においでよ、お土産買ってきたからさ」
影戸のその言葉を聞いて、私は心底驚いた。彼は、断じてそのような事に気を使う男などではない。
「う、嘘でしょう!?」
私が頓狂な声で尋ねると、影戸はあからさまな嫌悪感を表情に出す。
「失礼な事を言うなぁ。ドイツまで行ったんだから、お土産ぐらい買ってくるさ」
「じゃあ、今ください」
影戸は、人をからかう事を生き甲斐にしているような不届きな人間だ。私も今まで、何度彼に泣かされかけた事があるか……。そうそう影戸の『罠』に引っかかってばかりもいられない。きっと、あとで彼の部屋へ行ったらこんな夜更けになに用だい? などと言って、私を笑いものにするつもりなのだろう。そうなる前に、私は素早く影戸の先手を取った。
「今は駄目だよ、僕は疲れてるんだから。あとで僕の部屋まで取りに来たまえ」
「そんなこと言って、本当はお土産なんて買ってきてないんでしょう?」
「ふん、君がそう思うのならそれで良いさ。……あとで後悔する事になっても知らないよ」
平然とした表情で影戸は言う。そこまで言うのなら、本当のことなのかもしれない。
「解りました。じゃあ、あとで行きますよ。何時ぐらいならいいんです?」
「う〜ん、一、二時間ほど眠りたいから、十時ぐらいに来てくれ。それくらいの時間なら、多分起きているだろう」
そう言って、影戸は大きなあくびをした。
「それじゃ、あとでね」
影戸は軽く手を上げると、自室(彼の部屋は、一階の向かって一番右側の部屋)のほうへ、姿を消した。
徳丸彩に自宅から電話を入れたのは、午後の八時を少しすぎた頃であった。自分のほうから女性に電話を掛けたことなど、この二十六年間のうちに一回か二回ほどしかない。それであるから、私のほうから電話を掛けるのはかなりの勇気が必要だった。しかし、絶対に電話してよ、と言われた手前、無視するわけにもいかない。
はい、徳丸ですけど……と遠慮がちな彼女の声が受話器越しに聞こえた。私は解っているくせにああ、徳丸さんですか? 窪ですけど……、などとわざとらしい台詞を吐く。さきほど管理人に注意されたばかりであるのに……。
「あっ、窪君!」
私が名前を告げたとほぼ同時に、彼女は明るい応答を返してきた。
「あ、あのぉ……」
応答してくれたのはいいが、私は何を喋っていいのか解らないため、いきなりの沈黙が訪れてしまった。
「もしもし?」
不審気な彼女の声。
「もしもし……?」
何故か私も同じ言葉を返してしまう。電波のはいりが悪いわけでもないのに……。
「ねぇ、聞こえてる?」
彼女の声はやはり不審げだ。否、もしかして煮え切らない私にいらいらしているのかもしれない。
「うん、聞こえてるよ」
「そう? なんか窪君の声が震えて聞こえるよ。電波のはいりが悪いのかな……?」
「さ、さあ、どうだろうね」
私の声が震えて聞こえるのは、決して電波のせいではないだろう。
「ねえねえ、窪君『蟋蟀(こおろぎ)』って喫茶店知ってる?」
「えっ、うん、知ってるけど……」
ここから、そうは離れていない場所にある喫茶店だ。
「じゃあさ、今から来てよ」
「へっ!? 今から?」
彩は突然に何を言い出すのであろうか。
「そうよ。都合が悪いの?」
「い、いや、別に悪くはないけど……」
「じゃ、そこで待ってるねぇ!」
「ち、ちょっと……」
私が最後まで言葉を発せぬうちに、電話は切られてしまった。
まったく予想もしていない展開になってしまった。
…どうしよ。
しかし、こうして悩んでいても仕方がない。私はすぐさま財布を手に取ると、彩の指定した喫茶店へ向かう事にした。
徳丸彩との待ち合わせ場所の喫茶店『蟋蟀』は、小さなゴシック式の建物で、茶色を基準としているようである。その建物の周りには無数の蔦(つた)が張り巡らされており、一瞬遊園地にでもあるお化け屋敷なのではないだろうか、と思わせる。
私は小さな鈴の取り付けられた扉を開けると中に入り、店内を見渡した。しかし、そこに徳丸彩の姿は見当たらない。
…まだ来てないのか。
薄暗い照明の中、私以外の客はいないようである。珈琲のほど良い香りが充満するその店内には、小さな音量でジャズが流されている。
私は一瞬迷いながらも、一番奥の窓際の席を陣取る事にした。
私が席に着くと、立派なあごひげを蓄えた店員……と言っても、彼一人しかいないから、恐らくこの店のマスターであろう……が注文を尋ねてきたので、私はとりあえずカプチーノを頼んだ。
珈琲が運ばれてきてから、私は暫くその香りを楽しんで、カップに口をつけた。中々の美味だ。ファミリーレストランで飲むインスタントなコーヒーとは比べ物にならない。……とは言うものの、私はそれほど珈琲の味が判る男ではないのだが……。
徳丸彩が店に現れたのは、カップの中身が半分をすぎた頃であった。
「ゴメーン、待った?」
水色のTシャツと黒のジーンズで現われた彩は、そう尋ねながら私の向かいに腰を下ろした。
「いや、別にそれほどでも」
なるべく笑みを浮かべながら私は返事を返す。
「そう、良かった。……あっ、マスター、私もこの人と同じの頂戴!」
彩が気軽に店員に声を掛けているところをみると、恐らくこの喫茶店では顔なじみなのだろう。
「あ、あのさぁ、徳丸さん。今晩は用事があるとか言ってなかったけ?」
私が尋ねると、彼女はぺろりと舌を出す。
「あれは嘘よ。いきなり初対面の人と二人きりで飲みに行くわけないじゃん」
どうやら、常識的な警戒心はあるらしい。
「じゃあ、コンパの話も……?」
「ああ、あれは嘘じゃないよ。でも、男性陣のおごりね」
彩は早口でそう言って、運ばれてきた珈琲に口をつけた。
私は大きく溜め息をつきながら、煙草を取り出す。
「あのさ、こんなところに僕を呼び出して……何か用事でも?」
私は少し警戒気味に声を発した。なんとなく嫌な予感がする。
「うん、用事って言うかね、ちょっと相談したい事があるの」
彼女はそう言いながら、持っていたハンドバックから煙草を取り出した。どうやら彼女も喫煙者であるらしい。
「相談……って?」
もとクラスメイトとはいえ、別に彩とは親しかったわけではない。それなのに、この私に相談とは何事だろう。
「窪君さぁ、『ヘンリーさんの館』って知ってる?」
「はあ? ヘンリーさんの館……?なにか聞いたことがあるような、ないような……」
「別府の城島(きじま)のほうに建ってある洋館なんだけど」
別府の城島と言えば、『城島後楽園』という大分では大きな遊園地が建っている所だ。日本で初めての木製ジェットコースタ『ジュピター』や楳図かずおのお化け屋敷などが有名なところだろうか。しかし、ずいぶんと山上にある土地だ。
私は首を傾げる。
「城島遊園地のアトラクションかなにかのこと?」
とりあえず、私はそう尋ねる。
「ちがうー。遊園地からは少し離れた淋しい山奥に建っている洋館のことよ」
とは言われても、そんな所へは行ったことがないので見当もつかない。
「う〜ん、知らないなぁ。……その建物って有名なの?」
「え〜っ、知らないの?」
彼女は大袈裟なジェスチャーで、意外そうな顔をした。
「ちょっと前までは有名だったよ。ほら、幽霊が出るっていう館。心霊スポットの一つよ」
「心霊スポット?」
思わぬ彩の言葉に、私はついつい素っ頓狂な声を上げてしまった。彼女はそんな私に対してうん、そうなの……と、珍しく冷静な口調で答える。
「その館には、昔『ヘンリー一家』って言うイギリス人家族が住んでいたらしんだけど、ある日、その一家が《突然の変死》を遂げたらしいのよ」
「突然の変死? ……どういうこと?」
「《一家全員の眼球が抉り取られていた》んだって……」
…一家全員の眼球が抉り取られていた?
私は生唾を飲み込む。
「一体誰が、なんでそんな酷い事を……?」
私が尋ねると、彩は少しばかり間をあけ、珈琲を口に運んでから呟くように言った。
「……それがね、《悪魔》らしいの」
「はあ? ……悪魔だって!?」
私は再び素っ頓狂な声を上げると、慌てて自分の口を手で塞いだ。そして、なんとなく声を顰めて尋ねる。
「なんで《悪魔》なんてものが出てくるのさ?」
すると彩はうん、と一度うなずき、
「そのヘンリーさんの館の主人が、なんでも悪魔崇拝者らしくって、ある日何らかの儀式を行なって悪魔を呼び出したんだって」
「悪魔召喚……?」
「詳しくは知らないけど……でも、どれもこれも《噂》でしかないから、まゆつばものよ」
「そりゃあ……、そうだろうけど」
私はカップに残っていた珈琲を一気に飲み干した。
「それにしても、心霊スポットって言うからには、なにか《デル》んだろう?」
彩は一度、長い髪を右手で撫ぜてから私の問いにうなずく。
「そうみたい。今でも目玉を抉られたままのヘンリーさんが、館の中を徘徊してるとか、異形の悪魔がその館の地下室に潜んでるとかいないとか……」
「う〜ん、よくある話だなぁ。猟奇的な殺人事件が起きた家や、首吊り死体があった樹なんかには、絶えずそんな噂が付きまとうね」
「まぁ、そうよね。私もそんなもに見たことないし……。でもね、お父さんの様子が明らかにおかしくなったのは事実なのよ」
「ふーん、そうなんだ。そういう話もよくある……」
私はそこまで言い掛けて、途中で言葉を止めた。彩の話が唐突に飛躍した感じを受けたからである。
「……へっ? 今なんていったの?」
私は一瞬、聞き間違えかと思った。しかし、彼女にそんな様子はなく、その表情は微妙に深刻なものに変わっていた。
「だからね、お父さんの態度がおかしくなったのよ」
彩はそう繰り返す。
「あのぉ、どういう意味? ヘンリーさんの館と、徳丸さんのお父さんの様子がおかしくなったのにどういう繋がりがあるの?」
「やっぱり、突然こんなこと言っても解らないわよね……」
彼女はそう言って暫く目を瞑り、ややあって彫りの深い瞼を開くと、真剣な眼差しで私を見据えた。
「もう、一ヶ月前になるんだけどね、私たち家族は、そのヘンリーさんの館に住んでるの」
「えっ、心霊スポットに引っ越してきたの? ……ど、どうしてそんなところに……」
どうやら、話の展開が妙な具合になってきたようだ。
私は一体どういうことさ、と尋ねた。すると彼女はそれがね……と始める。
「……突然なのよ。って言っても、引越しする一ヶ月前ぐらいだったんだけど……。ヘンリーさんの館に住むって言い出して。……私はその館が曰くつきだって知っていたから、そんなところに引っ越すのはいやだ、って言ったんだけど、そんな事全然聞いてくれなくて……」
「どうしてその館なのさ?」
「それがねぇ、私のお父さん、昔からその館に拘(こだわ)っていたのよ」
「どうして?」
「そんなこと、私が知らないわよ。聞いても教えてくれないし。……もしかして、値段が安かったからかなぁ」
ありえない話ではないだろう。それだけ有名な曰くつきの館なら、値段のほうも破格になるかもしれない。
「なるほどね。……それなら、あまり気にする事ないだろう? お化けや悪魔なんて、しょせんは噂話でしかないんだから」
私は、新しい煙草を口に咥えながらそう言った。
「もう、人事だと思ってるでしょう? いくら値段が安いからって以前、人が殺された部屋に、窪君だったら住む?」
彩にそう言われて、私は俯いてしまった。確かに、いくら値段が安いからと言っても、殺人現場であった場所など、気味が悪くて住む気などなれないだろう。
「……それにね、その館で《殺人事件があったのは事実》らしいの。これはね、ヘンリーさんの館を管理していた不動産屋が言ってたんだけど」
私はそれを聞いて、思わず目を丸くした。
「じゃあ、君のお父さんもそのことは直に聞いたわけだ。それでも、その館に住むと?」
「そうなの。ずいぶん執着していたわ」
「君のお母さんとかは、反対しなかったの?」
「勿論、お母さんも反対したわ。でも、お父さんはまったく聞く耳を持たなくて」
…何故だ、何故それほどまでにその館に執着する?
私は眉根を顰めて考えるが、何も思い浮かばない。
「でもね、古い感じはするんだけど、確かに大きくて立派なお屋敷よ」
彩は肩をすくめながらそう言う。
「うーん、でもそんなものなのかな。たとえ殺人があった場所だろうと、自殺者がいた場所だろうと、気にしない人は気にしないんじゃない?」
すると彩は、頭を大きく左右に振った。
「それがね、私の父さんは、そういうことをすごく気にする人なの」
「はあ?」
なんとなく、頭の中に混乱が生じる。
「なんて言うのかなぁ……、『縁起物』とか『風水』とか、そんなのはよく気にしていたの。……例えば、悪い事が立て続きに起こったりすると、近くの神社にお祓いをしてもらいに言ったりとか……。そう言う事がよくあったわ」
「それが今回に限ってない、と?」
彩はうん、とうなずいて、前髪を右手で弄る。
…ヘンリーさんの館になにかあるのか?
一瞬、私はそんな事も考えてみた。しかし、一体心霊スポットに何があるというのだろうか。
「お父さんの様子がおかしくなった、って言うのはそういうことなんだね」
私は呟くように言う。
「ううん、それ程度なら、まだ良かったんだけど……」
彼女は大きな溜め息をつきながら、そんな事を言った。
「えっ、まだなにかあるの?」
「うん……。ねえ、窪君。『祟り』とか『呪い』とか信じる?」
唐突な彼女の質問に、私は戸惑う。
「祟りや呪い? ……さあ、どうかなぁ。《ある意味》でそういうのは存在するかもしれないね」
自分自身のことながら、なんともいい加減な返答である。勿論そのあと、ある意味とはなにか、と彼女から質問が飛んでくるかとも思ったが、それはなかった。恐らく、私のその返答を『信じる』と捉えたのだろう。
「やっぱりぃー。窪君は信じるのね」
案の定、彼女はそう言って何度もうなずく。
「い、いや、信じるって言うか……、なんて言うのかなぁ……」
相変わらず、私は煮え切れない。
私が信じている祟りや呪いと言うのは、一般的に知られているそれではなくて、根本的に意味が違うものである。言葉にすると説明しにくいのだが……。例えば、信じるべきものがあり、それでいてそれが不安の要素になりうるものがあったとする。もし、ある者からその不安になるべき要素を指摘された場合、当人にとってはそれが《呪い》になりえることがあるはずだ。逆に、指摘したものは多少なりともそのことに後ろめたさを感じ、それが《祟り》になりうる場合もあるのではないだろうか。
もっと解りやすく説明するならば、一例としてこんなものがある。……仲睦まじいカップルが一組いたとする。これをA子とB男としよう。しかし、そこにB男にひそかに想いを寄せているC子がいて、C子はその二人の事を妬んでいる。ある時、C子は二人の仲を引き裂こうと、A子に『B男さんにはあなたのほかにも彼女がいるのよ』などと、嘘百八の事をA子に吹き込む。これが、いわゆるC子がA子に放った《呪いの言葉》になる。勿論、A子はその呪いを受け、不安になり、且つB男の事が信じられなくなる。その結果、思いつめたA子は自殺してしまう。……こうなるとC子は、A子が死んだのは自分のせいだ、と罪悪感を感じてしまう。そうしてある日、たまたま軽い交通事故にあってしまうのだが、それをC子はA子の自殺と結び付けて考えてしまう。これが《祟り》である。
つまり、祟りや呪いと言うのは、超常現象的なものではなく、人間の精神状態がもたらす一種の《思い込み》ではないのだろうか。……私の信じる、と言うのはそういうことなのである。
私はその事を彩に説明しようとしたが、私が声を発する前に、彼女のほうが先に口を開いた。
「父さんはきっと、ヘンリーさんの呪いに掛かっちゃたのよ。あんな館に引っ越したために起きた祟りなんだわ」
「なにがあったの?」
私は尋ねる。
すると彼女は、急に表情をこわばらせた。
そうして、恐ろしく引きつった声色で、
「悪魔め、どこで見ていやがる……!」
と、唐突に叫んだ。
<3>
『蟋蟀』を出たのは、午後の九時も半ばを過ぎた頃であった。
徳丸彩は、普段は車で別府から市内のほうに来るらしいのだが、その日は車のエンジンがトラブルを起こして修理に出している、との事で今日に限っては電車で来ていた。
私は彼女を大分駅まで送ると、一人蒸し暑い夜の街を、彼女の語った言葉を頭の中で反芻しながら歩いていた。
…悪魔め、どこで見ていやがる……か。
交通量の多い大きな交差点を抜け、人通りの少ない細くさびしい路地に入る。陰鬱に光る街灯には、不気味な昆虫たちが群がり、なにやらそこだけが宴めいて見えた。私は昆虫たちの群がるその街灯を見上げ、立ち止まると大きく溜め息をついた。
『悪魔め、どこで見ていやがる……!』
徳丸彩はそう言うと、こわばった表情を元に戻し、
『父さんがね、いきなりそんな事を言い出したりするのよぉ』
と、私の目を見つめながら言った。
彩の父親……徳丸春彦(とくまるはるひこ)は、ヘンリーさんの館に住み着きだして、どうも様子がおかしくなったという。春彦は何やら深く考えている様子で頭を抱え込んでいるときなどに、よくそんな事を口走ると言うのだ。
他にも、深夜、彩が父親の寝室の前を通ると、部屋の中から時折春彦の呻き声が聞こえてくるので、中の様子を窺ってみると春彦が酷く魘(うな)されているという。魘されながら口走る言葉は『すまない許してくれ』だとか『誰の目なんだ』など、訳の解らぬ事を口走ると言う。しかし、寝言に関しては、そういうものなのではないか、と私は彩に発言したのだが『今までそんな事はなかった』とあまり納得のいかない様子であった。
あと、春彦がなにかを突然思い出したかのように部屋の壁を叩いてみたり、庭をシャベルで掘り返したりする事もあるらしい。これに関しても、ヘンリーさんの館に越してくるまではなかった事だという。
『父さん、なんだかずいぶんやつれちゃって……』
彩は、呟くように言葉を吐き出した。
暫くの間、沈黙が私たちを包んだ。私はなんと答えていいのか解らず、ただ無意味にからになった珈琲カップを両手で弄んでいるだけであった。
…ヘンリーさんの館。
その館で、過去イギリス人家族が惨殺。
言動のおかしくなった徳丸彩の父親、春彦。
そして、その陰に見え隠れする『悪魔』……。
『ヘンリーさんの館に棲むっていう悪魔も、あながち噂だけじゃないみたいなのよねぇ』
彩はそんな事も言っていた。
『館の一部屋に、大きな書庫があるんだけどね、そういう『類』の本が大半を占めてるの』
彩の話では、その書庫はどうやら昔のまま保存されているらしく、書庫を占める大半は洋書であり、なにやらオカルトじみた本がほとんどであると言うのだ。
…ヘンリーと言う人物は、本当に悪魔崇拝者だったのだろうか? それとも、そういう類の研究をしていた人物なのか?
虫の群がる街灯から目を離すと、私は再び歩き始めた。
「へえ〜、悪魔かぁ」
影戸輝は鹿爪らしい表情で呟くと、小卓の上に置いてあったチューイングガムを口の中に放り入れた。
時刻は午後十時過ぎ……。彩と別れた私は如月荘へと戻り、管理人の影戸輝の部屋を訪れていた。勿論、影戸の言っていた『お土産』を受け取りに来たわけだが、先ほどまで彩と話していた会話の内容が頭から離れず、私はついつい影戸に、彩との会話の一部始終を話してしまったのである。
「しかし君が、珍しく夜の外出と思ったら、まさか女性と密会してただなんて……。窪君もずいぶん色気づいたもんだねぇ」
管理人は皮肉な表情で私を揶揄するようにそう言うと、ハハッと笑う。
「そ、そんなんじゃないですよ。ただ、彼女が相談したい事がある、って言うんで、僕は話を聞きに言っただけです」
私はそう弁解すると、ポケットから煙草を取り出そうとしたが、管理人の部屋は『絶対禁煙』であることを思い出し、渋々煙草の箱をポケットに戻した。
「でもさ、おかしいとは思わないかい? いくら昔のクラスメイトとはいえ、当時からほとんど話しもしたことのない君なんかに、どうしてそんな相談を持ちかけるんだ?」
影戸は片眉を吊り上げながら、私に訊いてくる。
「僕も、それは不審に思ったんで別れ際、彼女に聞いてみたんです」
「なんて言ってた?」
「窪君って、オカルト関係に詳しそうだから……って、言われました」
私がそう言うと、影戸は声を張り上げて大笑いをする。
「ハハッ! それは傑作だね。多分、彼女の思考回路では『陰気な人』イコール『オカルトに詳しい』になっているんだよ。君はそんな彼女に選ばれたんだね。ハハッ、光栄な事じゃないか」
彩は、そんなことまでは言ってなかったが……、恐らく、影戸の推測は正しいのであろう。
「まあ、面白い話ではあるね。悪魔の棲む館だろう?」
管理人は一頻り笑ったあとで、鼻先までずり落ちた眼鏡を押し上げる。
「悪魔が棲む館っていっても、単なる噂ですよ。大体、ホラー映画でもないのに、悪魔なんて存在するとは思えませんよ」
私が肩をすくめながらそう言うと、影戸は何故かにやりとした笑みを浮かべた。
「窪君。君は《悪魔》という定義を知ってるかな? これは、はなはだ厄介な問題だぜ」
「悪魔に《定義》なんてあるんですか? ……要は、怪物の事でしょう?」
私はそう即答してみせたが、管理人は不満げな顔でかぶりをふった。
「オカルト博士らしからぬ答えだねぇ」
「ぼ、僕は、そんなんじゃありませんよ」
私がそう言うと、影戸はハハッと笑って、新たなガムを口の中に放り入れた。今日の管理人は、中々上機嫌のようだ。仮眠をとって疲れも取れたのだろう。
「中世ヨーロッパの人が、どんなふうに悪魔を思い描いたか……、同時代の図像が克明に示しているんだ。鳥や魚やカメレオンの頭を持ち、胴は蛇、背中にコウモリの翼といったのが、一般的に知られている悪魔の姿だろう。……十五世紀ドイツの画家、ミヒャエル・パッハーの祭壇画には、聖ヴォルフガングの威光に圧倒されて、心ならずとも黙示録を開く羽目におちいった悪魔が描かれているんだけど、角のある頭や、カメレオンのような胴や、コウモリの羽や足といったお決まりの姿に加え、悪魔のお尻に目鼻があり、股間には恥部のように縦に裂けた、真っ赤な唇が描かれている。まさに悪魔とは、おぞましく醜悪なものだね。ほぼ同時期のマルティン・ショーンガウァー作の『聖アントニウスの誘惑』では、タツノオトシゴのようなものや、サメに似たものや、角を生やした鬼のような、色々な姿をした悪魔が描かれている。……さて、ここで悪魔のおぞましさや罪深さを表現する定式めいた一つの手法に気づかないかい?」
「手法……?」
私は、眉根を寄せて呟く。
「そう、手法さ。……魚や獣、鳥と爬虫類といったふうに、類や種の違う生き物を強引に合体させているじゃないか。類や種の違う生物の一部分をとり、組み合わせて奇妙な雑種として描かれているだろう? 部分部分が独立して、異質のもの同士が合わさると、人は何故か薄気味悪さを感じてしまう。生命のルールが蹂躙された感じを受け、そこに罪深さを憶え、おぞましさに立ちすくんでしまう。そのくせ人は、怖いもの見たさの好奇心をかきたたられたりしてしまう……。グロテスクに肥大した想像力がはぐくんだ産物だね。しかし、そうなる以前は、悪魔なんてものはもっと素朴に表現されていたんだよ。とりわけ古典的なものは『蛇』だね。窪君も『創世記』を知ってるだろう? アダムとイヴの物語だよ。……蛇はエホバの造った野の生き物の中で、もっとも狡猾とされている。その蛇がイヴをそそのかし、楽園の中央にある木の実を食べさせた。人類の楽園追放を引き起こした《元凶》さ。実際の蛇の中には毒を持っている凶暴なものもいるし、姿形が気味悪い、と言う人がほとんどだ。そうであるから、古来、蛇は悪魔のシンボルとされていたんだよ」
影戸は饒舌をふるう。相変わらず、知っていてもしょうがないような知識を蓄えている男だ。大概の場合、私はその管理人の知識についていけず、話の内容がよく理解できぬままやり過ごしてまうのが、目下のところだ。
影戸は、更に続ける。
「……そもそも、悪魔とはなんなんだろうね? ……J・Bラッセルと言う人物によると、悪魔の概念は歴史そのものであって、悪魔に関してそれ以外のことは何一つ知る事はできない、と言っているんだ。……なら、悪魔は何故に創造されたんだろうか? ……僕はね、こんな逸話を知っているんだけどね……、ギリシャ神話には『グリュプス』と言って、頭と爪はワシ、胴はライオンの怪物が登場する。スキュウティアに住み、黄金を守っているといわれていた怪物なんだ。鳥と獣の合体であって、古典ギリシアでは地と空の偉大な生きものを合わせたもの、恵みの深い大地の力、また知恵のシンボルとされていた。しかし、キリスト教は異教の聖性を剥奪するにあたって仮借がなかった。そのせいで、グリュプスは悪魔に転用されてしまった……。有名なところでは、『旧約聖書』の昔から、悪魔はサタンやルシファー、ベリアル、ベルゼブスなどの悪魔が登場するけど、それらのほとんどは、つくられたときは『善』だったんだ。でも、高慢や反逆などによって《神》に堕とされてしまった。ここで、一元説と二元説の相違が解る。一元説というのは、悪魔は独立した原理ではなく、神の被造物にほかならない、と言うもの。それに対して二元説は、《悪魔は神から独立した原理》だとされている。この二元説はそれ自体が神の全能性を否定するものであって、多くのキリスト教の教父や神秘家たちは、この問題に手を焼いてきた。仮に悪魔を《悪》に肉付けされたものとしよう。ではそもそも《悪》とはなにか? 神の欲求から創造されたはずの世界に、どうして《悪》が存在するのか? ……教父たちは考えた。《悪》が《神》から生じるはずはない。何故なら《悪》は《神》と対立するものだから……てな具合にね」
すでに、私はちんぷんかんぷんである。影戸が何を言いたいのか、何故こんな話になってしまったのか……。こうなってしまうと、言葉の通じぬ外国人と喋っているのとなんら変わりはない。
「……悪魔は独立の原理ではありえない。だってそうだろう? 存在するすべては《神》から生じたんだから。……とすると《悪》は、それ自体が《無》であって存在そのものの欠如にあたり、部分的な欠乏ということになる。存在するのではなくて《存在の影》だ。……悪魔が悪いのは生まれつきのことではない。宇宙に存在するすべてのものと同じように『善いもの』として創造された。そして、天使にふさわしいあらゆる賜物を受けていた。それがどうして《悪》となったのか? ……自らの自由意志を自由に用いて『善でないもの』、『存在しないもの』を求めたからだ。非存在へ向かうにしたがい、善であり、存在であり、実存である神から離れ、空虚に近づく。まるで台風の中心にある『目』のようなものであって、空虚であり同時に恐るべき破壊的な力を秘めているもの…。それが、《悪魔》なんじゃないかな」
影戸はそこまで言って、ようやく口を閉ざし一度だけ大きく息を吐いた。
「あ、あのぉ……、終わりました?」
私はおずおずと尋ねる。すると影戸も心得ているのか、
「ああ。君にはやっぱり難しい話だね」
と、皮肉面をして見せた。
「……それで、君の話はそれからどうなったんだい?」
影戸は優雅に長い足を組むと、そう私に尋ねてくる。
「ええ……。それが、彼女ヘンリーさんの館の事を詳しく調べたい、って言い出したんですよ」
私がそう言うと、管理人は当然だね、と肩をすくめる。
「それだけ《曰く》のある家に住んでるなら、当人としては当然の気持ちだろうね」
「そうですね」
私は影戸の言葉にうなずく。
「それで、彼女は僕にも協力してほしい、って言ってきたんです」
「なるほどね。……気の弱い君は、断る事ができずにうなずいてしまった」
私は、今度は肩を落としてうなずく。
「でも、調べるったって、なにかあてはあるのかい?」
「あてというか……、とりあえずは、彼女の言うヘンリーさんの館を見て、そこを管理していた不動産屋に話でも聞こうかと思ってるんですが……」
私がそう言うと、影戸は鹿爪らしい顔つきをして右手の人差し指と親指で下唇を揉み始める。
「それが妥当だろう。……よし、面白そうだから僕も付き合うよ」
「はっ?」
影戸の突然な発言に、私は思わずそんな声を洩らしてしまった。
「なんだいその顔は? ……別に不都合な事はないだろう」
影戸は片眉を吊り上げる。
「ま、まあ、それはそうですけど……」
「よし、決まりだね! それで、いつその館に行くんだい?」
「一応、三日後という約束をしています」
私が答えると、影戸は爛々と目を輝かせた。
「よぉし、窪君、それまでに十字架とにんにくを揃えておくんだよ」
影戸はそう言って、一人はハハッと笑った。
…それはドラキュラでしょう?
私は心の中で呟くと、影戸に向かって、右手のひらを差し出す。
「ところで、お土産ってなんなんです? もったいぶらないで、早く見せてくださいよ」
私がそう言うと、彼は訝しげな顔をする。
どうやら、また《やられた》ようだ。
「お土産? 餞別も貰ってないのに、何で僕が君にお土産なんか買ってこなくちゃならない?」
<4>
助手席で静かな寝息をたてている息子を一瞬見やり、急なカーブをなるべくスピードを落としながら、徳丸京子(とくまるきょうこ)は車のハンドルを切る。あたりは暗く、対向車も滅多にない。車のライトをハイビームにして、前方に注意深く目を配る。
…どうして、山の道路はこう急カーブが多いのかしら。
なんとなく肩に力が入り、どことなくハンドル捌きがぎこちない。大体において、京子はあまり車の運転が得意ではないのだ。それであるからして、急カーブの多い山道はよけいに神経を遣う。まして辺りは夜の暗闇だ。これに雨が降ろうものなら、京子は恐らく自分の徒歩の速さとさほど変わらぬスピードしか出せないであろう。
しかし、今回は仕方なかった。娘の車がエンジントラブルを起こして、自分が迎えに行くしか方法がないのである。最近引っ越した家の近くにはバスも通らないし、駅もない。店もなければ、周りに民家もないのである。京子はまったくもって不便を感じていた。
…どうしてあんなところに引っ越したのかしら?
京子は夫の顔を思い浮かべる。
今回の引越しに限っては、夫である春彦は異常なまでに頑固であった。家族の誰の意見も聞かず、強引に引越しを決めたのである。今までの春彦の性格からは考えられない事であった。
確かに悪い家ではない。否、むしろそれはあまりにも豪華な洋館であった。
『ヘンリーさんの館って言ってね、お化けやら悪魔が出るらしいの……』
京子の頭の中で、娘の彩が言った言葉が思い浮かぶ。
そう言えば最近、夫の様子がおかしい。まるでなにかに取り憑かれている様な……。
…まさかね……。
対向車が現れたので、京子は慌ててライトの光を落とす。
顔に吹きかかるカーエアコンの冷たい風が、どうも鬱陶しい。京子はクーラーの風量を弱める。
車内に設置された時計に、なんとなく目をやる。
十時三十三分……。彩から電話で連絡があったのは十時を少し過ぎたぐらいだった。もうすぐ別府駅に着くと言っていたので、今頃は缶ジュースでも飲みながら駅のベンチに座り、母親が迎えに来るのをまだかまだかと待ち構えているのであろう。しかし、そこに着くまでにはもう少し時間が掛かる。なにせ、思うように車のスピードが出せない。ここで急いでアクセルに力を入れて事故でも起こしたら、それこそ余計な時間をくってしまう。急がば回れだ。明日になれば娘の車も元に戻っているはずだ。迎えに出るのは今夜だけでいいのだ。遅くなっても娘がいなくなるわけではない。何も急ぐ事はないのだ。
助手席で、もうすぐ四歳になる息子の伸吾(しんご)が寝返りを打った。
「ママ、オシッコ」
突然目を覚ました伸吾は、片言でそう告げた。
この歳にしてはずいぶんと寝起きがいいな、と京子は思う。言葉を覚えるのも早い。きっと頭のいい子なのだ、と京子は自分の息子の未来に期待する。
「もう少し我慢できない?」
助手席にちらりと目をやりながら息子に尋ねるが、息子は返事を返さない。しかし、股間に手を当ててもじもじしているところを見ると、あまり時間が持たない様子である。
京子は適当な路肩に車を停め、ハザードを点滅させると、急いで車を降りて助手席に回り、小さな息子の体を抱きかかえた。
ずいぶんと重たくなったな、と思う。もうすぐ幼稚園にも行くことになる。そんな時、京子はふとして時間の流れを感じるのである。息子の成長は京子にとって、『時間の流れ』という目に見えないものに対する一種の概念でもあった。
息子の伸吾を抱えたまま、辺りを見回す。反対側の車線の向こうは樹林になっていたので、京子は車が来ないのを確認し、反対車線のほうへと息子を運んだ。そうして、ズボンを脱がせ、用を足させる。
子供を抱えて少し歩いただけなのに、京子の額には汗が滲んでいた。ポケットからハンカチを取り出すと、京子は額を拭う。とても蒸し暑い夜だ。
息子の伸吾は用を足し終わると、自分でズボンを上げ、チャックを閉める。そして好奇心の絶えない澄んだ瞳で当たりをきょろきょろと窺う。
「真っ暗だね、ママ。狼さんや熊さんは、もう寝てるのかな?」
そんな言葉を発する自分の子供が堪らなく愛しい。勿論、この近辺に狼や熊など生息しているわけではなかったが、
「そうね、森の動物さんたちはもうお休みしているのかもしれないわね」
と、優しく微笑みながら返事を返す。
そんな時、樹林の奥でガサリッと音がした。
一瞬、京子はぴくりと体を震わせ驚き、樹林の奥の暗闇へ目を凝らす。
ガサリッ
再び物音。地面に生えた草を踏み分けるような音だ。
刹那、京子は思わず悲鳴を上げそうになった。樹林の奥の暗闇に、黄色く光る小さな二つの目があったからだ。しかし、どうやらそれは、人間のものではない。何らかの動物のものだ。
ニャ〜ン
黄色に光る目玉はそんな鳴き声をあげると、ようやく京子の目の前に姿を現した。
なんのことはない、薄汚れた野良猫である。それにしても、こんなところに野良猫など珍しい、などと思いながら、京子は息子のほうへ視線を戻した。
…あれ、伸ちゃん?
京子の隣にいたはずの伸吾の姿がそこにない。慌てて周りに視線を這わせると、息子の伸吾は一人で車に戻ろうとしているとこだった。
「伸ちゃん、ちょっと待ちなさい」
京子は息子のあとを追いかける。しかし、すでに息子の体は、路上に出ようとしていた。
「伸ちゃん!」
京子の声は、小さな木霊(こだま)を残し、夜の闇に吸い込まれる。
息子の小さな背中を自分の視界にとどめながら、足早に息子に追いつこうとする。
ブォオオオオォン
車のエンジンの音がどこからか近づいてくる。
息子はよたよたと、おぼつかない足取りで道路を横断しようとしている。
ライトだ。猛スピードで路上を滑走する一台の車のライトが息子の姿を捉えた。
「伸吾、危ない!!」
悲鳴に似た叫び声をあげた京子を、息子は一瞬振り返り、そして突進してくる車に顔を向けた。
耳を劈(つんざ)くような激しいクラクションの音。けたたましい急ブレーキの音。
「伸吾ぉぉぉぉぉぉ!」
京子は喉が張り裂けんばかりに、子供の名を絶叫した。
どぉん
大きな音がしたかと思うと、息子の体は宙に浮き、京子の視界には届かない場所に飛ばされる。
…伸吾が、伸吾が轢かれた……?
自失呆然とした頭の中で、そんな言葉が京子の脳裏に浮かび、やがて消えた。
急ブレーキで止まった車の下からは、もうもうと薄い煙が湧いている。アスファルトとタイヤとが激しく摩擦したために生じた煙だ。ボンネットの左部分が著しく破損している。片側のライトカバーも割れて道路に飛び散っている。そんな車に乗っているのは、どうやら運転席に一人のようだ。京子のたたずむ場所からでは老若男女かは解らない。
運転手は、ややあって車から降りると、ぎこちない動作であたりをきょろきょろと見渡す。その様子は酷く怯えているようであった。しかし、運転手は樹林にたたずむ京子には気づかないらしく、二、三歩前後に動いたり、車腹部を覗き込んだりしている。
…若い男だ……。
京子のところから、ようやくそれだけが確認できた。男の表情までは解らなかったが、その格好や動作で若い男、と認識する事ができたのだ。
男は暫く、辺りや自分の車を気にしていたが、やがて迷いを吹っ切ったかのように運転席に乗り込むと、車を急発進させた。
京子の視界から、自分の息子を轢いた車が見えなくなる。そんな様子を、京子は暗闇が包む樹林の中で、ただ呆然と見つめていた。
…伸吾を、伸吾を探さなきゃ……。
呆然とした京子の頭の中で、そんな言葉が何度も木霊して響いていた。
【悪魔召喚の書】
まず、贄(にえ)を必要とす。老若男女は問わないが、贄の両腕、両足は必ず切断しておく必要がある。
次に、四人の処女を必要とする。一人は右腕、一人は左腕、一人は右足、一人は左足、をそれぞれ切断する。
次に、切断したそれぞれの部分を、贄の胴体につなげる必要がある。接続方法は、己の血液を染み込ませた麻糸で行う事。
次に、贄を己の眼前に置き、満月に向けて銀色のナイフをかかげ、呪文を唱える。
『カノン・ジョ・メナノ』
呪文を唱えて後、贄の腹部をナイフで切り開くと、そこより悪魔誕生する。
これ、悪魔召喚の儀式である。
【第二章 切断の密室】
<1>
…八月五日…
酷く陰鬱な曇天の空で小雨が降っているにもかかわらず、酷く蒸し暑い。
雨雨降れ降れ 母さんが
蛇の目でお迎い 嬉しいな
人通りのない細い路地を、菊池夕香里(きくちゆかり)は黄色い傘をくるくると回しながら小声で歌っていた。赤い長靴がピチピチと水溜りを跳ね上げる。
夕香里は明日、九回目の誕生日を迎える。仲のよい友達を招いて、ささやかながら自宅でパーティーを開くつもりだ。今頃母親は明日の支度のため、買い物にでも行っているであろう。本当は夕香里も母親に付いていきたかったのだが、昨日から友達と遊ぶ約束をしていたので、やむを得ず母親との買い物を断念したのであった。
今はその帰り道。
ずいぶんと疲れた感がある。これといって変わった遊びをしたわけではない。いつものように、なじみの公園で縄跳びをして遊んだだけなのであるが、酷く体がだるく感じられた。そう言えば、昨夜から喉が痛む。夏風邪でもひいたのだろうか。
夕香里は急に寒気を覚え、一瞬ぶるぶると体を震わせた。熱などでなければいいが……。明日の誕生日会が気になる。
ピチピチ チャプチャプ
わざと水溜りを蹴りながら歩みを進める。
…帰って日記を書かなくちゃ。
夏休みの宿題で、絵日記の課題が出されていた。他の宿題はほとんど終わりに近づいていたのだが、どうも絵日記だけは苦手であった。どうしても先日と同じような内容になってしまうからである。なるべく違う事を書きたいとは思うのだが、そう思えば思うほど、一日の出来事が思うように浮かばない。と言うよりも、毎日これといって変化がないのである。だからといって、小学四年生である夕香里は、その事をどう考えるわけでもなく、別段退屈だとか、毎日がつまらない、などとは思わない。しかしながら、日記に詰まるのは事実であった。
そんな時、ふと視線を感じた。
夕香里は舗装の悪いコンクリート道の水溜りから、前方に視線を向けた。
雨に濡れて暗褐色に変わった電信柱の陰から、レインコートを着た人物が夕香里のほうをじっと見つめている姿が、そこにあった。否、フードを目深にかぶっているので、本当に夕香里のほうを見ているのかは解らない。口元は大きなマスクで覆い隠されている。そのため、男か女かの判断も夕香里には難しかった。見るからに暑苦しさと、怪しさを兼ねた格好である。
夕香里はその場に立ち止まり、暫くの間そのレインコートの人物を見つめていた。
ポトポト、ポトポト、ポトポト
雨足が激しくなり、傘を打ち付ける雨の音がだんだんと明確になる。
一歩、二歩、三歩……。
レインコートの人物が、静かに夕香里のほうに歩みを進め始めた。
周りには誰もいない。ただ、雨音と水溜りを跳ね上げる音だけが夕香里の耳に聞こえる。
ピチピチ、チャプチャプ、ポトポト
そのとき夕香里は、レインコートの人物が右手になにかを握っている事に気づいた。
…あれは……?
四歩、五歩、六歩……。
夕香里は無意識のうちに、相手の歩数を数えている。
七歩、八歩、九歩……。
…あれは、金槌?
そう気づいたとき、相手はすでに夕香里の手の届く場所まで迫っていた。
酷く虚ろな瞳。
それは狂気が満ちているようにも見える。
その瞳は、酷く落ち窪んでいるようにも見える。
夕香里はフードの下から覗き見える、そんな相手の目に暫く魅入っていた。
どこからかチャイムの音が流れてきた。恐らく夕香里の通う小学校から流れるチャイムの音だろう。ここから学校まではそれほど遠くない。午後の四時を伝えるチャイムの音。
不意にレインコートの人物は右手を振り上げた。
「えっ?」
突然の事に、夕香里の口からそんな声が洩れた。
刹那、左のこめかみを鋭い衝撃が襲った。レインコートの人物が、夕香里の頭部に激しく金槌を打ちつけたのだ。
鈍い音が響く。
それと同時に一瞬、目の前が回転したかと思うと、周りの景色はすぐに真っ白になり、夕香里はその場に倒れた。夕香里の握っていた黄色い傘は空中に浮き、やがてゆっくりと地面に落下する。
遠退く意識の中、夕香里は自分のこめかみから生暖かい血液が滲み出てくるのを感じていた。
<2>
ボロボロに剥げていて、配線がむき出しになった天井が、うっすらと菊池夕香里のぼやけた視界に映った。
…ここは?
体を起こそうと上半身を床から浮かせようとしたとき、頭部がズキッと音を立てたかのように痛み、激しい眩暈が夕香里を襲った。
…ああ……。
全身の力が抜け酷く気分が悪く、瞬く間に全身から汗が噴出す。
右のこめかみに手を当てると、まだ乾ききっていない血液が夕香里の右手にまとわりついた。
夕香里はまったく状況が掴めないでいた。一体ここがどこで、どうして自分がここにいるのか。そして何故、自分のこめかみから血が流れているのか……。
…ああ、あの時、金槌を持った人が……。
消え入りそうになる意識をかろうじて抑し留めながら、夕香里はあのときの事を思い出す。一体、あのレインコートの人物は何者で、どうして自分が襲われたのか……。
…どうして? 何故?
絶え間なく、疑問と恐怖と不安が夕香里の脳裏をよぎり、底知れぬ孤独が夕香里の心を支配し始めた。
周りは暗闇である。否、仄かな白い明かりが灯っている。携帯用の蛍光灯が床に置かれてあるのだ。
何気なく、その蛍光灯に目をやる。
夕香里はそこに、異形な《物体》を見つけた。
それは一瞬、グロテスクな人形のように見えた。
両手、両足が無様に切断された、全裸の幼い子供。
それは夕香里と同じ方向で仰向けに寝かされている状態であったが、首の曲がり方が常識には考えられない角度に曲がっており、夕香里のほうを向いていた。頭部は、それが頭部だとは一見解らぬほど、半分以上が陥没している様子で、そこから流れ出たどす黒い血液が、その子供の顔面を半分以上覆い隠してこびりついている。その顔面からのぞく瞳には勿論、生気の光はなく、白く濁った眼差しが夕香里の顔を見つめていた。両手両足の切断面からは、グロテスクな血管や骨や神経部が露になっており、人形と言うにはあまりにもリアルなものだった。
…人形じゃない、本物だ!
「ひぃい!」
夕香里は小さな悲鳴を上げると、そのあまりにも無残な骸から目を逸らし、一瞬手足をばたつかせた。そうする事で、自分の手足は正常な事を確認したかったのだ。
酷い頭痛と眩暈。体をほんの少し動かしただけで気を失いそうになる。
その時である、
コツン、コツン、コツン
と、誰かの足音が夕香里の耳に届いた。その音はしんと静まり返った部屋に、不気味なほどこだまして聞こえる。
ガチャリ
何者かがドアを開ける音。
夕香里は音の主を確かめようと、ゆっくり自分の頭を持ち上げた。
そこに現れたのは、夕香里を襲ったあのレインコートの人物だった。右手にはなにか大きなものを握っている。今度は金槌ではない。あれは……、
…オノ……斧だ!
夕香里の瞳が、恐怖で凍りついた。
今度は……今度は何をするつもりなのだろう。もしかして、かたわらで横たわっている子供と同じように、自分の体もバラバラに解体するつもりなのだろうか。
そう考えると、夕香里の体は今までにないほど痙攣し始め、全身の毛穴が総毛立つのを感じた。
コツン、コツン、コツン
ゆっくりと、しかし確実にレインコートの人物は夕香里に近づいてくる。時折その足音は、床に散らばっているガラスの破片のせいでパキン、ジャリと音を変える。
「い、嫌だ、来ないで……」
今にも泣き出しそうな感情を必死で抑え、夕香里は震える声でそう訴える。
しかし、相手の足音は一向に止まない。
コツン、パキン、ジャリ
「お願いだから、おうちに帰して! パパとママのところに帰して」
ついに耐え切れず、夕香里は涙を流し始める。今すぐにでもこの場から逃げ出したかったが、頭部の傷の痛みで眩暈が生じ、体が言う事を聞かない。
そうこうしているうちにレインコートの人物は、すでに仰向けに寝ている夕香里を見下ろす形になっていた。
夕香里の視線と、レインコートの人物の視線がぶつかる。相変わらず顔面の半分は、フードとマスクによって隠されているが、その鬱とした瞳だけは確かに確認する事ができた。
狂気の光を宿したその瞳……。
鬱として、遠くを見ているようなその眼差し……。
「カノン・ジョ・メナノ……。カノン・ジョ・メナノ……」
レインコートの人物は、掠れ震えた声で何度もそう呟くと、斧を天井向けて大きく振りかざした。
「嫌ァァァァァァァァァ!」
夕香里は悲鳴を上げて、目を閉じた。
ドスッ
右の肩口に鋭い衝撃が走った。
激しい痛みと眩暈。
夕香里は恐る恐る、衝撃の走った肩口に顔を向ける。
斧が、そこに深々と刺さっているではないか。
…腕が、腕が千切れちゃうよ!
あふれ出す鮮血。それは瞬く間に床に広がり始める。
…痛い、痛いよう! パパ、ママ助けて。
レインコートの人物は、夕香里の肩口から斧を抜き取り、再び振りかざす。
「ギャヤヤァァァァァ!」
虚しくこだまする夕香里の悲鳴。
レインコートの人物は、それに構わず再び斧の刃を夕香里の肩口に叩きつける。
ドスッ
衝撃が走ると同時に、夕香里は体を横転させた。床に散らばる無数のガラスの破片が、夕香里の体にところ構わず突き刺さってくる。
…痛い、痛いよぉ!
夕香里は左手で右の肩口を押さえる。しかし、すでにそこには夕香里の右腕は存在していなかった。
…ああ、腕が、腕がぁぁぁ!
夕香里の右腕は、それがまるで別の異形の生き物のごとく、無残にも床に切り離されてあったのだ。
左手のひらにまとわりつく、どす黒い血。
レインコートの人物は、暫くそんな夕香里の姿を見下ろしていたが、やがて夕香里の体から切り離された腕を拾い上げると、四股の切り離された子供の遺体のほうへと近づいていく。
「これで《一つめ》」
レインコートの人物は、恍惚感に満ちた上擦った声で、いまだ血液の滴り落ちる夕香里の右腕を持ったまま、そう呟いた。
夕香里は消え入りそうになる意識を必死に抑し留め、残った左腕でゆっくりと床を掴む。そして匍匐(ほふく)前進の要領で、体を引きずるようにして前進させる。
…早く、早く逃げなきゃ。パパ、ママ助けてよ……。
夕香里の目の前が段々と揺らぎ始める。
外ではまだ、激しい雨が降っているようだった。
<3>
早朝ランニングは、伊勢崎喜幸(いせざきよしゆき)の日課であった。
八月六日の午前五時……。
早朝にもかかわらず、蒸し暑い空気の中で息を切らし、伊勢崎は出勤前の時間を利用していつものランニングコースを一人黙々と走っていた。リズムよく呼吸し、腕を振る。今日はなんとなく、いつもよりも体の調子がいいように感じられる。
暫く車の通りが少ない細い道路の端を走っていたのだが、視界に傾斜の緩やかな登り道が見えてくると、伊勢崎は一度そこで足を止めた。この坂道を登りきってもう少し進めば、今日のランニングも終わりである。いつもなら一気に駆け上がるのだが、どうも靴の紐がゆるんだようで、伊勢崎は道端からせり出した大きな木の陰に入り込み、そこで靴の紐を調整した。
…そろそろ、この靴も換え時だな。
靴紐の調整を終え、伊勢崎は大きく深呼吸をする。額から溢れんばかりに噴出す汗は、否応無しに伊勢崎の目の中に流れ込んでくる。それを首に巻きつけていたタオルで丹念に拭い、伊勢崎はその場で軽く両肩を回しながら辺りの様子を何気無しに窺った。
眼前に見える上り坂は、今まで走っていた道路よりも綺麗に舗装されていて、道幅も広がっており中々見通しが良い。しかし、早朝のためだろうか、車の通りは滅多にないようで、少し寂しい感がある。路肩には深い森林が広がり、伊勢崎はその路肩から一本だけせり出した木の陰で一休みしている。森林から聞こえる鳥の囀りや蝉の鳴き声が耳に心地よい。反対車線の路肩には廃墟となった大きな寂れたマンションが、ある種の不気味な雰囲気を漂わせてそこに建っている。
…幽霊マンション。
何故かその廃墟はそう呼ばれていた。どういう謂(いわ)れがあるのか伊勢崎は知らないのだが、確かにそう呼ばせしめるだけの外見ではある。
赤茶色を基調としたそのマンションは、階ごとに部屋が五つ横に並ぶ、七階建てのマンションである。伊勢崎の立っているところからは、ちょうど全部屋のベランダ側が見渡せるのだが、そのほとんどの窓ガラスが何故か粉々に割られていた。所々の部屋にはまだカーテンが残されているようで、少し前まで確かに人が住んでいた事を物語っているようでもある。一階の壁には、カラースプレーで品のない落書きがいたるところに書きなぐられているのも解った。そんなマンションの周りは、有刺鉄線の巻かれたフェンスで囲われているのだが、一箇所だけ無様に破られていて、そこから簡単にマンションの敷地内に侵入できるようになっていた。恐らくはこのマンションの噂を聞きつけた若者たちが、夜の肝試しにと、破ったものであろう。
伊勢崎は、そんな無人マンションを最上階の部屋から下の階まで、順繰りに視線を這わせていく。別に何らかの意図があったわけではない。本当に何気なく、である。
…おやっ、あれは?
伊勢崎は、一瞬自分の目を疑った。一階の向かって一番左端の部屋の窓越しに、人影が確認できるのだ。こんな早朝から、一体誰が気味の悪い建物の中にいると言うのだろう。しかも、なんだか様子がおかしい。その人影はぴくりとも動こうとしないのである。まるで蛙かヤモリのようにこちらに体を向け、窓に張り付いているような感じだ。それに加え、窓ガラスの所々が、赤く染まっているように見える。
…まさか、幽霊……!?
半信半疑ながらも、伊勢崎は目を凝らし、その人影をよく確認してみようとマンションのほうに近づいた。
…ああ、女の子じゃないか!
そこには、窓ガラス越しに助けを求めるかのような姿で、絶命している少女の姿があった……。
<4>
「ここを左でいいんですね」
双葉壮一(ふたばそういち)は新藤冴子(しんどうさえこ)にそう尋ねてから、ウィンカーをあげハンドルを左にきった。
自車につけているサイレンの音がやけに耳障りだ。
「まったく嫌になるわね。どうして次から次へ、こう嫌な事件が続くのかしら」
冴子は、薄く紫色の染めた肩まである髪を一度右手で振り払ってから、切れ長の細い目で運転席の双葉を睨んだ。
「そうですね。最近やけに物騒な事件が頻発していますね」
ハンドルを握る双葉の表情は、相も変わらず真面目な表情で前方を見据えている。
県警に連絡が入ったのは、今から三十分くらい前のことであった。
冴子はちょうどその頃、最近まで受け持っていた事件の後始末がようやく落ち着いて、自分のデスクに座って久しぶりにのんびりお茶を飲んでいた。今日一日は珍しく暇な一日になりそうだな、と思っていた矢先、突然課長に呼び出されたかと思うと、いきなり『湯布院』(ゆふいん)のほうまで行ってくれ、と要請されたのである。なんでも廃墟になったマンションの一室で、女の子の死体が発見されたと言うではないか。その廃墟のマンションが湯布院にあるというのだ。
冴子は事件の概要もろくに聞かされぬまま、毎回パートナーを組んでいる双葉と共に、追われるようにして県警を出たのである。
冴子たちの乗った車は、やがて車の通りの少ない道路に入った。どうやらそこは上り坂が山のほうまで続いているらしく、逆車線の路肩には鬱蒼とした森が続いていた。
「どうやら、あのマンションみたいですね」
双葉は少しだけ車のスピードを緩めると、前方に見えてきた赤茶色の寂れたマンションを指差した。すでに何台かのパトカーが止まっているらしく、赤く点滅するサイレンが見てとれる。
双葉はマンションの敷地内に車を乗り入れると、適当なところに車をとめる。同時に耳障りなサイレンの音も消え、冴子は一度大きな溜め息をつくと車を降りた。
「なんとも雰囲気のある現場じゃないの」
冴子は髪をかきあげながらそう言うと、目の前に建つ寂れたマンションを見上げた。
赤茶色を基調とした七階建てのそのマンション。いたるところに見える窓ガラスはほとんど割られているようである。それに、心なしか冴子はこの場所がずいぶんジメジメと湿気を帯びているような感じがした。
「冴子さん、向こうから誰か来ますよ。南署の人ですかね?」
双葉に言われて冴子が前方を向くと、周りをカラースプレーで落書きされたマンションの玄関口から、一人の小柄な中年男が駆け寄ってきた。
「いやぁ、どうも、県警の方ですな。おや、二人ともずいぶんとお若いケイジサンですなぁ。まぁ、まぁ、暑い中ご苦労様です」
男は駆け寄り一番、早口にそう捲くし立てると冴子と双葉に握手を求めてきた。
「私、南署の安土と言うものです。安土大五郎」
白髪の混じった髪の毛を丁寧に後ろに撫ぜつけた髪形に似合わず、実に飄々と喋るその中年男に、冴子は一瞬あっけに取られていたが、男の少し落ち窪んだ目に警察特有の鋭い眼光と知性を読み取ると、冴子は軽い握手を返し、笑顔を浮かべた。
「どうも、県警の新藤冴子です。こっちは双葉刑事」
双葉は冴子に紹介されてから、安土に握手を返す。
「双葉です。よろしくお願いします」
「はいはい、どうもご苦労様です。……ところで突然ですが、県警には田島君がいると思うんだけど、元気でやっとりますかな? 暫くご無沙汰してるんでねぇ」
安土は、まるで蜂に刺されたかのような真ん丸い団子鼻の頭を掻きながら、そんな事を尋ねてくる。
「ええ、まぁ。……田島警部をご存知なんですか?」
冴子は少し意外な面持ちでうなずいてから、そう尋ね返した。田島警部は冴子たちの上司になるわけだが、冴子はあまり田島の事が好きではなかった。額の禿げ上がった頭。中年太りで突き出た腹部。おまけに気が短く、すぐに怒鳴り散らす。冴子の最も苦手とする上司だった。
「ほぉ、田島君は警部になられたんかぁ。ははぁ、私はまだ警部《補》止まりなんですよ。先を越されちゃったなぁ。……いゃねぇ、田島君とは同期でしてねぇ、制服警官から地道に叩きあがってきたんですよ。出身地も同じでね……」
安土はそう言ってはははっ、と笑う。
…ずいぶんととぼけた警部補さんね。
冴子は心の中でそう呟いたが、どうやら苦手なタイプの人間ではないらしい。多分、このとぼけぶりは見せ掛けだけのものだ。本当は田島よりもずいぶん頭の切れる人間であろう。……冴子は直感的にそう感じた。
「さて、こんなところで立ち話をしてても事件解決は進展しませんからなぁ、早速現場を見てもらいましょう」
安土はそう言って、小柄な体をヒヨコのように上下させながらそそくさとマンションの中へ戻っていく。
「大丈夫なんですかね? あの人は……。あまり頼り甲斐があるようには見えませんけど……」
冴子の隣で双葉は呟くと、小さな溜め息を吐いた。
「さあ、どうかしら。とりあえずはお手並み拝見といきましょう」
冴子は前髪をかきあげると、双葉と共にマンション入り口へと向かった。
建物の中に入ると、ずいぶん不快な熱気が冴子たちを襲ってきた。一瞬にして額から汗が滲み出てきて、冴子はすぐにポケットからハンカチを取り出す。
「ずいぶんと湿気たところですね」
双葉は彫りの深い目鼻を顰める。確かに建物内の空気はジメジメと湿っている感じで、まるでサウナの中にいるようである。
「まさに、廃墟になったマンションって感じね」
冴子は天井を見上げ、そう呟いた。
天井壁は無様にも砕け落ちていて、屋内配線がむき出しになっている。その配線も所々で切断されていて、干からびた蔦のように垂れ下がっていた。足元のほうにも、砕けた天井壁の白い破片や、窓ガラスの破片が散乱しており、歩みを進めるたびにパキン、ジャリ、と嫌な音を響かせる。しかしながら、冴子たちの立っている玄関ロビーは実に広く造られており、以前ここが高級マンションであった事を伺わせているようであった。
「どうですかな? ……ここは通称《幽霊マンション》と呼ばれている場所なんです」
突然、朽ちた柱の陰から安土が声をかけてきたので、思わず冴子は一歩後ずさった。
「ああ、警部補さんですか。驚かせないでください」
冴子が安堵の溜め息をつくと、安土はクシシッと妙な笑い声を上げて、
「いゃあ、これはすいませんなぁ。脅かすつもりはなかったんですけど」
とおどけてみせた。
「……このマンションは五年前ぐらいに潰されたようでしてねぇ、まぁ、今こんな状態になっとるようですな。……しかし、それも無理はないと思いませんか? 近くに店があるわけでもないし、駅があるわけでもない。しかも、夏場はこんなにも風通しが悪く湿気が多い。住人が次々と出て行くのも無理はないですなぁ」
安土は鼻の頭を人差し指でかきながら、感慨深そうに言う。
「先ほど《幽霊マンション》、と?」
冴子は訝しんでそう尋ねた。
「そう、有名な話らしいですな。このマンションにはなにかが《デル》と……。噂じゃ、深夜二時ごろここに訪れると、何かしら呻き声のようなものが聞こえてくるらしいですぞ。新藤刑事はそういう類の話は信じるほうですかな? ……おや、双葉君のほうは顔色が悪いようですなぁ」
安土はそう言って再びクシシッ、と噛み殺したようなような笑いを上げる。どうやらこの安土と言う男は、人を脅かすのが好きらしい。
「安土さん……、いえ、警部補」
「いやいや、わざわざ《警部補》と呼んでもらわなくても結構ですよ」
冴子の言葉を途中でさえぎり、安土は年甲斐もなく唇をすぼめながら言う。
「それでは安土さん……、私たちは職業柄、幽霊やUFOやらを信じるわけにはいきません。勿論、安土さんもよくご理解なさっているとは思いますけど?」
冴子は、少々の挑発を意識してそういった。
「いやはや、おっしゃるとおりですなぁ。しかし、警察と言う組織も、しょせんは人間の集まりにすぎませんからなぁ……。なかには迷信深い人間もおるんですよ。……実は、今回の現場も一見すれば幽霊の仕業に思えるような状況なんですな」
「あら、それは素敵な状況じゃありませんか。もし、そのお話が本当ならば、犯人逮捕は難しいものになりますわね」
今度は、少々の揶揄をこめて言う。
「まったくですなぁ」
安土も負けじと、かみ殺した笑いを上げた。
「あのぉ、警部補。すいませんが早く現場のほうへ案内してもらえませんか? 我々も雑談をしにここまで来たわけじゃありませんから……。それから冴子さんも、あまり無駄口を叩いてる暇はないですよ」
不意に、憮然とした様子で双葉が口を挟んできたので、冴子と安土は同時に顔を見合わせ、肩をすくめた。
「いやぁ、それもそうですな。申し訳ない。……私は五十を過ぎてもいまだ独身なもんでして、若い女性を見ると年甲斐もなく、つい浮かれてしまうもんで……いやはや、それでは早速現場を見てもらうことにしましょうかな。……こちらです」
安土はそう言ってから、冴子たちの先頭に立ち、歩みを進める。
今まで冴子たちが話していた場所……『玄関ロビー』……を左手に抜けると、幾つかの部屋が横に並ぶ長い廊下に出た。ここもやはり、天井は砕け、足元にはガラスの破片や壁くずなどが散乱している。
どうやらこのマンションは、各階に五部屋ずつあるようでどの玄関も、マンションの外装と同じく赤茶色をしていた。そのうち、一番手前の部屋と、その右隣の玄関が開け放たれており、警察関係の人間がしきりに出入りを繰り返しているようだ。
「現場と見られる部屋は一階に二つありましてなぁ……、隣同士の部屋なんですけど……。まぁ、こちらの部屋から先に見てもらいましょうかな」
安土は言いながら、一番手前の部屋に入る。
…これは?
安土に続いて部屋に入ろうとした冴子は、ふと足元を見てその玄関口から右隣の部屋へと続いている赤い染みのようなものに気づいた。
「これは……、どうやら血痕みたいですね」
冴子の隣で、双葉が呟くように言う。
「ええ、どうやらそうみたいね。怪我をして血だらけになった足を引きずって歩いたような痕だわ……。隣の部屋へ続いてるみたいね」
その血痕のあとは、この部屋の中から隣の部屋の中へと続いているらしく、不規則な放物線を描いているようでもあった。
「県警のお二人さん、こちらへ来てもらえますかな」
安土が部屋の中へ手招きしてきたので、とりあえず奇妙な血痕を尻目に、冴子と双葉は部屋の中へ足を踏み入れる事にした。
部屋内にも、相変わらずガラスの破片や壁くずが散乱している様子で、ずいぶん杜撰(ずさん)だ印象を受ける。
「ここなんですけどねぇ……、切断された両腕、両足が発見された場所は」
ほぼ部屋の中央を指差し、安土は鹿爪らしい表情で冴子達の顔を覗う。そう言われて、冴子が安土の指差した床に目を向けると、そこには夥(おびただ)しい血痕が飛沫していた。そして、そのすぐ近くには小さな血溜まりもできている。勿論、それらはすでに凝固しているようで、玄関へと続く血痕はどうやらそこから来ているものらしかった。
「切断された両腕、両足……? あのぉ、安土さん。私たちはあまり事件の概要を上司から聞かされていないんです。ですから、現場発見の状況から説明してもらえると、ありがたいんですが……」
冴子は眉根を寄せて、血溜りから安土の顔へと視線を移す。
「おや、そうなんですかぁ。いゃぁ、急遽そちらに連絡したんでねぇ。まぁ、それも無理はないですな。……で、どこまで話を聞いておられるんです?」
「ここで少女の死体が発見された、としか聞いていませんが……」
双葉が、懐から手帳とボールペンを取り出しながら無愛想に言う。
「ふむ、確かにそうなんですが……。まぁ、最初からお話しましょうかな……」
安土はそう言って、一度だけわざとらしい咳払いをした。
「……死体が発見されたのは、今朝の午前六時になる少し前だそうで、第一発見者は毎朝ここら近所をランニングしている『伊勢崎』と言う中小企業に勤める三十代後半のサラリーマンですな。なんでも、朝早く起きて出勤前に自分で決めたコースをランニングするのが日課のようでして、毎朝五キロもの距離を走っているらしいんです。まったく、どうすれば仕事前にそんな労力を使う気になれるんでしょうなぁ。私には理解の及ばん事ですよ。確かに健康のためにはいいかもしれんが……おっと失礼、話が脱線しましたな。元に戻しましょう。……伊勢崎から南署に連絡が入って、もちろん我々はすぐに駆けつけたんですが、どうも現場の状況が尋常ではないので、県警のほうに連絡したわけです。恐らく、南署だけでは手に余る事件のようですな……」
「と、言いますと?」
双葉は安土の言葉を必死に手帳に書き込んでいる様子だったので、冴子が代わりに話の先を促す。
「少女の死体があったのは、実はこの《隣の部屋》なんですな。確か、ここは一〇一号室なんで一〇二号室で少女の死体が発見された事になりますなぁ。……少女の死体は、左こめかみに鈍器で殴打されたような痕があり……私の見た感じ、恐らく金槌のようなものでしょうな……。それから、《右腕が肩口から切断された》状態で発見されたんです。詳しい死因のほうは検案の結果待ちになるでしょうが、こめかみの傷は、致命傷と言うには少し浅すぎるようだったんで、恐らくは右肩口からの多量出血によるショック死でしょうなぁ。……まぁ、《妙な事》がもう一つだけあるんですが、それはあとで説明しましょう」
安土はそう言って、団子鼻の頭を掻く。
「少女の遺体が見つかったのは、隣の部屋なんですね? では、この場所は一体……? さきほど安土さんは『ここで切断された両腕、両足が見つかった』、とおっしゃいましたけど、少女は《右腕だけ》切断されていたんでしょう?」
冴子は髪をかきあげながら尋ねる。すると安土は大きく肩をすくめた。
「この部屋で見つかった四股は、《別もの》みたいでしてなぁ……」
「別もの!?」
冴子と双葉は、同時に頓狂な声を上げた。
「はい、そうなんです。この部屋では切断された両腕、両足が確かに発見されたんですが、隣の少女のモノとは明らかに違うようですな。まぁ、これも検案の結果が出ないことには断定できんのですが……。しかし、私の見た感じではあの四股は、一人の人間のモノでしょう。恐らく、隣で見つかった少女よりも、《もっと幼い子供の手、足》だと思いますなぁ」
「胴体部分は発見されないんですか?」
「勿論、いま付近を捜索中です。どうやら、このマンション内にはないみたいですなぁ。……果たして、首と胴体はくっついたままなのかどうか……」
言葉の内容とは裏腹に、安土の表情は相変わらず飄々としている。
「少女の、切断された右腕と言うのは……」
双葉が言い終わらぬうちに、安土はかぶりを振る。
「いやぁ、それも捜索中でしてねぇ、やはりこのマンションのどこにも少女の右腕と思われるものは発見されておらんのですよ」
なんとも陰湿な事件だ……。冴子はそう思った。確かに尋常ではないなにかが、この事件にはある。
「もう、死体のほうは運ばれたんですかね?」
冴子は切れ長の目を安土の視線に向ける。
「ええ。お二人さんが来る少し前に運び出しましたよ。季節も季節ですし、更にこう蒸し暑いマンションの中ですからなぁ、腐敗のほうも速く進むでしょうから、さっさと検分を済ませて、検死のほうへ廻しました。よろしければ、あとで写真でもお見せしましょう。まぁ、少女の身元が判明するには、もう少し時間が掛かると思いますがね」
安土はそう言って、再びヒヨコのように歩き出した。
「さて、お次は隣の部屋……一〇二号室を見てもらいましょうかな。少女の死体が見つかった部屋です」
一〇一号室を出て、すぐに隣の部屋へ入る。一〇一号室から廊下を伝ったていた血痕は、どうやらこの一〇二号室のテラスへ通じる窓際まで続いているようだった。
「そこの窓に、たくさん血痕が付着しておるでしょう。そこで少女の死体が発見されたんです」
安土は言いながらその窓際に近づいていく。冴子もそれに倣(なら)う。
その窓には血痕と言うよりも、少女の《血の手形》が沢山ついていると言ったほうが明解だろう。まるで、血液のついた手のひらで何度も窓ガラスを叩いたかのような痕で、左手のひらの痕しか見受けられない。この窓は、テラスへと続く掃き出しの大窓なのだが、血の手形はすべて窓の下方に集中しているようだ。
「安土さん、被害者の少女は一体どんな状態だったんです?」
冴子は髪をかきあげながら尋ねる。
「はい。先ほど言いましたように、右腕は肩口から切断されとりましたな。……そこの窓際で、テラスのほうを向いたまま座り込んだ状態で発見されました。まぁ、座り込んでいたと言っても、まるでヤモリのように窓に張り付いたような感じですなぁ……。誰かに助けを求めようとしたのか、それとも必死で窓を開けようとしていたのか……」
安土の言葉を聞いて、冴子はその時の少女の姿を想像してみた。勿論、いい気分ではない。
「ところでこの窓ガラス、鍵のそばが割られていますけど……、これは最近割られたものですよね? ガラスの割れた断面に埃が溜まってないし、割れ口もまだ鋭いわ」
冴子が言うと、安土は何故か苦虫を噛み潰したかのような表情になる。
「ああ、それは今朝がた我々が割ったんですよ。そこから鍵を開けてこの部屋に入ったんです。……ほとんどの部屋の窓ガラスは大抵割れているんですがねぇ、いくつかの部屋は割れずに残っとるんですよ。この部屋もその一つのようでして、《仕方なく》その窓を割って、中に侵入したんです」
「はぁ? おっしゃってる事の意味がよく解らないんですが……。玄関から入ればすむことでしょう? どうしてわざわざ、窓ガラスを割らなければ……」
すると、冴子の言葉が終わらぬうちに、安土はいやいやそれがねぇ、と首を左右に振った。
「……玄関からは入れなかったんですよ。《内側から鍵が閉められて》いましてなぁ」
「えっ!?」
冴子は思わず目を見開いた。双葉も驚いているようで、熱心になにやら手帳に書き込んでいた手が止まり、その顔が安土に向けられる。すると安土はクシシッ、と例のかみ殺したような笑い声を上げ、
「先ほど私が言った、もう一つの《妙な事》とはこの事でしてね。……要するに現場は《密室》と言うやつだったんですよ」
と、まるで気分が高揚でもしているかのように、甲高い声でそう言った。
冴子の額から、一粒の汗が頬を伝い落ちる。やけに蒸し暑い。冴子はポケットから再びハンカチを取り出し、軽く額を拭うとそれから安土に尋ねた。
「密室……。じゃあ、玄関の鍵は完全に閉まっていたんですね?」
「ええ、勿論です。大体、玄関の鍵が閉まっていた部屋なんて、このマンションの中ではこの一〇二号室だけなんですよ。他の部屋は、すべて鍵が開けられた状態でしたな。まぁ、窓のほうは鍵の閉まったままのやつが、いくつかありましたがなぁ……」
安土もそう答えながら、ハンカチを取り出し額を拭う。どうやら安土の、縒れたカッターシャツの胸元はすでに汗ばんでいるようだ。
「あのぉ、さっきから少し疑問に思ってたんですが……。ここで見つかった少女は、肩口からの多量出血によるショック死だったんですよね?」
唐突に双葉が、少し青ざめた表情で安土に尋ねる。この双葉と言う男は、『真面目一直線』という言葉がまさにぴったりと当てはまるような性格の持ち主なのだが、意外と臆病な面がある事を冴子は知っていた。
「まだ断定はできませんが……、恐らくそうでしょうな」
「と言う事は……、少女は《生きたまま右腕を切断された》と言う事になりますね……」
呟くようにそう言う双葉の顔は、さらに蒼くなる。
「そうですな。……多分、検案で少女の死体から『生活反応』が出ると思いますな」
そう言う安土は双葉とは対照的に、相変わらずの飄々とした表情だ。
その時、不意に拍子抜けするような電子音のメロディーが、どこからともなく流れてきた。
「おおっと、どうやら私の携帯のようですな。ちょっと失礼させてもらいますよ」
安土はポケットから携帯電話を取り出し耳元にあてると、なにやら一言二言電話の相手と言葉を交わしながら部屋を出て行った。
「ねぇ、双葉君……。今の着メロ、確か『一休さん』のオープニングテーマよね?」
冴子は苦笑い交じりに尋ねる。
「はい、そのようでしたね……」
双葉の先ほどまでの蒼い顔は、いつの間にか呆れ顔に変わっていた。
冴子は一度だけ肩をすくめてから、窓に設置されている鍵を注視した。どうやら鍵の形状は、一般によく目にするもので、三日月形の錠を半回転させて、外側の窓に付けられた受け金に差し込むものだが、これといって特に不審なところは見当たらない。念のために、他の窓の鍵も見て回るが、どれも同じ形状のもので、やはり不審なところはない。無論、この部屋内のどの窓にも埃や汚れが付着していて、割れている窓や罅(ひび)の入っているものなどなかった。
次に冴子は、玄関の鍵を調べてみた。
…これは、血痕ね。
玄関鍵の形状は、やはりこれも一般によく目にするシリンダー錠で、丸型の小さなつまみを横に半回転させて錠を掛けるものだ。しかし、その部分には血痕とおぼしきものが、多量に付着している。
「ねぇ、双葉君。あなたは、この現場を見てどんな感想を持ったかしら? 勿論、この現場が密室であったと言う事実も含めてよ」
冴子は双葉のほうへ向き直り、腕を組む。
「はい……、なんと言うか……、実に猟奇的な事件だと思います。鑑識の結果がある程度判明しないと解らないことが沢山ありますが、普通の神経を持った人間が起こした事件とは思えませんね。一体、失われた身体の《一部》はどこへいったんでしょう? 勿論、犯人がどこかへ持ち去ったんでしょうが……、それにしても、何の目的があってのことか、まったく推測がつきませんね」
双葉は冴子の目をしっかりと見据えてから、そう言った。
確かに双葉の言はもっともだ、と冴子はうなずく。死体で発見された体に欠損している部分があり、この現場にそれがないということは、犯人がその部分を持ち去ったと考えるのが順当であろう。しかし、その『動機』が現段階では皆目見当がつかない。死体そのものの隠蔽が目的でないのは、状況を見れば一様に察しがつくが、では一体、どんな目的が考えられるであろうか。
…死体の身元を不明にするため?
それも考えにくい。そもそもそんな事をするのならば、死体ごと隠すか、焼却したほうが確実であろう。それに、一〇一号室の死体はバラバラ(首と胴体が切り離されているかどうかは不明だが)なのに対し、この部屋で見つかった少女の死体は、《右腕のみ》が切断されている。このアンバランスな状況も、冴子の思考を混乱させる一因なのは確かだった。
「この部屋が密室だった、と言う状況は……? あなたはどう考えてる?」
冴子は髪をかきあげながら尋ねる。
「それも現段階では、なんとも言えません。……でも、現場の状況から考えると、恐らく少女は《隣の一〇一号室で右腕を切断された》んでしょうね。床にできていた血溜まりから、そう推測できると思うんですけど……」
双葉が神妙な顔つきでそういい終えたとき、まるでタイミングを見計らったかのようにやぁやぁ、と声を上げながら安土が部屋へ戻ってきた。
「……すいませんですなぁ、飲み友達から電話が掛かってきてしまいましたよ。いぇね、本当ならば明日は休暇を貰う予定でね、友人と飲みに行く約束をしてたんですけど、すっかり忘れていましてなぁ。いやはや、歳をとると物忘れが酷くなって困ります。いえいえ、勿論今晩は、赤提灯はおわずけです」
警部補は、白髪の混じった頭を右手で掻く。
「……ところで、なにやら事件の話をしているようでしたが、よければ私にもお聞かせ願いますかな?」
安土の問いに、冴子は軽く肩をすくめる。
「それほどたいした話はしてませんよ。まだまだ情報不足ですから」
「おやおや、そんな事を言って答えをはぐらかそうとしても駄目ですよ。先ほど、密室がどうこう話しておったでしょう? なにか考えがあるんでしょうに……。ぜひお聞かせください。勿論、机上の空論でも構いませんよ。現段階では」
安土はそう言って、にやりとした笑みを浮かべた。
「そうですね……。確かに先ほどこの現場を調べて、私の頭に一つの推測が浮かびましたわ。……でも、そのお話をする前に、安土さんの意見を聞かせてもらえませんかね?」
そう言って、冴子も微笑を浮かべる。
「ほほぅ、それは参りましたなぁ。私の脳も年と共に硬質化してましてな、頭を使うのは最近どうもよろしくないんですが……。まぁ、この密室状況については、先ほど鑑識の一人から、少しばかり話を聞いたんですがね」
「ぜひお聞きしたいですわ」
冴子は、わざとオーバーに両手のひらを組み合わせる。
すると老刑事は、懐から煙草を取り出し、口に咥えるといいでしょう、と肩をすくめた。
「……少女が殺害された……否、右腕を切断されたのは、恐らく隣の部屋の一〇一号室だ、と言っとりましたな。こめかみにあった殴打の痕は、腕を切断されるよりも以前のもので、鈍器のようなもので殴られたあと、この廃マンションに連れてこられたんでしょうな。……それから犯人は少女の右腕を切断した。そうして、《何らかの理由》でこの一〇二号室に少女を閉じ込めたんではないか、とその鑑識は言っとるんです。ほら、隣の部屋からこの部屋まで、なにやら引きずった様な痕があるでしょう? あれは、犯人が少女の体を引きずって、この部屋まで運んできた跡ではないですかな」
「なるほど……。しかしそうなると、鍵の問題が出てきますわね。……犯人は、もともとこの部屋の鍵を持っていたんでしょうか? そうだとしたら、事件は意外に速く解決するかもしれませんね。この部屋に住んでいた住人を調べればいいんですもの……。まあ、基本的には部屋を出るときに、鍵は不動屋さんに返すものなんでしょうけど、そんなもの、合鍵でも作っておけばどうにでもなります」
「いやいや、残念ながら話はそう単純ではないんですな……。この部屋の《鍵穴》のほうは見られましたかな?」
安土に尋ねられ冴子はいいえ、と首を振る。どうして鍵穴など見なければならないのであろうか。冴子は少しだけ首を傾げると、一応玄関の外側へ向かい、鍵穴を調べてみた。
…ははん、なるほどね。
冴子は妙に納得した気分で、再び安土のもとへ戻る。すると、それを見計らったかのように、双葉も玄関のほうへ向かっていった。
「どうです? 鍵を使うのは《無理》でしょう?」
安土は苦笑いのようなものを浮かべて団子鼻を掻く。
「確かに……、無理みたいですね。鍵穴に《沢山の細かい鉄屑が詰め込まれて》いますもの……」
「そうでしょう……。しかも、最近詰め込まれたものじゃありませんな。ずいぶん前からあのようになっておったんでしょう。他の部屋の鍵穴も、幾つかこのようになったものがあります。恐らくこの廃マンションに肝試しかなにかにやってきたものの仕業でしょうな」
そう言って安土は肩をすくめた。
「あれでは、鍵は使えませんね」
双葉も鍵穴の状態を見てきたらしく、戻ってくるなり神妙な顔つきで、呟くようにそう言った。
「そうなると残る可能性は、犯人が何らかの理由で糸やワイヤーを使い、外から鍵を閉めた……」
冴子が言うと、安土はかぶりを振る。
「残念ながら、そのような痕跡は微塵もありませんな」
「あらっ、そうなんですか? ……う〜ん、困った事になりましたわね。そうなると、この密室現場をどう説明すればいいのかしら?」
冴子は、わざと芝居掛けたように言ってみせる。
「まったくですなぁ。実に不可解極まりない状況です。……やはり、この廃マンションに巣食う幽霊の仕業でしよう」
飄々とそう言う安土を見て、冴子は困ったものだと思った。それは、この事件の不可解さに対してではなく、安土のとぼけた態度に対してである。この安土と言う男は、恐らくこの密室現場について、一つの《解答を得ている》はずだ。そうでなければ、このように余裕のある態度を見せるわけがない。
…多分、私と同じ推論を持っているはず。
冴子は髪をかきあげる。
「安土さん。そろそろ、おとぼけ合戦は終わりにしませんか? ……確かに、私と双葉君は、まだ刑事としては若い方ですけど、あまり私たちを侮らないほうがいいですわね」
冴子はわざと挑発的な言葉を選び、安土を睨んだ。
「ほほう、たいした自信ですな。……なにか考えがおありのように見受けられますが」
安土は、冴子の視線を跳ね飛ばすように睨み返してくる。
…やっと、本性を現したようね。
冴子は微笑を浮かべる。安土のその視線は、先ほどまでとはうって変わっての鋭いもので、外見からは想像できないほどに、エネルギーを持った輝きを発していた。
「この一〇二号室の鍵は、《被害者の少女自らが掛けたもの》だと思いますわ」
冴子が自信に満ちてそう言うと、安土の視線が更に厳しいものになった。双葉のほうも少々驚いた表情になっている。
「ほう。詳しくお話していただきたいですな」
安土の発声が、一オクターブ低くなった。
「ええ、いいですわよ……。先ほど安土さんは、少女は生きたまま右腕を切断された可能性が高い、とおっしゃいましたよね。私もそう思います。……少女は、隣の一〇一号室で右腕を切断された。そこまでは、先ほど安土さんに話していただいたものでほぼ間違いないでしょうね。……でも、ここからが少し違うんです。少女は右腕を切断されたあと、犯人の隙をついて一〇一号室から逃げ出したんじゃないかしら。勿論、頭部を殴打され、右腕をも切断された状態では、走って逃げるなんてことは無理だったでしょう」
「じゃあ、少女はどうやって逃げ出したと言うんです?」
双葉が眉根を寄せて尋ねてくる。
「それは廊下の血痕を見れば解るじゃない。あれは、少女の死体を引きずった跡なんかじゃなくて、少女自らが《這って》この一〇二号室まで逃げてきた跡なのよ」
「ああ、なるほど。確かにじゅうぶんな可能性として考えられますね」
双葉はうなずく。
「……しかし犯人は、逃げていく少女をおとなしく見送っていたんでしょうか?」
「まあ、そうなるわね。……要するに、犯人の目的は飽くまでも《少女の右腕だった》、と考えられるわ」
「それでは、一〇一号室で発見された両腕、両足だけのものは、発見されていない部分……つまり、《頭部と胴体部だけ》が犯人の目的だった、と言う事になりますよね?」
「そうね」
冴子は、質問を続ける双葉を一瞬横目で見やると、言葉を続けた。
「……少女はこの一〇二号室に逃げ込むと、犯人の追撃を恐れ、玄関の鍵を閉めた」
「じゃあ、シリンダー錠に付着していた血痕は……」
「ええ。恐らく少女自身のものだわ」
冴子は双葉の言が終わらぬうちに、そう言ってうなずいた。
「それから少女はあの窓まで行き、窓の鍵を開けようとしたのか、もしくは外に助けを求めようとしたのか……。いづれにせよ、そこで少女は力尽きた……」
冴子は言って、再び安土の顔を見据える。
「……いかがです? 安土さん。現段階で、最も可能性の高い推測をたててみましたけど」
冴子は再び微笑を浮かべた。
「いやぁー、参りましたなぁ。どうやら確かに、お二人さんを侮っていましたよ」
安土はそう言って、先ほどまでの鋭い眼光を消し、おだやかな笑みを顔に浮かべた。
「最近の警察は、何を考えているか解らない人間が多いですものね。頭の悪い警察が多すぎますわ。……でも、少なくとも私は違いますよ」
冴子はきっぱりとそう言う。
「はい。どうやらそのようですな」
安土はゆっくりとうなずく。
「安土さんも、先ほど私が述べた推測にすでに至っていたんでしょう? 要するに、私たちを試していた。違います? ……私たちは、合格ですか?」
冴子がおどけながら尋ねると、安土はクシシッ、と笑った。
「もちろん合格です! 捜査にご協力お願いしますよ」
そう言って、安土は恭しく敬礼をした。
【第三章 ファウストの遺志を継ぐもの】
<1>
八月七日 午前八時……。
「あれっ、今日だったけ?」
案の定、影戸輝は眠たそうに目をこすりながら、欠伸混じりにそう言う。彼はまだ、しわくちゃの白色のTシャツに黒のジャージズボンをはいていた。必要以上に逆立った髪に、鼻先にずり落ちている眼鏡……。一目で寝起きなのがわかる格好だ。
「今日ですよ。九時に別府駅のほうで徳丸さんと待ち合わせの約束をしてるんですから、早くしないと遅れますよ。……それとも、行かないんですか?」
私は冷めた視線で影戸を見やり、大きな溜め息をついた。彼の『ド忘れ』は珍しい事ではない。四日前だろうが一日前だろうが、この男は『約束』と言うものをすぐに忘れてしまう。恐らく、人生に関わる大きな約束事でさえも、この管理人は平気で忘れてしまえるだろう。
「まあ、窪君、そんなに慌てる事は無いだろう? まだ朝一の珈琲も飲んでないんだぜ。それに、寝起きのガムも噛んでない。……第一、歯も磨いてないし顔も洗ってないんだ。こんな格好のままで僕を連れ出すわけにはいかないだろう?」
影戸は面倒くさそうに自分勝手な言い訳をすると、再び大きな欠伸をした。
「約束を忘れた影戸君が悪いんです。別に無理して付いて来なくてもいいんですよ」
私は、影戸がよくするような皮肉の笑みを浮かべて言う。どうやら今回は、私のほうが影戸よりも優勢な立場にいるようだ。
「何を言ってるんだ、君は? 大体、君が付いて来てくれ、って僕に頼んだんじゃないか」
「そんなことは、一言も言ってませんよ。影戸君が勝手について来るんでしょうが」
「はぁ〜、君はすぐこれだ。ありもしない話を、すぐに自分の都合のいいものにすり替える」
影戸は肩をすくめて呆れ顔をする。
「その言葉、そっくりそのまま影戸君にお返ししますよ」
私は冷静にそう言うと、わざと腕時計を見る振りをした。
「ああ、このままじゃ遅れるなぁ」
すると影戸は分かったよ、と緩やかに頭をかきながら言い、
「すぐに支度するよ。部屋に上がって待ってるかい?」
と、尋ねてきた。
「いえ、ここで待ってますよ。早くしてくださいね」
私はきっぱりと答える。すると影戸は、再び肩をすくめてから部屋の奥へと姿を消した。
彼が部屋の奥へ消えるのを見届けてから、私は影戸の玄関口から外に出て、夕べレンタカー屋で借りてきた白いセダン車のドアを開けた。それとほぼ同時に、車内に籠もっていた熱気が私を襲い、私は堪らずエンジンを掛けると、カーエアコンのダイアルを最大にあげて冷房をかけた。影戸を待っている間、少しでも冷房を効かせておいたほうがいいだろう。どうせ車を返すときはガソリンを満タンにしなくてはならないのだ。そんなにケチケチする必要は無い。
十分ほど待っただろうか、ようやく影戸が部屋から出てきた。
「安全運転で行きたまえよ」
影戸は自分が約束を忘れていたにもかかわらず、偉そうに言ってから助手席に乗り込む。
「そのつもりですけど、命の保障はできませんよ」
私はそう言ってから、アクセルを踏んだ。
「命に保障があっても意味が無いさ」
影戸はおかしそうに小さく笑うと、チューイングガムを口の中に放り入れた。
よくよく考えてみると今日は平日だった。そのため、朝の通勤ラッシュで車が渋滞しており、思うようにアクセルが踏めないでいた。影戸の『約束忘れ』は、一応予測していたものの、肝心の通勤ラッシュは頭に入れていなかった。三年前までは、きちんとした印刷会社で働いており、毎日この通勤ラッシュを見越して早めに家を出ていたものだが、無職で三年もの月日が過ぎると、そのような習慣はすっかり抜け落ちていた。そもそも、仕事を辞めてからというもの、このような時間帯に車で出ていくことなど滅多に無かったのである。仕事を辞めたと同時にマイカーも売ってしまったし、仕事以外でこのような時間帯に出歩く必要など無かった。
「ほら見たことか。僕が寝坊してなくとも、どうせ遅刻じゃないか。……さんざん人のせいにしておいて、本当は君のせいなんだ。僕は無実だぞ、無実! 男なら、言い訳なんかするんじゃないぞ」
助手席で影戸が、訳のわからない事を独り喚く。
「よ、よくそんなことが言えますね。大体……」
私が助手席の影戸を睨み、文句の一つでも言い返してやろうとしたとき、突然管理人が前方を指差し叫んだ。
「あっ、危ない! 人が飛び出してきたぞ!」
「えっ!」
私は慌ててブレーキを踏む。キキッ、とタイヤのきしむ音。……しかし、そこに人影もなければ、前の車との車間距離もじゅうぶん開いている。
…騙された。
そう思ったのもつかの間、後方車から激しいクラクションをとばされた。
「ハハハッ、車は急に止まれない、とはよく言ったもんだ。まぁ、おかげで後ろの車に衝突されないですんだね」
影戸は愉快そうに笑い、鼻先の眼鏡を人差し指で上げた。
「運転中に何てこというんですか!? ぶつかってたら大変な事になってましたよ!」
私は憤慨して影戸に言うが、当の本人はどこ吹く風といった表情である。
「ほら、また人のせいにしてる。君が脇見をしたのがいけないんだよ。まったく、人を乗せて運転してるんだから、もっと安全運転で行きたまえ」
「危険な運転をさせてるのは、影戸君でしょう?」
私は溜め息混じりに言うと、そこで言葉を止めた。この男には何を言っても無駄なのだ。恐らく、今朝の仕返しのつもりなのだろう。……まったく困った男である。三歳の子供よりもたちが悪い。
暫くは渋滞の続く国道を走っていたが、途中で影戸がそこの脇道に入ると近道ができる、などと言って国道をそれた細い道を指差したが、私はそれには取り合わなかった。三歳児よりもたちの悪い男の言葉は、私の中ではすでに信用を失っていたのだ。影戸はそれを見透かしてか馬鹿だなぁ、と私を横目で見やりながらガムを口の中に放り入れた。
目的の別府駅に着いた頃には、約束の時間より二十分も遅れていた。私は急いで車を駐車場に止め、慌てて車を降りた。管理人も呑気に欠伸をしながら私のあとをのらりくらりとついてくる。
「そんなに慌てても仕方ないよ。遅刻は遅刻さ。もっと開き直って堂々としたまえ」
いい加減な事を言う影戸は無視して、私は駅内を見渡してみたが、徳丸彩らしい姿を見つけることができない。それでも諦めずにあちらこちらを見てまわったが、やはり彼女の姿はどこにも無かった。
「いないのかい? 怒って帰ったのかな? ……う〜ん、僕の言った近道を通ってくれば、ギリギリ八時までには間に合っていたかもしれないのにね」
影戸は皮肉な笑みを浮かべながら私に言う。まるで人事だと思っているのだろう。
「もう解りましたよ。ええ、僕が悪かったです! ……早く影戸君も徳丸さん探してください」
私は半分開き直ってそう言ったが、影戸は肩をすくめる。
「探してください、って、会ったこともない人間をどうやって探せって言うんだい?」
「ああ〜、もういいですよ。ちょっと黙っててくれませんか」
段々と苛々してくる。
「君、電話番号知ってるんじゃないの? 電話したほうが早くないかい。もしかして、彼女のほうが遅れているのかもしれないぜ」
管理人のその一言で、私の動きが一瞬止まった。
…それもそうだ。
そう言えば四日前、徳丸彩に逢った時、彼女の携帯電話の番号を教えてもらっている。確かあのメモ用紙は、二つに折りたたんで財布の中に入れていたはずだが……。
私は財布を取り出そうと、ズボンの後ろポケットに手を突っ込んだ。
「あっ!」
私は思わず頓狂な声を上げる。
「どうしたんだい?」
訝しげな表情で影戸が尋ねてくる。
「サ、サイフを家に忘れてきたみたい……です」
私が呆然としてそう言うと、影戸は大きな溜め息をついた。
「はぁ〜、君はいつもこれだ。どうしてそうドジなんだろうね」
影戸にそう言われて、少しムッときたのでなにか言い返してやろうと思ったが、何を言い返せばいいのか解らなかった。どうやら形勢は、完全に逆転してしまったらしい。私はいつまで経っても、この男の上に立つことができない。
「ど。どうしましょう……? 一度引き返しましょうか?」
おずおずと私が言うと、影戸は鼻筋に皺を寄せる。
「ここまで人を引っ張り出しておいて、冗談じゃない。なんだってまた家のほうに帰らなきゃいけないんだ」
「で、でも、彼女との連絡が取れませんよ……」
「そんなこと僕は知らないよ。……君、彼女の家がある場所は知ってるのかい?」
「あっ、ええ。一応は大まかに聞いてますけど」
「ふむ。なら何の問題もないじゃないか。その場所に行ってみよう」
「で、でも、徳丸さんがもし遅れている場合は、彼女とすれ違いになるかもしれないですよ」
「その時は、遅れてきた彼女のほうが悪いんだから、ここで待たせておけばいいだろう。僕たちが来ないと知れば、彼女も家のほうに引き返してくるさ。それか、君の携帯に……、ああ、窪君は携帯電話持ってなかったんだね……。まぁ、何とかなるさ」
影戸は平然としてそう言うと、新たなガムを口の中に放り入れた。
「さあ、窪君、さっさと出発しよう。もう約束の時間を二十分も過ぎてるんだ。僕たちが気に病むことじゃないさ。遅れてるのは徳丸と言う君の友人のほうだろう?」
平然とそう言う影戸は、どうやら自分たちも遅れてきたと言う事実をすでに頭から放り出しているようだった。
<2>
ヘンリーさんの館へは徳丸彩に案内してもらえる、とはなっから決め付けていたから、大まかに聞いていた道のりでさえ、よく頭に叩き込んではいなかった。そのため、ずいぶんと道に迷い、助手席の影戸輝からはしつこいくらいの野次が飛んできた。それらに耐えながら、ようやくそれらしき場所に辿り着いたのは正午前であった。
森林の間にできた轍(わだち)を進み、暫く緩やかな登り道を車で進んでいくと、唐突に木々が伐れ、拓けた土地にたどり着く。その森林に囲まれた土地の中央に、豪奢であるがずいぶんと古びた印象を受ける大きな洋館が建っていた。
どうやらその洋館はアール・ヌーボー調の造りを意識したものらしく、不気味な黒色を基調とした色彩で、ところどころに罅(クラック)の入った壁には、無数の蔦が絡み付いていた。いかにも恐怖映画に出てきそうな館である。さぞかし暗闇と雷の背景が似合う事であろう。
館自体の大きさは百六十u(坪数にすると約五十坪)ほどで、土地全体を入れるとしたら、恐らく五百u(約百五十二坪)は有にあるだろう。しかし、そんな広大な敷地にもかかわらず、花の一本も植わってないらしく、荒んではいないものの、いかにも閑散とした印象を受ける。
館の玄関近くには、黒色のセダンと銀色のセダン、それと赤色の軽自動車が止まっていたので、私はその近くに車を止める事にした。
「へえ〜、これが悪魔の棲む館かぁ」
影戸が車から降りる際、何故か爛々と目を輝かせながら一言そう呟いた。
蝉の声。鳥の囀り。それ以外は何も聞こえてこない。本当にこんなところに人が住んでいるのだろうか、と思えるほどの静寂……。
私は運転席を降りると、煙草を咥え火をつけた。
「ここに、徳丸さんが住んでいるんでしょうか……」
私は紫煙を吐き出しながら、館を見上げる。あの天真爛漫な性格をした彼女が、このような陰鬱な館に住んでいるとは、なかなか想像しにくい。
「そんなこと訊かれても、僕が知るわけないだろう。本人がそう言ってたんなら、ここに住んでるんだろうさ。……車も止まっていることだし、誰かが住んでいることは間違いがないよ」
影戸はガムを咥えながら、私と同じようにして館を見上げた。
私は少し気後れしながらも、玄関の前へと進み出る。私の背丈よりも倍以上はある大きな玄関で、開閉するのに苦労しそうなほどの重厚感に満ちていた。
「さあ、魔界の冒険へと出発しようではないか」
影戸が私の後ろで、実に楽しげな声を発する。このような建物を目にしても、この男はまったく気後れと言うものをしない。怖いもの知らずと言うか、ただの無神経と言うか……。
私は重厚感のある黒色の玄関のすぐ横に取り付けられたインターホンを押してみる。それと同時に、部屋内でどこかで聴いた事のあるような電子メロディーが流れた。
「はい……」
ややあって、応答の声と共に大きな扉が開いた。私はてっきり、その扉が軋みをあげながらゆっくりと開くものと思っていたのだが、予想に反して、その扉は軽々と軋みも上げずに開かれた。
「あっ、窪君……」
玄関から現れたのは、徳丸彩本人であった。しかし、彼女のその表情は四日前に見せていたものとは少々違い、なんとなく疲労の浮かんだものになっていた。私の名を呼んだ声にも張りがないように感じる。
「や、やあ。……あ、あのさ、遅れてごめんね。いやあ、思ってたより車が込んでいたものだからさ……」
私は慌てて待ち合わせ場所に遅れてきた事の言い訳をしようとしたが、徳丸彩がそれを遮った。
「あ、いいの……。私、別府駅のほうには行ってないんだ。……あのね、込み入った事情ができちゃって、そのぉ……。今朝、窪君のところに電話したんだけど、もう家を出たあとみたいだったしさ、誰も出なくて……。あっ、昨日電話すればよかったよね。……でも、そんな暇がなくて……ごめん」
そう言う彼女の様子は、やはりなにかおかしかった。
「なにかあったの……?」
私は眉根を寄せる。
「えっ、あ、うん……。ちょっとね……」
彼女は俯き加減で言葉を濁す。
「ふん、僕たちはその《ちょっとの理由》で二時間以上も待ちぼうけを喰らったわけだ」
突然、不躾な声が私の後ろから飛んできた。勿論、影戸の声である。
「えっ? あ、あのぉ」
彩は影戸の姿を見て、少々戸惑っているようだ。当然の反応だろう。
「ああ、この人は僕の住んでるアパートの管理人さんで、影戸君って言うんだ。……あんまり気にしなくていいからさ。大体、二時間も待ちぼうけなんてしてないから」
私は一応、管理人を彩に紹介しておいた。
「あんまり気にしなくていい、だって!? 君は僕の存在を否定するのかい? 君がどうしてもって言うから、僕は忙しい身を裂いてここまできたんだぞ」
影戸は相変わらず自分勝手な事を喚いている。私は、そんな彼を無視する事にした。
「じゃ、今日は都合が悪いんだね。……うん、解った。また今度にしよう」
私が彩にそう言って、玄関を閉めようとした時、
「弟がひき逃げ事故にあったみたいで、そのまま弟の姿が消えちゃったの……」
彩が、呟くように唐突に言った。
「えっ?」
私は驚いて、思わず眼を見開く。なにやら独りで喚いていた影戸も、その刹那声を止めた。
「弟って、徳丸さんの弟?」
私は訊くまでもない質問をしてしまい、その直後、動揺している自分に気づいた。
…悪魔。呪い。祟り。
私の頭の中で、そんな言葉が何度も繰り返される。何故、徳丸家にだけこのような不審ごとが頻発するのか。
「それは、いつごろの話?」
私の心中に反して、冷静な声でそう尋ねたのは管理人の影戸だ。
「窪君に会った日の、夜です……」
彼女はおもむろに答える。
「えっ、そうなの? ……四日前の晩?」
私は四日前の事を思い出す。
「そう。……あの日、窪君に大分駅のほうまで送ってもらったでしょう。あれから別府駅のほうまで電車で行って、それからお母さんが迎えに来るはずだったんだけど……、待ってても中々来なくって、家に電話したら……」
彼女は複雑な表情で髪をかきあげて、一旦そこで言葉を止める。そしてこう続けた。
「……それにね、その次の日の晩に、泥棒に入られたみたいで」
「ドロボウ!?」
私は頓狂な声を上げてしまった。
「うん。父の書斎の窓を割って入ったみたいで……。朝になるまで誰も気づかなかったの」
「家に入られた、って……、誰か家にいたんだろう?」
私は尋ねる。
「うん。皆いたけど、寝てたから。多分、深夜過ぎぐらいに入られたんだと思う。」
「警察には?」
「勿論、電話して家に来てもらったわ。……でも、お父さんは、なんだか警察を呼ぶの嫌がってたみたい」
「なにか盗られたんですか?」
影戸が尋ねる。
「それが、お父さんの大事にしていた《ノート》がなくなってるみたいで……」
「ノート、ですか? 自分のものが盗られたのに、警察を呼ぶのを嫌がってた?」
影戸は不審に思ったようで、眉間に皺を寄せた。無論、私もそうだ。
「なにか大事な事が書かれていたノートですか?」
「さあ、私はよく知らないけど……。お父さんが半狂乱に喚いていたとこ見ると、そうみたい。仕事関係のことを書いたものだ、って言ってたけど」
「他に金目のものとかは盗まれてなかったんですか?」
「ええ。それは大丈夫だったみたい」
彼女がそう答えると、影戸はふむぅ、と唸って自分の下唇を右手の人差し指と親指で揉み始めた。
暫く沈黙ができた。しかし、すぐに彩が口を開く。
「……あっ、せっかくだから上がる?」
彩にそう問われて、私は一瞬、何が上がるのかと思ったが、家に上がる?という意味だということに少し遅れて気づいた。
「あ、い、否、いいよ。なんだか大変そうだから……」
私がそう断りを入れようとしたところに、影戸が横から口を挟んでくる。
「いやぁ、そうですか? なんか悪いな〜。まあ、彼女もそう言ってることだし、窪君、少しだけお邪魔しようじゃないか」
三文役者の棒読み台詞のように影戸が言う。まったく呆れる男だ。常識と言うものを知らない。
「どうぞ。お茶か珈琲ぐらいしか出せないけど……」
彩はそう言って、私たちが入れるくらいまで玄関を開いた。
「じゃ、お邪魔しますよ」
影戸は陽気な声でそう言うと、ずかずかと玄関内に入っていた。
私は大きな溜め息をつき、独りここに残っていてもしょうがないので、仕方なくヘンリーさんの館と呼ばれる屋敷内に足を踏み入れることにした。
<3>
館の中は、外見とは違いずいぶんと質素であった。広い廊下の壁には名匠の描いた絵画も飾られていなければ、見るからに高価そうな陶磁器も飾られていない。どうやら不必要な調度品は置いていないようだった。しかし、それがかえって館の静寂さを更に煽っているようで、私には不気味に感じられた。勿論それは、徳丸彩に聞いた《悪魔が棲んでいる》という噂からくる先入観のせいであろう。その先入観さえなければ、館に置いてあるものは、一般家庭でよく目にするようなものばかりである。
広い廊下を抜けると、ただっぴろいリビングに出る。上を見上げると大きな吹き抜けになっており、二階の部屋位置がそこから大体確認できる。その更に上の天井の真ん中には、これまた大きなシャンデリアが吊り下げられていて、今は明かりが燈っていないようであったが、硝子細工の見事なシャンデリアのようであった。
そのリビングの中央には三セットのソファがコの字形に置かれていて、その一つに恰幅がよく、頭髪の薄い男が、足を伸ばし煙草をふかしながら座っている姿があった。どうやら目の前に設置されているテレビを見ているらしかった。
…徳丸春彦。
恐らくあの男が徳丸彩の父親、春彦であろう。彩は以前と比べて言動がおかしくなった、と言っていたが、見た目にはこれと言って著しいところは見当たらない。
「うん? ……こんな時にお客か?」
頭髪の薄い男は、リビングに入ってきた私たちに気づいたらしく、ゆったりとした動作でこちらに顔を向けた。彩は父親が以前と比べてやつれたと言っていたが、確かに恰幅の良さに比べると頬がこけて目のほうも少し落ち窪んでいるように見える。
「ごめん、私の友達なの」
彩は平静にそう言うと、一瞬、あたり見渡した。私は軽く男に会釈をする。
「お母さんは……?」
彩が男に尋ねる。
「さっき電話に出てから、いきなり泣き出して自分の部屋に戻ったよ。……まったく、誰からの電話かも言わない」
男は面倒くさそうに答えると、私たちを一瞥して興味のなさそうな表情を浮かべると、再びテレビのほうへと視線を戻した。ずいぶん目鼻のはっきりした彫りの深い顔だ。若い頃は中々の美青年であっただろう(痩せていればの話だが)。それにしても、平日に家にいるということは、職を持っていないのであろうか。それとも、今日がたまたま休日なのか……。否、自分の息子が行方不明になっているのだから、もしかして休暇をもらっているのかもしれない。
「こっちよ」
彩が私たちを促し再び歩き出したので、私と影戸は彼女のあとをついていった。
私たちはリビングの隅に設けられている階段をあがってすぐの部屋に案内された。
「ここが私の部屋。ちょっと散らかってるけどね」
彩は少しだけ微笑むと、扉をおもむろに開けて私たちを中に招き入れた。散らかっている、とは言っているものの、これと言って目に障るような散らかりようではない。読みかけの雑誌が数冊、床に放り投げられているだけだ。小物や洋服類はきちんと整然されているようで、少なくとも私の部屋よりかはずいぶん綺麗だった。
「ゆっくりしてていいから。私、お茶もって来るね。……あっ、珈琲がいいかな? インスタントしか置いてないけど」
「ああ、僕は珈琲がいいな」
影戸が後頭部で腕を組みながら注文する。
「じゃあ、僕も珈琲で」
私もそう答える。
「うん、解った。……あんまり部屋の中、漁らないでね」
彩は力のない微笑でそう言い残し、一旦部屋を出て行った。
彼女が部屋から出て行くと、すかさず影戸が私の肩を叩いてきた。
「さっき下でテレビを見てたのが、悪魔に取り憑かれていると言う彼女の父親かい?」
「悪魔に取り憑かれているかどうかは知りませんが、そうでしょうね」
私はその場に腰を下ろしながら答える。
「ふーん。……確かに少しおかしいね」
影戸が呟くようにそんな事を言ったので、私は訝しむ。
「おかしいって、どこがです?」
「だって、自分の大切にしてるものが泥棒に盗まれたって言うのに、警察に連絡するのを嫌がってたんだろう? 普通に考えれば、ずいぶん妙な事じゃないか。しかも、盗まれたのはただのノートだけだぜ。全人類が見逃していたとんでもない方程式でもメモってたのかな。それとも、そのノート自体に価値があるのかな? どちらにしても妙な話さ」
そう言いながら、影戸もその場に腰を落とす。確かに、彩はそんな事を言っていた。常識的に考えれば不審な心理である。警察に対してなにかやましい事があるのか、もしくは何らかの理由で、警察関係の人間に嫌悪を抱いているのか……。
ややあって部屋のドアが開き、彩がお盆に珈琲カップを三つ乗せて戻ってきた。
「ねえ、徳丸さん。さっきの人がお父さんでしょう?」
私は、彩がお盆を下に置くのを見計らってから尋ねる。
「うん、そうだよ」
彩は珈琲カップを私と影戸の前に置き、部屋の隅に追いやっていたらしい灰皿を持ってきて、私の横に座った。
「どんなお仕事をされてるんです?」
影戸がカップに口をつけながら尋ねる。
「O大学で教授をしているの」
煙草を取り出しながら、彩は答える。
「へえ、教授か! なにを教えているんです?」
影戸が興味ありげに尋ねる。
「考古学みたいです。……私はあまり興味がないから詳しくは知らないけど」
「ほう、考古学か。それは面白い! 今度機会があればゆっくりと話を聞きたいなぁ」
影戸は実に呑気な事を口にする。
「ところで、今日はお父さんは休暇なんですか?」
「今週いっぱい休みをもらってるみたいなの」
彩の答えになるほど、と影戸は肩をすくめてから、私のほうを見た。
「この前そこの窪君に、あなたの事を聞いたんですけどね……、この館の事を調べたいとか?」
「うん……」
彩は一度、紫煙を吐き出してうなずく。
「もしかして、あなたの周りで起きている不審事はすべてこの館のせいだ、と本気で思っています?」
「最近は、そう思い始めているかもしれない……」
彩のそんな答えを聞いて、影戸はパチン、と一度手を叩いた。
「ハハッ、窪君、聞いたかい? 彼女は相当に参っているようだぜ。そうとも、この不審事は全てこの館に棲む悪魔が元凶だ! さて、どうする? 信じるものは救われる、だ。信じているものを調べたって何の意味もない。神を信じる者が、果たして神の存在を調べるかな?」
影戸は、相変わらず意味不明な事を一人喚いてから、突然に立ち上がった。床に置いていた珈琲カップが倒れそうな勢いだ。
「か、影戸君……?」
私は突然立ちあがった影戸を見上げる。彼は新たなガムを二枚も重ねて、一気に口の中に放り込むと、再び鹿爪らしい表情で下唇を揉み始める。そんな管理人の行動に、彩は少々戸惑っている様子だ。
「桜丸さん……」
影戸は、鹿爪らしい表情のまま彩を見据える。
「さ、桜丸……? あのぉ、徳丸ですけど」
彩は少々影戸の態度に呆気とられている様子だったが、一応、影戸の間違いは訂正した。しかし、間違えた当人は、間違いを訂正されてもどこ吹く風、と言った表情で言葉を続けた。
「先ほどはさらりと聞き流しましたが……あなたの弟さんが《ひき逃げ》にあった、と言ってましたね。しかも、弟さんの姿がそのまま消えた……。少しばかり状況が飲み込めなかったのですが、犯人は捕まってるんですか?」
「い、いえ……。それはまだみたい」
彩は、何故か私の顔を見て答える。そんな彼女の表情はこの男は何者だ? と言いたげなものだった。
「ほほう。……しかしそれは妙ですね。ひき逃げの犯人も捕まっていない、弟さんもそのまま行方不明……。ではどうして、弟さんが《ひき逃げにあった》と解ったんです? 目撃者でもいたんですかね?」
影戸の言を聞いてそう言えばそうだな、と私は首を傾げた。確かにおかしな話ではある。しかし、彩はすぐに影戸の問いに答える。
「私のお母さんが見てたんです。……お母さんが私を迎えに行く途中で弟がトイレに行きたくなったみたいで、それで途中で車を止めて、近くの路肩で用を済ませてたみたいなんだけど、お母さんが少し目を離した隙に、弟が勝手に道路に飛び出していったみたいで……」
「そこで車に撥ねられたの?」
私は尋ねる。
「そうみたい。弟の体は車に撥ねられて随分飛ばされたみたいなんだけど……。弟を轢いた車はそのまま逃げて、お母さんはすぐに弟の姿を探したんだけど《見つからなかった》みたいなの」
「と言う事は、あなたのお母さんは、ひき逃げ犯の車を目撃しているわけだ。勿論、すぐに警察に電話したんでしょう?」
と影戸。
「確かにお母さんは、ひき逃げした犯人の姿を確認してるみたい。若い男だった、って言ってた。……でも、すぐに警察には連絡しなかったみたいなの。お母さん、携帯電話も持っていないし、近くに公衆電話とか民家もなかったみたいで、暫く一人で弟の姿を探していたらしいの……。でも、結局見つからなかったみたいで、一度家に戻ってから警察に連絡したみたい」
「なるほどね……」
影戸は呟くように言って頷くと、再びどかり、と床に腰を落とした。
私は、そんな影戸を横目で見ながら、煙草を口に咥えた。彩の話では、ひき逃げの事件自体は、よくある話のようだ。しかし、妙なのは《轢かれた当人の姿が消えた》と言う事だ。そんなことが実際にありうるのだろうか。人を轢いた犯人が逃げるのは解るが、轢かれた当人が逃げるはずもない。そもそも、車に撥ねられた体で、どうやって姿をくらませられると言うのか……。
「ねえ、徳丸さんの弟って、何歳なの?」
私は一度紫煙を吐き出してから、彩に尋ねる。
「えっ、伸吾? ……三歳よ。もうすぐで四歳になるはずだったんだけど」
私はそれを聞いて、随分と驚く。
「そんなに弟と歳が離れてるの?」
「うん。二十二歳離れてるかな。自分の子供でもおかしくないよね」
彩は言って、苦笑いを浮かべる。そうして、なにか言い掛けようとしたようだったがそのまま俯く。
「でもさ、伸吾君……だっけ? ……伸吾君の姿が見つからないって事は、車に撥ねられても自力で動けるほどの怪我だったって事にならないかな?」
三歳の幼子が、車に撥ねられてぴんぴんしてるとは思えないが、私は一応、彩に希望を待たせるためにそんな事を言ってみた。しかし、すぐに影戸が水を差す。
「姿が見つからないんじゃ、ぴんぴんしててもしょうがないだろう。もしかして、伸吾君の体は思いも寄らない所まで跳ね飛ばされて、そのまま放置された状態になってるかもしれない。大体ね、車に轢かれた場合は車腹部に巻き込まれる場合がほとんどなんだよ。だからね、車に轢かれた瞬間に轢かれた当人の身体が中空に飛んでいくと言うのは余程のタイミングが重ならなければ起きない現象なんだ。しかも、中空に浮かんだならばその後地面に叩き付けられる」
「ち、ちょと、影戸君……」
私は慌てて、影戸の口を塞ごうとする。よくもこのような無神経な事を平然として口にできるものだ。本当にこの男は読んで字のごとく、神経が無いのかもしれない。
「何をするんだ窪君。そんな子供みたいな真似はやめたまえ。僕は可能性の一つを挙げただけじゃないか。希望的観測ばかりを描いてちゃ、人間は真実を受け止められないものだよ」
影戸は鬱陶しそうに私の手を振り払いながら言う。
「希望的観測とか、真実とかそういう問題じゃないでしょう? ……大体、僕たちはこの館の事を調べるためにここに来たんですよ」
私は憮然としながら彼に言う。
「ほう、君は冷たい男だねぇ。自分に関係ないことは、たとえ昔のクラスメイトの弟さんの安否でさえも無視するのかい?」
影戸は皮肉な笑みを浮かべる。
「そんなことは言ってません。ただ、根拠のない憶測……ましてや徳丸さんの弟の安否を根掘り葉掘り他人の僕らが勝手に喋るのはどうか? と言ってるんです」
「いいのよ、窪君……」
突然彩が、憂鬱そうな表情で私の言葉を制する。
「……弟が生きていようが死んでいようが、車に撥ねられたのは事実なんだから……。たとえ無事だったとしても、五体満足な状態とは思えない」
「徳丸さん……」
私は今更ながら、なんだか酷く彩が気の毒に思えてきた。
それから五分間ほど、沈黙が流れた。彩は新しい煙草を取り出し口に咥えてはいるが、火をつける気配はない。影戸は空になった自分の珈琲カップを恨めしげに見つめている。
「あっ、コーヒー持ってこようか?」
彩は影戸の様子に気づいたらしく、慌てて立ち上がる。
「ああ、いいですよ、お構いなく……。それよりも、もしよければこの館の中を散策させてもらいたいんですけど。勿論、ご家族の方に迷惑はおかけしませんよ」
影戸は縁無しの眼鏡を人差し指で押し上げながら、彩にそう尋ねた。
「それは構わないけど……、別に珍しいものはないですよ」
彩は少し戸惑い気味に答える。
「それはどうですかね。この館には悪魔が棲んでいるんでしょう? 悪魔なんて滅多にお目にかかれるものじゃありません。すこぶる珍しいものですよ。ねえ、窪君」
影戸は愉快気に言ってから、私の肩を叩いた。
「は、はあ……」
彩は溜め息とも返事とも取れぬ声を出す。
「……解りました。案内します……」
随分と憔悴したような彩の声。
やはり、影戸は連れてくるべきではなかった。後悔先に立たずとはよく言ったものだ……。
無論、どこの部屋にも《悪魔》とおぼしき存在はなかったし、彩の言うとおり珍しいものもなかった。下でテレビを見ていたはずの、彩の父親の姿もそこにはなく、さすがの影戸も両親の部屋をみせてくれ、とまでは言わなかった。ただ、どこの部屋も昼間だと言うのに薄暗く(館の周りに生い茂る、背の高い森林のせいで、日光があまり窓から入ってこないせいだろう)、確かに悪魔だの幽霊だのが出そうな雰囲気は、どの部屋も持っているようであった。広大で部屋数が多いためか、まったく使っていない部屋もいくつかあるようだ。と言っても勿論、映画に出てくるように蜘蛛の巣や鼠が徘徊しているわけではなく、使われていない部屋もきちんと掃除はされているようだった。
私たちは彩に案内されながら、それらの部屋を見ていった。館を散策させてくれ、と言った当の本人も、別にこれと言って何らかの意図があるようではなく、鹿爪らしい表情で一人頷きながら、なにやらぶつくさと訳のわからない事を呟いているだけだ。
「えっと、ここが書庫よ」
私たちは、両開きの木製のドアの前に立っていた。彩はその扉のノブに手を掛けながら言う。
「確かここは、昔のままで保存されていると言ってましたよね?」
影戸が、古びたドアを見上げながら彩に尋ねた。
「ええ。……でも、私は一回しかこの部屋には入ったことがないわ。気味の悪い本ばかり置いているから、あまり近づきたくないの。……でも、お父さんは、よくこの部屋を出入りしていみたい」
彩はそう言ってから、ドアを開く。それと同時に、わずかにくすんだ臭いが流れてくる。古びた本の臭いと、カビの臭いが入り混じったものだ。
「わぁー、すごい……」
一歩その部屋へ入って、私は思わず感嘆の言葉を洩らす。その部屋は他の部屋よりも倍近く間取りが広く取られており、所狭しと木製の背の高い本棚が整然と並べられていた。その本棚には隅から隅まで本がぎっしりと詰まっており、ちょっとした図書館のようである。
「窪君、見たまえ! これは中々大したコレクションだぜ」
影戸の声に気づくと、彼はいつの間にか部屋の真ん中あたりまで進んでおり、すでに並べられた本を物色している。そんな影戸の表情は、無邪気な子供のように爛々としていた。
「へえ〜、《ソロモンの鍵》かぁ。物好きな本を持っているね。ほら窪君、この本は《悪魔学指南書》だぜ」
影戸はそう言いながら、手に持っていた本を私に手渡す。しかし、私は手渡された本を見ても何も解らない。何せ、文字が全て英文なのである。
「僕の知人もそれと同じものを持っていてね。……まぁ、彼の場合は宗教学的な資料として、その本を持ってたみたいだけど……。僕もね、少しだけ読んだ事があるんだ。それにはね、《悪魔との契約の仕方》が書かれてあるんだ」
「悪魔との契約?」
私は眉根を寄せる。
「う〜ん、内容はあまり覚えてないけど……、確か、その本には悪魔契約の《方式》が書いてあったな……。ちょっと貸して」
影戸はそう言って、先ほど取り出して私に手渡した本を再び手に取り、慌ただしくページをめくる。彼は、英文を苦もなく読めるようだ。
「……ほら、ここに書いてあるよ。……『まずは叛逆(はんぎゃく)の王、ルシファーに呼びかけ契約を結びたいデーモンを呼び寄せる』……ってね。……ふむふむ、へぇー、悪魔との契約期間って、二十年と言うのが相場なんだね」
影戸は一人頷きながら、ページを捲っていく。そのうち彼は、その本に没頭してしまったようで、一言も口を聞かなくなってしまった。
私はそんな影戸を尻目に、書庫の中を一通り歩いてみる。
「うん? 日本語タイトルの本もあるね」
私は何冊か英文タイトルの中に和文のものが混ざっているのに気づき、それの一つを手にとって見た。しかしそれらは全て和訳されて出版されたものらしく、原書は英文なのであろう。やはり内容は悪魔に関するものがほとんどであった。
私も暫くは、その本を読んでいたが、ややあって本を戻し、再び整然と並んだ背表紙に目を配った。その時、不意に私の目に飛び込んできたものがある。
しかし、それは本ではない。
額に入れられ壁に掛けられていた、肖像画だ。否、これは古版画だろうか。
頭髪の薄い老人の肖像画のようだ。口をすぼめ、やや俯き加減の上目遣いでこちらを見ている。頭髪は薄いが、立派な鼻髭がある。老人の両目はどうやら開いているようであったが、どこを見てるふうでもないあやふやな視線が不気味で、なんとなく爬虫類の目を私に連想させた。
「その肖像画、なんだか気味悪いでしょう?」
私の後ろで、突然彩が声を掛けてきた。
「う、うん。確かに不気味な肖像画だね……。誰なんだろう? もしかして、昔ここに住んでいたヘンリーさんかな?」
私は彩に尋ねるが、彩は首をかしげてさあ……、と一言呟いただけだ。
「その老人は、黒魔術師ファウスト博士だよ」
突然、そんな声が聞こえてきたので、私はこの肖像画が喋りだしたのかと思って随分驚いたが、後ろを振り返るとすぐそこに影戸が立っていた。どうやら読書にはもう飽きたらしい。
「ファウスト博士……」
私は呟く。すると影戸は、鼻先の眼鏡を押し上げながら肖像画のほうへと更に近づいた。
「君たちも《ファウスト博士》ぐらいは知ってるだろう? 悪魔メフィストと契約を交わした人物さ。もっとも有名な錬金術師じゃないかな。彼に関する読み物は、それこそ無数に存在するよ。……ファウスト伝説には色々と面白いものがあってね、悪魔と契約を交わし、地上の快楽のかわりに魂を売り渡したとか、炎の中からいくつも黄金を作り出したとか……、挙げれば限がない」
「ええ、私知ってるわ」
彩は頷きながら、古版画を見つめる。確かにファウスト博士なら、無知な私でも名前ぐらいは聞いたことがある。
「ファウスト博士って、実在した人物なの?」
彩は影戸のほうを向いて、そう尋ねた。
「本当に悪魔と契約したかどうかは解らないけど、ドクトル・ファウストなる錬金術師が実在したのは事実みたいだね。錬金術師と言っても、本当に価値のない鉛を黄金に変えれたのかどうかは眉唾物だけど」
「手品を見せて領主とかを騙してたのが錬金術師だ、とか書いてる本をどこかで読んだ事がありますけど」
私は言う。
「さあ、どうだろうね。タイムマシーンでもあれば、当時の世界に行って確かめられるんだけどね。無論、僕は神秘主義者じゃないからそんなものは信じていないよ。……ところで、ファウスト博士の最期を知ってるかい? これにも色々な説があるんだけどね……」
「さあ……?」
私と彩は、同時に首を傾げた。
「ドイツの南端に《黒い森》と呼ばれる広大な森林地帯があるんだけど、その森のほとりにシュタウフェン・イム・ブライスガウ、と言う小さな町があるんだ。国境をはさんでスイスの古都バーゼルに近いところさ。人口は四千人あまりで、ゴシック様式の教会がとても美しいところでね、その教会前の広場に古雅な泉水があって、澄んだ水が溢れているんだ。町の背後にはこんもりとした丘があって、その丘の上にかなりの規模をもった城跡があるんだ。機会があれば一度訪れてみるといい。とても静かでいい所だよ。でも、この小さな町がファウスト博士終焉の地と言われている。……西暦一五三九年、十六世紀のある年、真夜中近く、なにやら大きな音がしたそうだ。市庁舎前の広場に面したところに《獅子亭》と言う旅館があるんだけど、音はその旅館から聞こえたらしい。その直後、その獅子亭に逗留していたはずのファウスト博士の姿が、影も形もなく消え去ったと言われている。おりしも、その日は悪魔メフィストとの契約期限の二十四年が過ぎた頃だそうだ。悪魔メフィストはファウスト博士の頚骨をへし折って、永劫の罰を下したと言われている。真夜中近くに聞こえた大きな音はそのときに生じた音で、そのあと悪魔メフィストは、ファウスト博士の亡骸をひっさらって空中に飛び立ったそうだよ。その証拠に、市庁舎の塔に登る階段の最上階に、いわくありげな《足跡》が残っているんだ。爪先がカギのようにとがっていてね、空中に飛び立つ際、悪魔が踏ん張ったときにできた足跡だと言われている。……ファウスト博士の逗留していた獅子亭には、読みにくい古文体で記された、こんなで出しの銘文がある……『西暦一五三九年 当地におきて黒魔術師ファウスト博士死せり』……」
影戸はそこまで言って、にやりと笑った。
「それ、本当の話なんですか?」
私はほとんど呆然としながら、影戸に尋ねた。
「本当か嘘かなんて僕が知るわけないだろう。ただの伝聞に過ぎない」
「でも、悪魔の足跡とかは本当に残っているんでしょう?」
と、彩。
「確かに残ってはいるけど、悪魔の足跡かどうかは怪しいものだね」
影戸は肩をすくめてそう答えると、ファウスト博士の肖像画から目を離し、彩のほうを向いた。
「さて、一通りの部屋は見終わりましたよね? ……どうやら、悪魔さんはどこかに身を潜めているようだ。お目にかかれなくて残念です」
芝居掛けたように影戸は言ってから、今度は私のほうへ視線を向けた。
「さあ窪君、僕たちはそろそろ帰ろうか。彼女も色々と大変そうだから」
そう言って、ポケットからガムを取り出した。そんな影戸の言葉を聞いて私は何を今更、と思うのだが、口には出さない事にする。
その時、不意に彩があっ、と声を上げた。
「……そう言えば、地下室があるわ。何もない狭い部屋が一つあるだけだけど」
それを聞いた私は、影戸の顔を見た。
「ふ〜ん、地下室ねぇ。……ついでだから見ておこうか、窪君」
彩の言う《地下室》への入り口は、どうやら外からのものらしく、私たちは一旦玄関から外へ出た。
「こっち側に入り口があるの」
彩はそう言いながら、私たちを館の東側へと誘導する。
「地下室って、どんな部屋?」
私は歩きながら尋ねる。
「地下にある部屋だろう」
影戸は言って一人ハハッ、と笑う。そんなことは言われなくても解っている。そもそも影戸に尋ねたわけではない。
「狭い部屋よ。……多分、昔は酒造庫かなにかだったんじゃないかな? それっぽい棚とかもあったし」
彩は言いながら、前方のほうを指差した。
「ほら、あの扉から中に入れるの」
確かにそこには、古びた木製のドアがあるようだった。私たちは、その扉まで近づく。
すると、彩があれっ? と不審気な声を上げた。
「鍵が掛かってる……」
彩がそう言ったので、私と影戸は彩の背後からドアノブを覗き込んだ。
そのドアには、留め金式の錠が外側に取り付けられているらしく、さらにその留め金のところにまだ新品と思えるほどの南京錠が付けられてあった。どうやら、その南京錠をはずさない限り、ドアは開きそうにない。
「……いつの間にこんな鍵つけたんだろう? ……多分、お父さんだわ」
彩は肩をすくめて、私たちの顔を交互に見た。
「その南京錠は、まだ新しいね。最近つけたものみたいだ」
影戸も肩をすくめてそう言う。
「地下室に続く木製の階段があるんだけど、ちょっと腐れがきていて危なかったからね。それでお父さんが鍵を掛けたんだと思うけど」
「なるほど。踏み崩しちゃうかもしれないもんね。結構深いんだろう?」
私が彩に尋ねる。
「う〜ん、地下三メートルぐらいだったと思う。書庫と一緒で、一回しか見たこと無いから、よく解らないけど」
彩がそう答えている間に、影戸が南京錠をためしにと引っ張っていたが、どうやら開く気配がないらしく、彼はすぐに諦めて踵を返した。
「だめだね。鍵がなきゃ開かないよ。……まったく、もう帰ろう窪君。外は暑くてしょうがない」
どうやら影戸は、もうこの館を見飽きたらしい。勝手な男だ。
「鍵、借りてこようか?」
彩が訊いてくる。
「否、いいよ。別に徳丸さんが地下室に入ったときも珍しいものはなかったんだろう?」
私がそう尋ねると、彩はうんと頷く。
そんな時、不意にくるまのエンジン音が近づいてきた。
「誰か来たのかな?」
彩が呟きながら玄関のほうへ踵を返したので、私と影戸もその後をついて行った。お客が来たのなら、なおさら私たちはお邪魔虫になる。昼食も摂っていないので腹も空いていた。そろそろ帰るべきだろう。
しかしこの館に近づいてきた車は普通の車とは違っていた。見た目は普通のセダン車と変わらないのだが、運転席の上方に丸い赤色灯が取り付けられていたのだ。
それは、覆面パトカーだった。
<4>
「まったく、困ったもんですなぁ。急に電話を切られては詳しく話すこともでない。まあ、当然の心理かもしれませんがね」
安土大五郎は煙草を口元で上下させながら、緩やかにステアリングを右にきった。随分と安全運転を心がけているようで、スピードが制限速度を一キロも超す事はない。
「菊池さんの方は、双葉君に任せて大丈夫だったのかしら……?」
新藤冴子は助手席で、一人呟くように言って前髪をかきあげる。
「見たところ、彼は今時珍しく真面目な青年ですなぁ。まったく感心しますよ」
安土はそう言って、クシシッと笑った。
「真面目すぎて、ちょっと面倒ですけどね」
冴子もそう言って、少しだけ声に出して笑う。
先日、湯布院の廃マンションで発見された二つの遺体(一つは未だ四股しか見つかっていないため、死亡が確認されているわけではなかったが捜査本部は《生きてはいないだろう》と言う線で捜査を続けている)の身元が、つい数時間前に判明した。
少女の方は『菊池夕香里』と言う名で、九歳の少女だった。両親からの捜索願いが警察に届けられた直後に死体が発見されたと言う具合である。
もう一方の《四股だけ》の身元は『徳丸伸吾』と言う、今年で四歳になる幼子の四股であることが判明した。こちらの方も捜索願いが出されていたわけなのだが、しかし普通の状況に比べると少々《特殊》、あるいは《奇怪》と言いざるを得ないものであった。冴子たちの聞いた話によると、徳丸伸吾は数日前、ひき逃げの事故に合い、そのまま姿が《消えてしまったと》言うのだ。その子供の四股が何故、廃マンションで見つかったのか……。なんとも奇妙な話である。しかも、子供を轢いたとされる車及び、犯人はまだ特定できていない。
冴子たちはそのような事実を確認した上で、子供たちの両親に連絡した。菊池家の方は電話で連絡し、警察のほうまで遺体確認を願うよう要請して了承を得る事ができたのだが(今恐らく、警察のほうで双葉壮一が夕香里の両親に対応しているはずである)、徳丸家の方は、発見された四股が伸吾のものである、と伝えた途端、電話を切られたのである。電話を入れたのは安土で、電話に出たのは徳丸伸吾の母親、京子のようであった。随分と取り乱した様子で電話が切られた、と安土は言った。
そのため、冴子と安土は電話での連絡を断念し、直接徳丸家へ向かい説明することにしたのである。
「しかし、ますますもって奇妙な事件ですなぁ。新藤刑事はどう思われますかな?」
安土は胸ポケットからよれた煙草を取り出すと、口に咥えて火をつけた。
「残念ながら、単純明快な事件とは思えませんわね」
冴子は肩をすくめる。
「確かに……。こういう類の事件は真実に近づくほど複雑さを増してきますな。私の長年の勘ですけどね。……しかし、事件と言うヤツは……特に殺人に関しましては、真相を解明すると単純なものが多い。だってそうでしょう? 人を殺す理由……、背後にどんな複雑な事情があったとしても、《殺したいから殺した》。結局はそんな単純な動機に至ってしまう。違いますかな?」
安土はそう言って紫煙を吐き出す。
「それは極論だと思いますわ。……《殺人意思のない殺し》も多数存在しますもの」
冴子がそう言うと、安土は再びクシシッ、と笑った。
「そう言うものは《事件》とは言わず《事故》と言いますな。確かに私の持論は極論かもしれんが、偶然に人を殺した、などという言い訳は社会には通用しません。人間社会では《殺人》は絶対悪なんですからな」
「警察機関の人間らしい発言ですね。双葉君が聞いたらきっと喜ぶわ」
冴子は再び肩をすくめて見せる。少々意外な安土の発言だと思った。
「長い間こういう仕事をしてますと、完全に洗脳されてしまうんですよ。否、警察機関だけではなく、群衆という社会の中にいますとね……。あんたはまだ若い……。気をつけなされ」
安土はそう言いながら、冴子のほうを見て少しだけ微笑んだ。
「おっしゃってる意味が解りません……」
冴子が横目で安土を見ながらそう言うと、安土は三度クシシッと笑った。
車は鬱蒼とした森林地帯を抜けて、やがて眼前に大きな館が見えてくる。随分と辺鄙なところに建っている館だ。
「ほほう、貫禄のある館ですなぁ」
安土が感嘆の声を洩らす。冴子はそれを聞いて頷いたが、なんとなく不気味な感じのする館だと思った。ここへ来る前、冴子は同僚にこの館の事を聞いてきたのだが、色々ないわくのついている館だと言う。中でも特に冴子が気に掛かったのが、以前この館に住んでいた外国人家族が全員何者かに殺された、という噂であった。しかし、今の冴子にはそれを真実のものか否か調べる意味はみいだせない。今回の事件とはなんら関係のないことであろう。
安土は玄関のそばまで車を寄せると、エンジンを切った。
「さて、今度は話を聞いてもらえますかな?」
呟くようにそう言ってから、安土は車を降りた。冴子もそれに続く。
その時である、不意に明朗な声が聞こえた。
「おや、安土さんではないですか」
冴子と安土は驚き、声のするほうへ振り向いた。
「おやおや、影戸さんか? ……驚きましたなぁ」
安土はそう言って、一人の若い長身の男に声を掛けた。その長身の男の後ろには中肉中背の不甲斐なさそうな顔つきの男と、少々派手なヘアメークをした女が立っていた。
「何故ここに?」
長身の男が安土に尋ねてくる。
「それを聞きたいのは、私のほうですよ。……どうして影戸さん達がここにいらっしゃる?」
安土は驚いた表情のまま、長身の男に尋ね返した。
「僕ですか? ……僕は窪君と一緒にこの館に棲んでいる《悪魔》を見物に来たんですよ」
「アクマ?」
安土はそう言って、眉根を寄せる。
「あの、安土さん。お知り合いですか?」
冴子は運転席側へ回り込みながら尋ねる。
「まぁ、そんなところですかな。アパートの管理人さんですよ」
安土は苦笑いのようなものを浮かべながら答える。
「安土さんの住んでいるアパートの?」
冴子は長身の男を見つめた。アパートの管理人と言うわりには随分と若いように見える。恐らく自分よりも年下であろう。日本人からぬ端正な風貌をした男だ。瞳の色も青い。
「いえいえ、そうではないんですが、何かとお世話になる人でしてな……」
安土は白髪の頭を掻きながら答える。すると、長身の男が冴子のほうへ歩み寄ってきた。
「どうも初めまして。影戸輝といいます。ファウストの遺志を継ぐものですよ」
男はそう言ってにやりと笑い、冴子に握手を求めてきた。
…ファウスト?
「どうも。新藤冴子です」
冴子は戸惑いながらも握手に応じ、長身の男……影戸の目を見つめた。
蒼い綺麗な色だ。
透き通るように輝いた瞳。
否、違う。底知れぬ悪意が満ちた目か……。
…私を見ている。
私の何を見ているのだろうか?
…心?
刹那、冴子の背筋に悪寒が走った。体が動かない。まるで金縛りに合ったかのように、その男の顔から視線を逸らす事ができない。
…この男は……!?
「ところで影戸さん。悪魔とは一体何の事ですかな?」
安土のそんな声で、影戸の視線は冴子から逸れた。それと同時に冴子の手を握っていた影戸の右手が離れ、そこで冴子はようやく体の力が抜けた。
「さあ、なんなんでしょうかね、僕たちもそれを調べにここまで来たんですけど、何の収穫もないまま帰ろうとしていたとこですよ」
影戸はそう言ってハハッ、と笑う。
「……ところで、安土さん達は……? ははん、徳丸伸吾君の事ですね?」
影戸は笑みを浮かべながら、鼻先の眼鏡を押し上げる。
「ほう。ご存知ですか?」
「そこにいる徳丸彩さんに聞いたんですよ。……で、伸吾君は見つかったんですか?」
影戸はそう尋ねてきて、安土と冴子の顔を交互に見比べる。
「ああ、そこにおられるのが、彩さんですか」
安土はそう言って、今度は女のほうへ顔を向ける。
「……親御さんはご在宅ですかな? 少しお話したい事がありましてな」
「え、ええ。いますけど……。弟は……」
彩が不安げな表情で尋ねる。
「それはご家族の前で、詳しくお話しましょう」
そう言う安土の表情はきわめて冷静に見えた。
「そ、そうですか。……あっ、お父さんとお母さんに言ってきます」
彩はそう言って、足早に玄関を開け、館の中に戻っていった。
その彩の後姿を見送ったあと、安土は一度大きく溜め息をついた。
「影戸さん。……先日、湯布院で起きた事件をご存知ですかな?」
突然の安土の発言に、冴子は一瞬面喰った。
「ち、ちょっと安土さん。何を言い出すんです」
遺体の身元が判明した事は、まだマスコミにも知らせていない。もしかして、安土はこんな一般市民にそのような情報を与えるつもりなのだろうか。冴子は訝しむ。
「さあ。最近、テレビや新聞を見てないもんでして。……窪君は知ってる?」
影戸は肩をすくめたあと、横に突っ立っていた男を見た。どうやら、窪という名前らしい。
「さ、さあ……。僕も最近はテレビとか新聞見てないから」
窪は首を傾げながら、そう答えた。
「そうですか。……実は物騒な事件が起きていましてなぁ、ここのお子さんが、どうやらその事件に巻き込まれたらしいんです」
安土はそう言って、クシシッと笑った。
「まあ、しかし、今のところはなんの問題もありませんのでね。影戸さんのお知恵を拝借するほどではありません」
それを聞いて、冴子はさらに眉根を寄せた。一体、安土は何を言っているのか。
「ふーん、そうなんですか。……まあ、いいや。……ああ、窪君、お腹減ったね。早く帰ることにしよう」
影戸はそう言って、胸ポケットからなにやら取り出してそれを口の中に放り込んだ。どうやらチューイングガムらしい。
「う、うん。そうですね」
窪はドモリ気味にそう答えると、ポケットからキーを取り出し、冴子と安土に一度だけ頭を下げるとそばにあったセダンに乗り込んだ。
「それでは、ごきげんよう」
影戸は陽気にそういい残すと、同じセダンの助手席に乗り込んだ。
やがて車は発進し、冴子たちの視界から消える。
それを見届けながら、冴子は安土に尋ねた。
「安土さん。……先ほどの男は……」
「人間か……、と聞きたいんですかな?」
冴子が尋ね終わる前に、安土が神妙な顔つきで言葉を挟んだ。
冴子はそれを聞いて、微笑む。
「まあ、人間の《形》はしてるようですね」
「得体の知れん男ですよ。あのような人間は見たことがない。……新藤刑事もそう思いませんでしたかな?」
安土はそう言って、少しだけ微笑んだ。
「ええ、確かに。……得体の知れない人間のようでしたわね」
冴子は髪をかきあげて答える。
「……ファウストを名乗ってましたな」
安土は肩をすくめて、クシシッと押し殺した笑いを上げた。
「いえ、そうは言ってませんでしたわ。《ファウストの遺志を継ぐもの》と言ってましたもの」
冴子は肩をすくめる。
「いろんな肩書のある男ですよ」
安土は煙草を咥えてから、館を見上げた。
冴子も見上げる。
「さて、行きますかな」
「ええ……」
果たして、今から自分達の話す内容を、この館に住む家族は素直に受け止められるのだろうか……。冴子は一度だけ首を回し肩をほぐしてから、インターホンのボタンを押した。
<5>
時刻は午後八時を過ぎようとしていた。
入来雄太(いりきゆうた)は先日父親にプレゼントしてもらい、現在右手首に巻いている水色の腕時計で時刻を確認した。
雄太は先ほどまで、友人宅でテレビゲームに熱中していた。今はその帰路の途中である。
新しいゲームソフトを買ってもらったから遊びに来い、と小学校で同じクラスの友人から電話があったのが、確か正午を過ぎた頃だった。それで友人の家まで赴き、夢中になってテレビゲームに没頭していたら、いつの間にか時刻は午後の六時を過ぎていた。少し遅くなった、と雄太が帰ろうとしたところで、友人の母親が夕食の支度ができたから雄太君も一緒に食べましょう、との誘いがあったので、雄太はその言葉に甘える事にしたのである。勿論、自宅には友人の母親が電話を入れてくれた。
そういう経緯があり、それならばもう少しぐらい遅くなっても両親には怒られまい、との考えが浮かび、夕食を終えた後も再び友人とテレビゲームの続きを再開したのである。そうして気づいた時間が、このような時間になっていた。
帰り際、友人の母親がもう暗いから自宅まで送って帰ろうか、と提案してくれたのだが、ここから自宅まではそれほど離れた場所ではないので、雄太はありがとうございます、とお礼だけ述べて一人歩いて帰ることにしたのである。
確かに外は暗かった。無論、午後も八時を過ぎているので、それはごく当然のことなのだが、雄太は今までこのような時間帯に一人で外を出歩くような経験はなかった。そのためか、随分と心細い感じを受ける。
住宅街から少し離れた路地……。
ひと気はない。もともと昼間でも人通りが少ない路地であるから、それも当然かもしれない。
途中にある電話ボックスの中から洩れる明かりが、雄太には少し不気味に思える。
ふと、後方から車のエンジン音が近づいてきた。雄太は立ち止まり、振り返る。
その車は随分とゆっくりなスピードで、雄太のほうに近づいてきた。雄太はその車をじっと見詰めていたが、やがてその車は雄太の真横で停車した。
助手席の窓が静かに開く。しかし、助手席に人は乗っていない。
「入来雄太君……だろう?」
突然自分の名前を呼ばれたので、雄太は少し驚いて車の中を遠慮がちに覗きこんだ。
運転席に一人だけ人が乗っている。助手席の窓も運転席側から操作して開けたのだろう。雄太が立っているのは助手席側だ。
「そうですけど……」
雄太は、警戒しながらもそう答えた。どうやら運転席に乗っているのは《中年の男》らしかった。しかし、暗闇のせいでその表情はよくうかがえない。
「私はね、君のお父さんの友達なんだが……、君のお父さんが事故に合ってね、君を迎えに行くようお母さんに頼まれたんだよ」
男は陰気な声で呟くようにそう言う。
「お父さんが、事故に?」
雄太は大きく目を見開いた。
「……お父さんは、お父さんは大丈夫なんですか!?」
「まだ解らない。……とにかく、おじさんと一緒に病院へ行こう」
男はそう言って、助手席のドアを開けた。
「……さあ、乗って」
雄太は父親の事が大好きだった。いつも優しく、仕事帰りで疲れていても雄太と遊んでくれた。そんな父親を尊敬し、敬愛していた。そうであるから、その時の雄太は父親の安否で頭がいっぱいになっていたため、その男を不審に思う暇などなかったのである。
雄太は何の疑いもなく、助手席に乗り込んだ。
車は雄太を乗せるとすぐに走り出す。
深い深い闇に向かって……。
【第四章 呪文】
<1>
八月八日 午前七時……。
「どう考えても、異常者の犯行ですよ……」
新藤冴子のデスクのそばに立っていた双葉壮一が、呟くようにそう言った。
冴子はそれを聞いて大きな溜め息をつく。そうして椅子の向きを双葉のほうに向けてから、彼の顔を睨んだ。
「だからなんなの? 異常者だろうが正常者だろうが、犯人を捕まえなきゃ仕事にならないでしょう?」
冴子は不機嫌な表情でそう言うと、デスクの上に残っていた一切れのバームクーヘンを口の中に放り込んだ。
今朝、新たに《二体》の子供の死体が発見された。三時間前の事である。冴子の不機嫌はそこから来ていた。気分よく寝ているときに、早朝からの呼び出し。しかも、新たな死体の発見……。
…冗談じゃないわ!
今日、目が覚めてから、何度この言葉を心の中で繰り返しただろうか。
発見された死体は二体……。どちらもすでに身元は判明していた。被害者はそれぞれ、身元を明かす所持品を持っていたからである。
一人は『入来雄太』という十歳の少年で、彼の死体は《首から上が切断》された状態で発見されたのである。要するに、首無し死体となってこの少年の骸は発見された。つい先ほどまで、遺体確認をしてもらっていた雄太の両親の話によると(顔のない子供の死体を見せるほうも辛かった)、どうやら友人の家から帰る途中で行方がわからなくなったと推測できる。死体発見現場は山林の中で、その付近で犬の散歩をしていた老婦人が死体を見つけた。否、厳密に言うならばその婦人の連れていた犬が死体を見つけらしい。
もう一体は『奥村春奈(おくむらはるな)』と言う名の八歳の少女で、死体は寂れた神社の境内で発見された。こちらの両親の話では、ピアノ教室の帰り途中で春奈の行方がわからなくなったと推測できる。死体を発見したのは偶然に付近を散歩していた老人らしかった。奥村春奈の死体は《左腕が欠損》していた。
体の一部が切断された死体が立て続けに四体……。被害者は皆、年端の行かぬ子供ばかりである。
…一体、何が起こってるの!?
冴子はそう叫びたい気持ちで一杯だった。だから、双葉の気持ちも解らないでもない。しかし、それを認めたところで何がどうなるわけでもないのだ。
…それにしても……。
冴子はあらましに自分の前髪をかきあげ、大きく溜め息をつく。
今回見つかった二体の遺体……。死亡推定時刻(現時点ではまだ、正確な時間を絞り込む事はできないが)は、二体ともほぼ同時刻の可能性が大きかった。しかし、死体の見つかった現場は、それぞれ二十キロ以上は離れたところで見つかっている。前回は同じ場所であったのに、今回は何故、犯人は遺体を別々の場所に運んだのであろう。……否、まだ同一犯の仕業と確定できているわけではない。そう考えれば、別に不思議はないのだが……、それでも遺体の一部が欠損しているのは事実だ。
「コレクターの異常犯罪者ですよ」
双葉は吐き捨てるように言ってから、自分のデスクに戻っていく。普段、あまり感情を表に出さない彼にしては、珍しい態度である。よほど、今回の事件に怒りを感じているのであろう。被害者が皆子供であるのだから、正義感の強い双葉にはなおさらだろう、と冴子は思う。
「コレクター、ね……」
冴子は一人呟く。要するに異常なフェチストと言うわけだろう。しかし、そうであるのならば、被害者の欠損している体の一部は全て同じ部分でなくてはならない。だが、被害者の欠損している部分は、皆それぞれ違う。胴体(頭部も含む)、右腕、左腕、頭部……。
…犯人は《つぎはぎ》の人間でも作るつもりかしら。
そうだとしても、一体何の目的があってそんな事をすると言うのだろうか。否、そもそも犯人には《目的》などないのかもしれない。だから、異常犯罪者と呼ばれるのか……。無論、目的があるにしろ許される行為ではないだろう。許されない行為だからこそ、《異常者》なのだろうか。そうなれば、殺人者……否、犯罪者は皆異常だ。
…そうだろうか?
大体において、《異常者》の定義とはいかなるものであろう。少なくとも冴子は知らない。言い換えれば、自分がまともな人間である、と断言できないのと一緒である。
…境界線(ボーダーライン)。
果たしてそれはどこに存在するのか……。
それに、《つぎはぎ》の人間を作る犯人など考えたくもない。もしそれが真実であるのなら、少なくとも《あと二人》の犠牲者が出ると言う事になってしまう。しかも、今の状況から考えると、被害者が子供になる可能性が大きいのだ。これ以上、罪のない被害者を増やすわけにはいかない。
…罪がない?
冴子はそこで、はたと考えた。そう言えば何故、犯人は《幼い子供ばかり》を狙うのであろうか……? 何故、大人は狙わない? ……確かに単純に考えれば、子供は非力であるからそれほどの抵抗もなく、簡単に命を貶める事ができるであろう。しかしそれだけなのだろうか? 今のところ、被害者に共通しているものは《子供》と言うきわめて明確な部分だけである。他に被害者に繋がるところはない。要するに犯人は、子供ならば誰でも良いのだろうか。もしそうならば、半無差別と言ってもいい。
…本当にそれだけ? どこかに《失われた環》(ミッシング・リンク)があるのでは?
冴子はそこまで考えて、一旦思考を停止し、皿に残っていた最後の一切れのバームクーヘンを口の中に入れた。ほとんど息を止めて思考していたためか、口の中が渇いていてバームクーヘンがやけに胸の辺りに痞(つか)える。
「ちょっと双葉君、お茶汲んできてちょうだい!」
冴子は自席に座っていた双葉に大声で叫んだ。双葉は一瞬だけ冴子のほうを向き、少々憮然とした様子で席から立ち上がると、おもむろにキッチンスペースのほうへ向かっていった。やはりお互いに気が立っているようだ。普段の双葉なら、あのような表情は、少なくとも冴子には見せない。
…安土さんもナーバスになってるかしら?
そう考えると、少しだけ冴子の表情に苦笑いが浮かぶ。あの飄々とした老警部補も、機嫌が悪くなる事があるのだろうか。現在安土は、まだ現場付近をうろついているらしく、ここには姿を見せていない。
…そう言えば、昨日は様子が変だった。
冴子はふと、昨日の事を思い出す。あの不気味な館……徳丸家を訪れたときの事だ。
冴子と安土がその館のリビングに足を踏み入れたときには、すでに徳丸家の一員は皆そろってソファに腰掛けていた。
恰幅はいいが、頭髪が薄く彫りの深い顔をした男が徳丸春彦。歳は五十代半ばぐらいであろうか……。
春彦の隣に腰掛けていた女性が、どうやら春彦の妻の京子のようだった。普通に考えれば春彦の妻なのだから、夫と歳の近い女性を想像していたのだが、そのわりには艶のある長い髪と、たるみのない白い肌の女性が春彦の妻と紹介されると、さすがの冴子も驚きの表情を隠せなかった。おそらく歳は三十代半ばといったところか……。しかし、その顔色は蒼く、随分とやつれている印象を受ける。細目の二重瞼で、形の整った日本人的な美人のようであったが、その表情は酷く暗澹としている。もしそうなっていなければ、更に五歳は若く見えるかもしれない。やはり自分の息子のことで、少々老け込んだ様子になっているのであろう。
娘の彩は、どちらかと言うと顔のつくりは父親に似ているようで、彫りの深い綺麗な顔立ちをしている。本来ならば笑顔の似合う活発的な女性のようであったが、その表情は母親と同じく暗澹としていた。
始めに口を開いたのは安土であった。湯布院の廃マンションで見つかった四股が、どうやら徳丸伸吾のものである事……。警察の見解をそのまま口にするのは、さすがの安土も憚(はばか)られたのだろう、慎重に言葉を選んで家族に説明しているようであった。その間、冴子が口を開くことはほとんどなかった。
安土が説明を始めて五分ほど経った時、突然、京子が号泣をはじめ、ほとんど半狂乱のようになってソファから立ち上がり、どこかの部屋へと走り去っていった。いくら安土が言葉を選んでいるとは言え、嘘の情報を家族に伝えるわけにはいかない。そうであるから京子の行動はもっともであろう。自分の子供の四股《だけ》が発見された、と聞いて平然としている親のほうが珍しい。無論、冴子は自分の子供と言うものを持っていないから、真に親の気持ちが理解できる、と言えば嘘になるが……。
京子がそのような状態になってから、安土の説明は一時中断されたが、暫く経ってから残った二人に話の続きを再開した。春彦、彩、共に終始蒼い顔になっていたが、何とか冷静さを保って話を最後まで聞いてくれた。
「奥さん、大丈夫ですかねぇ?」
説明を終えた後、安土が残った二人の顔を交互に見ながら心配そうにそう尋ねた。
「少々精神的に参っているようでね、息子がいなくなって以来、伸吾を探しに行くとか言って、ふらふらと夜中に出て行くことがあるんだよ。まあ、無理もないだろう……。一度、病院に連れて行ったほうがいいかもしれん」
春彦はそう答えて、両手で顔を拭った。
「……それで、結局のところ息子は生きているんですかね? 否、そもそも何故息子の両手と両足が、そんな辺鄙なところにあるんだね?」
「息子さんの安否については、まだなんとも申し上げられません……。ただ、状況から見て何らかの事件に巻き込まれた可能性が強いんです。無論、事件のほうについては今全力で捜査しています」
春彦の問いに、冴子は冷静にそう答える。
「ふん、全力でも何でも構わんから、早く事件の真相を明らかにして欲しいですね」
春彦は邪険にそう吐き捨てると、もう用は済んだでしょう? 早々にお引き取りください、と安土と冴子から視線を逸らしてそう言った。
それからもうしばらく春彦とのやり取りがあった後、安土と冴子はその館を出て車に乗り込んだわけだが、そこで安土の様子が少しおかしいことに冴子は気づいた。なにかを深く考えているような表情で、なにやら一人ぶつぶつと呟いているのだ。
「どうしたんです? 安土さん」
冴子は気になって安土に尋ねた。
「いやぁね、《どこかで見た覚えがある》んだが……。う〜ん、なんだったかなぁ?」
と、意味不明な事を独りごちるように答える。
「なんのことです?」
「えっ、否、大したことじゃないんですがね。……多分」
安土はそう言って、再び思案にふける表情をする。冴子も、それ以上は尋ねかった。
「どうぞ……」
突然、目の前に湯飲みが差し出されたので、冴子の思考は現実へと引き戻された。どうやら双葉がお茶を汲んできてくれたようだ。
「ありがとう」
冴子はなんとなく微笑んでそう言って見せたが、双葉は相変わらず憮然とした表情を崩さないまま、自分のデスクに戻っていく。
そんな双葉の後ろ姿を見ながら、冴子は肩をすくめて湯飲みに口をつける。
「熱っつつ!」
その瞬間、思わず冴子は湯飲みを落としそうになった。
「ちょっと双葉君! 誰がこんなくそ暑い日に沸かしたお茶なんて飲むのよ! 私は冷えた麦茶が欲しいの!」
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2006/04/07(Fri)22:10:35 公開 / 九宝七音
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■作者からのメッセージ
そう言えば、最近ほとんど本を読まなくなった。歳と共に心の余裕がなくなってきている証拠なのかもしれない…。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。