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『覇王の椅子』 ... ジャンル:時代・歴史 ファンタジー
作者:タカハシジュン
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1
螺旋階段。
石壁。石段。冷たい湿り気を帯びた石と石、それに囲まれたその中はひどく寒く、そしてひどく暗かった。どれほど上、またどれほど下だろうか。等間隔に壁に穿たれた穴に獣油とその皿が置かれ、光が点され、臭気と共に光明を発する。登り行く都度、その仄かな明かりのひとつを目指し、辿り着き、追い抜き、そして足元に落ちて行く淡い光から目を離して次の灯明へと螺旋階段を登る。
革の長靴の靴底が石段を踏む音が甲高く響く。それは螺旋階段がずっと天井に向かって突き抜ける、だが闇が幾重にも折り重なってその様子は皆目わからない、はるか上方に向かってのびて行き、見えない石の天井や見えない天井近くの壁に跳ね返って、複雑な共鳴音をもたらす。だが耳を澄ませば、音の乱れはそればかりではない。金属音。鉄と鉄が触れ合い擦れ合う音。行く者が剣を帯び、武装して胸甲や肩当腕当といった鎧に身を包んでいる証拠だった。だが重苦しい闇がその者の姿を消す。音ばかりが焦れるように響き渡る。やがて足音が早まる。鉄の音もせわしなくなる。灯明のぼんやりとした明かりが上から下へ落ちる速度を増す。足音が早まる。鉄の音がせわしなくなる。闇が重苦しく広がる。灯明が圧迫されるかのようにか細くだけ光る。闇が広がる。闇にあえぐ。足音が早まる。まだ出口ではないのか、ファーンリード・ウィルダムはそればかりを思い足をさらに速めた。闇、闇、かすかな等間隔の灯明。まだか。息苦しい。階段を登り続ける披露と熱気ばかりではない。吸う息までが暗色の世界、まるで緩慢に首を絞められているかのように、光の指さぬ湖底に沈められ水面を目指すように。そしてまとわりつく多くを振り払うように。まだか。
凄烈な空気が、突如としてファーンリードの口の中に飛び込み、咽喉を通過して肺に満ちた。隔てられた石壁の内腔から半歩だけ露出し、外気と触れる。獣油と石段の緑色の黴臭さから開放され、大気の粒子の一粒一粒までもが凍える晩秋の寒がファーンリードの若々しい双頬を引き締めた。そして闇は払われた。だが、それはぎらついた白日が取って代わったのではなかった。太陽は大きく傾き、既に頂が白く染まる彼方の山塊に沈もうとしていた。地に寄りかかって漸く身飾る四方に光を広げた金冠の環も、程なく残照すら失せ果てるであろう。白昼の明るみが金色に輝きだす時、光は既に弱まっている。そして空の随所に染みのような闇が兆す。闇が半ばを閉める時、その闇の合間と成り果てた明るみは、悲痛で壮麗な紅色と化し、その一日の最後を光の途絶えるまで謡い続ける。そんな刻限、古城の塔からファーンリードは屋上に出て、頭上を覆う金と朱泥との入り混じる空に目をやった。
足元に届く光が乏しい。ファーンリードの皮革を基調とする甲冑の様子も、闇がまとわりついて輪郭も色彩もおぼろげになる。真昼であればそれは詳細に眺めることができるはずだ。決して自己顕示に満ちた派手派手しい装いでないにせよ、といって数さばきの粗悪な造作とは違っていることが一目でわかる。また帯剣の鞘や柄のこしらえも尋常ではない。
中背、一見すれば痩身であるが、それは荒事にむかない性質の男の身姿というのとは違っている。少年というには十分な思慮分別のある表情を浮かべながらも、どことなく同居する若さが見え隠れするのが物語るように、ファーンリードが漸く青年という年頃に足を踏み入れたばかりの年頃のせいで、未だ骨格や筋肉が歴然と規定されていないがためである。この年十八。白皙の相貌が残照と暗闇とを良く吸い、眉目に陰影を宿していた。
ファーンリードは空の光と翳りとを見つめ、視線を左右の空に動かした。その瞳は何かを捜し求める色合いに満ちていた。白雲の夕焼けに染まる様、干からびた音を立て木の葉を舞わす晩秋の寒風、彼方の気の早い裸木、夕烏……。違う。
ファーンリードは記憶の中の光景を詳細に思い浮かべようと、手を突き入れんばかりにそれをまさぐった。忘れようとしても忘れられず、夢へと湧き出ては幾度もファーンリードを苛んだ光景。だが、改めてそれを探り、再びそれを現実に見据えようと落日の時刻を待って表に出ても、蘇っては来ぬ記憶。揺ぎ無く、あれほどに明確でありながら、それでいてどこまでも曖昧なあの日の光景。いつのことであったか。それははわかりすぎるほどわかっている。十三年前。ファーンリードがただの五歳であった頃。季節は今日のこの日と近しい晩秋であったという。という。そう、それが十三年前のことで晩秋のことであったというのは、ファーンリードの記憶がそれを絶対的に保障しているわけではない。起きたこと、生じた事件、そして自分より年上の者たちの記録の積み重ね、そのことが詳細な数字をファーンリードにもたらす。そして時間の曖昧になった記憶にそれは経と緯とを与え、時系列の微細な入れ替わりを補正し、ファーンリードの記憶に整合性を与える。そうあなたはその時、ずっと小さかった。小さかったが毅然として、父君の傍らにおられた。
闇。そこにはそれしかなかった。いや、記憶の光景はそうでないことを物語る。夕刻。だがあまりに闇ばかりが満ちていた。完全に日が没したわけではないはずだった。いや没したのかもしれないが、太陽は地平の下の際で蠢きを止め、見えぬところから微かな光を送り続けていたのかもしれなかった。だが微細に在ったはずの光は全て覆い尽くされていた。暗雲が連なっていた。分厚く、月はおろか白日の太陽すら透かさぬ。刃物で天を突いたというほどのほころびのような僅かな雲間には、紅く充血した大蛇の瞳のような朱。暗い。先駆けの宵の星の姿もない。全て重苦しい雲に覆われている。そして荒野は幾重も闇をまとい、そこに集う無数の人馬も闇の衣で全て覆ってしまおうとしているかのようだった。林立する人馬の集団から闇の大地に向け、よりいっそう暗がりの濃い影法師が横たわる。影法師は長く伸びる。長い手足、長い背、携える槍の穂の長さ。そしてそれが微かな朱の光の下で複雑に絡み合い入り乱れる。だが影法師はまるで動かない。微動だにしない。主たちが、馬すらいななくのを控えるように、ただ沈黙したまま佇立している。呼気すらを憚るように静まり返っている。まるで、葬送のように。
音がする。干からびた風。冷たい風。軍旗をはためかせる風。蠢かぬ影法師の中で、旗の影だけが動く。風に嬲られ、風に見放され、広がり、すぼみ、向きを代え。
風。
そう、あの日の、どうしようもなく凍えた風。骨が削り落とされるように響く寒風。五歳のファーンリードはその寒さに恐ろしさを抱いたことをはっきりと覚えている。顔をしかめ、身を縮め、うめく。そして、赤くはれ上がった頬と耳朶、うつむいた小さな顔を持ち上げると、その視線の先に、黒く巨大な影の塊があった。それは幻ではなく、暗色でしか語れぬものだった。ひとつの古城、立てこもる将兵。そしてそれを寒中大きく包囲する父と、父の軍と、そして幼い自分がいた。
あの日の絶望。あの日の恐怖。そしてあの日を境に生まれたのだろう蟠る濁った感情。その痕跡が今日の夕焼けの中にないだろうか。ファーンリードは捜し求める。だが美しいばかりで、物悲しいばかりで、あの日の禍々しさの欠片も見出せない。それにもう一度出会ってみたところで何の恩恵もないことを知りながら、また心が癒されるわけではないことを熟知しながら、ファーンリードは記憶の中のあの日の光景を探す。だが、見つからない。重ならない。目の前の光景には見えない扉があり、そして記憶へとつながるその扉を見つけ出すことがどうしてもできない。それをどう解していいかも段々とわからなくなっていく。歴然とした事実、一族が叛したこと。古城に立てこもったこと。そこに母がいたこと。それを取り囲んだのが父の軍であったこと。父は母と一族を殺戮するための命令を下し、母は城壁の上から身を投げた。
ウィルダム家のため。古老たちは目を背けながら、後にファーンリードにそう説明する。ウィルダムのため。やがてあなたが相続するこの家のため。仕方のないことだったのです。
ファーンリードは幼くしてそれを是認する聡明さを身につけなければならなかった。父に対する憎しみや憤りという感情が湧きあがりながらも、それを押さえる術も学ばねばならなかった。
あらゆる始まり。その開闢の光景を、だがファーンリードは再び見出すことができない。ただそれは起きてしまった決定的な事実として、夢の中で、或いは白昼、ファーンリードの中に反復して蘇ってくる。
はっとした。
不意に声がした。
いくつかの声色。ひとつは、そう、若い。声色が若く、そして抑揚が甲高く乱れがちだ。それが、拭いては止み、そしてまた皮膜を透いて肉を震えさせ吹き付ける寒風の寄せ引きに乗って、ただ断片だけを伝えてくる。そしてその断片の中のひとつは、低い、ささやきにも似た声。もうひとつと違って底にしっかりと重心を伝えるような落ち着きがある。
ファーンリードはその声に誘われた。迷宮のように入り組む城壁の上を、誘われるがままに歩く。残照の中に浮かび上がるほのかな人影を手繰り寄せるように進む。やがて見た。ふたつの人影。槍を持つふたつの甲冑姿。声色どおりひとつは若く、ひとつは相貌にいくつもの皺が刻まれている。
「この城壁、ここですよ。随分と古びている。石と石の隙間を雑草が突き破ってきている。狙われたら崩れ落ちますよ」
「或いはそうかもしれん」
「わかっているのならば早めに手を」
「言いたいことはわかるが、小さな補修ならばともかく、大掛かりとなれば今更どうにもならないだろう。早晩攻めかかってくるかもしれん今の状況だからな」
「……戦に、なりますかね」
「なってほしくはない。だが、なるかもしれん。こちらにやる気がなくとも攻められることもあるだろう。その時、どうするかだ」
「どうする?」
「逃げるかね? それもいいだろうと思う」
「あなたはどうするのです?」
「私は戦うさ。若をお守りすることが、ウィルダムのためになると私は信じている。だからここにいる」
「俺も同じです。若は主筋ですが、それよりも何よりも、俺は若が好きですから。ウィルダムとウィルダムが戦うことになったとしても、俺は若についていきます」
ふたつの人影はそこまで話したところで、近づいてくる気配に漸く気づき、振り返った。万が一の危険を考え、槍持つ手に力が込められる。だが、姿をあらわしたのがウィルダム家嫡子ファーンリードであることに、闇を払いのける一瞬後に気づき、慌て恐縮して拝跪した。
「見張りか。寒くはないか」
跪くふたつの人影のうちの若い方は、肩を波打たせ慌てている様子だったが、それより年長の方は微動だにせず、かがんだ背筋も曲がることなく伸びている。そちらの方が受け答えをした。
「若のいらっしゃらぬところでの放言、お許しくださいませ」
「放言なのかな?」
ファーンリードは微笑した。笑うと白皙の相貌は二十に満たぬ青年に似つかわしいあどけないものになる。
若い方が吃音じみながら急いて喋った。
「我ら、只今も互いに確認しておりましたが、戦となりましたならば粉骨砕身、労を厭わず戦い抜く所存でございます」
ファーンリードはうなずいた。戦いたくはないし、戦うことは愚かしいことだと思った。ただ戦うというのではない。いつの間にか謀叛の疑いをかけられ、かつて母親がそうだったように父親の郡に取り囲まれて処刑されるなり自決させられるなりするというのは、愚劣な十三年前の惨劇の繰り返しに他ならないとしか思えなかった。そしてウィルダムという家系の中の争いは、それが多大な封土を持つ領主であり中小の周辺勢力の頂点に立つ存在である以上、関連する者たちの生命も前途も巻き込む渦となることを、ファーンリードは熟知していた。
反旗を翻す、父親を討伐するための兵を挙げる。そのことは、想像を行えばまぎれもなくある種の高揚感をもたらすものだった。釈然としないままにひとつの領主の嫡子として生きてきた、その中で内部に蓄えられてきた、ファーンリード自身でも良くわからぬ感情の澱が濾過されるような気にもなった。己の、ただ己のみの心底に忠実であらんと欲すれば、それを晴らし、それを透かすため、ファーンリードは兵馬をあげるべきだった。だがファーンリードは、或いは落ち着き払い、或いは涼やかに乱れ奮う、眼前のふたつの人影のような無数の家臣たちの生命や前途を自侭に使い果たすことを、自分に対して決して許せぬと思った。それは、事の善悪はさて置くとしても十三年前に父親がやったことの反復であった。座る椅子の権が付帯するに任せ暴威を振るうというのは、決して許されることではないと信じていた。
その椅子に座るのは、権を貪るためではない。自分を仰ぐ大勢の者たちのより良く導くこと、それに違いなどあろうはずがない。
それを忘れてはならない。それを忘れては、自分が父親になる。
ファーンリードは忠良な家臣たちを眺めやって、語りかけた。
「私にも矜持がある。だが戦いたくないのは一緒だ。精一杯の努力をし、それで駄目なら涼やかに覚悟しようと思う。まだ、戦は始まったわけではない。可能な限り、そうならぬよう私も勤める。力を貸してくれ」
人影はいっそう深々と頭を下げた。ファーンリードはその場を去った。
ウィルダム家は、武門の名家である。
羽氏瑠国(ウルヴァール朝リューカス帝国)の始祖ガイナ・ルシュア帝の創業に大功あったシギュン家が、瑠国の北部ウィルネリアに封されウィルダム氏を称し現在に至る。
羽氏帝室今に至る十七代の御世において、官軍を統べる大将軍を排出すること二度。現当主ガイアスも栄誉ある家系に相応しく、西方青衣の乱の鎮定に大いに功し、ウィルダムの名は今上イズィール帝の御世においても轟きわたった。
が、ウィルダムに瑕瑾生じる。一族叛し、宗家に弓引く。当主ガイアス、これを速やかに討伐し、主だった加担者を処刑するも、朝廷はガイアスに一家一領を統治する力なしと見て、その官職を剥奪する。
ガイアスとウィルダム家は、封土ウィルネリアで息を殺すようにして蟄居し、そして十三年の時が過ぎた。
ウィルダム嫡子ファーンリードは、大身諸侯の十八の身にして未だ無位官である。
そして世は、随所に乱れつつある。
2
ファーンリードは落日前、城壁の上を歩いた。
胸を張って闊歩するようではない。地味な拵えながらただならぬ装束の甲冑姿で人目こそ引くが、衆目を引きずり回すような英雄然とする振る舞いをファーンリードは嫌っている。華々しさより先に浅ましさを感じる。そういう性分であることを熟知している。それを意識してというわけではないにせよ、一人きり歩く青年は、ややうつむき加減に、それという露骨な兆候を示しはしないものの微かに痕跡を止める鬱した翳りを表情にとどめ歩く。
誰かがいれば、誰かというのはほとんど全てがウィルダムの家臣だが、そういう自分の姿を抑えなければならない。英傑の姿を演じることに嫌悪を覚えるファーンリードであったが、そうではない、素のままの自分、ありのままの自分をさらけ出し、自分の心のままに振る舞うという個人としての幸福の追求に対しても、それと同様か、それ以上に嫌悪や拒否を感じる。ファーンリードはウィルダムという名門貴族の嫡子の地位をさほどにありがたいと思ったことはない。血を流し、騒乱を呼び寄せ、術数の限りを尽くして別人を引きずり落としてでも己が奪いたいと思うような価値あるものなどと思ったことは一度もない。その地位に矜持や愛着は抱かないのかと問われれば、そこは十八という年齢の呪縛から完全に逃れられぬ人の子ゆえ、或いはきっぱりと抱かないと答えてしまうかもしれない。だが、それがためその地位に相応しからざる放埓な振る舞い、その地位を汚す振る舞いをしてやろうとは、この青年は毛頭思わない。あの日の光景は、骨肉相争った家臣たちの呪詛や慟哭によって血塗られてもいた。大勢の上に立つ人間は、その気になればそのような惨劇を起こすことができるということを、五歳のファーンリードは凄惨な光景を目の当たりにし、母の生命を贄とすることで体感した。それは決して許されることではない。小さな子供はそのことを深く心に刻む。或いはその刻印は、ある感情を抱きながら見上げる父親の横顔の存在で、より深く険しいものになっていったかもしれない。ゆえにファーンリードは家臣に感情の振幅や自分の脆弱さを見せることを嫌った。嫌ったというより脅えた。
それは一方において、ただの十八に過ぎないこの若い青年の内心に、時としてどこに向けようもないやりきれなさを生み育てもした。己自身を開放することを押さえ続ける意思は強固でありまた揺らぐこともなく、そうする自分にファーンリードは疑問を抱きはしなかったが、しかし見えないところで何かは浸食されてもいた。時としてファーンリードは瑞々しいその肉体に似つかわしくない、体内の深いところから湧き上がる意外なほどの疲労感に包まれ、昼下がりからは発熱し、思考が散漫になって寝床を求めることがあった。その体調不良は彼に長くそして散漫な睡眠をもたらした。うつうつと浅く眠り、真夜中に目覚め、刻限を捜し求め無理をして再び寝ようと瞼を硬く閉ざす。明け方に近くなっていつしか眠り落ち、そしてそんな日に限って呼び覚まされるのがあの日の落日の光景なのだった。
時は十三年を経ていた。ほんの小さかったファーンリードは十八になっていた。中背の体躯は同世代の青年たちから見ればいかにも凡庸で、それだけが人目をそばだてることはないが、それでも家臣の様々な者に修練された武芸は人並み以上の腕前を備えさせていたし、それを生じさせるそれなりの筋骨をその肉体に与えてもいた。そしてその印象が彼の表層に全く現れていないのは、肉体の鍛錬以上にその理知や精神が練磨されているからだった。白皙の相貌は平素静まり返り、奥深き色を宿すふたつの瞳は見つめる他者の表情を透いて、その心底の有様を静かに見据えているかのような面持ちの時がある。家臣らが口々に思慮深さを讃えるのは、単なる贔屓目ばかりではなく、またファーンリードの天賦の才質などでもなく、ウィルダム家の嫡子として、大勢の家臣の上に立つ者として、いったいどうあるべきなのか、そのことをほんの小さい頃から一念に悩み続けてきた結果でありその履歴のせいだった。だがファーンリードはその賛辞に時折虚しさを感じていた。賞賛され、また信頼を寄せられるのはうれしくないはずがないものの、果たしてそれが本当の思慮深さなのかと自分自身に疑念を持った。ファーンリードは自分の弱さを知っていた。時折誰にも漏らすことなく、自分自身の弱さに呆然とすることもあった。あの日の夕暮れの光景は何度も何度も反復された。見たはずもない、母親が城壁の上から地へと投身し自ら命を絶った光景が記憶の中にあるような錯覚を覚えもした。それはファーンリードが想像の中でその光景を作り上げているに過ぎないものだった。最早面立ちもろくに覚えてはおらぬ母親が、闇と朱が入り混じる光景の中で、ほんの微かな、ひとつの染みとなって、城壁から零れ落ち大地に据われてゆくものだった。ファーンリードはそれが自分の作り出した幻想、偽物であることをわかっていた。だがそれを夢に見る都度、彼は奮え、涙を流しもした。張り裂けんばかりの痛切さを胸中に詰め込み人知れずあえぐことも幾度もあった。それは、まぎれもなく自分の弱さであるとファーンリードは思っていた。そのことが苦しくもあった。母を悼み死んでいった多くの家臣たちを悼み、そこに至る諍いの愚劣さを憎むのは、人として当然であると思いそのことを是認するのに当然ながら何の呵責も感じはしなかったが、十三年そのことを自分なりに解決しようとし悩み苦しみして成長し、肉体はどうやらそうなりはしたものの、あいかわらず心根は弱々しく、いつまでも女々しく、そのことに苦しみ続けている自分自身は心底弱い人間なのだとファーンリードは思っていた。そしてその思いを裏付けるように、夢の中であの光景は反復し続けられた。まるで堂々巡りのようだった。
ウィルダムに相応しい嫡子、相応しい人の上に立つ者という姿以外をファーンリードは許容し得ない。だがそれでいて彼自身の内面は彼が思念するようには猛々しくならず、むき出しの脆弱さを隠蔽するのに追われ続ける。時折、一人であることを求める。そしてファーンリードは、夢の中でなく、現実にあの日の光景を捜し求める。いつもいつもではないのだけれども、時折、ただ一人きりになって夕焼けの中を歩き、空を見つめ、朱紅く染め上げられた空と雲と彼方の山塊と大地のシルエットとを見渡し、そしてその中にあの暗澹としたものが見つけられずただ寂滅の美を飾り煌く様相に心満たされずさまよう。そんな時、彼は自身を嘲笑する。自身の弱さを自責する。父親の顔が浮かんでくる。それは眼前に立ちふさがる壁のような圧迫感をファーンリードに与える。
ファーンリードの記憶は、時と共にある部分が鮮明に研ぎ澄まされ、そしてある部分が淀みくすみ曖昧にぼやける。その時、母のいる古城に父親が攻めを下知した時、ファーンリードは、幼子は、何か父親に食ってかかった。何を叫んだのか、懇願したのか、罵ったのか、それは覚えがない。ただ余りに不用意に猛り狂う父親の前に柔らかな頬肉の己の姿を晒し、余りにも無防備に父親の思念の前に立ちふさがろうとしたことは確かだった。記憶は途切れる。次の瞬間、ファーンリードはその小さな体を地べたに転げさせていた。痛みを引き寄せる前の衝撃が左の頬いっぱいに広がっていた。目から火花が飛び散った。顔の半面が焼け爛れるように熱かった。頭部の奥底まで穿たれたような衝撃がやがてほんの刹那後れて痛覚をもたらす。が、それまでの合間がファーンリードにはひどく長く感じられた。父親に殴りつけられ地を転がったということは頭で理解できた。その状況を把握しながらも感覚がやってくるまでに随分と時間がかかった。否、時の流れは全く普通だった。だがその時の幼いファーンリードは一瞬一瞬の時の運行をひどく緩慢な引き伸ばされたもののように感じ取っていた。それをもたらすほどの衝撃だった。やがてその長い一瞬が貪られた後、ファーンリードは獣の様に慟哭した。そこにはファーンリードと父親とだけがいるのではなかった。ウィルダムの、父に服従する無数の将兵が共にあった。ファーンリードの嗚咽に、いささかなりとも表情を動かすものもその中にいないではなかった。だが彼らはファーンリードにとっては人を似せて造った動かざる彫像であるのだった。林立する彼らは表情を消し母親の城を取り囲み、表情を消し父親の下知に従い、慟哭するファーンリードを置き去りにして馬蹄を轟かせ土煙を立ち上らせ、光明のない暗澹とした荒野を行き、血と脂と火花と絶叫、そして同胞を骨肉を討ち果たす涙で、瞬く間にその城を陥落させ、多くを殺した。そして城は音を立てて天に向かいさかんに燃え出したようにファーンリードの記憶は続いた。これが事実であるかどうか、落城の様の詳細をファーンリードは記憶していないし、古老たちもそれを語りたがらない。そしてその後破棄された城跡に赴きたくもなく、落城し場内の人間の多くが惨殺されたその地に出かけ、炎上の痕跡を捜し求めたことはないものの、ファーンリードの記憶は確かにそれを映し出し、ファーンリードにはその炎を背にし父親が佇立する光景を容易く連想することができるのだった。
馬鹿馬鹿しいと自分でも思う。だがファーンリードは父親に憎悪を覚える一方で、対峙することに恐怖を抱いてもいた。体が硬直し、心臓は握り潰されてでもいるかのような危うい鼓動を伝え、手に汗をかく。日頃の荒酒で父親の瞳は酔眼場かりが見受けられる。その赤い瞳で睨み据えられ、口に罵倒されると、城を攻め母を追い詰める下知を下したあの父親、自分を殴りつけ跳ね飛ばして意を貫いた父親、炎を背にして君臨する父親の幻影がファーンリードの中で蘇り跳梁するのだった。意気地がない、頭ではそう思う。だが、どうにもならない。
自分は弱いのだ。前歯を唇に突き立て、噴出す鮮血をすすりながらもさらに肉に歯を食い込ませたくなるような、屈辱感や、平凡な同じ年頃の青年たちに比べ際立つ自分の不甲斐なさへの憤り、そんなものに苛まれどうにもならないファーンリードがいた。そしてまだそれはファーンリードの心の中に巣食う。それが時としてファーンリードに対して、戦えとささやいてくる。
戦え。
誰と。
無論、父親と。兵を挙げろ。父親を討て。父親を殺せ。そうささやく声がする。
ファーンリードは目を閉ざし、脳裏に想像を映し出しまたその想像について思索を巡らす。自身は古城に篭城し、父の軍の到来するを待つ。険阻な地形の多いウィルネリアは、その中央に街道こそ巡らしていれど、大半の道程はただ細く先へと連なるばかりである。自然攻め入る父の群の行軍は細長いものになる。この付近の地理に熟知したファーンリードはその麾下に命じ、まずその父の軍の行軍の中途を狙い、細長い隊形を寸断するために要所に兵馬を繰り出す。一糸乱れぬ作戦。ファーンリードの構想し構築した計算式が寸分のほころびも見せず、彼につき従う者たちがその通り動き戦えば、個の勇武とそれらの突出した連結により瑠国中に轟くウィルダムの軍であっても、たちどころに麻の如く乱れ、敗退を是認せざるを得なくなる…………。そんな、想像を抱いては、ついそのようにしてみようかという誘惑に駆られもする。その時ファーンリードの中には父親に対する恐怖も憤りもなく、また父親を前にして萎縮する狭量な自分に対する嫌悪も嘲りもなく、ただその才質が裏打ちする分だけ心底の足枷から開放され自由に遊弋することができるのだった。
ファーンリードは既に初陣を果たし、そしていくつかの実戦を体験していた。太平の時代と違い、かつて瑠国を余すところなく掌握し統治していたウルヴァール朝はその実力を年とともに漸減し、握り締めていた随所の土地は俄かに起こった諸勢力に侵食されるようになって久しかった。ウィルネリアは、ウィルダム氏の声望轟くがゆえに、野盗上がりの勢力が周辺にあっても容易く手出しのできる土地ではなかったから、その領内は全く平穏であったが、時折ウィルダムは境を越え、目に余る跳梁を示し村落を焼いて強奪と陵辱とを繰り返すそれら俄かの勢力の討伐を行うことがあった。それは帝国健在の頃ならば一領を取り潰す口実ともなるべき越権沙汰であったが、その勢威乱れ逆しまなることの溢れる風潮の今には賞賛を受ける行為だった。十三年前の騒乱で官位を剥奪されたウィルダムとしては、貶められた名誉の回復と朝廷の信頼を再び取り付けるために、そのような小さな賞賛を、程度をわきまえつつも貪るように積み上げる必要があった。やりすぎては逆にあざとさを感じさせ邪推を受ける。その辺りを見定めながらの出兵であったため、数こそ多くはなかったが、ウィルダムの精鋭は逼塞を余儀なくされながらも密やかに実戦の経験を積み重ねてもいた。その一軍の中に度々嫡子たるファーンリードも加わった。重臣たちがウィルダムの嫡子に相応しい修練の一環としてと懇願し、こぎつけたものだった。無論その場に赴いて手に獲物を取り、猪突して手ずから敵を斬って捨てる武功を立てたわけではない。そういった一騎駆けの騎士の勇気ある功績などウィルダムの重臣たちの誰もが望みはしなかったしファーンリード自身もそのような少年が目を輝かせる英雄願望の具現など行いたいとも思わなかった。重臣たちが彼に期待するのは一軍を統制し進退させる優良な将領としての資質の練磨であり、ファーンリードが好む好まぬとは別次元において自らに仮託するのも頭領としての責務の履行にあるのだった。
といって、ファーンリードもやはり人の子であった。戦場における最小の単位である個と個、男と男とが、刃を突きつけ合い互いの肉を引きちぎろうと渾身の力を込め、雄叫びを上げ或いは激痛に発狂したように叫び、噴出す鮮血を見て狂おしく興奮し臆して悲鳴を上げ、場馴れた後の外道の愉楽で殺戮を楽しみ、またそれに襲われ窮して平静を失い命乞いを繰り返し咽喉笛をかき切られる、そんな光景を肌身を接するように見せ付けられ、心底から大いに震えた。戦場は単に研ぎ抜かれた刃と刃が激突し、追うた方が勝ち、逃げた方が負けるという短絡的な場所ではなかった。それが崇高であれまた矮小であれ、命を的にし戦う男の意思が、欲望が、残忍さが、卑劣さが、繰り広げられ幾度も幾度も繰り返される場所であった。多く血が流れ、切除された腕を抱え激痛と哀憐に泣き叫ぶ哀れな者の力なく座り込む場所であった。ファーンリードはその息吹を嗅いで恐怖も困惑も味わった。幾度かの後、そのような現実に、なれずともある程度の平静さを保ちえるようになると、ファーンリードは兵馬の進退について、自家の将兵らを慈しむ心とはまた別個に、ある抽象的で数理的な感覚を抱くようになった。誤差を覚えるのである。軍の差配はそのほとんどが重臣によって行われていた。たかが僻陬の野盗の類にいちいち当主たるファーンリードの父が出向く必要などはなく、その討伐のほとんどが重臣たちに委ねられていたし、また彼らが動かすことのできる規模の将兵しか進めはしなかった。その彼らの指揮は、ひとりひとり微細に或いは大幅に異なっていたが、ファーンリードは実際の戦場における人馬将兵の運行を目の当たりにする中で、彼ら重臣全ての戦ぶりに、ある納得のいかない差異を感じ取っていた。自分であればこのように動かすという意思である。それはファーンリードの劣等感や自己嫌悪の折り重なる心底の、その奥底に僅かながら生じる何かの萌芽がもたらす、説明しがたい、だが彼にとって歴然とした違和感であり意思だった。後、二度、三度、それに基づく指示を重臣らに下した。重臣たちの中には半ばそれをままごと扱いして苦笑する者もいれば、いかに嫡子の身分にあるとはいえ差配を任される自分に対して越権であり一軍の秩序の維持のため望ましからずと反駁する者もいた。だからそれは重臣らに取り上げられることもあったが取り上げられないこともあった。ファーンリードはそれが取り上げられなければ眼前の局面がどのように推移するか、それがほんの数百同士の小規模な闘いであっても、戦の渦中において予測するようになった。それはファーンリード自身の至らなさや練磨の不足で外れることもあったが、不思議なほどに的中することもあり、的中どころかまるで符合したかのように眼前の状況が蠢くことすらあった。一度差配を任された重臣の一人がファーンリードの意見を受け入れそのままに指示を下したところ、小さな集団は糸を引き抜かれたかのように統制を失い、散り散りに逃げ出した。それを見て重臣たちは漸くファーンリードに用兵の才幹が宿っていることに気づいたが、ファーンリード自身は言葉では示しがたいその己の萌芽について他人に語ったこともなく、またそのことが自分を絶対的に支えるというわけではないことを理解するために努めなければならないと思った。強いて言えば、ファーンリードは考えた。それがもし自分の中にあるのならば、それは天与のものであるかもしれないが、その発露は自分が臆病で弱い人間であるからだと考えるようになった。自身の弱さを知ればこそ、自他の実力について正確に把握し、自らの長所を生かして敵の短所を突くという用兵の根幹たる態度に行き着くのだと思った。弱い人間でいいのだと大悟するに至ったわけではない。だが用兵のことを考えているとき、ファーンリードは父親から受ける圧迫感から解き放たれていたし、またごく自然にその点において自分は父親を凌駕すると思うようになっていた。
だがそれは、一時の心情の安定に他ならなかった。父親の凌駕という自負は、次の瞬間には跡形もなく消え失せる。一瞬だけは父親を凌駕するという愉悦に浸ることが出来る。だがそれを以って造反になだれ込む心地には到底なれなかった。一瞬はただの一瞬に他ならず、それは解消でも成長でもなく、父親への圧迫感を前にしては頭をたれるしか術を持たぬファーンリードの脆弱さはいささかなりとも進歩していなかった。だから翌日も夕暮れを見つめようと昨日より刻限も早く城壁の上に姿をあらわしたファーンリードが、城下の側を走る沿道に数騎の者どもが姿を表した時に、一瞬父親が姿を見せたのだと思い息をのんだ。
3
昨日よりは或いは僅かに刻限が早い頃であったかもしれない。夕紅の帳がそこかしこに満ちながらも、沿道より古城へと至る道を騎行する幾人かの影は、目を凝らせばその姿を判別できるかもしれない。姿、かたち、ファーンリードはそれが父親のものであるかどうか、城壁の上から顔を乗り出して見定めようとした。ファーンリードの理知は、それが別物であることを当に推察している。この状況で気軽にウィルダムの当主たる人間がのこのこやってくるはずはない。監査の官吏どもがどのように騒ぎ立てたかは知らないが、それを確証とするか一笑に付すかはともかくとして、ファーンリードと彼の麾下の将兵は疑念を帯びた視線に晒されざるを得ないのは確かだろう。その場に一家の当主が危険を顧みず現れることはない。そして親子、その紐帯にすがって姿を表し胸襟を開いて話し合う父ガイアスでないことをファーンリードは熟知している。父親はそういう人間ではない。だからわかりきっている。それでもその姿を見定めることに、表情に出しはせずともファーンリードは内心で狼狽していた。狼狽の内にはまぎれもなく期待があった。鼓動が早まり、じりじりと脂汗を浮かべる。面立ちはわかるようでいて、陰影が入り組んで良くわからない。背格好、肩幅、体の厚み、どうであろうか。
違う。安堵と、一抹の別の感情とがファーンリードの中に生じる。だがその波動がひとつおさまると、次いでファーンリードの中にある種の安堵感に似た懐かしさが湧き、自然と相貌がほころんだ。見知った姿、である。揺るぎなく真っ直ぐに伸びた背筋、遠目にもその人柄の剛直さを表しているかのようだ。頑固な男だ。が、他人に厳格であり叱咤一声一軍を統べる古参の武人の顔かたちの影の側を流れる影、おそらく白髭、微かな風をはらむその様子は、容貌こそ一部のすきもない頑迷に老いたものであるがためにかえってファーンリードには親しみを覚える。しわがれ声が耳に残る。そう、剣を、槍を、弓の扱いを教えてくれた男。老人。単に武張った匹夫の戦士などではなく、十分に己を統御し一軍を進退させることのできる老将軍でありながら、自分の武勇に抱く矜持は年々増し、殊更に勇武を若者と競い、そしてまた遠慮なしに叩き潰す、困った爺。ああ、爺め。ファーンリードは苦笑した。城に近寄るを誰何したファーンリードの手勢のふたつの騎士の影を、羽虫でも追い払うように退けようとする。ふたつの騎士の影はそれだけで何者か知れた。カスタールとボルカス、ファーンリード直属の家臣で若い双子の騎士である。生真面目な性質のカスタールと、殊更に己の印象を浮薄に彩ろうとするボルカスと、性格は正反対であったが、老人に小僧扱いされて左右対称に近しい姿で挑みかかるにわかるように、いざ刀槍の戦いともなれば不思議なほどに呼吸を合わせ、左右一対の連環した攻めを見せ、戦場でも幾度も武功を立てている。
「名を名乗れ」
双子の騎士が声をそろえてそう叫ぶと、老人は野太い声で笑った。
「我が顔を見知っておらぬのか。どこの下郎だ」
生真面目だけに直情型のカスタールが叫ぶ。「知っている! だが若の城の前までやってきて己の名も名乗らず誰何も受けずという狼藉は許しがたい」
老人は皺の目立つ片頬を吊り上げて不敵に微笑した。
「なるほど。ならば名乗ろう。我が名はジェイスター。当主ガイアス様に成り代わり軍の差配を奮ったこともある身ゆえ、汝らも多少なりとも見知っていよう」
物怖じしないボルカスが後を引き次ぐ。
「なるほどジェイスター老人ならば我らも良く知っておる。わからんのは貴殿の用向きだ。後ろめたきがなければ堂々それを申されよ」
老人は鼻先で笑う。
「汝ら小僧に話したところで詮無いこと。委細は直接若に申し上げる。ぐずぐずせずそこを退いて道をあけよ」
双子は再び声をそろえた。
「ならん。我らの誰何を得て後、若と会われよ」
「問答無用のようだな。ならば力で突破するまでよ。それ、汝らの望むまま打ちかかって来い」
否やはない。双子突き出す左右の槍、無論初手から殺傷の意思はない。鈍色の穂先は老人の輪郭の僅かなところをかすめるようにと狙って繰り出されたものだった。が、ああ爺めやったなとファーンリードは高みから見物していて思った。己の槍で全く造作もなくふたつの槍を払いのけ、風車のように回転させながら宙を舞わせ、穂先ではなく土突きの側で双子の騎士をごくあっけなく、だがしたたかに打ち据えた。双子の騎士は右に左にもんどり打って落馬し、呪詛のうめきを響かせる。ファーンリードはまた苦笑した。相手が悪い。ふたりの同じ顔をした若者が襲い掛かっても、平然としてあしらい退ける。
「やめよ。向かえ入れよ」城壁の上からそう叫んだ。門扉が開いて、老人の影姿は悠然と胸を張って入城した。その連れの数騎が、老人に比すればやや線細くその後に続いた。
対面はささやかな饗宴の場となった。
質素というより殺風景で粗末な一室。壁面には彩を与える絵画の一枚もなく、窓には豪奢に揺れる帳もない。ただ燭台の散りばめられるに似た置かれ方は、夜空に無数の星を撒き散らしたようであった。
そもそもくすんだ色の絨毯の敷き詰められた謁見の広間にて、白髪白髭、でありながら今なお屈強の体躯を悠然と聳えさせる老将軍ジェイスターは、ウィルダム嫡子ファーンリードとの対面の挨拶もそこそこに、道中の渇しを訴え、酒盃を所望した。白皙の相貌に苦笑を浮かべたファーンリードは手を叩いて、銀杯と、酒壺と、見繕わせた肴の盛られたいくらかの皿を用意させると共に、饗宴を催すこの殺風景な部屋に招きいれたのである。
純白のテーブルクロスの上には、酒壺と、山鳥の発達した腿肉の料理と、屠られた牛と、干され石のように硬くなった果実の盛り付けられた皿がいくらか並んでいた。燭台は僅かに震えながらも幾重にも光を発し、飾られた花瓶の中の花は小さく薄紫色に可憐に咲いている。そのささやかな花葉の向こう側に老人の顔がある。ファーンリードは老人と相対する。琥珀色の葡萄酒を手ずから老人の杯に注いでやる。八分ほど満たされたのを見定めて、老人は嫡子から酒壺を受け取り、酒を注ぐ同じ動作を若者に対し行う。やがて、杯携える若人と老いた者。重ねあわされる酒盃、心地よく響く甲高い音色。一献。琥珀は咽喉奥で充実を伴って燃え、胃の腑へ落ちて行く。ああと微かに老人は溜息を漏らした。眼前に主家の嫡子がいる。白皙の相貌、まだまだ線細い。それは外観ばかりではない。聡明ではある。だが知にも肉太な裏打ちがない。
仕方がないとも思う。また後悔もある。ファーンリードを育て上げた臣下の一人として、物分りの良すぎる大人すぎる方へと向かったファーンリードに対して責任も感じる。
「何故ですか」
「何がかい」
「吏員を追い払ったのは」
ファーンリードは緩慢に杯に手をやった。
「派手派手しく、ふれまわっていたのだろうな」
老人は鼻で笑った。あまりに小ざかしく小うるさかったゆえ、ひっとらえて己が屋敷の奥に閉じ込めたと伝えた。ファーンリードは微かに笑った。
「何故ですか」
再び老人は所以について尋ねた。詰問にしては眼光は険しくなく、直裁にファーンリードに迫らず煌く灯明を右に左に追いかけるよう動く。ファーンリードは苦笑した。ひどく大人びた表情になった。
「彼らは、領内の奥地の検分をしたいと言い出して、断った。それだけだ」
「何故断られたのですか」
幾許かの沈黙。やがて嫡子は口を開く。
「女がね、囲ってあって」
「嘘ですな」
老人の断言は物静かであったが早かった。ファーンリードは笑った。「嘘ではないさ。私もそういうことをしたくなった」
老人はとがめだてをするでなく苦笑した。
「嘘ですな」
「何故わかる」
「このジェイスター、若の襁褓の頃からのご縁ですからな。おっしゃられていることが嘘ならばたちどころに」
女だよ、そうつぶやくと白皙の相貌の嫡子は席を立って奥に退こうと踵を返した。数歩歩いて立ち止まる。立ち止まってその姿勢のまま後背から老人に語りかける。
「己の恥部を嬉々として見せ付ける悪趣味はない。租税については滞りなく送り届ける。それでおしまいにしないかね」
老人は感情の振幅を抑えたごく穏やかな声で返答した。一拍間を置きながらも、ためらいやひるみという淀んだ翳りはもいささかもない。
「駄目ですな。お父上はそれでは納得しないでしょう」
ファーンリードは咽喉奥で笑った。「だろうな。あの父だ。人のいうことになど耳を貸すわけがない」
ファーンリードは歩き去る。後ろ背にジェイスターが声をかける。
「お父上と戦いたいのですか?」
「……」
「若。ファーンリード様」
「戦いたくなくとも、戦わねばならない時も、あるだろう」
嫡子の姿は酒席から消えた。
4
ジェイスター老人はウィルダム家の下級騎士の家に生まれ、痩馬に跨って武功を積み上げ、主家の信頼を勝ち取って立身した典型的なたたき上げの武人だった。実寸は常を程々に凌駕する程度の体躯でありながらこの老人が戦場に駒を進めると巨人を思わせるのは、戦場往来の履歴が姿を表さずとも老人の後背に佇立するからである。その老人にとってガイアス・ウィルダムという十数歳も年少の主君は、頼もしい、颯爽とした戦士であるように見えた。
瑠国西方僧衣の徒党の乱が生じた頃、その泥沼の戦の中でウルヴァール帝国が急速に衰弱し始めたが、それがために諸侯の助力を求めての討伐軍の派遣が企図され、ウィルダム家もまた朝廷より指名を受けた。ガイアス・ウィルダムはかくて出馬したウィルダムの討伐軍を自ら率いる若い当主だった。ガイアスが駆け、ジェイスターも続いた。戦いぶりなど素人同然ながらただ狂信的な迷妄さで戦い続けてきた僧衣の徒党という造反軍は、死など恐れずむしろ喜悦として泥土を紅く染め上げ、毛穴の奥にまで金臭い血潮の臭いを染み込ませ立ち向かってきたが、それら狂信者であってもウィルダムの兵馬の前に道を明けるようになった。ウィルダムの兵馬は決して乱れない。一糸の綻びも見せずに進退し、無秩序で混沌のままに推移する戦場の只中にあって、幾何学的な形態を常に保っていた。殊更に敵を惨殺し、刈り取り踏みにじるような事実はひとつもなかった。だがそれは敵という存在の結集したひとつの力、軍というものを最も効率よく解体する打撃を生み出すものであった。兵士らは忠実に指揮に従った。そしてそれらに下知するガイアスの指揮も見事だった。元来武門の名誉轟くウィルダム家であったが、ガイアスの戦上手がそれに拍車をかけたのである。ジェイスターはそれを受け、その中で敵を倒し、立身を重ねていくのだった。
だが戦は長引いた。ジェイスターも当主のガイアスもひっきりなしに戦い続けるわけにも行かず、戦い疲れては一時的に戦線を退いて休息を求め、傷ついた兵士らの傷跡が癒えた頃を見計らって再び戦場へと向かうことを繰り返した。一年、二年、それが三年四年となり、敵と接する前線は行きつ戻りつを繰り返し、その振幅の帯の中に見えるもの、見えざるもの、無数の屍が折り重なる。その中には見知った顔もある。涙を注がずにはいられぬ顔もある。だが立ち止まってみれば例えそれが見ず知らずの死に顔であろうとも、そこにはそれぞれ人並みの生があるに違いない。そんなことを考え始めては戦うことはできない。だがそんなものを考えぬようにして干戈を交え続けると、知らず己は摩滅してゆく。槍で突いても突いても、まるで死に絶え朽ちた肉体を蘇らせているかのように、湧き上がってくるかのように、また襲い掛かってくる僧衣の徒党。殉教を思い込み、降伏に肯んぜず、最後の一人が鼓動を止めるまで戦い続ける不毛さ。いつしかその日々は、ジェイスターや、その主君ガイアス・ウィルダムや、瑠国中第一位とさえ褒め称えられた不敗のウィルダム兵団の将兵たちまでも含め、その心の中に虚無や披露を植えつけていったのかもしれなかった。気がつけば主従将兵は、互いへの信頼や己の矜持といったものまでも減衰させてしまっていたかも知れない。
その頃のガイアスの相貌を、ジェイスターはよく記憶していない。日々その顔を眺めて戦っていたのだから、ガイアスの顔立ちというのは忘れられないのだが、しかしその頃どんな様子であったのか、どんな顔色、どんな表情であったのか、覚えていない。結果から類推することはできる。理屈からすればそのころのガイアスは疲弊した表情を浮かべていたに違いない。だがその確証は老人の記憶の中には残っていない。ガイアス自身も随分昔の己の顔つきのことなど記憶してはいないだろう。疲れ果てるまでの克明な経緯も最早おぼつかないだろう。
現在のガイアスは相貌を赤黒く染めている。呷るような酒癖の長さが隈取りのようなどす黒さをその顔に老いと共に付与していた。
父君に話してみてはどうですか。老人の呼びかけに、ガイアスの子ファーンリードは答えようとしない。表情こそ温和であるが内心の扉はそのことに関して決して開くことがない。
「父上と話してみても、無駄だろう」
話が通じない。嫡子はそう思う。そうだろうかと老人は思う。ジェイスターには以下に今のガイアスが昔からすれば荒酒ゆえ見る影もない様子であるといっても、記憶の中にある残照が颯爽たる英傑のガイアスの面立ちを伝え続けている。それはともすれば時折ガイアスの顔のどす黒さの中に一片蘇り、古い家臣にかつてをしのばせるのであった。老人もまたガイアスのその様子の中に、熾烈で陰鬱な中に一筋煌いたあの戦いの日々を見出すのだった。それにはガイアスに対する信頼の糸が付帯していた。心のどこかで、ガイアスと忌憚なく話し合うことは決して無意味ではないのだという実感を覚えるのである。だが嫡子にはそれがないようだった。やむを得ないことかもしれなかった。物心ついたときガイアスは既に酒乱の暴君だった。気に食わないことがあれば年若のファーンリードのみならずそこかしこの家臣に至るまで容赦なく罵倒し、打擲もためらわない荒れようだった。嫡子ファーンリードはその振る舞いに物言わず耐えた。だがそれは父親に対する不信感を持たぬがゆえの忍耐ではなかった。むしろ逆であるからこそ、口を閉ざし、うつむいてその嵐が過ぎ去るのをじっと待つことを繰り返していたのだった。
ジェイスターはそういう嫡子であることを知っていた。だから話してみればいかがでしょうというのは、この果断な武人にしてみれば例外的な曖昧さで、ファーンリードに諾を強いるつもりは毛頭ないものであったし、また決して諾といわないであろうとさえ思っていた。そして予測の通りだった。嫡子は胸襟を開いて父親と対話することが全く不可であるとの判断を、居城の篭城じみた警護の神経質さで示しているようだった。
お調子者どもめ。老人は内心で罵る。ファーンリード直属の家臣らである。良好ではない嫡子と当主の親子関係、感情的な心中のもつれ合いの問題を、徒に嫡子に義憤し、また軽薄に使命感を抱き、また過剰に反応し、ファーンリードを旗として徹底抗戦に向かおうとしている。無論老人にも主家の嫡子の心底など全てわからない。それはファーンリード自身にさえ鮮明でない部分も多大のものであろう。老人は年ふりまた己の言動に簡素にありたいと願い生きている。その思いで己を鮮明たらしめようとしている。それでさえ隠微な情感が振り払われることはない。まして嫡子はまだ十八である。己の生き様に何らの帰結も見出せずして当然である。その不安定に揺れ動く心境の全くの皮相をなぞるように撫でて、嫡子を理解したと思い、嫡子の意のかなうよう戦いの準備を始めると意気込む者どもは愚かだと老人は思った。しかしながらその一方で、嫡子謀叛と吹聴し、老人によって襟首を捕まれ捕囚された徴税の吏員もまた愚か者だと老人は思わざるを得なかった。己の職務に忠実と彼らは信じて疑わないのだろうが、たかだか徴税の吏員が一家一領の騒乱を巻き起こすのが彼らの職務であるとするならばお笑い種だった。このようなくだらない、坂道を転がり落ちるような増す勢いで、成り行きで、十三年前を繰り返すわけには行かないと老人は思う。
十三年前、僧衣の乱により長く国許を留守がちだったガイアス・ウィルダムとその遠征軍が疲れた体を引きずりながら、漸く帰趨の見えた戦場を去り、期間の途につこうとしていた時、それは始まった。ウィルダム支流の一族らが結集し、ガイアスに対して反旗を翻したのである。痛恨事だったのはその叛乱軍の中にガイアスの妻エイラがいたことだった。エイラはウィルダム支流の娘であり、夫を捨て叛乱を起こした己の一族の判断につき従ったのである。
処断はすばやく、処理は迅速だった。たちまち拠点を包囲された叛乱軍は打って出て一敗地にまみれ、敗残の姿のまま立てこもった古城においても力攻めをされ、ついに叛乱を起こした支流一族は崩壊した。ガイアスの妻は落城を確信した瞬間、城壁の上から飛び降りた。叛乱に付き従ったウィルダム支流の面々とその将兵は、身分と責任とが重くなればなるほど生命の危機に瀕した。首謀者に近しいほど処刑され首が地に落ちた。そこより距離がある者も一族郎党ごと放逐された。また決して帰参を許されなかった。女子供の悲鳴に近い慟哭の響が山野に満ちた。弱い者が最も災厄であった。女たちは、これが家内の抗争であるがため敗北が陵辱に直結しているわけではなかったが、彼女たちの夫や父が戦に傷ついて体の身動きを損ない、或いは死に、その上方便の術を奪われ流浪せざるを得ないとなれば、生きるがために当然身を売る者も現れた。誇り高い騎士の家系の女たちが最も蔑まれる階層に落ちていく。そして、母や姉がそうなってゆくのを見つめる子供。傷つき動くことのできぬ戦士たち。
騒乱の傷跡は深かったが、さらにウィルダム家に不幸が起こった。ガイアス・ウィルダムは一家一領の統治能力なしとして、責任を追及する声が朝廷で起こったのである。これによりガイアスは僧衣の乱で戦功第一とされながら何ら恩賞なく、どころか今ある官位まで剥奪され無位官に堕された。ウィルダム氏領国ウィルネリアを没収されなかったのは僧衣の乱の戦功と相殺とされたが、ウルヴァール朝にそれだけの威信がなかったこととウィルダム軍の実力を恐れたがこそであった、いや、僧衣の乱の鎮圧にせよ、その論功行賞にせよ、とかく朝廷と諸侯との足並みはそろわず、利害は対立し調整は困難であることが余りにも多すぎていた中で、ウィルダムの懲罰に関しては不思議なほど朝廷と大半の諸侯は意をたがえず歩調をそろえていたのが不思議だった。ガイアス・ウィルダムはこの過酷な裁断を是認しウィルネリアに逼塞することになった。鬱屈は酒を呼び、酒が心身を蝕んだ。その過去はかくてそのようにつながり、そしてその果てにある眠れるウィルダムにおいて、再び内部の対立が持ち上がろうとしている。英気を喪失し乱れるガイアス、その父親に信服することのできない嫡子ファーンリード、そしてそれを見てひそかに見切りをつけて嫡子を持ち上げようとする家臣の中の勢力。再び争いが起こるかもしれない。
家中の中には、不穏を嗅いでいても其れでも敢えて楽観的な意見を持つ者もいる。何らかの対立はあるかもしれないが、戦だの何だのはないだろうというものである。その楽観はガイアスの子、即ちウィルダムの直系の子がファーンリードただ一人という事実に依拠していた。いかに思い余ったとしても、ガイアスは自分の一人息子を殺したり廃したりということはないだろうというものである。また仮にウィルダム宗家からではなく支流の諸家の仲から見繕うという方法もないではないが、過半の支流は十三年前の騒乱において殺されている。円滑に家中領内から信望を得ることのできる支流の後継者というのは皆無といってもまちがいではない。だがその見方は甘いとジェイスタ−は思っている。ガイアスが逡巡し躊躇するだろうか。いや、ガイアスはそうするまい。ファーンリードの華奢な細首を跳ね飛ばすかもしれない。それも発作、衝動ではなく、根の深い何かによって。
老人は内心でひとつ危惧を抱いている。ファーンリードが父親に対する不透明な感情を抱いているのと同様、或いは別種であっても不透明であることに変わりのない感情を、ガイアスの方も漂わせている様子だった。時折ガイアスがファーンリードをひどく冷ややかな視線で見据えることがあった。打擲、または罵声は、酒の毒の力を借りたものと解釈して、その場限りで収め忘れる努力をすれば沈静したかもしれなかったが、平時においてさえそのような視線に嫡子は晒されることがあった。そのことは老人のみならず幾人かの家臣が知っていた。ある者は嫡子への扱いの冷淡さの底を見出したと断じ、嫡子の庇護に積極的に動こうとし、ある者は同様の観測を導き出しながらもそれ故に嫡子から離れることを計算した。老人はこれら同僚たちを叱咤しつつ、ファーンリードに対しても主たる人間が感情を徒に表に出すようであっては、悟られるようであっては、一家は左右に分かれ乱れるものだということを教え諭したかった。だが剛毅な老人にも底まで踏み込むことは憚られた。ファーンリードに対する真摯な忠言は、当主ガイアスに対する批判でもある。そしてガイアスへの非難は一家の統制を揺るがす危うさが満ち、善言でさえ熟慮を要する。老人は剛毅である。だが、後先考えずに言動しその後に兆した事態を放り投げるような無責任さは微塵もない。
老人はまず何を譲っても成さねばならないことを考えた。回答は単純だった。乱の回避。ただそれだけである。その基たる吹聴者を老人は捕縛したが、もう数日もすれば忠義者たちは牢から抜け出すか、言葉を伝達するかして、嫡子ファーンリードの不穏な憶測を垂れ流すようになるだろう。だが、それを怖れて彼らの口を塞いでは疑念に拍車をかけるだけである。それを聞いたガイアスや、ウィルダム父子の不和において嫡子から遠ざかった家中の勢力は、嫡子ファーンリードの討伐に踏み切るかもしれない。吏員が老人の手によって殺されたと知れば、ファーンリードと老人との征討を同時にやるだけである。では万事休すか。そうではない。そもそも、ジェイスターはファーンリードのことを考える。父ガイアスに対する陰性の感情を抱いているのは疑いようがない。だが嫡子は聡明である。勝算もなく衝動で反旗を翻したりするだろうか。或いは悪循環が折り重なって叛乱に追い込まれるということはあるかもしれない。だが当初から計画的に造反するつもりは少なくとも老人の知る嫡子にはないはずだ。大体ファーンリードは自分の感情を満たすために家臣を死地に追いやることなどできまい。
問題は嫡子の行動を不穏じみて見せているある秘密である。委ねられた領内の奥地、その査閲を拒む何か。老人にさえ見せぬもの。ファーンリードはそれをどうしても護持しようとしているだけなのだ。ならば、老人は思った。それの正体を突き止め、それを嫡子が防備しようとしていることが全く正当であるということを布告すればいい。
短絡的な発想ではあった。だが剛毅なこの老人はこまっしゃくれた発想は不得手であったし嫌悪してもいた。そもそも老人の根底には嫡子への信奉が横たわっていた。それだけのものを秘しているに決まっていると老人は思っていたのである。
酒宴、先んじて嫡子が去り、ややあってから宛がわれた一室に通されたジェイスターは、しばらく己の考えに没頭した後、荷物の中から折りたたまれた一枚の地図を取り出した。それはウィルネリアの様子を描いた地図だった。ファーンリードに委ねられた北東部の一帯は、街道沿いにこそ平野部があったが、奥地は森林や沼沢あり、つづら折の山谷あり、いくらかのか細い間道があるほかは詳細に地図には書き込まれておらず、奥の様子は皆目知れなかった。
老人はそれら細道を確かめた。無論自分自身がそこに向かうためである。
5
晩秋の黎明は、掃天の所々を紫立たせながら、峻厳に蒼を積み上げていた。慄然とし白雲が行く。昨晩の酔いの残滓は白く蒼い朝が払った。ジェイスター老人はあるかなきかの寒なる風に白髪白髭を微かそよがせながら、随行する数人と共に馬上の人となっていた。
古城の城門を出でる。物音ひとつない朝靄の中をゆったりとした馬蹄の響が通り抜けるも、その姿は靄がかって影絵のようだった。
一行の後に、やはり影がつながる。白皙の相貌が聡明さを類推させるウィルダム家嫡子ファーンリードであった。白々とした東雲の朝靄の濁りの内に兆す影の蠢きは、どことなくぎこちない様子が窺える。
靄の中から声がした。或いは次は戦場にて見えるかも知れない。一方がそうつぶやき、一方が慇懃に頭を下げる。老人は馬首を翻した。轡が響いた。
老人とその一行は嫡子の居城からさほどに離れておらぬ街道に出でると、そのままウィルネリアの居城へと向かう素振りを示した。取り立てて尾行する者がいる様子はなく、嫡子との別れ際にもそれを漂わせるような表情の色もなかった。だが老人は直裁にその行動の意思を示すことはなかった。昼が来て太陽が晩秋に相応しい高度ながらも頂に達し、やがて徐々に傾き、衰える様が露になった頃、徐々に入り混じる薄闇の中を縫うようにして突如老人は馬を足を速めた。若い者、或いは老人より十ばかり若そうな年齢の者、とりどりの一行が物言わず後に続いた。やがて街道より分岐する間道に達すると、木々や岩場の隔てるそちらに老人は馬を進めた。
やがて日は落ち、左右の木々が刻限と共に実像を捨て、魍魎の手足のように細く長く伸びるように見える中、老人とその一行は雲もなく漆黒の帳を煌々と照らす上弦の肥えた月が示すまま進んだ。松明は敢えて用いなかった。悪心ある者の的に成り下がるつもりはなかったせいだった。むしろぽつんと彼方に揺れる褐色のゆらめきを老人らは見つけた。随分遅い刻限に達していただろうと思う。炎はただひとつであった。先を行き、先に揺れていた。老人は老巧の戦士らしく音もなく鞍上より降り、己の気息を絶ち、また馬のそれも押さえながらずっと彼方の炎を携えるものの様子を探り、足音に耳を傾けた。一人きりの様子だった。老人は目配せをした。一行も同じように馬を降り、その脇に立って手綱を緩やかに操り馬に物音を立てさせぬようにしながら炎の進むに合わせ距離を置き進んだ。
がやがて炎は消えた。足音も響かぬようになった。老人らは慎重に、距離を保ちつつもじりじりと、炎の失せた辺りに近寄った。やがてそこに達した。暗がりがあるばかりであった。月明かりの助力を得ても夜目には様子が皆目わからない暗闇のたまりがあるようだった。一行の一人、若者が、その辺りを慎重に歩き回ったが、やがてその二本の足のひとつがどうやら地面を捉え損ね、空を爪弾いたようだった。礫の転がり、斜面を落ち行く音が聞こえた。老人は長い腕を伸ばして体勢を崩し傾きかけた若者の襟首をつかんだ。引き上げた。若者は無事だったがやむを得なかった。老人らは木々の合間に体を差し入れ、雨露の多少しのげる様外套を幔幕代わりに巡らして、神経を尖らせながら睡魔の表面をなぞるような夜更けの睡眠をとることにした。風が鳴り、木々の梢が闇の中を蠢く気配が知れた。目を閉ざせば、脳裏に様々な物思いが浮かんでは過ぎ去っていった。
白々と夜が明けた。老人とその一行は朝露を払いながら憮然として景色を眺めた。削り落としたような渓谷が眼下にあった。昨夜の先を行く灯火が消え失せるはずであったし、また足を滑らせて転がり落ちそうになるはずであった。
獣が行くに似つかわしい細い道は、九十九折になりながらその渓谷の底へと伸びていた。ジェイスターらは馬に乗らずその傍らを歩み巧みに手綱を使って馬を御し、その細道を手繰るように進んだ。山腹の周囲を巡るようなその道の一方は生い茂る樹木と上から覆いかぶさるような崖であり、また一方は足元がおぼつかなくなる抉れた崖であった。曲がりくねりながらそれが延々と続いた。この道がどこに通じ、そして何処かにかいつ辿り着くか、老人にも一行にも見当はつかなかった。だが老人は、急ぐでなく弛むでない歩調を長く繰り返し行く中で、或る、目に見えず、また気配も確実に輪郭を結ぶでない、それでいて何とも言えぬ気息が自分たちの周囲にあることを朧気に感じ取っていた。
老人がそれと気づいた時、それからしばらく、気息は現れては消え、消えてはまた現れるのを繰り返していた。近づこうとしては躊躇し、それでいて離れることも叶わぬ、ひどく散漫な意思の現れのようでもあった。それはジェイスター一行の後にもあったし、左右にも、先にも現れ出たようだった。姿は見せなかったがほんの少しずつだけ痕跡が見え隠れする。だが一刻程もそれを経た後であったろうか、やがてそれは途切れてはまた浮かび上がる繰り返しをやめた。気息は絶えずそこかしこにあった。ここに至って老人だけでなく漸く一行もそれに気づいた。歩みが鈍った。道は丁度傾斜をやめ、それまでに比べれは程々に道幅を保ち、それでいてその先はすぼまるように狭くなる様相を示す場所だった。待ち伏せには好ましい場所だと老人はその日の天候でも占うかのようなあっけなさで思った。歩みが止まった。一行の前後から七や八といった影が躍り出て進路と退路とを絶った。物の怪ではなくましらでもなく人だった。色褪せたみすぼらしい衣を身につけ、僅かな寸鉄を一行に突きつけている。皆小柄で、驚くほど若い顔をしている少年たちだった。泥土に汚れ、日に晒されて色黒い顔をしているが、その所々に生木を接いだような生気ある肌を見せ付ける。鋭く光る瞳には年頃に似つかわしい夢見がちな弛緩は見出せず、ただ空気の凝固でさえ連想させる緊張感が漲っている。或いは、戦の経験に乏しい者ならば殺気とも取れようし気押されするかもしれない。だが老人は心中の片隅にすら狼狽の一角を持ちはしなかった。おそらくその影たちは見せ付けるようにした敏捷さで、攻めるとなればすぐさまに飛び掛ってくる。ひとつは槍を投擲する。ふたつ目は剣で両断し宙から叩き落す。返す刀でもうひとつの影の機先を取らさぬよう牽制し、体を立て直して機会を窺う。咄嗟にそこまでを考え、馬にくくりつけていた馬上槍の柄にそっと手を伸ばした。
じりじりと、少年たちの輪は狭まってくるように感じられた。ジェイスターは距離を物言わず目測した。ぎりぎりまで間合いを詰めさせ、相手に先手を打たせ後の先を得て撃退しようと目論んだ。が、その老人と少年らの合間に、ひとつの影が風のように滑り込んできた。そしてそれは洞がふたつこちらを見上げるように、ジェイスターの顔を見つめている。後の少年たちとは別人種とさえ思えるほど食い違う老いた人の顔。顎の半ばを覆う髭と頭髪は乱れ、曲がりくねりながら、黒髪と白髪と斑に入り混じる。梳りもせぬみすぼらしさ。鋭利な小刀で切りつけたかのような深い皺の数々。土気色の表情は辛苦の痕跡をありありと止める。それゆえなかなかその相貌の輪郭と老人の記憶の中のそれとが結びつかない。が自分を見上げる瞳、情感の一部も篭らない、だがそれは、そうかつて見た。見知っていた。それは間違いない。
「バダック」
老人は叫んだ。死んだはずの男の顔が時を経て老いてそこにあった。
「久しいなジェイスター殿」
バダックと呼ばれた初老の男は、ウィルダムの重鎮として綺羅を飾るジェイスターに対して粗末な身なり、だがわずかばかりのひるみも見せず、また気負いもなく、淡々と語りかけた。
「生きていたか。十三年前にお主は討死したとばかり思っていた」
「死ななかった」
口調は短かった。死なずに生き延びた自身を突き放すような口調だった。
ジェイスターはこの初老の戦友の顔をまじまじと見つめた。まぎれもなくバダックだった。記憶の中に住まうこの男の像が急に年を取って現れ出てきた。血気盛んな男だった。勇猛な男だった。共に戦う時、一番に敵陣に突貫していくその有様はジェイスター老人も含めたウィルダムの左右の軍兵をどれほど鼓舞したか計り知れない。やがて返り血と己の怪我とで紅く染め抜いた姿で帰陣するこの男は、疲労困憊を隠し切れないからりとした笑顔で、味方の歓呼に応えるのだった。
その頼もしい男も十三年前の家中内乱ではジェイスター老人の敵に回った。その頼もしい男も十三年前の家中内乱では陽気な果敢さをそれまでの味方、骨肉には向けられず、目立った活躍もなく、またそれを恥じる様子もなかった。そして当主ガイアスに叛した者どもが主要な将領の刑殺によって終末を向かえ崩壊し、その麾下にある者も多くは戦場で殺戮された。バダックはその中で死んだものだとジェイスターは思っていたが、バダックはその中で生き延びたようだった。
「死ななかった。生き延びた。生き延びてしまった。そしておめおめとまだ生きている」
馬鹿を言うな、老人は低くうなった。
「きっと若もお喜びになる。うれしいことだ。きっと若もお喜びになる」
バダックはうなずいた。
「ファーンリード様は大いに喜んでくだされた」
老人はバダックの顔を見改めた。
「若はお主が存命であるのを既にご存じなのか」
バダックはじっと老人を凝視した。
「我らをここでかくまっているのがファーンリード様なのだ」
ジェイスターはそれを聞き、眉を僅かに寄せた。だがそれ以上に明確に反応を示したのはジェイスターの一行を取り囲む少年らであった。そのような年頃であるのか、声色の高く低くの乱れを目立たせながらバダックの口軽に抗議した。
「バダック様。この連中は御舘の差し向けた者なのでしょう。そのようなことを告げるのは無用ではありませんか。いやむしろ有害だ。この連中は若が我らを庇護することを謀叛の兆候として御舘に上申するに決まっている。そしてかつてのようにまた我らは討伐される」
バダックは一喝した。「急くな。ここにいるジェイスター殿は正々堂々の武人だ。阿諛者のような真似はすまい。ゆえにわしも不意打ちなどせず姿を見せた」
ジェイスターはじっとバダックを見た。
「確かに不意打ちはせなんだな。昨日の晩から」
バダックは少しばかり視線を見上げた。
「気づいておられましたか。昨夜あなた方に先んじて歩みつつも、あなた方のことを察知していたことは」
「なに。今合点がいったのさ」
曲がりくねる山と森の中の細道を、ジェイスターの一行とバダック率いる少年の一段とが進んでいた。少年らの抗議を一喝して押さえ、バダックは彼らの里にジェイスターを招き入れることを告げ歩んでいた。
「若が今何にご尽力されているか、おそらくあなたはそれが知りたいのでしょう。であるならばありのままを見ていただくのが一番よろしいと思う。案内します。どうぞ我らの住処へ」
そうつぶやいて以来バダックは道中口をきかない。バダックに従う少年たちも何も言わない。人馬の足音と馬のいななき、人の息遣いだけが目立って聞こえる。時折鳥の羽ばたきと風の音が混ざる。
道は奥底へと続く。長く進む。やがてふたつ目の日が傾き始めた頃、彼方を展望する崖に道は躍り出、ジェイスターと一行はそれまで木々や山陰によって遮蔽されていた彼方の様相をようやく眼下に捉えることができた。霧霞むそれは、鉢の底のようなわずかばかりの平坦な土地に肩を寄せ合うような集落であった。
十三年前の敗残者たちの村だとバダックはうめくよう言った。
6
集落に寄り添えば、其処は想像以上に貧しい風貌であった。住居は堅牢に遠く、その中に家財のふんだんにあるとも思えぬ様子である。垣なくまた雨露をしのげるか危ぶまれるたたずまいすらあるが、それでもまだ程のよい方であり、征旅の軍勢が露営する皮革の天幕を用いる住まいもあった。
戸数は、数十というところだろうか。
集落の周辺には収穫を終えた不ぞろいの畑地があった。開墾も灌漑も不十分であるのがありありと刻印されている。土地にも地力がないのが見て取れる。生育せずに立ち枯れ絶ち腐れとなった黄ばんだ何かの作物が横倒れて死んでいた。どう見ても芋や雑穀の類しか産しないようだった。退かしきれぬ石や岩がいくらでもあった。
傍らの小屋の牛や鶏は痩せていた。だがその中にあって僅かばかりの頭数の葦毛や栗毛の馬は決して肥えているとは言えないものの周囲の家畜の様子から比べれば見事な筋骨を浮かべ、藤色の瞳でじっと彼方を見据えていた。彼らの手入れが行き届いているとジェイスターは察した。それは彼らにとっての矜持であると思った。それはいかにも気位が高そうで農耕馬ではあるまい。畑に向かわせてもそっぽを向くばかりで耕すのに何の役も立つまい。それを飼うに丹誠を尽くす。己が餓え、子が餓えても、戦うための馬を育てる。
老人はやりきれなさを感じもしたが、勢いよく戸口から飛び出してきた舌足らずのはしゃぎ声と、それを叱責しつつも諦めがちな大人の声が聞こえ、安堵を覚えた。飛び出してきたのは何人かの幼子だった。やはりみすぼらしい身なりながらも外に躍り出、ありったけの生命力ではしゃぎ、騒ぎ、駆け回る。十三年前には生まれ出でていなかった生命は、先々には親兄弟の暗闇を継いで行くのかもしれないが、貧中、苦境、そんな事情などにはお構いなしに屈託なく飛び跳ね、明るい透明な笑い声を響かせる。どのような過去が横たわろうと、硬く干からびた樹皮を割って新たな緑が芽吹く。
バダックはいざなった。一軒の家の窓に近づいた。家の中は薄暗かった。何人かの粗末な衣服の、髪の乱れ日焼けした、だが挙措のひとつひとつに決して拭いきれぬ品の良さをうかがわせる女たちが、細くたなびき光り輝く糸を紡いでいる。一人嫗がいる。盲いていると思わんばかりにその瞼は垂れ下がっている。そのほとんど閉ざされた片隅に僅か、だが確かな光を浮かべ、じっと震える指先で糸を紡いでいる。
血色のない、濁った琥珀色をした爪。それで糸を削ぐように、細く、細く、紡いでゆく。糸は爪を削り、指先の肉にまで食い込み、あかぎれやひび割れで乱れた手をさらに痛めつけるが、お構いなしに、嫗はより細く細く紡ぐため黙々と手を動かす。他の女たちもそれに習う。言葉は発しない。
ジェイスターは織物の知識などほとんど持ち合わせない。だがあれほどに細く紡ぐ糸は炎下の夏に用いられる軽やかで涼しげな衣を織るに用いられるくらいの察しはつく。それは風に舞い、風に揺れ、風を溶かし、風を吸い風を透いて涼をもたらしてくれるだろう。そのような衣のため百金を惜しまぬ者も多くいるだろう。そのために紡ぐ。生きるため、暮らすため、育てるため、絶望せぬため、女たちは糸を紡ぐ。身を削り細く細く糸を紡ぐ。
暖炉の火勢が乏しいのをバダックはわびた。薪が音を立てて弾け、崩れた。覆いかぶさる粗末な部屋の闇の中に暖炉からの光が差し込んで、陰影は炎の揺らめきに合わせ漣のように濃淡を繰り返す。老人とその一行は招かれるままにバダックの家に上がった。隙間風がなかなか家の中を暖めない。
「各地を流浪した」
ガイアスの怒りに触れ、国を追われ、当所もなく放浪を繰り返す。バダックの脳裏に苦難の過去が浮かび上がっては消えた。貧した。辱めも受けた。糧を得られず餓えて死んだ子を抱いて慟哭した。肉親や仲間の亡骸を葬っても陵墓も築くことができなかった。
何のために生きるのだろう。何のために生き続けるのだろう。幾年を経ても謀叛の烙印は消え失せず、ガイアスからの赦免の報せも届かない。何の希望もない。
「やがて、我らは思った。どうせ死ぬのならばウィルネリアで死のう。故郷の山河を見届けて死ぬならば本望ではないか。我ら謀反人と刻印されている。だが土に帰って跡形もなくなればどれが我らの骨か血かわかるまい。我らは故郷の土に戻ってゆこう。そう思って境を越えた。叛乱から十年近くが経過していた。そうしてここにやってきた。だがやがて見つかった。ウィルダムの嫡子、あの叛乱の時にはほんの幼子であった方の委ねられた土地に我らは入り込んでいた。やがてその若の率いる討伐軍がやってきた。だが若は我らの姿を一瞥すると、野営の陣もそのままに簡単に軍を翻した。後に膨大な物資が遺棄された。陣幕、糧食、衣服、薬丸、武器。やがて若は我らを匿い、我らに食を与えてくれた。そして今……」
老人はゆっくりとうなずいた。彼らの存在をひた隠しにしようとファーンリードは口をつぐみ戦の構えを見せている。
沈黙が訪れ、ただ炎の中で薪が躍る音が聞こえてきた。
やがて、ごく素っ気無くバダックがつぶやいた。
「死ねというのならば」
老人は緩慢にバダックの初老の顔を見やった。
「どうせ一度死んだ身だ。いつでもそうする。若は十分なことを我らにしてくださった。その若を巻き込んでまで、戦いを呼び寄せ、生き抜こうとも思わない。いや、むしろ殺してくれ」
口調に昂ぶりも悲愴さも、そのような感情の断片すらもなかった。ただ淡々とバダックはそれを語った。一言老人が諾とさえ言えばバダックは白刃の前に白髪首を晒しごく静かにそれが振り下ろされるのを待つだろう。
ジェイスターは瞑目した。やがてつぶやいた。
「わしを殺さずここに連れてきたのは、おぬしの首をわしに取らせるつもりだったからかね」
バダックは皺多い顔で淡く哂った。
老人は嘆息し、ぽつりと言った。
「昔の戦友に会えたと思った矢先に、それを自分が殺さねばならんのか」
バダックはやはり淡々としていた。
「老ジェイスターに首を取られたとあれば、武人としての誉れだ。このバダック、武人としていささかの声望を得、次に謀反人として悪罵や嘲笑を受け全てを失い、その日の糧にも困る流浪者としてさまよい、食い詰めの落剥者として故郷に戻ってきた。最後にわしは誉れを得て武人へと帰れるだろう」
老人は干からびた声で素っ気無く問いただした。
「武人に、戻りたいかね」
バダックは部屋の天井を見上げた。明るみは其処まで届かず、虚空へとつながる闇が横たわるように見えた。「戻りたい。武人として、ウィルダムの臣として死にたい。何を今更と思われるだろうが」
ジェイスターは目を閉ざし、ゆっくりと首を左右に振った。何度もそれを繰り返した。
「お主らが反旗を翻したのはウィルダムの臣たるを軽んじ、それを捨て去ろうとしてそうしたのではあるまい。むしろ臣たる想いが強ければこそ敢えて御舘様に戦いを挑んだのだろう」
「……」
「でなければ、骨肉の争いなどやれはせぬよ」
バダックは老人の言葉を耳にし、それまでの平静さを捨てうっ伏して嗚咽した。しわがれた、咽喉奥から搾り出すような泣き声だった。泣きながら語った。殺してくれ。わしの首を御舘のところまで持っていってくれ。そして、若に謀叛の意思はなく罰し誅するにあたわずと御舘を諭してくれ。どうかどうか、再び、ウィルダムがふたつに分かれて争うことのないようにしてくれ。わしは死ぬ。いや我らは全て死ぬ。邪魔者は消える。ゆえに、ゆえに。
丸められた肩は背は震え続け波打った。それを老人はじっと見つめた。
やがて、バダックの発作もおさまろうとした頃、不意に戸外が騒がしくなった。土のはねを飛ばしながらの乱雑な馬蹄、火勢の徒に強い松明が羽虫のようにいくつもいくつも蠢いている。怒声が聞こえる。田夫野人の掛け声などではない。言葉には十分な品性がある。ただし語気は猛々しい。それが瞬く間にバダックの粗末な家を取り囲んだ。気配で知れた。老人はそっと立てかけて置いた傍らの剣に手を伸ばした。その仕草に促され、老人に付き従う数名の人間もまた同じ動作をする。さすがにバダックも気づいた。
ほとんどそれと同時だった。バダックの家の扉が蹴破られた。革の長靴の足音を叩きつけるように響かせ数名の甲冑姿の男が入り込んできた。
「おのれジェイスター、このようなところに」
「老いぼれめ」
嫡子ファーンリードの居城の門扉を警護する双子の騎士、カスタールとボルカスが若々しい相貌に怒気を浮かべジェイスターを睨み据えている。
何だお主らか、老人は苦笑した。が、双子の騎士の後から表に進み出た一人の青年を見つけ、さすがの剛毅な老人も少々驚いた様子を垣間見せた。白皙の双頬、白皙の額、聡明さを物言わず語る口元、深い色を湛える瞳、ウィルダム家嫡子ファーンリードの紛うことなき姿であった。
「爺。やはりここに来てしまったか」
気色ばみ、血気にはやる双子の騎士やその周辺の兵士たちを穏やかな身振りでごく自然に押さえ、それと同様の穏やかな声色で嫡子は老人に向け語った。
ジェイスターは片頬を吊り上げて笑った。
「若の囲われた思い人、拝見させていただきました」
沈毅な表情を常とするファーンリードもさすがに笑みを浮かべるしかなかった。ややあってようやく、いい女だろうとつぶやいたが、老人に対し間隙の分だけ気圧されたともいえる。
7
ファーンリードは十五の年にウィルネリアの北東部を総監するよう当主たる父に命ぜられた。
その前年まで、およそ一年余りをウィルネリアでなく帝都パルシュナで過ごしていたファーンリードは、父という存在と寓居を別つこと久しく、やがてその日々も終わりを告げウィルネリアの居城で父と共に暮らすことに対して鬱々としている中で下された、意外な命令であった。安堵もあったが父親に僻陬に追いやられたような心地も兆した。ファーンリード自身がふたつの思いの中で整合性を見出せず困惑していたのと同じように、家臣たちもこの一件を例え表面的な欺瞞や先延ばしであるにせよ父子相克の当座の回避と受け取り歓迎する者もいれば、ウィルダム宗家ただ一人の後継者であるファーンリードを膝下から離すとはどういうつもりかと主君の意図を解しかねる者もいた。将来の当主としての独立心を養わせ、独歩の気概を学ばせるための計らいと、幼子が親を信奉するように疑いなく信じ込んでいる者はウィルダム家中にはほとんど存在しなかった。誰が見ても、ウィルダム父子の合間に悪感情が伏流していることに思い至る。酔うがまま手元の玉杯を投げつけるガイアス、避けもせず頭部でそれを受け止め、よろけ、白皙の額に血を滴らせながら、じっと父親を見据えて頭を垂れるファーンリード。その光景を幾人もが見ていた。
努めて我が父に悪い感情を抱かぬように己の心に蓋をし、十五のファーンリードは命ぜられたまま草深く峡谷切り立つ北東の奥地に赴いた。己を内側より焼く苛烈な感情、この世の理不尽さに小さな世界の正道を当てはめようとして成しえず悶える激情、それが烈火のように胸中に広がる時、ファーンリードの理知は自分と父親との間柄が常のそれとは異なっており、市井の者、いや家中の睦まじい父子とですら同等になりえないものだと言い聞かせ続けた。自分はウィルダムの惣領である。この家、この封土を統べる大権を委ねられるのと引き換えに、他の大勢が空気のようにごくあたりまえに与えられているものを手にすることができない。そういうものなのだと思うことにした。父親の冷淡さ、暴勇ぶりもまた、それがウィルダムの当主だからである。常の人ではないからなのである。そう思うため、数々の不愉快さや屈辱、そして身に滾るものを押さえ続け、任地で年月を重ねた。その父親がその当主という地位を保持するため母を贄としたことは考えないようにした。それを週間としいくらか時が過ぎ去ると、ファーンリードは自分自身が冷酷な人間なのではないかと他愛なく錯覚してしまえるほど、普段は浮かび上がっては来なくなった。母親の面差しは元来おぼろげであったところにますます拍車がかかった。若くして死んだ母はファーンリードにとっては全く別の世界の人のように実感のわかない存在となった。
だが、それはファーンリードの昼間の世界においてであった。闇の中、寝入る夢見の中においてはまるでファーンリードの努力を嘲笑うかのようにあの日の夕焼けが再現される。母が死ぬ、父が母を殺す。家臣と家臣、見知った顔と顔、骨肉が殺しあう。あの日の夕暮れの光景が再現される。そしてファーンリードは思い知らされる。それはファーンリードの罪悪感の象徴として彼の心の中で反復し続ける幻などでなく、歴然とした事実であることを。敗残し、流浪し、その猛々しく刻薄な爪で引き裂かれた傷跡をありありと浮かべるかつての家臣たちが、討伐されることを承知の上で境を越えてやってきた。
その報を受けたとき、ファーンリードは咄嗟にそれは殺さねばならないと思った。父親の顔が浮かんできた。酔眼、目は血走り、咆え猛る怒号。剣を抜き放ち家臣に斬りつけたことも一再ではない。その父親が彼ら流浪の元家臣らの運命を定めた。殺戮。一人残さず。その手が伸びる前に逃げ出した家臣。ウィルダムの旗を仰ぎ戦ってきた者。惨殺。そう母のように。殺さなければならない。父親の顔が浮かぶ。それはファーンリードに己の命令の絶対的な服従を強いてくる。そして逆らえばお前もまた同じ道を歩むと宣言してくる。父親が怖かった。法と秩序を担いまたそれを我が手の内にとどめ、他者と世界とを統治する、理性としての父親を恐怖したのではなかった。その大権を最も理不尽で粗野な恣意的な、感情の振幅に赴くまま、行使しようとする父親に恐怖した。それはファーンリードの理性の及ぶものではなかった。ファーンリードがこの少年の本来持ち合わせる聡明さを使えば、父親に対する恐怖や狼狽などいくらでも解消や欺瞞の術があることを見つけられるはずだった。だがファーンリードは動物的に、生理的に、父親を恐怖している自分に漸く気づき始めていた。それは例え声の届かない隔てをおいていても、ファーンリードに服従を強いてくる。ファーンリードは無様に震えるしかない。殺す。討伐する。
だが兵馬を進めてみたところ、それは一見して戦うことのできぬ相手であることが知れた。女子供、老人、一族郎党を引き連れての移動。歩行すら困難で、一歩踏み出すのに精力を使い果たしかねない弱々しい足取り。何より、彼らにとって昔懐かしい猛禽を意匠したウィルダムの旗をなびかせるファーンリードの軍が迫っても、戦う素振りも見せない。胸中に飛び込んでじゃれついて命乞いをするというのではない。何もかも諦観した静まりがあった。泥土に汚れ日に焼けた表情に気高く侵しがたい高貴さが宿っていた。その目がじっとファーンリードを見つめていた。それは眼前のファーンリードに殺戮されても魂魄はウィルダムを、ファーンリードを守護せんと心穏やかに願う光が宿っていた。退却せよ、ファーンリードは叫び、馬首を翻した。家臣達は、そして流浪の叛逆者らは、それを物資を譲り渡す粋な計らいと解釈したが、実のところファーンリードはただ逃げ出した。
やがてバダックやその他の、反逆者たちの群れの代表が面会を求めてきた。ファーンリード直属の家臣団は彼ら反逆者たちとの接触について、外聞をはばかって神経質になりはしたが、しかし彼らにしても元来同根の者たちを無碍に扱うことに抵抗があり、ついにファーンリードに上申した。ファーンリードは報告を受け、彼らと面談することを決意した。父親の顔がちらついた。
寒い季節だった。対面の場たる古城の一室、石畳の床は凍えていた。其処に拝跪し、ファーンリードの姿を表すに額づかんほどに頭を下げる彼らは、無残なほどに薄手の衣のみで体を包んでいた。それを見た時、ファーンリードは十三年前の決別が既に過去のものでなく、なお今においても継続し、多くの人間を苦しめ続けていることを悟った。駆け寄った。纏っていた上着を脱いで一番年嵩のグラウという老人の骨と皮ばかりの様な体にかけた。老人の干からびた頬を涙が伝い雫は床にまで落ちた。バダックら、造反した左右の者どもも泣いた。立ち尽くし、彼らを見下ろすファーンリードの家臣団もまた涙を滲ませた。ファーンリードは苦しかった。それは憐憫などではなかった。罪悪感であった。それは父親の下した断罪であった。だがファーンリードは口が裂けても自分は無関係であるとはいえなかった。つい先ごろまで父親のそれに、いかに強いられたとはいえ同調し、彼らを殺戮する、父親と同じことを反復する、そうしかかった身に対してわいてくる罪悪感をどうすることもできなかった。そしてファーンリードはその感情に気づかぬふりをし、また左右の家臣たちの情感について全く鈍感であるよう装い、父の下した殺戮の命令にひたすら忠実になれるほど干からび凝固した防壁を心根の周りに巡らしてはいなかった。
救わねばならない。
だがそれは優しさなどではなかった。今目の前にある咎人、それが悪法より発し血塗られたものであったとしても絶対の、そのあぎとに喰いちぎられた者達に対する果断を回避し、曖昧なままに先送りして当座をしのぐに過ぎないものだった。手近の安楽さを安直に貪ることだった。そのことに当初ファーンリードは気づかなかった。だが、そのうちに父親に叛逆を詰問され刑殺される夢を見てファーンリードは自覚した。自分が選んだのは父親との対峙を不可避とする道であるのだと。
それが嫌ならば、無理ならば、家臣らに白い目で見られようと、小心者、卑劣漢と罵られようと、グラウやバダックら離反した家臣に絶望と憎悪のまなざしを向けられようと、そういう自分自身を是認して彼らを殺すべきであった。ただ暴君である父親に屈服するしか能のない小さな小さな嫡子という嘲りを背負って生き続ければいいのだった。
それを選ぶことができないのならば、戦うしかなかった。兵馬を進め、干戈を交えるばかりの戦いではなく、性根として父を打破する気概を持たねばならなかった。昼にそのことを決し、宵闇にそれに脅えた。そしてあの日の夕焼けが漣絶えぬ遠浅の波打ち際のような薄眠りの夢の中でファーンリードに晒されるように反復される。決することのできぬまま、いたずらに年月が流れてゆく。
三年。ファーンリードこの地に赴き、それだけの歳月が流れた。決断することができず悶え続けたファーンリードは、己の柔弱さや罪悪感に苛まれるだけ、敗残の元家臣らに手厚かった。我が身を削ぎ与えるかのようにして彼らの日々の生活に尽くした。滑稽なことに、三年を経過した今、ファーンリードは最悪の場合父親の軍を迎えうつこともやむを得ないなどとしながらも、そのくせ糧食庫は空に近かった。租税として集積されるそれは、ファーンリードの軍に刀槍甲冑をもたらしたり遠征用の物資の蓄積につながったりするのではなく、敗残の家臣たちのために費やされ、またその他の民政のために用いられる。
敗残の家臣たちのことは、ファーンリードの兵団の半ばは概ねを察していた。だが一兵卒に至るまで誰もそれを外部のものに告げようとはしなかった。ファーンリードの行いが物言わずとも彼らに自ずから緘口をうながし、そしてそれ以上に内輪での争いへとつながる醜悪さを誰もが厭い拒絶したからであった。そして過去の血なまぐさい対立を経て現状の逆境へと至った彼らウィルダムの家臣は、ひとたび背いた者たちとの融和を図るファーンリードに進んで帰属し、忠誠を誓うことをごくあたりまえに思うようになっていった。彼らにとって中央に反逆者の庇護のことを伝達するのは、密告であり、ファーンリードを売ることだけではなく、ウィルダム家の未来の全てを放棄することと同じことであった。ゆえにひとりの落伍もなかった。それで三年、どうにか彼らの存在を守り通すことができた。だがそれは所詮はその場しのぎでしかないことを誰よりもファーンリードが知っていた。義侠心を満たして短絡的にいい気分になれるほど安楽な椅子に彼は腰掛けてはいなかった。
ファーンリードにとって苦痛だったのは、その困難さを分かち合う人間が側にいなかったことだった。例えばジェイスター老人のような剛毅さと如才なさを備える老臣ならば、ファーンリード自身に対しても或いは当主ガイアスに向けても忌憚ないことを主張できるかもしれない。またファーンリードやガイアスの心底を忖度することができるかもしれない。だがファーンリードの側にある家臣は、若く溌剌として、勇猛果敢で物惜しみせず不器用に前を見据えている型の、若者らしい若者が集っていたが、そのような老臣が乏しかった。老いた者がいないではなかったのだが、それらは徒に過去を追憶し行先を凝視しようとはせぬ過去の人々ばかりであった。ファーンリードは一身で頭領と某臣とを兼ねねばならず、その負担は多大であった。そして一人で内治に統御に叛乱家臣の面倒にと飛び回るファーンリードに、家臣たちはいっそう信奉を向け、ファーンリードという名の舟に乗り込んで悠然とし、舵取り一切を彼に委ねてその指し示す先ばかりを見つめている。
その彼らが当主ガイアスの正規軍と一戦交えると気炎をあげている。彼らはガイアスのファーンリードへの刻薄な仕打ちに憤っている。また己の不利を熟知しつつ敢えて造叛家臣らを庇護するファーンリードの義挙に対して胸のすく思いでいる。だがそれらを動かすファーンリードにしてみれば、憤りや壮挙の高揚感などというもので戦を始めるというのは、父親と同然の行為としか思えなかった。かつてウィルダムを二分し一方を覆滅させたた父親のそれが、今度はまたも本人とそして同質の息子の吐き出すそれとの角逐となり、再びウィルダムをふたつに裂くというのは、悲痛さを通り越して滑稽でさえあるとファーンリードは思った。戦えば勝とうと負けようと造反家臣が長らく流浪したような、そういう女子供、傷ついた男たちを嫌というほど吐き出すことになる。そしてそんなことを繰り返すウィルダムという家など、やがて終いだろう。だが父親に隷属し、そのためにかつて母親を喪失したように、ファーンリードは流浪した家臣達を贄として差し出す気にはなれなかった。それはファーンリードの正義感ではなく罪悪感の変質したものであるのかもしれなかった。或いはそこから発し別のものに変化した感情であるかも知れず、また或いは表面こそ別種の何かに変化してもその核は昔のままであることを続けているのかもしれなかった。それとも、見殺しにせざるをえなかった母の面影がファーンリードに強いてくるのかもしれない。それに思い至れば、久しく隠蔽を重ねそれがあたりまえになっていたとは言えども確かに父親に対する滾る憎悪というのは、自身の心中にごく慎重に埋設されていながら、しかしそれがまぎれもなく存在することに気づかされるのである。
ファーンリードは父親と戦う光景を夢想した。それは修羅の通る血塗られた道であり、泥濘の中で手足や目玉を欠落させ、切り裂かれた腹の傷から腸の飛びたしている無数の屍の折り重なった山だった。そして血潮の黒く濁った池に父親を惨殺した屍を鎮める。骨にこびりついた肉を削いでゆく干からびた風の音は、何の抑揚もなく何の情感も込めず戦士たちの魂の行く先を淡々と歌う挽歌となるだろう。
そんなことを考える自分はろくでもないとファーンリードは思った。そしてそんなことをかつてしでかした父親もまた、それがどんな所以あるとはいえやはりろくでもないとファーンリードは思った。ウィルダム宗家、その直系として今はただその父親と自分自身があるばかりであった。そのひとりひとりがかくのごとく救いがたいものである以上、ウィルダム家などは呪われた家系であり、滅びてしまったほうがいいのではないかとすらファーンリードは夢想の片隅で思うのだった。
だがそれは、上に立つ人間としては決して許されることではなかった。自分自身それをやった父親を許しがたく思っている。その自分が進んでそれを成そうというのは、自分に対しての裏切りですらあった。
徴税の吏員がやってきた。そしてウィルダム随一の老将軍がやってきた。最早どこにもモラトリアムは存在しないとファーンリードは思った。
ジェイスター老人はファーンリードの当主ガイアスをないがしろにする庇護の実態について、批判がましいことは一切口にしなかった。ガイアスの意向に背いたことへの警告の一言すらなかった。バダックの粗末な家の暖炉の火照りを体に浴びながら瞑目し、暖炉のほど近くにある鍋の中の湯が沸く音に耳を済ませるだけだった。弾劾もないかわりにファーンリードの壮挙を讃え義侠心を敬うこともなかった。ファーンリードと顔をあわせた当初こそ老いた皺だらけの顔をほころばせていたが、そしてそれは失せていったわけではなかったが、ジェイスターは根掘り葉掘り聞き出そうとするでなく、ただひたすらに穏やかであった。ただ老人は見たままのことを歪曲してガイアスに伝えることはしないだろうとファーンリードはその温顔の中の揺らがぬ意思を見て推測していた。
「或いは無駄であるかもしれない。だがお父上とよくお話されることですな。それしか道はありますまい」
別れしなに、老人はそんなことをつぶやいた。
8
ジェイスター老人とその一行がウィルダム氏の居城に帰還した頃、数日経ただけだというのに晩秋の色褪せまた闇の濃さを増す有様はいよいよ深まり、雲を透かす空の明度は一段と乏しくなっていた。それに呼応するかのように雷雲が呼び込まれる。ウィルダムの居城はその古びた城壁の落剥たる色彩に、さらにその暗雲の翳りを吸った。
居城は古風な城構えである。
台地の傾斜を取り入れ、一重の濠と幾重の城壁をうねり巡らせる様は、その城壁の苔生す様子と相まって、丘に凛然とその孤高を示す風格をもたらしている。だがそれは威厳と圧迫とを共に生じさせる姿というばかりではないように老人には思えてならない。多年にわたるウィルダムでの日々が、短絡的とはいえぬ印象をこの古城に仮託させる。好ましいとか好ましくないとかで語りつくせぬことのできぬ古城。数え切れぬほどに伺候し、見上げ、また内より領内を見下ろし、殺伐たる戦いに心躍らせるのと怯むのとを噛み締め、歳月と共にあった城。そして、数多くの憎悪が注ぎ込まれたであろう血塗られた城。
ジェイスターが馬をゆっくりと城門に進めると、そこを守護する末端の兵卒の表情すら明るさがない。威に気圧されているのか。ジェイスターは嘆息した。いつからこの家はこのような有様になったのか。老人の回想の中にあるウィルダムの人間は、昔から生真面目な人間が多かったとはいえ、こうではなかった。笑うべきときには笑い、泣き出したいときには涙した。どのような風が吹いても、どのような氷雨が落ちようとも、陰鬱に唇を噛み締めてそれを堪えるような人間たちばかりではなかった。
それにしても兵卒らに浮かぶ陰りは尋常ではなかった。うつむき加減の相貌は青褪め、着慣れた甲冑をもてあますように力なく背を丸めている。
どうした、そう老人は尋ねかけ、やがてそれを飲み込んだ。およその事態を察した気がした。老人は推測を小声で兵卒に尋ねた。兵卒は青褪めた表情のまま一度だけうなずき、老人の推察の正しいことを認めた。といって老人は自らの推測が的中したことを喜ぶ気にもなれなかった。嫡子ファーンリードの動向に不審の点あり、謀叛の嫌疑すらかけられているというささやきは、ジェイスター一行が帰還する速度より早くもたらされていたということだった。末端の兵卒といえども先行きに暗澹たる思いしか抱けないようだった。やがて彼らの上役が来た。要人の来城を伝達する係である。上役の顔色も悪かった。無言でジェイスターの姿を確認し、足早にその場を去って報告のために城の奥に赴いた。
老人が誘われたのは城主が謁見のために用いる広間であった。既に色くすみかつて緋色をしていたことがわかる茶けた絨毯の敷き詰められたその間は、採光のための窓も乏しく、いついかなる刻限であっても薄暗さ以上の溌剌とした明るさはない。悪いことに雷雲が常にもまして暗がりを呼び寄せる。灯火がゆえに並んでいる。一段高まったところに一つの椅子が置かれている。馬鹿馬鹿しいほどに虚飾に満ちた豪奢な彫塑で飾られた玉座とは違っている。これもまた古びているものだったが、明知を表す梟と勇武を表す鷲が意匠された姿が掘り込まれているほかは、ただ毅然とした風格を残すばかりで奇をてらった造形はない。ふたつの肘掛、屹立する背もたれ、それが幅広であるのは恰幅のいい大男のための椅子であるからではなく、ウィルダムの長が全身を甲冑に包んでもなお平然として腰かけることのできる配慮がなされているからであった。
その椅子に、ひとりの壮年の男が座している。
端整であるとか、折り目正しいとかではない様子で、肘掛の一つに己の肘をつき、そこにもたれかかるようにして傾斜している。まるで何かに取りすがろうとしているかのような姿。咽喉奥の詰まったような掠れた息使いが聞こえてくる。耳を澄ませば、呼気が乱れているのが容易くわかる。
相貌に皺が目立ち、また赤黒い肌の有様は多年の荒酒の刻印を連想させる。切れ長の目元はウィルダム嫡子ファーンリードと似通っていたが、そこにあるのは鋭敏さではなく狷介さのひかりのようであり、そしてそれは時折明らかに感情の昂ぶりを満たして不安定に乱れた。何よりそれは血走るように充血し、そして酒の脂の皮膜に包まれてもいた。その顔が、暗雲により暗がり、幾度かの雷光に白濁して照らされる。
雨が、音を立てて落ちてきた。
群臣はその椅子の左右に分かれ、一列に並んで佇立し、入室してきた老人を見やった。老人はその群臣の並木の合間を進み、着座する壮年の男の前で素振りは恭しく跪いた。面を伏せる、その肩越しに乱れた呼気が響いてくる。
「只今帰還いたしました」
老人は着座する壮年の男、ウィルダム家当主ガイアスに低い声でそう復命した。雨音を塗ってそれは届いた。
ガイアスは口を開いた。黄ばんだ歯が幾本か見え隠れした。語勢は乱れた。憤りのためのようだった。体が震えているのもそのせいのようだった。落雷があった。大きな音が轟いた。無数の何かが軋んだようだった。軋んだままにガイアスは語った。
「ファーンリードが叛したそうだな」
違います。老人は簡潔に、だが明瞭に否定した。間髪をいれず老人のその言を否定する横車がガイアスの傍らから差し込まれた。首を絞められた鵞鳥のようにそれは聞こえた。
「兄上、ファーンリード殿の吏員を拒む態度は不穏そのもの。また北東部には殺伐とした雰囲気が漂っていると報告にもあります。そしてそこにあるジェイスターがファーンリード殿に叩き出された吏員を拘束したのも不審極まりない。ジェイスターと手を組んで、兄上と我らに叛乱を起こす下心があるのです」
したり顔で言葉を並び立て、ウィルダムの当主を馴れ馴れしげに兄と呼ぶのは、ヘイデン城主カルナスという中年男で、彼の言葉の通りガイアスの弟、ファーンリードにとっては叔父にあたる。細面の、肉薄い唇が時折だらしなく開閉する。面立ちはファーンリードと同属でありながら余り似通っていない。或いはむしろ、世を知らず男もわからぬ小娘ならば、その華奢でありそうな顔立ちの造作に心をうごめかすかもしれない。
十三年前の大乱ではガイアスに味方するウィルダム血族は乏しく、ガイアスはむしろ血族外の臣下の力を結集してこれを討伐し、その多数をしに追いやったのだが、このカルナスは油断ならぬ同族の中においてひどくガイアスに忠良であった。乱後、傍系ということで僻陬の一城を相続したに過ぎないこの当主の弟の発言力は高まり、今ではウィルダムの枢機に思うままにくちばしを挟むまでになっている。
老人とは元来そりが合わない。
が無骨ではあるがジェイスターは忠実なウィルダムの臣であり、いかに個人的にこのカルナスに嫌悪感を持っていてもそれを露にすることはなく、一度たりとも礼を失することはなかった。むしろ己の中の悪感情をほしいままに表に出すのはカルナスのほうであり、老人を露骨に嘲笑したりその揚げ足を取ったりということは再三ではない。
それには、感情もあったが打算もあった。ジェイスター老人は嫡子ファーンリードの養育役の一人であり、今はファーンリードが老人と離れ任地に赴き平素疎遠となっておりながらも、父性愛や師弟愛に似た情感を老人はなお嫡子に抱き続けている。まず嫡子の徒党と他人に見られてあたりまえのところがある。が、傍系となったカルナスは、宗家の当主の相続がガイアスからファーンリードの直系へと軋みなく手渡されては面白みも旨みもない。ガイアスが何らかの形でファーンリードを廃嫡でもすれば、これは面白いことになる。それどころか、ガイアスにとってただ一人の子であるファーンリードが除外されるか、この世から消えてしまえば、ウィルダム家は継承され続けると同時にガイアスが不死の人間でない以上、誰かが後継者に選ばれる。その際、先の騒乱で骨肉相食んだウィルダムの中にあって有力な血脈といえば、カルナスのところになってくる。或いはカルナス自身が当主となれずともカルナスの子がそれを受け継ぐことも大いに考えられる。そのことを勘定に入れれば嫡子の徒党の一人であるジェイスター老人を貶めることは、嫡子の藩屏の漸減となり、カルナスの望む階梯に一歩進むことになるのである。
そんなこのウィルダムの傍系の男の野心は、この男の才幹と器量がその程度である証明として老人のような人間からすればあっけないほどに見え透いていた。内心ほくそ笑む様を懸命に抑えしたり顔をしていたが、腹中の私心が見え隠れしている。老人はこの俗物を憎悪するというより呆れた。かつてあれほど家中が血みどろになって騒乱を起こしたというのに、未だ和を尊ばず内訌を好むとはどのような神経をしているのだろうかと疑問すら感じた。同時に、このような男にウィルダムの行末を任せることは決して許されないのだと思った。嫡子ファーンリードは自分の立場を失し、ガイアスと対峙することを覚悟しながらも、騒乱に敗れたかつての家臣を庇護しようとしている。それに比べれば器量としても品格としても格段の違いというものがあった。
だが老人は、必ずしも秀でた人間が頭領の地位に就くことができると楽観していられるほど世慣れていないわけではなかった。そのカルナスの浮薄なさえずりを、嘲笑するでなく罵倒するでなく、ウィルダム当主ガイアスは不健康そうなどす黒くまた紅い相貌に僅かな笑みを浮かべ、聞き入っている。それが話しやすいのだろう、カルナスは兄の様態にさえずりを増す。
「ファーンリード殿謀叛は間違いなし。速やかにこれを誅討すべきであります」
ジェイスターはその浅薄な扇動を聞き流しつつも、目立たぬように左右の群臣の様子を確かめた。カルナスの性急で実の伴わぬ意見に賛同しているような素振りの者はいなかった。嫡子に対して同情したり、カルナスの意見に拒絶間を覚えるためらいはあったが、積極的にそれに同意するものはいなかった。老人は安堵し、正面をちらと眺めやった。だがひとたびは安堵した老人は、次にはまた不安にとらわれた。当主ガイアスは弟カルナスのさえずりをまんざらではない様子で聞き入っていたのである。
カルナスも一座の家臣らの雰囲気を察している。明らかに躊躇と疑念の空気が底にあることを感じている。だがさえずりをやめない。それは言葉を発しながらその言葉が終着を迎えず虚しく宙に漂うということがないからである。その浮薄な言葉はガイアスによって受け止められた。その反応は笑みだった。カルナスは実兄のその反応に気を良くしてさらにさえずった。傍目でそれを見ていて老人は思い至った。あれはカルナスという浮薄人がさえずっているのではなく、ガイアスが臨むことを喋らせているのではないのだろうか。狂言ということでない。巧みに己はそれを好むということを示し、物言わず浮薄人を誘導してそれをさえずらせているのではないのか。
老人は冷や汗をかいた。
ガイアスの血走り濁った瞳と視線が交わった。
老人は跪いて見上げ、当主は椅子に座して見下ろす。
「謀叛人は皆全てその首をはね、晒さねばならぬのです」
カルナスが滑らかに舌を動かしてそうさえずった。
老人は非礼を忘れ当主の顔を凝視した。口元にうっすらと笑みがある。喜悦であるのかもしれない。だがその瞳は笑ってはいない。酒香にさざめいてはいるが弛緩してはいない。むしろ突き刺さるような鋭さをさらに増している。
「ジェイスター」
地響きのような声が当主から発せられた。
「もし汝に、ファーンリード討伐を命じたならば……」
言い終わる前に老人は剛毅に反駁した。それを言い切らせる前に口を封じてしまうような勢いだった。
「お断りいたす。このジェイスター、主君に向ける刃などは持ち合わせておりませぬ」
「ジェイスター!」
ガイアスは一喝し、やおら立ち上がった。傍らの剣を流れるように鞘払い、群臣が駆け寄り押し止めようと判断する暇すら与えず老人に近寄って、跪いて頭だけを見上げている老人の皺首に白刃を近づける。白い刃は老人の首の皮の寸前で制止し、それ以後ぴくりとも動かない。
当主はやはり地響きのような、戦鼓の轟くような、低音で言葉を発した。
「ジェイスター、試みに問う」
「……なんでございましょうか」
ジェイスターはそれに対して小声ではあったが、それは非礼を慮ったからに過ぎなかった。白刃を突きつけられていることに対しての恐怖を微塵も語勢に止めない。その反駁も平素と変わりなく、上ずることなどからは程遠い。
当主は容赦なく尋ねた。
「ジェイスター、汝にとっての主君とは誰のことか」
「ウィルダム当主ガイアス様。あなた様のことでございます」
「ならば、わしがファーンリード討伐を命じたならば、汝はそれを承諾できるはずだな」
「お断りいたす。このジェイスターに、主を討つ刃などはなし」
「ジェイスター!」
老人は炯々とした光を瞳に宿し、静かに、だが力強く当主を凝視した。
「この老人にとって御舘様は主君でありますれば、そのお館様のお子も当然主君。この身が土に帰るまで、鼓動が最後鳴り響くまで、主君にお仕えするのが臣下の役目でございます。ゆえにお断りいたす。断じてお断りいたす」
ガイアスは激昂した。
「ファーンリードは汝の主ではない」
「あなた様のお子である。ゆえにわしにすれば主である」
老人は冷静であり、また毅然として答えた。
ガイアスは、二度三度呼吸を整えてから、敢えて押さえ込んだ声色で老人に語りかけた。
「わしの命を受けられぬとあれば、汝は死なねばならぬ」
老人は素っ気無く主人を見つめ、素っ気無く答えた。
「主殺しよりも主に殺された方がまだ格好はつくものですな」
それを聞き、ガイアスは剣を取る手とは逆の開いている手で老人を力ずくで突き飛ばした。
「その言い様憎し。そこへ直れジェイスター。今斬って捨ててくれる」
ガイアスがそう叫ぶことによって漸く、群臣の中のオリフェイムという老人が金縛りを脱したように動き出した。
「ま、まあ御舘様、しばらくしばらく」
オリフェイムはウィルダム家の家宰として政務や財務を長年司ってきた重臣で、ウィルダム家にとっては宰相ということになる。白眉の垂れ下がるこの老人はそれゆえに世故長けており、当主ガイアスのひととなりもそれなりにわきまえていたゆえ、どことなくあやすような口調であったのだが、どことなく緩慢な動作で動き回る年老いた犬を連想させるこの老宰相の人柄ゆえか、それがさして腹立たしくもない。
「あの爺はつくづく、煮ても焼いても食えない」
後でこの場を振り返りまた、ジェイスター老人が年頃近い長年の盟友に呆れ果てつつ感心したように、オリフェイムは白眉に覆われそうな力のない両眼を震えるように何度も瞬かせながら、先ずもってファーンリードの非難弾劾をはじめた。
「全く、若様の稚気にも困ったものよ。もうよいお年なのだから分別というものをわきまえてもらわねば我ら爺どもが困り果てるて。いつまでもそう軽忽でいていただいてはならぬわい」
並べる言葉は老人がいかにも老人らしく、若者の至らぬ部分に苦言を呈するものであったが、それは討伐だのと声高に叫ばれていた論旨を巧みにすり替えるものであった。叛旗を翻すという大罪が、老宰相のほのかに滑稽じみた挙措と物言いで、いつの間にか若気の至りという些細な失策になってしまっている。しかも群臣はカルナスのような一部例外を除けば一様に安堵の吐息を漏らし、一座には肯定の雰囲気が広がり行くのである。
ジェイスターは跪いた体勢のままで、殺伐とした空気があっけなく拭い去られたことに呆れ果てオリフェイムの顔を眺めやった。質朴そうな印象を与える老人は、どこか惚けたような弛緩を表情に浮かべている。それが手口であることをジェイスターは知っている。全く老獪なもので、伊達に数十年来ウィルダム家の家政に携わってきたわけではない。
そのことはガイアスにもカルナスにも察しられた。いや、群臣の誰もがそれがオリフェイムのしたたかな芸当であることをわかっていたし、頭から騙されたわけではなかった。オリフェイムという文官の巧妙さは周囲を騙し、ぼやかしたのではなく、周囲の大多数が望み求める結論なり方向を示してやったことにあった。
激昂しようとして、ガイアスは寸前で押し止まった。ただし険しい表情でオリフェイムを睨み据える。老宰相はそれに気づかないふりをしてあいかわらず、訪れた春を庭先で堪能する閑人のような茫々した顔をして視線を宙に向けている。堪えきれなくなって叫んだのはカルナスのほうだった。
「家宰殿、そのような言葉でごまかされては困る。今はファーンリード殿の謀叛の話をしていたのだ。失策ではない。過失ではない。彼の意思ある叛逆だ」
「はて……」
オリフェイムはやはり緩慢な表情を緩慢にカルナスの薄手の相貌に向けた。二度三度、肴のように口を開け閉めしてから言葉を出す。
「カルナス様、わしも年でしてな。もうろくして目も霞んで見えますわい。それゆえ若様謀叛と言われても、若様の兵馬が何処に殺到してきているのかようわからん」
カルナスは言葉につまり、ややあってから搾り出した。
「……まだ進撃はしておらん」
「はて、兵馬を進めておらぬというのに謀叛というのはようわかりませぬな。それとも昨今は人の老いるのもすばやく、わしと同じようにカルナス様の目も不自由になっておるのやも知れぬ」
カルナスは老宰相にそうからかわれ、顔面を憤怒で朱に染めた。
「……愚弄するか、オリフェイム老人」
老宰相は主家の一族に連なる勢力家を激怒させても、平然として顔色一つ変えない。おそらく内心ではカルナスの浅はかさを大いに侮蔑し、また反感を覚えてもいたのだろうとジェイスターは察したが、そういうものを一切外に現さないのは流石であった。豪胆さといい老獪さといい、怒気荒く、感情の振幅を簡単なほどにさらけ出すカルナスなどとは人間の出来が格段に違っている。
老人はわずかばかり咳き込んで、それから一座を見渡した。
「まあ、若君謀叛の確証を得てから、煮るなり焼くなりすればいいでしょう。別段、慌てふためくこともない」
カルナスは怒鳴った。
「悠長な。嫡子が今にも攻めてきたどうするのだ。お主が責任を取るのか」
老人は白眉の下の眼光を、この時ばかりは鋭く煌めかした。
「はて、このウィルダム家は瑠国に名だたる武門の名家。わしの知る限り、いかに主家の嫡男様が率いてきたといえども、はたち前の小僧様に打ち破られるほど軟弱になったわけではなかろうと思うのですがな。攻めてきたければ好きにさせればよい。先を取られてもウィルダムの戦士ならばどうということはないわい」
群臣の闊達な笑い声がその後に続いた。満座はことごとく嫡子を貶めることに内心では反対していたから、老宰相の悠然とした物言いが痛快でもあり、安堵もできたのだった。
だがその雰囲気は当主ガイアスの一喝によって破られた。
「たわけ者ども。彼の地でファーンリードが何を行っているのかを知らずに口々に気侭を叫びおって」
ジェイスターははっとしてガイアスの顔を見つめた。
ガイアスの視線が再び、跪くジェイスターに注がれる。
「ジェイスターよ。お主は、見てきたはずだ」
ガイアスがじっとジェイスターを凝視している。瞬きのひとつひとつすら捕らえるようにじっと老人の顔を眺めている。老人は、自分が見てきたものをガイアスが既に知っていることを悟った。それはいかなるごまかしもきかぬ鋭い追求となることは明白なものとしてガイアスの中にあるようだった。無論武人であるこの老人に口先で事実をごまかす芸当などはなく、またその気もない。だが嗜好や信条だけに拘泥することは、目の前の決定的な状況を回避する努力を怠ることではないかと老人は密やかな冷や汗がまとわりつく中で内心に問うた。だがその回答を捜し求める暇を与えるまでもなく、鉄槌のように主君の声が落ちてくる。
「ジェイスターよ」
「……はっ」
老人はその視線から目を背けるように深々と拝跪し、肩越しに主のその次の言葉を聞いた。
「彼の地でファーンリードめが何をやっていたか、報告いたせ。それとも汝はあやつをかばいたて、事実を覆い隠そうとするのか」
老人は誰にも聞かれぬように短く静かに嘆息すると、僅かばかり潜めた声色で語った。
「ファーンリード様、彼の地において、先の家内騒乱の敗残家臣を匿っておいでてござる」
一座にある群臣は共に、緊迫感と不安とをまといながら息をのんだ。ガイアスの座すウィルダム当主のみに許される椅子の傍らのカルナスだけが、薄手の顔に薄い笑みを浮かべた。
意を決して老人は伏せていた視線を見上げ、ガイアスの表情を凝視した。自身の子を謀反人として弾劾しようとしている男の赤黒い顔に、心中を示す兆が何か見出せるかと老人は思ったが、ただ険しさの蓋をされたその奥先にあるものを老人は見つけることができなかった。雨が老人を追いかけるように降る様が城外に見えた。
9
或いはこれで為す術も果てたかとジェイスターは観念した。後は自分が直接赴くか、それを拒絶し続けるかという不毛な抵抗しかないのだろうと思った。だから間髪をいれず白眉の家宰オリフェイムが反応を示したのには老人も驚いた。オリフェイムは突然激昂したのである。誰もが、座するガイアスまでもが、一瞬オリフェイムは発狂したのかと錯誤した。が、そうではなかった。
「ひどいではござりませぬか」
老宰相は肩を震わせてそう詰るのである。轟然とするガイアスもさすがに気色を多少は改め、何を憤るのかをオリフェイムに尋ねざるを得なかった。
「わしは聞いておりませぬ」
「何をだ」
「ファーンリード様が敗残者どもを庇護されておる一件」
口角に泡を浮かべ、気ぜわしくオリフェイムは叫んだ。
「わしは主君より家の枢機に携われと命を受け、家宰の重責を賜っている身でございます。そのわしにかくも重大な事柄を伏せているというのは、ご信任が最早このわしには存在しないということでありますか」
それを聞き、ガイアスは苦虫をかみつぶしたような表情となった。
「……そのようなことはない」
そう語りはするのだが、老宰相は納得しない。
「委ねられた権を撫でさするに甘んじ、内実何のご奉公もできず祭り上げられているとなれば、潔く退くのみでございます。地位に恋々とする見よくない有様を後ろ指さされたくはござりませぬ」
それを聞き、とうとうガイアスは口をつぐんだ。噛み締められた奥歯の軋みが聞こえてこんばかりであった。オリフェイムはそれを受けて我が意のかなったしたり顔を僅かばかりも浮かべることはなく、老い病んだ老犬が疲弊をまとわりつかせながら懸命に呼吸するようにして、干からびた音を立てながら盛んに息の出し入れを続け、見るからに興奮の沈静に勤めている様子であった。
結局老宰相はファーンリードが統括するウィルネリア北東部の査閲を再度実施し、その上でガイアスが唐突にもたらしたかつての反逆者たちの潜伏の実態を調査することを、半ば強引に決定した。といってそれに反対する者は家臣団の中にはいなかった。ただ当主のガイアスとその弟のカルナスの表情は、それぞれなりの陰影があったが、納得していないことだけは明白だった。
それを眺めやりながら、ジェイスターは父が子を想いまた子が父を想うという姿とは異なるウィルダム父子の有り様に、内心で思いを馳せずにはいられなかった。聡明な嫡子ファーンリードの白皙の相貌に、父ガイアスに対する怯みとも怖れとも拒絶ともつかない何事かが漂い、また決して愚昧ではないガイアスの面にも、短絡的な憎悪や不快さの結実とまではいかずとも親愛からはかけ離れたものが宿っているのは明白である。
再調査、という名目で一旦会議を散会させ、ガイアスの短兵急で直情的な解決法を有耶無耶にしようと内心で目論むオリフェイムが、半ば擬態である年寄り臭いよたよたとした歩みで退席するのを見届けると、ややあってジェイスターも跪いていた格好から身を起こし、立ち上がって歩みだした。既に当主の座にはガイアスはいなかった。決して健康そうではない赤くそして黒ずんだ顔を引き下げて、奥の間にある自室に引き取ったようだった。
ジェイスターはウィルネリアの城内を昇り降りし、城塞の中枢から外れた、近年建て増しされた区画へと向かった。十数年前、未だウィルダムが悲痛な分裂の戦に及んでおらぬ頃、ただ篭城の支度ばかりに築き上げられた古城では政務がやりにくくて仕方がないと、オリフェイムが作らせたものだった。この老宰相には、必要だと思われることをわざと子供じみた駄々のような口調でせがみ、作らせやらせることがあった。手口といえばそうだった。絶えず自身を老獪な、一筋縄ではいかぬ、それでいて頑迷であるとか一徹であるとかいう直線的な重々しさを選択するでない、飄々としつつも何らその内面を売り渡すことのない仕草をするのが好きな老人だった。その辺りジェイスターとは違っていた。ジェイスターは老い、そのことによってものふり、左右のことを血気にはやるでなく見定める穏やかで強靭な心底を培ってはいたが、常に真っ正直に前に向かって貫いていくような、武人らしい振る舞いを好む生粋の戦士だった。ジェイスターが刀槍であるならば、オリフェイム老人は蔦のようだった。
その蔦の休息する城塞の離れの一隅は、むき出しの岩壁が寒々とする殺風景さで、古くないだけ岩肌に清潔感があるという程度が他に比べたささやかな優位点である。風雅からかけ離れていると自身も苦笑するジェイスターの審美眼からすると好ましい様子なのだが、老獪な家宰の腹の内は、やはりジェイスターと同様に豪奢な造作を自戒したのか、それとも家中騒乱とその後の主家の閉塞蟄居を受けて、やむなく肩をすぼめてそっけなさを甘受しているのか、ジェイスターにもよくわからない。戸口に近づくと小姓のようなあどけない顔をした少年がジェイスターを押しとどめ誰何を求めた。ジェイスターはやや馬鹿らしくなって咽喉奥でうなるように告げた。
「年寄りが来たと年寄りに伝えろ」
少年はそのままを律儀に伝えたようである。扉が閉まって、その先で、むせたような笑い声が響いて、ジェイスターは入室の許可を得た。
オリフェイムは白髪白眉の相貌を気だるそうに窓の外に向けながら、暖炉の側にある安楽椅子に揺られていた。怠惰な身振りなのだが年恰好からそこに緩慢さを見出してもだらしなさを連想することは多くはない。ジェイスターは同じ部屋の中にある籐で編んだ椅子に座って側の壁に剣を立てかけた。武人らしく背筋が見事に伸びている。
「いつからであったかな」
眠そうにまぶたを瞬かせ、オリフェイムが傍目には気楽としか言いようのない力の抜けた声でジェイスターに語りかけた。
何がだ。ジェイスターは反駁する。
老人は緩慢にあくびをした後、午睡の脂がまとわりついたようなとろりとした声色でさらに続ける。
「若とそのお父君とがさ、ああなったのは、いつからであったかということさ」
知らんな。ジェイスターはうっすらと目をつぶりながら首を左右に振る。
「お主こそ知っているのではないか。わしは若が帝都パルシュナに赴かれ、そしてそれから帰国して直後北東総括の任を拝命されてより、疎遠というわけではなかったが、まあ距離があった」
またひとつ、オリフェイムはあくびをした。
「わしも同様よ。気がついたら、ああいうご様子だ。……困ったことよ」
ジェイスターは瞑目し、ガイアスの赤黒い顔を思い浮かべた。濁った瞳は確かに憎悪にたぎっていた。それは全く無関係な、肉感を伴わない他者に対する短絡的で無責任な感情の発露というものではないようだった。そこにはさまざまなものが交じり合いながらだがガイアスの身を震わせるほどに滾る負の感情があるようだった。
感情。
いつから主とその嫡男はそのような間柄になったのであろうか。
父は自分を憎悪している。嫡子はそうはいわない。だがそれを内心で確としているのはわかりすぎるほどにわかる。そしてガイアスは執拗にファーンリードを罰しようとした。親としての情愛と家中統制のための法との板ばさみになって苦慮するという様子ではないのだった。ガイアスはファーンリードを罰するということに一瞬魂を狂奔させていた。誰もが、短兵急な解決を求めず、むしろ稚いファーンリードの先走りをたしなめるが分別という雰囲気の中で、ガイアスはファーンリードを糾弾しようとしていた。
ジェイスターがいま少し若ければ、ただひたすらに呆れ果てるのみであったろう。ガイアスは幾多の家臣とそれに数倍するその家族、そして数え上げられぬ数の領民に対して責務を負うウィルダムの当主である。そしてファーンリードはその嫡子である。それも、他に直系の男児がいるというのならばガイアスは単に暴君というだけで済む。が、ガイアスにとってその直系の子はファーンリードただ一人があるばかりなのである。ウィルダムの直系の血脈を伝えるのはファーンリードだけであるというに、ガイアスはその処罰に狂奔する。理解しがたいことではあった。だが老人は老いた。理知だけでは推し量れないことが世に満ちていることを実感を伴って知っている。或いはファーンリードが魯鈍であるならば、ジェイスターは己の残忍さを承知の上で嫡子の座から追い払うかもしれない。
だが、ジェイスターの目に映るファーンリードは聡明であった。それがために時として残酷であるような利発さとは違っている。何をするにも先ず家臣のことを慮る思慮深さがあると信じている。であればこそ、それが煮詰まって今回のような事件を引き起こしたのだと思っている。
わしは信じている。ジェイスターは脈絡もないままそうつぶやいた。声に出し何かに確認を求めなければ、足元がおぼつかなくなるような心地がした。わしは信じている。若は聡明な方だ。きっと秀でた主となられよう。それはジェイスターにとっては信仰に近い結論である。であるから護るのだと。
「違うよ、ジェイスター」
オリフェイムは突然、ぽつりと言った。
「若が聡明であるから、ガイアス様は若を排斥しようとしているのではないのか。むしろ阿呆であれば、ガイアス様の憐憫を得て、若は悠然としていられただろう。そうではない。多分違うのだ。若は利口だ。だからガイアス様をさいなめるのだ」
オリフェイムは記憶の中のある光景を思い浮かべた。それはガイアスとファーンリードが円卓を共にし食事をしているものであった。状況は詳細にとどめられているわけではないが、おそらくオリフェイムは何らかの事由で食事の相伴に預かっていたところであったのだろうと自分では思っている。
ファーンリードはまだ少年というものに足を踏み入れたほどの年頃であった。面立ちの隅に子供臭い丸みがある。だがその瞳は同年齢の少年たちと比するまでもなく傑出していた。威嚇的、というのではない。物事の真贋をたやすく見抜いてしまう眼力をその輝きに連想してしまう。そしてファーンリードはまだその頃幼いせいもあり、鞘失せた剣のようにその眼光を消し去ってしまう芸当を身につけてはいなかった。
その瞳が、ガイアスに向かった。
取り立ててそれは意思的であったわけではない。視線はただゆっくりと横切っていくだけであった。だがその視線にガイアスは髪を逆立てんばかりに激昂した。
「何だその眼は」
ガイアスの手元の古風な皿が一枚ファーンリードに向かってたたきつけられた。慌ててファーンリードは円卓にうっ伏すようにしてそれを交わした。彼の後背で皿が粉々に砕けるけたたましい音がした。次にファーンリードが顔を上げたときにはすぐ横にガイアスがいた。ファーンリードが逃げようとしたり身構えたりする前に、ガイアスはファーンリードの襟元を強引につかむと、それを強力で椅子から床に引き倒した。床に落ちた瞬間、ファーンリードは呼吸が一瞬止まってあえいだ。瞳を開けると、ぼやけた視界の中に自分が座っていた一脚の椅子が主を失って呆然と立ち尽くす姿があり、その傍らに仁王立ちするガイアスの姿があった。
ガイアスは地べたを這う芋虫のように体をくねらせ痛みと呼吸の苦しさ、そして突如としてこのように扱われることへの恐怖でろくに言葉も発しないファーンリードを睥睨し、円卓の隅に積み上げられた使っていない皿の山に、自分の腕を横殴り一閃に叩きつけその山を崩した。ふただび陶器の割れる音が劈くように響いた。
横でそれを見ていて、オリフェイムには悟らざるを得ない確信を抱いた。ファーンリードの眼光の鋭さを、おそらくガイアスは己への非難や弾劾と取り違えたのである。そしてガイアスを激昂させるほどその非難であり弾劾と曲解されたものは、嘗ての家中騒乱以外の何物でもあるまい。
オリフェイムの見るところ、ファーンリードは少年の身ながら十分に聡明であった。何故ならばファーンリードは決して死んだ母親のことを語ることがなかった。寂しいだとか恋しいだとか、いかにも子供らしいことを、もっとずっと幼い年頃から口にしたことがない。無論何も思わず何も感じぬというわけではなかったろう。ファーンリードという人間はほんの小さな頃から、自分のささやかでごく当然な感情を吐露することにすら周囲を、特に父親を慮ってでなければそれをすることがないのだった。だがそれは、そのような感情がファーンリードの中を過ぎる都度、彼の自制や思慮によって回避され続けてきた危機であったが、また同時に、危機の発露を回避したがゆえに未来に押しやる行為でもあったし、その思慮深さがかえってガイアスの眼に、地下に根を張る深刻さとして映りもしたのだろう。ゆえにガイアスは思慮あるファーンリードの動かざる表情の奥のかすかな兆候を見逃さぬようそれを凝視し、森の深奥の鳥の羽ばたきすら憚れるような蒼き湖沼の、その水面に僅かに兆した乱れの波紋同然の、感情の揺らめきと邪推すればそうとも見えなくもない僅かなしぐさに、たちまち飛び掛らん勢いで反応を示したのだろう。そして、そうやって自分が飛び掛ったことをガイアスはひとつひとつ、忘れてはいないのだろう。それを積み重ねていることは承知のうえであるから、ファーンリードが離反したり造反したりすることがむしろ当たり前であるような心地になっていくのだろう。或いは、なおファーンリードが従順であり続けるとするならば、そちらのほうがガイアスにとっては奇異なのかもしれない。
或いは自分が、オリフェイムは思う。目の前のジェイスターのように勁烈を愛する人間あるならば、いっそガイアスに正否を問わず言ってやったかもしれない。何をそのように脅えるのですかと。後ろめたさを感じるのですかと。
だがオリフェイムは家宰として、主人が口にはしないながらも、嘗ての騒乱を主なりに内心で悔いている、であればこそ癒えることのない傷口を不自然なほどかばって激昂する、そういう姿を彼なりに理解していなくもないのだった。もちろん、であるからファーンリードを討伐しその首級をあげることを肯定しているわけではない。
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2006/05/25(Thu)23:50:02 公開 / タカハシジュン
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