-
『秒針のまどろみの中で 第2章 (微修正)』 ... ジャンル:ファンタジー リアル・現代
作者:紫煙突
-
あらすじ・作品紹介
少年は、亡き母の形見である懐中時計を大切にしていた。記憶の底に眠る、焦がれてやまない女性。そんな彼女がいつか語っていた。これは魔法の時計なのだと――。
123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
1.0.
秒針が静かに、だが確かに時を刻んでいく。
いつからだろうか。その音が、ほんの少しだけ他のものとずれていると感じたのは。
雑踏の中、いくつもの日常が流れている。そこからそっと離れていくかのように、あるいはエアポケットに落ちたような感覚かもしれない。
突然襲ってくる疎外感。重く淀んだ何かが、胸の内へと沈殿していく。
少年は内心の焦りを周囲に気取られないように、そっとポケットに手を伸ばした。指先に触れる硬い感触。それは律儀に動き続ける、古い懐中時計。
手のひらで覆うようにしてそれを取り出し、銀色の蓋を開ける。装飾も何も無い簡素な時計盤に、安堵の溜息をつく。傷一つ無い硝子に、まだあどけさの残る顔が朧に映っていた。彼はちょっと伸びた坊主頭を眺めながら、これならスポーツマンにはまだ見えるかな、そんな事を思う。だが少なくとも、ボクサーとは思われないだろう。
顔も覚えていない、母と呼んでいたはずの人の遺品。彼女の顔も、同じようにこちらを覗き込んでいたのだろうか。
いつの頃からか、それは怠惰な日常の中でぽっかりと浮かんできた好奇心だった。今の家庭には満足しているし、今の母に父と彼がどれだけ救われたか知れない。だから、これは思慕ではないと、少年は自分に言い聞かせる。この時計の元の持ち主について、ただどんな人だったかを知りたいだけだ。しかし、例えば戸籍を調べるとか、手立てはいくつか考えたのだが、写真の一枚も残さず遺品を整理していた父と、それを黙って見つめていた今の母の姿を思い返すと、二の足を踏んでしまった。
だがそれでも、日増しに強まる興味を彼は自覚していた。
彼は幼少の頃より運動も勉強も人並み以上にこなせたが、おそらく一流への壁と呼ばれるものにぶつかると、それ以上踏み込むことをしなかった。そんな線引きも、ただ一つの興味の対象に比べ、関心が薄かったせいだ。中学時代は両手の指では数え切れないほどの部活に顔を出していたが、今では体を動かしたいときにつきあってくれる友人、ボクシング同好会会長のトレーニングやスパーリングの相手をする程度だった。
亡き母について知りたい、だがあまり踏み込んではならない、そんな葛藤を抱えたままの日々が続いていた。常日頃は顔を出さないが、ふと気を緩めるとまるで落とし穴のように突然やってくる思いに囚われる。そんな時、彼は決まってこの時計を眺めるのだった。
『これはね、魔法の時計なのよ――』
秒針の音に混ざるように、積み重なった日々という薄皮の下から、ひどく懐かしい声が聞こえた。物心付いた頃には、既に傍らにはいなかったはずの人。いくら呼びかけても、答えてはくれない。だから、このかさぶたは、そっとしておいた方がいい。
何事か呟くと、彼は再びそれらをポケットへとねじ込んだ。ようやく立ち止まっていたことに気がつき、また押し出されるように足を踏み出す。
タイルの数を数えていると、むわっとした夏の風が少年の髪を揺らした。何気なくその方向へと視線を向けると、一定方向へと歩き続ける群れの先、一人だけ立ち止まりこちらを向いている人影が見えた。
学生やサラリーマン、様々な顔は通勤ラッシュの中、遊歩道を流れていく。立ち止まる人もいない。だからこそ、その姿が奇異に映った。
よく目を凝らしてみると、体つきと肩にかかる長い黒髪からそれは女性だとわかった。黒いジーンズに、白いワイシャツ。女性にしては高い方だと思うが、この人ごみの中では目立つ容姿でもない。右手を腰に当てて、何かをじっと見つめているようだった。
(俺……?)
そんな考えが彼の脳裏をよぎるが、考えすぎだろうと頭を振る。そして、いつもの朝のように、学園への道のりを歩き出す。
女性は最初に気づいたときと同じ方向を、ただじっと見つめていた。二十歳くらいだろうか、端正な顔立ちをしている。だが、あまりじろじろ見るわけにもいかないと思い、目の前の知らない背中へと視線を移した。
それぞれが一定のリズムを保ちながら、人々は流れていく。呆れるくらい律儀に。それがいつもの日常。疑問を感じてはいけない。考えたところで、得られるものは何も無い。訳知り顔で自分に、世間に、納得している振りをしていればいい。
だが。
砂の落ちきった砂時計のように、足が止まった。気がつけば、そこは先ほどの女性の横、肩が触れるか触れないか位の距離。おそるおそる目線をあげると、切れ長の彼女の視線が、彼を射抜いていた。
「見つけた」
短く、だがはっきりと強い意志を覗かせるように、彼女は言った。
「え?」
思わず聞き返す。だが、それ以上の言葉を続ける前に、彼女は歩き出していた。流れ続ける人の群れとは逆に。
綺麗な人だと思った。想像していた記憶の底の女性と、どことなく似ている気がする。しかし、そんな思いを抱いてしまったことが気恥ずかしく思え、彼はまたぶんぶんと頭を振った。
何を馬鹿なことを――。
彼女の背中を追いかけていた視線を、慌てて元に戻す。朝の陽光はまだ細く、街路樹は薄い緑の光を揺らしている。
ゆっくりと歩き出す。頭のどこかで、かちり、と、何かの歯車が合わさる音がした。
1.1.
チャイムの電子音が、ホームルームの終わりを告げる。教師の言葉の後、がやがやという喧騒が、教室の中を満たしていく。気の長い夏の日差しは、まだ明るく差し込んでいた。
鞄を掴み、級友の多くは帰途へとついていた。しかし一日の疲れからか、少年は片肘をついたまま、ぼんやりと視線を中空へと泳がせる。そして何人かと挨拶やらを交わすと、力尽きたように机へと突っ伏した。
「……何情けない声出してんの」
頭越しにかけられる言葉に、少年の肩がぴくりと反応する。聞きなれた声。おそらく向けられているであろう冷ややかな視線を浮かべた表情が、容易に想像できる、
「なんかどっと疲れてさ」
「真面目に授業でも聞いてた?」
「…………」
色々反論したい点があったが、沈黙で答えることにする。
「ま、そんなわけないよねぇ」
「多感で難しい年頃なんだよ」
そう言いながら身を起こす、だるそうな表情を浮かべた短髪の少年と、それを呆れたように眺めるセミロングの少女。教室は既に人の姿もまばらだった。
「ま、そんな事はいいからさ、行こうよ」
「行くって、どこに」
まだ寝ぼけているかのような声を出す少年に、向けられた視線が鋭くなる。
「こないだ約束したでしょ。買い物に付き合うって」
「えー、今度じゃ駄目か?」
なおも抗議の声を上げようとする少年の首根っこを掴み、息がかかるほどの距離に顔を近づけると、苛立ちの混じった声で少女は言い放った。
「誕生日ってのはさ、今度にはできないらしいよ」
1.2.
怒っている。
肩越しの気配ではあるが、それに気がつかないほど少年は鈍感でもない。何かを祝うムードではない。そのまま帰られなかったことがせめてもの幸運だったかもしれないが。
「なあ」
恐る恐る口を開く。
「何買いに行くんだ?」
おそらく、いや、当然お金は出す事になるのだろう。財布の中身を勘定しつつ、そんな約束したっけなあと首をひねる。無論、口に出す事はしないのだけれど。
「ケイさ、まだあの時計持ってる?」
「ん……、そりゃまあ、ね」
なんとなくはぐらかしたような言葉だったが、それ以上に気にかかった。
少年にとって、懐にいつも忍ばせている懐中時計は、ケイという自分の名前と同じように大事なもののひとつだった。物心ついた時からずっと同じ時を過ごしてきたが、名前とは逆に人目から隠してきたのがこの時計だった。それがこの時計を彼に託した人の意思だったからだが、その事を知っているのは今の両親と、この昔からなじみのカナを含む何人かの近しい友人達だけだった。
「……で、何買うんだよ」
「んー」
人差し指を頬に当て、考え込む仕草。どうやら怒りは鎮まってくれたようだ。いや、はじめからそれほど怒ってなどいなかったのかもしれない。付き合いが長くても、分からない事だって世の中には沢山ある。
数秒の沈黙の後、カナは何気なく言った。
「時計」
「……できれば四桁にして欲しいんだけど」
「大丈夫、多分」
眉間に軽い痛みを覚えながら、商店街の中を歩く。比較的都会である学園のある街から電車を乗り継ぐ事約一時間、下町の風情溢れる、とでも言えば聞こえはいいが、ようするにどこか寂れた田舎の情景だった。まあ、この界隈で買える時計ならそう高額なものではないだろう。
「えーとたしか……」
辺りを見渡していたカナの足が、一軒の店の前で止まる。
やや汚れた年季の入ったガラス。シャッターが半分閉じかけた、古ぼけた外装。安堵の息をつきかけて、やめた。
「ここ?」
所々ペンキのはがれた、看板に書かれた文字を読み上げる。アンティークショップ・カビノチェ。カタカナだが、響きからして欧州あたりの言葉だろうか。ガラス越しに見える店内には、所狭しと大小様々な時計が飾られていた。
アンティークという言葉に怖気づきながら、ケイは再び財布の中身を思い出していた。
1.3.
「おや、アンタかい」
カナに続いて店内に入ると、カウンターに腰掛けていた老人が声をかけてきた。人の良さそうなお爺さん、眼鏡の奥の柔らかな眼光を見ると、そんな形容がしっくり来る。カナに続いてケイの姿を見つけたようで、元々細い目がさらに細まった。
「おや、お客さん連れてきてくれたんかい」
「んー、今日はアタシもお客さんだけどねぇ」
早くも店内を物色し始めるカナと、そうかいそうかい、なんて嬉しそうに呟きながら再び手元の新聞に視線を落とす店主らしき老人。結構な顔なじみのようだ。
いや、誰とでもすぐ打ち解ける事のできるカナのことだ。知り合って間もないかもしれないが。特に年配層には何故か受けが良いのだ。
「あれー、あの時計は?」
「……ああ。それならほら、取ってあるよ」
そう言って、カウンターの下から小さな箱を取り出す。両手に少し余るくらいの大きさ、日々の手入れは見てとれるが、積み重ねた時によって汚れた古い木箱。外装には青と黒のラインが幾何学的な螺旋模様を描いていた。
「取っててくれたんだ、わざわざ」
「別に人気の品でもないがねえ。若いお客さんは大切にせんといかんからなあ」
カウンターの上にそっと置かれたその箱を、にんまりと笑いながらカナが撫でる。
「それが欲しがってた時計?」
「そ。見てみる?」
そう言いながらも、ケイの返答を待たずにカナは蓋をずらす。手触りのよさそうな布をそっと開くと、銀色の懐中時計が姿を現した。上方に伸びたチェーンに続く、手のひらに丁度収まりそうな丸いシルエット。飾り気のないシックなその様は、ケイにとって見慣れたものだった。
「これ……」
「ね、同じでしょ。やー、こないだ偶然見つけてさ」
どういった偶然があればカナがアンティークショップの扉をくぐるのか、ケイには想像がつかなかったが、その疑問よりも今は目の前の時計に彼の興味は注がれていた。
「おじいさん、これ、どこで手に入れられたんですか?」
「ほう、お前さんも興味があるんかい?若いのに珍しいねえ」
そう言って老人は目を細めると、「これはそこのお嬢ちゃんにも教えたんだけどねえ」と前置きし、たたんだ新聞をそっと脇に置いた。
「その時計は、19世紀のイギリスで作られたもんらしくてな。まあだからといって愛想がないもんだから高価なもんじゃあない。当時のもんとしては品は悪くはないが、同時期の王宮貴族向けに作られた品と比べれば凡百の一つだよ」
何かを思い起こしているような老人の顔を、ケイはただじっと見つめている。
「だがまあ、この頃のは全部手作りでな。ほれ、製造番号と製作者の名前が入っとるだろう。まあ、会社名だったのかもしれんが」
しわがれた手が、そっと時計の蓋を開く。円の底には、小さな傷のようなものがある。そう言えばこんなのが自分の時計にもあったような気がするが、ケイはこれまであまり気に留めていなかった。しかし言われてみれば、筆記体のような文字にも見える。
「なんて書いてあるんですか?」
「アンネ、038番。それから、レターとあるな」
食い入るように見つめるケイと、とりあえずうなずいているカナの姿を認めると、老人はやわらかく微笑んだ。
「歴史的、芸術的に貴重なものじゃないからなあ。これに関する資料はほとんど残っておらんが、それでも300程度しか作られなかったらしい。市井向けの時計とはいえ、そういう意味では希少かもしれんなあ」
話を聞くうちに、ケイの興味はますます膨らんでいるようだった。それだけでも、カナの目的の一つは達成できたと言える。
ケイは時計や箱をしげしげと眺め、考え込むような仕草を何度か繰り返すと、意を決したように懐から懐中時計を取り出した。
「これ、昔から持ってるものなんですけど、同じ時計ですよね」
チェーンをズボンからはずし、並べるようにしてテーブルの上に置く。
「ほお……、ちょっと手にとってみていいかね?」
ケイが頷くのを確認すると、老人は眼鏡のずれを直し、時計を眺めたり音を聞いたりと吟味する。
「うん。たしかに同じ型のようだなあ。アンネの290番……。その後は……、マリオネットかな、こりゃ」
「マリオネット?」
おそらく、先ほどレターと書かれていた箇所の文字だろう。
「たしか、人形って意味でしたっけ」
「正確には傀儡、つまり操り人形という方が正しいかなあ。会社名とかじゃなさそうだし、時計の名前にしちゃかわってるねえ」
そう言って、老人はケイに時計を返す。
操り人形という名前はたしかに妙だと、ケイは長年持っていた時計を訝しげに眺める。そこにタイミングを見計らっていたかのように、カナが声をかけた。
「でさー。ね、これ、買ってよ」
「カナに?」
「時計二個持っててもしょうがないっしょ」
そりゃそうだ、なんて思いながら、ケイは自分の持っている時計と同じものを欲しがるカナの心中を推し量る。が、すぐにやめて老人に値段を尋ねた。なんとか買える金額だった。
「毎度」
会計を済ませると、老人に続いて、カナも同じ言葉を繰り返した。
「まいどー」
それがどちらに向けられた言葉なのかわからないが、彼女なりの感謝の言葉とケイは受け取っていた。昔から、カナはこういう言い回しをすることがあったからだ。ケイもそれに答えるように、「おめでとう」なんて言葉をついでのように続ける。
二人が店を出ようとした時だった。いつの間にか広げた新聞に再び視線を落としながら、老人は呟いた。
「あんた、時計は何のためにあるか知ってるかい」
カナは気づいた風もなく、既に店の外に出ていた。少し考えて、ケイが答える。
「そりゃ、時間を知るためじゃないですかね」
はらりとページをめくる音の後、老人はこう言った。
「世界の中で、自分がどこにいるのかを知るためさ」
1.4.
都会と田舎の境界線について考えたとき、思い浮かべるのは夜の町の姿だった。
シャッターを下ろさず灯りがついたままの店、行き交う人々、それから町を流れる熱気のようなもの。それら全てが疎らなこの町は、やはり田舎なんだなと結論付ける。
カナを家まで送り、勧められるままに夕食をご馳走になったりとしているうちに、空はどんよりと暗くなっていた。重い雲が月の灯りを遮った商店街は、儚げな街頭と点在する自動販売機の光だけがうっすらと帰路を照らしている。
おぼろげな自動販売機の光に惹かれたのか、羽虫がぶつかり、じじりと焦げる音がした。
たまに道の隅に座り込んでいる柄の悪そうな若者の横を通り過ぎる時以外は、静かな夜だった。家まではさほど遠いわけではないが、普段ならバスを使う距離である。ただ、とっくに早めの最終便は出発していた。
歩きながらも、手持ちぶさたにケイは手元の木箱を弄んでいた。カナに贈った懐中時計が収められていた箱である。ケイが時計のルーツに並々ならぬ興味を示していたことに気を使ったのか、それとも本心なのかわからないが、「欲しかったのは中身だから」なんて言葉と共に押し付けられたものだった。
と言っても、箱自体はそれほど情報を秘めているようには見えなかった。外装には黒と青の太い線がなにかの模様を描いていたが、とても何かの手がかりになるようには思えない。内装にいたっては、白い布と箱の木目以外には何も見当たらなかった。
文字を見落としていたという事があったので、今度は念入りに蓋を開けて中をくまなく見てみたり、ゆすって音を確かめたり、外装の螺旋模様をなぞってみたりという行為を繰り返してみる。だが、特に進展のないまま商店街を抜けようとしていた。
幾つめかの自動販売機の光の下に、柄の悪そうな若者が一人座り込んでいた。断続的に電子音が聞こえ、それはその男の手の中の携帯電話から発せられていた。時計の事で頭が一杯だったせいか、あてもなくさまよった視線が交差する。中肉中背、茶髪とピアス、何か英語がプリントされた黒いTシャツ、だぼっとした緑のズボンにはじゃらじゃらとしたチェーンが幾つもついていて、いかにも、といった出で立ちだ。しかし、そのくせサンダル履きなのは、この町の若者らしくもあるが。
こちらを見とめたその瞳が、ぼんやりとしたものから鋭いものへと変わった。まずい――。何か因縁をつけられるなと、ケイは直感的に感じ取った。ゆらり、と、その男が立ち上がる。
それでもなんとか無関心の様子を決め込み、通り過ぎようとする。だが案の定、「待ちな」という野太い声に足を止められた。
「……何か用?」
胸中でこっそり嘆息しつつも、ケイは振り返った。気の優しそうな――そんな風によく形容されるこの外見のせいで、こんな風に声をかけられることは初めてではない。そのためこの時間帯に外を出歩くことは少ないのだが、これも田舎と都会の違いの一つかな、なんて考える。
「なあに、用件は一つだ。その時計、置いていってもらおうと思ってな」
にやりと哂いながら、男は言い放った。その言葉に、違和感を感じる。普通、置いていけと言うのは金じゃないのか? いつかかけられた台詞と比べながら、ケイはそう思った。
「……時計? 腕時計なら、してないけど」
眼前の男を睨みつける。張り付いた薄ら笑いが、ひどく不快だった。値踏みするような視線がからみつく。
「なあおい、俺は面倒な駆け引きは嫌いなんだ」
整髪剤でべったりと髪がはりついた頭をぼりぼりとかきながら、男は言う。その指先が、ケイの手の中の箱へと向けられた。
「俺がお前に期待するのは、一つだけだ。それを置いていくのか、抵抗するのか、そのどちらかだ」
「あんた、なんでこの中身の事を――」
しかし、その疑問を男は苛立ちのこもった声で制した。「一度しか言わねえぞ」と前置きし、鋭く言い放つ。
「俺は気が短えんだ」
だらりとへばりついた茶髪の奥で、瞳の色が変わった。まるで蛇のようだと、ケイは思う。ゆっくりと鞄と箱を足元に下ろし、小さく身構える。
渡すつもりは無かった。箱は空だが、そうと知れれば男の狙いはケイの懐の時計に行き着くだろう。
あの人との、唯一つの繋がり。それに伸ばされた薄汚い手は、軽く払うだけでは気が治まらない。それはおぼろげに残るあの人の思い出を、汚される行為に等しかった。
「やる気になったか。まあ、俺としてはそっちのが好みなんだけどよ」
「――あんたも物好きだな。高校生が買えるような時計をぶんどろうなんて、恥ずかしいとは思わないのか」
挑発と受け取られても構わない。口実を見つけた不良は、これ幸いにと殴りかかってくるだろう。だが、やられるつもりはない。その辺の不良に負けるほど、鍛錬を怠ってはいない。
だが、その言葉に激昂する様子は無かった。男は呆れたような視線を向ける。
「駆け引きは嫌いだって言っただろうが。それとも――本当に知らないのか?」
「何の事だ?」
「その箱はあのじじいの店のだろう? 聞いていないのか?」
「……?」
この男は何を言っているのだろう。価値があるものではない、そうあの店主は言っていた。それとも他に何か、秘められたものでもあると言うのか。
「どうやら本当に知らないらしいな……」
くつくつと、男が哂う。何が可笑しい。俺がどんな思いでずっとこの時計を持ち続けていると思っている。お前に何が分かる。お前があの人の何を知っている――。
ケイは、母への関心を時計への関心へとすり返ることで、日々を生きていた。そんな彼が、時計のことを何も知らないと言われたのだ。その言葉は、ケイの中の母の残り香を嘲る行為に等しかった。
硬く握り締めた拳が、血液を集める。どくどくと跳ねる音が、時を数えていた。
「何が可笑しい――」
喉からしぼり出された言葉が口をつく。
「いやなに、そんな誘蛾灯ぶらさげておいて、何も知りませんってのは随分間抜けだと思わねえか?」
「あいにく――」憎憎しげに、言い放つ。「あんたみたいな羽虫はお呼びじゃない」
「ハッ――! 言うじゃねえか!」
ポケットにつっこまれていた男の右手が、肩と水平になるまで上げられる。奇妙な構えだと、警戒しながらもケイは思った。頭には血が上っていたが、どこかで冷静に男の動きを観察する。
ケイはいつもリングの上で、相手の重心に気を払うようにしていた。攻撃の起点は、体重を大なり小なり預けることに始まる。そのわずかな動きを見極めることに、ケイは長けていた。その観察眼こそ様々なスポーツにセンスを見せる所以だろうと、友人が言っていたのを思い出す。
男の体重は、両足にかかったままだった。攻撃の起点はまだ見えない。虚空に伸びた男の腕を眺める。その周囲の闇が、奇妙に歪んだように見えた。
なんだ? 動悸が早まる。得体の知れない悪寒を感じ、本能がケイの足を下がらせる。あれは、何かよくないものだ――。
その直後、男の右手が質量を持った何かを掴んだように、ケイには見えた。男の重心が後ろ足にかかる。まずい――頭のどこかで声がする。その右腕が、頭の上に掲げられる。手刀か、拳か、いずれにしろ間合いの外だ。だが、警報は止まない。自分はどこかでこれに似た構えを見たことがなかったか――? そう、自問する。
(……剣道?)
その単語が閃くと同時に、ケイは左前方へと体を投げ出していた。何かが風を切る低い音がした後、地面が身体を打つ音に混じって、金属同士がぶつかり合う音が辺りに響くのを聞いた。
慌てて振り返ると、自動販売機のショウウィンドウの三段目がひしゃげていた。無事な照明のいくつかが、プラスチックの窓に食い込んだ何かをぼんやりと照らし出している。棒のようなそれは、男の右手から伸びていた。
喉元まで出かかった悲鳴を飲み込み、その正体を見極めようとするが、視界に現れたサンダルによってそれはさえぎられた。顎が跳ね上がり、背中が地面をこする。がしゃん、シャッターの音が響き渡り、視界のぶれがおさまる。口の中には、血の味が広がっていた。
失態だ――。よろよろと身体を起こしながら、呟く。一体、どこからあんなものを取り出したのか、だが、今はそれを考えている余裕はない。黒い何かを引き抜いた男が、こちらへと向き直ったからだ。
その手に握られた、闇に溶け込むような黒。目を凝らすと、なんとかその形が見て取れた。長さは一メートル弱、といったところか。心細い街頭の光も、それに反射する事は無い。だが、自動販売機に斜めに刻まれた傷跡が、その正体を物語っていた。
あれは、刀だ。
1.5.
鉄錆の味を唾と共に喉に流し込みながら、ケイは背筋を流れる冷たい汗を感じていた。
男は相変わらず口元を歪ませ、刀を肩に担ぐようにしてこちらを眺めている。薄暗い闇夜では、あの黒塗りの刀は厄介だ。こちらは丸腰な上に、あの刀は軌道や間合いが分かりづらい。
なら、どうする――? 立ち止まっている男を見つめながら、頭のネジを巻く。大声でも出すか? だが、商店街に他の人の気配はない。
なら、警察とか? 懐には携帯電話がある。おそらくそれが一番だろう。それを男が許してくれるかは分からないが。
しかしその時、彼の中で誰かが囁いた。「それでお前の知りたい事は分かるのか?」と。
小刻みに震えていた体が、その言葉で凍りついた。そうだ。目の前にあるのはチャンスなんだ。そう言い聞かせる。ケイの頭の中の天秤は、どんどんナンセンスな方へと傾いていた。警察に捕まれば、あの男とはもう会うことはないかもしれない。だがそれは同時に、せっかく現れた長年の願いを叶える鍵を手放すことではないのか、と。
ケイは迷いを唾と共に吐き出すと、男へ向けて構えを取った。それを見て、男は「ほう」と呟く。呆れているのか、驚いているのか、それは分からないが、どこか嬉しそうにも見えた。
「一つ、聞かせてくれ」
男の重心が、再び後方へと下がる。それに合わせて、右足の爪先で地面を強く踏んだ。
「この時計は、一体なんなんだ?」
男はさらに、にやりと口の端を吊り上げる。心底可笑しそうに。
「お前も見ただろう? 魔法の時計さ――」
どこかで聞いたような――。だが、風を切る音は追憶を許さない。地面を蹴り、耳元を掠める音を聞く。シャッターが悲鳴を上げ、黒い穴を覗かせる。
ケイはがら空きになった男のわき腹めがけて飛びついた。男が引いた肘が、側頭部にがつんと当たる。衝撃に顔を歪ませながらも、そのままの勢いで男もろとも地面に倒れこんだ。
男が低くうめく。その右手には、いまだ刀が握られていた。四つんばいになりながら、ケイは男の顔面へと拳を振り下ろす。頬骨の硬い感触が、右手を叩いた。赤い斑点が、視界に散らばる。
荒く息を吐き出した男が、刀を突きたてようと右手を引いた。思わず飛びこむようにして、ケイは頭突きを男の肩へとぶつける。苦悶の叫びが、辺りに響き渡った。左腕の上部に、皮をはがされたような痛みが走る。ケイは顔を男に埋めたまま、右の拳をがむしゃらに振り回した。
がつん、がつんと、低い音が響く。もがく男を放すまいと、左半身で必死に抱きとめる。この密着状況では刀は不利とようやく判断したのか、男の拳が後頭部を叩いた。無造作に掴まれた髪が引っ張られる。下唇をぎゅっと噛み締め、右拳を振り落とす。いつの間にか、男のTシャツはケイの涙やら涎やらで濡れていた。
鼻と唇、硬い頬、ちくちくとした顎、コンクリの感触。拳を振り下ろすたび、そんな痛みが拳に広がった。
男の悲鳴が止んだ後も、しばらくその音は続いていた。
1.6.
しばらく呆然としたまま、ケイは破れたシャッターに背を預け、横たわった男をぼんやりと眺めていた。右の拳がずきずきと痛み、朦朧とする意識を繋ぎ止める。半袖のカッターシャツは、左の袖だけ黒く固まっていた。男の刀に斬られたのだろう。幸い傷は浅く、血は止まっている。
ひどい顔になった男の胸が、小さく上下していた。生きている――。安堵しながらも、生々しい感触がまだ拳に残っている。グローブ越しとは違い、それはただ人を傷つけたのだと訴えてくる。
殺されかけたんだ。正当防衛じゃないか――。しかし、地面に飛び散った赤い点は、無言のままケイを責めたてる。
逃げればよかったのか? いや、俺はただ知りたかった、守りたかったんだ。こうなることは分かっていた。それに一歩間違えば、そこには俺の死体が転がっていたかもしれない。そうだろう?
応えを求めるように、ケイの視線は男の上をさ迷った。
その時ふと、じゃらじゃらとついているチェーンが、ポケットへと伸びているのが目に付いた。左のそれにだけ、伸びている鎖が一本しかない。
その姿はケイにあるものを連想させた。そう、自分もこうやってズボンにチェーンをつけているじゃないか、と。
普通に考えれば財布だろう……そう思いつつも、ケイは這うようにして男へと近づいていった。もう一度男の顔を覗き込み、意識が無いことを確認すると、そのポケットへと手を伸ばした。
鎖に繋がった硬い感触。丸みを帯びたシルエット、微かに感じる振動。取り出してみたそれは、銀色の懐中時計だった。
「どういう……事だ」
軽く眩暈を覚えた。その曲線を指でなぞると、うっすらと血の赤い線がついた。そっと蓋を開く。時間を教えるだけの、見慣れた簡素な時計盤。その硝子の表面に、泣きそうな顔をした少年が映っていた。
ケイは懐から携帯電話を取り出すと、ライトで裏蓋を照らした。傷のような文字。ケイ達のものよりも幾分か文字が大きく、なんとか読み取れる。
「Anne……アンネ、No.012。fo…rg…er……、フォージャー?」
そのまま携帯の英和辞書の機能を呼び出し、文字を打ち込んだ。
『意味:偽造者、鍛冶工』
首を捻りながら、時計盤に視線を落とす。すると、先ほどまで動いていた秒針が止まっていた。手に取ったときは動いていたはずだが、先ほどのやり取りで壊れかけていたのだろうか。
ぱちんと時計の蓋を閉じ、それを男の懐へ戻す。携帯の画面には、あまりいい意味ではなさそうな単語が表示されていた。どさりと腰を落とし、そのまま後ろ向きに壁へと後退する。
混乱する頭で、考える。何か、この時計には秘密がある。金銭的な価値で無い何かが。だけど、それは何だ?
あの店の主人に教えてもらわなかったのかと、男は言っていた。それから、他にも何か言っていなかったか? そう。どこかで聞いたような、懐かしい言葉を――。
その時、ケイに薄い影がかぶさった。ゆっくりと、頭を上げる。いつの間に現れたのか、そこには、一人の女性が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「どうしたの、キミ? 怪我してるじゃない。それに、その人……」
凛とした声が、救いの手に思えた。すらりとした体躯、黒いジーンズに、白いワイシャツ、肩にかかる長い黒髪。どこか懐かしさを覚えるような、そんな容姿。綺麗だなと、そんな間の抜けた思いが頭に染み込んでいき、やがて深いまどろみがケイを包んでいった。
1.7.
ことことと、やかんが体をゆする音が聞こえる。重い瞼をそっと開けると、白い天井と蛍光灯が見えた。体を包む、柔らかなシーツの感触。ゆっくりと覚醒していく意識の隅で、ずきりと鈍い痛みを拳に覚え、ケイは呻いた。
「――あ、気がついた?」
女性の声が聞こえる。ここはどこだろうと、視線をさまよわせる。少し黄色がかった白の壁に囲まれた、八畳くらいのアパートらしき部屋。その広さにはやや不釣合いな大きなTVに、ごつごつしたコンポ。だが、薄緑色に統一されたレースのカーテンや、小さなクッションの山、それに部屋の隅に転がった犬のぬいぐるみを見るにつれ、ああここは女の人の部屋だな、なんて感想を抱いた。
かけられたシーツに、視線を落とす。どうやらベッドの上に寝かされているようだ。その脇に、自分の鞄とあの箱が見えた。
「ここは?」
体を起こし、声の主を探す。扉が開き、やかんとカップを抱えた女性が部屋へと入ってきた。
「私の部屋。大丈夫? キミ、あの後いきなり倒れたのよ。なんか怪我してたし、あ、とりあえず手当てしておいたけど」
拳を見ると、ぐるぐると包帯が巻きつけられていた。薄く血が染み出して、赤黒くなっている。手の平を閉じたり開いたりしてみて、軽く拳を左の手の平に叩きつける。小さく痛みを覚えた。
「コラ、無理するんじゃないの」
そっと細い手が添えられ、ケイは思わずどきりとした。気恥ずかしさをごまかすように、口を開く。
「……あの男は? 俺の側に倒れていた、がらの悪そうな――」
「ああ、いたわね。そんな人」
人差し指を頬に当て、その女性はさらりと言う。
「好みじゃなかったから、おいてきちゃった」
「え――?」
「まあ、救急車は呼んでおいたわよ。だから大丈夫じゃない? それに、私じゃ二人も抱えられないし」
不意に、血まみれになった男の顔が思い出され、ケイは思わず口を押さえた。切り裂かれたシャッターと自動販売機。頭の上にまだあの刀が浮遊しているような感覚を覚え、身震いする。
「ちょっと、大丈夫?」
視界に、こちらを覗き込んでくるその女性の顔が広がる。ほのかな石鹸の香りが、鼻腔をくすぐった。
「――大丈夫です。あの、助けてくれてありがとうございました」
「いいっていいって」
手をひらひらとさせ、その女性は照れくさそうに笑った。
「そう言えばキミ、名前は?」
小さな丸いテーブルの前に座り、その女性はやかんを手に取った。インスタントコーヒーの粉を二つのカップに入れ、お湯を注ぎ込む。
「ケイって言います」
「そ、ケイ君ね。私はミヤコって言うわ」
ベッドに腰掛けるように座りなおすと、はい、と言いながらマグカップが差し出された。お礼を言って、その中にテーブルの上に転がっていたミルクと角砂糖を入れる。ぽちゃり、と音がして、茶色の水面に静かに波紋が広がっていった。その波が、記憶の底に積もった埃を払っていくような錯覚を覚えた。
「さて、と」
ミヤコは一口だけコーヒーを口に含むと、煙草を取り出し、それに火をつけた。「言っておかないとならないことがあるわ」そう前置きし、切れ長の瞳をすっと細くする。
「あなたはね、巻き込まれたの」
ケイはマグカップに下唇をつけたまま、ミヤコの表情をうかがっていた。巻き込まれた? 奇妙な黒い刀が、猟奇的なイメージを連想させる。
「これ、あなたも持ってるんでしょう?」
テーブルの上に、銀色の懐中時計が投げ出された。その表面には、うっすらと赤い線が走っている。あの男のものだと、ケイは直感した。頷こうとして、躊躇する。
「これはね、危険なモノなのよ。これを持っている限り、あなたはまた狙われるわ」
「まさか――」
たかが時計でしょう? そう言おうとして、口をつぐんだ。ケイにとってはただの時計ではない。それに、実際あの男はこの時計を狙っていたではないか。
「この時計は、なんなんですか」
反論よりも、そんな疑問が勝った。声にならない嗚咽。あの人の形見が、危険を呼ぶ。そんな事があってたまるか――。
ミヤコはそんなケイを気遣うように眉の端を下げ、困ったように微笑んだ。
「これはね、魔法の時計なのよ」
その声が、記憶の底に沈殿していた声と重なった。ああ、これは、あの人の声だ――。錯覚でもいい、彼女が語ってくれるのなら。
何かがゆっくりと頬を伝う。ミヤコは驚いたような顔して、慌てて煙草を灰皿に押し付けた。
1.8.
「信じられない話だと思うけど――」
そう前置きして、ミヤコは語り始めた。ようやく落ち着いたケイはテーブルの反対側に座り、じっとその話に耳を傾けている。
「これはね、人の欲求を喰らうの。それを糧にして、魔法みたいな奇跡を起こす。だから、魔法の時計」
欲求という単語に眉根を寄せながら、テーブルの上の時計を眺める。魔法、奇跡、随分な言葉だと、ケイはこめかみを押さえた。
だがその時、脳裏に蘇る光景があった。中空に投げ出された男の右手。その手に突然現れた、黒塗りの刀。
手品? 始めに思い浮かべたのはそんな単語だった。視界は悪かったし、あの刀ならこちらが気づかないうちにどこかから取り出す事もできたかもしれない。だが、あの何かを掴んだような動作が気にかかった。こっそり斬りつけるなら、あの動きは非合理的だと思う。だが、あれが必要な動作だったとしたら――?
いつのまにかミヤコの言葉を裏付ける証拠を探している自分に、ケイは驚いた。信じたいのかもしれない。こちらの言葉を待つように表情を窺うミヤコに、ケイは静かに頷いた。
「なかなか素直ね」
ミヤコはほっとしたように破顔した。それが何故だか少し、嬉しかった。
しかし、もしミヤコの話を信じるにしても、疑問はたくさんある。仮にそんな力がこの時計にあるとして、十年以上を共にした自分の時計は、時計以上のものではなかったではないか。
そんな疑問を口にすると、ミヤコは考え込むような仕草を見せ、うーんと唸った。
「この時計、総じてアンネ・クロックって呼ばれてるんだけど、偏食家な上に偏屈家なのよ」
思わずケイは首を捻る。答えになっているのか判断に迷っていたら、その様子を見たミヤコの人差し指が、眼前につき立てられた。
「順を追って説明しましょう。まず、欲求を喰らう、っていったけど、時計それぞれが汲み取る欲求の種類には種類があってね。食欲、物欲、性欲、睡眠欲、基本的にそれぞれが違うものを好むわ」
展開される話に、ケイは混乱しながらも続きを促した。
「まあ製造番号が大きくなるにつれ、細かいマイナーな欲求を喰うようになっていくみたいでね。ネタ切れだったのかしらねえ。『明日の天気を知りたい』って欲求を喰らって天気予報する時計もあるらしいわ。大別すれば知識欲になるのかしらね。煩悩だって一〇八もあるんだし、そこまで細かく枝分かれさせればいくらでも作れそうよね」
同意を求められて、思わずケイはまた頷いていた。視線をさ迷わせ、テーブルの上の時計に行き着く。やや探りを入れるように、ケイはそれを指差した。
「じゃあ、この時計は?」
「名前から推測すると、何かを作り出す類の能力ね。一二番と若い番号だから、まあ物欲の類じゃないかしら」
突然現れた刀と、一応イメージは一致する。だが、それはケイに疑問を抱かせた。
「でも、そいつは刀を出したんですよ? いや、手品だったかもしれないけど。まあもし何でも作り出せるなら、拳銃とかを選ぶ方が合理的だ」
ミヤコは目をつぶり、うんうんと頷く。
「疑問はもっともだけど、過程が間違っているわ。何でも出せるっていうわけじゃないの」
ぱちんと音がして、蓋が開かれる。秒針は止まったままだった。
「それが偏屈家と言った理由。魔法の時計といったけど、実は万能じゃない。これはね、ブラックボックスを抱えた機械なのよ。設計された機能以外は使えない。それに、時計の望む欲求が弱かったりしてエネルギーが足りないと、動かない」
まるで生徒に教えを披露する教師のように、ミヤコは続ける。
「物欲を喰う類の時計は、クロッカー、つまり持ち主の望む通りに周囲の物質を収集、構築する。でも、銃の精緻な構造がイメージできなければ出切るのは張りぼてだけだし、力場に材料の原子が無ければ何も作れない。普通のクロッカーならまあ、刃物や鈍器がせいぜいと言った所でしょうね」
たしかに、それなら一応の筋が通る気がした。だが、その機能は現代科学の作り出す機械の限界を超えているだろう。魔法とでも言わないと、それこそ説明が付かない。ぐらぐらと、信じようという決意が揺らぐのを感じた。
「で、キミの時計なんだけど……。針は動いているのよね? なら、エネルギーは補充されてるはず。あとはよほど発動条件が特殊なのか、それともエネルギーが足りないのか、或いは……」
ぶつぶつと呟くミヤコを見ながら、ケイはすっかり冷めたコーヒーを口に運ぶ。やや薄めだったせいか、ミルクの味が強かった。口の中を切っていたことが思い出され、少し染みた。
「名前から推測すると、人形でも動かせるのかしらね? 人を操れるとかなら、発動してそうだし。ね、キミ人形とか持ってる?」
「え?」
違和感を感じ、口からカップを離す。
「なんで俺の時計の名前知ってるんですか?」
ミヤコはぽかんとした表情を覗かせると、やがてふふんと笑い、誇るようにして言った。
「それが私の時計の能力だからよ」
「ミヤコさんも持ってるんですか?」
「そ、名札(ネームプレート)って言うの。可愛いでしょ?」
ジーンズのポケットから取り出して見せたのは、ケイのものと同じだった。驚きよりも、一日で三個も見せられたそのシルエットは、コンビニあたりで売ってるんじゃないかという思いをケイに抱かせた。
「寝てる間に見たとかじゃないでしょうね」
「あら、そっちの方が良かった?」
その言葉にカップを取り落としそうになって、慌てて両手で抱えた。顔が少し熱くなっている。どうにも掴みづらい人だ。
「まあ色々いっぺんに言ったんで、混乱させちゃったわね。まあ、すぐに信じろとは言わないわ。いずれ分かることだしね」
ぱんと手を叩き、ミヤコは背を伸ばす。どうやら、話は終わりのようだ。懐から時計を取り出すと、日付が変わろうとしていた。
「長居しちゃってすいません。色々ありがとうございました」
「ああ、気にしないでいいわよ。それに、困ってる可愛い若者を見捨てると、寝つきが悪くなるしね。また困ったことが相談しなさい。番号、教えておくわね」
ブラウン管の上に置いてあったメモ用紙を破り、ミヤコはさらさらと番号を書いた。それをケイに渡すと、カップとやかんを手元に寄せた。紙を持ったまま所在無げにしているケイを見つけると、その様が可笑しかったのか、やらかに微笑んだ。その笑顔に浮かんだ郷愁が、ずきりと胸を叩いた。
「それにね、他のクロッカーには気をつけなさい。あなたはまた狙われるって言ったでしょう?」
立ち上がろうとした中腰のまま、そう言えばと思い出す。男に襲われたのは事実だ。ならもし、本当に時計を持っているという理由だけで狙われたとしたら? 何か重大なことを忘れているんじゃないかという焦燥が、湧き上がる。
「アンネ・クロックは充電器みたいに日々クロッカーからエネルギーを補給するけど、力を使えばそれに応じた量が失われる。だから多用はできないんだけど、手っ取り早く大量に充電する方法もあるの。それが他の時計から力を奪う方法。時計を持ってその名前を呼ぶだけでいいんだもの。この時計、止まってるけど、あなたもやったんじゃない? ――って、聞いてる?」
どこかうわ言のようにその言葉を聴きながら、ケイは焦燥感の正体を探っていた。思い当たったイメージに、身震いする。慌てて携帯を取り出すと、頭の中に浮かんだ幼馴染の名前を画面に呼び出し、コールした。
「え? なに、どうしたの?」
ミヤコの言葉に混じって、コール音が聞こえる。やたら長く感じるその音に、寒気が増していく。頼む、出てくれ――。
携帯を持つ手が、がたがたと震えた。せわしなく部屋の中を歩き回る。
やがて、祈るような思いが通じたのか、短く電子音がすると、間延びした声が聞こえてきた。
『ん〜。何、何時よ今……』
聞きなれたカナの声が聞こえると、ケイは思わずその場に座り込んでいた。はは、と、思わず笑い声が漏れる。携帯の向こうで不満そうな声が上がった。
「――悪かったって。うん、もう遅いし明日にするよ。戸締りに気をつけて、あ、明日は迎えに行くから――」
安堵の声を出しながら、青いボタンを押して通話を切る。ミヤコにざっと説明をしながら、ケイは今日の出来事を思い返していた。
様々な出来事が、奇妙な符号を見せた。それは果たして偶然なのか、それともミヤコの言葉を裏付けるものなのか、ケイは判断に迷ったが、あの人の面影を見せる柔らかな笑みが、信じようとする意思を再び固めていた。
重ねて御礼を言い、玄関の扉をくぐる。最後に、気になっていた疑問の一つを訊いてみた。
「そう言えば、時計は何のために作られたと思います?」
振り返ると、ミヤコはきょとんとした顔をしていた。
「そんなの決まってるじゃない」
何を分かりきったことを。そうミヤコの表情は語っていた。
「人の役に立つためよ」
別れの挨拶を交わし、ゆっくりと歩き出す。そりゃそうだ、なんて呟きながら見た時計盤の上で、かちりという音がして、三つの針が重なった。
2.0.
やたらに多くの時計の音が、店内を満たしている。そのどれもが少しずつずれている気がして、その青年は軽い頭痛を覚えた。ぼさぼさの髪をかき上げると、そのまま手の平を顎の方へと滑らせる。無精ひげの感触がして、思わず顔をしかめた。
古美術店という割には、皿とか壺といった物が少ない。掛け時計に置時計、柱時計まであり、どちらかというと時計店じゃないのかと、彼は思う。まあ何が置いてあるにせよ、客の少ない事に変わりは無いのだろうが。
ジャージのポケットに手を入れ、懐中時計の感触を確かめる。『これは魔法の時計だよ』と、あの店主は言った。何が魔法だ、呪いの時計と言ったほうが正しいじゃないか――。
胸中で毒づいていると、店主である老人が奥から姿を現した。青年に向かって短く挨拶をすると、カウンターの奥に腰を下ろし、新聞を広げる。その目の前に、ポケットから取り出した懐中時計をことんと置いた。
「やっぱり、遅くなってる気がするんだ」
「…………」
またか、と老人は小さな声で言う。青年は、秒針の進みが少しずつ遅くなっているような感覚を覚えては、この店を訪れていた。
歩くことは出来る。だが、もう右足は以前のようには動かないと言われた事故。失意の中で訪れた店で、手に入れた時計。理屈は分からなかったが、この針が動き続ける限り彼はまた走り続けることが出来る。そう言ったのも、この老人だった。
「なあ、これ止まろうとしてるんじゃないか? 隠さないで言ってくれ。故障なら直してくれ。もう、あんな日々に戻るのは嫌なんだ」
「何度も説明したはずだが――」
はらりと、新聞がめくられる。
「あんたが走ろうと思えてる間は、その時計は止まることはないさ。それこそがその時計のエネルギーだからな」
「でも、その想いが喰われてるってことは、いつかそう思わなくなるって事だろう? その時になれば、この右足はまた動かなくなるんじゃないのか?」
「…………」
老人は答えない。
毎朝目が覚める度に、青年はまず右足の感覚に安堵した。すねに残る痕は、打ち付けられた杭の痕のようで、青年に失意に暮れた日々を思い出させる。
一度失ったはずの足を取り戻した事で、彼は陸上選手として再び大会に出場したいと思うようになった。独特の緊張感、自分を包む歓声、目前に迫ってくる白いテープ。だが、大会に出場できれば、彼の想いは満たされてしまうかもしれない。そうすれば、またあの日々に戻ってしまうのではないか?
無論、そうなるという確証はない。だが、ならないと断言も出来ない。喰われていく走りたいという渇望。もし、それが食い尽くされれば、自分はもう走る事を諦めてしまうのではないだろうか。そんな姿を想像するだけで、ぞっとする。
不安と葛藤。また走れるようになったのに、彼の精神は日々何かに蝕まれていくようだった。
まるで救いを求めるかのように、彼の視線はあちこちへ移動する。やたらとうるさい、時を刻む音。どのくらい価値があるのか検討もつかない美術品の山、空白の見えるショーケース。
その時ふと、彼は時計を購入した時に老人にかけられた言葉を思い出した。『エネルギーを求めるクロッカーが、他の持ち主の時計のエネルギーを狙う事があるから用心しなさい』そんな内容だったはずだ。エネルギー、それがあれば、時計は動き続ける……? そうすれば、喰われることはなくなるのではないか。
その青年は老人に向き直り、低い声で言った。
「じいさん、あそこに飾ってあった時計、誰に売ったんだ?」
2.1.
放課後の学校では、様々な音がする。吹奏楽部の演奏、運動部の掛け声、遠くに聞こえる豆腐屋の笛の音、ダーツがコルクボードに刺さる音。
そんな音を聞きながら、ケイは腹筋に勤しんでいた。友人であるカイが会長を務めるボクシング同好会の部室は、トレーニングをするにはもってこいだった。この夏三年生が引退し、年々部員数が減少しつつあるこの部も、いまやカイ一人になり、部から同好会に格下げされていた。その際にトレーニング用の器材の多くは他の部が持っていったが、リングやサンドバックを欲しがる部活は無く、会員一人の割には随分と広いこの部室は、『物置小屋兼ボクシング同好会の部屋』なんて揶揄されている。
「なあケイ、スパーリングの相手やってくれよ」
リングの上からカイが声をかけてくる。
「悪いな。昨日ちょっと怪我したもんで、遠慮させてくれ」
体を起こし、左腕をさすりながら、ケイは言う。大怪我というほどではないが、スパーリングに負けた場合、帰りに何かを奢るという暗黙のルールがある以上、万全を期す必要があるのだ。
「釘に引っ掛けたとか言ってたっけ? お前らしくもねぇ」
拳に巻いたバンテージの下の傷には、カイは気づいていないらしく、再び腹筋を始めるケイに残念そうに声をかける。どうやら今日は特にコンディションがいいらしい。
「まあ、それはいいとして、だ」
その視線が、ケイから離れていく。その向こうには、ダーツがコルクボードに刺さるような音。
「……あれは、何をやってんだ?」
ぴたりと、ケイの動きが止まる。
どん。新たな矢が刺さる。いや、それはダーツではなかった。体を捻るようにして、ケイもそちらへと視線を向ける。
ノートのページを破る音がする。鼻歌交じりに、カナがスチール机の上で紙飛行機を折っていた。
「カナちゃん、何やってんの? それ」
「んー?」
壁に掛けられたボードには、何枚かの写真が張りつけてある。その周りに、紙飛行機がいくつも刺さっていた。
カナが使っている紙は、購買で売っているノートの切れ端だった。どんなに尖らせようと、普通そんなものがコルクボードに穴を開けるはずがない。そんな様子を見て、ケイはカナに贈った時計に、手紙(レター)という文字があったのを思い出していた。
「帯電体質とかゆーやつかな、これ」
「いや、違うと思うなあ俺は……」
カイが意見を求めるようにケイを見る。写真にいつか刺さるんじゃないかと、不安な表情だ。
大きく溜息をついて、ケイは立ち上がる。昨日の夜、ミヤコが言っていた言葉が、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。
「……カナ、あの時計、今も持ってるか?」
カナは表情を緩ませると、スカートのポケットから懐中時計を取り出した。どこか誇らしげに、ケイの前に掲げる。
「ちょっとそれ外して、紙飛行機折ってみてくれ」
「んー?」
意図はわからなかったようだが、カナは言われたとおり机の上に時計を置くと、再び切り離したノートのページを折りだした。ややいびつな紙飛行機を完成させると、それをコルクボードへと飛ばす。
とん、という軽い音がして、紙飛行機が地面へと落ちた。「おお」と、カナが声を上げる。
眉間を抑えたまま、ケイは頭の中を整理しようとする。だが、導き出される答えは一つだった。
「なんかよくわかんねえけど……。カナちゃん、それできるようになったのいつから?」
「さー? 今日の授業中、いきなりページが硬くなってさー」
あははーと、どこか能天気にカナが笑う。
「なんかすげえなあ。でも、それ不便じゃね? 怪我とかしそうだし」
「いやー、なんかこう、さ。ふんって力入れないと硬くならないみたいでさー」
そう言えば、昨日の刀を作り出したとかいう男の時計には、偽造とか鍛冶工の意味の文字があった。手紙と書かれた時計を持ったら、紙を硬くできるようになった……妙な関連性が無いか?
「それ他の紙でもできんの? 例えば、お札とか」
「くれるなら、やってみてもいいよ」
「いや、今月ピンチでさ……。千円札あと二枚しか入ってなかったり……」
「なら一万円でもいいからさー」
能天気な声が、頭の上を往復する。
馬鹿げている。そう思いながらも、ざらざらとした異質な手触りのする紙飛行機を見つめながら、ケイはミヤコの言った話を思い出そうとしていた。
『いずれ分かることだしね』
ミヤコはたしか、そう言っていた。保留していた歯車が、かちりかちりと合わさっていくような、そんな感覚をケイは覚えていた。
2.2.
「ユウイチ」と、名前を呼ばれ、ジャージ姿のその青年は、ぼんやりとさ迷わせていた焦点を声の主に合わせた。
「ユカリか。お前、四限目はどうした」
ぼさぼさの髪をかき上げながら、ユウイチはぶっきらぼうに言った。「休講」と短く答え、ユカリと呼ばれたその女性はテーブルの向かいに腰を下ろす。短く整えられた薄茶色の髪。ボーイッシュな印象を受けるのは、その髪型のせいだけではなく、あまり着飾っていない服装に拠る所が大きい。彼女とほぼ同じカリキュラムで講義を受講している彼は、その言葉が自主休講を指したものだと知っていた。
半円をなぞるように立てられた校舎を背に、“いこいの場”などと安直な名前をつけられた広場が広がり、そこにはベンチやテーブルが点在している。各校舎へと続く遊歩道の脇には桜の木々が並んでおり、夏の日差しに合わせて葉を揺らしている。入学当初こそ胸を躍らせた風景だが、花が散ると同時にユウイチは味気なさを感じるようになっていた。
何を語り合うでもなく、ユウイチはまたぼんやりと空を眺めていた。ゆっくりと、大きな雲が流れていく。遠くに灰色の雲が見えて、雨が降るかもしれないな、なんて事をただ思った。
「ねえ、あのサークルの件、考えてみた?」
まどろみかけた意識の隅で、そんな声が聞こえた。今度のはどんなサークルだったかなと、思い起こす。たしか、バードウォッチングとか言っていたか。
「――いや、俺には合いそうにない」
腰掛けた椅子の前足を浮かせながら、ユウイチは答えた。俺なんか気にせず、お前だけでも入れよ。そう言おうとしたが、陸上部のマネージャを務めていた彼女を退部させてしまった原因は、自分の足にある。それを思い出すと、それ以上の言葉を続けることは出来なかった。
はぁと溜息をつき、ユカリは鞄から取り出した本を丸いテーブルの上に投げ出した。どさりという音に目を向けると、それはこの大学にあるサークルの紹介が書かれた会報だった。本からは色とりどりのチラシが見え隠れしており、そのどれもに『新入生歓迎』なんて文字が躍っている。
ぱらぱらとページをめくりながら、ユカリはここはどうだ、なんて言葉を投げかけてくる。適当な相槌を返したため、不機嫌な表情をユカリが浮かべていたが、ユウイチの頭は違う事を考えていた。
走れるようになったことは、まだユカリには打ち明けていない。それは、走り続けることが出来るようになったわけではないからだ。いまだに抜けない右足を引きずる癖のせいもあって、彼女が気づいた様子は無い。
あの店主の老人は、案外あっさりクロッカーの事を教えてくれた。どんな意図があったのかわからないが、薄ぼんやりとした希望が見えてきた気がする。絶望は二度もいらない。そして、目の前の彼女にあんな表情をまたさせるわけにはいかない。
数日をかけて、ユウイチは相手のクロッカーを観察していた。高校に通うそのクロッカーに接触するポイントや時間帯も既に決めてある。能力が分からないのは不安材料だったが、ともすれば揺らぎを見せる決意を奮い立たせ、その決行日を今日に定めていた。
ジャージのポケットに手を突っ込み、丸い感触を確かめる。こち、こちと、振動が感じられた。こっそり安堵の溜息をつき、再び視線を空へと向ける。
どんよりとした灰色の雲が、先ほどよりも大きく見えた。
2.3.
数日前、ボクシング同好会の部室でカナの奇妙な力を目にし、時計を手放すように説得したのをケイは思い出していた。誕生日プレゼントを貰った次の日に、それを捨てろなんて言われたのは初めてだ、そんな風にカナには憤慨されたが、埋め合わせは必ずするからと両手を合わせたのを覚えている。
その帰り道、奇妙な視線を感じた。誰かに見られている? それはなんとなく感じた違和感だったが、その次の日、ミヤコに頼んでこっそり周囲を探ってもらうよう頼んでいた。その日は周囲に誰の気配も感じることは出来なかったが、ミヤコの時計はクロッカーの存在を捉えていた。
それからケイは暇を見つけては、図書室やインターネット上にある時計に関する資料を眺めるようにしていた。だが、どこを調べてもアンネ・クロックなんて単語を見つけることは出来ず、気になったことといえば、『中世のヨーロッパでは時計は宗教と密接な関係があり、また、宗教革命や大航海時代の到来が研究熱に拍車をかけ、その技術が飛躍的に進歩していった』といったくだりくらいのもので、手がかりらしいものすら掴めないでいる。
ぽつり、ぽつりと降り出した雨が、アスファルトを黒く染め始めていた。あっという間に視界に増えた細い線が、町をいつもとは違う顔へと変える。
点滅する信号機の色が、いつもより鮮明に見えた。辺りに並ぶビルの外壁が、鮮やかな色を取り戻す。人の少ないこの町の、やや奥まった場所に位置するこの通りには、道を走る車の姿はない。だが、ケイは横断歩道の前で立ち止まっていた。
ずずりと、何かを引きずるような音が聞こえる。
懐の時計を握り締めながら、ケイは考えていた。欲求を満たす魔法の時計。もし、そんなものがあるのなら、自分の願いも叶うのではないだろうか。いまだ発動していない、そうミヤコは言っていたが、ならエネルギーを満たしてやればいいのではないか?
ぱしゃりと、誰かが背後で水溜りを踏む音がした。
その音に、ゆっくりと振り返る。ジャージ姿の男が、そこにはいた。雨に濡れたぼさぼさの髪が、べったりと額に張り付いている。身長は170cm 半ばと言った所か。筋肉質ではないが、引き締まった様が見て取れる。
その男がゆっくりと口を開いた。
「――マリオネット、だな?」
雨音に混じって聞こえる単語が、背筋にぞくりと寒気を走らせる。ケイは鞄を放り、とっさに身構えていた。
それを肯定と受け取ったのか、やや前かがみになりながら、その男は身構える。だらりと垂れた両手には、何も握られていない。
ケイはある程度、男の能力について推測していた。ミヤコの時計、名札(ネームプレート)によって、相手の時計の名前が分かっていたからだ。携帯に送られてきたメールには、ある単語が書かれていた。
疾走者(スプリンター)、と。
男の重心が落ちる。やや引いた右足に体重が乗っているのが見て取れた。やや開いている距離、力のこもっていない両手を見て、蹴りだなと当たりをつける。あとはミドルか、ハイか、ローか、軌道を見極め、カウンターを顔面に叩き込んでやる――。
どん、と、地面を蹴る音がした。いや、それは小さな爆発音といった方が良かったかもしれない。ミドルだ――ケイがそう判断したときには、男の右足が脇腹に触れていた。
「が――っ!?」
短い悲鳴が漏れ、ケイの体は地面を転がっていた。水しぶきを撒き散らし、ガードレールに当たったところで回転が止まる。酸素を求める呼吸が肺から漏れる。狭まった視界では、男の姿があっという間に大きくなっていた。
倒れこむようにして横に転がると、男の靴によってその形を変えられたガードレールが、体を震わせ悲鳴を上げていた。
這うようにして後ずさりながら、男を見上げる。
感情のこもっていない暗い瞳。
カウンター? ――冗談じゃない。予想なんかより、遥かに速い――。
再び前かがみになった男から逃れるように、地面へと体を投げ出す。だが、今度は逃すまいとする男のつま先が、みぞおちに突き刺さった。激痛が走り、息が止まる。視界がぐるぐると回転し、何か棒のようなものに背中がぶつかった。
嘔吐感がこみ上げ、背後の棒に必死に捕まる。ずるずると体を起こすと、随分遠くに男の姿が見えた。右足を引きずりながら、ゆっくりとこちらへ向き直る。このままではまずい――。そう思ったが、何も手立てが見当たらない。あの速度ではカウンターはおろか、ほんの少しガードを上げるのが精一杯だ。
必死にしがみついた棒は、歩行者用信号のものだと気づく。そんな間の抜けた考えを浮かべたのがまずかった。再び接近してきた男の足の甲が、ケイの頭を蹴り飛ばした。両手はあっさり棒から離れ、また地面を滑る。アスファルトのでこぼこがカッターシャツを引きちぎり、ビルの壁がしたたかに後頭部を打った。
ぐるぐると回る視界。頭は混乱し、正常に働かない。男がまたこちらへ向き直る。救いを求めて伸ばした手に、先ほど投げ出した鞄がぶつかった。
開いた口に無我夢中で手を突っ込むと、ざらざらとした感触が指先に触れた。紙のようだが、どこか異質な――。
壁に寄りかかったまま、とっさにそれを取り上げる。男は警戒したのか、半身のままびくりと固まった。
ケイの手には、紙飛行機が握られていた。ややいびつな形のそれを見て、ケイは口の端をつり上げる。
その先端を男に向け、軽く引く。
男はほっとした様子を見せ、笑いをかみ殺しているようだった。
わずかな時間が出来る。
先端を微調整し、男と自分の線上にそれを合わせる。
男は再び前かがみに構える。その重心が低く落ちる。雨音が、少し小さくなった。その刹那、何かが爆発したような音が響き渡る。
ケイは紙飛行機を握った右手を、くんと前に押し出した。
男の姿が一瞬で大きくなる。その刹那、ぱっと紅い華が視界に咲いた。
壁に寄りかかった顔の横で、どんと重い音がする。視線をずらすと、男の黒い靴が見えた。
一瞬の静寂。
その直後、男の絶叫が響き渡った。
右足を抑え、地面で男が転げ回っている。その太ももから、紙飛行機の羽の部分が生えていた。
ケイは腹に手を添えながら、ゆっくりと体を起こす。肺や胃から昇ってきた圧迫感に、思わず咳き込んだ。足元で暴れる男を見下ろすと、馬乗りの形に飛び乗り、右手を振り上げる。
絶叫を続ける男の瞳が、大きく開かれた。無精ひげが生えた顎に狙いをつけ、拳を握る。
鈍い音が響き渡り、悲鳴が止んだ。ざああと降り続ける雨の音が、途端に大きくなった気がした。
2.4.
時を刻んでいた音が、止まっていた。まるでノイズのように、雨音が耳の奥で響いている。
ずきずきと右足が痛みを訴えていた。何故だか、顎の辺りや後頭部にも痺れが残っている。
ゆっくりと目を開く。灰色の空から、雨粒が細い線を伸ばしていた。
視線をさ迷わせる。霞がかっていた記憶が徐々に顔を覗かせ、ああ、俺は負けたんだなと、ユウイチは今更ながらに実感していた。
壁に寄りかかるようにして座り込んでいる少年が、こちらを見ていた。その傍らには、少年のものらしき鞄と赤い紙飛行機が落ちている。
ゆっくりと頭を持ち上げる。地面に肘を付き、半身を起こす。右足にはハンカチが乗せられていて、赤い水溜りを地面に作っていた。膝から下の感覚が、薄れているような気がした。
――ああ、畜生。
絶望感が押し寄せてくる。
一度失い、再び取り戻した。そして、また失った。
――また走れなくなった。
風を切る感触が、張り詰めるような大会の緊張感が、手の届きかけた白いテープが、遠ざかっていくように感じられた。でたらめに湧き上がってくるストロボ写真が、闇の中へ吸い込まれていく。あの時と同じだ。病院のベットの上で、もう走れないと宣告されたあの時と――。
拳を作り、地面を叩く。ばしゃりと舞い上がった水しぶきに、少年の肩がびくりと上がった。
だが、以前とは少しだけ違った。
――誰だ?
闇のその先に、見知った顔が見えた気がした。
「は、はは……」
自嘲気味に哂う。なんだ、こんな時に俺は、アイツの心配なんかしているのか。
絶望感でさ迷った日々。ユウイチを立ち直らせたのは、彼よりもっと死にそうな顔で落ち込んでいた少女の顔を、悲しいと思ったからではなかったか――?
すっと全身から力が抜けた。
「そうだな……夢だったんだよ」
何かに蝕まれていくようなあの感覚が、ユウイチの中から消え失せていた。彼の右足は、あの日動かなくなった。それがまた動くようになったなんて、夢を見ていただけなんだと、心の中で呟く。そう、悪い夢だったんだと。
それは気の迷いかもしれない。現実逃避なのかもしれない。それとも、慰めを求めているのか。
視界の隅に、膝を抱えた少年の姿が見える。その姿が、いつかの少女の姿とだぶって見えた。
「アンタ……アンタには、悪いことをしたな」
驚いたような顔で、少年がこちらを見つめていた。泣きそうな顔だ。名前も知らない少年を、この右足は何度も蹴り飛ばした。何か熱病にでも憑かれていたような、そんな心境だったように思える。
懐から、もう動かなくなった時計を取り出した。ジャージにくくりつけていた鎖をほどき、思い切り投げ捨てる。反動で体が地面に倒れた。車道に転がった時計が、からんからんと甲高い音を立てている。
「アンタも、さ。あんな時計は捨てた方がいい。あれは、何かよくないモノだ。そう思うよ」
雨音が、沈黙を包む。ややあって、少年が口を開いた。
「これは、あの人の形見だから……」
少年は、体を抱く腕に、ぎゅっと力を込めたようだった。「そうか」と呟いて、再び空を見上げる。
――形見?
その言葉に、引っかかるものを覚えた。
「……アンタもあの店で、あの時計を買ったんじゃないのか?」
そう。あの老人はそう言っていた。
「いえ、買ったのは友達ので……」
「そうか……。あのじじい、どういうつもりだったんだ」
「どういうことです?」
「どうもこうも、俺はカビノチェって店のじいさんに聞いたんだ。アンタが、マリオネットって時計を買っていったってな」
そんな馬鹿なと、少年は呟く。ぶつぶつと、何か考え事を始めたようだった。
まあ、あの老人にどんな目的があったにせよ、今の自分にはもう関係の無いことだと、ユウイチは諦めたように空へと視線を戻した。
欲求を喰うと、あの老人は言っていた。果たして、今の自分はもう走りたいとは思わないのだろうか。
どっちなのか分からない。俺は今、何がしたい? そう自問する。そうだな――。
雨が上がったら、バードウォッチングも悪くないかもな。そんな考えが浮かんできて、彼は思わず苦笑していた。
<3章に続く>
-
2006/01/25(Wed)05:51:25 公開 / 紫煙突
■この作品の著作権は紫煙突さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
皆様はじめまして。紫煙突と申します。こういった所に投稿するのは初めてで、至らない所も多いと思いますが、読んでいただければ幸いです。知識も文章力も貧困ですので、勉強させて頂ければ、と思っており、もしお読み頂けたならご感想やご批評など頂けるとありがたいです。拙作ですがどうぞよろしくお願いいたしします。
1/25 2章だけ視点が変わり、読みづらくないか、そもそも方法としてこれはいいのか、と心配しております。最初は2.0のいの予定でしたが、ここだけ別視点だと不自然だと感じ交互に視点を変えるようにしてみました。うーん、でも単発キャラなんだよなあ…。
物語は次の章で完結する予定で、お付き合い頂ければ幸いです。
■履歴
1/25 2章微修正
1/24 2.0と2.4の細かい修正
1/23 2章(2.0〜2.4)を投稿
1/21 1.0を若干修正。1.4〜1.6を変更、加筆。節分けを1.4〜1.8に変更。作品説明を変更
1/16 1.5と1.6を投稿 1.4を若干修正
1/15 1.4まで投稿
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。