『俺の帰りを待つ人へ〜前編〜』 ... ジャンル:恋愛小説 未分類
作者:柊 梢
あらすじ・作品紹介
独り暮らしに無性な退屈を感じている遠野紅次が、行きずりの家出少女、久留間日向と出会うが……
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期待していたものとは明らかに違う。学科内での女率の低さから彼女もできず、だからといって気に入った女などいないのだが、これがただの負け惜しみのようなものだという自覚もあり、自分を待ってくれている人(ペットさえ)のいないワンルームの部屋に帰ると、そんなやるせなさがとうとう心あるいは感情という名の器から溢れ出し、ついつい物に当たってしまう。だがそうは言っても施設にいた時(中学までだが)に叩き込まれた潔癖という精神が強固な障壁となり、結局は手にしていたバッグを壁に投げつけるだけ……学生生活とは、いや独り暮らしというのは概ねこんなものだ。
中身のないサークル活動に建前だけでもと出席し、少量のアルコールを土産として胃に流し込まれ肝臓からの抗議文を破り捨てつつ、彼――遠野紅次は揺れる大地を一生懸命になって帰路についていた。
独りで夜道を歩いていると、無意識にだが、民家に灯った明かりに目をやってしまう。自分の帰りを待ってくれる人がいるというのは、どういう気分なのだろうか。
「……ん?」
などと考えているときだった。部屋に帰るまでの道程で最後のコンビニが遠目に見えたと思うと、突如として暗闇から現れた影を避けきれず(実を言うと避けられたのだが、相手に道を譲ることに判然とした敗北感を感じ、そのまま立っていたのだ)、紅次は真正面から腹部を殴打された。
どうやら相手も似たようなことを考えていたらしい。その意思を表明するかのように、相手は尻餅をつきながら非難の声を上げる。
「いったぁ! ちょっとなんで避けな――あっ!」
胃の中からこみ上げてくる熱波を必死に堪えている紅次を、相手はちょっとそこどいてと押しのけて手近な路地裏に消えていった。
が、そんなことに構っている余裕はなく、紅次は解放戦線とかそういったものの勢いに屈し、通りのど真ん中で盛大にリバースした。その間、コンビニのエプロンをつけた大柄の男がすごい剣幕で側を走り去っていったのに構う余裕ももちろんなかった。
原型を留めているものもあればそうでないものも入り混じった水溜りの量からして胃の中が空になったことを自覚し、同時に胃の轟が治まった頃だった。
「もう大丈夫かな……ってうわぁ!?」
さっきの女が路地裏から再び姿を現したかと思うや、彼女は突然声を上げつつ一歩退いていた。
紅次と、彼から解放された今日の夕飯をしばらく見比べ、自分のせいだと思ったらしく(当然その通りだ)、気遣うように女は聞いてくる。
「だ、大丈夫……?」
「……どうしてぱっと見大丈夫じゃない人間に大丈夫だなんて聞く」
険悪という険悪を包み隠さず表にさらけ出し、紅次は通りに腰を下ろしたまま女を見上げた。
暗くてよく見えないが、確実にここ数日風呂に入っていないようなぼさぼさの長い髪。薄汚れた上よれよれの、どこかの学校の制服。そして両手に携えたコンビニのパンという三つの情報から、紅次は女の素性を判断した。
――家出……か。
よく分かる。かくいう自分も昔はよくしていたからだ。だからといってどうしようもないが。
女はとことこと歩み寄ると、恥じらいもなく腰を屈めて右手に持った方のパンを差し出してきた。
「これ」と言いつつ、ずいと掲げる。「夕飯台無しにしちゃったお詫びにあげる」
「盗品だろーが」
キレよく突っ込んでやると、女は目を見開いてパンを少しだけ引っ込めた。
「しっ、知ってたの?」
「状況がそう言ってるだろ」
言うと、女は決まりが悪くなったのか俯いて閉口した。
気を遣う必要など皆無なはずなのに、
「ほら。よこせ」
昔の自分を見ているような気がして、
「あっ……」
決まりが悪かったのは、むしろ自分の方だったのだ。
パンを引ったくり、その場で食べてしまった紅次を、女は目をぱちくりさせて眺める。
「ちっ」小さく舌打ちし、「これで俺も共犯か」
甘ったるいような脂っこいようなパンを空になった胃へ流し込み、紅次は女に向き直った。
「なっ、なに?」
突然顔を覗きこまれたことに驚いたのか、女は少し身を退いた。
構わず、紅次は言い放つ。
「水色のショーツが丸見えだ」
「えっ――きゃあっ!」
言われて初めて気付いたらしく、女はスカートの裾を押さえながら立ち上がると、紅次をきっと睨めつけ、
「こっの……変態っ!」
せっかく教えてあげたのに礼一つ言わず、いわれのない非難だけを残し、女はさっきコンビニの店員が走っていったのとは違う方向へと走り去ってしまった。
その後姿を見送りつつ、紅次は呟く。
「……もしかして、もっと気の利いた返事返してたらなんかのフラグが立ってたのか?」
ギャルゲーによくあるセリフの選択で、自分はどうやら別ルートに進む選択をしてしまったらしい。まあ、ゲームのように二択か三択で決まる人生というのも、失敗は少ないだろうが嫌なものだ。
呆然としつつ一つ気になったのは、自分の吐き出した水溜りの傍らで、これって誰が始末するんだろうかということだった。
次の日、そっち方面に肩まで浸かっている友人曰く、
「ばっかじゃねーの、お前? 何年ギャルゲーやってんだぃょう」
変な言葉遣いをするところは、まあそういう人種だからと諦めている。というか、プレイしたことがあるのは一作だけなのだが。しかも大学に来てから。
「とりあえずこれとこれとこれとこれとこれやっとけ。一日一本ペースでやれば五日で終わるやろ。終わるまで講義は休め! 俺が許す」
いや許されてもなぁ。というか、この手のゲームを常日頃から持ち歩いている奴はどうなのだろう。
なんだか禍々しいオーラを漂わせるトートを肩にかけ、紅次は今日も帰路についていた。
今日の講義は午前中だけだったので(寝坊して一限を欠席してしまったのだが)、昼下がりの公園で一人昼食など取っていた。メニューは、固形栄養食に野菜ジュースである。
桜桃の木が周囲に植えられているこの公園で昼食を取るのが、金曜日の日課になっている。というのも、週末は引き篭もり生活を送っているので、週の最後の外部との貴重な接触時間を自主的に設けたのだ。
そろそろ熟してきた頭上の桜桃の鮮やかな色合いを仰ぎつつ、カロリーメイトをぽりっとかじろうとし――そのまま動きを止める。
「……はい?」
普段お目にかかれないような光景が、頭上に広がっていた。
校名入りのジャージ(体操服なのだろう、おそらく)を纏い、一心不乱にさくらんぼを摘んでいる少女が、そこにはいた。
「……」
スカートでなかったことが惜しまれた。もしそうであれば、さぞや絶好の眺望だったであろうに。
「……って、何しとるんだ、おまいは」
わざとらしい口調で、紅次は頭上の少女に問いかけた。
こちらの声にすぐ気付き、少女が一瞬注意を向けると、
「えっ? ……ああっ!」
哀れながらもその木最後のさくらんぼが、少女の手からこぼれた。
「わととととっ」
枝に絡み付けた両足でどうにか体を支えつつ、少女は取り落としそうになったさくらんぼを寸でのところで救い上げた。が――
ぽきっ。
「え……」
「な――っ!?」
小気味のいい音を立て、木の枝はその付け根から見事に折れたのだった。
さくらんぼを掴んだ姿勢のまま重力に抗うことなく落下してくる少女。目を見開いたまま、紅次は彼女を体で受け止めることとなった。
「全治、三週間だって……」
重々しい少女の言葉を、紅次はただ聞いていた。
不本意ながらも彼女を受け止めるかたちとなった紅次は、彼女の無傷の代償に右手の小指と薬指を折られたのだ。もちろんこれからも通院するよう言われたが、奨学金で暮らしている紅次にとってそれは無理な注文というもので、自分の経済状況を暴露せずに通院を断るのにはかなり骨を折った。
「実際、骨折ってんだっけか」
つまらない冗談は、誰がどう言おうとつまらないわけで、だから紅次が言ってもつまらないのだ。
わけのわからないうちに今月の生活費の八割がたを治療費に奪われ、わけも分からずたそがれつつ、紅次は帰路についていた。
「あの……ごめんね」
横から、先の少女がやはり重々しい面持ちで謝罪してくる。
「って、なんでついてきてるんだ」
なんだかわけありな女に名前を知られた上、住所まで知られると後々厄介ごとに巻き込まれるだろうと紅次の頭は瞬時に判断していた。
部屋に近くなったこともあってか、紅次はそれを危惧して立ち止まる。少女も紅次に倣い、立ち止まって言う。
「だって、このままじゃ申し訳たたないし……」
「あ・の・な、この状況でどうやったら申し訳たつんだよ?」
切羽詰ると、人間というものは気が短くなるようだ。そしてその苛立ちを、第三者に浴びせるのだ。といっても、彼女は第三者などではなく、事の発端、張本人、犯人、諸悪の根源、ホシなのであるが。
「ホシって……」
口に出してしまっていたらしく、彼女は控え目に突っ込んできた。が、まだまだ甘い。極めし者ならば、後先考えずに全力で突っ込んでくるというものだ。
「ま、まさか、通報したりするの……?」唐突に、少女がすがりつくように言ってきた。「ねえお願い! それだけはやめてっ!」
実際にこちらの腕にすがりついてくる少女を、紅次はぞんざいに振り払う。
「やかましい。家出なんてする奴が悪いんだ……よ?」
紅次は言葉を切った。紅次に振り払われた腕を抱くようにしてその場にうずくまり、すすり泣く少女を見て。
「マジかよ……サノヴァビッチ」
追い詰められたときの口癖で、紅次はついつい汚い言葉を吐いてしまう。
周囲に人がいないとはいえ、いつまでもこの状態ではいられないし、かといってこの隙に逃げるわけにも……
「って、その手があるじゃんってできるかアホ」
突っ込んでくれる人がいないことほど、ボケた者にとって悲しいことはない。だからこれから自分が取る行動はそこからくるものであり、なにもこの女が可哀想だとかそういった陳腐な同情からではない。
「……お前、バックに危ない組織とか集団とかいないだろうな?」
思えば、この部屋に来た人間は管理人を除いてこいつが初めてだった。
「……片付いてる」
彼女の最初の言葉がそれだった。
「どういう意味だ、おい」
「だって、なんかずぼらなイメージがあったから」
出会って数時間もしないのに嫌なイメージを持たれたものだ。が、別に的外れということもなかった。潔癖な方ではあるが、それは埃やゴミに対してだけで、つまりゴミでないものならばどこにあろうと気にすることもなく、よって紅次の部屋が片付いているのは単純に物が少ないからだ。部屋を一瞥して目に入るのは、デスクとパソコン、隅に積まれた教科書、それに折りたたみ式のちゃぶ台が一つっきりだ。服も押入れに入る程度の量しか持ち合わせていない。
「あ、そうか」
押入れで思い出し、紅次はそこからバスタオルと高校時代のジャージを取り出した。それを彼女に差し出すと、彼女はビクッとして自分の体(言うなれば胸元)をかばうようにして背後の壁まで後退した。
「なっ、なによ」
その目は、完全に汚らわしいものを見るものだった。
「風呂入れっつってんだよ。そんな格好でよく平気だな。もう一週間は入ってないだろ」
「……………………変なこと考えてない?」
とても長い沈黙の後、疑惑の拭いきれない眼差しで彼女は聞いてきた。
「あいにくと、俺は自分より汚いものに手を触れない主義なんでな」
「…………覗かないって、約束する?」
少し短くなった気がするが、それでも黙考するにはするようだった。
それに、紅次は我慢できずに(本当はしてもよかったのだがせずに)怒鳴る。
「っ……いいから黙って入れ!」
最後はまるで、爆竹を口に詰めたカエルを恐怖に打ち震えるうさぎに投げつけているような気分だった。
彼女は震える手で紅次からタオルと着替えを受け取ると、はたしてそれらを幾度か取り落としつつバスルームに入っていった。
紅次はというと、彼女の衣服(ついでに自分のも)を洗濯機に放り、ちょうどタイムサービスの時間だったのでとりあえずこの間に夕飯でも作ろうと買い出しに行き、調理しているところだった。メニューは肉じゃがとホッケの開き、そして玉ねぎとニンジンの味噌汁だった。いつもなら週末は三食ラーメンで済ますのだが、やはり客人が来ているということに喜色を隠せないらしい。
と、ホッケを火にかけ、鍋に味噌を溶かし込んでいるときだった。
唐突に浴室の扉が十センチほど開き、そこから桃色の腕が生えてきた。
「ねえ、シャンプーがきれたんだけど」
その腕は手を上下に振りつつ、そう言った。
心なしか目を背けつつ、紅次は言う。
「ンなもの石鹸で代用しとけ」
「それなら排水溝に流れていっちゃった」
「おいっ!?」
この不況によくもまあやってくれたものだ。悲鳴を上げつつも、紅次は洗面台の下からシャンプー(詰め替え用)を取り出し、ドアの向こうから生えてきている手に乗せてやる。
「ありがとー」
腕はそう言うと、ドアをきっちり閉めてしまった。
「……欲求不満かな」
そのドアはいわゆる境界線というやつで、彼女に対する最後の砦でもあった。ここを超えたら最後、自分はもう後戻りできない道を「暴漢」というレッテルを背負ったまま生きてゆかなければならない。だがこの機会を逃したら逃したで後悔するのは自分なのであろうし、でも自分のモラルがそれを許すはずもなく、だからといって青年としての健康的な欲求はありをりはべりいまそかり……
とりあえずその思考はジャージを身に纏った彼女が浴室から顔を見せるまで続き、結果紅次の分の魚は焦げてしまった。
「わーわーわー! ごちそーだーっ!」
目を輝かせ、少女はちゃぶ台に噛り付かんばかりの勢いで叫んだ。
とりあえず最初に思ったのは、
「かわいい……」
ということ。
つい数十分前までは乱れに乱れ薄汚れていた髪は、風呂から上がると艶やかなストレートへと変貌していた。
ついさっきまでは薄汚れた浮浪者然としていた顔も、今では光沢を放ちそうなくらいに輝いていた。
「ん? なんか言った」
彼女はこちらの肉じゃがに箸を伸ばしながら言う。
「っておい!」紅次はすぐさま自分の箸で応戦する。「何をしとんのだ、おまいは」
気付くと、彼女の前にある食器はどれも洗った後のようにきれいになっていた。
「いただきますもないのかとか諌める以前に早すぎだろ、それは。一体いつの間に……」
「おじさんがお風呂上りの艶やかな美少女を欲火に燃えたぎった目で見てる間に」
「くっ……」
ばれていたらしい。彼女の箸を抑える箸が、徐々にだが押されていく。
「てか誰がおじさんだ」
二十歳になればおじさんだという不文律もあるが、理屈では割り切れない。
「じゃあおにーさんでいいから、それ頂戴」
そう言う彼女の目は真剣だった。ぎりぎりとこちらを押してくる。鍔迫り合いとは言わないが、それに近しい差し迫った面持ちの彼女に根負けし、紅次は涙を呑んでオカズを譲ることにした。
「わーい」
本当に嬉しそうに、彼女はひょいひょいオカズを奪っていく。終いには皿ごと手元へ持っていった。
結局何一つ口にしないまま、紅次のディナータイムは過ぎていく。
幸せそうな、というより天真爛漫な顔でご飯を頬張る少女。
「……」
他人のために料理を作ったのは初めてだが、まあ、悪いものではない。
少女が箸をおき、頭の上で手を合わせてごちそうさまでしたと言うと、頃合を見計らったかのように、ずっと回り続けていた洗濯機の電子音が鳴り響いた。
窓辺に洗濯物を干した。自分の衣服と、彼女の衣服だ。一緒に洗ったということで、彼女が不平をもらすことはなかった。
流しで食器を洗い部屋に戻ると、彼女は部屋の隅に座ってラジオ(自前だろう)に耳を傾けていた。
『――地方は、今夜から雨になるでしょう。梅雨入りのようで、雨は明日から明後日にかけて続くでしょう。お出かけの際は――』
ラジオから流れてくるのは、若い女の声。
紅次は少女とは距離を置くように、押入れの戸に背をもたれるようにして腰を下ろした。
ラジオの声が天気予報やら行楽情報やらを伝え終えコマーシャルに入ると、少女は無造作にラジオを切った。そして体操座りの膝の上に置いた腕に横顔を乗せ、こちらを見つめる。その目元は、本当に微かではあるが笑んでいるようにも見えた。
「……なんだ」
聞くと、彼女は目を逸らして言う。
「おいしかった……」
どこか重い沈黙が流れる。じめじめと重いこの面持ちは、窓辺に掛けられた洗濯物の向こうに見える雲行きの怪しい空のせいだろうか。
「お前、名前は」
「……?」
突然聞かれ、少女は目で疑問符をあげた。それが他人を知り合いへと変えるための最初の行為であるということを悟ったらしく、少女は静かに口を開く。
「久留間……日向」
彼女――日向は言ってから、そっちはと目で問いかけてくる。
「遠野紅次」
名前が何になるというのだろう。それはただ親類との繋がりを示し、個を特定するためだけの呼称でしかないというのに。だが、紅次の知るところでは、自己紹介はおおよそ名前の知り合いから始まるものらしかった。
「ほら」
昔、家出して野宿をしていたときに購入した寝袋を日向に投げ渡しつつ、紅次は言った。
それを抱きしめるように受け取り、日向は遠慮深げな眼差しを投げてくる。
「ホントに、泊まっていっていいの?」
「外見てみろ」
言われ、日向は窓へと目をやった。
湿ったジャージの向こうにある古い木枠の窓のさらに向こうでは、夜闇の中を無数の水滴が舞い降りていた。
「ま、風邪引いて肺炎起こしてもいいなら、話は別だけどな」
紅次は布団を担ぎ、適当な位置にそれを敷く。そしてちらと日向を見やるが、彼女は迷うことなく、申し訳なさそうな顔で、
「……ごめん、やっぱりいいや」
あっけなくそう言うと、寝袋を返してきた。
「ホントに、ごめんね」
塗れたままの体操着を着て、戸口に立つ日向を、紅次はやるせない面持ちで見つめた。今はまだ手を伸ばせば捕まえられる。なのに、それでは何も捕まえられない。
「おにーさんのこと信用できないってことじゃなくて……上手くは言えないけど……」
歯切れ悪い言葉をなんとか繋げようと努める日向に、紅次はかぶりを振って、ビニール傘を手渡す。
「風邪、引くなよ」
「……ありがと」
彼女の差し出した手を、紅次はそっと握った。
力のこもらない、触れる程度の握手。それが意味するものは、未来永劫の別れ。そんな握手をして、日向は出て行った。
「ちっ……」
そして紅次は小さく舌打ちする。
本当は泊まっていってほしかった。できることなら、ずっといてほしかった。初めて同じ境遇の人間に出会い、昔の自分を見ているような気がして、手を差し伸べたかった。身近に、人のぬくもりを感じていたかった。
彼女の出て行った扉からは、ただ外の雨音だけが響いていた。
2006/01/16(Mon)01:15:13 公開 /
柊 梢
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