『マグロ女は早歩き【完結】』 ... ジャンル:恋愛小説 リアル・現代
作者:赤い人                

     あらすじ・作品紹介
 童貞を捨てられない「僕」と先輩の彼女との現代風ひねくれ系ラブストーリー。

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1.
 大学に入って二年目の夏に、初めて女の子とつきあった。
 ただし童貞は捨てられなかった。

 その子は一つ年下で、容姿だけ見ればもっと下に見られるような子だった。
 向こうが僕を一方的に好きになって、そのうちに周りからいろいろ冷やかされるようになって、ある日送っていった彼女の家の前で告白されて、僕は何となくOKした。
 深く考えるのがばかばかしいくらい暑い日のことだった。
 彼女がブロック塀の溝をさすりながら三十分ばかり言葉をつっかえてる間、僕はアパートに残してきたカブトムシとスイカのことばかり考えていた。
 それから二ヶ月後に彼女に一方的にふられるまで、僕には常に一つの大きな勘違いがあった。それをわかりやすく、順序立てて説明するとこうなる。彼女は僕のことを一方的に好きである。しかし僕はそうでもない。二人の間に恋愛の温度差があるわけだ。それを近づけてゆく為には、もちろん誰かが努力をしなければならない。僕はそれは彼女の方の義務だと思っていた。電話をかけてくるのは彼女の仕事だったし、デートの行く先を決めるのも下調べをするのも、当日の盛り上げ役も彼女だった。
 必要以上に冷たくあしらったこともある。もちろん暴力なんてふるわなかったけれど、例えば一緒にいるとき始終つまらなそうな顔をしてみたり、悩みの相談にいちいち突き放した回答を返したり、僕はそのようにしながら、実は裏側で彼女の反応を気にしていた。要するに僕は彼女に愛されているという実感が欲しかったのである。僕の行動の一つ一つに表情を曇らせたり情緒を不安定にしたりするのを見ながら、それが深くて重いほど僕は満足した。確かな手応えを感じて、心が安まった。それは僕にとって素晴らしく楽な状態だった。
 そして別れ話。彼女は涙ながらにいろいろと嫌いになった理由を聞かせてくれたが、どれも本当のことじゃなかったと思う。ただ単に、そんな僕の態度が気に入らなかっただけだ。女の子に心底命がけで惚れられていると勘違いしている男の自尊心をぶち壊したくなったのだろう。わかった、もういい、と僕は逆ギレしてその場を立ち去った。すると後からA4レポート用紙にびっしり3枚ぐらいの手紙が速達で届けられた。
 僕は何人かの友人にその顛末を話した。すると皆、『自分から好きだと言っといて、ほんとに勝手な女だな。とにかく忘れちまえよ』と鼻息を荒くして慰めてくれた。彼女の方も同じようにしたらしく、僕は構内ですれ違う何人かの女の子にレイプ魔みたいに避けられた。だから僕も『あんな女とは別れて正解だった』ぐらいに思うことにしていた。
 ところがその後、さらに一月ほど経ってからだが、僕は突然、どういうわけか非常に苦しくなったのだ。何故だか寂しくてたまらなくなった。大学で彼女の姿を見かける度に胸が痛んだ。あんなに不満だった彼女の顔が愛らしく見えるようになった。
 それは、きっと恋だったのだろうと思う。バカげた話だが、僕はしっかり彼女のことを好きになっていた。そして気づいたときにはもう遅すぎた。今さら何を言い出せるものか。僕はただ笑うしかなかった。
 カブトムシが死んでからスイカを買ってきたって、もう遅い。
 この経験から、僕は一つの教訓を導き出した。これから先、また女性とつきあうような機会があるとして、その相手がかつての僕のようなマグロで煮え切らない態度をとろうとも、せめて僕は暖かく見守ってあげよう。月並みな表現だが、本当に大切なものは、失って初めて気づくのだ。

2.
「ねぇ。あなたもマスターベーションとかするんでしょ? それってどうやるの? 誰を思い浮かべてするの?」
 それはあまりにも唐突な質問だった。僕は一瞬、膝から下が無くなったみたいによろめいた。くらっと来た。いきなり酔いが回ってきたみたいだった。
「え」と、それだけ言うのでいっぱいいっぱいだった。
 とりあえず、僕は彼女も酔っているのではないかと疑った。しかしそんなはずはない、とすぐに考えを改めた。ワインにだってほとんど口をつけていなかったし、元来あの程度の酒で酔える人ではないのだ。
 瑞樹さんは僕の先輩の彼女で、もちろん面識はあった。二人きりで飲みに行ったことだってあったけど、話すことと言えば高島先輩のグチばかりで、僕はいつも聞き役に徹していた。当の先輩には『いつも済まないな。また飯でもおごるから』と逆に感謝されているぐらいで、僕は二人のいい後輩のつもりでいた。
 それなのに、どうしたというのだろう。彼女は僕の方を振り返ることもなく、一途に歩みを進めていった。その先に何があるのか、僕は知っていた。先輩の車で何度か通り過ぎたことがある。その度に彼が珍しく口にする下ネタの類が、僕は苦手だった。
『ご休憩といくかい? 下手なビジネスホテルより安くて設備もいい。ビデオだっていくらでも見られる。男同士で行くほうが、本当は有意義なんだぜ……』
 緑とピンクのネオンがアスファルトに巨大な地上絵を描いていた。それはほとんど教会のステンドグラス並の神聖さと恐怖をもって僕の視界に映った。
 心臓の音が喉の奥から聞こえた。中国の卓球選手のラリーぐらい早かった。
 この中に今から二人で入ったとして、どうなるのか。何をするのか。僕にはそれを期待する余裕なんてもちろんなかった。むしろ川に飛び込んででも逃げ出したい気分だった。
 彼女を慰めなければ。思いとどまらせなければ、と僕は思った。しかし何をどう言っていいものやら見当もつかない。僕は混乱した頭で、必死に記憶を辿っていた。今の彼女の心理を探る手掛かりは、確かにこれまでの数時間の中にあったに違いない。

 …………

 そう、はじまりは、昼過ぎに聞いた電話の呼び出し音だった。
「おまえにはいつも迷惑かけてるからさ」と高島先輩は言った。だから自分の就職祝いにいいものを食わせてくれるという。それから「瑞樹も一緒なんだ」と少しトーンを落として付け加えた。「二人きりで行ってきたらどうですか」と僕は言った。受話器の横で、実は僕は呆れ顔をしていた。
「いや、おまえがいてくれた方がいいんだ」と先輩は言う。理由はわかっている。
 その就職問題で二人は冷戦の真っ只中だという。先輩の勤務地が最悪なのだ。瑞樹さんの住まいから最寄りの交通機関というと、新幹線ということになる。「今さら遠距離なんてイヤよ」と瑞樹さんは言う。
 瑞樹さんは高島先輩より2年も早く社会人になった。同い年だが、短大を出てすぐ地元の図書館の司書になったのだ。僕はそういうのは四十を過ぎた独身ツリ目でメガネから銀のクサリが下りたようなおばさんがする仕事だと思っていた。めったに空席が回ってくるようなものではないだろうし、実際幸運としか言い様がない確率だったそうだ。瑞樹さんがその仕事を手放したくないのは当然のことだと思う。だけど高島先輩はそのことについては無関心を決め込んでいた。本来、何かに熱中すると自分のことしか見えなくなる人なのである。
「僕はいいですけど、瑞樹さん、怒りませんか」
 殊勝なふりをして、僕は聞いてみた。向こうからはすぐに笑い声が聞こえてきた。
「ハハハ。あいつはおまえのことを気に入ってるよ。そういう喰えないところがカワイイんだってよ」
 結局、僕は気がすすまないまま車に乗って、とっくに三名で予約済みの和食レストランに連れて行かれた。いかにも高級な匂いのするところで、黒塗りのお盆に金粉をちりばめたような色彩が店内に施されていた。受付で名前を告げると僕たちは座敷に通されて、既に待っていた瑞樹さんと挨拶を交わした。
「元気? 久しぶりね」と瑞樹さんが言い、僕は「お変わりなく」と返した。
 しばらく他愛のない世間話をしているとワインとグラスが並べられ、何も頼んでいないのにコースの料理が運ばれてきた。オーダーは予約をしたときにするものなのだろう。といっても料理の内容は間違いなく和食らしく、お手元には腹が膨らんだようなハシが二本置かれていた。
「今日のメインディッシュはマグロだぜ」
 高島先輩が相変わらずの精力的な視線で言った。彼はカジュアルめのスーツに身を包み、象徴的なブルーのラインのネクタイを宝石のはめられたピンで止めていた。
「耕介くんてさ、まだ付き合ってる人、いないの?」と早速瑞樹さんが聞いてきた。彼女はオレンジのキャミソールの上に、透けた感じの白いシャツを着込んでいた。
「あいにくと」と僕は答えた。
「おかしいなぁ。見る目が無いのよね、周りの人は」と瑞樹さんは言う。いつもの話題である。
「ちょっとあたしに改造させてみなさいよ。すごくもてるようになるわよ、きっと」
「よせよせ」高島先輩はグラスを回しながら言った。
「こいつは俺と同じさ。決してもてないわけじゃない。ただひどく面倒くさがりなんだ。相手のご機嫌をうかがって慎重に世辞を並べて必要に応じてプレゼントをする、それだけの労力を惜しむんだ。その労力と引き換えに手に入れたって仕方がないと思ってるのさ」
「あら」瑞樹さんは先輩のセリフの間にワインに口をつけて、終わるのを待ってから言った。
「耕介くんはあなたと違って、そういうの、うまくないだけよ。その方が余程好感がもてるわね」
「そういうことじゃない」先輩はテーブルにひじをついてアゴをのせた。その姿勢で視線だけを瑞樹さんの方に添える。
「基本的には一人が好きなんだ。一人で、たいていのことは自分でやれる。だけどたまにポッカリ寂しくなってしまうことがある。そういうときにだけ異性を求めるんだな。ところがだよ、人間が二人いればリズムは違うわけだ。こっちの心にポッカリきたときと、相手の心にポッカリきたときは、当然ながら食い違う」
「だから、お互いが歩み寄るんでしょう」
「普通はな。だけど俺達は、そういうのが時にものすごーく面倒くさいんだ。いや、面倒くさいだけなら何とかするかもしれない。しかし基本的に自分のことが大好きだから、自分と相手と、両天秤にかけるようなことになってしまったとき」
 先輩はそこで一息ついて、僕の方を見る。「正直なんだよな。あまりにも自分に。だから抑制されてるものがない。他の人間が自分を抑制するために使っている力を、俺達は自分の夢に注ぎ込むことができる」
「勝手なのね」
「そう。一言でいえばそうさ。だから必要なのは、仏さまみたいな心で見守ってくれる人なんだ」
 テーブルから肘を上げて、瑞樹さんの肩に手を回して言う。
「君ほどの人は、なかなかいるもんじゃないさ」
「ふうん」
 瑞樹さんの方は大した感慨もない。
「だから僕は一人ものってわけですか」
 僕は自嘲気味に笑って、その場に付け加えた。でもどちらからも言葉は返ってこなかった。

3.
 先輩お楽しみのマグロがやってきたとき、瑞樹さんは随分と沈んでいるように見えた。料理にも手を出さなかった。
「お仕事の方はどうですか」心配して僕は話題を振ってみた。
「そうね。順調かな、一応。自由なところだしね。最近の高校生はガラが悪くってね。平気で携帯ならしたりするのよ。それで捕まえて聞いてみたら、友達が迷子になっちゃったんですって」
「そんなに広いところなんですか?」
「嘘に決まってんじゃない、そんなの」と瑞樹さんは笑わずに言った。
 たまにだが、瑞樹さんにはこういうところがある。機嫌が悪くなったところに酒が回ったりすると、ときどきこんなふうに意地悪になるのだ。
「おまえはどうなんだよ」と先輩が気にせぬふうで聞いた。
「いや……」僕は返答に詰まった。
「あのなぁ、自分で自分の力量を計るのもいいが、おまえはその前に世間の相場を知っておく必要があると思うぞ」
「はぁ」
 恥ずかしい話だが、僕は小説家志望なのである。学校にもロクに通わないで毎日本を読んだり形にならない原稿を書いたりしている。先輩には以前、書きかけの短編を間違って読まれてしまい、『おまえの才能は俺が保証する。試しに文学賞に出してみろよ』と言われ続けているのだ。
「まだその気になれないのか」と先輩は真剣な目を向ける。僕はちょっと目を反らすついでにグラスを口に運んだ。
「いや、まだまだですよ」ワインを飲みながら考えて、ようやくそれだけ言うと、先輩は「ふん」と唸って座敷の壁にもたれかかった。
 高島先輩は非常に思い込みの激しい人なのである。誉められたとしても素直に喜べない原因がそこにある。大体世間の相場をと言うが、先輩の部屋で文庫本の一冊も見かけたことはないのだ。
 ものすごく好き嫌いも激しい。以前、ドライブの最中に僕が持ってきた流行のCDを無茶苦茶にけなされたことがあった。日本のミュージシャンは全て素人同然、外国の音楽に比べればごっこ遊びだと言い放ち、そんなものを聞いていては人生が貧しくなるだけだと哀れみまでかけられた。こちらの言い分なんて何一つ通りそうになくて、僕は「ハハハ」と愛想笑いを浮かべるしかなかった。
「あたしも読んでみたいな。耕介くんの小説」
「いや、まだまだ……」
 だから瑞樹さんにも読ませるわけにはいかない。先輩には他人の評価を覆したがる習性がある。周りの人間が面白いというものは面白くなくて、誰も眼を向けないようなものを見つけては珍重したがる。普段は優しい瑞樹さんが僕の作品を誉めてくれたとして、先輩がそれを潰しにかかるのは目に見えている。僕はとにかく、僕自身が二人の仲違いの火種になるようなことだけはしまいと心に誓っていた。
「……まぁ、何というか、がんばります」
 気持ちだけありがたくもらっておくいうことで、僕はそんなふうに答えておいた。
 少しして、和洋折衷スタイルのボーイが僕と先輩の食べ終えた皿の代わりにデザートを置いていった。瑞樹さんのメインディッシュは原型をとどめたままだった。ボーイが「お下げしてよろしいでしょうか」と聞いたが、瑞樹さんは何かを考え込むように答えなかった。高島先輩が手を上げて制したので、マグロはそのままテーブルの上に取り残された。
 沈黙がますます重くなってきた。
「耕介くんって、浮気とかしなさそうよね」と瑞樹さんが思い出したように口を開いた。
「え?」
 唐突に何の話題だろう、と僕は身構えた。
「例えばね、恋人が、すごく遠いところに行っちゃうとして、それで、一年ぐらいずっと音信不通になるの。そんなときでも、浮気は、しない?」
 何かしら、おどおどしたように言葉を繋げる。瑞樹さんには珍しいことだ。視線を合わせないどころか、宙を泳いでいるようにすら見える。
「そうありたいとは思いますけど」
「でも、男の人って、そういうの、溜まると、つらいんでしょ?」
 言いづらそうに言う。僕は「はぁ」と曖昧に答えた。
「そういうとき、自分で、その、するの?」
 瑞樹さんは遠慮がちな視線を向けた。僕は言葉の意味と、彼女の視線との板挟みにあって、答えに窮した。
「それだけで済ますってわけにもいかないだろう」
 先輩が見かねたように口を出した。
「俺の例で恐縮だけど、確かに、そういうのはつらい。男子の構造上ね、溜まるもんなんだ。で、周りには健康な女の子がたくさんいる。そういうときどうするか? 俺なら迷わず、新幹線でも飛行機でも使って、飛んで帰ってくるんじゃないかな。お金の問題じゃないし、さすがに面倒くさいだなんて言ってられないからね」
「新幹線も飛行機も行けないところだったら? 地球の反対側ぐらい遠いのよ」
 瑞樹さんは追及した。先輩は少し考え込むようにして、言った。
「そうだな。その場合は、他の女の子を抱くかもしれない」
「そうね」
 瑞樹さんは大した感慨もなく言った。
「私だって同じ立場だったら、同じことをすると思うわ。いたたまれないもの」
 僕は、瑞樹さんは先輩を脅しているのかと思った。現実にそれだけの迫力はあったのだ。しかし高島先輩の方はいつものホストのノリで肩に腕を回し、
「でも理解して欲しい。僕の心のポッカリを埋めることができるのは、君だけなんだ。体の欲求は誰にでも癒せても、心の穿孔までは満たせない。そうだろう?」
「……」
 瑞樹さんはそれには答えなかった。
 それきり、誰も、何もしゃべらなかった。瑞樹さんは何かを考え込むように俯いてしまい、時々聞き取れないような何かを呟いた。先輩は無遠慮にたばこに火をつけて、鬱憤をはらすように煙を吹いた。僕はというと、物音を立てるのが申し訳ない気がして、足も満足に崩せなくなっていた。店内のスピーカーから流れるピアノ曲がひどく冗長に感じられた。
 十分以上はそうしていたように思う。僕は使命感のようなものに駆り立てられて、懸命にその場を取り繕う言葉を探していた。が、何も浮かばない代わりに後悔ばかりが心の中を占めていく。どうして僕はこんなところにいるのだろう。やはりあのとき先輩の誘いに乗ったのはあやまりだった。僕さえいなければ、二人とももっと自重したかもしれない。本音の部分を話し合うことができたかもしれない――
 と、瑞樹さんは突然立ち上がり、薄緑色のカバンを乱暴にたぐって、蹴りつけるように靴を履いて一直線に出口に向かって歩いていった。
 僕はあたふたと、先輩は「やれやれ」といった感じで後を追った。ようやくレジのところで追いついて、財布を取り出そうとした瑞樹さんを制して先輩が全てを支払った。
 店を出て歩道に下りてから、瑞樹さんは振り返らずに言った。
「ごめんなさい。今日はもう、あなたと一緒にはいたくないの。ごちそうさま、ここでいいわ。今日は耕介くんに送ってもらうから」
 一息に言って、そのままずんずんと歩いていってしまう。あっという間に10メートル、20メートルと、彼女との距離は離れていってしまう。呆然とその姿を見送っていた僕の左肩に腕を回して、先輩はただ「悪いな」とだけ言った。
 結局、僕は走って彼女を追いかけるはめになったわけだ。

4.
 瑞樹さんは信じられないぐらい真っ直ぐに歩いていた。早く先輩の視界から消えたいというような足の伸ばし方だった。
 十字路をまたいだ陸橋の階段をカンカンと昇ったあたりで僕の視界からも消えた。少し焦って一段飛ばしで追ったが、僕が頂上にたどり着いた時には彼女はもう反対側に下りていた。何て長い足だ、と僕は思った。
 階段を降りると右手に中学校のような塀が現れた。中には街路樹よりも一段高い並木と野球のネットが見えた。少し先にバス停の屋根とライトが見えて、それが僕の足元まで彼女の影を長く長く伸ばしていた。
 そうしてようやく追いついた頃には、情けないことに、僕はすっかり息を乱してしまっていた。
「瑞樹さん」と吐いたのか吸ったのかわからない声で僕は言った。「ちょっと待って下さい」と繋げるつもりだった。それから「どうしたんですか」と笑顔で言って彼女の反応を伺うつもりだった。ところが、
「黙って」と瑞樹さんは歩みを止めることなく言った。つぶやきのような声のトーンと迫力に、僕は体中の汗腺が開いたようになった。
「ちょっと考え事をしてるから、待って」
 瑞樹さんはそうつけ加えたが、感情のグラフがわからないような一直線な歩き方は変わらなかった。僕は何も言えないまま後をついて歩いた。
 こんな瑞樹さんを、僕は今まで見たことがない。だからどう対応していいのかまるでわからなかった。全然ルールも知らない球技の大会で、いきなりレギュラーに選ばれたようなものだ。せめて彼女の表情を伺うことができれば、とも思ったが、何気なく頭の後ろで腕でも組んで口笛を吹きながら彼女の顔を覗き込むなんて真似、僕にはどうやったってできそうもない。
 ならば出来ることは一つだ。せめて彼女の姿を見失わないようにしよう。どんな球技だってボールから目を離さないことが一番重要なのだ。僕はじっと見た。前傾姿勢で見た。すると彼女の白い上着から、縦に二本、横に一本下着のひもが確認できた。
 ぴっちりした黒いズボンに、かかとのある革靴。腰の下あたりでふわりと膨らんだ部分が、彼女の歩みに合わせてリズムよく振れている。それは催眠術のように僕の目を引きつけた。いかんいかん。
 それにしても何て長い足だ。僕は当惑と羨望と、ほんの少しの欲情をもって瑞樹さんの後ろ姿を見つめた。
 そうして、信じられないことだがそのまま五、六キロは歩いたのではないかと思う。瑞樹さんは僕すら振りきろうとしているのではないか、と途中何度も疑うようなハイペースだった。しかし「待って」と言われた以上、かわいい後輩としては無断であきらめるわけにもいかない。
 ほとんど人とすれ違うことはなかった。それは助かった。傍目から今の僕がどんなふうに見えるかなんて想像もしたくない。それさえなければ、ある程度あきらめてきたところもあるし、決して悪い環境ではなかった。風景を楽しむ余裕もでてきたし、相変わらず瑞樹さんは大胆に揺れていた。悪いことばかりではない。
 それに夜の街は暗さや寂しさとは無縁だった。コンビニはそれこそ十メートルおきにあって、冷蔵庫みたいな楽しさで辺りを照らしている。車とバイクは一緒になってヘビーロックを演奏している。高島先輩に借りたCDと同じ音だ。だから僕は騒音とは言わない。孤独を紛らわしてくれるという点で、実は僕も嫌いではない。
 そして空気はすごく湿っていた。その中に、懐かしい匂いが隠れている。
 僕は一度大学受験に失敗している。それで、親に『集中できないから』と無理を言って予備校の近くにアパートを借りてもらった。だけどそうして過ごした一年のうち、僕は半分も予備校の授業に出席しなかった。日中は本を読んだりゲームをしたりしてごろごろと過ごし、夜になると決まってコンビニに通うようになった。僕の移動手段はもっぱら徒歩で、まるで時間を浪費するためだけに出掛けてゆくようだった。
 夜の街には正常な人間は誰もいない。ヤンキーと暴走族と、僕と同じように目的のない人間だけだ。僕は一晩のうちに二軒も三軒もコンビニをはしごした。そして雑誌を立ち読みしたり、買い食いしたりして歩いた。どこのコンビニの駐車場にも同年代の若者のグループがいて、アスファルトに直接座ってどうでもいい話でバカ笑いしていた。僕はそれを見る度、何故だか心が安まった。
 そのうち僕は、自分のこの心理状態のわけをどうしても知りたくなった。そこである日思い立って、図書館で哲学書を読みあさった。僕のような人間のことが書かれている書物を探していると、フラヌールという言葉に突き当たった。
 フラヌールは日本語では遊歩者と訳される。フランスの哲学者ベンヤミンによれば、彼らは都会化によって出現した、新たな都会人の姿である。家の外に出て見知らぬ群衆の中に紛れ込んで身を隠し、都市のいろいろな出来事を観察することを楽しみとする。
 さらにベンヤミンがそのアイデアの多くを学んだボードレールによれば、こうした活動を自覚的に行う人間は『詩人』に他ならないという。
 『詩人』か、と僕は思った。ならば誰も彼も詩人に他ならない。体中にピアスを開けて金髪に褐色の肌で、通路にうんこ座りして十秒に一回ツバを飛ばしてるやつらも、僕も、みんな詩人なのだ。笑わせる。
 僕は次の日から、少しだけ真面目に勉強をするようになった。
「耕介くん」
 瑞樹さんに呼ばれて、僕はふっと我に返った。いつのまにか川沿いの道を歩いている。焦って周りを見回すとやけに派手なネオンが目について、ぎょっとした。
「ねぇ。あなたもマスターベーションとかするんでしょ? それってどうやるの? 誰を思い浮かべてするの?」
 それはあまりにも唐突な質問だった。
「え」僕はそれだけ言うので精一杯だった。言葉の意味を見失ってる気がして、何度も反芻して確かめた。しかしどうにもそれ以外の意味にとりようがなかった。大体、教師以外の女の人の口から「マスターベーション」なんて言葉を聞くこと自体が信じられなくて、現実感がない。
 何だ? この状況は一体何だ? 急に活性化した僕の脳内でいろいろな記憶や想像や妄想が目まぐるしいスピードで回った。
「ねぇ、何度も言わせないでよ? 聞いてる?」
「……え?」
「寝てるの?」
「いや、そういうわけじゃ」
 僕はそんなに器用ではない。あらゆる意味で、それはそうだ。
「ねえ」
 そして瑞樹さんは初めて足を止めて、僕を振り向いた。僕は目を合わせられなかった。
 すっかり悪戯を咎められた小学生のような心持ちだった。背筋に汗の粒が浮き上がって、股の間を持ち上げられるような緊張に襲われた。
「ねえってば」
 僕は見える景色のどこかにヒントでもあるかのように目を泳がせた。上空に向けてライトの帯を放っている建物が一つだけあって、よく見るとそれもラブホテルだった。
「大丈夫?」
「はい」と僕はようやく言って、「あの……」と口ごもった。すると、
「そうね」と瑞樹さんは髪をかき上げて、口に手を当てて、少し考え込む仕草をした。
「ごめんね。変な意味で聞いてるんじゃないの。からかってるわけでもない。ちょっと興味があったの。ずっと考え事をしていて、そこに考えが行き当たったの。で、今の私にはその答えが必要なの。わかってくれる?」
「必要なんですか」僕は頭を掻きながら言った。瑞樹さんは「そう」とはっきりうなずいた。
「えっと……何でしたっけ」
「マスターベーション」
「そう……ええと、何をお答えすれば」必要以上に言葉が丁寧になった。
「まず、そうね、頻度はどのぐらい? 毎日? 週に何回か? それとも一日に何度もすることもあるの?」
 これほど具体的に、恥じらいもなく聞かれてはとぼけようもない。僕は観念して、ポツリ、ポツリと答えはじめた。
「ええと……大体、二日に一回ぐらいです。でも、一日に何度もすることもあります。多分、気分によって」
「それは、何か盛り上がったりするってこと?」
「盛り上がる?」
「気分が」
「ああ……はい。まぁ」
「それって、どういうことなのかな。例えば、その日何か刺激的なシーンを目撃して、ものすごくかわいい子とすれ違ったりしてってこと?」
「まぁ……そんなときもあるかもしれません。でも、全然理由がないときもあります。バイオリズムみたいなもんで」
「溜まったり、ってこと?」
「はぁ、多分」
 どうにもやりづらい会話が続く。
「でも、じゃあ全然理由がないときは、何を思い浮かべてるわけ? 耕介くんは今、恋人もいないでしょう。決まって想像する相手はいないわけだ」
「それは……まぁ、エロ本を見たりするわけで」
「それじゃ、純粋に想像だけでってのはできないの?」
「そういうわけじゃないですが……」僕はさらに口ごもった。それを見かねたのか、
「全然恥ずかしがることじゃないわよ。私は君より年上だし、そんなのは当然のことだと思ってるから。アンケートぐらいの軽い気持ちで答えてくれればいいの。ね?」
「はぁ」
「じゃあ、誰かを思い浮かべて、想像だけですることは?」
「……昔は、そんなこともありましたが」
「昔って、中学生とか、高校生とかってこと?」
「はぁ」まだまだエロ本が貴重だった時代のことだ。
「でも、耕介くんって中学も高校も男子校でしょ? ネタはそこらに転がってるわけでもない」
「まぁ」
「じゃあ、誰を?」
「それは、まぁ、小学校のときの同級生だとか」
「ロリコン?」
「違います」僕はそこだけは強く否定した。
「家が近くだったから、たまに朝、すれ違うことがあったんです。軽く挨拶したりして」
「それって」瑞樹さんは何かを発見したように目を輝かせた。
「特定の、知り合いの女の子だってことだよね?」
「まぁ」実はそうなのだ。
「その子のこと、好きだったの?」と楽しそうな声で言う。
「まぁ、そうだった……のかもしれません」
「煮え切らないわねぇ」
 その一言は意外にグサリと突き刺さった。
「じゃあさ、次の質問。耕介くんは中学、高校と性に恵まれない青春時代を送ってきた。そうよね? 彼女とかいた?」
「いいえ」僕はそれにも傷つきながら答えた。
「ふむ。ところが、大学に入学すると急に身の回りに女の子が増えたわけでしょう。歓迎コンパだとか、サークルとか、授業中にだって、飛躍的に異性と接する機会が増えた。興奮したわよね? きっと」
「いくぶん」
「誰かを思い浮かべて、想像だけでしたこともあるはずだわ」
「それは……」だんだんまずい方向にやってきた、と僕は思った。
「私、高島君に聞いたことがあるの。つきあい始めてすぐの頃よ。高島君はね、私と出会った日の晩から、何度も私のことを想像したんだって。ずっと私以外想像したことがないって、まぁ、あの人のことだからどこまで本気かわからないけど。で、私はね、それを聞いて、ちょっと腹を立てちゃったんだな。だって失礼な話じゃない? 私、高島君と出会った初めは、何てイヤな奴なんだろう、ぐらいに思っていたわけよ。それなのに、向こうは隠れてそんなことをしていたわけ。失礼な話じゃない? ずいぶんと」
「……はぁ」と、そのぐらいにしか相づちが打てなくなっていた。僕にだって思い当たることはある。瑞樹さんの先輩への非難は、そのまま僕にも当てはまる。
「でもね。自分を振り返ってみたら、私にもそんなところはあるわけよ、本当はね。想像の中のことなんか誰にも責任はとれないし、覗き見ることもできない。責めるわけにもいかない。あ、何か話が複雑になってきたけど、私が聞きたいのはそこなのよ。つまり、貞操観念よ。マスターベーションにおける。性欲の発散、その時点において、誰のことを考えるかということ。高島君も言っていたわよね。覚えてる?『体の欲求は誰にでも癒せても心の穿孔までは満たせない』だっけ。つまり、目的が性欲の発散である以上、実際に女の子を抱こうが、想像の中で抱こうが、実は同レベルの不貞でしかないんじゃない?」
「でも」と僕は初めて逆説をとった。「それって、何か幻滅ですよ。うまく言えないけど、やっぱり、思い浮かべるだけと、実際にするのは違う気がします。当人にとっては同じかもしれないけど、周りから見たらすごく違和感がありますよ、きっと」
 言いながら、僕は本当は自分の言っている意味もよくわからなくなっていた。ただ直感的に違うと思っただけで、瑞樹さんの言ってることは何か言い訳じみている気がしただけだった。だけどそれは、引用元の高島先輩のイメージがそうさせるのかもしれなかった。
 僕の反論が思いがけなかったのか、瑞樹さんは急に表情を曇らせて、考え込んだ。
「そっか」
 ため息のような、そっか、だった。
 どうして瑞樹さんは急にこんなことを言い出したのだろう。その疑問に対して、僕の瞼の裏では一つの仮説が鮮やかに明滅していた。僕はそれを、かつて祖先が火を恐れたみたいに、近づき難いものとして感じた。
 もしかしたら、この先の彼女の脚本の中には、こんなセリフが書いてあるのかもしれないのだ。
『私、試してみたいのよ。ここで私が高島くんの説を実践して、彼にその事実を突きつけてやりたいの。そしたら彼は、自分の身に降りかかってきたそれをどう思うかしら。それでも性欲の発散と恋愛の情は違うだなんて、突き放して考えられるのかしら』
 僕は鳥肌が立つ思いだった。そして「これじゃただの当てつけじゃないか」と大きな声で叫びたくなった。
『ねぇ、耕介くん、私に協力してくれない?』
 すぐ耳元からそんな声が聞こえてくるようだった。
 だけど瑞樹さんはそれ以上何も喋らなかった。そして、また沈黙が帰ってきた。僕は目を閉じた。そして開けると、もうそこには誰もいないような予感がした。何か大事なものが失われたような、そんなわけのわからない感覚がした。
 僕は目を開けた。すると、見慣れた彼女の背中があった。
「さて、ちょっと休憩したし、もう少し歩こうか」
 何事も無かったように、瑞樹さんは肩を押さえて左腕を回しながら言った。
 どうやら、僕らの旅はまだゴールではないらしい。僕は安心したような、気の抜けたような気持ちだった。そして相変わらずの彼女の早歩きを追いかけた。

5.
 ラブホテル街を抜けると河川敷が広くなった。僕たちはジョギングコースに上がって川を見下ろしてみた。二車線ぐらいの太さになっている。
 まだまだ夜は明けないようだった。なのに、もうどこまで行ってもコンビニはない。人っ子一人いない。信号機だけが律儀にライトを切り替えていて、その度に進路が三色に染まった。グリーンが一番さびしくて、イエローが少し不快で、レッドは妙なムードを予感させた。
 道路を挟んで向こう側に小さな神社があった。その隣に大きなマンションがあって、さらに駐車場と自転車置き場が続いていた。
 そのとき遠くからバイクのエンジン音が聞こえた。風邪引きのカバみたいなうなり声だった。小学校のときの遠足で、カバにくしゃみをかけられたと言って泣き出した子がいたが、その子のいた手すりからカバの檻まではゆうに十メートルはあって、僕はその子を嘘つきだといじめたことがあった。
 そいつとは別々の中学になって、それっきりだったが、僕の高校の文化祭の帰りに偶然再会した。彼はバイクの後ろに近くの女子校の生徒を乗せていて、一緒に遊びに行かないかと誘ってくれたが、僕はその日ひどく疲れていて断った。でもそれだけではあんまり味気なかったので、少し彼のバイクのことを誉めてやった。すると彼は上機嫌でエンジンの音を聞かせてくれて、「風邪引きのカバよりスゴイんだぜ」と笑った。
 そのとき、僕は何だか心の奥から熱くなった。泣き出しそうなときの瞼の熱さだった。子供の頃より頬が削げて、貧相な顔つきだったけど、それだけに味のある笑みだった。
 それから半年後、新聞で彼の事故死を知った。駅のホームで足を滑らせて電車にひかれたらしい。夕刊に載っていた。
 彼のバイク通学を認めてやっていれば、と誰かが言っていたらしい。僕はそのくだらない紙をその場で破って、丸めて捨てた。すると父親が後で配達所に苦情を言いにいった。
 またバイクの音が聞こえた。今度はさっきよりも近くなっている。近くで暴走族が集会でもしているのかもしれない。
「高島君のこと、どう思う?」と瑞樹さんが聞いてきた。
「そうですね」
 僕の心は不思議と静かになっていて、思うままを伝えられそうな気がした。
「すごく、パワーのある人だと思います。頭もいいです。先輩に比べると、僕なんか本当に凡人でどうしようもないと思いますよ」
「ふうん」
 瑞樹さんは大した感慨もなく言った。
「だけど、すごく思いこみが激しくて、好き嫌いが激しいです。そして他人の意見を聞かない人です。例えば先輩が一直線に崖に向かっているとして、誰かが心配して顔を真っ赤にしてよびかけたとしても、先輩はどっかのカバがくしゃみをしてるぐらいにしか思わないかもしれません」
「そう思うわ」と瑞樹さんは少し振り返って微笑んだ。
「私って、だめなのよね。あんな感じの人を好きになっちゃうの。勝手で、傲慢で、自分の道を行くのに精一杯で、私の方なんか振り向いてもくれない」
「それでも?」と僕は言った。
「そう。好きなのよ、きっと」
 それを聞いて、僕は少し落胆した。どうしてかはわからない。
「彼ね、きっと成功すると思うの。将来の夢は金持ちだ、なんて言ってたから、きっとその通りにするんじゃないかしら。だけど、やっぱり私は置いてけぼりね。それで、今みたいに寂しくなったときだけ帰ってくるのよ。私の言い分なんて聞いてくれなくて、距離は今のまま変わらなくって、永遠に遠距離恋愛ね」
「そうかも、しれませんね」
「だけど、借金なんかして私を困らせるようなことはないと思うの。結婚だって誰にも反対されないだろうし、人生は順風満帆よ。ベルトコンベアーみたいなものよ」
「だけど」だけど、と僕は思った。
「それで、いいんですか?」
「うーん」
 唸りながら、彼女は空を見上げた。僕もつられて見た。はっ、とするような星空だった。
「私のね、理想はごく小市民的なものよ。そうね。八畳ぐらいの部屋が一つ。キッチンとバスとトイレが一つずつ。クローゼットが一つ。洗濯機のおける屋根つきの庭と日当たりがあれば良し。あとはベットが一つと、底の抜けない程度に頑丈な床があれば最高ね」
「なるほど」
「旦那さまの稼ぎに多くの期待はしないわ。私の小学校のときの夢は『働くお嫁さん』だったもの。どう?」
「理想的です。僕も憧れます」
「そう、やっぱり。耕介くんならそう言ってくれると思ってたわ」
「あはは」と僕は間抜けな笑い方で返した。

 それから僕たちは、いつか二人で飲みに行ったときのように高島先輩のことを話した。しかし僕はあのときとは違って、本当に遠慮なく先輩の悪口を言った。高島先輩は他人を見下すことでしか認められない人だ。そして自分と他人という二つの世界観しか持たない人なのだ。
 彼はやたらと他人に旅行を勧める。人生観が変わるぞ、というのが口癖である。部屋の中に閉じこもっているだけでは何もわからない、旅をしなければ人生というものは無駄に時間が過ぎてゆく。彼は沖縄とハワイとシドニーに行った話をしてくれたが、その全てに対して僕は興味をひかれなかった。
「オーストラリアかぁ。船で行ったら、どのぐらいかかるかな」と瑞樹さんが聞いた。
「さぁ、一月とか二月、じゃないですか」
「つらいわね、きっと」
「そうでしょうね」と答えて、僕は彼女の意図を読みとった気がして、言った。
「先輩は、そんなつらい旅はしたことないでしょうね」
「そりゃそうよ。リゾートだもの」と笑った。僕もつられて笑った。
 そうして、もう何時間歩いているのかわからない。いい加減、足だってクタクタだった。人差し指と中指の間がひどく痛んだ。マメができているか、もしくは指が一本増えているかもしれない。
 だけど瑞樹さんからはそんな様子は感じられなかった。タフな人だ、と僕は感心する他なかった。それとも、僕の方がやわなのだろうか。
 行く手に大きな橋が見えた。高い高いタワーのてっぺんから何本かのワイヤーが降りてきて巨大な体を支えている。そんな橋が見えるということは、それだけ川が太くなったということだ。海が近い、と僕は思った。
 それからさらに三十分ほど歩いただろうか。時間の感覚なんてあやふやなものだったけれど。大橋を越えるとその向こうに観覧車が見えた。こちらも橋に負けじと大きかった。こうやって間から双方を見上げると、二大怪獣大決戦といった感じだ。
「ここ、来たことある?」と瑞樹さんが言った。そう言われてみれば、どこか見たことがあるような気がする。
「……あ、もしかして、ここって水族館ですか?」
 確かに見覚えがある。観覧車の向こうには全面ガラス張りみたいなショッピングセンターの建物があったはずだ。その向こうには直方体のカラフルな建物がある。あそこには、今も海の生き物たちが眠っている。人の決して訪れない、今のような時間帯にも。
「本当は、キレイにライトアップされてるはずなんだけど。さすがにこんな時間には近所から苦情でもくるのかしらね。もう、夜っていうより朝だし」
 と瑞樹さんは手首を見ながら言った。
 僕はそれを聞いて、彼女は本当はこの観覧車を見たかったのではないかと思った。だからここまで、こんなに時間をかけて歩いたのだ。ここは高島先輩との思い出の場所なのではないだろうか。
 予想通り、瑞樹さんは「ふぅ」とため息をついて、立ち止まった。
「何を思い出してるんですか?」僕はもう躊躇なく聞いた。
 瑞樹さんは頬についた髪を払って「そんなふうに見える?」と笑った。僕はうなずいた。
「そうかな。そんなに物憂げにしてる?」
「ええ」
「じゃ、多分そうなのね。君の言うのが正しいわ」
 僕はそれがどういう意味なのか、いまいちわからなかった。
「さすがに、もう疲れちゃったわね。耕介くんは?」
「まぁ」
「そうね。ずいぶん歩いたわね。それで、ずいぶんいろいろ考えた」
 そして「でも、まだ答えは出ないの」と言った。
「何の答えですか」僕は聞いた。
「耕介くんは、どう思う?」と彼女は顔を上げて、僕と視線をぴったり合わせた。
「遠距離恋愛なのよ、ずうっと。それで、わたしは浮気しちゃうわけ。いたたまれなくって、とっても寂くって、だから、誰かに慰めてもらいたかったの。そういう意味で、私は高島くんの説とは正反対なの。体の欲求じゃなくて、心の穿孔を満たしたくって」
「でも、それって」
「そうよ。完全な浮気ね。でも、そしたら、彼が戻ってきたとき、私はどうしたらいいのかしら。その答えが出ないの。こんなところまで歩いてきて、それでもまだ、迷ってる」
 彼女の目は潤んでいるように見えた。僕は何と答えればいいのだろう。わからなかった。だけど、あのラブホテルの前のような、恐怖に似た感情はなかった。これは当てつけではない、微妙に違うのだ、と僕は感じた。
 僕の気持ちはどうなのだ、と初めて自問した。僕は彼女の浮気相手になるつもりなのだろうか。僕は瑞樹さんのことをどう思っているのだろう。そんなこと、改めて確かめるまでもないのだ。本当はずっと以前から、恐らく、好きだったのだ。
 彼女の迷いを断ち切ることができるのは、多分僕の言葉だけなのだ。それなのに、今の僕にはまだ、勇気が足りなかった。
 僕たちの間には、昨日から数限りない沈黙が訪れている。しかし今のこの沈黙は、これまでと何かが違っていた。答えがわかっているのに足踏みをしているような、そんなもどかしさがあった。
 やがて、観覧車の向こう側から空が青くなってきた。
 彼女は立ち上がり、また、どこかへと歩き出した。


6.
 港が見下ろせるところまでくると、かすかに潮の匂いがした。
 薄暗い中に何隻もの船影が見えた。海鳥の声が聞こえて、これで汽笛でも鳴れば最高のシチュエーションと言ってもいい。
 視界は素晴らしく開けていた。いい景色だった。毎日学校への行き帰りを続けているだけでは、とてもこんなシーンには巡り会えない。高島先輩の旅行至上説も少しはわかる気がする。
 彼方には高層ビルの影が見える。しかし根本の部分はもやに包まれて、はっきりとは見えない。僕は目をこらして見つめてみた。
 すると、それがだんだんと、色を帯びてくるのがわかった。透明な青から、グレープフルーツジュースの色に。太陽が昇っているのだ。
 光の帯がもやの上を伝わってきた。密生したたんぽぽの綿の上に、薄黄色の帯がかけられたようだった。そして海はもっとはっきりした色できらめいた。
 僕はもう一度大きく見渡した。今度は湾の形がはっきりとわかる。遠くに橋が見えて、かすかな緑が見えて、そこに行き着くまでに数限りない流線が見えた。
 視界の隅で、逆光を受けながら一隻の船が入港してくるのが見えた。白い船体に一本赤いラインの入った船だ。足はかなり速いようだった。

 瑞樹さんは、やはり歩いていた。僕はその背中を追っている。今は港の中へと続く階段を降りている。これまでの時間と変わらない距離。しかし僕の中には、一つの決意が生まれようとしていた。
 僕たちの旅を終わらせる方法は、きっと一つしかないのだ。僕は彼女の体を後ろから抱きしめることを想像した。その腕の感触。彼女の髪の匂い。そうして僕は告げなくてはならない。本当の気持ちを。彼女のことを大切に思う気持ちを。
 僕は、今までよりもはっきりと、彼女の背中を見つめた。かかとのある靴、黒いズボン、白いシャツ。そこに透けて見えるキャミソールの肩ひも。さらに浮き出して見えるブラジャーの横線。少し猫背気味の背に細くしなやかな両腕。柔らかな肩。
 僕はこれまでよりも少し歩幅を大きくした。たったそれだけで、ほんの十歩か二十歩先には彼女を抱きしめることができる。
 僕は自分自身の覚悟を確かめた。手のひらを強く握りしめた。彼女は海に向けて歩いている。もしかしたらこのまま海に飛び込むつもりかもしれない。もし僕が抱き留めなければ、悲観したレミングみたいに泡と消えるのかもしれない。
 そうはさせない。彼女を人魚にはさせない。
 僕はまた力強く一歩を踏み出した。
『いくぞ』
『いくぞ』
 心の中で繰り返した。息づかいが荒くなっていた。

7.
 と、彼女が不意に足を止めた。
 一台のトラックが彼女の目の前を通り過ぎたのである。
 僕はそのタイミングで彼女に腕を伸ばそうとした。だが彼女はくるりと進路を変えた。そして僕の左腕を木の枝みたいに払いのけて、今度はトラックが向かったのと同じ方向に歩いていった。
 そこには、彼女に集中するあまり全く気づかなかったが、さっき階段の上で視界の隅に入ってきた、あの漁船が横付けされていた。近くでみると意外に大きかった。船の横にはトラックの他に十数名の漁師がいて、ベルトコンベアーのような機械が今まさに船の甲板に乗ったところだった。
 歓声が起こった。拍手が響いた。唐突ににぎやかになった。
 漁師たちが大漁に喜んでいる。しかしそんなことはどうでもいいのだ。
 彼女はどこだ? 彼女はどこへ行ってしまったんだ? もしかして、僕が見失った間に、海の底へ? それとも、あの船の延縄のなかへ?
 僕は漁師の群れに走り寄って、彼女の姿を探した。すると、いた。彼女は漁師たちに混じって、船を見上げていた。
「瑞樹さん!」僕は叫んだ。
 しかし届かなかった。彼女はピクリとも動かなかった。僕の周りだけ突然真空になったような錯覚を覚えた。
 瑞樹さんは何を見ているのだろうか。彼女はそれに一心不乱のあまり、僕の呼びかけに気づいてくれないのだ。僕は彼女の視線の先に目を滑らした。
 そこには、逆光の中でこちらを見下ろしている男がいた。瑞樹さんは顔を上げて、目を細めながら確かにその男のことを見ていた。
 男は白いタオルを頭に巻いていた。青いTシャツを肩までまくり上げて、その部分の隆々とした筋肉を露出していた。口の周りには濃いヒゲがあったが、眉の精悍さに不釣り合いな目元の幼さで、僕と大して年齢も変わらないように思えた。
 男の表情は、何か超然としたものだった。男も瑞樹さんを見つめていた。しかしそれでいて違うような感じがした。もっと遠い何かを眺めているような。
 そのうち、男は歩き出した。船の甲板から一直線に、瑞樹さんの元に歩いてくる。僕は身構えた。彼女を守らなければと思った。しかし体は動かなかった。僕の動きを制したのは何だったのだろうか、それはわからない。
 ただ、自分がここにいることが、とてつもなく場違いな気がしたのだ。

 次の瞬間、僕はあまりの事に言葉を失った。意識まで失いそうになった。
 広げた男の腕の中に、瑞樹さんは音もなく吸い込まれていったのである。
 彼女は男の胸の上に横顔を当てて、目をつぶっていた。それは本当に心地よさそうな表情だった。
 何が起こったのか、僕にはまるで理解できない。少なくとも意識の表層部分ではそうだった。それなのに、何かが、裏側を走り抜けている。足元に火がつけられたように、全身から汗がふき出してくる。とてもじっとしていられない。
 僕は腕を振り回してかかとを返した。そして走り出した。走って逃げた。
 何だ、これは。
 これは羞恥だ、と思った。この感情は羞恥なのだ。
 僕は、大きな勘違いをしていた。
 彼女の喋った言葉、一つ一つの中にキーワードは隠されていたのだ。僕はそれを耳にしながら、全てを自分の都合のいいようにつなげ変えていた。
 遠距離恋愛。誰が未来の彼女の話だと言った? 彼女はその辛さをあらかじめ知っていたようだったではないか。
 浮気。彼女の浮気相手は僕ではなかった。高島先輩が、彼こそが既に彼女の浮気相手だったのだ。
『一年ぐらいずっと音信不通になるの』
『地球の反対側ぐらい遠いのよ』
『借金なんかして私を困らせるようなことはないと思うの』
『船で行ったら、どのぐらいかかるかな』
 だから、彼女はマグロを食べなかったのではないのか。
 僕はなんて勘違い男でストーカーなんだ。
 景色が滲んで見えた。それでも僕は懸命に走った。早く、早く彼女の視界から消えなければ。これ以上情けない姿を見せられない。僕は階段をかけあがって、観覧車に向かって走った。近くに駅があるはずだ。
 とにかく早く帰りたい。玄関に鍵をかけて眠りたい。そしてしばらくは、もう家から外に出たくはない。明日も学校は休もう。その次も、きっと行かない。

8.
 小学生のときのことだ。
 ある日学校から帰って虫カゴを開けると、飼っていたカブトムシが動かなくなっていた。
 夏休みに友達同士で比べっこをしたときには、一番大きくて、力強くて、僕の自慢だった。しかし、僕は何かにつけて飽きっぽいところがあった。ものすごく欲しいものでも、手に入れてからは安心して放っぽらかしにしてしまうのだ。カゴのふたには蜘蛛の巣まではっていた。僕の怠惰の証明だった。
 そのときには、僕はまたいつものことで、何とも思わなかった。『また来年になれば』ぐらいに考えていた。片づけようと思って、ゴミ箱を片手にカブトムシを持ち上げたとき、僕はとんでもないものを目にしたのだ。
『スイカがたべたい』
 そこには確かに、そう書き残されていた。
 その夜、僕はすごく苦しんだ。自責と後悔の念が頭痛を引き起こすほどだった。カブトムシのことがかわいそうでかわいそうで、どうしようもなかった。
 翌日、僕は小遣いをはたいてスイカをまるまる一個買ってきて彼の墓に供えた。
 それが、父のちょっとしたシャレっ気による悪戯だったとわかるのは、随分と後になってのことだった。思えば、その頃から僕の反抗期は続いている気がする。

 そして僕は大学生になった。そして一人の女の子といい感じになった。そんなある日のこと、いつものように朝八時半、ドアを開けて外に出ると、いきなり大きな虫が飛び込んできた。
 それは、なんとカブトムシだった。しかもあの日を彷彿とさせるような立派なサイズだった。僕は早速授業をさぼって、虫カゴと腐葉土を購入してきた。そして彼をその中に招待した。
 僕にとってそれは、つらい過去を洗い流すための精算行為だった。償いだった。
 僕は彼の為にスイカを買ってきた。そして念願通り、彼に堪能して頂いた。
 僕も嬉しかった。
 あくる日も、僕はスイカを買ってきた。次の日も、その次の日も、夏が続く限り彼の為にスイカを買おうと思った。
 ところがあの日。あの女の子に告白された日だ。少し帰りが遅くなった僕は胸騒ぎがして、帰るなり虫カゴに飛びついた。すると、何ということだろう。予感は的中したのだ。
 彼はまたもや動かなくなっていた。僕は必死で呼びかけた。マッサージもした。しかし、彼は再び立ち上がることはなかった。
 翌日、腫れた目をこすりながら調べた本には、カブトムシにスイカなど水分の多いものを食べさせると長生きしない、と書いてあった。
 僕は彼の代わりに、残ったスイカを全部ミキサーで粉砕してスイカジュースにして飲んだ。そして当然のごとくお腹を壊した。見舞いに来た彼女に何を食べたか言えなくて、『おまえには関係ない』と言ったところで泣き出してしまって困った。
 さて、僕はこの経験から一つの教訓を導き出した。どんなに大切なものでも、愛すべきものでも、甘やかし過ぎはロクなことにならない。少しクールに接するぐらいでちょうどいいのだ。

9.
 今回のことで、僕はまた一つ、教訓を得た。
 親の借金の為にマグロ船に乗った男と結婚するような女からは招待状を受け取らない。


                    −了−

2005/11/30(Wed)13:45:43 公開 / 赤い人
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■作者からのメッセージ
 ラストまで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。
 結末で「おいおい」と思われた方、本当に純粋なラブストーリーを期待しておられた方、本当にすみませんでした。
 でも、最初からこのラストを書くつもりで、これを書きたい一心での長い前フリだったのです。台無しだと思われるかもしれませんが、全てをひっくり返すためにオモリをたくさん載せた感じです。
 どうかご容赦下さい。そして願わくば、次回作にもお付き合いいただけたら嬉しいです。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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