『凍笑』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:恋羽                

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 俺の中で、レンが目を覚ます。

 ―――ねえ、そろそろ僕を解き放って 

 そうか、そうだったな。このところ忙し過ぎて、お前の存在をすっかり忘れていた。悪いことをしたな。
 
 ―――ほら、早くこのドアを開けて

 わかったよ。少し待ってくれ。

 ―――よく、僕の声をきいていてね

 ああ、レン。お前の声をきいているよ。お前の優しい声を。

 ―――始めるよ、しっかり楽しんでね
 
 ―――これは僕の物語―――。





                    凍笑




 あるところに、やさしいやさしい少年がいました。少年のなまえはレンといいます。
 レンはいつもいつもわらっていました。あかるい朝も、くらい夜も。レンは笑顔を絶やすことはありませんでした。
 レンは二階のまどから外をながめています。いつもいつも。朝から夕方まで、ずっと。
 レンは生まれたときからずっと、おうちの外に出られませんでした。レンは病気なのです。外に出るとまわりの人にその病気がうつってしまうから、レンはいつもおうちのまどによりかかって、わらっています。
 レンにはおともだちがいません。おうちの人としかしゃべったことがありません。学校にもいけません。でもレンはわらっています。





 レンは雪の降る街の景色を眺めていた。レンは笑いながら、世界の全てを憎んでいた。
 世界は美しいから。全ては輝きに満ちているから。醜い自分が惨めになるから。レンは世界を呪っていた。
 泣くことのできない孤独な少年は、全身の痣を撫でながら、誰も愛してはくれない自分自身を抱きしめていた。




 レンはおうちの人になぐられます。マスクをして、ばいきんを見るみたいにつめたい目をしたおとうさんに、おかあさんに、おにいさんに、おねえさんに、なぐられます。
 おとうさんがなぐりながらいいます。

「なんで生きてるんだ? さっさと死ねよ」

 おかあさんがかみの毛を引っ張っていいます。

「あんたみたいなのにたべものをあげるなんて、もったいない」

 おにいさんがつばを吐きながらいいます。

「おまえのおかげでこっちゃあ、肩身がせまいんだよ」

 おねえさんがかおをあしで踏みながらいいます。

「ほんとさぁ、おねがいだから死んでくれない?」

 レンはわらいました。なぐられながら、けられながら、わらいました。みんながだいすきだから。自分のせいで、みんながかなしいきもちになっているのがわかるから。わらいました。
 かなしくて、さみしくて、それでもわらいました。




 あの頃、何を想っていた……? わからない。
 何も無い恐ろしく狭い部屋で、汚物だらけの悪臭の漂う部屋で、レンは何を考えていたんだろうか。本当に、レンが言うように、レンを足蹴にする家族達を愛していたのだろうか。それ以前に、レンを傷つける家族達は本当に、彼を愛していたのだろうか。醜い、汚い、そんな言葉が挨拶の様に使われる家庭に、本当に愛などというものが存在していたのだろうか。
 雪が降り、空は暗くなっていく。白の闇にレンが見る世界は染まり、レンは何を見つめるでもなく窓辺で微笑んでいた。乾き切った唇を裂き、血を滴らせながら、口元を曲げて。




 レンにはたのしみがありました。
 朝、学校にいくためにレンの家のまえをとおっていくおんなのこがいるのでした。
 おんなのこのなまえはわかりません。おんなのこの声もきこえません。かみの長いおんなのこでした。みつあみにしたかみの毛に、あかいリボンをいつもつけていました。黒いかみの毛がとてもきれいでした。レンはまいあさそのおんなのこを見ることがたのしみでした。
 でもレンはしっています。レンはこれから一生、あのおんなのことはなすことはできないのだと。レンはしっています。おんなのこも、きっとおうちの人たちみたいに自分のことをばかにするのだと。
 だからレンはそのおんなのこのすがたを、おうちのまどからそっと見つめています。



 レンには、自由などというものは与えられてはいなかった。
 物音一つ立てただけで殴られる。
 閉じ込められた部屋には内側にノブが無い。
 残飯と生ゴミが入り混じった食事以外、何も与えられない。教育も、情報も、言葉さえも。排泄の自由すら。
 家族達は彼に、それが当然なのだと教えていた。お前は病気なのだ、お前はどうせ死ぬのだと。お前は生まれてきてはならなかったのだと。
 そんな彼に唯一与えられた自由、それが縦横三十センチというところの小さな窓だった。その狭い視界の中に彼は世界を思い描き、美しさを感じ取った。アスファルトで塗り固められた彼の世界は、いつも彼の中で美しく咲き誇っていた。だからこそレンは自分自身を恥じ、世界を呪っていた。



 
 レンはくるしくなりました。レンはむねを押さえてぜえぜえとくるしそうにいきをします。くるしくてくるしくて、それでもわらっていました。
 おにいさんがいちどだけドアをあけました。でもレンをたすけようとはしないで、またドアをしめました。レンはわらいました。
 きっとびょうきがひどくなったのです。くるしくて、むねが熱くて、それでもレンはわらいました。
 だれもたすけてくれません。だれも。レンはわらいました。

 レンはわらって、死にました。







 ―――おわったよ、ごくろうさま

 ああ。ゆっくり寝るんだぞ、レン。

 心の中、レンは部屋の中へ入っていく。彼がその中へ完全に入ると、俺は心の中の扉を閉める。
 ふう、そう一息つくと俺は窓の外を眺める。……もう空が明け始めている。いつの間にかそんな時間になっていたらしい。

 レンは年に何度か、俺の中から現れて物語を語る。
 その行為に特に何の意味があるわけでもないのだろう。ただ彼は忘れてほしくはないのだと、俺はそう感じていた。自分がそこに存在し、確かに生きていたのだということを。
 レン……かつての俺の、俺という個体の主人格。
 レンという哀れな存在は、レンという悲しみに満ちた人生を閉じた。その瞬間から、俺が生まれたのだ。
 俺は家族達を一人一人殺していった。生きる為に。レンがあまりにも従順で一度として逆らおうとしなかった為か、彼らは病気で死んだ振りをしていた俺に隙を見せた。俺はレンがその時まで受けていた仕打ちを彼らに与え、そして殺した。ハンマーで殴り、ロープで締めた。ナイフで切りつけ、顔を蹴りつけた。
 彼らを殺した後、俺は漸く世界を知った。あらゆる物に初めて出会い、驚き、しかし笑わなかった。
 少年刑務所の中で、俺は学んだ。学ぶことの喜びを知り、しかし笑わなかった。
 八年間の刑期を終える頃には、なんとか社会生活を送れるまでに成長した。しかし笑わなかった。
 レンには名前が無かった。俺には戸籍が無かった。ならば何故レンは自分をレンと呼んだのだろう。……わからない。だが、彼はレンだった。
 レンは笑い続けていた。レンが死んだ時、俺という固体の中から笑顔というものが消え去った。レンは笑顔だったのかもしれない。
 ……明け始める世界を見つめる。背後でこぽこぽとコーヒーが沸いている。

 なあ、レン? お前は幸せだったのか?

 レンは答えない。
 俺はレンの眠る姿を想い、ふっと凍笑んだ。






          完

2005/11/06(Sun)12:08:52 公開 / 恋羽
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