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『idiom』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:*花束*
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「すべてを壊してくれればいいのにね」
高校受験当日を迎えた優花の頭のなかから、母親のこの言葉が離れることはなかった。
そう、母親の異常なほどまでの父親への愛情がはじめて優花の目前に現れた、小学四年生の秋からずっと。
母親のことなど考えている場合ではないのに。優花はそれを振りきるように、込み合う電車のなかでイディオムの参考書を荒々しく広げた。
***
じっとりと油のついたスナック菓子を軽快に咀嚼しながら、優花の母親である清香が、ぽつり、とつぶやいた。純粋な水に絵の具が落ちていくように、それはいくつもの余韻を残してひろがっていく。
「すべてを壊してくれればいいのに?」
と、優花がほんのすこし小首を傾げて尋ねると、清香はひっそりと微笑み、頷いた。その微笑みはどこか困っているようであって、けれどもどこかおもしろがっているような代物だった。
優花はスナック菓子の匂いのする息を吐きながら、さらに質問を重ねる。
「ねえ、ママ。どういう意味?」
「うーん、まだ優花にはむずかしいかなあ」
「あたしにはむずかしいの?」
油でぎとぎとになった指で優花は自分の胸についている名札に触れた。
「もうあたし、四年生になったよ。それでもむずかしい?」
「……そうねえ、優花ももう四年生だものねえ」
ガラステーブルに置いてあった濡れぶきんで軽く手をふいた清香は、たんすのうえに置いてある黒縁の写真立てに目をうつした。清香の視線の先には、優花の父親である和樹の笑顔が黒縁に閉じこめられている。視線の先にあるものに気付いた優花は、ぽってりとしたくちびるを舐め舐め清香に尋ねた。
「パパのこと?」
「そうよ。ママはね、パパがだいすきだったの」
「ふうん……」
「パパもママをだいすきだったし、あなたも生まれてしあわせだったわ」
「うん」
「だけどあなたがまだちいさいころ、パパが事故で死んじゃって大変だった」
落とすように清香はくちびるから音をつむぎ続ける。たすけてたすけてたすけてたすけて。幼い優花には、清香の言葉がすべて「たすけてたすけてたすけてたすけて」に聞こえていた。それほどまでに、痛々しい声と表情だった。
「ママはね、あのひとがすきだった。本当にすきだったのよ」
「うん」
「すきなひとを亡くしてね、ママはすこし壊れちゃったの」
「こわれちゃった?」
漂白剤の匂いのするふきんをぎゅうっと握り締めながら、優花はなかばくちをぽかりと開けながら、清香のすべてを必死に聞き取ろうとしていた。ちいさな優花のくちは、なにかを吸収したがっているようにもなにかを拒んでいるようにも見えて、清香はすこし視線を下げた。
「そう、すこしね。ごはん食べるのを忘れちゃったり、まだあかちゃんだったあなたが泣いているって言うのも気付かずにひとりだけさっさと寝入っちゃったりしたわ」
「ふうん」
「自分がそういう恐ろしいことをしていることに気付いたら、すごく怖くなった。どうして私は壊れちゃったんだろうって何度も思った。だけどね、いま考えたらちがったのよ」
「ちがう?」
「ちがったのよ。私は完璧に壊れてしまったんだって、あのときは思った。……でもね、すこししか壊れてなかったの。だって自分を恐れる気持ちがちゃんとあったんだもの」
優花のこころのなかを、難しい単語とやわらかだがつめたい清香の声音が、テトリスのようにどんどんと降り積もっていく。すべてを、支配していく。ゲームオーバーはいつ訪れるのだろうか。まだ、優花のこころのなかのテトリスの画面は始まったばかりだった。
「ママはね、パパのことをいまでもすきなの。だいすきよ。それなのに、私を残してあっちの世界に逝っちゃうなんてひどいよね。そんなことしたら、壊れるしかないじゃない」
「あたしもパパのこととママのこと、だいすき」
「……そうね、ありがとう。ママも優花のことだいすきよ」
「うん。あ、それで?」
「うーん、それでね、パパが死んでしまったときママは壊れてしまうと思った。だけどね、さっきも言ったとおり私はすこししか壊れていなかった。……自分では、すこししか壊れてないと思ってるんだけどね」
清香はそう言って、乾いた笑みをふうっと浮かべた。顔に表情を浮かべる清香とは対照的に、優花はなんの感情も読み取られない――ある種、狂っているほど――穏やかに表情を消していた。けれど、清香を見つめる優花の大きなひとみは、安っぽい蛍光灯をやわらかに反射しきらめいている。そのひとみに吸い込まれてしまいそうで、おのれを守るため、清香は自分の娘から視線をはずした。それがどのくらいずるいのか、ということさえも承知で清香は空虚を見つめ続ける。
「こんなふうに中途半端にママを壊していくのなら」
「?」
「すべてを壊してくれればいいのにね」
清香が発した言葉は、空気中を無意味にひどく震わせた。その言葉は、まだ幼い優花のこころを突き抜けてしまうほどに鋭かった。狂気じみた言葉と、恍惚ともとれる表情を優花に浴びせかけた清香は、からになったスナック菓子の袋を握り締めてごみ箱に放り投げる。ぱきゃぱきゃぱきゃ……ことん。
***
その日から、優花は清香とあまりくちをきかなくなった。しずかに音を立てて、清香の「優しい母親」という仮面が剥がれ落ちていくような気がした。仮面が剥がれ落ち、あらわれてきた顔は、異常な人間?
「……for example――たとえば、broken my heart――失恋」
目的地に降りついた優花は、電車のときも見ていた、イディオムの参考書から顔をあげた。もう一度、くりかえす。躓いてしまわないよう、ときどき下方に目を当てながら。
「broken my heart――失恋」
そうか、と、優花は澄み渡る朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。太陽のひかりを受けてきらきらとひかる水蒸気の粒が、つめたく肺に染みていく。
母は、失恋したのだ。もう手が届くことのない相手に対し、自分の恋が終わったことに気付いていないのだ。だからあんなにしあわせそうな顔をして「パパ」のことをしゃべるし、あんなにつらそうな顔をして「あたし」を見ていたのだ。「あたし」が「ママ」を異常な人間として見ていたのと同じように。ただ、それだけのことなのだ。
清香は本気ですべてを壊して欲しかったにちがいない。自分も、自分の娘も、自分からの「愛するひと」への気持ちも。すべてを壊して、めためたにして欲しかったに違いないのだ。
何年も清香と曖昧な暮らしを続けて、優花のあたまのなかにはひとつの答えがでた。高校受験のために使っていた、過去問題集を解いたときよりも頭がすっきりとしていた。
「broken my heart」
それに気付かないくらいの、すこし壊れかかった恋をしたい。優花は使いすぎてくたくたになった参考書を鞄にしまった。
受験当日、だれでも抱く緊張感はもう、優花のこころには存在していなかった。結果はどうであれ、すべてをやり遂げられるという自信に満ちあふれていた。
そして、清香の気持ちをぜんぶは理解できないにしても、優花は心に決めていた。今日の受験を精一杯やり遂げて、何年もこころからの気持ちで言ったことはなかった「ただいま」を、清香のひとみを見て言おう、と。
broken my heart
優花のこころのなかのテトリスは、いまだにゲームオーバーは訪れない。
試験会場へつづく道は、あきれるくらいに単純で、まばゆいばかりにきらめいていた。
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2005/10/30(Sun)17:12:32 公開 / *花束*
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■作者からのメッセージ
初めまして、花束と申します。この作品が初投稿なもので、使い勝手がよくわからずにいました。どこかおかしくなっていたりしたら申し訳ありません。また、あまり小説を書いたことのない未熟者です。次作、投稿するときはもっと精進して参ります。読んでくださって、本当にありがとうございました。
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