『白猫の唄 十三曲目』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:水芭蕉猫
あらすじ・作品紹介
同性愛者の猫耳少年と、色々大変な男の話。※非常にネガティヴな表現が含まれております。気分が悪くなったら即座に読むのを中止する事をお勧めします。
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黒猫が死んだ。
俺のことを世界で唯一愛してくれた黒猫が死んだ。
耳付きの身に生まれ、生まれる前から既に母から見捨てられることが確定済みだった俺を、唯一愛してくれた黒猫は、もうこの世に居ない。
そのことが信じられなくて、信じたくなくて、一人ぼっちでこんな静かな部屋に居たくなくて、黒猫と一緒に住んでいたあの家を飛び出した俺は、電気で光る明るい街の中をぼんやりと歩いていた。
既に時刻は深夜を回り、それでも眠らない夜の街は、都会らしい毒々しい明るさを放っていた。
帽子を被るのを忘れていたからか、すれ違う人々が俺の頭にピンと立った白い耳をじろじろ見る。誰かが耳付きだといったのが聞こえた。普段言われると睨みつけるか何かするけれど、今日は無視した。
見たければ勝手に見ろ。蔑みたければ蔑めば良い。笑いたけれぼ笑えば良い。
そんな投げやりな気持ちで、明るい街を一人当て所無く、ただぼんやりと何時間もぐるぐると歩いていると、人気の無い通りで呼び止められ、肩を叩かれた。
警察とか、そんなんだったら噛み付いて逃げ出してやろうかと思ったけれど、そこに居たのは、四十前後のおっさんだった。
おっさんの頭に耳は無い。サラリーマンぽい真面目そうな人で、こんな時間だと言うのに酒の臭いは感じなかった。
「何だよ」
睨みつけつつそういうと、そのおっさんはにんまりと笑って指を三本立てて俺の顔の前に出した。
「三万でどう?」
その晩、俺は黒猫以外にも俺を『必要として』くれる人が居るのを知った。
ほんの一晩限りだけれど、たった一晩だけでも、誰かに『必要とされる』のはとても嬉しかった。けれど、『愛』してはもらえないんだね。
黒猫が恋しいと思った。
○ ○ ○
『耳付き』と言うのは、そのまま犬や猫、兎等の動物のような耳が頭に付いた人間のことである。
何十年も前に起こった戦争で使われた毒ガスの副作用とも、環境ホルモンのせいとも言われているが、その真相は定かではないらしい。極まれにだが、ある時期から突然生まれ始めた本当の意味での突然変異。
解っているのは『耳付き』は大抵が生まれながらに『同性愛者』であること。それ以外の身体的な問題は耳が付く以外は他に無い。理由は良く覚えていないが、側頭葉の中にある性衝動を司る部分だけが、何らかの変異を起こし、本来、生物的に求めるはずの異性を求めず同性を求め始める。獣の耳は、胎児であるときにその脳の変異に耐え切れず、結果、奇形としてランダムに動物のような耳が出来る……とか何とか聞いたことがある。
耳は脳や太い血管等の重要器官と組織が複雑に絡み合い、切除は非常に難しいそうだ。
随分前に会社のテレビで見た、そんな曖昧な解説を思い出しつつ、俺は目の前に居る白い猫の耳を頭にくっつけた少年をまじまじと見た。
溜まりに溜まった仕事を片付けるための残業残業で、夜も十一時を回った頃、ようやく仕事にも一区切りが付き、ようやく帰り路についた時だ。
繁華街は夜でも明るく、そこかしこにケバケバしいネオンの明かりを光らせている。酔っ払ったオヤジが肩を組みつつ、次はどこへ行こうかと居酒屋を梯子する計画を立てている。道端にたむろしている見た目にもあまり良い印象を受けない不良たちに、風俗の客引きをやる連中。それらを尻目に足早に歩いていると、突然背中をトントンと軽く叩かれた。
立ち止まって振り向くと、そこに居たのは白い猫の耳を、茶色の髪からピンと飛び出させた高校生ぐらいの少年だった。
耳を含まない身長は俺より頭一つ分ぐらい下で、服装は少しばかりよれた黒いパーカーを着ている。ズボンはジーパンで、靴はスニーカーといった、どこでも居そうな格好の普通の少年だ。いや、少しだけ顔は良いかもしれない。
何か用かと尋ねると、猫耳少年はにこりと笑った。そして、軽薄そうな口調でこう言った。
「お兄さん一晩猫買わない? 女買うよりずっと安いよ。どんな要求も応えるし、すんごいサービスするよ。どう? お得だと思わない?」
「いや、遠慮しておくよ」
俺はあからさまに嫌そうな表情をわざと浮かべて、断った。
こういう場所を夜にあるくと、こういうことがよくあるのを俺は知っている。それが女だったり男だったりすることはまちまちだが。
そして踵を返して足早に歩き始めると、猫耳少年は後から付いてくる。
「遠慮しなくて良いよ。もしかして男相手にするの敬遠してる? 大丈夫大丈夫、男も女も大して変わらないし、俺病気持ってないし。一晩の過ちだと思えばなんとも無いって」
彼がそこまで言ったところで、くるりと彼に向き直ると、静かな声で言った。
「いらない。これ以上しつこいと警察に行くよ」
猫耳少年は、あっそう。とふてくされたような詰まらなさそうな声で言うと、
「解った解った。だから警察は勘弁してよ。引き止めて悪かったね。ばいばい」
そして、愛想笑いのような笑みを浮かべてチカチカ光るネオンの街へと戻っていった。
安いアパートの狭い部屋は暗く、しぃんと静まっていた。
蛍光灯から垂れ下がった紐を引っ張ると、びぃんびぃーんとハチの羽音のような唸り声があがり、二、三度明滅してからようやく部屋を照らした。
散らかった様子が嫌いなので、部屋はそれなりに綺麗にしている。
背広を脱いでハンガーに突っかけて、衣装掛けにかけると、座卓テーブルの傍に置いてある座椅子にどっかりと座った。
背もたれに体重をかけて、大きなため息を一つつく。そして目を瞑った。
一人になると、どうしても気分が滅入る。
仕事中は忙しさにかまけて思い出せないのに、一人になると途端脳裏に忍び寄ってくる恋人の姿。
先日同棲していた彼女が自殺した。
近所の公園の公衆トイレで、ビニール紐で首を括って自殺した。遺書にはただ一言、疲れました。ごめんなさい。その一言だけ。
自宅ではなく、近所の公衆トイレで自殺したのは、この部屋で自殺すると俺に迷惑をかけると思ったかららしい。今更迷惑も何もないだろうに。
彼女の手首には何度も何度も剃刀で切り裂いた跡があり、精神科へ通っていたことやオーバードーズを何度もしていたところから、警察も早々に自殺として彼女の死を処理してしまった。
貴方のせいじゃないよ。と、誰かが言った。しかし、彼女の死はまぎれも無く俺が彼女を守れなかった証拠だと思う。いや、守れなかったのではなく、俺自身も彼女を守るのに疲れて、放棄してしまった結果だ。
あの日、彼女は俺に対して会社に行かないでと訴えた。
俺は、仕事なんだから仕方ないだろうと引き止める彼女を置いて出かけた。
強烈な自己嫌悪。守れなかった罪悪感。守れもしないのに守ると言ってしまった自分は最悪的な偽善の塊な気がして、吐き気がする。
ズクンズクンという酷い頭痛にテーブルに突っ伏して頭を抱えた。
急な動悸にはぁはぁと荒い息をつきながら、座卓の上に常備しているカッターナイフを手にとって、彼女の幻影を追い出すように自分の左手首に押し当てて何度も切った。
酷い痛みと腱を刃先が掠める嫌な感覚に鳥肌が立って、俺はようやくカッターを止めた。
手首からは血液が滴り落ち、テーブルの上に赤く滴り落ちた。
ぱっくりと開いた手首からは真っ赤な肉と所々に黄色い脂肪が覗いていて、とろとろした血液が太い糸のように溢れていた。独特の鉄のような臭いが鼻を突き、流れる血をぼんやりと見つめて、ようやく俺は落ち着いた。
近頃、こうして自傷をしないと落ち着かない。彼女もそうだった。今なら、彼女の気持ちが解る気がする。
守るべきものはもう居ないのに、なんて皮肉な話だ。
適当な止血を施して、その晩は酒を煽ってさっさと寝た。
翌日もまた夜十一時過ぎまで会社に残るハメになってしまった。
彼女の死に打ちひしがれている間、俺の仕事は随分と溜まってしまったらしい。少しは同僚の関根が片付けてくれたらしいが、それでも数日は残業の連続になりそうで気が滅入った。しかし、仕事をしている間は彼女の幻影に悩まされることは無い。そういう意味で、今の状況と言うのは大変有難いものだといえよう。
程よくヘロヘロになった体を引きずって、昨日と同じ通り、同じネオン街を歩いていると、昨日と同じ猫耳少年が辺りをうろうろしていた。
きょろきょろと辺りを見回しているので、何をしているのかと思って見ていると、通りかかった薄らハゲの酔っ払いに声をかけていた。酔っ払いの足元はしっかりしているが、遠くからでも顔が真っ赤なのがよく解る。
酔っ払いが何かを言うと、猫耳少年は指を二本立てた。おそらく値段交渉か何かだと思う。案の定そうだったらしく、二人は二言三言声を交わすと、おっさんが猫耳少年の肩に手を回した。そしてそのままきらびやかな大通りから人気の無い裏路地へと消えていった。
少年が裏路地へ消える一瞬、目が会った気がしたが、気のせいだったらしい。
何故か、その後姿が目に焼きついた。
夢を見た。
何故それが夢だとわかったかと言うと、夢見られている自分を夢見る自分が傍から見ていたから。夢を見ている自分は時折夢見られている自分と重なって、その視線を共有した。こんなことが出来るのは夢しかありえないし、だから夢だと判断した。
夢は彼女の夢で、座椅子に座った彼女は一人、テーブルの上に突っ伏していた。すぐ傍には、背広姿の俺が居る。
伸ばした彼女の左腕の手首には、まだ乾ききっていない血液が、ねっとりとこびりついていた。
また切ったのかい?
夢見られている俺が聞くが、彼女は何も言わない。
ただ黙って、テーブルに顔を埋めて、動かなかった。
夢見られている俺は、彼女の傍に近寄って、ほったらかしになっている手首に止血を施した。既に餅状に固まった血液をガーゼで拭き取り消毒し、上を包帯で巻いた。
こんなことがもう何日も続いたのを、夢見ている俺は知っている。
手を取って止血している間も、彼女はテーブルに顔を埋めたまま微動だにしなかった。
どうしてこんなことばかりするんだい?
彼女は何も言わない。
包帯を巻き終える。何も言わない彼女の背中をぎゅっと抱きしめようとすると、場面が変わった。
そこは何処かの家のリビングで、俺が抱きしめたのは、小さな少年だった。
少年は、フローリングの上に正座して、恐怖に怯えた顔をして、萎縮したように震えていた。
男の子の目の前には、怒った顔をした男が竹刀を持って立っていた。
男は、何事かを喚いて少年を竹刀で殴った。
肉を叩く音がして、少年が倒れこんだ。
やめろと叫んで少年の前に立ちふさがったのに、振り下ろされた竹刀はするりと擦り抜けて、倒れこんだ少年の腰にぶち当たった。瞬間、俺と少年が重なって、腰に鋭い痛みが走った。
父さんごめんなさい父さんごめんなさい父さんごめんなさい父さんごめんなさい父さんごめんなさい父さんごめんなさい父さんごめんなさい父さんごめんなさい。
口が勝手に動いて、涙が勝手にあふれ出す。泣きながら、何度も何度もそういう。
言うたびに、何度も何度も叩かれる。
お前のような出来損ないは耳付きと一緒だ。耳付きの方がまだマシだ。このカマ野郎。女々しく泣きやがって。耳付きは耳付きらしい場所に居ろ。
首根っこを掴まれて、泣き喚く俺を裏庭へ続くドアへ引きづって、そこで着ているものをすべて脱げと言われた。
冬で、外は雪が沢山降ってて、とても寒くて、でも断ったら何をされるのか解ってて、言うとおりにしても何されるか解ってて、鼻を啜りながらちらりと父さんを見上げると、やっぱり凄く怒ってて、じっと見下ろしていた。恐怖にカチカチと震える手で、上着を脱いで、シャツを脱いだ。それからズボンを脱いで、もう一度父さんを見上げた。
おずおずと見上げると、父さんはまだ怒ってて、着ているものを全て脱げと言ったのが解らないのかと怒鳴った。
ビクンと肩が震えて、まだ身に着けていたパンツと靴下も脱いだ。
また泣きそうになったけれど、泣いたらまた怒られるから泣かないように我慢した。
我慢してじっと待っていると、戸が開かれて、雪と冷たい風が部屋の中へ入ってきて、素肌を嘗める冬の寒さに鳥肌が立った。
父さんごめんなさい。
言うと同時に凍てつく外へと放り出されて、ピシャリと戸が閉ざされた。そして、ガチャリと中から鍵が閉められる音。
外は真っ暗で、空からは激しく雪が降り積もっていた。足の裏はすぐに冷たくなって、次第に痛くなる。玄関もきっと鍵が閉められているし、この格好で誰かに助けを求めるのは恥ずかしくて出来ない。何より、そんなことして父さんにばれたらどうしようという恐怖が先にたってしまって、とても助けなんて求められない。だから、閉められてしまった戸を懸命に叩いて父さんを呼んだ。
父さん、父さん開けてよー。
どん、どん、どん。
寒いよ、死んじゃうよ。
どん、どん、どん。
お願いだから中にいれてよー。
どん、どん、どん。
いい子にするから。ぼく頑張るから。お願いだから中に入れてよ。父さんの言うみたいないい子になるから許してよ。父さんごめんなさい。父さんごめんなさい。
叩く戸が僅かずつ歪んでゆく。ぐんにゃりと歪んで、黒い渦に吸い込まれていくような気分に陥りパニックを起こして暴れた。意識が沈んでゆく中で、俺は確かに彼女の声を聞いた。
アナタはムリョクなのよ。
汗びっしょりで目を覚ました。
パジャマ代わりのシャツは皮膚にベッタリと張り付いて、髪の毛は気持ち悪いぐらいに濡れていた。荒い息をついて上半身を起き上がらせて、ゆっくりあたりを見回した。
何時もの部屋。何時もの布団。何時もの天井。何時もの壁。何時もの窓。空は呆れ返るぐらいの快晴で雲ひとつ無いいい天気。カラスが一羽飛んで言った。
枕際に置いた、アナログの目覚まし時計が指す時刻、は朝の六時三分前を指していて、今も秒針を刻み続けている。
両手で顔を覆うと、切りすぎてケロイド状になった手首が瞳に移った。医者も、もう一生元に戻らないであろうと言い切った、気持ちの悪い凸凹の皮膚。
俺は一体何をしているんだろう?
○ ○ ○
会社へ行って、仕事して、家に帰って、たまに切って、寝て、また会社へ行って、それを何度か繰り返したある日のこと。
白い猫の耳をしたあの少年のことも忘れかけ始めたその晩。俺はまた夜遅くまで会社に残り、帰る頃には新記録なのではないかと思うほどの時刻を指していた。
商店街を通り抜け、喧騒から程遠い、人っ子一人いない、静まり返った公園を背景にした暗い夜道の街頭の下、白い猫の耳はよく目立っていた。猫耳少年は一人ぼっちで夜空を見上げていた。
夜空は雲ひとつ無い快晴で、大きくて悲しいぐらい綺麗な月がひとつ、ぽかりと闇に浮かんでいた。
猫の耳をした少年は、月に向かって静かに歌っていた。それは俺の知らない国の言葉の歌だった。
綺麗で透き通った声で、たった一人で歌っていた。ただ、その歌声はどこか酷く寂しそうなのだ。
「こんな時間に何してんだ?」
なんだかいたたまれなくなって声をかけると、白い猫の耳をした少年は、びくりと肩を震わせた。歌うのを止めるとおそるおそると俺に顔を向けた。
「早く家に帰ったほうがいいぞ」
ほんの少しだけ近づいてそう言う。
俺が無理矢理彼を警察に連れて行こうとか、説得しようとかいう気が無いのに気づいたのか、猫耳少年は、少しだけ肩の力を抜いて、また夜空を見上げた。そして少しだけ目を細めたように見えた。
「お兄さんには関係無いでしょ」
猫耳少年がそう言う。俺も夜空を見上げた。
「帰りたくない事情でもあるのか?」
そう尋ねても、彼は何も言わなかった。
俺は一つため息をつくと、諦めてさっさと帰ろうと猫耳少年の脇を通り抜けようとしたそのとき、猫耳少年が俺の背広の裾をぎゅ、と掴んだ。
なんだと後ろを振り返ると、そこには一番最初に出会ったときのような、なんとも軽薄そうな笑顔を浮かべた彼が居た。
「一晩泊めてくんない? お礼に何でもするからさ」
背広を脱ぎ捨て、シャツと短パンに着替えると、座椅子に座って久しぶりにテレビをつけた。手首の傷跡を隠している蒼と白のストライプ模様のリストバンドは、外すかどうか迷ったが、結局つけておくことにした。
テレビはどこの局も放送が終っていて、何度もチャンネルをかえてようやくかかったのは変なバラエティー番組で、如何にも頭の悪そうなアイドルが、スケベ顔の司会者に問題を出され答えたが、その答えは間違っていた。
間違った回答を答えたアイドルが、とろとろした口調で言い訳にもならない言い訳をした瞬間、辺りからどっと吹き出す笑い声。
テレビを消すと、バツンという音を鳴らして画面が黒くなる。
ほうっておくわけにも行かず、つれて帰った猫耳少年は、今シャワーを浴びている。
彼は自分の名前を『白猫』と名乗った。
本当の名前を名乗って欲しいと、なるべく穏便な口調で促してみても、彼は頑として答えずに俺の名前は『白猫』だと言い張り続けたので、仕方なく白猫と呼ぶことにした。
何故家に帰らないのか、どうしてあんな場所に居たのか、何故自分を売る行為をしているのか、聞きたいことは山ほどあったが、人には他人に理解出来ない事情が沢山あることを俺は知っている。だから、あえて聞かなかった。何も聞かずに、ただ家に上げた。上げた早々白猫がシャワーを浴びたいと言い出したので浴室の場所を教え、着替えは俺の服を適当に貸してやった。
何もせずにしばらくぼんやりしていると、浴室から白猫が上る音が聞こえ、振り返るとそこに居たのは肩にバスタオルをつっかけただけの見事に素っ裸の白猫だった。腰にタオルすら巻きつけていない。
「お前服着てから上れよ。貸してやっただろうが」
半ば呆れて言ってやると、白猫は不思議そうな顔をした。
「何で? やることやるんだから服なんて邪魔じゃん。それとも何? 服着たままのプレイが好きとか? やだお兄さんマニアック」
やだお兄さんマニアックの部分で、どこぞのアニメのヒロインように白猫が両手をクロスさせて無い胸を隠し、声を出して笑った。
「お前なぁ……」
何だかずきずき痛んできたこめかみを抑えつつ、とりあえず服だけは着て来いと言ってやると、言葉に反して傍に寄ってきた白猫は、四つんばいにしゃがみこみ、ナメクジの交尾でも見るような目つきで俺の顔を覗き込んだ。そのしぐさは何だかホンモノの猫のようだと思う。
「このまんまで良いじゃん。面倒くさいし、眠いからさっさと終らせよ」
それで、何をするかと思いきや、いきなり俺の股座に顔を埋めてきた。そのままファスナーを器用に口でくわえて下ろそうとする。
「おいこらちょっと待て」
慌てて肩を両手で掴んで顔を上げさせると、白猫はきょとんとした顔つきで首をかしげた。
「何でさ」
俺はため息を一つつくと、白猫をまっすぐに見据えて言った。
「俺は、こういうことをする気は無いしさせる気も無い」
「だから何でって。したいから俺を連れてきたんじゃないの? それとも俺が男だからやる気失せたとか? それとももしやお兄さんってば不能とか?」
にまりと笑った白猫に若干イラつきを覚えつつも、極めて冷静に対処する。
「男だからとか女だからとかは関係ない。兎に角、そういうことはする気無いからさっさと着替えてとっとと寝ろ」
きっぱりと言うと、白猫は変なの。とつまらなさそうに呟くと、案外素直に俺から離れて洗面所に置きっぱなしになっていた、彼には少し大きい服にようやっと着替え始めた。
やれやれとため息をついて壁にかかった時計を見ると、時刻は既に深夜の二時を回っていた。
あああ、明日も仕事なのに。
愛してるならどうして殺してくれないの?
生前、彼女は幾度もこう聞いた。
その度に、俺は彼女に向かって愛しているから殺せないんだよと言う。
今思えば、彼女は敏感に察していたのかも知れない。
俺が、半ば彼女に同情心から付き合っていたと言うことに――。
彼女は虐待された子供だった。
俺も虐待された子供だった。
俺は親父の死と、社会に出て働くということで、それを過去のものとして封印することに成功した。
しかし、彼女はどんなに歳月を重ねて、両親から離れたとしても呪縛からとかれることはなかった。
それでも同じ境遇なら、同じ境遇だからこそ、彼女を守れると思っていた。
暗闇の底から、いつか救い出せるのではないだろうかと考えていた。
しかし、それは大きな間違いで、俺は彼女を次第にもてあますようになっていった。毎日のように手首を切りつけ、大量の薬を飲み込み、かといって入院は嫌がり続ける彼女に対し、苦痛を感じるようになっていた。やがて、俺が会社に行こうとすると、縋りついて傍に居てと泣く彼女から、半ば逃げ出すように会社へ行く日々が続くようになる。そして、結局俺は彼女を守りきれずに死なせてしまった。
別れを切り出すことも、面と向き合うことも出来ずに、ただ逃げ続けていた結果がコレだ。
今更後悔してももう遅い。彼女はこの世にもう居ない。
彼女が死んだ日、テーブルの上に彼女がよく使っていたカッターナイフが目に入った。
無意識のうちにそれを取り、刃を出して手首に押し当てた。
つぅっと冷たい感触と、皮一枚だけが裂け、珠のような血液が浮かび上がった瞬間、なんだか許されたような気がした。
『愛してるならどうして殺してくれないの?』
俺は、あの時君を殺してあげれば良かったのか?
寝不足だった。
頭上で五月蝿く鳴り響く目覚まし時計を止めて上半身を起こすと、隣の布団では白猫が未だに気持ちよさそうに爆睡していた。その布団は生前彼女が使っていた布団で、押入れの奥にしまっていたものだが、白猫の為に引っ張り出した。
「別に同じ布団でも俺は構わないけど」
白猫はしゃあしゃあとそう言った。
座椅子を伸ばして寝かせるという手もあったのだが、どうやら白猫はそんな場所で寝る気はサラサラないらしく、だから一緒に同じ布団で寝るのも俺が何だか嫌だし、かと言ってこっちが連れてきてしまったのだから、その辺で寝ろと冷たく言うのも何だか気が引けて、仕方なく布団を敷いてやった。
白猫が布団に入って、俺も自分の布団に寝て毛布を被ると、隣で寝転がっている白猫と目が合った。白猫はニタリと笑うと、
「俺が寝ててもムラっと来たら好きにしていいから」
そんなことを言ってきたので、するかバカと返して白猫に背を向けた。
白猫はしばらく寝転がったまま起きていたようだが、俺は眠気に勝てずにそのまま眠ってしまった。
そして今に至る。
よくあんな五月蝿い中寝てられるなぁと感心しながら、伸びをして起き上がると、寝巻き姿のまま座椅子に座ってしばらくぼんやりする。朝飯は昔から食わない。彼女も朝飯は食わない体質だったから、作る必要は無い。寝ている間に低下してしまった体温と血圧が上昇するまでしばらく待ってから、ようやく行動を始める。
歯を磨いて顔を洗って便所に行って背広に着替え、リストバンドがしっかり手首に巻きついているか確認すると、もう出社する時間になっていた。
そこではたと止まり、まだ寝ている白猫には何か作ってやるべきかと考えて、やっぱり面倒くさいので棚からコーンフレークを出してテーブルに置いた、冷蔵庫の中は好きに食えと言う書置きと、少し迷って千円札を一枚テーブルに置いた。
白猫は未だに爆睡しているらしい。
まったくよく寝てられるもんだ。
半ば呆れつつ、あくびを噛み殺しながら会社へ急ぐ。
今日はうす曇りの空。
ああ、嫌な天気だ。
そんなことを思いながら、会社への道を歩く。
○ ○ ○
その日、家に帰ると部屋の鍵が開いていて、白猫は既に居なくなっていた。
布団も起きたときのままで、流しに使った形跡のあるの皿が水に漬かっていた。冷蔵庫の中の牛乳と、コーンフレークがほんの少し減っていただけで、他になくなったものは何も無かった。置いていった千円札もそのまま残っていた。
カーテンが開きっぱなしの暗い窓の外で、ざぁと雨が降る音が聞こえた。
○ ○ ○
学校の帰り道、白い子猫を拾った。
俺は蒼い雨傘をさして、雨の降りしきる小道を歩いていた。
所々がひび割れたアスファルトは黒く濡れて、所々に大小の水溜りを作っていた。空も太陽が届かないぐらい分厚い雲がどっしりと覆いかぶさって、昼とは思えないほどに真っ暗だった。あんまり暗いものだからか、街頭がぽつりぽつりと灯っていたことは今でも覚えている。
友達の少なかった俺は、黒いランドセルを背負って、誰も居ない道を一人っきりで歩いていた。何を考えながら歩いていたのかは覚えていない。
ただ、長靴を履いた足で水溜りを見つけては蹴り飛ばしながら歩いていた。
その時、にゅーという小さい声が聞こえた。
あたりを見回すと、電気が切れかけているのか明滅を繰り返す街灯の下に、蓋の閉じたダンボールが、山盛りのゴミと一緒に雨に濡れながら置いてあるのを見つけた。近寄ってみると、またにゅーという鳴き声が聞こえた。
中を開けてみると、入っていたのは白い子猫だった。
にゅー。
猫は鳴いた。
病気なのか、猫の目には目ヤニがこびりついていて、がりがりにやせ細った体はアバラ骨が浮き出て見えた。ダンボールは既に雨で湿りきっていて、中まで雨水が浸透している。ダンボールの底にはタオルもエサも書置きもなく、白い子猫がたった一匹だけ詰め込まれ、ゴミにまみれていた。
俺は傘を置くと、雨に打たれながらその猫をダンボールから両手で抱き上げた。
にゅー。
冷たい雨の中で抱き上げた白猫は、とても暖かかった。
俺は白猫を家につれて帰った。
父さんも母さんも、嫌な顔はしたけれど、元居た場所に戻して来いとは言わなかったので、バスタオルで濡れた白猫の体を拭いてから濡れたティッシュで目やにを取った、電子レンジで暖めて少し冷ました牛乳を皿にいれて与えてやると、白猫はぴちゃぴちゃと少し飲んでから、俺の顔を見てにぃと鳴いた。
なんだかそれが嬉しくて、俺はその日、白猫を抱いて眠った。とても暖かかった。
○ ○ ○
雨の降りしきる繁華街へ戻っていた。
背広は着たまま。黒い雨傘をさして、雨に煙る色とりどりの明かりの中、どこへ行ったかもわからない白猫を探して歩いていた。
もしかしたら自分の家に帰っているかもしれないし、もう誰か別の人間を見つけて何処かへいってしまったかもしれない。この繁華街には既にいないかもしれないし、居たとしてもすれ違いになる可能性だってある。
それでも、俺は白猫を探す。
電飾で光る大通りを歩き回り、その時々にある小さな細道に入って回り、時折不良グループに睨まれ迂回したり、風俗の客引きに腕を引っ張られたりしながらも白猫を探す。雨が降っているからか、外を歩いている人は少なかった。
歩く人より車が多い。
クラクション、アイドリング、水溜りを跳ね飛ばす音。
突然飛び出してきた車に轢かれそうになり、慌てて身をかわすと、かわりに泥水をズボンにひっかけられた。
やかましい繁華街の中を、ぐるぐると白い耳を探して歩き回る。
探し始めて随分と時間が経った気がするが、白猫は見つからない。雨は未だに降り続いている。ざぁという雨の音。
携帯の時計を見ると、時刻は既に深夜の二時を回っていた。
自分は何をやっているんだろう。
たった一晩家に泊めたぐらいで、見ず知らずの赤の他人に、何をこんなに心配してるんだろうか?
彼女の幻影と白猫を重ね合わせているのだろうか?
それとも幼い頃拾った白い猫のことを思い出したからだろうか?
馬鹿馬鹿しい。
昔のことを思い出して嫌な気分になった俺は、踵を返した。
どこかから聞こえるクラクションの音。雨でも駆け回る暴走族の乗るエンジンの唸り声。明るいネオンの光。何もかもが俺を嫌な気持ちにさせる。
そして、嫌な気分そのままで、家に帰る。
○ ○ ○
白猫を拾った翌日のこと。学校から帰ると白猫はどこにも居なかった。
学校へ行く前に、白猫はちゃんと部屋に居て、俺のベッドで丸まって寝ていたはずだ。
母さんに聞いても、知らないの一点張りで、ソファの下や机の下。台所や風呂場など、家中を探し回って、今はもう忘れてしまった白猫の名前を呼んでみた。途方にくれていたそのとき、父さんが仕事から帰ってきたので聞いてみると、父さんは笑って言った。
「大事な猫なら目を離しちゃダメじゃないか」
白猫は冷凍庫の中に入っていた。
真っ白な毛並みは薄く霜が降りていて、凍った体は拾ったあの日の雨以上に冷たくて、薄く開いた瞳はどこを見ているのか解らない。かちかちに固まった尻尾はぴんと伸びたままで、半開きの口からはピンク色の舌が覗いている。もう白猫は鳴いたりしない。
「お前がちゃんと見てないから悪いんだぞ」
父さんがそう言った。
俺は凍った猫をぎゅっと抱きしめた。
暖かな部屋で抱きしめた白猫は、とても冷たかった。
○ ○ ○
座椅子に座り、テレビでバラエティ番組を見ながらビールを飲んでいる。
たまりに溜まっていた仕事をようやくひと段落させた、ささやかな祝杯だ。
ツマミには冷蔵庫に入っていた賞味期限ぎりぎりの豆腐にめんつゆと鰹節をかけたものをちびりちびりと食べている。
相変わらず彼女の幻影やら昔の記憶には苛まれているものの、これと言って辛いことが他にないのが幸いだ。衝動的に手首を切りつける事象は残っているものの、なんだかもう癖とかライフワークで片付けても問題ないように思えている。
どうせ心配する人間なんて居ないのだ。なら何をしてもいいじゃないか。
そういえば、白猫が勝手に出て行って一週間も経つが、帰り道で白猫を見かけたことは無かった。夜道をふらふらして補導員に捕まえられなきゃ良いとは思うが、家に帰らなくて良いのだろうかとか親御さんはどう思っているのだろうとかは全く考えない自分はどうかしていると思う。
なんだかまたネガティブな思考になってきたので、慌てて頭を切り替えると、豆腐のうまみとビールの苦味、それからテレビの喧騒に意識を集中させようとした時、不意に玄関チャイムの音が聞こえた。
今は夜の十一時。まったくこんな時間に誰なんだと思いつつ、手に持っていたビールをテーブルに置いて座椅子から重たい腰を持ち上げる。
扉を開けると、そこに居たのは猫の耳をくっつけた高校生ぐらいの少年だった。
白猫はにっこり笑んで、
「来ちゃった」
片手をあげて、明るい声で白猫が言う。
「何か用?」
自分でも驚くほどぶっきらぼうな声だったが、白猫は全く気にしないように、どこか楽しそうに言う。
「うん。良かったら今晩泊めてもらえないかなーと思ってさ」
突然やってきたくせに、あまりに虫のいい話に俺はため息をつく。
「はぁ? そんな虫の良い話があるかよ。人ん家に泊まるよりさっさと家に帰れよ」
そう白猫に言ってやると、白猫はさも残念そうに、あー、うん。と言葉を濁した。
「だよね。やっぱり。うん突然来て悪かったね。じゃ、おやすみ」
やけにあっさりそう言うと、白猫は踵を返してそのまま去ろうとする。
扉を閉めようとした瞬間、白猫の足取りがどこかおかしいことに気がついた。別にふらついているとか足を引きずっているとか言うわけではない。足を怪我している様子も無いし、酔っ払っている風でもない。それでも、何かがおかしかった。突然このまま返してはいけないような気がして、慌てて扉を開きなおし、白猫を呼び止める。
「白猫!」
白猫は立ち止まる。
立ち止まって、振り返る。
「何?」
その表情は、何かの懸念を忘れさせるぐらい元気そうな笑顔だった。
白猫を家に上げて、押入れから座布団を引っ張り出すと自分の座椅子の隣に座布団を置く。
自分は早々に座椅子にどっかり腰掛けると、残っていたビールを飲んだ。
白猫は座布団に座らずに、座布団の傍に立っていた。何もいわないし、何かを要求したいわけでもなさそうだが、困った顔をしながら座りたさそうにそわそわして座布団と俺を交互に眺めている。
「座らないのか?」
ビールの缶を右手で持ち、左手で座布団を指差してやると、白猫は苦笑する。
「座れないんだよ。ちょっと切れちゃっててさ」
一瞬よく解らなかったが、すぐに理解した。だから歩き方がおかしかったのか。ビール缶をまたテーブルに置くと、バスタオルを二、三枚風呂場から持ってくると、重ねて座布団の上にドーナツ状にして置いてやる。すると、ようやく白猫はのろのろと座布団に座った。
「大丈夫なのか?」
再び俺は座椅子に戻ると、テレビを見ながら聞いた。白猫は笑いながら答える。
「大丈夫大丈夫。結構何時ものことだし慣れてるからさ」
「そうか」
短く言って、残ったビールをまたちびりとやってテレビを眺めていると、白猫が不思議そうな顔をしてこちらを見ているのに気がついた。
「なんだよ」
あまりじっと見つめてくるのでそう聞くと、白猫は言う。
「いや、何か聞かないの? 何で自分の家に来たんだとか親はどうしたとかさ。前泊まったときも思ってたけど、普通そういうこと聞くんじゃないの?」
確かに普通は聞くかもしれない。が、
「聞いたって泊めることに変わりないだろ。聞いてほしいなら聞くが」
そういうと、白猫は言葉に詰まった。俺は白猫の頭に手を置く。それから、わしりと一撫でする。
「まぁ、あんまし無理はするなよ。あと病気に気をつけろ」
子ども扱いするなと怒られるかと思ったが、なかなかどうして素直に白猫は撫でられていた。
その後、腹減ってないかと聞くと白猫は何もいらないと言ったので、俺は自分の豆腐とビールを平らげてから、歯を磨きもせずそのまま布団を敷いて寝巻きに着替えて電気を消した。もちろんまた彼女の布団を引っ張り出して。
白猫は、俺の服を貸してやると、堂々と着替えればいいものを隅でこそこそと着替えていた。何かあるのだろうが、あまり問い詰める気にはなれなかった。
すぐに睡魔はやってきて、眠りに落ちる直前に、暗闇の中で隣の布団に寝ている白猫が声をかけてきた。
「ねぇ、そっち行っても良い?」
既に半分眠っている俺は、白猫の言葉の意味も解らないまま生返事をする。
ごそごそと音がして、暖かいものが体に触れてきた。
それがなんだか心地よくて、ぎゅうっと抱きしめる。
何となく、小さいころに拾った子猫を思い出した。
○ ○ ○
もしも白猫が虐待されてて両親から逃げているんだとしたら、もしそれが理由で家に帰れないのだとしたら、あるいはもっと複雑な理由で家に帰りたくないのだとしたら、もしも親に対して恐怖を抱いているのだとしたら。だから知らない人の家にいきなり訪ねてきたりしているのならば。そう考えると、家に帰れだとか両親はどう思ってるのかだとか、何で家に来たんだとか、軽々しく尋ねられるはず無いではないか。
ねぇ、私のこと守ってね。
彼女の声が聞こえた気がした。
もちろん守り続けるよ。
頭の中で俺が返す。
約束よ。
彼女の声。
解ってるよ。
俺の声。
うそつき! 守れもしないくせに守るなんて軽々しく言わないで!!
ヒステリックな叫び声。
暗転。
○ ○ ○
目覚めたとき、自分の布団の中に白猫が居て驚いた。
上半身を起き上がらせ、勝手に入るなよと文句を言いつつ、こちらに背を向けて寝ている白猫を揺り起こそうと彼の肩に手をかけたとき、妙な事に気づいた。
それは、病気特有の匂いとでも言うべきか、独特の感覚と言うべきか。誰かを看病しているとき、必ずと言っていいほど病人から発せられるオーラとでも言うのか。
肩にかけた手を放すと、そっと白猫の額に手を当ててみる。
たったそれだけで解るような酷い高熱だった。
よく観察してみると、呼吸もやや荒いように感じる。顔を覗き込むと、血色が悪く青白い。
額から手を放してそっと布団を抜け出た俺は、白猫に布団をかけなおし、隣に敷いてあった掛け布団もその上にかけると、白猫が目を覚ました。
「大丈夫か?」
頭の傍に屈んで顔を覗き込むと、白猫は小さく頷いてから平気。と言う。そしてそのまま起き上がろうとした。
「バカ。寝とけ」
肩に手を置いて静止させると、白猫は空元気が丸出しの、具合の悪そうな顔で笑った。
「全然平気だよ」
そしてまた起き上がろうとする。俺もまた白猫の肩に手を置いて止めた。
「ダメだ。横になってろ」
強く言うと、それ以上白猫が抗うことは無かった。布団に横になったまま、白猫は口を尖らせる。
「大丈夫だって言ってるのに」
口調は元気そうなのに、顔色はこれ以上ないぐらいに悪い。
俺は頭をガシガシと掻いてため息をついた。
「俺が大丈夫そうに見えないからダメだ」
ため息をつきながら言うと、白猫はまた笑った。
「何それ。変なの」
「変で良いよ。だから大人しくしてろ。氷枕作ってくる」
何がだからなのか自分でもよく解らないが、そう言い残すと俺は立ち上がる。
「気使わなくていいよ」
白猫がそう言ったが、無視した。台所へ行くと、彼女が居た頃からあまり使わないものを適当に突っ込んでおいた棚を開け、中にあった埃まみれの氷枕の箱をだす。
入っていた固いゴム製の肌色をした平たい袋を引っ張り出すと、端についている金具を外して、中に水を入れて穴が開いてないかどうか確認し、冷凍庫を開けて氷をざらざらと流し込んだ。
もう一度金具をしっかり取り付け、白いバスタオルにくるんで白猫の元へ戻る。
今使っている枕の代わりに氷枕を敷くと、白猫は気持ちよさそうに目を細めた。
「気使わなくていいのに」
「別に使ってるわけじゃない」
わずかな沈黙。
「仕事行かなくていいの?」
「土曜は休みだ」
「……そう」
「とりあえず、よくなるまで寝てろ。それまで家に居ていいから。それとも何か食うか?」
そこまで言ってから、そう言えば家には食材と呼べる食材がほとんど無いことを思い出した。彼女が亡くなってからと言うもの、食事らしい食事なんて数えるほどしかなかったし、腹が減ったということを自覚する事もあまり無かった気がする。
朝は食わない、昼はコンビニ弁当かカップ麺。夜は酒とつまみが少しとか、そんな生活ばかりしていたから、冷蔵庫には賞味期限ギリギリの漬物とか、そんなものしか入ってなかったと思う。
確か薬類も向精神薬系以外はほとんど切らしていたはずだから、後で買ってこなきゃなぁ等と思っていると、白猫はふるふると小さく首を振った。
「いらない。食べたくない」
でも、食べなきゃ直るもんも直らないぞ。
俺がそう言おうとして口を開きかけたとき、白猫はもぞもぞと左手を布団から出して俺に差し伸べた。そして、何やら戸惑いがちに白猫は言った。
「あのさ……その代わり手握ってて欲しい」
隣に座り手を握ると、白猫はわずかに握り返してきた。
白猫の手は俺よりも一回り小さくて、少し冷たくて、しっとりと湿っていた。
「寝ないのか?」
そう聞くと、白猫は眠くないと言ってまた小さく笑った。それから、
「子供っぽいって思う?」
そう尋ねてきたので、俺は「少し」と返し、でも、と続ける。
「別にいいんじゃないか? 子供っぽくても」
その後に続く、まだ子供なんだからと言う言葉は、とりあえず飲み込んでおいた。
白猫は笑う。先ほどから笑ってばかりだった。
「お兄さんやっさしー」
「ほっとけ」
他愛も無いやりとり。
「そういえば、お兄さんはなんで俺のこと家に入れたの?」
この質問に、俺は何と言うか少し迷った。すぐ言おうとして躊躇い、頭で整理し、しばし考えてから、口にする。
「解らん」
この答えは、間違っていないと思う。グダグダと言い訳をするならば、昔の彼女と重ねたとか、小さいころに拾った猫と重ねたとか、色々あると思うのだが、本当に本当のところは自分でもよく解らない。
白猫は、ふぅんと頷いた。それから、
「俺もここ来た理由よく解んないんだよね」
そういった白猫は天井を見た。白猫の手は、まだ俺の手をしっかり握っているし、彼が眠る気配もない。ただ、黙ってベージュ色の天井を眺めていた。
しばしの時間がながれる。
カチ、カチ、カチ、というアナログの時計の音と、白猫の呼吸音。耳に響くような沈黙の音。それに耐え切れなくなった俺は口を開いた。
「そういえば、前出て行った後どうしてたんだ?」
それは、少しばかり気がかりだったことの一つだ。一度でも家に帰っていたのならそれで良いし、適当なところで寝泊りしていてもそれはそれで良かった。
白猫は天井から俺の方向を見て、しばし困ったように黙り込んだ。俺は小さく息をつく。
「答えたくないなら答えなくても良い。別に無理矢理聞き出そうとか思ってないから」
そう言うと、「ん〜……」と白猫は唸った。
「出てった後ねぇ……」
白猫は、言うか言うまいか迷っているようだった。しかし、そう重要そうではない。迷っているというよりは、焦らしている。そんな感じの迷い方。
やがて、そう幾分もしないうちに白猫は楽しそうに口を開く。
「二日くらいぶらぶらした後で四日くらい監禁されてたかな」
「は?」
その口調は、まるでコンビニにメシでも買いに行ってたかのような、そっけない口調だった。あまりのそっけなさと事の重大さに、思わず声を出してしまったほどだ。
白猫はそんな俺に構わずに、「聞いてよ!」と話し出す。
「それが引っ掛けた人がこれがもー大失敗でさー。若っぽいの三人くらい居たんだけど全部下手だし痛いしキモいし最悪だよ最悪!!」
思い出して腹が立ってきたのか、白猫は病人とは思えない口調で言いながら俺の手を握っていないほうの手でバンと布団を叩いた。
「まぁさ、こっちも何でもやるって言ったから縛りとか目隠しとか浣腸とかその他諸々とかは別に許すよ? きったないもんでもしゃぶってやるし飲めって言われたら小便だって飲んでやったし裂けて死ぬほど痛いのも我慢してやるさ。何でもするって言っちゃったんだしさ」
そう言って、白猫は楽しそうに笑った。自虐的でも、悲観的でもない、純粋に、酷く楽しそうな笑みを浮かべている。
俺は絶句している。
白猫は笑っている。笑顔で辛さを鈍化させようとしているようで、それがかえって痛々しい。
「もういい」
解ったからもう言わなくていい。俺は短く言った。その声は、情けない事に震えているのが自分でも解る。
しかし、興奮したような白猫の言葉は続く。
「電極突っ込まれてバリバリされんのもベルトでぶん殴られんのも、目の前で排泄させられんのもそういう嗜好の奴だって思えば別に苦しくないし、どうだって構わないんだよね。でもさ」
「いいから! もう言わなくていい」
言った直後、白猫の口から発せられた言葉に、俺は息が詰まった。
その後一呼吸つくと、白猫は疲れたのか、一言寝るといって数分後には本当に寝てしまった。
俺は、白猫が寝ている間に買い物に行こうかと思ったが、止めた。止めて、ほどけかけた白猫の手を、ぎゅっと握り直した。
その言葉はきっと、どんな責め苦よりも、白猫にとっては辛かったのだと思う。
そいつらは、汚れて床に転がった白猫の上に、幾ばくかの札をばら撒きながら言ったという。
『やっぱり男なんて女とは全然違うな。コレじゃ女代わりにもならねぇ。買って損した』
大事な猫なら放しちゃダメじゃないか。
大事かどうかはわからない。
お前がちゃんと見てないから悪いんだぞ。
全くもってその通りだ。
今更後悔したところでもう遅い。
ならこれからどうすれば良いのか?
窓の外の空を眺めながら考える。
握った手。
寝返りを打った首もとに、ちらりと見えたいくつもの薄い鬱血の痕。
探ればもっとあるだろう。
腕の中の凍った子猫。
眠る白猫。
守れなかった彼女の影。
考える。
日が暮れ、窓の外が暗くなり始めたとき、ようやく白猫は目を覚ました。
額に手を当てると、まだ微熱っぽいが、朝と比べると随分と熱が下がっていたし、顔色も随分とよくなったように思える。
良かったな。と言ってやると、
「じゃあ、そろそろもう出てくよ」
そう言って布団から出て行こうとした。
「ちょっと待て」
自然な動きで出て行こうとするのを慌てて留めると、白猫は少し不服そうな顔で「何?」と聞いてくる。どうやらもう寝ているのは嫌らしい。
俺はまたため息をついた。気を取り直して、
「詳しいことは聞かない。別にどうこうさせようとかも思ってない。だから、はいかいいえで答えてくれればそれでいい」
向き直り、白猫に尋ねる。
「出て行ってどこか行く当てはあるのか?」
白猫をまっすぐ見て聞くと、白猫は横に首を振った。
「家にはやっぱり帰らないのか?」
何を言ってるのかとでも言いたそうに、白猫は頷いた。
「まだ動くのは辛いか?」
白猫は僅かに眉を寄せ、猫の耳をひくりと動かし、戸惑いがちに小さく頷いた。
俺は言う。
「ならしばらく家に居ればいい」
白猫は驚いたように目を見開いた。そして、おずおずと言うのがぴったりなように尋ねてくる。
「いいの……?」
急に気恥ずかしくなった俺は、ふとまっすぐ見上げてくる白猫から目をそらした。
「別に。俺も一人暮らしだし。布団も二枚あるし」
「俺、ホモだよ?」
「いざと言うときは自分で回避できる」
ついでに年下に食われるほど弱くはないと言う言葉は飲み込む。
「ほんとにいいの?」
心配そうにもう一度白猫が聞いてくる。
「いいよ」
「ありがと……」
白猫は恥ずかしそうに布団で顔を隠して言った。
ふっと自分の表情が緩むのを自覚した途端、不意に頭をよぎった言葉。
守れもしないのに軽々しく守るなんて言わないで。
反射的に、言い訳を考えていた。
ああ――。
○ ○ ○
同僚の関根と言う奴は、俺の高校時代からの数少ない友人で、彼女が亡くなってしばらく仕事が出来ない状態だったとき、自分の仕事をこなした上で更に俺の仕事まで片付けてくれた素晴らしき友だ。
高校時代はよく馬鹿話をしたり、学校サボってどこかで遊びまわったり、何故か自転車で遠く離れた海まで行ってみたりした。砂浜をチャリで走れるかどうか試してみて、転んで砂まみれになったあの頃が懐かしい。
彼女が出来てからも、関根とはよくつるんだ。彼女がオーバードーズで潰れて短期入院になった日の夜等は、落ち込んだ俺を飲みに連れて行ってくれたこともある。
こいつが居なかったら、俺はまず間違いなく仕事に潰されていただろうし、こいつが居たからこそ今俺が生きているんだと思う。それ程俺にとっては大切な友だ。
彼女が死んでしばらくは、関根は俺をそっとしておいてくれた。それは彼なりの優しさだったのだろうし、俺もそれで良かったと思う。話しかけられても、まともな返事等殆どできなかったと思うから――。人が死ぬと、これ程までに落ち込むとは、自分でも初めて知った。
会社を休んでいるとき、頭が一杯になって、自分でもわけの解らぬままズタズタに切ってしまった。それから、ほぼ毎日切り続け、ようやく精神状態が回復して出社するとき、その傷跡を隠すためリストバンドを着けて会社に行った。しかし、俺は切ったことを後悔してはいなかった。切らなかったら、きっともっと落ち込んでいたはずだ。それこそ、妄想に押しつぶされてしまう程に――。
とても社員に優しい会社だったので、クビにならなかったのが嬉しい。
関根も喜んでくれて、その晩は久しぶりに二人で飲みに行こうという話しになったのを覚えている。
多少は関根が片付けてくれたが、休んでいる間に溜まりに溜まり、山積みになった仕事に唖然とし、黙々と仕事をこなした後に行った小さな居酒屋で、焼いたアジの開きを突きつつ、ほろ酔い加減で昔語りなんかをしていたとき、ふいに関根は俺の左手首のリストバンドを指差して、オシャレにでも目覚めたのか? と笑ってきた。
他の社員だったら多分、そうそうとか笑って答えていたと思うが、俺は関根になら話してもいいかと思い、関根に切った経緯と手首の傷を見せてしまった。
関根の顔色はガラリと変わり、店の中であるにも関わらず、俺の頬を拳で殴った。
途端に、店の中は騒ぎに溢れた。
衝撃で床に倒れた俺に跨り、更に殴ってこようとする関根を誰かが止めていた。
酔っていたせいもあるのか、俺の記憶はそこで途切れている。
翌日、俺はちゃんと家に帰っていて、座椅子の上で寝ていたから、きっと丸く収まったのだろうと思う。頬はジンジンと熱く、鏡を見ると多少腫れてはいたが、大したものではなかったので会社に行くことにした。
背広に着替え、携帯をポケットへ入れようとしたとき、メールが来ているのに気づいた。
それは関根からのもので、内容はこんなものだった。
『昨日は悪かった。お前がリスカしたと思ったら、急に頭に血が上って殴ってた。本当に悪いと思ってる。ごめん。でも、何故そんなことをしたんだ? 俺には理解出来ないよ。彼女が死んで、辛いのは解る。辛い時は誰だって、やさしい言葉をかけてもらいたいことはある。しかし、それを乗り越えてこそじゃないのか? 頑張ってもっと強くなれ!! 俺も応援してるから早く昔のお前に戻ってくれ』
もっと強くなれ……か。
強くなれればどんなに良いだろう。乗り越えられればどんなに良いだろう。頑張れればどんなに良いだろう。
こうしないと頭がおかしくなりそうで、こうしないと何も乗り越えることができなくなりそうで、こうしないと自分が物凄く許せなくて、こうしないと自分が生きていて良い価値が見出せなくて――。どんなに止めようとしても、頭の中に沢山の事が浮かび上がると、半ば発作的に切り刻んでしまう。
こう思ってしまう俺は、きっと弱い人間だ。
弱くて弱くて、どうしようもないぐらい弱いのだろう。自己嫌悪に吐き気がした。
震える手で、弁解のメールを書いて、消して、嘘のメールを書いて、また消して、なんどもそれを繰り返し、結局、メールの返信は出来なかった。
会社へ行っても、関根は後からはもう何も言及してくることは無かった。
俺も、リストバンドの下を見せることは、もうしなかった。
それから二人で飲みに行ったり話しをしたりする事はめっきりと減った。相談事をすることも、どこかへ遊びにいったりする事も無くなった。
それでも関根は俺にとっては一番大切な友達だ。
○ ○ ○
白猫が居なくなって二日目。
一緒に暮らすことになった白猫は、薬を飲むまでも無く、一日眠っただけで見事に回復を遂げた。
「昔から回復力だけは凄いんだよね」
そう言って白猫は笑った。彼は、本当に良く笑う。まるで、悩み事が全く無いような気さえする。
日曜日は、白猫は大事を取って部屋で寝かせ、俺は近所のコンビニで、レトルト食品と弁当と、白猫の歯ブラシを買ってきた。
すぐ近所のコンビニだったので、そう時間はかかっていない。コンビニから帰ると、寝かせていたはずの白猫は座布団に座ってテレビを見ていた。
「ただいま」というと、「おかえり」と白猫はこちらを向いて微笑んだ。
「寝て無くていいのか?」
そう聞くと、
「もう眠くないし体調もいいから寝たくない」
という返事が返ってきた。
あまり寝てろ寝てろとしつこく言うのも何なので、それ以上は何も言わずに座椅子の前のテーブルの上にコンビニの袋を置くと、白猫は袋の中身を見て言った。
「全部で幾らしたの?」
そう聞いてきたので、バカ正直に二千円と答えると、白猫の「フェラ一回のお値段だね」という言葉に、笑いとかの意味ではなく噴出してしまった。
「サラリと下ネタかますなよ……」
ため息をつきながらそう言うと、白猫は、だってそうだしぃとまた笑う。風俗に行った事が無いので二千円という値段が高いのか安いのかは知らないが、好ましいことでないのは確かな事。
一旦弁当やら何やらを台所においてくると、上着を脱いで座椅子に座って、二人で詰まらないトーク番組を見ていた。しばらく黙っていると、白猫が四つん這いになって俺の腕に額をぴったりとつけてくる。その仕草はまるで猫が甘えているようで、ゴロゴロとのどを鳴らす音まで聞こえてきそうだ。
どうしていいか解らなかったので放っておくと、服をツンツンと引っ張ってきたので、テレビから目を離して白猫を見た。
「何だよ?」
そう尋ねると、白猫は目を細めて、
「お礼する」
そう言って俺の手を取って、甲に口づけた。それから人差し指を口に含み、白猫の柔らかい舌が指に絡まる感触がした。その表情は、恍惚としたとでも表現できそうな表情だ。
白い猫の耳をぺたりと頭に寝かせ、うっとりとした表情で俺の指先に舌を絡めつつも、時折甘噛みする。ほっそりとした眉に華奢な体つき、到底女には見えないが、そこはかとない白猫の艶やかさと艶かしさに、指先だというのに思わずフェラチオをされているような感覚に陥った。
ちゅっと吸い上げてきたところで、俺は手を放させた。
「やめろよ」
白猫は、訳がわからないとでも言いたげに首をかしげた。
「どうして? 指先が気に食わなかった? それとも、やっぱり俺が男だか――」
「そういうことじゃない」
俺は白猫の言葉の途中で遮った。
「お礼なんて、いらない。お礼してほしいわけじゃない」
きっぱりとそう言った。
白猫は、何か釈然としない様子だったが、解ったと頷いた。それから、また笑う。
「んじゃお礼が欲しくなったら言ってよ。俺なんでもしちゃうからさっ」
それから、白猫は俺に数秒抱きついてから離れた。女の子に抱きつかれたらドキっとするのだろうが、白猫に抱きつかれてもそういう気分にはならなかった。
白猫が、二日ほど出かけます。という書置きを残して出て行ったのは、翌日の早朝のこと。白猫は、俺が眠っているそのうちに、まるで猫のように音も無く出て行った。
俺は白猫を探そうかと思ったが、今回は二日で帰るという書置きを残しているのだから、待っててやるべきだという結論を下した。
もしかしたら、何か用を思い出したのかもしれない。
突然人の家に住み始めるというのだから、保険証やら着替えの服も必要だし、もっと大切なものでも思い出したのだろうと、そう思い込むことに決めた。
会社帰りに繁華街を通るときは、一応白い猫の耳がちょろちょろしていないか周りを確かめつつ、白猫を待ち続けた。
待つというのは、とても体力が居ることなのだと初めて知った。何時帰ってくるんだろうとか、本当に大丈夫なのだろうとか、気づけばそんなことばかりを考えているのだ。
白猫が居ない間に、二度手首を切った。強く切らずに、浮かび上がった血が珠になる程度だ。ケロイド状に爛れた皮膚は、既に感覚がおかしくなっているので、もう痛みもあまり感じなかった。
白猫が出て行って二日目の夜十一時を回った。
あと一時間。
十二時を過ぎたら探しにいこう。
そう心に決めて、テレビも酒もやらずに、座椅子に座り、ただ時計だけを眺めて白猫を待ち続けた。
白猫が帰ってきたのは十一時の十五分を回った頃。
玄関チャイムが鳴ったので、扉を開けると、そこには笑みを浮かべ、A四サイズの本が数冊はいるぐらいの肩掛け鞄を持った白猫が立っていた。
「ただいま!」
軽い敬礼のポーズで話す元気な声に、安心しすぎた俺の腰は今にも抜けそうになって、その場にヘロヘロと座り込みそうな感覚に陥った。
「いままで何処に行ってたんだよ」
少し嫌味がましく言ってやると、白猫はへへーっと笑い、口元に人差し指を当てて秘密と言った。それから、
「あー、何かとっても疲れちゃったよ。さっさと寝よ寝よ」
そう言って、家の中に入ろうとする。しかし、その足取りがまたおかしい。前より酷くなっているように感じる。頼りない足取り。ひょこひょこと、傷を隠しているような、そんな歩き方。
不意に不安になり、靴を脱いでいた白猫の肩を掴んで、つい問い詰める。
「お前本当に何処に行ってたんだよ」
すると白猫は、肩にかけた黒い鞄の中から、くしゃくしゃの一万円札を三枚出して俺に差し出した。
「はいこれ。お金必要でしょ」
突きつけられる金と、白猫の笑顔。その瞬間、何故かツンっと鼻の奥が痛くなったような気がした。
「いらない」
反射的に、声が出ていた。
「どうして? 受け取ってよ」
ぐいっと、三枚の万札を俺の手に押し付けてきた。反射的に手を引っ込め、逆に万札ごと白猫の手を握る。
「いらない。金にはまだ困ってない」
まったく困っていないわけではない。しかし、今白猫からこの金を受け取る気には、どうしてもなれなかった。これを受け取ったら、一気に何かが崩れてしまいそうな気がしたから。
白猫は、不服そうに俺の顔を見る。
「どうしてさ? 金なんてあって越したこと無じゃん! 俺が汚いから受け取れないの!?」
半ば怒鳴るように、白猫が言った。その言葉を聞いて、半ば確信する。
「そういうわけじゃない」
手を握ったまま、自分の今言おうとしていることを思い、リストバンドの下の傷跡を思い出して一瞬とまどった。しかし、それをすぐに追い出して、諭すように、静かに言う。
「白猫は汚くない。でも、心や体を傷つけてまで持ってきた金は受け取れない」
僅かに首を振ると、白猫は一瞬目を細め、また怒ったように言った。
「だから何でだよ!? 金があれば何でも買えるんだよ? それこそ臓器だって命だって! 別にガキ出来るわけでもないし、俺は傷ついてないし誰にも迷惑かけてない! 何で黙って貰わないんだよ!」
真っ直ぐに俺を見返してくる白猫に、それが彼の本心であるという事に気づいた。握った手を振り放そうとする白猫の手が離れないように強く握り、静かに言い返す。
「そういう問題じゃないんだ! 俺は、白猫の体が目的でもないし、金が目的でもない。それに白猫には傷ついて欲しくも自分を傷つけてほしくないとも思ってる。家に住まわせて何かをさせようとか、そう言う事も思ってない。これは本当だ。信じてくれるかは解らないけど、少なくとも俺が何かを言うまでは何もしなくて良い。だから、この金は受け取れない」
そう言うと、白猫はまた不服そうに言った。
「わけわかんねぇよ」
しかし、手の中に握った手に、力がなくなっている。
「解らなくて良い。でも、もう勝手に居なくなるな。心配する」
そういうと、白猫は僅かにうつむいた。耳がへたりと垂れている。俺は握っていたようやく手を離すと、白猫の頭に手を置いて軽く撫でた。それから、背中を軽く叩いて部屋へと促す。
「寝よう。疲れただろ」
白猫は、何も言わず、ただ素直に小さく頷いた。
翌日、俺が会社から帰ると、テーブルの上に少しコゲかけた不恰好な卵焼きと、冷蔵庫の中に余っていたような気がするベーコンとキャベツを、適当にフライパンで焼いただけのような野菜炒めが置いてあった。
主食には、冷蔵庫の中に入れておいたレトルトの白米がそのまま置いてある。
「おかえり」
座布団には既に白猫が座っていて、帰ってきた俺に向かって恥ずかしそうに言った。だから俺も、
「ただいま」
そう言った。
背広から部屋着に着替えて戻ってくると、座椅子に座ってテーブルに並べられたそれらを見る。
「白猫が作ったのか?」
「うん。冷蔵庫にあったやつで作った」
白猫からの素っ気無い返事。
きっと、俺がいない間に沢山迷ったのだろう。きっと、どういう風にすれば俺が喜ぶか、どういうふうにすれば礼になるか、白猫なりに考えたのだと思う。根拠は無いが、何とはなしにそう思った。
いただきますと入って、箸でしなしなのキャベツを摘まんで口へ運ぶ。
白猫がじっとこちらを見つめていた。まるで、俺の反応を見ているようだ。
咀嚼して飲み込む。
「おいしい」
そう言うと、白猫は「無理しなくていいよ」と言ってうつむいた。
「料理下手だし……」
確かに、上手な料理とはお世辞にも言えないだろう。しかし、
「そんな事無いさ。久しぶりにメシらしいメシ食えるよ。白猫のおかげだ。ありがとう」
少し大袈裟に言うと、白猫はようやく笑った。そして、白猫も箸を取って卵焼きを一口食べる。
「うん、中々おいしいじゃん!」
二人して、おいしいおいしいといいながら食べる。
卵焼きはコゲているし、ベーコンも賞味期限が二日ほど切れていたはずだし、キャベツも新鮮さが無くなってしなしなで、ご飯はレトルト食品だし、コンビニで買った弁当の方が明らかに味は上だと思う夕食だったけれども、何故か、今まで食べたどの弁当よりも美味しいと感じた。
○ ○ ○
白猫は座布団に寝転がって本を見ている。
その本は、白猫が自分の家から持ってきたものらしい。
白猫が帰ってきたあの日、白猫は留守にしていた二日間の間に、一度家に戻ったのだと言った。持ってきたものは、写真集が二冊と、下着の着替えが数枚。それと、数十万単位は確実にあるであろう現金。それを、黒い肩掛け鞄に詰めて持ってきた。不思議な事に、保険証や通帳など、大切そうなものは何一つ持ってきていないようだ。
「親は何か言ってたか?」
白猫の様子を伺いながら尋ねてみると、白猫は小さく首を振った。
「俺、親居ないんだよね。育ての親が居たけどもう死んだし」
何でもなさそうに言う白猫。とっさにごめん。と謝ると同時に、今現在白猫を酷い目にあわせるような人物が居なくて良かったと思う。
白猫はやっぱり笑う。
「いいよ別に。謝らなくても」
その笑顔は、何だか沢山のことを我慢しているような笑みに見える。例えば、悲しいとか寂しいとか、そういう感情。我慢しなくても良い。そう言おうとしたが、白猫の何かを覆い隠している笑顔が、それ以上何も言うなと言っているようで、言えなかった。
座布団に肘を突き、ページを捲る白猫の見ている写真集の表紙には、俺の知らない文字でタイトルが書かれていた。
おそらく外国のもので、日本で手に入れるのは難しい本だと思う。
嬉々として写真を眺める白猫の横から、その本の中身をのぞき見てみると、様々な写真が載せられていた。
車に轢かれて腸の一部や袋状の何かが腹あたりからはみ出しているヒトの写真や、頭をカチ割られて目玉と脳漿が飛び出ているヒトの写真、バスルームだろうか? 全身が滅多刺しにされて背中に包丁が刺さったまま血まみれで倒れているヒトの写真。要するに、白猫が見ているのは死体の写真集と言うわけだ。
顔をしかめて写真から目をそらすと、白猫はそんな俺を見て笑った。
「根性無し」
「ほっとけ。というか、よくそんなの見れるな」
半ば嫌味で言ってやると、白猫は予想に反して俺から写真に目を戻す。
「ん〜? いやさ、こういうの見てるとさ、何か落ち着くんだよね」
ぱら、ぱら、と写真集を捲る細い白猫の指。そこに写されているのは、様々な形で亡くなった人達。
「ほら、俺だけが変じゃないのが解るっていうかさ……」
写真集の一番最後のページで、白猫の指がピタリと止まった。
「……白猫?」
写真集の一番最後の写真は、生きている人間と死んだヒトが交わっている写真だった。
白猫は、その写真を数秒眺めてから、静かに本を閉じた。
○ ○ ○
久しぶりに彼女の夢を見た。
部屋の真ん中に立ち、彼女は俺を見て笑っていた。
手にはカッターナイフを持ち、笑いながら自分の手首を切りつけていた。血液が溢れ、流れ落ちる。
ダメだ!
そう叫んで、カッターナイフを持つ彼女の腕を押さえようとした。しかし、彼女は笑いながら物凄い力でもがき、俺の手を振り切って何度も何度も自分を傷つける。
ダメだ! やめてくれ!!
大きな声で言いながら、ナイフの刃を掴んで無理矢理止めさせると、彼女は虚ろな笑みを顔に浮かべて、悲しみに押しつぶされてしまったような目を俺に向けて言うのだ。
『私って、やっぱりおかしいよね。だって、こうしないと落ち着かないもの』
そうやって、クスクスと笑うのだ。
ナイフをきつく握った手から、だらだらと血を垂れ流しながら、もちろんおかしいと思いながらも、頭をぶんぶんと振って君はおかしくない。と繰り返す。
おかしくない。だから、まずカッターを下ろしてくれ。
我ながら矛盾したことを言っていると思いながら、彼女の神経を逆撫でしないように説得をくりかえす。
嘘じゃない。お願いだから生きてくれと。
『私のこと愛してるの?』
彼女が俺の目を見て聞いたので、俺は深く頷いた。
一時的でしかないことは解りきっている。しかし、とりあえず今落ち着いてくれればそれで良いとおもった。
しかし、彼女の表情は突然憎悪に歪み、怒りや憎しみが入り混じり、血走った目で俺を睨みつけて、こう怒鳴った。
『嘘つけ! ならなんで死なせてくれないんだよ!!』
彼女は俺を突き飛ばす。いつの間にか彼女の首には輪状のロープがかかっており、ストンと彼女の首がロープに吊った。
床にへたりこんだ俺を、彼女の虚ろな目が見下ろしていた。
起きたのは朝の五時だった。
目を瞑っても寝返りをうってみても、それ以上眠る事もできず、仕方なく起きた。
頭がズキズキと痛み、夢の中で彼女に言われた一言が、心の奥に刺さっていた。のろのろと体を動かして、座椅子に座るとテーブルに突っ伏して頭を抱えた。
不意に目に入ったのは、白猫の持ってきた死体の写真集。
おずおずと手にとって、外国の文字が書かれた表紙を捲ると、最初に入ったのは飛び降り自殺をしたのか、コンクリートにぐちゃりと潰れた死体だった。頭が潰れて、脳みそがコンクリートにベッタリと付着し、潰れかけた眼球が飛び出ていて、衝撃に骨が折れたのか腕があらぬ方向に曲がっていた。
次のページは、首吊り死体だった。
金髪の女性の死体で、白目を向いて大きく開けた口から涎や、涙や鼻水をたらしている。足場から飛び降りたときの衝撃が大きかったのか、首が異常に伸びて、虚ろな目であらぬ方向を見ていた。
彼女の死体はもう少し綺麗だったなと思い出す。
それから、俺は本を閉じた。
次にリストバンドを左手首から取ると、まじまじとそのケロイド状にただれた皮膚を見て、ため息をついた。
やっぱり、おかしいんだろうなぁ。そう思いながら、テーブルの上に常備してあったカッターナイフを手にとって、鈍色に光る刃をチキチキと伸ばし、しばしその輝きに魅入っていた。彼女の使っていたカッターナイフ。
それから、もう一度ため息をついて手首に押し当て、そっと引いた。
大した力も入れてないのに皮膚が裂け、血液がぽたぽたと溢れ始め、それをぼんやりと見ていると、
「何してるの?」
突然後ろから声をかけられてドキリとした。
後ろを見ると、そこに立っていたのは、何時もは寝ているはずの白猫だった。
「どうしたの?」
俺のパジャマを着て、まだ眠いらしい白猫は、目を擦りながら俺に近づいてくる。
「なんでもない。まだ早いから寝てろ」
とっさにそう言うと、白猫は首を傾げた。それから、またゆっくりと近付いてくる。リストバンドをつけようとしたが、血液がまだ止まらずにいる手首に躊躇した。その前に血濡れのカッターナイフをどうにかしなければと思っているうちに、白猫は俺の隣にきて、トスンと座った。
心臓が早鐘のように打つが、白猫は何も言わずに、眠そうなぼんやりとした目で、血液や皮膚や、血に濡れたカッターナイフを見ていた。俺は思わず手首を背中の後ろに回す。
「俺、おかしいからさ、こういう風にしないと落ち着けなくて、その……」
聞かれても居ないのに口が勝手に喋り始める。しかし、白猫は何も言わない。ただ、ぼんやりと後ろに回した手だけを見ていた。
そして、おもむろに手を伸ばし、隠した俺の手を掴んで軽く引っ張った。反射的に手を引っ込めると、白猫はまた首をかしげ、ようやく口を開いた。
「痛くないの?」
それは、咎めるでもなく、非難するでもなく、問い詰めるわけでもない、純粋な疑問からくる口調だった。だから、俺も落ち着いて言えた。
「痛くないよ」
白猫は、もう一度後ろに回した俺の手を引っ張った。今度は、白猫に引かれるままに切りすぎて汚らしい手首を晒した。白猫は何も言わず、しばらくそれをみてから、ようやく血が止まりかけていた傷口に口付けた。それから、
「辛いの?」
そう聞いてきた。
「……多分」
俺は言葉を濁しつつそう答えた。自傷行為なんて、もう慣れてしまった。ただの癖みたいに思えることもあるし、辛いからやっているのかどうかなんて、今ではもう自分でもよく解らない。
「死にたいの?」
その問いには首を振った。面白いことに、彼女が死んでしまっても自分が死ぬ気は無い。つくづく自分が薄情で愚かで馬鹿みたいに思えてきて、小さくため息をついた。
白猫が、じっとこちらを見て、もう一度手首に視線を向けた。
ゆっくりと、傷だらけのその場所を掌で撫でられる。それから、もう一度口付けられた。舌先でちろりと舐められる感触がくすぐったくて、思わず目を細めた。
白猫は傷から口を離すと、もう一度撫でた。
「どうして辛いの?」
白猫の問いかけに、俺は一瞬答えるべきか戸惑った。
しかし、白猫は、まっすぐに俺を見上げている。その目は、まるで俺の心の置くまで見透かしていそうな視線で、俺は震える息を吐いた。
「昔、彼女が居てさ。同じことやってたんだ。でも俺がちゃんと守れなくて死なせてしまった。それから、こうしないとなんだか落ち着かなくなってさ――」
ぽつり、ぽつりと、話し始めると、そのまま沢山の思いがあふれ出し、止まらなくなった。
昔、彼女が居たこと。彼女が虐待されていたこと。自分もそうだったから、守れると高を括ったこと。ずっと死にたがっていたこと。何度も自殺未遂を繰り返したこと。守れないのに守ると言ってしまったこと。そして、ついに死んでしまったこと――。
「会社とかに行く時も、何度も何度も行かないでって言われたのに、理由こじつけて会社に逃げてた――」
白猫は、俺の手を緩く握りながら俺を見ていた。
話している途中に口を挟むことも、意見を言うことも、俺を非難する事も無く、ただ黙って、じっと耳を傾けている。
時折、俺の小汚い手首を見ては、そっと乾いた傷口に指を這わせて撫でた。
「――きっぱり別れることも、全力で受け止めることも出来ずに、ずるずると引きずって、苦しめてしまって……死にたい死にたいって言ってるのを適当に宥めるしか出来なかった…もうこうしないともう落ち着けなくて……苦しくて、自分が許せなくなって……」
それ以上言葉が紡げなくなると、白猫は俺の手を離し、そっと体を寄せてきた。それから、白猫は静かに言う。
「うん。それでお兄さんが落ち着くなら、それでもいいと思うよ」
ぎゅっと、俺に抱きついてくる。白猫の平たい胸が、俺の体に押し付けられる。
ぺたりと茶色い髪と白い耳を肩口に押し付けて、甘えるように擦りついてくる。
「無理しないでさ、切りたいときは切って落ち着いてもいいと思う」
「白猫……」
初めて、自分の行為が肯定された気がした。しかし、
「でもさ、彼女さんが死んだこと、そんなに思い詰めたりしなくて良いと思う」
その言葉に、俺は小さく苦笑した。彼女が死んだとき、同じ事を誰かに言われたからだ。貴方のせいじゃないよ、と。しかし、俺はどうしても自分が許せない。守れずにずるずると引っ張り続けた自分が――。
「ああ。どこかの誰かにもそんなこと言われたよ」
そう言って、とっとと傷の消毒をしようと思った。しかし、白猫は俺の予想だにしない言葉を続ける。
「うん。思い詰めないで、彼女さんにおめでとうって言ってあげるべきだよ」
白猫の言葉に、俺は首を傾げざるをえない。何故?
「……何故?」
尋ねると、白猫は少しだけ考えてから口を開いた。
「死ぬってさ、凄く勇気が居ることなんだよね。彼女さんずっと死にたがってたんでしょ。死ぬのを夢見てたんでしょ。だから、苦しんで苦しんで、何度も渇望して、やっと死ねたってのは夢を叶えたのと同じことだと思う。だから、よく頑張ったね。って言われたほうが嬉しいと思う。折角それを望んで、頑張って、ようやく自分で自分の夢をかなえたのにそんなに思い詰められたら悲しくなるでしょ」
白猫は言う。
「俺さ、自殺はそんなに悪いことじゃないと思うんだよね。どうしても自分の人生が嫌なら、拒否しちゃっても良いと思う。だってさ、望んでも無いのに勝手にこの世に作り出されて、嫌なのに周りに頑張れ頑張れって言われて、親孝行とか、世間体とか社会とか義務とか嫌な記憶とか、押し付けられてずっと苦しいまま生きていけなんて辛すぎるもん」
それから、一呼吸おいて白猫は僅かに目を細めた。
「だから、お兄さんも自分のこと責めないでさ、彼女さんに夢が叶ったこと、おめでとうって言ってあげたほうがいいと俺は思う」
驚いた。
白猫の言葉に、ずっとわだかまっていたものが、ほんの少しほぐれたような気がした。
そんなこと、今まで考えもしなかった。
でも、彼女が死んだのは、やっぱり自分が力不足だったからだろうと思う。守れもしないのに守ると言ってしまったのも確かだし、中途半端に突き放してしまったのも確かだ。彼女に死には、俺も責任がある。しかし、そう言われると、ほんの少しだけ心が軽くなったような気がした。
もちろん、自分に都合のいい解釈だとは思うが、それでも、頭の中に固くしこっていた彼女の死に対する罪悪感が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
そう思うと、急に心が一杯になって、白猫の肩に顔を埋めて思い切り抱きしめる。
「ちょっ、苦しいって!」
そう笑っていいつつも、白猫は俺の体を抱き返してくれる。そして、優しく言ってくれる。
泣きそうになっている俺の背中をゆっくり撫でてくれる。
「死にたい人にとって、死ぬのは夢とか憧れなんだと思う。だから、死んだ人を責めたり、死んだ人を思って苦しんだりしない方が良いと俺は思う。それよりも、今までありがとう。おめでとう。頑張ったね。辛かったねって言ってあげたほうが良いと思う。それが、夢をかなえた人に送る言葉だと思う」
カーテンの隙間から、滲んだ朝日が差し込んでいる。
白猫を強く抱きしめている、自ら切り裂いた手首が、何故か酷く痛かった。
○ ○ ○
会社帰りに長ネギとコンソメと顆粒ダシと六個入りの卵とキムチをスーパーで買って帰った。米はまだ家にあるから大丈夫。
今日は一緒に晩飯を作ろうか。
今朝、白猫とそう約束した。白猫は喜んで頷き「待ってるから」と言った。
家に帰ると、白猫は座椅子の上にちょこなんと座ってテレビを見ていて、俺がただいまと声を掛けると、ふりかえり、笑顔でおかえり。と返してくれた。
たったのそれだけなのに、何故かとても嬉しい気持ちになる。
「食器洗っておいたよ」
ひとまず台所に食材の入った袋を置いて、寝室で着替えていると、座椅子から立ち上がり、既に台所で待ち構えている白猫がそう言ってきた。
「おう。ありがとな」
部屋着に着替えて台所へ戻り、袋の中から食材を出していく。白猫は不思議そうにそれらを眺めていた。
「ねぇ、これで何作るの?」
全てを袋から出し終わり、ビニールを畳んでいると白猫がそう聞いてきたので、
「特製キムチ雑炊」
ニタリと笑ってそう答えてやった。
「えぇっ!! 俺辛いの食えないよ〜」
途端白猫が嫌そうな顔で言うが、俺は大丈夫大丈夫と返す。
「俺も辛いの食えないほうだし、そんなに辛く作らないよ。それに絶対旨いから」
白猫は何だか疑り深い目をしている。けれども俺はちゃきちゃきと準備を進めていく。
冷凍庫から凍らせたご飯を出して電子レンジへ放り込んで三分にセットし、大きめの鍋に水を入れて火をかけ、その間にネギを刻み、横に立っている白猫には指示を出す。
「白猫、そこの下にボウルあるから卵二つ入れて溶いて」
白猫は、「おう」と短く言って、流しの下にある棚から中ぐらいの大きさのステンレスボウルを出して、その中に卵を二つ割りいれた。
白猫の卵の割り方は下手すぎて、卵がボウルに落ちた途端に、ぐちゃりと卵黄が割れてしまい、しかも殻の欠片が数個入ってしまった。
「殻は食えないぞ」
笑いながらからかってやると、白猫は頬を膨らませて怒った。
「わかってるよそれぐらい!!」
そして、菜箸を使って器用に卵白の中に入り込んだ殻の欠片を取り除いていく。これがなんとも、卵を割るのは下手なのに箸の使い方だけは上手で驚いた。
そのままぶっすりと卵黄に箸先を突き立てて、そのままカカカっと小気味の良い音を立てて卵を掻き混ぜる。
「中々上手だな」
刻んだネギを煮えてきた鍋に入れながら言うと、白猫は得意げに笑う。
「こういうのは何か得意なんだよね」
次に、丁度解凍しおわって音を立てた電子レンジから米を出して水で洗い、解れたところでザルに取って水を切る。沸騰してネギの煮えた鍋にコンソメとしょうゆとダシを少し入れて掻き混ぜ、洗った米を入れて全体をなじませた後でキムチを入れ沸騰させてすぐ火を止める。
「白猫。卵もう良いか?」
「うん!」
白猫が差し出してきた卵は、綺麗に掻き混ぜられて少しばかり泡立っていた。それを受け取ると、全体に流し込んで蓋をして、卵が半熟に固まったら出来上がり。
「鍋敷きテーブルに置いてきて」
引っ掛けてある鍋敷きを顎で示しながら、雑炊の入った鍋を持ち上げる。
白猫は頷いて、茶色い木製の鍋敷きを掴むと、テーブルへ行ってその真ん中へ置いた。そのすぐ後に俺も鍋を鍋敷きの上におく。
その間に白猫はもう一度台所へ戻り、小皿とレンゲを持ってきた。
「気が利くな」
白猫ははにかんだ様な笑みを浮かべ、真っ白な猫の耳をぺたりと寝かせた。
いつものように、俺は座椅子に座り、白猫は座布団に座って、作った雑炊を食べる。
お玉で米とたっぷりのだし汁と卵を掬い上げ、皿に取ってレンゲで食べる。
ピリ辛の汁が口の中に染み渡り、コンソメのうまみが舌一杯に広がった。
うん。上出来。
隣に座る白猫を見ると、一口食べたところでレンゲに口をつけたまま固まっていた。
「白猫?」
辛かったのかと顔を覗き込んでみると、白猫は固まったまま一言、
「おいしい」
瞬間、自分の顔が綻んだのが解った。
「だろ?」
「ちょっと辛いけど、美味しいよコレ」
「当たり前だろ。俺の唯一作れるマトモな料理なんだからな」
少し興奮気味に言う白猫に、得意げに言ってみせると、白猫は口を尖らせて「俺も手伝った」と答えた。
「卵割っただけだろ」
「それでも手伝ったものは手伝った!」
言いながら白猫がまた雑炊を一口食べて、途端、頭にくっついている猫耳の毛がビリリっと逆立った。キムチの白菜を食べてしまったらしい。
「からー」
舌先を出して言う白猫に、ぷっと吹き出してしまう。白猫もへへっと笑った。何がおかしいのかは良く解らないけれど、何故か二人で笑ってしまった。
こんなに楽しい気持ちは久しぶりだ。
「今度、座椅子を買いに行こうか」
ひとしきり笑った後で、白猫に言う。白猫は座椅子が気に入ってるらしく、俺が会社から帰ってくると、必ず座布団ではなく座椅子に座ってテレビを見ていたから。
もともと座椅子は二つあったのだが、彼女が居た頃に使っていたもう一つの座椅子は、彼女が亡くなる少し前に壊れて捨ててしまった。しかし、捨てた後も座椅子は一つで事足りていたので買う必要も無く、そして、そのまま彼女も居なくなってしまい、もう永遠に座椅子が二つになることは無いだろうと思っていた。
「気使わなくても良いよ。俺座布団で十分だしさ」
やっぱり白猫はそう言う。しかし、
「使って無いよ。この家に来たお祝いだ」
「でもさ――」
「いいからいいから。俺が買ってやりたいだけだから素直に受け取れ」
何かを言いかける白猫に無理矢理そうこじつけると、白猫は一度、猫耳をへたりっと寝かせた。それから嬉しそうに笑った。
「じゃあ俺、低反発素材のヤツが良い!」
「高いのはダメ」
「けちー」
「節約生活は基本だろ」
そんな他愛も無い会話をしながら、水を吸ってお粥になりかけてきた雑炊を、二人で美味しく平らげた。
○ ○ ○
家から少し離れた場所にある家具屋まで、二人で歩いて行った。
白猫には、押入れの奥で眠っていた、俺のベージュ色の帽子を引っ張り出して被らせる。白猫の性癖や白い耳は決して恥ずかしいものではなかったが、それでも白い猫の耳というのは目立つ上に珍しい。それに周りの偏見もある。白猫は別に被らなくてもいいと言ったけれど、白猫が他人の奇異の目に晒されるのは、俺の方が耐えがたかったから、少し強引に被らせた。
本当はバスに乗って遠くの大きな家具屋に行こうと思ってたけれども、白猫がバスや電車を酷く嫌がったので、歩いて行ける距離にある少し小さい家具屋に行くことにした。
「ああ言う狭くて人が多い場所ダメなんだよね」
白猫は少しだけ申し訳なさそうに笑った。
何故? は聞かなかった。そう言う事は、大抵嫌なことの方が多いから。嫌な事を無理に聞き出す必要は無い。だから、ただ一言、
「誰にでも苦手な物や場所はある」
そう言った。
帽子を被って耳を隠した白猫は、どこにでも居そうな普通の高校生に見えた。これで学校に通ったらきっとモテるんだろうな、と頭の隅っこで考えてしまった自分に苦笑する。
何を考えてるんだ俺は。
そういえば、白猫は学校には行ってたのだろうか?
ふとそう考えて、隣を歩く白猫を見た。
そんなに広くも狭くも無いアスファルトの道を歩く様子は、ほんの少しだけうきうきしているようにも見える。何時も浮かべている笑みも、今は寂しさや悲しさを我慢して無理矢理笑顔で覆い隠している様子は無かった。
この辺りの地区へは来た事は無いのか、空や周囲に立ち並ぶ家を楽しそうに見ている白猫。
そして、また小さな疑問が浮かんだ。
白猫は、一体どんな人生を歩んできたのだろうかと。
何故、深夜の繁華街で行く人に声を掛けては自分を買ってくれと言ってたのか。何故、酷い目に合わされてもそれを止めないのか。何故、白猫なんて妙な名前を名乗るのだろうか? 親は居ないと言ったが、何故居ないのか、育ての親は何故死んだのか、親戚は居ないのか? 殆ど無理矢理と言って良いぐらいの作った笑顔の下に覆い隠しているものは何だろうか?
白猫のことを考えれば考えるほど疑問ばかりが浮かんでくる。今まで考えなかったことが不思議なくらいだ。
しかし、聞いてしまうことで白猫を傷つけたり、悪いことを思い出させることはしたくない。
小さくため息をつくと、先ほどまで辺りをきょろきょろと見回していたはずの白猫が、俺の手に自分の手を絡めてくる。
「どうしたの?」
俺を見あげる白猫のその表情は、ほんの少しだけ心配そうで、だから俺は、
「なんでもないよ」
言いながら笑った。
「本当?」
「本当」
「なら良いよ」
白猫が笑った。
誰も人が居なかったので、きゅっと手を握った。
まぁ、そのうち聞いてみれば良いだろう。そうだ。何も、今すぐ聞きだす必要はひとつも無いのだから……。
そんなに広く無い家具屋の座椅子コーナーには、それなりの種類の座椅子が置いてあった。
赤い座椅子、白い座椅子、蒼い座椅子、黒い座椅子、黄色い座椅子、灰色の座椅子、スポンジ素材の座椅子、低反発素材の座椅子、布製の座椅子、皮製の座椅子、高い座椅子、安い座椅子。色々な座椅子が売られていた。
その中には、俺の愛用している黒いビニール製の座椅子と似た座椅子もあった。
「どれがいい?」
俺が聞くと、白猫は唸った。
手はもう繋いでいない。
店に入る少し前に、白猫は自分から手を離した。
家具屋に近づくにつれて人通りが多くなると、俺と白猫が手を繋いでいるのをジロジロと見る人間が多くなったからだ。中には、ホモかな? なんて小さな声で話し合ってるのも聞こえてしまった。その時、白猫は自ら繋いだ手を離した。それから俺を見て、肩を竦めて少し寂しそうに小さく笑った。
「コレとかどうかな?」
白猫が指差して選んだのは、鼠色の布製の座椅子で、低反発の素材を使ったものだった。
値札を見ると、それほど高い値段ではなかったが、激安というわけでもない。
「お前低反発好きだな」
座椅子の弾力を確かめ、からかい気味に言ってやると、白猫は心配そうな声を出す。
「ダメ?」
「いや、ダメじゃないよ。コレで良いのか?」
そう聞くと、白猫は少しだけ悩んでから、もう少し待って。といい置いて、別の座椅子を見に行った。
俺の帽子を被り、真剣に棚に陳列された座椅子を選ぶ白猫を見ていると、何故か、彼女と居た頃を思い出して、ほんの少しだけ胸が苦しくなった。
結局白猫が選んだのは、低反発素材を使った鼠色で布製の座椅子だった。
その座椅子は、歩いて持って帰るには少しばかり重たかったので、店に頼んで家に郵送してもらうことにした。到着は明日らしい。だから帰りは手ぶらで歩く。
空は綺麗な青空で、数歩先には白猫が、早く明日にならないかな〜と歌うように言いながら歩いている。自分の座椅子が手に入ったことが余程嬉しかったようだ。
「おい、余所見してると危ないぞ」
あまり白猫が浮かれているようだったので、そう声を掛けてやると、白猫は俺を見て、大丈夫だよと笑う。
「俺そんなに鈍くさくないもん」
道路はそんなに狭くは無いが、広くも無い。けれども車道の車通りは激しくて、道を曲がるときや横断歩道を渡るときは、突然車が飛び出したりして結構危ない。
「一応気をつけろ」
早歩きで白猫に追いつき、咎めるように言ってやると、白猫は解った解ったとおざなりに言った。
やれやれ、そう思いながら歩く。
不意に後ろで甲高い嫌な音が聞こえ、次いで何かが撥ねられるような嫌な音が聞こえた。俺と白猫が驚いて後ろを振り返ると、少し離れた道路の真ん中に五歳程度と思しき子供が倒れていた。どうやら、飛び出してきた子供を大型トラックが轢いてしまったらしい。
慌ててトラックから出てきた兄さんが、おたおたしているのが遠目に見えた。
突然の出来事に硬直している間に、すぐに人だかりができ、母親らしき人物が何かを喚きながら野次馬の間を分け入っていった。
「あーあ……」
不意に、隣で白猫が言った。
「あれじゃ助からないかもね」
小さい声だが、白猫は確かに、そう言った。
そして、俺は見た。ベージュ色の帽子の下から見えた、楽しそうな笑み。何時もとは少し違う、嘲るような笑みだ。
それから、未だに硬直から覚めやらぬ俺の腕を引っ張ると、
「さっさと行こう。どうせ瞬間なんて見てなかったんだからさ」
そう言うと、さっさと歩いて行ってしまう。
俺は、もう一度その人だかりに目を向けると、早足で既に数メートル以上は離れてしまった白猫の後を追った。
白猫の後ろ姿を追いかけながら、もう一度思う。
一体、白猫はどんな人生を送ってきたんだろうか?
○ ○ ○
俺の父さんと母さんは、世間一般で言う駄目な大人ではなかった。
少なくとも、他の人の目にはそう見えなかったと思う。
父さんは普通のサラリーマンだったし、母さんは施設に勤めていて、日々障害者の為に働くヘルパーのような仕事についていた。
二人とも、その辺に居るような大人だった。
確かに、母さんなんかは、仕事ゆえに普段家に居ること自体は少なかったものの、色々な人から感謝されていことを、俺は知っている。
学校の教師からも、お前の母さんは凄い人だな。と言われたことさえある。
父さんだって、家に金を入れないとか、生活費を使い込むとか、そう言った事はしなかった。稼いだ金はキッチリ家に入れたし、夜遅くに母さんから迎えに来いと電話が来れば、父さんは車を出して迎えにいっていたのを覚えている。
そうだ。表面的に見れば、本当によくある普通の一般的な家庭だとおもう。
きっと母さんは、父さんを愛していたんだとおもう。
父さんも、多分母さんを愛していたんだとおもう。
けれど、俺は父さんからも母さんからも愛してもらえなかった気がする。
父さんは俺を殴る理由を『愛』と称した。
その言葉を言った過程を思い出すだけで俺は具合が悪くなるので、詳しいことを思い出さないことにしている。ただ、そういわれたのだけは覚えている。
最初は真に受けて耐えようとした。
休日でも殆ど朝から晩まで机に向かい、テストで良い点を取り、母さんの居ない日は気を利かせて父さんが返ってくる前に夕食を作った。友達とも殆ど遊ばず、どこへも行かず、ずっと、ずっと尽くしていたつもりだった。それでも父さんが許してくれた日は殆ど無かった気がする。毎日のように繰り返される暴行と屈辱的な言葉。だけども、それは父さんの愛情だと思っていた。俺が悪いから父さんが怒るのだと。
しかしそれも、中学一年の夏には嘘だと知った。
中間テストの順位が五位以内に入らなかったという理由で、固いフローリングに何時間も正座させられ竹刀で何度も打たれ、罵声を浴びせられる。家から帰ってすぐに机に向かい、家事もこなしてきた。それなのに、一言の言い訳にも父さんは全く聞く耳を持たなかった。
『頭の悪い出来損ないめ』
『お前はどれだけ私に恥をかかせれば気が済むんだ』
『言い訳ばかりしやがって』
『結果の伴わん努力など努力のうちに入るわけが無いだろう』
そうやって何度も何度もなじられて、そして、ようやく気づいた。
俺は今頃になってようやく父さんの行為は愛情からかけ離れたものだと気づいた。
そのことが無性に寂しくて、悔しくて、父さんから解放された後すぐに施設で働いているはずの母さんに電話をかけた。
施設の人が出て、母さんに代わってくれた。俺は母さんに、今どうしようもなく寂しいから出来るだけ早く帰ってきて欲しいと伝えたが、母さんは煩そうにこう言っただけだった。
「両親が居て五体満足で何が不満だって言うの? 母さん今忙しいからもう電話してこないでね」
ガチャリと冷たく切られる電話。
呆然と受話器を持ちながら、俺は自分が馬鹿だと思った。
あまりにも自分は馬鹿で、愚かで、どうしようもない人間だと思った。
結局、俺は父さんにも母さんにも愛されていなかったのだ。
そのことにようやく気づいたとき、俺は泣かなかった。
泣かない代わりに、自室で寝ているだろう父さんに気づかれないよう小さく笑った。
あまりにも自分が滑稽で、愚かで、馬鹿らしくて、おかしくて、本当におかしくておかしくて、涙が出そうだ。
○ ○ ○
届いた座椅子は俺の座椅子の隣に置いた。
白猫は自分の座椅子に座り、背もたれにもたれて快適そうに写真集を見ている。
座布団だと背もたれが無いから疲れそうだが、今は背もたれのついた座椅子だ。座るという役目は同じでも、背もたれがあるのと無いのでは全然違う。
「あぁ、自分の椅子があるのは良いねぇ」
座椅子が届いたとき、白猫は鼠色の座椅子に座って背もたれに頬擦りをしていた。よっぽど嬉しかったのだろうと思う。
「そこまで喜ばれると買った甲斐があったよ」
苦笑しながらそう言って、自分の座椅子に座ってテレビをつけた。
「もうメチャクチャ嬉しいよ。ありがとう!」
楽しげにそう言ってから、白猫は四つん這いに俺に近づいてぎゅうと腰辺りに抱きついてきた。本当に嬉しそうな白猫を見ていると、やっぱり買ってよかったと改めて思う。
それから二人して昼飯も食べずにぼんやりと過ごしている。
白猫は隣で本を眺め、俺はぼーっとテレビを眺めていると、お昼のニュースとやらで、昨日の事故のニュースが流れた。あの家具屋からの帰りで白猫と見た事故のニュースだ。
大型トラックに撥ねられたのは五歳の男の子で、やっぱり病院で死んだらしい。
「あ、やっぱり死んだんだ」
ふと隣を見ると、白猫は死体の写真集を膝の上に開いたままテレビに顔を向けていた。
「あれじゃ生きてる方が不思議だもんね」
なんでもないように言う白猫に、ふと昨日白猫が見せた、嘲るような笑みを思い出した。倒れた子供と、叫びながらそばに駆け寄る母を見て笑った白猫。
「白猫は、誰かが死んだとき可哀想とか思わないのか?」
ついそう聞いていた。もしかしたら咎めるような口調になっていたかもしれない。しかし白猫は意外にも「思うよ」と言った。
「でも死んだ子は可哀想だと思うけど、親の方は可哀想とか思わない」
言いながら、白猫はまた何事もなかったかのように写真集のほうに顔を戻していた。
一枚ずつページを捲りながら、楽しそうに写真を眺める白猫。
「どうして?」
なるべくなんでもないように聞いてみる。すると白猫は、小さくうーんと言って、写真集を見ながらこう言った。
「この世にはこういう不幸があることも承知で産んでるはずだから」
それから白猫は一呼吸おいて、もう一言。
「自分の子を本気で不幸にしたくなきゃそもそも産まない」
写真の中に写る死体を見ながら言った白猫の表情は、一瞬、ほんの一瞬だけだが、確かな憎悪の炎が見て取れた。
「知らなかったなんて絶対許さない。自分だけが大丈夫なんて思わせない」
写真集の中に移った幼児の死体は、何時までも虚ろな目をこちらに向けている。
夕方に白猫とスーパーまで行って、うどんと揚げ玉を買って帰り、テレビを見ながら二人で食べた。
めんつゆを少し薄めて暖めて、うどんを入れて、卵と長ネギを入れただけの簡素なうどん。そこに揚げ玉を少し入れるだけで豪華に見える。
二人して座椅子に座ってつるつるとおいしく食べた後、しばらくテレビを見てから少し早めに布団に入った。
電気を消してしばらく立ったころ、暗闇の中で隣に寝転がった白猫が、既にうとうとしている俺に声を掛けてきた。
「どうして誰か死んだとき悲しくて、誰か生まれたとき嬉しいかわかる?」
もう眠たい俺は何かを考えるのが面倒くさくて、さぁ。と曖昧に答えるだけだ。
すると白猫が闇の中で小さく笑った気配がした。別に馬鹿にしている笑いではなく、ただたんに寝ぼけた俺の声が面白かっただけのような、そんな他愛も無い笑い方。それから、白猫は囁くように小声で言った。
「それは、俺達が本人じゃないからだよ」
眠りに落ちながら、俺はあぁと思った。
白猫があの時、あの事故のとき嘲笑ったのは、子供ではなく親の方なのか。
うん。その気持ちは良く解る。
不意にぽっと浮かんだ疑問。
俺の親は、どうして俺を生んだんだろう?
○ ○ ○
会社から家に帰ると、そこに白猫の姿は無く、テーブルの上に白猫のへたくそな字で書置きが一枚置いてあった。
『ちかくの公園にいます』
背広のまま、着替えもしないで慌てて公園に行くと、白猫は公園の中ではなく、街灯の下にいた。会社帰りに通る道なのだが、どうやらすれ違いになったらしい。
そこは白猫が初めて家に来た日、一人ぼっちで月に向かって歌っていたあの場所。繁華街の喧騒から程遠い、人っ子一人いない、静まり返った公園を背景にした暗い夜道の街頭の下。
白猫は歌っていた。
俺の知らない異国の歌を。
透き通った綺麗な声で、静かに月に歌っていた。
その歌は、どこまでも寂しそうで、どこまでも悲しそうな歌。けれども、どこか儚げで嬉しそうな節もある。色々な感情をごちゃ混ぜにしたような不思議な歌。
白猫が振り向いて俺の姿を見つけると、歌うのをやめた。
「綺麗な歌だな」
白猫の隣まで歩み寄りながらそう言うと、白猫は満足そうに笑った。
「育ての親に教えてもらった歌なんだ」
それから一呼吸おいて、
「勝手に出てきてゴメン。何か事故見てから段々ごちゃごちゃしてきちゃってさ……」
両耳をぺたりと寝かせ、少し俯いている白猫が済まなさそうに言う。だから俺は、別に良いよとだけ答えた。
初夏の空気が清々しい、月の綺麗な夜だった。
誰も居ない公園の芝生のどこかで、鈴虫のようなコオロギのような、リィリィという虫の鳴き声だけが、静かに闇に溶け込んでいる。
帰るか? そう聞くと、白猫がもう少し散歩していたいと言ったので、二人で一緒に広い夜の公園をのんびり歩く。園内に作られた小さな池が、月の光を反射してきらきらと光っている。途中、いつかのように白猫が俺の手に手を絡ませてきた。闇に包まれた公園は、猫の子一匹居なかった。だから俺は白猫と手を繋ぐ。別に恋人同士と言うわけではないけれど、白猫と手を繋ぐのは嫌ではない。
しかし、満月の夜空を見ていると、なんだかとても寂しいような懐かしいような気分になるのは何故だろう。ふと夜空を見上げてそう思う。
不意に白猫が、小さい声でまたあの歌を歌っていた。
育ての親に教えてもらったという白猫の歌。
夜空を見上げて静かに歌う白猫に、今なら聞いてもいいような気がして、俺は白猫に聞いてみる。
「育ての親はどんな親だったんだ?」
白猫はぴたりと歌うのをやめた。
「いや、白猫が言いたくないなら言わなくて良い。なんとなく聞いてみただけだから……その……」
ついしどろもどろになってしまう俺に、白猫は笑う。
「別に良いよ」
その言葉にほっとしてため息をつくと、白猫は少しだけ唸って考えた後、
「凄く良い人だったよ」
そう答えた。
俺がへぇっと頷くと、白猫もうんっと頷いた。
「もう死んじゃったし、最後まで本当の名前も知らなかったけど、俺にとって凄く良い人だったよ」
その言葉に、俺ははたと足を止めた。
「名前を知らなかった?」
白猫の言葉を反芻するように言うと、白猫は楽しそうに頷いた。
「うん。黒猫って呼んでたんだけどね。でもそんな名前は絶対嘘だと思う」
言いながら、白猫は笑う。どうしてそんなに楽しそうに言えるんだろう。
俺だって、あんな自分の子に興味の無い両親でも名前ぐらいは知っているのに……。
心地よい夜風が吹き抜けて、公園に植えられた木々がざわざわと音を立てた。そして一瞬だけ、虫たちの鳴き声が一斉に止まり静寂が響き渡る。
「どうして」
不意にそんな疑問が口から漏れていた。どうして白猫が育ての親の名前も知らないのかという意味なのか、どうして白猫の育ての親は白猫に本当の名前を教えなかったのかと言う意味なのか、どちらかなのかは自分でもよく解らない。ただ、どうして。という言葉だけが漏れた。
白猫は数秒の間黙った後、少し困ったように微笑んだ。
「わかんない。もしかしたらとっくの昔に名前なんて捨てちゃったのかもしれない。でも多分、仕事のせいだと思う。黒猫の仕事ってあんまり人に言えない仕事だったからさ」
どうやら白猫は後者の意味に捉えたようだ。握った手に、わずかばかりだが力がこもったのを感じた。
「……どんな仕事してたんだ?」
親しいものに名前すら教えられない仕事とは何だろう。もちろん、白猫が言いたくないと言ったらそれ以上問いただす気は無い。が、ここで聞かなければ永遠に白猫や、白猫の周囲を知る機会を失いそうで、俺は白猫に聞いた。
ふと白猫の表情から笑顔が消え、白猫はしばし思案するように暗闇でもよく映える白い耳を茶色い髪にぺたりと寝かせた。それから俺の顔を一瞬見上げ、視線が合うとすぐに白猫は目をそらしたが、またすぐに何時もの笑顔に戻った。そして、
「誰にも言わないって約束できる?」
もちろん、俺は頷いた。
すると白猫は、俺に向かって楽しげにこう聞いた。
「お兄さんはさ、どうして親が自分を生んだか知ってる?」
唐突な質問についていけず、白猫の質問の意味を汲み取るのに数秒だけ時間がかかったが、すぐにいや。と答えた。
「知らないな。親に直接聞いたこと無いし、聞いたとしてもまともな答えが返ってくるとは思えないしな」
そこで、ふと両親の顔が思い浮かんだ。
俺に暴力を振るい続け、死んでも尚俺の記憶に住みつく父親と、自分の子よりも他人の子を優先した母親。どうして親になんてなったのか俺にはよく解らない両親。
俺の記憶の深淵に潜んだ闇が顔をもたげてくる前に、白猫は言う。
「うん。普通はそうだと思う。そんな昔の時代じゃあるまいし、跡取りがどーのなんて現代では関係ないしね」
そして俺の手を離し、白猫は一歩二歩と踊るように暗闇の中へ進み、振り返る。月明かりの下で見えた白猫の表情は、何の感情も汲み取れないひたすらな笑顔。
「でも俺は自分が何のために生まれたか知ってるよ」
白猫は言う。
月明かりの下。静かな夜の公園で。その瞬間だけ、虫の鳴き声が僅かに止まった気がした。白猫は、本当に楽しそうな満面の笑みを浮かべていた。
「俺はね、最初から死ぬために生まれたんだ」
ひゃくっと喉の奥からしゃっくりのような可笑しな音がした。
今の言葉は何かの聞き間違いではないかと思うほどの白猫の笑顔。一瞬視界が狭くなった気がした。
「なん……」
なんで? と言おうとしたのか、なんだって? と言おうとしたのか。口から零れた言葉は、そのまま紡がれることなく闇に消えていった。
白猫は言う。
「黒猫の仕事は人の売買。臓器ブローカーとか言い方はどうでも良いけどそういう仕事」
そう言った後で、白猫は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
「俺の母さんね、そういう凄い深い闇関係の繋がりが多い人だったんだって。でね、日本人てそこそこ高く売れるんだって。臓器系だと金は幾らでも払うから日本人じゃなきゃダメって言う我侭な客がたまに居るからさ。それに、別に臓器じゃなくても良いんだ。カラダさえしっかりしてりゃ売春宿とか、しっかりしてなくてもスナッフビデオ――殺人ビデオのことね。それの業者とかにも結構高く売れる。だから俺の母さんは最初から俺のこと売るつもりで作って生んだって黒猫から聞いた」
淡々とそう言った後で、白猫は静かに息を吸い、深く吐き出した。
「なんか、俺って家畜みたいだよね……」
そう言って、白猫はまた笑った。
何も言えなかった。
あまりにも、自分の知る世界からは、まるで飛躍した世界の話だ。全く想像ができないし、そもそもそんな事が起こりえるのかという疑問まで湧き上がる。白猫の話が信じられない。いや、信じたくない。だって、もしそれが本当なら白猫は――。
「……黒猫、って奴が……嘘をついてる可能性は……?」
「ないよ」
俺が震える声でようやく口に出すと、白猫は間髪居れずにそう言った。
「黒猫は嘘は絶対つかない。言わないって事はあっても、俺が聞けば必ず本当のことを教えてくれた。それが俺の傷つくことでも、絶対に嘘だけは言わなかった。だからきっと全部本当のことだと思う」
穏やかな口調だが、きっぱりとそう言い切る白猫。
俺は、何を言って良いのかも解らず、ただ黙るしか出来なかった。突然、目の前に居るこの真っ白な猫の耳を持った少年が、異次元から来た別の人間に見えて仕方なくなった。
白猫は月明かりの下でまた笑う。
「これは黒猫から聞いた話じゃないんだけど、俺が生まれたとき、俺が耳付きだって知ったとき、俺の母さんは俺を見てこう言ったんだって」
白猫の笑顔は、自嘲では無かった。諦めでも、希望でも、絶望でも無い。ただどんな感情すらも汲み取れない、仮面のような笑顔。
「奇形ポルノと内臓のどっちが高く売れるかしらって」
公園の遊具が見渡せるベンチに座っていた。
月の灯りに照らされた遊具は、暗い中でも地面に長い影を落としているのがよく解る。
白猫は、足をぷらぷらと揺らしながら地面を見て黙っていた。
俺も、なんと言って良いか解らなくて夜空を見上げて黙っていた。
お互い何を言って良いのか解らない気まずい状態のなか、園内をめぐる初夏の夜風が気持ち良いことだけが唯一の救いだった。
虫の声は相変わらず鳴り響いており、月は悲しいぐらい綺麗な満月。
俺は白猫の話を聞いた直後、しばらく何も考えることが出来なかった。白猫に闇があることはなんとなく予想はしていたが、ここまで深いものだとは思わなかった。俺が出来た事は、この場所までやってきてベンチに座ることだけだった。一言、どこかに座ろう以外、何の言葉もかけることができず、ただ黙ってここまで歩いてきて座ることだけで精一杯だった。
白猫は、うん。と頷いた以外は黙っていた。放した手を握り直してくることも無かった。
それから二人で、ぼんやりと誰も居ない暗闇の公園を見ている。
「ねぇ」
最初に沈黙を破ったのは白猫の方だった。
俺の背広の裾を引っ張ってくる白猫に、何だ? となるべく穏やかな声になるように心掛けて言い振り向くと、白猫は少し済まなさそうに耳を寝かせていた。
「変な話してゴメン。信じても信じなくてもどっちでも良いから」
ぽつりと言って、それからすぐに白猫は地面を向いてしまう。もちろん、信じていないわけではない。白猫の話は、きっと嘘ではないだろう。しかし、よく考えれば少し疑問もあった。
もし白猫が売買のために生まれたのだとしたら、何故白猫は今もこうして生きてるんだろうということ。それと、黒猫なる人物は何故白猫を手元に置いておいたのだろうということ。でも、それを根掘り葉掘り聞くことは、どうしても出来なかった。
俺は知っている。
聞くことで、傷つけてしまうこともあるということ。
思い出すことで、苦しくなることもあるということ。
辛いことは、どうしても必要になるその時まで思い出さなくても良いと思う。
そのまま蓋を閉めて忘れ去った方が良い思い出もあるということを、俺は知っている。
だから、白猫にはこれだけ聞いた。
「黒猫って奴は、本当にいい奴だったのか?」
すると白猫は、地面を見たまま小さく頷いた。
「黒猫は良い奴だったよ。それだけは言える。少なくとも俺にとっては物凄く良い奴だった」
声は小さいけれども、きっぱりとした返事。俺は一つ溜息をついた。
「なら、良いよ」
それならそれで良い。そう思う。例え生まれがどうであれ、例えどういう理由で育てられたのであれ、育つこと自体が苦痛では無かったのなら、それで良いと思った。
「白猫」
しばし黙り、俺は白猫を呼んだ。
白猫が地面から顔を上げると同時に、ベンチから立ち上がった。
「そろそろ帰ろう」
それから手を差し伸べた。もしかしたら掴んでもらえないかもしれないと思ったが、白猫は俺の顔を見上げ、そして素直に俺の手を握ってくれた。
「うん」
二人で手を繋いで、夜の公園をのんびりと後にする。
空には未だに丸い月が一つ、ぼんやりと浮かんでいた。
歩きながら、白猫は小さな声でワンフレーズだけあの歌を歌った。
「その歌って、どんな意味なんだ?」
ふと疑問に思ってそう聞いてみると、白猫は俺を見上げて微笑んだ。
「それはね」
「それは?」
白猫はそっと口元に人差し指をあててこう言った。
「秘密です」
「なんだそりゃ」
「アイスを買ってくれたら教えましょう」
ニタリと笑ってすっかり何時もの調子に戻ったように言う白猫に俺は苦笑し、はいはいと返した。
「好きなの買ってやるよ」
「俺鯛焼きのアイス食いたいー。あんことバニラが入ってる奴」
楽しげな白猫の声。
しっかり繋いだ手。
暖かな夜風が、後にした公園を吹きぬけた。
空は、満点の宇宙色。
○ ○ ○
手首の傷が塞がった。
朝起きて、久しぶりに自分の手首を観察してみて、初めて気がついた。いつの間にか彼女の幻影に苦しむことや、彼女の死に思い悩むことが少なくなっていると言うことに。
それはきっと、あの日あの時、白猫が珍しく朝に起きてきたときにかけてくれた言葉のおかげだとおもう。しかし、俺は白猫の言葉で随分気が楽になった自分が少し後ろめたい。
なぜなら、白猫の言葉は「自殺」を肯定する言葉だから。しかし、だからといってどうしてこんなに後ろめたい気持ちになってしまうのかは解らない。白猫の言葉は、間違っているという訳では無いだろう。なのに、何故こんなにやるせない思いを抱いているのだろう。
ふと、母親が昔よく言っていた世の中には生きたくても生きられない人もいるんだからという言葉を思い出し、苦笑した。
違うよ。と母の言葉に頭の中で返した。俺が後ろめたいのは、そんな自分より立場や状況が下の人間を指差して、こいつらよりマシなんだからありがたがって生きろなんていう虚しい幸福論のせいではないんだ。
では、どうしてこんなに何かに謝りたいんだろう。
テーブルの上に何時ものように置いてあるカッターナイフに手を伸ばし、鈍色に光る刃を鞘から伸ばして眺めてみた。
長いこと慣れ親しみ、俺や彼女の血を吸い続けたもの。
もう一度、手首に当ててみる。
ひやりとした感触。このまま引けば、再び傷が開き、血があふれ出すであろう。
力を込め、引こうとして、やめた。
刃先を鞘の中に引っ込めて、もう一度テーブルに放り出す。
座椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げ、静かに目を瞑る。
「ごめん」
誰に向かってでもなく、謝罪の言葉が口をついた。
どうしてなのかは、自分でもよく解らない。
最近は、本当によくわからないことばかりだと思う。
胸いっぱいに息を吸い、静かに吐き出した。ほんの少しだけ、楽になった。
カーテンから溢れる、朝の陽光が酷く眩しかった。
○ ○ ○
家に帰ると、部屋の中は真っ暗だった。
電気をつけると、白猫は自分の座椅子に座っていた。
眠っているのかと思って傍に近寄ってみると、白猫は起きていた。
しかし、白猫は俺の方を振り返ることも声を発することも無く、ただ一点、自分の膝の上に乗せているものをじっと見つめていた。
それは、茶虎の猫の亡骸だ。
「白猫……?」
おずおずと声を掛けると、白猫はゆっくりとこちらを向いた。
「あぁ、お兄さんおかえりなさい」
穏やかな口調の白猫の表情は、何時もと変わらぬ笑みが張り付いている。そして、またゆっくりと膝の上の亡骸に視線を戻し、撫でた。
「その猫、どうしたんだ?」
隣にしゃがみ込んで尋ねると、白猫は一度うん。と頷いてから、
「お昼ご飯買いに外に出たら道路に倒れてたから……連れてきたときはまだ少し生きてたんだけどね。さっき死んじゃった」
そう言いながら撫でられている虎猫の亡骸は、あまり汚れていなかった。きっと車か何かにぶつかったときに、打ち所が悪かったのだろうと思う。
俺もそっとその毛皮に触れてみると、もう既に猫の体は冷たくなっていた。
「ねぇ」
その猫を見ながら、ぽつりと白猫が言った。
「この猫は、死んでよかったと思う? それとも生きた方が幸福だったと思う?」
静かな、だが急な白猫の問いかけに、俺はしばし答えに迷った。
「多分、生きた方が良かったんじゃないかな……」
そう答えると、白猫が間髪居れずに言う。
「じゃあ、誰かが死ぬ代わりにこの猫が生き返るとしたら生き返したい?」
何を言ってるんだ。そう言おうとして見た白猫の目は、笑ってはいなかった。真っ直ぐに見上げてくる白猫の目は、何時に無いくらい真剣だった。
「猫じゃなくても良いよ。誰か、例えば大切な人。他人が死ぬかわりに大切な人が助かるなら、どうする?」
不意に、彼女の顔が脳裏を横切った。
「俺は……」
「自分の大切な人のためなら他人の大切な人を奪う? 大切な人のためなら何をしても厭わないって思える? 例え他人の大切な人を奪ってでも? それって格好良い事なの? そういうのって素晴らしいことなの? ねえ答えてよ」
一気にまくし立てあげられ、返事に窮する。
麻痺したように俺が何も言えずにいると、白猫は俯き、「ごめん」と呟いた。
「ごめん。ちょっと興奮しちゃった」
俺はただ、「いや、別に良いよ」としか言えることは無く、白猫もそれ以上はしゃべらず、俺は仕方無しに背広を着たまま自分の座椅子に座った。
穏やかな沈黙が垂れ込める。白猫は俯いたまま、黙って膝の上のそれを撫でていた。
時計が秒針を刻む音や、相手の息遣いまでが聞こえてきそうな静けさ。心臓の音すら煩く感じてしまいそうだ。
「ねぇ」
と、最初に沈黙を破ったのは、やっぱり白猫だった。
「この前の公園で言った話、信じてる?」
公園での話、きっと白猫の生い立ちのことだろうと思う。死ぬために生まれたという話。にわかには信じられない現実味の無い話だった。正直に言うと、半分くらいしか俺は信じていなかった。一瞬嘘をつくべきか迷った。けれども、
「……正直に言うと、半分くらいしか信じられなかった……ごめん」
そういうと、白猫は猫の耳をぺたりと寝かせ、小さく笑んで頷いた。
「ん、半分信じてくれればそれで良いよ」
そして、自分も最初はそんな仕事を育ての親がしてたなんて信じてなかったからと答えた。
白猫の膝の上のそれは硬直が始まり、毛皮のみずみずしさも失われていた。白猫は、固い猫の毛をそっと撫でながら、
「ねぇ、また俺の話聞いてくれる?」
○ ○ ○
白猫は、物心ついたときから黒猫という人物と共に暮らしていた。黒猫は、耳付きではなかったし、臓器売買という今の法律では完全に犯罪になることを職業としていた。もちろん黒猫という名前もきっと嘘なのだろうが、それでも白猫にとっては名前や職業なんてものはどうでも良かった。ただそこに黒猫という人物がいて、自分がいて、ただそれだけで十分幸福だった。
黒猫の仕事は、顧客の斡旋という仕事を担当していた。これは客から依頼され、金額の交渉、手術への準備のための病院への根回しが主だったという。もちろん違法だし金額は 膨大になるのだから、そう頻繁に仕事があるというわけでもなかったそうだ。
黒猫は普段は白猫と一緒に居た。けれど一度仕事が入ってしまうと、黒猫は客に付き添ってしばし海外へ行ってしまうこともある。これは日本での根回しが非常に手間がかかるためだ。それに国内よりも海外の臓器移植が合法になっている国の病院のほうが技術が上なところもあるかという理由ららしいが、白猫はその辺りに関してはよくわからないようだ。
ただ、仕事が入ると黒猫は知らない場所へ行ってしまった。
白猫が本当に、歩けないぐらいに幼いときは一緒に連れて行ってもらえたらしいが、物心ついてからは、ずっと家で待っていた。白猫は義務教育なんて受けていなかった。日常生活に必要なことや白猫が興味を持ったことは全て黒猫が教え、覚えた。だから、黒猫の仕事が入るたびに白猫はずっと、一人ぼっちで、まるで本当の猫のようにひたすら家の中で待っていた。
七歳くらいのある日、何時ものように大人しく黒猫が帰ってくるのをじっと家で待っていると、何時もよりかなり早く黒猫が帰ってきた。
「おかえり黒猫!」
喜んで白猫が黒猫の元に駆け寄ると、黒猫の横には、白猫と同じくらいの子どもが立っていた。
浅黒い肌の男の子で、目の大きな可愛い子だった。
「この子誰?」
白猫が黒猫に尋ねると、黒猫は苦い笑いを零しながらただ一言、
「今日からしばらく一緒に暮らす子だ」
それだけだった。
黒猫は、その子の名前も、出身地も、どこから連れてきたのかも、一切何も言わなかった。ただ一言、仲良くしろよ。とだけ言った。
白猫は男の子のことを「わんこ」と勝手に呼んでいた。仕草やコロコロ変わる表情が、どこと無く犬っぽかったから。
わんこは日本語が話せなくて、最初は白猫も戸惑った。向こうも少し戸惑っていたらしいけれど、数日もすれば言語なんてすぐにどうでも良くなった。一緒に絵を書けば楽しい。一緒にゴハンを食べれば楽しい。言葉なんて通じなくても良かった。部屋の壁に落書きして、二人して黒猫に怒られたりするのも、夕飯のおかずを取り合うのも、何もかもが楽しかった。
黒猫が仕事で何処かへ行ってしまっても、わんこと居れば、留守番の時、時折苛まれる、どうしようもない寂しさもそこまで酷いものにはならなかった。
二人で身を寄せ合い、買い置きしてあるレトルト食品や缶詰めを消費しながらじっと黒猫が帰ってくるのを待っていた。そして黒猫が帰ってくると、全身で黒猫におかえりを伝えた。
わんこと暮らし始めて半年もしたある日の夜のこと。
黒猫が突然ドライブに行こうと言い出した。
黒猫の車に乗って、行った先は公園だった。
夜の公園は暗く静まり返っていて、誰も居なくて、虫の声だけが静かに響いていた。
「見ているから遊んでこい」
黒猫は言った。
夜の公園なんて、滅多に来れるものじゃない。だから、白猫はわんこと遊んだ。
誰も居ない公園で、たった二人っきりで遊んだ。
滑り台を滑り、ブランコを漕ぎ、鉄棒を回りうんていを伝った。空はどこまでも見渡せそうなぐらいな星空で、月の灯りと穏やかの夜風が気持ちよかった。月明かりだけを頼りに砂場で山を作ってトンネルを通している最中に、ベンチに座っていた黒猫がいつの間にか傍に立ち、シーソーをしようと誘ってきた。
二つあるうちのシーソーのうち、右側のシーソーに黒猫が乗り、白猫とわんこが二人でその向かいに座った。
ギッタン、ガッタン、ギッタンと、シーソーが交互に傾く。
傾いたときに尻に響く振動が楽しくて、白猫とわんこは笑った。けれど、黒猫はあまり笑って居なかった。
「なあ白猫」
突然黒猫が喋った。
「俺が居なくなったら悲しいか?」
白猫は笑うのをやめた。けれど、言葉がわからないわんこは首を傾げて白猫と黒猫のやり取りを見ていた。
そんなの寂しいに決まってる。
そう言うと、次に黒猫はこう言った。
「もし俺が居なくならない代わりに他人を殺すとしたら、白猫はどうする?」
一も二もなく白猫は、
「黒猫が居なくならないならなんでもする」
そう言った。
黒猫は小さく頷き、そうかと答えた。
わんこはやっぱり解らないままらしくて、泣きそうな顔をしている白猫と、どこか悲しそうな笑みを浮かべた黒猫を不思議そうな顔をして見比べていた。
黒猫は、それっきり何も言わなかった。
その数日後、朝起きるとわんこは居なくなっていた。
黒猫はやっぱり何も教えてくれず、ただ少しだけ寂しそうな顔をして、今度教えてやるよと言うばかりだった。
何時になっても、どれだけ待っても、わんこは戻ってこなかった。毎日のように黒猫に尋ねてみても、黒猫は「今度な」と言うばかりだった。
だから白猫は毎日わんこを探して回った。
家の中の押入れも、家の周りも、近所の公園も、何も知らない七歳の少年の足で探せる所は全部探した。公園で遊んでいる子にも聞いた。けれども、すぐにそばに居合わせた親がやってきて連れて行かれてしまうので、話を聞けることはほとんど無かった。それでも白猫は毎日探した。
耳付きの子とは遊ぶなと我が子に言い聞かせる、他人の親の言葉を聞き流し、それでも白猫はわんこを探して回っていた。黒猫は、わんこを探し回る白猫を見ても何も言わなかった。毎日、起きてから眠るまでずっと、白猫は探し続けていた。
けれども、とうとうわんこを見つけることは出来無かった。
わんこが居なくなって数日した日、黒猫はようやくわんこに会わせてくれると言った。
白猫はもちろん喜んだ。
どうして今まで会わせてくれなかったんだという憤りよりも、これからまた会えるんだという喜びの方が勝っていた。
黒猫の車に乗せられて、行った先は遠くの大きな病院だった。
金持ちが沢山入院していそうな病院だった。病院のくせに大きな公園みたいな庭があり、沢山の人がベンチに座って談笑したり、車椅子に座った老人が看護師に押されて散歩していた。
黒猫は車を病院の庭が見える位置に止めると、車の中から遠くに見える車椅子に乗った女の子を指差した。優しそうな母親らしき女性に車椅子を押され、ゆっくりと散歩する色白の女の子は楽しそうに笑っていた。
黒猫は言う。
「あれがわんこだ」
白猫は最初、黒猫が冗談を言っているのかと思った。わんこは男の子だったし、肌の色もあんなに白くなかったし、それになにより車椅子になんか乗らなくても走り回ることが出来たはずだ。わんこはどこへ行ったのだろう?
「あれのなかにわんこが居る」
白猫は、黒猫が何を言っているか解らない。
いいか、と黒猫は言う。
「白猫、お前の知ってるわんこはもうどこにも居ない。もう絶対戻ってくることも無い。なぜなら、あの子が居なくならないようにする為に殺したからだ。悲しいか?」
もちろん悲しいに決まっていた。
けれども、あまりに現実味が無さ過ぎて、その場で白猫が泣いたりすることは無かった。ただ、じっとガラス越しに幸せそうな母娘の姿を見つめるだけだった。
「公園で、大切な人の為なら他人を殺せると言ったな。あの子の両親は、自分の娘が居なくならないようにするためにわんこを殺した。憎いか?」
白猫には解らなかった。
悲しいとか、憎いとか、そんな感情が沸くよりも、なんだか夢を見ているような気持ちで一杯だった。
「白猫。恨むなら俺を恨め」
黒猫はその一言だけ言って車を発進させた。幸福そうな親子の姿はすぐに見えなくなった。
運転中、黒猫は小さく唄を歌った。
どこまでも寂しそうで、どこまでも悲しそうな歌。けれども、どこか儚げで嬉しそうな節もある。色々な感情をごちゃ混ぜにしたような不思議なその歌を、白猫は忘れない。
○ ○ ○
――あぁ、私達の何れかが死ななくてはならないのなら
私は喜んでこの身を捧げよう。
そう悲しまずとも平気です。
何故なら私は一生分以上の幸福を、
既に貴方から貰ったのだから。
貴方の歩む道が幸福に満ちていることを祈っています――
○ ○ ○
保健所に電話をすると、三十分もしないうちに職員がうちに来た。
高校出たての生真面目そうな兄ちゃんで、蒼い清掃員用の制服を着て、今時には珍しい黒髪だった。
「お願いします」
俺は白いタオルにくるんだ猫の亡骸を兄ちゃんに渡すと、兄ちゃんはそれを受け取って少し作ったような笑みを浮かべた。
「あ、はい。それじゃあ二千円になります」
手数料を渡すと、兄ちゃんは片手でも大事そうにそれを受け取って、腰に括った何ともいえない色の集金袋に入れた。
「あの、」
踵を返そうとした彼に声を掛けると、兄ちゃんは「はい?」と首をかしげた。
「あの、猫はゴミと一緒にされるんですかね?」
そう尋ねると、兄ちゃんは少し考え込み、
「いえ、動物は動物用の焼却炉を使います。あと、骨はウチの地区は一応民営の動物霊園に納めますね」
「そうですか……」
「はい。それでは」
兄ちゃんは笑顔で軽く一礼すると、出て行った。
ドアが閉まるガチャンという音がして、家の中はシンと静まり返った。
この辺りには安心して猫を埋められるような場所が無い。だから昨日のうちに白猫に了承を取って、保健所に電話をして引き取ってもらうことにした。ゴミと一緒に死骸が処理されてしまうかも知れないと思ったが、ほんの少し安心した。
白猫はまだ俺の布団で眠っている。
時刻は昼を少し過ぎていた。
俺は、ふらふらと座椅子に座り込んで中を仰ぐ。
しばらくの間何も考えずにぼんやりとしていた。そして、色々な事をぼんやりと思い出して考えた。
昔々に父親から受けた暴力。母親からの冷たい言葉。彼女との生活と彼女の死。守れなかったという自責の念とどうしようもない自己嫌悪。
公園で白猫が歌っていた歌と、白猫の過去。
夜の繁華街で自分を売っていた白猫と、今、布団の中で穏やかな寝息を立てている白猫。何だか寂しいからと、昨晩俺の布団に入ってきた白猫の表情。それを受け入れた俺。寄せられた身は華奢だけれども、しっかりしたオトコらしい体つき。そのはずなのに、昔抱いた彼女の体よりも酷く儚く脆く感じられた。
布団の中で言われた白猫の言葉。
「もっと俺のこと聞いていいよ」
心の奥底で知りたくないと思ってしまった俺の本音。
俺は、怖かったんだと思う。
過去を聞いてしまうことで噴出してしまう思い出で、白猫を傷つけまいとしていた反面、白猫の闇を知ってしまうことが怖かった。
また支えられないんじゃないかと。
また、居なくなってしまうんじゃないかと。
過去が何物であろうと、そこに居る白猫が変わることなんて何も無いはずなのに、ただひたすらに恐ろしかった。
だから、俺は今までずっと白猫に何も聞けなかったんだ。
ずきん、と既に塞がったはずの手首の傷が疼いた。
俺は、優しくなんてない。
右手でぎゅっと左手首を握り、ふと目に入ったのはテーブルの横に置いてある白猫の写真集。
衝撃的な死体だけの写真を沢山集めた二冊の本は、白猫が自分の家から持ってきた唯一の物。
白猫には戸籍が無い。
保険証も無い。身分証も無い。親も無い。自分が居たという証明が出来るものが何一つ無い白猫は、もしかしたら……。
俺はすぐにその考えを改めた。そんなはずは無い。現に白猫はまだ生きている。それにそんなことはとても虚しいことだ。けれど……。
もしかしたら、白猫は誰よりも死にたがっているのかも知れない。
死という形で、自らが居たということを証明したがっているのだとしたら?
他人に記憶を焼き付けて死ぬことで、もしくは自らの亡骸を他人に見せ付けることで自分が居たことを証明しようとしたがっているのなら?
もしそうなら、そしてその時がいつか来るのだとしたら、俺はやっぱり白猫を止めるのだろうか。それとも彼女のときのように、逃げるのだろうか。
あの時のように、引き止める彼女を一人置いて、仕事を言い訳に会社へと逃げるのだろうか。
白猫も居なくなるのだろうか。
俺の前から。
永遠に。
○ ○ ○
白猫は布団の中から闇をじっと見つめている。
白猫は、闇の中では眠らない。
ただじっと、布団の中にうずくまり、闇を見つめて朝を待つ。
そして、カーテンの外がほんの少し白み始めた時、ようやく安心したように眠りにつく。
何時間もの間、布団の中から一歩も動かないことが、白猫には苦では無いらしい。
始めにうとうとと徐々に瞬きの回数が少なくなり、そして目が閉じられ、そのまま腹式呼吸独特の寝息に変わるのだ。
その頃には既に太陽は昇っていて、だから白猫はとても朝に弱い。
あの日あの時、俺が手首を切ったとき。白猫が早朝に起きてきたのはほとんど奇跡に近いのかもしれなかった。
そのことを知ったのは随分と最近のことだ。
白猫は何時だって俺よりも後に寝て、俺よりも後に起きる。朝はどんなに目覚ましが煩くなっても起きないくせに、暗闇の中ではどんな些細な物音にも反応して、始終白い猫の耳を動かして音を探っている。
「眠らないのか?」
寂しいからと寄り添ってきた白猫に始めて尋ねると、白猫は小さく頷いた。
「うん。昔から夜は眠れないんだ」
それからぎゅっと俺の寝巻きを握った。
「やっぱり俺って気持ち悪いよね……」
白猫の小さな呟きに、俺は一言「なぜ?」と聞く。
「だって……」
白猫は言う。その声は、どこか怯えのようなものも含まれている気がした。
「だってさ、俺って本当に訳わかんない奴なんだよ。家畜みたいに生まれたし、親も居ないし戸籍も無いし友達も居ない。名前もおかしいし、学歴も無いし、耳付きだし、ホモだし、女々しいし、今もこうやってどっかの女みたいに甘えてこんなどうしようもないこと聞いててさ、体も売ってたし、自分でももう俺が本当に男なんだか女なんだか解んないし……」
そこまで言ったところで白猫は口を噤んだ。握る手に力がこもり小さく震えている。だから俺は白猫の背に腕を回し、軽く叩いてゆっくり撫でた。
「良いんだよ。別に。気持ち悪くないから。感情に性別なんて関係ないから」
そう言うと、白猫が少しだけ笑った気がした。
「お兄さんてホント優しいよね」
「そうか?」
「そうだよ。凄く優しいと思う」
白猫の体からふっと力が抜けた。
「そんなに優しくされたら好きになっちゃうじゃん」
白猫の頭が、俺の胸元に寄せられる。
「もっと俺のこと聞いていいよ」
「…………」
「誰にも知られずに死ぬのは寂しいんだ」
小声で呟くように言った白猫の言葉に返事は出来ず、互いにただ黙り込んでいた。数分後に白猫は俺に寄り添ったまま眠り、俺は顔にかかった白猫の髪を払うと、その穏やかな寝顔をぼんやりと眺めていた。
きっとまだ、沢山のことを抱え込んでいるであろうこの存在を。それなのに俺は……。
カーテンの外は薄く白み始め、朝日が差し込もうとしている。
誰にも知られずに死ぬのは寂しい……か。
俺は白猫を守れないかもしれないと思う。
眠っている白猫に小さくごめん。と囁いた。
○ ○ ○
会社帰りに見上げた繁華街から程はずれた夜空には、目を瞑ったときの形のように、細い細い三日月がぽかんと一つ浮かんでいた。
酒にほてった体に心地よい夏の夜風がふいて、俺は空を見上げて鼻歌交じりに白猫の唄を歌ってみた。
そうしたら何だか知らないけれど、少しだけ切ない気持ちになる。それから、早く白猫に会いたいと思った。
最近の俺はちょっとだけおかしいかもしれない。何故かとても白猫が愛しいと思うのだ。
白猫は男だし、可愛いとか愛しいとか思うのはやっぱり変なのかもしれないけれど、でも家族的な愛情とはちょっと違うのではないかと思う。けれどもじっくり自分の気持ちについて考えるとやっぱり女性に対する恋愛感情とも違うような気がするし、けれどそもそも家族的な愛情なんて俺はてんで知らないから、勘違いしているだけでやっぱり家族的なモノなんだろうか。
一人でもやもや考えて、ふと空を見上げても何かがひらめくわけでも降ってくるわけでもなく、三日月はただひたすらに宙にぽかりと浮かぶだけ。
夜空を見上げていると、ふと部屋の中の真っ暗な闇で待っている白猫が頭に浮かび、自然と歩く速度が速くなる。
まぁ、今の俺に何となくぼんやりと解ることがあるとするならば、きっとしばらくは女性を好きになることは無いのだろうなぁということなのだった。
白猫が居なくならないようにしたいと思う。
○ ○ ○
串に刺さった鶏肉を一口口に含んで咀嚼すると、うまみのある塩味が咥内に広がった。
少し薄暗く作られた店内は、何処かの隠れ家を彷彿させるようにごちゃごちゃと入り組んでいる。廊下と小さな丸い客室は暖簾で仕切られ、テーブルに並んでいるのはビールのジョッキと、幾種類かの串焼きと豆本来の味を潰さない程度に塩味のつけられた枝豆。それと、鰹節とショウガのたっぷりかかった美味そうなひややっこ。
箸で摘まむとホロリと白い形が崩れ、口に含むととろりと蕩けた。
「お前最近顔色良くなったよな」
向かいに座っている関根が笑う。
「そうか?」
言いながらもう一口、豆腐を食べながら、そうかもしれないなぁと自分でも思う。自分を傷つけたいという欲求も内罰的な感情や記憶も、ついこの間までに比べれば大分落ち着いている気がする。
「そうだよ」
関根がビールのジョッキを右手で持ち上げ口をつけて喉を動かした。それから豚肉の刺さった串焼きを左手でもって食い千切り、もしゃもしゃと咀嚼して飲み込んだ。
「少し前までなんてもーヤバいぐらい顔色悪かった。死人みたいな顔してたしな」
それから「少し安心した」と関根は笑う。
仕事を終えて帰ろうとしたとき、久しぶりに関根からどこかに飲みに行かないか? と誘われたのだ。白猫が家で待っているから――ウチに家電は無いし白猫も携帯を持っていないので連絡が取れない――一瞬断ろうかとも思ったが、大事な話があるという関根の言葉と、久しぶりに関根から誘われたという嬉しさに俺はついつい承諾してしまった。
行った先は、入社したてのときによく二人で行った居酒屋で、あまり他人が干渉してこない作りが気に入っている店だ。ちなみに昔関根に殴られた店はここではない。テーブルにつくと、関根は早速串焼きとビールを注文し、俺も同じくビールと冷奴と枝豆を注文した。若い女性の店員は素早くメモを取ると俺と関根の注文をもう一度確認してから「ごゆっくり」という言葉と共に立ち去った。
待っている間、俺と関根は高校時代の他愛も無い昔話に花を咲かせていた。高校時代に二人で時々遊びに行ったゲームセンターの話だとか、そこが最近になって潰れて、後から新しくテナントにはいった店は米屋だったとか、昔憧れていたあの女性の話とか、その女性が最近どこそこの男と結婚してしまったらしいとか。最初すぐにビールが届き、枝豆、串焼き、ひややっこの順番で次々と頼んでいた品が届く。
互いにちびりちびりとビールを飲みながら、どうでも良い昔話をして、俺も笑った。
笑った俺を見て、関根は「やっと笑えるようになったんだな」と言った。
だから俺は「おかげさまで」と返した。
大きな溜息をつくと、もう一口ビールを飲む関根は、どこか気まずそうだった。
無理も無いだろう。俺が自傷して、関根が俺を殴ってから今までの間、ロクに話などしていないのだ。
「まだリスカとかしてんのか?」
関根がぽつりと呟くように聞いてきた。
「いや、もうしてないよ」
「そっか。良かった」
それから関根はテーブルに置いたビールのジョッキを両手で包むように掴み、しばしぼんやりとあわ立つ黄色い液体を眺めていた。
「俺な」
関根は言う。
「どうしていいか解らなかったんだ。あんなに苦しんでるお前なんて初めて見たし、何とか元気付けたかったけど、逆効果になったみたいだし」
それから一気にビールをあおりジョッキの中身を空にする。どんっとテーブルにジョッキがぶつかる音がして、関根の顔はほんの少し赤くなる。
「なんだろうな。ずっと謝りたくても何か謝れなくてな……」
ぽつりと言う関根に、そこで俺はあぁと思う。
関根も同じように苦しんでいたのか。
「良いよもう。昔のことだし」
豆腐を一口。俺は少し笑ったような口調で言った。関根も同じように苦しんでいたのが何となく解っただけで十分だと思う。
「そうだ。それより、大事な話ってなんだ?」
そういえば、俺は今日関根から大事な話があるということで呼び出されたのだ。少し酔っ払って顔が赤くなっている関根は宙を見て、「あー……」と言って唸った後、
「俺結婚する事になったわ」
あまりに軽い口調に思わず豆腐を噴出しそうになる。
「はぁ? 誰と?」
「今井さん。受付の」
アルコールが回った頭では、一瞬受付の今井という人物の顔が思い出せなかったが、徐々に思い出してきた。ウチの会社の受付二人のうちの一人だ。ショートカットで少し目の大きい可愛い子だったと思う。そういえば会社の女子社員が何か噂話をしていたのを聞いた覚えはある。受付の一人がそろそろ結婚するとかしないとか。
「へぇ〜……」
関根と結婚だったのかぁとかなんだか意外だなぁとか思いつつ、俺は関根をまじまじと見つめた。今までずっと誰かと付き合ってるなんて教えてくれなかったが、それは多分彼女を失って鬱々としていた俺に対するコイツなりの優しさの一端なんだろうなぁと思うと少しだけ申し訳ない気持ちになった。
「なんだよ」
「いや? 少し意外だと思っただけだ」
関根のあまりにぶっきらぼうな言い方に、俺は慌てて首を振る。
「悪かったな。意外で」
関根は関根で照れているのか酔っているのか、赤い顔してむすっとしていた。
「ははっ、悪い。で、式とか挙げるのか?」
そんな様子も昔みたいで楽しくて、また少し笑ってからそう問うと、関根は一つ頷いた。
「ん。再来週の日曜日。もちろんお前も来てくれるよな?」
赤い顔で伺うように見てくる関根に、俺はもちろん頷く。
「もちろん。ちゃんと行くよ」
おめでとう。と最後に付け加えると、関根は笑った。俺も笑った。互いに久しぶりに笑いあい、それじゃあと言うと俺はそばに来ていた店員を呼ぶ。
「めでたいんだからもちろん今日は関根の奢りな?」
過ぎ去ってしまった高校時代の時のように、したり顔で関根に言うと、やってきた店員に次々と注文していく俺に、関根は「えっ、そりゃ無いって、てか逆だろ普通。何勝手に注文してんだよ」とギャグマンガのキャラクターの如くツッコミを入れながらも「串焼きもう一皿」とちゃっかり自分も注文するのである。
そのような様子も、昔の関根と変わらない。きっとこれからも変わらないのだろう。
けれども、何だろうか?
このぎくしゃくとした気持ちは……。
○ ○ ○
帽子をかぶった白猫は、きょろきょろと公園にずらりと並ぶいくつもの電球で照らされた夜の露店を物珍しげに見ていた。
普段は公園なんか来ない人間も、今日だけは特別とばかりに、この広いだけがとりえのような公園に押し寄せていた。先が見えないぐらい遠くまで並んだ露店には、ずらりと客が並んでいて、前に進むだけでも中々疲れる。
白猫は控えめに俺の服の裾を握っている。
はぐれて離れ離れにならないためというのもあるが、ここまで人間が密集していると、白猫にはほんの少しだけ怖いらしい。白猫を最初に見かけた繁華街も中々に人通りは多いけれど、ここまで人間が密集することはまず無いだろう。
白猫はバスや電車等の狭くて人が多い場所を酷く嫌がる。だから今回の祭りも、白猫が嫌がったらすぐに帰ろうと思いながら連れ出したけれど、この分なら大丈夫そうだ。
会社の新聞で知った今夜の夏祭りは、俺の家のそばの、白猫の歌ったあの公園で開かれるらしい。会社から急いで家に帰り白猫に聞いて見ると、どうやら白猫は祭りと言うものを体験したことはほとんど無いそうだ。
「小さいころ、黒猫に一度だけ連れて行ってもらったことはあるらしいけど、ほとんど覚えて無いんだよね」
そう言いながら白猫は苦笑いした。
それならなお更行ってみようと、俺は白猫にいつかのように帽子を被せて連れ出した。
最初こそあまりの人の多さにおっかなびっくりで下ばかり見ていた白猫も、屋台のたこ焼き屋から流れてくる香ばしい香りやクレープやわたあめの甘い香りを嗅いでいるうちに、きょろきょろと余所見をするようになる。
「何か食いたいものあるか?」
そう聞いてみると、白猫は「あれ」と小さく指差した先にある屋台は、わたあめ屋だった。
大きな綿飴の製造機に割り箸を入れてグルグルかき回すと、白い生糸のように細くなったザラメが雲のようにもくもくと膨らんでいく様は、俺も初めて祭りに行って見かけたときは随分と心引かれた覚えがある。
わたあめの入った袋はとりどりのアニメや特撮のキャラクターがプリントされていて、俺は白猫に「どれがいい?」と問いかける。
白猫はしばし真剣な顔をして悩んでから、ペンギンっぽくないペンギンのキャラクターがプリントされた袋を選んだ。
少し怖そうなおじさんが愛想笑いを浮かべながら、白猫に空気でパンパンに張ったわたあめの袋を差し出して、かわりに俺は金を払う。白猫は、綿飴の袋をくるくる回したり全体を眺めたりやけに楽しそうにしていた。
「あ、金魚!」
わたあめの袋を持ちながら、そう時間もたたないうちに白猫が立ち止まる。止まった場所は金魚すくいの店の前だった。
赤い小さな金魚と、黒い出目金、それからフナみたいな少し焦げ茶掛かった金魚が、青くて底が浅い水槽の中を優雅に泳いでいる。
水槽の前にかがんで、泳ぐ金魚を睨みつけながらポイを構えている子供が数人。一人が見ているうちに水にポイを入れるが、薄い和紙で出来たポイはすぐに破れてしまった。
白猫は立ち止まったまま、きらきらした目でそれを見ている。
「やるか?」
その様子がなんだか面白くて俺が聞くと、白猫は「良いの?」と俺を見上げてきた。
「いいよ。済みません。二回お願いします」
にっと白猫に笑いかけ、俺は百円玉を二枚、水槽の向こう側でパイプイスに座って客が不正をしないか見張ってるおじさんに渡した。
渡されたポイを一つ白猫に渡し、俺は子供たちの間に入り、青い水槽の前に屈む。水の上にぷかぷかと浮いているおわんを一つ手にしてポイを構えると、白猫も真似して同じ事をする。
金魚すくいなんて何年ぶりだろうか。懐かしい気持ちに妙に心が躍った。赤い小さな金魚が丁度良い場所をすっと通り抜ける瞬間に、俺は持っていたポイを、今だと水に入れる。
金魚は見事ポイに収まり、おわんの中に上ろうとしたまさにその時、水に濡れた和紙は音も無く破れ、赤い金魚はぽちゃりと再び水に戻ってしまった。
残念。と見ていたおじさんが笑った。
俺は愛想笑いを浮かべつつも少しがっかりしながら白猫を見ると、白猫はポイを片手にまだじっと水槽の中を真剣に見つめていた。
その姿は、まるで獲物を狙う猫のよう。
次の瞬間、さっと白猫の手が動き、赤い金魚が一匹、薄い和紙の上にあげられ、おわんの中へぽちゃんと収まった。
おお。と思わず口から漏れる。隣に居た女の子も白猫を見ていた。
「やった」
白猫が小さく呟く。
そして、もう一度構え、今度は俺と同じにポイで捕らえたは良いがすぐに破れて逃げられてしまった。それでも一匹取った白猫は得意げに俺に笑いかける。
ビニール袋に入った金魚を一匹持って、白猫はとても嬉しそうだった。
「良かったな」
そう言ってやると、白猫はビニール袋の中を泳ぐ金魚を見て、にへへっと笑った。
その後は、もう白猫は俺の傍にはくっつかず、お互いに見失わない程度に離れては、ちょろちょろと人の並んでいる電灯に照らされた店を観察して回り、何か楽しそうなものを見つけては俺を呼ぶ。
「あれは何?」
「型抜き。針とか使って決められた形をくり貫くんだ。上手く行けば景品が貰える」
「あっちは?」
「射的。棚に並んでる景品をコルク鉄砲で倒したら貰える」
「あ、アレおいしそう」
カラースプレーの沢山かかったチョコバナナを隣で頬張りながら、楽しそうに歩いている白猫を見ていると、やっぱり連れてきて良かったと思った。
ふと時計を見ると、時刻はもうすぐ八時になる頃だった。人通りも来たばかりに比べれば大分少なくなっていた。
「白猫。そろそろ行くぞ」
チョコバナナの刺さっていた割り箸をゴミ箱に捨てている白猫に声を掛けると、白猫は「帰るの?」と少し心配そうな様子で聞いてくるから俺は苦笑しながら返した。
「いや、もうすぐ花火やるから。良い場所知ってるんだ」
すると白猫の表情はぱっと明るくなり「早く行こう」と俺の数歩前を早足に歩く。
そんなに急がなくても大丈夫だよ。と笑いながら俺も歩き出す。
「早く行かなきゃ場所取られちゃうじゃん!」
「大丈夫だって。前向いて歩かないとぶつかるぞ」
そうやって斜め後ろに歩いている俺を見ながら早足に歩く白猫に声をかける。けれども、俺の声はやや遅く、言っている間に余所見をしていた白猫は向かい側から歩いてくる人の一人にぶつかった。
言わんこっちゃ無いと苦笑する。
白猫がぶつかってしまったのは、つりあがった目に真っ赤な口紅をつけた、祭りよりも繁華街が似合いそうな女性で、恐らく香水だろう。繁華街でも中々居ない頭から原液をかぶったようなキツいラベンダーの香りを体から漂わせていた。香りと言うよりも悪臭に近いかもしれない。
その女性はコチラを物凄い形相で睨みつけてきたが、白猫は自分よりすこし高いくらいの背丈の女性の顔を見たまま微動だにしなかった。俺がすかさず傍により、代わりに軽く頭を下げ「済みません」と言うと、女性は「気をつけてよね」と吐き捨てるように言って去っていった。その物凄い形相に、不覚にも少し怖いと思ってしまった俺は、気を取り直すようにまた歩き出そうとした。が、白猫はぴくりとも動かない。
「白猫?」
顔を覗き込むようにすると、白猫は宙を見たまま目を見開いて、過呼吸に陥ったかのような浅く忙しない呼吸を繰り返していた。
「大丈夫か?」
そう聞きながら肩に触れようとすると、白猫は「ひっ」と短い悲鳴を上げて俺の手を振り払う。それからまるで何か酷く恐ろしいものでも見るような目つきで俺を見上げると、恐怖に強張った表情のまま一歩、二歩と後ずさり、そのまま俺に背を向け駆け出した。
「白猫っ!」
駆け出す瞬間、白猫を捉えようとした俺の腕は虚しく宙を掴み、人の流れにすぐに追いかけることも出来ず、人ごみの間にするりと消えてゆく白猫の後姿を見送るしか出来なかった。
○ ○ ○
『記憶』というのは大抵にしてもう終ってしまったことなのである。
だから、『過去の記憶に悩まされる』というのは物凄く損な事なのだろう。
だからこそ『過去の記憶で悩んでいる姿』は他人から見ればきっと『もう終ってしまったことを何時までもグズグズと悩んでいる仕方のない人間』だと見なされることも仕方のないことなのかもしれない。
自分でも、こんなに役に立たない、自分を苦しめるだけの記憶を大事に抱え込んでいたら忘れるものも忘れられないのはもちろん知っている。馬鹿だな。と思う。こんな下らないものに、許しも出来ず忘れも出来ず悩まされたりするのは、物凄く馬鹿らしいことなのかもしれない。けれど、そう簡単に嫌な記憶を手放すことが出来たら誰も苦労なんてしないんだろうなとも思う。
そんなことが出来たら、俺も白猫もこんなに苦しむことは無かったんだろうと思う。
○ ○ ○
白猫は血管のように園内に張り巡らされた、人気の無い小川の脇に生えている芝生に膝を抱えて座っていた。
帽子を脱いでしまったのか、闇夜によく映える白い耳が後ろへ寝ている。
「白猫」
そう呼ぶと、白猫はピクンと耳を動かして、のろのろとこちらを向いた。
その顔は申し訳なさそうな、辛そうな、そして苦しそうで悲しそうで、何かを諦めたような笑顔を浮かべていた。
「お兄さん……」
急に走り出してビックリしたぞ。そういう風に笑いながら言う予定だったのに、その表情があまりにも辛そうで、苦しそうで、だから俺は何も言えなかった。それどころか笑顔の一つも造ることが出来なかった。
何も言わずに白猫の隣に腰を下ろし、持っていたペンギンぽくないペンギンの描かれたわたあめの袋を差し出した。
「走って疲れたろ。糖分とると良いぞ」
白猫は、しばらく空気に張った袋に描かれたイラストを眺めると、キツく結ばれていた輪ゴムを取って、割り箸に刺さった生糸のようなわたあめを取り、一口食べる。
「美味いか?」
そう聞くと、白猫は最初よりも少しだけ落ち着いた様子で頷いた。
「良かった」
俺に出来る精一杯の笑顔で返すと、白猫は小さい声で「ありがとう」と呟いた。
「良いよ」
空を見上げると、まだ花火の始まっていない穏やかな夜空が広がっていた。
静かな虫の声も辺りから聞こえてきて、なんとなく白猫と来た日の公園を思い出したが、今日の月は満月ではなく半月だった。
横を見ると、白猫は無言でわたあめを食べている。その表情は先ほどよりも穏やかで、俺は少しだけ安心した。
突然白猫が駆け出した理由は良くわからない。けれど、あの女性の身に着けていた何かに関係があるんだと思う。おそらく、それが起因で嫌な記憶でも蘇ったのだろう。
「ごめんね」
ぼんやりと考えていると、わたあめを食べていた白猫がポツリと呟いた。
「ごめんね。折角さ、お祭り連れてきてもらったのに……詰まんなくなっちゃったよね」
わたあめで口元を隠しながら白猫が泣きそうな声で言っている。だから俺は、白猫の肩に腕を回して抱き寄せた。華奢な肩は一瞬びくりとして、それからすぐに大人しくなった。
「良いよ。謝らなくても。ここからでも花火は見えるし、白猫は楽しくなかったか?」
そう聞くと、白猫はふるふると小さく首を振った。
「なら、良いんだよ。白猫が楽しかったらそれでさ。それに、祭りなんて来年も再来年もずっとあるから」
その時、向こうの方でわぁっという声が聞こえたかと思うと、どんっと腹に響く音が聞こえて空に大輪の花が咲いた。
花火が始まったらしい。
虫の音色は小さくなり、腹に響く音が次々と聞こえたかと思うと、赤や黄色やオレンジ色の炎の花が次々と夜空に咲いては枯れてゆく。
頭上を仰ぎ、「綺麗だな」と言うと、白猫はしばらく黙ってから、まるで呟くように聞いてきた。
「……お兄さんにとって俺って何?」
どぉん。と花火の大音が白猫の声に重なり、その言葉が良く聞こえずに「え?」聞き返す。と、白猫は「やっぱりなんでもない」と首を振った。
それから、「綺麗だね」と空を仰ぐ。
どぉん。ひゅうひゅうどぉん。と、ニ連三連、と連続して花火が舞い上がる。ぱらぱらと音がして、炎の粒が空の中に掻き消えて、星々の間を花火の残滓である煙がゆっくりと泳いでいるのが見える。
遠くの方で次の花火への準備アナウンスが聞こえ、ほんの一時の間だけの静寂が広がった。その時腕の中の白猫が、きゅっと甘えるようにすりついてきたので、お返しに背を撫でてやる。すると少し不安げな色も混じった声で白猫がこう言った。
「キスしてって言ったら怒る?」
けれども俺が何かを言う前に、すぐ白猫はその言葉を慌しげに撤回する。
「ごめっ、やっぱいい。なんでもない。だから――」
けれど、その口が次の言葉を発する前に、俺は白猫の頬に片手を添えて、白猫の唇に口付けた。
白猫は一瞬だけ目を見開いて、けれども見開かれた目はほどなく細くなる。
互いの体が離れないように、白猫の背に回した腕で白猫をしっかりと抱きしめる。
唇と唇だけの、本当になんでもない、ついばむような浅い口付けを繰り返す。
白猫の唇は柔らかで、温かくて、嫌悪感なんてまるでなかった。それどころか、ずっとこうしていたいとまで思えてしまうのが不思議だった。
長いのか短いのかよく解らない口付けを交わし、互いの唇と唇が離れたとき、準備が終ったのか手違いなのかはわからないが、ひときわ大きな炎の花が、満点の星空に花開いた。
○ ○ ○
白猫が祭りで掬った赤くて小さな金魚。
テーブルの上、買ってきた小さくて透明な金魚鉢の中でゆらゆらと泳いでいる。
ちゃんとブクブクも水草も入れてあるので大丈夫。
白猫は、その金魚をとても楽しそうに眺めている。猫が魚を見るような目ではなく、好きな物を優しく愛でるような、愛しむような、そんな優しい目つき。
それを見て、俺は白猫とずっと一緒に居たいと思った。それから、守りたいと思った。
今まで守れなかった分、いろいろなものを守れなかった分、白猫を守りたいと思った。けれど、その気持ちは、ほかのものを守れなかった代わりに白猫を守りたいというわけではないと思う。ただ、純粋に守れなかった分まで、俺が逃げ出して傷つけてしまったものの分まで守りたいと思う。
公園からの帰り道、俺は帽子を被った白猫と手を繋いで歩いた。周りを歩く人間に、手を繋ぐ俺達を見てひそひそと陰口を叩いているのが幾人か見えたが気にしなかった。白猫は数度俺から手を引いて放そうとしたが、俺は放させなかった。ぎゅっと手を握って白猫と歩く。
帰り道で白猫は言う。
昔、とても酷い目にあったのだと。その中にラベンダーの香水をつけている人間が居て、だから香水の臭いがしたときについ走り出してしまったのだと。だからもう手を放しても逃げたりしないと。
聞いてもいないのに、まるで弁解するように言う白猫。
どうやら頑として手を放さない俺が、また白猫が走って逃げ出さないようにするために手を繋いでいるように見えたらしい。
だから俺は白猫に尋ねる。
「白猫は手繋いで歩くのは嫌いか?」
すると、さっきまで弁解めいたことを言いながら手を放そうとしていた白猫は、少し照れたように俯いて、
「嫌いじゃない。けど……」
そういう風に言ったので、俺は「じゃあ良いじゃん」と答えた。俺が手を繋ぎたいからこのままでも良いじゃないか。と。
そんなことを言うと、白猫はしばらく黙り、それから「ありがと」なんて言葉を小さく紡いだ後に、照れ隠しのように歌を一小節だけ歌った。
その歌声は小さすぎてよくは聞こえなかったけど、とても優しい歌声だった。
○ ○ ○
白猫の歌。
どんなことも赦せてしまいそうなほどの優しい歌。けれど悲しい歌。
白猫は、いったいどういう思いでこの唄を歌っているのだろう?
テーブルに突っ伏して、腕に顎を埋めた状態で金魚を見ていた白猫が、珍しく部屋の中で歌を歌ったものだから、椅子に座っていた俺は、テレビを消してその歌声に静かに耳を傾けていた。
どうしてこんなにも優しい歌声が出来るのだろう。どうしてこんなにも寂しい歌声が出せるのだろう。そんな風に思っていたら、ぱたりと白猫が歌うのをやめた。
歌うのをやめて、金魚を見たまま俺に聞いた。
「金魚はこんな狭い場所に閉じ込めた俺達を恨んでいるのかな?」
ふと思ったことを問うただけのような白猫の言葉。
「それは金魚じゃなきゃ解らないな」
少し答えに迷ってからそんな曖昧な答えを返す俺に、白猫は一度ふぅんと言うと、もう一度俺に聞いた。
「もし恨んでいるとしたら、俺達は何をすべきなんだろうね」
今度の問いは、まるで金魚と自分を重ね合わせ、更に白猫の思う、恐らくは自分のトラウマを作った人物と自分を重ね合わせたように聞こえた。だから俺は逆に白猫に尋ねる。
「…………白猫はさ、何かを恨んでいるのか?」
ぴくん。と白猫の耳が動き、少し黙ってから何かを思うように答えた。
「あー……恨んでない。って言ったら嘘になるね。多分恨んでるよ」
金魚からは目を放さずに、抑揚のない声で白猫が言う。それからテーブルにペタリと頬をつけて突っ伏した。
当たり前だと思う。白猫の生い立ちを抜かしても、祭りの日に白猫の言った「酷い目」は確実に白猫を内から苦しめているに違いなかった。そこまで考えた後で、俺は何を聞いているんだろうと少しばかり自己嫌悪に陥りかけたとき、白猫がテーブルから体を起こし、どこかここじゃない違う場所を見るように「だけど」と言った。
「誰もそうなりたくて生まれたわけじゃないんだよね……」
その言葉は、どこか物悲しげで、切ない響きを帯びていた。
誰もそうなりたくて生まれたわけじゃない。相手も、自分も、誰もそういう風になりたくて生まれてきたわけじゃない。白猫はそう言っているようだ。
「黒猫が言ってたんだ。最初から今の自分になりたくて生まれてきた人間なんて何処にも居ないってさ。誰かに酷いことをした人だって、最初からそうなりたくて生まれたわけでも育ったわけでもないって……俺はほら、半分ヒトゴロシで出来た金で育ったからさ。解るんだよ。黒猫も、好き好んでそういう仕事ついてたわけじゃないのも知ってるから。悪い奴って言われてる奴も最初からそういう風になりたくて生まれたわけじゃないっていうのが」
そこまで言ったところで白猫は黙った。
もしかしたら白猫は、色んなものを恨んだり憎んだりするのと同じくらい、自分に害を与えた色々なものを赦したいと思っているのかもしれないと思う。
赦したい。けど赦せない。そういう葛藤は意識すれば物凄く大変な事で、辛くて、苦しくて、酷く痛みを伴うことなのだろうと思う。俺は両親を赦したわけではない。ただ、心の奥に押し込めて忘れただけ。俺は勝手に逝ってしまった彼女を心から赦したわけではない。きっと心のどこかでは未だに赦せない気持ちがあるだろうと思う。恨んではいない。どちらもそういう風になりたくてなったわけではないのは、よく解る。俺もそうなりたくてなったわけではないから。けれど、俺は赦したいとは思わない。いや、思えない。赦してしまったら、俺を形作っている何かが壊れてしまう気がしたから。
その時、白猫がぽつり、と呟いた。
「俺、最初から生まれてなければ良かったのかも……」
最初から生まれてなければ、こんな目にはあわなかったのに。
もしくは最初から居なければ、または何も感じぬうちに死んでいれば苦しむことも無かったのにという意味にも取れるそれは至極真っ当な意見だと思った。俺も何度も思ったことだから。けれど、俺は椅子から体を起こすと白猫の体をぎゅうと抱きしめて言った。
「そういうこと言うなよ馬鹿」
そしたら白猫は一言「冗談だよ」と言って笑うと、俺の頬に口付けた。
○ ○ ○
白猫が愛しいと思う。
けれども、その感情にはある種の危うさが伴うということには何となく気がついていた。
『恋愛感情』というものは、常に男女間でのみ成立するものではないのか? たとえ口付けが出来たとしても、同性間の『恋愛感情』というのは、もしかしたら憧れや家族的愛情を勘違いしたものではないのか? という疑念が常に俺の中にはあった。
いや、百歩譲って同性間の間に『恋愛感情』があったとしよう。例えば、生まれつきの――白猫のような耳付きや初恋自体が同性だった等の――同性愛者ならば解る。
けれども、俺は少し前までは『女』と付き合っていた。
今から思え共依存じみていて、決して正常な恋愛では無かったにせよ、それでも俺は『女』と好き合っていた。
その感情は今でもそれなりには覚えているが、白猫に対する感情が、異性に対するものと同じなのか? と問われれば俺はハッキリとした返事を返すことは出来ないだろう。世の中にはバイセクシュアル等の両性愛者も存在するが、同性をここまで愛しいと思ったのは白猫が初めてだし、白猫以外の男にこういう感情を持ったことは無い。
だから惑う。白猫を愛しいと思えば思うほどに。
この気持ちは、ホントウに恋愛感情か?
その思いは、関根の結婚式を境にどんどん強くなっていった。
関根の結婚式で、関根はカッチリとした新郎姿で、会場でのキリっと引き締まった顔は高校時代の彼とはまったく別の人のように思えた。
新婦もまた同じだ。「女」ではなく一人の男を生涯の伴侶と決めた「妻」の顔なのだ。
互いを見る視線には確かな物があるように思える。多分それこそが「夫婦」と呼ぶ絆なのだろうなぁと、何とはなしに思った。
結婚式会場では、新婦の父親と思われる人物が式の中盤で泣いていて、その親戚と思われる人間がハンカチやらティッシュやらを差し出したりしてたり、控えめに飛んできた親戚の野次に関根が苦笑いをしたり、そんな「結婚式」の風景をぼんやりと眺めていた。
○ ○ ○
「愛ってなんだろうな」
関根の結婚前の出来事だが、関根と和解した後の、割と最近の出来事だ。
会社の近所にあるカレー屋にて、久しぶりに関根と昼食を取っているときにふと聞いてみたことがあるのを唐突に思い出した。
ただあのときの俺は、白猫との口付けもまだで、今ほど自分の気持ちに対し危機感を覚えてはいなかったように思う。
そんなに唐突に聞いたつもりは無かったのだが、特大カツカレーのカツを半分口に入れたまま固まって、物凄く驚いたような関根の表情は今でも細部までしっかり覚えている。俺は、口が半開きになっているくせにカツを口から零したりしない関根は物凄く器用だなぁとかそんなアホなことを思っていた。
関根は俺の質問から五秒ほどで動きを取り戻すと、口の中に入れたカツをもぐもぐと咀嚼し飲み込んだ後で、これもやっぱり驚いたように「なんだよ突然」と言った。
俺は何だかこんな年頃の女みたいなことを聞いたことに対し、突然気恥ずかしさがこみ上げてきて、「ほら、あれ、なんて言うんだ」とそんな事を言いながら頭の中で素早く言い訳のための思考をめぐらせ「お前もうすぐ結婚だろ」と無理矢理口からひり出した。関根はもう一口カレーを食べて、おうそうだなそれが? と言う表情をしたので、俺は続きを言う。
「前同性愛特集のテレビ見たんだよ。家族愛と友情と恋愛の違いってなんなのかと思ってさ。もうすぐ結婚なお前ならどう思う? って意味だったんだけどな」
カレーを食べながら俺を見る関根の目が、一瞬やや疑わしげな光を帯びたが、俺はそれを笑って誤魔化すと、関根はそれ以上は突っ込まずにふむぅ。と唸った。
「ぶっちゃけ、愛って感情自体が曖昧なんだよな」
一呼吸おいて関根はそう言う。
「愛ってのは大きく大きく、そりゃあもう太平洋並みに大きく言うと一緒に居たいってことだな」
関根はカレーのついたスプーンを軽く振って見せた。俺は黙って関根の言葉に聞き入る。
「それで、相手のことをなんとしてでも守り、成長させたい。または一緒に成長したいって強く思うのが家族愛やら兄弟愛」
ふむ。と俺は相槌を打つと、関根はまた言う。
「そんで、友情ってのがただ一緒にいたい。一緒に遊びたいとか、まぁ困ったときにくらいは助けてやりたいとか、兄弟愛とか家族愛に近いというか、上手く言葉に出来ねーけど大体解るよな?」
俺はもう一度頷いた。そこらへんはなんとなく解る。要するに俺と関根のような関係って奴だ。
「それから?」
「それから、恋愛、男女の愛とかそんなんだなそれはなー、家族愛の一緒に成長したいって奴に友情の一緒に遊びたいとか一緒に居たいとか、困ったときに助けてやりたいとかの強い奴プラスだな」
そこで関根は一端ニタリと笑うと、声を低くして言った。
「セックスできるか? ってことだな」
いきなり関根から飛び出した言葉に水を飲んでいた俺は噎せた。
水が器官に入ってげはげは咳き込む俺を、関根はうはははと笑った。
「要は大事に思って且つそいつの子孫を残して自分も一緒に育てたいか? ってヤツも入ると思うんだな俺は」
そう言って関根はまた笑う。何だか言ってる関根本人も照れているようだ。
「そんじゃあ同性愛はどうなんだ? 子孫増えないぞ」
ひとしきり咳き込んで落ち着いた俺がそこらへんについて問うと、関根はそんなことは簡単だと言わんばかりの表情を作った。
「んなもん同じだよ。よーするにずっと一緒に居たいとか大事だとか大切にしたいとか思っていて且つエッチしたいって思うのが男女的恋愛だと俺は踏んでいる」
関根は大真面目な顔でそんなことを言った後で、カレーを口に掻きこみながらこうぼやいた。
「俺よりもっと頭のいい奴に言わせりゃいろいろ言い方はあるだろうし、プラトニックとか色んな意見とか考え方とかあるんだろうけどな。ま、哲学者でもなんでもない一凡人な俺の語彙だとこんなモンしか言えないわ」
そして、すっかり中身の無くなったカレー皿をテーブルに置くと、コップの冷水に口をつけながら、
「でも何にしろアレだな。同性愛にしろ異性愛にしろ『互いが思いあう求め合う』ってのが色恋の基本だろうな」
「そんなもんかねぇ」
まだ喉の奥に違和感の残っている俺が、半分残ったポークカレーをスプーンで口に運びながらぼんやりした口調でそういうと、関根はおうよと言う。
「お前よりも数倍色恋は経験してきた俺が言うのだから間違いは無い!」
そう楽しそうに断言した関根に、俺はふーんと言ってから「それ今井さんに聞かれたら絶対お前ヤバいな」と言ってやると、関根は突然「言うな、今の絶対今井さんの耳に入れるなよ!!」なんて慌て始めるから、それが何だか面白くて俺は笑う。
結局その後、俺は散々過去の恋愛話で関根をいじくりまわし、カレー屋特性ミルクラッシーを奢らせた。関根に奢らせたラッシーの味は、甘酸っぱくて中々に美味しかったのを覚えている。
○ ○ ○
久しぶりに夜遅く家に帰った。
最近はどんなに遅くとも夜の十時には帰れたはずなのに、時計の時刻は夜の一時を指していて、もちろんそれは遊んでいたというわけではなく、久しぶりに仕事が忙しかった。という理由だ。
夜遅くなりそうなときは、大抵メモに書き残して家から出るのだが、今日は全く予想外の遅帰りで、白猫には随分悪いことをしたと思った。しかし玄関を開けてみると白猫は相変わらず何時もの白猫で、先ほどまで風呂にでも入っていたのか、頭にバスタオルを引っ掛けた状態で、テレビをつけて座椅子に座って、死体の写真ではなく金魚を見ていた。そしてやっぱり何時ものように「おかえり」と笑顔で振り向いてくれるのだ。
だから俺は安心して「ただいま」と笑顔で返して部屋に入る。
部屋着に着替えて戻ってくると、白猫は気を利かせたのか缶ビールと豆腐のミニパックをテーブルの上に置いた。
「ありがと。気が利くな」
座椅子に座ってプシュっとビール缶のリングプルを開けながらそう言った。
「お疲れ様。どういたしまして」
そう言っただけで、白猫は酷く嬉しそうに笑ったから、なんだか遅く帰ってしまったのが申し訳なくなって、「遅くなって悪かった。明日はもっと早く帰れると思うから」そう言いながら、申し訳ない気持ちを紛らわすようにビールの缶に口をつけて傾けた。
けれども白猫は笑う。
「いいよ。待つのは得意だからさ。ほんとは美味いメシでも作っといてやりたいんだけどさ、俺ロクな料理作れないし」
確かに白猫の料理は美味い物では無かった。けれど、食って食えないことも無いのも確かで、実際家に帰ると食事が並んでいるということも多々あって、俺は味云々よりもそのこと自体が嬉しかった。
「味よりも作ってくれているって事実の方が俺としては嬉しいよ」
だからそんな風に言うと、
「バカ、煽てても何も出ないからな」
となんとか言いながら、それでも結構まんざらじゃ無さそうに白猫は笑う。それから、俺の肩にぺたりと擦り寄ってきたので、白い猫の耳ごと頭を撫でた。
やっぱり少しは寂しかったのだろうと思う。その時無言のまま俺の傍からすぐ離れようとはしない白猫の体から、石鹸の良い香りふわりと鼻をくすぐった。
俺はビールの缶を置くと、白猫の体を抱きしめてみる。
抱きしめた白猫の髪はまだほんの少し湿っていて、猫の耳の柔らかい毛がふさふさと頬に当たるのが少しくすぐったくて、抱きしめた体からはうっすらと体温が伝わってくるのが酷く心地よかった。
関根との会話を思い出す。
抱きたいと思うか思わないかが『愛』の種類の境目になるのではないかという話。もしそうなら、俺は白猫のことを抱けるのだろうか?
「何? どうかした?」
白猫を抱きしめながらそういうことを考えていると、白猫は俺の様子に普段との違いを感じたのか不思議そうにそう聞いてきた。
「いや、なんでもないよ」
そういう風に言うと、「そう、なら良いんだけどさ」と白猫は笑った。それから、俺から離れようとした。
白猫の温もりが一瞬薄れてしまう。刹那。
俺は反射的にもう一度白猫を抱き留めていた。
不安になった。白猫の体温が途切れてしまう瞬間が。温もりが途絶えてしまうような気がした。もっとこの暖かさを感じていたかった。
もっとこの温もりを共有していたい。もっともっとくっついていたい。口付けだって沢山したい。そういう風に思ったとき、俺はようやっと自分の中にあるこの気持ちが何なのか確信した。本当は初めから気づいてたのかもしれない。でも、確信がなかった。こういう気持ちは初めてだから。けれども、今なら解る。ついさっきようやく気づいた。自分の気持ちが解らなかっただなんて変な話だけれど、それでも、今になってようやく気づいた。『抱ける』か『抱けない』かなんじゃない。抱きたいんだ。白猫がとても愛しい。
だから、とても不思議そうな顔をしている白猫の肩に顎を埋めながらに聞いてみた。
「なぁ、抱きたい。って言ったら、嫌か?」
「え……」
小さな声を出して白猫は黙る。黙って、耳をへたりと後ろへ寝かせ俯いた。
「嫌か?」
唐突過ぎたかもしれない。不意に不安になって尋ねると、白猫は緩く首を振った。
「嫌……じゃない、けど……」
「けど?」
白猫はそこで口を噤んでしまった。俺は腕の中の白猫が何かを言ってくれるまで、黙ってじっと待つ。
ちらり、と白猫が俺を見て、すぐに目線を逸らし、俯いて、何かを言いあぐねるように口の中をもごもごと動かしている。消え入りそうなか細い声がそこから聞こえた。
「俺、きっと抱かれる資格無いよ……」
「どうして?」
優しく背を撫でながら聞くと、白猫は今度はなんだか泣きそうな声で言った。
「汚れてるから。俺、絶対」
「汚れてないよ」
そう返しても白猫は意見を変えない。自分は絶対に汚れている。だから抱かれる資格なんて無い。そうやって酷く思い詰めた表情をするものだから、
「どうして白猫は自分が汚れていると思う?」
そう聞くと、白猫は言う。俺は、白猫が自分を売っていたことが白猫の言う『汚れ』だとそう思っていた。けれど、違った。
「黒猫が言ったから」
その言葉に、ぎゅっと心臓が何かに掴まれた気がした。
「なんで?」
反射的にそう聞いていた。白猫が、黒猫という人物をどれだけ慕っているかを知っていたから。何故そんなことを言われなければならなかったのか、どうしても知りたかった。
「俺、昔、黒猫ずっと留守するからって、預けられて、そこで嫌なこと沢山されて……黒猫帰ってきたとき俺のこと見て物凄く怒って」
余程酷いことをされたのだろうと思う。
白猫の言葉は半ば支離滅裂で、あまり要領を得ないものだった。それに加え早口になったり、時折物凄く小さな声になったり、とても聞きづらいものだったが、それでも繋げてみると大体のことがわかった。
黒猫は、白猫に対し面と向かって『汚れている』と言ったわけではない。ただ、白猫の心身に忘れられないほどの傷をつけた相手――恐らくラベンダーの香水の人間だと思われる――に対し、白猫の目の前で怒り任せに『汚した』と言って殴って怒鳴り散らしたようだ。もちろん、黒猫にそういう意図は無かったのだと思う。
けれどその時、白猫はこう思ってしまったんだろうと思う。
『自分は、もう取り返しのつかないくらいに汚された』
きっと、相手を憎んだり恨んだりするよりも先にそういう風に思ってしまったのだろうと言うことは、今までの白猫の言動から容易に想像できた。だから、こんなにも頑なになっているんだろう。そう思うと、心が痛んだ。けれど、ようやく白猫が何を気にしていたのか解った気がした。もしそれが白猫の心に引っかかっている事なのだとしたら、大丈夫だと思った。何故なら俺は――。
腕の中で俯いている白猫を、もう一度強く抱きしめた。
「それなら、俺は白猫の『汚れ』も好きだから」
白猫が、自分を『汚れている』と思っているなら、それでも良い。それなら俺はその汚れごと好きだから。愛しいと思っているから。
囁くように言った。
最初は、白猫がしゃっくりでもしたのかと思った。けれど、抱きしめた白猫の背が不規則に揺れるのはどうしてかと思ったら、白猫がぼろぼろと泣いていたのに驚いた。
「泣くことないだろ」
笑ってそういう風に言ってこつんと白猫の額に自分の額をぶつけると、白猫はいつまでたってもひゃくひゃくと落ちつかない呼吸を繰り返しながらこくこく頷いた。
あふれ出す涙を何度も手で拭いている白猫が泣き止むまで、俺は白猫を抱いていた。
貪るような口付けなんて一体何時以来だろう。
布団に仰向けに寝転がる裸の白猫がやけに綺麗に見えて、何だか必要以上にどきどきしてしまった。
男とこういうことをするのは初めてだけど、白猫は「女と一緒の扱いでいい」と言う。本当にそれで良いのか大分悩んだけれど、白猫が良いというのだから良いのかと思うことにして、そこに覆いかぶさって胸や首筋や頬や唇に何度も口付けすると、白猫は「あ」とか「ん」とか短い声をあげて、それを聞くと更に興奮した。
互いの手と手を絡ませ、肌と肌を存分に密着させながら、空いている片手で白猫の胸から脇腹にかけてを愛撫するようにつっと指でなぞって行くと、いくつかの小さな凹みが脇腹の目立たない場所にあるのに気づいた。そっとそこを探ってみると、二個、三個、と似たような形のものを見つけて、指先で形を確認すると、丸い形のそれは丁度タバコの火を押し付けられたときの形に酷似しているのに気づいて思わず探る手を止めた。
白猫を見ると、なんだかとても申し訳なさそうな表情をしていたので、探るのを止めて鎖骨あたりに口付けると、クンっと白猫が鼻を鳴らし、白い猫の耳が後ろに下がって細い腕が俺の背に回された。
薄い筋肉がついて筋ばった男の体は女のそれとは全く違って、柔らかさのカケラも感じなかったが、不思議とそれは不満でもなんでもなく、寧ろ白猫を抱いているという実感の方が沸いてきて嬉しく感じた。
舌と舌を絡ませるような口付けを何度もしながら思う。
多分、こういう気持ちに過去や性別なんて関係ないんだろう。そこに愛しい人が居て『互いが同じように愛しいと思う』こと。
きっとそれが『愛』なんだ。
続
2006/04/07(Fri)01:08:17 公開 /
水芭蕉猫
http://www.geocities.jp/okanouenokame/
■この作品の著作権は
水芭蕉猫さん
にあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
今現在の私は何を書けるだろうという脳内談義の結果、趣味全開で行くことに決定しました。同性愛です。猫耳です。
多分愛についてのお話です。煮え切らない俺がようやく煮えたと言うのでしょうか……。
恐らく登竜門初の男同士の絡みかと思いますが、なんかさっぱりさせすぎたかもしれません。でもこれ以上に濃厚にさせようとすると大変な事になります。
途中で電波にウツツをぬかしたせいか、色々文体がガタガタになってしまいました。小さな矛盾もあちこち見られますし、あちこち補習できればしたいのですが、何処に何をどういう風に足したり消したりすれば良いのか喉元まで出掛かってるのに出来ないのでぐあぁと悶絶しています。
完璧にしようと思えば思うほどどんどん理想から遠く悪くなっていくような気がするので、とりあえず無理せず完結を目標にしたいと思います。
何かありましたらお手柔らかにお願いします。小心者なので。
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。