『弔いの日に』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:有栖川
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母は後家であった。
わたしが物心ついたときから後家であった。もとは東京の生まれである。
――女学校時代に父と出会い、一生に一度の大恋愛をして嫁いできたらしい母は、まだ世間知らずな小娘であった十八の時分、蒔田さよから最上さよと名を変えて山形の古い紅花農家の嫁になった。
一度だけ嫁入り写真を見せてもらったことがあるが、白無垢に身を包んだ母はいっさいの穢れもまとわず、唇の紅だけが目を引いて赤く、やや目を伏せて微笑んでいた。年若い花嫁は初々しく、品があり、皇家の嫁入りと見まごうほどであった。
母は美貌の人であった。幼いわたしから見ても、顔立ちは群を抜いて美しかった。育ちが都会であるからか、もって生まれたものでもあるのか、姑や大姑、父の妹などと並ぶと比べ物にならぬほど垢抜けていた。頬はふっくらとばら色をして、首筋や手などはほっそりと白く、目は優しげな光を抱いた黒真珠であった。
わたしは母が好きだった。わたしが学校から帰るころ、母は必ずあぜ道の角まで迎えに出ている。その母を見るのが楽しみであった。友人たちは口をそろえてうらやましいと言い、わたしは子供心にくすぐったいような優越感をおぼえながら、小袖をたすき掛けした母に飛びついた。香料を使わない母からは、いつもふわりと紅花の、草の香りがした。
母は決まって学校でその日あったことをたずね、わたしは家に帰るまでの短い間に、堰を切ったようにあれもこれもと話して聞かせた。母は微笑んでうなずきながらそれを聞き、ときに質問なども挟み、そうしてふたり、手をつないで夕陽の中を帰途についた。
それが母というひとであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――紅花作りは過酷である。
嫁ぐまで労働など知らなかった母の手はあっというまにすっかり荒れ、夜中にこっそりと軟膏を塗り込んでいる後姿を、何度も見たことがある。東京の医者の娘がよくもこのような、と陰で誰かが言うのを聞いたことがあった。
とげのある紅花を、母は素手でいくつも摘み、かごがいっぱいになったらまた新しいかごを背負う。それを日に何度も繰り返す。紅花というのは朝露でとげの柔らかい早朝のうちに摘むのだが、それでとても膨大な量摘み切れるものではない――とはいえ紅花の収穫時期はごく短いので、どうしても摘みごろを迎えた分は摘んでしまわなくてはならないのだ。やがて日が昇ってしまって硬くなったとげの中にも、母はためらわずに手を入れた。
一度、見かねて手伝おうとしたら厳しい顔で止められた。おまえの手はまだ柔らかいから、とげが刺さって痛いよと言う。おかあさんは、と聞き返したら、母は笑って首を振った。その手は傷だらけであった。痛くないはずがなかった。日が昇ると姑や叔母は手袋を使って摘んでいたが、母はどういうわけかいつも素手だった。
その理由を知ったのはずっと後になってからだった。
手を傷だらけにして摘み取った紅花は水にさらして雑物をのぞき、大きな桶にあけて水を入れる。これを半きり桶と呼ぶのだが、わたしはよくそれに入って漕ぐまねをして遊んでいたものだから、ほら坊ちゃんの船、などと手伝いのおばさんにからかわれたものだった。
ともあれその半きり桶の中で、今度は紅花の踏み出しを行わなければならない。紀元前のぶどう酒作りのように、水と花を足で踏み、黄色い色素を出す。花振りという作業である。紅花は二種類の色素を持っており、ここで黄色を出し尽くしてしまわないと、きれいな赤が残らないのだった。
母はすそをたくし上げ、髪を上げ、一心に花を踏んだ。これをしているときの母は話しかけてもほとんど答えてくれず、そばにも寄せ付けてくれず、ただただにじみ出る色を見つめて踏んでいた。あまり一生懸命に踏むからだんだん髪が乱れてきて、最後にはばらばらになってしまうのだが、それでも母はやはり、一緒に踏んでいる叔母らよりは格段に美しいひとであった。
花振りを終え、水気を切った花びらを、今度は平らなセイロ――花蒸籠に敷き詰めて日陰に並べる。この作業はわたしも手伝った。一抱えほどもある蒸籠をあっちからこっちへ移動させるだけのことが、わたしにはいっぱしの仕事をしているように思えて、得意げな顔で運んだものだった。その上から如雨露でひたるほど水を注ぐのだが、これもやらせてもらったら、如雨露の注ぎ口が外れて水浸しにしてしまったことがあった。こっぴどく叱られて以来、手伝わせてはもらえなかった。
水を注いだらひと晩置いておく。花寝かせの工程である。この一連の作業の名前を覚えるのが、わたしは好きだった。いずれ長男である自分が継ぐ家業なのだから、工程の順番もきちんと言えるようにならねばと、紙に書いたりして覚えた。
この花寝かせの具合によって紅花の出来が決定される。寝かせすぎてもいけないし、ちょうどよく色と粘り気の出た状態を見極めねばならない。やがて頃合と見たら桶に入れて足で踏み――あるいは手で揉んで、さらに粘りを出して餅状にする。せんべい状にした紅花を、花筵にならべて天日で干せば、今年もきれいな色の紅が庭を彩った。わたしは目を奪われて、嬉しくて飛び跳ねた。広い庭一面にひろがる紅玉は、たくさんの太陽が咲いたようなのだ。
かように過酷な紅花作りを、母は数年かかってやっと覚えた。さほど丁寧に教えてもらえたわけでもなく、姑や大姑につま先で小突かれながらのことであった。子供ながらにも母と姑が上手くいっていないのはわかったが、それが母の美貌への純粋な嫉妬であること、そして父には東京に行く前に婚約者がいたことなどは成長するにつれ見えてくるものだった。ああ全貌が見えたと思ったのは十三の夏だった。
父には婚約者があった。
紅花の買受先の娘であった。
十の頃から許婚として育ち、周囲はみな結婚するものと信じて疑わず、父ももともと気性のおとなしい人であったから、まさか東京で恋人を作るなどとは誰も思わなかったらしい。よしんば誰かといい仲になっても、まさか結婚まで話が進むとは――ところが父は東京で母と恋に落ち、姑らから見ればどこの者とも知れない女を嫁にすると言い出して、このときばかりは一歩も引かなかったという。
むろん許婚の女性とは利益不利益の話が絡んだ婚約であったから、この結婚は力の限り反対された。だが長男たる父は縁切りの話まで持ち出して母を嫁に迎えると言い続け、結局この家は得意先をひとつ失って、代わりに紅花のベの字も知らない嫁を東京から迎えるはめになったのだった。
――その父は、わたしが生まれてすぐに病で逝った。
以後、母は刺すような視線の中で、それこそ針のむしろを敷かれた家で暮らしていた。
母の手にある紅のつき玉が、血に見えたことが何度もあった。
それはほんとうに血だったかもしれない。母が心で流した血だったのかもしれない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
母への風当たりは強くなりこそすれ、いっこうに弱まりはしなかった。
来客のときも外出のときもひとりだけ地味な着物を着させられるのはもとより、母は化粧することを許されなかった。化粧道具はすべて大姑に取り上げられ、嫁入りに持ってきた着物も売り払われた。まだ三十路を出たばかりの母は、着飾ることを禁じられ、いかほどに惨めな想いでいただろう。
姑も大姑も、房枝叔母も、長男であるわたしへは当てつけのように甘いくせに、母はつねにわたしよりも格下の扱いだった。食事も残り物だった。わたしがこっそりと母におかずを持っていくと、母はやんわりとそれを断り、お前がこんなことをする必要はないのよと微笑んだ。そう言って盆を下げさせる手には、紅花摘みでできた無数の傷があった。
――わたしが十四の夏、母は客に恋をした。あれはおそらく恋であった。
月に一度、京都からわざわざこの山形まで買い受けに来る、染物屋の若旦那であった。まだ三十ほどの気のいい男で、はんなりとした京ことばが美しく、いかにも繊細な指先をしていた。
わたしも彼が好きだった。庭先の石に腰掛けていたら、山形は暑うおすな、と人なつこい顔で話しかけられたのが最初であった。耳慣れないイントネーションが新鮮だった。彼はわたしに京ことばを教えてくれたので、わたしもお返しに山形弁を教えてやった。彼は面白がって覚えた。そのうちに京都と山形の両方が混じった妙な方言も作り出した。
以来、彼が来るとわたしは京都弁で、彼は山形弁で挨拶をした。母にもそうしていた。子供の目から見てではあるが、彼もまた母にそれなりの好意は持っていたのだと思う。
「――ああ、どうもです、鳥丸さん――」
母はそんなふうに言いながら走り出てきて、髪もほつれたまま、始終うつむいて応対をした。かわいそうなほど化粧気のない顔で、地味にくすんだ色の小袖で、いたたまれないように下を向いていた。もとより器量のいい人ではあったのだけれど、思えば恋している男の前に、素顔で出ねばならぬことが屈辱であったのだろう。
母はほとんど顔を見せぬようにして話を済ませ、あとはそそくさと母屋に戻る。
傍目から見ればよほど彼を嫌っているように映ったかもしれない。彼はぽつねんと取り残されて、困ったようにわたしを見、何やお母さん、具合悪いんやろかと苦笑した。彼も何度もここに来るうち、化粧ひとつせずに出てくる母がここでどういった立場にあるかは見抜いていたのかもしれない。あるとき、辛抱を切らしたような顔をして何か言いたそうにしたこともあったが、結局は何でもありまへんと話をそらしてしまった。――京都に来ませんかとでも言ってくれようとしたのかもしれない。母を、救い出そうとしてくれたのかもしれない。
お母さんの面倒見たれよと頭に置かれた手は大きく、ほとんど顔も知らぬ父を想った。そうしてそのときに初めて、母と自分とこの男と、三人で築く家族の青写真を夢に描いていたことを自覚した。永遠に色のつかない写真だった。
あぜ道を帰っていく彼の後姿を、わたしは何ともいえない寂しさとともに見送った。
そうしてから家の中に戻ると、母は決まって自分の部屋でつらそうにしていた。鏡の前で、自分の服装や素顔をながめ、悲しそうにため息をついた。いつしか買い受けに彼ではない人間が来るようになってからは、さらにつらそうにしていた。
そんな姿を横目に見ながら、わたしは花振りの半きり桶で舟漕ぎのまねをすることをやめ、花蒸籠を一度にふたつかかえて運ぶようになり、庭にいくつも並ぶ紅玉に心を躍らせることもなくなっていった。
わたしが成長するにつれ、母も当然のごとく年を取る。とはいえそれでもまだ三十と少しにしかならぬ母は、ひたすら紅花を摘みながら、わたしに隠れて涙を流したかもしれない。
母は、絵の巧みな人であった。
東京にいた時分は絵筆小町と呼ばれたほど、上手に絵を描く人であった。十八で父と出会わなければ、どこぞの画家に師事する話もあったと聞く。
母は一日の仕事を終えて夜遅く部屋に引っ込むと、こっそりと筆と半紙を取り出して絵を描いた。風景画やわたしの似顔を描いてくれることもあったが、多くは自画だった。
自分の美しい顔に生き写しのような自画像を描いては、唇に深紅をそっとすべらせた。自由な金などない母がどうして赤い絵の具など手に入れたかと思っていたが、昼間に花筵からつき玉をひとつくすねているのだと、筆皿を見て知った。誰にも言っては駄目よと釘を刺されたが、もとより言うつもりはなかった。
唇を赤くするときの母は、ことさら緊張しているようだった。
すこしためらいがちに何度も何度も筆先をならし、やがて真っ直ぐに立てて端に色を置いてから、意を決するように一拍おいて横に引く。そうすると薄墨で描かれた似姿の母の唇に、鮮やかな赤がぽっと乗るのであった。
「綺麗だ」
言うと、
「そうね」
と返ってきた。短い会話だった。
母はそうして絵姿の自分に化粧をし、ひとしきり満足すると、あとは丸めて火をつけてしまった。人の目に触れてはまずいのだろう。紅を溶かした皿も引き出しにしまって鍵をかけた。
母とはそんな人であった。
はかない、はかない人であった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
わたしが二十五になった今年、母は病に倒れた。胃癌であった。
なるべくしてなった胃癌であった。
――その事実を知らされたとき、わたしは姑を、大姑を、この家を――ひいてはあのとき母をここから連れ去ってくれなかったあの染物屋を、母ひとり残してさっさと逝った父を、片っ端から思い出せるだけ思い出して恨んだ。どうして母がここまで不遇な目に遭わねばならないのだと。
体調の不良を押し隠し、ついには花きり桶に血を吐いて倒れるまで働き続けた母は、すでに余命が半年もなかった。
紅花は、かつてないほど真っ赤に染まった。
母は即入院したが、姑も大姑も、房枝叔母も、ほとんど見舞いには来なかった。
「……和、今度来るときに、あれを持ってきてちょうだい」
時計の針が無機質に時間を刻んでいる。午後一時。今朝から眠って起きてをずっと繰り返している母は、さきほどふと目を覚まし、ぽつりぽつりとしゃべっていた。
掛け布団の隙間から伸ばされた手を、わたしは握った。ただでさえ細かった腕はもっと細くなり、かさかさと乾きはじめていた。皮肉なことに、手のひらだけは傷が消えて綺麗になっていく。素手で紅花を摘まされることがなくなったからだ。酷な水仕事もする必要がなくなったからだ。
あれ――とは。何のことであるか、わたしはすぐに諒解した。
「お母さんがいなくなったら、おばあちゃんと仲良くね――」
あんな人たちの言うことなど今さら聞くものか、とわたしは気持ちを尖らせたが、母はそれを見抜いたように、お願い、と眉を下げるのだった。そうしてこちらが何も言えなくなると、最後は決まって、毒気を抜いてしまうように微笑んだ。
母は病床にあっても、見とれるほどに美貌の人であった。
わたしは母の手を離し、ベッドを迂回して窓を開けた。まだほんの少し冷たい春風が吹き込んだ。もうちょっと暖かいだろうと思っていたので、あわてて閉めようとすると、母は開けておいていいと言った。微熱が続いているから気持ちいいのだという。この病院は土手沿いに面しているので、あとひと月もすればここから桜並木が見渡せるはずだった。だがまだ咲いていない。つぼみの気配もない。そしてうちの段々畑の紅花も、まだまだ咲かない。
咲かぬまま枯れゆく花だけがここにある。
「――和さん、あんたも覚悟しとくんだよ」
夕食時、それを言ったのは姑――祖母だった。どうしてもこの人が『おばあちゃん』だと思うことができず、ずっと『姑』と呼ぶことにしてきた。母の目線から見たこの家が、自分が見るべきこの家の姿でもあったからだ。自分がこの人から見て孫であるのだという思いは、成長するにつれて薄れていった。
ともあれ大皿の煮物をつつきながら、姑はたいしたことでもないというふうに、あっさりと口にしてくれた。紅花のできの悪さを話すときのほうが、まだ口調が重かった。
もとよりさほど和やかでもなかった空気がはっきりと凍りついた。
「覚悟って――覚悟ってなんですか」
「あの人が死んだ後のことだよ」
祖母の口調も、目線も、憎たらしいほどよどみない。
嫌味のように薄暗い明かりの下で、わたしはほとんど進まなかった箸を置いた。こんなにまずい食事なら、食べなくてもいいと思った。食べたらかえって身体に悪そうだった。
「そういう言い方はやめてください。ぼくの母です」
「いつまでもサラリーマンじゃないだろう。あんたはひとり息子なんだからよけいなことは考えないで、きちんとこの家を継いでくれなきゃ困るんだよ」
「……継がないとは言ってません」
「やっと男手が育ってくれたと思ったらこれだものね」
房枝叔母の声が意地悪く続いた。
「だから継がないとは言ってません。母の願いでもあります、でも――」
「あんたが言ってるのは奇麗ごとだよ」
「――今までのやり方じゃ駄目なんです。新しい客はここ数年ついてないし、昔からの顧客も減ってる。ただでさえこういう業界は市場も狭いし、ちゃんと考えてやっていかないとならないんです。ぼくは今、会社で営業のやり方を学んでるんです、どうしたら生き残れるか――」
「そんなことはいいんだよ!」
大姑が箸を投げた。
「借金があるんだ、あんただってわかってるんだろう。とっととここを継いで、がむしゃらに働いて建て直しとくれ。それしかない。ああ、それしかない」
――平行線だ。いつもこうだった。
この人たちには何を言っても通じない。
わたしは席を立った。
後ろから舌打ちがみっつ追いかけてきたが、そのどれも無視した。
『――最上、さん? はあ、山形の……ああ! 坊ンか!』
「ご無沙汰しております」
なつかしい声が聞こえてきた受話器の向こうに向かって、わたしは頭を下げた。いかに相手が見えなかろうが、気持ちなら土下座だってできると思った。
『あのときの坊ンやろ? えー、和彦くん! ――何や、誰か思うたわ。立派になって……』
「どうもあの節は、ごひいきにしていただいて――」
何度も頭を下げながらいざ切り出そうとした瞬間、ふ……と、何か――受話器と受話器をつなぐ何かに、見えない負荷がかかった。はっきりと感じた。おそらくは無意識に、向こうが距離をとったのだ。
頼むから切れてくれるなよと見えない糸に念じながら、わたしはできるだけ景気のいい声を心がけて続けた。
「――いや、お懐かしいです、何年ぶりで――」
『紅花、まだ作ってはるん?』
思いがけないせりふだった。同時に願ってもなかった。思わず心臓が撥ねた。乾いた唇をなめてから、受話器を両手で握りなおした。
「――ええ、ええ、作ってます。あのときのままで……昔ながらの作り方です、ええ。――どうでしょう、うちの紅花の質っていうのはもうお分かりと思うんですけど、今年の出来は過去最高っていうくらいで――色がね、もうホントにきれいな真紅が出るって……」
『いや――いや、悪いなあ。和彦くん。昔のよしみで世間話でもしましょ、てことならいくらでも付き合うたんやけど……そういうお話は無理や。うち、今もう染物やってへんのよ』
「え……」
『状況って変わるんよ。時代も変わる。なんぼ京都で店構えたかて、需要と供給のバランスが崩れてしもたらどうにもならへんのやわ』
「あの――」
脳裏に描いていたあのときの光景が、急速に色を亡くして薄れていった。頭に置かれた手の大きさも。あったかいと思った感触も。うつむいていた母と、それでも笑いかけていたこの若旦那と。受話器を握り締める手が震える。
『何や、ほんまに申し訳ない。……力には、なってあげられへんわ』
もう何も言えなかった。時間の流れは残酷だった。それをはっきりと思い知らされた。
わたしが甘かったのか。十年以上も前にほのかに色づいていただけの想いが、これだけ時を経てなお何か良いほうに作用してくれると思った、わたしの甘さなのか。頼れるはずのないものを頼ったのか。
糸は、とうに切れていたのか……
『お母さん、元気か』
どう答えればよかっただろう。
どう答えるべきであったのだろう。
「――胃癌です。あと半年も生きられないです」
それだけ言って、あとはもう、返事を待たずに通話を切った。絶句したような気配だけ、切れる直前に伝わってきた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
流れるようにひと月が過ぎた。
死に目には会えなかった。急変の知らせを受けたとき、ちょうど出張で栃木にいた。
取るものも取らず駆けつけたときには、母はすっかり何もかも終わって、霊安室に横たわっていた。
仕事と紅花の売り先探しという忙しさにかまけて、そういえば結局、頼まれていた絵筆も紙も届けなかった。届けるつもりはあった。次持ってくるから、と忘れるたびに言った。母はうなずくだけだった。
――待ちわびていただろう。
描きたかっただろう。健康的な頬をして、唇に紅さした自分の姿を。
それを描くはずではなかったのかとか、桜はまだ五部咲きだとか、そんなことはおかまいなしに母は逝った。
あと半年というのは何の時間だったのか。入り口に立ち尽くしたまま考えた。
母の顔の白布を、このとき何故か、取らなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――母の弔いは形だけ行われた。
通夜の席で、いよいよもってわたしは会社を辞めるかどうかの決断を迫られた。もともと精神不安定な大姑は、刃物でも持ち出さんばかりにわめいた。育ててやった恩も忘れて――というせりふが飛び出したときには、わたしの腹も決まりつつあった。
とうに覚悟すべきであったのかもしれない。
花で飾られた母の棺を次の間に置いて、みな広間に集まった。長い長い、ほんとうに長い沈黙を、わたしは自分のものにして黙っていた。この沈黙が何よりも雄弁に語れと思った。
ずいぶん経ってから顔を上げた。
見慣れた顔がずらりと並ぶ。
「最上の家を継ぎます。会社も辞める。紅花作りは――ぼくが、責任を持って引き継ぎます」
拍手が起こったわけでもなく、誰か笑顔を浮かべたわけでもなく、よく決意したと言ってくれたわけでもなかった。頭の中のどことどこがつながったのだかわからないが、ふと、幼いころに入って遊んだ半きり桶を思い出した。搗いた紅花を花筵で並べた庭先の、あの天日を思い出した。傷だらけの母の手、花を踏む母の顔、水音――その先で、飛び跳ねていた子供。
思い出しただけで、何にもならない。
子供のころとは何もかもが変わったのだ。この肩にあるのはただ責任それだけで、何をしても褒めてくれる人はもう亡い。
「ぼくが、続けていきますから」
ただわたしの声だけが、妙に白々しく、響き渡った。
通夜お決まりの宴会が始まって、わたしは頃合を見て席を離れた。案の定、誰も何も言わなかったから、そのまま次の間に行って母の棺をのぞき込んだ。
母の死に顔はきれいなものだった。
医者の話では、ほとんど苦しまずに逝ったのだという。胃癌患者は苦しんで苦しんで亡くなる人も多いから、お母さんはまだ救われたほうかもしれないよ――と、めがねを拭き拭き説明された。なにを無神経なと思ったが、こんなにきれいな顔で死ねたのなら、それは確かに感謝すべきことなのかもしれない。
白い死に装束を着て、母は眠るように目を閉じている。
お母さん。
――幸せでしたか。
死に顔はきれいだった。眠るように目を閉じている。
(ああ、そうだ)
思い立って、母の部屋に向かった。形見分けも遺品の整理も、当たり前だがまだなにも済んでいない。それくらいの良心は、あの人たちにもあるのだろうか――それとも親戚の目を気にしたか。母方の両親も、じきに到着すると電話があった。
長い廊下を抜け、母が使っていたころのままの部屋に踏み入って、あの引き出しをそっと開けた。ひとけのない部屋の中は、静寂で耳がきんとした。
三段目の引き出しの奥に、乾燥しきった紅がこびりついた小皿を見つけた。母はたったひとつくすねた紅玉を、大事に大事に使っていたのだった。――しばらく見つめていたらようやく涙がこぼれてきた。それでかたまった紅を溶いた。
小皿を手にしたまま戻る途中、縁側から見える紅花畑を眺めた。感慨らしい感慨もなかったが、自分はここで紅花作りを継いでいくのだと、あれは今日から自分の肩に乗るのだと、ただそういうことを思っただけだった。
時代は変わる。淘汰されゆくものは多い。あの男が言ったように。
――だが、あの日母が手を血だらけにして摘んだ紅花のあの赤は、決して色あせることはないのだ。この地上から消え去ることはない色だ。
母は棺の中で、眠るように横たわっている。装束は真っ白い。顔色もない。
騒いでいる大人たちを尻目に、わたしは棺のふちにそっとかがみ込んだ。小指か薬指か迷って、結局薬指に紅を取る。赤かった。ほんとうに真っ赤だった。いつだか薄墨で描かれた母をぽつりと彩った、あの紅と同じ色だった。ああ、母よ、かわいそうなわたしの母よ。
そっと伸ばした薬指に、母の筆先を思い出した。こんな気持ちで、母はあの紅を落としたのか。こんなにも緊張するものなのか。女のひとの唇を彩る紅とは、こうも神聖なものであったのだ。
――弔いの日に。
冷えて物言わぬその唇に、今、真ひとすじの紅を引く。
fin.
2005/09/29(Thu)19:54:55 公開 /
有栖川
http://fathertime.nomaki.jp/
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有栖川さん
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■作者からのメッセージ
こんばんは、有栖川でございます。
連載作品を諸々抱えている身ではございますが、以前からどうしても書きたくて温めてたお話をやっと書けたので、思い切ってこちらに投稿させていただきたいと思いました。……ひょっとしてかなり難しい……かもしれないし、理解できない……かもしれないのですが。ひさしぶりに自分の書きたいものが書けたという感じがいたします、自分では。なんだかノリノリでした(笑)
感想などありましたら、お寄せくださいませ。
作品の感想については、
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