『世界の裂け目(1〜2〜)』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:アタベ                

     あらすじ・作品紹介
世界には裂け目があって、その裂け目は別世界に繋がっている。その裂け目は普通の人間には見えない。そんな裂け目が見えるようになった主人公コウの、非日常のお話。

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『ありえない夜』



 俺ことコウは幽霊とか、そんな非現実的なものは見ることが出来なかった。テレビなんかでは、幽霊のような不思議なものが見えるという人は結構いるし、そんな、いわゆる霊能力者達を否定する気もない。ただ、なんとなくそういうものなのかくらいにしか感じていなかった。
 でも、いざ自分がそういった非現実的なものを見ることになると、すぐにはそういうものなのか、とは感じられなかった。
 つまり、俺の目の前には人間とは見るからに形の違う何かがいる訳である。
 どうして、今日に限ってバイト帰りに別の道で帰ろうなどと思いたったのか。そして挙句道に迷い、人気のない神社なんかに自転車で入り込んでしまったのか。
 俺は自転車に跨ったまま、目の前の異形の者を呆然と、考えなしに眺めていた。どの辺りが異形だというと、まず腕がおかしい。腕だけがおかしい。目の前にいる異形の者の見た目普通の女の子だ。多分自分と年は近いと思う。灰色のフード付のパーカーにデニムスカートを着た、ショートカットの女の子。ここまでは普通なのに、腕だけが、人間の物ではなかった。
 腕が、なんというか、刃物? なのだろうか。とにかく右手の肘から下が刀のような、結構簡単に、キャベツを千切りにするくらいに簡単に、人間くらい引き裂けそうな、そんな鋭そうな刃物に変わっていた。
 まったく、特撮物の特殊メイクみたいだ、と俺は思った。あまりにこの光景が現実離れしすぎていて、何処か笑える。テレビの画面を覗いているような、リアルじゃない、そんな感覚。
 多分、この女の子は幽霊とは違うだろう。何故ならここは神社だからだ。寺ではない。それにこんな凶悪な姿の幽霊なんて聞いたことがない。むしろ最近の幽霊は神社にも現れ凶悪な姿をするのが幽霊達のブームなのか。
 こういう状況で出来ることは、目の前の肘から下が刃物になっている女の子が目撃者に襲いかかってくるだろうということだ。その判断理由は、俺が今まで読んだ漫画やライトノベルでよく出逢うシチュエーションだからだ。正体不明の化け物を見た者は十中八九襲われる。現実でもその流れに沿っているに違いないという根拠のない自信だ。
 そして案の定、彼女はこちらを見た。俺を見る彼女の眼は、殺意に満ちた眼だ。多分。
 ――て、なんで逃げねぇんだよ、俺は!
 そんなことを、今更ながらに後悔すると同時に自分に叱咤を飛ばす。焦って自転車のペダルを踏むが情けなく俺は自転車と一緒に仲良く倒れた。
 やっと、俺は身の危険を感じた。倒れた衝撃の痛みに耐えながらどうにか立ち上がる。だが足が上手く動かない。どうやら本気で俺は彼女のことを怖がっている。そんな俺を馬鹿にするように、彼女がゆっくりと俺に歩み寄る。
「こんな世界なんか、あたしはいらない。こんな世界に生きている人間も……みんないらない」
 ぼそぼそと、少し静かな夜だからかろうじて聞こえるくらいの小さな声で彼女が言った。彼女の声は、不気味な程に感情がこもっていなかった。
 彼女の口調と台詞、あと刃物が生えている腕。すべてがマッチし過ぎている。俺が思うに彼女の人間なんていらない発言の、人間に当てはまるのは多分俺だ。いらないってことは、つまりそれは……。
「死んでよ」
 ――やっぱりか!
 彼女は恐ろしい言葉と共に腕を振り上げる。
「それはごめんこうむる!」
 半ば冷静を失った俺は笑いながら、叫ぶように声をだし体ごと彼女にぶつかる。意外にも彼女は俺の窮鼠猫をかむ的行動で怯み、腕が俺に振り下ろされることはなかった。
 怯んだ彼女から脱兎の如く逃げながら、自分でもよくもまぁあんな思い切った行動をとれたものだと感心する。普段のビビリな俺からは考えられない。
 ――それであいつは?
 と、振り返ってみると、
「逃がさない」
 抑揚のなくて、感情もない、不気味な声が殆ど耳元で聞こえた。
「ひぃっ!」
 彼女は俺の眼前まで迫っていた。俺は恐怖と驚きで足を絡ませて、再度ずっこけた。
 ――こりゃあマジでヤバイな。
 どういう訳だか、そういうことは冷静に判断していた。それでも、足は思いどおりに動かず、情けなく腰を地面に預けたまま、彼女が腕を振り上げるのを待つしか出来なかった。

『君は運がいいね』

 声が聞こえた。男の声だ。落ち着いた、時間の流れを遅らせるくらいに落ち着いた声だった。実際その誰かの声が聞こえた瞬間、時間が止まったような錯覚を俺は覚えた。
 多分、声が聞こえたのは俺の背後だ。
 首と身体を捻らせ、俺は背後を見た。彼女も声の主を探しているらしく、またもや腕は振り下ろされなかった。
 男が立っていた。その男は真っ黒なコートを着ていて肌の露出は顔くらいしかなかった。顔の色も化粧をした若い女性の肌よりも白く、儚さというか、人間離れした色彩だった。唇は紅く、血でも塗ったかのようだ。顔だけを見ると綺麗な女性そのものなんだけど、俺がその影を男だと判断した理由は胸に膨らみがなかったからだ。判断材料はそれしか見つけられなかった。だから、背後に立つ影は女性なのかも知れない。女性だとしても、何の違和感もない。
 でも、そんなこと、本当はどうでもよかった。男性の背後には景色がなかったのだ。夜の闇に景色が隠された訳じゃない。男性の背後の景色が、円状にそこだけが切り取られたように黒く、夜の闇とはまったく別の、質の違う黒色が広がっているのだ。まるで、世界に裂け目が作られたような、そんな光景だった。
「あんたも……いらない。全部、壊れちゃえばいい」
 運が良いのか分からないが、彼女の標的は俺の背後に立つ男性に変わったようだ。
「君は世界を拒絶したんだね。だからって世界を壊したって、何も意味はないのに」
 男性は腰の抜けた俺の脇を優雅に通り過ぎ、詠うように彼女に語りかける。
「君にそんな物騒な物は必要ないよ。それ以前に、僕は君が世界を破壊することを認めない」
 男性は彼女の右腕に手をかざす。すると彼女の物騒な腕が冗談のように吹き飛んだ。腕が吹き飛ばされた彼女は驚きの表情を浮かべてはいるものの、腕を吹き飛ばされる痛みに耐えるような表情は一切含まれていない。肘から下がなくなった右腕からは血も流れてはいなかった。
 ――こいつらは一体、何者なんだ……。
「どうして、邪魔するの?」
 彼女の口調に、疑問符がつけられたような気がした。
「それが僕の仕事だよ。理由なんてない。そして、この世界は君の居るべき場所じゃない」
 男性は彼女に、腕の次に額に手を、目隠しでもするようにかざし、指に力をこめる。
「君は狭間に行かなくちゃいけない」
 男性の声は冷酷なようにも、悲しそうにも聞こえるが、表情は微笑を浮かべたままで変わることはない。
 男性が言い終えると、今度は彼女の背後の景色が消えた。音もなく、世界が裂けた。
「いやっ」
 男性に額を掴まれた彼女が自分の背後の変化に気付き、初めて口調に感情を乗せた。声からは恐怖、拒絶が感じとれる。
「やだっ。怖い、止めて!」
 彼女が必死に男性の腕を掴み、自分の額から彼の腕を引き離そうとしている。だが、そんな彼女の行動も無駄な行為だと俺は悟っていた。
「無理だよ。君はもう世界に拒絶されている」
 空気も凍るくらいに冷たい調子で、男性は彼女の願いを一言で切り捨てる。
「それじゃ、さようなら」
 さっきよりも増して彼女は必死に男性の腕を掴んでいる。そんな彼女のささやかな抵抗を彼は無視し、黒が広がる世界とは違う空間、裂け目に彼女を押し込む。
「いやぁぁぁっ!」
 彼女が叫んだ。それが、最後の声になった。彼女は黒の中へ吸い込まれ、消えてしまった。裂け目も彼女が消えるのを待っていたかのように消えていた。
 そんな、現実離れした光景の一部始終をすべて自分の眼に映した俺は、徐にさっきの光景が現実なんだと、認めつつあった。認めなければ仕方がない。だって、現実に起こったことなのだから、自分が生きる世界は、こういうものなんだと、認めるしかないのだ。
 そうやって、俺は自分に言い聞かせていた。多分、ホメオスタシスっていうやつが働いているんだと思う。
「大丈夫そうだね」
 ふわりと、そよ風を思わせるような動きで男性が俺に振り返る。彼は俺に手を差し出す訳でもなく、薄笑いを浮かべて俺を見下ろしていた。
「とりあえず、怪我はしてないみたいだけど」
 腕を支えに、重い腰を持ち上げ、久しぶりに二本の足で直立した。
 ――なんで俺はこんなに冷静なんだ?
「そんなことより、あんた何者? さっきの腕がおかしな女の子は?」
 少しだけ、強く男性に訊いた。取り乱してはいないにしても、完璧に冷静でいられている訳ではない。
「僕は一応マーセという名前がある。名前がないと不便だからね」
「それで、あんた何処から来たのさ?」
 俺があの女の子に出遭った時は、確実にここには俺を合わせて二人しかいなかった筈だ。なのに、この男はいきなり俺の目の前に現れ、あっという間に女の子を何処かに消してしまった。
「あそこから」
 マーセは俺を指差した。いや、俺の背後を指差しているのか。マーセが指差した先には、マーセが女の子を消したあの円状に開いた黒い空間があった。
「どういうこと?」
 訳が分からない自分の気持ちを率直に伝えるために、簡潔な言葉でマーセに質問する。
「君はさっきから質問ばかりだね。まぁ仕方のないことなのかな」
 マーセがくすりと笑った。まるで、何も知らないんだなお前は、と鼻で笑われたようだ。
「まず最初に、僕は君達とは違う。生きる世界が違うとでもいっておこうか。本当なら君は僕を認識することは出来ないはずなんだけどね。さっきの女の子も同じで、普通の人には見ることはできない」
 何を言ってるんだ、この男は、と俺は素直に感じた。そんなこと言われたところで半分も理解出来る訳ないだろうに。
 俺はあー、とか、うーとか、言葉を捜しつつ唸って、
「つまり、俺は普通じゃないっていうことか?」
 自分なりに努力して理解したことを確認してみた。
「まぁ、そういうことになるね」
 自分の出した答えは正しかったようだが、あまり嬉しくなかった。言い方を変えれば、お前は頭がおかしいと言われるのと同じことだからだ。
「しかも君はあの女の子に触っていたね。あれには驚いたよ。君はかなり特殊なようだ」
 ――だから、そんなこと言われても嬉しくもなんともないんだよ。
「もしかしたら、君は僕と同類なのかも知れない……」
「はい? 何だって?」
 マーセの独り言がいまいちよく聞き取れなかった。
「何でもないよ。さて、次の説明だ。君の後ろの黒い空間、僕たちは裂け目とか、門とか言っているけどね。僕はその門を通って世界の狭間からここに来た。さっきの女の子は僕が狭間に送った」
 また、俺の知らない単語が使われた。
「狭間……?」
「別に理解できなくても構わないよ。要は、僕は別の世界から来たってことだよ。君の後ろの門は、こことは別の世界に繋がっている」
「もういい。多分それ以上説明されても俺には理解出来そうにない」
「だろうね」
 俺がマーセの話を理解出来ないことくらい、マーセは説明する前から予想出来ていたのだろう。
「じゃあ、僕はそろそろ退散しようか。もしかしたら、また君と逢うかも知れない。君が説明してほしいというなら、その時はまた説明してあげるよ」
 マーセはもしかしたらといったが、マーセの喋り方は、再度確実に出逢うと自信を持って言っているようだった。
「その時は、まぁ頼む。あと」
「あと?」
「俺の名前はコウだから。アサイ、コウ」
 ずっと君と呼ばれるのも気持ちが悪い。俺が名前を名乗っていないのが原因なのだろうけど。
「そうか。じゃあ、コウ。今日はお別れだね」
 優しげな笑顔を浮かべ直し、唇の端を上げる。思わず見惚れるほど、綺麗な笑顔だった。人間離れした綺麗さだった。
 俺は、何と挨拶を返せばいいかすぐには思いつかず、またもや、あーだとか、うーだとか、唸ったあと、
「それじゃ、また」
 結局、さようならの一言も言えなかった。さようならは逆に臭いな、と考えてから思った。
 ――まぁ、こんなもんでも大丈夫だろうさ。
「また、逢えるといいね」
 マーセはそう言い残し、俺の背後の門に足を踏み入れる。
「あぁ、言い忘れてた。君がその門には入れないから。気になるなら自分で試してみるといいよ。それじゃ」
 マーセが足を止め、振り返り俺に忠告し、今度こそ、門に身体を埋めていき、マーセの身体は黒に消えていった。
 最後に独りで残された俺は妙な虚しさに襲われた。虚しさ以上に疲労感が凄かった。
 当たり前だ。得体の知れない女の子にいきなり追い掛け回されたり殺されかけたり、何処からともなく現れた美青年に助けられて……。
 もう辞めよう。虚しすぎる。とにかく、日常では考えられない事が起こっただけだ。
「あぁもう。マジで疲れた……」
 精神的にも、肉体的にも、疲れ果てた。そんな状態で俺は、家に帰らないといけない。
「やってられん……」
 誰も聞いていない文句をぶつぶつと吐きながら、倒れた自転車を起こし、サドルに腰を預けた。
 そして俺は、のろのろと自転車のペダルを踏む。目的地は、我が家だ。
 今日のありえない夜が、俺の非日常の始まりだった。













『非日常の始まり』



 俺が目を覚ましたのは午前六時三○分だった。いつもの起床時間より三〇分程起きるのが早い。それでも外は鬱陶しくも明るくて、俺に朝が訪れたことをしつこく伝えていた。
 完全に覚醒しきっていない頭で、ぼんやりと昨夜のことを思い出してみた。昨日のことだと、過ぎたことだと考えれば、不思議と現実のことのようには感じなかった。自分で直に体験したことなのに、だ。だからといって昨日の出来事が夢だったのではないかと感じる程俺は馬鹿じゃない。逆に昨日の出来事を普通のことのように感じ始めている俺の方が馬鹿なのかも知れないが。
 ――まぁ、別にいいかな。
 いつもより早く目を覚ましてしまった俺が一番に考えなければいけないことは、一秒でも長く睡眠時間を確保することだ。たった三〇分といえども学生の俺には結構な時間なのだ。
 俺は、頭を動かすのを止めて、再び眠りについた。



「そろそろ起きときなさいよ」
 声が聞こえた。確実におかんの声だ。おかんが午前七時が訪れたことを俺に伝えてくれるおかんの優しさには涙は、でないか。
 情けない話だが俺は自力で朝起き上がるのは難しい。なので俺は毎朝おかんに起こしてもらっている。つまりは親離れする気もない、普通のガキな訳だ。
 俺は頭を切り替え、思い身体を動かしベッドから降りる。その時に何かの文庫本を踏みつけた。まったく足の踏み場もない部屋だな、と俺は自分の散らかった部屋を見て情けなく感じた。部屋の中央には自分の小遣いで買った小さなこたつ机があり、その机の上にはデスクトップ型のパソコンが置かれている。パソコンの周りには計算用紙に使ったルーズリーフが散乱していて、床には学校の教科書類、漫画、文庫本、ゴミ箱に入り損ねた紙屑、空になったプリンのカップ等。
 近日中には片付けようと心に誓い、床に置かれた漫画や教科書を踏まないように部屋の外に出る。
目を擦りながら朝飯を食うために台所に向かった。台所の机には一膳の白飯と弁当の残りの卵焼き、あとお約束のごはんですよの瓶が置かれている。以上が今日の俺の朝飯だ。
 机の椅子にはおかんが俺より先に座って、トーストを齧っていた。あと灰皿も置かれていた。
「おはよう、コウちん」
 ――いい年してちんなんて言うな。あと、朝から煙草すってんな。
 でも、我慢するのが俺なりの親孝行だ。
 いつもどおりの朝……、

 じゃない!

 眠気が吹き飛んだ。ありえない物が見えたからだ。おかんの背後に昨夜見た黒い空間が存在していたのだ。規模はかなり小さく、昨日見た物の十分の一もないが確かに、見間違うことなくマーセが言うところの門だった。
 ――なんでだよ。俺は寝ぼけてないと思うんだが……。
 図らずともおかんの背後を凝視した。恐らくおかんには俺がおかんを凝視しているように見えているだろう。
「どったの?」
「座敷童がいるかなぁって探してた。おかんを見てた訳じゃないからよろしくお願いします」
 自分の奇行を誤魔化すために、少々調子に乗った返答をおかんに返す。といっても、いつもの会話がこんなふざけたものが多いので何の違和感はないと思う。
「はいはい、分かりました。座敷童はいないから安心しなさい」
 案の定おかんも俺の返答に乗ってきた。それでこそ俺のおかんだ。
「安心しました。んじゃ、頂きます」
 軽く手を合わせて米を口に運ぶ。うん、美味いと思えば美味い。
 しかし、何故おかんの背後に裂け目があるのか……、訳が分からなかった。今は理解するよりも先に飯を胃に流し込んだ方がいいのかも知れない。
 ごはんですよを米の上に乗せ、それを口に運ぶ。うん、ごはんですよと米は美味い。
 何気なく、首を回してみた。
 むせた。さっきよりもありえない物を見たからだ。
 俺の背後に、昨日見た黒い空間が、俺を飲み込まんばかりの大きさで存在していた。写真を撮ったかのように覚えているあの裂け目が、俺の背後に存在しているのだ。
 ――本当に、どうなってるんだ。飯食ってる場合じゃないぞ。
「どったの?」
「今世紀稀にも見ない程の思い出し笑いをしただけなので心配はご無用」
 ケホケホとむせ続けながら、例によってふざけた返事をおかんに返す。
「あぁ、そうなの」
 おかんは俺の返答に納得したようで、自分に興味を持つのを止め、トーストを齧りだす。
「そうですとも」
 そんな、妙な会話は不思議と噛み合い、今日の非日常の歯車は動き出した訳である。



 結局、俺はごはんですよの力を持ってしても白飯一膳を完食することが出来なかった。卵焼きの力も微々たる物だった。
 とりあえず俺は今腹は減ってはいないが、昼前の授業の時の空腹のことを朝から心配しながら、高校に登校していた。
 季節は秋。残暑が少し厳しいくらいの、それなりに過ごしやすい季節だ。
 俺は通う高校には、自転車で約二〇分かかる。その二〇分間が一日の中で暇な時間ランキングに上位に食い込む程の暇な時間、だった。
 だが、今日は違う。どうやら俺の非日常はまだ続いているようだ。道路ですれ違う他校の学生の背後にも、裂け目が存在していた。その裂け目の大小は一人一人違うものの、殆どの人達の裂け目は俺のおかんの裂け目くらいの大きさだった。俺の背後の裂け目程の大きさの裂け目は、まだ見ていない。
 ――マジでなんなんだよ。これ。
 混乱したような言葉を心の中で呟くが、それほど混乱はしていなかった。昨日と同じように、現実離れし過ぎて、何処か笑えるのだ。
 俺は、心の何処かで、今の状況を楽しんでいるのだろうか。それとも、混乱し過ぎて、逆に冷静だと思い込んでいるだけで、すでに俺の頭はおかしくなっているのか。どちらにしても、黒い空間、裂け目が見える時点で、俺はまともじゃない。
 交差点の信号に引っ掛かり、足を自転車のペダルからアスファルトの上に移す。

『やっぱり君は見えるんだね』

 聞き覚えのある声が聞こえた。詠うような、夜に聞いた波の音のような優しい声。そして、人を馬鹿にしたような口調。間違いなく、マーセの声だ。
「あんな別れ方しといて、次の日に逢いに来るのか。あんたは」
 振り返り、声の主を確認すると、マーセが俺の自転車の荷台に腰を下ろしていた。
「君には興味があるからね。暇潰しには最適なのさ」
「あぁそう」
 マーセは俺にしか見えないことを、マーセと自然に言葉を交わしている途中で気付いた。交差点で止まっている通学生が俺だけで助かった。他人には独り言を喋っているようにしか見えないだろうから。そんな奴に送られる物は、痛い奴という称号。
「君は、人の背に見える小さな裂け目が何なのか、知りたいかい?」
「俺の名前はコウだって言わなかったっけかな」
 信号の色が青に変わる。自動車が、さっさと渡れよとエンジン音で俺を急かしていた。俺はペダルに体重を乗せ、横断歩道を渡る。マーセが荷台に乗っているが、マーセの重さは感じなかった。
「あぁ、済まないね。コウ。それでコウ、君は僕の話を聞く気はあるかい?」
「ついでに、俺の背中にある裂け目のことを、俺が学校に着くまでに出来るだけ分かり易く教えてくれ」
 他人の目が無いので、気にせず声を出してマーセに語りかける。むしろ、それが普通なのだが、俺は声を出す以外にコミニュケーションの取り方を知らない。
「努力するよ」と、マーセが笑った。
 自転車もスピードに乗り、ペダルを漕がなくても前に進み出す。
「まず、皆が抱えてる裂け目はね、世界に抱いている負の感情の表れなんだ。例えば、こんな世界大嫌いだ、とか、そんな感情。普通の人にはその裂け目は見えないし、裂け目を抱えている本人も見ることは出来ない」
 今時のファンタジィ小説にも使われないようなベタな設定を、当たり前のことのようにマーセは語る。俺はマーセの言葉を信じるしか手段はない。例え嘘だったとしても、俺が見ている得体の知れない裂け目の正体を負の感情の表れと思い込めるだけでも、幾分は気が楽だ。
「じゃあ、俺が抱えている裂け目は何? 俺はこんな大きな裂け目を作るくらいに世界が嫌いってことなのか?」
「さぁ、どうなんだろうね」
 背後から聞こえるマーセの声は、答えを知っていると正直に答えていた。
 ――こいつは嘘をつく気がないんだな。
「答えてくれないの?」
 理由を聞いたところで俺の質問の答えは返ってこないだろうが、一応聞いてみた。
「コウが知るべきことじゃないから。知ったところで理解できないだろうし」
 有無を言わせないマーセの声。反論する気も失せる程だ。
「だろうし?」
「全部分かったら面白くないだろう」
 多分、マーセは満面の笑みで言ったのだろう。それはもうぶん殴りたくなるような笑みで。だが、悲しいかな、俺は人を殴るような度胸はない。
「あぁそう。だったらいい」
 諦めの良さが俺の美徳だと思いたい。それに、高校の門が見えてきた。これ以上質問しても時間がないだろう。それ以前、これ以上マーセと会話を続ける訳にもいかない。
「今からお前に話かけられても応答しないから」
「心配無用だよ。今日一日コウには近寄らないから」
「なら安心だ」
 言った傍から応答してしまう自分の意思の弱さには脱帽だ。
 気配で、マーセが消えたことが分かった。
 果たして、今日の学校生活は一体どうなるのだろうか。不安が殆どだが、前向きに期待もしてみた。



 俺の通う高校は厳密には高校ではなく、中卒でも入学出来る工業系の高等専門学校、高専だ。高専は五年で卒業で、卒業すると短大卒の資格がもらえる。しかも就職率が他と比べて高い。それが、俺が高専を受験した第一の理由だ。だから別に工業系に興味がある訳じゃない。俺と似たような動機で高専に入学した人も結構多い。
 俺は、そんな不純な動機で高専に通っている二年生だ。
 いつもどおり自分のクラス、二年電子に向かう。場所は一般教養棟の二階だ。ちなみに、高専には学科は五つあり、学科一つ毎に校舎がある。それに、一、二年が勉強する一般教養棟と、高専を卒業した人が編入する専攻科棟を合わせた七つの校舎が高専の敷地内に建てられている。
 無駄に広い学校だな、と高専に二年間通っていてもたまに思う。
 自分の教室に辿り着くまでに、すれ違う学生の裂け目が嫌でも目に入り、清々しい朝など感じられなかった。これでは、青空と日差しが台無しだ。
 教室には何人かの学生がもう登校していて、漫画を読んだり、朝からスナック菓子を食べていたり、携帯ゲーム機で暇を潰していたり、皆、自由に行動していた。それだけなら、いつもと何も変わらないのに……。
 だが、それはどうしようもないことだと割り切って、自分の机に荷物を置き、誰かが話しかけてくるのを待つ。俺は自分からはあまり話しかけない。俺が話しかけたときに鬱陶しがられるかも知れないからだ。自分から話しかけて鬱陶しがられたことは殆どないが、鬱陶しがられる可能性があるのなら、俺は何の恐怖もなしには話しかけられない。
 何もしないで時間を潰すのも少しきついものがあるので、教科書が入った鞄から小説を取り出し、内容を楽しむ訳でもなくとにかく文字を読む。文字を読む時間はホームルームが始まるまでの十分間だ。
 文字を読み取り始めて、五項ほど本をめくった。やっと、文字を読むことに集中し始めた矢先、
「おはよう。コウ君」
 と、誰かが俺に挨拶をした。確実に男だ。工業系の学校には女の子は少ないし、俺は女の子に話しかけられることが殆どない。
「あぁ、おはよう。今日もうっぜぇくらいにいい天気だね。太陽は俺たちを焼き殺す気でいるみたいだ……ね」
 視線を本から声の主に向ける。目の前には、背丈が一・六メートル程の小柄な、数少ない女の子に人気のある絵に描いたような美少年がいた。自然な茶色をした柔らかそうな髪に、母性本能をくすぐるような微笑に、不健康さを感じさせない白い肌。某韓国人俳優も真っ青の微笑だ。きっと世のおば様方は黙ってはいないだろう。
 しかし、世のおば様よりも先に俺が黙ってはいない。こいつの背後には、俺が抱える裂け目と同じくらいの、もしくはそれ以上の大きさの裂け目が見えたからだ。
 これは、間違いなく、マーセが言うところの裂け目という奴だ。
「どうしたの?」
 美少年は微笑を崩さず、言った。
 俺はいつもの癖で、母音の何かで数秒唸って、
「君の名前を覚えていないことに気付いた十七の朝でした」
 嘘ではないが、本当のことは言わなかった。言える訳がない。「お前の後ろに変な裂け目があってさぁ、マジで焦ったわ」など言おうものなら俺は、正気かどうかを疑われるか、もしくは冗談だと思われて、俺がすべったことになってしまう。正気かどうかを疑われるのと同じくらいにすべることはきつい。
「なんだよそれ。ヒドイなぁ」
 俺の失礼な発言に美少年は腹を立てるでもなく、逆に更に笑った。今度は微笑ではなく、声を出して笑った。なんというか、可愛らしい笑顔だ。
「あぁ、ホントにごめん。出来ればこの記憶力の乏しい私に貴方様のお名前を教えて頂きたいのですが」
 美少年の笑顔に倣って、俺も軽い調子で名前を訊いた。やはり分からないことは素直に聞くのが一番だ。
「もう忘れないでね。僕の名前はアキ。コウノアキ」
「おけい。ばっちり覚えました。アキね。今度の期末テストであんたの名前が出題されてもばっちりってくらいに覚えたよ」
 わざとらしく、親指を立てて美少年ことアキに手を突き出す。ダサさ満点のポージングだ。
「ありがとう」
 アキには俺のダサポージングが逆に受けたようで、くすくすと笑ってくれた。やはり人を笑わせるのは気持ちが良い。笑われるのは大嫌いだが。
 気付けば、小さな裂け目を抱えたクラスメイトの殆どが各々の机に座っていた。時計を見るとホームルームが始まる二分前、八時三〇三分だった。
 アキも俺の視線を追って時計を見た。
「そろそろ、僕も戻るね」
「あぁ、それがいいだろうさね」
 妙な語尾だが、そんなものは気分で変わるものだ。いちいち考えて使い分けたりはしない。
 俺のクラスの担任の男性教師も、ホームルームが始まる前に教室に入っていた。何か話す気満々だ。彼も、例外なく裂け目を抱えていた。
 八時三〇五分を告げるチャイムが学校全体に響く。チャイムを合図に、担任が起立と学生に号令をかける。
「はいみんな、おはよう」
 気だるそうに、担任が挨拶をする。
 形式だけの儀式が行われる。学生も声に出して挨拶はしない。俺たちはただ頭を少しだけ下げるだけだ。俺みたいな小心者は完全に無視するのも気が引けるので小さい声ながらも挨拶は返している。
 学生全員が席に着いたことを確認した担任が俺たちにどうでもいいような連絡事項を告げだす。俺は小説を開き文字を読む作業を再開した。一応、担任の話にも耳は傾ける。
「まぁ、今日も一日、頑張ってください」
 そう担任が話を締め括り、余ったホームルームの時間はちょっとした休み時間になった。
 担任も、例外なく、裂け目を抱えていた。世界に不満のない人間が殆どいないらしい。精神が不安定な思春期の俺たちが裂け目を抱えているのは納得出来る。そもそも、大人だからと不満も何もないと考えることが浅はかだな、と俺は担任の裂け目を見るのを止めた。



 ホームルームの終わりを告げる報せが後者全体に控えめに響き、講義が始まった。
 講義が始まって、一時間が過ぎた。残り三〇分。科目は化学。
 正直な話、今は講義どころではなかった。ある程度静かな教室の中に、三〇以上の裂け目が並んでいるのだ。
 ――なんだこのシュールな景色は。
 気味が悪かった。吐き気がする程だ。一時間よく耐えたと思う。一つ一つを見るのなら気味が悪いと感じはしない。だが、これだけの数を見れば、俺が見ている世界に違和を感じずにはいられない。
 裂け目だらけの、黒い裂け目が視界の半分を覆っている、奇妙な、奇怪な世界。
 この光景が見えるのは仕方が無いことなのか。そう思って諦めるしか手段がないのか。気味の悪いこの光景を見ない手段は目を瞑るくらいしかないのか。とにかく、俺は精神的な苦痛から逃れたくて仕方が無かった。結局、一時限目は、物理的に裂け目を見ないことにした。つまりは、目を瞑り講義が終わるまで時間を潰した。化学は苦手ではないので、三〇分くらい講義を聞かなかったところで、何も問題はない……筈だ。
 二時限目、科目は数学。化学のように寝て過ごす訳にはいかない。数学は真面目に講義を聞いていないと理解出来なくなる。数学の内容が理解出来なければ、数学の単位も危ういし、進級も危うくなる。だぶりだけはごめんこうむりたい。
 幸いにも、俺の席は廊下側の窓際だった。黒板を見る時間を最小限に留め、残りの時間はずっと窓の外を覗いて過ごすことにしよう。それでも、すべての裂け目が俺の視界の外に追い出すことは出来ない。世界の気味の悪さに対する耐性も出来る気配はなかった。吐き気がする程の気持ちの悪さに耐えながら、俺は窓の外、廊下と窓枠の中の風景を見ながら、気だるい時間を過ごした。



 無事、二時限目も終わり、昼休みが訪れた。俺は真っ先に手洗いに向かい、とりあえず戻した。俺の口からは見るも無残な姿になった白米とごはんですよと卵焼きが現れた。俺はそんな彼らを直視出来ず、水に流した。
 ――あぁ、ホントもったいないことしてるな。俺。
 俺は嘔吐物が流れきるのを確認せず個室を出て、もちろん手を洗い教室に戻った。
 おかんがせっかく弁当を作ってくれたのに、今日は何も喉を通りそうにない。昼食は炭酸飲料で我慢しよう。糖分を摂取しないことには午後の講義をまともに受けることなど不可能だ。
 鞄の中から財布を取り出し、ペットボトル代百五〇円を抜き出し、教室から二〇〇メートル程離れた売店へと向かう。一度、腹の中の物を戻したお陰か、吐き気は一時的に治まっている。すれ違う学生の小さな裂け目を見ても動じなくなってきた。無駄に明るい彼らの笑顔が、俺の現在の気分的にかなり鬱陶しく感じることを除けば、割と過ごしやすい昼休みなのかも知れない。
 だらだらと足を進め、売店と校舎の間の広い駐車場を通り過ぎ、売店に辿りつく。売店の隣は食堂になっていて、賑やかで楽しそうな笑い声が聞こえた。まだ昼休みが始まって十分も経っていないのに、食堂の座席はほぼ満席になっていた。俺は学生たちの声を聞きつつ、自動販売機を睨む。小銭を握った時には炭酸飲料を買おうと決意していた筈が、スポーツドリンク、紅茶、レモンティー、ミックスジュース等、俺の決意を揺るがす個性的な面々が俺を睨み返していた。
 飲み物など甘ければ問題はないが、金を払うのだから適当には決めたくない。しかし、何分も自動販売機を睨み続けるのも、痛い。
 結局、俺が押したボタンはカルピスソーダだった。その選択に後悔も、達成感もなかった。

 うん、甘い。甘酸っぱい。これぞカルピス。俺は教室に戻り、昼休みが終わるまでの残り三〇分すべてを使って、カルピスをちびちびと飲んでいた。寂しいことに俺から話しかけなければ、誰も俺の相手などしてくれない。誰かが自分の相手をしてくれるという考えが甘いのかも知れないが。
 俺の周りに充満するクラスメイトが作りだす明るい、楽しそうな、羨ましく感じる程の雰囲気。その雰囲気に囲まれていると俺はいてはいけないような気になる。俺の被害妄想以外の何者でもない。大勢でいれば、それだけ孤独を感じる俺の性格。捻くれた性格だと、毎回ながら思う。このままでは、俺の心は捻れ過ぎていつか千切れるな、と独りで自嘲気味に笑った。誰かに見られていたのならば、かなり気持ち悪い光景に見えただろう。いやはや、ご飯時に失礼しました、と心の中でへこへこと謝る。
「今日のあんたはいつにも増して暗いわねぇ。あんたのネガティヴィックオーラがあたしの教室まで漂ってるわよ。多分」
 頭の上から声が聞こえた。うんざりするくらいに聞き慣れた女の声。窓の外には深緑のフレームの眼鏡をかけたショートヘアーの女の子。肌の色は不健康さを感じさせる程に白い。幼馴染のアサカだ。実際アサカは身体が弱くて、小、中学ではよく体育を体調不良を理由にさぼっていた。今がどうなのかは分からない。学科は化学科。アサカとは親の友達の娘ということで、小学校に通う前から知り合いだったりする。
 やはり、こいつにも裂け目が見えた。何故だか分からないが、アサカの裂け目を見ると妙に悲しくなる。
「ふっ。どっちが正面かは俺が決めることだぜ。アサカよ」
 俺は意地っ張りなので、本当に気分の悪い時や、テンションの低い時は絶対に弱音を吐かないし、逆にテンションを上げる。吐くのは軽口だけだ。弱音を吐いたとしても、その時は冗談だと分かるくらいに軽い調子で言う。
「そんなことより、あんた大丈夫? デスラー総統も真っ青の顔色の悪さよ」
 ――どれだけ俺の顔は青いんだよ。
「そうか、それは本格的にヤヴァイな。それが俺に対する最終警告なんだろうな。このまま放っておくと、大変なことになるんだろうな」
 少し棘のある言葉だが俺のことを心配してくれていることは分かる。アサカも俺と同じくらいに意地っ張りな性格なので、素直に大丈夫? とは言えないのだろう。
「あんた弁当は?」
「俺の返しは無視ですか。そうですか。俺の声はお前には届かないのか。俺の声は超音波ですか」
「で、弁当は?」
 ――こいつ……。
「お前はそんなに俺が弁当を食っていないことが気になるのか。もっと別に気にすることはないのか。どうして空が青いのかとかを考えたりはしないのか。空が青いことよりも俺が弁当を食っていないことの方が重要なのか。答えてください。お願いします、アサカさん」
 どうせ俺のことなど見てるやつなどいないだろうと、形振り構わず頭を下げた。
「空がなんで青いかなんてセンセーに聞けば答えてくれるし。逆に言わせてもらうけど、あんたはなんであたしの質問に答えないのよ」
「特に理由はないさ。単純に食欲がないだけだって。弁当持ってくんの忘れた訳じゃないよ。ばっちり俺の鞄の中にはおかんの手作り弁当が入っとりますぜ」
 俺は鞄を親指で指す。
「正直今日は調子悪いの。そういう日だってあるの。分かった?」
 捲し上げるように、それでいて冗談だと分かる口調で、アサカに言った。大丈夫だから心配するな、と伝えたつもりだ。
「午後からの講義どうするの?」
「受けるよ。さぼる訳にもいかないでしょ」
「ホントに大丈夫?」
 俺が伝えたかったことはしっかりアサカに伝わったようだが、アサカを安心させるには言葉が足りなかったらしい。
 ――こいつに嘘をつくのはホントに難しいな。
「おう。全然大丈夫。心配御無用」
 上手くもない作り笑いを浮かべた。
「そう? だったらもう何も言わないけど……。無理とかしない方がいいよ」
 アサカは本気で心配してくれているようだ。俺の相手などすることないのに。俺に気など使わす自分の友達と昼休みを過ごした方がよほど有意義な時間を過ごせるだろうに、何故それをしないのか。
 ――まぁ、こいつの自由意志だし、俺が口出しすることじゃないな。
「それじゃ」とアサカは窓の枠からフレームアウトした。
 独りになった俺はカルピスソーダを飲むのを再開した。少し温くなっていたが、甘ければいいという俺の思想の前ではそんなことは大きな問題ではない。
「コウ君。さっきの娘。友達なの?」
 次は誰だと声のする方を向くと、アキがいた。
「すごく、仲が良さそうだったね。まるで、恋人同士みたいだった」
 素顔が微笑のような、そんな自然な笑顔をアキは浮かべていた。
「あいつとはただの幼馴染だよ」
 アサカとさっきのように話していると、中学の頃は付き合っているのではないか、とよくからかわれたものだ。俺がタメ口で話せるのがアサカしかいないことと、俺と話す女の子がサカしかいないことが主な原因だろう。俺みたいな男が彼氏だと言われたアサカが不憫で仕方が無い。
「そうなんだ。なんだか羨ましいな」
「まぁ、いて悪いものじゃないよ」
 素直に、俺はそう思っていた。アサカのことを疎ましく思ったことは今まで一度もない。
「ん?」
 アキが俺の顔を心配そうな表情で覗いていた。微笑が消えていた。
「コウ君、顔色悪いよ。大丈夫?」
「さっきもおんなじことを言われたよ」
 やはり俺の顔色の悪さは尋常ではないらしい。
「大丈夫だよ」
 空元気とやせ我慢を絡ませた言葉をアキに向ける。
「無理しないで保健室で横になった方がいいよ」
 今の俺の言葉には説得力はなく、俺の大丈夫という言葉をアキは無視しているようだった。
「そこまで気分が悪い訳じゃないって。ホントに大丈夫だよ。それに、あいつに午後の講義受けるって言っちゃったし」
 保健室で惰眠を貪ったところでアサカに知られる可能性は低いだろうが、出来れば嘘はつきたくない。
「あいつって、さっきの娘?」
 気のせいだろうが、アキの表情が一瞬不機嫌そうに見えた。
「そういうことになるわな。それがどうかしたの?」
「あ、いや、別になんでもないよ。ちょっと気になっただけ」
 アキは何かを誤魔化すように笑みを作った。わざとらしく、ははっ、と笑い声を出したりもした。
「でも、本当に心配なんだよ」
 困ったような笑みを張り付け、アキが言葉を付け足した。
「そっか」
 その一言を最後に会話が途切れた。二人きりで会話がないこと程気不味い時間はない。俺は何か話題がないかと頭を回転させながら、きょろきょろと教室を見回した。
「あー、と、なんていったらいいかな、そのー、うーんと……」
 目も当てられないようなその場凌ぎの喘ぎ声を出す俺を、動物園でパンダを見る子供のような目でアキが観察していた。
「その、心配してくれて、ありがうな。正直嬉しかったから」
 流石に恥ずかしくて、目を見ては言えなかった。男同士で目を合わせるのも、少し気色悪いか。
「とりあえずさ、俺が無理だって感じたら無理はしないからさ。その時は保健室までのエスコートはよろしく」
 照れ笑いを浮かべながら、アキに言う。当のアキは、檻の中のパンダがいきなり暴れだすのを、呆然としながら見るようなきょとんと目で、俺を見ていた。
 ――やっぱり、素の俺はとてつもなく寒いのかな。アキがリアクションに困ってるよ。ちきしょう、慣れないことを言うんじゃなかった。
 数秒間、リアクションを取ってくれないアキを見ながら、俺はかなり後悔した。
「ありがとうだなんて、真顔で言われると結構恥ずかしいね。僕も結構、嬉しい」
 思い出したかのように言葉を紡ぐアキ。
「お節介かなって、思ってたから」
「馬鹿なことをいいなさんな。俺みたいなやつは人様の優しさに飢えてんだよぅ。そんな俺が好意の食わず嫌いなんかする筈ないでしょ」
 すかさず、アキの言葉を否定する。こうやって心配してくれる人がいるだけでも、俺は有難く感じている。だが、幼稚な俺は恥ずかしくて素の自分の言葉でそれを伝えられない。
「ありがとう。コウ君」
「だから、礼を言うのは俺だって」
 俺も笑った。空元気などではなく、単純に楽しかったからだ。こうして笑っていると、気持ちは大分楽になったような気になる。
「それじゃあ、保健室までのエスコート、任されたからね」
 笑いを堪えながら、アキが言った。
「おう、これで存分に午後の講義を受けれるってもんだ」
 久しぶりに、楽しい会話を味わった気がする。アキとこんなに話したのは初めてなのに、こんなにも楽しく話せるとは思わなかった。本当に大発見だ。
 それから、昼休みが終わるまで、どうでもいい雑談を、俺とアキは続けていた。手に持っていたカルピスが温いどころか暖かくなったことにも気付かず、俺はアキと言葉を交わした。



 午後の講義も、腹に物が無かったので戻すという行為を心配することはなかった。気味の悪い光景にも、午後になってやっと耐性が出来始めたようで朝程気分は悪くもなかった。
 今日の講義がすべて終わった時の時刻は午後四時。窓からは紅い光が眩しいくらいに差し込んでいる。アニメとかで見る放課後は、案外現実とそう変わらないものだな、と俺は思った。クラスメイトは部活やら、バイトやらで忙しいようで、あっという間に教室から消えた。俺は携帯を見た。メールも着信もない。今日はバイトはないようだ。
 しかし、昼飯を抜いたのは失敗だったな、と俺は今更ながらに後悔した。空腹過ぎて、腹が痛い。今は別に吐き気がする訳でもないので、とりあえず何か腹に入れておこうと思った俺は、売店で菓子パンを買いに向かった。おかんの手作り弁当は箸を付けていないが、白飯を食いたい気分ではなかった。
 昼と同じ道順で足を進める。当たり前のことだが昼と今ではまるで表情が違っていた。たまにすれ違う学生からは疲労のようなものが微かに感じ取れる。紅に塗られた校舎自体が疲れきっているような、そんな印象を受ける。夕日に照らされる俺も同様に、疲れていた。この学校に入学した時の精神的な疲れと、何処か似ている気がした。今まで生活してきた世界と、まるで違う世界に初めて足を踏み入れる感覚。俺の見える世界もそんな感じだ。戸惑うのも、疲れるのも無理はない。少しずつ慣れていこう。俺が高校に入学した時も似たようなものだったのだから。
 さっきから駐車場を歩いているのだが、妙に今日は広く、長く感じる。疲れているせいだろうか。
 売店に向かっていると、駐車場の真ん中に生えている大きな桜の木の根の傍に、膝を抱えて蹲っている男がいた。見た目は学生ではなかった。俺はその男を避けるように駐車場を横断しようとしたが、男はこちらを見ているようで、視線が気になって仕方がなかった。
 はっきりいってかなり気味が悪い。少しだけ早足で男が蹲っている桜の木の傍を離れる。
「なんだよ。お前、俺のことが見えるんだろ。なんでシカトすんだよ。なあ?」
 何が楽しいのか、半分笑いの混じった声で、男が俺に話しかけた。
 男が呼んだお前は恐らく俺のことだろう。俺に話しかけた男が普通ではないことくらい考えればすぐに分かるのに、俺は律儀に足を止め、律儀に男の方に向き直った。自分でも馬鹿だと思った。男が立ち上がりこちらに向かってくる。痩せた身体に布切れのようなシャツに、汚れきった作業服のようなズボン。年齢は、二十過ぎくらいだろうか。浮浪者スタイルを地で行くようなファッションセンスをこの男は持っていた。
 ――なんでこんな怪しい男が校内にいるんだよ。
 突っ込む相手がいないが、心の中で俺は突っ込みを入れた。むしろ突っ込む相手は目の前の男なのだろうが、わざわざそんなことを言って相手を怒らすのも馬鹿らしい。
「そんなつもりはなかったんですけどね。話しかけない方がいいかなぁって思ったんですよ」
 極めて友好的に、男に返事を返す。
 ――だから、なんでこいつの相手をしてんだよ、俺は。
「馬鹿にすんなよ。俺なんか狭間に送る必要もないってのかよぉ。おい」
 俺の返事は予想に反して男を怒らせた。あれで怒り出すような奴はかなり捻くれている。俺以上に捻くれている。
「がっ!」
 驚きと苦痛で声が漏れた。絞りかすのような声だった。
 男の指が俺の首に絡んでいた。男はかなり力を込めている。
 ――こいつ、目がいってやがる。
 苦しい。男はまるで手加減などしていない。俺を縊り殺す気なのだろう。俺はがむしゃらに男の腕を引き離そうとするが、男の力は弱まることはない。
 ――放せ、放せよ、放せよ、放せよ。頼むから、放してくれ。このままじゃ、死んじまう。
「死ねよ、殺してやる。お前が悪いんだ。俺を馬鹿にするから……」
 そろそろ俺の腕にも力が入らなくなってきた。気持ちが折れそうになっていた。もう、無理だと、感じ初めていた。その気になれば、まだ足掻けるだろう。だが、俺はその気になれそうもなかった。視界も、暗くなってきた。
 完全に心が折れかけた時に、冗談のように男の腕の力が緩んだ。
「何するつもりだよ。お前」
 誰かが、男の腕を俺の首から引き剥がしていた。その誰かの声は、物質どころか精神すらも凍らすほどに冷たくて、俺が一瞬垣間見たあの暗黒よりも暗かった。俺は、その声に聞き覚えがあった。その声は、アキの声だった。
「ふざけろよ」
 男の腕を持った腕とは別の腕で、アキが男の顎に慈悲なく掌底が放たれた。
「がはぁっ」と、声を漏らし、男が仰け反り、地面に倒れた。
 仰け反ると同時に俺の首から男の腕が完全に離れた。
「かはっ、けほっ……」
 男の腕という支え失った俺はその場に崩れ落ちた。地面に這い蹲って、空気を貪るように吸い込んだ。自分でも良く分からない快感が俺を襲った。
「お前の居場所はここじゃない」
 男が起き上がる前にアキが男の首を押さえる。男の顔が恐怖で歪んでいた。俺だって、その男のことをとやかく言える立場ではない。アキの表情を見て、俺も恐怖したからだ。アキの声も、鋭い刃物になって、俺の喉仏に剣先が突き付けられているようだった。
「や、止めろよ。止めろよぉ!」
 男が訴えるような声で、情けなく叫んだ。俺は、あんな奴に殺されかけたのかと思うと、自分も情けなく感じる。
「消えろ」
 アキは完全に男の声など無視していた。
 アキの声に応えるように、男の背を支えていたアスファルトの敷かれた地面が、裂けた。アキの声が地面を切り裂いた。
 その裂け目は、アキが抱えている黒い空間、裂け目とマーセが、女の子を消したあの空間とまったく同じものだった。
「頼む。頼むから、止めてく……」
「うるさい。黙れ」
 アキが精一杯腕を伸ばし、男を裂け目の奥に押し込む。アキの動作からは躊躇いなど何一つ感じられなかった。感情すら、感じられない。それが逆に怖い。
 男の懇願など初めからなかったかのように、男の声は遮られ、身体は完全に裂け目の中に埋まった。
 そして、ファスナーを閉じるくらいに簡単に裂け目が閉じた。
「大丈夫? コウ君」
 焼けた鉄の上に置かれた小さな氷のように、冷酷なアキの表情は溶けてなくなり、昼休みに見せたような、優しげな、俺を心配している表情に変わった。
 アキが、俺が身体を起こすのを手伝う。
「なんとか」
 そう、答えたはいいが、俺の意識は完全にはアキには向いていない。
 ――何が起こった? アキはあの男に何をした? 男は何処に消えた?
「良かった」
 アキが泣きそうな表情を俺に見せた。一瞬、どきりとさせる、魅力的な、なんというか、色っぽい表情だった。同性ということを忘れさせるくらいに。さっきの出来事が薄れるくらいに。アキの中性的な顔つきがそう感じさせるのだと、俺は一瞬感じた気持ちを否定した。
 アキの見せた不意打ちの表情のせいで、俺の疑問がすべて頭の中から消えた。
 そう、そんなことよりも大切なことがあった。
 ――死なないでよかった。ホント、よかった。
 安堵感が、俺の身体から力を抜き取った。俺はもう遠慮も何もせず、アキの両肩に掌を乗せ思いっきり頭を下げた。
「え、ちょっと?」
 俺の掌が乗せられた瞬間、アキの身体がびくっと脈打った。思いの他アキは動揺していた。
「本気で、死ぬかと思った」
 一度下げた頭を上げて、アキの顔を見る。何故かアキの顔が赤いがそんなことを気にする心の余裕は俺にはない。
「本当にありがとう。アキ。助かった」
 生きることの素晴らしさを身体全体で感じながら、その素晴らしさをアキに伝えるくらいの勢いで、俺はアキに礼を言った。
「う、うん」
 俺の突然の行動に戸惑いながらも、アキは俺の言葉に返事を返す。
 それから、俺の妙なテンションは数分の間アキを困らせた。



 流れる時間は、俺にとって良い熱冷ましになり、冷静になりつつある俺に、さっきの出来事がどれだけ異常なことだったかを親切丁寧に教えてくれた。
 数十分前に、俺は殺されかけた。それを思い出すと、腕の振るえは止まりそうにない。
 俺の隣では、俺に異常な世界を見せた人物、アキが俺の歩調に合わせて歩いていた。そのアキの隣にはアスファルトの道路が走っていて、たまに自動車が俺たちの隣を通り過ぎていく。
 俺は手の振るえを隠すように、自転車のハンドルを力一杯握り締め、自転車を押していた。目的地は駅。学校から駅まで徒歩十数分はかかるが、遠い距離ではない。駅から徒歩で学校に通う学生だって多い。アキもそんな学生の中の一人だ。
「コウ君も、見えるんだね」
「てかさ、お前も見えるんだろ。俺の背中に付いてくる裂け目? がさ」
「うん」とアキが頷いた。
 アキの白い肌が紅い光に照らされる。一層、夕日が鮮やかに見え、夕日も、アキの顔を鮮やかに見せていた。
「結構前から俺の裂け目って、見えてた?」
「うん」とまたアキが頷いた。
 俺とアキが歩く歩道周辺は、いつも以上に静かだった。寂しく感じるほどに静かだった。辺りが静かなおかげでアキの頷く声は、まるで耳元で囁かれているように、はっきりと俺の耳に届いていた。
 車が俺たちの正面に向かって走ってくる。俺は、車が脇を通り過ぎるまで、声を出すのを待った。
 車が通り過ぎた。
「なぁ、アキ」
 意味もなく冷静に努めて、アキに言った。
「何? コウ君」
 アキは、俺に訊かれることが予想出来ているようで、あまり明るい声は返ってこなかった。
「さっきのことさ、俺に説明できるかな?」
 分からないことだらけだ。俺は、何も知らないままではいたくない。
「アキが知ってることだけでいいからさ。教えてくれないかな?」
 身勝手な理屈だが、アキに消された男に殺されかけ、アキに命を助けてもらった俺は、さっきの出来事について知る権利はあると思う。
「僕もよく分からないんだ。どうやって裂け目を作ったかとか、説明は出来そうもない。あれは、僕にとっては当たり前のことだから、理屈とかは全然分からないから……」
 アキの表情が曇る。俺の質問の答えられないのがそんなにも辛いのだろうか。
「分からないなら別にいいからさ。だったら、さっきの男は何者なのかは、分かる?」
「あれは……」
 と、アキは一言声に出して、少しの間、考えるような仕草を見せ、
「僕は、幽霊みたいなものだと考えてるけど……」
 自信なさ気に、言葉を続けた。
「幽霊?」
 アキの例えの意味が完全には理解できなくて、一応、確認の意を込めてアキに聞き返す。
「うん。さっきみたいなやつはね、普通の人には見えないし、触れないんだ。そういうところ、幽霊と似てるでしょ」
 確かに、と俺は思った。そう考えると少しだけ身近に感じる。だが、幽霊などとは明らかに違うと、根拠もなく俺は感じていた。恐らく、アキもそう感じているだろう。
「その幽霊みたいなやつは、皆が皆、人を襲うって訳でもなくてね、僕たちに害があるのもいれば、何も害がないのもいる」
 なら、二日連続で襲われた俺は、相当運がなかったのか。
「でもね、僕たちみたいに、普通じゃない人はさ、あいつらにはかなり目立って見えるんだと思う。だから、僕たちは襲われやすいんだよ」
 何となくだが、分かる気がした。むしろ、俺はその考えが正しかろうと、そうでなかろうと、その話に納得するしかないのだ。
「もしかしたらさ、僕たちはあいつらと同じなのかも知れないね」
 アキは表情を一転させ、おどけた様子で説明を締め括った。
「そう、なのかな」
「もう、そこは笑うところだよ」
 冗談に笑い声を返せない俺を呆れた目で見ながら、アキが笑った。
「あ、あぁ、ごめん」
 ぎこちなさが自分でも分かるくらいの笑みを、なんとか浮かべた。俺の心に余裕が殆どないようだ。情けない話だ。他人のボケを無視することほど、胸の痛むことはない。
「コウ君」
 アキが俺の名を呼ぶ。
「何?」
 反射的に俺は返事を返す。
「僕でよければ、なんでも相談にのるよ。君が見てる世界は僕にも見える。君は一人じゃない」
 アキが、目を逸らしたくなるほどに俺の瞳を覗きこんだ。俺は恥ずかしくて、すぐにアキの視線から目を逸らした。
「ごめん。いきなり変なこと言って……。でもさ、僕も嬉しかったんだ。僕と同じような人がいるって分かって。ずっと一人でさ、寂しかったから……」
 俺と同じように、アキは俯いたまま、喋る。
 なんて返事を返せばいいのか。伝えたいことは分かっているのに、言葉が思い浮かばなかった。
「その、さ。なんていうか……」
 言葉を探す途中で、意味のない言葉をその場しのぎで並べる癖は絶対に直りそうにない。
「アキの気持ち、何となくだけど、分かるよ。俺も、アキがいてよかったなぁって思うし」
 とりあえず、何か喋っておけばいい。伝えようとする気持ちが大切だ。
「多分、俺も一人じゃあ、この景色に耐え切れないわ。そのなんていうか……」
 言葉が続かない。俺は唸りながら言葉を探す。
「一人じゃないって思えるだけで、かなり気分が楽になるよ。だからさ、俺が言いたいのは……」
 本当に伝えたいことはそんなことではなくて、
「ありがとうな、アキ。って、昼もおんなじこと言ったっけ」
 結局、その一言に尽きる訳で。シンプルイズベストなんて言葉があるが、感謝の気持ちを伝える言葉、ありがとうの一言しか思い浮かばないのは、やはり情けない。
「そうだったね。ありがとう、コウ君。それも、お昼に言ったよね」
 自分でも知らぬ間に、腕の振るえは止まっていた。それだけ、俺の心に余裕が出来ていたのだろう。アキが話しかけてくれると、不思議と気持ちが落ち着く。不思議なものだ。
「案外、覚えてるもんだな」
「ホントにね」
 俺たちは、さっきの異常な出来事も、俺たちが抱えている馬鹿でかい裂け目も忘れて、落ちもないようなどうでも良い話を、駅に着くまでずっと話していた。
 俺は、アキを駅で送った後、帰りの坂道を登りながら、原チャリの免許でも取ろうかな、と本気で思った。




『非日常はやがて日常と変わって』



 他人の裂け目が見えるようになって、一ヶ月が過ぎた。もう十月である。残暑もない。少し風が少し肌寒く感じるようになった。俺はこういった季節を感じられるものが大好きだったりする。蝉の死骸を見て秋なんだなぁと切なくなったり、風が冷たいなぁと感じて冬に想いを馳せたり、こんな気持ちになれるのも俺が日本という国に生まれたからだ。本当に俺は運が良い。それ以前、俺が生まれた事自体がかなり幸運なことか。などと、風に身体を震わされる度にどうでもいいことを考えたりするのが俺クオリティな訳だ。
 裂け目のある景色も俺の日常へと変わりつつあった。皮肉にも裂け目が見えるお陰でアキとも仲良くなれた。アキと笑いながら昼飯を食ったり、俺の自転車の荷台にアキを載せて駅まで運んだり、朝、駅から学校まで運んだりすることも、俺の日常になっていた。
 俺を殺そうとした男や腕がおかしな女の子のことは、マーセは拒絶者と呼んだ。世界を拒絶した者、だから拒絶者。何時か、マーセが言った裂け目は世界に対する負の感情という言葉は、言い換えれば拒絶という意味にも解釈出来る。その負の感情、世界に対する拒絶の感情が大きくなり過ぎた人は自分が作りだした裂け目に飲み込まれて、世界と世界の間、狭間に向かうのだという。稀に、あの女の子のように拒絶の感情が破壊に向かう者もいるらしい。狭間に向かうのは、一人だけでは無理だとマーセが言った。狭間への門が開けるのはマーセたちだけらしい。マーセのような存在はかなりの人数がいて、『門番』という役割をこなしている。彼らだけが狭間へと続く門を開くことが出来て、拒絶者を狭間に送ることが仕事らしい。もちろんアキのような例外もある、とマーセは付け足した。
 つまり俺が見ることの出来る拒絶者は、狭間へは行けないが、俺たちとは存在する世界が違う人たち、ということなのだろうか。なんと曖昧な存在だろう。
 これが、一ヶ月間費やしてマーセから教えてもらったことだ。完全には理解できていないが、一応俺の非日常を日常に戻す一歩な訳である。だが、俺が何故こんなことを唐突に思い出したかといえば、俺の目の前に非日常の象徴が現れたからな訳で。
 そうそう、忘れていた。拒絶者は、裂け目を抱えていない。
「聞いているの? そこの大きな裂け目を抱えている貴方」
 一度目の呼びかけで自分の意識を飛ばし、二度目の呼びかけで飛ばした意識を呼び戻した。
「もしかして、俺のことですか」
 なんとかその言葉を思い出し、返事をする。俺にいきなり話しかけてきたのは背が高くて普通に綺麗な女の子で、艶のある黒髪を肩と腰の間くらいまで伸ばし踊らしていた。服装はブレザーの制服。良く似合っている。なんというか、格好良い。
 もちろん彼女の裂け目は見えなかった。
 俺の目の前で車が止まる。信号が赤に変わったようだ。俺はこの時を待っていたのだが横断歩道を渡ることもできず、初対面の女の子に足止めされたのだ。
「そう、自転車に跨って信号待ちをしてた、貴方よ」
 凛とした、俺には気取ったように感じる声で彼女が言った。悪く言えば高飛車に感じる声。だがこんな綺麗な娘が俺より下な訳はないので、上から物を言われたところで何も感じるものはない。それが自然で、当たり前のことだ。
「確実に俺のことみたいですね」
 彼女に確かめるためにではなく自身を納得させるために呟いた。俺は異性と話すことなど一ヶ月に一回くらいしかなく、慣れない俺は異性とは半端な敬語でないと喋られない。タメ口で話せるのは幼馴染のアサカくらいだ。
「貴方に頼みたいことがあるの」
 言葉は依頼の形になっているが口調はまるで、言うことを聞きなさいと命令しているようだ。
だが悪い気はしない。
 ――俺ってマゾっ気あるのかな。
「なんで俺なんでしょう」
「わたしのことが見えることと、貴方の抱えている裂け目が主な理由ね」
 とても分かり易く彼女は説明してくれた。多分小学生で理解出来るほどに分かり易いだろう。
「丁寧な説明、ありがとうございます」
 冷静を装って礼を言う。気が少なからずは動転しているが、それを声と態度に出さないのは俺の幼稚な意地だ。俺の内心が隠せているかは甚だ疑問だが。
「礼儀正しいのは良いことね」
 微かに満足気な笑みを彼女が浮かべた。やはり綺麗だ。
 ――頼みなどと言わず、最初から貴方に命令があるの、と言えばいいのに。
「俺に頼みがあるらしいですが、それって俺がなんとか出来ることですかね」
「なんとかしてもらわないと困るのよ」
 初対面の異性にここまで強気な態度が取れる彼女には本気で感動しそうだ。その感動は、お前が困ろうが俺には何も関係ないんだっつの、という言葉を完全に忘れさせた。
「そうですか」
 信号の色が、また青に変わった。車の中から俺を見ている人は、こいつさっきから横断歩道も渡らないで何やってるんだ、と俺をおかしなやつとして見ているのかも知れない。考えすぎか。
 ――被害妄想がでかすぎるな。
「それで、頼みって何でしょう」
 俺に出来ることなら、してあげてもいい。前向きに考えよう。
 ――これは人助けだ。善行なんだ。いつか天国に逝った時に評価してくれるんだ。天の神様がきっと見てくれている筈だ。
「わたしを狭間に送ってほしいの」
 さっきまでの自分の考えを細切れにしてコンクリートで固めて海底深くに沈めてしまいたかった。
 即座に無理だと悟った。初めから諦めるのはよくないなどと言う人もいるが、そんな人たちの中に今の俺のような状況に遭遇したことのある人は何人いるだろうか。
 狭間の存在自体言葉だけで説明されただけで、俺は何も知らないに等しい。そんな俺に狭間に連れて行けと。
 ――ふざけんな。
「すみません。俺には荷が重すぎます。他の方にお願いしてください。きっと俺より上手く送ってくれる人がいるはずです。俺、貴方の事、応援してますから」
 タイミングよく信号が青に変わった。一歩踏み出す勇気が、今の俺にはあった。勇気ある撤退だ。
 ペダルの上で立ち上がり、俺の全体重、六十数キロすべてをペダルに加える。
「貴方以外の人を探すのは面倒だわ」
 背後から声が聞こえた。拒絶者の彼女とはかなり間が開いたはずなのに、彼女の声の大きさは変わっていなかった。彼女は自転車の荷台に座っていた。彼女の体重は自転車に掛かってはいない。何処かで見たことある光景だ。
「そんな……」
 恐怖など感じなかった。驚きはした。一番強く感じたことは、諦めだった。ペダルに込もっていた力がゆっくりとなくなっていく。自転車は減速。どうやら拒絶者たちにはこの世界の物理法則など関係ないようだ。
「大丈夫よ。貴方なら出来るわ」
 ロールプレイングゲームなら、コウは逃げ出した、だが敵に回りこまれた。的な状況で落胆する俺に追い討ちをかけるように彼女が言った。
 ――何を根拠にそんなことを言う。
「もう、貴方から逃げるのは無理ですかね」
「ええ」と彼女が答えた。
「これからどうするつもりですか」
 溜息を吐き出し、溜息と一緒に吐き出せなかった言葉を、うんざりした調子で彼女に向けた。
「そうね。とりあえず……」彼女が言葉を区切る。
「このまま貴方の自宅まで案内してもらおうかしら」
「何でそうなるんですか」
 俺の口調は他人を不快にさせる声に違いないが、そんなことはもうどうでもよかった。
「貴方に狭間に送ってもらうのだから、貴方と一緒にいるのは当然でしょう」
 本当にこの子は、と無知な子供を可愛らしいと言って微笑む母親のように彼女が言った。ここまでさらりと言われては、彼女の言い分も正論に聞こえる。
 ――もう、なるようになれよ。
「分かりました。もう諦めます」
「それが賢明ね」
 彼女が満足気に頷いたような気がした。女の子は、こんなにも強引な生き物なのだろうか。そうならば、俺の想像や理想など計算に使った広告用紙よりも無価値な物になる。
 なんと切ないことか。秋の冷たい風は俺の心の温かさまで吹き飛ばしてしまったようだ。
 必死で心を温めながら、のろのろと自転車を我が家に向けて走らす。
「あの、名前、なんて言うんですか。どうでもいいかも知れませんが俺はコウっていうんで」
 少し嫌味な言い方だったな、と反省する。
「サエよ」
 意外にも、素直に彼女は名を名乗った。彼女の名乗り方はかなり堂々としていた。
「サエさんですね。覚えました」
 こんなにも個性的な女性の名前を忘れる訳もないが。
 それから、特に会話もなく、俺は自転車のペダルを踏み続けた。二人きりで会話が長時間続くことなど俺に限っていえばかなり稀なことだ。今回も例外ではなく会話など続かない。会話と言える程の内容でもなかったことには目を瞑ろう。
 溜息を吐き出す余裕もないくらいにきつい坂を無言で、汗を流しながら上る。
 途中、俺を颯爽と抜き去った配達ピザの原チャリのドライバーを徒手空拳で肉の塊にしてやろうか、と思った。



「汚い部屋で済みません」
 まず俺はサエに謝罪する。俺の部屋の汚さは謝らないと、いてもたってもいられない程だった。
「謝ることはないわ。わたしの目的は貴方の家の場所を知ることで別にこの部屋に居座るためじゃない」
「そうですか。それなら安心です」
 いそいそと、畳の上に無造作に放り投げていた教科書や漫画を一つにまとめ、無造作に本棚に押し込む。簡単に目に入る大きなごみも抱えるように持てるだけかき集め、部屋の外のごみ袋に移す。
 女の子をこんな汚い部屋にあげることになるとは想像もしなかった。もしもというものは本当に起こり得ることなのだな、ともしもの意味の認識を改めた。
「あのですね。サエさんの頼みっていうのは狭間に送ってもらうことでしたよね。しかも俺の部屋まで押しかけてきました。でもね、さっきも言いましたけど俺は狭間ってのがどんな場所かも知りませんし、狭間への送り方だってさっぱりなんですよ」
 自分の思いのすべてをサエに下手にぶつける。
「俺は一体何をすればいいんですか」
 それが一番の問題なのだ。俺の諦めの精神がこの女からは逃れられないと悟ってしまった今、この状況を打開するためにはサエの頼みを聞いてやるしかない。
 ――俺の前向きな気持ちはなんか間違ってるな。
「貴方は狭間への送り方を知らないだけで能力はあるのよ。貴方はその能力に気がついていないだけ」
 サエがこたつの隅に腰を下ろし、片足を太腿の上に乗せる。こたつの隅くらいしか腰を下ろす場所がなかったらしい。この部屋で腰を下ろせるのは部屋の主の俺くらいのものか。
「確かに、俺が普通じゃないのは認めますけど、俺にそんな異常な能力があるなんて信じられないですね」
 異常な能力と、口にしてからアキのことを思い出した。アキは俺が異常だと感じている能力で俺を助けてくれた。
 ――俺はアキのことを異常だって思ってたのか。最低だな。
「どうしたの?」
 いきなり俯き、黙り込んだ俺を可笑しがるのは当たり前のことだろう。
「別に。自分の発言には責任を持たないと駄目だなぁって」
 間違いなくサエには俺の真意が理解できないだろう。それに、サエとは俺の本心を伝えるほど親しい間柄でもない。サエも俺の本心を聞かされたところで、迷惑に思うに違いない。
「そう」とサエは返事だけを返した。
「貴方が信じなくてもそれは事実なのだから、信じるなんていう貴方の感情は関係ないわ。認めるか、認めないか。それだけよ」
 この人の言葉は歯に衣着せないなぁ、と俺は思った。そこに痺れる憧れ、はしないか。
「はぁ」
 と、気のない返事を返し、サエの前に正座して彼女を見上げる。
「それじゃあ、俺はその能力を認めてないってことですね」
 サエの言葉は、中学の教師が「お前はやれば出来るんだ」と言っているのと似ているような気がする。やれば出来ると言われても絶対できないと感じるのと同じで、サエに貴方には能力があると言われても、俺にそんな能力はないと感じている。
「そういうこと」
 よく分かりました、と幼児を諭すような調子でサエが言った。
「でも、このままずっとその能力を否定し続けて、最後に困るのは貴方よ」
「どういう意味ですか」
「例えば、わたしみたいな奴に付き纏われる。そんな時にわたしを狭間に送る力があれば、わたしはすぐに貴方の前から消え失せるわ」
 なるほど、と素直に俺は頷く。
「それに考えてみなさい。こうして貴方に付き纏うのがわたしのような安全な拒絶者でなくて、貴方に襲い掛かってくるような危険な奴だったら……。貴方、いずれ死ぬわよ」
 最後の勧告は、今占いがテレビで大人気の某太ったおばさんを連想させるものだった。
「それは大変ですね」
 死ぬと言われても、どうしても真剣には考えられない。待っていれば明日は必ずやってくるものだと、本気で考えているような楽観主義者だから仕方のないことだ。何が起こるか分からない世の中で、現に日常ではありえないことが起こりだしているのに、それでも俺はなんとかなると漠然と感じていた。
「危険なのは貴方だけじゃないのよ」
 俺の他人事のような返事を咎めるように、サエが言葉を続ける。
「と、いいますと」
「貴方と同じように、わたしだって狙われるのよ。奴らには見境ってものがないらしくてね」
 忌々しげに、吐き捨てるようにサエが言う。初めて見る表情だ。
「サエさんって、死んでないんですか」
 素朴な疑問が俺の頭に浮かんだ。
「どういうこと?」
「だって、サエさんの姿が普通の人には見えないってことは、身体がないってことじゃないんですか。てことは、魂だけの存在ってことだから……」
「貴方、わたしたちを幽霊と一緒にしているんじゃないの?」
「違うんですか」
「確かに似ているけど、まったくの別物よ」
 明らかにサエは俺の発言に憤慨している。大袈裟に溜息までして見せた。
「幽霊が見えないのは肉体がなくなって、魂だけの存在になるから。わたしたちが見えないのは貴方たちが住んでいる世界とは少しずれた場所にいるからよ。だからわたしたちは死んだ訳じゃない。肉体もある。ただ、見えなくて、触れないだけ。貴方がわたしたちを見えるのは貴方の裂け目がわたしたちのいる世界を少しだけ繋げているから。貴方は半分足をわたしたちの世界に踏み込んでいる訳よ」
 意味は理解出来るが頭がすべてを受け付けないでいた。
 ――なんていうか、とてつもなくファンタジィだな。
「さてと、今日は狭間に送ってもらえなさそうだから、そろそろ退散するわね」
 すっと、サエがこたつの隅から腰を上げる。
「それじゃあ、これからよろしく」
 優雅に手を振り、忍者も驚く程の壁抜けの術を駆使して、サエは窓をすり抜け俺の部屋から出て行った。
 ――よろしくじゃねぇよ。
 心の中で毒を吐く。
 心から、断る勇気がほしいと思った。そして、遅くなった晩飯を食うことにした。



 幕間



 夜空を照らす月光の前に立ちながらも、光を遮ることのない人影が空に静止している。
「この世界はどうだい。確か、今はサエという名前だったね」
 夜の静けさと一緒に華麗に舞い踊れそうなほど、その声は闇夜に適していた。
「最悪よ。こんな世界で生きられる方がどうかしてるわ。一八年もよく耐えたわよ」
 サエと呼ばれた人影は声の主に返事を返し、
「で、本当に彼で大丈夫なんでしょうね。マーセ」
 腕を組み、マーセを睨みながら問いただす。いつみても癪に障る薄ら笑いだ、とサエはマーセの表情をみてうんざりした気持ちになる。
「多分大丈夫だと思うよ」
「多分じゃ納得できないわね。本当に、前世の記憶を受け継いで生を受けるなんてついてないわ。わたしはね、一刻も早くこの世界から出たいのよ」
 ――狭間についての知識もなければ、こんなにも世界に不満を抱くこともなかっただろうに。
「一週間だけ待ってあげてくれるかな。一週間経っても君を狭間に送れないようなら、僕が責任を持って君を狭間に送るよ。約束する」
 この男から約束という言葉を聞いたところで、何の足しにもならない。
「信用していいのかしら」
「もちろん」と、胡散臭い笑みをマーセが浮かべた。
「信じるしかないのよね。まぁ、彼、面白いから一週間くらいなら待ってあげるわ」
 コウのことを思い出し、くすりと笑みを漏らす。これからの一週間、初めてこの世界を楽しめるかも知れない。
「ありがとう。残り一週間この世界を満喫するといい」
 その一言を残し、マーセは闇夜に溶けて消えた。
 独り残されたサエは妖しく輝く月を見上げた。
「この世界で良い物って、これしかなかったわね」
 黄金に輝く空の灯りが、限りなく細く傷だらけの糸になりサエに纏わりつく。
 ――そんな糸じゃあ、わたしをこの世界には繋ぎ止めれないわ。






 いつもどおり俺は学校に向けて自転車を走らす。
 朝、坂を自転車で下ると、想像以上に風が冷たく感じた。やはり夏はもう秋に飲み込まれようとしているらしい。それは俺にとって喜ばしいことでもある。はっきり言って夏はあまり好きではない。何もしていないのに汗を馬鹿みたいに流す時間が好きになれる筈がない。しかも学校の教室にはクーラーがない。あの締め切った空間に三十何人も詰め込んでおきながらクーラーがないのはありえない。更にありえないのが他の市内の公立高校はクーラーが完備されていることだ。
 それはさておき、そんな季節ももう終わり秋が訪れるのだ。こうして毎朝秋の風と空気を身体に浴びるだけで一日が楽しく感じる。そう感じられるのも裂け目にも慣れてきたおかげだ。
 そんな、弾む俺の気持ち全力で抑えつけ、弾む心を物理的に静止させようとする、怪しげな気配を俺は自分の側面から感じ取った。
「何ニヤニヤしているの。貴方」
 何か痛い者を見るような、おかしな生き物ね、と感心しているような表情で、サエが俺を見ていた。自転車の速度は俺の精神と連動しているが如く減速し、止まった。
「日本国憲法ではニヤニヤしながら自転車を走らせてはいけないと表記されているんですか」
 どうしてこんな大切なことを忘れていたのか。俺はサエを狭間に送らなくてはいけなかったのではないか。どうやって送るかも分からないのに、だ。
「別に貴方がニヤついていることを咎めている訳じゃないわよ。気になっただけ」
 目も覚めるようなとびきりの笑顔でサエが答える。サエが普通の人間でこっちの世界で生きていてくれればこれほど幸運なことはなかっただろうに。こんな美人と話せること自体、俺の日常では夢のまた夢だったのに。それが、話せた女の子が拒絶者だったとなると素直に喜べない。
「おはよう。コウ。ボーっとしてていいの? 学校は?」
 誰のせいで自転車が減速したと思っているのやら。もちろん、俺のせいだとサエは答えるだろう。
「あぁ、心配なく。俺はホームルームが始まる十分前には着くように家を出てるんで」
 それでいつも時間を持て余しているのに俺は家を出る時間を変えない俺は学習能力が低いのだろうと思う。
 気を取り直して、自転車のペダルを踏む。ゆっくりと自転車は加速していく。サエは俺の了解もなしに荷台に腰を下ろす。
 ペダルにはあまり力を込めず、歩きよりも少し速いくらいの速度で学校に向かう。学校に近くなってくると、俺と同じように自転車のペダルを漕ぐ学生も多くなってきた。皆、あまり元気がないような気がする。
「あの、サエさん。質問なんですが」
「何かしら」
 背後から声が返ってきた。
「もし、俺がこのままずっとサエさんを狭間に送れなかったら、サエさんはどうするんですか?」
 サエは俺が狭間に送ることが出来ると信じているようだが、俺はまったく後れる気がしない。サエを狭間に送れなかった時のことがかなり心配だったりする。このまま付き纏われるのだろうか。それはそれでぞっとする。
「そうねぇ、あんまり時間がかかるのもあれだし。まぁ少しの間貴方の様子を見てから考えるわ。最低で一週間くらいは貴方を観察させてもらうわね。それでもわたしを狭間に送れないようだったら、別の人を探すわ」
 俺が最悪の場合に考えていたが現実にはならなかった。しかも狭間に送れなくても別に構わないというではないか。一週間、耐えればまた俺の日常が戻ってくるかも知れない。一週間も時間があれば今の状況が日常になってしまいそうだが。
「貴方、嬉しそうね」
 ――俺の心が覗かれている……!
「……どうしてですか」
 ここで動揺などしようものならそれはサエの言葉を認めることになる。こんなところで悲しい俺の小心者魂を発揮することになるとは。
「なんとなくよ」
 背後からは楽しそうなサエの声が送られてくる。俺が言葉を認めようがそうでなかろうがサエには俺の考えが分かっているらしい。
「そうですか」と俺は適当に相槌をうっておいた。
 そんな心理戦に敗北した俺は学校に更に近づいていて、駅が見えた。駅から下に真っ直ぐ伸びたアスファルトの道路の隅に電車から降りた学生が自転車を走らす。その隣の歩道には通学用の鞄を持った学生が気だるそうに歩いている。その中に少し背が低い、線の細い男子学生を見つけた。黒い学ランを着ていて、背が少し大きく見えた。
「おはよう、アキ」
 俺は自転車から降りてアキの隣に足を着ける。
「あぁ、おはようコウ君」
 日差しのような柔らかな笑みでアキが朝の挨拶交換の儀式を行う。この儀式なし朝は語れまい。儀式を行ったところで朝を語るほど知識がある訳でもないが。
 アキの表情からは他の、もちろん俺を含めての学生たちから感じる気だるさがなかった。羨ましい程のフレッシュボーイだ。もぎたてだ。トマトに雫が付着しそれを太陽が照らした時に感じるようなもぎたて感とフレッシュ感が、アキにはあった。
「ねぇ、コウ君。あの、この人は……?」
 アキが当然だがサエに気がついた。
 俯きがちに、もじもじという擬音語がぴったりはまるような態度で、アキがちらちらとサエを窺う。
「サエさん」
 戸惑うアキを気にせず、俺は自分の名前を答えるように簡単に言った。
 アキが戸惑うのも仕方ない。そのくらい俺の周りに異性の気配はない。
「えぇと、何ていったらいいのかな。まぁ色々あって俺がこの人を狭間に送らなきゃいけなくなって、狭間に送るまでは俺に付き纏うらしくてね」
 要点は伝えられたと思う。要は俺がサエを狭間に送らなければいけないのだ。
「まぁ、そういうことね。はじめまして、アキ? 君でよかったかしら」
 優雅に、自分に絶対の自信を持った者が出来るような挨拶を、サエは呼吸と同じくらいに自然に行った。
「あ、はい。はじめまして、サエさん」
 アキはアキで、相手を決して不快にはさせない例の柔らかな笑顔でサエに答える。
 ――こいつらって、結構すごいのかもな。
 二人の挨拶交換の儀式は、一流の役者が銀幕の中で演じているような、完成度の高さのようなものを感じた。二人の挨拶を演技のように感じるのもあるが。
「と、そろそろ急がないと、ホームルーム間に合わない気がする」
 少しのんびりし過ぎた感が否めない。殆ど立ち止まってサエと話し込んでいたせいだ。
「そう、なら急いだ方がいいんじゃないの?」
「そうですね」と返事をしておく。
「アキ、後ろ乗れって」
 俺は自転車に跨り、いつでも動ける姿勢を取る。
「うん、ありがとう」
 初めの内はアキも遠慮していたのだが、今はもう俺の自転車の荷台はアキの指定席になりつつあった。アキは身体を横に向けて、荷台に腰を下ろした。
「鞄をよこしなさい」
 アキの肩に掛けている鞄は、二人乗りする時にはかなり自転車のバランスを悪くさせる。その解決方法としてアキの鞄は自転車の前籠に入れる。
「はい」と素直にアキが俺に鞄を手渡す。
「それじゃあサエさん。愚問だと思いますが学校じゃあんまり話しかけないでくださいね。特に授業中は」
「言われるまでもないわよ」
 くすりとサエが笑う。態度がでかくて自信満々な人だけど、決して気難しい人ではないらしい。
 ――こんな境遇じゃなけりゃ、それなりに仲良くなれたかも知れないのに。
 そんな、どうしようもないことを考えても意味がないと割り切り、アキを乗せた自転車にいつも以上に力を込めてペダルを踏む。いつも以上にゆっくりと自転車は加速していく。サエは俺たちを追いかけず、どんどん小さくなっていく。
「サエさん。キレイな人だね」
 アキが自転車から落ちないように俺の肩に掌を乗せる。もう少しで寄り掛かってきそうだ。
 ――男どうしじゃ勘弁だわ
「あぁ、確かにね。まぁ俺に言わせれば女の子はみんな可愛くてキレイだけどね。例外を除いて」
 モテナイ男があの娘がキレイだとか、あの娘が不細工だなんて評価する権利はないと俺は思っていた。そうは思っていてもどうしても良い印象を受けない女の子はいるのだ。本当に申し訳ないことだが。
「じゃあアサカさんは?」
「何故にここでアサカの名前が出てくるのかな、アキ君よ」
「なんとなく」
 声から笑っているアキの表情が簡単に想像出来る。この一ヶ月で、アキは俺にあまり遠慮をしなくなった。もちろん良い意味で。
「こいつめ……。そうだなぁ、まぁ不細工じゃないとは思うけどね。そもそもだ、俺にあいつの評価しろっても無理だって。あいつと小学に入学する前からの付き合いなのにさ、今更女として評価なんて出来る訳ないでしょ」
 アサカは俺にとっては兄弟、姉か妹かは分からないがそんな存在だ。兄弟を女として見られる訳がない。
「そんなものなの?」
「そんなものなの」
 この話題を強制的に終了させるために、あえて強く答える。
 ――あんまりしつこいと、俺も怒るぜよ。
「はいこの話終了」
 意識せずに笑顔を作らせる不思議な空間と時間。いつもは暇で仕方ない時間がアキといると好きになれそうな気がする。そんな時間が俺の日常になりつつあった。むしろ日常にしたかった。なればいいなと淡く願っていた。
 この気持ちが勘違いじゃないことを心から祈る。
 ――さて、今日も楽しく学校生活を送るとしよう。
 俺はアキの乗った自転車をバランスを取りながら走らすことに、何と言い表せばいいかよく分からない喜びを感じながら、学校の門を潜った。



 急ぎはしないが、ゆっくりもしない絶妙な速度で俺たちは教室を目指していた。さっきまで自転車を漕いでいたので少し汗が額に滲む。この時間は流石に涼しくは感じない。アキは俺に運んでもらっただけに汗の一滴も見えない。文字どおり涼しい顔をしている。
 学校では学ランを着込んだ男子学生も増えてきていた。俺はというと長袖のカッターシャツの袖を肘くらいまで織り上げて着る微妙か格好をしていた。袖を織り上げることには何か拘りでもあるような気がしないでもない。普通に生活する分にはまだ学ランは早い。
「そういやさ、今日の一時限目って何だっけ」
 俺の歩幅に合わせて隣を歩くアキに何気なく話しかける。俺の中ではある意味定番の話題だ。
「確か、物理じゃなかったかな」
 確信は出来ていないようだが、アキの言うことならば俺は信用出来る。
「物理ねぇ。英語じゃなくてよかった」
 素直に俺は英語が嫌いだ。今日英語がなかったとしても明日か明後日には英語の授業があるだろうが。
「だからって英語もできないと三年生になれないよ」
 アキに、ズバリ言われてしまった。アキの言い分は十割正しい。
「分かってますって。そりゃ重々承知していますよ? でもね、やっぱり苦手なものは苦手なのよ。泣き言の一つや二つ大目に見てやってもいいじゃないかよぅ」
 英語の話題は俺にとってからい暗い話題に分類される。欠点が六十点のところ三十点しか取れない俺は一年の時も英語の単位を落としかけた。そして二年の今も予断を許さない状況だ。
「僕でよかったらいつでも勉強付き合ってあげるから、頑張って」
「恩に着る」
 アキは俺と違って成績でもクラスでも上位に位置している。もちろん英語も三十点なんて取ったことがない。いつも八十点越え。試験は年に四回あり、四回のテストの平均が六十あれば単位を取得でき、進級出来る。アキはどの教科も八十点以上は当たり前なので実際のところ四回目の試験を受けなくても単位を取得出来るのだ。
「お二人さん。朝からラブラブだねぇ」
 背後から女の声。その調子に乗った声から形成されるラブラブだなんて死語。俺はその声の主を悟った。
 振り返ると奴がいた。きらりと光るその眼鏡は、クイーンオブ不健康眼鏡、アサカ嬢。
 俺は、何を言っているのかなこの痛い生き物は。と伝えるために必死で視線を送る。
 言葉なんていらない。瞳の光だけで十分だ。
 これは持久戦だ。どれだけの時間俺が蔑みの視線を無言のままで送り続けることが出来るかがこの勝負の別れ目だ。
 負けられない戦いがここにはあるのだ。
 ここで俺は勝負に出る。
「そんなお前に俺は心から送りたい言葉があるんだ」
 ――落ち着け、俺。ここで台詞を噛んだりしてみろ。さむいことこの上ないぞ。
「君は恐らく馬を鹿と見間違うような生き物じゃないかと思うんだ。そして、君を見ていると心が痛むんだ。まぁ前置きはこれくらいにしておくとしよう。つまりはね」
 息を吸い込み、
「馬鹿じゃねえのか。お前」
 俺の中で最上級の蔑みの感情を乗せた乾坤一擲の言葉をアサカに叩き込む。
「な、何よ、ちょっとボケてみただけじゃないの。そんな目でわたしを見るなぁ」
 アサカは自分の吐いた言葉に恥を感じたようでかなりうろたえている。
 ――勝った。
「やかましいわ。男二人捕まえて第一声がラブラブだなんてほざく輩は大体そんな目で見られるんだよ」
「なにをぉ」
「ほら見てみろ、アキのこの表情を。何か得体に知れない物をみた表情を。何か痛い物を見てしまった時の表情を」
 堂々と、勝利宣言をするように、アサカに無条件降服を迫るように親指でがっちりとアキの表情を指す。
「えっ!」
 アキは俺の小道具されることを想像もしていなかったようで跳ねるように驚いた。
「そ、そんなことないよアサカさん。ほ、本当だってば!」
 アキが得意、かは分からないがかなりのオーヴァーリアクションで俺の言葉を否定する。
 ――馬鹿だなぁ、そんなリアクションじゃあ認めてるのと同じだってのに。
「アキ君まで……。酷い」
「いや、それが当たり前の態度だと思うぞ」
「何言ってるのさ、コウ君! そんなこと思ってないよ!」
 ――だからね、アキ、そんなリアクションじゃあ以下同文。
「あぁ、朝から恥ずかしいもの見ちゃった。なぁアキ。誰とは言わないけど、あぁ痛い痛い」
「だぁかぁらぁ!」
 アキがムキになって俺に噛み付く。
「くっ。お前に受けた屈辱、忘れはしない!」
「ふっ、下っ端が吐くような捨て台詞で恥を重ねているのは何処の誰だよ?」
 と、俺の勝ち戦に水を指すのはホームルーム五分前のチャイムだった。
「結構話してたなぁ。高校生にもなって馬鹿みたいだ」
 チャイムの音を聞きながら妙に高くなっていたテンションを下げる。冷静になりつつある頭でさっきまでの言い合いを思い出し、笑い声を溢れさせる。
「まったくだわぁ。まぁ、楽しかったからよし!」
「確かに」と俺は頷く。
「それじゃ、アキ、行こうかね」
 いきなり態度を豹変させた俺たちに思考が追いつけていない様子のアキの肩を軽く叩き校舎に向かう。
「え、う、うん」
 少し遅れてアキが俺の後を追う。アキは駆け足で俺の隣まですぐに移動した。
「ばいばーい。コウ、アキ君」
 アサカがひらひらと手を振っている。顔はへらへらと笑っている。
「おう」と素っ気なく手を振り返す。アキは恥ずかしそうに手を振っている。
 それからアサカの声も気配も感じなくなった。アサカも自分の教室に向かったのだろう。
「コウ君ってさ。本当にアサカさんと仲が良いね」
「そうかな? 良くわかんね」
 そんな愉快な時間で一日は始まり、あっというまに一日は終わってしまう。




 放課後には、勉強から開放された学生の疲労感や、これから部活等で汗を流す学生の若さが充満している。それらを凝縮するかのように吹奏楽部の演奏の音が華やかなリボンになってその二つを纏め上げていた。そしてその周りを彩るように、メインディッシュの周りに散りばめられたソースのように学生たちの明るい談笑が聞こえ、とどめとばかりに窓から西日が差し込んでいる。この時間は俺には一種の作品か何かに思えてくる。感動、という言葉は今の俺の気持ちを表すには適当なのかも知れない。放課後という作品には俺も含まれているからだろうか。俺のような人間も時間と空気、雰囲気でどうにか目視できる存在にまで格上げされていると妄想出来るこの時間は俺を酷く儚い幸せな気分にさせる。俺はその儚さを虚しいとは感じなくなった。儚い幸せでも、泡のように消えてしまう幸せでも醜く、みっともなくしがみついていようと思うようになったのは何年前だったか。多分最近のことだと思う。逆に今の幸せが永遠に続いたとしたら、俺はこの時間に幸せだとは感じはしないだろう。ただ虚しいだけ。終わりがあると思うと虚しく感じるが、終わりがないのも虚しく感じる。人間とは難しい生き物だ。十七年そこそこしか生きていないようなガキに分かるようなことではない。
 ――まったく、がらじゃないっての。
 俺は今学校の敷地内の図書館にいる。アキもいる。サエもいる。そしてタロウは……何処にもいない。図書館は一般開放されているらしいがここの学生以外が使っているのを見たことがない。ここの図書館の蔵書はかなり多い。工業関連の本が殆どで、高校生が興味を持つような本はかなり少ない。読書よりも勉強に利用する学生の方が多かったりもする。俺もよくここで課題をやったりもする。
「つまり、サエさんは狭間に送ってほしいんですね」
 アキの声が俺の意識を図書館に呼び戻した。何故三人でいるかというと、アキがサエと話したいと俺に頼んだからだ。アキの真意はよく分からないが、一応サエにアキと話してあげてくれないか、と頼むことくらいは俺にも出来る。そして俺の働きによってアキとサエの会談が実現したのだ。
「ええ」とサエが頷く。
「だったら、僕が狭間に送ってあげられますよ」
 アキは。僕に任せてください、と言わんばかりに言った。
「せっかくだけど、お断りさせてもらうわ」
 サエはどんな時でも平常心でいるように感じる。アキの申し出を断るサエの口調には嫌味も、謙遜もなかった。ただ、断るという旨を伝えるだけの声。
 サエの返答を聞いたアキが顔をしかめる。アキらしい困ったような表情だった。あえて例えるなら捨て犬のような表情。
「どうしてですか」
 いや、少し不機嫌になっているのかも知れない。アキの声を聞くまで判断できるものではなかった。アキが不機嫌になったところで童顔に合わせて中性的な顔つきのせいでまったく威圧感もない。不機嫌というより拗ねた表情だ。声を聞くだけで表情の印象も大きく変わるものだな、とアキとサエの会話を他人事のように聞きながら俺は思った。
「貴方の作った門を通るのはとっても怖いのよ」
 おどけて、サエが言った。
「説明してください」
 拗ねた表情のままアキがサエに食い下がる。ここは俺も説明願いたい。
「わたしから見れば貴方の裂け目はかなり不安定なのよ。しかもかなり大きい。貴方が裂け目に飲み込まれていないのが不思議なくらいね」
「飲み込まれる、ですか?」
 アキの表情が変わり微かに驚きが感じ取れる。今まで自分の裂け目のことなど意識していなかったのだろう。
「そう。わたしの仲間になってたかも知れないわ」
 淡々とサエが語る。
「と、話が逸れたわね。何故貴方の門を通るのが嫌なのかだけど、貴方の作る門は裂け目と同じでかなり不安定な物になりそうだもの。そんな門を通って狭間には行きたくないの。どうせなら安全に狭間に行きたいし、ね」
 サエの理屈が正しいかどうかは分からないが多分正しいことを言っているのだろうな、とぼんやりと思う。それくらい今の俺には実感がないというか、どうにかなるだろうと確信していた。
「だったら俺の裂け目ってのは安定してるんですか」
 いつまでも黙って話を聞くのも退屈になってきた俺は特に考えもなく素朴な疑問をぶつける。
「ええ、かなり安定してる。綺麗なくらいよ。コウの裂け目と比べてアキの裂け目はね、なんというか揺らいでいるように見えるのよ。風が吹き付けられている水面のように、もしくは蝋燭に灯された火のように。でも、その不安定でいつ壊れるかも分からない貴方の裂け目もある意味では綺麗で、妖しくもある」
 流暢に、咄嗟に思いついて出た言葉とは思えないほどに、サエの言葉には芸術性があるような気がした。それでいて本心ではないことをしっかりと俺たちに伝える声音。いちいち感動してしまう。
「そういう訳だから、納得してくれるからかしら?」
 当のアキはといえば、即答はせず何か考えている様子だ。よく考えれば、俺もアキも自分に起こっている異常について何も知らな過ぎていたのかも知れない。今回のことでいえばアキの裂け目が不安定なものだったりとか、俺の裂け目は安定しているとか、そんなことをだ。
「分かりました。でしゃばった真似をしてしまいまして、すみません」
 アキの返答には微々たるものだが納得できないというような反抗心、とでもいえばいいのだろうか、そんな感情が乗せられているように感じた。いやむしろ、自分の力の無さに苛立っているのかも知れない。
 俺に見せたこともないアキの表情がサエに向けられていた。
 ――だからなんだってんだ。
「その言い方は少し嫌味に感じるわね。まぁ非があるのはわたしだから仕方の無いことなのだろうけど。せっかくの申し出なのに、断ってしまってごめんなさいね」
「いえ、そんな……」
 どこまでも謙虚なアキの性格を前面に出た言葉だろうと俺は思った。俺の想像だが、アキは自分が悪くなくても相手に謝りそうな、そんな人間だ。その勝手な想像部分は俺をそのまま抜き出したように俺とそっくりだ。自分の知らない感情がアキを俺の仲間に、同類に仕立て上げたかったのだろう。とことん寂しがりやな俺らしいといえば俺らしい。
「それでさ、アキ。お前が話したかったことってこれだけな訳?」
 アキとサエの会話が途切れたのを一旦会話が終了したものだと判断し、俺が口を挟む。
「うん。そうだよ。それにサエさんがどんな人か、興味あったし」
「興味、ね」
 アキの気持ちも分からない訳でもない。どういう意味の興味だとしても。
「じゃあこれからどうするよ。電車が来るまで三十分はあるけど」
 時計を見ると午後六時を過ぎようとしていた。陽の色ももう赤くはなく、それ以前に照らす力が弱まってきていた。要はもう晩に近づいているということだ。
「このまま駅に行くよ。あんまり遅くなると電車がなくなっちゃうからね」
 アキが椅子から腰を持ち上げ、帰宅する意思を明確にした。
「了解」と俺はアキの意思に答え椅子から立ち上がる。
 こんな時間まで学校にいたのは何日ぶりだったか。
「サエさん、今日はお話して頂いてありがとうございました」
 律儀にアキが軽く頭を下げる。恐らくアキは傍から見て綺麗に見えるお辞儀の角度が本能で分かっているのだろう。少しは見習いたい。
「いいえ、こちらこそ」
 二人の受け答えは春の風の流れのようにさりげなく、その流れに乗ってサエが立ち上がる。結局全員が立ち上がっている。
「帰るのでしょう。どうしたのよ。突っ立ったままで」
 サエの動作に見惚れていた俺を咎めるようにサエが言った。
「あぁ、ぼーっとしてました。すいません」
 頭を下げる訳ではないが口だけで詫びておく。すいませんは俺の口癖の一つだ。
「んじゃあ、帰ろうかね」
 鞄を片方の肩に掛け、とぼとぼと図書館の出口に向かう。歩幅は極めて小さい。幼児が走れば俺などぶっちぎりで抜き去っていくくらいに歩く速度は低い。俺はその歩き方を意識して行っているのではなく、無意識の内に行っていた。一日勉強して疲れていることも原因の一つだろうとは思うが一番の原因が何かと問われれば、俺は答えることはできない。独りの時も、アキと一緒にいる時もこの歩き方は変わらなかった。これも俺の幼稚な拘りなのかも知れない、と特に考えなければいけないことがなければ、どうでもいい自分を客観的に観察するのが俺の癖だ。
 図書館から出て、暫くぶりの外の空気を浴びる。学生も少ない。空は藍色。藍色に夕日の赤は空の端に押し込められていた。窓から見た風景とは違って見える。当たり前のことだが。
「どうでもいいけど、こんな中途半端な時間って俺大好きなんだよね」
 無視されても構わないと覚悟を決め空を見上げ、視界には誰もいれず告白してみた。
「夜でもなくて夕方でもなくてさ、何ていうか、不思議な感じがして、て何言ってんだろ」
 夜と暮れの間、暗いけれど暗闇でもない。空には藍色と赤と黒。
「何となく、分かる気がするなぁ」
「わたしにはさっぱりね」
 賛否両論意見が別れる。優しいアキは俺を置き去りにはしなかったがサエの意見はいたって素直だ。むしろそれが当たり前の反応か。同意を求めてこんなことを言った訳ではないので別段感じるものもない。
「まぁ、そうでしょね。さてと、ゆっくり行こうぜ。時間にはかなり余裕あるしな」
 ゆっくり行きたいのは俺の本音。この時間をゆっくりと感じていたいから。
 そして、俺たちは歩きで駅まで向かいアキを送った。それからはお決まりの地獄坂を汗だくになって駆け上がるのだ。この時の暑さと苦しさは季節が変わろうとも変化はなかった。



 サエに纏わり憑かれる生活も一週間が過ぎて、これで十日目だ。四日もサエが俺から離れる期限のめあすを過ぎているが、別段迷惑するようなこともなく、俺の日常を害することもないのであまり気にしていない。むしろサエがいることを当たり前のことのように感じ始めていた。
 サエに纏わり憑かれて十日間、俺は狭間への扉を開けるようにもならなかった。開けるようになる予感すらしなかった。なんてことのない時間だった。ある意味俺が望んでいた時間。これからもサエがいなくなり、本格的に普通の生活に戻れるようになる。なるのだが、妙に寂しく感じている自分を否定できない。サエと俺では生きる世界が違うのはもうどうしようもないことだが、友人になれない訳ではない。俺は友人になれるかも知れないと身の程を知らない希望を持っていた。サエがどうなのかは俺が知るところではないが。
 サエは、サエに纏わり憑かれたのをきっかけに片付けた俺の部屋の中で、あえてこたつの隅に腰を下ろしている。お気に入りの場所なのだろうか。サエという人物がよく分からない。
 ――そんなことより、こたつ布団も出さないとなぁ。
 日に日に気温が下がってくると、日に日にこたつで転寝する楽しみが増してくる。
「ねぇ、サエさん。失礼かも知れないっすけど、訊いていいですかね?」
 時間は午後八時過ぎ、部屋のテレビからはバラエティー番組の明るい笑い声が聞こえてくる。大半はさくらで何故こんなネタで笑うのか、と腹立たしく感じる笑い声だ。最近の芸人の質も落ちたものだ。
「何かしら」首を動かさずサエが答えた。
 まるでサエにはテレビから聞こえる笑い声が聞こえていないかのようだ。聞こえていたとしてもサエにとってはテレビの音は雑音でしかないだろう。
「どうしてサエさんは世界を拒絶したんですか?」
 その疑問はサエと出遭ってからそう時間が経たない内に浮かんできた。俺はサエが返答してくれることを期待もせず、仮に返ってくる答えにも期待していなかった。純粋な、素朴な疑問。
「知りたいの?」
 声と一緒にテレビから笑い声が聞こえる。サエの声は笑い声を切り裂く一本の矢のように俺の耳に届いた。不思議とテレビの音が遠くの物に感じた。
「はい」と素直に意思表示をする。
 知りたいの? と返事を返したのならば脈ありだ。
「どうして拒絶したと思う?」
 質問を質問で返すのは反則、と映画が何かで聞いた記憶があるが今はそんなことどうでもよい。
「どうしてでしょうね。やっぱり世界が嫌いになったから?」
 想像力のない俺が思いつくのはありきたりな、外を出歩けば必ず見つけることの出来る乗用車くらいに平凡な考えだ。しかも車は軽だ。
「まぁ、単純に考えればそういうことになるのかしら」
 ――あれ。
 サエの返答は俺の予想を大きく裏切り、俺の考えを認めてしまった。
「そうなんすか。サエさんのことだからもっと複雑な考えがあってのことだと思ってた」
「買いかぶり過ぎよ」
 自嘲気味な笑顔をサエが浮かべる。
「だったら貴方に訊くけど、世界を拒絶する理由が世界が嫌いになる以外に何があるのよ」
 サエはどうやら質問を質問で返すのがかなり好きな人種らしい。
「うーん。そうですねぇ。すぐには思いつかないすね」
「でしょう」と満足気にサエが言った。
 俺たちの会話が途切れた時はテレビの音が少し大きく聞こえる。
「わたしが世界を拒絶したのは、そうね。なんていったらいいのかしら――」
 言葉を区切り、膝の上に肘を立て掌で自身の首を支える。
「あえて言葉にするなら、虚しくなったという言葉が一番適当なのかもね」
 サエが語りだす。俺は黙ってサエの言葉を理解しようと努めて聞いた。
「そう思わない? どうせ死ぬのになんで生きてるんだろうって、思ったことない?」
 サエが同意を求めた。サエの声が少しだけ楽しそうに感じるのは気のせいだろうか。
「何をそんな当たり前のことって思うでしょ。どうしようもないことなのは分かってるのよ。でもね、わたしはそれが我慢できないのよ」
 俺の返事を待たずサエは語り、笑う。サエが楽しそうに感じたのもあながち気のせいではなさそうだ。
「それ以外のことでも似たようなものよ。友達ともそう。どうせずっと一緒にいられはしない。仲良くなったところで最後は別れなければいけない。そう思うと友達を作る気も失せる。それ以前に、こんな考えを持ってる人間に友人なんて作れはしない」
 ――酷く自虐的な言い方をするな。
「つまりは、有限の物に何の価値も見出せない病んだ人間なのよ、わたしは。だから有限のこの世界を拒絶した」
 さっきの言葉で一応説明にも一区切りついたようで、サエの声が止まる。
「狭間は永遠ですか?」
 サエの言い方だと、俺はそういった解釈が出来た。有限の世界に価値観を見出せないのも、理解できなくはないが共感はできなかった。
 この考えの違いが、俺とサエの生きる世界を別けたのだろう。まるで俺とサエの間に存在する見えない壁のように。
「それに近いわね。絶対的に永遠じゃないってことは、わたし自身体験したし。それでも、この世界よりかははるかに魅力的ではある」
 サエが魅力を感じない世界に数え切れない程に魅力を感じている俺を、サエはどう思うのだろうか、と疑問が湧いたが結局それは言葉にはならず飲み込まれた。
「理解できない?」
 さっきの疑問を飲み込むのにかなり時間と神経を使ったらしく俺は相槌をうつ余裕もなかった。そのせいで少しの間沈黙していた。
「いや、そんなことはないですよ。色んな考えもあるんだなぁって……」
 サエに返した言葉は尻切れ蜻蛉で何が言いたいか自分でも良く分からないものになっていた。
「まぁ、あの、俺に他人の考えを否定する権利はないですからね。むしろ肯定しようと努力する義務があるんじゃないかと」
 ――何本気になってんだ。さぶいことこの上ないな……。
「ふぅん」と意味深にサエが頷く。
「面白い考え方ね」
 サエが笑う。その笑みは嘲笑にも、褒めているようにも感じる不思議な笑みだった。
「貴方の考えも聞かせなさいよ。わたしだけ喋るのは不公平だわ」
 不思議に感じた笑みはすぐに子供っぽい無邪気な笑顔に変わる。俺の想像する、今時の女の子の笑顔だ。正直に可愛らしいと思った。
「俺のですか?」
 言えと言われてすぐに答えられるものではない。単純に恥ずかしいのもある。
「えーとですね。俺はサエさんが言うみたいに世界が嫌いだとか思ったことはないですよ」
 だが、サエにだけ語らせて自分だけ何も語らないのも気が引けるので自主的に話し始めた。
「むしろ、どっちかっていうと好きなのかも知れないっすね」
 とりあえず、今自分が分かっていることを言葉にしておく。それらが嘘でない自信はある。
「例えば、春は桜を見るのが楽しみだし、夏は梅雨の匂いとか蝉の鳴き声とか。て、枕草子みたいですね。しかもかなり質の悪い」
 言いながら照れ臭くなり、笑いを絡めながらでないと最後まで説明できそうにない。
「とにかく結構この世界で気に入ってる箇所があるんですよ。春が来たら夏が恋しくて、夏が来たら秋が恋しくて。だから俺は世界を拒絶するなんて考えられないですね。俺はこの世界に満足してますよ」
 なんとも支離滅裂な説明だろうか。俺が伝えたかったことの四分の一でも伝わればいいと志の低いことを考えていればこの結果も仕方の無いことだろう。
「伝わりましたかね」
 自信はないが一応確かめてみる。
「ええ。貴方がわたしと違ってこの世界が大好きってことはよく伝わったわよ」
「それはよかった」
 俺の目標の四分の一は伝わっていたようだ。サエの理解力の高さには脱帽だ。
「だったら」
 サエが新たに流れを作り出す。俺はその激流に流される。
「だったら秋は月が楽しみだったりするの?」
 こんな強引な話題の運び方もなんだからサエらしいといえばサエらしい。
「月ですかぁ。そうですね、綺麗ですからね、この季節は」
 それとなく肯定気味な答えかたをしてみた。
「なら今から月見にいきましょう」
 ――そう来る訳ね。
 今が何時だったかを確認すると十一時を過ぎていた。普通ならこんな時間に出かけることなど殆どない。寝ている時間帯の時もある。サエの命令に従うかどうかを数秒間考え、すぐに結論が出た。
「分かりました。俺がサエさんの命令を断れると思います?」
「いい返事ね」
 サエがこれでもかと満足気な笑みを張り付かせた。
 ――まったく、憎めない笑顔だよ。



 静かな夜の中自転車を走らせ、坂を下る。自転車のライトに丸い灯りが水鏡に映る月のように見えた。ライトの灯りという月光が凹凸だらけのアスファルトという水底を照らしている。辺りは暗く街灯すら無いが、自転車の灯りだけで心細い訳でもない。
 自転車の荷台にはお決まりだがサエが腰を下ろしている。俺はなんとなく近くの公園に向けて自転車を走らせていた。何故月見で公園を選んだのか、一生費やしてもはっきりとした理由は思いつかないことかなりの自信があった。何故なら明日になればそんなことも覚えていないからだ。
 とにかく、今夜は月が綺麗だ。サエの命令を素直に聞いておいてよかった。
 俺の視線の斜め上に月が浮かんでいる。妖しく、美しく、淡い光で道を照らしている。昔は月に魔力があると信じられていたらしいが、あながち迷信でもないと俺は思った。魅せる力が月にはありすぎる。太陽などとは比べ物にならないほどに魅力的だ。
 坂を下る。ブレーキを掛けないがペダルも踏まない。これ以上スピードを出すと寒くて堪らない。薄着し過ぎたことを後悔する。
 俺の自転車を静かに自動車が抜き去る。さながら深海魚のように。
「綺麗な月だなぁ。やっぱり秋だからですかね」
 サエに聞こえるように、少し大きな声で話しかけた。あまり黙ったままなのは好きではない。
「さぁ? 月が綺麗なら季節が何時だろうと関係ないわね」
 サエらしい冷たい返事が返ってきた。もう慣れたが。
「ははっ。そりゃあごもっとも」
 笑っていれば大体の会話はスムーズに進む。これが十七年生きてきて学んだことだ。もちろん例外もある。
「で、何処に向かってるの?」
「公園にでも行こうかな、と思ってるんですけどリクエストでもありましたか?」
 自転車を止める。ちゃんとサエに場所について聞いていなかったのは失敗だった。公園が嫌だと言われたら何処に行けばいいか、と考えてみる。
「別に。なんとなく聞いてきただけよ。何処でもいいわ」
「そですか。よかったですよ」
 小さく詰まっていた空気をほっと吐き出した。
 ――気が小さいな。情けねぇ。
 はぁ、と吐き出した空気を吸い込み、ペダルを踏む。公園までもうすぐだ。
 車も滅多に通らない裏道を通り、のろのろと自転車を走らす。



 自転車を公園の中に止める。公園の敷地内には申し訳程度に街灯が二、三本立てられている。街灯の灯りが薄汚れた遊具を醜く照らす。落書きだらけに滑り台。錆だらけのジャングルジム。鎖の絡まったブランコ。昔はよくここで遊んだものだが、ここに最後に足を運んだのは五年前以上になる。こんなにもくたびれた場所だったのかと、時間の流れの早さに少々驚いた。
 何にしても、懐かしさは消せない。
「こんな汚い場所ですけど、まぁ我慢してください。どうせ、見るのは月でしょ」
 流石に、こんな汚れた公園を見続けるのは御免だ。
「そうね」と気のない返事をサエが返す。
 サエはもう俺など見ていない。何処か虚ろな視線を夜空の灯りに向けていた。故郷を懐かしむかぐや姫のように。
 俺もサエに倣って空を見上げる。雲が見えない。黒の中に丸い灯りが浮いているだけだ。手を伸ばせば簡単に掴めそうなくらいに、はっきりと月が姿を見せていた。
「サエさん、とりあえず何処かに座りませんか」
 俺の声がサエの意識を月から放すことが出来るかどうかは分からないが、声をかけることくらいはしておこう。
 月を見たいのは分かるが立ったまま見るのはお勧めできない。単純に疲れるし。
 案の定サエには俺の声など届かなかったようで、月を見つめたまま月から糸で吊るされているようにぴくりとも動かない。これはサエの月見を邪魔するのは野暮かも知れないと、俺は声をかけるのを止め、一番近くにあった遊具に腰を下ろす。
 ――子供みたいだな。
 一心に月を見つめるサエの姿が幼い子供のようで微笑ましい。俺は視界の中にサエと月を収めて、時間が過ぎるのを待つ。こういう時間の使い方が一番有意義だ。
 明るいが眩しくはない、柔らかな光。その光が時計の歯車に巻きついて時間の流れを遅くしているように、一秒一秒が長く感じる。
 そうやって、長すぎる夜の時間を浪費している中で、遊具が動く音が俺に伝わった。
 ぎぃぃぃぃ……。
 あえて言葉で表すならそんな音が聞こえてきた。多分、ブランコの錆びた鎖が擦れ合う音だ。
 風でブランコが動いたのかと思ったが今は無風の状態で、ブランコを揺らす程の風が吹けばいくら鈍感な俺だって気付く。
「先輩って本当にお月様が大好きなんですね」
 不意に聞こえた不自然に明るい声に弾かれ、俺の視線は暗闇でよく見えないブランコに向けられた。
 さっきまでは人の気配などしなかった。そもそも俺に人の気配を感じ取る能力などないか。
「誰すか」
 目を凝らしてみると、ブランコの上に腰を下ろした女の子が笑っていた。その笑顔は少し幼く感じさせる。服装がサエの制服と同じだ。サエの知り合いだろうか。
 ――と、ちょっと待て。なんでこんな時間に女の子が公園にいるんだよ。しかもサエのことが見えてるっぽいし。てか知り合いっぽいし。裂け目は……ないのか。拒絶者?
 サエの視線もいきなり現れた女の子に向けられていた。俺の声ではぴくりともしなかったサエが、月に向けた視線と同等な視線を、彼女に送っていた。
「久しぶりです。サエ先輩」
 数歩俺たちに近寄り、人懐っこく、悪く言えばぶりっ子のような嘘だけで作られたような声をサエに送った。
 ――俺はシカトか。
「言われたとおりここで待ってたら本当にサエ先輩が来るんだもの。本当に驚いちゃった」
「言われたって、誰に」
 俺は諦めずに彼女と意思の疎通を図る。
「どうして……」
 サエの口から言葉が漏れた。素のサエの声だ。
「どうして貴女がこちら側にいるのよ」
 いつもより気持ち強く、サエが彼女に問う。珍しくサエが取り乱していた。
 ――やはり俺はシカトか。
「知り合いなんですか?」
 寂しがりやな俺は一人で無視されることが泣く程つらい。嘘だけど。
「そんなの、先輩に逢いたかったからに決まってるじゃないですか」
 彼女は取り乱すサエを馬鹿にするように、からかうようにサエの質問に答えた。
 ――いや、マジで泣くぜ?
「ふざけないで」
 サエの言葉に棘が生える。俺だったら反射的に謝っているくらいに迫力がある。
「本当ですよ。そんな怖い顔しないで」
 彼女の笑顔はサエの言葉の棘をすべて抜き取っている。他人を苛立たせる笑顔というのは、彼女の笑顔のことなのだろうと、部外者ながらに少々苛立ちながら俺は思った。
「先輩が突然いなくなって、わたし本当に寂しかったんだから」
 彼女は俺のことを空気か何かと勘違いしているようで、惚れ惚れするくらいに脇目もふらず俺を通り過ぎ、サエの傍、正面まで歩み寄った。
「どうせ、わたしのことなんか気にも留めなかったんでしょ。こっち側に行った時」
 彼女の笑顔に悪意が混ざる。
「チサト……」
 やっと彼女の名前を聞いた。
 ――チサトね、覚えた。
 その名前を覚えたところで俺は部外者でサエにもチサトにも相手にされない存在なのは変わらない。
「わたしがどれだけ寂しく思ったかなんて考えたりもしなかったんでしょ」
 チサトの声がサエを遠慮なく責める。サエは反抗するでもなく黙ったまま、親に叱られた子供のように表情を曇らせていた。
「わたしのことなんてどうでもよかったんだよね」
 チサトは言葉を止めない。サエの表情が曇っていく様を見て愉しんでいるように俺には見える。サエも言い返さないということは図星なのだろうか。
 しかし、あのサエの表情は、見ていられない。こんなサエの表情は見たくなかった。
「あー、あの、チサトさん、ですか。その、なんていうのかなぁ、そういう言い方だとサエさんがかわいそうですよ」
「あんた誰。黙ってて」
 一瞬にしてチサトの笑顔が消え去る。チサトの声が俺の喉元に食い込んだかのような緊張感が俺を襲う。チサトの表情が、普通ではなかった。
 正直な話、さっきのチサトの一言に俺は恐怖した。だが、このまま素直に黙るのは少々格好が悪い。
「まぁ、確かに俺は無関係だと思いますけど……」
「黙れって言ったでしょ」
 声が喉に食い込むどころか、刃物で心臓を捕らえられたかのような、さっきよりもレベルの高い緊張感が俺を襲う。
 ――情けねぇ。びびってるのか俺は。
「わたしの気持ち、知らなかった訳ないよね。分かってても無視してたんだよね」
 邪魔者を強制的に黙らせて、チサトが言葉を続ける。
「ごめんなさい……」
 ぼそりと、サエが俯いたまま言った。
「謝らないで。だってこうしてまた先輩と逢えたんだから」
 わざとらしく、舞台の演技のようにチサトがサエの言葉を遮り、
「本当に、逢いたかったんですよ」
 軽やかに、サエの胸に飛び込んだ。サエは体勢を崩すことなく、チサトの身体を反射的に支えていた。表情でも驚きが読み取れる。
「チサト?」
 少しだけ、俺の勘違いかも知れないがサエの表情が和らいだような気がした。俺はチサトの行動に何処か不安を覚えた。
「わたしの気持ち、まだ先輩に伝えれてないですもんね」
 チサトが不敵に笑っている様が簡単に想像出来る。俺に黙れと命令したあの時の表情が彼女の素顔だ。
「ずっと伝えたいことがあったんですよ」
 子供が今日の出来事を母親に伝えるかのように、チサトが言う。
「わたしね、ずっと、先輩のことを」
 次の瞬間、時間が止まった気がした。空気が凍るとでもいうのだろうか。
「殺してやりたいって思ってた」
 そのチサトの告白と同時に、俺はサエから紅い液体、恐らく血が流れ、噴出しているのを見た。
 サエの背からは槍のように、先端が尖った物が何本も生えていて、その槍のような物すべてにサエの血が付着し、滴っていた。
 俺がその槍のような物の正体を知った時、異常さと、気味の悪さと恐怖でこの場から逃げ出したくなった。
 それは骨だった。チサトの肋骨だったのだ。チサトの胸から自身の肉を引き裂いて現れた、醜い赤で着色された肋骨がサエの身体を貫いていたのだ。
「かはっ」
 声にならない声と一緒にサエが血を吐き出す。俺はその様を見て腹の中の物をすべて吐き出しそうになった。
 ――何なんだよ。意味分かんねぇ。骨か、骨がサエを刺したのか。ははっ、意味分かんねぇ。
 俺はサエが刺されたという現実を正面から見据えられていなかった。斜めに、客観的に、他人事のように、目の前の惨状を眺めていた。
 ――ふざけすぎてるって。流石に。
「先輩。まだ死んでないですよね」
 チサトの肋骨がサエの身体から引き抜かれ、チサトの身体の中に消えた。支えを失ったサエはぼろきれが地面にひらりと落ちるように、地面に倒れた。
「やっぱり……そう……だったのね」
 痛々しくサエが首に力を込め、チサトを見上げていた。そんなサエをチサトは悶え苦しむ虫を見て楽しむ小学生のような悪趣味な笑顔で見下していた。
 サエの周りに血が流れ出す。まるでペンキの缶をぶちまけたみたいだ。地面に流れているサエの血が俺の足元まで伝ってきて、俺を襲ってきそうだ。
 気味の悪さを我慢できず、地面に這い蹲り腹の中のものを吐き出した。汚いとか、みっともないとか、そんなことを考えている余裕などない。ある程度のものを戻したあとは、欠片ほど残っていた羞恥心から口を押さえ、これ以上ものを吐き出すのを自制する。
 足が震えて上手く動かない。頭では立ち上がりたいと思っている筈なのに。
 初めて現実で血を大量に流す場面を見た。どうしてこんなにも紅い色の水は怖いのだろうか。どうしてこんなにも人から流れる紅い水は醜いのだろうか。昔、友達に血なんて怖くないなどと、大それたことを口にした俺が滑稽すぎてぶん殴ってやりたくなった。
 どうしようもなく怖いのだ。血が。血を流す人が。人を傷つける化け物が。
 ――殺されちまう。サエが殺されちまう。
 俺は俺自身に決断を迫られる。俺は焦りや切迫を感じすぎて振るえが止まらなかった。振るえの原因の半分は恐怖だ。
 ――俺もここに居たら、殺される。
「先輩、いい顔してる」
 俺の恐怖の元凶が、俺を苛立たせる声で言った。恐らく理屈など関係なく、人も笑って殺せるような恐ろしい化け物ということも関係なく、俺の本能がこの声を嫌っている。
 ふと、素朴な疑問が浮かぶ。
 ――逃げたところで助かるのか?
 今回も都合よくマーセが助けてくれるとは限らない。
「痛かったですか?」
 ――また、あのむかつく声だ。
 俺の中で、どうしようもないくらいに馬鹿な考えが生まれる。
 こいつから泣きながら逃げるのは癪だ、と馬鹿な俺が叫んでいる。その叫びに共感している馬鹿もいる。
 逃げたところで何があるのか。助からないかも知れないのに逃げるのも馬鹿らしい。
 ――逃げる以外に何が出来る? 俺には何が出来る? 何をすればいい? 俺は何がしたい?
 チサトの笑顔を見ていると、恐怖以上に怒りが湧き上がる。
 こいつは俺の嫌いな種類の人間だ。
 ――とりあえずサエを助けたい!
 俺が目の前の化け物相手に出来ることなど高が知れているし、殺される可能性も高い。だがそんなことを考えられるほど今の俺には余裕もなくもともと理性なんて在ってないようなものだった。
 足が震えているのは怖くて震えているのではなくて、怒りで震えていると思い込め。気味が悪いのは、むかつく女と同じ空気を吸っているから気分が悪いのだと思い込め。
 頭の中で何度も言い聞かせる。馬鹿な俺はこの程度のことで勘違いできる。思い込みが激しいのは俺の長所だ。
 ――さぁ、なるようになれよぉ。危ぶむな、危ぶめば道は無し。
 ――いけば分かるさ!
 限界まで空気を灰に送り込み、
「こんの化け物がぁ!」
 ダサく、これでもかというほどにダサく、恐怖を怒りで押さえ込みチサトに突進する。
 鈍い音が聞こえた。頭とか腕とか、チサトにぶつかった箇所が痛む。チサトもやはり俺のことは眼中になかったらしく、意外にも俺の不意打ちは効果があった。
「気味の悪い格好してんじゃねぇ! むかつくんだよ!」
 一言ダサさ満点の罵倒語を怯むチサトに浴びせつつ、血だらけのサエを抱えチサトから全力で離れた。
 今の俺のマイブームはダサいで決まりだ。
「コウ? 何……してるの?」
 サエが途切れ途切れに小さな声を血と一緒に吐き出す。サエの声が、俺を非難していることが良く分かった。
「勇気ある撤退だ!」
 最小限の言葉でサエに答える。べらべらと喋っていてはすぐに息が切れてしまう。自慢じゃないが俺の体力はない。
「てか、返事してる余裕ないから!」
 必死な俺は敬語を使う余裕もなくなる。身体が悲鳴をあげているがそんなものは完全に無視をして、暴れる心臓も押さえ込み、とにかくチサトという化け物から離れる。
 何故だか俺は逃げ切れる自信があった。浅はかな考えだということも理解していた。
 俺は馬鹿になって、足を動かし続けた。燃費の悪い俺の身体を走らせ続けた。



2005/11/27(Sun)11:19:46 公開 / アタベ
■この作品の著作権はアタベさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
よく分からない話ですが、読んで頂けると幸いです。
完結できるようにがんばります。
感想、御指摘、出来ればよろしくお願いします。
更新しました1回目 2回目 3回目(少し短いですが)4回目 5回目(書き直し)

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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