『てるてる坊主 1−6』 ... ジャンル:ホラー サスペンス
作者:時貞                

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 てるてる坊主
 てる坊主
 明日天気にしておくれ

 それでも曇って泣いてたら
 そなたの首をチョンと切るぞ――



    1

 携帯電話が鳴っている。
 深夜の静寂を突き破り、耳障りに鳴りつづける携帯電話の着信音。
 奥田啓介は枕に顔を突っ伏したまま、手探りで放り出してあった携帯電話を掴み上げた。
 頭が重く、やけにくらくらする。先ほどまで友人たちと馴染みの店で酒を飲み、終電で帰ってきてそのままベッドに倒れこんだのであった。
 重い瞼を薄っすらと開き、携帯電話のモニターを見る。《公衆電話》の表示が煌々と照らし出されていた。時刻は午前二時を少し回ったところ。こんな時間に、公衆電話から掛けてくる相手など誰であろう? 奥田は訝しみながらも、携帯電話の通話ボタンを押した。
「もしもし――」
 相手は何もこたえず、濃厚な沈黙が携帯電話越しに伝わってくる。
「……もしもし?」
 ――沈黙。
 通話は明らかに繋がっている。それが証拠に、微かな風の音や相手の息遣いが伝わってくる。奥田は迷惑な悪戯電話か間違い電話であろうと思った。しかし、酔っ払った友人の誰かが終電を逃してしまい、奥田の携帯電話に掛けてきたのかもしれないと思い直して、もう一度声を掛けてみた。
「もしもし、どちら様?」
「……て」
 微かに聞き取れるほどの、しわがれた声が返ってきた。
「え? もしもし?」
「……て、てるてる坊主を、覚えているか……?」
「はい?」
 奥田が聞き返した途端、ガチャンと大きな音を立てて通話が一方的に切られた。奥田は呆然としながら、今の電話の相手について考える。聞き覚えのない声であった。低く押し殺したような男だか女だかわからない、その年齢すら窺い知れない声であった。きっと性質の悪い悪戯電話であろうと思い、そのまま不快な気分でベッドに横たわった。
 再び眠りに落ちそうになったとき、ふいに携帯電話の着信音が鳴り響き、奥田は思わず飛び起きてしまった。
 携帯電話を握り締め、モニターに目を落とす。またもや公衆電話からの表示が浮かび上がっていた。奥田はしばし、ベッドの上で携帯電話のモニターを見つめる。電話は鳴り止む気配がなかった。
 奥田は大きく舌打ちし、乱暴に通話ボタンを押した。
「もしもし!」
 またもや、重い沈黙が流れてくる。微かに聞こえる風の音――。
「おい、誰なんだあんた! こんな時間に悪戯電話なんて、タチが悪すぎるぞ!」
 奥田は携帯電話に向かって大声をあげた。すると突然沈黙を破って、携帯電話から小さな子供たちの歌声が響き始めた。

「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ――」

 恐らく、カセットプレーヤーか何かから流している歌声なのであろう。同じフレーズが何度も繰り返される。深夜の真っ暗な室内に響く子供たちの歌声は、その無邪気さとは裏腹に背筋に悪寒を覚えるような不気味さを与える。
「いいかげんにしろ!」
 そう言って携帯電話を切りかけたとき、ふいに子供たちの歌声が途切れた。そして、またもやあのしわがれ声が聞こえてきた。
「……て、てるてる坊主を、覚えているか……?」
「な、なんなんだよお前、頭がおかしいのか?」
「てるてる坊主だよ……」
「ふざけんな馬鹿野郎! 二度と掛けてくるんじゃねえ!」
 奥田は携帯電話が壊れそうなほどの力で通話を切ると、そのまま電源をオフにした。すっかり目が冴えてしまっている。急に喉の渇きを覚え、キッチンへと向かった。
 冷蔵庫から冷えたウーロン茶のペットボトルを取り出し、直接口をつけてごくごくと飲み干す。ウーロン茶独特の苦味が、やけに口の中に残った。
 冷蔵庫を閉め、キッチンの壁に取り付けられた夜光時計を見る。時計の針は、午前二時三十分を差していた。奥田は大きくため息つく。
「ったく、こんな時間にふざけた野郎だぜ。すっかり目が冴えちまったじゃねえか。ふん、何がてるてる坊主だよ。……てるてる坊主? てるてる坊主……ま、まさか……」
 そのとき、突然奥田は背後に人の気配を感じて思わず飛び上がった。
 血走った目で周囲を見回すが、誰の姿も見えない。
「ふぅ――気のせいか」
 そう呟いて自分を納得させようと思った奥田であったが、先ほどまでとは違い、この1DKのアパート内に濃厚な悪意のようなものを感じる。いや、悪意というよりも、殺意と呼べるような邪悪な意思を――。
 奥田は恐る恐るキッチンから寝室へ戻ろうとした。そのとき、ふと目を落とした先に妙なものを見つけてしまった。
 ――玄関マットが濡れている。
 それも、なにやら人の足型状に濡れているようだ。奥田は慌てて玄関のドアを確認した。
 玄関のドアには鍵が掛かっていなかった。もともと無用心な彼であったが、この日は酒の酔いも手伝って、玄関の施錠を忘れていたのである。ドアを隔てた外から、いつの間に降り出したのか大粒の雨音が聞こえてきた。
 奥田の背筋に冷たい何かが駆け巡る。
 この気配、そして水に濡れたような玄関マット、誰かが、誰かがこの部屋に侵入している――!
 外に逃げ出そうと思うのだが、まるで金縛りにあったかのように足が動かない。
 そんな奥田の姿を嘲笑うかのように、部屋の奥から先ほどと同じ子供たちの歌声が聞こえてきた。

「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ――」

 奥田の顎が震え、がちがちと歯が鳴っている。徐々に背後に迫ってくる子供たちの歌声。それとともに強まる、巨大な暗雲のような邪悪に満ちた殺意。
 奥田はなんとかドアの外へ出ようと、震える両手を必死に前方へと差し出した。
 そのとき――。
「てるてる坊主を覚えているか?」
 奥田の耳元で、例のしわがれた声が囁いた。
「――ひ!」
 まるで呪縛が解けたかのように、奥田の身体が自由になる。そしてそのまま思わず背後を振り返った。
 奥田の耳に、「びゅん」と空気を大きく切り裂くような音が聞こえた。と同時に、額に凄まじい衝撃を受ける。真っ赤に焼けた鉄ごてを強く額に押し付けられたような、激しい熱さと激痛が襲ってきた。そして、そのまま膝からくず折れる。
「う、ううう――」
 額を右手で押さえる。
 ドロリと、生暖かい感触が手のひらに伝わった。奥田は微かに目を開き、前方に立ち尽くす人物の姿を見極めようとした。真っ暗な室内に立ち、じっと奥田を見下ろしている真っ黒な人影。その人物が、またもや口を開いた。
「てるてる坊主を覚えているか?」
 奥田は、その人物が再び凶器を振り上げる気配を音で感じた。空いている左手を、むやみやたらに振り回す。
「なぁ、てるてる坊主を覚えているか?」
 風を切り裂く音とともに、凶器が再び奥田の顔面に振り下ろされた。ぐしゃりと鈍い音が響き、血飛沫が飛び散る。この一撃で奥田は完全に事切れていた。
「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ」
 身動きひとつしない奥田の頭部に、その人物はなおも凶器を振り下ろしつづける。トマトが潰れたような奥田の頭部から、血と脳漿とが飛び散っていた。
 殺人者の動きがふいにピタリと止まる。そして何を思いたったのか、凶行に使用した血塗れの鉄パイプを放り出すと、奥田の身体をキッチンへと引き摺りはじめた。
「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ」
 殺人者の、調子はずれな歌声がゆらゆらと漂う。無機質な、チューニングの狂った旧式ラジオから流れてくるような歪な歌声――。
 キッチンの流し台の前まで奥田の死体を引き摺って、殺人者は手を放した。
 シンクの横の整理棚をじっと見つめる。やがて殺人者は、鋭利な肉切り包丁をその手に持った。窓から微かに差し込む常夜灯の光が、鋭利な肉切り包丁の刃先をキラリと輝かせる。
「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ」
 殺人者はしゃがみ込み、微動だにしない奥田の首筋に肉切り包丁の刃先をあてた。
「それでも曇って泣いてたら……」
 そして、肉切り包丁を持つ手に徐々に力を込めていった。
「そなたの首をチョンと切るぞ――」


    *


 窓の外は、強い雨が降りしきっていた。
 暗い空、激しい雨音、重く垂れこめた雲――。
 少女は黙って俯いている。目をきつく瞑って、唇を強く噛み締めて――。
 背の高い少年が、少女の肩をいきなり強く押した。
「お前のせいだぞ、てるてる坊主!」
 他の数人の少年たちが、それに合わせてはやしたてる。
「てるてる坊主、てるてる坊主、てるてる坊主、てるてる坊主、てるてる坊主――」
 やがて少年たちは、少女を取り囲むようにしながらぐるぐると回りだし、少女の身体を次々と小突きはじめた。
 風に舞う木の葉のように、少女の身体は頼りなく前後左右に揺さぶられている。
 太った少年が背後から強く小突くと、たちまち少女は前のめりに倒れこんでしまった。その姿を見て、ひときわ高い嘲笑をあげる少年たち。
「てるてる坊主、てるてる坊主、てるてる坊主、てるてる坊主、てるてる坊主――」
 少女はただただ黙って、その場に手をつき俯いていた。涙が一筋、その青白い頬を伝い落ちる。
 少年たちのはやし立てる声が、まるで悪魔の呪文のようにいつまでも響いていた。
「てるてる坊主、てるてる坊主、てるてる坊主、てるてる坊主、てるてる坊主――」
 少女は誰にも聞こえないほどの小さな声で、そっと呟いた。
「……お前たちみんな、死んでしまえ――」


    *


 職場につくと、オフィス内は異様なざわめきに包まれていた。
 飯島和也は寝癖で跳ね上がった髪を右手で押さえながら、遅刻ぎりぎりの九時にオフィスへと駆け込んできた。デスクの上に鞄を投げ出し、キャスター付きの椅子を引いてどしんと腰を降ろす。
「セーフ――」
 そう独り言を呟いて周囲を見回したとき、はじめて異変に気が付いた。
 オフィス内の雰囲気がいつもとは明らかに違う。遅刻がちの飯島に対して朝から嫌味を言ってくるはずの課長の前には、見慣れぬスーツ姿の男が二人立っていた。遠目から見る課長の顔は、心なしか少し青ざめて見える。
 呆然と見つめる飯島の肩を、誰かがぽんと叩いた。
 振り返ると、後輩の女子社員が身を縮めるようにして話し掛けてきた。
「飯島さんって、奥田さんと同期入社でしたよね?」
「奥田? ああ、そうだけど……それがどうかした? それに、今朝はみんな一体どうしちゃったんだ。何かあったの?」
 女子社員は更に身を縮めると、ようやく聞き取れるほどの小声で囁いた。
「朝一番で警察の方が来ているんです。ほら、いま課長の前に立って話しを聞いている」
 飯島は首だけをまわし、課長の席に目を向けた。黒いスーツをきっちりと着こなした二人の男が何やらしきりにメモを取り、課長はハンカチで額に浮いた汗を拭いながら、何度か頷いたり首を振ったりしている。
 飯島は姿勢をもとに戻し、小声で女子社員に問い掛けた。
「奥田に何かあったのか?」
 女子社員は曖昧に頷くと、沈痛な面持ちでそれにこたえた。
「詳しくは分からないんですが……どうやら亡くなったらしいんです」
「亡くなった? ……ってそりゃ、死んだってことか?」
 思わず大きな声をあげてしまった。
 奥田啓介は、小学校から中学校までを共に過ごした友人であった。高校からは進路が別々に分かれたが、奇遇なことに大学を出た二人は同じ就職先を選んでいたのである。入社以来飯島にとって、奥田は同期社員の中でも特に親しく付き合える仲間だった。
 飯島の発した声に、オフィス内のすべての視線が集まる。課長に話しを聞いていた二人の刑事も思わず振り返った。
 刑事の一人と目が合う。
 面長で、欧米人のように目鼻立ちがくっきりと大作りな男であった。浅黒い肌に太い眉、きりっと引き締まった口元、見るからに硬そうな黒髪をオールバックに撫で付けている。
 飯島は思わずその刑事の顔に見入った。この顔は以前、どこかで見覚えのある顔だ――。
 飯島が思い出すよりも早く、刑事の方が強張っていた表情を崩して声を掛けてきた。
「おい、飯島じゃないか! 俺だよ、俺。加賀屋だよ」



    2

 少女の母親は幼い頃から心臓を患っていた。
 先天性の、現在でも完全な治療法の無い病である。
 そのため、出産には大きな危険が伴った――。
 夫ははじめ、妻の身を案じて出産を諦めるようすすめた。担当した医師も同様の意見であった。無理に出産に踏み切ったら、最悪の場合母子ともに生命に関わる危険性があるからと。
 しかし、少女の母親は決断した。
 これが子供を産める最後のチャンスかもしれない。できるものなら、この手で我が子を抱いてみたい。女として、この神様が与えてくれたチャンスに賭けてみたい――と。
 予定日より二ヶ月以上も早いある日の朝、少女の母親はトイレで破水した。
 夫の駆る車で病院に急行し、すぐにストレッチャーで分娩室へと移送される。
 担当医師は心臓の負担を考慮し、自然分娩を諦め帝王切開での出産に踏み切った。
 まさに神に祈るような心境で手術を見守っていた夫。予想されていたことではあったが、かなりの難産となった。妻の強い意志――母親にならんとする強い意志にすべてがかかっていた。
 やがて――母親は小さな女の子を出産した。
 母体はかなり衰弱が激しく、生まれてきた子供もわずか千四百グラムという未熟児であった。通常の女児の新生児に比べ、半分ほどの体重である。
 母親も女児も、その後長い看護が続けられることとなった――。


    *


 飯島は、その日一日仕事が手につかなかった。
 幼馴染であり、会社でももっとも親しかった友人である奥田の死。それも聞くところによると、他殺の疑いに間違いはないという――飯島に与えられたショックは大きかった。
 意外だったのは、奥田の事件を担当する刑事がこれまた飯島の知人である加賀屋吾郎であったことだ。
 加賀屋との出会いは、高校生時代にまでさかのぼる。
 当時の飯島は、喧嘩や悪い遊びに明け暮れていた頃であった。地元で名の通った暴走族に入り、やりたい放題やっていた。
 もともと成績の良かった飯島の進んだ高校は、都内でも名高い進学校であった。進学校であるがゆえに、同じ暴走族仲間からは小馬鹿にされることも多い。勉強だけが取り得の軟弱者だと、最初は多くの者たちが思っていたのだ。飯島はそのイメージを払拭するために、自ら危険な相手を選んでぶつかっていった。その命知らずな無鉄砲ぶりに、そのうち誰も彼のことを馬鹿にする者はいなくなった。地元の悪い高校生たちからも一目置かれる、恐れられる存在となっていた。
 その飯島を完膚なきまでに叩きのめした相手が、誰あろう当時の加賀屋吾郎である。
 加賀屋は飯島の所属する暴走族とは敵対関係にあった、湾岸地区を縄張りとする暴走族のメンバーだったのだ。
 飯島はなす術もなく叩きのめされた。だがしかしその争いの後、飯島と加賀屋の間に妙な友情が芽生えることとなる。飯島は加賀屋の圧倒的な強さに惹かれ、加賀屋は何度倒されてもそのたびごとに立ち上がってきた、飯島の根性と執念に惹かれたのだった。
 その後更生した二人は別々の道を歩むこととなり、知らず知らず疎遠になっていった。風の便りで加賀屋が警察の道を選んだと聞いたときは、あの暴走族くずれがと、思わず微苦笑を浮かべたほどだった。
「その加賀屋が、今では一人前の刑事か……」
 飯島はぼつりと呟いた。
 仕事帰りの喫茶店。ここでいま飯島は、加賀屋が来るのを一人で待っている。広い店内はほど暗く客足もまばらで、二人でひっそりと話し合うのに適していた。
 何本目かの煙草に火を点け、今日聞きかじった奥田の事件について考えを整理してみる。
 事件現場は奥田の住むアパートの一室。遺体の第一発見者は、朝刊を配りに来た新聞配達員だったらしい。何故新聞配達員が遺体を発見するに至ったか? 皆の前でははっきりした言葉を控えた加賀屋ともう一人の刑事――確か大森と名乗った――であったが、この点についても今から加賀屋に直接聞いてみたい。もっとも刑事である加賀屋が、民間人の飯島に対してどこまで話してくれるかは疑問であるが……。しかし今日、仕事帰りに会いたいと言い出したのは加賀屋の方である。加賀屋としても、飯島から何か聞き出したいことがあるというのだろうか――。

「よぉ! 待たせちゃったな」
 野太い声と共に、加賀屋の大きな身体が目に入った。よほど急いで来たのか額に薄っすらと汗をかき、少し呼吸が乱れている。
「いや、それほど待ってないよ。しかし久しぶりだよなぁ。まさか、こんな状況でお前と再会するなんて夢にも思わなかったよ」
「はっはっは、俺だってそうだ」
 加賀屋は上着を椅子の背に掛けると、店員に「アイスコーヒー」と一声掛けてから腰を降ろした。
 飯島が口を開く。
「で、事件を抱えて忙しい刑事さんが何の用だい? まさか、懐かしい昔のやんちゃ話しをしたかったわけじゃないだろ?」
「はっはっは、昔のことはお互いに言いっこなしだ」
 加賀屋はお絞りで豪快に顔を拭うと、急にそれまでとは変わって真剣な表情をみせた。
「実は今回の事件について、内々に聞きたいことがあってな」
 予想通りの展開であった。飯島は少しおどけたように問い返す。
「今回の事件? まさか俺が犯人だと思われてるんじゃあるまいな?」
「いや、別にそういうわけじゃないんだが。……飯島は、今回の被害者とは仲が良かったんだろう? 被害者について、なるべく詳細な情報を得たいんだ」
 ウエイターがアイスコーヒーを運んできた。加賀屋はそこで口をつぐみ、ウエイターが去るのを待つ。飯島も加賀屋の目を見つめたまま黙っていた。
 やがてウエイターの姿が奥に引っ込むと、飯島はおもむろに口を開いた。
「奥田とはたしかに仲が良かったよ。なにしろ小・中学校の同級生だったしな。同期の社員の中でも、あいつとは一番親しく付き合っていた。……一体、なんであいつが殺されたんだ?」
 飯島はテーブルに目を落とした。空になったアイスティーのグラスの中で、溶けた氷がカランと冷たい音を立てる。
 加賀屋はテーブルに両肘をついて、大きな手を顔の前で組み合わせながらたずねてきた。
「飯島意外に、奥田と特に親しかった者を知らないか? 当然知ってるだろうが、奥田の両親は二人とも数年前に他界しているし、兄弟姉妹もいない身だったようだからな」
「……さぁ。そりゃ友人の何人かはいただろうが、特に親しかった人物となるとすぐには頭に浮かばないな。俺とはちょくちょく飲みに行ったり、日帰り旅行なんかもしたことがあるけど」
「女性関係はどうだった? お前の知る限りでは」
「うーん。そりゃ何人か女友達はいただろうけど、誰か特定の恋人がいたようには思えないな。本人からそういった話を聞いたことも無いし、女よりも仕事が大事っていうタイプの男だったよ」
 飯島はそこまで言うと、「ふぅ」とひとつため息をついてテーブルに頬杖をついた。
 加賀屋が口を開く。
「実はな、奥田が殺害されたとおぼしき時刻に前後して、彼の携帯電話に二件の着信履歴が残っていたんだ。もっとも公衆電話から掛かってきたものらしく、相手を特定することは出来なかったが……。それにしても、その二件の着信があった時刻は深夜の二時過ぎだぜ。ちょっと気になるだろう?」
「確かに。まぁ単なる悪戯電話か間違い電話かもしれないが、そうでないとしたら余程の急用があったのか、あるいは余程親しい人物からの電話だったということも有り得るな。……俺にはそこまでの心当たりはないが」
 加賀屋はいつの間にやら取り出していた手帳にペンを走らせながら、冷静な表情で飯島の言葉を聞いていた。開かれた手帳のページをペン尻でコンコン叩きながら、しきりに何かを考え込んでいるらしい。
 飯島は逆に訊ね返した。
「俺のほうでも今回の事件について、お前に聞きたいことがあるんだが」
 加賀屋はアイスコーヒーに軽く口をつけると、
「なんだ? 当然職務上話せないこともあるが、それでもよければ話してやるよ」
 そう言ってシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。
 飯島はライターを差し出して火を点けてやると、さっそく質問を口にする。
「まず死体発見時刻と発見者なんだが、朝刊の新聞配達員が通報者だったんだって?」
「ああ、そうだ」
「夕刊の記事に目を通したが、それ以上の情報は得られなかったもんでね。まだ警察が情報を流していないのかもしれないが、奥田はアパートの室内で殺されていたんじゃなかったのか?」
 思わず声が大きくなった飯島を、加賀屋が目でたしなめる。飯島は肩をすくめてみせた。しばらく煙草を吹かして考え込んでから、加賀屋が低い声で話し始める。
「どうせこの情報は明日の朝刊には発表されることだから支障はないが、俺から直接聞いたとは言わんでくれよ」
「ああ、わかった」
「……殺害現場は奥田のアパートの室内だ。これは間違いない。ただ、死体の一部が玄関の外に置かれていた」
 飯島は、また大声になりかけるのをかろうじて抑えると、加賀屋の目を覗き込みながら低い声で問い掛けた。
「死体の、一部だって? 夕刊にはただ、死因は撲殺だとしか書かれてなかったが」
「ああ、直接の死因は確かに撲殺だ。凶器は持ち去られた後だったが、何か硬質な棒状の物で頭部を数回殴打されている」
 ここで加賀屋は大きく咳払いすると、正面に座る飯島の方へその身を寄せてきた。そして、周囲に一度視線をめぐらせてから重々しく口を開く。
「犯人は奥田啓介を撲殺した後に、その首を切断している」
「――なっ!」
 加賀屋は、自分の口に人差し指を立てて飯島をたしなめた。
「切断された首は、玄関の外側に放置されていた。新聞配達員は、その奥田の首を発見して通報してきたんだよ」
 飯島の脳裏に、その状況の生々しい映像が浮かんだ。思わず胃が締め付けられたようになり、軽い嘔吐感を覚える。
「ひ、ひでえな」
「ああ、ひどい犯罪だ。これ以外にもある奇妙な特徴があったんだが、そこまではさすがにお前と言えども話すわけにはいかない」
 加賀屋の目の色が暗く翳った。恐らく飯島が想像する以上に、奥田の殺害現場は惨憺たる状態だったのであろう。飯島は在りし日の奥田を思い浮かべて、思わず大きくかぶりを振った。
「高山真二という男を知っているだろう?」
 加賀屋が唐突に問い掛けてきた。
「……え? 誰だって?」
「高山真二だよ。お前とは確か、小学校と中学校とで同級生だったはずの男だ」
 飯島は加賀屋が吐き出す煙を見つめながら、記憶の中を手繰る。
「高山、高山、高山……ああ、あいつか。シンジか」
「思い出したか」
 加賀屋は短くなった煙草を灰皿に円を描くようにして押し消すと、飯島の両目をじっと見据えた。その顔は旧友の顔ではなく、完全に事件を追う刑事の顔であった。
「ああ、確かに高山真二は俺の昔の同級生だが、それがどうかしたか?」
 加賀屋はしばし沈黙した。飯島は何か漠然と、得体の知れない恐怖が背筋を這い上がってくるような感覚を覚えた。
 沈黙を破り、加賀屋が重い口を開いた。
「これも俺から直接聞いたとは言わないで欲しいんだが、俺たちがお前の会社を引き上げた後、警視庁からウチの署に連絡があってな。……高山真二も昨夜殺されていたらしい。それも、奥田啓介とまったく同じ手口でな」
「――なっ! なんだって?」
「お前の読んだ夕刊紙にも記事が出ているはずだ。――死亡推定時刻は昨夜の十二時から午前一時の間、第一発見者は同じアパートに住むサラリーマンだ。出勤前に高山の部屋の前を通りかかり、被害者の生首を発見して仰天したそうだ。……これはまだ非公式だが、警察では奥田の事件と同一の人物による犯行だと考えている――」
 飯島はまるで声が出なかった。加賀屋の発する声が、どこか遠い異世界から聞こえてくるような感覚を受けていた。

 ――奥田が殺された……高山も殺された……。


    *


「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ」
 真っ暗な室内に、調子はずれな歌声が響く。
 狂気を孕んだ歪な歌声――。
「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ」
 暗闇に包まれた中で、その人物はしきりに指先を動かしていた。その指には、室内に満ちる闇とは対照的に真っ白な布製の物が握られている。
 ――それは、《照る照る坊主》であった。
 指先を器用に動かし、その人物は熱心に照る照る坊主を作っている。
 闇に包まれた室内で――狂気に目を血走らせて――。
「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ――それでも曇って泣いてたら、そなたの首をチョンと切るぞ――」
 一際甲高く流れる歪な歌声。
 やがてその人物は立ち上がり、何やらぶつぶつと独り言を呟くのであった。
「……奥田啓介、高山真二……こ、これで、これで二人……あと、あと三人だ――」



    3

 七才時――。
 少女は病弱でか細く、触れたら折れてしまいそうな華奢な体つきをしていた。
 生まれながらに喘息を患っており、身体の成長は同じ年頃の少女に比べると著しく遅れている。
 骨に張り付いたような肌は青白く、それとは対照的に首筋や四肢の内側にはアトピー性皮膚炎による痣が赤々と腫れ上がり、見る者を痛々しい思いにさせた。
 欠食児童さながらに細々とした身体――生気の感じられない虚ろな表情――。
 しかし、少女の背負ったハンディはそれだけではなかった。
 生まれながらにして、その頭部には毛髪がまったく生えてこなかったのである――。


    *


 ああ、腹が減った――。
 牛丸秀樹は四畳半一間の自室に座り込み、染みや煙草のヤニで薄汚れた天井をぼんやりと眺めながらそう思った。いつもの癖で、赤茶けた畳の表面を指でバリバリ掻いている。
 牛丸が勤めていた運送会社が経営不振で倒産したのは、半年ほど前のことであった。一族経営の小さな運送会社であったが、牛丸たち社員が倒産を知ったときには社長もろとも経営陣たちは皆姿をくらましており、事務所内はもぬけの殻も同然であった。当然その月の給与は支払われず――その前の月の給与も支給が遅れていたため、牛丸たち社員は漠然と経営がおもわしくないことを察知してはいたが――退職金なども当然支払われず、牛丸たちは職を失った。
 覚悟していたことではあったが、再就職は予想以上に困難なことであった。
 毎日ハローワークに通いつめ、新聞の求人欄や転職情報誌にこまめに目を通したが、それでも牛丸を受け入れてくれる企業は見つからなかった。そういった状況がしばらく続くと、嫌でも心がすさんでくる。牛丸はすっかり労働意欲を無くし、わずかに残しておいた貯金を切り崩して生活費に当てるようになった。それでも足りない分は、気が向いたときに日当制のアルバイトをしてなんとかした。日当制の肉体労働に集まってくるアルバイト希望者たちは、皆牛丸と同じような境遇の者たちばかりであった。中には浮浪者の姿もあった。
 無為に過ぎていく日々――。
 貯金はすっかり底を尽き、この頃はアルバイトに出る意欲もなくなっていた。
「ああ、腹が減ったなぁ……」
 牛丸は畳の上からゆっくりと立ち上がり、ぼりぼりと頭を掻き毟りながら四畳半のつなぎにある簡易キッチンに立った。脂ぎった毛髪からフケが四方に飛び散る。牛丸は備え付けの冷蔵庫を開けると、中を見回した。
 賞味期限の切れた生卵が二つ。
 牛丸は手近にあったボウルを取り、流し台の縁で生卵の殻を割って中身をボウルに落とし込んだ。
 ボウルに鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。――大丈夫だ。これぐらいならまだ食べられる。
 少量の砂糖と塩を入れ、三本の菜箸を三角に持ってよくかき混ぜる。
 流し台に突っ込んだままだったフライパンを掴み上げ、上下左右に振り回して水気を切ると、ガス台の上に乗せて点火した。油染みにまみれた整理棚から淀んだ色に変色してしまっているサラダ油を取り、フライパンの表面に数滴垂らす。フライパンを円を描くように回してサラダ油を広げ、ボウルの中の卵をゆっくりと流していく。
 卵に程よく火が通り始めた頃、四畳半に置かれた電話がけたたましく鳴り始めた。旧式の黒電話である。会話は聞き取りづらいのだが、受信音だけはやけに大きく響く代物であった。
 牛丸は電話が鳴ったことに驚いた。
 誰かが電話を掛けてきたことに驚いたのではなく、まだ電話が不通になっていなかったことに驚いたのである。てっきり料金未納で電話局に止められていると思っていたのだが、口座振替により自動的に支払われていたようだ。
 牛丸は舌打ちした。
 電話代に貯金が使われてしまうのだったら、その前に現金を引き出しておくべきだったと思ったのだ。今の牛丸にとって、電話が使えなくたっていっこうに差し支えない。なにより現金を必要としていた。
 電話はいつまでも鳴り止む気配がない。
 なにしろ旧式の黒電話である。当然、留守番電話機能などはついていない。相手が通話を諦めない限り、執拗に耳障りなベルが鳴りつづける。
 ――まったくこんなタイミングで電話なんて掛けてきやがって。一体どこのどいつだ? ……ったく、うるせえなぁ。はいはい、わかりましたよ――。
 牛丸はガス台のスイッチを捻って火を消すと、また頭をぼりぼりと掻き毟りながらゆっくり四畳半に戻り、脂とフケのこびりついた手で受話器を取り上げた。
 いらついた表情を浮かべたまま、露骨に不機嫌な声を出す。
「――もしもし?」
「あ、もしもし。牛丸か?」
 どこかで聞いた覚えのある声であったが、その声の主が誰であるのか、牛丸には即時に思い浮かばなかった。
「はぁ、牛丸ですが。……おたくは誰?」
「俺だよ、俺。嶋崎だよ。嶋崎誠。――ほら、小・中学と一緒だった」
 牛丸の頭の中に、背が小さくて顎が細く、細い目がつり上がった――狐のような顔立ちをした少年の姿が浮かび上がってきた。――嶋崎誠。確かに小学校から中学校まで同級生だった男だ。
 牛丸は持ち前の低くてハスキーな声をあげる。
「ああ、お前か。嶋崎か。思い出したよ。ずいぶん久しぶりじゃねえか」
「あ、ああ。……そうだな」
「しばらく会ってねえけど元気だったか? 俺のほうは会社がつぶれちまって散々よ。……で、今日はいきなりどうしたんだよ?」
「――ああ。牛丸、お前さ……奥田と高山の事件は知ってるだろう?」
 静かに抑えられた嶋崎の声は、何かに怯えているように感じられた。
 牛丸は問い返す。
「はぁ? 奥田と高山の事件? ああ、俺らが昔つるんでた奥田と高山か。なんだよ、事件って?」
 しばしの沈黙の後、嶋崎の頓狂な声がかえってきた。
「え! お前、知らないのかよ? いまテレビでも新聞でも大騒ぎになってるじゃないか」
「……はぁ。テレビは売り飛ばしちまったし、新聞も今は読んでない。さっきも言ったが会社が潰れて仕事がなくなっちまって、今じゃ世捨て人みたいなもんなんだよ、俺は。……で、奥田と高山がどうしたって? 事件って何だよ」
 嶋崎の大きなため息が聞こえた。そして、まるで周囲の耳を気にしているかのような押し殺した声でこう言った。
「――いいか、良く聞けよ。奥田と高山が一昨日の夜、正確には昨日の深夜過ぎに殺されたんだ」
 牛丸は一瞬、相手が何を言っているのか理解が出来なかった。受話器越しに重々しい沈黙が流れてくる。やがてハっとしたように受話器を握りなおし、相手に合わせるような小声で問うた。
「それ、本当かよ? あの、間違いなく俺たちの同級生の奥田と高山だよな? 殺されたって、一体どういうことだよ。詳しく聞かせてくれ」
「あ、ああ――」
 嶋崎は自分が知りうる限りの事件の内容を、事細かに説明した。
 奥田と高山が時間を前後して同じ日に殺されたこと――、撲殺された後で首を切断されていたという最新の情報――、死体の発見状況――、そして、どうやらこの二つの事件が同一人物の犯行であるらしいということ――。
 牛丸は時々唸り声のような相槌を打ちながら、嶋崎の話を黙って聞いていた。
 嶋崎の長い話が終わると、両者ともしばし沈黙してしまった。受話器を握る牛丸の手は、いまや汗でぐっしょりと濡れてしまっている。理由はわからないが、なにやら得体の知れない恐怖が背筋を駆け巡っていくように感じられた。
 沈黙に耐え切れなくなったのか、牛丸が先に口を開いた。
「そんな、そんな事件が起こっていたのか。……ひでえ。むごいもんだな。……それで、お前が俺に連絡してきたっていうのは?」
「昔の仲間が二人も殺されたんだぜ。じっとしていられるわけないだろう? もしかしてお前の身にも何か起こってやしないかと思ってな」
「ああ、ありがとう。俺のほうは大丈夫だ。特に変わったこともないよ。……しかし驚いたぜ。それに……確かに気になる事件だな」
 牛丸はごくりと生唾を飲み下した。少年時代の奥田啓介と高山真二の姿が脳裏に浮かび、受話器を握ったまま大きくかぶりを振る。
 嶋崎の声が聞こえてきた。
「俺も落ち着いていられなくてな。お前から以前もらった年賀状を見つけ出して、そこに書かれていた電話番号に掛けてみたんだ。――繋がってよかったよ。実はお前の前に飯島にも電話を掛けてみたんだが、なかなか繋がらなくてな」
 牛丸は回想した。
 ――奥田啓介、高山真二、嶋崎誠、飯島和也、そして自分――小学校から中学校にかけて、いつも一緒につるんでいた五人である。そして、その中の二人が同じような手口で、同じ人物と目される犯人によって殺された――。
「なぁ、嶋崎。一体この事件は何なんだろうな? 俺たちにも、いや、あのときの五人組に何か関係でもあるのかな」
「わからない。とりあえず、身の回りに気をつけたほうがいいかもしれないな。たとえ取り越し苦労であったとしても。……ちょっと気になることもあるし……」
「気になること?」
「あ、いや、なんでもない。とりあえず俺は、もう一度後で飯島に連絡を取ってみるよ。そこでまた何か情報があったら、お前にもまた追って連絡するから――」
 牛丸は静かに受話器を下ろした。
 気が付かないうちに、全身からぬるぬるとした脂汗が噴出している。もはや食欲などまったくなくなっていた。

 ――奥田が殺された……高山も殺された……。

 牛丸はなかなか寝付くことが出来なかった。
 なけなしの金で焼酎のボトルを買い、かなりの量を飲んだにも関わらずすっかり目が冴えてしまっていた。
 時刻は深夜の一時過ぎ――。
 牛丸は煎餅布団からむくりと起き上がり、卓袱台の上に置きっぱなしになっていたグラスに焼酎をなみなみと注ぐと、ぐいっと一気に飲み干した。胃袋がカっと熱くなる。結局あれから、嶋崎からの電話は掛かってこなかった。飯島とは連絡が取れなかったのであろうか? 牛丸は頭から不吉な想像を振り払い、再びグラスに焼酎を注いだ――。
 空腹で飲んだせいか、少しずつながら酔いがまわりはじめた。体がふわふわと軽い感じになり、気分も少しずつ明るくなってくる。
 気が付くとかなり上気していた。
 ――金のことなど考えず、こんな夜はとことん飲んで寝てしまうに限る。
 牛丸は焼酎のボトルをグラスに傾けた。が、すでにボトルの中は空になっており、申しわけ程度に残りの数滴が落ちてきただけであった。
「ちッ! せっかく気分良くなりはじめたところだってえのにッ」
 そう悪態をつきながらフラフラと立ち上がり、ハンガーに掛けっぱなしの上着の内ポケットから安物の財布を取り出した。
 中身を覗く。
 皺くちゃの千円冊が一枚と、いくらかの小銭が入っていた。表面のガラスが埃の膜で覆われている壁掛け時計を見た。時刻は深夜の一時四十分――。
「まだまだ飲みたりねえ。酒を買ってくるか」
 牛丸はスウェットのポケットに財布を突っ込むと、歩いて十分ほどの距離にあるコンビニを目指して部屋を後にした。身体がまだアルコールを求めていたし、外の空気を吸ってみたい気分でもあった。
 外に出ると、夜空は星ひとつ見えない曇天のようだった。時折り吹いてくる風が妙に生暖かい。牛丸は足を速めた。
 もともと人通りのさほど多くない街路であったが、深夜の二時近い時間帯ということもあって、人の姿どころか猫の子一匹見当たらなかった。広い空き地の横を通り過ぎ、近道をするために月極めの駐車場を突っ切って行こうとした――そのときだった。
 駐車してあった大きなワゴン車の横から、風のように躍り出たひとつの黒い影――。その姿が視界に入った瞬間、牛丸の耳に「びゅん」と大きく空気を切り裂くような音が響いた。それと同時に受ける、焼け付くような鋭い衝撃。
 ――え? なに……?
 何が起こったのかまるで理解が出来なかった。牛丸は身構える余裕も無く、頭部に強烈な一撃をくらって倒れ込んでいた。
 その衝撃が、数秒の後猛烈な痛みへと変わる。
「……あ、あああああッ……い、いてえッ! いてえよぉッ」
 牛丸はうめきながらも大きく目を見開き、なんとか立ち上がろうとした。するとその背中を目掛けて、黒い影の主が力いっぱい凶器を振り下ろす。牛丸は再び前のめりに倒れ込んだ。
「がッ!――」
 意識が朦朧としてくる。
 ――な、なんで……俺、殺されるのか……?
 その薄れ行く意識が完全に闇に閉ざされる前に、黒い影の主が牛丸の耳元に口を当ててこう囁いた。
「てるてる坊主を覚えているか?」
 混濁した意識の中、その《てるてる坊主》という言葉が牛丸の精神世界の《何か》を刺激する。
 ――……て、てるてる坊主……? てるてる坊主……てるてる坊主……。ああ……ま、まさか、まさか、まさか、まさか、まさかッ! お、お前は……。
 牛丸の意識は、そこで完全に途絶えた。

「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ――」
 すでに事切れている牛丸の頭部に、黒い影の主は更なる打撃を加える。真っ暗な駐車場のアスファルトに、鮮やかで毒々しい血飛沫と脳漿とが飛び散った。
「それでも曇って泣いてたら、そなたの首をチョンと切るぞ――」
 空気を切り裂く凶器の音と、歪んだ調子はずれの歌声とが闇夜を震わせていた。



    4

 殺人者は、浴室で凶器にこびりついた血糊を洗い流していた。ズシリと重みのある鉄パイプ。鋭利な肉切り用包丁――そして、返り血を浴びた黒いレインコートの汚れもシャワーで念入りに洗い流す。
 今夜の復讐は実に爽快であった。かつては自他共に認めるスポーツマンで、憎き五人の中でももっとも体力自慢であったあの牛丸が、何の抵抗も出来ずにアッサリとくたばったのである。その場面を思い出し、殺人者の口から思わず含み笑いが洩れた。
「ウフフ、あの叩きつけられたときの牛丸の格好。まるで車に轢かれたカエルみたいだったじゃないの」
 殺人者は上機嫌で鼻歌を口ずさみながら、浴室を後にする。
「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ――」
 これまでのところ復讐計画は順調であった。いや、完璧であったと言っても過言ではあるまい。標的であった五人のうち、三人はいとも簡単に葬り去ることが出来たのだ。
「フ、フフッ。フハハハハッ! フワッハッハッハッハァ――!」
 含み笑いが高らかな哄笑に変わる。それに合わせるかのように、隣の部屋から大音量でハードロックが響いてきた。隣に住む長髪の若者が、時間も気にせずステレオでハードロックを流しているのであろう。
「チッ――人がせっかく気分がいい時に、ぶち壊しやがって」
 殺人者は憤然とした表情で、隣室に接する壁を力いっぱい蹴飛ばした。ドーンという音と共に、細かな塵が室内に舞う。隣室から流れてくるハードロックの音量が、途端に低くなった。おそらく隣人が慌ててボリュームを絞ったのであろう。
「フン。ばかやろうが」
 殺人者は壁に向かって一瞥をくれると、室内の中央に置かれた卓袱台の前にドカリと座り込んだ。卓袱台の上には、作りかけのてるてる坊主が二つ置かれている。
「あっとふったりッ。あっとふったりッ。あっとふったりッ」
 殺人者の口元に、再び薄っすらと笑みが広がっていった――。


    *


 短い髪を逆立て金髪に染めた若者は、ぶつくさ独り言を呟きながら広い空き地の横道を歩いていた。
 頭がずしりと重く、鈍い首を動かすと鈍い痛みを感じる。ニ時間ほど前まで仲間と飲んでいた酒が、まだまったく抜けていないらしい。重い足を引き摺るように歩いていると、小石に躓き前方につんのめりそうになった。
「チッ! まったく頭にくんなあ」
 酒をしたたか飲んで自宅に戻り、そのままシャワーも浴びずにベッドに潜り込んだ彼を起こしたのは、付き合い始めて一年ほど経つ彼女からの電話であった。
 あまりの眠気に電話に出るのも億劫だったが、彼女に「仕事で遅くなる」と嘘をついて仲間とつるんでいたという負い目もあったため、やむなく携帯電話の通話ボタンを押した。
 明日は休日である。彼女とドライブに出掛ける約束をしていた彼であったが、その電話で会話をするまですっかり忘れてしまっていた。その態度に怒った彼女から、「今から部屋にすぐ来ないと別れる」と言い渡され、重くだるい身体に鞭打って家を出たのである。
 空き地を通り過ぎ、車の停めてある駐車場に入る。
 瞼を擦りながら中古で買ったスポーツカーのドアにキーを差し込んだとき、思わずムっとするような鉄錆臭い匂いを嗅いだような気がした。
「なんかクセエな。なんだ、この匂いは……」
 彼の脳裏にピーンと閃くものがあった。十代の頃から喧嘩に明け暮れ、暴走族に入って暴れまわっていた時期がある。今はフリーターということになってはいるが、昔馴染みのヤクザ者と付き合いがあり、彼自身もなかばチンピラのようなものであった。
 ――こいつは、血の匂いじゃねえか? それもこりゃ……ハンパじゃねえ匂いだぞ……。
 眠気はすっかり覚めている。
 彼は車のキーをポケットに戻し、暗闇に目を凝らしながら一歩を踏み出した。
 五、六歩ほど歩いて大きな黒いワゴン車の真横に視線を向けたとき、彼の身体はその場に凍り付いてしまった。
 ――異形な物体が転がっている。
 それが人間の生首であるということを認識するのに、数秒掛かった。すぐ傍には切り離された胴体らしき物体が転がっている。そして周囲に広がる、おびただしい鮮血。赤黒い生首の切り口から、ポタポタと血の玉が滴り落ちていた。不自然に口が抉じ開けられ、何かが詰め込まれている。どうやら白いガーゼ状の物のようだ――。
 しばらくまんじりともしなかった彼の身体が、まるで熱病にでも冒されたかのように小刻みに震えだす。そして、その口から獣にも似た咆哮がほとばしり出た。
「――ウッ、ウギャッ! ウギャァァァァァァァァァ――――ッ!」


    *


 少女にとって、学校とはまさに地獄であった。
 毎日執拗に繰り返される虐め――。
 苦しかった。何度も死にたいと思った。自分なんか生まれてこなければ良かったと、何度思い悩んだか数知れない。
 少女は耐えた。必至で耐えた。苛烈な暴力に、胸を抉る言葉の暴力に、そして、陰湿な無視と冷酷な視線に――。
 何度も死んでしまいたいと思った少女であったが、彼女を思いとどまらせていたのは両親からの献身的な愛情であった。母親は自分自身が心臓を患っているにも関わらず、少女の前では決して苦しい顔ひとつ見せずに、いつも優しく少女を励ましてくれた。父親も朝早くから夜遅くまでクタクタになるまで働きながらも、少女の前では常に笑顔を絶やさなかった。少女はいつも、この両親からの深い愛情をひしと噛み締めていたのである。
 学校は辛い、苦しい、行きたくない――でも、私はお父さんとお母さんのためにも頑張らなくてはいけない――。

「おい、てるてる坊主ッ。聞いてんのかよッ」
 背後から浴びせ掛けられた怒声に、少女は回想から現実へと引き戻された。後ろを振り返る。そこには少女がもっとも恐怖する少年が、切れ長の双眸に意地の悪い光をたたえ、口元に薄ら笑いを浮かべて立っていた。
 飯島和也――。
 少女に対して、特に執拗な虐めを繰り返す五人の少年たち。その中のリーダー的存在が、この飯島和也という少年である。もともと蒼白な少女の顔が更に青褪め、条件反射的に両手を胸に当てて身構える。
 にやついた顔の飯島が、ねっとりと粘りつくような声音で切り出す。
「なぁ、明日はクラス対抗のサッカー大会の日だよなぁ。俺たちさぁ、すっげえ楽しみにしてるんだよ。なのに、天気予報じゃ雨だっつってんだよな」
 そこで飯島は一旦言葉を切った。そして舌で上唇を舐めると、怯える少女の反応を楽しむかのようにゆっくりとつづける。
「だからさぁ、お前に頼みがあるんだよ。サッカー大会が延期になっちゃったら、俺らイラつくじゃん。ムカつくじゃん。俺らがムカついたら、お前だって困るだろう? だからよぉ、てるてる坊主。お前の力でなんとか明日は晴れにしれくれよッ」
 飯島の周りに、いつの間にか四人の少年たちが集まってきていた。奥田啓介、高山真二、嶋崎誠、牛丸秀樹――どの顔にもにやにやと薄ら笑いが浮かび、双眸には残忍な光が宿っている。
 飯島に合わせて、牛丸が口を開いた。
「おい、本当に頼むぜッ。てるてる坊主」
「……そ、そんな……わたし……」
 少女はそれ以上何も言えず、俯いてしまった。そんな少女に容赦なく、飯島がたたみ掛ける。
「おいッ! 俺たちの頼みが聞けねえっつーのかよッ。お前はてるてる坊主だろうが。《明日天気にしておくれ》っつーんだよッ」
 そう言って飯島は俯く少女の髪をむんずと掴み、頭から無理やり引き離した。生まれながらに毛髪が生えてこない少女は、自宅以外では鬘(かつら)を被っていたのである。
「や、やめて! かえしてッ」
 少女は椅子を倒して席を立ち、飯島に向けて必死で細い腕を伸ばした。飯島は軽々と少女の手をかわし、自分の手の中の鬘を弄ぶ。
「お願い、返してよぉッ」
 少女の目から涙が溢れ出してきた。それを見て、笑い声をあげる五人の少年たち。少女はやせ細った身体で、必死に飯島の手から鬘を取り返そうとする。飯島は動きを止めて少女を引き付け、少女の手が鬘に触れる寸前のところで別の少年――奥田に向かって投げつけた。
 それを受け取った奥田が、鬘を片手に頓狂な声をあげる。
「ヘイヘイヘイヘイ――ッ」
 そしてバスケットボール選手のように腰を低くかがめると、膝の屈伸を使ったジャンプをしながら、真向かいに立っていた嶋崎少年に投げつけた。嶋崎は面食らいながらも受取り、すぐさま牛丸少年に投げてよこした。
「ナイスパス!」
 輪になった少年たちの中央に立って、涙を流しながら必死に鬘を取り戻そうとする少女の姿。他のクラスメイトたちの中に、五人の少年たちを咎めようとする者は誰もいない。
 やがて少女をからかうことに飽きた飯島たちは、まるで汚いものでも投げ捨てるように、鬘をリノリウムの床の上に放り出した。
「あぁ、疲れた疲れた。じゃッ、明日は頼むぜ。てるてる坊主」
「もし雨が降ったら、お前の所為だかんなッ!」
「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ――ってか!」
「それでも曇って泣いてたら、そなたの鬘をチョンと取るぞ――ワッハッハッハッ」
 少女は冷たいリノリウムの床に手をついたまま、俯いて唇を噛んでいた。
 ――悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、くやしい、くやしい、くやしい……。
 誰にも聞き取れないほどの小さな声で、呪いの言葉をそっと呟く。
「……お前たちみんな、死んでしまえ――」


    *


 その日は休日であった。
 飯島和也は目を覚ますと、大きく伸びをしてから部屋のカーテンを開き、大きく窓を開けた。爽やかな風が心地よい。雲ひとつ無い上天気のようであった。
 空腹を覚えてキッチンに向かう。
 チーズを乗せたトーストをオーブンレンジに入れ、焼きあがるまでにインスタントコーヒーを作りながら魚肉ソーセージをかじった。
 このところまともな食事を採っていないことに、今更ながら気付く。奥田と高山、二人の元同級生の殺人事件を知って以来、神経が休まる時間が無かった。自分と関わりがある人間が同じ日に二人も、それも同一犯と思われる人物の手によって殺されているのだ。何も気にせず過ごせるほど、飯島は無神経な人物ではなかった。
 なんとか仕事を乗り切り、ようやく訪れた休日の日。今日は一日ゆっくりしたいところであったが、二つの殺人事件について調べたいという気持ちもあった。
 キッチンのテーブルに置かれた置時計に目をやる。
 午前八時三十分――。飯島はとっくに十時を過ぎていると思い込んでいたため、随分早く起きれたことに軽い驚きを覚えた。
 ――時間はたっぷりあるな。ひとまず午前中はゆっくりして、午後になったら加賀屋に電話を掛けてみよう。それと……牛丸や嶋崎はどうしているだろうか? 当然この事件のことは知っているだろうが、彼らはどう思っているんだろう? 彼ら二人にも連絡を取ってみるべきだろうか――。
 チーズトーストとコーヒーをたいらげた飯島は、洗面所で顔を洗ってから朝刊新聞を取りに玄関へと向かった。
 新聞受けに手を突っ込み、朝刊新聞を抜き取る。広告でパンパンに膨らんだ朝刊新聞を取り出すと、それと共に様々な郵便物が玄関に落ちた。――ダイレクトメール、公共料金の領収書、近所のスーパーの特売セールのチラシ――。
 それらに混じって、一枚の封書が落ちていた。
 なんの変哲もない、質素な茶封筒であった。表面に、何かで濡れたような小さな染みがあり、全体的に皺が寄っている。
 飯島はその封筒を拾いあげると、差出人を確かめるべく裏返してみた。がしかし、封筒の裏には何も記入されていない。宛先は確かに自分の名前――飯島和也様となっている。
「なんだこりゃ?」
 見るからに怪しげな封筒であった。宛名はまるで筆跡を隠すかのように、定規を当てて書いたようなギクシャクした字体であった。
 飯島の胸中に、なんとも言いがたい不安がよぎる。
 しばし逡巡した後、飯島は思い切って封筒の口を指で千切った。
 中に指を入れる。薄い便箋の感触が伝わってきた。飯島は封筒の中に折り込んで入っていた便箋を取り出すと、軽くひとつ深呼吸してから開いてみた。
「……なんだよ、これ……」
 便箋の中央にたった一行、宛名と同じく定規を当てて書いたような字体で、こう記されてあった。

 ――てるてる坊主を覚えているか?

 飯島は便箋を封筒とともに手でくしゃくしゃに丸めると、傍にあった屑篭に放り込んだ。
「ったく。わけのわからん悪戯をする奴がいるもんだ」
 そう独り言を呟きながら、着替えを済ませるために寝室へと戻った。
 ――せっかくの休日なのに、あんな意味不明な悪戯のせいで気分が悪くなってしまった。ただでさえ、最近精神的に参っているというのに……。
 そんな事を考えつつも、飯島の脳裏には先ほどの《てるてる坊主》という文字が引っ掛かっていた。
 ――てるてる坊主……てるてる坊主……てるてる坊主……?
 寝室に戻り、寝巻き代わりのトレーナーを脱いでベッドに放り投げた。何気なしにテレビを付ける。画面脇のスピーカーから、興奮したように早口でまくしたてるニュースレポーターらしき声が聞こえてきた。
                                                       (てるてる坊主)
「やれやれ、また殺人事件だって? 物騒な世の中になったもんだ……」
 洋服ダンスを開けかけた飯島の手が止まる。
                                                         (てる坊主)
「――な、なんだってッ?」
 飯島の目が、ブラウン管に映し出されている映像に釘付けになった。
                                                   (明日天気にしておくれ)
 どこか見覚えのある、懐かしさを覚える顔写真の下に《牛丸秀樹》の名前がハッキリと映し出されている。
                                               (それでも曇って泣いてたら……)
 飯島は目の前が真っ暗になり、頭の中がグルグルと回り始めるような感覚を覚えた。
                                            (……そなたの首をチョンと切るぞ――)
 ――そんな、馬鹿なこと……牛丸までも……殺されただって……?
 そのとき、ベッドサイドに置かれた携帯電話がけたたましく鳴りはじめた。



    5

 それは一瞬の出来事であった。
 少女の身体がふわりと空中に舞った。
 沈みゆく夕陽が、少女の小さく痩せ衰えた身体を真っ赤に彩る。
 少女の目に映る最後の風景。
 もう二度と、見ることの無い風景。
 真っ赤な夕陽。真っ赤な夕陽。
  
 凄まじい衝撃。少女は自分の骨が砕ける音を確かに聞いた。
 意識が遠くなる。すべてが落ちていく。
 落ちていく、落ちていく、落ちていく――だが……。
 少女の全身の機能がすべて停止する直前、はっきりとした言葉がその口をついて出た。
「お前たちみんな、殺してやる――」


    *


 飯島の目は、依然としてブラウン管に釘付けになったままであった。目の前で映し出されている映像に思考がついていかない。身体はその場に凍りついてしまったかのように、身動きひとつ出来なかった。ただただ額から、そして背中から吹き出た冷たい汗が、その肌を伝い落ちていく。
 ――一体、何が、何が起こっているんだ……?
 まるで虫の羽音のような、酷く耳障りなノイズが聞こえてくる。虫の羽音――飯島はようやく、それが自身の携帯電話の着信音であることに気付いた。気付いた途端、身体が反射的にギョクンと跳ね上がった。普段は聞きなれた携帯電話の着信音。日常生活の中で当たり前のように聞いていた馴染みの着信音が、このときの飯島には魔界から響いてくる禍々しい呪文のように聞こえた。
 操り人形のようなぎこちなさでベッドサイドに歩み寄り、恐る恐る手を伸ばす。手のひらにじっとりと浮かんだ汗が熱を帯びる。
 携帯電話に指先が触れた瞬間、着信音が鳴り止んだ。そして、留守番電話サービスの機械的なアナウンスが流れ始める。飯島はそのままの姿勢でまんじりともせず、携帯電話を凝視していた。
 「ピー」と言う甲高い発信音の後に、沈んだ調子の男の声が聞こえてきた。飯島はしゃがみ込み、血走った目をせわしなく動かしながら耳を澄ます。
「……もしもし。俺、嶋崎だけど。……また後で電話します――」
 飯島はハっと我に返り、携帯電話を鷲掴みにすると慌てて通話ボタンを押した。嶋崎が留守番電話に伝言を入れ終え、通話を切ろうとするギリギリのところであった。
「も、もしもしッ? 嶋崎か?」
「――あ、飯島、居たのか」
「ああ、すまない。危うく取り損ねるところだった」
「……なぁ、飯島……もう、用件はわかってると思うけど」
「あ、ああ……」
 しばらく二人の間に、重い沈黙が流れる。どちらかが先に口を開くのを待っているかのように、お互いじっと押し黙っていた。手のひらにすっぽり収まるほどの小さな携帯電話が、ひどく重い物体のように感られる。
 やがて痺れを切らしたかのように、いや、沈黙に耐え切れなくなったとでもいうように、嶋崎がおずおずと口を開いた。
「牛丸が、殺されたというニュースは見たか?」
「ああ。いま、テレビを見て知ったばかりだ」
「なぁ飯島。実は俺、昨日牛丸に電話で話をしたばかりなんだよ」
「話?」
「ああ。……奥田と、高山が殺された事件の話を」
「…………」
 嶋崎の声は、徐々に低くなり震えを帯びてきていた。飯島が何もこたえられずに黙っていると、
「なぁ、飯島ッ。この事件は一体何なんだ? 何で俺たちが昔つるんでた仲間が、こんな短期間のあいだに次々と殺されているんだッ? 飯島ッ、お前は大丈夫なのか? 俺は、俺は、大丈夫なのかッ? 俺たちも、殺人鬼に狙われているんじゃないのかッ?」
 急に取り乱したような涙声でうったえ始めた。
 飯島自身も頭の中が混乱していた。そんな状態で、嶋崎の問いにこたられるはずがない。
 飯島の沈黙はつづく。しばらく嗚咽を洩らしていた嶋崎が、真剣な声で語り始める。
「い、飯島……俺たちは、俺たち五人は、誰かに狙われているのか? 誰かに怨みをもたれているのか?」
「怨み? 怨み……あッ」

  てるてる坊主
  てる坊主
  明日天気にしておくれ

  それでも曇って泣いてたら
  そなたの首をチョンと切るぞ――

 飯島の脳裏に、先ほど屑篭に放り込んだあの謎の封書が浮かび上がってきた。筆跡を誤魔化すために、まるで定規を当てて書かれたようなあの禍々しい一文が。
「お、おい、飯島? どうかしたのか?」
「……なぁ、嶋崎。てるてる坊主を、覚えているか……?」
「え? なんだって?」
「中学の時に、俺らが《てるてる坊主》って呼んでからかってた女の子がいただろう?」
 飯島の声は、自分でもはっきりわかるほどに震えていた。携帯電話越しに、嶋崎の呟く声が聞こえてくる。
「……てるてる坊主? てるてる坊主、てるてる坊主、てるてる……あッ!」
「思い出したか?」
「お、思い出したよ。でも、でも、そんなッ! あいつのはずが無いじゃないかッ! だってあいつは――」
 嶋崎のつづきを飯島が引き取った。
「ああ、十三年前に死んでいる――自殺したんだ」
 またもや暗く重い沈黙が降りてきて、二人を支配する。飯島は眩暈を覚えていた。おそらく嶋崎も同様であろう。――奥田啓介、高山真二、牛丸秀樹、嶋崎誠、飯島和也――小学校、中学校時代を共に過ごし、最も相性の良かった五人組である。そして、そのかつての五人組に対して強い怨みを抱くであろう人物と言えば、ただ一人の名前しか思い浮かばない。しかし、その人物は十三年も前に死んでいるのだ。
 嶋崎が疲れきったような声で喘ぐ。
「ありえねぇ。ありえねぇよ。まさか飯島、あいつの幽霊の仕業だなんて言いだすんじゃあるまいな? 仮に幽霊だとしたって、何で今更なんだ? あいつが死んだのは、もう十三年も前の話だぜ」
 嶋崎の言うことは最もであった。飯島自身も頭では分かりきっている。が、しかし――それを打ち消そうとすればするほど、あのか弱い少女の青白い顔が浮かんでくる。

  てるてる坊主
  てる坊主
  明日天気にしておくれ

  それでも曇って泣いてたら
  そなたの首をチョンと切るぞ――

 飯島は思わず戦慄した。その背筋を冷たい何かが駆け抜ける。沈黙する飯島の静寂を破り、嶋崎がまるで怯えるような声で語り掛けてきた。
「まさか、飯島。本気であいつの――赤星静香の幽霊の仕業だなんて考えてるのか?」
「……いや。しかし、俺の家におかしな封書が届いた」
「おかしな封書?」
「ああ」
 そうこたえて飯島は、今朝新聞受けで見つけた例の謎の封書について、嶋崎に語って聞かせた。嶋崎はそれを黙って聞いていたが、やがて急に声を荒げた。
「そ、そんなもの、ただの悪戯だろッ!」
「俺だってそう思いたい。だけど、悪戯にしたって誰が一体こんな真似をする?」
「そ、それは……」
 飯島の脳裏に閃くものがあった。
「もし、赤星静香に近しい人間が、彼女に代わって復讐をはじめたとしたら……」
「赤星静香に近しい人間って?」
 嶋崎の喉がごくりと鳴った。じりじりちした焦りにも似た感情が、携帯電話越しに飯島にも伝わってくる。飯島は口を開いた。
「そこまではわからない。もしかしたら、赤星静香の家族の誰かとか……。確かあいつは一人っ子だったと思ったが……いや、俺にはやっぱりわからないよ。信じてくれるかどうかはわからないが、警察に話してみた方がいいかもしれないな。俺の知り合いに加賀屋っていう刑事がいる。偶然にも奥田の事件を担当している男だ。そいつに話せば……おい、嶋崎、聞いてるのか?」
 嶋崎の低く、それでいてはっきりとした声がかえってきた。
「俺、これから調べてみるよ」
「調べる? 何をだ?」
「とりあえず、赤星静香が以前住んでいた家の付近に行ってみる。もしかしたら、まだあいつの両親はそこに住んでいるかもしれない。そこから、何かわかるかも」
 飯島は狼狽した。慌てて携帯電話を握りなおすと、
「おいッ。そんな危険な真似はやめておけ! 俺たちが動いたってどうしようもない。ヘタに動けば、それこそ犯人の思うつぼだぞッ。ここは警察に任せるべきだ」
 早口でそうまくし立てた。
「飯島、確かにお前の言うとおりかもしれない。でも俺は、俺は、じっとなんかしていられないんだッ。一人でじっとしていたら、見えない殺人者への恐怖で気が狂ってしまいそうなんだよッ」
「だ、だったら、俺も一緒にッ。……おい、嶋崎? 島崎ッ」
 すでに通話は切れていた。飯島は沈黙する携帯電話を見つめながら、しばしその場に呆然と立ち尽くしていた。
 ――これからどうすればいい? どうすれば……。


    *


 少女の鮮血で真っ赤に染まったコンクリート。
 駆けつけた教師たちが、口々に声を飛ばしている。一人の教師が慌てて救急車を呼んだが、既に手の施しようが無いことは誰が見ても明らかであった。
 沈みゆく夕陽。真っ赤な鮮血。
 何人かの教師が、騒ぎを聞きつけて集まってきた生徒たちの立ち入りを制している。口々に囁きあう生徒たち。
 ――うわぁ、はじめてナマで人間の死体を見たよ。
 ――うへぇ、マジで気持ちわりぃ。
 ――やっぱり、いつかは自殺するんじゃないかと思ってたわ。
 ――赤星もさぁ、何も学校の屋上から飛び降りることないじゃんねぇ? 
 ――それにしても見てよ……あの顔……目を大きく見開いて……。
 ――キャーッ! 気持ち悪いッ!
 野次馬と化した他の生徒たちに混じって、五人の少年たちがそれぞれにお互いの顔を見交わしていた。奥田啓介、高山真二、牛丸秀樹、嶋崎誠、飯島和也の五人の少年たちが――。


    *


 殺人者は、興奮に打ち震えながら新聞に目を通していた。
 昨晩手に掛けた牛丸秀樹殺害の記事が、堂々と紙面を覆っている。周知のことながら、警察は高山真二、奥田啓介に続く連続殺人事件であるとの見解を発表していた。殺人者の口元に歪んだ笑みが広がる。これで更に被害者が二人増えたら――そのときにデカデカと踊るであろう新聞記事を思い浮かべ、殺人者は高らかに哄笑した。
 ひとしきり笑い転げた後、ピタリと口をつぐむ。そして、まるで先ほどまでとは別人のような憎悪剥き出しの表情をみせると、新聞紙に唾を吐きかけながらこう言った。
「それにしても気に入らないッ! なんであんなに肝心な事を発表してくれないのよッ」
 新聞紙を丸めて部屋の奥に放り投げると、苛々と神経質な足取りで室内をグルグル歩き回り始めた。
「ワザと発表しないのね? そうなのねッ! 畜生ッ」
 大声を張り上げた途端、隣の部屋の住人が壁をドシンと叩いた。その行為が、殺人者の怒りに更なる油を注ぐ。
「うるせえぞッ! この馬鹿野郎がッ」
 殺人者は隣室に接する壁に向かって、力いっぱいの脚蹴りを入れた。ズシンと重い音が響き、辺りに埃が舞う。
「馬鹿野郎ッ! 馬鹿野郎ッ! 馬鹿野郎ッ!」
 自分の暴力行為が、更に自身の興奮をエスカレートさせていく。殺人者は全身汗まみれになりながら何度も壁に脚蹴りを入れ、そして体当たりを繰り出した。殺人者自身の踵から流れ出た血が、壁に赤い斑点をつくっている。隣室から、「あんた狂ってるよッ」という悲鳴に近い大声が響いてきた。
 ひとしきり暴れまくった殺人者は、肩で呼吸をしながらどっかと畳の上に座り込んだ。
「あー、スッキリした。……しかし隣の馬鹿男、『あんた狂ってるよ』だって? フンッ、小生意気なこと言ってんじゃねえよ! この復讐が終わったら、残る二人を血祭りにあげたら、あの馬鹿男にも厳しい制裁を加えてやらなきゃならないわね」
 殺人者はすっくと立ち上がり、両手で高々とVサインをつくりながら嬌声をあげた。
「あっとふったりッ。あっとふったりッ。あっとふったりッ」


    *


 赤星君江は、強く強く目を瞑った。
 そして、心の中で最愛の娘の名前を何度も何度も呟く。
「ああ――静香ちゃん、静香ちゃん、静香ちゃん、静香ちゃん、静香ちゃん、静香ちゃん――」



    6

 嶋崎誠は、車を西へ走らせていた。
 カーステレオから流れる陽気なビッグバンド・ジャズのスウィングとは裏腹に、嶋崎の神経はピリピリと張り詰め、触れたら感電してしまいそうなほどに緊迫した空気を放っていた。ハンドルを握る手は、生ぬるい汗でぐっしょりと濡れている。様々な不吉な予感が嶋崎の脳裏をよぎる。前方にばかり気を取られていたため、横道から合流してきたバイクの姿に気付かず、接触しそうになり慌ててハンドルを右に切った。額からどっと汗が噴出す。嶋崎は大きく深呼吸すると、ホルダに立ててあった缶コーヒーを掴み上げ、温くなった残りを一息に飲み干した。口の中に粘り気のある甘さが広がる。
 甲州街道から脇道に入ると、途端に車の数が少なくなった。あと三十分もかからないうちにあの街へと辿り着く。嶋崎が高校生までを過ごした街。今も実家で、彼の両親と妹とが住んでいる街。そして、赤星静香の一家が住んでいた街――。
 街が近づくにつれ、嶋崎は何とも言い表せない不安な気持ちに襲われた。
 何故自分はこの街に来てしまったんだろう? この街に来たからといって、何か自分に解ることがあるのだろうか? ――いや、今回の一連の殺人事件の裏には十三年前の、あの赤星静香の死が関わっているはずだ。赤星静香の実家に行けば、たとえ門を潜らなくとも何かが解るかもしれない。別に今回の事件とあの一家に何の関わりがなかったとしても、それはそれで気持ちの中にひとつの整理がつく。
 嶋崎が疲労した頭で様々な思いをめぐらせているうちに、徐々に懐かしい風景が目の前に広がってきた。久しぶりに訪れたこの街であったが、以前に来たときと何も変化は無かった。以前から建っているスーパーマーケット、中学時代に飯島たちと立ち寄ったラーメン屋、いつ見てもほとんど客の姿のない理髪店……。
 嶋崎はハンドルを繰って街の中心部へと向かう。一度、実家に寄って家族に顔を見せようかとも思ったが、そのままずるずると時間を過ごしてしまいそうに思えてやめた。心の中で、あまり無駄に時間を過ごしてはいけないような気がしていた。
 街の中心部に差し掛かったところで、かつて自分たちが通っていた中学校の校舎が見えてきた。以前であれば、懐かしい感情が湧きあがってくるところなのであろうが、今の嶋崎には灰色にくすんだその校舎が、何故かしら忌まわしい建物のように思えてならなかった。
 思わず屋上に視線を向ける。視界の先に映ったものを認めて、嶋崎の全身が一瞬で凍り付いてしまった。
「――あッ、赤星ッ!」
 急ブレーキを踏んだ。シートベルトが食い込み、上半身が締め付けられる。後輪を滑らせながら車は停まり、嶋崎の身体はシートの上で大きくバウンドした。
「はぁはぁはぁはぁ……」
 嶋崎はしばらくハンドルに額を押し付け、荒い呼吸を繰り返していた。微かに震える指で胸ポケットからハンカチを取り出し、ごしごしと顔を擦る。車のサイドウィンドウ越しに、不思議そうに自分を見ている子供たちの姿があった。
 乱れた呼吸がおさまり、少しずつ落ち着きを取り戻す。嶋崎はゆっくりとシートベルトを外し、運転席のドアを開けてよろよろと外に出た。髪が乱れ、目が真っ赤に血走っている。車の傍にいた子供たちは、逃げるように立ち去っていった。
 嶋崎はゆっくりと視線を上げ、灰色の校舎の壁を見上げていく。そして数秒後、その視線が屋上を捉えた。
「……錯覚、か……」
 一気に全身の力が抜けたようだった。嶋崎はもう一度校舎の屋上を見据えた後、急ぎ足で車に戻った。北風がだいぶ強くなってきている。
 車内に戻った嶋崎は、ダッシュボードから封を切っていないセブンスターと百円ライターを取り出した。禁煙を始めて一ヶ月が経った嶋崎であったが、無性に煙草が吸いたい気分であった。
 紫煙をくゆらせながら、ゆっくりと首を左右に動かす。
 どうやらかなり神経質になりすぎているようだ。さっき屋上に見えた人影――まるで『あの日』の赤星静香そのものに見えた人影も、疲れとストレスからくる幻覚だったのであろう――。
 煙草を一本吸い終わった嶋崎は、だいぶ落ち着きを取り戻していた。ここから少し西に向かい、赤星家を目指す。車でなら十分と掛からない距離であろう。学生時代にはたった一度だけ、赤星静香の葬儀の際にクラス全員で行ったことがある。こじんまりとした古い二階建ての家だったとしか記憶が無いが、すぐ近くに郵便局があったはずであった。
 目印となる郵便局にはすぐ着いた。
 嶋崎は人気の少ない通路脇に車を停めると、フロントガラス越しに周囲の様子を窺った。特になんの特徴もない、ひっそりとした住宅地といった印象しか浮かんでこない。嶋崎はドアを開けて外に降り立つと、ゆっくりとした足取りで赤星家と思しき二階家へ向かった。

  てるてる坊主
  てる坊主
  明日天気にしておくれ

  それでも曇って泣いてたら
  そなたの首をチョンと切るぞ――

 ふと、誰かの鋭い視線を背後に感じ、嶋崎はぎょくんと振り返った。しかし、そこには誰の姿も見受けられなかった。遠くから子供たちに帰宅を促す、《夕焼け小焼け》のメロディーが北風に乗って流れてくる。
「――ふぅ……」
 大きく息をついてから、嶋崎は一歩を踏み出した。その途端、ジーンズのヒップポケットに入れてあった携帯電話のバイブレーターが作動し、慌てて取り出した。
 モニターに表示されていたのは、飯島和也の携帯番号であった。嶋崎は急いで通話ボタンを押し、声を掛ける。
「もしもし、飯島か?」
「ああ、嶋崎。今ちょっと話せるか? ひとつ分かったことがあってな。……ところでお前、今どこだ?」
「実は……赤星の実家のすぐ近くに来ている」
「やっぱりそうか……嶋崎、赤星の両親はもうそこに住んでいないよ」
 大きなため息と共に、飯島が呟いた。嶋崎が問い返す。
「え、本当か? どうしてお前がそれを」
「お前から電話があった後、俺の知り合いの加賀屋という刑事に連絡して調べてもらった。加賀屋は信頼できる男だ。俺たちの中学時代の話を聞かせて、この一連の殺人事件に赤星家が関係しているかもしれないと話したら、すぐに調べてくれたよ」
 嶋崎の全身から、張り詰めた緊迫感が急激に萎んでいった。北風に当たっていた全身が、思い出したように寒さを感じ始める。
「おい、嶋崎。聞いてるか?」
「あ、ああ。それで、赤星の両親はいつここを引き払ったんだ?」
「詳しい日付まではわからなかったが、あの――赤星静香の件があってから、半年も経たないうちに引っ越していったらしい」
「そうか……全然、知らなかったな」
 赤星静香の死後、校内はその話題で持ちきりであったが、飯島や嶋崎たち五人はあえてその話題に触れようとはしなかった。赤星家にも葬儀でこっそりと焼香に訪れたものの、それ以来近寄ったことも無い。彼らの内に沸きあがってくる罪悪感、それを少しでも紛らわすために、五人のあいだで赤星静香に関する話題はタブーとなった。やがて時間が経ち、彼ら五人とも中学校を卒業して、以来この件に関する意識は徐々に褪せていったのである。
 嶋崎が口を開いた。
「それで、赤星の両親はいまどこに住んでいるんだ?」
「それはいま、加賀屋に継続して調べてもらっている。何かわかったら、すぐお前にも連絡するよ――」
 二人はぎこちない挨拶を交わして通話を切った。
 北風がいっそう強くなってきている。嶋崎は大きくひとつ身震いすると、冷え切った両手を擦り合わせながら車に戻っていった。


    *


 赤星君江は最愛の娘を失って以来、まるで魂の抜け殻のように虚ろな日々をかろうじて生きていた。
 そんな彼女を夫である義彦は出来うる限り支えたが、それでも君江の喪失感は日を増すごとに拡大し、毎日床で臥せっているような状態が続いた。
 薄暗い六畳の一間に床をのべ、毎日朝から晩まで泣き暮らす日々。心配した義彦は、ついに妻を心療内科のカウンセリングに連れて行った。しばらくは何の変化も見られない君江の状態であったが、通院から一ヶ月半ばかり経った頃から、ようやくわずかながら落ち着きを取り戻すようになってきた。いや、落ち着きを取り戻したというよりも、もはや流す涙も枯れ果ててしまったというところであろう。
 仕事の無い日、義彦はなるべく君江を家の外に連れ出すようにした。そして少しずつ、娘のいない現実を受け止めさせるように努めた。
 やがて義彦は、一大決心をする。
 娘の思い出の多く残るこの家、この街を出て、新たな土地での生活をはじめる決心をしたのだった。

 義彦の決断は、一見正しかったように思われた。
 口数こそ娘の生前に比べたら極端に少ないが、君江は一日中床に臥せっているということは無くなった。朝夕の食事も、簡単ではあるが作る。一人で外に出歩くことも多くなった。しかしその双眸はすっかり光を失い、その視線は常に虚空を彷徨っていた。君江は一人で出歩きながら、必死でひとつのことを考えつづけていた。
 ――この寂しさから、この虚しさから、この苦しみから、誰か救ってください……。
 いつものようにあてもなく外を出歩いていた君江は、気が付けば満員電車に揺られていた。通勤途中のサラリーマンや学生たちに背中を押される。渋谷駅に到着した電車は、一気に大量の人々を吐き出した。降車客たちの流れに飲み込まれて、君江もホームに押し出されていた。
 君江はなんのあても無く、まるで幽霊のようにふらふらと生気の無い顔で渋谷の駅周辺を歩き回った。信じられないほど多くの人々が行き交っている。会社や学校に急ぐ人々の姿もあれば、平日の朝だというのにどう見ても遊び歩いているような連中の姿も見える。
 多くの顔が行き交う中で、君江の視線がある一点を捉えた。
 その目がみるみる大きく見開かれ、身体中がカッカと熱くなってくる。開いたままだった口から、思わずうめくような声が洩れた。
「あ、あ、あ――し、静香、ちゃん……?」
 君江の視線の先にいたのは、地味な服装に身を包んだ一人の少女であった。飾り気の無い白いブラウスとベージュの長いスカート、その上からフード付きの大きな白いコートを羽織っていた。顔にもまったく化粧気が無く、北風の寒さに頬を赤く染めている。
 君江がその少女の姿を見つめていたのは、ほんの数秒のことであったろう。やがて寂しげにその視線を足元に落とし、しばし路面を見つめた。当然のことながら、その少女が亡き娘の静香であるはずがなかった。確かに顔立ちや雰囲気が娘に近いものがあったが、よくよく見れば静香よりもずっと年上のようである。そして、静香よりも全体的にふっくらと健康的な女性であった。
 大きくひとつため息をつき、踵を返そうとしたときである。
 背後からとても静かに、そしてとても穏やかな声を掛けられた。思わず振り返ると、なんと先ほどまで君江が見つめていた女性が、にこやかな微笑みをたたえながらそこに立っている。
 君江が呆然と立ち尽くしていると、娘に似た女性がゆっくりと優しい声音でこう言った。
「あなたの幸福のために、私にお祈りをさせていただけませんか?」
「……え?」
「あなたはとても深く、大きな悲しみを背負っていらっしゃるようです。私には、それがはっきりと見えます。あなたのその苦悩を癒すために、ぜひ私にお祈りをさせてください――」

 その女性は、新興宗教団体《新明幸福の音》の勧誘員であった。
 この女性と君江との出会いが、そして赤星夫妻のこの教団への入信が、十数年の後に世間を震撼させる連続殺人鬼を生み出すこととなる。


    *


 嶋崎誠は、車を飛ばして家路を急いでいた。
 少しだけ喉が痛く、がらがらする。頭もぼんやりと重かった。どうやら風邪をひいてしまったらしい。家に帰ったら風邪薬を飲んで、早めに寝なくては――などと考えつつハンヅルを繰っているうちに、猛烈な空腹感を覚えた。そう言えば、朝からろくに食事を採っていない。嶋崎は甲州街道沿いにファミリーレストランを見つけると、駐車場に車を乗り入れた。
 イタリアンハンバーグのセットを頼み、黙々と口に運ぶ。コーヒーをおかわりして飲み干すと、いくらか風邪の症状が軽くなったような気がした。
 慌しく会計を済ませ、夜風を避けるようにして車に乗り込むと、何故だか得体の知れない悪寒に背筋が強張った。何かがおかしい気がする。漠然とだが、車内の空気が先ほどまでと違っているような気がした。

  てるてる坊主
  てる坊主
  明日天気にしておくれ

  それでも曇って泣いてたら
  そなたの首をチョンと切るぞ――

 ハっと頭に閃く。先ほど店に入る前に、車のドアをロックし忘れていたのではないか――!
 嶋崎は慌てて後部座席を振り返った。その途端、口と鼻とに大きなガーゼのような物が覆い被される。そして、それを押さえつける強大な力。嶋崎の全身を、今まで味わったことが無いほどの恐怖心が駆け巡った。
 大きく両手をばたつかせて必死に逃れようとするのだが、徐々に全身が重くなり、意識が遠のいていく。嶋崎は最後の力を振り絞り、襲撃者の顔を見極めようとした。ぼんやりとした視界の中に、黒いレインコートのようなビニール製の衣服を纏った人物の姿が映る。頭からすっぽりとフードを被っているため、その顔は判然としなかったが、ギラギラと燃えるように血走った二つの目が無気味に光っている。
 嶋崎の意識はいまや、深い闇の中へ落ちていこうとしていた。そして、完全に闇に飲み込まれる寸前に襲撃者が耳元で囁いた。
「てるてる坊主を覚えているか……?」


    *


 四方を闇に囲まれた広いガレージの中、一本の蝋燭の灯りだけがゆらゆらと揺れている。
 殺人者は、既に絶命した嶋崎誠の首筋に鋭い肉切り包丁の切っ先をあてがった。スーっと刃先を滑らせる。まだ絶命して間もないせいか、綺麗な一文字の筋から真っ赤な液体がじわりと溢れ出てきた。殺人者は、死体の首筋にあてた刃物を垂直に立てると、全身の力を込めて突き刺した。
 吹き出す血潮を全身に浴びながら、殺人者は復讐の喜びに歓喜の雄叫びをあげる。
 そして死体の首から刃物を引き抜くと、穿たれた傷穴に人差し指と中指を突っ込み、めったやたらに掻き回しはじめた。

 ぐしゃ、ぐしゅ、ぐちゃ、ぐしゃ、ぐにゅ、ぐしゅ、ぐちゃ、ぐちょ、ぐしゅ――。

 ひとしきり傷穴をいじくり回した後、殺人者は本格的に首の切断に取り掛かった。瞳を爛々と輝かせながら用意した鋸を死体の首に据え、力強く前後に引く。その作業を繰り返している間中、殺人者は恍惚の表情を浮かべ続けていた。
 ようやく首の切断が終わると、殺人者はいつものように真っ白なガーゼで作った照る照る坊主を取り出した。そして生首となった嶋崎誠の口を抉じ開け、その照る照る坊主を丸めて口中に詰め込む。
 すべての作業を終え、殺人者はすっくと立ち上がった。興奮のためか、全身が小刻みに震えて波打っている。
 殺人者は、血糊と脂肪とでべっとり汚れた肉切り包丁を拾い上げると、自分自身に言い聞かせるようにこう呟いた。
「あと、あとは一人。残るはあの飯島和也だけだ――」



 
   <続く>

2005/12/02(Fri)17:24:17 公開 / 時貞
■この作品の著作権は時貞さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お読みくださりまして誠にありがとうございました。

12/2
ようやく6話目を更新することが出来ました。気が付けばもう12月。今月はなにかと忙しく、こちらに来れる頻度もカクンと落ちてしまうかもしれません(泣)かも・・・ですが。なにしろ寂しがり屋なものでして(笑)ひじょーに遅い更新ではありますが、頑張ってなんとか完結させたいと思っておりますので気長にお付き合い願えたら幸いです。

どんな内容でも構いませんので、皆様からのご意見を心よりお待ち申し上げます。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。