『椋原さん、おめでとう』 ... ジャンル:リアル・現代 お笑い
作者:トニー
あらすじ・作品紹介
椋原という中年男性の,昼休み、一時間(正確には、+十分ですが)の間に、起きた出来事を小説にしてみました。
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十二時になるまで、あと五分である。時計の針は、もう少しで十二時というところで、急に失速する。こつこつと秒を刻む、あのしたたかなスピード。朝,起きたときに、まだ五分間、布団から起き上がるまでの、あのせわしない時間感覚は、ここでは逆にもどかしいものに変じて、永久に訪れない拷問に感じられた。
十二時になったら,即座に会社から脱出できるように、仕事は完璧に一段落させてある。あとは時間を待つばかりなのだ。
時間よ,進め。本気で進めと思う。
そうすると,椋原慎吾の思いが通じたのか、きっかり五分後に,十二時になったのである。こうやって書くと、そのままな気もするが、椋原は多少,時間の経過を早く感じることができたのであった。
会社のエレベーターを一番乗りで、使用して、三十二階から、一階まで急降下する。三方がガラスの壁になっていて,豆粒のような景色がどんどん巨大化して、最後には下に着くのであった。ビルから出ると,一直線に喫茶店『ブラジル』へと向かうのが、いつもの椋原のパターンなのだけれども、今日は、ビルの手前のデパートにて、風船を売っているおじさんの前で足を止める。ジーンズのつなぎをきて、少し太鼓腹で、目が細い初老の男だった。これが,パパにそっくりだったのである。パパのお手製のルイジアナ産ポテトをふんだんに使ったポテトチップスを思い出しつつも,暑いので一分で切り上げて、大通りへと歩み去る。
『ブラジル』へは、人込みが激しい大通りの、商店街のレコード屋の隣に小道があるので、そこを真っ直ぐ行くと辿り着ける。夏だったから、日差しが強烈で、冷房がとても良く効いた社内から、外に出て五分もたっていないのに、汗だくになっていた。それでも、店内に入ればまた冷房だ。
ざまあみやがれ!お天道様よ。と椋原は、心の中でそんなことをつぶやくと,ニヤリと笑っていつもの席に着く。店の壁にかかっているローマ数字の時計を見ると、十二時五分であった。昼休みが終わるまで、あと五十五分あった。
椋原は、さっそくお冷を飲むと、いつもの棚から雑誌を手に取る。週間『新調』であった。そして、茶色い髪の鼻が低いウエイトレスが、機械的にきいてくるので、いつものスパゲティ−ナポリタンと、コーヒーのブラックを頼むのであった。そして、雑誌に目を通す。周囲の人間には目もくれない。この優雅な一時間が、おやじな椋原にとっての一日の中での、もっとも幸せなひとときであった。
雑誌には、いつもの世間の変動がいつもの調子で載っていた。いつもの論客がいつもの調子でコラムを書いていた。その時代劇にも通じるような恒久的な『いつも』の感覚にゆったりと身をまかせて、椋原は、故郷にいる、マミーを思った。
椋原の故郷はルイジアナ州のカントラという小さな町であった。実は,日系人だったのである。それが、日本に渡って、十年間、サラリーマンをしているのだから、これは普通のサラリーマンよりも,何倍もしんどいのではなかろうか、とひとりで思い込んでいた。
仕事は,何をしているのか、というと、証券会社の事務であった。その証券会社は、実はさる外資系の証券会社にも密接なつながりがあり、そのコネで,彼は会社員になっているのである。ただ、そのコネが非常に個人的な独特なものであったから、彼は閑職をまかされている、というか押し付けられていた。が,別に,彼にはそれほどの覇気もなかったから,逆に、この毎日の変らない事務処理を楽しんでいた、とまではいかないが,少なくともこらえていた、ということもなかった。
だが、そんなことよりもマミーである。マミーは、フィリピン人だった。珍しいことに、アメリカでフリィピン人と,日系人が結婚してできたのが、椋原慎吾なのであった。そのために、白人らしさがまったくない。むしろ,そこらへんの日本人よりも日本人らしい南方系の風貌であった。マミーは、たまに故郷に帰るといつも魚料理で、慎吾を歓待した。慎吾は子供のころから食べている魚料理に感激して、タッパに入れて、帰りにも食べるくらいの気に入りようであった。味付けが,独特なのである。名前は忘れたが,フィリピンにしかない香辛料を、家で代々作っていたのである。マミーは,手紙魔で、よく慎吾に手紙を送ってくる。大体が,英文であった。慎吾は、日本語で囲まれて暮らしていたので、この手書きの英文に懐かしさと新鮮さを同時に感じていた。内容は、どこにでもあるような普通の手紙で、日常生活の平凡な叙述であった。
あと,一ヶ月もすれば、有給を取って、またルイジアナに行ける。椋原は、そう思うと嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。自分はマザコンなのかもしれない。けれども,あの家には,日本のアパートにはない人間的な優しさがあるのだった。十年,日本にいたが、椋原は結局、本当に気の許せる友達が一人もできないまま、会社勤めを続けていたのである。
マミーは、慎吾の愚痴をよくきいてくれた。が、慎吾が会社をやめることには大反対であった。というのも、四人兄弟で,一番まともな職業についているのが、この慎吾だったからである。他の三人の兄弟については詳しい説明はさけるが、ようはマミーが
「アイツラ,ロクデモナイヨッ!!」
と二人でしか通じない日本語で、歎くほどであった、ということだけはつけくわえておこう。
「あら、椋原さんじゃない」
六十歳くらいの少し太った、それでも肌が白く、魅力的ではなくもない御婦人が、話しかけてくる。ここの常連客の,菊水和美であった。彼女は,インテリアデザイナーである。どうやら,彼女曰く、インテリアデザイナーのはしりは彼女だったらしい。ダテに歳をとるものじゃないわね,ウキャッキャッキャッ!と笑うのが口癖みたいになっている愉快なお婆さんであった。
「おう、どもです」
「元気していた?」
「はい」
「そう,それは良かった」
「あのう」
「何」
「咲子さんはどうしていますか?」
和美は、淡い茶色のサングラスをしていたので,目の動きはわからなかったが、さぞや睨みつけているのであろう。頬の皺の動きで、淡い警戒心を生じさせたのだ、ということがわかる。
「あの娘は,あの娘よ」
「へっ?何ですか」
「だから,あの娘は、あの娘。別に元気よ」
「そうですか」
椋原は、この店の常連客の一人でもある咲子に淡い恋心を抱いていた。
咲子は、三十歳になろうかというほどの地味な女性で、JRの窓口の受け付け係をしていた。
椋原は一回,職場に行ったことがある。
咲子は、人形のようにちょこんと座っていた。
小柄だったから、本当に日本人形のようであった。
咲子の地味なところと,ユーモアの精神があるところが好きであった。
この前も、喫茶店で話していたとき、大リーグのイチローの話になって、イチローのバットがアメリカでは,マジックステッキといわれていると、日本の新聞で得た知識を披露したら,彼女は、
「そう。
それなら、今度は魔女を大リーガーにすればいいのにね」
という冗談で切り返してきたのであった。
なかなか,ウイットがあるなあ、と感心したものである。
デートにも二三回行って、お互いに楽しい思いをしたのであるが、ここ二週間くらい連絡がとれなかったので,本当をいうと気にかかっていた。
だが、週に三回くらい、和美に会うのであるが、かたくなに和美は娘のことを言わないのであった。
「あの、和美さん」
「はい」
「いいかげん,教えてくださいよ」
「何が」
「咲子さんですよ」
「別に、普通よ」
「だってですね、連絡が取れないんですよ」
「そりゃあ,椋原さんが嫌われるようなことしたんでしょう」
「そうかな」
そういわれると自信がない。アメリカ人だから、たまに顰蹙を買うようなことをしてしまうこともある。十年住んでも、そういうことがたまにあった。だから友人を作れないのだ。とも考えられた。
「じゃあ、また友達が減っちゃったかな」
「そうね。
もう,その話はやめにしましょう」
十二時二十分になって、スパゲティーが運ばれてくる。
スパゲティーを口に運びながら、椋原は聞こえよがしにつぶやいた。
「日本でたった一人の友達だったのになあ」
しかし、和美は無視している。
無視して、女性週刊誌を読んでいた。
「僕、友達いないのになあ」
とさらにつぶやく。
それでも態度は変らない。
「せめて、どうして会ってくれないのか,教えてくれてもいいのになあ」
とまたつぶやいた。
和美は,黙って立ち上がる。
椋原が、声をかけようとすると、スタスタと会計のところまで歩いてゆき,会計をすませて去っていった。
「ありがとうございました〜」
さっきの茶髪のウェイトレスがお辞儀をする。
自動ドアから出るときに、和美からにらみつけられたような気がした。
「あの人,何怒っているんだろう」
と椋原がつぶやくと、店が暇だということもあってか、ウエイトレスの一人、四十歳くらいの愛想のいい、二木伸江が近づいてきた。
「ダメですよ。娘さんのことを言っちゃあ」
「えっ,何で」
「あのね、咲子さん、家出したんだってよ」
「本当に」
「そう」
「あの歳で反抗期ってことかい」
「わからないの。それが。
駆け落ちじゃないか,って話よ」
「駆け落ちかよっ」
口調が吐き捨てるようになってしまった。
「あれ、あなた狙っていたの」
「まあね」
「それじゃあ、おあいにくさま、ってことね」
「もう,俺って、女っけがないなあ」
と椋原は、伸びをする。
時計を見ると、十二時四十分である。
「じゃあ、私が相手したげよっか」
と二木さんが、いってきたのだ。
「えっ」
椋原は、二木伸江を頭のてっぺんから、つまさきまでしげしげ見る。
そもそも椋原は、日本では女にはもてないし、ここのところ、飢えていたといえば飢えていたから、二木の容貌がたとえ悪くとも関係がなかったが、二木は結構,綺麗な部類に入っていた。ただ,体が枯れ木のように細っていたが、それも華奢で美しい解釈することもできるはずだ。
「合格〜」
「失礼ね、人を試験しないでよ」
「ああ、ごめん。
いいよ。一緒に,今夜、あたり御飯でも食べようか」
「じゃあ、六時にサンフランシスコで会いましょう」
「わかった」
と椋原が,答えたと同時に、四五人の客が一気にやってきた。
「じゃあねえ」
二木伸江はうれしそうだ。
ちなみに,サンフランシスコというのはバーの名前である。
しかし,瓢箪から駒というのは、こういうことを指すのだろうか。
今まで、内向的だったのが、急に椋原は気持ちが豊かになり、見知らぬ人でも手をつなぎたくなってきた。
時計を見ると十二時五十分である。
もう,会社に戻らなくてはならなかった。
本来ならば、雑誌を読んで、地味に休憩して、小市民としてのささやかな自由を満喫するところだったのが、急に豪華なステーキを差し出されたような気になってきた。日本にきて、ここ最近,運が回ってきたのかもしれない。
マミーだったら何というだろうか。
「ヤメナサイヨ」
なんていうのかもしれない。
だが、ろくでもない家庭に生まれて育ってきたのだから、たとえ、どのようなことになっても,ため息をついて,受け入れてくれるに違いない。本当に喜ばしいかぎりのことであった。
それにしても、咲子はどうしたのだろうか?
椋原は、日本では孤独であったが、アメリカにたまに帰り、適当に遊んでいたから、彼女にそこまで入れ込んだわけではないものの、気になることは気になったのである。
喫茶店『ブラジル』を出る。
そして、狭い小路を通り、会社のビルに入ろうとしたところ、ビルの脇の電信柱の近くで、和美が携帯電話で話していたのに出くわした。
「あれっ、和美さん」
「あ、今,椋原さんがきたきた」
「どうしたの」
「今,咲子と電話が通じたの」
「へえー」
「ちょっと話してあげて」
「うん」
多分、これでは遅刻しそうであるが,閑職だったので、別に誰もとがめるものはいない。自動的に時給から引かれるだけであった。
「あの……」
「お久しぶり」
「どうも」
電話の声はいささか遠かった。それとも,彼女が声を小さくしているのかもしれない。
「何か,最近,連絡できなかったね」
「ゴメン」
「家出したって,話をきいたよ」
「うん、そうなの」
「どうしたの」
「あのね、私、もう都会で暮らすのが嫌になったの」
「ふ〜ん」
「田舎で暮らすことにしたの」
「仕事は」
「実は辞表を出したのよ」
「なるほど」
「で,学生時代の友達で、農業をやっている人がいて,今,その人の家に住まわせてもらっているの」
「その友達は,男かい」
「うん……」
「つきあっているのか」
しばらく返事がなかったが、ついに決意して彼女は答える。
「うん……」
「そうか、いいよ、いいよ」
「ごめんね」
「大丈夫だよ。ついさっき、二木さんにデートに誘われちゃったくらいだから」
「あ、そうなんだ」
「うん」
「伸江とならお似合いかもね」
「そうだね」
「じゃあ,お幸せにね」
「うん、それじゃあね」
携帯を受け取った和美は,少し拍子抜けしたようだった。
「そんなことがあったの」
「うん」
「おめでとう」
「うん」
椋原は,手を振って,回転ドアから入り、エレベーターに乗った。
時計を見ると、一時五分である。
当然ながら,遅刻である。しかし,誰も叱るものもいない。
社員たちはただ,曖昧な表情をして笑うだけであろう。
椋原は、エレベーターの数字がどんどん上昇してゆくのを眺めながら、自分の人生はいつでも一番を取れないのだ。かといって,悲劇でもなく、いつも、ビリから二番目なんだなあ、ということを痛感した。
おしまい
2005/09/07(Wed)03:58:11 公開 /
トニー
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