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『stand by me ―― Track, 1 - 2』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:7com
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あらすじ・作品紹介
今はただ傍に居て、という願いだけが残って、願った本人はもう居ない。泣き叫んでも、悔やんでも、きっと救われない。郊外の大学に通い、ギターを愛する青年・ユウを描いた音楽小説。
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『――嘲笑う様に過ぎていく
日常はたぶんとても残酷だけど
涙が落ちるもより速く
溢れる笑顔を思い出そう――』
イヤホンから聞こえるアコースティックギターの音色と優しい歌声。明らかな素人録音で音質は良いとは言えない。でもそこには大事な思い出がいっぱい詰まっていて、そんなぐらいの事は少しも気にならなかった。だが、少し前まで、すぐ傍で響いていたはずのその歌声は、もう彼の手の届かない所で響いている。聞き覚えのある声が、もう違うものに聞こえてしまう。それはそうだ、今耳元で響いているのは所詮コピーでしかないから。もう、傍で聴くことのできない声だから。
Track, 1 Still Echoing, 2005/7
七月も半ばを迎え、梅雨を乗り越えた日本列島は、主人に取り残された湿気とやたら自己主張する強い陽射しで、いつもの夏に移り変わろうとしていた。蝉の鳴き声はその短い命の存在意義かの如く、鳴り止む事なく響く。台所の隅には三年目を迎えようとしているカキ氷機が既に用意され、部屋の隅にはもういつ買ったか分からない扇風機が首を振りながらブイブイ言っている。
畳の床には、パンツ一丁の男がダラリと寝そべっていた。175少しはある背丈と、そこまで筋肉質ではないものの締まった体つき、黒くて短めに切り揃えられたツンツンの髪、パンツには二匹のカワイイクマが描かれている。彼がチラリと見やった窓の外は隣のマンションで覆われていて、強い陽射しが入り込まない代わりに、生温い風もこの部屋に居座らせる結果となっていた。それも家賃四万円・六畳一間・トイレ共用・風呂ナシの激安古アパートの話だから、文句はつけられない。
何をするでもなく、ただ寝転がっているだけの昼下がり。彼はそんなある意味最高の贅沢に心を浸しながら、同時に最低の状況に身を置いていた。もはや生温い空気をかき回す扇風機に意味などなく、そのモーターの熱気でさえ暑さに加担している風に思えてくる。クーラーは当然つけない。古いアパートのエアコンだけあって、燃費は当然よろしくない上に、もはや殆ど涼しさを感じさせない。ただ電気代だけを食らっていくだけのエアコンに、とても頼る気にはなれなかった。そんな意地にも似た感情が芽生える中、文明開化の遥か先を進む現代の日本で、もはや風鈴にしか涼を求められない貧乏大学生に愛の手は及ばない。残念ながら、風の通らない部屋では、その風鈴もおとなしく佇むだけなのだが。
ポタリ、と汗が畳に吸い込まれたのと同時に、彼は突如として立ち上がった。そして部屋の傍らに投げ捨ててあったベージュのハーフパンツをはき、これまた部屋の隅に無造作に吊ってある白地に大きくナイキのマークが入ったTシャツをひったくるようにしてから袖を通し、次にキッチンとも呼べないようなキッチンを抜けて玄関横に立てかけてあったギターのソフトケースをショルダーベルトで肩から下げ、サンダルを履き、ドアのフックに吊り下げてあった部屋の鍵をひったくって、ドアを開けた。立ち上がってからものの数分の出来事だった。
――――
彼の通う大学は坂道を登ったいわゆる高台みたいな所にあって、その坂は長年学生達の夏を汗まみれにしてきた。それは彼にとっても例外ではなく、更に言えば原付修理中の身であるから、アパートの隅っこに眠らせてあった自転車を引っ張り出し、こぎまくらねばならない。しかも、ギターを背中に抱えたままこぐ自転車というのは、なかなかどうして疲れるものだ。彼がそんな汗だくフルコースの道を選んだのにも多少なりと理由はあった。
彼がようやく坂を上りきった頃には、もうナイキのTシャツは汗だくだった。そこから少し平坦で森に囲まれた道を進み、そのまま続く校門を通り抜ける。守衛さんがニッコリ笑って頭を下げてくれたので、彼も習って頭を下げた。校門から入って少しすると、すぐ両側に木の立ち並ぶ道に達する。大学ではその奥に続く森に『憩いの森』というベタなネーミングをしたのだが、誰もその名を使う者はおらず、ただ森と呼ばれていた。
森が切れた所で、正面に噴水、その正面から線対称に左右に校舎が立ち並んでいた。駐輪場は森が切れてすぐ左に広がっている。彼は珍しく空いていた一番手前のブロックに自転車を陣取らせ、鍵をかけた。駐輪場を出て、森の方向を向くと、すぐに奥に入って行ける森の小道がある。人の足で踏み固められてできたような、少しデコボコした小道を進んでいくと、やがて立ち並ぶコンクリの平屋群が見えた。彼はそこにある内の一つのドアに手を掛ける。
「チィーッス」
彼が開けた鍵の掛かってないドアは、いわゆるボックスと呼ばれる部屋のもので、ドアの上にはアコースティックギターサークル、と書いてある。薄暗い八畳分のスペースの中には、壁際に小さな棚が二つと、真ん中に長テーブルが一つ、パイプ椅子が壁にいくつか立て掛けてあった。他には、畳をひいた怠惰コーナーが一番奥にあるぐらいだ。
勢い良く挨拶してはみたものの、中には誰も居なかった。だが、彼にとってはそんなことはどうでもよく、それよりも、ドアを開けたと同時に中から吹き抜けた涼しい風の方が重要だった。大きめの校舎の陰、かつ森の半ばにあって、万年太陽の当たらないサークルボックス群は、夏もそれなりの涼しさを保っている。更に、全てを突き返すようなコンクリ壁の冷たさが何故か目にも心地いい。このために汗だくフルコースの道を通ってきたのだ。
彼はドアを後ろ手で閉め、入ってすぐの壁にギターケースを立てかけた。そして、そのすぐ傍のパイプ椅子を代わりに手に取る。それをそのまま広げずに奥にある畳スペースに置き、自身もそれを枕にして寝ころぶ。もちろん枕にしたのはパイプ椅子のクッション部分なのだが。それから、彼は汗が引くまで目を瞑っていたのだが、汗が引いてしまった頃には、もうすっかり眠りに落ちていた。壁に遮られて小さくなったセミの鳴き声だけが、小さく室内に響いていた。
――その子の名前はイヨリと言った。大人びていながら、仕草は子供っぽくて、放つ言葉は全ての人に笑顔を与えた。そして、彼女が彼に今まで触れたことのないものたちを教えた。人の温もりも、音色の優しさも、掛け替えの無い愛しさも。ギターより、歌がうまい女の子。彼が優しく弾く弦に合わせて、彼女は歌った。stand by me、今はただ傍に居て、と。それは彼女の――
ハッと彼は目覚めた。何か夢を見ていたような気がするが、よく思い出せない。でも何処かとても寂しい雰囲気がその夢にはあって、言い様のない気持ちが、行き場もなく彼の中で渦巻いていた。それがどうしても嫌で、眠気の醒めない目を少しだけこすりながら、もう一度頭から意識を追い出そうとする。そうしてまどろんでいると、ボックスのドアがけたたましく開いた。
「イヨーッス!」
ドアを開けた男は、ゆったりウェーブした金髪をやんわりはためかせながら入ってきた。身長は180近くもあるだろうか、体は随分細身だった。しかし深いグリーンでアーミーな感じのタンクトップから出た腕は細身ながら筋肉質で、弱々しさは感じさせなかった。少しズラしめにはいたジーンズを見ても、長いことが分かるような脚。まるでモデルを思わせる様な体付きだった。
「なんだ、マサルちゃんだけか」
そこで初めて、彼は奥の壁に向けていた顔をドアに向け、振り返った。残念そうに言う男に、マサルと呼ばれた彼は不機嫌そうに答えた。
「悪かったな。あと俺はマサルじゃなくてユウです」
ニパッと急激に表情を変化させ、男は悪戯っぽく笑う。もう聞き飽きたよ、と言う男に、マサルもといユウも、こっちこそ飽きたよ、と返した。男はそのまま、ユウの寝そべっている怠惰コーナーへと歩を進めた。
「ヤッパここは天国だねぇ」
「おい、それはそうと、お前ギターは?」
「ないよー」
男があまりにキッパリと答えて、ユウは呆れ顔になる。あぁそうですか、とだけ適当に相槌を打ってから、また顔を奥の壁に向けて寝返りを打つ。この男にサークルのやる気がないのも、もう三年目だ。
「さぁてと、俺も寝ちゃうかな」
男はそう言うと、勢い良く怠惰コーナーに転がり込み、そのままの勢いでユウに向かってゴロゴロと体当たりをした。ユウはそのまま無視して、寝続ける。そんなユウに、男は渾身の一撃を繰り出した。
「うりゃっ」
ドン、とユウの体が揺さぶられ、ついに振り向いた。
「てめぇ」
ついにキレ出したユウと、男は掴み掛かって激しいバトルを繰り広げ始める、もちろん、二人とも笑いながら。二年と少しの大学生活は、彼らに精神的な成長をもたらさなかった様だと、サークルの面々に思われていることを彼らは知らないのだが。
そこに、また静かにドアが開く。彼らは気付かずに、そのまま取っ組み合いを続けていた。もちろん、ボックスに入ってきた彼女が、350ml分の水分を満載したアルミ缶を二本ひょいっと投げたことにも気付かない。
――ゴッ
――ゴンッ
「アタリッ!」
鈍い音と共に、女の声が響く。そして二人の男が畳の上で重なりながら、倒れ――
「って、頭に缶はアブねーだろ!」
ユウが一瞬飛びかけた気がした意識を取り戻して、飛び上がった。当の投げた本人は悪びれる様子もなく、あはは、と腰に手を当てて笑う。ユウとは少し身長差がある、160cmぐらいだろうか。綺麗なキャラメルブラウンに染まった長めの髪をアップでまとめ、派手過ぎないが今風の装いをしている。黒いキャミソールの上にオレンジのタンクトップを重ねていて、それがロングフレアースカートのエスニックな感じの柄に合っていた。見た目にもおしゃれで、快活で、育ちが良さそうに見える。――ハズなのだが。
「アンタらが暴れたら室温上がるじゃぁん」
本当に、まったく、とことん、どこまでも、彼女に悪びれる様子はない。
「オマエな……」
内心、殺人娘と毒づきながら、ユウは缶が直撃した側頭部をさすった。見事に腫れてきている。でも心はまったく晴れてはいかない。まだ畳でウンウン唸っている金髪の男をチラっと観てから、パイプ椅子を持って怠惰コーナーから出て、そのパイプ椅子を広げて長机の傍に座った。
「いっつぅ……」
「あはは、ゴメンってー」
やっと謝罪の言葉を口にするも、やっぱり顔は楽しそうに笑っている。
「まぁ、いいけど……今日は何? またマースケとデート?」
この二人がいつもこの場所を待ち合わせ場所にしていることは、サークル内の人間なら大体みんな知っていた。理由はチサコがこのサークルの現会長だからとか、そういうことはたぶん関係ない。誰も本当の理由はよく分からないのだった。
「そ、本人はそこで倒れてるけどね」
オマエがやったんだろう、とツッコむのを再び我慢して、ユウはもう一度チラリと男を見やった。マースケと呼ばれた金髪の彼は、まだウンウン唸って痛そうだ。ユウは視線を彼女に戻した。
「チサコ、いい加減暴力も程ほどにな、マースケがいくらMだからって」
「いーのいーの」
でもって俺を巻き込むな、とユウが続く言葉を吐こうとした時、マースケがむっくりと起き上がってこっちに向かってきた。ユウと同じように側頭部を押さえている。
「いってぇ、チサコ最近ひどくね?」
「アンタが余計なコトしてるからでしょ、ホラ、もう行くよ」
チサコは一度も腰を落ち着けないまま、ユウにまたね、と言って先にボックスを出て行った。ユウはおう、とだけ言って彼女の後姿を見送ってから、次にマースケを見る。
「大変だな、オマエも……」
すると、マースケは側頭部の痛みも何のその、悪戯っぽくニヤリと笑った。
「フフフ、夜は逆ッスよ、マサルさん」
「マ、マジッスか、マースケさん!」
「マースケ、早く行くよー」
彼女の快活な声が聞こえてくる。マースケは、また今度ゆっくりな、と言ってから、小走りでボックスを飛び出していった。ユウが立ち上がってドアをゆっくりと閉めにいくと、また室内には小さくセミの鳴き声だけが響く。それから、顔がニヤけるのを、彼はどうしても止められなかった。
――――
どうせならついでだから、と強引に理由を付けて、ユウは大学からの坂道を駅前まで一気に下った。もちろん帰りにはまた下宿先のアパートまで、少しだけ坂道が待っているのだが。
マースケとチサコが去ってから、ユウはまた少しだけ眠り、起きた頃にはもう十八時を超えていた。そんな時間から駅前に来るというのは、別にバイトがあるからとか、何か買わなくてはならないとか、そういうことではない。ストリートライブ、というと大層に聞こえるが、彼にしてみればただ人の居る所でギターを弾くことに過ぎない。人の目がある状態で演奏するというのは、一種のモチベーションになる。ユウはそう考えて、不定期に駅前を訪れていた。
駅前まで来て、近くの駐輪場に自転車を留めると、彼は駅に入っていく。そしてそのまま駅の改札前を通り過ぎて、線路の反対側に出ると、すぐそこには駅前公園が広がっていた。真ん中に砂の小さなグラウンド、それを取り囲む様に木々が植え込まれ、街灯が並ぶ。端っこに一つだけ、何故かベンチがあって、ユウはそこに向かって歩き出した。辺りは静かだ。
駅の大学側は学生マンションと世帯マンションがまぁまぁな数で立ち並び、ベッドタウンと大学のお膝元という街の二つの顔を垣間見ることができた。スーパーや小さめのデパートが駅前にあり、けっこう人の流れは多い。そういうこともあって、さすがに人が多すぎる場所でストリートの演奏はできないが、反対側なら適度に人が通る。といっても反対側は殆ど何もないような場所で、大学側からすれば雲泥の差だ。学生マンションがいくつかと、もう少し行けば大手のホームセンターがあるが、そこに駅前から歩いていくものはいない。故にここを通るのは殆ど学生だけだった。しかも今はテストの期間中の夕方だから、そこまで外出している者も多くはない。だが、ユウにとって人の少なさは問題ではなく、『ココでやる』ということが大事だった。
ベンチに座ると、ギターをゆっくりとケースから取り出して抱えた。まず何も押さえずに上から下に手でストロークした。四弦の音がおかしい。そんなことも、彼は自身が気付かぬ内に、いつの間にか分かるようになった。チューニングを合わせて、適当なコード進行を繰り返す。C、G、Am、Em、F、G、C、一般的なコード進行。それから、昔ふざけて作ったオリジナルとも呼べないような簡単で単純で、真っ直ぐな曲を演った。
『キミは笑う』
きっとキミはまた笑ってるんだろう
みんなが振り向く笑顔抱いて
きっとキミはまた笑ってるんだろう
太陽みたいな笑顔抱いて
あぁ 空を見て あぁ 僕を見て
そう思う事は 欲張りかな
もっと 僕を見て その 笑顔見せて
そう思う僕は 僕は幸せかな
まだFコードが弾けなかった頃、GとCとDだけで構成した、単純きわまりない曲。それでも、初心に帰る意味も込めて、それを弾く。何となく、色んな頃を思い出して楽しくなった。そして、もう一度チューニングを確かめようとしていると、いきなりかかる声があった。
「頑張ってるねー」
ユウが顔を上げると、そこにはチサコが立っていた。
「おう、デート終わったのか?」
「まぁね」
チサコはそう言ってから、その場でしゃがみ込んだ。
「それにしても、その曲久しぶりに聴いた。入学してすぐぐらいのだっけ?」
「そう。でもストリートやる時の一発目は絶対コレにしてる」
「あ、そうなんだ。ストリート見かける時って、いっつも途中だもんね」
「んー、そういやそうか……」
そこで、二人とも沈黙した。気まずい沈黙じゃない。チサコはニコニコと笑ったまま、ユウの様子を見ていた。ユウはチューニングをもう一度確かめ、今度はおにぎり型のピックをギターケースのサイドポケットから取り出す。そこにはMIDIUMという文字と、カワイイクマが描いてあった。
「そのピック、まだ使ってるんだ?」
チサコがふっと顔の表情を曇らす。そして、貸して、と言ってから、ピックを手に取った。
「けっこう擦り減ったね」
「まぁ、な」
そこでまた二人とも黙った。今度は気まずい、というより、何か哀しい雰囲気の漂う沈黙だった。二人とも何かを隠したまま、押し黙っている。そんな風に。
「で、次は何やって欲しい?」
ユウは何処か不自然に、わざと明るく振舞うように言った。
「じゃあ、ナガブチ!」
チサコも合わせる。
「んなシブイの俺ができるわけねーだろ……」
「冗談じゃぁん」
そうやって二人で笑う。お互い不自然さに気付きながら、あえて触れずに流してしまう。夏の太陽はゆっくりと沈んで、こんな気持ちを闇で覆い隠してしまいたいと願う二人を、裏切りながら紅く照らし出していた。悲しい顔なんかしても仕方がない。どうにもならない。二人の胸の内は同じだった。
――――
公園の時計はもう二十時近くを指し示していた。夏の太陽もさすがに沈み、ベンチの真上で暗い街灯が灯る。チサコはユウの右に、二人で並んで座っていた。ユウのギターはしまわれ、ベンチに寄りかからせてあった。
「もう夜でもあっちぃな」
ユウが手ではたはたと顔を仰ぐ。
「しかも俺の部屋、風通らねーしさ」
「はは、あの部屋はヒドイね」
チサコは苦笑しながら、慰める様に言った。昼間の様な、騒がしさはない代わりに、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。ユウは、それがいい意味での二面性と受け取っていた。
「でも私の部屋も窓とか開けられないから、けっこうキツイよ」
「なんで?」
「ホラ、ウチの近く田んぼばっかりだから、蚊が多くて。網戸でもムダーって感じでさ」
チサコは駅の反対側に住む、数少ない学生の一人だった。つまり辺りは田んぼばっかりのド田舎だ。
ユウは、チサコがムダーと言った時の表情があまりにもムダな感じが出ていて、思わず笑ってしまった。
「ハハハ、そうだったなー」
「それで仕方なくクーラーつけちゃうんだけどね」
「ハハ、そういやアイツもおんなじようなこと――」
そこで、スッとユウの顔から笑みが引き、続く言葉は飲み込まれた。さっき無理矢理押し込まれた感情が溢れ出てくる。もう、押し込めることはできなかった。チサコはそれを察してか、それきり、黙ってしまった。
長いのか短いのか、彼ら自身も分からないまま、沈黙した時が流れる。しばらくして、ようやくユウが言葉を紡ぎだした。目は、公園の反対側を見ている、というよりは、虚空を見ているようだった。
「もーすぐ……だよな、一年」
チサコはうん、と小さく低く頷いた。
「あいつの時間は、止まったままなのにな」
ユウにとってその言葉は、文字通り『アイツ』の人生という時間の流れが止まったという意味を現すのと同時に、自分の中での『アイツ』がそのままの形で、時の流れを失ったように留まっているという事実も現していた。そして何処か自嘲的に、冗談めいて笑みを浮かべた。
「もう、一年経つんだね……」
チサコも、ようやく言葉を発する。でもそれは考え抜かれて出されたというよりは、何も考えられずに自然と出てしまった、という方が正しかった。
「俺、時々思うんだけど――」
ユウが苦笑いする。
「――なんか、アイツまだ実家帰っててさ、元気でピンピンしてて、その内ひょろっと帰ってきて、ただいま、とかイタズラっぽく笑いながら、フツーに顔出すんじゃないかって……」
生温い風が二人を撫でる。ユウが一瞬間を置いた。
「だってさ、あんな……あんな居なくなり方ないだろ。実感なんて、ちっともわかねぇよ……」
実感、それがアイツ――つまりイヨリの死に欠けていると、彼女を知る誰もが感じていた。夏の帰省中に起きた事故。突然の死の知らせ。誰も亡骸を見れず、誰も葬式には出られなかった。何の冗談かと苦く笑っている内に、やがて新しい季節は訪れ、色んな忙しさの中で事実が薄れていく。全てが、彼女の死からリアリティを奪っていった。そして、それが残酷でもあった。未だに彼らはイヨリの事を『居なくなった』と言う。まだ生きているという願いを込めたのと、本当に死んだとは思えないのが混ざった故の言葉として。
「ね、ユウ、もう帰ろ?」
イヨリは、苦し紛れにそう言った。でもそれは彼女の優しさだということを、ユウは分かっていた。だから無言で立ち上がって、ギターを手に取る。どうしようもない気持ちは渦巻いたままだった。
「ゴメン、なんか」
「ううん、いいよ」
チサコも立ち上がった。そして力無く笑う。
「またね」
「うん、また」
そうしてから、チサコは胸元で小さく手を振って見せてから、駅とは反対方向に向かって歩き出した。ユウは少しだけ、その場で立ち尽くしてから、ゆっくりと振り返って歩き出した。頭の中はもうイヨリで支配されていた。
今はただ傍に居て、という彼女の願いだけが残って、願った本人はもう居ない。おかしいじゃないか、とユウが泣き叫んでも、どうして自分も同じ気持ちを伝えられなかったのか、とユウが悔やんでも、きっと救われない。死という絶望の後に、妙な希望だけが残っている。そんなおかしな感覚。
その内、駅の前に辿り着く。ふと空を見上げてから、叶わない希望と言う名の矛盾だらけの星が輝いている様な気がして、ユウは空を睨んだ。そうしてから、すぐに虚しさだとか悲しさだとか、色んな感情がぐるぐる混じり合ってくるのが自分でも分かって、かき消すように駅の階段を駆け上がった。頭の中では、いくつも段の抜けた階段を昇っているのに。
イヨリ、早く帰ってこいよ。
宙に浮いた願いは消えないまま、残酷に人を苦しめるのか。
――――Stand By Me
「えーっと」
緊張した面持ちの青年が、スーっと息を吸う。175少し程の背丈で、体はそこそこ締まっている。少しだけゆったりしたジーンズに、白いインナー、薄いブルーでカッター生地の長袖シャツ。いたって特色の無い装いだった。
「一回生の鍵下 優です。ドアにかける鍵に下、ユウは優しいっていう字です。ギターは三月の初旬ぐらいから始めたので、まだバレーコードができないぐらいです。えぇ、と、ユウって呼んでください。よろしくお願いします」
パチパチ、と小さく拍手が起こる。サークルでの自己紹介、それは新入生歓迎のこの時期には避けられない。元々こういう場が苦手な上に、誰も彼もが初対面の中、ユウは何とかそれを無難に切り抜け、胸を撫で下ろしていた。そうしている内にも自己紹介が進んでいく。
「一回の荷間 聡介ッス!高校ん時はマースケって呼ばれてたんで、それでお願いしまーす」
ニノマソウスケ、元気のいい奴だな、とユウは思った。しかも時折茶色いメッシュの入った金髪やんわりウェーブで180はあろうかという長身。寒くないのかと思ってしまう白いロゴの入った赤いサッカーシャツに、少しズラしてみせたジーンズ。ベルトが腰の傍からぴょん、と見えていた。見た目からして軽そうな感じだ。
「一回性の志藤 知紗子です。ギターは父親が仕事の関係でやっているので、一応小さい頃から触ってました」
おぉーという声が上がる。やはりそういう人は歓迎される。
「アダ名みたいなものはないので、チサコって呼んでください。よろしくお願いします」
拍手が起こる、ユウの時よりは断然大きい気がした。シドウチサコ、スッキリした顔立ちで、快活な印象を持たせる。濃い茶色のキャミソールの上に、エスニック柄のチュニックブラウス。同じくエスニックなイヤリングもしている。ウォッシュ加工のデニムは七分丈ぐらいでロールアップしてある。セミロングでハニーブラウンの髪は小さくまとめて後ろでくくっていた。
「畠仲 唯依です。ギターは殆どやったことはないんですけど、歌は得意な方です。あ、一回生です。よろしくお願いします」
ハタナカイヨリ、整った顔つき。白いティアードスカートに白いブラウス。黒いロングの髪の毛はストレートで、服の白とは対照的にいい意味で浮いていた。大人しく、優しそうな印象を受ける。
「ハイ、じゃあ最後は一応今年のサークル会長をさせてもらってる、三回生の野地 敬一郎です」
ノジケイイチロウ、見た感じからして、しっかりしていそうな感じだが、ファッションやら顔やらがどうにもおっさんくさい。ユウはポロシャツがどうにもゴルフシャツに見えて仕方がなかった。
「みんな不安もあると思うけど、まぁ楽しくやっていきましょう」
会長らしい、とユウも思った言葉に、本人も納得の表情を見せる。その様子を見て、他の二、三回生は面白そうにクスクスと笑った。どうやらそういうキャラクターらしい。
「じゃあみんなグラス持って。っと、みんな持った? よし、じゃあ、乾杯!」
「カンパーイ!」
キンコンカン、とグラスぶつかる音が響いて、それぞれが思うだけの量を口にしていく。中にはもうグラスを開けてしまった者まで居たが、何はともあれ、アコースティックギターサークル、新入生歓迎飲み会はスタートしたのだった。
Track, 2 To The Drawn Future, 2003/4
「――でさぁ、俺全然ギターとかやったことないワケ!」
ニノマソウスケこと、マースケは本当に見た目通り、第一印象通りの男だった。席が隣になり、ひたすら喋りたくるこの男に、最初はどうにも付いていけない感じがしていたが、喋っている内に、どんどん乗せられていっている自分に、ユウは気付かなかった。
「ハハハ、じゃあ何でこのサークルに来たんだよ」
「いや、それはアレよ、ちょっと耳貸せ」
ユウはマースケに近付く。
「実はさ、俺チサコと付き合ってんの」
「マジッ!?」
「バカ、声でけーって」
周りがチラチラとユウとマースケを見る。マースケが軽い笑いで場を誤魔化すと、みんな元の位置に戻っていった。ユウはチラリとチサコを見てから、マースケに向き直る。
「いつから?」
「高校の真ん中ぐらいかな。高校は違うんだけど、地元が一緒でさー、オサナナジミってやつ?」
「へー」
ユウは内心、なんて合わない二人だと思った。片や軽そうな男、方や礼儀正しくかつ快活な女。いや、でも案外こういう組み合わせがうまくいくのか、と適当に結論付けて、どうでもいいことを思案するのはやめた。
「いいなー、女いるってのは」
「いやいや、ユウもいけるって。ちょっとクールな感じで売れ!」
「売るって……しかも相手いねぇし」
相手がいない、というのはユウのいつもの言い訳だった。高校の時から、ずっと友達にそう言い続けてきた。ましてや告白なんて考えた事もない。
「相手かー、そうだなぁ」
マースケと一緒にユウも居酒屋の中を見回す。全員で二十人座れる座敷はほぼ一杯。みんな長い机を囲んで、好き勝手なことをしている。その中には、もちろん顔見知りなんていない。さすがに先輩は無理だと思いながら、一回生を見やった。全部で七人が出口付近に固まって陣取っている。女の子は二人、一人はチサコだから、残りは一人。そこまで考えて、ユウはまんまと乗せられている自分に気付いた。
「って、別に相手探さなくていいんだよ!」
「なーんだ、つまんねぇなぁ。いいじゃん、ホラ、あのイヨリって子、俺はいいと思うけどな。おとなしそうだし」
チサコはおとなしそう、とは真反対に位置するわけだが、そのへんの説明をどうつけるのか、ユウは聞いてみたくなった。何だかんだ言って、女好きなんだという印象だけが残る。
「いや、いいって……迷惑だろーし」
「まぁまぁ、今チサコが喋ってるみたいだし、話付けてきてやるよ!」
ユウが引き止める間もなく、マースケはそそくさとチサコに近寄っていった。そして何か耳打ちすると、二人して戻ってきた。イヨリが不思議そうにチサコを見送ると、マースケがユウにピースサインをして見せた。
「私、チサコね、よろしくー」
「え、あぁ、よろしく」
チサコはニッコリと笑った。横でマースケがニヤニヤしている。
「ユウ、だったよね?」
「うん。あのさ、マースケが呼びにいったのは別に――」
「で、ユウはイヨリちゃんにお近付きになりたいって?」
「いや、俺は別にそんな――」
「どっちなの?」
「いや、だから――」
「どっち?」
チサコから有無を言わさない強引さが見て取れた。ユウは即座に、あぁ、根っこではマースケと似てるんだな、と思い、妙に納得する。終いには気圧されて、ちょっと喋りたいッス、と呟いた。チサコはニヤリと笑う。
「じゃあ行ってらっしゃい、私はこっち来といてあげるから」
「頑張れよー」
「え……いや、マジか」
「「マジッ」」
マースケとチサコが声を合わせて言う。たぶんもう逃げられない。ユウは観念して、自分のグラスを手に取り、おずおずとイヨリの座る方へ移動した。自分で胸が高鳴っているのが分かる。ユウはこの感覚が嫌いだった。
近付いていく。イヨリは別の方を向いていて、ユウには気付かない様子だ。
「あー、えーっと……、ハタナカさん?」
ユウの声で、イヨリが振り向いた。
「うん? あぁ、ユウ――君だったよね?」
「よく覚えてるなぁ」
「記憶力はいい方だからね。まぁ、とにかく、座ったら?」
「あ、うん、そうする」
ユウは落ち着きを取り戻せないまま、イヨリの隣に座った。チラリとマースケ&チサコを見やると、ニヤニヤと嫌な笑みを二人して浮かべていた。イヨリはというと、何処か淡々としていて、ユウはそれが怖かった。
「チサコちゃん、どうしたの?」
ハッ、と思考に陥りかけていたユウを、イヨリの声が現実に連れ戻した。
「あ、マースケのとこいった」
「仲良いんだ?」
「あぁ、まぁ、なんていうか――」
ユウが言いにくそうにしていると、イヨリがなになに? とイタズラっぽく笑って顔を近付けた。シャンプーのいい香りがする。サラリと長い黒髪が腕に触れる。その整った顔が間近に迫る。
「あ、いや、ちょ……顔、近いって」
イヨリはきょとんとして顔を戻してから、まじまじと正面からユウを見た。ユウはまた恥ずかしくなって、何?と落ち着かない様子で言った。すると、イヨリはまたイタズラっぽく笑う。
「ふふ、ユウ君、もしかしてオンナノコに免疫ない?」
「いや、免疫……ないってか、なんだろ」
ユウは自分が情けなくて、この場から逃げ出したくなった。
「免疫、ないのかも」
免疫がない、のか、ユウは今まで彼女というものが居たことはなかったし、女の姉妹も居ない。それでも高校の頃はクラスの男子とバカ騒ぎだってしたし、もちろん女子とも遊びにいったりしたことはあった。でも、いつも一本線を引く事を忘れなかった。それは、ユウの恐れの象徴であり、人と触れ合う事はどんなことか、知らなかったし、それが恐ろしくも感じていた。
「あはは、イマドキ珍しいね」
イヨリは変わらずに笑っている。その笑顔が、何処かユウを安心させた。
「悪かったな……」
「うん、ヤバイね、ホント」
「マジか…」
「冗談だってぇ」
そう言ってまた笑った。
大人しい印象だった彼女は、よく笑って、子供っぽくて、でも何処か落ち着いていて、ユウが今まで会ったことのないような人で、そして彼に不思議な安堵感を与える人だった。
飲み会も終盤ともなると、チラホラ酔っ払いが現れる。中には寝てしまっている者もいるぐらいだ。チサコとマースケは二人で飲みまくったらしく、お互いに寄りかかり合って眠っている。もう付き合ってる事は秘密にできないな、とユウは思った。思ったついでにイヨリにもその事を話すと、何となくそう思ってた、という返答がユウに返ってきたりもした。
ユウとイヨリは、お互いの出身地のこととか、趣味とも呼べないような趣味の話とか、どうでもいい近況とかを喋りながら、料理をつついたりしていただけで、殆どグラスを空けていなかった。もっとも、ユウは相当酒が強いのだが、本人はまだその事実を知らない。
「そういやさ、イヨリってどんな字?」
ユウはふと気になってそんなことを訪ねた。イヨリはテーブルに残された料理をつついていて、それがまるでつまみ食いをする子供みたいに見えて、ユウは笑けてしまう。
「あー、ひどい、笑わないでよ」
「ゴメンゴメン、で、何て書くんだ?」
「えーっとねぇ…」
そう言ってカバンから携帯電話を取り出す。何かメモ帳みたいな画面を開いて、そこに『唯依』と打ち込んで、ユウに見せた。ユウはまた笑ってしまう。
「へぇ、ユイって読めなくもないよな」
「そうそう! いっつも間違えられるんだよねぇ、ちなみにユウ君は何て書くの?」
「あぁ、俺のは優しいって書いてユウ。俺もよくマサルとかスグルって言われるんだよなー」
イヨリはニッと笑って、仲間だねー、と喜んだ。ユウはかつてこんなに一緒に居て安堵を感じる人間に触れた事があったか、と思った。不思議な感覚。そこまで饒舌でないユウも、自分でも驚くほど喋った。
「あ、ねぇアドレス教えてよ」
イヨリが取り出したままの携帯電話を持って言った。
「あぁ、いいよ」
言われてユウは携帯を取り出し、自分のメモリ画面を出して渡す。
「こういうのはねー、ホントはオトコノコから言うもんだよ?」
イヨリはイタズラっぽく笑う。
「……言おうと思ってたよ」
「ホント?」
「ウソ」
何それ、とまたイヨリが笑う。そうしてからメモリを移し終えて、携帯をユウに返した。
「後でメール送っとくね」
「おう、よろしく」
ユウがそう言ってからすぐに、見計らった様に会長であるノジケイイチロウが立ち上がった。
「おーし、そろそろ終わるから、寝てる奴起こしてー、忘れモンすんなよ」
イヨリとユウは揃って立つと、一緒にチサコとマースケの所へ行った。ユウが二人の体を揺すると、同じ様に目をこすり、眠たそうにしながら、何? と言い放つ。それが面白くて、ユウとイヨリは二人して笑ってしまった。
「何だよユウ……」
「もう飲み会終わりだってさ、ホレ、起きろよマースケ」
「チサコも起きなよー」
「うううん……」
まだ眠い目を擦る二人を半ば強制的に立たせて、外に連れ出す。のろのろと、でも文句は一つも言わずにユウとイヨリに続いて居酒屋を出たのだった。駅前の一角にある飲み屋だから、辺りはそこそこに賑わっている。駅の方には電灯が明るく灯っていて、それが眼前に広がる駅ビルに囲まれたバスターミナルまでも照らし出していた。居酒屋の前にはもう殆どのメンバーが集まっていて、四人は慌ててその輪に加わった。
「おーし、集まった?」
会長が言った。
「じゃあ今日の飲み会は終わりまーす。もう四月も終わりの時期だから、今いる一回生で正式にサークルに参加したいって人もいると思うんだけど、今度の木曜日にまた学校で集まりがあるから――」
会長の事務的な話が長々と続く。マースケを除く一回生は、一部眠そうながらもみんな真剣に聞いていたが、二、三回生はやまるで聞いていなかった。それぞれあくびをしたり、立ったまま寝そうな者まで居た。ちなみにマースケはちゃっかりその立ったまま寝そうな者に含まれているのだが。
「――以上です。何か質問がある人?」
誰も何も言わない。
「じゃあ、女の子は近くまで一緒に帰る人ちゃんと見付けてそれぞれ帰って下さい。解散!」
まるで顧問だな、とユウは思いながら、バラバラになっていく輪の中で真っ直ぐチサコに向かって行った。同じ様にマースケとイヨリも、自然とチサコに近寄っていく。
「マースケ、家俺と同じ方向だろ?」
「んー……でも俺チサコ送ってくからさ。コイツ駅の反対側だし」
マースケが眠たそうに言い、同じく眠たそうにあくびをしている最中のチサコをチラリと見た。
そういえば、とユウは思い出した。駅の反対側の住人は極少数である、という事実を先輩に聞いていたのだ。ユウが大学に入ってから知り合った人ではチサコが初めてだった。
「あー、そっか、ハタナカさんは?」
「あ、実はねぇ、私も反対側」
一人目に続き、即座に反対側住人二人目の知り合いができる。
「ってことは……」
ユウはもう一度マースケとチサコを見た。
「大学の方行くのは俺だけか」
居酒屋は駅前にあるから、大学側と反対側では、ここで別れることになる。ユウは何処か寂しさを漂わせながら、とは言っても本人はまったくその気はないのだけれど、寂しいのは事実だった。
「ユウ君も来れば? 帰りマースケ君と同じ方になるんだし」
「え、まぁ、そうだけど……」
「じゃあちゃっちゃと行こうぜー」
マースケがチサコの腕を引っ張って、のろのろと歩き出した。その間際、ユウはマースケがニヤリと笑って自分を見たような気がして、なんだか変な気分になった。でも、イヨリの言葉でユウが一抹の寂しさから救われたといえばそれは事実だ。実際、ユウは嬉しい気分にもなった。
「あはは、フラフラしてるよ、二人とも」
そうやって笑いながらイヨリが歩き出して、ユウは慌てて追い付いて横に並んだ。
四人がまだ騒がしい駅前から、高架の改札の前を通り過ぎて、反対側に出る。そこは時折遠くから聞こえる車のクラクション以外はひたすら静かで、駅前公園にも当然人はいないから、公園を通っていく四人の足音が妙にうるさく聞こえた。マースケとチサコは少しフラフラと眠そうに、ユウとイヨリの前を並んで歩いている。
「こっちはホント静かだな」
「うん、帰ってくる時とかけっこう寂しいよ、今日は賑やかだけどね」
イヨリが小さく笑う。ユウは思わず、じゃあこれからも送ってやろうか、なんてバカみたいなセリフを思い浮かべてから、すぐに飲み込んだ。今日の俺はどうかしてる、とユウはそこで気が付く。でも、そういう自分がそんなに嫌じゃなかった。
「あそことか、路上ライブとかやるにはいいんじゃない?」
イヨリが公園の端のほうにあるベンチを指して言った。ちょうど上に暗く光る街灯があって、なんだかベンチだけ浮き出ているような、そんな風に見える。ユウはそこに、自分が座っている姿をふと思い浮かべた。そして、すぐに打ち消す。
「でも俺はまだヘタクソだし、路上とかいうレベルじゃないけどな」
「まぁまぁ、そのへんは練習して、ね」
ユウはそうだな、と相槌を打ってから、またベンチを見た。暗闇の中に浮き出したベンチが、まるでステージの様に見えてしまう。そんな風に思った自分をおかしく思って、少し笑ってしまう。隣で歩いているイヨリに気付かれたかと思ってユウが見てみると、何のことはない、ゴキゲンに鼻歌を歌いながら、まだ少し冷たい四月の風を気持ち良さそうに顔に受け止めていた。髪が揺れる、時折、ふわっとシャンプーに匂いがした。そんな風にじっと観察してから、ユウは急に恥ずかしくなった。不思議な気分だった。
「あのさぁ」
それを打ち消す様に、言葉を発した。
「ハタナカさんは、何でこのサークル入ったの?」
イヨリはんー、と唸る。
「さっきから気になってたんだけど」
今度はユウがえ、と驚いた。
「イヨリって呼んで? そっちの方が慣れてるから」
「あぁ、うん、じゃあそうする」
なんだかなし崩しに返事をしてしまって、ユウは後悔した。その後悔が何処から来たのかは自分自身で分かっていなかったが、それと共に嬉しさもあった。何だか、距離が縮まった様な気さえした。
「それで、なんで入ったかっていうのは――」
またんー、と唸る。
「――なんだろ」
真剣な顔付きをする。
「ギターに合わせて歌いたかったからかな」
コロコロと表情を変えていく。それに見とれていて、ユウはまたついつい適当な返事をした。
「なんだそれ」
「なんだそれって……ホラ、私の美声で、ね」
イヨリが得意げに言ったのに合わせて、ぶっとユウは噴き出してしまった。そして、マースケとチサコの目も気にせず笑う。ユウは何故かとても清々しい様な、嬉しい様な、色んなプラスの感情が一気になだれ込んで来たような気分になっていく。マースケとチサコはというと、チラっと振り返ってから歩を早めていった。ユウとイヨリは、もちろんそんなことには気付かないのだけれど。
「もう、笑うことないじゃない」
イヨリが口を尖らせた。
「ゴメンゴメン」
そして続いたセリフは、ユウ自身驚くぐらい、今までにない性質ものだった。
「まぁいつかさ、俺がギターちゃんと弾ける様になったら、一緒にここ来てやろう」
「ホント?」
イヨリがキラキラとした、子供みたいな目をする。まるでそれが私の一生の夢でした、と訴えかけるような、そんな目を見て、ユウは何かを決心した。
「今度はホント」
「やった」
イヨリが、ユウが今まで見た中で、と言ってもまったく長い付き合いではないのだけれど、今までの中で最高の笑顔を見せた。約束ね、と無邪気に言う彼女を見て、ユウは胸に愛しさが宿ったのに気付いた。すぐに抱きしめてしまいたいだとかいう類のものではなく、もっと大きくて、穏やかな愛しさ。例えば、ずっとこの人と居たい。例えば、ずっとこの人の笑顔を見ていたい。そう思える愛しさ。それはユウにとって初めての経験だった。
イヨリは、随分先を歩いてしまっているマースケとチサコに気付いて、置いてかれてるよ、とユウを手招いた。彼女が嬉しそうに小走りに駆けて行く。
ふと、ユウがもう後ろの方に行ってしまった公園のベンチを振り返り、自分と、イヨリが座っているのを想像した。ユウがギターを手に、イヨリは嬉しそうに笑って。そんな想像をしてから、今日の俺は本当にどうかしてる、と笑って、イヨリを追いかけて走っていった。イヨリがその先で笑顔を絶やさずに待っている。別にイヨリの愛を勝ち取ったわけでもなければ、この先ずっと彼女を笑顔を見ていられるという保証もない。それでもユウはバカらしいぐらいに幸せな気分だった。
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2005/09/06(Tue)14:32:40 公開 / 7com
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■作者からのメッセージ
今回は過去に立ち戻って話を展開しました。今回のこの1話だけでも短編として読める様にしてみたかったのですが、このような構成は個人的にも実験感覚な所があります。どう読者に映るかが非常に気になる所です。
やはりご指摘やご感想は欠かせないものだと痛感しております。自分では気付けない所は多々ありますし、再発見させてもらえる場合さえあります。丁寧な文章で感想・指摘等を下さったお二人には感謝しております。ありがとうございました。
ですが、Track, 1に関しては色んな意味を含めて修正はしないでおこうと思います。また色んな方々に意見を頂ければありがたいと思います。お読み下さってありがとうございました。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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