『snow crow 【修正・完結】』 ... ジャンル:ファンタジー アクション
作者:豆腐                

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 深く、広大な森の中。
 人目を避けるようにして、ぽつんと存在している小さな村。そこが僕たちの暮らしている場所。人間からは、黒の一族とか、ノスフェラトゥと呼ばれている僕らの村。
 僕は、この森から外に出たことはない。それは特別なことではなく、村の子供は誰でもそうだ。子供たちは大人たちに嫌になるほど一つのことを言い聞かされる。
 ――人間には関わるな。
 人間は、僕らと違って髪の毛も目も黒くない。だけど、それだけならこんな風に僕らが隠れて暮らす必要なんてない。実際に、何百年も昔には一緒に暮らしていた、って話も聞いたことがある。そのときは黒の一族なんて呼ばれることもなく、同じ人間として僕らの先祖は生きていたらしい。
 だけどある日、世界中に流行り病が広まった。そして、その病が世界から消え去った頃から、僕たちは人間では『なくなった』。どうしてか、僕らの先祖たちは、その病にかかっても死なずにすんだ。他の人間たちは例外なくその病にかかれば死んでいったというのに。そればかりか、人間が持たない特別な能力がその身体に表れ始めた。身体能力の向上、回復能力、そして、個人毎に異なる固有の能力。
 人間たちはそれを知り、恐れ始めた。
 黒髪の奴らの正体は悪魔で、人間のふりをして近づき、世界中に病原菌をばら撒いたのだ。人間たちはそう言い出し、あの病に黒髪の死神がもたらした病という意味で、『黒死病』などという名前を付けた。そうなると、人間との間に深い溝ができるのに、長い時間は必要なかった。そのままずるずると互いに憎みあい、争いあうようになってしまった。
個人の能力では圧倒的に黒の一族が勝っているが、その人数は元々少数民族だったために、極めて少ない。そのため両者の争いは泥仕合となり、終ることなく時間だけが過ぎていった。
 そして今。僕たち黒の一族の大半は争いに疲れ、人間たちでは住めないような未開の地で静かに暮らしている。しかし、戦うことを止めても人間に対する憎しみは消えないようで、大人たちが人間の話をするときは、酷く怖い顔になる。
 だけど、父ちゃんだけは違った。父ちゃんが人間の話をするときは、他の大人たちとは違って、とても悲しそうな顔になる。それがどうしてなのか、僕にはわからなかった。

 川のせせらぎ、僅かに頬を撫でる風の流れ、鳥たちの鳴き声。目を閉じながら、それらを感じる。今日もいい天気だ。木々の緑色の葉っぱが揺れる音が聞こえる。空を見上げると、真っ青な空があった。とぷん、と魚が跳ねる音に気を取られ、危うく水瓶を流してしまうところだった。水が一杯になるとそれなりの重さになるので、僕は冷や汗をかいた。
自分の頭くらいの大きさの水瓶に、川の水を入れて、それを川辺に置く。腕まくりをしなおして、膝が水に浸かるくらいの場所で仁王立ちになる。さあ、これで準備は完了。
 深く息を吐いて、水面に視線を落とす。透明な川の中で、太陽の光を反射する魚の鱗。それを目印にして、僕は川に手を突っ込む。ぬるぬるとしたものを掴み、すぐさま引き抜く。手の中では名前も知らない魚がびちびちと暴れている。元気がいいし、それなりに大きさもある。幸先のいい出だしだね。
 そんなことを思いながら、それを放り投げ、水瓶に入るのを確認すると次の獲物を探す。そうして僕は、日課でもある魚とりに励んだ。
 村の住人はそんなに多くはない。だから、子供たちも農作業の手伝いをしたり、僕のように魚とりをしたりしている。大人の男のように熊や猪相手の狩りはまだ危ないから、と止められている。だけど男手が足りないのだから、早く大きくなって父ちゃんたちの手伝いをしたい。そんな風に思いながら、僕は今日まで生きてきた。これからも、今日のような日々を過ごしていくんだろうと思いながら。
 空が紅く染まり始めると、水瓶を両手で抱えながら村へと向かった。昨日と似たような一日。違ったことと言えば、今日は大物を仕留めてきたぞ、と笑いながら大猪を見せてくれた父ちゃんと、昨日よりは豪華になった夕食くらいだった。そして、夜が明ければ今日と同じような明日が始まるんだと、そう信じていた。
 だけど。
 静かに、穏やかに暮らしていた僕の日常は、その夜、唐突に終わってしまったんだ。




 炎。全てを焼く尽くす業火が、村中で暴れまわっている。今はもう夜なのに、昼みたいに明るい。飛び交う悲鳴と呪詛の言葉。「助けて、誰か、誰か――」、「畜生、人間どもめ!」。僕の周囲には、無残な姿に変わり果てた村人たちが転がっていた。声を上げていた人たちも一人、また一人と動かなくなっていった。
 人間たちは直接戦いを挑んではこない。どうにかして僕たちの村を見つけ出すと、周囲に火を放つ。焼いて、焼いて、焼き尽くして、それでも生き残りがいた場合に初めて直接戦闘に入る。火の手が弱まってくれば、この村に人間が押し寄せてくるだろう。
 火の手が上がるとすぐに、父ちゃんは僕に「一人で逃げろ」と言った。そして父ちゃんは村の人たちと一緒に、人間たちの所へ攻め込んでいった。僕は、逃げろと言われたのにごうごうと燃え盛る炎の中、ただ震えていた。がたがたと足が震えて歩けなくなり、しゃがみ込んで両手で顔を覆い、この恐ろしい出来事が過ぎ去るのを待っていた。
 怖い、怖い、怖い――。助けて。父ちゃん、助けて。
 どれくらいの間そうしていたのかは覚えていない。ふいに、がしりと腕を捕まれる。僕は情けない悲鳴を上げて、その場にへたり込んだ。
「馬鹿野郎! 何時までも何してやがるんだ手前は。こんな所にいたら焼け死んじまうぞ!」
 父ちゃんだった。僕は目に涙を浮かべながら、父ちゃんの厳つい胸に飛び込んだ。父ちゃんは大きな手で二、三回僕の頭を撫でてから、僕を胸から引き離して言った。
「――いいか。もし、もしも父ちゃんが死んでも、一人で強く生きていくんだぞ」
 僕は、その言葉に震えた。あまりの恐怖で言葉も出せず、首を左右に振って嫌だ、嫌だと身振りで駄々をこねる。
「時間は無い。もうすぐ人間たちがここまでやってくるだろう。今がチャンスなんだ。俺はここに残って奴らと戦う。戦ってお前が逃げる時間を稼ぐ。その間に出来るだけ遠くまで目一杯走れ。いいか? 絶対に俺を待ったりするな。走って、走って、走りまくれ。そして、遠くの街に着いたら――」
 父ちゃんはそこで一旦口をつぐむと、僕の目をじっと見つめたまま、もう一度頭を撫でる。ごつごつした父ちゃんの手は、少し痛いくらいに強く、僕の頭を撫でた。僕の目からは、ぽたぽたと涙が溢れ出していた。短いような、長いような間があってから、父ちゃんの口が開く。
「髪と目の色隠して、人間として生きろ――。俺のようには、なるな。こんな、憎みあって、傷つけあって、殺しあってなんて世界では、生きてくれるな」
 強く、強く抱きしめられる。僕は理解した。もう、泣いてはいけないんだ、と。
「……さあ、行け」
 僕を放すと、まだ火の手の上がっていない森を指差して、父ちゃんは言った。僕は涙を拭い、頷いて、森へと走り出した。僕は、一度も振り向かなかった。
 あのとき。生まれて初めて父ちゃんに抱きしめられたあのとき、理解してしまったんだ。もう二度と、父ちゃんとは会えない。父ちゃんの身体には火傷の跡が幾つもあった。僕たちだって不死身じゃない。再生能力にも限りがあり、傷が回復しなくなれば人間と変わらない。父ちゃんと一緒に行った村の人たちは、一人も戻ってこなかった。父ちゃんはここで最後まで戦って、死ぬ気なんだ。だから、せめて心配をかけないように、僕は父ちゃんの前で泣いてはいけないんだ、と理解したんだ――。
 村を抜けて森に入ると涙が止まらなかった。ぼろぼろと、滝のように流れてくる。それを何度も何度も振り払いながら、嗚咽を必死にかみ殺しながら、僕は走った。何回も転びながら、幾つもの擦り傷を作りながら、僕は走り続けた。
 森を抜け、山道に入り、山道を抜けたところで足がもつれて、派手に転んだ。すぐさま立ち上がろうとしたが、足が痙攣していて思うように動いてくれない。仕方なく、大の字に寝転んで身体を休ませる。目を閉じるとそのまま眠ってしまいそうだったので、夜風を感じながらじっと空の星を眺めていた。とても、綺麗だと思った。
 乱れていた呼吸が落ち着きを取り戻すと僕は上半身を起こして、何気なく後ろを振り返る。そのとき、僕の目が捉えた景色は――、とても綺麗だった。
 満天の星たちの輝きの下、深い森を包むオレンジ色。僕たちの村が燃えて、オレンジの絵の具になって、暗い森を染めている。オレンジ色の光の真上には雲一つない空で笑う満月。どんな色とりどりの絵の具を揃えても、こんなに綺麗な景色は描けないだろう。こんなに――、涙が滲んできてしまうくらい、綺麗で幻想的な景色は。
 夜風が、もう一度僕を撫でてくれた。父ちゃんの手のように、ごつごつとはしていなかったけれど、父ちゃんの手のように、暖かくもなかった。
 遂に、僕は堪えられなくなって、声を上げて泣いた。わあわあと、わんわんと、僕は泣いた。失くした。失くしてしまった。楽しかった思い出も、帰るべき家も、時々怖かったけど、優しくて、強くて、大きかった父ちゃんも――。
 夜が明けるまで泣き続けたけれど、失くしたものは何一つ戻ってこなかった。
 僕は独りになってしまった。
 僕は、独りになってしまったんだ――。
 深く暗い闇が、ずぶずぶと僕を飲み込んでいく。
遠吠えが聞こえた。獣のような雄叫びが。悲しみと憎悪に満ちた咆哮が。

 ソレが、僕の喉から放たれているものだと気付いたときには、涙は止まっていた。




 あの夜から十年近くの時が流れ、俺はいくつもの街を転々としていた。親父は「人間として生きろ」、と言い残したが、能力を隠した俺は唯の薄汚いガキ。そんな奴がほいほいと食い扶持を確保することなど出来るはずもない。俺は能力を悪用し、薄汚い仕事や盗みを繰り返しながらその日暮らしの生活をしていた。容姿が目立たないように着け髪や色眼鏡を盗み、ガラの悪そうな奴に近づいて飯のタネになりそうな話を探る。そんな、ある日のこと。寂れた街で、面白そうな噂が耳に入った。ここからずっと北にある街のマフィアのボスが、黒の一族を雇おうとしているらしい。
 実に興味深かった。どんなマフィアであれ、そんなことを言い出した奴は聞いたことがない。寧ろ、黒の一族を殺すためなら敵対勢力とも喜んで手を結ぶというのが主流な考えだ。極稀に黒の一族でも何でも使えるものは利用する、という奴らもいるにはいるのだが、おおっぴらな噂になるほど堂々と言いふらすは聞いたことがない。実際、以前仕事を依頼してきた奴らはイライラするほど周囲を気にかけていた。
 となれば十中八九、新興勢力が自分たちの実力をアピールしようとしているのだろう。ノコノコとやってきた奴を罠にはめて、数で押して始末。そんな段取りが組まれているのは明らかだ。間抜けが罠にはまり、運よくそいつを始末できたとなれば瞬く間に名は売れ出すだろう。珍しいほどに頭の悪い作戦だ。今時本気で俺たちが人間の言葉を信用すると思っているのだろうか? ……だが。
 暇潰しには丁度いい。万に一つも俺が遅れをとることはないだろうし、仮に殺されたとても、それはそれで構わない。退屈な毎日には飽き飽きしていたところだ。これで、次の目的地は決まった。
 親父は、憎しみあいや殺しあいの世界には入るな、と言ってくれたがそれは無理な話だった。俺たちは、そんな世界の中でしか生きていけない。どれだけ上手く髪を隠そうと、どれだけ人間を装うと、俺たちは人間とは相容れない。この十年でそのことはよく理解できた。
 あの、全てを失った夜に、俺はそれまでの自分を全て捨てた。名前を捨て、弱かった心を捨て、父の最期の願いをも捨て去った。
 もう、俺には本当に何もない。あとはこの中身のない空の身体と、異能の力をもって殺し続けるだけ。憎悪の焔に焼かれ、ただ独りで息絶える、その日まで――。





snow crow





 目が痛くなるほどの真っ白な街。それが、ようやくたどり着いた目的地に抱いた感想だった。溶けることのない万年雪に包まれ、その白さは一年中損なわれることはない、という話は聞いていたが、想像するのと実際に見てみるのとでは随分印象が異なる。その街へと続くあまりにも長い下り坂。その頂上からは、街の全景がよく見渡せた。
想像以上にクソ忌々しい白さだった。
 俺は、着け髪がしっかり頭に乗っかっていることを確認すると、外套のポケットから黒丸の色眼鏡を取り出して掛ける。この程度の子供だましの変装でも、漆黒の外套が虫除けのように煩わしい人間たちを追い払ってくれる。人間にとって黒という色は、それほどまでに忌み嫌うべきものらしい。
 白い息を吐くと、噂のマフィア『レノール・ファミリー』を目指した。俺が街に入った頃には夕日の息の根は途絶え、白い街はその姿を黒く塗り潰されていた。さくさくと雪を踏み締めながら歩く。大小の家屋が並ぶ通りや、街の大きさから見れば少々寂しげな商店街を抜け、街外れへと足を運ぶ。
 街は唯一の外へと続く長い坂道を除き、四方を山に囲まれている。街の外れまで来るとすぐそこに見える針葉樹の森からは、ミミズクの鳴き声が響き、夜になると昼のあの白さが嘘のように思える程、深い闇が包み込む。周囲から迫り来るような重苦しい圧迫感が、なんとも心地よかった。
 ひたすら歩き続けると、黒い森を背負いながら聳える屋敷が目の前に現れた。大きさはかなりのものだが、背後にはさらに巨大な山が聳えているので見劣りしている。なんだってこんな所に屋敷を建てたのか、どうにも理解に苦しむ。街の中心からはかなりの距離があるし、この場所ではどんな立派な屋敷を建てても、背後の山のせいでいくらか矮小に見えてしまう。マフィアのボスなんて無駄に派手好みで、自己顕示欲が旺盛な奴ばかりだと思っていたのだが、色々な人間がいるものだ。……単に俺の持つ情報がデマなだけかもしれないが。
 改めて屋敷を眺めると明かりが灯っているのは、二階の隅の一部屋だけ。とりあえずは情報の真偽を確かめるべきだろう。……しかし、そうは思っても正面から呼び鈴を鳴らすのも、なんとも間が抜けている。ならば上手い具合に忍び込めないだろうか。
ぐるりと屋敷の裏側へと回りこむと、背の高い樹木が無数に立ち並んでいる。しかもおあつらえ向きに、明かりの灯った部屋のすぐ側まで枝が伸びている。……あれを足場にするか。
 俺が飛び乗っても大丈夫そうな太い枝が窓の近くまで伸びている一本を見定めると、真下まで歩いていき、助走もなしに跳躍する。空中で枝を掴むと、枝がしなる鈍い音と共に積もっていた雪が頭に降ってきた。……畜生、一気に上まで跳ぶんだった。舌打ちをしてから腕力だけで全身を枝の上に移す。頭に積もった雪を忌々しげに振り払っていると、きい、と小さな音をたてて窓が僅かに開いた。驚く間もなく、中から顔を出した奴と目が合う。女だった。

 その女は明らかに俺の――不審者の姿に気がついている。それなのに全く動じた様子もなく、俺と目を合わせたまま懐から取り出した煙草を咥え、マッチで火を点けると、ふう、と煙を吐き出した。
「この屋敷に何か用か?」
 その姿は今まで見てきた人間連中の俺に対する反応とはあまりにも異なっていたので、戸惑いと、薬物中毒か頭のイカれた奴かという思いが浮かんだがそうではないらしい。なんとなくではあるが女の一言には深い知性が感じられるように思える。
「……ここが、レノール・ファミリーの屋敷だと言うのなら、用はある」
 女はそうか、と呟いて窓を大きく開け放つ。
「入れよ。話はそれからだ」
 妖しげな微笑を残して、女は部屋の中へと姿を消した。
 面白い、と思った。俺の中から戸惑いが消え去ると女の本質が良く見えてくる。あの女はただ度胸が据わっているだけではない。
 あまりにも襲撃に慣れている。明らかに、一般人ではない。
 恐らく夜分に不審者が姿を見せることなど、日常茶飯事なのだろう。そうでなくてはあそこまで驚きの表情を隠せるものではない。度重なる襲撃を受けてきた経験と、それを悉く退けてきたという自信があの女にはあるのだ。俺は開け放たれた窓から、部屋の中へと侵入した。屋敷の住人に招かれるという、なんとも奇妙な形で。
 そこは、小ぢんまりとした部屋だった。様々な書類が乱雑としている机が部屋の端に一つ、その反対側の端に大きめの暖炉。中央には恐らくは客人用のテーブルとソファ。さっぱりとしていて、ごてごてと美術品や絵画が飾られていることもない。ただ頭上の照明にだけは、気品のある豪華さが僅かながら感じられた。女はソファに腰掛けて俺を値踏みするように眺めていた。手振りで向かいのソファを勧める。俺が腰掛けると、女の方から話を切り出してきた。 
「それでは、用件を聞こうか?」
 灰皿に煙草を押し付けると、女は薄い縁なし眼鏡の奥から射るような視線をぶつけてきた。女の姿は紺のスーツに縁なし眼鏡、長めのブロンドの髪を背中辺りで束ねている。年は俺よりも幾らか上、といったところか。秘書のように見て取れるが、実際はどうなのだろう。
「ここのボスが黒の一族を捜している、という噂を聞いたんでな」
 俺が呟いた途端に空気がぴん、と張り詰めていく。
「まさか、お前がそうだとでも?」
 ばさ、と着け髪を外し、色眼鏡を外套のポケットにしまう。テーブルの上に赤茶色の着け髪を放る。俺を――漆黒の魔物を前にして、女の顔に僅かながら感情の火が灯る。あれは――驚愕と、歓喜? ざわ、と俺の中に違和感が芽生える。
何だ? あの表情は。驚愕の感情が見えるのは分かる。だが、あの歓喜の色は獲物が罠に掛かったことへの喜びではなく、待ち焦がれた何かに巡り合えたことを喜んでいる、子供のように無邪気で裏のない純粋な喜び。
「せっかく来てくれたところで申し訳ないが、偽物という可能性もある。……不躾だが試してみても、構わんか?」
 女はテーブルから、あまりにも気負いのなく自然な動作で、それこそ再び煙草を取り出すかのような気軽さで銃を取り出し、俺に照準を定めた。先程の女の感情に対する不可解さが心中をかき乱し、俺は少々ではあるが冷静さを失っていた。
 はっとしたときには既に、銃声が二つ。
 俺は普段なら動かずとも余裕で防げる攻撃を、真横に大きく跳ぶことで回避した。床に片膝を付きながら状況を大雑把に解析。先程まで座っていたソファに穿たれた二つの弾痕の角度から見れば、座っていたときの俺の心臓と、後頭部の位置を経由していると推測できる。そして、その弾丸は女が放ったものではなく、頭上から降り注いでいた。天井には人が隠れられる場所などない。つまりは女の動きで牽制し、本命は別の位置から跳弾で俺を狙っていたのだ。
 無傷ではあったが、実に不愉快だった。別段女の行動に腹が立ったわけではなく、敵地の中で無様にもうろたえ油断した自分の迂闊さが許せなかった。舌打ちし、顔を上げると目前に――銃口。
 額と銃口との間は握り拳一つ分ほどしかない。この距離で頭に銃撃を受ければ、助からない。
 かちり、と女が銃のセイフティを解除する。
「さあ、どう凌ぐ? ノスフェラトゥ」
 この体勢からでは回避はしきれない。
 ――ならば。
 ぞくん、と体中から血液が抜けていく感覚が広がる。そして視界に展開される、数瞬先の未来の情報。
『回避行動をとればその瞬間を跳弾で狙われ、体勢が崩れた所に女の弾丸が穿たれる』
『回避せずに女の弾丸をやり過ごさねば死』
『右手で弾丸を防ぐことが被害を最小に抑える手段と思われる』
『弾丸の発射速度、タイミング、角度……』
 一秒にも満たない刹那に何十、何百もの情報が文章となり展開され、俺の身体を操作する主導権が俺から無意識中の本能へと渡る。俺の意識は現世から遠のき、本能は現在の状況を打破する最適な情報を選び取り、全身に命令を下す。――その結果。
 銃声、ほぼ同時にオートで行動を開始する右手。銃口から飛び出た弾丸をしっかりと手中に収める。掌に、鈍い痛み。それを引き金にして主導権が戻り、俺はようやく帰還する。女は呆然と俺を見ている。
「今、何をした? 何故、貴様は生きている?」
 立ち上がり、右手の中の物体を女に見せる。
「あんたの弾丸が俺の頭に当たる前に掴み取ったから、だろ」
 鉛の塊を放って、銃弾を掴み取った際にできた傷跡を鼻の先に突き出す。今、女は傷口がみるみる治っていくのを見ているだろう。
「……本物、みたいだな」
 しばらく俺の手を眺めてから女は額に手を当て、天を仰ぎ笑い出した。
「は、ははははは! まさか、こんなに早く本物に会えるとはな!」
 
 ひとしきり笑い終えると女は銃を投げ捨て、右手を差し出してきた。どうやら握手を求めているらしい。俺は申し訳程度にその手を握った。その後、女にほぼ無理矢理に再びソファに座らせられる。――それも、穴が開いた方のソファに。
「まずは先程の非礼を詫びよう。それから、早速だが商談に入りたいのだがかまわんか?」
 そこで、先程から俺の胸中に渦巻いていた違和感の正体がわかった。この女は本気なのだ。本気で俺を組にスカウトしようとしている。一体、何を考えているのだ? とても正気の沙汰とは思えない。
 一度どこかの組で使い捨ての殺し屋として雇われた経験はあるが、その組は俺を一時的に雇ったことでさえ、揉めに揉めて内部分裂して崩壊した。人間と俺たちとの溝は、それほどまでに深いものなのだ。
 それなのに、この女ときたら本当に嬉しそうにあれこれと話を続けている。これが演技でないことはその雰囲気から読み取れるし、何より俺の『眼』がそう言っている。すっかり毒気を抜かれてしまった気分だった。暇潰しに組を相手に一騒動起こす気でいたというのに……。
 だが、飯の種が確保できるのは別に悪いことではない。金は持っていても煩わしいだけなので、俺は美味い飯とまともな寝床さえあればいい、という条件を出し女はそれを快諾した。
 雇用内容をあれこれと話し込んでいると、控えめなノックの音がして男が一人入ってきた。俺もそれなりに上背はあるが、その俺よりさらに頭一つ分高く、ブルーの頭髪を、オールバックにしてある。面長な顔に、不機嫌そうな険しい目つき。その瞳は左右で色が異なる。手には盆を持ち、その上にはティーポットと二つのカップ。服装からはこの屋敷の執事と推測されるが、それだけではないはずだ。その佇まいには隙がなさ過ぎる。
 恐らく先程の跳弾もこの男によるものだろう。僅かだが硝煙の残り香を感じる。男は音を発することなく歩み寄ると、女に軽く会釈をしてテーブルに置いたカップに茶を注ぐ。
「ああ、そう言えば自己紹介がまだだったな。こいつは私のボディガード兼この屋敷の執事でノイドという」
 執事――ノイドは俺に会釈をする。
「先程の狙撃もノイドのものだ。お前は私の銃弾を素手で受け止めたが、左右に回避していれば、ノイドの跳弾の餌食になっていたかもしれんぞ。ノスフェラトゥほどとは言わんが、中々腕の立つ男だ」
 俺は仏頂面の執事を眺めながら紅茶を啜った。
「それから、私がこのレノール・ファミリーのボス、ミリーシャ・レノールだ」
 そう言うと紅茶には目も暮れず、煙草を取り出して咥える。
 ……まあ、初めからこの可能性も考えなかったわけでもないし、何より俺が本物の黒の一族だと分かったときの喜びようからうすうす気付いてはいたが。俺は一つ、ため息を吐き出す。
「それでは、お前の話を聞こうか。取り敢えず、名前は?」
「ずっと昔に捨てた。別に『お前』で通じるんだからそれで問題ないだろう?」
 実際、今までだってそれで何とかなっているのだ。差し支えはない。
「ふぅん、じゃあ歳は? 随分若そうだが、どうなんだ?」
「……数え間違えてなければ十九だ」
 くくく、ミリーシャが愉快そうに笑う。
「数え間違えてなければ、か。面白い答えだ。それではお前たちノスフェラトゥとしての能力について語れる範囲でいい。教えてくれないか?」
「俺たちの持つ力は三つ。向上した身体能力と回復能力、そして個人毎に異なる固有能力だ。身体能力の高さは死ぬまで継続するが、回復能力には限度がある。限度の上限は個人差があるのでどれくらい、とは言い切れないがな」
 ほう、とミリーシャが唸る。
「俺の持つ固有能力は、数瞬先の未来の情報を視覚化することができる。お前の銃弾を止めたときもこの能力を使った。後は、そうだな、意識を集中させて見れば五感で感じる以上の情報をえることはできる。……まぁ、洞察力が鋭い、程度に考えてくれればいい」
 無言で手中の煙草を弄び、灰皿に捨てる。灰皿はすでに、奇妙なオブジェのような有様だった。ミリーシャは長めの足を組み、俺に揶揄するような笑みを向けた。
「随分と詳しく話してくれるじゃないか。私のことをそんなに信用してくれているのか?」
 その言葉に俺は思わず激昂し、冗談じゃない、そう忌々しげに吐き捨てる。
「俺が人間なんぞを信用するものか。第一、能力が知れたからといって貴様等に俺をどうにかできるはずもないだろう。教えたのは社交辞令程度の意味合いだ」
 奥歯をかみ締め、ミリーシャを睨みつける。知らず、両の拳は強く握られていた。
「そうか、そいつは残念だ」
 ミリーシャはそうは言いつつも、さして落胆したような仕草はみせず、新たに煙草を咥えた。どうやらかなりのへヴィスモーカーらしい。俺はなるべく気付かれないように、二、三度息を吐き出して、熱くなってしまった自分を抑える。
 もう話は終わりか? そう切り出すとミリーシャは腕を組んで考え出す。
「そうだな……約束の寝床だが、この屋敷の好きな部屋を使ってくれ。食事はノイドか、昼なら二、三人侍女がいるから、そいつらに声を掛けてくれれば用意するよう手配はしておく。食堂は一階、風呂とトイレは一階と二階の両方にある。好きに使え。明日は早速働いてもらうことになる。ゆっくり休んでくれ」
 ソファから腰を上げ、部屋から出ようとしたところで、呼び止められる。
「そうそう。クロウ、それがここにいる間のお前の名前だ。黒尽くめのお前には、ぴったりだろう?」
「……好きに呼べばいい」
 俺はミリーシャの部屋を後にすると、二階の手近な部屋に入りベッドに倒れこむ。
ああ、着け髪あの部屋に置きっぱなしにしちまったな……。
そうは思っても動き出す気にはなれず、俺はそのまま眠りに落ちていった。



「……奴は、話しませんでしたね」
 奴――クロウが部屋を後にしてから、ノイドが口を開く。相変わらずの低くて聞き取りにくい声だった。
「回復能力や固有能力の使用には、体内中の血液を消費することか?」
 構わんさ、そんなこと。私は火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し付ける。親父に叩き込まれた知識によれば、奴らの異常身体能力以外の能力は体内中の血液を消費する。そして、生命活動に支障が出る前にセイフティが働き、能力は使用不可能となる。最も、奴らの体内には特殊な造血器官があるため、そう簡単には打ち止めにはならないらしいが。
「くくく、やっと会えたノスフェラトゥが、あんな餓鬼だとは思っても見なかったが、中々悪くない。人間なんざ信用しない、そう言ったときのあいつの殺意には、久々に恐怖というものを感じたぞ」
 今日何十本目かの煙草を取り出すと、珍しくノイドが口出ししてきた。
「ミリーシャ様、吸い過ぎは御身体に障ります」
 構わず火を点け、咥えたままソファから立ち上がると、ずっと開けっ放しだった窓へと近づく。やけに寒いと思ったら、ちらちらと雪が降り出している。ぱたん、と窓を閉める。
「まぁ、そう言うなよ。計画通りに事が進めば、後僅かの命なんだ」
 ノイドはそれ以上、何も言ってこなかった。あいつは今、どんな表情をしているのだろうか? 考えるまでもない。能面のような無表情だろう。昔の――、あの頃のように私と一緒に笑っていたノイドはもういない。そう思うと殴りつけられたような鈍痛が胸に走り、私は顔を歪める。それ以上は会話を続ける気にはなれず、事務的な声で命令を告げる。
「お前ももう休め。明日からはお前にも動いてもらうことになるんだ」
 かしこまりました、背中越しに声が聞こえ、部屋には私一人になった。
今のノイドは、まるで精密機械のように無機質だ。心も感情も凍りつき、ただ私の命令を忠実にこなすだけの『人形』。
 全てはあの男の呪縛のせい。
 そして、私もまた、その呪縛から逃れられない『人形』。
 ――だから。
「賢しい人間の呪いなど、お前の力で粉々に打ち砕いてくれよ、クロウ」
 吐き出した紫煙は宙を舞う。閉めたはずの窓から冷たい風が吹いているように思えた。
「私の、この命もろともに……」
 見上げた夜空には、月の姿は見えなかった。ふ、と笑みが零れる。この命が朽ちれば私を操る糸は切れ、ようやく私は自身を取り戻すことが出来るのだ。例えそれが、死の間際の、刹那だけだとしても。
 窓を揺らす風に運ばれてきたかのように、かつての記憶が、僅かに脳裏に映し出される。
 ちくり、と胸が痛む。
 記憶の片隅にある遠い日の約束が、果たせないままの約束が、砕けたガラス細工のように悲しく輝いた気がした。窓に映る私は、その表情を歪めていた。先程とは一転して心中を満たす虚しさとやるせなさ。それらを誤魔化すために、私は新しい煙草に指を伸ばした。






 自分の輪郭を捉えるのがやっと。そんな闇の中に俺はいた。周囲を見回しても暗黒ばかりが広がっている。ここは、どこだ?
 それでも何度となく無駄とも思えるその行為を繰り返していると、ぼう、と微かに何かが光る。俺は、それを目指して走る。思いっきり走っても俺の足音すら聞こえない。そもそも確固たる地面が存在するかもわからない。漠然と、焦燥感ばかりが募っていく。
それでもだんだん光へと近づいていく。いや、もしかしたら、光が俺に近づいてきているのかもしれない。――わからない。把握できない。俺の眼は、闇以外の何かを見せようとはしてくれない。
 ねっとりとした不安と恐怖が、うぞうぞと全身に絡みついてくる。必死で、走る。嫌な汗が流れ、悪寒が背を走る。
 息が切れ始めた頃には光はもう、すぐそこにあった。ぼんやりと光っているその球体の中心には、人の姿があった。その姿を見て、俺の身体は凍りついたように動かなくなる。
どくん、と心臓が高鳴る。馬鹿な。全身から汗が噴出す。何故あなたがここに? 僕は、わなわなと震えていた。――僕、だと?
「父ちゃん!」
 ぞぶり、と俺の身体からそれは飛び出す。小さな身体で懸命に光の中の人物へと走りより、抱きつく。光の中の人物――親父は、俺の身体から飛び出した、かつての俺を抱き上げた。二人とも、楽しそうに笑っていた。足から力が抜け、俺は崩れ落ちた。息が、どんどんと荒くなっていく。流れ落ちる汗の量も増え続けていく。
 地面から二人を見上げると、親父と目が合う。そして親父は酷く哀しげな眼差しで俺を見つめた。……止めろ。
 過去の俺は必死になって親父にしがみついている。その姿が、やけに気に入らない。
 親父は、優しく笑って俺に手を差し伸べる。ふざけるな……。
 立ち上がる。誰の力も借りずに、ただ独りで――。
そして、右腕を振り上げる。
 無言で振り下ろした俺の右腕は、親父の胸に突き刺さる。親父は――光は、悲しげな顔を残して消えていき、周囲は再び闇と静寂の世界となった。餓鬼の姿をした俺は、腹が立つほどにうろたえ、怯えていた。
「どうして……? なんで、父ちゃんを殺したの?」
 黙れ。
「そんなことしちゃったら、僕は独りになっちゃうよ」
 俺は、独りでいい。
「嘘だよ、そんなの! 怖くて、寂しくて、いつだって震えているくせに!」
違う! 出鱈目を言うな! 俺は震えてなどいない、怯えてなどいない! 
俺は狂ったように叫んだ。いや、事実として、俺は狂っていたのかもしれない。
軋む、軋む、軋む。
 ぎしぎしと鈍い音と共に、全身が、心が悲鳴を上げる。無人の空間を切り裂こうと、けり砕こうと、暴れまわる。ただ、この腕にも、脚にも、何かが触れることはない。獣のような咆哮を幾度繰り返しても、闇に吸い込まれていくばかり。
刹那、四肢が動かなくなる。いつの間にか俺の四肢は闇に囚われ、完全に一体化していた。餓鬼の姿の俺もいなくなっている。
 俺は四肢を闇に繋がれ、完全に独りになった。
 ぴくりとも動けないまま、時間は過ぎていく。びしびしと心が砕けていく。
 何かが頬を伝う。それは、ゆっくりと俺の顔上を移動していき顎から滴り、びちゃりと落ちる。真っ赤な雫だった。
 その雫を眺めたまま俺は、
 砕けきった心で、死を願った。



 最悪の目覚めだった。あの類の悪夢は何度も見ている。それでも、一向に慣れることができない。窓から外を覗くと、既に朝のようだ。気分を切り替えようと、今自分のいる部屋を観察する。ドアのすぐ側にテーブルと椅子が二つ、ベッドのすぐ側に外套掛け、その後ろには大きめの窓、さらには暖炉まであって、頭上にはシャンデリア。掃除は隅々まで行き届いていて、部屋の広さもかなりのもの。その辺の高級宿顔負けの設備だった。のそのそとベッドから這い出たところで、ノックの音が響く。
「……開いている」
 ドアが軋み、ミリーシャがその姿を見せるなり、忘れ物だ、と俺の着け髪を放る。放物線を描きベッドの上に落ちた真っ赤なそれは、俺に先程の悪夢を思い出させた。雇い主に気付かれない程度に舌を打ち、俺はそれを頭に乗せる。
「さて、朝食と仕事の話、どちらを先にしようか」
 俺は、窓を開け放ち、冷たい空気で身を引き締める。
「仕事の話を」
 ふむ、と一言呟くと、ミリーシャはドアの近くにあった椅子に腰掛け、懐から取り出した煙草を咥え、火を点ける。
「今回の仕事は、ある宗教団体を壊滅させることだ」
 そこで紫煙を吐き出すと、まあ、座れよ、と右手で促す。俺はベッドに腰掛けると黙って続きを待った。
「正式名称は『白の使徒』。アンチ・ノスフェラトゥを理念としたカルト宗教で、妖しげな儀式――それも生贄を捧げたりするようなもの――を繰り返している、かなり危険な集団……というのが表向きの姿だ」
 ここまででも充分濃いだろう? とテーブルの上の灰皿を手元に引き寄せながら、ミリーシャは笑った。
「裏では、麻薬の栽培から、人身売買まで手広く扱ってよろしくやってるクソ共だ。しかも甘い汁を吸っているのは上部の数人程度で、下っ端連中はほとんどが薬漬けな上に、洗脳まで施されて幹部連中の顎で使われている……そう、まさに『人形』だ」
 ふいに、ミリーシャの顔に僅かながら憎悪の火が灯ったように感じた。『人形』、その言葉が漏れたのと同時に現れたそれは、今のミリーシャからは感じられない。……俺の気のせいだったか?
「下っ端連中は始末しようがしまいが構わんが、幹部連中は一人たりとも生かしておくな。それから、近々生贄の儀式とやらが執り行われるらしいが、その生贄について気になる情報がある。そいつの確保も仕事の内だ。襲撃の方法やらは、実際に行くお前とノイドで打ち合わせておいてくれ。私からは以上だが、質問は?」
「こちらの手勢は俺と執事だけなのか?」
 あの執事と俺なら二人でも充分だろうが、人手はいるに越したことはない。
「そうだ。ウチの構成員は私を除けば、お前とノイドの二人だけだからな」
「……馬鹿な冗談はよせ。それじゃあ俺が来るまではたった二人だけで、組を名乗っていたというのか?」
「そうではない。ウチは元々私の父親が長をしていて、その頃にはもっと人もいた。だが、親父が急死し、私が後釜に添えられたわけだが、私は父のようにうなるほどの金を求めているわけではない。私の望みはお前とノイドさえいれば叶う。だから、他の者には余所へ行ってもらったのだ。用もない者に無駄金を払うのは御免だし、流れてきた肝心のノスフェラトゥが、大金を要求してきた場合に払えないのでは話にならないからな」
 まあ、実際現れた奴は笑えるほどに安上がりな要求しかしてこなかったが、そう呟いてから、からかうように笑った。
 他にも知りたいことはあったが、その辺りは後々執事との打ち合わせのときに確認できるし、何より腹が減ったので、その旨を告げるとベッドから立ち上がる。
「……クロウ」
 未だに椅子から立とうとしないミリーシャを尻目に、ドアノブに手を掛けた所で呼び止められる。
「もしも、私を殺せ、という命令を私が出したとしたら、お前はそれに従うか?」
「……さあな」
 逡巡した挙句、そう呟くと俺は逃げるように食堂へと向かった。足早なのは、きっと紫煙が煩わしかったせいだ、と言い訳染みた言葉が、何故か頭をよぎった。

 朝食を済ませた後、早速執事と打ち合わせに入る。
おおよその情報をまとめると、向こうの数はおおよそ二百人弱で、廃墟となった街に住み着いている。生贄は街の中央に聳える時計塔の最上階に監禁。幹部連中は北西にある施設に固まっている、というらしい。
 相手はそれなりの頭数がいるとしても、所詮は素人の集団。よって別々に奇襲をかけ、片方は幹部の始末、もう一方が生贄救出に向かうということに決まった。俺としては当然のように、自分が幹部の始末に向かうと思っていた。しかし、
「クロウ、お前には生贄の救出に向かってもらいたい」
 執事はそれとは全く反対の意見を口にした。
「何故だ? 生贄と幹部連中では、ほぼ確実に連中の施設の方が厳重に警戒されているはずだ。戦闘力から考えても俺が施設へ向かうべきだと思うが?」
 それに、夜襲をかけるということだったので、夜間では目立つ着け髪は外していくのだ。黒髪の状態の俺が救出に向かったとしても、生贄はますます怯え、救出がかなり困難な作業になるであろうことは容易に予想できる。
「ミリーシャ様は、お前に生贄のことをお話ししなかったのか? 今回奴らの儀式に用いられる生贄は……」
 
 お前と同じ、ノスフェラトゥだ。


 執事に聞いた話によると、かつての廃墟はこの白い街と似たような形で、正面にある道だけが街へ続く唯一の道で、それ以外は小高い崖に囲まれているという。俺たちはその、『普通の』人間から見れば進入不可能な崖から攻め込むことにした。それから俺が陽動として北東部の麻薬栽培施設を襲い、一騒ぎを起こした後に作戦開始という流れで落ち着いた。あちらに着く時刻が日の沈みきった頃になるように、夕方にはこの街を出ることになる。これで、何度目だろう。仕事の手筈を頭の中で反芻するのは。
 今は昼を少し過ぎたばかり。俺は自室のベッドの上で何をするともなく、天井を眺めていた。普段の俺ならこんなときは睡眠を取り体調を整える。しかし、今はどういうわけだか全く眠くない。その原因は明らかで、同族に思いがけない形で会うことになったためだろう。寝返りをうつ。
 村の連中以外の同族には、今まで出会ったことはない。俺は仕事の中で、そんな同族を助けることになったのだが、そいつは俺のことをどう思うのだろうか。よりにもよって人間なんぞの手先になった愚か者、と蔑むのだろうか。涙を流すほどの感動などなくても、ほんの僅かにでも、嬉しいとは思ってくれないのだろうか。
 ……無様だ、と思った。悪夢の中では何度も独りでいい、と叫んでおきながらいざ仲間に会えるとなると、こんなにも落ち着くことができない。自嘲気味に笑う。
 それからどれ程時間がかかったのかは知らないが、俺の意識はようやく薄れていった。



 そこは、かつては街ではあったが、現在は狂信者と外道が蠢くばかりの魔都。
夜風に吹かれ、目を細める。幸い雪は降っていないので視界はそれほど悪くない。足場は最悪だが、同じ条件下ならば特に問題ではない。幹部以外の連中はこの廃墟にではなく、地下の栽培施設の脇に作られた、お世辞にも居住区とは言えない、劣悪な環境下で暮らしているということが、先程行った襲撃でわかった。
 ぎゃあぎゃあという喧しい騒音が、周囲から絶え間なく聞こえてくる。夜の闇にぼんやりとオレンジの光。地下の栽培施設に忍び込み、放った炎が広がりきったようだ。ごうごうという炎の音以外に、もう誰も住んでいない家屋の周囲から、ざくざくと雪を踏みしめ近づく複数の足音。はあ、と吐き出した真っ白なため息は、風が空へと運んでいった。
「いたぞ、あそこだッ!」
「……おい、あいつだ、間違いない。ノスフェラトゥだ!」
 殺さない程度に蹴散らしたのが間違いだったのか、後から後からぞろぞろと出てくる薬中ども。薬のおかげで死に対する恐怖もなく、痛覚も鈍っているのだろう。普通の人間に比べて、格段にしぶとい。しかも侵入者は奴らが目の仇にしているノスフェラトゥとあって、狂信者たちの勢いは一向に衰えない。
 幹部どもの施設周辺からは、俺が施したものとは別の炎が上がっている。執事が無事仕事を終えたのだろう。あの狼煙を合図に、俺は救出作戦に向かう予定だった。
 ――だが。
 狂信者たちはそちらに見向きもせず、執拗に俺ばかりを狙ってくる。薬と妖しげな儀式での洗脳効果は、幹部どもの想像以上だったのだろう。目が尋常ではない。
 まともに相手をしていては、こちらがもたないかもしれない。
 成体のノスフェラトゥが大人しく捕まっているということは考えにくいので、生贄とは恐らく、能力の極めて低い子供か老人だろう。だとすれば、救出後は戦力的に足手まといとなる生贄を連れて、この狂信者たちを掻き分けて逃走することになる。そうなれば、かなり厳しい状況となる。

 ――敵戦力をある程度削るべきだな。

 固有能力を使用。血液が消費され、全身の感覚が薄れ、意識が遠のく。幽体離脱のような、自分自身を俯瞰する奇妙な世界が広がる。俺の無意識中の本能が全身を支配する。
 飛び交う銃弾の軌道、振り下ろされる刃物、鈍器の軌道、応援部隊が現れる場所、戦場の数瞬未来の情報を文章として視覚化し、それとほぼ同時に把握。後は本能が命令するままに――破壊する。
 敵との位置関係をコントロールし、同士討ちを狙う。
 自分の武器が仲間を傷つけようと、狂信者は学ぼうともせず、人海戦術ばかりを繰り返す。俺が回避するごとに、奴らは同士討ちでどんどん自滅していく。

『背後より銃撃』
『左右より増援二十ずつ』
『前方より狙撃銃による銃弾』
 ほぼ全方位から降り注ぐ銃弾を、紙一重で避け、いなし、敵に当たるように操作する。少々身体をかすめても、回復能力によりすぐさま回復する。
 思っていた以上の殲滅速度で蹴散らしていたようで、増援部隊はもう現れなくなっていた。……こうなれば、そろそろだろう。
『回避不可能な銃弾、前方より一、三秒後に二』
『背後より二、一六秒後に四』
『拳撃による弾道調整により敵四体を破壊可能』
『拳撃を放つタイミング、角度、威力情報を展開』
『他、五秒以内の回避可能な三十二の弾道情報を同時展開』
 呼吸を乱さず、心拍を乱さず、適格に、着実に敵を討つ。風が止み、周囲の硝煙が濃さを増していき、俺を包み込む。それにより敵の銃撃が僅かに緩んだ刹那、能力を解く。意識が身体に引き戻され、手足の感覚が通常状態に戻る。それとほぼ同時に、
「――ふッ!」
 全力での一撃を大地に放つ。降り積もった雪が舞い上がり、俺の周囲三百六十度をカバーする純白の防壁となる。跳躍し、唯一の抜け道――すなわち俺の真上から飛び出すと、周囲にあった建物の屋根の上を駆け抜け、中央の時計塔を目指す。

 それからは拍子抜けするほど簡単に、目的地へとたどり着いた。ほぼ総動員で俺を潰しにかかったのだろう。この辺りには全く人の気配がなく、寂れきった廃墟が広がるばかり。
「……ここか」
 目前に聳える時計塔は、生贄を閉じ込めている場所だというのに、見張りすらいない。知らず、胸が早鐘を撞く。ここに、俺の同族がいる。心を満たすこの感情は恐怖か、歓喜か。恐らくはその両方がごちゃ混ぜになって、言葉では表現し難い感情を形成しているのだろう。そんなことをぐだぐだと考えている自分に気付くと、舌打ちをして足を進める。
 時計塔内部は、所々に松明のぼんやりとした灯りがあるだけで、やはり人の気配はない。それでも用心は怠らず、周囲を探りながら進む。時計塔の中は外ほどではないがかなり冷え、かびの臭いが漂っていた。螺旋状の階段を一歩一歩踏みしめていく。最上階が近づくにつれ、時計の作動音が大きく響く。
 阿呆らしい。こんなことをしているのは食い扶持を稼ぐためだ。生贄にされかかった同属だろうと、何だろうと、ぐだぐだ考えるのは仕事が終ってからでも遅くない。だから、無駄に暴れるな、俺の心臓――。
 歩みを進めながら、感情を抑えようとしても効果はほとんどない。それどころか感情の高ぶりは増していくばかり。いつまでも吹っ切れない自分の情けなさに呆れながらも、足だけは止めずに進む。

 長い階段をようやく上りきると、小さな牢がそこにあった。背後にある窓からは、丁度三日月が顔を覗かせていた。
 牢の中は酷い有様で、相変わらずのかび臭さと寒さ、そして不気味に足元から響く歯車やら何やらの音。それくらいしかなかった。寝台のようなものはなく、俺の足元と同じ素肌には冷たすぎる床があるだけで、明かりすらない。
 だから、だろうか。
 そいつは、俺に背中を向けて狭い窓――窓というよりは隙間に近い――からぼんやりと月を眺めていた。ぺたん、と床に座り込んだ格好はなんとも、儚げだった。この寒空だというのに、ぼろきれのような薄手の白い服だけを纏い、腰まである黒髪を束ねもせずに流している。
 ――それなのに。
 肌は白く透き通っていて、後姿の儚さもあり、まるで雪のようだ、と俺に思わせた。先程までのよくわからない感情は、もうどこかへと消え去ってしまっていて、俺はただ、どうやってこいつを助けようか、とそればかりを考えていた。仕事をこなそうと、思考を切り替えたわけではない。ただ純粋に助けたいと、そう思っていた。
 だが、歯車の騒音で俺の足音が聞こえていなかったのだろうか。俺の存在にまるで気付かないまま、月を見上げ続けている。どう声を掛ければいいのか分からなかったので、仕方なくそいつが気付くように、こつん、とわざと大きめに足音を響かせながら一歩近づいた。
「……あなた、だれ?」
 振り向いたそいつは、大きな瞳をさらに大きく見開きながら、そう尋ねてきた。驚いてはいたが、怯えている様子はない。きっと、同じ黒髪だからだろう。俺はぼりぼりと痒くもない頭を掻く。
「今の雇い主からは、クロウと呼ばれている」
 おおよそ十四、五くらいだろうか。まだ幼さの抜けきらない瞳で真っ直ぐに見つめられると、少々居心地が悪い。
「お前、名前は?」
 場繋ぎで放った質問に、そいつは首をふるふると横に振ってみせる。餓鬼の頃からここに囚われていたのか? そう思うと、何故か妙にいらいらする。
「……名前、欲しいか?」
「うん」
 すぐさま頷く。だったら好きな名を名乗れ、そう続けるつもりだったが、そこでそいつの期待に満ちた眼差しに気付く。
「まさか、俺に名前を付けろ、と言うのか?」
「付けてくれるんじゃないの?」
 予想外の展開だった。そいつの言葉もそうだが、何よりも、真剣にそいつの名前を考えている俺自身が。くそ、名前なんてどうやって付ければいい?
 あれこれと考えている時間はないが、そう簡単に決められるものでもない。どうしたものか、と思案に暮れていると、ミリーシャの言葉が思い出された。クロウ。黒尽くめのお前にはぴったりだろう、あいつはそう言っていた。
 だったら、こいつは――。
「スノウ、だ。それで文句があるなら自分で考えろ」
 あいつは、再び俺を初めて見たときと同じ表情をしてから、スノウ、スノウ、とその名を何回も呟いた。
「うん! わたし、今日からスノウ」
 程なくして、満面の笑顔でそう言った。その笑顔を見ながら、そうか、と呟く。気付かないうちに、俺も僅かにではあるが、微笑んでいた。何年ぶりかの穏やかな気持ちだった。
「それではスノウ。俺は、お前を助けに来た」
 牢越しに伸ばした俺の手に、スノウのか細い手が添えられる。三日月の淡い光が、優しく俺たちを包んでくれていた。  






「敵戦力のほとんどが奴に集中していましたが、まず問題ないと見てよろしいかと」
 掌で曇った窓ガラスを拭きながら、私はノイドの報告に耳を傾ける。昨夜、クロウを招き入れた窓は、時折風に吹かれてかたかたと悲鳴を上げながら、私とノイドの姿を映す。ノイドの姿は、いつもの執事のそれではない。全体的にだらりとした服装で、特に袖の部分が異様に長い。この辺りではほとんど見ることのないそれは、ノイドの暗殺などの荒事用の服で、袖の中には様々な武器――暗器と呼ばれるもの――が収まっているらしい。
「そうか」
 一言だけそう呟いてノイドを下がらせ、部屋に一人になると煙草を取り出す。先程まで見えていた三日月が雲に隠れ、ちらちらと雪が降り出した。それを僅かに視界に留めながら、私は思索にふける。
 昨夜のクロウとのやりとりから、奴はこのままでは心許ない、という結論を下した。
 能力自体は申し分ないのだが、奴の心中の憎悪の念が薄すぎる。確かに最後の最後で私に放った殺気は中々のものだった。しかし、その瞬間以外の奴からは何も感じられない。虚無感に支配されているからこそ、全てではなくとも自分の能力を抵抗もなく口にしたのだろう。
 奴は虚ろなのだ。
 全てに疲れ果てた老人のような、気概のない死んだ瞳。奴は、心の奥底で死を願っている。恐らくあの殺気も、精一杯の虚勢であろうと推測される。全てに疲れ、死を願いながらも、人間に心を許すわけにはいかない。そんな、なんとも滑稽な意地。
 ふいに自嘲気味の笑みがこぼれる。私も言ってしまえば「滑稽な意地」のためにこんなことをしているのだから、あいつを笑ったりはできないな。私とクロウは、同じだ――。虚しさに心を蝕まれながら、ただふらふらと永遠の眠りにつく寝場所を探し続けている。
 今更ながら灰皿が側にないことに気付き、私は窓を開いて、吸いかけのそれを投げ捨てる。それから、笑みを消して再び思索に入る。部屋に入ってきた粉雪も、さして気にはならなかった。

 それでは駄目だ。
 そんな虚ろでゆらゆらと揺れる、脆弱な意志では。もっと、もっと強い意志が必要なのだ。己の全てを投げ出してもいいという、差し違えを望むかのような特攻。私が求めるのは、それだ。
 常時でさえ人間を軽く凌駕しているノスフェラトゥの、憎悪に狂った特攻。それにより導かれる徹底的な破壊。それがこの街全てを巻き込む程の規模であれば、言うことはない。
 だが、それは今のクロウには到底望めることではない。奴はあまりにも虚ろだ。心身の中心で自身を支えるもの――魂とか、信念とかいうものがぽっかりと欠けている。それ故に不安定にぐらぐらと揺れる。確固たる指針がないため、心には何時も迷いが生じ、躊躇いと戸惑いがさらに心を揺らす。
 これは、幼少時に人間による襲撃を受け、ただ独り、人間社会で生きなくてはならなくなったノスフェラトゥによくある心理状態である。喪失感と深い絶望、そして圧倒的な孤独に囚われ、全てが虚ろになる。そうなれば、いくらノスフェラトゥが強大な能力を持っていたとしても、使い物にならない。クロウは今まさにその状態だと見て間違いないだろう。仕事の説明をした後、軽く鎌をかけてみたが、案の定今の奴では私を殺せそうにない。
 それでも、こういった事態を全く予想していなかったわけではない。幸い奴はまだ完全に朽ちてはいない。ならば、もう一度火を点すことも出来るだろう。そう思ったからこそ、今回の茶番を組んだ。事前準備はほぼ整っていたので、滞りなく仕上げることが出来た。
 以前から目をつけていた『白の使徒』に接触。様々な方面から工作を施し、奴らの手にノスフェラトゥが渡るように仕向ける。後はこちらの指示があるまでその生贄を監禁しておくように指示。金に飢えた外道共は、胸糞の悪くなる笑みを浮かべながら快諾した。後はノイドによる幹部連中の始末と、クロウによるノスフェラトゥ救出で仕上げとなる。
 ノスフェラトゥは仲間意識が強い。それが互いに長い間独りであった奴らなら、強く意識しあうはずだ。穴の開いていたクロウの心は、仲間との出会いで満たされていくだろう。
 後は――。
 後は、その漸く出会えた仲間を奪ってやれば、お前の心は憎悪に支配されるはずだ。
 思索を終え、ふと気付けば窓が映す私の表情はどこか悲しげで、私は、無意識にそれから視線を外す。
 


 ようやくミリーシャの屋敷に戻ってきた頃には、もう日付が変わろうかという時刻だった。煌々とした灯りの下、肩や頭に積もった雪を大雑把に払いながら、俺はこれからのことを考える。まずは、ミリーシャへ報告すべきだろうな。隣の少女を横目に見ると、面白そうに辺りを眺めては、へ〜、とか、お〜、などと妙な声を出している。
「スノウ、見物は後にしろ。まずは雇い主に報告に行く。お前もこい」
 スノウはこくりと頷くと、俺の後に続いて歩き出した。
 
 こんこん、とノックをしてから扉を開ける。中ではミリーシャが一人、ソファに腰掛け、コーヒーを飲んでいる。執事の姿は見えない。しげしげと珍しいものでも見るかのように俺を眺めてから、ミリーシャは口を開く。
「ほう、ノイドから全戦力がお前に注がれていたと聞いていたが、中々早い帰還だな。それでいて、仕事の方も見事にこなしてくれたか」
 カップをテーブルに置き、ミリーシャがこちらに歩み寄る。その視線は俺ではなくスノウに向けられている。眼鏡越しに見えるその瞳は、相変わらず感情が読みづらい。ミリーシャは中腰になり、スノウと視線を合わせる。
「初めまして。ノスフェラトゥの少女。私はクロウの雇い主でミリーシャ・レノールという。……君の名は?」
「初めまして。私はスノウです」
 にこにこと、屈託なく微笑みながらスノウはそう答えた。その対応にミリーシャは目を丸くしていた。そしてそれは俺も同様だった。いくら子供とはいえ、黒の一族なら人間に多少は抵抗があるはずだ。しかもスノウはその人間に監禁されていたのだ。尚更それが顕著に現れてもおかしくはないはず。
 しかし、当の本人は俺たちの反応を見て、不思議そうに首をかしげていた。仕舞いには、俺の外套の袖を引っ張りながら、
「……私、何か変なこと言った?」
 なんて不安そうに尋ねてくる。俺がどう説明したものか、しどろもどろになっていると、ミリーシャは愉快そうに笑い出した。
「いや、変ではないよ。気にすることはない。それより幾ら君がノスフェラトゥでも、この寒空の中を、そんな薄い服一枚でいては冷えるだろう? 風呂にでも浸かって、温まってきてはどうだ? とりあえず着替えは、昔の私のもので我慢してくれ」
 スノウは少し躊躇いがちに、そうしていい? と俺に許可を求めてきた。
「確かに何時までもその格好というわけにもいかないし、いいんじゃないか。疲れもあるだろうし、そうさせてもらえ」
 そう告げると、スノウはミリーシャに連れられ、浴室へと向かっていった。ミリーシャは部屋を出る寸前に、クロウ、お前はここで待っていろ、と言い残して去って行った。俺はその指示通りにソファに腰掛け、ミリーシャを待った。座ったソファには、もう弾痕は残っていなかった。
 ぼんやりと窓を眺めながら、俺は一人考える。
 ミリーシャは、何を考えている? 今回の仕事にしてみても、あいつらを潰すだけ潰しておいて、他には何もしていない。金を奪ったり、麻薬を奪ったりなどの、ミリーシャにとって利益が出そうな指示は何一つ出していない。そもそもあいつは金に興味がない、と言い放っていたし、その言葉は真実だろう。
 ならば、俺の力量を試した? それとも、スノウの救出が目的?
 あいつの本当の目的のためにノスフェラトゥを必要とした? だが、俺と執事さえいれば願いは叶うと言っていた。あいつの願いとは何だ? 黒の一族の力を必要とすること――復讐? いや、復讐ならばわざわざ俺たちを雇わなくとも、頭数さえあればどうにでもなる。わからない。何も見えてこない。
 ……あいつを、スノウをどうするつもりだろう?
 最後にふ、と浮かんだ疑問は何故か今までのそれとは異なり、頭の中にこびり付いて消えようとはしなかった。いつまでも陽炎のようにゆらゆらと揺れ続ける。知らず、ため息を漏らすと、俺は思考を止め、窓の外の雪を見つめた。

「おい、ちゃんと起きているか?」
 唐突に背後からかけられた声に、思わず身体を震わせる。振り向くと、ミリーシャがコーヒーカップとポットを盆に乗せ、運んできたところだった。向かいのソファに座ると、無言で自分のカップと俺のカップにコーヒーを注ぐ。
 不純物の混じってない真っ黒な液体を喉に流し込むと、苦味のある熱さが全身に広がる。
「随分ぼんやりとしていたようだが、今回の仕事はそんなに疲れたか? それとも、他に気になることでもあったか?」
 人の悪い笑みを浮かべながら、ミリーシャはコーヒーには手を付けず、すっかり見慣れた仕草で煙草を咥えた。
「あのスノウという名は、お前が付けてやったんだって?」
 こちらに尋ねておきながら、答えを返す間もなくミリーシャは語りかける。そうだ、と答え何となく目を逸らす。
「随分気に入ったようで、嬉しそうに話していたぞ。くくく、微笑ましいものだな。お前のサポートが出来るようなノスフェラトゥであれば、と思い今回の救出作戦に踏み切ったわけだが、当てが外れてしまったよ。不確かな情報で動くものではないな」
「……なら、あいつをどうする? 不要な者は追い出すか?」
 僅かながら言葉に怒気が含まれていることに、自分でも驚く。くそ、俺は何を言っているんだ。
その一方でミリーシャは動じた様子など少しも見せず、俺を見ていた。
「まぁ、お前がいれば特に問題はない。サポートもあればそれに越したことはないが、どうしても必要というわけでもない。それよりもここでスノウを追い出して、お前の機嫌を損ねるのは得策ではないし、今更一人増えたことでたいした変わりもない。ここで面倒を見てやるつもりだ。だから、そんなに怖い顔をしてくれるな」
 そう言って、実に嬉しそうに笑った。僅かに芽生え始めた不信感が、どうにも拭えない。
「……当てが外れた、という割には上機嫌じゃないか。まるで万事思い通りに事が運んだかのようだぞ」 
紫煙の向こうの女は、私はこう見えても子供が好きなんだよ、とふざけた答えで煙に巻く。そして、思い出したように言葉を続ける。
「そうそう、本来の用事を忘れるところだった。クロウ、明日からは本格的な準備に入る。準備にはそれなりに時間が必要となるが、お前に与えるような仕事はない。指示があるまでのんびりすごしていろ」
 準備とはミリーシャ本来の目的のものだろう。それが何であるかはまだ知らされていないし、聞いても十中八九答はぐらかされそうな気がする。俺に出来るのは、訝しげに雇い主を見ることだけ。その不甲斐なさに、苦い顔になってしまう。
「おいおい、クロウ。お前が人間を信じきれない気持ちもわかるが、そんなにかりかりすることもないだろう? 私とノイドだけではどう足掻いてもお前には勝てないんだ。念願を目前にして殺されては、私も死に切れないし、第一私だって自分の命は惜しい。ノスフェラトゥ相手に下手な真似はしないさ」
 俺の心情はよほど表面化していたのだろう。ミリーシャはからかうような態度を止め、少々取り乱した様子で口早に語る。
 わかっている。ミリーシャの言うことはもっともで、たった二人の人間が黒の一族を敵にするなど自殺行為に等しい。目的がなんであれ、それは命あってのもの。死んでしまっては元も子もない。戦闘の疲れから、少々神経質になっていたのかもしれない。深く息を吸い込み、吐き出すと、幾らか気分が安らいだ気がした。
「落ち着いてくれたか?」
 不安げな、ミリーシャらしくない声が、耳に響く。俺はああ、と頷き、すっかり冷めたコーヒーを飲む。
「……スノウのことが気になるのだろう?」
 こちらを窺うようにぼそりと呟かれたその言葉に、俺は過剰に反応してしまう。危うく落としかけたカップを、何とか無傷でテーブルへと置く。咄嗟に否定しようとしたが、ミリーシャはそんな俺を手で制して、言葉を続ける。
「下手にへそを曲げられては困るから口には出さなかったが、お前の住んでいた村は人間たちに襲撃されたのではないか? でなければ一人で人里に下りてくるとは考えにくい」
 しばしの逡巡の後、俺は肯定した。
「仲間と別れ、仇敵である人間の中をただ独りで生きてきたお前の絶望や孤独を、理解できるなどとおこがましいことを言うつもりはない。だが、心を許せる仲間が傍らに居てくれることのありがたさならば、少しは理解しているつもりだ」
 ミリーシャにとっての「心を許せる仲間」というのは、あの執事――ノイドのことだろうか、とそんな事を思う。ミリーシャの言葉は続く。
「スノウを傍らに連れたきたお前は、驚くほど穏やかな顔をしていたからな。そんな仲間を、何を企んでいるかもわからない仇敵に安心して預けろ、というのも無茶な話だとも思う。だが、信じてくれ、クロウ。私はお前たちと敵対するつもりなど、ない」
 信じてくれ、そんな言葉をまさか人間の口から聞くことになるとは思っても見なかった俺は、ただ目を丸くするばかりで、本当に言葉がなかったが、嫌な気分ではなかった。寧ろ、それと正反対の感情が俺の中に確かに存在していた。
 それでも、俺の中の意固地な部分が、それを素直に表には出すことをよしとしない。だから、なんとか不信感は拭えたことだけでも伝えようと思っても、事務的なこと以外ではまともな会話などしていない俺には、それすらもままならない。どれだけ思索を重ねても、言葉は紡がれる前に霞んでいき、結果として重苦しい沈黙だけが圧し掛かってくる。 それを打ち破ったのは、
「ねぇねぇ、クロウ。見て、見て!」
 風呂上りのスノウだった。
 ノックもなしに部屋に駆け込むと、とてとてと走り寄ってくる。ミリーシャから借りた服は、年季を感じさせず新品のようで、詳しくはわからないが、高そうで綺麗な服だった。スノウはそれを俺に見せようとしているらしいが、服なんかよりもずっと俺の目をひいたものがあった。
「お前、その髪はどうしたんだ?」
 スノウの腰まであった黒髪が、全て真っ白になっている。立ち上がり、真っ白なそれを撫でてみるが、着け髪ではない。
「お前のように着け髪などせずとも、髪を染める手段などいくらでもあるぞ? 今回スノウに施したのは簡単なものだが、お前の着け髪よりはずっと自然だろう。目の方は流石に染めようがないからな。お前と同じように色眼鏡でも使うしかあるまい」
 ミリーシャの解説に耳を傾けながら、便利なものがあるものだ、とつい間抜けな感想を漏らしてしまう。それが耳に届いたのか、ミリーシャは呆れたように笑った。それに釣られてスノウも笑い、俺は一人仏頂面をしていたが、こんなのも悪くはないと、胸の中ではそう思っていた。





 気が付けば、俺は夢の中にいた。
 夢の中にいながらして、何故かそこが夢の中だとわかる。聞くだけならば中々面白そうな状況なのだが、俺の見る夢ときたら大半が面白みなどとは無縁の悪夢。今日も今日とて真っ暗な闇の中に俺一人。体は自由に動くが、動かせてもすることがない。
 ……夢の中で寝たらどうなるのだろうか? そんなどうしようもない疑問が思い浮かび、他にすることもないので、試してみる。地面があるかないかもわからないので、取り敢えずそのまま目を閉じてみる。
 ふわりと、まるで水中にいるかのような浮遊感が全身を包む。ふむ、悪くはない。そのまま力を抜いていくと、だんだん眠気が襲ってくる。どうやら夢の中でも眠ることができそうだ。意識が薄れていく最中、誰かの言葉が耳を掠める。俺を、呼んでいる。面倒に思いながらも目を開けると、誰もいない。
 その代わりに、何気なく動かした視界に意外なものが飛び込んでくる。俺の右腕が――肘から下が、ない。いや、右腕だけではなく左腕は手首から先が、左足は付け根までそっくり全部消えている。ぼんやりと消えていった部分を眺めていると、ずぶずぶと闇が這う感覚が襲い、さらに身体が消えていく。ああ、そうか。消えたのではなく闇に溶けていっているのか――。
 現状を把握しても、どうにかしようとは思えない。
 このまま、溶けていくのも悪くはないのではないか、そんな考えに支配されている。
「――――」
 もう一度、瞳を閉じようとした刹那、再びあの声が――どこか懐かしい声が、聞こえてくる。空耳ではない。周囲には、俺以外には誰もいないのに。この声は、何処から聞こえてくる?
「――――」
 上……? ぼんやりと、その方向を見上げる。先程までは水中を漂っているような感覚の中にいたはずなのに、今の俺はしっかりと地面に立っている。
立っている? 俺の右足はもうないはずなのに? そのことに気付いた途端にぐらり、と視界が揺れ、軽い衝撃が襲う。片足では上手く立っていられず、バランスを崩したのだ。へたり込んだ俺を、容赦なく闇が侵食してくる。蠢く闇が全身を這い上がってくる感触は、俺に死の予感をひしひしと与えた。
 それまでは微塵も感じなかった焦燥感が駆け上がってくる。
 このまま、死んでなどたまるか――。
 俺は、叫んでいた。
「手を伸ばして!」
 あの声が、今度ははっきりと聞こえる。
 闇に喰われ、穴だらけになった身体。それでも、諦めようとは思わなかった。
 闇はぞぶぞぶと押し寄せ、首筋まで来ている。下半身は完全に喰い尽くされ、立ちあがることは出来ない。喉が喰われる。――もう、声も出ない。
 振り上げる。原形などない穴だらけの左腕を。――右腕は、既に溶けきってしまった。
 ぴしり、と音が聞こえた。何の音か、などという疑問は浮かびさえせず、ただ無心で手を伸ばす。
 闇に、左目が溶けていく。俺の身体は、あとどれほど残っているのだろうか。雑念が脳裏を横切っても、すぐにそれを打ち払う。
 ――例え、この身体が朽ちたとしても。
 ぴしぴしと、音が広がっていく。
 ――俺の意思が、命が、欠片でも残っている限り。
 亀裂。闇の世界の空に、真っ白な亀裂が走る。
 
 ――俺は、生きるぞ。

 闇が、砕け散る。亀裂が走った場所に、小さな穴が出来ている。そこから漏れる真っ白な光。それらはやがて、雪のような球形となって降り注ぎ、同時にぐらぐらと世界が揺れだす。
 揺れる世界の中で、俺はただぼんやりと大小様々な光球を見ていた。とても、綺麗だと思った。
 その中でも、一際大きな光がゆっくりと降りてくる。その光から、あの声が聞こえてくる。俺を、呼んでいる。闇に喰われた身体はいつの間にか元通りになっていて、世界の揺れも止んでいた。
 俺は、光を見上げる。
 光はどんどん俺に近づいてくる。その速度を増して、どんどんと。そして――。
 どすん。



 腹に物凄い衝撃を受け、目を覚ます。
 起き上がると目の前にはスノウ。どうやら俺を目覚めさせた衝撃は、こいつが俺の腹に飛び乗った際に生じたのだろう。
「……もう少しまともな起こし方があるだろう」
 ため息混じりに尋ねると、いくら揺すっても全然起きなかったくせに、と膨れっ面で返される。昨日の戦闘でかなりの血を消費したためだろう。かなり深い眠りについていたようだ。夢を見ていた記憶があるが、途中からは殆ど覚えていない。どうせいつもの悪夢だろうから、その方がましではあるが。
 全く寝た気はしないくせに、時計を見ると既に昼前だった。とりあえず、飯でも食おう。
 腹の上からスノウをどかし、食堂で昼食を取る。スノウはわざわざ俺を待って、朝食を取っていなかったらしい。俺は俺で腹が鳴るほど減っていたので、二人でミリーシャが呆れるほどの量をたいらげた。 
「……さて、スノウ、クロウ。一息着いたら街に出るぞ。支度をしておけ」
「街? 仕事はしばらくないんじゃなかったのか?」
 仕事ではないさ、と眼鏡の向こうの碧い瞳が嬉しそうに笑う。
「買い物だ。お前たちの、な」
 
 どれくらいの時間が経過しただろうか。
 ミリーシャたちに引きずられながらも街へ買い物に出かけた俺は、商店街から少し離れた公園のベンチに腰掛けている。両隣には荷物がどっさりとある。中身は服やら簡易染料やら色眼鏡やら、と様々だ。
「スノウにいつまでも古着を着せておくのも忍びないし、お前だってあの一張羅だけというわけにはいかないだろう? 心配するな、金なら腐るほどある。遠慮せずに好きなものを選べ」
 ミリーシャはそう言っていたが、さすがに限度というものがあるだろう。明らかに買いすぎだ……。大量の紙袋を眺めてため息をついた俺に、差し出される紙コップ。
「ほら、コーヒーだ。旨くはないが、温まるぞ」
 受け取ると、暖かさがじんわりと手から昇ってくる。渡した当の本人は、今日も今日とて青空の下で紫煙を吐き出している。違うのはその格好だけ。いつもの紺のスーツの上に高そうな毛皮のコート。ブロンドの髪は束ねず、スノウのように流している。眼鏡は書類を読むときにのみ必要ならしく、今はかけていない。
 スノウは、ミリーシャの古着――俺には新品同様に見えるが――の上にさっき買った真っ白なコートを羽織り、雪化粧を施された公園を楽しそうに走り回っている。あいつの服装は白一色で統一されていて、どこにいるか少々見つけにくい。目を隠すための青い色眼鏡を目印にしながら、ちょこまかと走り回るその姿を視線で追う。俺の肘辺りまでしかない小さな身体のどこに、あれだけのエネルギーを蓄えているのだろうか、そんなことをぼんやりと思う。
 コーヒーを一口啜ると、もう既に温くなり始めている。空は晴天で珍しく雪も降っていないというのに、やはり北国の寒さは侮れない。これ以上温くならないように、とそのまま一気に飲み干す。
「どうだ? 着け髪よりはいい感じだろう?」
 ふいに、ぽん、と頭の上にミリーシャの手が置かれる。
 そう言われるまですっかり忘れていたが、俺も普段とは違う格好をさせられている。胡散臭い、などと難癖を付けられいつもの着け髪は取り上げられて、スノウのように簡易染料で髪をブルーに染めることになり、洗濯する、と一張羅の黒い外套は洗われたため、執事の私物のブラウンのロングコートを纏っている。以前と同じなのは黒丸の色眼鏡ぐらいだ。
「確かに。中々悪くないが、今までずっとあれだったからな。少し落ち着かない」
 やんわりと手をどかしながら答える。そのうちに慣れるさ、と呟いたミリーシャの視線は、スノウを追いかけていた。同じように、俺も再びスノウを眺める。こちらの視線に気が付いたのか、時折立ち止まってはぶんぶんと手を振っている。ミリーシャを見ると、スノウに軽く手を振って応えている。再び視線をスノウに戻す。
「昨日、お前が寝た後に聞いたんだが、十三らしい」
 いきなりミリーシャの口が動く。それが何を意味しているのかわからなかった俺は、なんのことだ? と正直に尋ねた。ミリーシャと言葉を交わしつつも、俺はスノウを眺めていた。
「歳さ。スノウの」
 ああ、と頷く。
「お前とは六つ違いだな」
 ああ、と頷く。
「私の主観ではあるが――」
 ああ、と頷く。
「六つ差くらいなら充分いけると思うぞ?」
「…………」
「今すぐというのは少々まずいだろうが、後五、六年もすればだな――」
「……お前は何を言っている」
 ようやくミリーシャの方に顔を向けると、人の悪い笑みを残してするりと逃げていく。ため息のような風が吹き、太陽が少しずつ翳り始めたことに気付いた。



 もう一箇所、寄る場所がある。ミリーシャのその言葉に従い、大荷物を両手で抱えながら歩く。スノウは何度も手伝おうか? と言ってきたが、どれもこれもスノウには重過ぎるため、それとなく断りながら進む。
 方角は屋敷の方面だったが、屋敷が微かに見えてきた辺りでミリーシャは急に森の中へと足を踏み入れる。道なき道を歩く羽目になるかと思いきや、少し進むと邪魔な木々は伐採されていて、少々歩きにくいが確かな道が造られてあった。入り口付近の茂みは人目をごまかすためのカモフラージュらしい。
 その道をスノウが転ばないよう注意を払いながらゆっくりと、十分も歩いた頃、本日最後の目的地に到着した。
背が高い針葉樹に光を遮られて暗かった周囲に、ふいに光が満ちる。綺麗な円形に開けた空間があり、その中央にはかなり年季の入った屋敷。古びてこそいるが、大きさはミリーシャの屋敷と同じか、それよりも大きい。それを囲む空間自体もかなり広く、薄暗い道の終わりからあの屋敷までそれなりの広さがある。それでいて足元は全て整えられ、先程のような動きにくさはない。
「お前たちはここで待っていろ。すぐ戻る」
 屋敷の手前でそう告げると、ポケットから屋敷のものと思われる鍵を取り出し、ミリーシャはさっさと中に入っていった。待っていろ、と言われた手前のこのこと追いかけるわけにもいかず、俺たちは大人しく帰りを待つことにする。

「ねぇ、クロウ。これだけ雪があれば雪だるまとか、いっぱい作れそうだね!」
 周囲を見ていたスノウが嬉しそうにはしゃぐ。
確かに雪は大量にあるし、場所も充分に広い。問題があるとすれば、それをミリーシャが承諾するかどうか、というところ。そのことをスノウに告げると、
「そっか〜。やっぱり勝手にお屋敷の周りを雪だるまだらけにしちゃったら、ミリーシャさんも怒るよねぇ」
 と、人差し指を顎に当てて思案する。……雪だるま「だらけ」と言っていたが、こいつはどれだけ作る気なんだ? 
「そんなに作ってどうする。でかいの一つで充分だろう?」
「……でも、こんなに広い所に一人きりじゃ、きっと寂しいよ」
 それは、スノウらしくない沈んだ声。目を輝かせながら俺を覗き込んでいた顔は俯き、小さな身体がさらに小さく見える。冷たい風が吹いて、スノウの真っ白な長い髪が棚引く。俺は、空を仰いで一つ息を吐く。先程まで青かった空は、既に紅に染まっている。
「それなら、四体くらいでどうだ?」
 え? と顔を上げるスノウ。視線を戻すと色眼鏡越しのスノウの視線とぶつかる。
「丁度今の俺たちと同じだ。俺と、お前と、ミリーシャと、執事。四人だけでも一人よりはずっとましだろう?」
「うん。そうだねっ」
 スノウに笑顔が戻り、俺はほっとする。
 スノウは、不思議な奴だ。
 別に何かしたというわけでもなく、ただあいつがいるだけで、俺の心は落ち着いていく。自分でも感じ取れるほどに膨らんでいた言い様のない焦燥感や、「いつ死んでも構わない」という刹那的な感情はいつの間にか消え去っていた。
 出会ってまだ一日も経っていないというのに、驚くほどの速度で俺は変わりつつある。
 ――それとも。
 戻っているのだろうか。家族を失い、孤独になる以前の俺に。
 ほんの数日前までは、かたくなに否定していた自分に戻りつつあるかもしれないというのに、嫌な気分は少しもしなかった。

「すまない。遅くなった」
 もう夕日が完全に沈もうか、という頃になってミリーシャが戻ってくる。その手に見慣れない物が持たれている。
「ここに来た用件はそれか?」
 両手は紙袋で塞がっているので、顎でそれを指す。ミリーシャはまぁ、そうだな、と頷き、ぱんぱんと埃を払う。古びてはいるが、どうやら本のようだ。
「これを、スノウに貸そうと思ったんだ」
 スノウに?
 差し出された本を受け取ったスノウは最初、俺と同じように戸惑っていたが、タイトルを見て声を上げた。驚いたような、それでいて嬉しそうな、そんな声。
「凄いよ、クロウ! こんなことってあるんだねぇ」
 そう言って、はしゃぎながら俺にも見せようと、本を突きつけてくる。そこには、少々擦れてはいたが、読み取れる程度にその本のタイトルが残っていた。
 ――『snow crow』と。
「……スノウ…クロウ?」
「そうだ。お前たちの名前がタイトルになっているんだ。昨夜スノウの名前を聞いて急に思い出してな。ひょっとしたら、お前の名前の由来もこれかもしれんぞ。この本は私のお気に入りだったからな。忘れていたようで、頭の片隅には残っていたのかもしれないな」
 最も、話の内容はすっかり忘れてしまったが、とスノウの手の中の本を懐かしそうに眺めながら、ミリーシャは語った。
「ここは、前に私たちが住んでいた屋敷なんだ。幼かった頃、私やノイドはここで暮らしていた。……あまりいい思い出はないから、今の屋敷に移ってからは近寄らないようにして、すっかり忘れていたよ。その本のことを」
 そう締め括ったミリーシャは、どこか哀しげに笑っていた。
「さて、そろそろ帰ろうか。もうすっかり月が見える」
 俺たちに背を向け、一人で歩き出すミリーシャを呼び止める声が上がる。
「ミリーシャさん」
 スノウだった。俺も、立ち止まりこちらを振り返ったミリーシャも、真っ白な少女に目を移している。スノウは本を抱えて、ミリーシャの側まで歩いていく。
「私の、お母さんがよく言っていたんですけど、嫌なことや悲しいことがあっても、一生懸命生きていれば、きっといいことだってあります。私も、今まで嫌なこととかたくさんあったけど、クロウにも会えたし、今日はミリーシャさんに服とか色々買ってもらったり、思い出の本まで貸してもらえました」
 真っ直ぐにミリーシャの目を見つめながら、スノウは言葉を紡ぐ。強く握られた二つの手からは、必死に何かを訴えようとしている気迫が見て取れる。
「だから……、その、一生懸命生きて、これからはいい思い出をたくさん作りましょう! ミリーシャさんも、私も、クロウも」
 ミリーシャはじっとスノウの言葉に耳を傾けていたが、やがて微笑みながら、そっとスノウの頭を撫でる。
 とても優しそうなその微笑は、どうしてだろうか――。
 まるで今夜の月のように、すぐにでも雲に蔽い隠されてしまうかのような、そんな儚さを秘めているように思えた。
 




 その翌日からは、何事もない穏やかな日々が続いた。執事は計画の準備とやらのために、その姿を全く見せなくなっていた。屋敷の中にいるのは俺とスノウとミリーシャと、家事全般のために雇われた侍女たち。屋敷の中でも色眼鏡をかけていると怪しまれるだろうから、ということで俺とスノウは極力侍女たちと顔を合わせないように部屋にこもったり、外に出るようにしていた。
 ミリーシャに許可を貰い、あの旧屋敷の庭に雪だるまを二人で作った。小さいのと、中くらいのを二つと、少し大き目のを一つ。どうやら何から何まで俺たちに合わせて作りたかったらしい。胴体に枝の腕を二本ずつ付けて、先端に手袋をはめる。小さいのには白い手袋、中くらいのには一体が黒で、もう一体が紺、大きいのには青いのを。そして仕上げに、とスノウが小枝でそれぞれに顔を描く。
「ミリーシャさんは眼鏡かけてて、お鼻が高めの美人さん」
「ノイドさんは、目が細くて、目の色が左右で違って不思議な感じ」
 紺の手袋の雪だるまには眼鏡、青い手袋の雪だるまは目が細く、色の違いを表したのか、片方の目に斜線が入っている。ミリーシャの方は笑っていて、執事の方は不機嫌そうなへの字口。実物のミリーシャはあんなににこにことしていなかったような気がするが、執事の方は実物もあんな感じだったな。
 そんなことを考えていると、目の前ににゅっと枝が現れた。スノウが顔を描いていた枝を俺に差し出しているのだ。どうした? と尋ねる。
「自分の顔ってよくわからないからさ、私のはクロウが描いてよ」
 にこにこと笑いながら、枝を俺の手に握らせる。
 どうしたものか、とぼりぼりと痒くもない頭を掻いて、ふと思い出す。こいつに、名前を付けてやったときのことを。あのときも、こんな風に期待に満ちた目で見られていたな。
「下手くそでも後悔するなよ」
 一言断って、スノウの顔をまじまじと観察しながら描く。時々横からへ〜、だの、おぉ〜、だのと妙な声が漏れてくる。
 大き目の瞳に、小ぶりな鼻。実物は口も少々小さめなのだが、俺はあえて大きく描く。幼い子供が描く似顔絵のような、大きくてにっこり笑っている口。描き終えると、枝をスノウに返す。スノウはまじまじとその顔を眺めている。どちらも言葉を発しないまま、時はひしひしと流れていく。
「……気に入らなかったか?」
 無言の空気に耐えられなくなり、俺は声を出す。スノウは、ううん、と首を横に振る。
「なんだか、幸せそうに笑ってるなぁ…って思っただけ」
 そう言って、本当に幸せそうに、笑った。俺が、描きたかった笑顔だった。
 その笑顔を見て、我ながら上手く描けたものだ、と俺も笑うことが出来た。
「よ〜し、上手く描いてくれたお礼に、クロウは特別に本物より格好良く描いてあげるからねっ!」
 
 穏やかな日々は、続く。
 



 執事が姿を消して二週間が経過した。
 今は物凄い吹雪が街を飲み込んでいる。既に朝は過ぎ去ったはずなのに、外はまるで夕方のように暗い。がたがたと窓が悲鳴を上げる。流石にこの天候では外に出る気はしない。特にすることもなくベッドに横になっていると、ドアがノックされる。
「クロウ、入ってもいい?」
「スノウか。構わないが、どうした?」
 身体を起こしベッドに腰掛けると、スノウは駆け寄ってきて隣に座った。両手でミリーシャから借りた本を抱えていて、両目の下には隈が出来ている。瞼が半開きで、眠そうな顔をしていた。寝ていないのか、と尋ねると、うん、と小さく頷く。
「この本読んでたら朝になっちゃってた」
 その本――『snow crow』は随分な厚さだが、これを一晩で読んだのだろうか? そのことを聞くと、どうやら本の中は一つの話だけではなく、様々な話を幾つか纏めて一冊の本になっているようだ。そして、その中の一つが『snow crow』らしい。
 そんな説明を聞かせながらも、スノウはうつらうつらと船を漕いでいる。
「何か用事があったんじゃないのか? それとも一旦寝てからにするか?」
 そっと小さい身体を揺すりながら声を掛けると、すぐ済むから今すぐ聞きたいの、と瞼を擦る。だが、それからしばらくの間スノウは声を出さずに俯いたままになった。
「聞きたいって、何をだ?」
 仕方なくこちらから声をかけると、うん、と小さく頷きスノウは口を開く。
「もしも――。もしもだよ?」
 俯いていた顔を上げ、不安そうな瞳で俺の顔を覗き込む。風のうねりが獣の咆哮のように轟き、今度は屋敷全体が、がたがたと悲鳴を上げる。
「私が、どこか遠い所に行っちゃったら、クロウは、どうする?」
 どうするのだろう? そう考えるよりも先に、
「……お前がそれを望むなら――」
 俺の口は、動いた。
「迎えに行こう。例え、どこに行ったとしても」
「すっごく遠くて、とっても危険な場所かもしれないよ?」
 俺は、ゆっくりと首を振る。
「どんなに遠くて危険な場所だろうが、そんなことは問題じゃない。問題なのはお前がそれを望むかどうか、ということだ。……どうだ? 迎えに行っても構わないのか?」
 スノウは少しだけ躊躇してから、
「約束できる? 絶対迎えにくるって」
 心細そうに、そう呟いてくる。俺はスノウの頭をゆっくりと撫でながら、返事をする。
「ああ、約束しよう」
 答えるのと殆ど同時に、ぼふん、とスノウが抱きついてくる。
「約束したからね。私のこと、絶対迎えにきてね」
 ああ、と頷くものの、この状態は流石に気恥ずかしい。そんな心情を知ってか知らずか、スノウの両手はしっかりと俺の背中に回されたままで、いつまでも離れようとしない。
「……それで、用事はそれだけか」
 無理矢理引き離すわけにもいかず、かといって、このまま無言でいるというのにも耐えられそうにないので、なんとかそんな言葉をひねり出してみる。
すると、あ、そうだった、と俺から離れて再び隣に座りなおす。俺は一人胸を撫で下ろしながら、スノウの言葉に耳を傾ける。
「もう一つだけ聞きたいんだけど、もしも願い事が叶うとしたら、クロウは何をお願いする?」
 先程とは一変して、かなり上機嫌な様子でにこにことしながら、そんなことを尋ねてくる。腕を組み、しばらく考えてもそんな物は浮かんでこない。別段欲しいものもないし、今の暮らしにも不満なんてない。
「特にはないな。強いて言えば、今のこの生活がずっと続いてくれればいいと思うが」
 だから、正直にそう答えると、少し考えてからスノウは笑った。
「……うん、そういうお願いならきっと叶えられるよ」
「叶えられるって、お前が叶えてくれるのか?」
 冗談のつもりでそう言うと、そうだよ、と屈託のない笑顔で返事をされる。少し戸惑ったが、よろしく頼む、と返す。
「ところで、どうして急にそんなことを聞いたんだ?」
 尋ねると、どうやら本の中で、主人公が遠く離れ離れになってしまった友達を捜して世界中を旅するという場面があって、その離れ離れになった友達に自分を重ねたらしい。他愛もないようなことかもしれないが、先程の様子を思い返せば随分と悩んでいたようだから、スノウにとってはそれだけの意味があることなのだろう。
 それに、その気持ちは全く理解できないものでもない。孤独というものは、それほどの恐怖を持っている。スノウに出会う前の自分を思い返せば、それが持つ毒の強さを思い知らされるからだ。
 それからは、他愛もない雑談に花を咲かせた。
 ふと気付けばいつの間にか、吹雪は止み、暗雲の隙間から陽光が射していた。俺にもたれかかりながら寝息をたてるスノウをベッドに寝かせ、雪が張り付いた窓を開ける。嵐の名残が、部屋の中に冷たい空気を運んできだ。白い息を一つ吐いて、この生活がいつまでも続いて欲しいと、そう願った。



 私の父は、平凡という言葉がそっくり当てはまるような外見と生まれの男だった。しかし、並外れた知能を持ち、「他人を操ること」に関しては天才的だったと言えよう。
 最小限の情報で他人の心理を読み取り、様々な情報をばら撒き他人同士を衝突させ、時には殺し合うようにまで仕向ける。奴の策に絡め取られた者は、繰り人形のように散々手の上で踊らされては、消えていく。残るのは奴にとって有利な結果だけ。その連鎖を幾度も繰り返し、奴は平凡な男からマフィアの長にまで成り上がったが、それは二次的な結果に過ぎない。奴はただ、他人を意のままに操ることが楽しくてしょうがないだけなのだ。
 しかし、奴の力が増して敵が増えるに連れ、策は上手く機能しなくなっていった。いかに非凡な才能があったとしても、それは所詮人間の範疇。完全に他人の心中を読み取ることなど不可能なのだ。少数ならば思い通りだった策も、それに関わってくる人間の数が増えれば増えるほど、思いもよらない結果となっていく。
 そのことが、何よりも奴の心を掻き乱した。
 私の持つ最も古い記憶は、何故、思い通りに動かない、と叫びながら荒れ狂うあの男の姿だ。
 奴は私を娘だとは思っていなかっただろう。一番身近な観察対象、とでも認識していたはずだ。私が奴の想像とは異なる行動を取ると、奇声を上げながら何度も私を殴った。
しかし、そんな狂人の凶行は、ある日を境にぱったりと止んだ。
 その代わりに、通いの侍女以外では父と私しか住人が居なかった屋敷に、ぽつぽつと人が集まり始めた。集まってきた人間は皆、左右の目の色が違う「オッドアイ」と呼ばれる者たちで、最年長は白髪混じりの初老の男、最年少は私と同じような歳の少年――つまりは、ノイドだった。恐らくは、オッドアイ全員で二十人近くはいたと記憶している。父は彼らのことを、使用人だ、と私に説明した。
 父は穏やかになり、初めて出会う同年代の少年とも仲良くなれ、幼かった私はその変化を大いに喜んだ。
 私が異変に気付いたのは、それから数年の時が流れてからだった。私が十一歳のときだったはずである。
 奴に呼ばれ、その部屋へと入った私を待っていたのは、奴と一人のオッドアイの男だった。奴は私をソファに座らせると、傍らに佇んでいた男に何やら合図を送った。すると男はつかつかと私の前まで歩み寄ってくる。私は怯えた。その男は、無表情というよりは、まるで人形のように無機質で、自分と同じ人間とは思えなかった。
 男は私の目前でぴたりと足を止め、懐から拳銃を取り出す。
 ひ、と短く悲鳴を上げ、縋るように父に視線を投げかける。奴は、笑っている。
 拳銃を持った男の右手がスローモーションで上昇していく。男は眉一つ動かさない。私は、がちがちと歯を震わせながら、目を閉じた。
 銃声。
 びくりと身体を震わせたが、痛みは感じられなかったので、恐る恐る目を開ける。震える瞳に映っているのは男の死体。自分の側頭部に銃弾を放ち、息絶えた男の死体。その表情は相変わらず無機質。呆然とする私を余所に、奴は笑い出す。嬉しそうに、楽しそうに。
「どうだい、ミリーシャ? 僕が作った人形は。凄いだろう? いいだろう? これはね、僕の命令にしか反応しないんだよ。これを使えば思うままさ。どんなに大人数の人間を動かしても、これで微調整をすれば、もう僕の計画が乱れることもない。誰も彼もが、それこそノスフェラトゥだって僕が思い描いたように動くんだ! ふふふ、わかるかい、ミリーシャ? 僕はとうとう辿り着いたんだ。僕はね、神様になったんだよ!」
 私は、悲鳴を上げることすら出来なかった。奴の口調はまるで、新しい玩具を自慢する少年のようだった。そのことが、ことさら私の恐怖を煽る。神とは対極に位置する場所に、この男は辿り着いてしまったのだ。
「ふふふ、神様は神様の仕事をしなくっちゃねぇ。哀れな人間たちのために僕と僕の人形で、汚らわしいノスフェラトゥどもを始末するんだ。だからこれからは、今まで以上に家を空けて君に寂しい思いをさせてしまう。僕としても本当に心苦しいよ」
 言葉とは裏腹に、奴の口はその頬を裂き、禍々しい弧を描く。なんて、おぞましい笑み。この男の体内には、臓物などはなく、冥府へと繋がっているのではないか、そんな妄想に私の脳は支配される。
 禍々しい三日月が蠢き、私に向けて呪いの言葉を吐き出す。
「だからね、お詫びに君にプレゼントをしようと思うんだ」
 ぞ、と鳥肌が立つ。金縛りのように、身動きが取れない。
「君が気に入っている、あのノイドとかいう小僧は、君専用の人形にしてあげよう。どうだい? 嬉しいだろう、ミリーシャ」
 がくがくと震え続ける身体は私の心を裏切り、悪魔に魂を売り渡す。
「……は、い。ありがとう、ございます。とうさま」
 灼熱の涙が頬を、心を焼いた。胸の奥から、割れ物にひびが入ったような乾いた音が聞こえた気がした。
 その瞬間から、奴の呪いは、ゆっくりと私たちを蝕んでいく。

 奴は、人間の中でも総じてその能力が高いと言われる、オッドアイを屋敷に集め、別の場所にある施設で洗脳――どのような方法かは知らないし、知りたくもないが――を施して意思を奪うと、戦闘用、情報収集用などの様々な技術を覚えさせていく。世界中から集められた文献の中には、現在は使い手が滅んでしまった、対ノスフェラトゥ用戦闘術の知識や、誰が研究したのかは不明であるが、ノスフェラトゥの生態について記された本もあった。
 そうやって造り上げた人形を駆使し、奴はノスフェラトゥを狩っていた。人間を相手にしていたときとは異なり、商売敵などはいなく金の入りも格段によくなった。
しかし、今から三年前、ノスフェラトゥの反撃にあい、人形たち共々驚くほどあっさりと命を落とした。それまでの十二年間で、私は奴のスペアになるべく洗脳用の施設で教育を受け、ノイドもまた、人形となった。
 それこそが私を蝕む奴の呪い。身体の隅々まで染み付いた奴の怨念が囁く。
お前もまた僕の意のままの人形だ、と。
 違うなどとは言えなかった。何度そう思い込もうとしても、あのときの悪魔のような笑みが頭から離れない。
 私の両の手、両の足からは真っ白な糸が伸びていて、四本の糸を辿り、上を見上げれば奴の顔と奴の両腕が見える。四本の糸は、交差した木の棒へと続く。かちゃかちゃと真っ黒な腕が蠢くたびに、私の身体は動き回る。僅かに見える奴の姿は、両腕も顔も黒く塗り潰されていて、顔には更に暗い三日月が三つ、道化師の仮面のように目と口のように浮かんでいる。不気味な笑みに見下ろされて、私は踊り続ける。そんな悪夢を、何度も見た。
 苦悶の末に私が導いた答えは――。
 操り人形がその糸から逃れるには、もう粉々に砕け散るしかない。
 破片も残らないくらい粉々になって、ようやく自由を得られる。
 だから私は、ただそれだけを望んできた。

 しかし、それを目前に控えながらも窓ガラスに映った私は、苦しそうな表情をしていた。
「……なんだ、その顔は」
 拳がうなり、窓が悲鳴を上げる。死んだ窓を通り、風がカーテンを躍らせる。右手にはガラスの破片、紅の雫。呼吸は、荒いまま。
「迷うな、ミリーシャ・レノール。時が来たのなら、躊躇わずにスノウを殺せ」
 そうすれば、終るんだ。全てが。
そっと瞳を閉じる。
 瞼の裏に、浮かぶスノウの笑顔。あのクロウまでもが、笑っていた。そして、私も――。この一月程の間に過ごしてきた記憶。もはや偽ることなどできはしない。当初の計画通りに動いただけだったが、それでも楽しいと思える時間だった。あんな日々を過ごしていくのも悪くはない、と思ったのも事実。
 しかし、それでも、私は後に退くことはできない。
 途端、響き渡るノックの音。瞳を開けて、返事をする。訪れてきたのは、息を切らせたスノウだった。内心どきりとしながらも、取り繕って応対をする。
「どうした、スノウ? そんなに慌てて」
 つう、と右手を走る血液の感触で、怪我をしていたことを思い出す。さりげなくポケットに押し込んで、隠す。そんなことをしても割れた窓に気付かれれば怪しまれるだろう、ということには気が回らなかった。
「ノイドさんが、帰ってきたんだけど、ボロボロで、私は、クロウからミリーシャさんを呼んで来いって言われて、それで」
 ぜいぜいと肩で息をしながらスノウは告げる。
 穏やかな日々は、もう終わりなのだ、と。
そっと、気付かれないように、ため息を一つ。迷いを無理矢理押し込め、何時もの私になる。
「スノウ」
 一言だけ発すると、スノウはその幼くも美しい顔で、私を見つめた。
「私もすぐに行く。君は先に行ってくれないか?」
 うん、と頷き、その名のように雪のような髪をなびかせて走り去った。
 終焉を告げるベルが鳴る。私は、ひどく哀しいと感じた。そして――。
 私のエゴに付き合わせてしまうノイド、私のエゴで死なせてしまうスノウ、私のエゴで大切なものを失ってしまうクロウのために、一粒だけ涙を流して、心中で詫びた。

 スノウを追って玄関へと走ると、満身創痍のノイドの姿が飛び込んできた。仕事服も、身体もボロボロで、頬はこけ、深い隈が目下を縁取り、無精髭が口周りを覆っていた。そんな有様にも関わらず外傷は一つも無い。仰向けに寝かされながらクロウと何やら話していたが、私に気が付くと、静止させようとするクロウの声を振り切って、よろよろと上半身を起こした。蒼と緑の無機質な瞳が私を呼んでいる。私は、ノイドへと近づく。スノウが不安そうに私を見上げている。その頭をそっと撫でてから、ノイドへと視線を移す。
「……ミリーシャ様、任務、無事完了致しました」
「そうか、よくやってくれた。ゆっくりと休んでくれ」
 それだけ言葉を交わすと、ノイドは意識を手放した。
「クロウ、すまないがノイドの部屋まで運んでくれるか?」
 クロウは頷いてノイドをおぶさり、ノイドの部屋へと向かった。
 ノイドが屋敷を離れ、後三日で丁度一月という日の出来事だった。
 再びノイドが起き上がれば、全ての準備は整い、最後の幕が開く――。



 あれから二日間寝込んで、帰還して三日目の今日から、執事は通常通りの仕事に戻った。外傷こそ無かったものの、あれだけ衰弱していたのが嘘のように、あのしかめっ面で淡々と仕事をしている。しかも無理をしている様子もなく、本当に完全回復しているらしい。人間にしては異常なほどの回復力だ。
 その日の夕方頃、ミリーシャは俺たちを呼び寄せて、唐突に一つの提案をする。
「クロウ、スノウ。お前たちウチに住む気はないか?」
 呆けた俺をそのままに、スノウは歓喜の声を上げる。
「そこまで喜んでくれると、私としても実に嬉しいよ。クロウ、お前はどうだ?」
 ミリーシャは澄ました顔をして笑う。じっと睨むように俺を見続けるスノウの視線を前に断ることなどできないと踏んだのだろう。確かにそれもあるが、俺自身としても満更ではない。この生活が続けられるのなら、願ったり叶ったりだ。
 その旨を告げると、ミリーシャもスノウも笑った。

 それならば、今晩は盛大に前祝いといこうか、というミリーシャの言葉で急遽俺と執事で食料の買出しに行くことになった。何度も出歩いていたので、着け髪ではない自前の髪で風を切ることにも随分と慣れたし、ここの地理にも随分と明るくなった。
 それに、以前のようにこの街の白さにいらつくこともなくなっていた。
 ミリーシャに渡されたメモに従い、買い物を終えると俺と執事二人ともが、目の前が見えなくなるほどの量の紙袋を抱えていた。ふらふらとした足取りで帰路を辿る。その途中、む、という呟きと共に執事が動きを止める。どうした、と声をかける。深紅の夕日が視界に入る。何故か、胸騒ぎがする。気分が高揚しているせいもあるが、このざわつきは尋常ではない。周囲を見渡しても俺たち以外は誰もいない。気のせい、か?
「靴紐をな、踏みつけてしまったようだ。雪の上に置いては紙袋が破けるかもしれない。すまないが持っていてもらえるか?」
 ああ、とほとんど上の空に返して、二人分の紙袋を抱える。ふと視線を横道へと逸らすと、あの旧屋敷へと続く道がすぐ隣にあった。……あの雪だるまたちは、どうなっただろうか? 
 ざ、と風が吹く。
 かちり、という音。
 木々がざわめいて、鳥たちがばさばさと飛び立つ。

 ――銃声。

 立て続けに四発。紙袋の隙間から、四つの銃火が、次々と華のように咲いたのが見えた。どさどさと紙袋が落ちて、両脇と両太腿を打ち抜かれた俺も、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。太めの血管がやられたのだろうか、どくどくと大量の血液が流れていく。雪が紅く染まっていく。俺は混乱していた。何故、俺は倒れている? この痛みはなんだ? 
答えはすぐそこにあるというのに、ぐるぐると疑問ばかりが広がっていく。
 俺が、執事に撃たれて倒れている、という事実を認識するのにしばらくの時間がかかり、その間に奴は俺へと近づくと、相変わらずの不機嫌そうな表情のままで、手刀を振り下ろした。後頭部に重い衝撃を受けて、俺の意識は闇に沈んでいく。





 意識が覚醒した頃には、すでに夜になっていた。真っ暗になった世界の中で、ばら撒かれた食材が散乱する中で、それは何よりも俺の目を引いた。
 『snow crow』。ミリーシャがスノウに渡した本。俺の目の前にぽんと置かれたそれは、読み取りづらいタイトルはそのままに、無残な姿に成り果てていた。どかりと墓標のように突き刺さったナイフは、本の裏表紙まで突き抜けていた。そして、ナイフには血糊。心臓が高鳴る。――これは、誰の血だ。
 そして気付く。貫かれた箇所にかさかさと音をたてるメモ。
『旧屋敷にて待つ』
 わなわなと身体が震える。胸の奥の何かがみしみしと軋む。そっとその本を手に取り、立ち上がる。くらくらとした。どうやら随分な量の血が流れたようで、頭痛と吐き気のおまけつきだ。目眩がする。考えが纏まらない。纏めたくない、認めたくない――。
 それでも、俺の足は動く。皮膚が破れ、血が流れるほどに拳を握り締める。あいつに会って、すっかり無くなったと勝手に思い込んでいたそいつ――激しく渦巻く憎悪は、今、俺の傍らにいる。辛うじて理性を繋ぎ止めながら、メモの場所を目指す。
 月は出ているのに、どうしてか、今夜の闇は限りなく深いものに思えた。そして、その闇の中へと、俺はこの身を投げる。

 木々が形成するアーチを抜け、辿り着いたそこは、ひたすらに静かだった。
「遅かったじゃないか、ノスフェラトゥ」
 屋敷の前にあった二つの人影の片方が、飄々とした声で告げる。雲が、ゆっくりと月を隠す。さくさくと雪を踏みしめながら、二つの人影が近づいてくる。無言でナイフが突き立てられた本を見せる。
「……ミリーシャ、これはどういうことだ?」
 お前あてのメッセージだろう? と左手をコートのポケットに突っ込んで、右手だけで煙草に火を点けながら、馬鹿にしたような声で答える。
「このナイフに付いた血はなんだ」
 微かに、声が震えている。一番気になる質問は、喉の奥から出てきてはくれない。あいつは、どうしている――。寒いはずなのに、額には汗が滲んでいる。
「ああ、それか。気にするなよ。どうせ、お前らにとっては大事な燃料だろうが、本体が死んでしまえば使い道はないだろう?」
 ミリーシャの飄々とした態度は一向に崩れない。それに引き換え俺の心臓は、その鼓動を早めていく。ミリーシャは、何を言っている。がくがくと膝が震える。視界がどんどん狭くなり、もう空は見えない。焦燥と不安の他に、激しい憎悪がとくとくと心を満たしていく。俺は、ミリーシャの言葉の意味を、本当はもう理解している。理解してしまった。先程の言葉が事実ならあいつは、もう――。
 唐突に銃声が響き、俺の手から本が弾かれる。微かに、右手が痺れている。
「何時までそんなゴミを持っている気だ? いい加減目障りだぞ。それに、さっきから何だ、その呆けた面は。お前、まさか本気で人間と仲良くやっていくつもりだったのか?」
 ミミズクたちの鳴き声が、消えた。鳴き止んだのではなく、俺の耳が音に反応しなくなっただけだろう。ミリーシャの声だけが、辛うじて届く。雪の上で倒れていたため、震えていた身体も、寒さを感じなくなっていった。
「ミリーシャ、スノウを、どうした」
 ぴくり、と眉が顰められ、盛大なため息が漏れる。
「さっきの説明で察しが付かなかったのか? 見上げた阿呆だな」
 投げ捨てられた煙草。それを踏み潰す足の動き。全てが挑発的だった。
「アレはもう死んだ。お前がノイドに撃たれて暢気に昼寝をしている間にな。私が殺った」
 うぞうぞと、憎悪が全身を這い回り、五感は悉く途絶えていく。何度も見た悪夢が、現実となって俺を侵食していく。何も見えない、聞こえない、感じない。ただ、心には憎悪が満ちて。獣と成り果てた俺には、もはやあいつのために流す涙さえも無かった。
「それから、化物風情がいつまでも気安く私の名を呼ぶな。……反吐が出る」
 俺の世界が、闇一色に染まる。
 ――殺す。
 絶望の刃に貫かれた心は、だらだらと憎悪という血を流し続ける。血の囁きが全身を支配して、獣は女に飛び掛る。剥き出しの殺意を隠そうともせずに。
 衝撃。
 拳が後僅かで、澄ました女の顔に届こうかという距離で、身体が横に吹っ飛ぶ。脇腹に違和感、体勢を宙で整え、四つん這いになって着地。俺を吹き飛ばしたのは、不機嫌そうな顔をした男。男は女を庇うように俺と女の間に割って入り、俺と対峙する。袖の長い服。いつだったか、一度、似たような格好の人間と戦った記憶がある。袖の中に幾つも道具を仕込んでいた男で、殺し屋だった。この男もそいつと同様なのだろう。
 だが、そんなことはどうでもいいことだ。
 どんな武器を持とうと、どんな戦い方をしようと、人間風情が黒の一族を殺せるか。
 雪を思いきり蹴飛ばして、弾丸のように跳ぶ。策も無く、ただ憎悪のみを撒き散らしながら、俺は男の真正面から拳を振るう。どんなに出鱈目な動きでも、人間に捉えられる速度などではない。――それなのに。
 男は冷めた目つきで、見下すように俺を見ながら、当然のようにカウンターを合わせてくる。雪上にいるのが嘘のような軽やかなステップで回避すると、同時。俺の右腕と交差するように放たれた男の拳が、顎に目掛けて迫ってくる。
 その軌道を瞬時に見極めると、奴の拳が顎を射抜く前に顎を引き、上半身を屈めて軌道上に額をねじ込む。打ち下ろし気味に放たれていたため、視線が足元へと移る。顔を上げる瞬間、微かな違和感を覚えた。対峙した男の右足が消えていた。――蹴りか!
 すぐさま頭部を覆うように両腕で防御する。
 左腕にずしりとした衝撃を感じ、その衝撃の方向に跳び、威力を軽減させる。
 しかし、俺が動き出すよりも早く、着地のその場所を知っていたかのように、奴は独楽のように全身を回転させ、裏拳を放つ。僅差でバックステップによる回避で逃れる。数メートル離れた両者の足元では、雪がはらはらと舞っている。
「私の父は、狂人だった。ある日を境に自分は神だ、という妄想を抱き、穢れたノスフェラトゥという悪魔を屠ることによって、さらにその神格を上げられると信じていたよ」
 視界の隅で女の口が動く。言葉など、もう俺の耳には届かないというのに。視界の隅にその様子を留めながらも、俺は男の隙を探る。この男は女の口が止まるまで、仕掛けてくる気はないらしい。無論、そんな都合に合わせて聞こえもしない言葉に耳を傾ける気などなかったが、悔しいことに、男には微塵の隙も見当たらない。
 それならば、狙う瞬間は女の口が止まり、奴が動き出す瞬間。俺は女の口の動きに意識を集中させる。
「私にとって害でしかなかったその男が残した、唯一と言っていい利益がある。それが、大昔の文献さ。そこには貴様らの身体のことや、生身の人間が貴様らと同等に戦うための武術などが記されてあった。下らん絵空事だと思っていたが、ノイドに懇願されて学ばせてみれば、くくく、この通り。ハンデがあったとしても最強の悪魔、ノスフェラトゥが人間一人に防戦一方ときた。思っても見なかった収穫だよ。ノイドが学んだのは……確か、キコウとか、センドーとかいう名だったか?」
 こくり、と男は頷いて、女に視線を向ける。
「たった一月の付け焼刃でここまでの成果が出るとは思ってもみませんでした。最も、大量の血液を失っただけならまだしも、ご存知の通り、怒りで我を失った獣のような精神状態では、固有能力が使用できません。このような不完全な状態のノスフェラトゥが相手では対ノスフェラトゥの充分な戦闘データとは言えませんが」
 奴の意識は女に向けられている。この千載一遇の好機を見逃す手は、無い。
 間合いを一瞬で詰め、先程は空を切った拳を見舞う。
 鈍い感触が拳を伝う。全力を出し切った一撃が、今度は確実に男の横っ面に届く。
 男は、成す術も無く崩れ落ちる――はずだった。
 しかし、ぐらり、と僅かに身体が揺れはしたものの、男はしっかりと両の足で立っていた。
「ふむ。渾身の力をこめた一撃がこの程度では、この男からはもう有益なデータは得られないでしょう。……処分してもよろしいでしょうか?」
 驚愕で動きが止まったその隙に、女に何やら告げながら、男は俺の腕を掴む。みしみしと、物凄い握力で締め付けられる。女が期待はずれだ、といった視線でこちらをちろりと眺めた後、小さく頷くと男はこちらに向き直る。男の左手が俺の胸に添えられる。どうしたことか、身体が動かない。男はその体勢から、足首、膝、腰、肩、肘、手首と全身のバネを駆使して生み出した衝撃を放った。
 ど、と大型の地揺れのような感覚が襲い、肋骨が軋む、或いは砕ける嫌な音が身体の内側に響いた。衝撃が放たれた場所は鳩尾。ごぼ、と口から血が溢れ出たことから、どうやら肺にも穴が開いたようだ。恐らく砕けた肋骨が突き刺さったのだろう。やけにゆっくりと視界が移動し、地に沈む衝撃が砕けた胸部に響く。ぼやけていく意識の中、吐き出した血液は、闇のように黒い色をしていた。



 意識を取り戻すと、ここしばらくは見なくなった悪夢の中だった。――いや、もしかしたら死後の世界とかいう場所かもしれない。一面の闇に囲まれながら、ゆっくりと立ち上がる。俺は、死んだのだろうか? それとも、まだ生きているのだろうか?
 ――死んではいない。
 低く、やけに響く声がすぐ側から聞こえた。いつの間にか、俺の隣に一匹の獣がいた。全身は真っ黒な毛に覆われていて、鋭い爪と牙を持ち、ぎらぎらとした真っ赤な眼。狼のような、凶暴そうな顔をしていながらも、しっかりと二本の足で立っている。俺よりもずっと巨大なそれは、じっと俺を見ながら、言った。
 ――先程は多少の油断があった。そして何よりもお前の心に迷いがあった。だから俺は敗北した。
 獣は、大仰に手振り身振りを交えて語りかける。先程、そう言われてもそれがいつのことなのか、俺にはわからなかった。それよりも、胸が酷く痛む気がする。
 ――迷いを振り切れ。お前の全てを俺に委ねろ。そうすれば、今度は勝てる。
 そんなこと言われても、どうすればいいか、俺にはわからない。ぽつり、と思ったことは、何故か獣には筒抜けで、簡単なことだ、と返された。
 ――そこにある光を壊せ。それだけでいい。
 獣がその爪で俺のすぐ後ろを指す。振り向くと、そこには光の玉が、太陽のような眩しい光ではなく、雪のような白い光を優しく放っていた。この光はどうしても壊してはいけないもののような気がする。それに、とても暖かくて、どこか懐かしい。俺は、躊躇った。
 ――何を躊躇うことがある? お前はあんなにも人間たちを憎んでいたじゃあないか。
 確かに俺はひどく誰かを憎んでいた気がする。だけど、上手く思い出せない。そもそも、俺は一体誰だった? 記憶があやふやで、はっきりとしない。どうして俺は人間を憎んでいたんだ?
 ――そんなことは思い出さなくてもいい。それよりも、さあ、早く壊せ。
 獣は俺の背後から俺に覆いかぶさってきた。鋭い爪で俺の手足を操り、光を壊させようとしているようだ。光は壊したくなかったが、この獣に抵抗する気もなかった。一歩、光に近づくとじくん、と胸の痛みが増す。近づくに連れて痛みは増し、だらだらと汗が流れる。お前の言う通りにすれば、この痛みも消えるか?
 ――勿論だ。二度とそんな苦しみを味わうこともなくなるぞ。今だけの辛抱だ。
 獣は笑った。ああ、この痛みから逃れられるなら、獣の言葉に従おう。だんだんと薄れていく意識の中で、ゆっくりと光に手を伸ばすと、ばしん、と手を叩かれた。
 閉じかけていた瞳が開き、目前の少年の姿をぼんやりと映し出す。
 少年は俺たちから光を庇うように立ち塞がった。この少年を、どこかで見たような気がするが、はっきりと思い出せない。それよりも、胸が痛い。今にも破裂しそうだ。
 ――構うことはない。その小僧ごと引き裂けばいい。
 何故か、獣の声は俺の内側から響いてきた。言葉が終ると、俺の意思とは無関係に俺の腕が上がる。少年に狙いを定めて。虚ろになっていく俺には、止めようとする気力もなかった。少年はじっと俺の目を見て口を開く。
「また、その中に逃げるの?」
 気が付けば、俺と獣は同化していた。振り上げた手は爪をぎらつかせ、身体は闇のような体毛に覆われている。その代わりに、胸の痛みはすっかり治まっている。
 ――俺の中にいれば、全ての煩わしい苦しみから逃れられるのだ。当然の選択だろう。
 ああ、その通りだ。どうしてかは知らないが、生身でいると胸が酷く痛む。それに比べればこいつの中は随分と居心地がいいんだ。獣はそうだろう、そうだろう、と満足そうに笑う。少年は――泣いていた。
 ぽろぽろと、大粒の涙が頬を伝う。少年は、きっと説得に失敗したから泣いているのでも、目前の獣の爪に怯えて泣いているわけでもなさそうだった。語らずとも、その瞳が訴えている。情けなくはないのか、と。
「…………じゃないか」
 小さな口が、わなわなと震えた涙声を出す。俺はその言葉に強く心を惹かれたが、獣は問答無用で振り上げた腕に力を込める。
「……したじゃないか」
 再び、紡がれる言葉。獣の爪が動き出すと同時に、少年の言葉が、確かに心に届いた。少年は繰り返し呟いていた。
 約束したじゃないか、と。
 ほとんど獣に飲み込まれたはずの心に、懐かしい言葉が浮かぶ。『約束できる? 絶対迎えにくるって』、『約束したからね。私のこと、絶対迎えに着てね』。あの光と同じで暖かくて、懐かしい言葉だった。薄れていた記憶が、瞬時に蘇る。
 ばきり、と左腕から闇のメッキが剥がれて、振り下ろされた爪を、必死に掴み止める。この真っ暗な世界のことが、完全に理解できた。この少年は、全てを失う前の俺を、獣は、全てを失って荒れていた頃の俺を映し出す鏡像。この世界は即ち、俺の心の中。そして俺は今、選択を迫られている。これからを獣と共に歩むか、少年と共に歩むかを。
 ざ、と俺の体から闇が退き、すぐ隣に再び獣の姿を構成する。
 ――どうする? 俺と共に行けば、その胸の痛みは消える。その代わりに永遠の闇がこの世界を満たす。
「僕と行くのなら、胸の痛みからはもう、逃げられない。だけど、あの光を壊せばあの子との約束は、果たせない」
 ――あの少女はもう死んだ。約束など、もう果たすことは出来ない。
「確かに、もう手遅れかもしれない。でも、まだ生きている可能性だってある。彼女が死んだなんていうのは、ミリーシャの嘘かもしれない」
 俺を中央に挟んで、獣と少年が向かい合う形で各々の言葉を紡ぐ。
 ――下手な希望を持つな。お前はずっと俺の中にいたんだ。あの希望の光を捨てて、絶望という胸の痛みから逃げてきた。この闇の中なら希望の光も無いが、絶望という痛みから解放される。
「だけど、孤独からは逃げられない。この世界を満たす孤独の闇からは。どんなに自分を偽っても、どれだけ大きな獣の中に逃げても、闇は消えない。この世界が真っ暗な、空っぽの世界になってしまう。苦しみもないけれど、喜びもない」
 ――それこそが救いだ。
「こんな世界は、哀しすぎる」
 ――ずっと逃げてきたお前は弱い。その胸の痛みには耐え切れない。諦めるべきだ。
「耐え切れないかもしれない。もう手遅れかもしれない。だけど、まだ間に合うかもしれない。痛み以外の何かを得られるかもしれない」
 そこで、両者の言葉が途切れ、じっと俺を見つめる視線だけが感じられる。
 正直に言えば、獣を選びたいと思った。大切な人を失う苦しみや、信じていた人に裏切られる悲しみからは逃げたい。何かを得られても、その喜びには失ってしまう恐怖もまた付き纏う。かつてのように自分をごまかしながら、孤独の闇を見ないように生きていく方がずっと楽だ。
 だけど――。
 俺は、少年へと手を伸ばす。伸ばした手はがたがたと震えている。ここは、俺の心の中の世界。必死に奥底に隠してきた感情が、容赦なく襲い掛かる。偽ることのできない恐怖が俺を支配する。どうしようもなく怖い。失うことが、裏切られることが、胸を抉るあの痛みが、絶望と隣り合わせの世界で、生きていくことが。
 それでも。
 
 しっかりと、少年の手を握る。
 
 ――本当に、それでいいのか?
 獣の声が背後から聞こえる。いいんだ、俺は頷く。少年は、じっと俺を見ている。
 ――お前が、黒の一族が生きていくには、あの世界は辛すぎる。
『だからこそ、行くんだ』
 ぱりん、と世界を覆っていた闇の一部が砕け、その下にはそんな文字が刻まれていた。今、俺が放とうとした言葉が、真っ白な色で、大きく。ぱりん、ぱりん、と闇がどんどんと砕けていく。
『そんな世界に、あいつを一人残して逃げたくはない』
『絶望がもたらすあの痛みは、どうしようもないほどに怖い』
『あいつまで失ってしまえば、俺の心は完全に壊れてしまうかもしれない』
『だけど』
 瞬間、風が吹いたような気がして、少年が無数の光の粒にその姿を変える。粉雪のように軽やかに宙を舞い、やがて俺の中へと吸い込まれていく。
『もしも、あいつが生きているなら』
『俺を待っているのなら』
『今俺が行かないと、あいつを独りにしてしまう』
 闇の世界は、どんどんと真っ白な文字で埋め尽くされていく。
『あいつには、ずっと笑っていてほしい』
 少年の手を震えながら握り締めた右手を、目の前まで掲げ、握り締める。震えはもう、止まっていた。
『もう手遅れかもしれない』
『一番深い絶望があるだけかもしれない』
『それでも、目を逸らさない』
『約束したから』
『例えどんな場所でも』
『絶望しか残されてない場所だとしても』
『他の誰でもない、俺が迎えに行くと』
 真っ白な文字たちに埋め尽くされ、世界から闇が消え去った。もう文字たちが現れる様子はない。だから、最後の言葉は、俺自身の声で紡いだ。
「俺は希望を捨てない。絶望の痛みが俺を貫いても、二度と手を離したりはしない。俺は、あの痛みと共に、生きていく」
 それは、聞きなれた俺の声のような、少年の声のような、それでいて赤ん坊の産声のような、そんな声だった。
 おお、と獣が呻く。
 ――それがお前の決断ならば、行くがいい。消えない痛みと共に。
 獣は陽炎のように揺らめいて、だんだんと薄くなっていく。
 ――だが、忘れるな、俺はこの世界でずっとお前を待っている。闇の中へ逃げたくなったら、いつでも来るがいい。……この世界の闇が消えた今なら、お前の眼の曇りも消えているだろう。せいぜい頑張ることだ。
 獣が完全に姿を消し去ると、俺は少年が守り続けた光に手を伸ばす。あいつと過ごした日々が、脳裏に次々と映し出されていく。一切の迷いは霧散し、決意が、固まる。
「今行くぞ、スノウ」
 その言葉を合図にしたように、意識が覚醒していく。



 背中の雪が、冷たい。吐き出す息が、白い。俺は、大の字になって倒れていた。月を隠していた雲が流れ、淡い月光が夜の世界を照らしている。ゆっくりと、立ち上がる。
 世界に色が戻っている、否、俺の感覚が蘇ったのか。月の側には無数の星。ミミズクたちの歌は相変わらずよく耳に残る。懐かしさと心地よさを感じた。しかし、同時に憎悪に飲まれて感じなくなっていた疲労なども、しっかりと感じている。酷い出血であったにも関わらず胸部に受けた大打撃。それ自体は回復していたが、おかげで血が足りない。能力を一度使用するくらいあるかも微妙で、貧血による頭痛や吐き気もかなりのものだ。コンディションは最悪と言っていい。それでも、今更退く気などさらさらない。
 深呼吸をして、俺はこの真っ白な戦場に佇む敵へと向き直る。
 蒼と緑のオッドアイを見開き、いつもの不機嫌そうな顔を歪め、驚愕の表情を浮かべたその男へと。気のせいか、顔が蒼ざめ肩で息をしているように見える。俺と互角に戦った、あの戦闘術の反動だろうか。
 男――ノイドは、すぐにいつもの不機嫌顔に戻ると、無言で構える。
「何故、止めを刺さなかった?」
 俺の問いに答えは返ってこない。その代わりに無数の針のような殺気が、ひしひしと伝わってくる。恐らくは、刺さなかったのではなく、刺せなかったのだろう。どれほどの疲労があるのかはわからないが、意識が完全に途切れていた俺に止めを刺せなかったくらいだ。五分の状況と捉えて構わない、と思う。今戦えば勝機は充分にある。だが、できることなら正直、戦闘は避けたい。下手をすればここで死ぬ可能性だってあるし、何よりもスノウを救出できれば、それ以外のことはどうでもいい。
「アンタともミリーシャとも戦うつもりはない。ただ、ミリーシャと話がしたいだけだ」
 自分でも驚くほどに心が静かだった。心臓は高鳴り体調は酷い有様だが、あの世界で感じていた、抉るような胸の痛みは消え、それと同様にあれほど激しく渦巻いていた憎悪も消え去っていた。恐怖も憎悪もなく、ただスノウと交わした約束を守ろうという、そんな決意だけが俺の心を満たしていた。
「……ミリーシャ様はそこの屋敷の中だ。だが、私は貴様をすんなりと通す心積もりはない。通りたくば――」
「お前を倒して進め、ということか」
 小さく、男が頷く。……まあ、殺気剥き出しだった態度を急変させて、戦う意思がない、などと言われても到底信じられないだろうし、当然と言っていい返答だった。
 
 冷たい風が吹いて。
 雲が、再び月を隠す。どさ、と木の枝に積もっていた雪が落ちる音が、第二戦の始まりを告げる。
 ノイドが両の手を袖に入れ、引き抜くと、黒光りする刃物が一本ずつ握られていた。記憶が正しければ、あれは確かクナイという暗器。刃物としての機能の他にも、投擲して離れた敵にも攻撃できる遠近両用の武器……だったはず。
 その記憶が正しいと言わんばかりに、ノイドは右手のそれを投げ放つ。回避すると同時にそのまま一気に距離を詰める。双方共に深刻なダメージがある。それならば、短期決戦あるのみ。ノイドは先程クナイを取り出したときと同じモーションで、今度は指と指の間に四本ずつ、計八本のクナイを取り出し、それらを次々と放つ。ぎりぎりの血液を振り絞り、能力を使用する。情報と引き換えに血液が失われ、凄まじい疲労感が圧し掛かる。
『クナイ軌道予測』
『回避行動を取りながらの接近は可能』
『わ…は……ない』
『敵本体よりも暗器の破壊を優先』
『ミ……ャさ…を』
『腕部への攻撃後、即座に離脱』
『離脱方向を提示』
 乱れ飛ぶ八本の刃を回避し、懐に飛び込む。
 ――何だ? 今見えたものは。それに、身体が俺の意思で動いている?
 疑念を押し込め、疾走する。
 そして。
 加速によって生じたエネルギーを、残さず右の拳へと込めて、奴の右腕目掛けて繰り出す。――直撃。
 めぎ、という鈍い音と、感触。奴の腕が、恐らく暗器はおろか骨ごと砕け散った。ただし。
 右腕ではなく、左腕が。
 混じっていた奇妙なノイズに気を取られたわけでもなく、完全に防御された。奴は躊躇うことなく、利き腕を庇うために左腕を捨てた。バックステップで距離を取る。ノイドの身体はぐらりと大きく傾き、ざ、と雪に片膝をつく。だが、こちらも状態は良くはない。呼吸は荒いまま静まろうともせず、だらだらと脂汗が流れる。それらを無視して状況を整理する。
 微かに混じった謎のノイズ、能力を使用したというのに、俺の意識が身体を支配していた――今までのように、戦闘行動がオートで行われなかった。そして、ノイドの身体能力が想像以上に著しく低下しているということ。その三点の今までとの相違点に思考を巡らせる。
 能力展開時の戦闘が、俺の意思通りに行われることに関しては、現時点では特に問題は無い。後で幾らでも考えればいいことだ。ノイドの戦闘力の低下は喜ばしいことだが、こちらも似たような状態。気を抜けない状況に以前変わりはない。
だが、あのノイズは何だ? 
『お前の眼の曇りも消えているだろう』
 あの世界の最後、獣がそんなことを言っていたことを思い出す。曇りが消えた……ならば、この『眼』の能力の一端と考えるべきか。だとしたらあのとき、俺には何が見えていた?
 雪を、踏みしめる音。
 奴が立ち上がる。ぴっちりとオールバックにしていた薄いブルーの色をした髪は、戦闘行為によりぼさぼさで、使い物にならない左腕をだらりとぶら下げたままで。その左腕からは、俺の一撃で砕けた暗器でも突き刺さったのか、ぽたぽたと血が流れている。そのくせ不機嫌そうな顔は蒼ざめてこそいるが、表情はぴくりとも変化していない。そして、奴の蒼と緑の瞳が、すっと俺の眼を射抜く。そこには、灼熱の炎のように熱く、研ぎ澄まされた刃のように収束された意志が感じられた。瞬間。
『私は、負けられない』
 眼に飛び込んでくる文字。あのときのノイズのような、途切れ途切れの文章ではなく、今度ははっきりとそれが見えた。
『ミリーシャ様を、必ず守り抜く』
『例えこの命が、尽きようとも――』
 能力はもう使用していない、正直に言えば血液不足で使用できないというのに、それが見えた。同時に、この眼が映し出しているものの正体が、わかった。これは、奴の心か。
 荒い呼吸を整えようともせずに、ノイドは右腕を右の袖の中に潜り込ませる。ば、と引き抜かれたその手に握られていたのは、深紅の色をした武器。月光を浴びて僅かに煌いていることから、材質は金属であろう。全長は奴の拳から肘よりも少し長い。その棒状の金属に、片端よりの場所に垂直に突き出たグリップ。トンファー、という武器。本来は左右一組の武器だが、左腕が使えない今、奴が使えるのは右腕の一振りのみ。低下した能力をカバーするため、一撃の重みを少しでも増すためにそれを構える。十中八九、ノイドは防御など考えていない。全身全霊で繰り出す捨て身の一撃に、俺たちの戦いに幕を引く次の激突のことしか、頭にないだろう。
 奴が、構え、俺もまた、構え、そして。
 同時に跳ぶ。
 真正面に、奴の瞳。
 視界に映る景色が、塗り変わる。
真っ白な世界。そこにぽつぽつと現れる文章たち。
 やがて文章は奔流となり、ノイドの想いを紡ぎだす。

『過去のことは殆ど覚えていない』
『気が付けば私はミリーシャ様に仕えていた』
『過去を知ろうとは思わず、身体に刻まれた行為を繰り返す』
『私は人形。主の忠実な僕』
『しかし、時折夢を見る』
『あれは、ミリーシャ様と……私』
 映し出される、幼い少年と少女のビジョン。声は、聞こえない。だから、何を話しているのかも、わからない。
『このとき私は、大切な約束を交わしたような気がする』
『その約束が何なのか。それだけが気がかりでしょうがない』
 少年と少女は、やがて消えていった。
『時が流れ、それはゆっくりと輪郭を取り戻していく』
『完全には思い出せない。けれど、心の奥底にそれは、確かにある』
『私の記憶の欠片。それが呟く。彼女を守れ、と』
 再びビジョンが現れる。真っ黒な外套を纏い、赤い着け髪と黒丸の色眼鏡。まぎれもなく、それは俺だった。ビジョンは不安定にゆらゆらと揺れながら姿を変えていき、最後には今の俺と同じ姿になった。
『ミリーシャ様はクロウに殺されることを望んだ』
『それこそが、唯一つの救いだと言って。私はその計画の準備を任された』
『だが、何故か私の心には躊躇いがあった。主の命令こそが、私が行うべき全てであるはずだったというのに』
『幾度も考え、決意した。私はクロウを殺す。例え命令に背くことになっても。ミリーシャ様には、生きていただきたい』
 俺のビジョンが崩れ、俺は現実へと引き戻される。その最後の瞬間、
 ――約束するよ。
 浮かび上がる言葉。それは恐らく、ノイドがずっと思い出せなかった約束。
 ――ミリーは絶対、僕が守るって。
 遠い日の少年が、少女に微笑んだ気がした。

 塗り変わる景色。迫る、決着の瞬間。
 ……ああ、俺と同じだったのか。
 あと半歩で互いの射程圏内に入る、という距離で、ノイドは急激にブレーキをかける。右腕を大きく引き、同時に砕けた左腕で、俺の視界を塞ぐ。暗器を隠してあった長い袖は、その姿を全ては隠せないが、繰り出す右腕の軌道を隠すには充分すぎる。
 視界の隅で、雲が流れ、現れる月。
 アンタも、大事な約束のために戦っていたんだな――。
 減速はしない。逆に、更に加速していく。限界を超えて、能力を、使う。びきびきと全身に激痛が駆け巡る。頭が割れそうで、関節が千切れそうで、全身がバラバラに吹き飛びそうだった。薄れそうな意識を、必死で繋ぎ止める。カウンターで、合わせてみせる!
『軌…道…予測』
『胸部……心臓…に』
『レイ…コンマ……ナナビョウ…ゴ』
 回避――、仕切れない、身体が、脚が、言うことを聞かない――。
 深紅の煌きが、駆ける。
 ボロボロの身体で放たれる、限界を通り越した、想いが収束された、一撃。
 道理で、こんなにも強いはずだ、と素直に感嘆する。
 ずぐん、肉を裂き、骨を砕く衝撃、激痛が襲い、出血が雪を染める。
 数瞬の間。
「な、んだと……」
 呻く声。発したのはノイド。
 トンファーは深々と突き刺さっていた。
 俺の、左腕に。 
 身体を支えるのがやっとの両足を動かすことを諦め、上半身を回転させ、左腕で受けた。効いた。強烈な一撃だった。重心は前方にあったはずなのに、吹き飛ばされそうなほどの衝撃が貫いていった。
 ――それでも。
 即座に次の行動に移る。歯を食いしばり、気力を出し尽くす。震える足で、しっかりと大地を踏みしめる。
 ノイドは無防備、右腕のタメは出来ている。
 ――俺が、勝つ!
「おおおおッ――」
 無意識の咆哮。
 全身を連動させ、放つ。最後の一撃。

 淡く輝く月に見守られた戦いに、ようやく終止符が打たれた。
  





  閃光のような一撃が、私を打ち抜いた。打撃音のすぐ後に浮遊感、やけにゆっくりと流れる滞空時間。雪面に叩きつけられ、ようやく痛みが広がっていく。その痛みの発信源を探り、自分を吹き飛ばした一撃は顎に見舞われたものだと理解する。どうりで景色がぐにゃぐにゃと歪むわけだ。揺らめく月を眺めながら、意識を手放すまいと必死に抵抗する。意識を繋ぎとめたとしても、この身体はすぐさま言うことを聞かないだろうが、それでも意識を失ってしまうよりは早く動けるようになるはずだ。ふと、疑問が浮かぶ。
 それから、どうするつもりなのだ?
 意識を保ち、身体が自由になって、私はどうする? ――どうしようとしている?
 ……全くもって理に適わなく、事態が好転するとは思えないが、私はミリーシャ様と話をしたい、そう考えていた。何を話すというのか、と問われれば、正直に言えばわからない。それでも、それが命令に背いたこと、計画が失敗してしまったことの報告ではないことだけは確かだ。不思議だった。今まではこんな考えを持ったことなどなかった。私は繰り手の意のままに動く人形。自らの意思など、ずっと昔に消えてしまったはずなのに、今の私はそれによって突き動かされている。断言できる。人形だった私は、もういないと。
しかし、意思が戻ろうと人形のままでいようと、まずはミリーシャ様がいなければ、文字通り話にならない。どれだけ深手を負っているとはいえ、今のクロウでも私とミリーシャ様を殺すことは充分に可能だ。……奴にその気があれば、の話ではあるが。
 勘、というなんとも不確かな根拠ではあるが、十中八九、クロウにそんな気はないだろう。それでも、私は――。
「……ク…ロウ」
 上半身を起こすことも出来ず、上手く動かない口を必死に動かしてクロウに呼びかける。錆び付いた歯車のように、ぎしぎしと首を動かして奴の姿を捜すが、視界にはその影一つ入らない。
 馬鹿な。私は意識を失ってはいないし、クロウにもすぐさま動き出すほどの体力が残っているとは思えない。奴は、どこへ行った? 焦りを覚えながらも呼びかけ続ける。身動きの取れない現状にいらいらしていると、
「何か、用か……」
 弱々しく掠れた返事が、確かに耳に届いた。その声は、足元の方から聞こえてきた。僅かに首を上げると、うつ伏せに倒れているクロウの姿があった。どうやら、奴も立っていられないほどに消耗しているらしい。
「私と…取引をしないか?」
「取引、だと」
 ずり、ずり、と雪上を這うような音がして、視界にクロウが現れる。酷くぼろぼろの姿だった。膝はがくがくと笑い、左腕からはかなりの出血。顔色も蒼白で血の気がなくなっている。
「お前がミリーシャ様から聞きたいのはスノウの居場所だろう。その場所を教える。だから、今はこのまま退いてくれ。お前だって、これ以上体力の無駄使いは避けたいはずだ」
 目を合わせ、逸らさずに私は語る。クロウから出された提案を蹴っておいて、このような取引を持ち出すとは、我ながら何とも無様なことだと思う。いや、それ以前に、クロウは実質、私やミリーシャ様の命を握っているのに比べ、こちらは証拠も何もない情報一つ。明らかに釣り合いが取れていない。石ころと金塊を交換してくれ、と言っているも同然な内容。少しでも考えれば無理だと分かるような、そんな提案を持ち出すほどに、私には形振りを構っている余裕などはなかった。ミリーシャ様と話がしたい。そして、できることなら、その考えを改めてもらいたい――。そんな想いだけが、私を突き動かす。
「一つ、聞いてもいいか」
 放たれた言葉に、なんだ、と短く応じる。白い吐息が現れては消えて、互いの呼吸のリズムを視覚化している。
「スノウは、生きているか?」
「ああ、生きている」
 クロウは軽く目を伏せ、そうか、と呟き、
「わかった。あいつの居場所を教えてくれ」
 この、とても取引とよべない私の提案を受けた。
 僅かに……ではない。大いに驚いた。
「正気、か?」
 そんな言葉が、思わず出てしまうほどに。
「そっちから持ちかけておいて、こちらの正気を疑うな。それにこのまま取引を終えるつもりもない。無茶な取引に違いはないんだから、そっちには俺の条件をもう一つ飲んで欲しい」
 条件にもよるが、それでもこの取引が成立したことは、僥倖と言うしかない。私は頷いてクロウの言葉を待った。
「お前との戦いの最中、能力の幅が広がった。どうやら、過去とか心情とかまで見えるようになったらしい。だから、お前の言葉に嘘が在ってもすぐに見破れる。まずはそのことを念頭に置いておいてくれ」
 そこでクロウは一度言葉を区切る。そして、考え込むような仕草を見せてから、再度口を開く。
「今、お前はミリーシャと話がしたい。そしてそのことは、お前の中の最優先事項。そうだな?」
「……ああ」
「恐らくだが、ミリーシャの心からは死を望む願いは消える。今のお前と話すことによって。しかし、恐らくでは困るんだ。何が何でもミリーシャのことを説得してくれ。それが、俺の出すもう一つの条件だ」
「わからんな」
 ようやく言うことを聞くようになってきた身体を動かし、立ち上がる。
「何故、そんな条件を出す? お前にはまるでメリットがないだろう」
 ちらちらと、雪が降り始めた。吐息の白さが、その濃さを増したような気がした。
「あるさ。メリットなら、充分にある」
 クロウはそう言って、僅かに、笑った。



 ぎしぎしと、廊下が軋む。
 この屋敷に入るのは何年ぶりになるのだろうか。住人がいなくなり、掃除もされなくなった屋敷の中は埃が積もり、床は歩くたびに耳障りな声を出すようになっていた。勿論電気も通っていないため、明かりなどはない。初めは壁に手を当てながら歩いていたが、しばらくすると目も闇に慣れてくる。
 意外なほどに残っている旧屋敷の記憶を頼りに彼女を捜す。……もしかしたら、この記憶も洗脳が解けたことにより、蘇ってきたのかもしれない。そんなことを思いながら動かし続けた足を止める。目の前には執務室。彼女に、忌々しい呪い襲い掛かった場所。彼女が、世界で最も忌み嫌う場所。ふと気付くと私の手が、ドアノブに伸ばした手が震えている。緊張、しているのだろう。胸の前までそれを引き戻し、強く握り締めた。
 意を決してドアを開ける。
 
 窓から僅かに月光が入り込むばかりの、薄暗い部屋。廊下と同じような埃の臭いに混じって、微かな煙草の臭いがする。部屋の奥、執務用机とセットになっている、回転式の革椅子。そこに座ってこちらに背を向けている人物がいた。左右に揺れるたびに、きぃ、と妙に甲高い音が聞こえる。あのブロンドの髪の人は、今何を思っているのだろう。私の願望に過ぎないかもしれないが、あの後姿は苦しみ、悲しんでいても、計画通りにことが運んだ場合に訪れる終焉を、死を、喜んでいるようには思えなかった。気だるげに紫煙が吐き出され、錆び付いた革椅子が一際大きな音を出した。ゆっくりと回転して、彼女の顔がこちらを向く。
「思っていたよりも遅かったな、ノスフェラトゥ」
 そう吐き捨てて、煙草を机に押し付ける。どうやら彼女は私をクロウと間違えているらしい。私もはっきりと彼女の姿を見て取れるわけでもないし、この暗さではそれも当然だろう。大きく、無音で息を吐く。
「……いえ、私です」
 取り敢えず一言だけ、発する。それが、完全に闇に溶けていった頃、ノイドか? と彼女の声が返ってきた。当然の如く、驚きが多量に含まれていた声だった。
「まさか、本当にお前が奴を?」
 始末したのか、と続くだろう問い掛けに、いいえ、と答え、彼女には見えないだろうに、首を横に振る。
「あの後、クロウは再び立ち上がり、私は敗れました。立ち上がってからのクロウには、憎悪や憤怒の感情は一切感じられず、もう戦うつもりはないとまで言っていました。それにも関わらず、奴に挑んでいった私が生きていることより、真実かと思われます。奴にはもう戦意も殺意もないのでしょう」
 それ以前にクロウはもう――、とふと脳裏に浮かんだことは、言葉にはせずにその場に留めておいた。彼女は私の報告を聞いても、落胆の色も見せず、ただぼんやりとした様子で、そうか、と呟いた。
 ……私は、何をしているのだ。これでは人形だった頃と、何も変わらないではないか。頭を振って言葉を捜す。それでも、見つかるのは焦燥ばかり。歯を噛み締めても、拳を握り締めても、何も出てこない。
「私は、どうしたらいいんだろうな?」
 その言葉に、伏せていた目を上げる。酷く苦しそうな彼女の表情が、視界に入る。
「もう…疲れた。再び同じことを繰り返す気力もないが、これ以上この呪縛に縛られたまま、生きていたくはない……」
 そして、いつもの煙草を取り出す仕草で、彼女は懐に手を入れて、
「となれば、こうするしかないのだろうな」
 取り出した銃を、自分に向ける。
「……ついに、お前との約束は、果たせないままだったな」
 彼女の言葉に、その悲しそうな笑みに、胸が疼いた。記憶が、あのときの約束が、完全に蘇る。

 僕は、二人だけで会うときの秘密の場所で、ミリーを待っていた。この大きな屋敷の中で、滅多に人が立ち入ることのない小さな物置部屋で。その日は、約束の時間が過ぎても、彼女は中々現れなかった。いつもなら僕が来たときには、もう彼女はここにいて、遅いよ、なんて口を尖らせていたのに。
 そのとき、ドアがゆっくりと開いた。彼女が、ようやく来たみたいだ。
「遅いよ、ミリー」
 僕は彼女の真似をして、口を尖らせてみた。彼女は俯いて小さく、ごめんなさい、と呟いた。今にも泣きそうな声に、僕は酷くうろたえた。
「え…、じ、冗談だよミリー。そんな声出さないでよ」
 あたふたとあわてる僕。ミリーは首を左右に振る。肩辺りまであるブロンドの髪が、その動きに合わせて揺れた。
「そうじゃなくて、ノイド、明日行っちゃうんでしょ」
 ああ、と僕は理解した。彼女は知っているらしい。明日、僕は遠くに連れて行かれて、他のオッドアイの大人たちみたいな、人形にされてしまうことを。僕は、できるだけ優しい声で彼女を諭す。
「大丈夫だよ、ミリー。だから…」
 泣かないで、と続けようとした言葉は、ミリーの声でかき消された。
「大丈夫なんかじゃないよ!」
 か細い肩を震わせて、大粒の涙を拭おうともせずに、彼女は叫ぶ。
「人形になっちゃったら、他の人たちみたいになっちゃうんだよ? 本当に、機械か人形みたいに、笑わなくなって、怒らなくなって、死ねって命令されたら……怖がったりも出来ないまま、何も感じないまま死んじゃうんだよ!」
 僕の胸に飛び込んで、使用人用の服を、透き通るような白い指先で力一杯に掴みながら、彼女は泣いていた。
「私は、そんなの嫌。ノイドがそんな人形になっちゃうなんて、絶対嫌。私は、今のノイドがいい。お願いだから、私を、独りにしないで……」
 僕は、そっと彼女の髪を撫でる。
「本当に大丈夫なんだよ、ミリー」
 彼女の嗚咽の声だけが響く物置部屋に、僕の声が混じる。
「確かに、君の父さんの人形になったら、本当にどうしようもないけれど、そうじゃない。僕は、ミリー専属の人形になるんだって」
 本心を言えば、とても怖い。だけど、そんな気持ちをミリーに悟られないために、必死に笑顔を作って僕は続ける。
「人形は、ミリーが言ったように、主人の命令を聞くように洗脳される。どんな命令でも、だ。だから、君の命令で、僕を今の僕に戻してよ」
 僕の胸に埋まっていた、彼女の顔が上がる。
「でも、そんなこと父様に知られたら……」
 眉を顰め、不安そうな表情を浮かべる。きっと、そのときのことを考えて、怖い想像をしてしまったのだろう。
「そんな顔しないでよ。大丈夫。約束するよ。ミリーは絶対、僕が守るって。人形になって、今みたいにミリーと話したり出来なくなるのは寂しいけど、その分僕は強くなれるから。君の父さんからも、他のオッドアイたちからも、君を守るから」
 彼女は、目尻に涙を浮かべながら頷いた。
「私も、約束する。ノイドを絶対今のノイドに戻してみせる。私だって父様の人形なんかにならない。もしそうなっても、必ず今の私に戻って、ノイドのこと、助けて見せるから!」
「うん。僕だって、もし僕が戻れて、そのときミリーが人形だったら、必ず助けてみせるから――」

 彼女が目を閉じて、銃口を側頭部へと運ぶ。今から走っても間に合わない。
 トリガーに掛けられた指、私は袖の中から、残っていたクナイを取り出す。
 最後の力を振り絞って、それを放つ。
 ぎぃん、と鈍い音がして、ミリーシャの手から銃が落ちる。銃声は聞こえていない。代わりに、ミリーシャの声が聞こえてくる。
「ノイド……?」
 彼女らしくない、呆けた顔だった。
「ようやく、思い出せた。あのときの約束を」
 私はそう言って、ぎこちなく笑った。
「記憶はまだおぼろげだが、それでも何とか人形から元に戻れたようだ。それなのにミリーに死なれては、あまりにもやりきれないだろう? 父親の呪縛などはもうない。あったとしても、私が打ち砕いてみせる。……だから、生きてくれミリー」
 それだけ言い終えると、ぐらりと身体が傾き、私は倒れた。彼女が駆け寄ってくる音が、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。あれは、本当に最後の力だったらしい。全身から力が抜け、意識が薄れていくのを感じる。
「ミリー。私は大丈夫だ。疲労が蓄積しすぎただけだろう。それよりも、聞いてくれ。私は戦闘の後、クロウと取引をした。そのことを、伝えなくてはならない」
 ミリーは碌に事情も知らないだろうに、頷いてくれた。必死に意識を繋ぎとめながら、私はクロウの思いを伝えた。



「あるさ。メリットなら、充分にある」 
 俺はつい先程まで死闘を繰り広げていた相手に、そう答えた。
「お前がいなくなっている間、俺とスノウとミリーシャは、よく三人で街に出かけたりしていた。スノウはあいつに懐いていたし、ミリーシャもスノウといるときはよく笑っていた。あれはきっと演技なんかじゃない。少なくとも俺はそう信じている」
 ノイドは黙って続きを待っている。否定も肯定もしていないが、人形ではなくなった今、ノイドにだって思い当たる節はあるはずだ。スノウを生かしておいたというのは、ミリーシャが俺の憎悪を引き出すことが目的だったならば、ありえない話なのだ。
「だから。ミリーシャが言っていた、全部終ったら一緒に暮らさないか、って言葉もミリーシャの本心からきた願望だと俺は思う。お前が人形になって、ミリーシャはずっと独りだった。だけど、スノウに会って迷いが生まれた。あいつと過ごした日々は、楽しかったから。そんな日々が続けばいいって思ったのかもしれない」
 ミリーシャは、きっと俺と同じだ。独りで生きていくことに疲れて、虚ろになりながら、ただ死を望んでいる。それで、スノウと会って、孤独が薄れていくに連れて、死を望む心が薄れていった。ミリーシャだってきっと、生きたいと思っているはずだ。今、ミリーシャは迷っているが、ノイドが元に戻ればその孤独は消え去る。
「父親の呪縛なんて、多分言い訳だ。そんなんじゃない。本当は、独りでいることが辛いだけだ。それを認めたくなくて、それらしい死ぬ理由を捜してるんだ。……スノウに会う前の俺みたいにな。だからお前がいれば、死にたいなんて考えなくなるさ」
 そこで、一度言葉を切る。情けないが、長く話しただけで息が続かない。苦笑を浮かべながら、呼吸を整える。
「後はまた、楽しく暮らしていける。ミリーシャが言っていたように、お前と、スノウと、ミリーシャで……。つまりはそういうことだ。あいつも、お前たちの家族になれるんだ」
「スノウを私たちに任せるだと? ならば、貴様はどうするというのだ。そこまで負傷しながらもスノウを助けようとしたのは、貴様もスノウと共に生きたいと願っていたからではないのか?」
 不機嫌そうな顔で食って掛かってきたノイドだが、すぐに気付いたらしい。俺の左腕から流れ続けるものに。この結果に、後悔はしていないと言えば少し嘘になるが、それでも誰も恨んでいないことを伝えるために、俺は、笑った。

「……もう、な。限界らしい。俺は、助からない」


 スノウは、現在使っている屋敷のスノウが使っていた部屋にいる。ノイドからそう教えられて、俺はそこを目指した。針葉樹のアーチをくぐり、雪の降る道をひたすら歩く。意識が薄れていくのがわかる。多分、一度倒れたら起き上がることはできないだろう。
 道端に、どこかの子供が作ったのか、雪だるまがあった。わざわざこんな、街の端っこに作らなくてもいいだろうに、とそんなことを思う。俺だってあいつと一緒に、辺鄙な場所にある屋敷の庭に四つも作ったのだから、偉そうなことは言えないが。
 ……そう言えば、あの雪だるまたちはどうなったのだろうか。もう雪に覆われてしまったのかもしれない。そう思うと、とても残念だった。左腕の傷口を押さえていた右手が、血で滑る。ミリーシャに買ってもらったコートに血の跡が付いてしまう。三人で初めて街に買い物に出かけたときと同じコート。
 あのときは、結局どれがいいか選べなくて、ノイドから借りたのと同じコートを買ってしまった。ミリーシャにもスノウにも、つまらないだの、面白くないだの、散々に言われた。ミリーシャは俺には文句ばかり言うくせに、スノウのことはやたらに褒めて、スノウは一着一着選んでは、どう思う? クロウ、なんてわざわざ聞きに来ていたな。
 ついつい破顔しながら、今まであった出来事を思い出す。スノウに会ってからの一月は、本当に楽しかった。そう言える思い出ばかりが溢れてくる。
 だからこそ、恐怖も感じる。かつての俺にはなかった、死に対する恐怖を。

 ――死にたくない。

 もっと、あいつらと、スノウと生きていたい。しかし、どれほど強く願っても、祈っても、血は流れ、雪は容赦なく体温を奪っていく。
 身体が、ゆらゆらと左右に揺れる。呼吸は荒く、しばらく前から肩で息をしている。寒い。凍えそうに寒いのに、汗が額や背中にじんわりと滲む。
 俺は、どれくらい歩いたのだろう。ほんの数分のような気もするし、もう何時間も経ったかのようにも思える。そんな考え事をしたのが拙かったのか。足が縺れ、そのまま成す術もなく、吸い込まれるように崩れ落ちる。ここで、終わりなのか……。視界ではなく脳裏に向けて、走馬灯とかいう奴が、俺の記憶を出鱈目にぶちまけ始める。しかも独りで生きてきたときの、思い出したくもないような記憶ばかりを。
 まるで、お前は過去と同じように独りきりのままで死ぬんだ、と嘲っているかのようだった。雪もまた、俺を埋め尽くそうと言わんばかりに降りしきる。
 ――畜生。
 悔しさが、右手に五本のラインを引かせる。
 それを見て、俺は笑った。
 恐怖に狂ったわけでも、やけくそになったわけでもない。右手が俺に語りかけてくる。まだ、動くじゃないか、と。
 走馬灯なんかが見えて、もう終わりかと思ったのに、俺の右手は、身体は、まだ動いてくれる。獣のような、荒い呼吸を抑えようとするのは止めだ。どれだけ苦しかろうが、身体が動きさえすればいい。
 肩どころか、全身でようやく呼吸をしているような状態で、無理矢理身体を起こす。雪面に突きつけた足は、がくがくと震えている。それを右手で押さえつけ、立ち上がる。走馬灯が見せる景色は薄れていき、消え去る瞬間、一人の男の姿を見せた。
 それは、忘れもしない、忘れることなどできない、親父の最後の姿だった。
 あのときの親父も、治りはしない傷をいくつもその身に刻まれていた。それでも、親父は俺のところに来てくれた。今の俺と、あのときの親父。身体的な条件は、ほぼ同じ。
 だったら。
「……こんな所で、寝てるわけには、いかないよな」
 
 もう、痛みも寒さも感じない。あらゆる音が消えて、ただ、自分の呼吸の音だけが、聞こえる。指先の感覚は殆どなく、僅かな意識は必死になって致命的な眠気と戦っている。
 なんとか辿り着くことができた、スノウのいる場所。それなのに、俺は屋敷を目の前にして、それ以上一歩も動くことができなくなっていた。はっきりとわかるのだ。後一歩足を動かせば、もうこの身体は動いてくれなくなる。足元に引かれた、生死を分ける不可視のライン。
 その一歩を踏み出すわけにもいかず、ただ立ち尽くす。ヒュー、ヒュー、と呼吸の音さえも擦れてきた。なんとなく天を仰ぐと、頭に積もっていた雪が背後に落ちる。視界に入る、月と、雲と、雪。それらを眺めていると、どさり、と音がした。どこかの木から雪でも落ちたのだろうか。随分と近くから聞こえた気がした。それを確かめようと視界をずらしていくと、自分の右手が目の前にあり、月も小さくなった。
 そうか、雪が落ちたんじゃなくて、俺が倒れたのか。
 あと少しだというのに、身体は動いてくれない。
 擦れていた呼吸音さえも遠のいていき、ゆっくりと瞼が閉じて、真っ暗な世界が広がった。すぐ側に、死の存在を感じた。それは、意外なほどに穏やかなもので、それを感じた瞬間、眠りに落ちるように意識が拡散していく。
 そのとき微かに、さくさくという音が聞こえた気がした。
 幻聴だろうか。
 そう思ったが、音はどんどんと大きくなっていく。いや、近づいてきている。
「――――」
 名前を、呼ばれた気がした。懐かしくて、暖かい声だった。
 散り散りになっていった意識が、もう一度集まりだす。
「――ロウ」
 さくさくという音は、雪を踏みしめて走ってくる音だったらしい。
 懐かしくて、暖かい、あいつの声が、俺を呼んでいた。重い瞼を、開く。
「クロウ!」
 視界にはもう空は映っておらず、スノウの悲しそうな顔だけがそこにある。スノウは最後に見た姿のままで、コートはおろか靴すらも履いていない。
「……お前、何だその格好は…。風邪、ひいちまうだろ……」
 ようやくそれだけ言うと、その瞳からぼろぼろと涙が流れる。
「何言ってるの! クロウの方が酷いじゃない! すごい怪我だし、手なんて両方とも紫色になっちゃってるし……。クロウとノイドさんが出かけて、ミリーシャさんが淹れてくれてくれたお茶飲んだら眠くなって、目を覚ましたら自分の部屋で、窓から倒れてる人が見えて出てきたらそれがクロウで…。なんで…? どうしてこんな…」
 しゃくりあげながら必死に言葉を紡ぐその姿があまりにも痛々しくて、その頭を撫でてやろうとしても、腕は何十キロもの重りを付けられたように重い。どれだけ力を込めても肘から先の部分しか動かない。目的も果たせず、宙を彷徨うばかりのその手を、スノウの両手が包む。
 震えだす唇、白く染まりつつある視界。タイムリミットは、すぐそこまで来ている。
「俺の手…、冷たいだろ……」
 そんなことないよ、と答えるその声は、涙声で。俺は、あいつの笑顔が見たくて、言葉を絞り出す。
「……ミリーシャと、ノイドと、スノウと…。これからは、四人で……」
「うん、そうだよ。これからは四人で一緒に遊んだり、ご飯食べたりするんだからね。だから、クロウ、死んじゃだめなんだからね!」
 握りしめる小さな両手に力が入り、それに応えるように、俺は頷いた。あいつの顔も、見えなくなってしまった……。
「クロウ。ねぇ、クロウ! 目、閉じちゃだめ!」
 ああ、本当に、何も感じられなくなった……。あいつの、手の温もりさえも。
「――スノウ」
 最後に、どうしても伝えたかった想いは。
 ――ありがとう。
 言葉にはならず、真っ白な吐息のままに、空に溶けて、消えた。
 真夜中だというのに朝日のような眩い光が、閉じてしまった瞼の外で、確かに輝いたのを感じた。



 白い世界だ。
 三百六十度、全方位が雪に囲まれたような、真っ白な世界。今度こそ俺は死んだのだろう……、と思うのだが。四肢の感覚を探りながら考える。今の俺は、生前と全く変わらない姿をしていた。何ともなしに口を開く。
 ――俺は、本当に死んだのか?
 当然のように発せられる俺の声。
 死後の世界。俺の想像の中ではこんな風に生前の形を保たずに、完全に消えてなくなるようなイメージだったのだが、今の俺には身体もあるし、声も出る。それに意識もはっきりしている。夢というよりは、現実に近いような感覚だ。それとも最初はこうでも、徐々に薄れていくのだろうか。意味もなく掌を眺めながら、そんな思考を繰り返す。
そのとき。
『クロウ、聞こえる?』
 唐突に。だが、はっきりとその声は聞こえてきた。幻聴の類ではないことは確かだが、周囲には俺以外の人影はない。――いや、そんなことよりも、この声は。
 ――スノウ、なのか?
 肯定の声を待たずに周囲を見渡す。それでもやはり何かを見つけることはできず、ただどこからか聞こえてくる声に、耳を傾けるしかなかった。俺を包む白い空間には、相変わらず何の変化も見られない。
『そうだよ。でも、こうして話していられる時間はそんなにないの。私、自分の能力を使うのは初めてだから、上手くコントロールできなくて……』
 パニック寸前の頭を落ち着かせながら、必死に現状理解に努めようとする。頭の整理を始めるよりも早く、焦りを含んだスノウの声が響く。どうやら余程時間がないらしい。
『うん。じゃあ、最初にね、一番大事なこと。クロウも、それから勿論私も死んでないよ。まだ生きてるの』
 心臓が高鳴る。俺が、生きている? その言葉を聞き、脈動する心臓の鼓動に合わせて、徐々に高揚していくのがわかる。スノウの言葉が続く。
『私は、自分の能力がどういうものかはわかっていたけど、一度も使えたことがなかったの。でも、今回はぎりぎりのタイミングだったけど、使えたみたい』
嬉しそうなスノウの声は、上下左右、あらゆる所から場所を変えながら響いてくる。見えないとわかりつつも、聞こえてきた方角に向けて目を凝らす。
 ――死者を蘇生させる能力……?
『ううん、そうじゃないの。でも、その辺りは長くなるから省くね。とりあえず、クロウも私も生きてる。生きてるけど、離れ離れになっちゃうの。クロウはミリーシャさんのお屋敷の近くのままだけど、私はどこで目を覚ますかわからない。だから……』
 不安そうに途切れる声。それを励ますように、俺は笑う。
 ――大丈夫だ。すぐに迎えに行ってやる。……約束したからな。
 どれだけ距離があっても、互いに生きてさえいるなら、いつか再会することができる。そのためならばきっと、この別れは悲しいものではないはずだ。どれだけ離れていても、俺たちはもう、孤独ではない。そう信じられるだけの絆で、俺たちは結ばれているはずだから。
真っ白な世界に、あいつの威勢のいい声が響く。
『うん! 私、待ってるからね』
 その言葉を最後に、それまでとは異なる感覚に包まれる。それは、海の底に沈んでいくかのような、天に昇っていくかのような浮遊感。
 スノウとの約束を胸に、俺は全身を包む浮遊感に身を任せた。



「……これが、俺が生きていることと、スノウがいなくなっていた理由だ」
 あの真っ白な世界が消え、俺が再び意識を取り戻すと、そこは見慣れた自分の部屋だった。ノイドとの戦いで負った傷は全て完治していたが、格好はあの夜のままで、コートの左腕の辺りにべっとりと付いた血糊が、あの夜の出来事が夢ではないことを物語っていた。とりあえず現状を確認しようと廊下に出たところで、偶然にもミリーシャと鉢合わせになった。ノイドの傷は治ってはいないようで、現在は自室で療養中だ。ミリーシャはその見舞いに行こうとしていたらしい。
 そこからノイドの部屋まで引きずられていき、俺はそれまで経験したことを二人に報告した。ミリーシャは初めこそ戸惑っていたが、最後には安堵の表情を浮かべていた。ノイドは俺と顔を合わせたときは目を見開いていたが、それからはいつもの不機嫌そうな顔に戻っていた。
 相変わらずのようだが、この二人は少し変わったように思える。ミリーシャはよく笑うようになり、煙草もあまり吸わなくなった。ただ、時折申し訳なさそうな顔で俺を見ていた。ノイドは常態の不機嫌そうな鉄面皮は変わらないが、感情の起伏が増えてきたように思える。人間味が戻ってきたというべきか。
 そして、俺にも肉体的な面でちょっとした変化があった。髪の毛が、スノウのように白く変化していたのだ。理由はわからないが、あのときのスノウの能力に起因するのではないか、とミリーシャは分析していた。
 それから、ノイドはしばらくの療養、俺はミリーシャと相談しながらスノウ探しの旅の準備を始めた。この広い世界の中からただ一人を探し出そうというのだ。行き当たりばったりの無計画ではどうにもならない。基本的に物資は現地調達で充分賄えるが、効率的なルートを考える上で、ミリーシャの知識は随分有用な情報となった。
 そんなある日のこと。
「……すまなかったな」
 執務室で、世界地図やら色んな本を広げながらあれこれ考えているとき、ミリーシャの声が響いた。テーブルの上の世界地図から、向かいのソファのミリーシャに視線を移す。
「私の下らんエゴにつき合わされなければ、お前とスノウは……」
 目を伏せながら、沈痛な面持ちでその口火を切る。
「一生出会うことがなかったかもしれないな。俺はどこかで独りでくたばって、スノウは生贄にされていただろう。そう思えば、ミリーシャには感謝の言葉もないな」
 ノイドから、話には聞いていた。ミリーシャからは以前のような死を望む気持ちはなくなったが、その代わりに俺とスノウに対する罪悪感が溢れている、と。その言葉は、まさに真実だったようだ。表面では笑顔を作っていても、心の底から笑うことはできなかったのだろう。
「そうではない!」
 強く、テーブルに掌が叩きつけられる。その下にあった地図に皺が刻まれていく。掌のすぐ側にあったコーヒーカップの中では、コーヒー色の津波がいくつもできていた。
「私には、お前たちから感謝される資格などない……」
「それなら、感謝などはしない。その代わりに憎んだりもしないぞ。お前の言ったことも真実だが、俺の言ったことだって真実なんだ。お前のおかげで俺たちは出会い、別れることになった。そしてもう一度、今度は俺たち自身の意思でここに集まるんだ」
 すっかり冷めたコーヒーカップに手を伸ばす。  
「俺にも、スノウにも謝罪なんていらない。ただ、また楽しく暮らせれば、それだけでいいんだ。……だから、もうそんな顔はしないでくれ」
 静まり返った部屋に、時計の針が時を刻む音と、暖炉の炎の息吹が、その存在を露にする。窓の外で、風が木々を揺らす。
 ミリーシャは、手を組んで俯いていたが、しばらくして顔を上げると、懐に伸ばしかけた手を止め、ブロンドの髪を掻き揚げる。
「お前は、随分と変わったな」
「そうか?」
「そうさ」
 それから足を組み、ふんぞり返って、笑う。いつか見せた、からかうような笑みではなく、本当に嬉しそうに。
「確かにその通りだな。過去のことに必要以上に囚われても、きっとよい方向には進めないだろうな。それに、これから先は居候共に金を食い潰されることになるんだ。よくよく考えれば感謝される資格も十二分にある」
「それを言われると、弱るな」
 そうして、二人で笑った。
 恐らく、そう簡単にミリーシャの罪の意識は消えないだろう。それでもきっと、ミリーシャはそれを抱えながら前に進んでいけるはずだ。スノウの存在が俺を支えてくれたように、あの不機嫌そうな顔の執事に支えられながら。



 ノイドの怪我が完治した頃と時を同じくして、俺の準備も整う。
俺がこの街を旅立つ日。前途を祝福してくれているかのような、澄み切った晴天が遠くまで広がっていた。俺は、この街に来たときと殆ど同じ格好だった。真っ黒な外套に、黒丸の色眼鏡。髪はもう染める必要も、隠す必要もなくなったため、着け髪はかぶっていない。
 ミリーシャとノイドに見送られて、様々な思い出ができた街を眺めながら歩みを進める。変わらない町並みも、こうして旅立つとなると、感慨深く思えてくるのだから不思議なものだ。街を抜け、あの長い坂道を登る。登り終えたところで、振り向く。真っ白な街。初めて訪れたときと全く変わらない。だが、あのとき感じたような不快感はすっかり消え去っていた。気持ちのいい風が吹き抜ける。
 これから始まる、いつ終るともわからない旅。それが、どれほど長いものになろうとも、俺はきっと、もう孤独ではない。様々な出会いをもたらした街の姿を、しっかりと脳裏に焼き付ける。再びこの地を踏むときは、俺の傍らにはこの街のような真っ白な少女がいるのだろう。浮かんだ笑みをそのままに、大きく息を吸い込む。

「いってきます」
  
 ふいに口から出た言葉は、この街に、どこまでも続く空に、そして、俺の胸にしっかりと吸い込まれていった。


2005/11/04(Fri)23:10:45 公開 / 豆腐
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