『ロックンロールショウはもう終わりだ』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:TURB
123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
プロローグ
幸也。
少女はまだ幼い自分の弟に、震えたか細い声で呼びかけた。喉の奥で絡まるような、奇妙な発声。それでも彼女はふと気を緩める度に漏れそうになる嗚咽をかみ殺し、恐怖と絶望が眼窩に湧き出させる涙を堪えて無理やり笑顔を作ると、7歳になったばかりの弟の名を呼んだ。
幸也。一人でおうちに帰れる?
弟は不安げな瞳で彼女を見上げ、首を振った。
少女の顔が失意に歪む。彼女の背後に立っている数人の男達から、粗野な哄笑が漏れた。少女は自分たち姉弟を揶揄する笑い声に対して聞こえぬ振りを決め込むと、弟に近づいて、緊張の為か血の気を失い青白くなっている弟の頬にそっと手を触れる。
大丈夫だよね。幸也は強い子だもんね。一人で帰れるよね?
少女は弟の前に屈みこんで視線の高さを合わせると、その瞳をまっすぐ見つめて言った。
少女の言葉は、質問ではなく、確認でもなく。
それは、懇願だった。
弟は視線だけ動かして自分の頬に添えられた姉の手を見た。先程男達に突き飛ばされた際に擦りむいたのか、姉のほっそりとした指先は泥で汚れ、掌からは血が滲んで痛々しかった。今年から通い始めた女子高校の制服のボタンは男達の手によりすべて引きちぎられ、破られたブラウスの襟元からは、僅かに下着が露出しており、裂けたストッキングからは未発達な素肌が覗いていた。扇情的などという表現からは程遠い、通常の感覚を持つ者なら痛々しさしか感じないであろう光景。
お姉ちゃんは、帰らないの?
不満そうな、弟の声。
ごめんね、幸也。
少女は言った。
お姉ちゃん、この人達と少しお話していくから、一緒に帰れないの。だから、幸也はこれからすぐにおうちに帰って、お母さんとお父さんに、そう伝えてね。お姉ちゃんは帰るのが少し遅くなるけど、心配しないでって。
姉の切実な響きを持つ言葉に、弟は気圧される様に頷いた。
ほら、ボウズ、もう良いだろ。さっさと帰りな。
腕組みしながら少女の背後でニヤついていた屈強な赤毛の男が、少しだけ焦れた声をだす。それだけで幼い弟を威圧するには十分だった。助けを求めるように、すがりつく視線を姉に向ける。
とっとと帰らせろよ。いつまで待たせるんだ?
赤毛の男が少女の乱れた黒髪を乱暴に引っ張る。
や、痛い、やめて。
少女は身をよじって抵抗する。
弟はどこか光彩のない瞳で、苦悶する姉を見つめた。
おい、よせよ。ガキが見てるだろうが。
男達のリーダー格らしいセルフレームのサングラスをかけた痩せぎすの男が、赤毛の男をたしなめる。赤毛は不服そうに鼻を鳴らし、少女の髪から手を離した。
サングラスの男は少女を見据え、促すように弟の方を顎でしゃくった。
ゆ、ゆき……ゆきや。
赤毛の男から受けた暴行の痛みの為か、今まで堪えていた涙が少女の顔を濡らしていた。声にシャックリのような嗚咽が混ざり、言葉までも滲ませる。
お願い、幸也……早く、帰って、ね。お姉ちゃん大丈夫だから……お願い。
その言葉に、弟は弾かれた様に踵を返し、走り出した。街灯が壊れて漆黒に塗り固められた夜の公園を駆ける。一度も振り返らず、走り続ける。
自宅まで、あと50メートル。息を止め、腕を振り、必死に走った。
玄関のドアを開け、家に飛び込むと、ダイニングに料理を運ぶ母親と鉢合わせした。
あら、どうしたの幸也。そんなに息を切らして。お姉ちゃんは一緒じゃないの?
首を傾げながら、母親は言った。
お姉ちゃんはお友達とお喋りしていくから帰りが遅くなるんだって。心配しないでって言ってた。
弟は弁解する口調で一息にそれだけ口にすると、二階の自分の部屋に駆け込んだ。
幸也! どうしたの、夕御飯食べないの?
追いかけてくる母親の声。
心配しないでっていってた。
お喋りして行くだけだって。
誰もいない部屋の中で、何かに憑かれた様に弟は呟いた。
1
小さなライブハウスであっても、ステージに立つと未だに緊張してしまうのは、僕に舞台度胸というものが全く備わっていないからだ。もっとも、舞台以外でなら度胸があるのかと問われれば、やっぱり羞恥心に苛まれつつ首を横に振るしかないのだけれど。
隣で鼻歌交じりに愛用のギターをチューニングしているアヤを、ちらりと横目で盗み見る。彼女は口の端にピッチパイプを咥えたまま器用に指先だけでペグを回していた。余裕綽々、泰然自若。大したものだと、素直に感心する。
ステージから見下ろす光景は、いつも僕の過剰な自意識を追い立てる。客の年齢層はティーンエイジから、20代の中ごろまでが殆ど。男女の割合で言えば、男が7割に女が3割だろうか。一見野暮な服装でも、ロックに関しては一過言あるというオタク風の人や、今時珍しい鋲つき革ジャンのパンクスなんかも来ている。いつもは、往年のロック小僧といった風情の年配の人が来る事もあるけれども、今に関してだけ言えば、その姿は見当たらない。夜の6時にもならないこの時間から来ているお客はその殆どが、僕らのバンド「螺旋階段」のボーカル兼ギターであるアヤ、綾町卓美が目当てだ。だから当然僕の事など誰も見ていないし、僕のベースなんてお客の耳に入っているかどうかさえ定かではないけれど、そんな事実さえ僕の動悸を抑えることはできない。
「なに、幸也、緊張してるの? キミは本当にいつまでも初々しいね」
いつの間にやらチューニングを終えたらしいアヤが、ギターを肩にかけながら僕に嫌らしい笑い方をした。露骨に馬鹿にしている。今日の彼女の服装は、黒いニットのノースリーブに同色のフレアスカート、真っ白なオーバーニーソックスにレザーのショートブーツといったいでたちで、アイドル系のタレントばかりが増えた現代の音楽シーンに怒りを覚えるコアなロックファンが集うライブハウス「地下道」には、どう考えたって不釣合い。普通に考えれば、一体どこのゴスロリ娘が紛れ込んできたんだって感じだろう。
それでも、今日集まったお客の何割かは確実に知っているはずだ。
アヤが、見てくれが可愛いだけの人形ではない事を。
「チューニングはすんだのか?」
僕は自分のベースから伸びるシールドコードを年代物のアンプにつなぎながら言った。
「みりゃ分かるでしょ、この通りよ」
苦笑と共に、アヤは黒猫のオリジナルペイントが施されたフェンダー社製ストラトキャスターで、今日一曲目に演奏する予定である「アシッド」のリフをワンフレーズだけ弾いた。ライブハウス「地下道」のチープな音響設備であっても、アヤの紡ぎ出すメロディーは確かな存在感を持って、周囲の人間の耳を引き付ける。それは鼻先にそよぐ鮮烈な芳香。視界に広がる原色のパノラマ。一瞬にして、騒いでいた客の中に静寂の波紋が広がる。皆、それぞれのドリンクを片手に立ち尽くし、期待の視線をアヤ一人に向けていた。
小さな老舗ライブハウスとはいえ、この「地下道」は満席なら80人は入る。無論、今日だってそのぐらいだ。その全員に注目されているというのに、アヤは少しも動じない。 すいませーん、あともうちょっと待ってー、などと軽い調子で客に声を掛けている。
僕は背後の高遠に視線を走らせた。
ドラマーである高遠永治は「地下道」備え付けのドラムを使うため、準備に殆ど時間がかからない。タンクトップから剥き出しのたくましい腕を組み、退屈そうにドラムセットの前で欠伸をしていた。僕と目が合うと、高遠は肩をすくめて見せ、ゆらりとした動作でスティクを握ると、ひとり準備が終わらないアヤを急かす様にハイハットで8ビートを刻み始めた。僕としても、これ以上の生殺しは御免だ。演奏が始まってしまえば、この粘着質なプレッシャーを振り切ることができる。なにもしないで開演を待つ事が、一番つらい。
僕も高遠のビートに合わせて、「アシッド」のベースラインを弾き始める。しゃがみこんでエフェクターの調節をしていたアヤが、こちらを伺う素振りを見せた。だが何もいわず、表情を消したまま、彼女はゆらりと立ち上がるだけだった。
なんだ?
拗ねたんじゃないだろうな、この程度で。
僕は少し不安になって、爪弾く手を止めてアヤに近づいた。そして、いざ僕が彼女に声を掛けようとした瞬間。
アヤは突然大振りなストロークでピッキングした。ディストーションの効いたサウンドが響き渡る。驚いている僕に彼女はチェシャ猫の様な笑みを向ける。そして、声には出さずに唇の動きだけで、言った。
お・ま・た・せ。
それが始まりの合図になった。
アヤはブーツの踵を高く鳴らし、ステージ中央のマイクの前に立つ。それだけで、客のテンションが急上昇するのが手に取るようにわかる。左手をゆっくりと、蠱惑的な仕草でマイクスタンドに絡め、やがて抱きかかえるように口を寄せると、初めて聞いた者ならそのギャップにドキッとするであろう乾いたハスキーボイスで、魔法の呪文のように囁いた。
「アシッド」
その言葉は確かに魔法だった。そしてステージに立つアヤは魔術に長けた小悪魔だ。モノトーンでまとめたファッションは彼女の黒い翼。足元の三基のエフェクターは彼女の使い魔。僕は彼女の呪文で動き出し、繊細にして破壊的な旋律を奏で始める。この曲のオープニングはベーシストの見せ場だ。酸が侵食するように、ゆっくりとマイナースケールを弾く。背後から高遠のドラムが支えてくれるので、リズムに気をとられないですむ。そこへ横から殴りこむアヤのアルペジオ。「アシッド」にヴォーカルはない。だからアヤはマイクから離れ、テレキャスをマシンガンみたいに構えて観客に向けてかき鳴らす。分散和音の一つ一つが銃弾となり、観客の脳髄に打ち込まれていく。僕は狂気に満ちた破れかぶれのチョッパーで、溶解し、のたうつ肉体を表現する。通常だったら聞き苦しいだけのサウンドだろう。だが、アヤの作り出すキャッチーなメロディーに絡むと、ひとつのアクセントとして成立してしまうのだ。そして、曲が崩壊するギリギリのラインまでテンションが上がり、そこで爆ぜる様に終わりを迎える。
お客の怒号とも歓声ともつかない叫び声が僕らを包み込む。
気持ちいい。
さっきまでの不快な重圧が嘘のようだ。
やっぱり、ライブは楽しい。ステージに立つ度に、身を焦がすほどの緊張感を覚える事になるのは確かだが、それにしたって、この歓びには代えられない。
観客との一体感。ライブハウス全体を包み込む熱狂。そして何より、一緒に音を作り出すアヤと高遠。
額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐい、アヤはマイクに向かった。一曲終えたところでMCというわけだ。珍しくもない構成だが、それは効果の程が実証されているから。十分に観客を盛り上げた後、挨拶やバンド紹介をした方が効果的に決まってる。
高遠がアドリブでドラムロールを始めた。達観している振りをして、こういうベタな洒落っ気だけは決してなくさない男だ。アヤは振り向きざまのひと睨みで、高遠の野暮を止める。そのコントの様なやり取りに、観客から笑いが漏れた。
「今晩は、螺旋階段です」
落ち着いた声で、アヤは観客に向けて挨拶した。絶妙なタイミングで照明係が彼女にスポットライトを合わせる。橙色のライトに浮かび上がったアヤの姿は、服から覗く白い肌が僅かに上気していて、目を逸らせないほど魅力的だった。
「一曲め、アシッドを聴いて貰いました。
さて、どうでしょう。この地下道でのライブも早いもので3回目です。以前も来てくれた人達はお久しぶり。初めての人には自己紹介ということで。私が螺旋階段のヴォーカルとギターをやっているアヤです」
親しげな口調ではあるが、アヤは敬語を崩さず、余計な演出抜きで語り続ける。観客を煽る様な事も媚びたセリフも言わないし、掛け合いなども一切しない。それでも、彼女のMCは人気がある。彼女の言葉は胸に残るのだ。アヤは音楽に対してどこまでも誠実だから。
「私の右隣のベーシスト。志道君です。偉大なカリスマベーシスト、シド・ビシャスと同じ名前だなんて生意気すぎですね。早く大物になって私達を食べさせてください。後ろのイカツイお兄さんが、ドラマーの高遠君。ドラムロールは今後ご法度ですよ。
以上、三人しかいない寂しいメンバー紹介でした。
さて、とっとと2曲目いきましょうか。時間も押してますし、この後はドントディスターブとライ麦畑なんていうビッグネームのバンドが控えてますから。我々螺旋階段は露払いです。今日は3曲しか演奏できませんが、その分気合は入ってますよ。次は新曲です。ベーシストの志道君が書いてくれました。彼、大人しそうな顔して滅茶苦茶パンクな曲を書くんですよ。青臭いですね、泥臭いですね。でも、私はそういうの、嫌いじゃありません。曲名は『ドッグデイズ』です。犬の祭日じゃないですよ? スラングで、非常に暑い日を指す言葉です。ま、歌詞はそれに素直に犬をかけたひねりのないものですけど」
そう言って、アヤはちらりと僕に流し目をよこす。言いたい事は分かった。お願いだからこれ以上晒し者にしないでくれ。僕は目で訴える。
「さて、それでは聞いてもらいましょう。『ドッグデイズ』」
アヤのその言葉に、引き絞られた弓矢が放たれる様な勢いで高遠のパワフルなドラムが始まる。僕はそれに答えて、単純だがこの曲の骨となるリズムを刻む。この間に、アヤは素早く屈み込み、足元のエフェクターを調節した。オーバードライブ全快、浅いコーラス。鮮烈なオープニングのリフを華麗なピッキングで繰り返しながら、アヤはマイクスタンドに顔を寄せる。濡れた唇を割って出てきた声は、さっき一瞬だけ垣間見せたソウルフルなハスキーボイス。
荒ぶる犬のもうひとつの顔は
小屋に隠して誰にも見せません
いかなる虚言を弄したところで
尻尾は嘘をつけません
ねぇアンタ 僕の声が届いていますか
情けないような話ですけど これでギリギリ限界なんです
せめて真実の言葉だけを
迷い続ける君に届けたくて
振り向いてごらん
みんなニヤケ面の偽者だぜ?
振り向いてごらん
みんな薄ら笑いの偽善者だぜ?
噛み付いたってタカが知れてるさ
首輪を解かれた座敷犬
無様に萎えちまった顎じゃ
奴の喉笛は噛み裂けない
ねぇアンタ いっそ殺してくれませんか
自分の存在が恥ずかしすぎて とても生きてはいられません
せめて最後の矜持だけは
鎖をつないだアイツに見せてやりたくて
アヤが歌ってる。
僕の肥大した自意識の結晶みたいな歌詞を。
僕は目を硬く瞑り、音だけに意識を集中させてベースを弾き続けた。一瞬でも集中が途切れたら、僕はきっと羞恥心でステージをのたうち回ってしまうから。
だというのに、僕は歌うアヤの姿を見たくて、一瞬だけ薄目を開けてしまった。僅かな視界に飛び込んでくる彼女の姿。その圧倒的な存在感は僕の瞼を力ずくでこじ開け、瞬きさえできぬ程に縛り付けた。
見えない敵を視線で射殺そうとするみたいに虚空を睨み付け、己の激情を言葉に閉じ込めて淡々と歌い上げるアヤ。決して叫んだり怒鳴ったりする曲ではないのに、どこまでも荒々しく、危ういヴォーカル。とても高校2年生とは思えない熟練の速弾きから生み出される臓腑を揺さぶる旋律。
僕の胸の内側が沸騰する。
観客の狂ったような絶叫が耳をつんざく。
感極まったのか、アヤは手練の速弾きを続けたまま、踵を軸にクルリとターンした。歓声と口笛が飛び交う。ツインテールにした彼女の栗色の髪がステージを舞う。陶酔したような表情が、艶かしかった。
僕は誇りに思う。
今の彼女を支えているものの中に、僕のベースラインが入っている事を。
振り向いてごらん
みんなニヤケ面の偽者だぜ?
さぁ 振り向いてごらん
俺はどうだい?
灼熱の太陽 照らせ ドッグデイズ
虚飾の外套脱ぎ捨てるまで 焼け付く日差しで燃やし尽くしてくれ
2
そもそも人前に出て何かをする事が苦手な僕が、バンドなんかを組んでステージに上がるのもアヤが発端だった。彼女に誘われなかったら僕はベースギターに手を触れる事もなく人生を終えていたかもしれない。
「志道君て、音楽興味あるの?」
あの時の彼女の言葉は僕を音楽の世界へ誘っただけではなく、内向と屈折の果てに半ば自家中毒の泥沼へ片足を踏み込んでいた僕の心まで救い上げてくれた。
当時中学3年の僕はと言えば、これといって親しい友人もおらず、趣味でもスポーツでも特定のなにかに打ち込む事もなく、そのくせ思春期の少年特有の傲慢さで、自分には他人と違う突出した才能が備わっていて、今にそれが目覚めて、腐乱した鼠の死骸みたいにグズグズとした日常と、すっきりさっぱりおさらばできると信じていた。いや、信じようとしていた。実際には僕は自分自身も、自分の中に隠された根拠のない才能も信じきる事ができず、放って置いたら永遠に続きそうな、この最低な毎日がどこかでぷっつりと終わる事を祈るばかりだった。要するに僕は現状を変える努力を一切放棄して、自分の都合の良い事ばかり考えていたというだけの事だ。
僕の最低な日々をスッパリ切断してくれたのはアヤで、それは彼女のこの一言から始まった。
「志道君て、音楽興味あるの?」
中学生にとって1日でもっとも貴重で充実した30分である昼休みであっても、友人もおらず何もする事のない僕にとっては、自分の席で頬杖をついたまま空虚な妄念に溺れて頭を鈍化させるだけの時間であったのだが、珍しくその時はコンビニで買った音楽雑誌を読んでいた。校則の厳しい学校だったので当然雑誌など持ち込み禁止なのだが、没収されても別段問題ない品物なので、僕は平然と机の上に広げていた。それを見つけたアヤが声を掛けてきたのだ。
綾町卓美。彼女とは3年生になって初めて同じクラスになったのだが、その時まで殆ど口を聞いた事がなかった。僕とは正反対の、屈託なく世界の明るい部分を歩いている、クラスのアイドル的な少女だった。他の多くの男子生徒と同じように、僕も彼女にどうにかして近づきたいと思っていた時期もあったが、話しかける話題もデートに誘う度胸もあたって砕ける根性も僕には欠片も備わっていなかったので、彼女に対しては仄かな憧れを募らせつつ募らせつつ募らせるだけ募らせて、何も行動に移す事無くこそこそ卑屈に想い続けているだけだった。アヤは返事を急かすように僅かに屈んで僕の顔を覗き込み、顔にかかる髪を耳の後ろにかき上げて微笑んだ。長い睫毛に縁取られた瞳が僕を見据える。
「聞くのは割と好きだよ」
僕は慌てて言った。舌がまわらずに少しどもってしまう。
「自分で楽器をやったりはしないの?」
彼女は無防備な笑顔でそう言った。健康的な生命力が結晶化したような鳶色の瞳。ツインテールにした豊かな栗色の髪が揺れる。桜色に澄んだ唇と、摩擦係数の存在が信じられないキメ細かな肌。それは、異性に対する興味と憧れに支配された思春期の少年の気持ちを昂ぶらせるには充分過ぎるほど魅力的な笑顔だった。
「ベースには少し興味あるかな」
嘘だ。僕はその瞬間まで楽器を自分で演奏してみたいなどと思った事は、一度たりともなかった。断片ほどの興味もない。だが、アヤに魅せられた僕は、少しでも彼女の気を引きたくなって、こんな事を口走ってしまった。何故にベースかといえば、ドラムセットは到底買えないし、ギターは弦が6本もあって難しそうだが、ベースは4本なので簡単そうに思えたからだ。いや、これは今思い返すたびに汗顔の至りで、世界中のベーシストに対し心から謝罪したい思いで一杯なのだが、当時全く無知でベースの重要性をこれっぽっちも理解していなかった僕は、間違いなくそれが理由でベースを選んだのだ。もし同じ動機でベースを手にした仲間がいるのなら、心よりの軽蔑と友愛に満ちた握手を送りたい。
「ベース好きなの? あ、そういえば志道君て、ピストルズのベーシストと同じ発音だね。ほら、知ってるでしょシド・ビシャス」
「名前くらいは」
正直洋楽は殆ど聴かなかったので、偉大なカリスマのプレイがどれ程の物か僕は知らなかった。適当に話を合わせる事も考えたのだが、下手に知ったかぶって墓穴を掘り、アヤに醜態をさらす事になるのだけは避けたくて、簡潔に答えた。しかし、アヤは僕のその態度を、雑誌に気をとられているが故の素っ気無さと捉えたらしい。
「あ、ごめんね読書の邪魔しちゃって」
アヤはそう言って僅かに身を引いた。
「いや、いいよ」
馬鹿、もっと気の利いた事は言えないのか! いやいいよじゃないだろうが、せっかく話しかけてくれたんだぞ、ほら、自分からなにか話題を振れ! 僕は心の中で自分自身を叱咤したが、それも虚しくアヤは「じゃ、ね」と手を振って僕の席から離れていく。その後ろ姿はさながら、僕を救い上げる蜘蛛の糸が目前でするすると上がっていってしまうようなものだった。僕はさしずめ、底なしの血の池に再度もがきながら水没していくカンダタだ。
そこで不意にアヤが振り向いた。
失意に凍りついていた僕の精神に、再び微かな火が灯る。
「あのさ」アヤは照れたような微笑とともに言った。「あたし、実はギターやってるんだ。志道君、もしベース始めたら、知らせてね。音、合わせてみようよ」
僕は放課後家に帰るなり、使い道もなく貯めていた預金通帳の残金を確認し、着替える間も無く近所の楽器店へ走った。
その晩、買ったばかりのベースギターを、教本片手に苦心して爪弾いているうちに、僕は二つの揺ぎ無い真実に到達した。
一つは、都合の良い天賦の才など僕にはなにも備わっていない事。そしてもう一つは、心身が緩慢に腐り続けていくような最低な日々が、終わりを告げた事。
その時から、ベースは僕の体の一部になった。
情けなくなるくらい不自由な体ではあったが、僕はそれを心から愛した。
3
ハッキリ言って老舗とか由緒正しいとかいうよりは簡潔にボロいと表現したほうが遥かに的を得ているこのライブハウス「地下道」に、出演者の為の更衣室なんてあるはずもなく、出番が終わったアヤは惨めにも清掃道具の押し込まれた物置で着替える羽目になった。僕や高遠は普段着でステージに上がったので、着替える必要を感じないし、そもそも男なら楽屋で着替えてしまってもいいのだ。だが、アヤはそういう訳にはいかないだろう。
「……ドントディスターブの演奏が終わっちまうよ……」
隣で立ち尽くしている高遠の嘆き。ドントディスターブ(邪魔するな)はその名前が示す通り、えらく攻撃的でノイジーな音作りが特徴の4人組ラウドバンドだ。高遠はリーダーでドラム担当の鬼島さんに心酔しており、ライブには欠かさずに来ていた。
高遠には悪いが、僕はノイズ系やラウド系にはあまり関心がない。だから僕はこれといって特別な努力なしに、こう言えた。
「なんだったら、ここは僕だけでもいいと思うよ。高遠、ステージ見てくれば?」
「マジ? ホントにいいのか?」
「いいって。わざわざ二人も、こんなところで見張ってる必要ないだろ」
「すまねぇ、志道。恩にきる」
高遠はそう言いつつも、最早心ここにあらずといった様子で、おざなりに僕に手を振って駆け出した。でも、悪い気はしない。彼のああいう、自分の価値観の順列に正直なところは、好意さえ覚える。高遠にとって、アヤの着替えを覗く不埒者がいないように物置の前で阿呆面下げて見張っているよりも、敬愛する鬼島さんのプレイの方が遥かに大切だったのだろう。
「幸也、ちゃんといるー?」
物置の中から、幾分不安そうなアヤの声がする。
「いるよ」
僕は簡潔に答える。
「今、足音が聞こえたけど……」
「高遠をライブに行かせてやったんだよ。折角のドントディスターブの演奏だから」
「そっか……。鬼島さんのファンだもんね、高遠君」
「ここまで音が届くのに見に行けないってのは可哀相だったからな」
「……幸也はそこにいてね」
「ああ。あのバンド、あんまり好きじゃないから」
違う。
もしお気に入りのバンドだったとしても、僕は行かない。僕にはアヤを守るほうが大事だから。
でも、僕にはそれを口にしたりできない。その資格がない。
だって僕は。
「お待たせー」
背中に不意の衝撃。
自責と後悔の無限ループに陥りそうだった僕は、アヤが元気良くあけた物置の扉に押されてつんのめった。慌てて壁に手をついて体を支えて、振り向く。
「あ、ゴメン。まん前に立ってるとは思わなかった」
慌ててアヤはそう口にしたが、口元が笑みの形に歪んでいるのを僕は見逃さなかった。
「お前、今のは絶対わざとだろ?」
「ううん、そんなことないよ」
相変わらずわざとらしい笑みを浮かべたまま、アヤはさっさと歩き出した。僕は追及を諦めて、小走りで彼女の隣に並ぶ。
着替えたアヤは、小さいサイズのプリントTシャツに、いい感じに色落ちしたスリムジーンズ、腰には女の子が身に着けるには些か無骨なスウェードベルトを穴に通さず掛けている。足元はさっきと同じショートブーツで、ステージにいる時より遥かにロックテイストに溢れている格好だった。
「楽屋、誰かいるかな?」
並んで歩くアヤが、軽い調子で言った。
「ドントディスターブは予定では6曲もやるんだろ。だったらまだライ麦畑の加賀美さんと江隅さんがいるんじゃないか? あそこは江隅さんのヴァイオリン以外は打ち込みだから、準備に時間かからないし」
「江隅さんかー。あの人ちょっと苦手。何考えてるか分からないんだもん。全然喋んないし、表情変わらないし」
「あれは緊張しているだけだって、加賀美さん言ってた。江隅さん、人見知りが激しい人らしい。加賀美さんと二人だけでいるときは、割合いつもニコニコしてるしね」
などと他愛無い会話をしながら、染みだらけの壁に囲まれた廊下を進む。壁面にはポスターを剥がした後に残ったテープの粘着剤や、楽器を運ぶ際にぶつけたのであろう擦過傷が随分と目に付く。油性のマジックで描かれた落書きなども見受けられ、その中にはメジャーで活躍しているバンドのメンバーが残していったものもあった。そういったモノすべて飲み込んだ古臭さが、この「地下道」の価値なのだった。
廊下の奥に、山奥の分校の用務員室みたいに貧相な木造扉。始めてきた人では決して分からないだろうが、ここが楽屋だ。軽くノックし、失礼しますと声をかけてドアを開ける。
楽屋の中は、四畳半の畳と、三和土で分かれている。鏡台などの設備があるわけでもなく、備え付けられているのはこれまた古めかしい塗りの剥げたポットと折りたたみテーブル、淵の欠けた湯飲みが5つ、あとは灰皿くらいのものだ。必要なものがあれば、各自で持参するのが基本スタイル。僕らが中に入ると、楽屋内はちょっと奇妙な雰囲気に包まれていた。3人の男女が思い思いにすごしているのだが、一人初めて見る人がいる。
毛羽立って黄色く変色した畳の上で足を投げ出し、頭の裏で手を組んで壁にもたれている、サラサラの茶髪を目にかかるくらいの長さにしている二十代前半くらいの青年。彼が加賀美さんだ。音大を中退して、今は胡散臭いイベント屋の手伝いで口に糊しつつ音楽を続けているという、一昔前の売れない芸術家みたいな人物である。その向かいに横座りしてヴァイオリンケースを抱えている、長く伸ばしたオカッパ頭みたいな髪型の女性が、江隅さん。彼女も音大卒で、場末の音楽教室の先生をしているそうだ。非常に無口な人で、普段生徒とどのようにしてコミュニケーションをとっているのか、不思議でならない。
この二人に関しては、いい。問題は、もう一人の男だ。
第三の男は、見た事がなかった。一度見れば、ちょっと忘れられないくらい、インパクトのある男だ。一言でいって、類まれな美形なのである。
まずその身長からして、180センチは軽くあるだろう。スタイルは外人の様に足が長く顔が小さい。顔の作りも繊細で、切れ長の瞳なんかはある種の凄みさえ感じる。鼻筋もハッキリしていて、おそらく白人の血が混じっているのであろう透き通るように白い肌を光沢ある素材の派手なドレスシャツに包んでいた。だが、中でも一番目を惹かれるのはその肩まであるアッシュブロンドの長髪で、コシのあるそれは部屋に入って来た僕らを見るために僅かに首を動かしただけでもしなやかに動き、やがて躍動感を維持したまま元の場所に戻った。
年齢は……読めない。若く見えるが、見た目で年齢を特定する事を躊躇わせる様な、奇妙に超越的な雰囲気をもった男だった。
しかし、何者だろう。やはりこの男もバンドマンだろうか。あまり地下道にはヴィジュアル系は来ないものなのだが。
僕は説明を求めて、加賀美さんに視線を送った。しかし、僕と目が合っても、加賀美さんは口の端を吊り上げるような意地の悪い笑い方をしたまま、何も言ってくれない。何か企んでいるみたいな、見る者をを不安にさせる類の笑い方だった。おそらく僕らの戸惑いを楽しんでいるのだろう。相変わらず性格が悪い。もっとも、加賀美さんは別に僕らと仲が悪いわけではない。この人は江隅さん以外の人間には、誰に対しても意地悪で冷笑的なのだ。
僕らとしてもこのままボケーッと突っ立っているわけにはいかない。僕はソフトケースにいれたベースギターを壁に立てかけ、畳に腰かけ靴を脱ごうとした。後から入って来たアヤも、長髪の男を気にしながら僕に倣う。そのとき、座っていた江隅さんが、緩慢な動作で立ち上がり、ライブハウスには全然そぐわない上品なタイトワンピースのすそを気にしながらのそのそと近づいてきた。彼女は僕と膝があたるくらい近くまで来てふたたび横座りして、僕の顔を上目遣いに見る。
「なんですか、江隅さん」
僕は間近で彼女の綺麗な顔を見る事になってしまい、少しどぎまぎしながら言った。
「お客さん」
唇から漏れた端から消え入りそうな声で、江隅さんは囁いた。
「え、おきゃ……、ああ、お客さんね。あの金髪の人ですか?」
「そう。ファンだって。ずっと待ってた」
なるほど、アヤのおっかけって訳か。しがないインディーズバンドでも、やっぱり積極的なファンはいる。楽屋まで来る事だって珍しくない。ファンサービスのひとつもさせようと思い、僕は畳に足を投げ出して座り込んだアヤに、顎をしゃくって見せて促した。
「アヤ、少し話してきなよ」
「違うよ。志道君のファン」
江隅さんには珍しく、他人の台詞にかぶせる形での発言。それは二重の意味で僕を驚かせた。今日の江隅さん随分と饒舌だなぁ。いや、違う、そうじゃなくて、え、何、なんつった、ファン? 僕の?
「幸也、少し話してきなよ」
先ほどの僕の台詞と口調を完璧に模倣して、アヤが言った。口元には子悪魔の微笑。背中には加賀美さんの好奇の視線を痛いほど感じる。なるほど、こういう事か。
「志道君、がんば」
江隅さんが控えめなボリュームの胸の前で握りこぶしを作って言った。全く表情に変化がないし、低血圧な人の寝起きみたいな口調なので、励まされている気が全然しない。
どうしたものか。
正直に告白するのならば、僕のファンなんていいう物好きが楽屋に訪ねてきたなんていうのは初めての経験だ。少なくとも、楽屋まで訪ねてくるのは今まで一人残らずアヤのファンだった。僕のファンだといわれても、「え、どこがいいの?」としか思えない。それでも、評価してもらえることが嬉しくないかと言えば全然そんなわけなくて、胸の辺りがカッと熱くなるような、そんな感覚さえ覚えて、もう、なんと言ったらいいか、ああ、本当に……どうしよう?
動転のあまりあらゆる機能を停止してしまった僕に代わり、金髪の男の方が行動を開始した。長身をしなやかに伸ばして立ち上がると、艶やかな長髪をなびかせてこっちに歩いてくる。一歩、二歩、三歩。三歩で僕の目の前に。うらやましいくらい足が長すぎる。
僕の正面に立った男は食い入るように僕の瞳を覗き込んだ。
食い入るように?
ああ、まさしくその通りだ。僕はこの時捕食される草食動物の心境だった。後日、その予感はあまりに象徴的で、核心を捉えていた事を僕は知る事になる。
「ああ、お前だっけか、螺旋階段のベーシストって。なんだ、ステージ降りちまうと、本当にどこにでもいそうなイジケた小僧なんだな。ベース握っている時と全然印象が違うから、別人かと思っちまったよ」
金髪の美青年は、顔に似合わない、嘲る様な口調でそう言った。
何気に失礼な事を言われたような気がする。でも、この時僕は彼の美声に圧倒されていたので、それどころじゃなかった。透明感がありながらも、ピンと張り詰めた質量を持つテノール。しかし、巻き舌でチンピラ臭い喋り方や、あまり喋りなれていない人間特有のずれたアクセントが、その声の美しさの瑕疵となっていた。
秀麗な顔に品のない表情。卓抜した美声に粗野な口調。
何故かしら、不自然なくらいにちぐはぐな印象の男だ。
そう、それは整形を繰り返された女優の顔の様に。
どんなに目を凝らしても、原型たる姿は見えてこない。
「ちょっと。なによ貴方、失礼じゃないの」無様に黙りこくってしまった僕に代わって男の暴言にクレームをつけたのはアヤだった。「余計なインネン吹っかけに来たんなら、お呼びじゃないから帰ってくれない?」
男はアヤの剣幕に鼻白んだ様子もなく、喉の奥でくぐもった笑い声を立てると、薄ら笑いを浮かべたまま弁明を始めた。
「おいおい、おっかねぇ嬢ちゃんだな。インネンなんて、とんでもない。俺はそのベーシストにエラく感心して挨拶に来ただけだよ。ま、ちっとくらい失礼な事をいっちまったかもしれないから、その点は詫びておくか」謝罪をしているとはとても思えない横柄な口調で男は言う。「俺は陶崎。陶崎凌だ」
「志道幸也です」
気の効いた台詞なんて何も思いつかず、僕は鸚鵡返しに名乗った。
「シド・ユキヤね。お前のベース、凄くいいな」
「……安物ですけど」
「馬鹿。お前が使ってる道具じゃなくて、お前が弾くベースの音がいいっていってんだよ。最高のサウンドだな。救い難いほどにクレイジーだ。お前の心の膿を音に乗せて撒き散らしているみたいで、聞いてて怖気が震ったよ。あんなアッパー系に鬱屈した音を作る奴は、人殺しか自殺志願者くらいのものだろうと思っていたんだけどな」
「……単なるイジケた小僧で、お生憎でしたね」
「いやいや、気にするな。俺の耳に狂いはない。お前は人殺しか、自殺志願者だよ。もしかしたら自殺願望のある人殺しかもな」陶崎はそう言って、一人で肩を揺すった。「まぁ、そんな事はどうでもいいんだ。ユキヤ、ベースは大事か?」
初対面の相手にいきなりファーストネームで呼び捨てかよ。人の事クレイジー呼ばわりしているが、この陶崎って男もかなりネジが緩んでる。
「そりゃ、大事ですよ。音楽を通じて知り合えた人が一杯いるし、ベースを媒介にしてしか共有できない感覚ってのがありますからね」
「そうか。それはいい。それは凄くいいぞ。天がお前に才気を与え、お前がそれを望み、磨き続けている。これ以上の好条件があるか? お前のベースには、世界を裏返す価値がある」
「世界を裏返す?」
「今は説明しないよ。近いうちにもう一回会うから、その時にな。さて、今日はこれで退散しよう。あくまでも挨拶のつもりだったからな」
陶崎は一方的にそう宣言すると、くるりと踵を返し、ドアに向かった。ノブに手を掛けたところで、彼はふと思い出したように振り返り、今まで見た中で一番真剣な顔で、僕に聞いた。
「ユキヤ。お前、ベースよりも大事なものってあるか?」
「はい?」
「お前にとってベースは一番かって聞いてるんだよ。ベースの為ならなんでも犠牲にできるかって聞いてるんだ」
いきなり何を言い出すんだこの男は。
「なんで初対面の貴方にそんな事を言わなきゃいけないんですか」
「ふふん。そうかい。まぁ、いいさ。言いたくなければ、今は言わなくても。焦らなくたって、今に選ばなきゃならない時が来るからな」口元に酷く醜悪な印象の笑みを刻む陶崎。「最後にもう一度言うが、お前のベースには価値がある。研鑽を怠るなよ。俺が近いうちに貰いに来るから」
意味深な流し目と共にそんな台詞を残し、陶崎凌はドアの向こうに消えた。
一体何しに来たんだ? 挨拶? なんだか誇大妄想じみた事をいろいろ口走っていたけど、少しばかりアタマのヤバイ奴なのだろうか。
僕はそんな事を思いながら、肩をすくめた。
「なんだ、思っていたよりも盛り上がらなかったな。俺としてはだな、あの金髪が実はハードゲイで志道が迫られて真っ青になるとか、胡散臭いレコード会社のスカウトで螺旋階段から志道を引き抜きにかかってアヤちゃんがそれに反対して乱闘事件を起こすとか、そういう類の、激しくも心温まる素敵な展開を期待していたんだよ。もしそんな展開になっていたら、俺は自分だけ安全な場所から優越感を感じつつ生暖かい目で君達を見守っていてあげようと思っていたのに」
今まで沈黙を守っていた反動か、加賀美さんは堰を切って喋り始めた。陶崎が去り人心地ついた僕は早速抗議を始める。
「人が悪いですよ、加賀美さん。僕らが部屋に入って来た時に教えてくれれば、こんなに緊張する事もなかったのに」
「そんな親切な真似したら、君が無様に取り乱す姿を見られなくなってしまうじゃないか。ん? そうだろ?」
「相変わらず下種な人格の所有者ですね加賀美さんは。江隅さんもよくこんな人と一緒にいられるなぁ」
どうせ加賀美さんはどんな事を言ってもこたえないだろうから、矛先を少し変えてみる。
相棒の姿を焦点の合わない瞳で眺めていた江隅さんは、何か小動物の微笑ましい姿を見ているかのようにほのぼのとした表情を垣間見せて呟いた。
「加賀美君、最低」
「よせよ、照れるじゃないか」
人差し指で頬を掻きながら、すいと視線を逸らす加賀美さん。誰も褒めてねぇよ、というツッコミは誰も口にしない。この人たちの訳のわからないやりとりはいつもの事だ。全くもって、芸術家には変人が多い。
「でもさ」唐突に、アヤが口を開いた。いつになく真剣な顔をして、陶崎の去ったドアの向こうを睨みつけたまま。「あの人、ホントになにしに来たんだろうね。加賀美さんの話じゃないけど、もしかしたらマジでスカウトかもしれないよ。レコード会社じゃないにしても、優秀なベーシストを探してる他のバンドの人とか」
「まさか。有り得ないよ」
「なんでよ? だってあの陶崎って人、言ってたじゃない。近いうちに貰いに来るって。あれはどう考えてもスカウトするっていう意味でしょ。まさか幸也のつかってる安物のベースギターにプレミアがついたなんて思えないし」
「でも、僕のベースなんてそんな大層なものじゃないよ」
謙遜ではなく、これは紛れもない本音だった。僕にとってベースは、世界に対する殆ど唯一の出力器官だ。僕の中に閉じ込めておくことが難しくなった悪意や暴力性、言葉や文章では伝えきれない想いを解き放つ為の排気口だ。それは純粋に音楽と呼ぶにはあまりにも恣意的で、見苦しいほど自慰的だった。誰かに伝えたいとか、解かって欲しいとさえ思わない。ただひたすら、己の満足の為だけに、本来は人目に触れさせるべきではないエチケット袋の中身をぶちまけるような、そんな演奏。
「そんな事ないよ!」
アヤがいきなり大声を出した。それはあまりにも唐突だったので、加賀美さんの冷笑でさえも凍りつき、江隅さんの肩が電気ショックで痙攣したみたいに跳ね上がった。
「お、おいアヤ、どうしたんだよ。いきなり大きい声で」
「幸也のベースは凄いよ」
「余計なお世辞はいいって」
「お世辞じゃない。少なくても私は音楽に関する事で自分を偽ったりしない。幸也、それを知ってるでしょ?」
「それは……その通りだけど」
「ベースやドラムとかのリズムセクションは縁の下の力持ちなって言うけどさ、サウンドの前面に出ちゃいけないって事じゃないんだよね。確かにリズム担当がしっかりしてるところは、安定感があるけどさ。ほら、ドントディスターブとか。でも、幸也みたいに自分の音楽性を押し付けてくるような、こっちの音に侵食してくるようなベースだって、アリだと思うの」アヤは熱っぽい口調で語る。「幸也のベースが上手いかって聞かれれば、あたしは正直中の下くらいだと思う。フィンガリングが雑だから早弾きでたまに音を濁すし、中指に変な癖があるからソロやらせる時はいっつも不安だよ。でも、幸也の作る音は妥協がないから、いつだって私を本気にさせる。今日のプレイだってそう。あんなにノレたのは幸也のおかげ。しくじったライブも多いけどさ、お互いの力量限界まで出し尽くさなきゃ崩壊しちゃいそうな緊張感をもったベースは、私、好きだな」
アヤが語り終えると、しばらく誰も口を開かなかった。
加賀美さんはいつもとは違ったタイプの微笑を浮かべたまま頬杖をついてアヤと僕を見つめていたし、江隅さんは極上の音楽に聞き惚れているみたいに静かに目を閉じて、手元のヴァイオリンケースを撫でていた。
そして僕。
僕の中で感情を司る小人達が、肺の下の左奥で歓喜のダンスを始めていた。それは途方もなく情熱的であらゆる負の概念を打ち消して余りある力を僕に与える。神が言葉だけで人間にカタルシスを与える事ができるのなら、僕にとってアヤの今の言葉がそれだった。
僕はこの瞬間を生涯忘れない。
幸せだった。
ベースが僕に与えてくれた、最後の贈り物。
多少退屈な時はあっても、常識の通じる日常の中での、最後の幸せな記憶。
時間よ止まれ、お前は美しい。
4
ステージ上では江隅さんが狂っていた。
ワンピースのロングタイトスカートを引き裂かんばかりに猛々しいステップ。愛用のヴァイオリンを蹂躙するかのような、荒々しいトリル。弓を握る右手と右半身は、捩り、捻り、螺旋し、観客とライブハウス全体を巻き込む音の台風を作り上げ、腰まである長い黒髪はあまりの激しい動きに舞い上がっていた。光を浴びて黝く輝くそれは、これほど冒涜的な音の洪水の中であっても、侵しがたい静謐さを醸し出している。
江隅さんの背後では、加賀美さんがキーボード上の両手を躍らせつつ、ヘッドセットマイクで淡々としたヴォーカルを練り上げている。打ち込み系バンドの欠点であるドライブ感、グルーヴ感のなさは全く感じられない。生音源がヴァイオリンとヴォーカルだけとはとても信じられなかった。
ヴァイオリンだろうと、和太鼓だろうと、テルミンだろうと、どんな楽器でも演奏者次第でロックは成立する。
江隅さんのプレイはまさしくその証明だった。
無論、サウンド面の重厚さは、加賀美さんが裏方に回って演出している。シンセサイザーに打ち込まれているギター、ベース、ドラムなどは思わず唸る完成度だし、途中で薄い音域を見つけるとアドリブを織り交ぜてキーを叩き、江隅さんのプレイが浮いてしまわないように音の幅を広げていた。
「あの、ステージ上で踊り狂ってる女の人、誰よ?」
なんとも形容しがたい、奥歯で困惑をすり潰した顔で、アヤは言った。質問でも、確認でもない事は分かりきってる。
「江隅さんだろ」
アヤの言いたい事は分かるが、僕だって他になんとも言い様がない。
「じゃ、楽屋で寝不足の牛みたいにポケーっとしてた人は?」
「江隅さんだろ」
「全く別人じゃないの!」
僕にそんな事を怒鳴られても困る。しかし、アヤの叫びは僕の心の代弁でもあった。僕だって江隅さんの豹変を見るのは初めてじゃないが、毎度の事ながら同一人物とはとても思えない。これがミステリ小説なら、双子トリックか二重人格を疑うだろう。人が変わったというのが文字通り妥当な表現。口数の少ない江隅さんはステージの上でも殆ど口を開かないが、その圧倒的な存在感は古代宗教の巫女のようなカリスマを感じさせる。普段の、のほほんとした江隅さんも、僕は嫌いではないのだが。
そうこうしているうちにライ麦畑の一曲目、「落下する空」が終わった。
今まで完璧に呑まれて無言だった観客が我にかえり、怒号ともつかない歓声を上げる。
この反応。
僕ら螺旋階段のプレイでは、こんな反応はしない。
これに比べれば僕らに向けられるのはもっとありふれた予定調和な声援だ。
少し、悔しい。
いや、実は凄く悔しい。
アヤのステージングが江隅さんに劣っているとは思えない。つまり螺旋階段とライ麦畑の差とは、そのまま僕と加賀美さんの実力の差なのだ。
そんな風にまたいつのも自己嫌悪の迷宮に迷い込んでいる僕とは関係なく、ライ麦畑の演奏は2曲目、3曲目と進んでいく。
ふと隣を見ると、アヤがいない。
周囲を見回してみるが、それらしい姿はなかった。
「高遠、アヤ見なかった?」
奇妙な胸騒ぎを覚え、僕は少し離れた壁際でドントディスターブのメンバーと同席している高遠に声を掛けた。
「さあ? 見てないけど。便所じゃないの」
彼はぞんざいに首だけ廻らして返答する。
「便所なら僕らに断っていくだろ」
「おいおい、マジでいってんのかよ。便所だから、黙って行くんだろうが。聞かれればともかく、女の子が自分からそんな事言うはずないだろ。お前も察してやれよ。デリカシーがないと綾町に嫌われちまうぜ?」
揶揄する様に高遠は笑う。
言われて見れば、その通りかもしれない。そんな事、わざわざ人に告げたりしないか。僕は根拠のない不安を思考の片隅に押しやり、ステージに集中しようとした。3曲めが終わって、加賀美さんのMCで盛り上がってる所だ。
「で、毎度聞かれるのが、なんでユニット名がライ麦畑かって事。これ、申し合わせたように皆聞いてくるんだよね。そんなの、サリンジャーに決まってるだろうがって答えるんだけど、それでも解からない奴が多いんだよ。ま、下らない駄洒落なんだけどね。俺が加賀美だから、グラース。江隅はそのまま、エズミ。え、まだ意味が解からない? どっちもサリンジャーの小説の有名すぎる登場人物だよ。いや、まいっちまうなぁ、アンタら、こんなライブハウスではしゃいでばかりいないで、少し読書でもしたほうが良いよ。あ、ごめん、そこのOL風のお嬢さん帰らないで、すいません調子こきすぎました。勘弁して下さい。お願いですから最後まで聞いていって」
そこかしこから笑い声が漏れた。演奏中の緊張感は微塵も感じさせず、リラックスした雰囲気でMCは続く。加賀美さんは瀟洒な風貌とスタイリッシュな体格で、なかなかに格好の良い人だが、どうにも3枚目を演じたがる傾向がある。僕はそれを彼一流の照れ隠しと解しているのだが、案外これが地なのかもしれない。加賀美さんがその良く回る舌をフル活用している間、江隅さんはすっかりいつもの調子に戻ってしまい、心細げにヴァイオリンを抱いたまま俯いている。
僕はそんな江隅さんの姿に、何故かアヤを重ねた。
やっぱり探しに行こう。
ステージに背を向け、僕は歩き出す。アルコールがはいっているのか、MCの最中にも壊れた削岩機みたいな勢いでヘッドバンキングを続けるスキンヘッドと、腕にパースの狂った骸骨のタトゥをいれたチョンマゲの間を抜けて、ホールの外へ出る。廊下では数人の男女がウンコ座りしながらだべっていた。足元には吸殻の入ったコーラの缶と、飲みかけのペットボトル。それらをすり抜けつつ、僕はアヤの姿を捜し求める。
その時、僕の耳に聞きなれた声が飛び込んできた。この地下道の薄すぎる壁を通して、ホールからの爆音が廊下全体に響き渡っていても、その声だけは決して聞き逃さない。
アヤの声だ。
脳裏に残る微かな残響を辿り、僕は走る。
行き着いた先は、アヤが着替えに使った例の倉庫の前だった。
重々しいスチールの扉の中から、アヤには珍しく金属的なひび割れた声。
「ちょっ……やめて、放してってば!」
「お前が暴れるからだろうが。俺だって乱暴な事したくねぇよ」
続いて聞こえてきたのは、男の癖に耳障りなくらい甲高い声だ。
……誰だ? アヤは、誰と一緒にいるんだ?
「暴れてなんかいないでしょ! あたしはさっさとホールに戻ろうとしてるだけ!」
「俺の手を殴ったじゃないか」
「はぁ!? 何言ってんのよ、いきなり抱きつかれたら振りほどくにきまってるでしょうが! なんで私があんたのなすがままにならなきゃいけないのよ」
「おい。気が強いのも結構だけどな、度が過ぎると可愛くねぇぞ」
「……呆れた。あんた、全然変わってない。極上の独りよがりだわ。私があんたの気を引く為に、今までつれない素振りをしてきたとでも思ってるの? 冗談じゃない。私はね、本当に、真実、心の底からこれっぽっちの偽りもなくアンタを鬱陶しいと思ってるの。解かった? ねぇ、お解かりいただけましたかしら? さぁ、解かったならそこどいて。これ以上話す事は何もないんだから」
パァン。
肉を打つ音。続いて、アヤの押し殺した呻き声。がしゃん、と倉庫内で何かの倒れる金属音。
まずい。
聴覚からの刺激を脳髄が知覚した瞬間、僕の精神の奥底に押し殺していた汚濁が、音を上げて吹き上がって来る。
自分の置かれているシチュエーションとリンクし、表層に浮かび上がる光景。
嫌な記憶。
これは凄く嫌な記憶だ。
落ち着け。飲み込まれるな。僕は気を抜くと暗転しそうな意識に活をいれ、自分に言い聞かせる。今自分がしなくてはならない事はなんだ?
えーっと、僕は、アヤを、探して……
そうだ、今、倉庫の中でアヤが殴られたんだ。
誰だかわからない男に、
乱暴を
悲鳴が
誰の?
お願い、幸也……早く、帰って、ね。お姉ちゃん大丈夫だから……お願い。
姉さんの声だ。その清楚な美貌で、近所でも評判だったという雪江姉さん。僕が7歳の時、家から目と鼻の先にある公園で……見知らぬ男達に……
頭が痛い。
吐き気がする。
胃の中が焼け付くような、不快感。全身の毛細血管が過剰な収縮を繰り返し、毛穴から粘度の高い汗を噴出させている。
突如記憶の片隅から甦った姉の声の断片はストリッパーとなり、僕の意識を現実というキャンバスから引き剥がしにかかる。
お姉ちゃん、この人達と少しお話していくから、一緒に帰れないの。
お話していくだけだから。
お姉ちゃんは帰るのが少し遅くなるけど、心配しないで。
そう。だから、僕は一人で家に帰ったんだ。お姉ちゃんの言う事は素直に聞かなくちゃ。言う事をきかない悪い子は、お姉ちゃん嫌いだって言ってたし。お母さんとお父さんにも、心配しないでって伝えたよ。お話して帰るだけだって。(じゃあなんで姉さんは泣いてたんだよ)分からないよ。(髪の毛ひっぱられてたのは? 見えなかったか?)良く覚えてない。(嘘付けよ)本当だって。あのころまだ小学生だったし。(そうだよな、もう分別のつく年だったよな)だって、お姉ちゃんが帰れって。(お前を巻き込まないようにしようとしたんだよ)だから僕は帰っただけなんだ。(助けも呼びにいかずに自分だけな! 姉さんはお前が警察にでも駆け込む事を期待してたのに)だって、僕は子供だったんだから、そんな腹芸はわからないよ!(本当かよ。お前、実は全部気付いてたんじゃないのか?)そんな事ないよ。(正直に言えよ。自分自身に対して嘘ついてもしょうがないだろう?)本当だって。(じゃあなんで、あの晩家に帰ってから夕食もとらずに布団の中で震えてたんだよ)それは。(あの後姉さんが奴らにどんな目に遭わされるか解かっていたからじゃないのか?)僕は(お前は姉さんをあのケダモノ達の生贄にさしだして、自分だけ逃げ帰ったんだ)だって、しょうがないじゃないか! 僕は子供だったし、弱かったし、どうしようもなく怖かったんだよ!
(認めたな)
(姉さんは僕のせいで死んだんだ)
その結論に辿りついた瞬間、僕の世界は再度反転する。
目前に広がるのは、重いスチール製の扉。
アヤと僕を隔てる、倉庫の扉だ。意識がとんでいたのはどのくらいの時間だろうか。そう長い時間でもなさそうだ。ステージホールから響いてくる曲が、まだ同じ曲だから。頭を振り、僕は混濁した意識をはっきりさせようと試みる。
「いやっ……やめて、やめてよぅ……」
だが厚い鉄の壁を通して聞こえてきた、アヤとは思えない弱々しい悲鳴は、そんな事必要としないレベルまで僕を覚醒させた。
相手の男が何者だかわからない。アヤとの関係だって、今は知った事じゃない。
やるべき事はたったひとつだけ。
アヤを助けるんだ。
僕は扉の取っ手に手を伸ばす。取っ手を捻り、思い切り力を込め、そして、愕然とする。
開かない。
なんて事だ。まさか、中で誰か押さえているんじゃないだろうな。だが、それは有り得ないと瞬時に判断。アヤが押さえているはずがないし、男がドアを押さえているだけなら、アヤがあんな悲鳴を上げるはずがないのだ。まして、この倉庫は3人以上入れる大きさではない。じゃあ、鍵がかかっているのか。ノブに目をやると、しっかりとした鍵穴が見て取れる。鍵がかかっているのなら、この扉が開くはずがない。どんなに頑張ったところで、どうしようもない。そうだ、管理事務所に行って鍵を借りてこよう。と考えた所で、僕はどうしようもない自己欺瞞に気付く。
ここは通常の部屋じゃない。倉庫だ。倉庫の内側から鍵がかかるはずがないんだ。
つまり。
つまり、この扉が開かないというのは。開けられないというのは。僕自身が。
視界が歪んでいく。眼球を急速に覆っていく涙。鼻から水を吸い込んだ時のような、つーんとする痛みを鼻腔の奥に感じた。上半身を痙攣といっていいくらいの震えが襲う。顔面が酷く熱い。歯を食いしばって、ノブを掴む腕に力を込める。開かない。喉の奥からつぶれた蛙の断末魔みたいな嗚咽が漏れる。豚の涎みたいに無価値で汚らしい涙が、僕の頬を伝って流れる。(よせよワザとらしい)なんで開かないんだよ!(開けようとしてないからだろ)してるってば!(してるつもりになってるだけだって)
何故だ。
なんで僕は何度も何度も同じ罪を。
大切な人の危機から、わが身可愛さに目を逸らそうとするんだ。
こんな自分、全然好きじゃないのに。
開かないんだよ。
どうしても開かないんだよ、扉が!
誰か、助けてくれ。僕じゃない、アヤを助けてやってくれ。いい奴なんだ。僕を精神的な肥溜めから救い上げてくれたんだ。僕みたいな度し難いクズとは違う、本当に素敵な娘なんだ。綺麗だし、ちょっと気が強すぎて口が悪いとこもあるけど、言ってる事はいつだって真っ直ぐで。扉にすがりながら、狂ったように扉をかきむしりながら、僕は願う。もしそれが叶わぬなら、せめて。せめて僕を
ねぇアンタ いっそ殺してくれませんか
自分の存在が恥ずかしすぎて とても生きてはいられません
「おい、なにやってんだ、志道!」
不意に、誰かに肩を掴まれる。手に沿って視線を流し、顔をみると、高遠の日焼けした精悍な顔があった。
「倉庫のドアにへばりついたりして。綾町はみつかったのか?」
「高遠ぉ……」
「なんだ、お前……泣いて……るのか?」
僕の異常な状態に気がついたのか、高遠の語尾がだんだんと小さくなっていく。僕は慌てて手の甲で涙をぬぐい、あっけにとられている高遠に助けを求めた。
「アヤが、この倉庫の中で乱暴されてるんだ! 僕じゃ、扉があけられないんだよ!」
呆然としていた高遠の顔が、瞬時に引き締まる。高遠は僕を押しのけて扉の前に立つと、ツッカイ棒でもしてあるのかなと呟きながらノブに手をかけた。すんなりとノブは回り。
「ぜぇあっ!」
気合の声と共に扉を開く高遠。しかし、拍子抜けなくらいあっさりと、実にあっけなく扉は開かれる。
「アヤ!」
僕は叫びながら、高遠の横をすり抜けて倉庫に飛び込んだ。
視界に飛び込んできたのは、奥の壁に背をつけてへたり込んでいるアヤと、それに覆いかぶさるように壁に手をついて立っている、黒髪をウルフカットにした背の高い男の姿。
「幸也?」
驚愕とも安堵ともとれる声で、アヤが僕の名を呼ぶ。殴られた痕か、アヤの左頬が赤く腫れている。男の乱暴の名残か、Tシャツの襟が伸びきっていて、ほっそりした右肩からブラジャーのストラップが覗く。両腕で自分の体を抱きかかえるようにして、尻をついて座り込み、彼女は震えていた。
「なんだよ、テメーらは。いきなり入ってきやがって。見てわかんねーのかよ、取り込み中だ」
背後で、甲高い男の声。怒りを込めて振り向くと、人のカタチをした獣の姿があった。
「アヤに、何をした?」
「うるせー馬鹿。俺はその女と話してんだよ。関係ねー奴が嘴突っ込むな」
男は全く悪びれもせず、それどころか逆に当然の権利を阻害されたとでも言いたそうな不平顔で凄んでくる。
「何いってんのよ、関係ないのはアンタでしょ!」
僕の後ろから、アヤが叫ぶ。
「……このアマ。さっそく調子づきやがって」
男は凶相を暴力に対する賛美で醜く歪め、座り込んだままのアヤに手を伸ばした。僕の事など、眼中に入っていない態度で。僕の貧弱な体躯ではこの獣の脅威にはならないという事か。僕は瞬時に判断する。屈辱も、喪失感も、これ以上僕を傷つけはしない。今、僕の責務はアヤを守る事だけだ。格好悪くたって構うものか。
「高遠、助けてくれ!」
恥も外聞もなく、僕は扉の前に佇む高遠を呼ぶ。
「おう」
普段はかすれて聞き取りにくい高遠の声が、今だけは倉庫の中に確かな質感をもって響いた。高遠は立てかけてあったモップを手に取ると、その木製の柄の真ん中を無造作に蹴り折った。そして、槍のように尖った断面を躊躇なくウルフカットの男に向ける。相変わらず、高遠の行動には迷いがない。その姿は僕には眩し過ぎる。
「なんだテメーは。その長いのでどうしようってんだよ」
ウルフカットの男はアヤに対して伸ばしていた手を引っ込めると、高遠に向き直った。
「刺す」
言葉とは裏腹に、軽い調子で高遠は言う。
「粋がるなよ小僧が。できもしないくせに」
「できるかどうかで物を考えたことはないな。いつだってやるかやらないかだ。俺にとっちゃ見ず知らずのアンタの命より、うちのバンドのお姫様とベーシストの安全の方が、遥かに重要なんだ。あんたがどこの誰かなんて本当にどーでも良い事だしアンタと綾町の関係にも、全然興味ないね。俺がアンタに望む事は至って単純、極めて明快、四の五の言わずに消えうせろって事さ」
あくまでも淡々とした態度の高遠に対し、ウルフカットの男の沸点は目に見えて低そうだった。いわゆる、キレやすいタイプ。ふと、屈んだままの僕の背中に吐息とぬくもりを感じる。アヤが僕にすがり付いてきたらしい。微かな振動は彼女の震え。気丈な彼女には有り得ない気弱な態度。つまり、この人面獣がそれだけの恐怖をアヤに与えたという事だ。
「大丈夫だ、アヤ」
僕は獣から視線を離さずに床をさぐり、武器になりそうなものを探した。小指の端になにかぶつかる。これは……ガム取りのヘラか。使い込まれて、淵の部分はナイフのように鋭くなっている。得物としては、これで十分。
「おお、勇ましいな、志道」
僕がヘラを構えた姿を見て、高遠は能天気に笑う。
憤怒の形相で、男は僕に振り向く。僕は正面から男の顔を見据える。睨み合う事、数えて6秒。ウルフカットの男は蛇みたいにしゅうしゅうとため息をつくと、ひとつ舌打ちをして、扉の前で仁王立ちしている高遠を押しのけて倉庫を出て行った。
圧縮されていた空気が弛緩する。
僕は男が出て行った後もまだ扉の向こうを睨み付けて動けない。
カラン。
無意識のうちに手を離したらしく、ヘラが床に落ちる音で僕の金縛りは解ける。
「なんだか、ヤバそうな奴だったなぁ」言葉とは裏腹に、のんきな声で高遠はそういうと、手にしていたモップの柄を倉庫の隅に投げ捨てた。「綾町、立てるか?」
「ん」
僕の背中を支えに、アヤは立ち上がろうとするが、一時的なショック症状か力が入らないらしく、腰砕けになってしまう。
「駄目みたい」
整った眉を八の字にして頼りない顔をするアヤの姿に、僕の胸は締め付けられる。僕がもっと早く来ていれば。
「しゃあない。志道、おぶってやれよ。いつまでもこんな埃臭いとこにいるのはかなわねぇからな」
そう言って、高遠は僕に意味深な目配せをする。こいつ、気を利かせたつもりなのだろうか。でもまぁ、確かに今の体勢なら僕がアヤを背負うのは簡単だ。アヤは屈んでいる僕の背中にすがり付いているんだから。遠慮がちに僕の顔をうかがうアヤに、僕は頷いて肯定してみせる。背中にかかる負荷。首筋に当たる吐息。背中に押し付けられた胸は、想像していたよりもずっとふくよかだった。
楽屋に戻る途中、アヤはポツリポツリと先ほどの獣との経緯を話し始めた。男の名前が忍足浩輔である事。去年クラスメートに誘われていったライブハウスに出演していたバンド『ミラージュ』のリードギターである事。自分は彼を人間としてもギタリストとしてもなんら評価していないという事。だが、忍足は何を勘違いしたかアヤに好意を持たれていると思い込み、事あるごとに付きまとわれている事。
そして、僕らと出会い、一緒にプレイできる事や今日この瞬間に助けに来てくれた事に本当に感謝しているという事。
「……幸也も高遠君も、ありがとね」
倉庫を出てとりあえず楽屋へ歩いている途中、アヤは真摯な態度で言った。
それに対して、僕は何も言えない。
一度口を開けば、懺悔の言葉しか出てこないだろう。高遠のお陰で事なきをえたが、もし彼が来てくれなかったら、僕は倉庫の前で震えながら、アヤの悲鳴をただ聞き続けていたはずだ。結局、僕には最後まで扉を開ける事ができなかった。壁一枚隔てて乱暴されているアヤの存在を感じながらも、それをとり払う事も乗り越える事もできなかった。
僕は10年前に姉さんを獣達の群れに置き去りにしたように、今も。
アヤ。僕は君の感謝の言葉に値する男じゃない。
卑劣で、
矮小で、
そのくせ歪んだ自己愛ばかりが肥大した、
人殺しの自殺志願者だ。
5
「おいおい、取り返しのつく過ちなんて、ひとつだってあるわけないだろう?」
そういって、彼は哂った。その表情に浮かぶ微かな悪意の粒子は、果たして誰に向けられたものだろう。償えぬ罪に呑まれた蒙昧なる僕か、僕を透かして背後に映る過ぎ去りし日の彼自身か。それとも、それらを内包した救い難きこの世界そのものか。
彼は言う。
「それとも、安っぽいヒューマニズム振りかざして、『人生には取り返しのつかない事なんてないんだ! どんな罪を犯したとしても、それを償って前向きに生きていかなければ
ならないんだよ』とか言われるのを期待していたんじゃないだろうな。罪を犯しておきなながら励ましがないと生きられないなんていう奴は、生きてる価値の無いクズだ。まして、贖罪が可能であるなんて保証がなければ己の罪を省みないなんて奴は、最早存在自体が害悪だ」
「……反論はありませんが、あまりに冷淡な意見ですね。弱者に対する憐憫が微塵もない」
「弱者? つまり、弱さゆえに罪を犯したって事か?」彼は無造作に髪をかき上げた。「だとしたら、その弱さが罪だ。身内を傷つけ、友人を蝕み、恋人を壊してしまう程に弱いのだとすれば、その脆弱さは同情の余地など全くない、空前絶後の大犯罪だね。それは殺人よりも強姦よりも放火よりも断罪されて然るべきだよ。『弱い』というだけでそれ程の事をしてしまうなんて、あまりに救い難い」
その言葉に対し、僕は何一つ反論する事無く、自分の撒き散らした吐寫物で満たされた洋式便座の中を、ただ見つめていた。酔いに濁った頭で考える。右手を伸ばして便座脇のレバーを捻っても、僕の中の穢れは洗い流してくれないのだろうな。
*
「おーい、飲み物の注文とるぞ。まず、生で良い奴はー?」
周囲の喧騒に負けぬように、加賀美さんが声を張り上げた。
ライブの演目が全て終了した後、加賀美さんの発案で、出演バンドの皆で居酒屋で食事することになったのだ。僕らは二つ返事でOKした。時間はまだ九時を回ったばかり、慌てて帰るほどの時間でもない。なにより、先の事件で動揺して、精神的に不安定になってるアヤの気を少しでも紛らわすことができるかもしれない。
「あ、俺、車だから。ウーロンで」
鬼島さんが手を挙げた。彼は自前のドラムセットを運搬する為、年代もののハイエースで来ているのだ。ドントディスターブの他のメンバーは、そんな鬼島さんに気を使う様子も見せず、次々に生ビールを注文する。苦笑いする鬼島さん。きっと、いつもの損な役回りなのだろう。だが、貧乏くじを引いて笑っていられる強さを、僕は心底うらやましく思う。きっと、高遠が彼に憧れているのは、ドラムのテクニックだけではなくて、そういったおおらかな逞しさも含めてのことなのだ。
「幸也、何飲むの?」
隣に座っているアヤが肘で僕のわき腹をついてきた。
「ん、ジントニックにする。ビールとかって味分からないんだ」
「分からなくていいんじゃない? だってあたし達まだ未成年だし」
そう言って、彼女は笑った。表情が柔らかくなってきている。先ほどのショックも大分落ち着いてきたようだ。
「アヤは何飲む?」
「あたしは……カンパリオレンジ」
「なにそれ、美味いの?」
「うーん、ちょっと苦味の強いオレンジジュースみたいな味。飲みやすかったよ」
「へー」
だめだ、何か気の利いた事を言いたかったけど、場慣れしてないもんだから、全然スマートに振舞えない。遊び慣れてる奴ならともかく、僕には居酒屋に入った経験さえ殆どないのだ。
「若人たちよ、何飲むか決まったか?」
そこに、加賀美さんがメニュー片手ににじり寄って来た。
「あ、はい。ジントニックとカンパリオレンジで」
「いっぱしにアルコールドリンクか。いいぞいいぞ、つぶれたらタクシー呼んでやるから、ガンガンいけ」
「……ねぇ、久保田」
今まで無言で、もともと希薄な存在感を完全に消していた江隅さんが、突如加賀美さんの服の袖をつかんで囁いた。久保田さん?
「お前、少しは遠慮しろよな。ワリカンになるんだから、あんまり高い酒は頼むわけにはいかんだろう?」
加賀美さんは困り顔で、袖を掴む細い指に手を添えた。江隅さんはしばらく加賀美さんの顔と手を交互に見比べていたが、納得したように言った。
「わかった。じゃ、八海山」
「全然わかってない!」
解ってないのは僕も同じだった。そのときの僕は、久保田さんとか、ハッカイさんとか、誰だろうなんて愚かしいことを考えていたのだが、後で聞いた話によると、久保田も八海山も日本酒の銘柄で、美味しいが相応に値の張る酒だという事だった。
そんなこんなでテーブルにはドリンクが並び、次々に料理が運ばれてくる。鳥の軟骨揚げ。シーザーサラダ。ホッケの塩焼きに香の物。韓国チヂミ。焼き鳥の盛り合わせ。ガーリックライスにキムチチャーハン。和風サイコロステーキ。トマトスライスとチーズのカナッペ。ベトナム風生春巻き。この人数だ。新しい料理が運ばれてくるたびに、次々に箸が伸ばされ、一瞬にして皿は空になる。それに伴い、我先に空けられていくジョッキ。やはりライブの緊張感というのはドントディスターブやライ麦畑といった、この街でも古株のバンドにとっても相応のものがあるらしく、ライブがはねた後の打ち上げは、皆随分と熱が入っている。饒舌な加賀美さんはいつもに増してノリノリでしゃべりまくっていたし、一見厳つい鬼島さん達も、一仕事終えた開放感からか、何時にないサービス精神を発揮してバンド結成時の失敗談なんかを披露して、場を盛り上げてくれた。
僕は傍らのアヤを見る。
笑っていた。ドントディスターブのボーカルである架倉さんが身振り手振りを交えてする若き日の鬼島さんの貧乏話に、嬌声を上げている。意外にも酒豪であることが発覚した江隅さんが、飲み比べでもって屈強な男達を次々に圧倒していく様に感嘆の声を上げている。アヤは屈託なく笑う。いつものように。初めて僕に声をかけてくれたあの時の様に。
僕は何杯目か分からなくなったジントニックを煽ると、トイレに行く為に腰を上げた。
「志道、便所か? まて、俺も行く。男の友情の代名詞、ツレションといこうぜ」
加賀美さんがジョッキに残っていたビールの残りを飲み干して、慌てて立ち上がる。僕は飲みなれぬ酒で機能の鈍った頭で頷き、覚束ない足取りでトイレを探す。「ほら、フラフラしてるんじゃない。こっちだよ」そんな僕をみかねてか、加賀美さんは僕の腕を掴んで引っ張っていく。
おいおい、これじゃあ僕が酔っ払っているみたいじゃないですか。やめてくださいよ加賀美さん。心配しなきゃいけないのはアヤの方だ。
僕は大丈夫です。
何も、問題はない。
だが、加賀美さんは僕の腕を掴み、時折危うげなモノを見守るような眼で、僕を振り返る。やがて、僕らは店の際奥にあるトイレへと行き着いた。
その時、便所に足を踏み入れた途端、独特の臭気にやられたのか先ほどからの鯨飲に限界が来たのか、僕の臓腑をかつてない嘔吐感が襲った。慌てて加賀美さんの手を振り切り、個室便所のドアをあけて蹲る。「志道! おい、どうした、ヤバイのか!?」背中の声に答えることもできず、僕は掃除の行き届いた洋式便座を覗き込む。水面に、自分の姿が酷く歪んで映って見えた。内臓が絞り上げられる感覚。胃袋が裏返る。視界が暗転。
「ライブが終わったあたりから様子がおかしいと思っていたけど、一体なにがあったというんだ?」体内の物を全て逆流させてしまった僕の背を擦りながら、加賀美さんは呆れた声を出した。「まるでヤクでもキめてるみたいな繰鬱っぷりじゃないか」
僕はまだじくじくと痙攣を続けている内臓に手を当てたまま、深いため息をついて答える。
「やっぱり、分かってしまいましたか。まぁ、確かに今のアヤの様子はどこか無理してるみたいで、いつもの彼女の明るさが欠けています。でも、それには事情がありまして……」
「は?」
「あんまり、吹聴したい事ではないんですけど、さっき、彼女にとって不快な事件があったんです。だから、この飲み会でアヤが少々暗いのは見逃してやってくださいよ。少しでも嫌な事を忘れられるように、加賀美さんも協力してく……」
「待った。ちょっと待った。君は何を言っているんだ?」
「何って、アヤが……」
「誰もアヤちゃんの話なんてしてないだろう? 君だよ、志道幸也君。さっきから君の態度が異常だって言ってるんだ。変にはっちゃけてたり、急に黙り込んでみたり。挙句、大して飲めない酒をがばがば空けて、リバースしてみたり。どーいう事よ?」
「な……何をいてるんです加賀美さん。僕におかしなところなんて」
「君にとって、精神を掻き乱すような不快な事件があったんだろう?」
妙に確信めいた、それでいて僕自身に先を促す投げ遣りさを含んで、加賀美さんは断定した。僕は即座に反論しようとしたが対応できず、一呼吸おいても気の利いた理屈は思いつかない。それは事実こそが、彼の言う事が真実を言い当てている事の証拠物件だった。
その後、どれだけの時間がたったであろう。刹那か、十秒ほどか、10分ほどか。いかに酔っているとはいえ、一時間という事はあるまい。僕は、背後で加賀美さんがライターを着火する音で我に帰った。溜息交じりの煙が宙を舞う。右手にキャメルを挟み、紫煙を吐きながら、加賀美さんは無言で佇んでいた。
僕は、一見いい加減に見えて他人の変化に聡く気付く余裕を持つこの人になら、話していいかと思った。彼とは全く関わりのない事だというのも都合が良かったし、僕の周りには精神的な暗闇を吐露してまでなにかを相談できる大人の男性など、他に見当たらなかったから。どの道、誰かに聞いてもらいたかったのだ。
「加賀美さん」
「ん? なんだい?」
「眼が回って、立てません」
「そいつぁ参ったな。俺は男を抱きかかえて歩く趣味はないぞ」
「僕もそれは遠慮しますよ。もう少しだけ、時間もらってもいいですか?」
「ああ。俺も少し飲みすぎたしね」
「加賀美さん」
「なんだよ、さっきから」
「一休みついでに、ちょっと昔話を聞いてくれませんか」
「……大したコメントはできないけどね。それでよければ話しな」
僕は無言で頷く。
「今はもういないんですけどね、僕には姉がいたんですよ。雪江っていうんですけどね、これが凄い美貌で、本当に血が繋がってるのかって感じなんですよ。艶やかな黒髪といい、名前どおり、雪のような白い肌といい。
雪江姉さんと僕は、歳の差が10歳という事もあって、一般的な姉弟というのとは少し違ってました。姉弟げんかなんか一度もありませんでしたし。まして、姉さんは僕と違ってとても聡明な人でしたから、共働きだった両親に代わって、僕の面倒を良く見てくれました。年頃の女の子にとっては、はっきりいって自分の自由を束縛するだけの存在だったでしょうに、姉さんはそんなそぶりを微塵も見せずに、僕を愛してくれました。僕が7歳。姉さんが17歳の時に、あの事件が起こるまで。
事件というのは、なんら独創的でもない、ありふれた犯罪でした。美人女子高生と、それに眼を付けた下種なチンピラども。人通りのない夕方の公園。季節は冬で、日はすこぶる短い。起こったのは、当然のようなレイプ事件でした。そんな中で、ただ一人、ちょっと考えられないような個性的行動をとった奴がいるんです。まぁ、僕なんですけどね。
姉さんがチンピラ集団に暴行されているところに、丁度迎えに来た僕が鉢合わせになったんですよ。周囲は暗かったけど、その公園まで家から100メートルくらいでしたから、そのあたりまでは両親もうるさい事いわなかったんです。
僕が公園で姉さんを見つけた時、その姿は酷い有様でした。服は破れてたし、ストッキングは裂けて、頬には殴られた後があったしね。いくら7歳の子供にだって、どんな事が行われていたか想像がつきます。
でもね、弱者の卑劣な精神というのは、そんな解って当然の認識さえも塗り替えてしまうんですよ。僕は開口一番、間の抜けた質問をしました。お姉ちゃんどうしたのって。
酷い話ですよね。どうしたのもないもんです。見りゃ解るだろって。でも、姉さんは僕のその言葉に安心したようです。幼い弟を陰惨な暴力に巻き込みたくなかったのでしょうし、自分に振るわれた理不尽な陵辱を知られたくなかったんでしょう。もしあの場で彼女が僕に助けでも求めていれば、チンピラどもが僕にまで危害を加えるのは眼に見えていたわけですし。
なんにしろ、姉さんが僕に頼んだ事は簡潔。友達と話をして行くから、両親に心配するなと伝えてほしいと。帰りが遅くなるけど、何も心配要らないと。それは、チンピラどもからすれば明確な服従宣言だった事でしょうよ。後は僕さえ消えれば、雪江姉さんの美しい体を存分に嬲れる。僕は追い払われるように公園を去り家に帰りました。
傑作なのはここからでして。なんと、僕はね、加賀美さん、姉さんに言われたとおり両親に、姉さんは遅くなるけど心配要らないって伝えたんですよ。きっと、僕としてはそう信じたかったんでしょうね。すぐにでも通報していれば事態は違ってたかもしれないのに。結果としてその日姉さんは帰らず、次の日、公園の草むらで扼殺死体で見つかりました」
加賀美さんは感情を表に出さず、僕の脇から煙草の吸殻を便器に放り込んだ。
「レイプの被害者が絞殺・扼殺されるのは良くあるんですってね。なんでも首を絞めるとアソコの絞まりも良くなるんだとか。これは後から聞いた話ですけどね。なんにしろ、姉さんは僕が殺したようなもんです。事に臨んで最低限為すべき事さえもこなさなかった。この僕の資質っていう奴がいまになっても後を引いてましてね。今日、またも同じ事を繰り返してしまったんですよ」
話しているうちに自分自身が昂ぶってきているのを感じた。本来ならアヤのプライバシーに関わる事だ、軽々と話して良いことではない。だが僕は熱に浮かされるようにして、加賀美さんに全てを語ってしまう。倉庫から悲鳴を聞いた事や、扉越しに触れたあの日の再現。忍足という名の、人の姿をした獣の事。そして、
僕には扉を開ける事ができなかったという、忌むべき事実。
それは懺悔なんて清浄なものではなく。
己の穢れを他人に共感させたいという唾棄すべき甘え。
自己嫌悪と後悔の汚濁に耽溺するどこまでも汚らしい自慰行為。
その最たるものが、次の瞬間、僕の口から発された一言だ。
「加賀美さん。僕はどうすれば罪を償う事ができるのでしょう?」
指先に3本目のキャメルを挟んだまま、こめかみを掻いていた加賀美さんは、しばらく無言で個室トイレの扉にもたれかかっていたが、やがて何事かを呟いて、半眼で僕を見据えた。
「おいおい、取り返しのつく過ちなんて、ひとつだってあるわけないだろう?」
彼は言う。
「それとも、安っぽいヒューマニズム振りかざして、『人生には取り返しのつかない事なんてないんだ! どんな罪を犯したとしても、それを償って前向きに生きていかなければ
ならないんだよ』とか言われるのを期待していたんじゃないだろうな。罪を犯しておきなながら励ましがないと生きられないなんていう奴は、生きてる価値の無いクズだ。まして、贖罪が可能であるなんて保証がなければ己の罪を省みないなんて奴は、最早存在自体が害悪だ」
ばっさり斬られた。
深慮遠謀で鳴らす加賀美さんの事だ、僕がヌルい同情や赦しを求めていた事は全てお見通しだったに違いない。それが解っていたからこその、あえて突き放す態度だった。
それでも僕の精神に根ざした幼稚な依存心は、唇を割って不満の声を上げる。
「……反論はありませんが、あまりに冷淡な意見ですね。加賀美さん、前から思ってたけど他人に対して冷たすぎですよ。弱者に対する憐憫が微塵もない」
「弱者? つまり、弱さゆえに罪を犯したって事か?」彼は無造作に髪をかき上げた。「だとしたら、その弱さが罪だ。身内を傷つけ、友人を蝕み、恋人を壊してしまう程に弱いのだとすれば、その脆弱さは同情の余地など全くない、空前絶後の大犯罪だね。それは殺人よりも強姦よりも放火よりも断罪されて然るべきだよ。『弱い』というだけでそれ程の事をしてしまうなんて、あまりに救い難い」
何も言い返せない。
子供だったから。弱かったから。そんな、最後の言い訳までもあえなく潰された。
呼吸さえも止めてしまったみたいな虚無感につつまれ、僕は自分の撒き散らした吐寫物で満たされた洋式便座の中を、ただ見つめていた。酔いに濁った頭で考える。右手を伸ばして便座脇のレバーを捻っても、僕の中の穢れは洗い流してくれないのだろうな。
詮無き事だ。
この感情もきっと、自分と世界に対する言い訳にすぎない。
僕はそんな思考の海を漂いながら便器にもたれて自失していた。
どれくらいの時間だろう。
すでに僕の中で、時間という概念が意味を成さない。
気がつくと加賀美さんの肩を借りて抱え起こされたところで、彼は空いているほうの手で便器のレバーを捻り、汚物を流したところだった。彼は酒で濁った僕の眼を覗き込み、今までのやり取りが無かった様な微笑を浮かべる。
「店の裏口から出て、少し夜風に当たろうぜ。そうすりゃいくらか気分もましになるだろ。君だって、こんな醜態、アヤちゃんに見られたくあるまい?」
まったく、異論はなかった。
心配して声をかけてくる店員たちに愛想の良い返事を返し、加賀美さんは僕を裏口から外に連れ出した。居酒屋の裏口は築30年くらいの廃ビルに挟まれ、脇には店から出たゴミが積み上げられていた。直径60センチの隙間だけがいまだに喧騒を伝える街の表通りへと繋がる道で、この場所が隔離された陸の孤島であるように錯覚させる。僕を青いポリバケツの上に座らせた加賀美さんは店内にもどり、何事かを話していたようだったが、すぐに戻ってきた。その手にはウーロン茶のグラスが握られている。そして無言で僕にそれを握らせ、自分は廃ビルのコンクリート打ちっぱなしの壁にもたれてキャメルを咥えた。
僕は呟くようにお礼を言ってグラスに口を付ける。わずかに口に含み、口をすすいで吐瀉物の名残を洗い流した。もう一口。冷たい喉越しが僕を僅かに覚醒させる。
「すんません」
僕はようやく、それだけを口に出した。
加賀美さんは僅かに眉を動かした。
「それは謝罪だかお礼だか区別がつかないが、あいにく俺は謝罪されるような仕打ちを君に受けた覚えはないし、お礼を言われるほどの事を君にした覚えはないね」
「はは……。僕も、誰に謝ってるんだか、よくわかんないです。ほんと、誰にあやまりゃいんでしょうね。何度も何度もおんなじ罪を犯して。何度も何度も、大切な人を犠牲に自分だけ逃げて」
「はいはい、もうその話は終わり。君が暗い顔してたら逆にアヤちゃんが心配するし、取り返しがつかない以上、ぐずぐず悩んだって意味が無い」
「……そうなんですけどね。もう、今回ほど絶望した事はないですよ。もし、またアヤがあの忍足に絡まれているところに遭遇したところで、僕は彼女を守れるんでしょうか。いや、腕っ節の話じゃなくて、意志の話です。あのケモノがアヤの前に立った時、僕はそこに割って入らなくちゃならない。でも、はたしてそれをためらい無くやってのける事ができるかどうか……」
「好きな女を守る事を義務みたいに考えるなよ。ぐじぐじ悩まなくても、本能で体が動くって」
「その本能が、彼女を犠牲にして保身を図ろうとさせたんですよ!」
僕が少し声を荒げると、加賀美さんは面倒くさそうに頭を掻き、無言でビルの隙間から見える細い夜空を見上げた。
「ほんとに……自分に絶望しますよ」
僕はグラスのウーロン茶を飲み干すと、自嘲的に呟いて締めくくった。
加賀美さんは何か言いたげに僕をしばらく見ていた。そして、煙草を廃ビルの壁に擦り付けて消し、もたれたまま腕を組むと正面から僕を見据え、意を決したように口を開いた。
「志道」
口調がいつに無く硬い。いや、こんなしゃべり方をする加賀美さんは初めてだった。
「なんです?」
「絶望ってのは、したりしなかったりするものじゃないんだ」
「……」
「絶望したり、絶望しなくなったりっていうものじゃあ、ないんだ。志道、そういうものじゃないんだよ、絶望ってのは。そんな、一時の気分しだいでころころ変わるような概念じゃない。あらゆる望みを絶たれ、先に何の展望も見えず、すべての明るい未来が途絶え、破滅の結末へと帰結する。それが絶望だ。再生はありえない。喪失と喪失と喪失だけの物語だ。絶望したら、そこで終わりなんだ。なぜなら、全ての望みが絶えているから。それを、絶望というんだよ。お前が落ち込んでいるのは分かる。それに、お前が犯した罪は今さらなかった事にできるものじゃないってのも、真実だ。でも、お前は絶望なのか? 本当に絶望なのか? これから先、あらゆる局面で今までとなんら進展の無い忌むべき罪を犯し続けるのか? 大切な人を生贄に捧げて恐怖から逃げながら生きる事は、お前にとってどうにも動かしがたい未来なのか? 過去をやり直せなくても、これからは誤らないという意志はお前の中に存在しないのか?」
加賀美さんは語気を強めて、そう言い放った。
「もう一度聞くけどさ。志度、君は、絶望か?」
僕は即座に首を振った。満身の想いをもって。切実なる願いを込めて。僕が姉さんを死なせてしまったという事実と、10年後の今、再び同じ悪夢を繰り返したという現実。それでもぼくは、二度と同じ罪を犯さない事を望んだし、仕方がなかったとか、どうしようもなかったとか、そういう言い訳だけは絶対にしなかった。大切な人を守る事ができなくてもいいなんて思った事は、今までに一度だって無かった。だから、絶望という言葉を打ち消すように首を振る。そんな僕を見て、加賀美さんは満足げに頷く。
「……そうか。なら君は、まだ終わらない」
ビルの谷間のこの場所に、澱んだ空気を吹き飛ばす一陣の風が流れ込んだ気がした。
6
ライブから一週間後の土曜日。僕らは近場のスタジオを借りて練習に明け暮れていた。毎週土曜日はバンドの練習日になっている。学校が終わると僕らは全員慌しく教室を飛び出し、駅前のカラオケスナックに駆け込む。別に日が高いうちから高校の制服姿で一杯やろうってわけじゃない。この店のマスターの好意で、営業時間まで無料で店内のスタジオを借りられるのだ。
駅前の年季の入った飲食ビルの2階。このビルには、お洒落な若者が踊るほうではなく、セクシーなお姉さんが接客してくれるほうのクラブとか、このビルが建った当時から経営しているという噂のショットバー、最近やたら目にする事の多い居酒屋チェーン店なんかが入っていて、正直高校生の身で出入りする事がはばかられる。もし巡回中の教師なんかに見つかれば、次の日には職員室に呼び出しだ。目撃者を作る事無く進入してしまうまで、僕らは毎度余計な心労を背負う事になる。
そもそもきっかけは、ベースの僕、ギター兼ヴォーカルのアヤ、ドラムの高遠の三人でバンドを結成したとき、練習場所にと考えていた音楽室が使えなかった事だ。本来なら音楽室は軽音部が練習場所に使うものなのだが、我が高校の軽音部は帰宅部、もしくは麻雀部の別名だった。だから無人の音楽室を利用できるものと踏んでいたのだが、納得しがたい事に、学校側からの横槍が入った。音楽室は軽音部の活動場所として定められている以上、部外者にしゃしゃりでてこられては困る、どうしても音楽室でバンドの練習がしたかったら、軽音部に入部しなさい、というわけだ。
ふざけている。
僕は形骸化した軽音部の体面を保つ為だけに余計なルールを押し付ける学校側に腹が立ったし、不断の練習もせずにだべっているくせに学園祭などではいっぱしな顔をして下手糞なコピーバンドを組む軽音部の連中を、アヤは心底軽蔑していた。高遠にいたっては、音楽をやるよりバンドマンという肩書きで女を釣ることに執心していた先輩を殴り、軽音部を退部してきたばかりだった。当然の如く、メンバーの意見は一致。外部に練習場所を求める事になった。
そして、高遠が見つけてきたのが、スナック「オデッセイ」だった。酒屋のバイトで店内に入った際、場末のスナックとは思えない充実した設備に、以前から注目していたらしい。オデッセイのマスターは若いころブルースマンで、自分の店でもたまに演奏したり、バンドマンを呼んで演奏させたりするための設備だということだ。あいにく客層がマスターの思惑からずれて、バンドの生演奏よりも若い女の子を目当てにくる酔客ばかりであったの為、せっかくのスタジオ設備が持ち腐れになってしまったというわけだ。そこに高遠が目をつけた。営業時間前の昼間、若き未来あるバンドマン達の夢を応援してくれないか、とマスターに申し入れたのだ。マスターは案外頑固な面があり、僕らが演奏するのが現代風のロックだと判ると、随分渋ったものだった。マスターはブルースとジャズとクラシック以外を音楽と認めないのだ。当初、高遠からその事を聞いた時、僕はそのマスターを俗なスノッブと決めつけて嫌悪したが、アヤは実に屈託無く笑った。
「だったらそのマスターに、あたし達の演奏を聞いてもらえばいいじゃない!」
高遠を通じて、オデッセイのマスターに自分達を試験してくれるように申し入れると、マスターは時間を指定して、僕らを店に呼びつけた。演奏の準備をする僕らを前にして、ブルースやジャズの奥深さ、ロックというジャンルの稚拙さを訥々と語った。それを黙らせたのが、アヤのギターだった。
マスターを篭絡する為に、アヤは単純にブルースやジャズを演奏するなんて媚びた真似をしなかった。彼女はその恵まれたルックスで愛想笑いでもしてればやり過ごせる事も、自分が納得できなければいつだって正面からぶつかっていくのだ。
大上段に構えたストラトキャスターから聞いた事のある旋律が迸る。聞き覚えのあるコード進行だ……C7……F7……C7……G7ってこれ、基本のブルースコードじゃないか、こんなお追従みたいなの、アヤらしくないなぁ、なんて思っていた矢先、音が弾けた。
Ev'ry day,
Ev'ry day I have the blues
Ev'ry day,
Ev'ry day I have the blues
When you see me worryin' babe
Well it's you I hate to lose
僕はあまりブルースの知識はないが、このナンバーぐらいは知っている。エブリデイ アイ ハブ ザ ブルーズ。実に多くのブルースマンに愛された、定番中の定番だ。だが、アヤのプレイは原曲とはかけ離れていた。強引なアレンジと、無理やりな進行で、パンクロックと化している。マイクも使わず、トーンを抑えたタフな声で、アヤは歌う。毎日がブルースだ、と歌う。マスターは苦笑いしながら聞いていた。
毎日がブルース。生きる事がブルース。ロックだって、ブルースの影響をうけて変化してきた。だからそんな細かいジャンルの事ぐらいでセコイ事言いなさんな、という訳だ。正直、その時のアヤのアレンジはあまりレベルの高いものではなかったが、そのソウルは間違いなくマスターに伝わったらしい。演奏が終わった僕らに、マスターはアイスコーヒーを振舞ってくれた。そして、裏口の合鍵を渡しておくから昼間は自由に使ってかまわない、帰るときは必ず片付けて戸締りを忘れないように、と告げた。こうして僕ら螺旋階段は練習場所を手に入れた。
その日も授業が終わるや否や学校を飛び出した僕らは、オデッセイのスタジオで新曲の練習をしていた。先日のライブには間に合わなかったが、僕が書いた曲がもうひとつあったりするのだ。螺旋階段は結成してまだ1年半だが、オリジナル曲はアルバムを出せるくらい溜まった。高校生バンドにしてはなかなかのものだと自負している。それぞれが自分のパートを試行錯誤で編曲しつつ、音を合わせてみては首をかしげ、またひと工夫。その日もいつも通りの練習が続くのだと思っていた。
「あっ!」
今までに幾度と無く耳にした、バンという破裂音。エレキギターのスチール弦が切れる音だ。それに続いて、悔しそうなアヤの声。
「……やっちゃった。無茶なチョーキングしたからかなぁ」
形の良い眉をひそめて、アヤは呟いた。
「ただの寿命だろ。ほらほら、早く予備に張り替えて」
「……ごめん、予備の弦持ってきてない」
「いつもギターケースの中に予備をひとついれてたろ?」
「先週、家で使ってるZO−3の弦を張り替えたときにつかっちゃった」
アヤは申し訳なさそうに肩をすくめた。ZO−3とはフェルナンデス社の小型エレキギターだ。
「参ったな……。一番近い楽器屋というと……」
「島津楽器店だな。行って帰ってきて、一時間半はかかるか」腕時計とにらめっこしながら、高遠が言った。「しゃあない、今日はこれでお開きにして、各自の宿題にするか」
「ごめんね……」
「気にすんな。でも、弦が切れたくらいでそうそう練習中止ってのも困るから、今日空いた時間で島津に行って買い溜めしてこいよ。志道もな」
高遠は意味ありげに僕に笑いかけた。アヤと二人っきりにさせてやるんだから、喜べとでも言うかのように。恋のキューピッドを気取ってでもいるのか。こんなごついキューピッド、いらない。
「高遠君は一緒にいかないの?」
アヤが不思議そうに聞いた。
「俺は酒屋のバイトに行くよ。土曜日は配達の人手が足りないから、いついっても仕事があるんだ。ガンガン稼がないと、バイクの月賦が払えなくなる」
「なんだ、中古で買ったっていうエリミネーター、まだ親父さんに借金返してなかったんだ」
「計算だとあと二ヶ月後にすべて払い終わる。そしたら名実ともにエリミは俺のもんだ。あー、長い道のりだった」
僕らはそんな雑談をしながらも、マスターの言いつけどおり後片付けをし、オデッセイを後にする。高遠はバイト先の酒屋へ向かい、僕とアヤは駅に脚を向けた。
僕とアヤは二駅先の島津楽器店まで、15分ほど電車に揺られていた。その間、いつもと変わらない馬鹿話に従事する。せっかく高遠が気を回してくれて二人きりだというのに、僕は気の利いたことひとつ言えずにいる。
島津楽器店で弦とピックとスコアブックを購入した後、アヤが新しいブーツを見繕いたいというので、駅前の商店街に行く事にした。
アヤと並んで街を歩くと、僕はなんとも言えず俗っぽい優越感に汚染される。それは言うまでも無く、周囲の羨望と嫉妬交じりの眼差しから感じられる、僕なんかには不釣合いに魅力的な女の子と歩いているという特権意識。
いや、だめだだめだ。こんな卑屈な事じゃ。アヤの隣を歩くのに相応しい男にならないと。たまたま舞い降りてきた幸運を弄んでるだけじゃ、いつか大切な物を失ってしまう時が来る。
「どうしたの幸也、急に黙り込んじゃって」
さっきまでブティックのウィンドウにへばり付く様に見入っていたアヤが、いつのまにか僕の前に回って上目遣いに僕の顔を見上げていた。
「……なんでもないよ。それより、どうするの? このお店で買う?」
アヤはあっさりと首を振る。
「ううん、ここは見てるだけ」
「さっきからそんな事言って、3件目じゃないか。買うの、買わないの?」
「もう、幸也せっかちだよ。こうやって見てるのが楽しいんじゃない」
女ってのは目的のないウィンドウショッピングだけで平気で半日潰せる生き物だって、前に高遠がぼやいていたのを思い出した。そんなのあいつの彼女だけだと決め付けてたけど、アヤには当て嵌まりそうだった。無論、いかなる事であれアヤと過ごす時間が僕にとって不快なわけが無い。彼女がこのひとときを楽しんでくれてるなら、決して無為なる時間の浪費ではないだろう。買う、買わないは二の次で良いのだと自分に言い聞かせ、その後しばらくはあのデザインがどーの、このブランドがどーのというアヤのファッション談義に相槌を打っていた。
5件目の店に移動し、そのウィンドウの前に立った時。
僕の視界の隅に、不快な影が切り込んできた。この街のメインストリートのはずれ、ちょっとタチの良くない連中の溜まり場にもなっているシルバーアクセサリの店から、見覚えのある男が出てきたのだ。長身を僅かにかがめた姿は、獲物を物色するハイエナ。襟足の長いウルフカットはその凶相を縁取り、瞳の色は黒く乾いた血の色を思わせる。
一週間前にアヤを襲った男。……名前は、そう、忍足浩輔。
僕は慌てて目をそらす。アヤはまだ、奴に気づいていないみたいで、ハーフブーツの値札を見て、その金額に文句をつけている。
なんとかやり過ごせないだろうか。忍足がこっちに気づいていなければ、あるいは。いや、安易な楽観主義に浸るのはやめだ。奴は気づいている。さっき、慌てて目をそらした一瞬、確かに忍足の鋸の様な視線と僕のそれが交差したのを感じた。僕は胸の奥底まで深く二度ほど呼吸し、全神経を研ぎ澄ます。今度こそ裏切ってくれるなよ、相棒。
「アヤ。気に入ったんなら、中に入って試着させてもらいなよ。やっぱり、みてるだけじゃ判らないだろうし。値段が気になるなら、僕が半分ぐらいだしてやってもいいからさ。ほら、来月、誕生日だろ?」
「え……、幸也、どうしたのいきなり。いいよ、そんな、悪いよ」
僕の突然の申し出に、びっくりした顔でアヤが振り返る。僕は素早く体をスライドさせ、アヤと忍足の視界を遮る。破裂しそうに高鳴る心臓を思念の掌で鷲掴みにして無理やり黙らせ、極限まで高めた集中力で平静を装う。早く。
「気にするなよ。僕が半額持てば、一万ずつくらいだろ。夏休みにやったバイト代がまだ余ってるから、全然平気さ」
「でも幸也、夏休みの大半を費やしたアルバイトじゃない! そんなに軽いお金じゃないでしょう?」
早く!
「いいから。買う買わないはともかく、試着してみようよ。似合わなかったらやめればいいんだし、素敵だったらそのまま包んで貰おう。アヤのプレゼント代に使うなら、それは無駄使いじゃないし。ほら、お店に入って」
半ば背を押し込むように、ブティックの自動ドアをくぐらせる。アヤの背中が店内に消え、僕の目前で自動ドアがしまる。背中に、身震いするほどの殺気。
「小僧。いいところで会えたな」
振り向くまでも無い。
獲物の匂いを嗅ぎ付けて、獣の気配をその身に纏い忍足浩輔が背後に迫っていた。
僕はまだ終わってないと、加賀美さんは言ってくれた。
その言葉に、満身で感謝を捧げたい。
彼の言う通りだった。終わりなど無い。生きてる限り、僕の魂は試され続けている。過去を覆せなくても、未来にはいくらでもチャンスがあるのだ。
「おい、今店に入っていったのは、綾町卓美だろ?」
鼻先が触れそうになるくらいにまで近づいて、忍足が言った。いや、忍足と僕では身長がかなり違う。正確には、僕の鼻先が忍足の逞しい胸板に触れそうな距離、である。
「さぁ、見間違いでしょう。彼女は帰宅部だから、とっくに家に戻ってるはずですけど」
僕が発声し終わった瞬間、下腹部に酷く重い鈍痛が走った。反射的に身をおり、うずくまりそうになる体。下方に向けられた視界に、僕の腹からゆっくりと引かれていく忍足の拳が見えた。
「バレバレな嘘こいてんじゃねぇ、糞餓鬼が。俺はテメェみてぇな小僧にしゃらくせぇ口聞かれんのが一番嫌いなんだよ!」倒れそうになる僕の髪を掴んで無理やり顔を上げさせると、微塵の躊躇も無く忍足は僕の鼻面にベアナックルを叩き付けた。「おい、こないだは随分とナメたマネしてくれたよな。横からしゃしゃり出てきやがって」
僕の鼻腔から、破裂するみたいに血が噴出した。衝撃で視界にちかちかと星が踊る。
「どうよ、小僧? いてぇか?」
その言葉に反応するどころか、僕は完全に機能を停止した鼻腔の代わりに、発情した犬みたいにゼィゼィと口で呼吸するので精一杯だった。
「そうかそうか」何も答えられない僕に満足げに笑いかける忍足。「じゃあ、もっと痛くしてやろう」
続けざまに二発。右頬と鳩尾を衝撃が貫く。胃を狙われたのだろう、内臓を捻られた様な悪寒と、それに付随する吐き気が僕の背にのしかかる。とてもじゃないが、自力で立っていられない。忍足が掴んでいた僕の髪を離した瞬間、僕は胃の内容物を逆流させながら、無様に地面に転がった。
あれ?
これで、終わりか?
僕は、これで、終わりか?
視神経に対する衝撃の為か白く霞む視界の中、僕を踏み越えてブティックの入り口に立つ忍足の足が見える。ドアをくぐれば、そこには無防備なアヤが。
まだ、終わらない。
僕に背を向けた忍足の右足にすがりつき、体全体を回して捻り倒す。喧嘩慣れしているらしい忍足も、意外な反撃にあっさりと転倒した。
チャンスは今しかない!
僕はこの一瞬の隙に、忍足に馬乗りになる。体格からいっても、喧嘩の場数からいっても、僕ではこの男を圧倒する機会は今より他にないだろう。鼻から下は血まみれだったし、学生服は反吐で汚れきって満身創痍だったが、自分に残された全霊を込めて拳を振り上げる! 僕の下でもがく忍足の顔に、初めて恐怖に似た表情が浮かぶ。
その時。
「忍足さん! どーしたんすか!?」
右斜め後ろから、若い男の声が響く。次いで、駆け寄ってくる複数の荒々しい足音。
忍足のとり巻きだろうか。一瞬だけ、僕の注意がそれる。
致命的だった。
忍足浩輔はその一瞬を逃すほど、甘い男ではなかった。彼はその体格差に物を言わせ、ブリッジの要領で僕を跳ね飛ばす。新手の敵に気をとられていた僕は、受身も取れずに地面に倒れる。
そこへ、暴力への賛美を瞳に湛え、忍足がのしかかって来る。
狂気に満ちた奇声を上げて、打ち下ろされる忍足の拳。
ハンマーの様な衝撃を全身に受け、僕の意識は砕かれた。
7
もう一度だけ言おう。
弱さは罪悪だ。
8
鼻先を柔らかな筆の様な物でくすぐられる感触で、僕は意識を取り戻した。頭ごと洗濯機に突っ込まれているみたいな眩暈と頭痛に思わず呻きながらも、無理やり瞼をこじ開ける。ぼんやりと霞む視界。それを覆う金色のヴェール。
「おい、ユキヤ。くたばったのか? くたばったんならそう言えよ。黙ってられたら、生きてんだか死んでんだかわかんねーからよ」
頭上から、透き通った美声が降って来た。台詞の中身は、随分滅茶苦茶だったが。
なんだか、聞き覚えのある声だった。
誰だっけ?
ぼんやり記憶の海を手繰っているうち、僕は別の、声の主の正体よりもはるかに重要で緊急を要する事を思い出した。
アヤが危ない!
アスファルトに横たわっていたままの体を、反動をつけて起こす。そうして、状況を確認するために周囲を見回すと、屈み込んで僕の顔を覗き込んでいた人物と目が合った。
上質のシルクを思わせる金色の長髪。先程僕の鼻先に触れていたのは、この金髪だったのかと、ようやく認識する。そしてその髪に覆われているのは、男でさえ見とれてしまう、怖気を振るうほどの美貌。彫りの深い白面には、嘲りを含んだ笑みが刻まれている。
一度見たら忘れられないその姿。
一週間前に、「地下道」の楽屋で会った男。名前は……確か、陶崎。陶崎凌。
「……アンタ、なんでここに……」
「ぼけっとしてていーのかよ、ユキヤ。あの嬢ちゃん、連れてかれちまったぜ?」
「……えっ!?」
「目付きの悪い大男がお前に馬乗りになってボコりまくっててさ。通行人とかメチャ引きまくってんの。俺も傍から見てて、あーこりゃ死ぬなーとか思ってたら、店の中から嬢ちゃんが出てきたんだ。んで、お前を見逃す代わりに大人しく拉致られたってわけだ」
「拉致られたって……どこに!?」
「俺が知るわけ無いだろ。まぁ、男3人で女が1人となりゃ、間違いなくマワされるな。くくっ、嬉し恥ずかし輪姦学校。あの嬢ちゃん処女じゃねーの? お初の相手があんなゴツイ野郎三人組じゃあ、きついだろーなぁ」
陶崎は下卑た表情で哄笑した。
そんな。
またしても僕は大切な人を守るどころか、その犠牲によって生きながらえるのか。
もうやだ。
もううんざりなんだ。
これ以上自分を嫌いになりたくない。
「アヤは、綾町卓美はどっちの方向へ連れて行かれたんだ!?」
笑い続ける陶崎の胸倉を掴み、問い詰める。
「何だよ、追いかけるつもりか? くく、向こうだよ。駅とは反対の郊外。おそらく連中が溜まり場にでもしているマンションとか、廃屋でもあるんじゃねーのか? もっとも、奴ら車で移動したみたいだから、いくらユキヤが走っても追いつかないぜ」
場所さえ判ればタクシーで行ける。忍足達の溜まり場の場所。それを知ってそうな人間。
考えろ。
そうだ。忍足が出入りしているシルバーアクセサリの店なら、知っている人間がいるかもしれない。僕はふらつく足を叱咤し、アクセサリショップへ足を向ける。
「ユキヤ、どこ行くんだ?」
「そこの店、チンピラの溜まり場になってるんだ。アヤをさらった忍足ってのは、それなりの顔らしいから、誰か行き先を知ってるかもしれない」
「おいおい、素直に教えてもらえると思ってんのかよ?」
呆れた声で、陶崎が言う。
僕の気持ちは揺るがない。
「だったら、力ずくで聞き出すまでだ」
僕は酒屋の脇においてあるビールケースから空き瓶を一本拝借すると、地面に叩きつけた。割れた瓶は凶悪な断面を露出し、鈍い輝きを放つ。
「阿呆。お前みたいなヘタレがいくら粋がったって、せいぜい腕の一本くらい折られるのがオチだぜ」
「腕の一本ですむんなら、安いものさ」
「……ベース、弾けなくなるぞ」
「かまわない」
僕は即答する。
その言葉に、陶崎は笑みを浮かべる。今までの嘲りではない。僕の17年間の人生で、はじめてみる種類の笑顔。己の積み上げてきた企みが成就するのを見届けたかの様な、悪意に満ち足りた表情。
僕は去年両親に連れられて観劇したゲーテを思い出す。
他に形容仕様が無い。
それは、ファウストを篭絡したメフィストフェレスの微笑みだった。
「ユキヤ、覚えてるか?」
「何を?」
「俺がライブハウスの楽屋で言った事。お前のベースには、世界を裏返す価値があるって」
「ああ、そんな事言ってたな。でも、今はそれどころじゃ……」
「いいから聞けよ。もし、お前がベースに打ち込んだ労力と時間と才覚や金、その他もろもろを、他の事に費やしていたとしたら、どうだ? お前は全然別の何かを手にいれて、そしてその代わりにベースを弾く力を得られなかったはずだ。例えば格闘技にでも打ち込んでいたなら、さっきの喧嘩だってお前が勝っていたかもしれない」
「あんた、一体何を……」
「いいから聞けって! 人間の持つ価値ってのは、無限でもなければ普遍でもない。さあ、ここからは仮定の話だ。ユキヤ、お前は何を失う事になっても、あの嬢ちゃんを助けたいか?」
一体陶崎が何を言いたいのか分からなかったが、答えは明白だった。
僕は無言で頷く。
「何かを得るなら、別の何かを失う。当然の事だ。最後の質問。もしもあの嬢ちゃんを無傷で助ける事ができるのなら、お前ベースを弾けなくなってもいいか?」
「……おい、アンタさっきから何を言ってるんだ? 何か知ってるのか? 時間が無いんだ、奴らの行き場所を知っているのなら教えてくれよ!」
「質問に答えろ、ユキヤ」
陶崎は笑いを収め、厳しい声を出した。
「僕はアヤを助けなきゃならない。これ以上同じ罪を犯すなんてまっぴらだ。どんな代償だって払う覚悟がある!」
「良く言った! もう取り消せないぞユキヤ、陶崎の名において、汝の願い聞き届けた! お前のベースは俺が頂くぞ。その対価としてお前の望むままに世界を裏返えしてやる!」
凄惨な笑みをその秀麗な唇に刻み、陶崎は狂ったように叫んだ。その瞬間、彼の全身から光の粒子が吹き上がり、僕はその眩しさに眼をそむける。
光が止み、顔を上げると、陶崎は何事もなかったように立っていた。
何だったんだ、今の。
「いったい何がなんだか……」
「もう心配要らないぞ、ユキヤ。あの嬢ちゃんは助かる。それが確定した。さぁ、タクシーでも捕まえて迎えに行こうぜ。嬢ちゃんがラチられた場所はここから3キロくらい離れた工場跡地だ」
「何だ、あんた、場所知ってたのか? 何で今まで隠していたんだ!?」
「違うって。代償と引き換えに世界が裏返ったんだ。お前の都合の言いように。お前の希望通り、嬢ちゃんが無傷で助け出される事が予め確定している。だから、それに都合を合わせる為に俺が場所を知っている事になったんだ。確定している結果に合わせて、事情が変わったんだよ。ま、いいや細けぇ事は気にすんな。おい、タクシー!」
陶崎は通りすがりのタクシーに向かって手を振る。彼の目立つ容姿と長身のお陰か、空車のタクシーはすんなりと僕らの前に止まった。陶崎は運転手に住所を告げ、車内に乗り込む。
「乗れよ、ユキヤ」
僕は状況が飲み込めなかったが、それでも、行き先を知っているという彼の言葉を信じ、タクシーに同乗した。無言で発車させる運転手。
商店街を離れ、住宅地を抜けて郊外に出る。10分程であたりは民家がまばらになり、代わりに古びた倉庫や工場が多くなる。一応機能はしている様だが、人影は殆ど見えない。そんな風景の中、特に古めかしい劣化したトタン葺きの廃工場の前で車は止まる。
「ほれ、ユキヤ、金出せ」
陶崎は顎をしゃくり、運転手に運賃を払うように示した。こいつ、金もってないのにタクシー呼んだのか。僕は財布から2000円だして、運転手に握らせる。
車を降りると、廃工場の奥から、数人の男の下卑た笑い声と、聞き間違えようのないアヤの叫び声が聞こえてきた。僕は走り出す。
有刺鉄線と穴だらけの鉄条網を潜り、工場の敷地を駆ける。放置されて生え放題になっている雑草に足をとられそうになりながらも、スピードを緩めない。忍足にやられた打撲傷が全身を苛むが、知った事か。
廃工場の入り口。重そうなシャッターの脇に、朽ちた木製扉がついている。鍵はかかっているだろうか。いや、気にするだけ無駄だ。僕の脳味噌は保身の為ならカーテンすらも鋼鉄製の扉に変換してしまうのだ。何も考えずにぶち当たれ!
肩から木製扉に突っ込む。思ったより衝撃は無い。蝶番もかなり傷んでいたのだろう。扉は簡単にはずれ、僕は工場内に転げ込んだ。
痛みを堪えて、目を開ける。視界に広がった廃工場内部の光景。20×10メートルくらいの空間に、雑多な工業機械の残骸が放置されており、あまり広いスペースはない。天井は低く、三箇所均等に距離をおいてワイヤーの様な物が吊り下げられている。かつて何に使われていたのか分からない。しかし、現在の使用法は明白だった。一番奥のワイヤーに、両腕を頭の上で縛られたアヤが吊り下げられていたから。そして、その傍らに、忍足の姿が。
「馬鹿! 幸也、なんできたのよ!」
僕の姿を認めると、アヤは泣きそうな声を上げた。
「助けに来たに決まってるだろ」
僕は忍足から目を離さぬようにしながら、ゆっくりと立ち上がる。
「幸也、逃げて! 逃げて警察呼んで! 早く!」
「警察が来るの待ってたら、アヤの貞操がヤバいじゃんか」
自分を叱咤する意味も込めて、僕はあえて軽い声で言った。
「……毎度毎度、いいところでしゃしゃり出てきやがって……」忍足が獣じみた唸り声を上げる。その顔は憤怒で醜く歪んでいた。「あー……もう限界。ここまでキレたのマジ久しぶりだよ。俺よぉ、マジギレすっとワケわかんなくなっちまうんだよなぁ。せっかくこの女マワすだけで勘弁してやろうって慈悲心だしてやったのに、お前なにここまでおっかけて来ちゃってるわけ? あー、いい、答えなくていい。もう無理。自分押さえらんね。死んでも恨むなよ? いや、むしろぜってーコロス」
ぼそぼそと言葉を垂れ流す忍足。冗談抜きに危険な匂いがする。
どうしよう。まともにやりあって勝てる可能性はない。なんとかうまく立ち回って、アヤを助けて逃げないと。
その時僕の背後で素っ頓狂な声が上がった。
「ありゃー、なんでドアぶっ壊れてんだぁ?」
一瞬、陶崎が加勢に来てくれたのかと思ったが、淡い期待は瞬時に裏切られた。やってきたのは忍足の取り巻き二人だった。万事休す。
「ケンジ、ナオト。いいトコに来た。そのガキ押さえつけろや」
忍足が命令すると、取り巻き二人はようやく僕の姿に気づく。僕は彼らの脇からすり抜けて一旦外へ出ようとするが、相手の動きは機敏だった。肩を突き飛ばされた僕は壁に叩きつけられ、あっというまに取り押さえられてしまう。
「忍足さん、こいつ、さっきの小僧ですよね」
「ああ。今からそいつシメっから。お前ら、なんかいいアイデアねーか?」
ヒップポケットからセブンスターを取り出して咥えながら、忍足は言った。
「あ、俺スプレー持ってます。いつものアレ、どうすか?」
取り巻きの片割れが、追従するように言った。
「おお、いいな。持ってこいや」
忍足の言葉に、取り巻きの一人が駆け出す。その一瞬、僕の戒めがゆるくなる。必死にもがくが、僕を抑えるもう一人の男の腕を振り解けない。こんな事ならベースばっかり練習してないで少しは体を鍛えておくべきだった。むき出しの地面に押さえ込まれたまま、ばたつかせた左手にちくりと刺さった物があった。忍足に気づかれないように素早く拾う。掌の感触でそれの正体が分かる。錆びた釘だった。もうちょっと武器になりそうな物を期待したのに。
ゆっくりとした足取りで忍足が近づいてくる。2メートル位の距離までくると、忍足はうつぶせに押さえ込まれた僕の鼻ヅラに、大振りなサッカーボールキックを見舞ってきた。
僕の視界に砕かれた星が飛び散る。一撃で砕かれた鼻から、鮮血が飛び散った。意識が朦朧とする。脳を揺らされたからだ。気を抜くとこのまま落ちてしまいそうになる。いや、実際10秒ほど意識が飛んでいたのかもしれない。気がついたら、目の前に屈み込んだ忍足がカラースプレーにジッポの炎を近づけていた。スプレーを噴出させると、炎が引火し、小さな火炎放射器の様になる。忍足は炎を満足げに見やるとなれた仕草でジッポをしまい込む。
僕は戦慄した。
まさか、その炎で僕を焼こうってのか?
こいつ、完璧に壊れてやがる。
「やっぱ、背中っすかね?」
僕を抑えている取り巻きが、僕のシャツを捲り上げようとした。
「ヌルい事言ってんじゃねぇ。俺をここまで怒らせたんだ、ツラに決まってんだろ」
忍足は舌なめずりしながら炎を僕の顔に近づける。僕は熱風に思わず眼を閉じてしまいそうになるのを、必死で堪える。
「マジすか。忍足さんこえー、チョーこえー」
こんな暴虐を幾度も繰り返してきたのだろう、言葉とは裏腹に、取り巻き達の態度は最早ゲーム感覚だった。
僕は恐怖のあまり口から飛び出しそうになる絶叫を抑える。地面に額をこすりつけて謝りたくなる気持ちを堪える。アヤの体を好きに嬲っていいから僕の事は見逃してくださいと口走りそうになる自分の弱さを殺す。
まだ、終わりじゃない。
チャンスはある。
さらにスプレーの炎は僕に近づく。最早僕の顔を苛む熱気は耐え難い。スプレー缶を手に僕の目の前に屈み込んでいる忍足の股間部分が、興奮の為かはちきれそうに勃起しているのに気づいた。どうやら本物のサディストのようだ。僕は覚悟を決めた。
「やめて!」アヤの絶叫が僕の耳に届いた。「幸也は関係ないでしょう!? ホラ、アタシになら何をしてもいいから! もうやめてよぉ……、お願い……」
激しく身をよじるアヤ。彼女を天井から吊るしているワイヤーも、それに伴いギシギシと耳障りな音を立てる。古くなっているとはいえ、工業機械を吊り上げる為の設備だ。人ひとり暴れたくらいでどうこうなる代物じゃない。アヤだってその事は解っているはず。彼女の行動は、忍足達の注意を自分に向けさせようというもの以外の、何物でもない。
僕を逃がす為に。
ここで行われているのは10年前の再現だ。
違うのは、僕はもう逃げないという事。
その時、目前の炎を透かして、忍足を睨み続けていた僕に、ようやく天佑が訪れた。
それは、本当に僅かな隙だった。
気を抜いていれば、絶対に気づかない、意識の狭間。
アヤの声に反応し、僕の腕を抑えていた力が、一瞬だけ緩んだのだ。
僕は全身の力を左手に込め、戒めを振りほどいた。拳の中には先ほど拾った釘が握りこまれている。
狙いは忍足の手に握られたスプレー缶!
アヤの方を向いていた忍足が僕に向き直るのと、僕の左手に握りこまれていた釘がスプレー缶に突き刺さるのと、同時だった。
次の瞬間は、スローモーションのようだった。
スプレーに突き刺さった釘の隙間から、内部のガスが噴出し、引火、爆発。轟音が狭い廃工場の中に響き渡る。スプレー缶は炸裂し、刺さっていた釘は弾丸となり僕を抑えていた男の眼球に突き刺さった。スプレーを握っていた忍足の右手は爆発とともに消失し、噴出した炎は傍らにいたもう一人の取り巻きの男の顔面を包んだ。
そして、僕の左手。
爆発の際に飛び散った缶の破片が、僕の左手の中指と薬指を第二接から切断した。断面から、夥しい出血。痛みではなく、焼け付く感覚が患部を襲う。
忍足達3人が聞き苦しい呻き声をあげてのた打ち回っているのを尻目に、僕は左手を押さえつつ立ち上がる。僕はまだ、何も目的を果たしていなかった。
失血の為かふらつく体を引きずって、ワイヤーに吊られたアヤの元まで歩く。彼女は顔をくちゃくちゃにして泣いていた。美人が台無しだ。
「アヤ、お待たせ」
僕は全神経を顔に集中させて笑顔を作り上げると、アヤの腕を縛っているロープを解きにかかる。
「幸也、手、手が……」
「…あ、指がないからうまく解けないかも。ちょっと待って」僕は地面に落ちているガラス片をとり、ロープを切断する。「はい、切れた。アヤ、大丈夫? 変な事されてないか?」
「うぅ……幸也……ごめんね、私のせいで、指が……」
嗚咽にかき消されて、アヤの声は殆ど言葉にならない。
「アヤのせいじゃないよ。これは10年前からサボってた宿題みたいなものさ。ようやく終わらせる事ができた。それより、僕の方が謝らなくちゃ。ごめん、もう、僕はベースを弾けなくなったみたいだ……」
そこまでで限界だった。もともと頑強でもない僕の体は失血とショックで朦朧とし、ガクリと膝から崩れ落ちる。倒れそうになるのを、アヤがその柔らかな体で受け止めてくれた。薄れていく意識。最後に耳に入ってきたのは、アヤが携帯電話で119番に通報し、涙交じりで現場の説明をしている声。
そして。
いつのまにか姿を消した陶崎凌の事が、脳裏をかすめて。
僕は気を失った。
エピローグ
終わってしまった物語の後日談なんて蛇足以外のなにものでもないが、フォローも無しに放置するわけにもいかないので、気が進まないまでも、少しだけ。
あの後駆けつけてきた救急隊員の手により、僕らは近場の病院に緊急搬送された。幸いな事に切断された僕の中指と薬指は救急隊員が見つけ出してくれたので、外科手術によって縫合する事ができた。プロの仕事っていうのは本当に見事ですね。諸悪の根源たる忍足浩輔とその子分2名もどこだかの病院に運ばれたらしいが、彼らの怪我についてはあんまり興味がない。その痛ましい負傷により彼らの人生にどれだけ致命的な障碍が生じるとしても、自業自得としか思えないから。実際彼らは、僕やアヤから事件の背景を聞いた警察の綿密な事情聴取により、婦女暴行や窃盗、監禁罪、傷害等の余罪を認め、起訴を待つ身の上だった。もう二度と僕やアヤの前に現れないで欲しい。
病院から連絡を受けて駆けつけて来た両親には、こっぴどく怒られた。僕やアヤは被害者で、怒られるような事をしでかしたわけじゃないのだが、そういう問題ではないのだろう。人目もはばからずに泣き喚く母さんの姿に幾分辟易しながらも、過去の事件に囚われて自暴自棄になっていた事を反省した。両親にすれば10年前に雪江姉さんを失っているのだから、僕の身を余計に心配するのは当然の事で、僕はそこのところにようやく気づいた。姉さんの死は、僕の元にだけ訪れた不幸ではないのだ。ひとりで悲劇の主人公ぶっていた僕はさぞかし滑稽だっただろう。それに気づけてなによりだ。
僕が入院している間、アヤと高遠は何度も見舞いに来てくれた。最初に訪れた時、アヤは僕の怪我に責任を感じてか、彼女らしくない神妙な態度だったが、見舞いも回数を重ねるうちにいつもの彼女に戻ってくれた。アヤには変な負い目を持って欲しくないし、その必要も無い。僕は自分にとって大切なものを守っただけだから。僕はいつだって自分の事ばかりのエゴイストだ。
そして、陶崎凌について。
彼は一度だけ、僕の病室を訪れた。最初の出会いである地下道の楽屋、二度目はあの緊急事態。いつだって唐突に現れる男だ。
その時、僕は病室のベッドに横になっていた。指を縫合してから一週間くらいしか経っていない頃で、毎食後の痛み止めがきれかかると脂汗を流すほどの激痛に苛まされるのだが、彼が来たのはちょうどそういうタイミングだった。彼は無言で病室に入ってくると、痛みに耐えかねてウンウン唸っている僕を尻目に、いつもの歪んだ笑みを浮かべたまま断りも無くベッドの端に腰掛けた。
「よう、シド・ユキヤ。調子はどうだ?」
「陶崎……」
「うっわ、凄げぇ脂汗。くくっ、痛そー。指って神経が密集してるから、体の中でも特に痛いらしいな。でもまぁほら、くっついて良かったじゃん?」
「……でも、多分もうベースは弾けない。おかしなもんだね、あんたのいってた通りになったよ。あんた、一体何者なんだ?」
「おかしな事なんてなにもない。当然の結果だ。俺は悪魔だから、捧げられた代償に相応しい結果を相手に与えるのさ」
陶崎は思わせぶりにそう言うと、僕のベッドの脇にある私物棚に立てかけてあるベースに目を向けた。最早弾く事ができなくなったとはいえ、長い間僕の心を支えてくれた相棒だ。両親に頼んで、お守り代わりに持ってきてもらったのだ。そんな僕の守護神を、悪魔は無作法に掴み、勝手にチューニングを始める。
「お、おい、何勝手にいじってんだよ」
「いいから。今凄ぇの聞かしてやっからよ」
「ここ病室だぞ、いくらアンプつないでないからって音が……」
幸いな事に大部屋に移るのは明日からで、今僕がいるのは一人部屋の病室であったが、それにしたって楽器の音は病院内じゃ目立ちすぎる。
指の痛みも忘れて慌てる僕を無視して、陶崎はチューニングを終え、挑発的な視線で僕の顔をなめた後、僕が失った物を見せ付けるように聞き覚えのある旋律をワンフレーズだけ弾いた。
「……これって……」
陶崎は得意げな顔で指を奔らせる。弦の上で踊る指の動き。中指に独特の癖。そして何より、このベースラインは……
「……僕が弾くベースの音じゃないか……」
呆然とした声をもらした僕に勝ち誇った笑みを向け、陶崎は指を止めてベースギターを肩から下ろした。
「言ったろ、お前のベースを貰うって」
僕はしばらく何も言葉にできず、馬鹿みたいに口を半開きにして陶崎を見つめていた。どういう事だ? これじゃ、本当に、目の前の男が、生贄を糧に願いを叶える悪魔みたいじゃないか。
「ユキヤ、お前も音楽やってるなら、クロスロード伝説くらい知ってるだろ?」
ベースを元の場所に立てかけながら、陶崎は言った。
僕は混乱する思考をなんとか立て直そうとしつつ、黙って頷く。
クロスロード伝説。
ブルース史上に名を刻む偉人、ロバート・ジョンソンにまつわる逸話である。
夜中の12時少し前に十字路で一人ギターを弾くと、やがて『レグバ』という大柄の黒マントの悪魔がやってきてギターを取り上げる。そうして彼がチューニングして一曲弾いてから返してくれる。そのギターを受け取った者は、超絶的な演奏技術と名声を得、その代償として悪魔に魂を奪われるという。
無論、そんなのはお話で、ロバート・ジョンソンが非常に短期間のうちに超人的なギターテクを身につけた事と27歳で毒殺されるという悲劇的な最後から、人々がイメージしたエピソードだ。
陶崎は言う。
「別に、宗教や哲学の話がしたいんじゃないんだ。自分の身の丈以上の物を求めるには、それなりの代償が必要だってだけさ。あらゆる犠牲と引き換えに何かを得るという意志の具現。それが悪魔だ。ロバート・ジョンソンはレグバと契約し、ファウスト博士はメフィストフェレスに誑かされ、猟師カスパールはザミエルに魂を売っていた。志道幸也もしかり、さ。俺は魂なんていらない。俺が欲しいのは人間が持つ、価値だ。美しい髪、透き通る美声。演奏技術や文学的感性。才能や鍛え抜かれた肉体。俺は対象からそれらを奪い取る。理由はふたつ。ひとつは、その価値を俺自身が楽しむ為。もっともすぐに飽きちまうし、鍛錬も無く放って置けばどんな力も風化しちまうけどな。もうひとつの理由ってのが……分かるか、ユキヤ?」横たわっている僕の頭の両側に手を置き、覆いかぶさるようにして、悪魔は今までで一番酷薄な笑顔をその端正な美貌に刻んだ。「俺に価値を奪われて何もなくなった人間が、無様に朽ちていくのが堪らなく面白いんだよ。お前みたいにベースを弾くくらいしか能の無かった小僧が、それすらも奪われる。なんの価値も無い、絞りかすみたいになった人間の足掻く様がもぅ、ヤバイくらい笑えるんだ。くくっ、お前は女の前でちょっとばかし格好つけるだめだけに、自分の唯一の価値を売り渡しちまった度し難い馬鹿なんだよ、ユキヤ」
僕は何も答えない。
いきなり自分のベースを弾かれた時はびっくりしたけど、陶崎の長話で落ち着いた。
陶崎の言っている事が本当かどうかなんて、あまり気にならなかった。悪魔とか、クロスロード伝説とか、はっきりいってどうでも良かった。ベースを弾けなくなったのは本気で悲しかったけど。
勝ち誇り、嘲弄する悪魔を前に、僕は逆に心が澄んでいくのを感じる。
確かに、ベースは僕にとってかけがえの無い物だった。生涯の相棒になるかもしれないとさえ思った。自分の体の一部であるとさえ、言い切れた。だが、それでも僕はあの時、アヤを助けるためになら失っても構わないと即答した事を、なんら悔いてはいないのだ。それは、アヤの事が好きだからとか、僕にとってアヤ>ベースとか単純な事じゃあなくて、自分が大切に思うものに対し、傷つく事を恐れず手を伸ばせた事が、嬉しいのだ。もっともっと腕が伸びればいい。10年前のあの日に届くくらいに。ベースを失って得た3本目の腕は、僕の中のいかなる弱さとも無縁だから。
「何笑ってんだよ、ユキヤ」
「別に」
僕が一向に嘆きもしなければ怯えもしないので、陶崎は不満そうだった。
「しかし、お前も悲惨だなユキヤ。ロバートは魂を売った代わりに超絶テクでギターを弾けるようになったが、お前にはもう何も無いもんな。そこに立てかけてあるベースが、以前のような音を奏でることはもうないんだ」
しつこいな、この男。僕が平然としているのがよっぽど気に入らないらしい。奇跡の代償に僕はベースを失ったのだとすれば、悪魔と僕の関係はフェアだ。わざわざ気を使って陶崎の歪んだ嗜虐心を満足させてやる筋合いはない。
「そんな事はないよ陶崎。今だってそのベースは僕の為に勇壮なマーチのリズムを刻んでくれている」
一瞬だけ、陶崎は呆けた顔を見せたが、すぐにもとの意地悪そうな表情に戻った。
「ショックで頭でもおかしくなったか? 俺には全然聞こえないぞ」
僕は澄まして言ってやった。
「馬鹿には聞こえない曲なのさ」
一瞬、僕を見下ろす陶崎の目に具体的な殺気が篭ったが、彼はしばらく僕を睨んでいただけでこれといって暴力的な行動にでたりしなかった。陶崎はしばらくベッドの脇に無言で立っていた。口元は不満そうにヘの字に曲がっていた。小さい子供みたいな表情だ。そして負け惜しみみたいに軽く肩をすくめ、やがて美しいブロンドの長髪を翻して病室を出て行った。
病室に一人になると、また指の激痛が蘇ってきた。ナースコールして痛みを訴えれば鎮痛剤を貰えるのだが、麻酔や鎮痛剤の多用は患部の神経の回復に障るらしいので、できるだけ耐える事にしている。なにより、僕にはこの痛みに耐える義務がある気がした。最高の相棒を失った痛み。無二の親友を犠牲にした事の痛みだからだ。
だから、僕は奥歯を力いっぱい噛み締め、毛布に潜り込む。陶崎にはあんなふうに強がったけど、ベースを失った悲しみは、これからしんしんと僕の心を侵すだろう。堪えきれず無様に涙を流すかもしれない。そんなところ、アヤには絶対に見せられない。勿論、あの悪魔にだって。
僕は強くならなければならない。とりあえず、ひとりで歩けるくらいに。できるなら、隣を歩く人が転びそうなとき、手を差し伸べられるくらいにまで。
それにしても痛い。気を紛らわそうと何度か寝返りを打ったが、あまり効果が無かった。ふと、立てかけてあったベースギターに目が留まる。そのまましばらく見つめていると、少しだけ痛みが和らいできた。気のせいだっていうのは分かってる。心のなかで、ベースにお礼を言ってみる。答えは無い。口に出して、「お疲れさん」と言ってみた。でもベースはもう僕に何も語らない。目頭に鬱陶しい熱さを感じ始めたので、ベースから目を離し枕に顔を押し付けた。
2005/08/24(Wed)18:33:10 公開 /
TURB
http://www.geocities.jp/runbaba12jp/
■この作品の著作権は
TURBさん
にあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
始めまして。連作短編の第一話です。全部書いてからどっかに投稿しようと思ってましたが、途中で誰かに感想を聞いて推敲した方がいいと思ってこちらにお送りさせて頂きました。
連作のテーマは、ずばり「悪魔」です。もちろん、作品内における概念としての物ですが。
純文学作品において主人公が、社会・思想・政治・宗教等に対し疑問を抱き、純粋ではあっても無謀な戦いを挑んだ際、多くの場合敵わず主人公は物理的な何かもしくは己の内的世界の大半を喪失する事で決着します。その代償として、主人公には何らかの代替が与えられ、それをもって文学上の決着となります。もう、うんざりするくらい繰り返されてきた手法ですね。いわゆる文学的代替行為。となれば、小説家とは悪魔そのものじゃないでしょうか。僕は大江健三郎かサリンジャーとだったら契約してみたいです。
閑話休題。
まぁ、鬱陶しいお話ですけど、どうか最後までお付き合い頂けたら幸いです。
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。