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『エレベーターズ・ラブ <読み切り>』 ... ジャンル:恋愛小説 恋愛小説
作者:rathi
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美夏は、肩が上下するほど大きなため息をはいた。
「お疲れですね」
バックミラー越しにタクシーの運転手が話しかけてきた。
「ちょっと……ね」
そう言って、美夏は人指し指と親指でその疲れの尺度を作って見せる。
「まだ若いのに社長だなんて、大した出世ですね。今流行のベンチャー企業ってヤツですかい?」
「社長……?」
バックミラーに映る運転手の視線から、美夏には勘違いの原因が分かった。確かに美夏が今着ているスーツは、そこらのOLが着るような安っぽい生地のものではなく、傍目から見てもハッキリと分かるほど良い光沢と、洗練されたデザインで構成されている為、確かに値段もそれ相応に高い。しかし、だからといって女社長と位置づけるのはあまりに短絡的ではないのかしら。それに、社長だったらこんな安タクシーなど使わず、専用の運転手を付けた自家用車で帰るのがお決まりでしょうに。そう思いながらも、心の底では社長と間違えられるのは悪い気分ではなかった。
「そんなに地位は高くないけれど、まぁそんな所です」
美夏は曖昧な言い方をし、答えを濁す。
それから美夏は、暗闇の窓を見つめる。高速道路があり、多くのテールランプがまるで蛍のように光り続ける。呆然とそれを見続けていると、美夏はいつの間にか眠りに落ちていた。
一台の黄色いタクシーが、高級マンションの前で止まる。『高級マンション』と称されるように、その外装は純白そのもので、己を誇示するかのように階層は高く、一般市民を寄せ付けがたい雰囲気を放っていた。蒸し暑い日だというのに、その一角だけ涼しく感じられるのも、そういった雰囲気からきているのかも知れない。
その高級マンション、『三井スカーレットマンション』の住民の一人である閑崎 美夏(かんざき みか)は、タクシー運転手に料金を払い、マンションの入り口に向かって歩き出す。
途中立ち止まり、自分が住んでいる階まで視線を上げる。美夏が住んでいるのは、最上階である20階。この位置から見上げると、ほとんど真上を見るに等しい。
少し見つめた後、美夏は深いため息をはいた。
美夏の部屋には明かりが灯っていない。それもそうだろう、美夏は独り暮らしなのだから。
閑崎 美夏は、今年で26歳(と周りには言ってあるが、実際には29歳)になる。19歳で保険会社入社し、以来7年間(実際は10年間)仕事一筋の生活を送ってきた。その甲斐あって、23歳(実際は26歳)の時に支社の一つを任されることになった。しかしその所為で、決まった相手も居なければ付き合っている彼氏も居ないという、いわゆる『売れ残り』となってしまったのだ。
美夏は、別に『男』が欲しいという訳ではない。どちらかというと、『夫』が欲しいのだ。
家に帰ればそこに明かりがあって、出来合いモノではない温かい料理がある。そして、自分の愚痴を聞いてくれる存在が居る――。ただ、それだけで十分だった。
しかし、今の地位の所為なのか、容姿が悪いのか、結婚していると思われているのか、それとも普段の行いが悪いのか、艶事で近寄ってくる男は皆無だった。――いや、多分普段の行い所為が一番大きいと思う。
美夏は社員の教育にも力を入れており、日常茶飯事のように罵倒にも似た説教と、まるで応援団の声出しの如く毎日朝礼で社訓を述べさせたりしている。その甲斐あって、美夏の元で育った社員は皆優秀で、いずれも第一陣で活躍している。しかも、美夏がそこの支社に就いてからはずっと右肩上がりだった。しかしその所為で、『鬼眼支社長』というあだ名を付けられることとなったのは、皮肉以外の何物でもなかった。
酔った席で社員から聞き出したところ、
『怒った時、まるで鬼のように眼がカッとつり上がるんですよ。あ、それと、怒鳴った時に前髪が揺れて、まるで角のように見えるんですよねー』
という理由から名付けられたらしい。
初めて聞いたときには、何で私がそんな胸くそ悪いあだ名を付けられなければならないんだ、と怒り心頭に発したが、よくよく考えてみれば、まさに自分は『鬼』そのものだという事に気が付いたのだ。
さながら美夏は、地獄で拷問を続ける鬼なのだ。その拷問に耐え抜いた者だけが天国に行くことが出来、脱落した者は――最も、罪を犯して拷問を受けているワケではないから、嫌なら拒否出来るのだが――天国には行くことが出来ず、地獄を彷徨うか、また新たな拷問を待つしかなくなる。
美夏はその人の為になるようにと、ワザと辛い事を味わわせ、天国へ導こうとしているのだが、地獄の釜ゆでならぬ現代のぬるま湯に浸かっていたい人には、さぞかしいい迷惑な事だろう。結局、そういった人たちは三ヶ月、早ければ一週間も経たずに辞めていってしまう。彼らにとっては、美夏はまさに『鬼門』だったに違いない。
「鬼……か」
美夏はバックからコンパクトレンズを取り出し、自分の顔を見る。なんて事はない、自分の顔だ。
社員が失敗した光景を思い浮かべ、いつものように怒ってみる。しかし、自分自身で見たとしてもそれは鬼などには見えず、グレた時のように眉を寄せた自分が映っているだけだった。肩が上下するほどの深いため息をはき、コンパクトレンズをしまう。
美夏が正面玄関から入ろうとすると、濃い青色の服を着た男の人が、被っている帽子の鍔を直しながら出て来た。
「あ、どうもお疲れ様です」
鍔を握ったまま、男は頭を下げる。美夏もつられるように頭を下げた。すれ違った後、美夏は何となくその男を眼で追っていく。男はすぐ近くに駐車してあった車に乗り込み、直ぐさまにエンジンを掛ける。フロントライトが点けられ、辛うじて乗車席にペイントしてある『ガス局』の字だけは見えた。何て事はない。男はガス局の人で、単なるガスメータのチェックに来ただけだった。
美夏は、別に事件性を期待しているワケではない。しかし、いつか何か面白い事が起きるのではないか、と心の底では願っており、いつもこうして見てしまう癖があった。
車が出発したのを見送った後、美夏は自動ドアをくぐり抜け、正面玄関に入る。いつも通りに自分の部屋に割り振られた郵便受けに鍵を差し込み、開ける。中に入っていたのはダイレクト・メールのみで、美夏は少し乱暴に閉め、鍵を掛けた。
エレベーターの横にあるテンキーの前に立つ。このエレベーターにはちょっとしたセキュリティがあり、テンキーで自分の設定した暗証番号8桁を入れると、自分が住んでいる階まで行けるという仕組みになっている。
美夏は少し屈んでテンキーを打ち始める。
<1、9、5、7、0、1、0、6>
「シャーロック先生、ご冥福をお祈りしてます…と」
暗証番号にもなっている1957年1月6日とは、かの有名なシャーロック・ホームズが亡くなった日だとされている。
美夏は小学校の頃、読書感想文の為に本を読むことになったのだが、そのとき読んだシャーロック・ホームズに感動し、図書室に通い詰めて全巻を読破したという、自分にとっては誇れる偉業を成し遂げた。そしてその時に書いた読書感想文は、市の金賞にも選ばれ、大勢の前で表彰状を渡された時の事は、今でも鮮明に思い出すことが出来る。しかし、同年代の人でシャーロック・ホームズを好きな人はおらず、たまに好きな作家として言ってみても、『時代遅れ』という非情に悔しい言葉が返ってきたりする。
それでも尚、自分がシャーロック・ホームズが好きなのは、自分が時代に取り残されて居るからかしら。まだ三十路だというのに、もう時代の流れには追いついてはいけないのかしら。時代の流れに追いつけないから、同年代とも微妙に会話がかみ合わず、結婚のチャンスも逃すのかしら。気が付いたら、結婚出来ないまま還暦を迎えるのかも知れない――。
美夏は、降りてくるエレベーターの重低音を聞きながら少しだけ感傷に浸る。
『一階です。ドアが開きます』
もう既に聞き飽きた、無機質な女の声が響き渡る。それからエレベーターが開き、美夏はその中に入った。
このエレベーターには階層ボタンは無く、あるのは『開』と『閉』だけだ。それと、非常用のインターホンボタンと、自分が降りる最上階の番号が点灯されるぐらいなモノで、他には何にも無い。銀色一色に染め上げられたこの箱は、何の温かみも無く、無機質で機械らしかった。扉が閉まると、尚更それを感じた。
美夏は気だるそうに『閉』のボタンを押す。
『扉が閉まります』
その音声通り、扉は徐々に閉まっていく。美夏は、その徐々に狭まっていく扉の隙間をじっと見つめる癖があるのだが、幸か不幸か、誰もが見逃すようなタイミング悪く来た乗客を見つけてしまい、結局扉を開けて乗せるというタイムロスをよくしていた。
そして、今日も――。
男が走っていた。真っ直ぐにこちらを目指している。茶髪で、藍染めされたYシャツを着ており、下は短パン、それと、裸足にサンダルというスタイルだった。
仕事一筋で生きてきた美夏から見ればそれは、将来設計もなく、ただその日その日を食いつないでいけば良いと思っている、中身の無い男にしか見えなかった。
美夏は、いつも通り『開』ボタンを押そうとして何故か躊躇った。自分でも何故躊躇っているのかは分からない。ただ何となく、あの男と一緒に乗りたくないと思ったのだ。
結局、美夏はボタンを押すのを止めた。そしてそのまま、扉は閉まる――その直前で、男は無理矢理手を差し入れた。男の手が挟まり、安全装置が働く。扉は、美夏の意思とは反して再び開けられた。
「あー、何とか間に合ったか…」
男は挟まれた手を大げさに振りながら、安堵のため息を漏らす。
たかがエレベーター程度でそんなに急ぐ必要があるのかしら。ふと疑問に思ったが、ここのエレベーターは高層ビルのように速くはなく、最上階ともなれば往復に2〜3分程かかる為、思いの外待たされる羽目になるのだ。それとも、よっぽど急ぎの用事があるのか。そのどちらかなのだろうと自答し、美夏は微かに頷いた。
男はテンキーを手早く押し、手を差し入れてから5秒も経たない内にエレベーターに乗り込み、『閉』のボタンを押した。
『扉が閉まります』
その音声通り、今度こそ扉は完全に閉まりきった。
――妙な空気と、静寂が流れる。聞こえるのは、モーター音だけ。
手持ち無沙汰になり、胸ポケットから携帯電話を取り出し、メールのチェックをする。受信件数は0件。溜まっているメールもなく、美夏は胸ポケットに戻した。することがなくなり、何となく点灯している階番号を見つめる。点灯している階番号は2つ。<20>と<18>。考えるまでもなく、男が住んでいるのは18階というのが分かった。最も、分かっただけで何の興味も湧かなかったが。
扉の上にある、現在の階数を表すランプを見る。赤いランプは<3>にあった。左へ移り、<4>を照らす。続いて<5>、<6>、<7>――。
そこで、全てが消えた。階数ランプも、階番号ランプも、そして、照明も――。
「え……?」
一瞬にして真っ暗になった。そして、エレベーターは身を振るわせた後、停止した。
「え、え? これってもしかして…?」
停電。その二文字が暗闇と共に襲い掛かってくる。
美夏は、軽いパニックに陥った。突然の事故によってというのもあるが、それ以上に、男と二人で密室に閉じ込められたという状態があまりにも危険過ぎるからだ。
暗闇は人を狂わせる。しかも、満足に手足すら伸ばせないこの箱の中で閉じ込められたとなれば、腹の空かせたライオンの檻に放り込まれたのと同じようなモノだ。嬲られ、いずれは――。
「あー、くそ。またやられた…」
そのライオンの声がして、美夏は思わず身構える。その時ようやく非常灯が付き、男の顔が浮かび上がるようにして見えてきた。
「すまんね。巻き込んでしまって」
拝むようにして、男は頭を下げた。言っている意味が分からず、美夏は首を傾げる。
「また? 巻き込んだ?」
美夏は男が言ったキーワードを口にして、そこでようやく気が付いた。
「…つまり、雨男ならぬ停電男って所かしら?」
正解という意味なのか、男は指を鳴らす。
「まっ、似たり寄ったりかな? 本当は、『怪奇! エレベーター停止男!』って感じだけどね」
雰囲気を和ませようとしているのか、男は少しおちゃらけた口調で言った。
「エレベーター限定?」
「そっ、これ限定」
「何度も停止しているの?」
「そっ、俺が乗るとイチローの打率よりも上になる」
つまりは、ほぼ三分の一の確立で止まっているという事になる。
「極論すると、貴方と一緒に乗ったのが運の尽きって事かしら?」
「そっ、それはちょっと言い過ぎかも知れないけど、まぁそういう事になるのかな? うん」
運が悪かった。その一言で割り切ろうとしていた美夏だったが、まさか男運にも悪かったとは思いにもよらず、体から力が抜け、よろめいて背が壁に当たる。
こっちの気などお構いなしで、男は当たり前のように緊急用のインターホンを押す。
「すみませーん。誰か居ますかー?」
『はい? どうしましたか?』
無線のようなざらついた声で応答があった。
「えっとですね、どうやら停電でエレベーターが止まっちゃったみたいで…」
『本当ですか? えー…あ、はい。つい先ほどそちらの方に整備士が向かったようなので、申し訳ありませんが今しばらく辛抱してもらえるでしょうか?』
「はい、分かりました。ではお待ちしていますね」
場数を踏んでいる所為なのか、男は到って冷静で、近所の人と日常会話を交わしているような口調だった。
「大丈夫大丈夫。早ければ一時間ぐらいで復旧すると思うからさ」
ケラケラと笑いながら、男も同じようにして壁に背をつける。
一時間…。遊びの時間にしたら短いが、拷問の時間にすればそれは恐ろしく長く感じる。暗闇の中、エレベーターーの中で男と二人っきり。しかも、一時間後にしか助けは来ない。テレビで見る事故の特命放送は、こんな感じなのかしら。天井を見上げながら、美夏はしみじみと思った。
男は懐から何かを取り出した。危ないモノではないと分かっていても、何となく身構えてしまう。
煙草とライターだった。煙草の箱をトントンと叩き、器用に一本だけ出す。それを口に銜え、ライターに火を点した。しかし、ちらりとこちらを見た後、男はライターの火を消し、銜えていた煙草を箱に戻した。
「吸わないの?」
本当は質問する気などなかったのだが、美夏はつい口に出してしまった。
「そっちは煙草は吸うの?」
「いいえ。健康にも良くないし、何よりも臭いがダメ」
美夏は手で小さな×印を作る。
「なら吸わない。副流煙は普通に吸うより5倍タチが悪いそうだし、臭いがダメなら余計に吸えないだろ」
「あっ、そっか」
そう、そんな単純な事なのだ。相手に不快感を与えたくないから、煙草を吸わない。たったそれだけのことだが、思いやりがなければ構わず吸うだろう。
美夏は、この男は私を襲わないかも知れない、と思った。いくらなんでもそれはないでしょう、と頭で思ってみても、心の底では襲うかも知れないという思いはあった。だから、そういった思いが和らいできたという方が正しいと言える。
男は煙草を懐に戻す。その後、口元が寂しいのか代わりとなるモノを探し始める。胸ポケット、前ポケットと調べていき、後ろポケットでようやく何かを見つけ、取り出す。
色のついた銀紙で包まれた、サッカーボール型のチョコだった。手には赤と青が乗っており、男は青をもう片方の手で取った後、美夏に差し出した。
「食べる?」
「結構よ」
そうか、と男は小さく呟き、青色の銀紙を取って口の中に放り込む。ガリボリ、というややくぐもった小気味良い音が聞こえてきた。
「美味いのになぁ…」
独り言のように呟いた後、赤色の方を後ろポケットに仕舞った。
立っているのも面倒になったのか、男はあぐらをかいて床に座る。それに習い、美夏も床に腰を据えた。
「そうだ。名前…自己紹介でもしようか」
座って五秒と経たない内に、男は意気揚揚と立ち上がった。
ただ同じエレベーターに閉じ込められただけだというのに、わざわざ自己紹介などする必要があるのかしら。美夏はそう疑問に思ったが、時計を確認すると閉じ込められてから約10分。男の言う事が正しければ残り50分はこの中で耐えなければならない。その辺を考慮すれば、気を紛らわすために例え無駄話だと分かっていても、この見知らぬ男との会話に興じた方が良いのかも知れない。
その辺を分かってこの男は話し掛けてくるのかしら。そう思ったが、単にお喋り好きなだけでしょうね、と思い直す。
「鵜野川 智博(うのがわ ともひろ)、宜しく」
自分の名前を言い終えると、鵜野川は再び座ってあぐらをかく。
「ウノガワ? 珍しい名字ね。漢字は?」
「えっと、あの魚を丸呑みする鵜と、野原の川って書く」
美夏は頭の中で繋げてみる。鵜野川。本当に珍しい名字だった。
「鵜と何か関係でもあるの? 例えば先祖代々鵜の名人だったとか、鵜が沢山住んでいる川の近くに住んでいるとか」
「おっ、よくぞ聞いてくれました。これはね、家に先祖代々伝わる話でね…」
それは、300年も前の話――。
昔々、野川という川があったそうじゃ。そこでは――。
「ちょっと待って、どうしてそこでお爺さん口調になるのよ?」
「あぁ、もう。せっかく雰囲気出てきたのに。お約束でしょ、お約束。昔話をするときは必ずお爺さん口調でなければダメなんだよ」
「ふぅーん…。まあいいわ、続きよろしく」
何のお約束かは美夏には今ひとつ理解出来なかったが、取り合えず聞いてみたいので先を促した。
「んじゃいくよ?」
わざとらしい咳払いを一つした後、鵜野川は話を続けた。
そこでは、五十年に一度、『鮎神様』と呼ばれるでっけぇでっけぇ鮎が現れるそうな。
「具体的には? 何mくらいなの?」
「あー、もう! 頼むから話の腰を折らないでくれ!」
鵜野川は、苛ついたように激しく頭を掻く。
「あ、ごめんなさい…」
しゅんとなった美夏を見て、鵜野川は満足そうに頷いた。
「分かれば良いのよ、分かれば。んじゃ続けるよ」
「だから、具体的には――」
「50! 50mぴったり!」
鮎神様は、その野川に自分の子供達を遊ばせておったそうじゃ。
ところが、近くの村に住む漁師の厳造(ごんぞう)――あ、これが家の先祖様ね――が網で子供達を捕まえてしもうた。
鮎神様は大変お怒りになり、厳造に『自分では魚を捕まえることが出来ない』という呪いをかけたそうじゃ。
漁師の厳造は、病気に伏せた母ちゃんと別れた女房が残していった子供を養う為に、どうしても魚を捕まえなければならなかったそうな。
それから厳造は、網以外での方法を試してみた。素手で捕まえてみたり、茶碗ですくってみたり、口で銜えてみようとしたり――。
けれど、どれも駄目じゃった。捕まえたと思った瞬間、力が抜け、魚に逃げられてしまったそうな。
「鮎神様、許してくんろ!」
野川に向かって叫んでみても、呪いは直らんかったそうじゃ。
ある日、腹を空かせた厳造が野川の岸辺を歩いていると、鳥が魚を捕まえ、丸呑みにしようとしていたそうな。
腹が空いた厳造は、
「オラは今から猟師になるだ!」
と言って、鳥の首根っこを捕まえたんじゃ。
すると鳥は、飲み込もうとしていた魚が喉を通らず、口から出してしまったそうな。
厳造は、恐る恐るその魚を捕まえてみると、なんと、ちゃんと捕まえることが出来たんじゃ。
それから厳造はその鳥を捕まえ、網ではなく、鳥を使って漁師を始めたそうな。
すると今まで捕まえられなかったのが嘘のように捕まえられるようになり、味をしめた厳造はもっと沢山の鳥を捕まえ、飲み込まないようにと首に紐を括り付け、鬱憤を晴らすかのように野川の鮎を捕りつづけたんじゃ。
やがて、それを見た他の漁師達も真似をし始め、野川には沢山の鳥――鵜が泳ぐようになったそうな――。
「嘘でしょ、それ」
聞き終えた瞬間、美夏はきっぱりと言い放った。
「え、いや、本当だって」
「作り話にしては面白かったわよ。でもね、鵜を使った漁を最初に行われたのは紀元前3000年前――つまりは古代エジプト時代だっていう説があるのはご存じ?」
呆けたように、あんぐりと口を開けたまま鵜野川は答えない。
「国内では、7世紀の初め――つまりは約1300年前程という事になるのかしら? そのぐらいに鵜を使った漁が初めて行われたらしいわ。あ、でも『古事記』にも書かれてあったらしいから、正確にはもっと古いのかしらね。以上の事を踏まえて貴方の話が嘘だと思うんだけど、どうかしら?」
聞くまでもなく、鵜野川の話は最初から嘘だと分かり切っている。歴史的事実を述べ、ぐうの音も出ない状態で鵜野川がどういう反応を示すのかが、美夏には興味があった。
父さんから聞いた話だから、と答えるのか。それとも、作り話だよ、と開き直るのか。
しかし、美夏の予想に反して鵜野川は、感嘆の息を漏らしながら何度も頷く。
「……すげぇ。いや、マジですげぇ。そんな風に切り返してきたのも初めてだし、何よりも知識がすげぇ」
鵜野川はお世辞などではなく、本当にそう思って言ってるようだった。少年のように、眼を輝かせて美夏を見つめる。
何となく気恥ずかしくなって、美夏は顔を背けた。
「ま、まぁね。友人に大学で民俗学を専攻している人が居て、その人から聞いたのよ。釣り好きが講じて、様々な漁に関する事を調べる内に知ったらしいわ」
「漁の民俗学なんて調べる人なんて居るもんなんだな」
またも感心したように、何度も頷く。
「意外に何でも調べるものよ。地方独自の食べ物や、神様、風習、とにかく何でも」
「ふんふん。で、そっちも民俗学とやらを専攻していたの?」
「私? 私は大学に行っていないわよ。それと、『そっち』って言い方で私を呼ぶのは――」
まだ自己紹介を気が付き、美夏はわざとらしい咳払いを一つする。
「そういえばまだ私の自己紹介をしていなかったわね。閑崎 美夏よ。『神』って書く方の神崎じゃなくて、『静閑』の方の閑崎ね」
「セイカン? 生きて帰る、って意味の『生還』?」
鵜野川が想像している漢字だと、還崎。少なくとも、美夏はそんな名字など見たことはなかった。
「閑静な住宅街、って方の『閑』の字よ。最初からこっちの方で言えば良かったわね」
鵜野川は天井を見上げる。恐らく、頭の中で漢字変換を行っているのだろう。ようやく意味が分かったのか、小さく頷く。
「あ、そっちの閑崎か。ちょっと珍しいね」
「鵜野川に比べたら些細なものよ」
そう言って、美夏は少し笑う。
鵜野川は難しい顔をして少し悩んだ後、美夏に質問をする。
「ずっと気になっていたんだけど、それ、随分と良いスーツだよね。どっかの支社長でもやってるの?」
驚愕した。今日乗ってきたタクシーの運転手のように、社長と勘違いされるか、もしくは水商売関係だと思われることがほとんどだというのに、この男は一発で言い当ててしまったのだ。
「……どうして私が支社長だと思ったの?」
美夏は、訝しげに質問し返す。
「え? 当たりなの?」
「そう、当たりよ。当たりなのはいいけど、どうして私が支社長だと思ったのか、その根拠を教えてもらえないかしら?」
ずいっ、と身を乗り出し、半ば脅迫的に訪ねる。
「オーケーオーケー、分かったからそんなに恐い顔しないでよ」
恐い顔と言われ、美夏は慌てて身を引っ込める。そして、深呼吸をして気を取り直す。見ず知らずの人に――いや、一応同じマンションの住人に、この『鬼の顔』を見せたくはなかった。
「そうだなー…。良いスーツを買うってことは、自分を立派に見せたいと思う人、つまりは上の役職に居る人達だと思うんだ。その辺を考えると、支社長というのが候補に挙がってくるワケ」
「部長っていう確率もあるわよ?」
「だーかーら、話の腰を折らない! 分かった!?」
少し強めに、鵜野川は美夏にピシャリと言った。
「……はい」
しゅんとなって、美夏は頷く。まさか、人を怒る立場にある自分が同じ理由で二度も怒られる羽目になるとは、美夏は夢にも思っていなかった。
「部長っていうのも勿論考えたよ。んー、でも、何となくだけど、社長! って感じがしたんだよね。でも、その若さで社長っていうのはあり得ないから、もしかしたら支社長かな? って思ったんだ。この辺は根拠というより、長年の勘だね」
「水商売をしているかも、とは思わなかったの?」
タイミング良く疑問を問いかけてみる。そのお陰か、特に咎められることはなかった。
「それはまず無いだろうな、って思ったよ。化粧は薄めだし、香水の匂いも微かにしかしないし。そして何よりも、そういったケバい雰囲気がなかったからね」
またしても美夏は驚愕した。外見からは想像できないような、鋭い洞察力を持っている。外見で人を判断してはいけないとはよく言うが、よもやここまで違いが出るとは思ってもみなかった。
「……貴方もすごいわね。まさか、こんな短い時間の間にそこまで見ているなんて。鵜野川さん、貴方の職業は何?」
ふふん、と鼻を鳴らし、自慢げに答える。
「名探偵さ」
――一瞬、この場に静寂が訪れた。
美夏は口を押さえ、吹き出しそうになるのを必死に耐える。
「あっ! 馬鹿にしているだろ!?」
「ば、馬鹿になんかしていないわ。ただ、吸うのは煙草ではなくパイプじゃないの? 常について回る助手はどこかしら? それとも、秘密の手帳でも常に持ち歩いているの?」
往年の探偵像を思い浮かべれば思い浮かべるほど笑いが込み上げ、美夏は吹き出さないように耐える。
「イメージ古いなぁ…。今時『名探偵』って単語で『シャーロック・ホームズ』や『少年探偵団』を思い浮かべる人なんて、もはや死語の世界だよ?」
シャーロック・ホームズを馬鹿にされているようで、美夏は少しカチンときた。
「じゃあ、今時の『名探偵』ってどんなお仕事をしているのよ?」
「そうだなー…。一概にはこうだ、って言えないけれど、俺は主に依頼された人物の素行調査ってヤツをやっているね。ちなみに一番多いのは不倫関係だったりするけれど、他にも、いつ、誰が、どこで、何をしたのか、いわゆる4W(when、who、where、what)ってヤツを調べたりもする」
なるほど、私の役職を当てられたのは職業柄というワケね。納得し、美夏は大きく頷く。しかし、替わりに新たな疑問が浮かぶ。
「でも、それなら普通の『探偵』じゃないの?」
少しキザっぽく、舌を鳴らしながら鵜野川は人差し指を左右に振る。
「成功確率80%オーバー。業界でも五指に入る成績を誇っているからこそ、『名探偵』と呼ばれているのさ」
優れている人を指すときには、『名』の字を付けることが多い。名人、名手、名画、名医。だからこそシャーロック・ホームズにも『名探偵』と付けられ、それと同じように鵜野川にもその称号を与えられたのだろう。
「そうは見えない?」
「勿論よ」
美夏はきっぱりと、間を置かずに答えた。
「随分とハッキリ言うね…。まっ、変に社交辞令使われても困るし、俺としては嫌いじゃないけれどね」
嫌いじゃない。その言葉を聞いて、美夏は少し救われたような気持ちになった。
昔からこのキッパリとしたものの言い方が、人から嫌われていた。小、中、高、そして今に至るまで、それが原因で激しい口喧嘩に発展したのは数え切れないほどあった。しかし、それを嫌いじゃないと言ってくれたのだ。今まで生きてきて、そう言ってくれたのはただ一人。目の前にいる、この鵜野川だけだった。
美夏は、涙腺が潤むのを感じた。
「……ねぇ、『名探偵』さん。一つ、相談に乗ってくれないかしら?」
「相談なら無料で実施中だよ」
おちゃらけた物言い。しかし、眼だけは真剣そのものだった。この人なら、私の悩みを解決してくれるかも知れない。この人なら、明確な答えを導いてくれるかも知れない。なぜなら、『名探偵』に解けない謎は存在しないのだから――。
「私、社内では『鬼眼支社長』と呼ばれているの。何故だか分かる?」
鵜野川は静かに首を横に振る。
「怒ったとき、まるで鬼の目のような形になるらしいの。しかも前髪が角のように見えるらしいから、尚更救えないわね。おまけに社員達を地獄の鬼のように扱き続けるんだから、そう呼ばれるのは至極当然なのかもね」
自嘲気味に、美夏は笑う。
「それは別に良いの、別に…ね。問題は、私の行った行為がその人の為に本当に役に立っているかどうか、って事なのよ。確かに、私の元で育った社員達は優秀で、良い業績も出しているわ。代わりに、それに耐えられない人達はあっという間に辞めていってしまうの。耐えきった人達は天国行きで、すぐに辞めていった人達は『社会不適格者』として世間から烙印を押されてしまうの。辛い環境に耐えられない役立たず社員、っていうレッテルをね」
天井を見上げ、深いため息をはく。
「世間は辛い。だから、私が愛のムチを打つ。けれどそれって結局、私のエゴを他人に押しつけているだけなのかしら…」
美夏は、うずくまるようにして顔を伏せる。それは、支社長として自分の役目を果たそうと決めてから、ずっと悩んでいた事だった。
支社長という地位を与えられた以上、その役目を果たさなければならない。しかし、美夏は悩んだ。支社長として自分は何をすべきなのかしら、と。
会社とは、人が集まって出来上がったもの。業績とは、集まった社員が出した結果。ならば、その集まった社員を育て上げれば、業績が上がるのは当然の事。
その為、美夏は自分の社員を鍛え始めたのだ。
しかしその結果、陰口は日常茶飯事で、憎まれ口は叩かれ、行く先々で煙たがられる、などの散々な思いをする羽目となった。それでも尚、頑なに自分の方針を変えないのは、自分の元で育った社員が輝かしい業績を上げる為だった。自分は正しいことをしている。それは、胸を張って言える事だ。しかし、その3倍も4倍も美夏の方針に耐えられずに辞めていった人が居るのも、また事実だった。
だからこそ、美夏は自分の方針に疑問を持つのだ。
大は小を兼ねるように、沢山の社員にアメを与え続けて働かせておいた方が良いのかも知れない。その方が、会社の為にはならないが社員の為にはなる。だがしかし、自分は支社長なのだから、リーダーとして会社の為に皆を引っ張っていかなければならない。会社の為に、業績を残さなければならない。
その二つの考えに、美夏は悩んでいた。
「明白な事実ほど、誤解を招きやすいものはないよ」
ハッとなり、美夏は顔を上げる。今の言葉は、シャーロック・ホームズの台詞だ。
鵜野川は懐から煙草を取り出し、叩いて器用に一本だけ取り出す。そして、それを口に銜えた。それはさながら、パイプの代わりのように――。
「愛のムチを受けて天国に行った人達は、Mだったのさ。そう、君からの仕打ちに快感を覚え、文字通り天国へイったんだろうよ」
――この場に、長い長い静寂が訪れた。
美夏は口を押さえ、吹き出しそうになるのを必死に耐える。――が、やがて耐えられなくなり、腹を抱え、大きな声をあげて笑い始める。
「な、何なのよその推理は…! ほ、本気なの…!」
引き付けを起こして、上手く喋られない。面白い。面白いが、本気でそう考えているのかしら。笑いすぎて痛くなった腹を押さえながら、美夏はちょっと心配になった。
「また馬鹿にしているだろ? でもな、これは本当にある話なんだよ。この世の中はな、二つの人種に分けられる。SとM。痛める側と痛められる側だ。ちょっと言い換えると、痛めることに快感を覚えている側と痛められることに快感を覚える側、という事になるな」
酷く俗っぽい言い方なのに、『名探偵』である鵜野川が言うと、自然と優雅に聞こえるから不思議なものだ。
シャーロック・ホームズが謎を解いている時に聞いている周りのギャラリーも、こんな風に聞こえるのかしら。鵜野川の顔にシャーロック・ホームズの格好を重ね見ながら、美夏はぼんやりとそう思った。
「君に付いていった人達は、君からの仕打ちに快感――まぁ、良い意味で言い換えるなら人に従えることの喜びを覚えたんだろうよ。去っていった人達は、S。つまりは従えたいんじゃなくて、言うなれば君を征服したかったんだろうね。まぁ、一概にそうだとは言えないけれど、社会ってのは結局そんなもんさ」
大いに納得し、美夏は何度も頷く。
「まぁ、一部例外もあるけれどね。君の社員の中で、一人ぐらいやけ失敗が多い人は居ないかい?」
「確かに居るわね。一人どころか、5〜6人も居るわよ」
鵜野川は、少し驚いたように眼を開く。
「なるほど。君は生粋の女王様気質ってワケか」
女王様。話題の流れから言えば、そういったプレイでの女王様を指しているのだろう。
「ちょ、ちょっと待ってよ。それってつまり…」
「最初に言っただろう? 『君からの仕打ちに快感を覚えた』って。悪い意味で言うならば、罵られることに生き甲斐を感じる、特殊な人達ってワケ。失敗が多いのは、君から怒られたいが為に、わざと失敗しているからさ」
鵜野川が言うとおり、美夏には心当たりがあった。
その中でも特に特殊なのが、美夏の右腕として従事している社員が居るのだが、自分に従っているのが不思議なぐらい優秀で、到底無理と言われていたプロジェクトを何回も成功をさせたという誇るべき業績がある。にも係わらず、誰にでも出来るような簡単な仕事で、うたた寝をしていたとしか思えないようなとんでもないミスを犯すというのも何回もあった。その度に罵詈雑言を吐きかけていたのは確かだが、普段の業務で疲れているから、その反動でこんなミスを犯しているのかと思っていたのだ。だがしかし、どうやらその真相は――。
「じゃあ何? 私に従えている社員は全員『M』だ、って言いたいの?」
「話を聞く限りじゃ、そういう結論になるかもね」
あっけらかんとした様子で、鵜野川は答えた。
「でもね、そういうのは結構ある話だよ? SとMだけじゃなくて、『百合』やら『薔薇』やら他にも沢山あるんだから。多くの調査をしてきた俺が言うんだから、間違いないさ」
間違いない。『名探偵』が言うのだから、それは確かなのだろう。だが、美夏の頭にあるイメージとしては最悪なものだった。黒光りしているどぎついボンデージを着込み、『愛のムチ』と名付けた革製の鞭を手に持ち、悪役のレスラーのように踵がやけに尖ったハイヒールを履く。そして、周りにはゴルフボールのような物が付いた口枷を嵌めた男達が、罵ってくれと懇願しているのだ。
軽い眩暈を感じ、美夏は頭を押さえて蹌踉めく。
「最悪ね…」
「勘違いしているようだから付け足しておくよ。人は必ず、誰かに従事するか、それとも誰かを従えるかの二つしかないんだ。対等はない。依存するか、依存させるかのどちらかさ。言っている意味、分かる?」
「さぁね。貴方がSとかMとかばっかり言うもんだから、何がなんだかさっぱりよ」
ため息をはきながら、美夏は顔を横に振る。
「5人も6人も、君は大の男を依存させている。つまり、5人も6人も依存させるような力量を持っているって事さ」
美夏は、自分の心臓が激しく揺れ動いたのを感じた。
「……つまり、良い女ってことかしら?」
「良い言葉で片づけるなら、そうなるかな」
少々引っかかる言い方ではあるが、美夏は褒め言葉として受け取ることにした。だが、まだ肝心の事を答えてもらっていない事に気が付く。
「それは嬉しいんだけれど、質問の答えになっていないと思うんだけれど…?」
「あれ? まだ分からない? 君のそんなスタイルに惚れ込んでいる人達が居るんだ。だったら、君はそのスタイルを通せば良いだけさ。――いや、通し続けるべきだろうな。それが、今まで君に従事してきた人の望みでもあるし、今まで付いてきてもらったお礼にもなるんだから。君は君のままで良い。ただ、それだけさ」
――全身が痺れるのを感じた。
最初に顔が痺れ、その後に脊髄を通り、四肢のつま先まで行き渡っていく。これだ。これが、これこそが、私の求めていた『本当の答え』だ。
胸に支えていた『何か』が、コトリ、と音を立てて落ちていく。不思議な気分だった。海から地上に出たときのように、妙に視界が晴れていくのを感じる。――いや、どうやらまた海に舞い戻ってしまったようだ。視界は、涙で溢れかえっていた。
「……ありがとう……」
その一言を言うだけで、今は精一杯だった。
「どういたしまして」
鵜野川は後ろのポケットを探り、先ほどしまった赤色の銀紙に包まれた、サッカーボール型のチョコを取り出す。
「記念にお一つどうだい?」
手の中で転がしながら、鵜野川は美夏に勧める。
「そうね。お一つ頂こうかしら」
涙を手の甲で拭い、美夏はそれを受け取る。銀紙を丁寧に剥がし、口の中に放り込んだ。確かに甘いが、その中に独特な苦みを感じた。これは、自分の涙の味かしら。それとも、自分の過去が溶けていく味なのかしら――。
「……美味しかったわ」
美夏の感想に、
「だから言っただろ? 美味いって」
鵜野川は笑う。それにつられ、美夏も笑った。
――目の前に、閃光が走った。
あまりの眩しさに、美夏は眼を強く閉じる。先ほどまで見ていた鵜野川の顔が、何故かまぶたの裏に残っていた。テレビの焼き付けと同じで、ずっと顔を見ていた為だろう。
徐々にまぶたを開けていくと、エレベーターの天井に設置されている電灯が煌々と照っているのが見えた。
「直ったの……?」
美夏の問いに答えるように、エレベーターは小さく身を震わせた。モーター音が聞こえ、現在の階数を知らせるランプが再び動き出す。
「どうやら直ったみたいだな」
鵜野川は立ち上がり、大きく背伸びをする。美夏も立ち上がり、大きく深呼吸をした。
「ねぇ、貴方は18階に住んでいるのよね?」
点灯している階番号を横目に見ながら、美夏は訪ねた。
「いや、依頼された人物の監視のために少しばかりの間、部屋を借りているだけさ」
「そう…なの」
この気持ちは、何なのかしら。胸が、酷く高鳴っていくのを感じる。身体が、火照っていくのを感じる。まさか、まさか私はこの男に恋をしてしまったのかしら。行きずりの恋なんて信じていなかった。恋とは、何度も出会う内に互いを意識し合っていくモノではないのかしら。でも、ハッキリと分かる。この気持ちに、間違いなんてない。
私は、この男――鵜野川を愛してしまったようだ。
エレベーターはどんどん昇っていく。<10>、<11>、<12>と、鵜野川と一緒に居られる時間がどんどんと減っていく。
「そっちの部屋に今日……行っても、良いかしら?」
その質問に、鵜野川は複雑な表情をしながら大きく息を吸い込み、そしてため息をはくようにはき出した。
「……ごめん。残念だけど、監視っていう仕事だから迂闊に人を入れられないんだ」
「そう…なの」
<14>、<15>――。
「じゃあ、今日私の部屋に……」
<16>――。
「それも、無理なんだ。……週末、土曜か日曜なら都合がつくと思う。それまで、待っててくれないか…?」
<17>――。
「……分かったわ」
――無機質な女の声が響く。
「じゃあ、今日はこれだけ……ね」
火の点いていない煙草を、摘むようにして鵜野川の唇から取り、そっと唇を重ねた。
「……相談料金は無料なんだけれどな」
「『名探偵』さんへのチップよ」
煙草を唇に戻し、
「……また会いましょう、シャーロックさん」
「ああ、またな。ワトソン君」
美夏は、静かに『閉』のボタンを押した。
扉は、美夏の意志通りに閉まっていく。徐々に狭まっていく扉の隙間から、鵜野川を見つめる。鵜野川は懐からライターを取り出し、銜えていた煙草に火を点していた。煙をはきながら、こっちに向かって、小さく手を振る。そして、扉は完全に閉まりきった。
美夏は、手に持っていた赤色の銀紙を握りしめる。
こんな気分になったのは、初めてだった。鵜野川の事を思えば思うほど、身体は火照り、そして疼いてしまう。これが、新しい私なのか。淑女として振る舞っていた昔の私は、もはや何処かへ行ってしまったようだった。なんだか、鵜野川に自分自身を根こそぎ奪われてしまったような――。
「……あ」
何て事だ。今気がついた。鵜野川は確かに『名探偵』だった。しかし、シャーロック・ホームズが言っていたように、『名探偵』とは『大怪盗』になりうる存在なのだ。『大怪盗』の手口は元より、その類い希ない洞察力、推理力、そして観察力。それらをもってすれば、私の心などいとも容易く盗めてしまうではないか――。
「……やられた」
シャーロック・ホームズを全巻読んだ私でも、このオチは予想出来なかった。
まさか、私を救うべく現れた『名探偵』は、私のハートを盗んでいく『恋泥棒』だったなんて――。
『20階です。扉が開きます』
※
眠い眼を擦りながら、多恵子は車を運転していた。振り払えない眠さの所為か、ハンドルさばきが危うい。
井ノ頭 多恵子(いのがしら たえこ)はこの所の毎日残業続きで、いい加減この会社を辞めてしまおうかと考えている。しかし、給料が良いのは確かで、辞めるには勿体ないと思っている。そんな気持ちを引きずりながらも、多恵子はなんだかんだといって三年もこの仕事を続けているのも、また事実だった。
でも、相手が見つかり次第絶対に辞めよう。仕事をする幸せじゃなくて、女としての幸せが欲しいの。多恵子は、そう決心していた。
2年前からほぼ毎週、週末にはそのお相手捜しのために合コンへ頻繁に行くのだが、多恵子の好みに合う男性は皆無に等しかった。相手を見つけるまでは辞めない。そう決心した所為か、今もこの会社に勤め続ける羽目になっていた。
好みの男性。それは、知的な人。会話の端々に哲学的な言葉を含めたり、おおよそ役に立たないような知識を美味い具合に話題にしてみたりする人が、多恵子にとって理想の男性像なのだ。
そんな男性を求めて合コンへ行っても、やれ一気呑みだ、やれカラオケだ、やれラブホだと、知的の『知』の字も出てこなかった。結局、彼らが求めているのは『欲情』だけ。本能に従い続ける、浅ましい獣でしかない。
『多恵子は理想像が高すぎるんだよ』
友人の言葉を思い出す。しかし、どうせ恋をするのなら、自分の好みにぴったり合う人と愛し合いたいと思っていた。『愛』はそんなに安いモノではない。分割して、割り振るなんて以ての外だ。心の底から愛するのは、生涯にたった一人だけで良い。多恵子は、そう考えていた。
「ふぁ……」
欠伸を噛みしめる。それにしても、眠い。眠い。眠い――。
――ブプー!
車の警告音が響き、多恵子はハッとなって眼を覚ます。
前には、停車中の車が見える。バックではない、フロントだ。まずい。どうやら私は、対向車線に入ってしまったようだ。
多恵子は慌ててブレーキを踏みしめる。何メートルかスリープした後、車は完全に停止した。
「あ、危なかった…!」
どうやら寝てしまったらしい。事故にならなくて、本当に良かった。
怒ったように車の警告音を鳴らしながら、接触しそうになった車がすれ違っていく。すれ違い様、『ガス局』という文字が見えた。
「私、疲れているなぁ……」
ため息をはきながら、思わず愚痴る。
ここはどこなんだろう。多恵子は、まるでアブダクションにでもあった後ように辺りを見渡す。
『三鷹ホームレセプション』の文字が見えた。偶然にも、ここは多恵子が住んでいるマンションの近くのようだった。
私には帰巣本能がキチンと備わっているのね。そんなことを思いながら、駐車場に車を入れる。
自分の部屋番号の郵便ポストに鍵を差し込み、開ける。中にはダイレクト・メールが一通だけ入っていた。何となく手に取り、見てみる。『今流行の結婚式はどうでしょうか? 当店では――』と、私にはおおよそ縁のない内容だった。ビリビリに破いて、近くのゴミ箱に押し込んだ。
エレベーターの横にあるテンキーの前に立つ。このエレベーターにはちょっとしたセキュリティがあり、テンキーで自分の設定した暗証番号8桁を入れると、自分が住んでいる階まで行けるという仕組みになっている。
多恵子は少し屈んでテンキーを打ち始める。
<2、1、9、0、1、8、9、1>
何て事はない、自分の誕生日を逆さ読みにしただけという陳腐な暗号だった。
『1階です。扉が開きます』
どうでも良いけど、どこのエレベーターも同じような声なのは気のせいかしら。もっとバリエーションがあったら良いのに。エレベーターに乗りながら、多恵子はそんなことを考えた。
自分の階数である、<14>を押してから銀色の壁に寄りかかり、深いため息をはく。疲れている。ほんの少しでも仮眠を取っておこうと思い、両目を閉じる。
『扉が閉まります』
閉まるなら、とっと閉まってちょうだい。もはや多恵子には、『閉』のボタンを押す気力もない。
――ダダダダ、ガン!
誰かが走ってきて、何かがこのエレベーターにぶつかるような音が聞こえた。気怠そうに片眼だけを開けると、扉に挟まっている『手』が見える。
「……え?」
一瞬、ホラー映画のような展開を想像してしまったが、安全装置が働き、開いていく扉の向こうに男が見えると、多恵子はホッと胸を撫で下ろした。
「あー、何とか間に合ったか…」
男は、大げさに挟まれた手を振っている。私も挟まれた事があるが、大して痛くはない筈。多分、照れ隠しにやっているのね。何となく自分と似通っている所があるなぁ、と多恵子は心の中で笑う。
きっちりと折り目の付いたスーツ。きっちりと折り目の付いたズボン。そして、眼鏡を掛けているのだが、少し洒落たデザインで、そのさり気なさに好感を持てた。
男はテンキーを手早く押し、手を差し入れてから5秒も経たない内にエレベーターに乗り込み、『閉』のボタンを押した。
『扉が閉まります』
その音声通り、今度こそ扉は完全に閉まりきった。
――妙な空気と、静寂が流れる。聞こえるのは、モーター音だけ。
多恵子は、壁により掛かったまま両目を閉じていた。しかし、時折薄目をして男の様子を見てみたりする。
片手にはビジネスバックを持ち、精神統一でもしているのかピクリとも動かない。今は背中だけしか見えないのが酷く残念だが、『出来る男』というオーラを漂わせていた。
声を掛けてみようかな。多恵子の頭に、そんな思いが過ぎる。
全てが、瞬時に消えた。階数ランプも、階番号ランプも、そして、照明も――。
「あれ……?」
一瞬にして真っ暗になった。そして、エレベーターは身を振るわせた後、停止した。
「停電……かな?」
少しの間、天井を見上げて呆然としていると、足下と天井にある非常灯が点灯した。ドラマや映画でもよく見る光景だ。きっと、停電なのだろう。多恵子は、そう確信した。
「しまったな…」
男は、ばつが悪そうに頭を掻きながら多恵子の方に振り向いた。
「悪いな。こんな事に巻き込んでしまって」
拝むようにして、男は頭を下げた。言っている意味が分からず、多恵子は首を傾げる。
「……どういうことですか?」
巻き込んだ。これは、何かの事件にということなのかな。マフィア? いや、どちらかというとこの人はスパイっぽい。ということは、外国スパイとの小競り合いに私は巻き込まれたということなのかな。まるで映画みたいだ、と多恵子は少し心躍るのを感じた。
「実は、私は昔からこういったことに運が悪くてね。エレベーターなどに乗ると、結構な確率で止まったりするんだ」
なんだ、とさも残念そうに肩を落とし、多恵子はため息をはく。
「本当に、すまない」
多恵子のため息を違う意味で受け取ったのか、男は深く頭を下げた。
「い、いえ別に気にしてませんから。本当に。だって、しょうがないじゃないですか。停電になるなんて、誰にも予想できないですし。だから、だから貴方の所為じゃありませよ、絶対に」
フォローしようとしたのだが、緊張の為か、多恵子は相手に有無を言わさぬ勢いでまくし立てた。
またやってしまった。内心、多恵子はため息をはいていた。多恵子は昔から、緊張すると早口になってしまう癖がある。授業の時でも、学芸会の時でも、弁論大会の時でも、今のように緊張した所為で早口になる。その所為で、まるでテープの早送りみたいでよく聞き取れなかった、と友達にしょっちゅう馬鹿にされていた。
「…そう言ってもらえると、私も助かるよ」
多恵子とは正反対に、男は落ち着いた声で言った。
「ありがとう」
そう言って、男は多恵子に微笑みかけた。その屈託のない笑顔に、寧ろ多恵子の方が照れてしまい、顔をそらす。
男は懐から煙草とライターを取り出す。煙草の箱をトントンと叩き、器用に一本だけ出した。それを口に銜え、ライターに火を点す。多恵子は、煙草を吸う人はあまり好きではなかったが、その洗礼された動作に思わず見惚れてしまった。しかし、ちらりとこちらを見た後、男はライターの火を消し、銜えていた煙草を箱に戻した。
「吸わないんですか?」
どうせだったら煙をはいている姿も見たかったというのに、どうして止めてしまったのだろう。そう思いながら、多恵子は質問した。
「そっちは煙草は吸うの?」
「私ですか? 私は吸いませんけれど…」
少し躊躇いがちに多恵子は言った。
「知っているかい? 煙草を吸う人が肺に入れる主流煙よりも、副流煙の方が5倍濃度が高いんだ。だから私は、喫煙者のマナーとして禁煙者の近くでは吸わないようにしているんだ」
はにかみながら、男は銜えていた煙草を箱に戻し、ライターも一緒に懐に仕舞った。
しまった。この人は、モロ私の好みかも知れない。知的で、紳士的で、ちょっとユニークな感じがストライクだ。
口元が寂しいのか、男は代わりとなるモノを探し始める。胸ポケット、前ポケットと調べていき、後ろポケットでようやく何かを見つけ、取り出す。
色のついた銀紙で包まれた、サッカーボール型のチョコだった。手には赤と青が乗っており、男は青をもう片方の手で取った後、美夏に差し出した。
「食べますか? チョコレートは、疲れを癒す効果があるんですよ?」
多恵子は、勧められるがままに赤色の方を受け取り、銀紙を剥がしてそれを食べた――。
※
とある高級マンションの前に、沢山の人集りが出来ていた。一般人ではない。警察や、報道関係者といった、事件性を臭わせる人達ばかりだ。
一人の若い女子アナウンサーがカメラの前に立つ。マイクを手に持ち、声の調子を整えてから喋りだした。
「閑静なビル群。その一角にある高級マンションは、現在慌ただしい様子を見せています」
アナウンスした通り、正面玄関が途端に騒がしくなる。まさか本当に慌ただしくなるとは思っていなかったのか、女子アナウンサーは慌てて現場に向かって走り出す。生中継カメラもそれについていき、お茶の間には揺れ動く映像が流れる。
「御覧いただけますでしょうか!? 現在分かっているだけでも結婚詐欺を20回以上も繰り返したという男が、今逮捕しました!!」
正面玄関から、男がゆっくりと歩いてくる。顔は隠しておらず、手錠の部分だけを青いジャンパーで覆い隠していた。男に動揺している様子はなく、寧ろリラックスしているようにも見える。
「男の職業は『探偵』で、そのノウハウを生かして女性達の経歴、性格、好みなどを調べ上げ、更には巧みな話術を使って詐欺行為に至ったようです。更に、男には共犯が居ました。その共犯者も現在指名手配の手続きをとっており、捕まるのは時間の問題かと思われます」
女性アナウンサーは紙のようなモノを手渡される。生中継カメラからは見えない『誰か』の指示で、女性アナウンサーはそれを読み上げ始めた。
「男は実に巧妙な手口を使って女性達を騙していたようです。狙った女性と一緒にエレベーターに乗り、共犯の男がタイミング良くエレベーターを停止します。そうして男は、誰にも邪魔されない、そして自然と二人きりになれる状況を作り出したのです。狙われた女性にしてみれば、『事故によって閉じこめられた』という状況であり、それに対する緊張や不安が生まれます。そこに付け込むというのが、男が行った一連の結婚詐欺の手口でした。更に男は、女性に興奮剤――『ガラナチョコ』と呼ばれるモノを、一般の服用量である5グラムを2倍の量を混ぜて食べさせていた事が分かりました」
女性アナウンサーが紙に書いてあることを全て読み上げると、生中継カメラは女性アナウンサーではなく、パトカーに入っていく男をズームアップして映し出す。
――男は、ほんの少しだけ笑っているように見えた。
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2005/08/09(Tue)02:41:18 公開 / rathi
■この作品の著作権はrathiさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
はい、約三ヶ月振りとなりましたrathiです。
私を知っている方々、お久しぶりです。
そうでない方々、初めまして。
恐らく、私の作品『シャボン玉』を忘れている人達も多いだろうなぁー、と思って今回読み切りにしました。
いや、それにしてもちょっと量が多い。
短いかな、と思っていたけど伏線とかいろいろやっていたら思いの外以上に長くなりました。はい。
ちょっとしたエロネタも入っていますけど、別にそういった描写ではないのでよい子も読めます。多分。
ようやく仕事が落ち着き、ネットも繋がったので、挨拶代わりにこれを出そうと思って一日で書き上げるつもりが、四日近く掛かりました…。きつい。
久々にここへ来られたので、ちょっとハイテンションです。これからも細々とこちらへ来たいと思っているので、どうぞ皆様よろしくです。
では久方ぶりに。
ではでは〜
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。