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『とかげのしっぽ 【読みきり】』 ... ジャンル:ファンタジー ファンタジー
作者:影舞踊
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――記せば残せる過去だけど
――『かたち』はそのまま保てない
――附いて廻って
――切れても生えて
――痛みも伴う
「とかげのしっぽ」
ここに一匹の蜥蜴がいる。
だがただの蜥蜴ではない。子供(もしくは小柄な女性)ぐらいの大きさで二足歩行をしているのだから、ただの蜥蜴であるはずがないのである。もしも人間界でこんな生物が発見されれば次の日の新聞の一面は言うまでもなく、世界中のマスコミから取り上げられるであろう。いや、もしかしたら驚きのあまり倒れる人も現れるかもしれない。
この蜥蜴、喋るのである。
剽軽な顔つきに滑稽な仕草で、くりくりとした目には愛嬌を、ちょろんと出た舌には緊張感のなさを感じさせるこの蜥蜴の名は変幻。呆け者に見えて意外に賢く、このおかしな世界――妖獄界というのだが――においては必要と思われない知識なども多々持っている。
『この世界で変幻ほど頭の切れるものはいない』
そんな風に言うのは蜥蜴自身であるが、あながち嘘でもない。
先に書いたようにここは人間界ではない。異世界と一くくりに表すならば容易でいいが、それでは少し漠然としすぎている。異世界であっても、そこにも一応の名前があるのである。
妖獄界華死乃(はなしの)、暗雲立ち込めるこの地をここの住人――マリス――たちはそう呼ぶ。
人々の想像する異世界には善と悪の二種類があるように思う。善の世界が天国とするならば、悪の世界は地獄といった具合である。それではここはどうなのかと言うと、この世界――妖獄界――は悪のほうに偏っており、メルヘンぼったくりのこの世界ではお花畑や、女神様の出てくる透き通った泉などありはしない。
唯一あるのは消えない腐臭と、消えてはまた点く争いの火種で、目で見て肌で感じて綺麗と呼べるものは何もない世界である。幽冥とはまた違う絶え間ない薄暗さは常に一定で、けして晴れることのない薄雲の上には恵みを与える太陽の光などないことを物語る。
地位や名誉、権力は全てここでは意味のないもので、意味をなすのはそれを裏付ける絶大なる力――それだけである。
もしこの世界で上に行きたいのであれば、物理的に他を傷付ける力だけが必要とされる。
『気に食わないやつは殺せばいい』
そんな常識がまかり通っているからこそ、ここはここでいられるのであり、狂気が混沌に蹲る中で、ここで生きるものは皆それを本脳で悟っているのである。
最下層、中灰(ちゅうかい)層、常等(じょうとう)層。
これらがこの世界での、華死乃での身分の差である。身分の差はそのまま実力となって、それこそがそのものの運命を決める。力こそが全てではあるが、生まれながらに力のあるものないものが決まってしまうのは、人間界と同じかもしれない。
不平等だと口にすれば殺され、それに憤怒すれば殺され、やはり身分――血統――の差はそのまま力の差となるのである。
そんな状況下で全てのものが上にいきたいと望むはずもなく、生まれながらにこの世界に絶望し生を諦めるものも数多くいるのが現実で、またこの蜥蜴もそうであった。
蜥蜴が今立っているのは赤い絨毯が敷かれた大広間で、見上げればかなりの上空に天窓がある。壁面に窓のないこの城で唯一空を見ることの出来る空間である。もちろん空など見るものはいないが……。
近くには巨大な翼を持ち、くすんだ金色の鱗を纏った竜が眠ったように鎮座しており、その隣では竜よりは随分小さいがそれでも蜥蜴の三倍はあろうかという巨体の熊が、何か調べものでもしているように本を読んでいる。
ここは華死乃の支配をしている暗黒の城、玉座の間。空の玉座は王不在を表しているが、誰もその事に慌てた様子はなく、むしろそのおかげでゆったり出来ている風さえある。もちろん王不在でゆったりとしているから、(この世界では)ただの蜥蜴が王の間に侵入できたというわけではない。この蜥蜴――変幻もまたこの城に使える配下の一人なのである。
変幻は何を思ったでもなくトコトコと熊に近寄ると、そろっとその本の中身を覗き込む。熊男の名は静爆。生真面目な規律主義者である。変幻とはさり気に付き合いが長い。
静爆が読んでいたのは――いや書いていたのは日記であった。生真面目なことに、日付など適当にしか分からないこの世界で律儀に毎日記しているのか、書くことに悩む様子もなく筆を滑らせている。脇に置かれている同じ柄の本はおそらく過去のものであろう。随分前から書かれているのは、その量と分厚さを見ればすぐにわかった。静爆は熱心に筆を進めており、変幻の姿に気づかない。
変幻はちらりと竜の姿を一瞥し、気づかれていないことを確認する。もっとも、気づかれていたとしても彼女が興味を示すことでもないので、あまり意味はない。変幻はそろりと本を手に取った。
ぱらぱらと本をめくると、びっしりと書かれた文字が飛び込んでくる。それらはどれも癖があるが丁寧で読みやすい――静爆の真面目な性格を良く表している文字である。日付は一日として欠けておらず、分量がバラバラではあるがとても退屈しそうなものではない。変幻はくすりと微笑むと、そっとそれを懐にしまった。
「――ん? 何だ貴様? ようか?」
「ん〜ん、なんでもないっぽいよ。静爆さん何やってるっぽい?」
突然の来訪者に部屋の中が乱れているのを見られたように、「うっ」と言って静爆は言葉に詰まる。日記を書いていると言うのが恥かしいのだろう――しかもこんなに大量に。変幻はあえて意地悪く瞳を輝かせながら尋ねる。
「これは、あれだ。ちょっと調べ物をしてな。そのメモ書きだ――戦略論や術なんかのな」
あながち間違いではないかもしれない。そのような類のことも少なからず記されている日記である。
「ふ〜ん、そうっぽい。うん、頑張れっぽい」
変幻はもぞもぞと服を整えながら言った。その様子に静爆は少し驚いて、
「は?――あ……おう。もちろん頑張っている。貴様もやることはないのか?」
いつも通りしつこく聞いてくるかと思っていた分、拍子抜けして静爆は答える。変幻は基本しつこいのである。特に静爆に対してはいつも執着心のようなものを見せていたから、これは意外だった。
「今ちょっとできたっぽい。非常に非常にできたっぽいから、もう静爆さん話しかけんなっぽい〜」
「なっ、貴様っ!」
トコトコと走り出す変幻は振り返らずに静爆から離れていく。自室での読書の時間に胸躍らせながら。
「静爆の日記より抜粋」
快歴一六六七三年 壊ノ月 十三
女に出会った。呆れるほど汚らしい女。
体を洗って一通りすませてからわかったことだが、それまではエメラルドの長髪も、何の抵抗もないすべすべの肌も、塵が積もってしまいそうな長い睫毛も、全て肥溜めの滓と死肉で多い尽くされていた。
中灰層出身の女は当たり前だが名はない。俺もまだないのだから当然である。
だがふと思えば女が俺を呼ぶのは主人でいいが、俺は女をなんと呼べばいいか。いちいち女、女と呼んでいたのでは厄介なことも出来てくる。俺は考えた結果名をつけてやることにした。
普通主人に名がないのだからそこは遠慮するものだろう。だがやはり中灰層のやつらは俺達を憎んでいるのか。さも当然という態度で何の興味も示さなかった。俺は忌々しかったが『変』という名をつけてやった。
もちろんそのままだ。見つけた時に変だったから、名前などそれで十分だろう。
何度か殺してやろうかとも思ったができなかった。
女の尋常でない気に押されたというのではない。今まで(中灰層出身のやつらでは)見たことのない目、死を覚悟している目をしていたからだ。面白いと思った。中々に使えるのは初めから見抜けたが、面と向かい合わねばわからぬものを女は持っていた。単純に俺が女の容姿を気に入ったからというのもあったかもしれない。
女は――変は俺の手下となった。だが、
「審竜は嫌いっぽい」
馬鹿な声で審竜様のことをそんな風に言う変を見て思ったことがある。
いつか肩を並べる時が来るかもしれない、と。
そんな風に今は思う。
◇
少女は立っていた。何かを探すでもなく、何かを求めるでもなく、ただぼんやりと、その虚ろな目を薄汚い暗がりの路地へと向けて立っていた。
寂れ乾いたこの地面は、一体どれほどの血を吸ってきたのだろう。
ふとそんなことを思う反面、今日の晩御飯はどうしようかとも考える。
前者を考えるのも後者を考えるのも、この世界で生きる上では同じくらいつまらないことで、それでいて重要なことでもあった。死ぬならばつまらないことだし、生きるならばそれは重要なことなのだ。
ここはつまりそういうところで変化はない。生と死が混在するごくありふれた日常なのだ。
がさっと、少女の後ろで物音がした。
そのすぐ後、目の前に現れた大柄の兵士が少女へと声をかける。
「おい貴様、今餓鬼を見なかったか?」
鼻をつまみ、こんなところには一時もいたくないという表情で兵士は言う。偉そうな言い方が少女の癇に障った。
すと、少女は細い腕を右の路地に突き出す。
「あっちっぽい……」
「そうか、ほらよ」
兵士はそれだけ言うと、少女に銀貨を一枚投げて左の路地へと走っていった。信用する気が無いのなら聞かなければいいのに。そんな風にも思うが、手に入った銀貨に満足しているのも事実であった。
少女は後ろを振り向き、肥溜めと死体がほうり込まれた溝を見る。
異臭が鼻を突く。だが、慣れていた。
「もういった」
「そうか。お前女か?」
「……男っぽい?」
少女変幻、少年静爆、ともにまだ名も無かった出会いであった。
少年は常等層の出で、それがなぜこんなところにいるのかと聞くと、別段気にした風もなく『暇つぶし』とそう答えた。
常等層出身のものがこんなところにいるのはありえないが、目の前にある現実は触れることすら容易で、殺そうと思えば簡単に出来そうな気もした。中灰層出身者にとって常等層のマリスは全て忌むべきものなのである。
実際少女はこの少年が常等層出身者であるとわかった時殺そうとした。だがそれは二つの理由で不可能となる。
一つは少年が圧倒的に強かった。単純に力だけで言えば小指対両腕の腕相撲で負けるようなぐらい少年と少女の力の差は明白だったのである。だがまだこれだけならばよかった。力以外の何かで対抗する術は少女の常であったから、特に問題はない。しかしその土俵でもおそらく傷一つつけられないと思わされる鋭い眼光が少女の目を射抜いたのである。
眼力はそのまま術者の力となる。目を合わせねばわからない。見つめられただけで背筋が凍るような鋭い眼力を少年は隠していた。少女にはわかるその重さ。持ちながらそれをひけらかさないその強みが、少年と少女に決定的な差を生み出していた。
「お前俺の部下になれ」
二つ目の理由だった。
「……俺、女」
少女は答える。心臓が波打つのを感じて、まだ動いていたのだと改めて認識した。
「俺は審竜様の第六分隊監察を務めている。お前、俺の非公式な部下になれ」
ここを支配している審竜の配下。そんな雲の上の存在が中灰層出身者を手下に持つなど考えられないことだった。
何が少年をそう言わせるのか。自分にそれほどの魅力があるのか。少女は何もわからない、だが、
「いいっぽいよ」
嬉しかった。
少年に連れられて少女が辿り着いたのは妖獄界華死乃を支配する暗黒の城。審竜の住処だった。
「審竜は嫌いっぽい」
意を決して、聞かれれば死は免れない言葉を吐く。少年は目を丸くして少女を見た。
死にたいのか、少年の鋭い眼光がそう言っていた。
黙して暗黒の城へと入り込む。暗い暗い地下へと少年は進み、少女もそれに倣った。やはり第六分隊監察ではそれほどいいところに住まわせてもらってはいないらしい。
「貴様は臭いし、薄汚い。とりあえず俺の部下となる以上、中灰層ではないように仕立ててやる」
少年は歩みを止めない。
暫らく歩き連れてこられたのは一つの小さな扉の前だった。少女と同じほどの小さな扉、少年では窮屈だろうと思われる大きさだった。
「俺の部屋だ。入れ」
少年はそう言って扉を開ける。身をかがめてそこに入り込むその姿は、何となく殺気立っていた。いや、野心に満ちていたというほうが正しいかもしれない。何か腹の中に違う生き物を――それもとりわけ凶暴な――を住まわせているような、そんな雰囲気だった。少女も後に続く。
「そこで体を洗う。服を脱げ」
もともと服など着ていない。少女が身につけているのは数枚の襤褸切れだった。しかもそれらを繋ぎ止めているのは糞であったり、血であったりする。
「俺は女っぽいよ」
少年が押し黙る。
「嘘」
「さっさと脱げ、変なやつめ」
少年は笑った。
◆
「静爆の日記より抜粋」
快歴一六七八七年 酷ノ月 二十二
俺が思っていた以上に変は使える。身分こそ中灰層出身であるが、俺の部下にもこれほどのやつはいないだろう。
それに変は面白いやつだ。
「静爆さん」
と呼ぶやつの顔を思い出すだけでなぜか顔がほころぶ。語尾が可笑しいのはわざとだとは思うが、最近それが確立されてきた。もう癖となりつつあるのかもしれない。
「俺とやるっぽい?」
馬鹿が挑発してきた。
無論冗談だとはわかっていながらも、笑い飛ばすことの出来なかった自分が歯がゆい。
俺に仕えて百年以上経つというのに、流麗な肌はいまだ流麗なままで傷一つない。汚い仕事も、危険な仕事もやらせている。やつの命の代わりなど幾らでもいるのだ。
そう思っていた考えは改めねばならんのだろうか。
無論、単純に部下としてだ。
最近顔の筋肉が引き締まった感じがする。昔はあれほど動かなかったのに、今では何かあるとすぐ動いてしまうほどに――少し困っている。
◇
少年が静爆という名を貰った時、真っ先にそれを呼んだのは少女だった。
「静爆さん」
「うるさいぞ変」
変――そう名付けたのは少年で、その時から少女の名は変だった。変と名がついたのは少年と出会ったその日である。少年にはまだ名がなかった、その日であった。
少女は喜んだ。
仮にも主であるものに名がないのに、自分が正当ではないにしろ名を持っている。複雑な気持ちだった。だから少年が、静爆が名を貰い六番隊副隊長補佐となったこの日、少女はまるで自分のことのように喜んでいた。
「静爆さんっぽい?」
おかしな語尾。
「ぽいではなく、静爆だ」
時折腹立たしげに思う静爆ではあったが、それを楽しんでいるのも事実であった。
天才児静爆が六番隊副隊長補佐となったのは彼が4千歳と少しのときであった。如何に六番隊とはいえ、副隊長補佐ともなれば容易なるものではない。それも審竜の配下ともなれば、たとえ最下級の十番隊に入るのですら難しいのである。
「静爆……よいなぁ」
そうであるから、如何に天才児とはいえこの時ばかりは嬉しかった。審竜から直接名を貰うなど、めったとあることではない。
「お前のおかげでもある」
静爆は後ろについてきているはずの変に言った。
声は聞こえど姿は見えぬ。変はいつもそんな調子だった。何をどうやっているのかわからないが、主の静爆ですらわからないその擬態は完璧なもので、さぞ殺しには重宝するだろう。
静爆としては、変の存在がばれたらまずいということも少しあるが、それ以上にその存在を隠しておきたかった。変の能力は如実に有益なものだったのである。
日に日に増えていく知識の量、術の数、そして秘密。全てが静爆ただ一人のもののためだけで、それら全てを掌握しているのは実に気分がよかった。変の容姿が気に入っていたというのも若干あった。
「誉めてるっぽい?」
「あぁ」
何より、
「俺とやるっぽい?」
「馬鹿が」
笑うことが多くなった。
◆
「静爆の日記より抜粋」
快歴一六九九五年 死ノ月 二十
変は変わっている。近頃このことばかり書いている気がするが、変は本当に変わっているのだ!
変のことは誰にも言っていない。俺がその事を口外できるのはこの日記だけであるから、変の話題が必然的に多くなってしまっているのも頷ける。
が、書きすぎではないかと最近思い始めた。読み返してみるとなるほど、出会った日から変のことを一行は少なくとも書いている。書きすぎだ。
素直に凄いと言えばいいのかも知れない。だが俺の中の何かがそれを押し止める。悔しいのかもしれない。
変は中灰層出身だ。俺は常等層出身だ。そんな分け隔てで物事を見ているからだとは思うが、なかなかなおらない。なぜ変はああも飲みこみが早いのだ!
最近これが荒れていると思うことがある。
俺の気持ちがおかしくなっているのか、それとももともとこうだったのか。それすらわからぬほどに俺の今現在の状況は荒れている。
第六部隊隊長という地位を手に入れた。だがなぜだ? この焦燥感はなんなのだ?
俺は変を……いや、今は考えるのはよそう……。
◇
変は常に身を隠し行動する。
静爆は常に身を表し行動する。
変は静爆のために。
静爆は己のために。
行き違いはあったが、両者ともその現状に満足していたはずだった。
だが過去の反対に未来はある。
妖獄界華死乃の暗黒の城一階、東の角部屋。六番隊隊長静爆の部屋に変はひっそりと佇む。誰にも悟られぬように、見つからぬように主と会話する。
「おもしろ〜、静爆さん、これ試すっぽい。これ試すっぽい」
「どれだ?」
無愛想な静爆を気にした風もなく変は明るく、声は小さめにはしゃぐ。変が差し出した本は『召喚術の基礎―力の源―』という本であった。静爆ははっとして息を呑む。
「強くなれるっぽいし、力もつくっぽい」
おそらく腕を曲げて力瘤でも作っているのだろう。本が移動したのは変の腕が曲がったからだ。姿が見えないというのは不便だと、最近思い始めた。
「これを読むと〜」
苛々して本を投げ飛ばした。本棚にぶち当たり、納まっていた本がばら撒ける。
一瞬静かになった。
「うおいっ。静爆さんやりすぎっぽいよ〜」
笑い声だけが聞こえて、背中をぴしとつつかれる。変に触れられた。
「うるさい! その喋り方を辞めろ!」
知らぬうちに口から出た怒鳴り声はびりびりと部屋を支配した。静かになって静爆は改めて思い知る。変がそこにいるのかどうか、自分にはわからないと。
変の提示した本を、静爆は題名しか読むことが出来なかった。
◆
「静爆の日記より抜粋」
快歴二〇〇三四年 燐ノ月 三
なんということを! 俺はなんということをしてしまったのか!?
いや…………
いや、しかしこれでいい。
…………
これでいいはずだ!
間もなく日が変わる。日が変わればこの思いも消えるだろう。
俺は大したことをやっていない。誰も俺を責めはしない、責めはしないはずだ。
快歴二〇〇三四年 燐ノ月 四
気分が晴れぬ。
天気も晴れぬ。
もの足りぬ。
◇
変は女であった。
普段は誰にも見られぬよう偽蝶の鱗粉を身に纏わせてはいるが、一度姿を現せばエメラルドの透き通るような長髪が目に鮮やかに映り、甘美な香りとともにきめ細かな肌を露呈する女。ほっそりとした顔立ちと華奢な体に肉はなく、幼少時の生活が困難だったことを思わせた。
中性的な声色のせいで姿を見ねばそうは思えないが、変は間違いなく女であった。
「貴様の役目は終わった」
変は静爆にそう告げられた時、うろたえた様子も怯えた様子も、まして喜んだ様子など見せるはずもなく、つまるところ何の反応も見せなかった。放心したのである。
「冗談っぽい?」
静爆が一番隊隊長となった日であった。
「冗談ではない。お前にはよくしてもらった。なんならいい相手でも見つけてやろうか?」
変にとっての全てだった。
「……なん」
「うるさい! 出て行けと言っている! 目障りなのだっ!!」
静爆と会って名を貰った日から三三六一年と一二二日が経っていた。
◆
水禍というマリスがいた。
静爆と変が初めて出会った時、静爆を追い回していたマリスである。とりわけ目立った功はないが、野心家であった。妬み、恨み、憎み。自分以外のものが出世することを酷く嫌い、しかしその反面従順な仮面をかぶる術も備えていた。
水禍はまさにマリスだと思える男であった。
第十番隊隊長。静爆と変が別れを告げた時の水禍の肩書きで、そしてそれは二人にとって最悪なものでもあった。
隊の強さは隊長の強さで決まる。一番隊が一番強く十番隊が一番弱いといった具合に、それはすなわち隊長の強さも一から十へとなるにつれて順々に下がっていくのである。
しかし、隊長間の会話ややり取りにはそういったものは反映されない。一番隊隊長が十番隊隊長に貶されようと、その他のものが必死にいざこざを止めるからである。貴重な戦力を無駄には出来ないとの思いからであった。
だから水禍が、静爆の部屋から出てきた変を見てしまったのは二人にとって最悪なものとなった。また、水禍はこの時すぐに理解していた。成長しても変わらぬものはある。変が中灰層出身であるとわかった彼の喜びは言うまでもない。
中灰層出身者を配下に持つのは別に悪いことではない。しかし、無断でそれを所有するというのは認められていなかった。まして変は女であった。配下ではなく、娼ととることも出来た。
「静爆殿、一番隊隊長静爆殿」
厭らしい声で呼び止められた静爆は怪訝そうに振り返ると、水禍の顔を見てさらに眉を寄せた。随分昔、天才児の自分を早くから潰そうと躍起になっていたマリスである。静爆にとって、水禍がいい印象なわけがなかった。
水禍は下卑た声で、丁寧に言を綴る。
「一番隊隊長は気苦労も多いかと。たまには中灰層か最下層のものを殺しに参られてはいかがです?」
「興味ないな」
そっけなく答える静爆に嫌な顔一つせず水禍は続ける。
「では女などいかがです? 長いエメラルドの髪の女など、重宝しますよ」
途端静爆の顔色が変化する。大柄な体が若干震えたようにも見えた。
「何のことだ?」
「いえ、べぇつに。ほんのたとえですが」
水禍の笑い声は静爆の癇に障り、歪んだ顔は吐き気を感じさせた。
興味はないと、そういい残して踵を返す静爆をぎょろりとした目で見ながら、水禍は口元をほころばせた。
一番隊の隊長以外――つまりは静爆以外――が原因不明の死を遂げるのはこの数日後である。
静爆にしてみれば何が起こったかわからなかったであろう。
主君審竜の命で向かった使いから戻ってみれば、自分以外の屈強な部下達が死に絶えていたのである。信じられるはずがなかった。
「これは酷い」
十番隊隊長水禍は役者である。とんでもない三文役者だった。
「貴様」
ぎりと歯噛みする静爆に、水禍は落ち着いた様子で声を返す。
「いえいえ、私は何も。ただ教えて差し上げたんですよ。あなた方の隊長を誑かす女がいると」
掴みかかろうとする本能をマリス離れした理性で抑え、拳を握り締める。
静爆は何も言えなかった。唖然としていたのは間違いないが、その現実も恐ろしかった。部下は皆変にやられたということなのである。
変を自分以外のものに利用されたことと、部下が惨めであったと思う気持ちがないまぜになって、どうかすると爆発しそうだった。それでも静爆は耐えた。
正義感が強く、真面目で屈強な兵士達である。隊の信念を形にしたような隊長を信じて疑わない猛者たちばかりである。そんな者たちにそのようなことを言えば結果どうなるかなど見えている。たとえそれが偽であったとしてもその疑いのかかったものは命を狙われるであろう。
変が手を出したのではなく、部下が手を出した。その結果返り討ちにされたと、つまりはこういうことであった。
「おのれ、何ということを」
「本当に、これは酷い。審竜様も何と仰られるか」
「貴様!」
掴みかからんとする静爆を押さえたのはまたしても彼の理性であった。
一番隊隊長としての義務、誇り、審竜に対しての責任感。しばし目を瞑り雑念を取り払った後、それら全てをないまぜに噛み砕いて、静爆は決意の目を見開いた。
静爆は足早にその場を後にした。
水禍の怯えきった中にも優越感を蓄えたような表情を見ていると、間違いなくそれらが失われそうだったからである。
変を殺さねばならない。
そんな心情で静爆が立つのは、初めて変と会った場所。懐かしいと思える匂いは腐臭にしか感じなかった。ただひたすらに臭い。こんなところで住んでいるものを憐れに思った。
「変」
縮こまって座っている細身の女はこちらに顔を上げようとはしない。長いエメラルドの髪の毛は扇状に地面にへばりつき、色などまた洗ってやらねばわからぬほどに汚れていた。城の中と外では世界が違うのだと、改めて思った。
「変、俺だ。顔を上げろ」
再度呼びかける。きつい口調だと知りながら、それを弱めようとは思わない。
漸く変が顔を上げた。
傷一つない綺麗な顔だった。
「静爆さん……会いたくなったっぽい?」
疲れた顔で変は笑った。術の使いすぎで疲労が限界まで溜まっているのだろう。よくもこれだけの華奢な体で一番隊の兵士全員を相手に出来たものだと感服し、同時に恐れに似た思いもわきあがった。
「審竜様のために働く気はないのだな?」
改めて聞いてみる。だが、返って来る返事はわかっていた。
「嫌っぽい」
「そうか」
一瞬後に物凄い衝撃と爆音が辺りを包み、朽ちかけた建物と枯れかけた植物を根こそぎ吹き飛ばした。静爆の両掌が薄く淡い光を放つ。
確かに全力でやった、と静爆は目を疑った。
目の前には先ほどと変わらぬ様子の変がいた。華奢でぼろい布を纏って、何も変わらぬ様子で。
「なぜ……?」
だがその疑問もすぐに消える。
すとんという音とともに降り立った影は、このどんよりとした世界の中でさえ神々しいオーラを放ち、優雅に立ち尽くしている。畏怖絶対の対象が目の前に現れ、静爆は(ほんの一秒にも満たない時間ではあるが)放心していた。だが、すぐに我を取り戻すとその場に膝を着き頭を垂れた。何もなくなった空間にまだ何かを取り払うような威圧が存在する。
「全く困ったものだ。期待の新戦力を二つも失うところだった。十番隊の水禍、やつのせいだろう? 静爆。困ったものだな、俺に何も相談しないというのは非常にいただけんぞ」
ガンとした鋭い目つきが自分を射抜いているのがわかり、静爆は震え上がった。おそらくは冗談のつもりなのだろうが、それですらこちらにとっては死に結びつく。
「まぁいい。変とかいったな。貴様の事は知っていた、俺の下で働くといい――と言っても拒否権はないがな。静爆、それをどう思う?」
珍しいことだった。だがそれもおかしくはない。
些かの配慮を施してくれるのは、偏に静爆の力の強さであり、静爆の功績であり、静爆個人の問題であるからだった。審竜は顔を上げろと、静かに言った。
「申し上げにくいのですが、やはり殺していただければと思います。私にとっての」
「そうか」
次の瞬間には変の姿は消えていた。審竜のかざした右腕からは黝い炎がくすぶって、今行われた『処置』が如何に鮮烈で迅速であったかを思わせる。
何も悩む間などなかった。
「これでいいな?」
「はっ」
静爆はそれ以来、それまで以上に真面目になった。何かの罪滅ぼしのように、自分の生きる道を決めたように見えた。
変は生きていた。
「死なれては困る」
審竜が静かにそう言った場所は暗黒の城の最上階砦の祠で、めったと使われない場所だった。
「静爆の性質はよくわかっている。やつはマリスとして優しすぎる」
閉ざされた空間は空気の密度が重い気がした。
「だから俺がお前を殺したように見せた。それでやつの能力が阻害されることはない」
長いエメラルドの髪はちりじりに焼け爛れていた。
「貴様は生きているほうが有益だ。俺の手駒としてきっちり働いてもらう」
静爆のためにもな、そう付け加えた審竜を睨んでやることすら出来なかった。変は死にたかった。
「もちろん、静爆と会うのはよい。だが、名乗るのは『変幻』だ。これから貴様の容姿を変換する」
静爆に打ち明ける気など毛頭なかった。そもそも、
「やはりイメージは蜥蜴だろうな」
そんな容姿で話せるはずがなかった。
「静爆さん、はいこれ落し物っぽい」
「は? 貴様! これをどこで拾った!?」
慌てふためく静爆に意味深な笑みを浮かべて、
「いやぁ、落し物はいつも過去にするものっぽいねぇ」
「当たり前のことを言うな! 大体答えになっとらんわ。……見てないだろうな?」
「見てないっぽいよ〜」
ここに一匹の蜥蜴がいる。
だがただの蜥蜴ではない。
《お疲れ様でした》
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2005/07/18(Mon)00:58:01 公開 / 影舞踊
■この作品の著作権は影舞踊さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
とりあえず申し訳ないです。こんな自己満足の作品を読んでもらって。でもきっと長いので物好きな方しか読まないでしょう。それが狙いなんですけどね(マテ
本当に自己満足なんで、読んでくださった方すいません。先にコメント読んでる方、読まなくても全くいいです(爆 差し支えありません。
冒頭の説明くさい文はいらないなぁと思いつつも書いたのは、雰囲気作りでしょうか。いや、ほんといらないな(笑 前作の収集もかねてだったりしますが、全然収拾ついてない気がするぞこりゃあ。書いては消しての連続だったから、投稿するのも悩みました。っと、はい。長々書いてもしょうがないですね(笑 コメント読んでくださってどうもですw
あぁ拙い。
もしも読んでくださって何か思ったことがあるならば、
感想・批評等頂ければ幸いです。
◆7.17 誤字&冒頭の「――部」修正◆
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。