『From the sky to a flower 第四章〜A』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:紅月 薄紅                

     あらすじ・作品紹介
自分の体験を混ぜたバンドもののお話。人見知りの主人公がバンドのボーカルになります。

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 今でもまだ、あの歌声は耳に残っている。

From the sky to a flower

第一章

「カヤ。おまえ、バンドのボーカルやってみねぇ?」
 夏が近づいてきた、梅雨の蒸し暑い日。空は晴れていて、夕日で赤く染まっていた。
「え?」
 隣に並ぶ一つ年上の幼馴染を見上げ、カヤは目を少し大きく開いた。
 長い髪はひとつにまとめられ、汗のにじむ首の上でお団子が作られている。
「ボーカル。俺がやってるバンドのなんだけど。この前ボーカルが辞めちゃってさぁ」
 困ったように話す幼馴染を見上げる顔は、ぽかんとしたまま動かない。
 夕日を背に歩く足は止まらず、だんだん二人の家へと近づいていく。
「だからお前やってくれん? 歌上手そうだし」
「……! ムリムリ!!」
 はっと我に返ったカヤは、幼馴染の問いかけに必死に首を横に振った。
「大丈夫だって。できるできる」
 あはは、と笑いながら簡単なことのように言う声。
「ムリだってば!」
 ボーカルなんてできるはずがない。絶対にムリだ。
 そんな思いを言葉に込めてぶつけても、「大丈夫大丈夫」という返事しか返ってこない。
 そして。
「それに、もうメンバーに言っちゃったし」
「へ?」
「『俺の幼馴染がボーカルやります』って」
「はぁ!?」
 驚きと困惑。その二つが体中をぐるぐる回る。カヤは小さな目眩を感じた。それはきっと、暑さだけが原因ではないだろう。
「じゃ、土曜に練習あるから。お前ん家に呼びに行くわ」
 隣で歩く足が止まった。気がつけば、いつのまにか二人の家の前についている。
「ちょっ……!」
 そんなこと勝手に決めないで、と言おうとした声は、幼馴染の「じゃな」という声に重なり、遮られた。
「……」
 キィ―――……と少し耳障りな音をたてて門が開き、閉じられる。
 カヤは何も言えず家の中に入っていく背を見つめ、自分でも気づかずに小さなため息をついた。そうして、斜め前にある自分の家へと歩き出した。
 夏が近づいてきた、梅雨の蒸し暑い日。空は晴れていて、夕日の赤と少しの黒に染まっていた。


 そしてやってきた土曜日。場所は町の公民館、音楽室。暑い廊下で部屋のドアを開くと、クーラーで冷やされた空気が流れてきて、ひんやりと肌に触れて心地よかった。
「おータカ! どう? ボーカルは」
「ちゃんと連れてきた。ほら」
 背の高い幼馴染、タカの後ろに立っていたカヤは、中から聞こえた声の持ち主には見えなかった。反対に言えば、カヤからも声の持ち主は見えない。わざとそうなるようにそこに立ったのだった。
 「ほら」と言われても、カヤは前に出ようとしない。 
 カヤは昔からの極度の人見知りだった。それはタカも知っていた。けれどさらに悪いことに、カヤは今日、機嫌が悪かった。
(やだって言ったのに、ムリヤリ連れてきて……!)
 遅くに目覚め、朝ご飯を食べたばっかりだったカヤは、家にやって来たタカに急かされ、嫌々準備をし、ムリヤリここに連れてこられたのだった。
(くそぉー!)
 剥れるカヤは、目の前に聳え立っている背にこぶしを入れた。自分がされたら痛いだろうな、と思うくらい強く。だが。
「なにやってんだ、ほら」
 効き目は、無かった。タカは痛いとも言わず、頬を膨らましたままのカヤの腕を握り、自分の前へと来させた。
「っ……! ……こんにちは」
驚いたカヤは、広い部屋の中でギターを抱えて座る男に俯きながら挨拶をする。目を合わせることも、顔を見ることさえもできなかった。恥ずかしさと恐怖で、カヤはまぶたをぎゅっと閉じる。下ろしていた髪が背から流れ、顔を隠した。カヤは昔から自分の顔を見られる事が嫌だった。そうする事で、自分が思っていることを感づかれるのではないかと恐れた。そのために、カヤは髪を長く伸ばして自分の顔を隠すことができるようにした。
「……」
 挨拶の返事が返ってこない。ただ何かをがたんと置く音と、コツ、コツと靴が鳴る音が聞こえた。
「……?」
 ちらっと目を開き、目線を上へと向けてみる。そして、
「きゃぁっ!」
 と大きな悲鳴を上げた。
「え!?」
 カヤの目の前に立つ男は驚き、戸惑いの声をあげる。その間にもカヤは、再びタカの背後に隠れてしまった。
「ごめんな、ヒロ。こいつすっごい人見知りでさ」
 タカは苦く笑いながら、もう一度後ろにいるカヤを引っ張り出してきた。
 よたよたとなりながら、カヤは先ほどよりも深く俯いて出てくる。茶色の髪がカヤの足取りに合わせて、横にゆらゆらと揺れた。
「いいっていいって。えっと、カヤちゃん……だっけ? ボーカル引き受けてくれてありがと。よろしく」
 にっこりと微笑むその顔は、自然とカヤを安心させた。細身のタカと同じぐらいの背格好なのに、なぜかヒロはタカには無い暖かそうな雰囲気を持っている。短く切った黒髪がさわやかなイメージを持たせる。
「……まだ、やるとは言ってないんですけど……」
 上目にヒロを見上げて、カヤは恐る恐る口にする。
「えぇ! そうなの!?」
「まだ言ってんのかよ!?」
 二人の驚く声が同時に聞こえる。カヤはビクッと肩を揺らし、眉根を寄せた。
「だって……絶対ムリだし……」
 消え入りそうな声で二人に答える。すると、タカがはぁっとため息をつくのが聞こえた。
そして。
「んじゃまぁ、一回弾くか」
 肩からベースを下ろしながら、タカは部屋の中へと入っていく。
「そうだね、それが良い。今日はドラムのやつが来てないけど……。絶対かっこいいから」
 入って入って。と言ってにかっと優しく微笑んだヒロは、ギターを置いていた所へと戻った。思っても見なかった展開に戸惑いながらも、カヤはそろそろと部屋の中に入りゆっくりとドアを閉めた。
「あそこに椅子あるから、出して座っとけ」
 ベースのチューニングをしながら、タカはあごで椅子がある場所を示した。
(もぉやだ……家に帰りたいー!)
 心の中で叫びながら、積み上げられていた椅子を一つ下ろして座る。ぎゅっと握り締めた手は汗をかいていた。心臓がバクバクと音を立てる。目に涙がにじむ。こんなことなら、朝タカが迎えにきたときに泣き喚いてでも断っておくべきだった。そう今更後悔する。
(何であたしがこんなとこ来て、泣きそうにならなくちゃいけないわけ!?)
 潤んだ目でタカを睨み付けると、さらりとかわされてしまった。
(もーやだーーーー!!)
 もう一度心の中で叫びながら、目をぎゅっと閉じた瞬間。
「カヤ。 弾くぞ!」
 タカに名前を呼ばれる。思わずはっと顔をあげると、前にいる二人の手が同時に動き、弦をはじいた。
「あ……」
 力強く、激しい音楽が、アンプを通してカヤの耳に届いてきた。それはカヤにとっては聞きなれない、どちらかと言えば苦手な音楽だった。それなのになぜか、心を引かれる。弾いている二人の姿に見入ってしまう。音を、一つも聞き逃したくないと思ってしまう。
(何―――これ……)
 初めての感覚だった。普段は自ら聞きたいとは思わないのに、今、夢中になって聴いている自分がいる。二人の演奏が上手いだけではない。この音楽自体に、引かれてしまう理由がある―――。
ジャンッ―――と一段と大きな音で二人の音が重なり、響き、曲が終わった。
 はっと我に返ったカヤは、慌てて拍手をする。一曲弾いただけで汗だくになった二人は、楽器を置いてカヤの前へとやって来た。
「どうだった?」
 ヒロがほてった顔を笑顔にして訊ねる。
「あの……かっこよかったです……!」 
 ヒロの顔を見上げて答えたカヤは、目が合うとぱっと俯いた。
 顔が赤くなり、心臓がまた激しく動く。けれどそれは、恥ずかしさや恐怖だけではなかった。二人が弾いた音楽が、まだ体中を駆け巡っていた。
「だろ?」
 カヤの答えを聞いて、タカはにやっと笑う。ワックスで丁寧に立てられていた茶色の髪の毛は、汗で額にぺたりとくっついてしまっていた。
「どぉ? こういうロックばっかりなんだけど……歌ってみない?」
 ヒロの問いにカヤは戸惑う。二人の曲を聞いて、正直にかっこいいと思った。けれどそれを自分が歌うと思うと、不安が胸に広がる。ロックなんて歌ったことが無い。それを自分はちゃんと歌うことができるのか。せっかくのかっこよさを、自分の歌のせいで台無しにしてしまうのではないか。そう、思う。だから、
「あたしなんかが……歌えるような曲じゃ……」
 正直に思いを伝える。生半可な気持ちで、引き受けることはできない。
「大丈夫だって」
 ぽんっと左肩に手が乗せられた。顔を上げると、タカが微笑んでいる。
「お前なら歌えると思ったから、俺は誘ったんだから。俺が保証してやる。お前なら歌える!」
 まっすぐにカヤを見つめる目は、それが嘘ではないと語っていた。カヤはタカの言葉に目を見開き、もう一度俯く。そうして一度ゆっくりとまぶたを閉じて、顔を上げた。
「ボーカル……やります」
 小さな、だけどはっきりとした声で、カヤは二人に告げた。二人の顔がぱぁっと輝く。
「やったぁ!」
「おしっ!」
 大きな喜びの声と勢い良く手を叩き合った音が、さっき聴いたギターとベースの音のように、部屋の中に響いた。


 時の流れは思ったより速く、タカとヒロの練習を見ていたカヤのお腹が、ぐぅっと音をたてて―――鳴った。
「……っ!」
「くっ……」
 慌てて手でお腹を押さえるカヤと、それを見て笑うタカ。ヒロは持っていたギターを置いて聞こえなかったフリをしている。恥ずかしさで真っ赤になったカヤは、笑いをこらえるタカを今にも涙がこぼれそうな目で睨み付けた。
(タカのバカ! もぉ絶対タカとはしゃべんない!)
 タカとしゃべれば「そういえばあの時―――」といつこの話を持ち出されるかわからない。恥ずかしい思い出は、さっさと忘れてしまいたい。
(初めて会った人がいるのに……なんであたしのお腹鳴るの……!?)
 唇をかみ締め真っ赤な顔のまま俯くと、ぽんっと肩に手が乗せられた。タカだと思って上目で鋭く睨み付けた先には、にっこりと笑ったヒロがいた。
「もうお昼だし、俺もこれからバイトあるし、今日はこの辺でおわろっか」
「は……はいっ」 
 優しい声。タカとは大違いだ、とカヤは思いながら慌てて返事をする。今度こそ、とじろりとタカを睨み付けると、ようやく笑いが収まったらしく、涙目になりながら近寄って来ていた。
(来ないでよ! バカタカ!)
 ヒロがいる前なので口にはできない言葉を、思いっきり心の中で叫びつづける。だが、勿論のこと人の心が読めないタカはそんなことは知らず、カヤの目の前に来るとにやっと笑い、
「家でいっぱい昼飯食え」
 それまではもうちょっと我慢してろ。と首を傾げながら言った。
「……っ」
 カヤは口がぱくぱくと動くだけで、声が出ない。両手に作られた拳は、ぶるぶると震えていた。怒鳴りたいけど怒鳴れない。殴りたいけど殴れない。もどかしさと恥ずかしさと惨めさとでカヤの中はいっぱいいっぱいだった。
(バカバカバカバカ、タカのバカ!)
 ぎゅっと目をつぶると、じわりと涙が込み上げてきた。そして聞こえた、ぱしりと何かを叩く音。そしてあの優しい声。
「いいかげんにしろよ、タカ。カヤちゃんかわいそうじゃん」
 タカの頭を叩いたヒロは、はぁっとため息をついていた。
「てっ……」
 頭を押さえるタカは、痛いと言いながらも顔には笑顔が作られている。どうやらヒロに言われても、反省などしていないようだった。
「楽器片付けるぞ」
「はいはい」
 そう言ってカヤに背を向けて楽器のところへと行く二人。そのときタカだけが振り返ってカヤを見つめ、もう一度にやっと笑った。
(くそぉーーー!!)
 本当に最悪だ。タカに関わると良いことが無い。どうして家の近くにタカの家があるんだろう。タカの家がもっと遠くにあれば良かったのに。今更どうしようもできないことを、深く後悔する。そうして一度大きく、体中にたまったものを吐き出すかのようにため息をつく。
「はぁっ……」
「大丈夫?」
「え……あっ……」
「タカの言うことなんて気にしない気にしない」
「あ……はい……」
 恥ずかしい。あんな大きなため息をつくところを見られてしまった。
(笑われなかったから良かったけど……)
 どうして今日に限ってこうも、恥ずかしいことばかり起きるんだろう。自分は相当ついてない女だと思う。漫画や本に良く出てくる『穴があったら入りたい』なんて、実際はあまり思うことは無いだろうと思っていたけれど、今、深くそう思う。穴があったら、入りたい。
「で、これなんだけど」
「はっはい!」
 ぐるぐる巡る思考はヒロの声と、差し出されたものに止められる。目の前には5線譜が書かれた紙があった。
「一番最初に俺達が弾いた曲ね。オリジなんだけど……さっきので感じつかめてもらえた?」
「あ、はいっ……」
「よかった。じゃぁ大丈夫だね。ボーカルはこの一番上のとこね。譜面は読める?」
「あ、えと……」
「大丈夫だ。そいつピアノ習ってるから」
 忌々しい声がカヤが言おうとしていたことを代わりに言う。カヤは眉根を寄せて、その声の主を見た。タカはここに来たときのようにベースを肩に背負い、ヒロの隣に並んでいる。その顔はさっきのことなどすっかり忘れてしまったように、真剣な表情をしていた。
(そのまんまずっと忘れてて……!)
 今までにないほど強く願った。あんな恥ずかしいことは、2度と思い出したくも無いし、思い出されたくも無いから。
「ピアノ習ってんだ。すごいね! じゃぁ、これよろしく。できれば今度の練習までに歌えるようにしてほしいな」
「……はい」
「よろしくね、カヤちゃん」
 手渡された譜面を見ると、シャーペンで書かれた音符が並んでいる。
(これが、さっきの曲―――)
 自分が引かれたあの曲が、今自分の手にある。そうしてそれを、自分が歌うのだ。
「―――頑張ります」
 今までの中で一番はっきりした声で、カヤは二人を見つめ言った。
「うん」
 その言葉に、ヒロはきれいに並んだ歯を見せ頷いた。タカもまた、さっきの嫌味な“にやり”とは違う“にやり”を、その顔に浮かべた。
 こうして、カヤがボーカルとなった新たなバンドが生まれ、その音楽を奏で出し始めた。


第二章
 
 月曜日の朝というのは憂鬱なものだ。授業が七限もあり、それがあと四日も続くと思うと、つきたくなくてもため息をついてしまう。
 しかも、今日は朝から大雨が降っていた。梅雨なのだから仕方が無いと言えば、そうなのだが、「最悪な月曜日だ」と思ってしまう。
 ぼーっとしたまま過ぎて、終わってしまった数学のノートをしまおうとすると、朝来るときに雨に濡れてしまったかばんは、まだ少し湿っていた。
 カヤは少し眉根を寄せながらノートをかばんにしまうと、斜め前の席に座る友達が「手、洗いに行こ?」と声をかけてきた。
「え?」
 カヤは目を見開き、首をかしげる。今はまだ三限目が終わったところだ。いつもなら四限目が終わって、昼休みになってから手を洗いに行くのに。なぜだろう、と戸惑っていると、友達も不思議そうな顔をしながら黒板を指差した。
「もうお昼だよ?」
 人差し指が指す先に書かれていたのは、時間割。見ると、確かに四限目のところに「数学T」と書かれていた。
「あっごめん!」
 それを見てやっと気がついたカヤは、慌てて机の上にあったタオルをつかみ、椅子から立ちあがった。
「いいよいいよ」
 そんなカヤを見て友達は笑いながら歩き出す。
 二人並んで教室から出ると、カヤよりも背の低い友達はカヤを見上げながら言った。
「カヤちゃん今日もぼーっとしてたね」
「うん、眠たくてさ」
 笑顔でカヤが返すと、「あたしも眠たかった」と友達は笑った。カヤも笑う。その後に続く会話はなかった。
 もともと、カヤとこの友達はそんなに仲が良いわけではなかった。ただ中学が一緒だったのと、入学して少ししたら、クラスの中にはもうグループが出来上がってしまっていて、自然と二人で行動するようになった。それだけのことだ。だから、いつも二人の間に長い会話は無かった。お互いが二人の間に壁を作っていた。そのことにカヤは気づいている。たぶん、友達もそうだろう。それでも、一緒に行動するようになって2ヶ月たった今でも、その壁が消えることは無かった。
 学校なんてつまらない。カヤはいつも思う。そんなに仲のいい友達はいない。部活もしていない。勉強だって好きじゃない。じゃぁ、いったい自分は何の為に学校に来ているのか。どうしてこんなつまらない思いをしなくちゃいけないのか。答えの無いこの問いは、ふと気づけばカヤの中でぐるぐると廻っていた。そのせいで悩み続ける日もある。けれどたいていは、「仕方の無いこと」として諦めていた。一日なんていうのはあっという間に終わる。ただそのあっという間の時間を、毎日毎日少し我慢していれば良いだけの話。ただ、それだけの話だ。
 鏡の前に立ったカヤは、目の前に見える自分を一度見つめ、水道の蛇口を捻り手を洗った。友達は、もう既に洗っていて廊下で待っている。けれど、狭い手洗い場はお昼になるとみんなが手を洗いに来て、人でいっぱいになってしまい、廊下を見ることも、廊下に出ることも困難だった。
「……はぁっ」
 やっと廊下に出て友達の姿を見つける。
「ごめんね、遅くなって」
「ううん、いいよ」
 カヤが謝ると、友達はにっこり微笑み先に歩き出した。
 この子の笑顔はかわいい。いつも思う。けれど、自分に向けられるそれは、他の子に向けられるものよりも深さが浅い。他の子には深い、もっとかわいい笑顔を向けるのだろうと、隣に並ぶ子を眼の端に見つめながら、カヤは一度ゆっくりとまぶたを閉じた。
「カヤちゃん達来たっ」
 教室に入ると、いつも一緒にお昼を食べている子達が、机をくっつけて待っていた。
「ごめんね」
 小走りに自分の机へと向かうと、かばんからお弁当を出して座る。それを見て、みんなはお弁当箱を開けて食べ始める。会話は多いけれど、それにカヤが参加することは少なかった。みんなの話を聞いて、笑って、時々しゃべる。そういう風に、もう成り立ってしまっていた。それが普通になっていた。
 そうやって時が過ぎていく。毎日毎日、同じように。お弁当を食べ終わった子は、しゃべるか携帯を構うかしている。教室の中はざわざわとしていて、ときどきどこかのグループから、大きな笑い声が聞こえてきた。それをぼーっとした意識の外に聞きながら、カヤは窓の外を見つめた。まだ、雨は強く降り続いている。空は灰色に染まり、いつもなら見える遠くの山は、まったく見えなくなっていた。
 ふと、頭の中に曲が流れてきた。
「―――っ」
 土曜日に始めて聞いて、譜面を渡され、昨日少し口ずさんだあの曲が。頭の中を流れていた。ヒロのギターの音が、タカのベースの音が、そしてまだ会ったことの無い誰かのドラムの音が。頭を流れ、体を流れ、腕や足にまでやって来た。無意識のうちに、足でリズムを取ってしまう。歌のないその曲に、自分の歌を合わせてしまう。友達の声も、クラスのざわめきも、意識の外へ放り出し、カヤは外を見つめながら全身でその曲を感じていた。
 好きなのかもしれない。
 ふと思う。始めて聞いたときにかっこいいと思った。自分で歌ってみたときに、まだ上手くは歌えなかったけれど、楽しいと思った。そうして今、自分の中をその曲で埋め尽くしてしまいたいと思った。そうやって、このつまらない時間を楽しいものにしよう、そう、思った。きっと、好きなのだ。この曲が。そしてこの曲を楽しんでいる自分が。
 カヤは小さな声で歌おうと思った。どうせ誰も聞いてはいない。聞こえることもない。それならば、歌ってしまおう。そうしたい。そう思った―――が。
 キーンコーン―――……。チャイムの音が、学校中に響いた。口を開きかけたカヤは、慌てて閉じる。心地よい時間は、無機質なチャイムの音によって現実に戻された。
 みんな椅子から立ちあがり、机を元の位置に戻し始める。カヤも同じように机を戻し、次の授業である古典の教科書とノートを取り出して、机に伏せた。
 学校なんてつまらない。改めて、そう思った。


 午後の授業もあっという間に終わっていった。お昼後の眠たい古典も、先生がしゃべっているだけの化学も、今日最後の授業の生物も。なんとなく黒板を写して、なんとなく実験の様子を見ていたら終わってしまった。そして授業中、気づくと頭の中にはタカ達の曲が。        
(相当はまっちゃってるな……)
 そう思っては、前に立つ先生が見ても気づかないくらい小さく、くすりと笑った。
 かばんに今日出た宿題を入れていると、担任の先生が教室に入ってきた。ざわついていた教室は静かになる。先生がしゃべる声だけが、狭い教室に響いた。このショートホームルームが終われば、部活に入っていないカヤは、あとは掃除をして帰るだけだ。
(今日はタカと帰り一緒になるかな……)
 同じ帰り道で、しかもタカも部活に入っていない。今まで何度も一緒になったことがある。今日も一緒になったって、おかしくは無い。
もし一緒になったら、きっと歌の調子はどうだとか訊かれるだろう。そうなっても絶対、「この曲を好きになった」なんてことは言わないでおこうとカヤは思った。そう言ったらタカはきっと「あたりまえだ」とか何とか言うだろうし、タカに良い思いをさせるのはなんだか悔しいから。まだ、言わないでおこうと思う。
「じゃぁ、終わります」
 先生のその一言で、みんなは立ちあがる。室長の「きりーつ」という掛け声は、あってないような物だ。
「れいっ」
 さようなら、と大きな声と机を運ぶガタガタという音が混ざって騒がし教室を、クラスの人達はそれぞれの掃除場所へと向かって出ていった。
 なんだか慌しい空気の中、カヤは一度携帯を確かめ何もメールが来てないことを知ると、ゆっくりと掃除道具箱に向かう。掃除場所が教室のため、ゆっくりしていても良かった。それに、カヤは部活にも入っていないため急ぐ理由が無い。
 一本の木で作られた、持ち手がぼろぼろになった箒を取り出すと、まだ数人が立ってしゃべっている教室の床を、やる気無く掃きだした。箒が床と擦れてサッという音を出す。誰かが落としたであろう、大きな紙の切れ端を少し勢いをつけて掃くと、紙は机が固まっている中へと入っていく。その切れ端はまた、机を元の位置へと並べるときに前へと掃かれ、塵取りの中へと入っていくのだ。
 教室の三分の一ほどを掃き終わると、床を掃く箒は二本、三本と増えていった。そのうち、箒を持っていない人が机を運び始める。箒を持つ人達は机が運ばれた後にその場所を掃き、前へ前へと進んでいった。そして集めたゴミを塵取りで取りゴミ箱へ。そのときにはもう、カヤは箒をしまいかばんから携帯を取り出していた。もう一度、メールが来ていないか確かめる。
 毎日毎日、これと同じことを繰り返していた。掃除が嫌いなわけではない。けれどやっぱり、“つまらない”と思う。
「?」
 携帯を開くと、画面にはメールが届いているマークが出ていた。誰だろうと思いながら送られてきたメールを開く。送ってきた人の名前を見ると『タカ』と表示されていた。
(なんだろ)
 題名を見ると、何も書かれていなかった。そして。
『裏門で待ってろ』
 その一文だけが本文に書かれていた。
 カヤもタカもいつも裏門から帰っている。そのほうが家に近いのだ。ということは、これは『一緒に帰る』という意味。
絶対さっき思ったことを訊かれるな。カヤははぁっと短く息を吐き出し、かばんを肩にかけ教室を出ていった。雨はまだ、勢い良く降っていた。


「ちゃんとメール見てたな」
 裏門の所で傘を差して待っていると、すぐにタカはやって来た。カヤを見つけると、少しつり上がり気味の目を細め、にやっと笑う。
何か企んでいる。絶対にそうだとカヤは確信し、身構えた。今までこういう顔をしたときはたいていなにかを企んでいて、カヤにとって良いことがあったことは無い。
「行くぞ」
 とタカは先に歩き出し、そのタカをじっと睨みながら、カヤも歩き出した。
「お前、歌の調子はどうよ」
(やっぱり……!)
 予想していたことを訊かれる。カヤはタカから目線を逸らして答えた。
「まだちゃんと歌えない」
「そりゃそうだろ。そんなすぐに歌えるようにはならないって」
 カヤの答えに頷きながら言い、タカは「ははっ」と笑った。
「そんで? どうよあの曲」
 来た。ここで正直に“好きになった”と言えばタカが調子に乗る。そんなのは悔しい。それに、タカの思った通りに動かされてしまっているような気がする。実際きっとそうなのだろうけれど。それでも、少しぐらいは抵抗してみたくなるのだ。だから。
「まだちょっとしか聞いてないからわかんない」
 と、少し不機嫌そうに言った。そうか、と隣でタカが頷く。
(やった……!)
 心の中そう叫び、思わず顔がにやけてしまいそうだった。
(タカの思い通りになんかしてあげないもんね)
 タカに勝った、という喜びいっぱいのカヤは、タカの次の言葉で固まった。
「そうか、そんなに好きになったか」
「……え?」
 目をぱちくりとさせてタカを見ると、今日二度目の“にやっ”がカヤの目に映った。
「お前、昔から嘘下手だもんな」
 ばればれだって。笑いをこらえながらの言葉に、カヤは顔が一気に熱くなっていくのを感じた。結局、タカの思い通りになっていたわけだ。
「……タカのバカ!」
 真っ赤な顔のまま叫び勢い良く顔をタカと反対のほうへと向ける。目には、少し涙がたまっていた。
「ま、良いじゃん」
 笑いながら言うタカ。それを聞いてカヤは眉間にしわを寄せる。
「……良くない」
 小さな声で反論するが、タカは聞こえたのか聞こえなかったのか、違う話をし始めた。
「あのさぁ、うちのバンド、前のボーカルの時に名前つけたんだけどさ。せっかくカヤが入って新しくなったんだから、バンド名も変えようって話になってさ」
 まだタカの方は見ないまま、カヤは頷き先を促す。
「だから、お前考えてきて」
「えぇ!?」
 もう一度勢い良く、今度はタカのほうへとカヤは顔を向けた。
「明日練習あるから。明日までな」
「え、ちょっと……ムリだよ!」
「大丈夫大丈夫」
 好きなので良いから。簡単なことのようにタカは言うと、「んじゃ」と右手を上げた。
気がつけばもう、家の前。カヤ達の家は学校から近いため、話しているとすぐに着いてしまう。タカは軽い足取りで、カヤの方はもう見ずに、家の中へと入っていった。
「ちょ、タカっ」
 名前を呼んだ声は虚しく雨の音に消される。こんなやり取り、前にもあったな。と、カヤはため息をつきながら思った。


第三章

 そしてやってきた始めての練習。
 放課後タカと一緒に一度家に帰ったカヤは、制服から私服に着替えると、少し小さめのかばんに譜面と必要なものを詰め込み、外でベースを持ってくるタカを待った。
 公民館に着いてもいないのに、心臓はいつもよりも早く動き、足は少し震えている。何度も大きく深呼吸をするけれど、どちらも治まることはない。もう一度、と今度は前のよりもさらに大きく息を吸い込むと、吐くことはできずにげほげほと咳き込んでしまった。苦しさで俯いき口を手で押さえると、背に流していた長い髪が肩から落ちてカヤの左右を覆う。そしてその髪の向こうから、あきれたような声が聞こえてきた。
「なにやってんだ」
 真っ赤になった顔を上げ、髪を耳に掛けると眉間にしわを寄せたタカが、こちらをじっと見ていた。
「な、なんでもない!」
 真っ赤な顔のまま、少し怒鳴るように言って顔を背けるカヤに、あんま緊張すんなよ。と声をかけ、タカは先に歩き出した。
 何気ないタカの優しさに、元に戻りかけた顔がまた少し赤くなってしまう。こんなふうに優しくするのはずるい、と前を行くタカを睨んで、カヤは口の端を上げてにこっと微笑んだ。タカは自分を分かってくれている。そのことが嬉しかった。
 公民館へは10分ほどで着いた。音楽室のドアを開けると、前と同じようにひんやりとした空気が流れてきた。部屋の中を覗くと、もうアンプなどの機材がセットされていた。その中で一人椅子に座り、ギターのチューニングをしていたヒロは、小さくギィッと音をたてて開いたドアから入ってくるタカとカヤに、「よっ」と手を上げ微笑む。
「今日はうちゅう、ちゃんと来るらしいから」
「やっと全員揃うな」
 ヒロとタカの会話を聞いて、カヤは小さく首を傾げた。
「うちゅう……?」
 ヒロの言葉にあった単語を小声で呟くと、聞こえていたのか、ヒロは「あぁ、言ってなかったね」と“うちゅう”の説明を始めた。
「うちゅうってのは、うちのドラムの子ね。高一だからカヤちゃんと同い年。もうすぐ来ると思うから―――」
 ちょっと待ってて。と言おうとしたヒロの声は、バタンッという大きな音に遮られた。
「ごめん! 遅れた!!」
 開きすぎて壁にぶつかったドアを気にもせず、一人の男の子が慌てた様子で入ってきた。大きな声が、部屋の中に響く。
「おまっ……うるせーよ!」
 うるさいとその男の子に言うタカも、人のことを言えないくらい大声で怒鳴っていた。
「あはは、ごめんごめん」
 そんなことは気にもせず笑って謝る男の子は、たぶん悪かったなんて思ってはいないだろう。心の中で苦笑するカヤは、少し俯きながらその男の子をチラッと見た。今気づいたが、男の子の手には少しぼろぼろになったドラムのスティックが握られている。
「そいつが、うちゅうだよ」
 ギターを置いていつのまにかカヤの傍に立っていたヒロは、そう言いながら困ったように笑った。そうして、大きな声がまた部屋に響く。
「うちゅうって言うな!」
 むすっと頬を膨らまして、“うちゅう”はヒロを睨みつける。その鋭い視線を笑顔で交わし、ヒロは弟をなだめるお兄さんのように「はいはい」と頷いた。やっぱり暖かい、とカヤは思う。ヒロの雰囲気は周りの人を和ませる。将来、保父さんとかむいてそうだなぁと、カヤは一人想像しくすりと笑った。
「うちゅう、この子が新しいボーカル」
 カヤの背を少し押し、一歩前に出させたヒロをちらりと見て、「だからうちゅうって言うなっての」と小さく文句を言った後、うちゅうは女の子がうらやむような大きなぱっちりとした目で、じっとカヤを見つめた。
「あの、えと……カヤです」
 じっと見られることに耐えられず深く俯いたカヤは、小さな声でぼそぼそと自己紹介をする。こんなので聞こえたのかと不安だったけれど、だからと言って大きな声でできるわけが無い。不安と恐怖で目をぎゅっとつぶり、さらに深く俯く。すると、ヒロではない、もちろんタカでもない優しい声が聞こえてきた。
「あ、えっと。俺はソラです」
 ちらっと目を開けうちゅうを見ると、はにかんだように微笑んでいる。年よりも幼く見えるその顔は、笑うととても可愛いとカヤは思わず思ってしまった。そしてそのことに気がつくと、顔に熱が昇ってきて熱くなる。けれど、その熱はすぐに消えた。一つの疑問がカヤの頭の中に生まれる。
(……ソラ? うちゅうじゃなくて?)
 ドラムの子はうちゅうだと言ったヒロの言葉と、自分はソラだと言った本人の言葉がカヤの頭の中をぐるぐる回り、混乱してくる。そしてそこにさらに、追い討ちがかけられた。それをしたのは、やっぱりタカで。
「違うだろ。うちゅうだ」
 ―――もう訳がわからない。頭を抱えたくなる。結局、うちゅうなのかソラなのか、どっちなのか。
「あ、えと……」
 うちゅうでありソラである男の子は、タカをじろりと睨むと俯いたまま悩み続けるカヤを見て、困ったように口を開いた。
「俺の名前、漢字で書くと“宇宙”なんだけど、読みは“ソラ”なんだよね。だからヒロとタカは俺のことを“うちゅう”って呼んでるわけで……」
 だからほんとはソラって言うんだ。恥ずかしい名前でしょ。
 ほんのり赤くなった顔で少し首を傾け照れ笑いを浮かべる。明るい茶色で染めた髪が、ふわっと揺れた。
「だから、うちゅうって呼んどけ」
 タカはにししと笑って、自分よりも低い位置にある頭にぽんっと手を置き、その柔らかそうな茶色の髪をぐしゃぐしゃにした。
「うわっ、やめろって」
 必死な反抗は虚しくも簡単に交わされ、やっと開放され、きちんと整えられていたその髪はもう原型を留めていなかった。
(可哀相……)
 心からカヤは思う。必死に髪を直そうとする目の前の男の子に、自分を重ねてしまう。
「そろそろ始めるか」
 目の前で繰り広げられていた戦いを気にもせず、ヒロはそう言い徐に椅子と机を並べ始める。
「今日は初めての練習だから、まずはコミュニケーションから」
 そう言って、ぽかんと自分を見つめている三人に微笑んだ。


 机の上に広げられるお菓子に、カヤの目は奪われた。ジャガイモを使った定番スナック菓子から、アーモンドやマカダミアのチョコまで。様々な種類のお菓子と、オレンジジュースや炭酸ジュース、コーヒーのペットボトルが、ヒロの手によって次々と机の上に現れる。最後に紙コップがそれぞれに配られて、コミュニケーションの準備は完成した。
「……」
 それぞれが席に着き、自分の好きな飲み物をコップに注いでる間も、カヤの目はお菓子に釘付けだった。
「おーい、カヤちゃん」
 ブラックコーヒーをコップに注いだヒロが、向かい側に座るカヤの目の前で手のひらを横に振る。
「……っ!」
それに気づいてやっとお菓子から目を離したカヤは三人が自分をじっと見ているのに気がつき、今の状況が理解できずに目をぱちぱちさせた。
「お前、ずっと菓子見てたぞ」
 隣に座るタカの呆れた声で、やっと自分の状況に気がつく。コップに飲み物を注いでいないのは、もうカヤだけだった。
「ご、ごめんなさいっ!」
 慌ててカヤは謝りながら真っ赤な顔で俯いた。そんなカヤを見て楽しそうに笑ったヒロは、「いいよ、どれがいい?」と言いながら、カヤのコップを手にする。
「あ、いいです! 自分で注ぎます!」
 ばっと顔を上げると、にっこり笑ったヒロと目が合ってしまった。顔が先程よりも熱くなる。視線を逸らして俯くと、「じゃぁ、オレンジジュースで良い?」と自分を見て俯いてしまったカヤに、ヒロは相変わらず優しく訊ねた。
「あ……はい、いいです……」
 小さく頷くと、コップにジュースが注がれ目の前に置かれる。
「御代り自由だから、好きなの飲んでね?」
 自分の紙コップを手に持ったヒロは、カヤにそう言うと「よしっ」と一度大きく頷く。そしてコーヒーを一口飲むと、
「じゃぁ、コミュニケーションを始めようか」
 と楽しそうに目を細めた。
「コミュニケーションったって、何するんだよ」
 笑顔のヒロとは逆に、タカは眉間にしわを寄せスナック菓子をバリバリ食べながら問い掛ける。
「何でも良いんだけど……なんかメンバーに聞いてみたいこととかあったら、聞いたり……」
 と言っても、俺らは今更聞くこと無いけど。頭をがしがしと掻きながらヒロが苦く笑うと、隣に座るソラが手を上げながら身を乗り出した。
「はーい。俺、カヤに聞きたいことがある」
「え……っ」
 困ったようにおろおろとするカヤを気にもせず、ソラは問いかけた。
「カヤって、お菓子好きなの?」
「……え?」
 一瞬の沈黙。ソラ以外の三人は、目をぱっちりと見開いている。どうしてそんな質問が出るのか。
「だって、すっごい見てたじゃん」
 逆にソラは、どうして静かになるのか、と疑問に思いながらわけを一言で説明した。その説明を聞いてタカとヒロは一度ゆっくり瞬きをし、ぷっと噴出した。
「あっははははは」
 タカの笑い声が部屋に響き、もちろん隣にいたカヤの耳にも入ってくる。そこでやっとずっと固まっていたカヤもはっと気がつき、頬から一気に顔全体を赤くした。恥ずかしさで深く俯き、目をぎゅっとつぶる。
(あたしここに来て恥じかいてばっかだ……!)
 隣のタカを見ると、まだ笑っている。お腹を抱えて、深く頭を下げて大声で笑っているので、そのうち頭を机にぶつけるんじゃないかとカヤは思った。
(ぶつけちゃえば良いんだ……タカなんて)
 迫力のない涙目で睨みつけ、ちらっと向かい側のヒロを見ると、必死に笑いを堪えようとしているが、堪えきれず小さく笑っていた。
「……っ!」
 ヒロにまで笑われてしまい、カヤの恥ずかしさは一気に頂点へと達した。耳まで赤くなった顔で深く俯き、目にたまる涙がこぼれないように、強く唇を噛む。膝の上でぎゅっと握った両手は、ぷるぷると少し震えていた。そうして、やっと笑いが止まったタカが、苦しそうにひぃひぃ言いながら、恥ずかしさでしゃべることのできないカヤの代わりに、ソラに答えた。
「こいつさぁ、昔っからそうなんだって。菓子があるとじっと見て固まんの」
 げほげほっと一度咽て、一息つくと続ける。
「やばいほど菓子好きなんだって。ひたっすら食い続けるからな」
 なぁ。っとカヤの方を向いて同意を求める。楽しそうに。にやにやと笑いながら。
 カヤはぶんぶんと顔を横に振るだけで、タカに言い返すことができなかった。―――合っているのだから、仕方が無い。反論の仕様が無い。だからせめて、首を振って小さく抵抗しよう。
「ふーん。そうなんだ」
 ソラはそんなタカとカヤを一度交互に見て、納得した、と言うように小さく二度三度頷いた。
「じゃ、じゃぁ。次の話しに移ろうか」
 恥ずかしさを通り越し、深く沈みこむカヤを見て、その纏う暗いオーラのようなものを見たヒロは、一度コーヒーを飲んで乾いたのどを潤し、ぎこちなく笑って話題を変えようとした。そして、カヤの隣から一本の手が挙がる。
「はーい」
 その持ち主は、もちろんタカで。先程とは違い、少々真面目な顔をしていた。
「はい、タカ」
 タカの様子に気づき、ヒロも少し真剣な顔をしながら、落ちついた声で先を促す。
「カヤ、バンド名考えてきたか?」
 俯いたままだったカヤは、珍しく聞くタカの真面目な声にばっと顔を上げ、机を見ながら「うん」と頷いた。
「いくつ?」
「ひ……一つ」
「一つ!?」
 驚くタカに、カヤは力無く頷く。
「できればいろいろ考えてきてもらいたかったけど……」
 まぁ、仕方ないか。タカははぁっとため息をついた。それに続いて、ソラもヒロも、「いいよいいよ」とにこにことしながらすばやく頷く。早くどんな名前か聞きたい、といった様子が嫌でも分かった。
「で、どんなの?」
 三人の視線が、カヤへと集まる。カヤは一度ぎゅっと目をつぶって、深く息を吸い込んだ。
 ちゃんと考えてきたんだ。昨日の夜は寝ないで。今日の授業中だってノートもほとんどとらないで考えたんだ。これでダメだったら、他の人に考えてもらおう。
 そんなことを頭の中ぐるぐると考えて、ゆっくりと瞼を開け、みんなを見た。
 三人のじっと自分を見る視線が怖くて俯きたくなる。けれど今は、自分の考えてきたバンド名は、しっかりとみんなを見て言いたい。
(……前を向け)
 一言自分に言い聞かせ真っ直ぐ前を見たカヤは、不安で顔を少し青くしながら、その名前を音にする。
「ノ……ノア」


 それは伝説の話。
 人類の墜落に怒りを感じた神は大洪水を起こそうとした。ノアはそのことを神から聞き、方舟に乗って難を逃れるよう命ぜられた。そうして洪水から逃れたノアは、アダムにつぐ第二の祖先になったという。
「ノア……」
 ヒロが小さく呟き、ぱっと顔を輝かせる。
「良いんじゃない!? 俺すごい気に入った!」
「俺も!!」
 うんうんと力強く頷くソラの顔も、ヒロ以上に輝いていた。
 カヤはほっと息を吐いた。もしも自分の考えてきた名前が気に入られなかったら―――。そんな不安と緊張は、ヒロとソラの楽しそうな姿でどこかに消えて、替わりに今まで感じたことのないような安堵のような、喜びのような気持ちが全身に広がる。体の中がぽかぽかと暖かくなっていくのを感じた。
「じゃ、ノアで決定だな」
 タカのその一言に続いて、大きな拍手が部屋に沸きあがる。その拍手を浴びながら、カヤの頬は自然と緩み、唇はくっきりと三日月型にゆがんでいた。
 楽しい。素直にそう思う。ここにいることが。タカとヒロとソラと話していることが。こうやってバンドのメンバーとして何かをすることが。全てが今、楽しいと思う。こんなに楽しかったことが今まであっただろうかと思い返してみても、きっと今と匹敵するものはないだろう。それぐらいに、今が楽しくて心地よい。
「なぁ、字はどうすんの? ひらがなかカタカナか、英語か」
 いつの間にか小さないらない紙を取りだし、ボールペンを握ってソラは問いかけた。白い紙に大きな少し汚い字で『のあ』『ノア』と書いていく。そうして、ペンが止まった。
「英語って……どうかくの?」
 苦笑いを浮かべながら、ヒロを見上げる。
「n.o.a.hでノア」
 英語勉強しろ。とからかうように言うヒロと、バカだなぁと少し本気を混ぜながら言うタカの言葉を無視して、ソラは二つ並んだノアの下にもう一つ『noah』と書いた。そして、カヤを見つめる。
「カヤはどれが良い?」
 トントンとボールペンで机を打ってリズムを刻みながら、ソラはカヤの言葉を待つ。
「俺は英語が良い」
「タカには聞いてない!」
「ノアって単語も書けなかったくせにいばんな」
「うるっさい!」
 押されながらも必死に言い返すソラと、余裕のタカのやり取りを横で聞きながら、カヤはくすくすと笑い、一つ小さな深呼吸をした。
「あ、あたしは、英語が良い……です」
 不安そうにソラを見つめると、綺麗に並んだ歯を大きく見せて、ソラはにかっと笑った。
「俺も英語が良いと思ってた!」
(ふしぎな笑顔だなぁ)
 とカヤは思う。見ているこっちまで笑顔になってしまうような、そんな笑顔。こういうのも一つの才能なんだろうなぁと考えていると、そんな笑顔とは正反対の、眉間に皺を寄せて口の端を下に下げたタカの顔が、ずいっとカヤの隣に出てきてソラに向けられる。
「だから俺だってそうやって言ったじゃねぇか!」
「俺はカヤに聞いてたの!」
「はいはい、落ちついて」
 不機嫌そうな声と、それに反論する声。そしてその二つをなだめる声。どの声も喜びとは程遠いのに、どこか嬉しそうな感じがするのはなぜだろうか。そう考えてすぐに答えにたどり着いた。きっとみんな自分と同じように今が楽しいのだろう。自分がボーカルとして入って、今新しく名前をつけられようとしているこのバンドに、大きな喜びと期待があって、そこに少し混ざる不安がどこか心地よくて嬉しいのだ。
 自然と浮かぶ笑みをなんだか消すのはもったいなくて消さないまま、カヤはまだ言い争っている三人を順番に見た。そうして、最後に見たヒロと目が合う。二重の目が細められ、優しい笑顔がその顔に浮かんだ。
(この笑顔もふしぎだな……)
 自分もこんなふうに笑えたら良いのに、とぼんやりと考えていると、ヒロがカヤに向けて口を開いた。
「大文字か小文字か、とかはどうする?」
「あっ……え……?」
「あー普通だとつまんねぇしな。どっかにありそうな感じだし」
「そうそう。ちょっと懲りたいよね」
「“o”だけ大文字にするとか!」
 それぞれの考えを紙に次々と書き出していくがどれもしっくりとこない。四文字しかないこのバンド名に、どう工夫を出すか。四人は眉根を寄せて考えた。
 これから先、この四人でずっと名乗っていく名前。何十、何百とあるバンドの中、聞いている人に自分たちのバンドを覚えてもらうためには、名前も大切になってくる。小さな工夫で、大きな印象を与えることだって出来るのだ。
「いいのねぇかなぁ……」
「間に星を入れるとか」
「それは絶対却下」
「なんで!?」
「どう考えてもかっこ悪いじゃん」
「んじゃぁ……」
 沈黙が訪れる。紙にはもう、書くスペースがなくなっていた。
(何か……何か……)
 カヤはずっと考えている。腕を組んで俯いていたため落ちてきた髪を、いつものように何気なく耳に掛け直すと、頭の中に一つ浮かんだ。
(あっ……)
 何度も何度も頭に浮かべて、確かめる。今までに誰も出していない考え。自分的には良いんじゃないかと思う。言うべきか。言わないべきか―――。
「あ、えと……」
 カヤは口を開いた。
「何か思いついた?」
「は、はい」 
 ヒロの問いに頷くと、三人の顔が少し明るくなる。
「なになに?」
 ソラはペンを握りなおして、紙の裏の少ないスペースに書こうと構えた。
「えと……“n”と“h”を大文字にしたらどうかなと……」
「“n”と“h”?」
 繰り返しながら紙に書かれたのを見て、三人はあっと声をあげた。
「なんか良くねぇ!?」
 紙に向けられていた顔をばっと上げてソラが問うと、うんうんと残りの二人は頷く。
「何で思いつかなかったんだろ」
「結構思いつきそうなのにな」
「良いと思うよ、これ」
 タカを見つめ、ヒロが力強く言う。
「これでいくか、リーダー」
 同じようにヒロを見つめ、タカが言う。そして頷いたヒロがカヤとソラを見た。二人は迷うことなく縦に首を振る。ヒロは小さく「よしっ」と呟くと立ちあがった。その顔はやる気で満ち溢れている。それは他の三人も同じだった。
「じゃぁ、俺ら『NoaH』の初合わせといきますか!」
 三つの椅子が、がたりと音を鳴らして後ろに動いた。


第四章

 ギターのチューニングの音。ベースの音量を調節する音。ドラムのエイトビートを刻む音。それぞれの音が、乱雑に狭い音楽室の中に散らばる。ギターとベースの間、一つだけ少し前に置かれたマイクの前には、カヤが譜面を手に持って立っていた。両手で持たれた譜面をじっと見つめる顔は、眉間に皺を作っている。喉は急に乾いてきて、つばを飲み込むのにも一苦労した。紙の上に並ぶ音符を一つ一つ見つめながら、頭の中は焦りと不安で破裂してしまいそうだった。
 ちゃんと声は出るだろうか。音はあっているだろうか。歌詞を間違えたりしないだろうか―――。
 手のひらには汗がにじむ。なんだか少し、お腹も痛くなってきたような気がしてきた。どうしよう、どうしようと何度も心の中で繰り返していると、背後から肩をぽんっと叩かれた。
「わぁっ!!」
「おぉっ!」
 驚く声が同時に上がる。ばっと後ろを見ると、ヒロがピックを握った右手を宙にさ迷わせている。
「あーっと……合わせ、始めるけど」
 カヤがそこまで驚くとは思ってはいなかったので、カヤの声にヒロ自身も驚いた。そのため、笑っているのかいないのか、微妙なぎこちない表情をしてカヤに告げる。
「何回も呼んだんだけど」
 斜め右の後ろからは、タカの相変わらずな冷たい一言が飛んできた。
譜面を見つめて頭の中がぐるぐるとしていたカヤは、ヒロの「そろそろいいか?」という声が聞こえなかった。みんなが演奏を始めようと構えると、カヤはマイクの前に立ったまま動かない。何度も名前を呼んでも反応しないので、ヒロが心配して声をかけたのだった。
「ご、ごめんなさい!」
 状況を理解すると、カヤは慌てて後ろを向いて三人に頭を下げた。いーよいーよ、と笑って言うヒロとソラの声が背から落ちてきた髪に覆われた耳に届く。そうして、「相変わらずだな」と小さく笑うタカの声も。
(タカも相変わらずだな)
 胸の中、決して穏やかではない声でそう呟きながら、カヤはマイクに向かった。左手でそれをつかむと、機会の冷たい感触がどこか心地よく、少しだけ落ちつくことが出来た。「良い?」というソラの声に、小さく頷く。そしてスティックがカウントをとる音が、静かな部屋に響いた。
 やっぱりかっこいい、と二度目の生の演奏を聞いて思う。ギターのゆがんだ音が八分を刻む。その音とぴったりと重なる低いベースの音。ドラムのリズム。窓の開いていないこの部屋の中で、強くどこか落ちついた風が吹いているような、そんな感覚に全身が包まれる。このままこの演奏を目をつぶって聞いていたいと思う。けれど今は、これからはもう、そんなことは言っていられない。メロディーの無いこの演奏に、それを重ねるのだ。この声で。自分が歌うことで、やっとこれは一つの曲として出来上がる。
 息を一度吸った。けれど少ししか入ってこない。もう一度、今度はゆっくりと吸ってみる。お腹の底まで息が入るように。しっかりとした声が出るように。そして吐き出して譜面を見た。あと四小節で歌が入る。あと三小節。あと二小節―――。
(今だ)
 最後の一小節の三拍目。さっきのように大きく息を吸い、譜面のボーカルのところに書かれた、第一音目を声にした。三つの楽器がぴったりと重なる演奏の中に、自分の声が混ざる。何だか声が、いつもよりも遠い場所から出ているような気がした。後ろの演奏の方が大きく聞こえる。
(これで良いのかな……)
 音程はだいたいあっていると思う。リズムは大丈夫。声も、自分なりに大きく出しているつもりだ。きっとマイクを通って、もっと大きく聞こえているはず。
譜面を目で追いながらそのまま歌い続けると、ボーカルが休みになったところで演奏が止まった。
 どうしてか分からず後ろを見ると、三人がじっと自分を見ていた。
 何か悪かったのだろうか。自分の中では上手く歌えていた方だと思ったのだけれど。バンドとしては何かダメだったのかもしれない。
 ヒロを見ると、小さく微笑みながら口を開いた。
「カヤちゃん、もっと大きい声出しちゃって良いよ?」
「え……」
「マイクに声がちゃんと入ってないみたいだから、もっと口をマイクに近づけちゃって、大きい声で歌っちゃって」
「……」
 大きい声は出していた。自分の中では今までこんなに大きな声で歌ったことは無い。マイクにもちゃんと入っていると思っていた。けれど実際は違っていた。自分の声が遠くに聞こえたのは、後ろの演奏が大きく聞こえたのは、良いことなんかではなかった。
 カヤが唇に力をこめて俯いた。やっぱり自分じゃ無理なんだ。目には、涙が滲んでいた。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ!」
 ソラの明るい声が、静かになった部屋に広がる。
「初めてなんだからしょうがないじゃん。大きい声だってすぐに出るって! 頑張れ!」
「そうそう。もっと自信持って良いよ」
 ソラに続いて、ヒロも明るい口調でカヤを励ます。その言葉で顔を上げたカヤは、まだ泣きそうな顔をしながら、「はい……」と小さな声で言い、もう一度マイクに向かった。タカはただ、そんなカヤを見つめているだけだった。
「よし。じゃぁもう一回やろうか」
「頑張れ、カヤ!」
 ヒロとソラの声を後ろに聞きながら、さっきよりもしっかりとマイクを握った。こんな最初の所で迷惑なんてかけていられない。これからこのバンドでボーカルとして歌っていくのだから。みんなの良い演奏を無駄にしてしまうような、そんなボーカルにはなりたくない。
 前奏の三人の音をしっかりと聞いて。今度こそはと心に決めて。カヤはまた大きく息を吸って、それを声にした。
今度はちゃんと歌えているだろうか。なんだか先程と変わらず、勢いよく細かい和音を刻むギターの音や、ドラムやベースの音の方が大きく聞こえる。負けないようにと息を大きく吸おうとしても、喉が詰まったように苦しくなりまったく空気が入ってこなかった。
 サビに入る。ハイハットが高く鳴り、八分を刻んでいたギターは十六分に変わり、エフェクターによってゆがまされたその音は、アンプを通って切れ目が無くなっている様に聞こえる。周りの音は、先程以上に大きくなった。
 カヤは出来る限り声を張り上げて歌ったが、なぜかひどく喉が乾き、高音は擦れた音になってしまった。それでもと必死に声を出そうとすると、今度は喉が痛み出した。
 マイクを握る手に力がこもる。眉根を寄せながら、サビの最後の全音符を伸ばしきると、苦しさに咽てしまった。
「はい、ストーップ!」
 ヒロの静止の声がかかる。そうして、咳が止まらず座りこんでしまったカヤの周りに、三人は集まってきた。
「大丈夫?」
 ソラが心配そうに覗きこむと、カヤは苦しそうに呼吸をしながら、「大丈夫」と小さな声で答えた。
 咳は止まったけれど、顔を上げることが出来ない。
 情けなかった。ちゃんと歌を歌うことの出来ない自分が。情けなくて、悔しかった。
「カヤちゃん、無理しなくて良いよ」
 俯くカヤに、ヒロは上から優しく声をかける。それを聞いたカヤの肩が、ビクッと揺れた。
「最初っから上手く歌えることが出来る人なんてそういないよ。緊張や不安で上手く歌えないことがほとんどだから」
「そうそう。俺らはさっき始まったばっかりなんだし」
「そ。だからこれからがんばっていこう」
 ヒロとソラの優しさが、心に染みた。涙が溢れそうになるのを、カヤは慌てて服の袖で拭い去り、顔を上げる。
「……ごめんなさい」
 そう呟くと、「良いって」と笑う声が聞こえた。また涙が、じわりと目に浮かんできた。
「じゃぁ、今日はこれで終わるか。俺バイトあるし」
「そうすっか」
ヒロの声にソラとタカは頷き、楽器を片付けに戻っていく。カヤも立ちあがり、マイクを片付け始めた。
「次の練習は木曜日のこの時間だから」
 そう言うヒロの声が、ぼんやりと遠くで聞こえた。


「今日も疲れたなぁ」
「……うん」
 帰り道。タカとカヤは並んで夜の道を歩いている。「んー」と伸びをしたタカは、腕をだらんと落とし、ちらりとカヤを見た。
「お前さぁ」
「……ん?」
「気にしてるだろ」
 その一言に驚きタカを見ると、真っ直ぐな視線とぶつかった。慌てて顔を逸らしたカヤは、小さな声で問いかける。
「……何を?」
「ちゃんと歌えないこと」
「……っ!」
 はっきりと返事が返ってきた。視線はカヤから外れない。それが刺さるように痛く感じられて、かばんをぎゅっと掴んだ。
「だって……あたし全然歌えなくて、みんなに迷惑かけて……。自信なんか出ないよ。本当にあたしなんかで良いの……?」
 ぼそぼそと紡がれる言葉は、車道を走る車の音にかき消されてしまいそうだった。それでもタカは、一つも逃さずにそれを聞き取ると、はぁっと大きなため息をついた。カヤがさらに深く俯く。
「お前、ほんっとにバカだなぁ」
「……なっ!」
 呆れたような声にばっと顔を上げると、声とは逆に真面目な顔をしたタカの顔があった。
「ヒロもソラも言ってただろ。始めからちゃんと歌えるやつなんていない。俺達だって、最初は笑えるほど下手だった。それを練習しまくって、やっと今それなりに弾けるようになったんだ。最初っから上手く歌おうなんて、お前は欲張り過ぎなんだよ」
「……」
「お前がボーカルだから、このバンドは『NoaH』なんだ。忘れんじゃねーぞ」
 びしっと人差し指を突き出し、タカは偉そうにそう言った。そして驚いたようにそれを見ていたカヤの唇が、ゆっくりと三日月形にゆがみ、小さく見開いていた目は細くなる。
「……うん」
 安心したようににっこりと笑って小さく頷くカヤを見て、タカもにやっと笑った。
 タカの優しさが、暖かかった。





2005/11/27(Sun)22:57:00 公開 / 紅月 薄紅
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■作者からのメッセージ
だいぶ久しぶりの投稿です。こんにちわ。始めての方、始めまして。
実は前回の投稿の後、どうやって続きを書いていくかを悩んだりしていまして、どうも波に乗れなかったのですが、それでもやっぱりこの作品はちゃんと書いていきたくて、続きを書かせていただきました。どこから新たに投稿したのかわかりにくくてすいません(汗
それにしても。もうだいぶ寒くなってきましたね。皆さん風邪をひかないように、お体には十分気をつけてください。でわでわ。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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