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『輪廻の男』 ... ジャンル:ファンタジー ファンタジー
作者:もろQ
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「入って」
「失礼します」
金のドアノブを回して中に入ると、東から差す強い陽光に目を覆った。白く輝く光の中に男の人影が霞んでいる。私は今まで、暗闇の中に居たんだろうか。そう錯覚するほどの眩しさに目が慣れると、徐々に部屋の内装が確認できた。シックな茶色を基調とした壁と天井に、金やガラスの装飾が飾られ、足下を見れば、真っ赤な地に勇ましい獅子を描いたカーペットが床いっぱいに敷かれている。まさに豪華絢爛、それでいて心から落ち着ける、そんな空間だ。
「座って」
言われた私が辺りを見渡すと、部屋の中央にひとつ椅子が置いてある。手すりや足にも見事な装飾が施され、背中をもたれると、包み込まれそうな柔らかい感触に心まで奪われた。窓の光を背に、男はデスクに両手を組んで私を見ている。
「ここに呼ばれた理由が分かるか」
「………いいえ、分かりません」
私は偉人の部屋を訪ねた時のように丁重に答えた。
「それでは、お前が死んだという事実は」
「承知しています。老衰でした」
「ふむ………」
男は眉間に指を当て、手元の書類に目をやった。
中野邦晴、享年78歳。東京都大田区の生まれ、神奈川県横浜市の広告会社「アール・エム」に就職し、定年退職。とそこまで読み上げ、男は黙って聴いているままの私に質問した。
「中野邦晴氏、死後の世界が天国と地獄に別れているのは知っているだろう」
「はい」
「そしてどういった人間が天国へ行き、地獄へ行くのか、という事は」
「生前、善い行いをした者が天国に、悪行を犯した者が地獄へ行くと聞いています」
「よろしい」
肌寒い空気が、静寂とともに満ちていた。朝なのだろうか。それとも、夜の訪れを暗示しているのだろうか。この部屋には時計がない。
「お前は、これから自分がどちらへ行けると思う。天国か、地獄か」
私は尋ねられて知った。生前私がそんな疑問に気づきもしなかった事に。そして悩んだ。生前私はどちらへ行くべき人間だったのか。分からない。目に見えない針がゆっくりと進むように思った。
「分かりません」
「そうだ」
男は書類を伏せた。
「我々にも分からないのだよ」
「我々の仕事は、死者を天国へ送るか、地獄へ送るかを決定する事だ。死者のほとんどは大抵どちらかに決められるのだが、ごく稀に、そう、100万年にひとり程だが、どちらにも決定できない者がやってくる」
「そのひとりが、私という事ですか」
「うむ。例えば………」
今度は冊子になった書類のページをめくっている。私は椅子にかけたまま聞く。
「当時お前は24。9月27日午前11時28分に東京郊外を歩いていた際、前を歩いていた子供が突然転び、大声を上げて泣き出した。その時お前はどうした」
本当なら忘れてしまう程、人生の中でごく些細な出来事。しかしその時の印象があまりにも鮮明なのか、あるいはこの部屋の肌寒い空気がそうさせるのかは分からないが、とにかく私は、するすると記憶の糸をたぐり寄せ、24歳の自分を垣間見る事ができたのだった。
秋分を過ぎても夏の暑さが残る並木道。それでも風は涼やかに吹き抜け、男の子は、真っ赤な風船を風になびかせてこちらへ走ってきた。白く差す日の光。青く透ける空。揺れる木々の緑。そして、白と青と緑、それぞれの間を縫って泳ぎ出す真っ赤な真っ赤な風船。ついに泣き出した男の子。頬を染めて泣きじゃくる彼の小さな手を、僕の大きな右手と重ねようとする。しかし、触れても触れても、ふたつは思いの隅ですれ違うだけ。代わりに僕の背後から差し出された左手が彼の手を取った。右手は飛んで行きそうな風船を掴んでいた。
「手は伸ばしました。ですが、背の高い男が先に手を出して、子供は起き上げられました」
「そうだろう。お前にはいつも、何かをしてあげようという気持ちはあるが、実際にそれを行った結果はほとんど見られていない。よってお前はここへ連れてこられたのだ」
なるほど、今になって思えば、私の人生はそんな事ばかりだった。身長だって体重だって、テストの点でさえ私はクラスで「ちょうど真ん中」だった。優柔不断だった私は何かを選択する時も「どちらでもいい」と答えたし、そうだ。「アール・エム」に勤めた理由だって、面接に受かった2社の片方をくじ引きで選んだだけだったのだ。私はいつだって「普通の人」だった。「平凡な人」だった。あるいは人によっては「なんの面白みもない人」だったはずだ。
「そういう者は、どういうふうに処理されるのですか」
私は尋ねた。すると男は資料を机上に戻し、再び私の目を見た。私も見つめ返す。
「お前には調査室で一定期間生活してもらう。お前が生活している様子を我々がさらに細かく調べ、最終的に天国か地獄どちらへ転送するかを決定する」
そう言うと男は立ち上がり、私が先程入ってきた扉を開け、廊下の向こうへ手をやった。男の鋭いまなざしを見て、あまり良い気はしなかった。
ものの10分もしないうちに、私は白い個室に閉じ込められた。色も匂いも、人の気配すらないこの場所は、先程の豪華な部屋とは段違いだった。できればあの部屋に戻りたかったが、きっとしばらく出られないだろうと思い諦めた。天井と壁の境目も区別できない程、全てが無色の部屋に、監視カメラのようなものが4台取り付けられている。あれに映された私を見て、調査員たちがあれこれ審議をしているのだろう。私は寝転びながらカメラのひとつをぼんやりと眺めていた。そして、自分は天国か地獄、どちらの世界へ行くべきなのかを長い時間を費やして考えた。長い永い時間を。
疑問に思ったのは、肉体は死んでいるのに、未だ空腹という概念が存在している事だった。大体1日に2回程度、もちろん時計はないのだが生前の時間感覚から見て2回程度、小さな銀の皿に肉や野菜を潰して柔らかくしたようなものが突然現れる。決して旨いとは言えないが、贅沢も言ってられんと思い黙って食べた。食べ終わると、食器はしばらくしてこつ然と消える。排泄については、もちろん便所など付いていないので仕方なく部屋の隅で用を足す。その汚れもしばらくすると綺麗に掃除されているのだった。
私は時間をとてつもなく持て余す。そうすると再び連れて行かれる世界について思いを巡らせた。天国へ行けば、穏やかで、暖かい暮らしを永遠に続けられる。はたまた地獄へ行けば、毎日のように労働を重ね、辛く厳しい生活を余儀なくされるだろう。私はそのどちらを望むだろうか。天国へ行けば幸せだ。地獄へ行けば涙を流す。そのどちらの結果にも私の本音は首を傾げ、また別の答えを探し出そうとしているのだった。我に返り目を開けても、眼孔には白い壁面が映るばかりである。
スローモーションのように描かれた記憶の断片。真っ赤な風船を握りしめた右手は僕の頭上を通り越して男の子の左手へ渡る。男の子は頭を撫でられ、心から幸せそうな笑顔で応える。触れ損ねた僕の右手は、なぜこんなにも小さく弱々しいのだろう。触れた男の右手は、なぜこんなにも大らかで暖かいのだろう。決して太陽の熱さではない、なんて柔らかい温もり。吹き抜けた風のように、一抹の優しさしかない僕の温もり。私が感じたものは、一体なんだったろう。私がこの白い部屋にいる意味は。私がどこへ行くかなんて、そんな小さな疑問は。
「聞こえているんでしょう?」
カメラは何も言わない。
「私は生きすぎた。まるですり切れた絹のようにぼろぼろになってしまうまで。しかしもしかすると、私は少しも生きなかったのかもしれない。人として。人生を生きる人間として。今思えば、私はすごく寂しい人間だった」
私は心の底から話していた。心の底に落ちていたものが多すぎて、私は話せるだけ話した。レンズの向こうできっと見ている誰かへ。いや、誰もいなくとも良かった。私は気づいたのだ。私がどんな人間だったかを。それが話せれば良かった。
「できるなら、もう一度生きたい。今度はちゃんとした人生を。あの日の私の手が、男の子の風船をしっかり掴めるような。もっともっと優しい人間に」
年老いて、さらに死の川までも渡ってしまった後で、ようやく知った自分の在るべき姿。とても恥ずかしく思ったが、それでも今、この場所で知る事ができ、大変嬉しく思った。
どこまでも白いこの部屋で、寝転んでいた私はいつの間にか立っていた。
私の想いが通じたのだろうか。いや、あるいは私が平凡すぎて全くどちらにも当てはまらないと判断されただけだろうか。私は今、時空を超えて新たな母体へと送られて往く。細く長く伸びていた手指の先が段々と丸みを帯び、そして幼さを取り戻していく。私は蘇る。この時を、私はどれほど待ち望んでいただろうか。いや、この時が在るから、私は生前偽りの平凡を造り続けていられたのだ。全てはこの2つ目の命のため。人間の行動のみを記録して、その内に溢れる貪欲な、卑しい感情には全く手を触れようとしない堕落した死界には、「今度はちゃんとした人生を」ぐらい言っておけばいいのだ。見よ、この胎児の笑顔を。欲望に満ちあふれてなんとも可愛らしいだろう?
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2005/07/02(Sat)02:31:32 公開 / もろQ
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■作者からのメッセージ
悪いじいさんでした。
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