-
『again プロローグ〜第3話』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:ギギ
-
123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
『 again 』
過去に戻りたいと思ったことはないですか?
過去に戻って人生をやり直したいと思ったことは?
誰にでも、1度はあるはず
あの時こうしていれば、その後の人生が今以上に幸福になるのではないか・・・・・・
あの時ああしていれば、私は大金を得ることができたのに・・・・・・
あの日、あの時、あの場所で、自分のちょっとした選択の違いで、失ってしまった大切な人救えたかもしれない・・・・・・
その時の事柄が鮮烈であればあるほど、その思いは強くなっていくもの
これは、そう思い続けて生きてきた一人の女性に起きた、奇妙な出来事の物語である・・・・・・
【プロローグ】
ゴトンッ、ゴトンッという電車特有の規則正しい振動が体に感じられ、その振動が眠りを誘い、意識を保つことが困難だったが、不意に顔に当たる少し冷たい風に、唐突に目を覚ました。
目を開くとさらに意識がはっきりしてきた。3月も終わりに近づき、春の気配を感じさせるはずの空気だったが、顔に感じる風には、そんな雰囲気は感じられない。時々鼻を突くしめった空気を嗅ぐまでもなく、車窓の外を流れる漆黒の風景ですぐに地下鉄なのだと解る。
不意に ハッ として、彼女はせわしなく周囲を見渡し何かを探す。
つり革、中吊り広告、網棚と目を移し、丁度自分の上の網棚に目的の物を発見した。おもむろに席を立ち、網棚からその目的の物を取ってまた席に着く。
それは乗客の誰かが捨てていったスポーツ新聞だった。
年頃の娘が、網棚に捨ててあるスポーツ新聞を手にとって読む事を奇妙に思った隣の中年の男性が、手にしていた文庫本から目を離し、一瞬怪訝そうな一瞥を投げかけたが、彼女はそんなことを全く気にせず食い入るように新聞を開いて見ている。
《阪神大震災から2ヶ月、傷跡、未だ消えず》
《オリックス、イチロー2年目の野望を語る・・・・・・》
――― イチロー、オリックス? 阪神大震災?・・・・・・ もしかしたら・・・・・・
そして日付を確認する。
《平成7年3月20日 月曜日》
彼女は新聞を閉じ、深呼吸をする。心臓の鼓動が早くなっていくのが解る。
彼女は再び目を閉じ、気持ちを落ち着かせながら頭の中で自分に起きたことを整理してみる。
そのまま彼女は右の頬を少しつねってみた。確かに痛みを感じ、これが夢ではないことを確認する。定番な行為だがこれがもっともわかりやすい。彼女の口元に薄い笑みが浮かぶ。
端から見れば、はなはだ何とも不審に見えているだろう。前に立つ男性がそんな彼女を眉を寄せて眺めている。
だが彼女にとって、それは大切な儀式のように思えた。
そして彼女の隣に座る中年の男性に声を掛けた。
「すいません。あの、今日は3月20日ですよね? 」
中年男は読んでいた文庫本から目を離し、不思議そうな目で彼女を見る。
「ええ・・・・・・ 」
自分の想像通りのその答えに、思わず喝采を上げたい衝動に駆られる。だがすぐに気分を一転して、もう一つの重要な答えを聞く。
「あの・・・・・・ 今どの辺りだか解ります? 乗り越しちゃったかもしれないんで・・・・・・ 」「さっき上野を過ぎたから、そろそろ仲御徒町に着くんじゃないかな? 」
彼女は中年男に丁寧に礼を言って腕時計を見た。
バブル経済の崩壊により、年々学生の就職率は下がる一方で、ついには『就職氷河期』などという言葉がなかば流行語のように横行する中で、運良く希望の会社に内定が決まり、そのお祝いにと親戚の叔母から貰った物だった。文字盤に刻まれたチューリップのマークが可愛く気に入っていて久しぶりに見たその時計はまだ新しく、銀色の縁が照明を写し光っていた。
時計の針は午前7時40分を少し回った辺りを指していた。
「急がなくっちゃ・・・・・・ 」
彼女小さな声で呟き、席を立った。
―――― 急がなくてはならない。間に合わなかったら何の意味もない。もうすぐ仲御徒町。その次は秋葉原。確か秋葉原からの筈だ。秋葉原に着く前にやらなければならない。出来れば目的を達成し秋葉原でこの電車を降りておきたい・・・・・・
席を立った彼女は、車両を移動する。明日が春分の日ということもあり、休暇を取って連休にした会社員が多いせいか、いつもと違い朝の時間帯にもかかわらず比較的スムーズに隣の車両に行くドアまでたどり着いた。
ドアのガラスに薄く映った自分の顔を見て、改めて自分に起きたことを実感する。
―――― 髪、こんなに長かったっけ・・・・・・
そんなことを考えながらドアの取手に手を掛けた。ここからではお客で向こうのドアは見えない。目的地はその扉の向こう。先頭から3両目である。
あと数分であの悪夢が始まるのだ。それを知っているのは、実行者と自分だけ・・・・・・ このドアを抜けたら、もう後には引けないし、失敗は許されない。
彼女は深呼吸を一つしてから、意を決したように取手に力を込めた。
その時、次の停車駅である仲御徒町の到着を告げる車内アナウンスが流れ、電車がスピードを落とし始めた。慣性で前に行きそうになる自分の体を、開きかけたドアに預けながら彼女は小さく呟いた。
「さあ、行こう・・・・・・ もう一度やり直す為に」
連結ドアを潜る彼女の瞳には、一片の迷いも伺えなかった。
【第1話 手紙】
営業部の課長と、取引先の重役の接待で相手の顔色を伺いながら上手くもない酒を飲んだ後、飲み直しにと、その後課長と場所を変えて飲み続けて、南千住にある俺のアパートに戻ってきたのは午前2時を少し回っていた。
接待で掴んだ相手先の感触に確かな手応えを感じ、気を良くした課長の奢りでタクシーに乗り込み俺は家路についた。先に課長を自宅に送り届けて、途中気分が悪くなり運転手に2回ほど車を止めて貰い、道ばたに嘔吐したせいかアパートに着く頃には少々酔いが醒めていた。
タクシーの運ちゃんに深夜料金プラス、嘔吐のために止めて貰ったお礼も含めて余分に払い俺はタクシーを降りた。
3月も半ばを過ぎたとはいえ、まだまだ夜は冷える。俺は「冷えるなぁ」と呟きながら抱えていたスーツの上着に袖を通すと、背後で俺の払いに気をよくしたタクシーの運ちゃんの「旦那、また宜しくお願いします」の声に「おうっ、またな」などと軽く手を上げながら偉そうに答え、俺は自分の部屋があるアパートの階段に向かって歩き出した。
鉄骨造2階建て、典型的なプレファブアパートのスチール階段は、いくら気を遣ってもカンカンッ と甲高い音を立てる。だが、ここに住んでまだ半年、しょっちゅう帰宅が遅いが一度も苦情を言われたことがなかった。
階段同様なんの飾りもない意匠の殺風景な廊下を歩き、俺は自分の部屋の前まで行ってポケットの鍵を探す。鍵に付いた少々大きめのスヌーピーのキーホルダーが、ズボンのポケット底に引っかかりいつも取り出すのに手間取る。取り替えれば良いのだが、半年前に6歳になる娘が付けてくれた物ということもあり、不便だが未だに使っている。
右手でポケットをまさぐりながら、俺は左の郵便受けに目をやる。左に持っていた鞄を股に挟んで、フリーになった左手で郵便受けを開くと、レンタルビデオ屋やら宅配ピザ屋やらのチラシが数枚、クレジットカードの請求明細などが無造作に詰まっている。
俺はその束を掴み、やっと出てきた部屋の鍵を持つ右手を添えながら、その束を落とさないように右脇に挟みつつ、起用に鍵を開けて部屋に入った。
玄関で靴を脱ぎながら、突き当たりの窓から入り込む街灯の明かりを頼りに、俺は電気のスイッチを探し当て部屋の明かりを付けた。
付けた瞬間はどうしても暗いインバーター型特有の蛍光灯の明かりに照らし出された1LDKの誰も居ない部屋は、酷く寂しく殺伐としていた。
スチール製のパイプベッド、座卓、ほとんど観ないテレビ、パソコン、プリンター、樹脂製のキャスター付きタンス・・・・・・ これだけで約7帖の部屋は一杯だった。
俺は手に持っていた物を座卓に置き、上着を脱ぎながらテレビの上にある写真立てに入った1枚の写真を眺める。
写真にはコスモス畑をバックに俺と当時髪の長かった妻、その2人に囲まれ、大きな口を開けて笑う娘が映っている。皆幸せそうで、どこにでもある家族の写真だった。
28歳の時、子供が出来たことをきっかけに結婚したが、妻とは半年前から別居中だった。今年から小学校に上がる娘は、現在妻と一緒に暮らしている。近くにある妻の実家に子供を預け、妻も働いているので生活費と子供の養育費として毎月の給料から仕送りする金額はそれほど多くはない。
会社は中堅所の浄水器メーカー。営業部に席を置く俺は成績もまずまずといったところで、30頭で係長に昇進し、妻に送る生活費、養育費を差し引いても、自分一人だけならそれほど贅沢をしない限り充分やっていける稼ぎだった。
別居に至ったきっかけは忘れた。
いや、今にして思えば、きっかけと呼べる物は無数にあったかもしれない。
娘が生まれ、俺は意欲的に働いた。営業成績が上がるに連れて責任もまた上がり、当然部下の仕事をチェックし、残業で自分の仕事をこなす。日本企業における営業という部署のほとんどがそうであるように、接待に次ぐ接待で取引先の重役をヨイショし内々に契約をまとめる。
そうして帰りが遅くなる日が続き、気が付くと俺は家族と離れ、一人でここに移り住んでいた。
何が悪かったのかと考え、全てが微妙にズレていたのだと思い直す。俺は経済的に安定した生活を望み、彼女は夕食を家族で囲む様な暖かい家庭を願っていたのだ。
もう少しお互い努力し工夫すれば、お互いの望みを両立させる方法があったかもしれないが、そこに思い当たる前にここまで来てしまった。
俺たち夫婦の滑稽な家庭生活は、当時幼稚園の年長に上がった娘の目にはどのように映っていたのだろう・・・・・・ その娘に愚かにも俺は「パパとママ、どっちと暮らしたい? 」と問い、足下に目を落としながら小さく「ママ・・・・・・ 」と呟いた彼女の答えに、当時の俺は素直に従った。それは彼女が本当に望んだ結果では無かっただろう。
Yシャツを洗濯機に放り込み、Tシャツと短パン姿でキッチンまで行って冷蔵庫からペットボトルの麦茶出して納得のいくまで飲んだ。そしてそのままベッドに倒れ込み、仰向けになりながら郵便物を確認する。
住んでまだ半年の俺宛にくる郵便物などたかがしれている。役所関係の書類は手続きしていないのでまだ妻の所に届くだろう。ましてや妻からの手紙など万が一にもあり得ない。もっとも妻ならばメールしてくるだろう。
たしかクレジットカードの支払い明細があったな、と思い不要なチラシ関係を枕元にあるゴミ箱に放り込んでいく。何枚かめくった後に目的の封書を発見し、頭を破こうとして折り目に指をかけた時、その後ろにもう一枚白い封書が重なっているのが見えた。
なんだこれは? と思いそれを取り出し眺めてみる。宛名面に
―――― 井原 一樹様
と俺の名前が書いてあるだけで、他には何も書かれていない。
郵便番号はおろか住所も未記入な事から、この封書が直接俺の部屋の郵便受けに投函されたのは明らかだった。俺は不思議に思い裏返して差出人を見てみる。
―――― 本條 由美子
とだけ書かれている。表同様その他に差出人の住所などは一切記入されていない。
「本條由美子・・・・・・ 」
声に出してみたが全く記憶にない名前である。
一瞬間違いではないか? と思い開けるのをためらったが、俺の名前が記入してある以上、俺宛であることは間違いないだろうと思い直し、頭を破いて中を見た。
中には便箋が1通入っていた。どうやら手紙らしい。
――― 拝啓、井原一樹様、お久しぶりです。いや、今の貴方は初めましてですね。先日遠くより姿を眺め、私の知る貴方よりも元気な姿に思わず胸が一杯になりました。懐かしさのあまりこのような手紙を出してしまい、さぞ不思議に思っていることでしょう。お許し下さい。
お察しの通り、私と貴方は昔会っています。貴方は憶えていないと思いますが、私は貴方のことを片時も忘れたことは有りませんでした。
色々な事が重なり、現在の貴方を捜し出すのに10年掛かりました。この10年何度諦めかけたことか・・・・・・
やっと探し出したのですが、貴方は私の知る貴方では無く、違う人生を歩まれていました。ですがもうその事は仕方がないことです。全ては私があの時に失敗した事が原因です。今の私には元気な貴方を遠くから眺めることで充分だと思うようになって来ました。
ところが、私の周りに再び変化が起こり始めています。恐らくこれは前兆です。多分事が起こるのは3月20日・・・・・・
その前に、どうしても貴方に会いたい。会って話がしたいのです。10年前のあの日、私に何が起こったのかを貴方に知って貰いたい。
お忙しいでしょうが、どうか宜しくお願いいたします。お会いできた時に、貴方の疑問と私が何者であるのかをお話したいと思っております。
それではまた連絡いたします。
追伸、もう一度貴方の弾くギターを聞いてみたかったです
――― 本條 由美子
俺は1度読み終えてから、もう1度読み返し、益々よく分からなくなった。おかしな手紙だ。名前に全く覚えがないのもさることながら、手紙の端々におかしな言い回しがある。 手紙に何度か「元気な貴方」とあるが、それはどういう意味なのだろう。俺はたまに風邪はひくが、特別体に悪いところはない。彼女が知る(と主張する)俺は体が悪いということになる。全く持って訳が解らない。
読んでいる途中、悪戯かと思ったが、最後の方は何となく切実な想いがあるように思える。
そして、追伸・・・・・・ 俺の弾くギター? 何故それを知っているのだろう。
俺がこの手紙を丸めてゴミ箱に捨てなかった理由は、この追伸の部分が引っかかったのと、10年前という年数。それと3月20日という日付だった。
俺は座卓に手紙を置き、そのまま頭の後ろに両手を持っていきベッドに仰向けにひっくり返ったまま、ぼんやりと蛍光灯を眺めていた。
今から10年前、1995年・・・・・・ 平成7年3月20日。
10年前、確かに俺はギターを弾いていた。大学を中退しギターでメジャーデビューをするという浅はかな夢を抱いて親の反対を無視し、熊本から上京してきたのが丁度その頃だった。当時俺は東京で集めたメンバーでバンドを組み、ライブハウスを渡り歩いてオーディションに片っ端から応募していた。若気の至りって奴だ。
その日、六本木の知り合いの貸しスタジオに、朝ならただで良いと言われメンバーと現地で待ち合わせをしていた。そしてそこに向かうべく、俺は地下鉄日比谷線に乗った。
あの日以来、俺は地下鉄に乗らなくなったのだ・・・・・・
そんなことを考えながら、俺はいつの間にか、そのまま眠りに落ちていた。
【第2話 起想】
次の日、俺は朝会社に寄らず、朝一番から得意先のアポが入っていたので直接、先方の会社に向かった。途中、部下の木下と合流してそのまま午前中は得意先回りをする。
朝から文句なしの晴天で、3月というの日中の最高気温は27度を記録し夏日となった。 俺たちリクルートスーツに身を固めた営業サラリーマンにとって、この中途半端な季節は本当にやっかいだ。営業という職業柄、上着を脱いで先方に出向く事は失礼に当たる。しかし、汗だくになった中年男が入ってきても誰もいい顔はしないだろう。
軽涼スーツを着るにも朝夕と日中の気温差が激しく着てくる訳にはいかない。結局、着たり脱いだりを繰り返す事によって、夕方には上着の皺が増えてしまうのだ。安物のスーツじゃ2週間でガタがくる。
よく、良いスーツを何か特別な行事の時に着て、安物のスーツを普段に着る人がいるが、我々営業マンはむしろ営業活動をする時こそ良い物を着る方が最終的にコストがかからないのだ。まぁ、それも人によって考え方や価値観が違うから一概にも言えないが・・・・・・
俺たち2人は午前中に回る最後の得意先で挨拶を済ませ、その会社を出た。外に出て早々に部下の木下は自動販売機に飛びつき、ペットボトルのスポーツ飲料を買う。
「井原さん、何が良いです? 」
木下はハンカチで額に浮いた汗を拭いている俺に声を掛けてきた。
「俺、生茶」
木下は自動販売機に追加の金を放り込み、買った2本のペットボトルを抱えて戻ってきた。木下は去年新卒で入社してきて俺の下で目下営業活動の修行をしている若者だった。 一昨年まで俺の下で働いていた部下の一人が人事移動になり、その補充として営業2課に入ってきた。歳は24歳、大学時代はフェンシング部に所属し、結構良い成績だったらしい。ただそれにのめり込んで仕舞ったのか、卒業は1年見送りとなったようだ。フェンシングで培ったのか、今時の若者には無い根性がある将来有望な男だった。
「いやー、さっき中で出して貰ったお茶、暖かいんですもん、のど乾いちゃって・・・・・・ 」
そう言いながら木下は生茶を俺に渡し、自分のスポーツ飲料を開けて一気にあおった。500mlのペットボトルが半分以上無くなったところでようやく口を離した。
「確かに俺もそう思うが・・・・・・ お前そんなに一気に飲んで、胃けいれん起こしても知らんぞ」
俺もペットボトルを上に傾け、3回ほど喉を鳴らしてから木下に言った。
「大丈夫ッス、自分昔から胃は丈夫なんですよ」
そう言って木下は笑い、残ったスポーツ飲料を飲み干した。さすがに体育会系なだけに見事な飲みっぷりだった。
空のペットボトルを自販機の横にあるゴミ箱に器用にカップインさせ、小さくガッツポーズを決めると、木下はおれに聞いてきた。
「これからどうします? 」
「そうだな・・・・・・ 今日はもう会社に戻ろう。作らなきゃならない見積もあるしな」
「昼飯は? 」
そう言いながら木下は腕時計を見る。
「途中でなんか食っていくか・・・・・・ 」
俺も自分の時計を見ると11時半を指していた。俺は残りの生茶を飲み干してからそう言った。
「そうッスね。了解です」
「んじゃ行くか・・・・・・ しかし暑いなぁ」
そう言って、俺は上着を脱いで小脇に抱え、Yシャツを捲りながら歩き始めた。するとすぐ木下が意外そうな声で俺に言った。
「井原さん、駅こっちッスよ? 」
振り向くと木下が反対方向を指して立っている。
「ああ、知ってるよ。でも俺は錦糸町まで歩いて秋葉原に出る。そんでもって山手線で戻るのさ」
そう言って俺は歩き始めた。慌てて木下も後についてくる。我ながら少々強引だと思わない訳でもないが・・・・・・
「銀座線で渋谷まで一本なのに、全く・・・・・・ 秋山先輩が言ってた通りだ」
走って追いついてきた木下が呆れたように呟いた。
「秋山がなんか言ってたか? 」
秋山とは去年の10月まで俺の下でやっていた部下の一人だったが、実家の家業を継ぐとかで退社し、故郷の岩手に帰っていった。
そう言えば奴は木下と同じ大学出身だったな。
「井原さんは絶対に地下鉄に乗らないんだって、何でも昔事故に巻き込まれて以来、地下鉄恐怖症になったんだとか・・・・・・ そうなんですか? 」
あのおしゃべりめ! 俺はそう心の中で毒づいた。そう言えば前に奴と飲みに言った時、酔った勢いでこぼしたことがあったかもしれない。
俺が黙って歩いていると木下はさらに続けて聞いてくる。
「一体どんな事故だったんです? その事故新聞に載りました? 」
「忘れたよ。別になんだって良いじゃねえか、ほらっ、信号変わっちまう、走るぞっ! 」
俺は木下の質問をうやむやに答えて、点滅する信号機を睨みながら横断歩道を走り出していた。
俺たちは錦糸町から総武本線で秋葉原まで行き、秋葉原で昼飯を食った後山手線に乗り込んだ。
平日の昼時で車内は比較的空いており、2人とも座ることが出来た。「井原さん、自分起こしますから寝ていいッスよ」と調子よく言った木下だったが、座って5分と経たずにコクリ、コクリと船を漕ぎ始めた。
俺は「まったく・・・・・・」と木下の調子の良さに呆れながらも、昨日の、あの不可解な手紙について考えていた。さっきの木下の言葉に俺は影響されていたのかもしれない。
俺は彼女が俺と会ったと主張する10年前の出来事について思い出すことにする。
思えばあの年は最悪な年だった。
今から丁度10年前。1995年、平成7年は平成に入って最大の大惨事で幕を開ける事になる。
年が明け、正月のおとそ気分もやっと抜けたかと思う頃、平成7年1月17日火曜日午前5時46分。神戸を中心とする兵庫県南部を襲った揺れは震度7の烈震だった。
震源地は淡路島、北緯34度36分、東経135度02分。震源の深さは16Km。地震の規模を示すマグニチュードは7.2を記録した。
日の出前ということもあり、地震直後の報道では、被害は小規模とのことだった。しかし時間が経ち明るくなって被害が露わになってくると、その被害は人々の想像を遙かに超える凄惨さを呈していた。
震度7を記録した神戸市の須磨区、長田区。芦屋市芦屋駅付近などは、倒壊する建物が相次ぎ、特に須磨区はそれによる火災で火の海と化した。
消火活動に現れるはずの消防隊は、寸断された道路に妨害され現地に到着できず、また到着しても、その被害の多さに圧倒的な人員不足で為す術がない状況だった。これにより多くの人が、目の前で焼け崩れる我が家と、逃げ遅れた家族を助けることも出来ずに、ただ呆然と絶望の涙を流すしかなかったであろう。
倒壊した建物のほとんどが、築後20年以上の建物だったとは言え、あの折れ曲がり横倒しになった高速道路の橋脚の映像は、それまで過信していた鉄筋コンクリート建造物の不敗神話を根底から崩す事となった。
死者6432人
重・軽傷者43792人
行方不明者3人、
全壊及び半壊家屋512882棟
火災被害家屋7483棟
焼損床面積834663u
後に消防庁災害対策本部が発表するこれらの数字以外、また報道される以外にも、被災された当事者にしか解らない様々な悲劇があったであろう事は想像に難くない。
連日報道される震災の被害状況の映像は、都市部における大地震の恐ろしさを、改めて全国民に知らしめる事となった。これにより国家の防災体制の欠陥が露呈したと言えるだろう。
気象庁正式名称「平成7年兵庫県南部地震」と名付けられたこの地震は、後に阪神淡路大震災(通称阪神大震災)と一般に呼ばれるようになる。
この他にも平成7年は、相次ぐ金融機関の破綻、沖縄米兵暴行事件、スーパーで女子高生射殺などろくな事がなかった。円相場は80円を突破するという今ではちょっと考えられない超円高で、金利は史上最低となった。
良いニュースは野茂の大リーグ新人王ぐらいだったろう。
1995年は日本人にとって最悪の年だったと俺は思う。
そして、俺がこの年が最悪だったと思えるもう一つの理由・・・・・・ 平成7年の重大ニュースの中で、阪神大震災の次に挙げられる、ある事件があった・・・・・・
その事件は東京都の地下を走る地下鉄という密閉された特殊な空間が惨劇の舞台となった。
震災から約2ヶ月、神戸の復興の兆しがまだ灯火のような覚束ない頃の3月20日の事であった。
その日、地下鉄日比谷線の朝の利用者は、次の日が春分の日ということもあり、休みを取って連休とするサラリーマンが多かったせいか、普段の混み具合に比べて若干低めの乗車率であった。
この事件でもっとも被害者の多かった路線の問題の車両は、北千住を出て途中の停車駅は、南千住、三ノ輪、入谷、上野、仲御徒町、秋葉原、小伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、築地などで、中目黒まで行く予定だった。
午前8時を過ぎた辺り、丁度秋葉原を過ぎた辺りで、車内に異臭が立ちこめ、目や喉の痛みを訴える乗客が出始める。
その後電車は小伝馬町駅で目や喉の痛みを訴える乗客の他に、口から泡を吹いて倒こむ乗客も現れて担架で運ばれるという異様な事態に発展する。
車内アナウンスの『車内で病人の方が一人倒れられましたので…、あ…、二人倒れました』という言い方がこの時の異常な状況を物語っている。
半ばパニックになった車内の床には新聞紙に包まれた四角い弁当箱の様な容器からこぼれる無色透明な液体が広がっていた。
この液体がこの異臭の原因だとわかり、容器は列車からホームへ蹴り出されてしまった。
これで事態は一時沈静化したかに見えた。
そして電車は人形町、茅場町、八丁堀と乗客を乗降しながら進み、築地駅に到着した。
だが、ここで再び異臭が発生する。
この時、築地駅に着いた時車内から、バリンッ とガラスが割れた様な音と共に、発煙筒を炊いた時のような白い煙が発生したという証言が多数あったが、その後の警察の公式記録には記載されていないらしい。
異臭の発生原因であろうと思われる床にこぼれた液体は職員2人の手によって雑巾で拭き取られた。
何の防護作を持たぬまま雑巾で、しかも素手でこの液体を除去するこの職員達のその後の運命を、この時誰が想像できただろう・・・・・・
その後体の変調を訴える乗客が相次ぎ、担架などで運ばれる乗客が増えたことにより、電車を一時運休し警察が介入、捜査を開始するに至る。
早速警察の鑑識班がこの問題の液体の調査に当たった。しかし、しばらくして液体の調査に当たっていた数人の捜査員が口から泡を吹いて倒れ、乗客同様次々と救急車で運ばれるという事態に陥った。そして採取した液体の鑑識結果が出る・・・・・・
その鑑識結果は当時捜査に当たっていた捜査員の背筋を凍らせる結果だった。
検出された薬品は「サリン」・・・・・・ 猛毒の神経ガスとのこと。これは去年平成6年の6月に長野県松本市で起きた「松本サリン事件」で使用された毒ガスと同じ名前であった。
警察は直ちにホームに残る客を退去させ、科学班を投入、捜査に当たる全員にガスマスクの着用を指示した。
この時、東京各所で同じような異臭事件が同時に発生していたが、後に発表される情報ではこの営団地下鉄日比谷線北千住発中目黒行きの車両の被害が死者8名と最も多かった。
過密化した都市部にあって地下鉄という地上とは隔離された特殊な環境でのガスによる被害はその大小にかかわらずそこを使う者に強烈な恐怖を生む。
この事件の内容は日常の足として地下鉄を利用する人々を震えあげさせた。
警察の捜査の結果、この事件の実行にあるカルト教団が大きく事件に関与している事が解り、強制捜査のメスが入った。
後にこの教団は日本で始めての「破壊活動防止法」の適用により壊滅となる。事件を直接指示したとされるこの教団の教祖は逮捕され、裁判にかけられるが、挙げられる証拠のほとんどが状況証拠のみという異例な裁判であった。
政府は半ば荒ぶる国民世論に後押しされる形で裁判に踏み切ったと言えなくもない。
その凶悪性と無差別性、教団教祖と一部の幹部の狂気に満ちた妄想で引き起こされたとされるこの事件は『地下鉄サリン事件』として日本犯罪史にその名を連ねることになった。
丁度10年前の出来事だった。
そして、10年前、俺はこの事件でもっとも凄惨な被害の出た『営団地下鉄日比谷線北千住発中目黒行き』の車両に乗っていた。
幸い俺はあるアクシデントに遭い人形町駅で降りたのだ。
手紙の差出人と思われる本条由美子という女性がこの事件に関係していることは、手紙にある3月20日という日付でも解る通り恐らく間違いは無いだろうと思う。と言うかこれしか考えられない。
だが、一体どこで俺と繋がるというのだろう?・・・・・・
そして、何故俺を知っているのだろう?・・・・・・
会った時に俺の疑問に答えるという話だが・・・・・・
俺は頭に浮かぶ様々な疑問に縛られながらも、彼女に会ってみたいという気になっていた。そんなことを考えているうちに、電車は渋谷駅に到着した。
【第3話 使者】
外回りから本社に戻り、俺は木下とエレベーターで3回まで上がり営業部のドアを開いた。外とは違い空調の利いた室内の温度は俺たち2人には心地よく生き返った気がした。
俺は壁に掛けてある担当者の行動予定表に帰社のプレートを差し、自分の席に向かった。
椅子に腰掛けようと背もたれを引いた瞬間、女子事務員から声が掛かった。
「あっ、井原係長、お客様がいらしております」
「俺に? 」
振り返ると総務の橘という女性社員が歩いてきた。20代前半の今時の女の子だが、『古いウエスタン映画を見る事』というちょっと変わった趣味の持ち主で、その事がきっかけで良く話すようになった。20代の女の子が【ジェームズ・コバーン】や【ユル・ブリンナー】なんかを知っていて驚いた覚えがある。
「20分くらい前にいらして、外出してる旨を伝えたら待たせて貰っても良いですか?って仰るので応接室に御案内しました。えっと・・・・・・ 」
そう言ってメモ紙を取り出し、書き記した相手の会社名と名前を読み上げる。
「ヴィーナスコーポレーションの望月様と仰る方です」
「ヴィーナスコーポレーションの望月さん? 記憶にない名前だな・・・・・・ 」
「若い女性の方です。女の私から見てもかなりの美人でしたよ」
そこに木下が話しに割り込んできた。
「ヴィーナスコーポレーションって言ったら最近急激に伸びてきたIT関連の会社ですよね。不動産部門でもかなり手広くやっていますよ。TVでも良くCMでながれてるじゃないですか、井原さん、一体何処でそんな会社の人と知り合ったんです? 」
そう言えば何処かで聞いたことがある社名だった。
「確かに聞いたことがあるが・・・・・・ だけど俺TVほ野球中継以外とんど観ないからなぁ、もっぱらラジオのAMばっかりだし・・・・・・ 」
「橘さん、その人美人なんでしょう? そうかぁ、先に女性と知り合って足がかりを作っていくのかぁ・・・・・・ 井原さんのやり方がだんだん解ってきたぞ・・・・・・ 」
木下が意味ありげな笑いを口元に残しながら腕組みして言った。
「馬鹿野郎、何いってやがる。俺は全く覚えがないって言ってるだろう」
俺は木下の言葉を完全に否定した。大体女を口説くなど営業先の重役を口説くよりよっぽど難しい。ましてや若い女の子など話す機会といったら、ここにいる事務の橘かクラブのチーママぐらいしかない。
「そうよね。木下さんじゃあるまいし〜 井原さんがそんな手を使うとは思えない・・・・・・ 何となく若い子嫌いそうだし」
と橘が助け船を出した。いや、嫌いじゃなくて苦手なだけなんだが、と思いつつあえて訂正しなかった。
木下は泣きそうな態とらしい声で「橘さんそりゃないよ〜」と言いながら橘に弁解していた。そのカッコがおかしかったのか橘はカラカラと笑っていた。
「とりあえず会ってみよう。橘さん、お茶2つ頼んで良いかい? 」
「ええ、解りました」
「じゃあ、頼むよ」
そう言って俺は応接室に向かった。後ろから木下の「頑張ってください」という声が聞こえたが無視をすることにした。一体何を頑張るというのだろうか。あいつは何か勘違いをしているらしい。
俺は応接室のドアをノックしてからドアを開き、「お待たせしました」と言葉を添えながら中へ入った。
中に入るとその声に反応して、ソファーに座っていた女性がゆっくりと立上り俺の方を向いて軽い会釈をした。顔は確かに整っており、橘の言う通りなかなかの美人で肩の下まであるストレートの綺麗な黒髪が印象的だった。
「アポも無しにお尋ねしてしまい、大変失礼いたしました」
そう言って彼女は丁寧に頭を下げた。その丁寧さの中に堂々とした物を感じ、俺はこの女性が見かけだけの今時の女の子ではないと思った。
「いえいえ、こちらこそお待たせして仕舞いました」
こちらも社交辞令的に頭を下げ、懐から名刺を取り出す。
「ヴィーナスコーポレーションの望月です」
「営業2課の井原です。どうぞお掛けになって下さい」
とりあえずの名刺交換を済ませ、俺は彼女に着席をすすめ、向かい合って自分も席に着いた。どういう用件か解らないがここは地元優位の立場を利用し主導権は握っておきたいと言う一種の職業病的考え方が頭に浮かび、先に俺が座った。彼女は立ち上がった時と同様、ゆっくりとソファーに腰を下ろした。
彼女の名刺を眺める。ヴィーナスコーポレーション 社長秘書 望月香織と書いてある。
――― 社長秘書? 急躍進とはいえ一部上場企業の社長秘書が俺にいったい何の用なのだろう?
俺は名刺と彼女の顔を見比べながら切りだした。
「それで・・・・・・ 本日はどのようなご用件でいらしたんですか? 」
「手紙・・・・・・ ご覧になりましたか? 」
彼女は口元に不思議な笑みを浮かべながらすぐに切り返してきた。
俺は一瞬彼女が何を言っているのか解らなかった。そして考えていく内に昨日のあの不可思議な手紙のことを思い出し、彼女の目を見た。彼女目は俺が思いだしたのを理解したようだった。
その時、ドアをノックする音がした。続けて「失礼します」という声と共に盆に麦茶を載せた橘が入ってきた。先ほど頼んだお茶を運んできたのだ。
橘は彼女と俺の前に麦茶を置き、来た時と同じ口調で「失礼しました」と言いながら退室していった。俺は来た麦茶を少し口に含み、彼女に言った。
「あの手紙は貴方が・・・・・・ しかし手紙には【本條由美子】とありましたが? 」
「あの手紙を投函したのは私ですが、書いたのは私ではありません。内容ももちろん知りません。私は本條由美子の使いで参ったのです」
やはり直接投函だった。しかし彼女は使い、つまり使者であって本人ではない。彼女を使者として使う人物と言えば・・・・・・
「お察しの通り。本條由美子は我がヴィーナスコーポレーションの社長です」
考えていた通りの答えだった。
「なるほど。それで、今をときめくヴィーナスコーポレーションの女社長さんが一体私に何の用なのです? 」
「それはお会いになってから直接本條にお尋ね下さい。私は貴方のご意志とご都合を伺ってくるよう仰せつかっただけですので」
確かにそうなのだろう。彼女に聞いたところで本人でない限り解る内容とは思えない。しかし、使者を立てて相手の様子を探りに来るなど、ずいぶんケレン味の濃いやり方だ。用があるなら自分が出向いていけば良い物をと思うが、大きな会社の社長ともなるとこんな物なのかもしれない。
「いきなり『私と会え』と言われてもこちらとしては、理由も解らず会いに行くと言うのには抵抗があります。ましてや本條さんは私をご存じな様だが、私は全く解らない。どのような内容なのか、さわりだけでも明かすことは出来ないんですか? 」
電車内では少しばかり会おうかと思っていたが、このやり方に何となく俺は不愉快さを憶えた。
「確かに、井原さんの言うことももっともだと思います。けれど話の内容に関しては私も解りません。先ほども言いましたが手紙の内容について私は全く知らないことですから。ただ、どのようなことが書かれていたのか想像は付きますが・・・・・・ 」
そう言って彼女は「頂きます」と小さい声で言いながら、麦茶に付いてきたストローをグラスにさして麦茶を飲んだ。そして続けて俺に聞いた。
「理由が解らなければお断りいたします? 」
「本條さんがどんな方か解りませんが、私に用があるならば直接ご自分で足をお運びになるのが筋ではありませんか? そりゃあ、社長ともなれば色々事情がおありでしょうが仕事ならまだしも、プライベートで会うのならば話は違う気がします。それに私には接点が全く思い当たらない訳で、そんな方と、ましてや大会社の女社長と個人的に会うなど経験が無いことですから・・・・・・ 躊躇するなと言う方が難しい」
俺は率直に自分の意見を述べた。腹のさぐり合いは仕事だけで十分だった。職業柄毎回では少々胃にもたれるというものだ。
「ごもっともなご意見です。確かに本條もその辺りの事を気にしていて大変申し訳なく感じていますが、少々体が不自由な為このような形になってしまいました。私からもお詫び申し上げます」
そう言って彼女は頭を下げた。上司のミスを押しつけられ、客に頭を下げる部下は多いが、自分から進んで頭を下げる部下は少ない。よほど彼女が仕える本條という女性はカリスマがあるのだろう。その点でも興味が湧いてくるのだが・・・・・・
「解りました。ではこうしましょう。今現在我が社がお台場で進めている1000所帯を越える分譲マンションのビッグプロジェクトがあります。そのマンション全ての所帯に貴社の浄水器を採用します。それと向こう10年間、井原さんの営業に限り、我が社の企画するマンションにおいて、貴社の機械を優先的に採用するよう設計にプッシュします。これで貴方は仕事の打合せで本條と会う事になる・・・・・・ いかがですか? 」
「何ですって!? 」
俺は彼女の言葉を聞いて驚いた。この話が本当なら、俺は苦労せず強力な案件を手に入れたことになる。課長昇進は確実だろう。
「もちろんこれはビジネスです。最初に申し上げたお台場のプロジェクトの件は迷惑料と思ってください。それ以降はそのプロジェクトでクレームが多かった場合はこちらも考えなければなりません。そこの所は了解していただかないといけませんが・・・・・・ 」
そこまで言って、彼女はまた麦茶を口に含んだ。
かろうじて顔には出さなかったが、思ってもみなかった展開に俺は動揺していた。しかしよく考えてみるとおかしな話だ。話をそのまま受け取ると、向こう10年云々というのは別にしても、1000世帯を越えるマンションの話は、俺がその本條という女性に会っただけで無条件に受注が決まると言うことになる。そんな上手い話があるだろうか? そこまでして俺に会う理由が全く解らない。
「失礼な言い方に聞こえるかもしれませんが、望月さんは社長秘書ですよね? 秘書である貴方にそこまでの権限があるとは、私には到底思えませんが」
そう言う俺に彼女は淡々と答えた。
「私はこの件に関し、本條より全権を任されています。加えて貴方との会合を実現させるために私の一存で全ての我が社の権限を行使してもかまわないとの許可を頂いています。つまり私がここで申し上げた条件は、全て社長である本條由美子の言と同意であると受け取って貰って結構です。信じられないと言うのなら、明日正式な契約書を貴方のお手元に郵送いたします」
正直俺は呆れていた。自分で言うのも何だが、俺にそこまでして会う価値があるとは思えなかったからだ。
俺が黙ったまま彼女を見つめていると、それをどう受け取ったのか解らないが、彼女はさらにこう言った。
「私、実は名字は【本條】と言います。望月は旧姓・・・・・・ 私は本條由美子の養子なのです。会社では望月で通しています。会社では私が社長の養子だと知るものは居ません」
なるほど、義理とは言え親子であるなら解らなくもない。
「失礼だが、本條さん、いや貴方ではなく社長の本條さんは、ご結婚されているのですか? 」
「本人は未亡人と言っていました。」
彼女は静かに答えた。
今をときめく大会社の女社長。しかも養子を迎える未亡人。これで容姿が良ければ週刊誌も放っては置かないだろう。しかし全く話題には上がらないところを見ると、容姿に問題があるのか、極端にメディア露出を拒んでいるのか。
確かにヴィーナスコーポレーションの社長が女性であると言うことすらあまり知られていないのかもしれない。少々体が不自由だとのことだが、その辺りが原因なのかもしれない。どことなくミステリアスなものを感じずにはいられなかった。
「貴方は先ほどこの件に関して全権を任されていると言った。ということは受注契約に関することは貴方の判断で私に提示したのですか? 」
「ええ、その通りです」
「何故そこまでするのです? 貴方は先のお台場のプロジェクトは迷惑料代わりと言った。貴社にしてみればたいしたこと無いかもしれませんが、我々中堅メーカーでは大口の契約です。その上暫定的にしろ向こう10年の取引を私の答え一つで決めるという・・・・・・ 正直何故そこまでするのかと言うところが、一番引っかかっているところです」
そう言って俺はテーブルに置いてある麦茶を眺めた。中の氷は半分ぐらいの大きさになっている。
「我々営業にとって、契約の数字はそのまま個人の営業能力を評価する基準値として捕らえられます。私は在社3年にして係長という地位を得ました。そりゃ色々ありましたがね。中には世間的に胸を張って言えない手段を使って取った契約もあります。10年近く営業やってる者は大抵そんな道を通ってきているでしょう。きれい事だけではやっていけないのが現状ですよ。ただ、そうやって上がってきた者にも、犠牲にしてきた物もまた少なからずある・・・・・・ 」
濡れ手に粟とはいかない。何かを得る為に何かを失う。そして失った物の価値に気づくのは、いつも後だと相場が決まっている。
俺にとってそれは家庭だった。
このままではいけないと途中で気づきながらも、なんの打開策を見つけられず見て見ぬ振りをしながら歩いてきてしまった。いや、俺の場合『見つけらられなかった』のではなく『見つけようとさえしなかった』のだ。
家族のため、より安定した収入を得る事を目的に働いているうちに、いつの間にか手段と目的が入れ替わってしまった。笑えない冗談だった。
日本のサラリーマンの大半が、多かれ少なかれ同じような悩みを抱えて日々働いているのではないかと思う。
「それは・・・・・・ ご家族のことですか? 」
彼女は少しためらいがちに聞いた。
「・・・・・・ 調べたんですか? 」
そんなに怒気を込めたつもりでは無かったが、彼女の顔に少し緊張が走った。
そして目線を落としながら、すまなそうに小さい声で「ごめんなさい」と言った。それは今まで話してきた中で、彼女が初めてみせる人間らしい表情であった。
俺にしてみれば、特別隠すような事情など持ち合わせてはいないし、俺の過去や近況など、調べてもこれと言っておもしろくも無いだろう。しかし知らない内に調べられるというのはあまり気分の良いものではないと思ったのも事実だった。
「一つだけ聞いても良いですか? 」
俺はしばしの沈黙の後、彼女に聞いた。
彼女は伏せていた目線を上げ、無言で俺を見つめた。
「先ほどの疑問です。なぜ独断で自社の企画を持ち出してまで私を会わせようとするのです? 貴方自身の考えを聞きたい。社長への奉公心ですか? それとも親子だから? 」
「確かにそれもあります。本條由美子は私の恩人ですから・・・・・・ 私がこうして今生きているのはあの人のおかげです。その恩人の願いを叶えてあげたいという想いもあります。あとは・・・・・・ 」
そう言って彼女は一度言葉を切り、少し考えた後こう言った。
「私のせいだから・・・・・・ 」
その時彼女の瞳は何とも言えない悲しそうな色をしていた。彼女の言葉の意味を考える事を忘れ、俺はそんな彼女を見つめていた。
「社長と会ってやっていただけますか? 」
彼女はその瞳のまま、俺の目を見ながらそう聞いた。そんな目をした女性の願いを断れるほど俺は強くなかった。
「解りました。お会いしましょう。私も興味がありますし」
「ありがとうございます。本人も喜びます」
彼女はそう言って丁寧に頭を下げた。そしてすぐに鞄から手帳を取り出し俺に聞いてきた。
「早速日時ですが・・・・・・ 明日の夜はご予定が入っていますか? 」
「明日ですか? また急ですね」
「申し訳ありません。なにぶん本條の時間が限られていますので・・・・・・ 」
そう言えば手紙にも『3月20日までに』とあった。今日が3月18日だから、なるほど明日しかないと言うわけだ。
「何処かに行かれてしまうのですか? それとも、こう言っては何ですがお体の具合が悪いとか・・・・・・ 」
「いえ、そう言うわけではありません。体が不自由なのは事実ですが、別段病気などではありません。ただ、時間が無い理由は私の口からは申し上げる事は出来ません。その辺りのこともお会いになって話をすれば解ると思います」
彼女の口振りから、彼女は本條由美子という女性から大体のことを聞かされていることは明らかだった。だがそれを俺に伝えるのは、あくまで本條女史本人であるという事を暗に言っているわけである。
「場所はどの辺りで・・・・・・ 」
「場所はそちらで決めて下さい。私には大会社の社長と会うような所で気の利いた場所を知りませんし。それにお体が不自由だと伺ってはそちらの都合の良い所まで出向かせて貰いますよ」
俺はそう言って肩をすくめて見せた。
「お気遣い感謝します。では帝国ホテルまで起こしいただけますか? 」
帝国ホテル――― また結構な所を、と思ったが、相手は大会社の社長だ。そのぐらい当たり前なのかもしれない。
確か有楽町から5分くらいだったかな。会社からそんなに遠くないし何よりJR山手線1本というのが良い。地下鉄を使わなくて済むから・・・・・・
「ええ、良いですよ。時間は会社を6時に出るので・・・・・・ 7時頃なら行けると思います」
「では明日夜7時にホテルのロビーと言うことで。当日私も立ち会いを許可されています。私の名刺にビジネス用の携帯番号が記載されています。急にご都合が悪くなったらそちらに連絡していただけると助かります」
俺は彼女の名刺の携帯番号を確認した。
「解りました。それでは明日お伺いします」
その言葉を合図にお互い頭を下げ、席を立った。
廊下に出たとき、不意に彼女が振り返り俺にこう言った。
「井原さん、何を聞いても貴方だけは否定せずに聞いてあげてください。信じる信じないは別にして・・・・・・ 貴方と会って話す事がどういう意味を持つのか私には解りません。ですがあの人は・・・・・・ 義母はこの10年、貴方に会うことを目的に生きてきました。それだけは汲んであげてください」
そう言って彼女はまた頭を下げ、去っていった。
10年・・・・・・ 本條由美子という女性は10年俺を捜していたという。つまりこの10年の歳月の間で一度も接点のない相手に会うために生きてきた女。
俺には10年どころかそれ以前にも少しも記憶に残っていない。
いったい彼女は何を俺に伝えたいというのだろうか・・・・・・
俺の頭に様々な想像が浮かんでは消えていった。
『私のせいだから』と悲しそうな瞳で望月香織は言った。
後に俺はこの言葉の意味を本條由美子の話を聞いて納得することになる。
-
2005/07/01(Fri)23:52:13 公開 / ギギ
■この作品の著作権はギギさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
読んで下さった方、感謝いたします。
やっと物語が動き出します。本條由美子と井原一樹、そして本條の秘書である望月香織。この3人で物語は進んでいきます。
甲冑の方もあるので早めに終わらせなければと思いながら、続きを考えているのはいつもこちらの物語・・・・・・ 頑張ろうっと!
いつも様々なアドバイスを頂く方々には大変感謝いたしております。これからもなま暖かい目で見守って下さいね。
ギギでした。
京雅様の仰るとおりでした。第3話です。お恥ずかしい限り・・・・・・ さすがにコレは修正いたしました。ご指摘ありがとうございました
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。