『休憩【前編・後編】』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:煉                

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休憩【前編】



私は何をしているんだろう……。
太陽の陽射しがさんさんと道路に照りつけている夏の日の午後。
芳田 香世子〈よしだ かよこ〉は、汗をダラダラかきながら学校から家に帰っている途中だった。香世子は家に帰ってからの事を思い浮かべて、ぞ――っとした。香世子は中学三年生で受験生なのだ。きっと家に帰ったら、自分の勉強机のあの硬い椅子に座って夜中まで勉強しなくてはいけないだろう。香世子がそこまでするのは最近成績が下がりぎみなのと、香世子が狙っている高校は競争率がとても高い激戦区のこの二つにあった。香世子は額の汗をぬぐって空を見上げた。空には、絵の具で線蜜に青色が幾重にも重なっているかのように、塗られた空に黄金色に輝く太陽が一つあるだけ。
 香世子は疲れてふと足を止めた。あの黄金色の太陽の下で歩き続けて一時間弱。香世子はすっかり疲れ果ててしまっていた。喉が渇ききっている。不運なことにこういうときに限って水筒を学校に持っていくのを忘れられているものだ。香世子は猫背になった背中から鞄を力なく下ろして、チャックを開けてもぞもぞと中を探ってみた。香世子の手に触れるのはノートの角ばった先や、教科書、筆箱だけだった。丸くて長い水筒のような物は見当たらない。香世子の顔は一気にがっくりした表情になった。その顔から汗がポツリと固いコンクリートで出来た道路に落ちる。
「もったいない。大事な水分が落ちちゃった」
香世子は道路を見つめた。それからゆっくり顔を上げて、白く塗られて道路の脇にある手すりの向こうに広がる海を見た。
「なんで海水はしょっぱいんだろう。しょっぱくなかったら今すぐにでも飲んでたのに……」
香世子はまだかろうじて残っている口の中の水分をゴクリと飲み込んで、永遠に続きそうな固いコンクリートの道路の先を遠い目で見やった。頭上にある空では、雲がゆっとりと時間をかけて流れていく。香世子は手すりに腰を下ろした。
「少し休憩しよう」
呟いてため息をついた。香世子の前にあるもう一つの規則正しく並んだ手すりが道路を分けている。その向こうには車が通るための道路が永遠に続く線を描いていて、その脇には高い石壁が立っている。その上には家々が並んでいるのが見える。香世子はその家を見て力なくふんっと鼻をならした。暑い。今、家で過ごしている人はきっと私がこんな最悪な状況に陥っていることを知らないんだ。のんきなの。香世子はそんなことを思って、また額の汗をぬぐった。その時、ちょうど気持ちのいい風が香世子の体を包んで、ついでに頬をくすぐっていった。
「気まぐれ屋……」
香世子はそう言って大きく空を見上げた。香世子は初々しい青春の一ページに必ず乗っているセーラー服を着ているのだが、そのセーラー服が今は体にべっとり張り付いていてとても気持ち悪かった。香世子はその感触が肌を伝っていくのをなんとか阻止しようとスカートをできるだけ上げて、上の方でくくろうとしたがこれは失敗だった。おかげでスカートの一部分がもみくちゃのしわくちゃになってしまった。香世子はこれで母親にみっちり叱られるのは確定した、と思った。そう思ったとたん気持ちが一気に寒くなった気がした。それでも体は太陽の陽射しで、びっしょり汗をかいている。暑い。
「暑い」
今度は声に出して言ってみる。ますます暑くなった気がした。そして香世子はポツリと呟いた。
「もうそろそろいいかな」
香世子は「よっと」と小さい声を上げて、手すりから腰を上げた。下ろしておいた鞄をまた背中に背負った。学校から家まで約一時間半。もう一時間は歩いているだろうからあと少しで家に着くはずだ。香世子は永遠に続く道路をしばらく見つめてからまた歩き始めた。
 香世子は、歩きながら手でお手製の風を顔に送ろうと必死になって手を上下に振ったり、あげくの果てには両腕の裾を肘まで引っ張ったり、スカートをパタパタさせたりした。そのせいでさらに汗をかいた。香世子は暑いのは苦手だし、汗をかくのは大嫌いだ。
香世子はありったけの文句を飛ばしたくなったが、今は、そんな気力も体力もない。とにかく香世子は足を引きずりながら永久に続く道路を歩いた。もはや香世子にはその道路が歪んで見えていた。



「やっとだ」
香世子ははぁはぁ言いながら言った。住宅街に入ってから数分。ようやく自分の白い角ばった家が見えてきたところだった。色とりどりの家を知らん顔で通り過ぎていって自分の家をまっしぐらに目指す。香世子の体内からは水分という水分がなくなる寸前だった。今にもぺろりと舌が口から出そうだ。しかし、その前に香世子は何とか家の前に着いた。家の門を押して中に入る。ドアを開けて、外よりは涼しい家の中に入った。香世子は呆然とした。家の中は、綺麗に掃除されていた。リビングに続く廊下も二回に上がるための階段もぴかぴかに磨き上げられている。昨日までは玄関と階段はゴミの山になっていたし、廊下にだって何か得体の知れない物をこぼした跡があった。靴を入れる靴箱にもゴミ袋があったくらいだ。香世子の母親は一ヶ月に一回しか家の掃除をやらない。そして今日が母親の家の掃除をする日だったのだろう。母親は忙しく洗濯物を取り込んでいるところだった。
「あら。おかえりなさい」
洗濯物で腕の中をいっぱいにさせ階段を上がって行こうとしていた母親が玄関に呆然と立っている香世子に気づいて言った。
「ただいま」
香世子の声はしわがれ声になっていた。香世子は靴を脱いで家のぴかぴかになっている床に一歩を踏み入れながら聞いた。
「今日がお母さんの掃除日だったんだね」と香世子が疲れた調子で言う。
母親は足を止めて、ぱっと明るい顔をして見せると張りの聞いた声で元気よく言った。
「そうなの。このまえは六月の二十八日にやったから、今日が掃除日なの。お母さん今日気づいてびっくりしちゃった」
「あっそう。それよりお母さん冷たいジュースない?」
最後に喉カラカラっと言おうとしたが、あまりにも喉が渇ききっていたので声に出せなかった。母親は忙しく廊下を走っていってリビングにいったり、かと思えば洗濯物で腕をいっぱいにさせ、階段を上り下りしたりしながら答えた。
「冷蔵庫にソーダがあるわよ」
「了解」
香世子はそう言うと冷蔵庫にある台所には向かわず真っ先に自分の部屋に向かった。部屋は、ものすごおく大きいワニのぬいぐるみで大体のスペースが占領されていた。勉強机は窓の脇にある壁にぴったりつけられて置いてあり、ダブルベットはその反対側の壁にぴったりつけて置いてあった。ダブルベットの脇には細い机が置いてあって、その上には、ピンクの可愛いランプが置いてあって、窓には黄色の花模様のプリントボイルレースカーテンが窓の脇にまとめてある。壁も小さな花模様のある壁でいかにも女の子らしい部屋だ。香世子はその部屋に着くとさっさっと服を脱ぎ始めた。セーラー服と肌がべっとり張り付いてなんとも胸糞悪い。部屋の隅にコート掛けがあってそこに二枚のバスタオルがかけられている。香世子はその二枚のバスタオルを取って、ブラジャーとパンツ一枚の体にバスタオル一枚を巻きつけて、もう一枚を手に持ったまま勢いよく部屋から飛び出した。階段をバタバタバタッと駆け下りて、リビングに向かった。リビングに着くと母親がキッチンにたって皿洗いをしていた。香世子はそれには目もくれず冷蔵庫にひとっ走りした。冷蔵庫の扉を開けて中を覗く。冷たい空気が香世子の顔をふわふわと触れていって、空気に溶け込んでいった。香世子はそれに身震いし、しばらく冷蔵庫の中を覗いて、そして大声を出した。
「お母さーん。ソーダどこ?」
「扉のところにない?」
「えぇー。たくもう。どこよ」
学校では使わない言葉を使って、香世子はブツブツ言いながら扉を隅の隅まで見た。香世子は学校では利発で真面目でおとなしい優等生なのだ。そんな香世子は学校では決して大声は出さないし、「たくもう」なんて言葉は死んでも使えない。今、その優等生が、ブラジャー、パンツ一枚にバスタオルを巻きつけて、ソーダを探して、冷蔵庫の中を覗いているなんてクラスメートの誰も、仲のいい先生ですら予想もつかないだろう。ただ一人を除いては……。
「あっ、発見! 私の美味たる飲み物!」
香世子は大声を出すと嬉しくなって、ぴょんぴょん飛び跳ねながら今度は、母親の近くにある食器棚に近づいていって、棚の中に手を伸ばして、ひとつの大きなジョッキをとった。このジョッキは香世子専用のジョッキなのだ。シールがあっちこっちに張ってある。香世子はそのジョッキにチャラチャラチャランっとマジックの歌を歌いながらソーダをギリギリまで注いで、ソーダの缶をゴミ箱にポイッと捨てた。
「香世子ちゃんは、いつお風呂でソーダを飲むなんて思いついたのかしら……」
母親が不思議そうに言うと、香世子は、
「いいじゃん。誰かさんがお風呂でビールを飲むのとすごく似ているんだからさ」
と言ってソーダから母親に目を移した。
母親はギクリとしていきなり鼻歌を歌い始めた。母親は自分に何か怪しいところがあるとすぐに鼻歌を歌いだす癖がある。香世子は笑いをこらえてちゃかして言った。
「遺伝子って本当に怖いよねー」
香世子はいたずらな笑みを浮かべて母親を見た。母親はゴホンッと咳をして、台所で料理をはじめた。香世子はリビングを出る直前についでによるご飯は何か母親に聞こうっと思って足を止めた。まっ、どうせ教えてくれないだろうけど。
「今晩は何?」
母親は鼻歌を歌うのをやめて、サラリと言った。
「内緒よ。はやくお風呂入ったら?」
「はいはい」
香世子はソーダを口に含みながらお風呂場に向かった。



「最高の気分もつかのま。可哀想な受験生は扇風機一台で暑さに耐えながら勉強をするのだったぁ」
香世子はお芝居風に腕を広げてしゃべってみせた。そのしゃべりに答えるものは誰も居ない。しかし、香世子の頭の中では一万人をこす人たちが拍手喝采を終えたところだった。香世子は、もちろん勉強をしている最中なのだが、集中力がなくなってくるといつも独り言をしゃべりだす癖が香世子にはある。それはほとんど学校のことや受験の愚痴に決まっていて、その後には自分はなんて哀れなのかと一から十まで言ってみせる。これがここ最近の香世子の日課になっていた。面白くもないことをグダグダ言いながら、勉強をするのだ。もちろんそんなことをしていて成績が上がるわけがなく、香世子はいまだにそれに気づいていない。いや、気づいていないふりをしているだけなのかもしれない。香世子はお尻をもぞもぞさせた。椅子に何時間も座っているとお尻がいたくなったという経験をした人は少なくないだろう。香世子は何時間も椅子に座っていたので、お尻が痛くなってきていた。香世子は勉強机の電気に照らされながら、数学の問題集をしているのだが、それがあまりにも難しいのか香世子はシャープペンシルの先を歯でガチガチ噛み始めていた。それから数分後、香世子はいきなりドサッと椅子から立ち上がると言った。
「集中力ゼロ!」
香世子はそう言ってお尻をすりすりなでた。
「痛い。もうやだ! ちょっと休憩しよう……」
香世子はズンズンと窓に近づいていった。そして窓をあけて、顔を外に突き出して夜空を見あげた。
「綺麗な夜空……」
そこには午後にあった黄金色に輝く太陽はどこにもなく、変わりに白い淡い光を放つスマートなお月様が顔を出していた。あの青い空は、今黒いカーテンで覆われていた。そのカーテンの所々にはまるで筆で散らばらせたような星たちが小さなどこか切なさを覚える輝きを放っていた。
「小さな光……。あれって近くから見るとすごく大きいんだよね。――変なの」
香世子はポツリと言ってかすかにほくそ笑む。
「確かこんな歌があったっけ」
そして歌いだした。
「君の瞳 世界うつす鏡 いつも優しさを忘れずに
悲しい言葉胸に満ちても まなざし強く星を見つめて……」
――題名も知らない歌
香世子は歌い終わって一息ついた。
「星の数だけ人がいるって言うよね」
香世子は誰かにしゃべるような調子で言った。そして続ける。
「だったら、その分色んな考え方があったりもするんだよね。なんか不思議。星たちには、そんな一人一人の考え方とかの色がついていれば素敵なのに……。――でも、やっぱりこのままがいいや。なんつうの、漆黒の闇の中にある希望の光ってやつ」
香世子は大げさに笑って見せた。そして、大きく空気を吸って夜空を見つめる。
「うまくいえないけど、そんな感じがする。私の星もどっかにあるのかな……。だったらあたしの星はきっとあっちこっちで旅をしているんだろうな。きっと楽しいよ。色んな星たちに巡り合って、そして巡り合ったことに感謝して夜空という舞台でダンスを踊るの。きっとね」
希望の光……。香世子は星を強く見つめた。この年になって受験生になって勉強詰めな時間を過ごした日々を香世子は振り返った。毎日、毎日、徹夜の勉強をして、手に持つ本ときたら受験に関する本ばかりで……楽しんでいた趣味のゲームもいつの間にかやらなくなって、ゲーム機は埃を被っている。思えば今年になって家にいるとき、お母さんの料理の手伝いしたっけ?

――お母さん。手伝うよ。
あたしがそう言ってエプロンを着始めると、必ず言われるようになった。
――香世子ちゃんは、勉強してきなさい。お母さん一人で大丈夫だから。
そして、あたしは勉強をしに自分の部屋に向かう。

変なの。いつからだろう。お母さんは一人で料理ができるようになったんだって思い出したの。本当はお母さん料理下手で、ろくなもの作れないのに。それは今もそうで……昨日だって、お母さん鮭一匹まるまる焦がしたのに、その酷い臭いがあたしの部屋まで漂ってきたのに、それでもあたしは勉強机から離れなかった。受験は確かに大事で。だって自分の未来を決めるものだから――でも、あたしには荷が重すぎたのかな……。受験って言葉に過敏になって、その言葉を聞くたびに未来に不安を感じて、そして自分に無理矢理言い聞かせる。――大丈夫。毎日徹夜してるじゃん。大丈夫。だから……
思えば最近先生たちと楽しく会話して笑ったことあったっけ? ないな。なにかと言えば受験でピリピリしてるからいつのまにか自分からは話しかけなくなった。
「今、一番欲しいもの……」
香世子は夜空にゆっくり手を伸ばして、手の中に夜空に浮かぶ小さな星を捕まえるようなしぐさをした。希望の光が欲しい。それがあった場所には今や未来への不安があって、どこにいったんだろう。あたしの希望の光。
「受験に縛られすぎかな……」
この年になってわからなくなったことが一つある。私がずっと追ってきていた夢。確か中学一年生のときに自己紹介でクラス全員の前で言ったはずの自分の夢が今では思い出せない。どんな夢だったっけ? 記憶の中の夢という細胞がなくなったかのよう……。全然思い出せない。
どんな――香世子はそこまで頭の中で言いかけると、頭を右へ左へと強く振った。
「駄目だ。永久に考えちゃいそうで、怖い。今は、勉強に集中すること! なんか違う話題ないかな。星君」
香世子は星を見上げた。キラキラ光っている星は話題をくれるだろうか。香世子がそんな言葉を頭に浮かべたときだった。――『星の数だけ人はいる』
――そう言えばあの人はどんな考え方をしているんだろう。どんなことを考えて過ごしているんだろう……
あの人とは三日前香世子のクラスに転校してきたばかりの蔡上院 晴美(さいじょういん はるみ)のことだ。晴美はお金持ちの一人娘で、背が高くて八方美人で、一度でも笑えばたちまち男子の間で蔡上院 晴美ファンクラブを作ったことだろう。しかし、香世子は晴美が笑った顔を一度も見たことがない。香世子は晴美のことが気になっていた。なぜ、笑わないんだろう……。きっと誰よりも笑顔が素敵なはずなのに。晴美は休み時間には決まって一人で自分の席に座って、窓の外を眺めている。その顔はどこか儚げに見えた。晴美が転校して来た初日は、誰もが晴美に関心を持ち、晴美の席に群がっていた。それが次の日は、誰一人晴美のそばには近づかなくなっていた。噂では何を話しかけても無視されるらしい。実際晴美は今のところクラスではとても浮いている存在になっている。
「どうして笑わないんだろう……。人気者になれる素質はいっぱいあるのに……。不思議な人……」
香世子は呟いてふぅっとため息をついた。
「最近ため息多いかも…。癖になってるのかな」
香世子がそう言ってまた夜空を見つめ始めたときだった。コンコンッと香世子の部屋のドアがノックされた。
「はーい。誰ですかー? 一流シェフさんですか?」
香世子が窓に肘をついて、力なく冗談交じりに言うとドアの向こうからこう帰ってきた。
「あなたの一流シェフですよ。晩御飯をお運びに来ました。お嬢様」
香世子はそれにぷっと吹き出した。それから一通り笑うとお嬢様風に言って見せた。
「お入りなさい」
「失礼します。お嬢様」
母親が盆の上に晩御飯を乗せて入ってきた。すると母親が残念そうに言った。
「あいにくシェフの帽子はかぶってないの」
「いいよ。いいよ。冗談で言ったんだもん」と香世子。
「あら、そうなの?」
「お母さん。本当子供。だからお母さん他の主婦さんたちと溶け込めないいんじゃないの?」
「そうかも……」
母親はしょんぼりとした顔をした。香世子は話を変えようとした。
「お母さん。納豆はついてるよね。あたし納豆食べなきゃねれないんだから」
すると母親はしょんぼりした顔で、料理を乗せたお盆を香世子の勉強机の上に置くと、手をあっちこっちに動かしながらこんなことをしゃべり始めた。
「そうなの。納豆なの。他の主婦さんたちは納豆みたいにねばねばした関係がお好みみたいなの。ほら、昼ドラであるでしょ。ねばねばした関係。でも、私はそういうのは嫌いで。そもそも納豆も好きじゃないし。でも他の主婦さんたちはそうじゃないの。特に水谷さんはすごいのよ。ねばねば関係」母親は興奮気味にそう言いおえるとため息を一つついた。香世子の母親は何年もこの地区に住んでいるのにまだ他の主婦の方々となじんでいなかった。香世子はその話に大きくうなずいて見せて、「よくわかる。私もねばねばな関係は好きじゃないの」と言ってみせた。とても嫌がっている顔で。母親はそれに大賛成してさすが私の子供っと言うと、母親は香世子のベットに座って主婦のねばねば関係のことを詳しく話し始めた。それから香世子と母親は何時間か話しこんでしまうはめになった。香世子にとっては母親がいうねばねば関係はどうでもよかった。とにかく母親の話を早く終わらせようとして、母親が話している最中に違う話を持ちかけるのだが、母親はそれを見事に主婦の話に繋げてしまうので、香世子は悪戦苦闘していた。香世子の頭の中は勉強のことでいっぱいになっていたのだ。香世子はとにかく母親が話している最中にお腹が空いていたので、母親の話を聞いているふりをして晩御飯を食べ始めた。香世子は自分が晩御飯を食べ終わるころには母親の話もとっくに終わっていると考えていたのだ。しかし、その考えは甘かった。母親の話は香世子が晩御飯を全部食べた後にも続いた。よほど、ねばねば関係を嫌っているらしい。しかし、香世子には大事な勉強がある。香世子は意を決して母親に言った。
「お母さん。ねばねば関係はよくわかったから。もう終わりにしよう。私大事な勉強があるの」
「あら、そうだったわね。御免なさいね。でも、ありがとう。話を聞いてくれて」
香世子はニッコリ笑って見せた。本当は自分が何一つ聞いていなかったなど、到底言えない。香世子は少しはにかんだ笑顔で言った。
「どういたしまして」
母親は香世子が全部綺麗に食べた晩御飯のお皿の乗ったお盆を手に持つとすっきりした顔で、いそいそと香世子の部屋から出て行った。
香世子はふぅっと息を吐いてこれで勉強が出来ると思い、さっさと自分の勉強机の椅子に座って勉強を始めた。英語、社会、理科、国語を根気よくこなしていった。すべての勉強が終わったのは、真夜中の二時だった。



朝七時半。香世子は目を覚ました。ベットに体を沈めて、カーテンを通って差し込む光に目を細めた。そして、部屋の壁に飾ってある時計を見て、一気に飛び起きた。
「七時半!! 起きなきゃ!」
香世子は飛び上がって、部屋にあるクローゼットを開けて、昨日の夜寝る前にクローゼットにしまっておいた学校のセーラー服を引っ張り出した。そしてたて鏡の前に行って、机の上にあるくしで肩まである髪を何度も何度も丁寧にとく。それを二つの輪ゴムできっちり二つ結びに結んで、何度も鏡を覗き込んだ。それから大急ぎでセーラー服を着る。鏡の前に立って、ニッコリ笑うと、
「呪われたセーラー服。もう、いや!」
と言ってちゃんと昨日寝る前に学校の準備をしておいた鞄を背中に背負った。部屋のドアを勢いよく開けて、階段をドタドタドタッと下りた。リビングにつくと母親はのんびりとソファーに座ってテレビを見ていた。
「おはよう!」
「おはよう。香世子ちゃん」
母親が返した。香世子はテーブルについて、食事を見渡した。そして大事なものがかけているのに気づく。
「お母さん! 納豆がない!」
香世子は母親のほうをものすごい勢いで見た。母親はおっとりした顔でこう返した。
「昨日の夜の納豆が最後だったの。今日買い物に行くからちゃんと買ってくるわね」
「しょうがいなー」
香世子はブツクサ文句を言いながら朝の食事を済ませた。香世子はテーブルの上に置いてある弁当箱を手に取ると、それを学校の鞄の中に入れて、玄関に向かった。すると母親がリビングから駆けてきた。手には水筒を持っている。香世子は自分が水筒を忘れていたことに気づいた。
「忘れてた。お母さん、ありがとう」
香世子は母親にそう言うと水筒を鞄の中に押し込んで、ドアを開けて挨拶もしないで、学校に向かった。香世子は手すりに手をつけながら、海を見つめた。
「青い海……」そう呟いて、前を見る。
香世子が先を歩いていくと海に落っこちないようにある手すりはなくなって、代わりに高い壁が姿を現した。香世子はその高い壁のおかげで出来た影の中を通って、広い十字路になっている道路に出た。
いつもの登校している道を何気なく歩く。歩いていると後ろから声が飛んできた。
「香世! おっす!」
香世子が後ろを振り返ると、そこには大親友の神埼 明日香(かんざき あすか)が大きく手を振って香世子の方に走ってくるところだった。彼女にだけは本当の自分を見せることが出来る。本当の自分――すなわち香世子が家にいるときみたいに接することが出来るということだ。香世子の顔はたちまち笑顔になった。
「おはよう。明日香」
香世子は学校ではいつも香世(かよ)っと呼ばれている。
「香世。あんた目の下に熊らしきものが出来てるよ」
「本当?」
香世子は自分の目の下を触ってみる。そんなことをしてもわからないのだけれど……。
すると、明日香が、
「あんたまた夜中まで勉強していたんじゃないでしょうね」
呆れた調子で聞いてきた。
「明日香、頭いい!」香世子は軽く笑ってみせる。
「えぇー! じゃまた夜中まで勉強してたの?よく体持つよね」
明日香はすっかり驚いて、感心したように言って、自分のことも話して聞かせた。香世子は昨日自分の母親が納豆のことで主婦のねばねば関係の話をし始めて、自分もそれを聞いていたふりを何時間もしたことを話した。すると、明日香は腹を抱えて笑い出したので、香世子もそれにつられて一緒に笑った。明日香が言う。
「香世のお母さんって本当子供ぽっいよね。ちょっと憧れるかも」
「冗談よしてよ。あたしはもっとちゃんとしたお母さんが欲しかったよ」と香世子。
「まぁまぁ。そんなこと言わないの。可愛いお母さんじゃん」
香世子はその言葉に微笑を浮かべた。そして二人はしばらく楽しいおしゃべりをしながら学校へと続く道を歩いた。しばらく歩いていると同じ学校の生徒たちが大勢いる道路に出た。それからまたしばらくして学校が見えてくると明日香が言った。
「もうそろそろ優等生モードに入らなきゃまずいんじゃない?」
「そうだね。ちょっと気が重いけど」
「がんばれ!」
明日香はそう言うと香世子の背中をバシッと叩いた。
「イタッ!」
「あっ、ごめん。ついつい」
「あたしは体が強い剣道部員じゃないんだからね」と香世子。
「だから、ごめんなさいってば。許してちょうだい。堪忍や堪忍」
明日香は両手を顔の前でくっつけて、謝った。香世子はいいよっと軽く手を振った。
明日香は剣道部に入っていて、力が強い。確か剣道部で県の大会で優勝するぐらい実力がある。香世子と明日香は学校の広い門の中に入った。そこにはどこの学校と同じような風景が広がっていた。高い白い建物が建っていて、一年、二年、三年っと校舎がつながっていて、すこし歪な建物の中心の三年の校舎には丸い時計がついている。校舎は運動場を囲むように出来ていて、そして体育館は校舎の後ろ側にある。後ろの門から入れば体育館がはじめに迎えてくれる。門には学校の先生たちが何人か立っていて朝の挨拶をしていた。
 二人も挨拶をされて、挨拶を返した。
「なんだかねぇ。いいねぇ〜。一年生は初々しい」
明日香は一年生が友達としゃべって笑い飛ばしている姿を見ながら憂鬱そうに言った。
「そんなことないよ」
香世子は優等生モードに入っていた。明日香がそれに気づいて、小さな香世子にだけ聞こえるように言った。
「本当はそんな風に思ってないくせに!」
香世子は強く頷いたが、明日香のほうは向かないでずっと前を見ていたし、何か話しかけられているという素振りも見せていなかった。
「お上手だこと」
明日香はそう言うと、いきなりぱっと顔を明るくして、大きく手を振り始めて、「じゃ、教室でね」っと言うと、とっとと走り出してしまった。明日香が走り出した先には、明日香の剣道部の先輩の有栖川 永治(ありすがわ えいじ)先輩がいた。彼は明日香の憧れの先輩で唯一胸ときめく先輩でもある。つまり明日香は今有栖川先輩に夢中でお熱を上げているということだ。それもしかたないだろう。有栖川先輩は剣道で全国まで行った腕の持ち主で何より顔がとてもハンサム。ジャニーズに所属しているといっても誰も疑わないだろう。それに背も高い。香世子は有栖川先輩と楽しくしゃべっている明日香を憧れのまなざしで見ていた。香世子はこれまで一度も人を好きになったことがないし、もちろん胸ときめく出会いもしていない。そんな一瞬もなかった。だから香世子には胸がときめくということがまったくわからない。そんな香世子にとって明日香は憧れの存在でもあった。香世子はかるくため息をついて、自分が歩いている地面を見やった。
 すると、前からかすかに自分を呼ぶ明るい声が聞こえてきた。三年生の正面玄関の所に眼鏡をかけた女の子が香世子に手を振っていた。



「香世ちゃん知ってる? 最近ビル街に一つの喫茶店がオープンしたんだって。知ってた?」
「そうなんだ。全然知らなかった」
香世子は廊下を歩きながら本当に知らなかったのでそう答えた。香世子が今話しているのは、田中 麻知(たなか まち)だ。三年生の正面玄関で香世子に手を振っていた女の子である。とても優しくて、頭がよく、絵を描くのがとても上手だと学校でも評判がいい。学校ではいつも麻知と一緒にいる。だから学校では大親友の明日香とこの麻知との三人グループで仲良くやっている。
「そうだ! 今日あたし予定空いているから、その喫茶店に明日香ちゃんと一緒に三人で行ってみない?」
「いいよ。でもいつにする? あたし学校にお金持ってきてないから学校帰りは行けないよ」
「そっか。さすが優等生」
香世子は微笑した。麻知は確かに優しいが決して全てが善意のある人物ではないっと香世子は思う。麻知と一緒にいると時々身の危険を感じるときがある。
麻知は考えはじめていた。今麻知の頭の中ではパソコンがすばやくどうするかを火花を散らして計算しているだろう。麻知があごにひとさし指をくっつけて悩んでいると後ろからドスッと誰かがのしかかってきた。それは明日香だった。明日香はニッコリ笑ってご機嫌に言った。
「あたしが香世の分払うよ。三人でその噂の喫茶店に行こう!」
「よかったね」と麻知。すんなりと受け止めている。
「でも――」
香世子がそう言いかけると明日香がそれを遮った。
「い・い・の! それとも香世は私のこのご機嫌を損ねるつもりかね?」
明日香はくるくる回って二人を遮るように二人の前に出ると、香世子の鼻にひとさし指を突きつけて言った。
「私はいまものすごーく機嫌がいいのだ! だから私の言うことを聞きなさい!」
「明日香ちゃん。どうしてそんなに機嫌がいいの? もしかして有栖川先輩?」と麻知が落ち着いたふうに聞いた。明日香はそれをきいたとたんうっとりと夢心地の顔になって、頬に手をあてるとふわふわと答えた。
「そうなの。もう信じられない! 有栖川先輩がね『明日香さんて、笑うととても素敵ですね』なんて言ったの! もう最高!! 神様に感謝感激! 雨あられよ」
明日香はそう言うとぴょんぴょん飛び跳ねて、顔を真っ赤にして、小さくキャッと声を上げた。香世子は明日香のその様子を見て、不思議なのっと思っていた。人を好きになるとこうなるのかな……わかんないや。それから三人は自分たちのクラスに向かった。明日香は麻知と香世子の間に入って――明日香はまだ落ち着かないふうにしている――廊下を歩いていた。三人は自分たちの教室につくといったん別れ自分の席に鞄を置きにいく。香世子の教室はどこの教室とも違わない普通の教室だった。二つの机がくっついて並んでいる。それが三列に並んでいるだけだ。一番前には黒板があって、その前に一つの机がある。香世子と麻知の席は窓側の列から二番目で真ん中の方。明日香の席は麻知の後ろにある。香世子はそれをずっと羨ましく思っていた。香世子の周りには香世子の話したことがない生徒ばかりが座っているからだ。三人は自分の席について、鞄から今日使う教科書やノートを出して、鞄を後ろにある番号順のシールがはってあるローカーっと言われている四角い長い棚に自分たちの鞄を入れて、三人はすぐに一箇所に集まった。男子が馬鹿騒ぎしているのをしり目に、三人はしゃべりだした。香世子は気になっていたことを二人に聞いた。
「それで、噂の喫茶店ってどういう意味?」
すると二人は驚愕して、声をそろえていった。
「知らなかったの!?」
香世子は声の大きさに耳の鼓膜が破れるかと思った。少しの間耳を痛いけにさすっていると、麻知がしゃべり始めた。
「あたしもね。二、三の噂を聞いてその喫茶店のこと知ったんだけど……なんだかとても変な喫茶店なんだって」麻知が言うと、明日香が続けた。
「あたしも聞いたことがあるよ。確かその喫茶店に入ろうとするとものすごく嫌な耳障りな奇声が聞こえるんだって――」そのあとを麻知が続ける。
「そう。それで喫茶店のドアを開けると、一人の老人が立っていて、まるでお客さんを品定めするようにじろじろ見るんだって」
「それで、結局気味が悪いと思ったお客さんはみんなその喫茶店から離れていくんだってさ」と明日香。
「それでも、離れていかないお客さんには、「とっとと帰れー!」って、ものすごく大きい声で怒鳴るんだよ。ものすごい剣幕でね」
麻知の話が終わると次は明日香がしゃべり始めた。
「あたしが聞いた噂では、中に入った人も数人いて、その人たちの話では中は地獄のように暑くて、まだ肉のついた人間の骸骨が天井から吊るされていて、その骸骨がきゃらきゃら笑うんだって、それでお店から出てくるときは体の一部を置いていかなくちゃいけないんだってさ」
それを聞いて香世子は恐怖に心を奪われた。体の底から冷やりとした感覚が体中を走り抜ける。その冷たさに香世子は胃が凍ってしまったんじゃないかと思った。香世子はその手の物は超がつくほど苦手で、そんな噂があるお店に近づこうとしている目の前にいるこの二人が異世界の人のように見えた。香世子は恐る恐る震え声で言う。
「ねぇ、そのお店に行くのやめない?」
すると明日香と麻知が顔を合わせて、くすくす笑い始めた。香世子は何がおかしいのかさっぱりわからないっという顔をして、二人をかわるがわる見た。二人はそんな香世子を一通り笑った。香世子はそれに今度はしかめ面をしてみせる。二人はそれにますます大きい声を出して笑った。明日香がまだヒィヒィ笑いながら、香世子の肩に手を置いて言った。
「大丈夫。そんな見るからに恐ろしいって顔しないの! 確かめるだけだからさ。なんかおかしなことがあったらすぐ逃げればいいの!」
「でも――」
「深く考えないことだよ。香世ちゃん」と麻知。
香世子はそう言われても納得がいかなかった。それでしばらくむすっとした顔をしていると教室に蔡上院 晴美が入ってきた。香世子は晴美にチラリと視線を投げた。が、晴美はそれにはまったく気づかず、無表情で席に着いた。
「香世子、どうした?」
明日香が香世子を不思議そうに見て言った。
香世子は慌てて手を振って、
「なんでもない」
と答えた。
「そう。それならいいんだけど……」
「もしかして蔡上院さん?」と麻知。
香世子はギクリとした。麻知は勘がすごい。
「無駄だよ。何話しかけても無視するんだからさ」
明日香がさらりっと言ってのけた。香世子は、
「そうかな」と言って頭を傾げた。
「そうだよ。あっちはこっちのこと何とも思ってないんだから、こっちがあっちのことを気にしても無駄だよ」と麻知も明日香に口を揃えた。それでも香世子は晴美が気になっていた。そして、二人が新たな話に花を咲かせようとしたころ、一時間目の始まるチャイムがなった。
「チェッ、もう時間だよ。じゃあね香世子」と明日香。
「また後でね。香世ちゃん」と麻知。
香世子はうん。じゃあねっと気のない声で答えて、自分の席につこうとした香世子は、晴美の横をすれ違うことになった。晴美がロッカーに鞄を置きに行ったのだ。すると晴美の横を通った後、しばらく薔薇の香水の匂いが香世子の鼻につきまとうことになった。
 香世子が自分の席についたころ教室に一時間目の担当の先生が入ってきた。一時間目の授業は社会だった。香世子は今度の中間テストの社会に自信がなかったので、一生懸命覚えようと必死になっていた。他の生徒も必死のようだ。さっきまで馬鹿騒ぎしていた男子たちも黙りこくって静かに授業を受けている。一年生の時は必ず男子が授業中でも大声を出したり、笑ったりして騒いでいたものだ。香世子は途中ふと気がまぎれて、晴美の席のほうを見た。晴美はまたも無表情で黒板の文字をノートに写している。香世子はずっと晴美に見入ってしまいそうになったが、先生が黒板を叩いて重要なところをしゃべり始めたので、香世子はすぐにシャープペンシルをきつく握って、先生が言っている重要なところを写し始めた。それからは一度も晴美の方を向かなかった。一時間目の授業が終わるチャイムが鳴りクラス全員が立って、礼をした。先生は教室を出て行った。香世子は肩から息をぬいて、椅子にへたれこむとノートを整理し始めた。机に肘をついてもう一度ノートに目を流していた。書き加えなくてはいけないところは書き加えて、教科書を見ながら頭の中で先生の話と教科書に書いてあることを一つ一つ確かめながら元々あった頭の中の答えを確かめていく。香世子が目を素早く左から右へ走らせていると、明日香と麻知が香世子のところに来た。香世子は頭を上げて一言言った。
「難しい」
「そりゃあそうでしょ」明日香が軽く笑った。
「一年生に戻りたい……。この知識を持ったまま」
麻知が呟くようにいった。
「そしたらテストは百点満点だね」香世子が言う。
「本当一年生はいいよね」と明日香。
「でも、当の本人たちはそうは思ってないでしょ」と麻知。
三人は同時に大きく頷いた。
「で、社会わかった?」と明日香。
「あたしはまぁまぁ」と麻知。
「麻知は頭いいもん」と香世子が椅子をブラブラ揺らしながら言った。
「そのとおり! 麻知は頭いいからさ。あたしなんてさっぱりくっきりわかんなかったよ」
「それよりなにより今回のは記憶するのが大変そうだから」と香世子。
三人はまた大きく頷いた。すると麻知がぱっと明るい顔をした。
「大丈夫! いざとなったら、高橋 透(たかはし とおる)がいる!」
「高橋って……えぇー!! あの眼鏡の?」
明日香がそう言うと麻知が突然口を引きつらして世にも恐ろしい地獄からの笑みを浮かべた。
「眼鏡に何か文句がお・あ・り?」と麻知。
明日香は少し後ろに下がり、香世子は椅子から飛び上がった。二人揃えて引きつった声をだした。
「なにもありません!!」
麻知はそれを聞くと世にも恐ろしい笑顔を崩して、にっこり可愛らしく笑って見せた。麻知は眼鏡の事に関しては死ぬほど怖くなるのだ。一つでも眼鏡をけなそうとすると、あの地獄から来たような世にも恐ろしい笑顔を出すのだ。明日香と香世子は元に戻って、二人で目を見合わせてもう危険がないか目配せして確かめ合った。二人とも危険がないとわかると安堵の表情を作った。麻知はそんな二人の気持ちなど無視して今度は可愛い天使の笑顔を見せて、猫なで声で言った。
「それで二人ともなんで飛び上がったの?」
明日香の短い髪の毛から一本髪の毛が立ち呆れた表情を作り、香世子は服が連れ落ちたし、手からシャープペンが転がり落ちるのがわかった。
「全然、わかんない。意味不明だよ。ねっ、香世」明日香は顔に手をつきながら言った。
「うん。飛び上がった本人もおり言った事情はわかんないよ」と香世子。
「そう」と麻知がにっこり微笑んだ。
香世子と明日香は同時に深いため息をついた。



二時間目の授業は技術で三人はそれが終わると技術の先生に対して散々文句を飛ばした。三時間目は数学で三人は頭を悩ますだけ悩まして、今度の土曜日に一緒に数学の復習をすることになった。そんな感じで授業は進み三人とも心身ともに疲れていた。しかし、香世子はそれだけじゃなく噂の喫茶店のことが気になって気になってしょうがなかった。そのあと三人は自分たちの班にわかれて掃除をして、家に帰る準備をして帰りの会の担任の先生の長ったらしい話を聞いた。担任の先生の話が終わり、クラス全員が立って、礼をした。それから三人はまだクラスの子がちらほら残る教室に残って喫茶店の話をしていた。香世子が怯えた声を出して聞いた。
「本当に行くの?」
「もちろんでしょ!」明日香が興奮気味に鼻を鳴らして言った。
「そんなに怖がることないよ。香世ちゃん」と麻知。
「でも――」
「一人で中に入るわけじゃないんだからさ。大丈夫だって」
明日香が香世子を遮って言った。
「それじゃ、早くその喫茶店に行きましょ」と麻知。
「よっしゃー! 確かめに行くか!」
明日香は行く気満々のようだ。麻知も楽しそうだ。唯一香世子の気持ちは足のつま先まで沈んでいた。香世子の頭の中ではまだ肉のついた骸骨がきゃらきゃら笑うところが何度も頭に浮かんで、そのたびに大きな恐怖の波に飲み込まれて足がすくみそうになった。


香世子たちはビル街に着いた。香世子の足はガクガク震えていた。ビル街にはおしゃれをしたお姉さんたちが行きかい、スーツを着込んだサラリーマンが行きかい、車が知らん顔で通っていき、高いビルが幾つも立ち並んでいて、まるで一つの機会の国のようだ。明日香は先頭を歩いて。その後ろを麻知。その後ろを香世子で、香世子は何度もこの場から逃げてしまいたいと思っていた。しかし、麻知がそんな香世子の気持ちを知ってか香世子の手を強く握っていて、香世子は麻知に連れられている貧弱な子供のようになっていた。青い信号になった交差点を通り人気の少ない通りに出た。そこにはおしゃれをして行きかっているお姉さんは、ほんの少ししか居なくて、どのお姉さんも男の人を誘惑しているようだった。そんなお姉さんたちの前を男の人たちが知らん顔で通っていく。香世子はその光景を見てさらに恐怖を覚えた。
「あっ、あそこ」明日香が急に止まっていった。
「知ってる? あそこの通りを曲がったところにあるんだけど、通りを曲がったら耳障りな奇声が聞こえてくるんだってさ。確かめてみよう」
明日香がどもりながら慎重に言った。麻知は強く頷いて、さらに香世子の手を強く握った。香世子は恐怖で気絶寸前だった。心臓がものすごく早く鼓動を打っている。もし、あの曲がり角を曲がって奇声が聞こえたらどうしよう? それでもしあたし達の身に何か悪いことが起きたら? そしたらみんなで一目散に逃げなきゃっと香世子は考えていた。香世子がそんなことを考えているうちに曲がり角はもう目の前に迫ってきていた。空はさっきまで青く澄んでいたのに、今ではどんより紫色になっている。カラスのバタバタいう羽の音が不気味さをさらに増徴していた。明日香がいったん止まって麻知と香世子に聞いた。
「準備はいい?」
「オッケー」と麻知。
「だ、大丈夫」と香世子。
今さらダメなんて到底言えない。香世子は大きく息をすえるだけ吸って、ゴクリッと生つばを飲むと麻知に続いて足を一歩前に出した。曲がり角を明日香、麻知が曲がっていく。そして、香世子はぎゅっと目をつぶって曲がり角を曲がった。とたんに麻知にぶつかって、足が止まる。どうしたのか、と香世子が目を開けると、明日香と麻知がしかめ面をして二人は顔を確かめるように見合っていた。あまりにも重い空気だったので香世子が恐る恐る聞いた。
「ど、どうしたの?」
明日香と麻知が香世子を振り返り、驚いたふうに聞いた。
「どうしたって。聞こえないの女の人の奇声?」
「女の人? 奇声?」
そういえば、と香世子は耳を立てた。曲がり角を曲がっても香世子には奇声らしきものは何一つ聞こえていなかった。香世子はしかめ面の二人に慎重に答えた。
「何も……聞こえない」
それを聞くと明日香が麻知の方に大きく頷いて見せて、
「じゃあ、喫茶店のドアまで行こう」
と言った。香世子はそれに驚いて急いで言った。恐怖のあまり声が震えていた。
「二人とも奇声が聞こえているんでしょ? だったら帰ろうよ。もう十分やったよ」
しかし、明日香は大きく首を振った。麻知が小声で言った。
「できるところまでやろうよ。香世ちゃんも奇声が聞こえるようになるまで。ねっ?」
「そんな……」
香世子は落胆の声を上げた。この二人は奇声が聞こえているのに怖いとは思っていないのだろうか? 香世子は麻知に強く手を握られて、その手に引かれながらそう思った。
三人はどんどん喫茶店に近づいていくその足取りはとてつもなく慎重だった。まるでサーカスでやる空中にある細い糸の一本の上を歩いているみたいに歩いていた。慎重に慎重に喫茶店に近づいていく。喫茶店の横にあるお店を通って、そして着いた。喫茶店の前に。香世子の心臓は今にも爆発しそうだった。明日香が喫茶店のアーチ型のドアに近づいていく。
「開けるよ」と明日香。
麻知は静かに頷いて、香世子は目をつぶった。この先にきゃらきゃら笑う骸骨がいるのかと思うと香世子の足は氷のようにカチカチになった。香世子は一人喫茶店の上に飾ってある看板の文字を方目を開けて読んだ。そこにはローマ字でromanntisuto喫茶店と書いてあった。その看板には植物のつるがたくさん隙間がないくらい巻きついていた。なんて不気味なんだろうっと香世子は思った。明日香は慎重に取っ手をくるっと右に回した。すると、ギィィッと重い暗い音を立ててドアが開いた。香世子は右目だけ恐る恐る明けて、恐怖心に駆られながらドアの中を見た。しかし、そこには小さな空間しかなかった。空間の中にはもう一つドアがあって、その前に意地悪そうな老人が一人立っているだけだった。グリーンの色のどこまでも続きそうな深い目が、本当にお客さんを品定めするような目つきでこっちを見ているではないか。香世子はその目に恐怖を憶えた。老人の目はグリーンの色をしていたが、それは漆黒の闇を思い出させるものだった。老人は長い白いひげをたらして、頭の前の方はぽっかり穴が開いているように髪がなく、その横に白い髪が長ーく伸びていた。赤い蝶ネクタイをして白いシャツ、その上に濃い茶色のチョッキを着て、黒いズボンを着ている。意地悪くニヤニヤ笑っている。
「何か?」老人が深くまるで凍っているような冷たい声を出した。
明日香はさすがに恐怖に引きつった顔をしていたが、なんと老人にこういったのだ。
「中に入りたいんですけど……」
香世子は頭がフラフラする程度ではすまなかった。今では頭の中がガンガン割れるように痛い。だから、香世子には明日香が言っている意味がさっぱりわからなかった。
中に入りたいだって? 何をいっているんだ? 香世子は自分の大親友は狂ってしまったのではないかと思った。正気の沙汰ではない! 香世子は意地悪そうな笑みを浮かべている老人を見て、今すぐにでもこの場から逃げ出して、安全な家に帰りたいっと強く願った。それがわかったかのように、老人が口を吊り上げてさらにニヤリと笑ったので、香世子は麻知の後ろに引っ込んだ。怖さのあまりに小さく身震いした。その時、老人の深い凍った声が何かを言った。香世子はそれを聞き取れなかったが、麻知が香世子の手を放したことはわかった。香世子の汗でぐっしょり手からの麻知の手が離れていく。そして、麻知が言った。
「香世ちゃん。香世ちゃんなら中に入れるって……」
麻知の声は少し震えていた。香世子は両目を見開いて、麻知と明日香を見た。
「どういう意味?」香世子が震え声を出した。何を言っているんだ? 明日香が強い視線で香世子を見つめて、
「香世子。あんたなら中に入れるって――」
「あたし、入りたくない!!」香世子が急に大声を出したので、明日香と麻知はビックリして、飛び上がりそうになった。明日香は今にも泣きそうになっている香世子の肩に手を置いて言った。
「大丈夫。なんかあったら叫べばいいよ。あたしが助けに行くから。ねっ? 入ってみなよ。あたしたちこのドアの前で待ってるから。大丈夫」
香世子はやっぱり自分の大親友は狂ってしまったのだと確信した。入ってみなよだって? こんな変梃りんなお店に? 一人で? 体の一部を置いていかなきゃいけないのに? 香世子は哀切するような目でかすかに首を横に振りながら明日香に言った。
「はいりたくない……」
すると今度は麻知が言う。
「大丈夫だよ。こわくなんかないってば。勇気を出して。明日香ちゃんが言うとおり何かあったら叫べばいいよ。ねっ?」
香世子は老人をかすかに盗み見た。老人はニタニタ笑っている。目がらんらんと意地悪く光っていた。正気の沙汰ではない。中に入れだって? 香世子は二人の友人を恨みがましく思った。どうしてこの二人じゃなくて私なのか? どうして私一人なのか? 香世子は目をぎゅっとつぶって今度は大きく首を横に振る。入りたくない。すると老人が深い凍ったようなどこか楽しんでいるような声で言った。
「中に入りなさい。あなたにはサービスしますぞ」
サービス? 一体全体どんなサービスをするのだろう? 人の脳みそをすすらせてくれるサービスなのだろうか? 怖い。こんなところには入りたくない。しかし、香世子の友人である明日香と麻知は香世子を老人の前に出したではないか。香世子は二人のこの行動に驚愕して、何も言えず口をぱくぱくさせていた。香世子がそんなことをしていると明日香が自分の鞄の中から赤い財布を出した。明日香はそれを香世子の手に押し付ける。
「大丈夫だから」
再度明日香が言う。どんな証拠があってそんなことを言うのか香世子にはわからなかった。ただ押し付けられた財布を落とさないように握ったことは確かだった。どうしてこんなことになったんだろう? 香世子がそう思っていると麻知が口を開いた。麻知の目は香世子に謝罪しているかのようだった。
「私たち外で待っているから……」
香世子はこめかみに汗が伝うのがわかった。怖い。
「お入りなさい」
老人が中に入るように促した。そして老人は壁にぴたりと背中をあてて、腕をゆっくり中にあるドアの方へさした。ここまで来たら中に入るしかないのだろうか? 香世子がそう思って、体を少し後ろに引いたときだった。香世子の足の裏に冷たいものが、ブヨブヨうごめく感触がしたと思ったら、なんと足が勝手に喫茶店の中のドアへ向かっていくではないか。一歩一歩前に前進していく。香世子はそれを止めようと足に力をいれたが足はそれでも前に前に動いていく。そして、喫茶店の中に入った。老人のすぐ隣にたった。香世子は半泣きで二人の友人を見たが、友人たちはただ呆然と立ちすくんでいるだけだった。そしてギィイッという重い暗い音を立てて扉が閉まっていく。香世子にはその音が漆黒の闇から聞こえてくるように感じた。扉が閉まる直前、香世子の足の裏の感触は消え去った。


◆【後編】

「さてはて」
老人は呟いた。香世子は恐怖のあまり足がすくんで逃げ出したくても逃げれる状態ではなかった。香世子はゆっくりと老人を見た。あの意地悪な笑みが浮かんでいると思っていた顔にはあの恐ろしい意地悪そうな笑みはどこにもなかった。あのらんらんと光る目はどこにもなくそこには赤ちゃんのようなぱっちりした目があるだけ。老人はまったくの別人に見える。その老人は赤ちゃんのような優しい笑顔を作って、ズボンのポケットからレースのハンカチを取り出して、香世子の顔にそのハンカチを当て、優しく透明な水滴をふき取った。
「やれやれ。レディーを泣かすとは、まぁまぁ。少し変装が過激すぎましたでしょうか?」
香世子は老人のとても優しい春風を感じるような声に我慢しきれずわぁっと泣き崩れた。自分でも何がなんだかさっぱりわからない。ただ自分の目から滝のように涙が溢れ出してくる。これまでの恐怖が爆発したのだろう。香世子の足からどんどん力が抜けていく。そのうち、床にへたれこんで泣く香世子に老人はただ優し言葉をかけ続け、ここは安全だといい続けた。
「大丈夫ですよ。私はあなたに何の危害も加えません。神に誓って。だから泣かないでください。大丈夫ですから……」
香世子はしばらく足に力が入らずずっと床にへたれこんでいたが、ここが安全なところだというのは老人が自分に優しく接してくれたことでよくわかった。老人は香世子の涙で濡れてほとんど使えなくなったハンカチをポケットにしまうとまた新たなハンカチを出して、香世子に差し出した。香世子はそれを受け取って涙を拭いた。
「ありがとう」香世子がしわがれ声でやっと言葉をしゃべると老人はほっとしたようにして言った。
「立てますか?」
香世子はこくりと頷いて立ちあがろうとしたが、途中ふらっとしたので老人に支えてもらうことになった。香世子がしっかり立ったのを確認すると優しい声で聞いた。
「レディーのお名前はなんと言うのですか?」
「芳田 香世子です」香世子は口ごもりながら言った。急にさっきまでわぁんわぁん泣いていた自分が恥ずかしくなったのだ。
「素敵なお名前ですね」老人はニッコリ笑ってひげをもぞもぞと触りながら言った。
「どうも」
香世子が短く返事を返すと、喫茶店の中のドアがス――ッと開いた。香世子はそれにドキリとして後ろに下がった。ドアの向こうから一人の髪の短い若い青年が、老人と同じ格好をして出てきた。少年は香世子を見ると指を突きつけて大笑いしだした。
「泣いてるよ! マスター! 傑作だ!! 今度はどんな噂をながしたんだい? 女の子をこんなに泣かせるなんて! また怖がらせたんだ! やっぱりマスターは黒魔術使いになったほうがお似合いだ!」
 香世子は青年があまりにも笑うものだから自分が泣いたときのことをまた思い出して、頬を紅潮させた。青年は一通り笑うと、調子を変えて丁寧に言った。
「ゴホンッ。マスター。この子が人間界からの大事なお客さんですか? ずいぶんと若く見えるじゃないですか? それとも僕の目がおかしくなったのかな。――おや。そんなに睨まなくたっていいじゃないか。冗談を言っただけなのに……」
えっと声を上げて自分が店員をものすごい目で睨んでいたのがわかった香世子は恥ずかしくて頭を下げるのが精一杯だった。頭を上げると老人が青年の方に軽く手を上げて彼を紹介してくれた。
「こちらはジョルジュ・ボルバート。私の店のやんちゃな店員です。年は二十三歳。冗談好きの失礼極まりない青年です。どうか仲良くしてやってくださいな。うちの店にはこの店員しかいませんのでな」
「そう……なんですか」
では、とても小さな喫茶店なのだろうと、香世子は思った。すると店員が香世子の気持ちがわかったのか、つんっとした言い方で言った。
「大きいよ。うちの店は。プラチュア国、グレッジバラス通りではかなり有名なんだからさ。名高い店なんだぜ。国の誇りなんだ」
プラチュア国? グレッジバラス通り? 聞いたこともない言葉を聞いて香世子は頭がフラフラした。泣き終わってからは頭のガンガンする痛みはなくなっていた。心臓も普通に鼓動を打って、大分落ち着いてきていることに香世子は気づいた。それでも、どうやら色々説明を受けないといけないらしいっと香世子は思った。香世子は勇気を出して目の前にいる老人とジョルジュという青年に聞いた。
「あの色々説明して欲しいですけど……。まずプラチュア国ってなんですか?」
するとジョルジュは吹き出して、老人はふぉ、ふぉ、ふぉ、と笑った。
「あなたには色々説明しなきゃならないことだらけで、私達は苦労しそうですな」
老人が言った。香世子はそう言えばっと思い出した。まだ老人の名前を伺っていないのに気づいて丁寧に聞いた。
「あのあなたのお名前はなんて言うんですか?」
すると老人は目を丸くして、そう言えばっと思いあたったようにまたふぉ、ふぉ、ふぉ、と笑うといった。
「失礼。私の名前はスピリッツ・モルモーゼと言います。紅茶を出したり、飲み物を作る以外は何も出来ない老いぼれ爺です。仲良くしてくれますか?」
「もちろん」香世子は即答した。この人はとても優しく、礼儀を知っている人だっと香世子は思う。それからニッコリ笑って見せた。
「笑うと結構可愛いな」ジョルジュが言った。「でも人を睨み付けるときのあの顔は死神以上だぜ。絶品だった」
ジョルジュはあごに手をあてると何度も頷いた。香世子は喜んでいいのか悪いのかわからなかった。男の人に可愛いと言われたことは一度もなかったからだ。それでも自分が人を睨むときの顔が死神以上に怖いとはこれまでの人生で一度も思ったこともないし、人から言われるのも初めてで少し腹ただしくなった。それでも、どこかでこの人は失礼極まりない青年だと思っていたのか、すぐに騒ぎ出した腹の虫が収まった。
 香世子は青年にまだ自分の名前を言ってなかったことに気づいて、ジョルジュのほうに向きなおって言った。
「芳田 香世子です。よろしく。ジョルジュさん」随分落ち着いていたので、冷静に言うことができた。
「変な名前」ジョルジュはすぐに言った。
「ジョルジュ。そんなことを言っては、失礼ですよ」スピリッツ老が柔らかくそれでも嗜めるように言った。
「はーい」ジョルジュは鼻くそをほじくるまねをして見せた。香世子はそれにクスクスと笑った。
「ところで、ここまで来て随分と遅くなりましたが、香世子さんは魔法を信じる方ですか?」とスピリッツ老人。
香世子はそれを聞いた途端、やっぱりそうなんだ! ここは魔法の世界なんだ! と強く思った。この喫茶店に入ってから、なんだか雰囲気が違うと思っていた。香世子はそう思うと質問に答えようとしたが、どうにもこうにも言葉が出てこない。香世子はスピリッツ老人を見つめて悩んだ。香世子はこれといって魔法が好きだった記憶はない。だからと言って魔法が嫌いというわけでもない。好きでも、嫌いでもないので香世子は自分がどっちなのかわからず唸るような声を出した。スピリッツ老人は香世子のその様子を微笑んだ顔でじっと見つめていた。しばらくして、
「わかんない」と香世子が呟いて顔を上げた。
「こんなことを言うと失礼かもしれないけど、でもあたし魔法のこと好きでも、嫌いでもないから、わかんないとしかいいようがありません」
スピリッツ老人は頷いた。
「失礼なんて、ここでは気にかけないでください。あなたが家で過ごすように過ごしてくれて結構ですよ。でも、条件が一つジョルジュには遠慮しないこと。いいですね?」
スピリッツ老人はグリーンの片目を大きく見開いて香世子に聞いた。不思議と今はその目がとても温かく感じられる目になっていた。その深いグリーンが嫌な過去をけしてくれそうな気がして、同時に癒しを与えてくれる気が香世子にはした。
「もちろん」と香世子。またニッコリ笑ってみせる。
「それじゃ、決まりだね。かわいこちゃんにグラスの中のラピスラズリの宇宙を見せられる! ひゃっほーい! 驚いた顔が早く見たいねぇー!」
ジョルジュがそう言い終えると、ジョルジュが出てきドアが音を立てずぱっと開いた。
 かと思うとドアの中から上品な音楽が聞こえてきて、何人ものひとの話し声が聞こえてきた。ジョルジュはドアの中に入っていきながら、香世子を肩越しに振り返って、「腰をぬかすなよ。かわいこちゃん」と言った。香世子は「抜かしません!」とはっきり言ったが、ジョルジュは聞いてもいなかった。ドアの向こうに広がっていたのは、長い廊下に天井と壁はアーチ型の透き通ったガラスだった。
「わぁぁー!」
そして、ガラスの向こうに見えたのは、香世子がこれまでに見たこともない世界だった。



「ようこそ! わが国、プラチュア国へ!」
香世子はガラスの向こうに広がるにぎやかで華やかな通りを目にした。活気のあるしゃべり声がガラスの壁を通って聞こえてくる。そして、どこからともなく上品な音楽が聞こえてきていた。香世子ははじかれたようにガラスの壁の側に走って行って、ガラスの壁に手をついて何度も目をぱちくりして、華やかな通りを見渡した。通りの中心には太い道路が線を描いているが、その線がどうやら何種類かの宝石で作られているらしいので、太陽の陽射しで反射して、眩しさのあまり香世子は目を細めないといけなかった。その道路の脇に立っている電灯もダイヤモンドやエメラルドの粒で綺麗な花模様が描かれているものもあれば、線蜜に人の顔や動物を、宝石で描かれてあるものもあった。電灯の脇には、小さな掲示板のような物があって、(それも宝石尽くし)新しいデザインのネックレスや指輪の写真が掲載されていた。道路の向こう側の通りには角張ったおしゃれなお店が並び、そのどれもが宝石をふんだんに使って出来たお店ばかりだ。お店の看板はどれも目を引くものばかりで、通りのアスファルトにもアクアマリン、フローライトの宝石が散りばめてある。しかし宝石は特殊な魔法をかけられているのか太陽に反射してキラキラ光ることはなかった。一部を除いては……。一部はその宝石の色で輝いていた。
香世子がガラスの壁を覗いているすぐそこに宝石をネックレスや指輪にして売っている屋台があるが、その屋台は木で作られたりはしていなかった。それは黄金で作られているようにみえる。道路をカタコトカタコトいいながら通っていく馬車は深紅と黄金色の貴族が乗るような馬車にしか見えないぐらい豪華で、その馬車たちの車輪にも宝石がつけられている。通りを歩いていく人たちも十本の指にはもうこれ以上はめられないっと言うぐらいダイヤ、エメラルド、サファイヤやルビー、トパーズの宝石がキラキラ光って、首からは十センチも厚みのあるダイヤモンドが、ネックレスになって下げられている。香世子はその様子を呆然と見ていた。遠くにビックベーンとそっくりの建物が見えて、その建物についている時計は、ダイヤモンドとクリスタルで出来ているようだ。文字は黄金で出来ていてはっきり見える。長針と短針はオブシィディアン=黒曜石で作られていそうだ。香世子はそれを見て、あまりの美しさに目を奪われていた。すると、一匹のシャムネコが香世子の視界に入ってきた。
「すごい……。猫にまであんな贅沢……」
シャムネコは綺麗な毛並みをしていて、さしずめ自分は一番偉いのだと言わんばかりの顔をして通りを歩いていた。香世子はゆっくりシャムネコが一歩前進するたびにシャムネコの首のあたりで揺れる宝石を見た。シャムネコは頭から背中尻尾まで、足まではいかないが、宝石をびっちりつけて優雅に歩いている。その宝石の種類といったら十本の指では数え切れないぐらいあるだろう。香世子はしばらくその猫を目で追って、ずっと見ていた。そして、他の猫たちもそうやって宝石をびっちりつけているのに香世子は気づいた。そんな豪華な通りに行きかう人々の中に混じって、絹の豪華なドレスをきて、宝石で飾られたボンネットを被った貴婦人もちらほら見える。その向こうでは、ピエロの格好をした人が、ダイヤモンドで作られた薔薇の花束を小さな子供たちに惜しみなく渡していた。通りを行きかう人々は皆笑いあって、宝石の自慢などまったくしていないようだった。陽気に歩く若者には、かならずフィアンセがついていて、若者は颯爽とフィアンセは優雅に通りを歩いていく。香世子はその様子を口をパクパクさせながら見ていた。香世子が見るものすべてに宝石がかならず入っているのだ。
「どうだい? 気に入ったかい? かわいこちゃん。ここがグレッジバラス通りだよ。にぎやかだろ?」
ジョルジュが笑いを必死にこらえながら、それでも自慢げに言いながら香世子のすぐ後ろに立った。香世子はそれに気づかず、すっかりグレッジバラス通りに釘付けになっていた。その時、香世子の胸は一気に膨らんでいった。心臓がこれまでなかったかのように早く鼓動を打って、体全部の血管が、早く脈打って、血が体中を素早く駆け抜ける。目の前に広がる見たこともない贅沢な通りに興奮していることがわかる。目は見開いてもっとしっかり見ようと必死だ。はじめ噂を信じてこんでのこのお店に入るのにあんなに怖がっていた自分が馬鹿で愚か者のように思えた。香世子はあまりにも夢に満ちた空気でいっぱいになった心臓を少しでも縮ませようとため息混じりに言った。
「素敵……こんな世界みたこともない」
そう言って夢いっぱいに光る目をジョルジュとスピリッツ老に向けた。
「ここはとても素敵! あたし何もかも気に入りました!」
「そりゃあそうだろうな」とジョルジュが自慢げに言って、にやりと笑った。
「一応カベェヌートリアスも女だもんな」
香世子はジョルジュがいたずらな笑みでニヤニヤして言った言葉にきょとんとした。
「カベェ……何?」
「香世子さんのここでの名前ですよ」これまで黙っていたスピリッツ老が口を開いた。
「ここでは香世子という言葉をこの国の言葉に変えるとカベェヌートリアスになるんです。少し長い名前になりますが覚えておくといいですよ」
「そうなんだ」香世子は感心したように言うとジョルジュを睨んでつんっとそっぽを向いた。ジョルジュが言った失礼な言葉に今気づいたのだ。その様子をみたジョルジュは謝りもしないで、クスクス笑うと、「怒った怒った! 死神が怒ったぞ!」とうさぎのようにぴょんぴょん飛び跳ねて騒ぎ立てた。香世子は「死神じゃない!」と何度も反論したが、ジョルジュは騒ぐのをやめなかった。しばらくジョルジュのけたたましい笑い声が長い廊下に響き続けた。それを遮ったのが……
「ジョルジュ。もうそろそろやめないかね。大事なお客様を本当に怒らせてしまって、帰られたら大変ですよ」スピリッツ老が片方の眉毛を吊り上げていった。
「そしたらジョルジュが見せたがっているラピスラズリの宇宙を香世子さんに見せられなくなりますよ」
するとジョルジュはぴょんぴょん騒ぎまわるのをやめ、考えるように唸って真剣な眼差しで香世子を見つめて、そしてはっとしたように息を呑み、香世子に指を突きつけて言い放った。
「そうだ! 騒ぎ立てるのをらやめなさい! カベェヌートリアス! うるさいじゃないか! 迷惑にもほどがあるぞ! 限度を超えている!」
香世子は目をつぶって、ぶるぶる震える拳を抑えて、我慢しながら大声を出さないように口を食いしばって言い返した。
「それは……あんたでしょ。ジョルジュ……さん」
「見てください! 無礼者が私に罪を擦り付けようとしています! マスター!」
マスターはため息をついた。
「香世子さん。こやつのことは無視して結構です。あるいは好きなように殴ってくれて結構ですよ。遠慮しないでください」
「無視なんてそんな……」ジョルジュが絶望的な声を出した。
「やんちゃな青年にそんなひどい仕打ちをするなんて……。やっぱりあなたは黒魔術師になるべきだったんだ!」
ジョルジュが明るい顔をして何事もなかったかのように香世子に向いていった。
「カベェヌートリアスもそう思うだろう?」
「別に……」
香世子はむすっとして、腕を組んで、またそっぽを向いた。
「本当に面白いなカベェヌートリアスは!」
「どういたしまして」
香世子がそっぽを向いたまま答えた。すると、これまで静かにしていたスピリッツ老が口を開いた。
「――ところで、ジョルジュ。この国と通りの説明をしてあげてはどうですかな? 散々な振る舞いをしてきたのだから、丁寧にとは言いません。せめて普通にして説明してくれればいいんですよ」
「冗談を入れればもっと面白くなるよ。マスター」
「冗談はいらない!!」スピリッツ老が返事をする前に香世子が言った。ジョルジュはそれを面白くないと思ったのか二人に聞こえるように大きく舌打ちした。そして鏡に近づくと大きく咳をして、だらだらしゃべりはじめた。
「えーそれいじゃ、つまらない説明を始めます。まず、この国の名前はプラチュア国。宝石の国として有名」
「やっぱり!」と香世子。ジョルジュはそれを無視して続けた。
「そして、この国には二兆の借金がある」
「うそ! こんなに素敵な国なのに!」香世子は信じられないという声を出した。
するとジョルジュが完全にガラスの壁に顔を向けたので、顔は見えなくなったが、声は真剣そのものの声になった。
「素敵な国だからこそ、借金があるんだ。ここまで作るのに莫大な金が使われている。元々与えられたものに不平を言い。そしてある男が王に抗議したんだ。『ここは宝石の国じゃないか! もっともっと立派にするべきだ! 誰もが感動してこの国に来てよかったと言えるようにしろ!』そしてその声にまるで一番大事なものに気づいたかのように国民達は一声に王に抗議しはじめた。『そうだ! もっと立派な建物を!』『そうだ! もっと立派な家具を!』『そうだ! もっと立派な道路を!』『そうだ! 世界一の立派な宝石を!』
そのうち本当に道路も建物も家の中にある家具までも立派になって言ったさ。馬鹿な王は国民の言いなりだ。見てみろ。今では立派さ。電灯にまで飼い猫にまで宝石をつけている始末さ。子供が持つえんぴつにも宝石がつけられている始末。今となっちゃ誰も不平を言わない。みんなまだこの風景に飽きていないからな。でも、飽きたらまた言い出すんだ」
香世子は話を聞いていてまるでジョルジュが別人になったように思えた。見知らぬ誰かになってしまったような。そして、気づいたことがある。ジョルジュの声には悲しいみと憎しみが入っていることを。香世子はジョルジュの話に悲しい思いを抱いた。
ジョルジュは続ける。
「でも、この通りを行きかっている奴らは誰も知らないんだぜ。あの道路がどうやって作られたか。どんな人たちが汗水流して、努力して作り上げられた物か……。失敗があったらいけないから、わざわざ遠い国の建築小国、バルス国から来た一流の腕を持った職人が来て、コンクリートで作られたあの道路に穴を開けて、そこに溶けた宝石を流し込んでいく。溶けた宝石は、高熱を発する。そのせいで職人たちは酷い火傷をして、バタバタ倒れていったさ。それでも職人たちは替わるがわる入れ替わって作業を続けた。最後まで……。道路は無事完成した。だが、国民は納得いかなかった。実際に道路を使ってみると太陽の日差しに宝石が反射して、馬車の運転手はその眩しさに驚き前が見えなくなる。そしていくつもの事故が起こった。国民は今度はそれに不平を飛ばした。王はその不平をまた受け入れて、この道路を壊そうとした。しかし、国民はこの道路の美しさに魅了されていた。太陽に照らされて、光り輝く宝石はプラチュア国の国民にとって、何にも勝る美の象徴のようなものだ。美しさを一番に考えるこの国の国民にとってこの道路は壊せないものの一つになっていた。そして、今度は道路を壊すのは間違っているといい始めた。ろくでなしの王は国民に聞いた。どうればいい、かと。国民は道路を気に入っていたので、道路は壊したくない。しかし、これ以上事故が起こってはいけない。それで、一人の国民が提案した。『道路が日差しで反射するなら、馬車の運転手に反射した光が目に入らないようにすればいいじゃないか』
すると、今度は東の国、スレス国にこの道路の依頼することになった。スレス国には研究国として有名だ。研究家の数人がここに来て何日もかけて色んな事を研究した。そして一ヶ月がたとうとして国民の我慢も限界に達していたころ、研究家たちは、ある物を発明した。それが、アイム・クロコーズという目にはめ込む何ミリかの透き通った魔法のかかった紙ができた。それからは交通事故は起こってないよ。一つもね。それからはこの通りは平和さ。国も平和になっていった。みんな似たような通りだから、アイム・クロコーズがあれば大丈夫。道路も、アスファルトも、家も、店も、何もかも美しくなっていった。美しくないものはない。――でも誰も知らない。この通りがここまで美しくなるのにどれだけの犠牲と、どれだけの職人たちが努力したか。ここまで仕立て上げるのにどんなに苦労したか。そんなものはこれぽっちも考えていない」
ジョルジュは香世子にを振り返った。
「まぁ。ここは、そんな国の、通り。美しい……美しい……通りだ。もっとも僕はその美しさに恐怖を感じているけどね」
「どうして?」香世子がつい質問をしてしまった。
「どうしてかって? 美しい物に魅了されて、大事な……本当に大事なものを見失ってしまうからさ。 あるいは、なくしてしまう」
「そう……」香世子はそう言って通りを見た。通りはさっきと同じように宝石に身を飾る人々が行きかい、賑やかで、華やかで、道路は輝いている。
それが今では悲しく見えていた。――誰も知らないんだ……この通りがどうやって出来たのかを……どんな人たちが作ったのかを。それって……――それってものすごく悲しいことだよね。通りを行きかうにこやかな、楽しそうな顔で笑っている人たちを見て、香世子の脳裏にふと言葉が浮かんだ。大事なもの……。香世子はジョルジュの話を聞いているうちに自分も何かを見失いかけているような気がしてならなかった。何か大切なもの。
なかったけ? 夜空を見上げていたあの日呟いた言葉。
『今一番欲しいもの……』

――希望の光――

違う。そうじゃない。わからなくなったもの。見失いかけているもの。それは――夢。
「いやはやジョルジュに、説明させたのが、いけなかったようですな。黙って聞いていましたがとても暗い話になってしまいました。せっかくのこの通りの美しさが台無しです。それにプラチュア国のことがまだわからない部分が多いのではないですかな?」とスピリッツ老。
「じゃあ、マスターが説明すればいいじゃないですか? この国のことを。僕は説明上手じゃないですからね。でもこの通りのことはちゃんと話しましたよ。それだけはお忘れなく!」いやみぽくいってジョルジュは明るい顔を取り戻した。スピリッツ老は軽くため息をして、遠くを見る目で香世子を見つめた。
「香世子さん。この国についてなにか知りたいことはありませんか?」とスピリッツ老。
「えっ」香世子はふいに聞かれて、驚いた。今さっきまで頭の中で大きく膨らんでいた考えが、一気にしぼんで、変わりにこの国の聞きたいことが頭に浮かんだ。おずおずとそれを聞いてみる。
「この国はどうやって出来たの?」
質問を待っていたスピリッツ老は頷いて、ガラスの壁に近づいていった。
「いい質問ですな。この国は約七百年前に出来ました。古い書物にはそう記されています。その書物によると、この国は他の二十の国が誕生したと同じ時間に生まれました。そして、この国民になると決められていた人々が王を決め、玉座に据えたのです」
スピリッツ老はそう言いおえると、続きを聞きますか?と香世子を振り返って聞いたので、香世子は強く頷いた。
「少し、長い話になりますか、いいですかな?」
「もちろん。私この国のこともっと知りたいんです!教えてください」
香世子が強くそう言うとスピリッツ老はニッコリして、またガラスの壁の方に向きをかえ続きをしゃべり始めた。
「それから、国は少しづつでしたが、動き出しました。最初は建物なんてないただの荒地ばかりが続く国でした。しかし、月日が流れるとともに、色が変わり行くように、この国は変わっていきました。建築小国からまだ技術を学んだばかりの職人たちがきて、荒地に建物をたて、岩畳の道路を作り、時を知らせる時計、明るい光を灯してくれるランプまで私たちに作ってくれました。やっと、この国で普通の暮らしが出来るようになった国民は意欲的に宝石のことを詳しく調べ、洞窟までいって宝石を捜し出し、掘り出して、その宝石を丹念に研究し、色々な知識を習得しました。まだそのころは、宝石感知職(ほうせきかんちしょく)という仕事があって、その仕事をしている人しか宝石は掘れないことになっていました。しかし、色は変わり行くものです。その仕事をしていない人でも、宝石を掘ってもいいという王様のお言葉があり、国民はさらに宝石に触れ、信念になって、研究し、親しんで生きました。それは、もう自分たちの子供のように愛し、慈しみました。
そんな時代をこの国では『子供の宝石時代』と呼びました。大人たちは子供たちのように目を輝かせ、宝石に触れ、興味を注がれていたので、そんな名前がついたのです。その時代から、建物は、レンガで造られ、道路には、細かい美しい模様が彫られていきました。町並みは整い。夕方になると家々の明かりがともり道路を明るく照らし出すようになり、その光景を私は古い書物の中で見つけましたが、とても美しかった。そのあとは、宝石が一般大衆にタダ同然に売られるようになり、建物、家具、道路、通りには必ず宝石を使うようになりました。そしてこの国は「宝石の国」として有名になりました。今では窓にすらクリスタルを使うようになっています。それが、当たり前になりました。そして、三百年前、この国はクリスティーヌ国、貴族の国として有名な国と同盟を結んだのです。それからは、華やかな着飾った貴族たちもこの国にしょっちゅう足を運ぶようになり、国民はたちまち貴族と仲がよくなり、さらに色々なことを学びました。そして国もこの通りもさらに活気付いたのです」スピリッツ老はそこまで話すと一息ついた。
それから、スピリッツ老は、香世子に向き直って、聞いた。
「どうでしたかな、私の話は。退屈でしたか?」
「とんでもない!」
香世子は即答した。
「色々なことが聞けて楽しかったです。ありがとうございまいた」
「当たり前のことを話しただけですよ。お礼の言葉なんてもったいない。私より話し上手な人は、沢山いらっしゃいますからね」スピリッツ老はそう言うと微笑んで見せた。スピリッツ老はなんて素敵な人なんだろうっと香世子は思う。人間界にはそうそういないような人のように思える。優しくて、品があって、おおらかで、決して怒らない。それでもって、自分が持っている知識を人にひけらかそうとはしないし、色んな知識を持っていても、偉そうな態度もとらない。とっても素敵でいい人だ。香世子はスピリッツ老に尊敬の眼差しを向けていた。私もこんな人になりたいな。なれたら…きっと――
「マスター! 早く店に入りましょうよ! 退屈で退屈で死にそうです! それとも永久にここにいるつもりですか? ここでハッピーエンド迎えるつもり? あぁ、神様仏様どうか私をそして、ボケ始めているマスター助けてください!! あぁ、御慈悲を! なんて、神様に言わせるなんて、勘弁してくださいよ!! たまったもんじゃない!」とジョルジュが文句を飛ばした。
香世子はスピリッツ老はボケてない!!といおうとしたが、その前にスピリッツ老が口を開いた。
「そうですな。あまりにもここに時間を与えすぎてしまったようです。文句を言われるのも当たり前でしょう。それでは、遅くなりましたが、私のおんぼろなお店に案内します。ついてきてくださいな」スピリッツ老は穏やかに言って、廊下を歩き始めた。ジョルジュが言ったことなどまるで気にしていないようだ。しかし、香世子はスピリッツ老についていきながらもジョルジュを睨んでいた。スピリッツ老はボケ老人じゃない!っと思っていたのだ。ジョルジュはそれには気づいて、何をしたのかお尻の辺りのズボンを真っ赤に染めて、お尻ぺんぺんっと猿のように歯をむき出してニヤニヤ笑いながらやって見せた。香世子は最初頭にきてそっぽを向いた。ガレッジバラス通りを行きかう人に、試しに手を振って見せた。すると、通りを行きかう人たちが、それに答えてくれた。あっちからもこっちの様子がわかるんだ。香世子はジョルジュの方を横目で見やった。するとジョルジュは待っていましたっと言わんばかりに、どこからともなく長い黒髪の鬘を出して、幽霊の真似をしたり、暑いまだ油がついているフライパンで顔面を思い切り叩いて気絶した人のふりをしたり、犬にお尻を噛まれて悲鳴を上げている人の真似をしたり、色々な馬鹿な真似をして見せた。香世子はそれを見ていつの間にか、自然と笑っていた。今度はジョルジュが、どこからともなく爪楊枝をだして、それを鼻に刺して見せようとしたとき、スピリッツ老の足が止まった。
「ジョルジュ。お遊びはそこまでにしたらどうです?」とスピリッツ老の優しい声がした。ジョルジュは残念そうに爪楊枝をぱっと消して見せて、スピリッツ老の前に行くと、そこにあるドアを開いた。ゴキゴキと手の関節を鳴らして、アーチじょうのそれでもって上の方はウサギが齧ったようにギザギザが出来ているドアのダイヤの形にかたどってある取っ手を左に回して見せた。そこで少し時間をとって、ぱっとドアを開けて、振り返りざまに言った。
「ようこそ! 国の誇りromanntisuto店へ!!」
香世子は噴出してしまいそうになった。ジョルジュの顔がいつの間にか白く塗られていて、頬には丸く真っ赤な色で塗られていて、額には黒い墨でしわが書いてあり、鼻はピエロのようになっていて、その鼻にそのまま爪楊枝がブスブスと刺さっているのと、鼻の穴を上に持ち上げている爪楊枝もあった。香世子は、腹を抱えて笑っていた。スピリッツ老はふぉ、ふぉ、ふぉ、と笑うと「素晴らしい」とジョルジュを褒めた。ジョルジュは自慢げな顔をして見せると手で顔を覆い隠し、その手を顔からとると、普通の顔に戻っていた。
「どうだい? 面白いだろ?」とジョルジュ。
香世子はまだキャラキャラ笑いながら、
「ジョルジュ。最高!」
とつまり詰まりに言った。香世子は一通り笑うと、落ち着くために息を吐いたり、すったりした。香世子が落ち着いたところでスピリッツ老が
「それでは店の中に案内します。どうぞお入りください」と言った。
香世子は胸に手をあてて、今度はどんな素敵なところだろうっと想像を膨らませた。きっと宝石がいっぱいあるはずだ。宝石の国の喫茶店なんだから! 香世子は目を閉じたまま、開いたドアの中に一歩足を踏み入れた。



一歩踏み入れて、後ろでドアが閉まる音を聞きながら、香世子は高まる鼓動を止めることができなかった。香世子は胸に手をあてて、大きく呼吸をすると、目をぱっと開いた。
とたんに、パンッパパパッン!! と音がして、細い紐が周りにくねくねと飛び散った。
香世子はビックリして、足に根っこが生えたように立ちすくんでいた。目はまた閉じてしまったので、何がどうなっているのかさっぱりわからない。香世子はゆっくり目をあけて見た。そして、周りを見渡し、心臓が今に夢いっぱいになってはちきれそうになっているのを、感じた。
――素敵! なんて、素晴らしいの!
そこには、宝石をふんだんに使ったテーブルも椅子もカウンターもなかった。目の前に、広がっていたのは、こじんまりとした木で出来た部屋だった。香世子は、不思議とその光景を見て、安心したし、胸が一瞬ときめいたように感じた。
 お店は、こじんまりとしていて、天井の梁から幾つかグリーンネックレスという粒粒の植物がぶら下がり、中央にはシーリングファンがあった。香世子の横には、ベンジャミンっという植物が飾ってあった。香世子の靴の下には、赤いウールラグがひかれている。窓は、右も左も骨のような形になっていて、その窓から通りが見えて、光が差し込んでお店を明るくしていた。左の壁にある窓の脇にはテーブルの代わりに使い古された座卓が、三つ。その座卓一つ一つにボルドー色のリクライニングソファーが二つずつ、周りに置かれていて、その三つの座卓とソファーの間には、木で作られたフラワーランプが二つあった。フラワーランプは、全灯、下三灯、上二灯あって、花のランプは細い木で隙間があるように作り上げられていて、そこから淡いオレンジ色の光が漏れ、ランプの細い木のところには、花の模様が細かく木に浮かんでいた。右の壁にはウィスキー樽が四つ並んでいて、その上に分厚い板が乗っている机が一つ。机の上には、アジアンタムという細かな葉を持つ植物が、乗っていた。机の横には、竹で出来たバンブーフロアランプが置かれている。二つの椅子は机に寄り添っているかのように置かれていた。そして、香世子の目の前には、立派なオーク材でできたカウンターがあった。カウンターの丸く曲がったところが、右の壁にくっついている。カウンターの先っぽには、ポインセチアという赤い花のような観葉植物が置かれていた。そして、その横には、赤い分厚い本が一冊あった。カウンターの前には、六個の小さな樽が、カウンターに高さを合わせて置かれてある。きっとあれが椅子だろう。カウンターの奥には、幾つも数え切れないぐらいの小さな引き出しがついている箪笥が置かれてあった。そして、カウンターの近くにもう一つドアがあった。後ろを振り返ると、壁にジグソーパズルの組み立てたものが、大きな額縁にはめ込まれて、飾ってあった。
 ジグソーパズルは合計八つ飾ってあった。人の笑っているものもあれば、自然のものもある。ほとんどは人が笑っている顔のジグソーパズルだった。香世子はこの空間がとても気に入った。なんて、素敵なんだろう。木が宝石に見えてしまいそう。落ち着いていて、それでもって上品さがあって、なにより人を安心させる場所だと私は思うな。香世子は、思わずため息をついた。
「お気に召しませんでしたか?」とスピリッツ老が心配そうに聞いた。
香世子はぐんっと顔を上げて、
「そんなことありません!! とても素敵……です」
と最後は夢心地で返した。スピリッツ老が、微笑んで、優しい暖かな声で言った。
「なぜ、この店が国の誇りかというと、それは宝石をテーブルや椅子に使ってない、木でできた店だからです」
「そうですね。ここはとても素敵です。宝石の国にある喫茶店なのに宝石を一つも使っていないのが、とても魅力的! だから、きっと国の誇りなんですね?」
香世子が夢溢れる声で聞くと、ジョルジュがヒューっと口笛を拭いて、感心したように、
「かわいこちゃん。頭いい! この喫茶店は宝石の国に残る由緒正しき喫茶店なんだ! この喫茶店は百五十年に作られた古い喫茶店で、宝石の国では、珍しい木で作られた初期の喫茶店なんだよ。もう、この国には、こんな喫茶店は他にはないだろうよ。もちろんかわいこちゃんが、この喫茶店を出て、他の宝石尽くしの喫茶店に行きたいならいけばいいけど」ジョルジュは言い終わって、香世子にウィンクをしてみせた。
香世子は、微笑み返して、
「そんなことは絶対にしない」
呟くようにいった。
「私ここが気に入ったの!」
正直言えば宝石尽くしの喫茶店かと思っていたし、そんな喫茶店が見てみたかった部分もあった。でも、この喫茶店には、宝石を使わなくても素敵なところがいっぱいある。窓が骨みたいな形をしていて、とても面白いし、テーブルじゃなくて座卓が使われてて、樽で一つの机が作られていること、ランプまで木で作られていること。それにここに来て始めて、本物の植物が見れた! きっと宝石の喫茶店だったら、植物まで宝石で作られていて、私きっとまいっちゃいわ。それになにより、とっても暖かな雰囲気が、満ちていて、優しい感じがする。やっぱり私にはここがピッタリみたい。
 ――『ラピスラズリの宇宙』
そういえばジョルジュがラピスラズリの宇宙って言ってたっけ――
「あら、パパお客さん?」
香世子が考えている途中で、いきなり若い女性の声がしたので、ビックリして飛びのいたら、箪笥の後ろから二十代の金髪の綺麗なブロンドをした女性が、ちょっこんと顔を出していた。
「あぁ、人間界からのお客さんだよ」とスピリッツ老が言った。
「芳田 香世子と言います。よろしくお願いします」香世子がそう言うと、女性は箪笥の後ろから出てきて、香世子の前まで来ると丁寧に会釈した。香世子もドギマギしながらも会釈を返した。
「私は、カレンナ・モルモーゼっと言うわ。よろしく」
「モルモーゼ?ってことは――」
「私の娘です」とスピリッツ老が香世子を遮った。香世子はカレンナの方をもう一度見た。カレンナは、透き通るぐらい白い肌をしていて、黒いハイヒールに黒い花模様のラメが入っているワンピースを着ていた。背中がぽっかり開いているワンピースだ。それにブロンドがよく似合う、明るい緑の目をしていた。スピリッツ老の娘さんにしては、少しおしゃれな人だと香世子は、思った。
「ビックリしたでしょ。宝石が全然使われていないボロボロの喫茶店で、女の子には不向きでしょ」カレンナが喫茶店を見回しながら、言った。
「そんなことありません! とても素敵です。とても落ち着けるし」香世子は微笑んで見せた。すると、カレンナは目を丸くして、それから納得したように、頷くと、
「パパ、いいお客さんが来たわね」
と、微笑んでスピリッツ老に言った。それから、香世子の方を向くと、「私は、あなたが気に入ったわ。カベェヌートリアス。カウンターの椅子に座って、色々話しましょ」
「はい」
香世子はウキウキ気分で返事を返した。気に入られてよかったとホッとした。香世子とカレンナは樽の椅子に座り、スピリッツ老とジョルジュはカウンターの中に入っていった。樽の椅子は案外座り心地がいいと香世子は思った。カレンナはポインセチアの横においてあった分厚い本を手にとって、それを香世子に渡した。香世子は本を開いてみた。中にはずらりと美しい宝石の写真とその効果が書かれていた。香世子は、しばらくその本と睨めっこしていた。どうしらいいんだろうっと香世子が思ったときだった。スピリッツ老が話しかけてきた。
「その中から、好きな宝石、あるいは今欲しい物を、宝石の写真の下にある『宝石の効果』と書かれているところを読んで決めてください。選べる宝石は、三つまでですよ」
香世子はそれを聞いて、少しの間スピリッツ老が言ったことを、飲み込むのに時間がかかったが、スピリッツ老の言ったことを理解すると、香世子は即座に悩み始めた。それから、ぱっと夜空を見ていた夜のことを思い出した。
『今、一番ほしいもの』
答えは――……希望の光……――だった。
「今、カベェヌートリアスは何が欲しいの?」
不意に聞かれて、香世子は口を開けかけた。喫茶店は少し薄暗くなっていて、その中でランプが蛍のように光っているのが、とても綺麗で、人を安心させる。香世子は本をぎゅっと握って、思い切って言った。
「私、希望の光が欲しいんです」
すると、元々静かだったのが、さらに静かになった。香世子はその空気を破って、おずおずとスピリッツ老に聞いた。
「ありますか? 希望をくれる宝石……」
スピリッツ老はそれには答えず、その代わりカレンナが姿勢を整えて、腕をカウンターに優雅において、聞いた。
「どうして、希望の光が欲しいのかしら? あなたの胸の中にあるはずでしょ。希望の光は」
香世子は、本をさらにぎゅっと握ると、首を横にふって、下を向いた。
「なくなっちゃったんです。あったんです。希望の光。でもその光があったところには、なんだか暗い重い不安が住み着いちゃって、気がついたら、なくなってたんです。私の希望の光が……」
「不安? どんな不安なの? 希望の光を消しちゃうような、そんなに強い不安なのかしら?」
香世子は静かに頷いた。それからしゃべり始める。
「私、今中学三年生で、あともうちょっとしたら高校って学校に入るために試験を受けなくちゃいけないんです。それに向けて、毎日真夜中まで勉強しているんだけど、受かるか心配で心配で、将来のことを考えると不安で不安でしょうがなくなってしまって、気づいたら希望の光がなくなっちゃってて……自分の夢すら忘れてしまいました」
スピリッツ老もジョルジュもカレンナも静かに聞いていた。すると、グラスを拭いていたスピリッツ老が、不意に口を開いた。
「かくれんぼをしているだけかもしれませんよ」
「えっ?」
「誰しも、不安に心を支配され眠れぬ夜を過ごすことが、おありでしょう。しかし、不安が希望の光を消してしまうことは、決してありません。しかし、不安は希望の光を覆い隠してしまうことがあります。ちょっとした遊び心で不安は、希望の光を覆い隠し、主にそれを見せなくさせてしまう。しかし、希望の光は消えることはありません。それが、希望の光です。永久に灯り続ける光です。香世子さんが、希望の光を取り戻したいあるいは、欲しいなら、不安の中に飛び込まなくては、なりません。その不安の闇の中で、苦しいかもしれませんが、不安と向き合うのです。そして、その不安の弱点を探り当てることです。目を凝らしてみてください。すぐには、見つからないかも知れません。不安という者は、とても手ごわいですから。しかし、諦めないでずっと目を凝らしてみると見つかるはずです。見つかったときには、こう強く思うといいでしょう。『もう、これからは不安に私の弱点を教えない』と、ね。何せ希望と不安は仲良しですから、困ったものです」
「希望と不安が仲良しなんですか?」
香世子はビックリして聞いた。すると今度はジョルジュが答えた。
「希望と不安は表裏といっしょで、不安の裏には、希望が。希望の裏には不安がある。つまり時々は、手を組んで自分たちの主を困らすときもあるってわけ」
「そうなんだ。じゃあ、希望の光は自分で見つけるしかないんですね」
香世子は落胆の声を出した。希望の光が見つかるかと思っていたのに。するとカレンナが優しく言った。
「こんな言葉があるわ。『あなたの希望は、あなたの心に宿っている。あなたの心のままに、希望の光は輝く。  あとはあなたが努力するだけだ』
byキャサリン・マンスフィールド
――どういう意味かわかる?」
香世子は首を傾げて見せた。それから、首を横に振って「わかりません」と返した。
カレンナは優しく微笑んで、香世子に質問した。
「あなたはここに来て、見たこともない世界を目の当たりにして、胸が膨らまなかった? 素敵とか、素晴らしいとか、思わなかった?」
「思いました」香世子が静かに答えた。
「その時、あなたの心の中で、一瞬なにかが、輝いたはずよ。あるは、なにか暖かいものを感じたはず」
「はい」
「きっと、それがあなたの希望の光じゃなかったんじゃないかしら? ワクワクしてウキウキして、これから起こることに、頭の中を夢でいっぱいに満たして、心の中ではあなたが知らぬ間に、希望の光が顔を出して、ワクワク、ウキウキ気分をさらに輝かせたんじゃないかしら? 初めて会ったとき私には、あなたが輝いて見えたわ。目が希望で満ちているように、キラキラ光っていたんですもの。そして、最後にある言葉。『あとはあなたが努力するだけ』 あなたの心の中には、もう希望の光があるはずよ。希望の光は、あなたがあると思えばそこにちゃんとあるのよ。あとは、あなたが、努力して、その光を絶やさないことよ。そして、大事なのは、将来のことを不安に思うんじゃなくて、今、現在将来のために出来ることを精一杯やることよ。それから、今という時間から逃げないこと。今という時間から将来は生まれるのだから。あなたはがんばっているわ。あなたが今払っている代価は、将来大きなものになっているはずよ。決して無駄にはならない。無駄なものは何一つとして存在しないんだから。それが私に言える唯一つの言葉だわ」
香世子は頷いた。目頭が熱くなっていた。泣いてしまいそう。あると思えばそこに、希望の光が、あるなんて想像もしていなかった。不安に心を奪われて、希望の光という存在を私自身が、消してしまいそうになっていたのかもしれない。
――あると思えばそこにちゃんとあるのよ。
その通りだ。あると思えばちゃんとあるんだ。ずっと、自分にはないって思っていたから、きっと希望の光が、見えなかったんだ。ここに来て、胸を膨らませたときも、希望の光を見つけ出すことはできなかった。でも、今なら――
香世子は顔を上げた。その目には、小さな透明な粒がのっていた。香世子はそれを手で採りながら思う。
今なら、見つけ出せる。そんな気がする。受験勉強だってがんばっている。いつも徹夜でがんばっている。だから――きっと、大丈夫。今出来ることを、精一杯すれば、大丈夫。強く思えば願いは叶うから……――
いきなり、視界が開けたような気が、香世子にはした。これまで、黒い霧で覆われていた視界が、急に明るくなって、日の光が香世子を優しく照らしだす。そんな光景が見えた気がした。
「この世で、最も賢いのは、時間を無駄づかいしないことだ! そしてなにより、不安のために時間を使わないこと!!」
ジョルジュがそう言いながら、ハンカチをズボンのポケットから出して、香世子に差し出した。香世子はそれを受け取って、きゃ!っと声を上げると飛びのいた。ハンカチは香世子の手から、ひらひら、落ちていくのではなく。ポトンと小さな音をたてて床に落ちた。何かモゾモゾ動いている。
「可哀想じゃないか!! 僕の大事な次期大統領!!」
ジョルジュが手を顔にあて呻いた。香世子は、飛びのいたまま固まっていたが、ちゃんとハンカチから出てくるモゾモゾを見ることが出来た。それは小さな本当に小さなピグミーマーモセットだった。
「エレクトンだわ。ジョルジュいつの間に……。――大丈夫よ。カベェヌートリアス。ただのジョルジュのペットよ。人には噛み付いたりしないから、安心してちょうだい」
香世子はそれを聞いて安心した。固まった体が、和らぐのを感じた。
「こい! エレクトン!」
ジョルジュがそういうと、ピグミーマーモセットはちょこちょこと、カウンターまで行って、樽の上に飛び乗ると、それから高くジャンプして、見事にジョルジュの肩に着地して見せた。
「可愛いだろ?」
ジョルジュが自慢げに言った。香世子はカレンナに助けてもらって、椅子に座ったところだった。確かに可愛い。小さな顔に、大きな黒い目、縞々模様の尻尾。
「エレクトンって言うの?」
香世子が聞くと、ジョルジュが、目を大きくして、大げさに頷き言った。
「ものすごーく。かっこいい名前だろう?」
ジョルジュはすっかりエレクトンに夢中になっていた。カレンナはそれを見て微かに笑い香世子にだけ聞こえるように言った。
「サルを愛することしか出来ないの」
香世子は、可哀想にっと言う顔を作って見せた。それからカレンナは、樽の椅子から優雅に立ち上がると、箪笥の後ろの方に向かいながら陽気にしゃべった。
「私のペットも連れてきてあげる。ちょっと待ってて!」
そのあと階段を駆け上がっていく音が聞こえた。箪笥の後ろには階段が、あるんだっと香世子は確信した。ふと、ジョルジュを見ると、ものすごくひん曲がったしかめ面をしていたので、香世子が聞いた。
「どうしたの? ジョルジュ」
「どうしたかだって? あいつのペットは、僕の愛しの愛しのエレクトンを百十四回も食おうとしたんだ! そのうち、九十六回は、本当に胃の中さ! あの、悪魔、死神、サルの敵!鬼! 何度も主に注意しても、『あら、ごめんなさい』とほっぺたにキスだけさ! あの忌々しいバケモノめ!!」
「ジョルジュ。ちょっと言い過ぎなんじゃないの?」
香世子は正すように棘のある言い方で言うと、ジョルジュは憤慨した。
「言い過ぎだって!? あいつのペットを見ればそうじゃなくなるよ! 可愛い可愛い愛しのアルベートちゃんだって! よくもまぁそんな名前がつけられたもんだ! あんなおぞましいもの。僕はごめんだね。エレクトンを非難させなくちゃ……」
ジョルジュは、そう言うと急いでエレクトンを肩から下ろして、ハンカチを被せると、自分のポケットの中に入れた。
「これで、安全だ」
ジョルジュがそういった時だった。階段をバタバタ下りてくる足音が聞こえた。まもなくして、とぐろの太い白い蛇を首に巻きつけたカレンナが、降りてきた。白い蛇は血走った目で香世子を見て、シュルシュルと音を立てた。香世子は、氷のように固まってしまった。ジョルジュが、あそこまでいうのもわかった気がした。カレンナは、ニッコリ笑って、香世子の横の樽に座り、自分のペットを紹介し始めた。
「私のペットのアルベートちゃん。女の子なのよ。本当は色々宝石を着けたいんだけど、この子おしゃれには、まったく興味ないみたいで――」
「エレクトンを食べるのには、かなり興味あるじゃないか! 毎日、よだれを――」
「黙ってて!!」カレンナが、怒鳴り返して、ジョルジュを止めた。ジョルジュはこれでもかっというぐらいのしかめ面をして見せた。カレンナが続ける。
「この子の、趣味は――」
「エレクトンを食べることだ!」
「ジョルジュ!!」カレンナが、また怒鳴って、ジョルジュをとめた。
「あなたって本当に最低ね! 私の可愛いアルベートを酷くいうなんて! この子が、可哀想だわ。あなたのそのちびザルに百五十五回も引っ掻き回されて、あげくの果てには、この子の鼻を五十六回も噛み千切って!! おかげで、お金がどのくらいかかっていると思っているの! まったく……」カレンナは、そっぽを向いた。ジョルジュもフンッと鼻を鳴らしそっぽを向いた。香世子はそんな二人を見て、どうしたらいいのかわからず、ずっと黙っているスピリッツ老を見た。スピリッツ老は、香世子に微笑んでみせて、カレンナに優しい声をだした。
「カレンナや。アルベートを部屋に戻しては、どうですか? 香世子さんはどうやら蛇は苦手のようですよ」
カレンナは、悲しそうに香世子を見つめた。香世子は、申し訳なさそうに、口ごもりながら言った。
「私、蛇はちょっと……」
「嫌い?」カレンナが今にも泣き崩れそうな声を出した。もう、半泣き状態だ。
「まさか! でもちょっと、苦手で……でも嫌いじゃないです! 本当に……」
香世子はカレンナを泣かせないように、蛇に微笑んで――しかし、かなり引きつった微笑だ――カレンナを見て、また微笑んだ。カレンナはそれを見てしゃくりあげると、頷いて言った。
「わかったわ。アルベート自分の部屋に戻りなさい。静かにしているのよ。ちびザルに襲われないように、ちゃんと籠のなかに入ってね。――byeアルベート」
アルベートはカレンナの首から肩にそれから、床にがくんと落ちて、スルスルと階段を上っていった。香世子は胸を撫で下ろした。さずがに、カレンナのペットが蛇だとは、夢にも思っていなかった。それも、あんなにとぐろが太い蛇は初めてだ。
「パパ、エメラルドをちょうだい」カレンナが弱弱しい声で言った。「紅茶で」
香世子は、エメラルドのページを開いた。美しいエメラルドの写真の下に、『宝石の効果』と書いてあるところを読んだ。不老・長寿・幸福をもたらす石と、はじめのほうにデカデカと書いてある。香世子はその下に書いてある一ページ半にも及ぶ宝石の効果の説明文を読む気には、なれなかった。なぜなら、文字の一つ一つがあまりにも小さくて、目を細めないといけなかったからだ。それで、香世子は顔を上げてスピリッツ老を見た。
「香世子さんも選んでください」とスピリッツ老。
「でも……文が多すぎません?」香世子が本のページをパラパラめくりながら言った。スピリッツ老はふぉ、ふぉ、ふぉ、と笑って、ひときは目を大きくして、言った。
「では、香世子さんは、今何をお望みですか? その望んでいるもので、私が宝石を決めますよ」スピリッツ老は自分の後ろにある箪笥の一番下の引き出しを、引っ張っるために、しゃがみこんで、emeraldと金の文字で書かれている一つの引き出しを、ゆっくり引っ張ると中から、親指ぐらいのエメラルドを出して、それを机の上にうんしょっと置いた。そのエメラルドは、ほんの小さな弱々しい光しか放たなかった。香世子はまじかで、エメラルドを見たが、まさかそれが通りで輝いていた宝石とは、夢にも思っていなかった。
「原石を使うんですか? マスター。 カレンナに? あーあもったいない」
ジョルジュが、文句を飛ばした。「どうせ使うなら加工済みのにすればいいのに」
「原石!!」香世子が、ビックリして大声を上げた。「これが、エメラルドの原石なの?」
その問いに、スピリッツ老が、細いノコギリのようなものを出しながら、答えた。
「そうですよ。私は加工された宝石よりも、加工されていないそのままの姿が好きでしてね。ですから、ジョルジュに劣らず勝らずの無礼者には、加工石を使いますが、ほとんどは原石のままを使います」目を子供のようにキラキラさせてスピリッツ老が言った。「そのほうが、うんっとおいしいですから」
香世子は、そうなんだと呟くと本をカウンターに置いた。カレンナは、優雅に本に手を伸ばすと、ポインセチアの横にそっと置き、スピリッツ老がこれからする事を、目を輝かせながら見ようとしていた。
「私は、宝石が紅茶になじむまでの時間が、好きなのよ」とカレンナ。
「宝石が、紅茶になじむまでの?」
「見ていれば、わかるわ」
カレンナが、いい終わるとスピリッツ老は、細いノコギリでエメラルドの原石を、二つに割って見せた。そして二つに割られた原石としばらく睨めっこをして、決断したように、一つのエメラルドの原石を、しゃがんで、元の引き出しにしまい、それから原石を額に当てると、何かを唱え始めた。その間に、ジョルジュは、どこからともなく紅茶のカップとポットを取り出し、カウンターに置いて、紅茶を注いだ。スピリッツ老は、唱えるのをやめて、紅茶のカップに手を伸ばすと、近くに置き、「神のご加護を」と呟くと、エメラルドの原石をそーっと紅茶の中にいれた。すると、シューという音とともに、緑の煙が、天井に黙々と伸びていく。かと思うとパンッパパパパッンと音がして、紅茶から緑の液体が、花火のように、高く中に舞い上がって、破裂した。その破裂した液体は、カウンターに飛び散ることなく、紅茶のカップの中に戻った。ジョルジュが、どこからともなくスプーンを出して、紅茶をかき混ぜた。すると、静かに音楽が聞こえ始めた。クラシックのような音楽だ。ジョルジュが、かき混ぜるのをやめて、カレンナに紅茶を差し出した。香世子は紅茶がどうなっているのか気になって身を乗りだした。しかし、その必要はなかった。カレンナが、紅茶のカップを香世子の前に置いたのだ。紅茶のカップの中には、見たこともない絶景が広がっていた。緑の木々が、風に優しく靡いて、川の流れる音も聞こえる。それから、小鳥たちがさえずる音。その後ろから聞こえるクラシックの音楽。香世子はすっかり、癒されていた。なんて、素敵なのかしらっと思っていた。すると、突然声が聞こえてきた。
――お母さん。明日はどこを飛んでいくの? 長い距離?
おっとりした子供の声だ。香世子はすかさずカップの中を、覗いた。そこには、鳥の親子がいた。
――そうよ。アレチスの谷を超えて、仲間のところへ行くのよ。
――僕、そんなに飛べないよ。どんなに練習しても、ちょっとしか飛べない。
子供の鳥が、悲しい声をだした。自信がないのね。この小鳥……。
――それじゃあ、練習して飛べるように、なりなさい。お母さん。アレチスの谷で待っているから……。
――やだ!! みんないっちゃうんでしょ。僕一人は、嫌だよ。
――しょうがないでしょ。あんたは他の兄弟が飛ぶ練習をいっぱいしているのに、怠けてちょっとしかしていないんだから、こうなったんじゃない! そういうのを、自業自得っていうのよ。
そこで、紅茶に映る映像が消えた。
「厳しい。お母さんだね……」
香世子がカップから顔を上げて言った。少し悲しい気分だった。
「続きは見ないのかい?」ジョルジュがつまらなさそうに言った。
「あるの?! 続き!」
「あるさ」
香世子は、カップの中を覗きこんだ。映像は続いていた。今度は、小鳥が必死になって、みんなが飛び去っていったあと、一人で飛ぶ練習をしていた。雨の日も、太陽がさんさんと照りつける蒸し暑い日も、強い風が吹きつけてくる日も、必死になって、飛ぶ練習をしている小鳥の映像が、映っている。その中には、寂しさに耐えられずに、一人木の上で涙を流している小鳥の映像もあった。そして、紅茶が、波紋を描き始めたところで、映像はまたなくなった。すると、今度はキラキラと紅茶の所々が光りだした。紅茶に、晴れ渡る日の映像が、映し出され、また消えた。
「そこまでだな」とジョルジュ。
「えっ? そうなの?」香世子はしげしげと紅茶を見つめた。
「宝石は、自分がこれまで見てきたことを、知らせてくれます。もちろん、知らせない宝石もありますが……」スピリッツ老が言った。「このエメラルドは、この小鳥のことをとても私たちに知らせたかったんですよ。小さな命が一生懸命生きていた、と……」
「だから、原石を二つに割ったときこっちを選んだんですね」と香世子が聞いた。
スピリッツ老は頷いて、どこからともなく一つのグラスを出した。それを、カウンターに、置いて柔らかな声で言った。
「今度は、香世子さんの番ですよ」
「はい」香世子は、カレンナに紅茶のカップを渡しながら、強く返した。カレンナは、ジョルジュからスプーンを受け取ると、ぐるぐる回しながら、香世子が、何を望むのか真剣に聞こうとしていた。通りは暗くなっていた。今や、お店はランプの光で、照らされているようなものだった。静かで、自分の望むものは何かっと考えるのには、最適な環境と言える。香世子は考え始めた。欲しいものじゃなくて、望んでいるもの……。
案外わからないものだなぁっと思いながら香世子は、何気にカウンターに肘を着いた。その時だった。チリーン、ポロン、チリーンという音が、喫茶店に響いたのは、入ってきたのは、とても優しそうな、杖をついたフードを被っている一人の八十代位のおばあさんだった。
「おやまぁ」と声を上げると、香世子のすぐ傍に来た。「可愛いお譲ちゃんじゃないかい? 横に座ってもいいでかな?」
「もちろん」と香世子はにこやかに微笑んで、返した。おばあさんは、カウンターに杖をかけて、樽の椅子によっこいしょっと座った。
「ブルゼは、今日は何が飲みたいの?」とジョルジュが驚いたことに優しい声で聞いた。
「まずいものじゃなかったら、何でもいいよ」とブルゼおばさん。「できるだけ心が和むのが、いいねぇ。それとラピスラズリの宇宙をよろしく」ブルゼおばさんは、口を何度かパクパクさせた。香世子は、この人は、どこか障害をもっているのかな? と思った。ブルゼおばさんは、なおも、空気を噛み千切るように、口をパクパクさせている。
 香世子が、不思議そうに見ているのに、ジョルジュが気づいて、香世子に言った。
「カベェヌートリアス。パクパクはブルゼの癖なんだ。早く作っておくれっのサインでもあるかな」香世子は、そんなのどうでもよかった。ジョルジュが、普通にしゃべったのには、度肝を抜かれた。ジョルジュは、冗談好きで、失礼極まりない青年だと、紹介されたのに、今は、普通に冗談抜きでしゃべっている! それが、香世子にとっては驚きだった。
「ブルゼ。元気だった? 最近見てなかったから、心配していたわよ」とカレンナ。
「なぁに、ちょっくら風と仲良くしていただけさ」とブルゼが答えた。「でも、風と仲良くなるってのは、やっかいだね。みんなあたしの傍から離れていったよ」
「そりゃあ、そうでしょうね。うつされたらたもったもんじゃないからね」とカレンナが笑い飛ばしながらいった。カレンナとブルゼが香世子を挟んで、仲良く話している間、香世子はずっと考えていたが、今、自分が望んでいるものはなんなのかさっぱりわからない。それで、助けを求めるように、スピリッツ老を見た。すると、スピリッツ老は、ブルゼに話しかけた。
「ブルゼ。その時、あなたが、望んだものは、何でしたか?」
ブルゼは、急に話しかけられたので、ビックリしたようだったが、フンッと豪快に鼻をならすと言った。
「優しさと、愛と、それから夢だね。何せ病気をすると、嫌なことばかり考えてしまうからね」とブルゼ。香世子はそれを聞いて、何かが引っかかった。とたんに、頭が急速に回りだした。――優しさと、愛と……――
――夢!! そうだ! 夢だ! 私が望んでいるもの。夢があるじゃないか!
香世子は、ぱっとスピリッツ老を見た。スピリッツ老は、ニッコリ微笑んで、頷いた。
「それでは、優しさと、愛と、夢の宝石を捜しましょう」とスピリッツ老。ブルゼは、驚いて、「あたしゃ、そんなもの頼んでないよ」と言った。ジョルジュがそれに、「カベェヌートリアスが、頼んでるのさ」とブルゼにウィンクしてみせた。「可哀想なことに、僕のウィンクは老いぼれのばあさんにしか通用しなくなってしまったのさ」と、虚しそうな声を出した。
「あたしゃ、そこまで老いぼれていないよ! 」とブルゼが反論した。「ところで、あんたさんカベェヌートリアスって言うのかい?」
「はい。本当は芳田 香世子といいます」
「なるほどね。あたしゃ、記憶力はいいんだよ。カベェネートリアスだね。覚えたよ!」
香世子はジョルジュとカレンナに苦笑いしてみせた。カレンナはしょうがないと首を傾けながら、苦笑いをして、ジョルジュは、ゴリラの苦笑いをして見せた。スピリッツ老は、いつの間にか本を手に、ページをめくっていた。香世子はどんな宝石を選んでくれるのかワクワクしていた。スピリッツ老は、真剣に『宝石の効果』を読んでいるに、違いない。顔が少しひん曲がっていた。
「それで、カベェヌートリアスは、何で宝石を飲みたい?」
「カベェネートリアスだよ! 記憶力悪いねぇ。カベェネートリアス。気にするんじゃないよ。こいつは、失礼極まりないやつなんだから」
香世子はさらに苦笑いした。今のところ失礼極まりない人になっているのは、ブルゼだ。
ジョルジュが、お構いなしに、続ける。
「紅茶? ワイン? ウィスキー? カクテル? ジュース? それとも単なる水?」
「私は……――」
「ワインがいいでしょうね」スピリッツ老が言った。考え深げに本をずっと見ている。すると、ぱっとみんなの視線が自分に投げられていることに、気づいて、弱弱しく微笑んだ。「失礼。癖でしてね。でも、今私が考えているところ、一番ワインが良さそうですよ」
「でも、私まだワインを飲んでいい年じゃないし……」
香世子が困ったように言うと、スピリッツ老は目を丸くした。ジョルジュは、あんぐり口を開いている。カレンナも、信じられないと言わんばかりの顔をしている。ブルゼだけが、当たり前という顔をしていた。しかし、本当は、何も知らないかもしれない。
「それは、本当ですか?」スピリッツ老が、本から頭を上げて困惑したように聞いた。
「えぇ。本当です」香世子が、普通に答えた。
「ありえないわ!」と、カレンナ。「なんて、可哀想なの! その年でワインも飲めないなんて!!」
「絶望的だ!」と、次はジョルジュが、声を上げた。「処女なんて、ありえない!! 一度も扱ったことのない処女だよ! 僕が付き合った人全員、処女じゃなかったのに! はじめてみた! あぁ、神様この一人の少女にご加護を!」最後は、胸に手をあてて、ジョルジュが絶叫して、締めくくった。一時の沈黙が、降りたあと、
「あたしゃ、普通だと思うけど……ね」ブルゼがジョルジュの絶叫に目を見開いて、背筋をピンッと立たせながら、口をパクパクさせながら言った。香世子は、強く賛成して頷いた。スピリッツ老は、本を閉じて、ポインセチアの横に置きに、ジョルジュの後ろを静かに通り、本を置くと言った。
「ジョルジュ。今夜はスペシャルでパフェを作りましょう」スピリッツ老の、目は輝いていた。まるで、これから新たな冒険に出発しようとしている少年のように……。「きっと、楽しく作れます。宝石は、決まりましたから土台に、宝石をいれて、地下、大地、宇宙を作り出しその上に、イチゴ、バナナ、メロン、オレンジとふんだんに甘酸っぱいクリームを、乗せましょう!」そう言うと、スピリッツ老はせっせと動き出した。
「でも、パフェなんてもの一度も作ったことないじゃない!!」カレンナが、心配そうに、大声を上げた。スピリッツ老は、しゃがみこみカウンターの下の方で、もぞもぞ動きながら返した。
「何事も、挑戦です! 例えそれが、幾度となく失敗してきたことでも、私はあきらめません!! 何度だって、立ち向かっていきます! 敗北したまま生きていくなんて、私は絶対に嫌ですからね!」
そう言って、モゾモゾをやめて立ち上がったスピリッツ老の手には、細かい網目がしてある笊の上に、盛りだくさんの果物が乗っていた。しばらく、全員がその果物に釘付けになっていた。果物は、数え切れないほど、沢山ある。カレンナが、急に立ち上がって、カウンターの中に入っていった。
「あたし、手伝うわ。パパ一人に任せたら大変なことになりそうだから」
「おい、おい、残虐非道な誰かさんは、ジョルジュ様を、お忘れのようだな!」
「あんたが、ついてたってろくすっぽ何も出来ないじゃない!」
ジョルジュは、怒った猿のように、歯をむき出して、ガチガチ言った。
「あたしゃも、何か手伝おうかね」ブルゼがそう言ってよっこらしょっと立ち上がって、杖を手にした。
「じゃあ、ブルゼもカウンターに入って」カレンナが早口で言った。香世子は、そのあわただしさに、自分も何か手伝おうと思って、椅子から立ち上がった。そして、顔を上げたとたん、目の前に包丁が、構えていることに気づき、慌てて後ろにひっこんだ。
「あぁ、ごめんちゃーい。包丁なんて使ったことないんだ」とジョルジュがニンマリ笑って言った。「お客には、座っていてもらわないとね」
「そうね。その通りだわ。カベェヌートリアスは、座っていてちょうだい」
「カベェネートリアスだよ! まったくカレンナまで、頭が悪くなったのかい?」
「そうなの。もうチンプンカンプンよ!」カレンナは手をあっちこっち振った。
香世子はその会話を聞きながら、ゆっくり樽でできた、椅子に座った。カウンターの中では、誰が、なんの担当をするか、会議していた。チンプンカンプンのカレンナが、仕切って、カレンナは、包丁で、果物を切る役目を。ジョルジュは、専門のラピスラズリの最高の宇宙を。ブルゼは、いい果物選びを。スピリッツ老は、大地と地下、の演出、それからいい宝石を探し出すことで決まった。香世子は、それを見ていて、ふと、一人じゃないって本当に素敵で、無敵だと思った。一人だったら――一人ぼっちだったら、こんなに楽しく過ごせわしないし、しゃべれないし、こんなに輝くことはなかっただろうな。香世子は、目の前にいる三人に全て任せることにした。ブルゼは、果物の一つ一つに話しかけて「これはだめ」「これはいい」と判断しながら、カレンナに渡しっていった。何を基準に判断しているんだろう? と香世子は不思議に思った。カレンナはそのフルーツをよく洗い、それを手際よく切っていく。その後ろでは、ジョルジュが、rapisurazuriと金の文字で書いてある引き出しを、丸々引っ張り出し、それをカウンターに置き、どこからともなく右側だけの男爵がするような眼鏡を、出して、ラピスラズリの一つ一つを、じっくり品定めするように、見始めた。スピリッツ老は、スケッチブックをカウンターの下からだして、大地と地下の演出をどうするか、頭に浮かんでいるものを、全てスケッチブックに書き始めた。こうして、三人の仕事が、始まった。



香世子が見つめる中、作業は着々と進んで行った。ブルゼは、果物を選び終えて、一息ついていたし、カレンナも果物をありったけ綺麗に切ると、カウンターからでて、香世子の隣に座った。
「ご苦労様」
「別に。当たり前のことをしただけ。パパ、料理なんてろくすっぽに作れないの。だから包丁持たせたらこの世で一番の危険人物なのよ。それと、危険人物がもう一人」カレンナはジョルジュを見た。「ジョルジュも料理はろくすっぽ作れないみたいね。ブルゼ、戻ってきなさい。あとは、二人に任せないとね」カレンナが、そう言うとブルゼが噛み付くように「わかっているよ!」と、怒鳴り返して、カウンターからてきて、香世子の隣にドスンッと座った。ジョルジュは、どうやら取って置きのラピスラズリを見つけたらしく、ニヤニヤしていたが、すぐにどこからともなくワイングラスを出して、香世子の目の前に置いた。
「カベェヌートリアスには、取って置きの静寂と沈黙、歓声、合唱、生きた星、満点の夜空に、星たちがうごめく宇宙を見せるよ」
「カベェネートリアスだよ。たく何度言えば……」ブルゼはそう言いかけると疲れきって、カウンターにだらりと上半身を横にした。ジョルジュは、そんなブルゼに優しく微笑んで、続けた。
「宇宙は、遥か彼方の水滴を使って、まずは、太陽やら、木星、金星、火星、土星、水星、月とかを生み出していく、最後にラピスラズリのオンパレードだ!」そう言うと、まだ何かやっているスピリッツ老に視線を投げた。
「お客様が、待ってますよ。マスター!」
「わかっていますよ! あともうちょっとですよ」スピリッツ老は、スケッチブックかと、ずっと握り締めていた。羽根ペンをカウンターの下に、置いた。それから箪笥の方に行くと、小さな引き出しを、引っ張っていった。まずは、kuretulaitoと金の文字で書かれた箱から、迷いもしないで一つの薄い淡いピンク色をした、宝石の原石と加工したのを一つずつ取り、それから今度はobusidAnnと金文字で書かれた引き出しを、引っ張り出して、少し悩みながらも黒い原石のままの宝石を一つ掴んで、引き出しを元に戻した。次は、daiyamonndoと金文字で書かれた引き出しから、キラキラ光る原石のままのダイヤモンドを一つ取って、引き出しをしまった。それから、しゃがみこんでカウンターの下にある、何かを取り出した。それは手のひらサイズの小さな瓶だった。その瓶を、四つ取り出した。四つとも違う色をしている。何だろう? と香世子が穴が出来るほど見つめていると、スピリッツ老が、言った。
「演出に必要な宝石の粒ですよ。この四つを使って、演出します。お楽しみに」
そう言うとスピリッツ老と、ジョルジュと見合って、そして頷いた。
「それでは、はじめます。まずは命を生み出す地下から――」
スピリッツ老は、加工されたピンクの宝石をワイングラスに、ポツンと入れた。ガラスの音が幾重にも重なって、香世子の耳の中で響き渡った。スピリッツ老は、唱え始めた。
「クレツァイトよ。このワイングラスの底に、地下を生み出したまえ。汝の命で、土を作り出し、汝の命を、宿らせよ。声を聞かせよ。生きている間に、言いたいこと全てを、安らぎの声にして届けよ。汝を求めるものは、汝のぬくもり、優しさを求めている。心からの優しさを与えたまえ。何かを得ることよりも、何かを与えることの喜びを、覚えたまえ。幾度となく繰り返された悲しみ、絶望、恐怖、不安、苦しみの波を、喜び、優しさに変え、主の下で生きていくこと。汝の命をここに宿したまえ――」スピリッツ老が、そう言って、手を優しくワイングラスの下辺りに当てると、ワイングラスの中で、おとなしく聞いていたガクガクの宝石が、淡い光を放って、どんどん溶けていき、液体になっていく。そして、その液体から、顔や腕が出てきた。それは、妖精のような人間のようにも見える。ただ違うのは、背中に透明なピンクの筋の入った羽根をひらひらさせていることだった。何の正体もわからない、それは言った
「人に自分の一部を与えるとき、あなたはより多くのものを得ます。私はあなたに命を与えましょう。そして、あなたは私の優しさを感じてください。あなたの持つ不安を私が和らげましょう。あなたは、それを感じてください。私はあなたが生きている限り呼び起こすことができる限りの喜びを、あなたに与えましょう。あなたはそれを感じてください。汝は、あなたのために、あなたは汝のために……」そこまでいうとそれは液体の中にゆっくりとキラキラ光る涙を流しながら、溶け込んでいった。そして、柔らかな音楽を奏でながら、それは地下になった。
「初めの言葉は、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの言葉ね」カレンナが静かに言った。香世子はそれはどうでもよかった。誰の言葉なんて関係ない。どうして、涙を流したのかが気になっていた。そして、耐え切れずカレンナに聞いた。
「どうして、あの子は涙を流したの? 私が嫌だったから?」
「まさか!!」声を上げたのは、ジョルジュだった。「あれは、宝石が一時だけなれる姿なんだ。そして、その姿で主に忠誠を誓う。そして、その誓いの条件を言う。宝石が涙を流したのは、自分の命がカベェヌートリアスの中で生きれるからだ。嬉しいから涙を流したのさ。お前は、この宝石を悲しませないように、条件をちゃんと果たすんだ」
「条件……あの子の、優しさやあの子がくれる喜びを感じること」
「そうだ! ちゃんと守れよ」とジョルジュがこれまでになく強い口調で言った。
香世子は、強く頷いた。
――無駄なものなんて何一つとしてない。
無駄なものなんてない。この子が、くれる優しさ、喜びを私は、絶対に無駄にしない。
全部、自分の喜び、優しさと、受け止めて、いつか本当に自分の優しさ、喜びに変えてみせる。誰よりも優しくなって、何かを得るんじゃなくて、与える側になってみせる。
がんばるから――。
「がんばるって簡単に言えるよね」香世子が、ふと難しそうに言った。
「確かに、がんばるなんて、口では簡単に、本当に簡単に言える。遊びでも、誰だって……ね」カレンナが少し悲しそうに言った。
「――でも、心の中でがんばるって言ったら、それは……それは遊びじゃなくて、本気なんじゃないのかな」
「僕には、わからないけど、でも、どっちかというと心派かな」ジョルジュが、言った。香世子は、スピリッツ老を見た。スピリッツ老は、微笑んで静かな柔らかい口調で話し始めた。
「そうですね。誰もが、がんばると強く思うときもあれば、誰かに私は今からがんばると聞いてもらわないと気がすまない人もいるでしょう。人に聞いてもらって宣言して、それからやっと背伸びをして、がんばることができる。私にはどっちもどっちだと思います。結局最後まで投げ出さないで、がんばった人が、輝いて見えるのは、当たり前のことですし、最後まで、がんばらないで投げ出した人は、自分を責めるか。あるいは、人を、周りを、責めるかすることでしょう。でも、そこまであきらめるまで、がんばった人たちが、また立ち上がったら、素晴らしい奇跡が起こるでしょう。その人たちが、その奇跡に気づくかどうかは、その人次第ですが……。全ては、その人の判断と決断と心にかかっています」
「そうその人が、自分の幸せも不幸せもなにもかも決めるのよ」カレンナが、しばらくして言った。「誰かが言ったわ。『私は幸せになれるかしら?』そして誰かがこう返した。
『それはあなたが決めることです』ってね。少し冷たく聞こえるかもしれない。不幸の真っ只中にいる人には、最低の言葉に聞こえるのかもしれない。でも、私たちは、少なくとも私は、この言葉が正しいと思っている。どんなことにも、『理由』はついてくるから……。その人が不幸になった『理由』、あるいは『原因』がどこかにあるかもしれない。それを理解しようとしないで、自分の不幸を見せびらかして、同情してくれって、呟いている人は、私は、不幸で可哀想だとかは、思わない。まだ、子供なのねって思うことにしているの。その人に、同情するなんて誰かに同情するなんてまっぴらよ」
カレンナがこの言葉を全部言い終えると、次はジョルジュが口を開いた。
「じゃあ、あんたも子供なんだな」カレンナが鋭く睨んだ。「あんたの言っていることを聞いていると、自分が可哀想になりたくないから、不幸な人間に同情しないって言っているように、聞こえる。僕にはね」
「それは――」
「それは、間違っている。不幸な人間に同情したからって、自分まで可哀想な不幸な人間になる必要はない。あんたは、半分正しいが、半分間違っている」ジョルジュは、自慢げに言って、スピリッツ老を見た。スピリッツ老は、頷いて見せた。
「相手が暗い落ち込んだ気分だから、自分の心まで暗くする必要はもちろんどこにもありません。もちろん人それぞれですが……」スピリッツ老は、そう言いながら、黄色い宝石の粒が、入った瓶の蓋を力強くひねって、なかから粒を五、六粒とって、蓋を閉じた。それから、ワイングラスの前に立って、その粒を液体の中に、一つ、二つと、入れていった。香世子は、それをじっと見ていた。
「命の誕生です」スピリッツ老が、そう言って、グラスのふちをそっと撫でると、液体の中に、落ちた粒が、どんどん膨らんでいって、なんとそのなかにまだ、へそのうが、ついた人間の赤ちゃん、動物の赤ちゃんたちが、生まれていった。それはどこまでも、神秘的な光景だった。香世子は、それに釘付けになっていた。どうしてか、頬を暖かいものが、滑り落ちた。ワイングラスの底に、ある命は、心臓をドクンドクンと動かし、生きている。香世子は、そっとワイングラスの底に手を伸ばした。ふれると、とても暖かかった。その暖かさが、どこまでも続く、恐怖や不安や、いつ現れるかもしれない絶望を、かき消してくれたような気がした。そんなものは最初からどこにもないのですよっと語りかけられた気が、香世子にはした。それを感じて、心の中は酷い安堵感で満たされた。まだ、小さな本当に小さな、形すらまだぼんやりしている人間の赤ちゃんの手が、ピクリと動いたように見えた。
――生きてください。どこまでも神があなたを迎えに来るまで……生きて――
そう、尊い命の声が聞こえた。香世子は、頷いて見せた。スピリッツ老が、それを静かに見て取って、言った。
「次は、大地を……母なる大地を作り上げましょう」短く言って、黒い宝石を手にした。
それをワイングラスの中に、今度はそっと置いて唱え始めた。
「オブシディアンよ。このワイングラスの中に、大地を作り出したまえ。そなたの命で、どこまでも続く野を作り、どこまでも広がる空を作り、どこまでも詠う海を作りたまえ。そこに、そなたの魂を宿らせよ。そなたの中にある膨大な夢をみなに語って見せよ。そして、その一部を大地に埋め、その一部を空に漂わせ、その一部を海に沈ませよ。思い出させよ。永久の閉ざされた扉の中、そなたが思い描いた夢を、幾度となくそなたの前に出てきた、壁を、壊して光の中に帰還したオブシディアンよ。今ここにそなたを、求める者が現れた。今が、そなたの輝く時、目覚めよオブシディアン――」スピリッツ老はそう言うと、ふぅーと宝石に息を吹きかけた。すると、宝石はワイングラスの中で泡のように分立して、下に残った黒い宝石の一部は、どんどん赤茶色になっていって、荒地の大地を生み出した。そして、上に上がっていく宝石の一部は、水に溶け込んでいくように、青色の空を作り出し、そして、遥か彼方のほうでは、空に負けない位の青さを持つ海が、出来上がった。そして、遥か彼方から聞こえるように、深い何十にも響いて聞こえた声。
「夢や目標は、自分を裏切らない。自分が夢や目標を裏切るだけ」
それに、続くようにどこまでも続く野から、優しく靡く声。
「夢は破れないんだよ。夢は、自分が捨てない限り、終わることはないんだよ」
それに、続くように、どこまでも広がる空からの、暖かい声。
「数日のために植えるなら花を植えよ、数年のために植えるなら木を植えよ、永遠のために植えるならアイディアを植えよ」
スピリッツ老は、それを静かに聞いて、聞き終わると、今度は、緑色にキラキラ光る宝石の、粒を一つ、二つ、三つ手に取ると、それに話しかけた。
「この大地に、緑豊かにゆれる木々を生み出したまえ」
そして、パラパラと粉を振り掛けるように、粒をワイングラスの中に入れた。粒が、大地に触れるか触れないかのうちに、根をはり、緑の葉っぱでふさふさしている木を、何本と作り出した。そして、荒れた大地には、緑色に揺れる草草を生えさせた。スピリッツ老は、次に茶色の宝石が入っている瓶の蓋を開けて、その中から十粒程手に取ると、ワイングラスの中に一つ、一つ入れていった。ワイングラスに入れられた粒は、はじめブニョブニョとわけのわからぬ形をしていたが、次にはもう、動物の形になっていた。小鹿や鹿、木の下で休むライオン達、ヌーの大群が、草草をむしゃむしゃと食べている。
像が、海辺で水遊びをして、キリンが高い木に、舌を伸ばして、葉っぱを口に運んでいる。そして、香世子が気づかぬうちに、海の向こうからオレンジ色に光る輪を描いた太陽が、海に半分顔を隠していた。
「これで、大地の誕生です」
「一言では言い合わせないぐらい、素敵で……」
香世子は、口をつぐんだ。これ以上を何を言えようか。何も言えまい。香世子の胸の中で、大きく何かが膨らんだ気がした。ワイングラスの中に大地が、生まれた。素晴らしいことに変わりは、なく。香世子はそれを息を呑んで見ていた。静かに静かに、大地が言った言葉たちを、頭の中で繰り返した。
――永遠の途絶えることのない夢を、あなたは思っています。思い出してください――
香世子は、その声にまた頷いた。スピリッツ老は、今度は少し濁っているダイヤモンドの原石を手に取った。そして、その原石を、ワイングラスの中に入れて、唱え始めた。
「ダイヤモンドよ。汝は漆黒の闇の宇宙を作り出したまえ。その宇宙に、愛という光を作り出し、永遠の絆を作りだしたまえ。汝の、美しさには誰にも勝ることは出来ずに、いる。しかし、汝はそれを悲しく思っている。どうか、汝の美しい涙を流さないでおくれ。それは、誰もを誘惑してしまからだ。汝は、静かに息を吸い込み、暗い宇宙を作り出したまえ。そして、永遠の愛と、絆を、汝の主に宿したまえ――」スピリッツ老は、そう唱えるとダイヤモンドを、ワイングラスの中に入れた。すると、ダイヤモンドは、くるくる猛スピードで回りだし、どんどん青く、紺になって、黒くなっていき、いつの間にか、沈黙の宇宙が出来ていた。
「宇宙が誕生しました。あとはジョルジュの出番です」
ジョルジュが、一つの丸いラピスラズリの丸玉を手に持って、真剣な顔で、ワイングラスの前に立った。大きく息を吸って、ダイヤモンドが作り出した宇宙を見やった。そこにゆっくりラピスラズリを浸していく。そして、スピリッツ老と同じで、何かを唱え始めた。「遥か彼方の水滴よ。ここに集まれ」ジョルジュがそういうと、真っ暗な宇宙の中に、ぷかぷかと水滴が、浮かび始めた。「遥か彼方の水滴よ。合唱し、星を呼び寄せ、星を生み出せ」水滴は渦になって、クラシック音楽を奏で始めた。うねる様に、そのクラシック音楽は、誰かが口で歌っているようだった。その渦の中に、ジョルジュが、ゆっくりとラピスラズリを入れていく。一通り星の名前を言うと、渦は波に変わり宇宙を飲み込んでいく。しかし、その波は、どんどん透明になって消えていった。そして、波が、消えた後には、火の隕石で囲まれた太陽。月。火星、水星、木星、金星、土星とその間に小さな光を放つ星たちが、ゆっくりと動いていた。そして、その宇宙から、歓声が沸き起こった。喜びの歓声。小さな星たちは、宇宙をあっちこっち動いている。なんとも言えない。美しい光景だった。一つのワイングラスの中に地下、大地、宇宙が誕生した。
「出来上がり!!」ジョルジュが、疲れたように、それでも嬉しそうに言った。「どう? 綺麗だろ?」とジョルジュ。香世子は、こくりと頷いた。声を出したら、泣き崩れてしまいそうだったから、頷くだけにした。どうして、香世子が泣き崩れそうになっていたのか、香世子自信にもよくわからなかった。
「それじゃあ、この上に、果物を乗せましょう」カレンナがそう言って立った。
「このままでいい……」香世子は、気のない声でそう答えた。「このままの方がうんっと素敵」
カレンナは、それに優しく微笑んで返して、樽でできた椅子に腰を下ろした。
「では失礼」とスピリッツ老が言って、ワイングラスの中に、ストローをさした。宇宙に、大地に、そして、地下に、太い鉄パイプのように見える。ストローが、さされた。「どうぞ。お飲みください」とスピリッツ老。
「はい」香世子は静かに返して、ストローを口にくわえた。ゆっくりと、ワイングラスの中身を吸っていく。まずは、宇宙が口の中に入ってきた。口の中にトロンとした液体が、入って、胃の中に垂れていく。それは、とても冷たく、氷を口にしたようで、味は、これほどなく甘く堅くなに口の中に永遠に残ろうとしていた。そして、心の中が、急に純粋な愛で包まれたような感じを受けた。次に、香世子の口の中に、入ってきたのは、大地だった。すると、頭の中が急速に回転して、色々な見たこともない本達が、頭に浮かんだ。味は、これも甘くしかしどこかさっぱりしていて、熱いものが入っている。香世子の心の中は、色々な夢でいっぱいになった。香世子は目を閉じた。――夢。
 私の夢は――
そこまでいって言葉は途切れた。次は、地下が、口の中を、占領した。どこまでも優しく、甘く、心を和らげてくれた。香世子は、ストローから、口をはずした。スピリッツ老が、それにビックリして、心配そうに言った。
「おいしくありませんでしたか?」
「いいえ」香世子は、横に首を振った。「とても、おいしかったです。文句のつけようが、ありません。とても素晴らしかった」
「では、なぜ全てを飲み干さないのかしら?」首を傾げながらカレンナが聞いた。
「忘れていましたけど……私お金を持っていません」香世子が申し訳なさそうに言った。
すると、こじんまりした部屋に、ふぉ、ふぉ、ふぉと高笑いが響いた。
「そんなのは気にしないで下さい」とスピリッツ老。香世子は、首を横に振って、自分の鞄から筆箱を出して、そこから一本のシャープペンシルを出した。それは、木でできたシャープペンシルだった。それをスピリッツ老に、差し出した。
「受け取ってください。樹齢百年、熟成五十年、結構使っちゃっているけど、まだウィスキーの香りはします。どうぞ」スピリッツ老は、困ったようにジョルジュを見て、ジョルジュは肩をすくめた。それからカレンナに目を移す。
「受け取っていいんじゃないかしら。最後に……」カレンナが悲しそうに言った。香世子は小さくえ?っと声を上げた。「これまでお客さんから、こんな素敵な贈り物はなかなかあったためしがないわ。受け取りましょうよ。パパ」スピリッツ老は、静かに頷いて、香世子の手をしわがはいって、大小様々の血管が、浮かんでいる、震えた手で握り、
そこから、優しくシャープペンシルを取った。
「ありがとうございます。こんなに、素敵な贈り物は初めてです。こんな素晴らしいものをこんな老いぼれじじいにくれるとは、本当にありがとうございます。香世子さん、これは大事に使わせていただきます。」
スピリッツ老は、泣きそうになっていた。香世子は、それを見てあることを悟って言った。
「スピリッツ老は、素晴らしい人です。その、贈り物を人間界の人たちは、特に若い世代の人たちは、御礼を言っても、嬉しくは思わないでしょう。あなたは、本当に素晴らしい人ですよ。体は老いていても、心は老いていない。人間界には、体は老いていなくても、心が老いている人たちが、いっぱいいます。私の知る限り……だから、なんと言えばいいのか」香世子は、口を閉じた。泣きそうになっていた。この店は、今日を持って、終わってしまう。それを知った香世子には、この店に招き入れてくれて、素晴らしい物を、見せてもらって、優しさと、愛を感じさせてくれて、夢を思い出させようとしてくれた宝石たちと、それを作った二人にお礼の言葉を述べるしかなかった。香世子は、食いしばった。涙が流れないように……。
「マスター。ジョルジュ。ありがとう」
無理矢理押さえ込んでいた透明なものが、頬を横切っていく。カレンナは、一心にスピリッツ老を見る香世子を、抱きしめた。それでも香世子は、シャープペンシルを握るあの暖かい手と、涙で視界が見えないだろうスピリッツ老を見ていた。いつまでも、こうしていられれば、いいのに……。そんな言葉が、香世子の胸の中に現れた。
「ねぇ、パパ。この店は、今日で終わっちゃうけど……。この子の胸の中には、生き続けてくれるわ。この子がこの店を忘れてしまわないまで……。永遠に」カレンナは、優しく香世子の頭を撫でた。それから頬に触れて、優しく唇を落とした。そんな光景を静かに見ていたジョルジュが、カウンターから出て、窓の近くにたった。
「もう、そろそろ閉店の時間だ!」そう言うとくるりと香世子の方に向きなおおって、ズンズン歩み寄ってきた。そして、カレンナに抱かれている香世子の手に一つの丸玉を、置いた。香世子は、はっとしてジョルジュを見たが、ジョルジュは涙目ながらも言い放った。
「くれてやる!! そんなわがままなラピスラズリなんていらないさ! そんなのよりもっといい奴が、いっぱいいるんだ! だから、お前にくれてやるよ!」ジョルジュはそう言うと強引にラピスラズリを握らせて、また、カウンターの中に戻った。
「聞いていいですか? どうして私を、私を最後のお客さんとして選んだんですか?」香世子がスピリッツ老に、聞いた。スピリッツ老は、ハンカチで、涙を拭き、豪快に鼻をかむと言った。
「あなたが、これまでこの喫茶店の戸を叩いた、どのお客さんよりも、立派に、気高く見えたからです。この店の全てを、夢見る目で見てくれそうで、受け止めてもらえそうだったからですよ」
「そうですか……」
香世子は、短く返した。スピリッツ老は、咳き込んで、しゃべり始めた。
「はじめは、あの樽でできた机で、勉強したいと、何人もの学生が、来て、わからないことは、私に聞いてきました。それは、もう楽しかったです。夢の世界にいるようでした。笑い声が、耐えませんでした。しかし、それもはじめだけ、あっちこっちに宝石の喫茶店が出来ていくと、来ていた学生は、来なくなりました。
 あのソファーに座り、私が作った宝石のワインやカクテルウィスキーを飲みながら、お友達としゃべる人も、いなくなりました。また、読書をする人も、いなくなりました。お客さんが、こなくなって早や五十年。来てくれる人は、ブルゼだけになりました。そして、国の誇りと謡われているこの店は、今日を持ってなくなります。ここには、新しく、宝石の喫茶店ができますから。そして、その喫茶店が、新たに国の誇りと歌われるように、なるでしょう。私たちは、新しい家を見つけ、そこに住まなくては、いけない。それでも、あと三日はこの店は壊されずにすみます。それだけが、私の唯一の幸福です」
スピリッツ老は、そこまで言って、口をつぐんだ。それから、顔を上げていった。
「宝石の効果は、いつから聞き始まるのかわかりません。それは宝石が決めることですから……」
「はい」
「香世子さん、本当にありがとうございます」
「こちらこそ。お会いこですよ」
スピリッツ老は優しく微笑んだ。それから、カウンターをジョルジュと一緒にでて、香世子が入ってきたドアの方に、進んでドアを開けた。カレンナがそっと香世子から離れて、ラピスラズリをつかんでいない方の手を取った。香世子は、鞄を背負って、カレンナと一緒に立ち上がって、ドアの方に向かった。ドアの向こうには、長い廊下が、あった。そして、ガラスの天井と壁。香世子は、カレンナと一緒にその廊下に足を踏み入れた。通りは静かになっていた。道路を優しく電灯の光が、映し出す。道路は、月光の光でキラキラと光っていた。その光は、星のようだった。香世子は静まり返った通りを見て、昼間との違いに驚いた。あのアスファルトの上を気品よく歩く者は誰一人としていなかった。ビックベンに似た建物は、煌びやかに、光っていた。時計もそれに劣らず、とても、綺麗に光を放っていた。香世子が通りを見つめている間に、いつのまにか足が、止まっていた。香世子は、カレンナを見る。カレンナは、香世子の手を離して、スピリッツ老とジョルジュを前に出した。香世子は、二人に向き直った。ジョルジュは。シッシッと手を振っただけだった。スピリッツ老は、強く頷いて、言った。
「振り返ればそこに、いつだって幸せと、希望と、静寂な心があります。何かあったら、振り返ってください。嫌のことを思い出すのではなく。幸せなことを思い出すように。あなたの人生が、万事うまく捗る様に祈っています。これからもがんばってください」 
香世子は強く頷いた。
「ありがとうございました」
「お礼を言われるようなことは、何一つとして、していません。人間同士助け合うのは、当たり前のことです。そうですよね?」
香世子は頷いて、スピリッツ老に優しく微笑んだ。
「私、忘れません。このお店のことを。ずっと忘れません」
香世子には、そういうしかなかった。スピリッツ老は香世子の手を握り、言った。
「幸福があなたを包み込むよう」
そして、ひときは強く握ると、手を離して、ドアをあけた。そこには、人間界に続くドアが、一つ構えていた。香世子は、静かにそのドアの前に立ち、後ろを向いて、頭を大きく下げた。その時、香世子の頭の中では、このお店に入ってきたときの自分が、浮かんでいた。そして、スピリッツ老の笑顔と、ジョルジュの馬鹿な真似。
香世子は、頭をあげると、そこにいた全員を見て、それから、その人たちに背中を向けて、現実の世界へと、一歩足を踏み入れた。とたんに自分の声が聞こえた。
――は、……家です。私の夢は和訳家です!――
後ろでドアの閉まる音が、聞こえた。香世子は、晴れ晴れとした気持ちで夜空を見上げた。そっか。だから一年生のときあんなに英語の勉強してたんだ。
「ラピスラズリに負けるなよ! 星君ー」香世子は、大声を出した。
「香世?」
香世子は声の方に顔を向けた。そこには、地面に経垂れ込んでいる明日香と麻知がいた。 
二人ともずっと香世子を待っていたらしい。香世子はビックリして聞いた。
「二人ともずっとここにいったの!!」
「当たり前でしょ。約束したもん」と明日香。
「それで、どうだったの中は?」
「秘密」
「えっ。なんて?」
「秘密だよ!」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」二人は大声を出した。
「ごめんね。ねぇ帰ろうよ」
明日香と麻知は顔を見合わせて、力なく言った。
「うん。帰ろう」
ビル街の夜は、ネオンの光で照らされていた。三人はその中を、とことこと自分の家に帰っていった。



「いっちゃったわね」カレンナが言った。「あの子には、知識の翼があった。とても綺麗な……」
「ジョルジュ王子。ダイヤモンドの効果はいつごろ現れると思いますか?」
「三日後には、現れますよ。マスター」
「その時が、楽しみね。あら、ジョルジュ様は私の王子様に戻っちゃったのかしら?」とカレンナがいたずらな笑みを浮かべてジョルジュに聞いた。ジョルジュは苦笑して、肩をすくめて、難しい暗号を解くかのような顔をして見せた。
「やんちゃな青年とは、とても難しいですね。骨が折れました。もう二度としたくは、ないです。レディーに失礼極まりない言葉を使うなんて、王族の恥さらしですよ。もっとも私はもう王族ではありませんけどね……」それからまた、苦笑した。
「しかし、中々の演技でした。本物のジョルジュに、そっくりでしたよ」とスピリッツ老。「本物のジョルジュは――」スピリッツ老が、そこまで言うと口をつぐんで後ろを振り返った。お店の中から、廊下を渡って、ガラスに響いて、甲高い声が聞こえてきた。
「ただいま! マスター! 手に入れたよ! 新しく住むところ! マスター? このくそったれ!!」
「今帰ってきたようです」スピリッツ老が、ニッコリ微笑んで言った。もう、ジョルジュとは、呼べない人物の名前をお教えしよう。彼の名前は、フローディンス・アクシスト。王子の椅子を捨て、来月にはカレンナと結婚式を挙げる予定だ。そして、カレンナのお腹の中には、もうフローディンスの子供が、宿されている。
「ジョルジュをなだめなきゃね」カレンナが言った。
「その役目は、私がしましょう。カレンナ。気が立っているジョルジュさんが、愛しの、愛しのカレンナに傷をつけては、大変ですからね。カレンナは、早く寝るといいでしょう」フローディンスは、そう言うと、カレンナを抱きしめて、頬に軽いキスを落とすと、
耳元で「おやすみ」と呟き、カレンナは、微笑んでその場から、霧のように消えていった。
「さすが、王族ですね。魔法の使い方が上手です」
「これは、常識ですよ。大事な子供が、お腹の中にいるのに階段を、上らせるなんて、ゲドウのすることです。いたってナンセンスです」
スピリッツ老は、優しく微笑んで、それから、真剣な眼差しで、フローディンスを見た。
「本当に我が娘でいいんですか? あのままいけば王の椅子は確実に手に入ったでしょう。わざわざ老いぼれ爺の娘の元に来なくても……」
「私は、ずっと権力なんて、人を踏みつけるものは、いらないと思っていました。権力なんて私にとっは無力です。権力より大事なものは、いっぱいある。私にとって、それはカレンナと言う一人の女性と、その女性に実った愛すべき私の子供と、その家族です。私には、それさえ傍にあればいつだって幸福です。それにしても、カレンナはものすごい権力を持っている。彼女の笑顔は、愛すべきものです。彼女には、どうやっても逆らえない。でも、幸せです。私の父は愚か者でしたから……」
スピリッツ老は、ガラス越しに、まん丸なお月様を見上げた。
「あなたの父上は、権力を持つにふさわしい人物では、ありませんでしたね。人様に、操られてばかりいました。それは、確かなことです」フローディンスが、頷いた。「しかし、そのことを今更どれだけ嘆いて、憎んだとしても、この国は、なんぴたりとも変わりません。私には、あなたが権力を持つべきだったと思っています。今でも……しかし、あなたは我が娘のカレンナを選びました。私はそれをとても嬉しく、誇らしく、そして、少し悲しくもあります。しばらく時間を下さい。あなたが、王子たる方が、私の家族になるのを、受け止めるために……」
フローディアンスは、優しく微笑んだ。
「私は、いつまでも待ちます。時間ならたっぷりありますから」
スピリッツ老は、フローディアンスに向きなおり、言った。
「ジョルジュをなだめにいきましょうか。フローディアンス」
「はい。父上」
それから二人は、正真正銘のジョルジュをなだめに、店に入った。ジョルジュは、カウンターに腰掛けて、紙をひらひらさせながらニンマリ笑って言った。
「マスター。見つかったよ。僕たちが住む新しいラブラブホテルが、ね」



あの夜から三日目の朝。香世子は、ベットに沈んだままで、腕を顔の上に置いていた。
それからチラリと時計を盗み見る。時計の短針と長針が、同じ数字を示していた。
その数字は、四だった。私はあの日から英語の勉強を優先的にするようになった。その前に、お母さんからありったけ起こられたけどね。記憶の欠片は全て私の頭の中に戻ってきてくれて、私が一年生のときよく英語版の本を買って、何とか読もうと、努力していたことも思い出した。結局ちょっとしか読めなくて、三ページでいつも読み終わっていたことも、思い出した。それからお母さんが、持っている雑誌のうたい文句を、必死になって英語に書き換えていたことも、ありありと思い出した。あの日から私は、必ず毎朝早く起きるために、十時には寝ることにしている。なんで、早く起きるのかって? それは、色々と学生が、忙しいから。
「起きなきゃ。一日の始まりだ。朝食作らなくちゃ」
香世子は、ベットから体を起こした。とっとと学校の制服に着替えて、飛び跳ねている髪の毛を、宥めるようにクシで梳いた。それから、二つ結びにして、鏡に映る自分を、チェックして「よし」と小さな声をあげた。階段を静かに下りていって、洗面所に向かい。パンパンっと強くに顔を洗って、ダイニング・キッチンに向かった。香世子は、まっさきに冷蔵庫をあけて、中から納豆をとりだした。これは、自分の分だ。母親は、納豆を好まない。香世子は、キッチンに立った。朝食の食パンを、戸棚の上からとって、袋の中に五つ並んだ食パンから、二つ取り出した。それにバター綺麗に塗っていく。それからチーズを上に乗せて、それをレンジにそっと入れる。あとは、レンジの丸いダイヤルのところを、二分半に、設定しておけばちょうどいい加減に、パンが焼けてくれる。香世子は、その間に、小さくて可愛い、目玉焼きをやくにはもってこいの、フライパンを流し場の下の棚から出した。それから、また冷蔵庫にいき卵を二個取り出す。それから、大急ぎで、キッチンに戻って、コンロの前に立った。火をつけて、フライパンに油を適量にいれる。それからフライパンをコンロの上に乗せた。
あとは、油が、熱くなるのを待って、二つの卵を割って、黄色い太陽が、殻から出て、フライパンにいい音を、立てるのを、じっくり聞く。それから、目玉焼きの演奏をもう聞くのはやめっと思ったら、火を消して、繋がってしまった目玉焼きを、二つに切って、棚から二つの皿を出した。もうとっくの前に、チンッと鳴っているレンジにいき、こんがり焼けたパンを中から取り出して、お皿に置いていく。それから、また冷蔵庫に行き、今度はまん丸のレタスから、一つだけ葉をもぎ取って、それを流し場で洗い、母親の食パンの上に、ちょこんと乗せた。その上に、黄色い太陽の、目玉焼きを置いて、テーブルの母親がいつも座る席においておく。香世子は、しまったっと思い忘れていたことを、思い出した。大事なコーヒーを沸かすのを忘れていた。香世子は、大急ぎでコーヒーを沸かしに、またキッチンに戻り、後は、コーヒーが出来るのを、待つだけになったら、鼻歌を歌って、足をその鼻歌に合わせて、パタパタとさせた。コーヒーが出来ると、コーヒーカップを棚から出して、母親の朝食の横に置いて、コーヒーを注ぐ。これで母親の分は完璧だ。あとは、自分の分だけ。香世子は、自分のこんがりやけたパンの上に、しそをいれてかき混ぜた納豆をドサリと乗せて、その上に目玉焼きを乗せた。自分のもこれで完成。あとは食べるだけだ。香世子が、椅子に座って、朝食に取り掛かろうとしたときだった。
「香世子ちゃん。おはよう。これで三日目ね。何でこんなに早く起きるの?」
「お母さん寝ぼけてるの? 私は三度も同じことはいいません! 朝食できてるよ。早く食べて」
「ありがとう。香世子ちゃん。」母親は、そう言いながら、自分の席に、座った。まずは、母親の大好きなコーヒーを一口含んで、ニッコリ笑って言った。
「お母さんの、好みになってきたわね」
「どうも」香世子は、口いっぱいに朝食を入れていたので、ファグファグ言った。
香世子と母親は、静かに朝ごはんを食べて、皿を片付けた。
「お母さん。それじゃあ、七時になったら呼んでね」
「ラジャー! マダム」
「マダムはそっち」香世子は捨て台詞を吐くと、階段を上がっていった。自分の部屋に戻って、窓のところに行くと、窓を全開にした。心地よい風が、香世子の顔を、フワフワとおちょくってくる。
「君たちと、遊ぶ時間はないの」
香世子は、そう言って、勉強机の固い椅子に座った。それから、二時間半、勉強机に向かって、英語の勉強をしていた。香世子は、うんうん唸りながら、英語の勉強をした。
母親が、七時だよ。と呼ぶ声にぴしゃりと英語の教科書を閉じて、鞄を担いで、下に下りていく。香世子は、母親から弁当箱を受け取り、それから水筒も受け取り、鞄の中に入れて、ちゃんと「いってきます」の挨拶をすると、晴れ晴れとした空の下に、出た。
夏の朝は、いいなっと香世子は思いながら、学校への道のりをテクテク歩いた。何十分かして、手すりのあるところに到着した。太陽が、上がっている。香世子は、海を見て、そうだと鞄を下ろして、手探りをした。香世子の手に、丸玉が、触れた。香世子は、それをしっかり握って、高々と上げた。
「綺麗。一つの宇宙みたい。ジョルジュは嘘つきね。あなたは、わがままじゃないもん。ずっと鞄の中にいたのに、文句一つ言わない。素敵よ」
香世子は、ラピスラズリにそう言うと、「ごめんね」と言って、また鞄の中に戻した。
それから、十字路から、手を、振っている明日香に、手を振って返して、トコトコと走り出した。明日香のところにつくと、明るい声で、
「おはよう」
と、挨拶した。明日香は腑に落ちない顔で、おはようと返した。
「どうしたの? 明日香」香世子が不思議そうに聞いた。本当はあの喫茶店のことが、知りたくて、知りたくてしょうがないことは、香世子も重々承知していたが、決してあの世界のことは、誰に言わなかった。だから、そのための口実もある。その、口実をまだ信じてくれないのが、明日香だ。明日香が、香世子に口を開いた。
「ねぇ、本当に覚えてないの? 喫茶店のこと」
「うん。覚えてない。ごめんね。明日香」
明日香は、がっくりした様子で、もういいよっと諦めた声で言った。何せこれで十五回目である。香世子に喫茶店のことを聞きだそうとしたのは。明日香は、がっくりしながら、言った。
「ねぇ、知ってる? 今日転校生が、来るんだってさ」
「えっ? 嘘! 知らなかった。女の子?」
「あぁ、神様よ。どうか。かっこよくない人でありますように!」
「男の子なんだね」
明日香は、こくりと頷いた。今度は、香世子は、がっくりした。女の子だったらいいのに……。と心の中で思っていたからである。香世子たちは、しばらく歩いて、学校が、見えてきたところで、明日香が言った。
「優等生」
「はーい」
香世子は、眼鏡を上に上げる真似をしてみせた。明日香は、それに笑った。学校に着いたら、そこには、麻知がいた。二人に大きく手を振っている。二人ともそれに答えた。


三人は、教室に入り、鞄をロッカーに入れると、さっそく三人で集まった。
「ねぇ、知ってる? 今日転校生が来るんだって」と麻知。
「知ってるよ」と明日香と香世子が、同時に答えた。
「でも、これは知らないでしょう? このクラスに転校生が来ること」
二人は、それを聞いてきょとんとした。麻知は、誇らしげに、顔をニヤつかせている。
二人は、顔を見合って、確認するように言った。
「本当?」
「本当です。その子の名前は高岸 透(たかぎし とおる)って言うの」
香世子は、きょとんとしていたが、明日香は、即座にこう聞いた。
「かっこいいい? そいつ」
「うー…ん。普通かな。好青年って感じ」
「そっかぁ! よかった。かっこよくないんだ」明日香が、ホッとした声を出した。
香世子は、興味なさそうに、していた。すると、チャイムが鳴って、席に着くことになった。香世子はまた晴美とすれ違った。香世子は、後ろを振り返って、晴美が、戻ってくるのを待った。そして、
「おはよう」
と、明るい声で挨拶した。しかし、それは冷たい目と一緒に流された。晴美は、そのまま自分の席に着いた。香世子は、絶対におはようっと言わせてやると決心して、椅子にドスンと座った。クラスの担任の先生が、一人の男の子を連れて、入ってきた。男の子は、香世子と同じぐらいの背の高さをしている。いかにも貧弱そうだ。
先生が、その男の子を紹介し始めた。
「この子の名前は高岸 透だ。新しくこのクラスの一員になる。よろしくしてやってくれ。ほら、透からも挨拶を」
男の子は、恥ずかしそうにしながら言った。
「はじめまして。高岸 透です。よろしくお願いします」
それだけ言うと頭を下げた。クラス全員が、拍手喝采をした。もちろん香世子も。それから透は、自分の席に着いた。なんと透の席は、香世子の真後ろだった。それから、時間は過ぎて、授業が始まり、終わったりの繰り返しを五回もして、そのあとの最悪なことに、長い掃除の時間が、始まった。三人は、別れ自分の班の決まった掃除場所に、向かった。香世子が、廊下に出て、掃除場所の音楽室に行こうとしたとき、後ろから声を、かけられた。
「あの、芳田さん。一緒に掃除場所に行ってもいいですか?」
香世子は、後ろを振り返って、そこに透がいるのを確かめた。香世子は、ニッコリ笑って見せた。
「いいよ。音楽室が、掃除場所だから、一緒に行こう」
「はい」透もニッコリ笑って返した。
それから二人は、掃除場所に向かった。音楽室は、教室から遠く離れたところにあるので、香世子は透のことを色々知ることが、出来た。透が、六歳のときからピアノをやっていることや。家族は、海外旅行が好きなので、よく透も一緒に行って、英語には絶対の自信があること。香世子は明日の放課後、英語を教えて欲しいと、言ってみた。すると、難なく了承してくれて、二人は、すぐに仲良くなった。音楽室について、掃除をし終わった後、透がピアノを聞かせてくれると言うので、香世子は、窓に近づいて大きく窓を開けた。
「何で、窓を開けるの?」と透が不思議そうに聞いた。
「きっとピアノ上手だから、私一人が聞くのもなんかなって思ったから」
すると、透はモゾモゾして、聞き取れないぐらいの声で言った。
「僕は、香世子さんにだけに聞いて欲しいんだけど……」
「えっ?」
「いえ、何でもないです」透は顔を真っ赤にして慌てて言った
「じゃあ、さっそく引いてもらおうかな」香世子は、ニッコリした。
「はい」
それから、二人はしばらく音楽にひたっていた。春風が、窓から入ってきて、透が奏でる音楽を香世子と一緒に静かに聞いた。

◆(終わり)


2005/06/23(Thu)19:08:52 公開 /
■この作品の著作権は煉さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
実は。後編はすでに書けていたので、書いたのをそのまま読んでもらおうと思います。多分あれ?っと思う部分は、多いと思いますし、全然きっちりまとまっていないないと思いますが、よろしくお願いします。後編はかなり長いので、飛ばし飛ばしで読んでくれて結構です。こんな書き方しか出来ませんが、お見捨てになりませんように、よろしくお願いします。!

読んでくれた方には、本当に感謝感謝です。ありがとうございます。

辛口・甘口・中口でもいいので、感想・アドバイスがありましたらどんどん書いてください!!

PS・京雅様が、前編を残して欲しかったとのことで、前編を付け加えておきます。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。