『天の川』 ... ジャンル:未分類
作者:紅月 薄紅
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「星が綺麗ね」
夜。ある邸の一間から聞こえる女の声。
「あぁ。そうですね」
それに応える男の声。
平安の世。夜は、女の元へ通う男の牛車の音が静かに響き、逢瀬の甘い香りが濃く聞こえる時代。
ここに、いつものように逢瀬を楽しむ二人がいた。
「ねぇ、どうして星は光るのだと思う? 彦」
十七になるかならないかぐらいの、白い雪のような肌と、今宵の空のように黒く輝く長い髪を持った女が、男に訊ねた。
「さぁ、どうしてでしょう」
彦、と呼ばれる二十ほどの男が答える。
「織姫様は、どうしてか知っているのですか?」
そうして自分の胸に持たれて座る女の、長い髪を指で梳きながら逆に訊ねた。
「知っているわ。けれど、教えてはあげない」
くすくすと笑いながら、女―――織姫は、髪に触れている手に自分の手を重ねる。
月が織姫の横顔を照らした。明かりによって、女の白い頬はさらに透き通るように白く輝く。
その頬に唇を当て、男は笑いながら言う。
「まったく。織姫様は意地悪ですね」
「彦ほどではないわ」
女も笑いながら言い、顔を後ろに向け彦の首に唇を当てた。これはいつものやりとり。毎夜交わしてきた合図。これから過ごす、長くて短い甘い時間の―――。
煌煌と輝く月の周りで、小さな星達が二人を見下ろしていた。
そうして時は止まることなく流れていく。
どれほど願おうと、二人の時間が続くことはない。
「もう、時間です」
織姫を優しく抱いて横になっていた彦は、小さく呟いた。
「もうそんな時間になってしまったの?」
温かい胸にしがみつきながら、織姫は童のように嫌々と首を横に振る。
「織姫」
優しく名前を呼び、最後の口付けをする。そうして立ちあがった。織姫も体を起こす。
さらり―――と衣擦れの音がした。
「私、一日の中でこの時間が一番嫌いよ」
俯いた織姫の顔は、長い黒髪で隠され見えない。別れたくはない。けれどこれは世の決まりごと。
「私もです。織姫様」
そう言って去っていくその後ろ姿を、もう何度見つめただろう。涙がこぼれそうになるのを、唇をかんで堪え、織姫は彦が去っていった方をずっと見つめた。もう、姿は見えない。
「ねぇ、私の願い事を、遥かなる天は聴いて下さるかしら」
キィ―――という牛車の車輪が回る音が聞こえ、愛しい人は遠く離れていく。
「彦」
織姫が呟いた言葉を、陽の光に消されてしまいそうな月と星が聴いていた。
「ごほごほっ……けほっ」
隠していたものが次々と溢れ出てくる。
「う……っごほっ……げほっ」
こんな姿、あの人だけには見せたくはない。
それでも、空に輝く陽は、もう隠し通すことは出来ないのだと、容赦なく告げてくるようで。
身体を抱きしめる腕が小刻みに震えた。
「うっ……」
涙がぽろぽろと落ち、着物を濡らす。
もうだめなのか。もうこれ以上、隠すことは出来ないのか。
「―――」
愛しい人の名を呼ぶ。
何度も何度も、声が枯れてしまうぐらいまで、何度も何度も―――。
外では自然が陽の光を浴び、活動を始め、鳥が優しく鳴いていた。
朝。まだ低い陽を見つめながら、宮中をゆっくりと歩く。
「彦」
急に背後から名を呼ばれた。
振り向くと、そこには声の主の男がいる。
「博文」
優しい笑顔で彦は男の名を呼んだ。
博文は昔から彦と共に宮中で働いている。彦の一番の友人であり、良き理解者でもある。
「また、織姫様の所に行っていたのか?」
長身の彦よりもさらに背の高い博文は、彦を見下ろしながらにやっと笑った。
「あぁ、そうだよ」
当たり前だろう? とおっとりとした笑みを浮べながら、博文を見上げる。
「ははは。そうだな」
大きな身体を反らし豪快に笑う博文は、あまり貴族だという感じがしない。それがまた、この男の良いところなのだと、彦は声には出さないが心の中で思っていた。
ふと、博文が真面目な顔をし、彦に一歩近づいた。
「どうした?」
不思議に思って訊ねる。
風に乗って、ふわりと博文の香の、柔らかく涼しげな匂いが流れてくる。
「彦。これは噂で聞いた話なんだがな―――」
博文が、彦の顔を気にしながら話し出した。
「他の方と夫婦になれと?」
「あぁ、そうだよ織姫」
御簾の向こうから聞こえる声の主、父に、今織姫は思いきり扇子を投げつけてやりたいと思った。
「何を言っているのですか、お父様。織姫には心に決めたお方がいると、以前にも申し上げたはずです」
「彦の君か―――だがな、織姫。この家のためなのだよ。それにもう決まったことだ」
もう決まったことだ。この一言に、織姫はさらに怒りを募らせる。
「私の思いなど関係ないと言うのですか」
おもわず声がとげとげしくなった。けれど悔やむことなどしない。これはどう考えても父が悪いと、織姫は思っている。
「織姫……」
父の、焦りの混ざる声。
「お前のためにも……なるのだよ?」
織姫の反応を気にしながら言葉を紡ぐ声。織姫は昔から父のこの声が嫌いだった。故に、怒りはさらに募る。
「私のためを思うのなら、相手の方にその約束は取り消すと伝えてください」
私の思う人は彦だけです。
織姫の言葉に、やっぱりな。と、はぁっとため息をつきながら肩を落とし、父は言葉をなくす。けれど、約束を取り消すことは出来ない。相手の家は織姫の家よりも位が高い。そして、彦の家よりも。家の未来のために、この機会を逃すことは出来ない。
「織姫……」
わかっておくれ、と必死に説得するが、織姫はもう父に背を向け、聴き入れようとしなかった。それでも、あきらめることはしない。もう一度ため息をついて、わかっておくれよと言葉を残し、父は御簾を離れた。
わかっていないのはお父様だ。織姫は心の中で呟く。
こんなことが私のためになるはずがない。私はただ、あの人といたい。ただそれだけが望み。いつまでも。あの人と。いつまでも―――。
「それは本当なのか?」
眉間にしわを寄せながら、彦は博文に訊ねた。
「わからないが……たぶん本当だ」
答えるのをつらそうに、博文は返す。すると、彦は一瞬苦しそうな顔をした。そして直ぐに、いつもの顔に戻った。それが何を意味しているか、博文にはわかった。
彦には悲しみを押し殺す癖があった。それはきっと、いつも自分のことを気にしてくれている親友に心配をかけたくないため。そのことも、博文にはわかっていた。そして博文はそんな彦を、我慢することを知っている、大人びた童のように思う。
「彦。俺は、お前は織姫様と結ばれるべきだと信じている。きっと織姫様も―――」
「ありがとう。博文」
悲しげに笑いながら、彦は博文の言葉を遮り、背を向けた。顔はもう見えない。それでもきっと、自分には見せたくない、つらそうな顔をしているのだろうと博文は思う。
足音も立てずに、静かに彦は去っていった。
「彦―――」
その彦を、博文はただ見つめることしか出来ない。
(これは彦と織姫様の問題だ。俺が手出しすることではない)
頭ではわかっている。わかってはいるのだけれど、博文はなにも出来ない自分を無力に思う。今までずっと親友であった男を、自分は救ってやることも出来ないのだ。
(俺は、本当に彦の親友といえるのだろうか)
親友ならば、なにかしてやれるのではないか。そんな思いが、頭で理解していることとは逆に心に浮かんでは消える。
苦しかった。頭と心が矛盾する。それはただ、歯がゆさと苦しみだけを残す。
「くそっ……」
きつく手を握り、博文は下を向いた。どうにかして、この苦しみを消そうと思った。掌には爪が食い込み、血がにじむ。それでも博文は、固めたこぶしを解こうともせず、力も弱めない。痛みだけが、この苦しみを消してくれるような気がした。
親友を幸せにしてやることも、俺はできないのか―――
思いがまた浮かんでは、消えた。
彦は一日中仕事に集中できなかった。
今宵織姫の所に行ったら、どんなふうに接すれば良いのだろう。織姫はなにか言ってくるだろうか。そんな思いが頭の中を何周も駆け巡り、仕事などまったく手につかない。
彦は思った。
このまま、織姫は違う男の妻となったほうが良いのではないか。そのほうが、織姫のためにもなるのではないか。
しかし、直ぐに自分を馬鹿だと罵った。
陽が登る前に帰っていく自分に向ける、織姫の顔を思い出したのだ。その時の、織姫の顔はいつも忘れられない。あの、離れたくないと悲しそうに訴えかけ、それを仕方がないことだと自分に言い聞かせる、そんな矛盾する思いが混ざり合った複雑な、けれどただただ悲しそうな顔。あの表情に、嘘などない。あれが織姫の願いの全て。彦はそう思う。織姫は、自分と共にいることを望んでいる。
彦は静かに瞼を閉じ、ゆっくりと瞬きをした。そしてその瞬間、心に決めた。織姫の願いを叶えようと。それが、一番自分がしなければいけないことなのだと思う。織姫は自分と共にありたいと思っている。そして自分もまた、織姫と共にありたいと思っている。
その思いのためにできることはただ一つ。たった一つしか思いつかない。全てを失っても良い。
「ただ、あなたと共に私はありたい」
彦は小さく呟き、もう一度ゆっくりと瞼を閉じた。
夜が近づく。そうしてまたあの時間がやってきた。いつもその時はやってくる。愛しい人と出会う前、愛しい人と別れた後に。
「げほっ……ごほっ……」
昨日の夜よりもひどい。病は着々とその身体を蝕んでいた。
「うっ……」
頭が痛む、身体がだるい。それでも隠さなくてはいけない。知られてはいけない。けれど。
「っ……けほごほっ」
もう隠すことは出来ない。そんな思いが、痛みとは逆に、やけに冴えた頭によぎる。
きっと今宵知られてしまう。そうして自分は嫌われるだろう。
それはいつかやってくる運命。
それならば、いっそのこと自らばらしてしまおうか。そんなことさえ思う。もうつらいのだ。精神的にも、肉体的にも。きっともう限界が来ている。ばらしてしまおうか。このまま隠し通せても、どうせいつかは離れるのだから。死という壁が二人の間にやってくるのだ。それでも―――
「だ……め……」
だめだ、と強く自分に言い聞かせた。最後まで、言うことなど出来ない。自分の口から真実を伝える事が恐い。真実を言い、そうして直ぐに別れを告げられることが恐い。だから。たとえ知られてしまったとしても、それでも自ら話す事はしない。
知ったことを隠して欲しい。せめて、せめて最期まで、幸せでいたいから。―――それが嘘の幸せだとしても。
「じゃぁ、行って来るよ」
いつものように、供人の少年に一言声をかけ、彦は織姫の元へと向かう。
「はい」
少年は真面目な顔で頷き、深く頭を下げた。そうして、邸の中へと入って行く彦の背を、見えなくなるまで見つめ続けた―――。
「織姫様」
「……彦」
いつものようにやってくる、二人だけの甘い時間が、今夜は少し苦く感じる。理由はそれぞれ同じもの。けれどそれをまだ二人は知らない。
「彦」
織姫が呟く。俯いたその顔は、長い髪に隠され見えなかった。
「はい」
そんな織姫の前に座り、彦は自分の鼓動がどんどん早くなっていくのを感じた。それに伴い、胸を打つ音は、織姫にも聞こえてしまうのではないかというくらいに大きくなる。
「私は―――」
「わかっています」
思わず織姫の言葉を遮ってしまった。織姫が、はっと顔を上げる。その表情はいつもは見せないような、恐怖の入り混じったもの。それを見た彦は自分の行ないを少し後悔する。けれど、聴きたくなかったのだ。織姫の声で、織姫の言葉でその先を言われたら、固めた決心が揺らいでしまいそうだったから。
汗をかいて濡れた掌を強く握り、彦は続けた。
「他の男の、妻にならなければいけないのでしょう?」
「彦……」
「知っています。聴いてしまったんです。博文から―――」
「彦っ、私は―――」
「織姫様」
もう一度、織姫の言葉を遮る。
「織姫様、私と……私と共に来てはくれませんか」
「……彦」
織姫が泣きそうな顔で名前を呼ぶ。もう悲しい顔は見たくない。もう苦しい思いはしたくない。だから。さっさと言ってしまおう。
「二人で、どこか遠くへ……誰にも邪魔されることのない、遠くへと行きませんか?」
「……っ」
織姫の目から涙がこぼれるのを見た、その次の瞬間。彦の身体に、暖かく柔らかいものが倒れてきた。彦は目を見張る。それが織姫だと理解するのに、少しの時間がかかった。
「織姫……様?」
「彦……」
「―――織姫様」
優しく、それでいて強く、織姫の身体を抱きしめる。夜のように美しい黒髪に埋もれさせた顔は、涙で塗れていた。自分の思いが、身体が、全て涙になってしまったように感じた。
だからか。織姫の涙で、着物がぬれていることなど、まったく気づかなかった。
「共に、来てください。もう、あなたのいない時間を送るのは堪えられないのです」
「―――はい」
小さく頷いた織姫は、頬を涙に濡らしながら、幸せそうに微笑んだ。そしてその微笑を横に感じ、彦も幸せそうに瞼を閉じる。
この時。一人はこれから先の時間、二人は幸せでいられると信じていた。
そしてもう一人は。終りがくることへの恐怖と、今ここにある、ここからありつづける幸せに、複雑な思いと、ある考えをめぐらせていた。
それを知っているのは、今宵の月だけ。
「彦」
「博文」
昨日と同じように、二人は出会う。
「お前、織姫様のところに行って来たのか?」
「あぁ、そうだよ。当たり前だろう?」
同じ表情、同じ言葉で彦は言う。
そこに、彦は何かを隠している。そう博文は直感的に思った。
「彦……お前―――」
「博文」
彦が遮る。その表情は、博文が今までに見たことのないものだった。いつも通りにおっとりした様子で微笑んだ彦の目は、泣きそうだった。博文の胸が騒いだ。きっと、何か悲しい出来事が起こる。そう思えて仕方がなかった。
「私は……幸せだよ」
そう一言だけ言って、背を向ける彦。「待て」と言おうとしたけれど、声が出てこない。恐怖が、身体中を一瞬で侵す。足が、彦の後を追うことを拒否した。
伸ばしかけた右腕は、だらりと落ちる。薄青の狩衣が、汗でじっとりと塗れたように感じた。
「彦……」
唇が自然とその名を呟く。そうして、昔のことを思い出した。
あれはどのくらい前のことだったか。
夜、彦と共に邸への道を歩いているときに、博文はこう訊ねたことがあった。
「お前は今、幸せか?」
それはまだ、彦が織姫と出会って、好きあって間もない頃。その頃彦は、毎日のように博文に織姫の話をしていた。「わかったわかった」と何度言っても、「それでな―――」と、彦の話は止まらない。織姫の話をするときの彦は、同い年なのにまるで弟かのように感じるほど、無邪気に楽しそうだった。
今は、落ちついてつきあいをしているようで、あまり話をしなくなったのだが―――
そして、訊かれた彦は少し俯きながら答えた。
「―――わからない」
その時の彦の姿は、今でも目に浮ぶ。あんなに幸せそうに、織姫との仲を嫌と言うほど語っていたのに、どうしてそんな悲しそうに、わからないと答えるのだろうか。その時の博文にはわからなかった。
けれど。
今、あのときの問いの答えを改めて聴いて、博文はようやくわかったような気がした。
あのときの二人は、まだ不安だったのだろう。
夜しか逢えないという世の厳しい理に対し、互いに相手のことを疑い、不安に思っていたのだ。
織姫は、もう明日は彦には新しい女が出来て、来てくれないのではないかという不安。
彦は、明日織姫のもとに行ったときには、誰か違う男がいるのではないかという不安。
それはこの世では当たり前のように存在するもの。
けれど彦達にとって、それは重く、幸せさえもわからないほどに、つらいものだったのだろう。
だが今。彦は幸せだといった。悲しそうな顔をしていたけれど、それでも幸せだといった。きっと、その言葉に嘘はない。ようやく、二人の不安は消えたのだろう。
「やっと……」
先の言葉は続かなかった。博文は大きな手で顔を覆い、その場に座り込む。
誰もいなくて良かったと、少し安心したのだけれど、直ぐに先ほどにも感じた嫌な予感に消されてしまう。
何かが起こる。それは彦と織姫と、そして自分に―――。
彦はきっと、自分の前からいなくなる。そう思えてならない。顔を覆う手がぶるぶると震えた。不安が抑えられないほどに膨らむ。
それは、彦―――ともう一度つぶやくことさえも、出来ないほどに。
今宵の空は、墨のように真っ黒で、けれど月と無数の星が輝き明るかった。
今日は文月の七日。
織姫の邸への道を牛車に揺られながら、彦は今まで見たどの夜空よりも、今宵の空は美しいと思った。そして、これが最後の通いとなることを少し寂しく思う。
織姫と彦は今宵、邸から、京から、そして世のしがらみから抜け出す。
それは、きっと出会った頃から望んでいたことなのだと、今さらになって彦は気がつく。
「もっとはやくに、こうしていれば良かったのかもしれない」
誰にでもなくただ一人呟いて、彦は空を見上げ続ける。
博文には、別れを告げた。そのつもりだ。
きっと、自分を一番わかってくれているあいつなら、別れの言葉に気づいてくれただろう。そうして、何をするかもわかってくれるだろう。そう思う。
けれど、だからこそ博文を悲しませたのではないか、不安にさせたのではないか。そんなふうにも思えてくる。
「博文」
もうきっと、会うことはない―――。
大切な友人の名を口にした、その瞬間。牛車の車輪の音が止まった。
「着いたか」
最後の通いは今終わる。供人が御簾を巻き上げ榻を置く。それをしっかりと踏み、彦は供人の少年を見つめた。
まだ少し幼さの残る顔が傾けられる。
「……どうしたのですか?」
不思議に思った供人は恐る恐る訊ねる。
「もう、戻りなさい」
彦は、優しく微笑み言う。
その表情の美しさと、どこかある寂しさに少年は目を見張った。
今まで、毎夜彦をこの邸まで連れていったが、こんなことを言われたこともなければ、こんな表情をされたこともない。
今日の日まで、少年はどんなときでも、彼を置いて邸に戻ったことはない。
どんなに暑い夏も、寒い冬も。
大切な尊敬している人だから、あんな人になりたいといつも思っているから、自分は彼にどこまでもついていこうと思った。
だから、先に帰るなんていうことはしなかった。したくなかった。
それを彼も、理解してくれていたのだろう。戻れとは言わなかった。
ただ寒さに体を壊さないよう、夏は過ごしやすいよういろいろと対処してくれた。
その彼が、急に戻れと言い出すのだ。なにかあるとしか思えなかった。
「どう……されたのですか?」
彦よりも背の低い少年は、眉根を寄せ上目遣いで見上げる。
「もう、良いのだよ」
「?」
彼には、彦が何を言っているのかわからなかった。ただ不安だった。「自分はもう必要ないのか」と、自分自身が壊れていくような思いがした。
「もう、良いのだ」
もう一度彦は言う。そうして、ぽんと自分を見上げる少年の肩に手を置く。
「お前は帰って良いのだよ」
私はもう戻らないから。ここに来ることはなくなるのだから―――。
その言葉は、まだ幼い少年にはつらいものだった。ついていくと心に決めた人に、離れることを望まれた。
思いは確かな現実のものとなった。もう自分は必要ないのだ。
前から吹いてくる温かくて弱い風にさえ、身体が倒されてしまいそうな気がした。それだけの、大きな衝撃と悲しみがあった。
「もう……私は必要ないのですか……?」
涙声になる。止めたくても、止まらない。ぽたぽたと涙が道に落ち、染みこむ。道のそこだけが、周りよりも黒くなっていた。
まるで血の痕のようだ。
少年は悲しみのなかで思う。今まさに、自分は別れという刀に斬られたのだと。
「そんな事はない。お前は私にとっても、私の家にとっても大切な人間だよ?」
首を少し傾げ、優しく彦は言った。まだ若い少年に、泣くほどの悲しみを与えてしまったことを少し後悔する。それと同時に、これほどまでに自分が思われていることに嬉しさと感謝の気持ちがこみ上げてきた。
「お前は私の為に毎日いろいろとしてくれた。大変だっただろう? 次はどうかお前自身の為に日々を過ごして欲しいのだよ。これはお前の人生なのだから。私なんかの為に使うことはない。自由にして良いのだ」
これは常に考えていたこと。いつかは言おうとしていたこと。これが彼に対する自分の望みだ。そして今、その望みを全て伝えた。あと伝えたいことはたったの一言。その一言を言って、さよならにしよう。
彦は肩においていた手を離した。そして少年に背を向けつつ言う。
「今までありがとう」
振り返ることはしなかった。そのまま前だけを見て、愛しい人のところへと足を進める。
残された少年は地面に膝をつき、泣き崩れた。
別れは、とてもつらいものだった。そしてとても優しいものだった。
暗い夜の空に向けて、彼は大声をあげて泣き続けた―――。
その泣き声を聴きながら、彦はこれで良いのだと心の中で呟いた。無意識に、眉間にしわが出来る。
その時の彼を誰かが見ていたのなら、きっと「苦しそうな顔をしている」と思っただろう。
月はぼぅっとその一間を照らしていた。それは、愛しい人のいる場所を示しているかのように。
空の月も、これから自分が行う事を良く思っている。「さぁ行け」と背を押してくれている。そう感じ、進める足に力が入った。
一歩一歩が大きく、床を踏みしめるように出される。
そうして、月の光に輝く廂の間にたどり着いた。
御簾の前に立ち一度ゆっくりと呼吸する。そうして瞼を閉じ、静かに御簾を上げた。
「彦―――」
愛しい人は、廂の中央に灯台に明かりもつけず座っていた。持ち上げた御簾の隙間から月の明かりが入り、白い肌をより白く光らせる。紅色の袿がその白い肌にとても良く映えている。
天女のようだ―――。
彦は目をそらすことが出来なかった。それほどまでに、白い光に包まれた織姫は美しく、儚ささえ感じさせるほどだった。
「織姫様」
御簾を下ろし近づく。廂に暗さが戻った。入って来る月の光は御簾に遮られ弱い。さらり―――と衣擦れの音がした。そうして身体に感じる何かの重み。
「―――っ」
彦の胸に寄りかかった織姫は小さく呟いた。
「……行きましょう」
「……」
小さく細い背に彦は腕を回す。そうして、一度手の中の愛しい人を強く抱きしめ、答えた。
「―――はい」
行きましょう、誰も知らない遠い場所へ―――。
約束は、今叶えられようとしていた。
月は二人の進むべき道を照らす。優しい明かりに導かれながら、二人は邸を抜け出した。
それはいつのことだったろう。
彦は考える。そうして思い出した。
それは三日前のこと。彦は織姫にあることを問われた。
「あの答えは、何なのですか?」
道を少し早足に歩きながら、彦は背に背負う織姫に訊ねた。二人はもう京を出て、細い畦道を歩いている。砂利がざっざっと音を立てながら、彦の踏み出す足に擦られた。
心臓が早鐘を打っていた。今までにした事のないことを、世の理に反することを今自分はしているのだ。緊張と焦りが足を前に出すことを速める。
それでも。後悔という気持ちだけはなかった。
今こうしていることは、しなければならないことだと思っているから。こうしなければ、二人は共にいられないのだから。
だから、悪いことだとは思わない。後悔だけはしない。
「あの答え? あぁ……」
あのことね? ふふと織姫は笑い、それが彦の首筋に伝わった。それだけで、彦の緊張はほぐれ、足は少し余裕をもって踏み出される。
「あれはね―――」
語り出す声は、今の状況を楽しんでいる。
織姫は邸かから外に出たことがほとんどない。ましてや、京からなど出ようとも思ったことがない。
それは彦も同じで―――二人にはすべてのものが美しく思えた。
横に広がる田も、見たこともないような広い空も。月も、輝く星も。木も草も―――見なれたものまで、すべてが愛しく感じられる。
今まで当たり前に過ごし、当たり前のように美しいと思っていたあの都の風景は、なんと狭く窮屈なものだったのだろう。
口には出さないが、二人とも心の中で同じ事を思っていた。
世の中はこんなにも広いのか。こんなにも自由だったのか―――。今までの自分が、とても小さなものに思えて仕方がなかった。
「見て、彦」
「?」
織姫は答えを言わない。それを不思議に思いながらも、彦は織姫が指差したほうを素直に見た。
細く白い指の先には、空。そして、まるで川のように見える、数えられないほどたくさんの星。
「綺麗ね……本当に川のよう」
天の川と呼ばれる星の群れを見上げ、織姫は呟く。
「―――そうですね」
彦は進める足を遅くする。この空を、この天の川を、ゆっくりと見て居たかった。
「ねぇ、彦。私はね、この空の星のように見ている人を幸せに出来る、そんな人間になりたいの」
これが、あのときの答えよ。
織姫はそう言い、はぁっとため息をついた。
それは世の理に反するこの行ないを不安に思うわけでもなく、ましてや都を出てきたことを後悔するわけでもない。
ただこの世界の美しさに感動した、その気持ちが溢れ出したもの。
抑えてしまいたくはなかったから、この感動をないものにはしたくないから、素直にため息という形で表した。
「あなたらしい答えですね」
さぁ、少し急ぎましょうか。
そう笑いながら言い、彦は足を速めた。
京では少し暑い夜も、ここでは涼しく感じられる。やわらかな風が吹くたびに、草の青々とした匂いが漂ってきた。
夜は刻々と深まっていく。月は道を照らし、天の川は二人を見下ろしながらゆっくりと流れる。
織姫は彦の背で揺られながら、空を見上げ続けた。
「ここで休みましょうよ」
そう言い出したのは織姫だった。森の入り口に立つ古い寺。もう誰もいない、寂れたその寺に織姫は自ら入っていった。
「けれど……」
「良いじゃない。なんだかこういうのも楽しいでしょう?」
彦が止めようとするのも気にせず、織姫はごろりと床に寝転んだ。
長い髪が、まるで先ほど見た天の川のように床に流れる。
「まったく。あなたには敵いませんね」
笑いながらため息をつき、彦は織姫の横に同じように寝転んだ。
ひんやりとした床が気持ち良い。
幸い、人がいなくなったばかりなのか、床にあまり埃はたまっていなかった。
しんと静まり返った御堂。優しく微笑む仏像は二人を見下ろしている。
その微笑を見つめていた彦は、突然ひどい眠気を感じた。
瞼が重くなり、視界が狭くなる。
「ねぇ、彦」
そう織姫が声をかけたときにはもう遅かった。
横で寝転んでいる彦を見ると、細く寝息をたてている。
「疲れていたのね」
目を細め、子を見る母のような優しい顔で、織姫は彦を見つめた。そしてその頬に手を当てる。温かい熱が伝わってきた。それは掌から身体中を巡る。
そうして思い出すのは、毎夜の二人の時間。そして、その前後の苦しみ―――。
徐に織姫は立ちあがった。着ていた紅色の袿を脱ぎ、深く眠っている彦にかけてやる。
「あなたに隠し事をする私を、どうか許してね?」
一言言い、彦に背を向ける。微笑みは悲しい色を含んでいた。
そうして織姫は歩き出す。御堂を出て、外に出る。
そこには、ここに来るまでのものと変わらない、美しい景色があった。
「世の果てのようね。ここでいつまでも暮らしていけたら良いのに」
歩きながら、誰に向けてでもなく呟く。髪が夜風に吹かれ空中に踊った。
向かう先は、近くの川。寺まで来た道を少し戻る。
「……っ……」
突然、胸が締め付けられるように苦しくなった。これまでずっと隠していたことが、とうとう抑えられなくなる。
「うっ……げほっ、ごほ」
咳がひどい。日に日にそれがひどくなっていることは、織姫もわかっていた。
けれど。今日はいつも以上にひどい。とうとうその時がやってくるのかと悟る。
それでも、織姫は歩き続けた。どうしても、目の前に見えてきたその川までたどり着きたかった。
「まだ……まだだめよ……」
あそこにたどり着くまでは。まだ終わるわけにはいけないから。
前に出す足は力が入らない。どさりと地面に膝を何度もついた。
けれど織姫は立ちあがり歩き続ける。何度地面に倒れても。どれだけ咳や苦しみがひどくても。歩き続けた。
「ごほごほっ―――」
やっとたどり着いたときには、白い小袖も紅の長袴も、土に汚れ黒くなってしまっていた。
川を見下ろしながら、織姫はもう一度思う。
まるで、世の果てのようだと。ここでいつまでも彦と暮らしていられたら良かったのにと。
そして―――。
「この川は、天の川に似ている」
声に出し、瞼をゆっくりと下ろす。そうして思い出す。
彦と二人でこの川を見たとき、そのときに織姫は心に決めていた。
ここで全てを終わらせようと。隠し事はこの天の川にしまっておこうと。そう、決めていたのだ。
「私はきっと、間違っていた」
川の水を手ですくい、見つめる。
月に照らされ透き通った水は、飲めばこの病もなくなってしまうのではないかと思うほど、濁りがない。
そんなことはありえないのに、とわかっていながらも、織姫はその水を口に含んだ。
舌に冷たい水が触り、口の中が冷えていく。清められていく―――。
そう感じた後水を呑み込み、もしかしたら本当に病が治るかもしれないと思う自分を、ひどく情けなく思った。
馬鹿ね。と呟く声はただ虚しい。
治りはしない。もうここまで進んでしまった病だから。身体はもう、蝕まれてしまったのだから。治りはしない。そしてもう、隠すことも出来ないのだ。
「私はきっと間違っていた。あなたに出会って、愛し合って。こうしてあなたを傷つけることしか出来ないのだもの」
いつの間にか、苦しみは消えていた。咳ももうでない。天の川の水が、最後に安らぎをくれたのだと織姫は思った。
そしてもう一度その水を手ですくう。
今度は口に入れることはしなかった。
ただ清らかな水を見つめているだけ。
指の隙間から水は次々とこぼれ、地面と袴を濡らした。
「さようなら……ごめんなさい」
ばしゃり、と残っていた水が地面に落ちる。
「あなたはどうか、幸せになって? 愛する人だから―――だからどうか、あなたは幸せに生きて」
幸せでいたいから。せめて、せめて最期まで、あなたに愛されて幸せでいたいから。病で死ぬことなど、したくはないから。だから。
「私は、天の川に消える」
幸せなうちに、私を消させてください。隠しつづけた病と共に―――。
「さようなら。彦―――」
星空のようだ、と愛しい人に誉めてもらった長い黒髪が中を舞う。
嗚呼、私は。天の川の中の、一つの星になれるのかしら。
最後に織姫はそう思った。
そうして激しい水音だけが、誰にも気づかれず夜に響いた―――。
瞼を閉じたまま感じる。眩しい―――。
目を開けてみると、射し込む朝日で一瞬前が見えなかった。
「もう、朝か……」
意識がまだぼぅっとしたまま、彦は身体を起こす。すると胸にかかっていたものが静かに音を立てて落ちた。
なんだろうと、足の上にのっているそれに視線を移す。
「これは……」
のっていたのは紅色の袿。織姫が着ていたものだった。
「織姫様―――」
自分の着ていたものをかけてくれたのか―――。その優しさに、思わず笑みがこぼれる。
そうしてから、やっと横で寝ていた織姫がいないことにやっと気づいた。
「織姫様?」
袿を綺麗に畳んで床に置いてから、彦は織姫を探しに外に出る。
「あれ……」
けれど織姫はそこにもいない。寺の周りを探してみたけれど、どこにもその姿は見えなかった。
「どこにいったのだろう……」
そう一人呟き、烏帽子を被っていない頭をかく。そして、思いついた。
「あそこか―――」
昨日ここに来る途中に見た川。織姫はずっとその川を見つめていた。きっとそこにいる。川辺に座って、流れる水を眺めているのだろう。自分が心配しているなんて思ってもいないだろう。織姫はそういう人だ。
「まったく―――」
本当に織姫には敵わない。
彦は改めて思った。そして、そういえば朝を織姫と過ごすのは始めてだと今頃気づく。
歩き出した足は軽やか。
こうして織姫と共に朝を向かえることをどれだけ望んでいただろう。
もうこれからは、別れを悲しく思う気持ちを抑える必要などない。朝を恨むこともない。
今、私は本当に幸せだよ。
昨日別れを告げた友に、心の中でもう一度告げた。今度は本当に、胸を張って言える。
今、私は幸せだと。何も心配しないでくれと―――。
「織姫様」
川にたどり着いた彦は名前を呼ぶ。それでも、愛しい人の声は返ってこない。
「織姫様?」
おかしい。ここいるはずなのだけれど―――。
川にそって歩いてみても、その姿はどこにもなかった。
「どこにいるのですか……」
声が震える。先ほどまでの幸せはどこかに飛んでいってしまった。
焦りと不安で、進める足は速くなり、周りはもう見えない。ただ織姫の姿だけを求め探す。
そして、足が少し大きい石に引っ掛った。
身体が勢い良く倒れるのを、とっさに腕をついて止めることが出来ない。
どさり―――と音を立て、彦は川辺に倒れこんだ。
「うっ……」
川辺の石は角がないけれど、顔に当たると痛い。袖から見える腕には、少し傷を負ってしまっていた。それでも、子供ではない。これぐらいの痛みは堪えられる。
「……っ」
石ばかりの地面に手をついて、体を起こした。ふと、自分の右側で流れている川に目がいく。
「っ―――」
彦は目を見張った。目線の先にあったのは、水と共に流れる長い黒髪。そして―――。
「そんなっ……」
白い小袖と紅の長袴を身にまとう女―――織姫だった。
「お……織姫様……」
織姫の身体は、川の中央にある大きな岩で止まっていた。
闇の中でも白く輝く肌は、さらに白く作り物のようだ。
「織姫様っ……」
名を呼び叫ぶことはできた。けれど、体が動かない。目の前の出来事に恐怖と焦りで身体がついていけなかった。
行かなくては。今すぐいって、助けなければ。そう思うことしか出来ない。
「動け……動け……」
何とか動く手で足を叩いても、少しも動かない。苛立ちと焦りが募る。早く行かなければという思いだけが、先へ先へと行こうとする。
「くそっ―――」
もう、どうしても足は動かなかった。それならば。
彦は右腕を前に出した。そうして、力を入れて身体を引きずる。
足が動かないならば、腕で行くしかない。
同じように左腕を前に出し、右腕を前に出し―――。歯を食いしばり、何度も繰り返して、前に少しづつだけれど進んでいく。
直ぐ近くにあるその川が、とても遠いものに思えた。
「くっ……」
ようやく手が川の水に触れた。
織姫の顔が見える。
そしてその瞬間、体が急に重くなったように感じた。
彦はまた倒れこんだ。今度はもう、腕を動かそうとしない。
「うっ……」
涙が、次々と溢れてきた。嗚咽が漏れる。
手に触れている水は、あまりにも冷たく、痛いとさえ感じた。
「……っ……」
全て、わかっていた。最初から。そしてそれは水に清められ、日の光をあびて白く光る顔を見た時に、確かなものになった。
織姫はもう死んでしまっていること。
そして、こうなることを自ら選んだこと。
すべて、わかってしまったのだ。水に浮び、長い髪をあそばせたその顔が、あまりにも安らかに笑っていたから―――。
「どうして……」
もう、涙で織姫の姿を見ることが出来なかった。
俯いた彦は、瞼を閉じる。涙が、ぽたぽたと落ち、石にいくつもの染みを作った。
「どうして……あなたはそうやって一人で……一人で終わらせようとするんだ……。少しぐらい……私を頼ってくれれば良かったのに……どうして―――」
知っていた。病のことも、それを隠そうとしていることも。全て知っていた。それでも、彦は織姫を愛した。知っているからこそ、こうして二人で京を出て行くことを選んだ。
誰にも邪魔されずに、織姫の命が消えるまで、ずっと二人で過ごして居たいと思ったのだ。
そして、織姫もそう思っていると、そう信じていた。なのに。
「どうして……どうしてなのですかっ……」
小さく叫ぶ声は水の流れる音に簡単に消されてしまう。言葉はもう、続かなかった。ただ悲しみだけが涙として止めど無く流れる。
じゃりっ―――と石がぶつかる音をたてながら、彦はゆっくりと立ちあがった。そして川に足を踏み入れる。
川の流れは遅いにもかかわらず、足はその流れに押され、倒れてしまいそうだった。
じゃぼじゃぼと、一歩一歩ゆっくりと水の中を進む。
「せめて―――最期はあなたの側で……」
終わらせてください。あなたの側で。そうすれば私は、きっと幸せでいられるから。
そう、彦が呟いたときだった。
後にある草むらの中から、弓を弾くような音が聞こえた。
「なっ……」
身体が何かに叩きつけられるのと同時に、ばしゃり―――という水音が耳元で大きく聞こえ、世界が一瞬にして目の前から消えた。
「おいっ、人だぞ!」
そんな声が水の向こうから聞こえる。
自分の身に何が起こったのか、彦にはまったくわからなかった。
ただわかることは一つ。今自分は水の中にいる。それだけだ―――。
(あぁ……このままここで眠らせてくれ)
薄れる意識の中、彦は思う。せめて、あの人と同じこの川の中で死なせてくれ―――。
「おいっ大丈夫か!」
腕が掴まれ、ぐいっと引っ張られた。
明るい光と、先ほどまで見ていた世界が視界に戻ってくる。
(やめてくれ……)
そう伝えようとしても、声が出てこない。
身体の大きい二人の男が、彦を見下ろしてきた。
身なりが貴族のものではないから、近くの村にでも住んでいる男たちだろうか。背中に弓矢を背負っている。
それを、瞼を半分ほど開けた彦は見つめた。そして、薄れる意識で理解する。
(私は、この者達に討たれたのか―――)
目線を男たちに移すと、二人は「すまない、すまない」と何度も謝りながら、傷の手当てをしようとした。
(やめてくれ。……川に―――)
川に私を戻してくれ―――。
願いはかなわない。意識はもう、途切れようとしている。
「もう、だめだ……」
「すまない……本当にすまないっ……」
男たちは地面に頭をつき、冷たくなっていく彦に涙を流しながら謝り続けた。
(どうして……)
最期、残り少ない意識の中彦は思う。
(どうして……この川は、私とあなたを遮るのだろう……)
瞼が重たい。ゆっくりと閉じると、暗闇が彦を包む。
ほとんどない力を使い、腕を川のほうへと動かした。
そうして閉じた目から、一筋の涙が流れる。
たとえ、世の中が変わろうとも。たとえ、時がどれだけ流れようとも。私は、いつまでもあなたの側であり続けたい―――いつまでも。
「おり……ひ……め……」
愛する人の名を最期に呟き、彦は静かに息を止めた。
織姫を毎夜抱きしめていたその腕は、川の中に眠る愛する人に向けられたまま、もう動くことはなかった。
そこにはただ、「天の川」のようだと言われた川が、絶えることなく流れる音と、二人の男の泣き声だけが響いた―――。
「彦っ……!」
博文は息も絶え絶えに、もう動かない彦のところへと走り寄ってきた。
朝、いつもは彦に出会うのに今日は出会わなかった。全身に鳥肌がたち、不安が押し寄せて来るのを感じた。
昨日の彦の言葉を思い出す。
そして博文は、使いのものから彦は邸にもいないことを聞いた。
きっと彦は、織姫を連れてどこかにいってしまったのだ。そう思った博文は、都の外へ探しに来ていたのだった。
「彦ぉ……」
泣きながら、冷たくなった彦の身体を抱きしめる。彦の背には、まだ矢が刺さったままだった。
「すいません……すいません!」
「俺達が悪いんです! 本当にすいません!」
彦に弓を放った男二人は、彦にもしたように博文にも頭を下げる。
良いんだ……。
博文は小さく首を振った。
「仕方がなかったのだろう……だから、もう頭を上げてくれ……」
強く彦を抱きしめ、博文は俯いた。
二人の男が言うには、あのとき食料を狩に来ていた二人は、川辺にいる彦を、水を飲みに来た動物と間違えて討ったらしい。
それはまれに聞く話し。仕方がない事故だ。
だから、この二人を咎めることなど博文はしない。
ただ、自分の予想が当たってしまったことと、それがこんな結果だったことを悲しく思った。
「そうだ……織姫様はっ……」
共にいるはずの織姫の姿がどこにも見えない。
「もしかして……あの女の人では……」
やっと頭を上げた男の片方が、川を指差した。
「あれはっ―――」
岩に止められ、水に浮ぶ女。漂う美しい長い髪。それを一目見て、織姫を見たことのない博文も、女は織姫だとわかった。
「そんな……どうして、こんなことに……」
どうしてこんなことになってしまったんだ。
幸せではなかったのか。このまま二人で、どこか遠くで暮らしていくのではなかったのか。どうして―――。
供人は織姫を川から引き上げさせようとした。けれど。
「待て」
川に入りかけた供人二人を、博文は引きとめる。
「いい……」
「え?」
「いいんだ。このままで」
「どうしてですか?」
博文は川で眠る織姫の顔を見た。
優しい微笑み。それはこの運命を望み、自ら受け入れた証。
「これでいいんだ。それより」
それより、彦をせめて織姫様とともに、川の中で眠らせてやってくれ。
博文はそう言い残し、その場を離れた。
誰もいない広い畦道を、ゆっくりと歩く。
そうして、泣き崩れた。
子供のように声をあげ、空を見上げ泣き続ける。
日はもう、沈もうとしていた。紅い空が、ただただ悲しい。
「うっ……うぅ……くっ……」
心には、「どうして」という言葉と、自分への苛立ちだけが募る。
大切な友をなくした。
誰よりも優しく、誰よりもまっすぐで、そして誰からも好かれていた、大切な親友をなくした。
一番悪いのは、俺なのかもしれない。
博文はそう思う。
自分はあまりにも無力だった。
彦の苦しみにも、秘めた思いにも気づけず、そうして最後は死なせてしまった。
誰よりも悪いのは、誰よりも無力なのは自分だ。
親友を最期まで幸せにする事が出来なかった、自分だ。
世の中はこんなに広く、そして自分はこんなに小さかったのか―――。
博文は地面を手に血がにじむまで叩き、自分を責め泣き続けた。
これは昔から伝わる物語。
―――それは文月の七日だけに起こる悲しい運命。
空に、天の川という星の川があった。
そしてその川を挟み過ごす男女がいた。
二人は愛し合っているにもかかわらず、その川を渡ることが出来ないため、毎夜逢うことが出来なかった。
しかし、ある一夜だけ、二人は逢うことが許されていた。
その夜が、文月の七日。
二人はその夜にだけ、川を渡り出逢うことが出きる。
一年もの間その時を「早く来い」と待ち続け、ようやくその思いは叶えられると言う話だった。
そして、その夜。
願い事を紙に書き、炎と友に空へ上げると、願いが叶うと言われていた。
「まるで、織姫と彦星のようだな……」
彦―――
いつのまにか黒に染まり、星が輝く空を見上げて、博文は遠くに行ってしまった友を思い、呟いた。
終
2005/06/09(Thu)22:13:37 公開 /
紅月 薄紅
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紅月 薄紅さん
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■作者からのメッセージ
こんばんわ。薄紅です。
今回は、前ちまちまと書いていた作品を、投稿させて頂きました。あ・前に投稿した「en」で感想をくださった方々、本当にありがとうございます!! すごく勉強になりました。遅くなりましたが、この場でお礼を……。
でわでわ。ご指摘等ありましたら、遠慮なく教えて頂けるとうれしいです。
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
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42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。