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『チップ・チープの百鬼夜行』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:春内けいく
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プロローグ 二十年後
波が砂浜を攫う音だけが、聞こえる。
水面に映った満月の輝きが細やかな波紋に幾度となく砕かれる。
チップ・チープは全身を抱きしめられるような静寂に、身も心も任せて横たわっていた。
中性的な顔立ちのチープだが、その粟色の長髪は紛れもない女性であると見る人に判断させる。その柔らかな質感の髪が、ざらついた砂地に放射状に広げられている。優美ともいえるその容姿や落ち着いた物腰とはいまいちそぐわない簡素で薄汚れた洋服は、潮風に長時間あてられたおかげでごわごわになっていた。上半身は袖の無い薄い生地を纏っている。そのせいで露になっている腕の部分は砂塗れで、下半身も破れた箇所の目立つジーンズから砂の粒が入りこんでいた。しかし彼女はまったくそんなことを気にしないようであった。
ただ沈黙したまま月と波とがうずまく空間を、見つめる。
一見、それはただしとやかな女性が夜の海を風流に楽しんでいるだけのようである。それだけの光景なら誰が目撃しても見取れこそすれ、騒いだりはしないだろう。
だが、実際に何者かがこの場に現れたとするならば、その者は大きな違和感を唱えずにいられるわけはなかった。
チップ・チープが問題なのではない。彼女は見事に夜の海辺との調和を果たしている。
問題なのは、彼女の隣りに歴然と存在する奇妙な『山』だった。
寝そべって海を眺めるチープの左隣には、全長五メートルはあろうかという巨大な影があった。砂浜から星空に向けてそびえるそれの形状は正に山と形容するに相応しい。そんな山のような影がチープの隣りにはあるのだった。
見ればその山、ゴミのようなガラクタの数々が積み重なってそのような形を為しているようだ。それを構成する粗悪な品々は汚れたテレビや戸の壊れたタンスやら、しぼんだゴムボールや角の欠けた皿など実に様々でその数も膨大である。
チープにはそんなガラクタの寄せ集めなどまるで意に介した様子もない。しかし一般人の視点からしてこれは明らかに異常だろう。
個人が持ち運んで投棄できる量ではない。そしてただの大量不法投棄にしてはあまりにも捨てられている物が統一感を欠いている。しかもここは海なのである。粗大ゴミを放るならもっとおあつらえむきな場所があろうものなのだ。
だがスクラップの山は当たり前のように夜の海の砂浜に鎮座していた。そんなことはお構いなしだと言わんばかりである。
これが夜中ではなく真昼間の景色であったなら確実に町中大騒ぎであっただろう。そもそもこの町の住民にはこれほどのゴミを捨てた覚えなど、もちろん無いからである。
それは、全てチップ・チープの持って≠ォたいわゆる所有物なのであった。
自らの荷物で景観をぶち壊しにした景色に、チープは心身を委ねている。
波が浜を攫う。
月が、砕ける。
『おい、チー、プ』
突如、チープを呼ぶ声がした。若い男の声のようであった。何故か声の主らしき姿も見えないのに、激しい音飛びを通した、古いテープレコードを再生したような声が確かに響いた。
波がまた、浜を攫う。
「ん? からすけ、何か言った?」ガラクタ山に顔を向けてチープが尋ねた。波音に高いソプラノが混じる。「出来れば静かにしましょう。浸っていたいのよ」
『それは、結構な、ことだが、な』
飛び飛びの男の声。やはり姿は見えない。
『あんまり、ゆっくりしていると、朝が、来る、ぞ。騒ぎは、避けたい、だろう』
「そうね。それはわかるのだけど……」
チープは口惜しそうに、海と空に浮かぶ満月を交互に見やる。
「もう少し、眺めていたかったわ」
『……満月の夜は、あの娘とのことを、思い出す、か?』
「ええ。あの夜もこんな満月が浮かんでいたわ。二十年経った今でも目に浮かぶようじゃない?」
『オレには、眼が、ない。だから、目には浮かばん』
「こういうのは眼があるかないかじゃなくて感覚の問題じゃないかしら」
呆れたように言いながらチープは身を起こした。腰を上げると彼女の肢体に纏わりついていた砂がぱらぱらと落ちた。
「つぎの町までどのくらいなの、からすけ?」
『今出れば、朝方には、到着する、はずだ』
「眼は無いっていうクセに千里眼はあるんだからね……」
チープは苦笑しながらガラクタ山に歩み寄り、一台の大きなレコードプレイヤーを持ち上げた。
木製の台の上に剥げの目立つ金色のラッパ、細いレコード盤をなぞるための針。今ではもう滅多にお目にかかれないレコードプレーヤーだった。曲の再生に必要なレコードがセットされていないのに針は調えられていてきゅるきゅると再生しているような音だけが鳴っている。
やがてあの音飛びする声が聞こえた。
『余計な、お世話だ。全く』
声は憤慨した。紛れも無く、古くてしかも壊れてしまっているレコードプレイヤーから発せられている音だった。
『とにかく、とっとと移動は、済ませよう。でないと、明日の商売に支障を、きたす』
「そうね。からすけの言う通りだわ」
チープはガラクタ山を眺めた。その古くてどこかしら汚れているか壊れてしまっている物たちがチープの商品なのだった。この海の町での商売も一通り終わった所で、彼女たちは次の町まで移動する予定だった。
「しょうがないわね。行きましょうか」
と、そう言って彼女が最後にもう一度波の音をと耳を傾けたその時だった。
ギィ……
さざ波に紛れたか細い音がした。
見れば、砂浜をブリキ製のロボット人形が歩いている。錆びついた脚のおぼつかない足取りでチープとガラクタ山の方へやって来る。
『……新規入荷、だな』
レコードプレイヤー・からすけが冗句のつもりかどこか嬉々とした声を出す。そのようね、と答えてチープはそのロボット人形がこちらに辿り着くまで待った。
やがてブリキ製ロボットはチープの前で止まった。
チープはゆったりした仕草でそのロボットを持ち上げる。足の裏を見てみるとよたよたした幼い筆跡で「ゆうた」と記されていた。元の持ち主が油性マジックで書いたのであろうその文字も、長年大切に使われてきた証拠かはたまたここまでの道のりの険しさを物語るものなのか、どうにか読むことが可能という程度まで掠れてしまっていた。
チープはふ、と笑みを浮かべながらそのロボット人形に声をかける。
「いらっしゃい。君は私達がどういう集まりなのか、わかっているのかしら?」
錆びついたロボットがぎこちなく首を立てに振ったようにチープには見えた。
満足げにチープは頷いて背後に聳えるガラクタ山を振り返る。
「さあ、出発するわよ。全員、からすけと私の後に続きなさい」
途端、山が崩れた。
否、山積みになっていたガラクタの数々が四散してそれぞれが勝手に動き始めたのだ。テレビやタンスは陽気に跳ね回っていた。先程までしぼんでいたボールが弾力を取り戻して転がっていた。欠けた皿たちが競い合うように宙を飛び交っていた。千を軽く越すのではないかという『商品』たちが、皆魂を吹き込まれたかのように動き回っていた。それはまるでやんちゃな盛りの子供達がお互いにはしゃぎまわっている様子を連想する、珍妙で奇怪で尚且つどこか愉快さを感じさせる光景だった。
やがてからすけを先等に商品がひとつの列をなす。
唯一、勝手がわからないブリキ製ロボット人形が列から零れていた。
「さあ、一緒について来るのならいつか来る別れの日まではぐれちゃ駄目よ? チップ・チープの百鬼夜行は君に最高の持ち主との出会いを約束するわ」
チープは涼やかな笑顔でそう言って、ロボットを列の中に招き入れた。
清涼な満月の空の下、絶えぬ波の音を背後に残し、チップ・チープの百鬼夜行は果てぬ行進を開始した。
○
園原舞は薄暗く染まった家路を早足気味に辿る。
もう春とはいえ日が落ちるのはまだ早かった。舞はぽつり、ぽつり、と夕暮れの田舎道を照らす電灯のあとを追いかけるように道を行く。
学校を出たのが六時をすこし回った頃だったからこの調子だと家に着くのは六時半頃になりそうだ。
「あーもう。家が遠すぎるのよ」
愚痴を垂れながら舞は帰路を急ぐ。別に急がなければならない理由もないのだが、薄暗い歩道は舞の不安を十分に駆り立てた。元来、舞は恐がりなタチなのだった。
下り坂に差し掛かったところで沈みかけた夕日が見えた。朱の色をみせるのは遠くに浮かんだ雲と山のシルエットの境界線のみだ。太陽のてっぺんの部分やその周囲は蒼く暗い夜の色を見せ始めている。家に帰る頃にはもうすっかり夜になってしまっていそうな気配であった。
自然と足並みは早まっていく。
舞の中学入学にあたる期待は全て部活動に注がれていた。昔から合唱がやりたかった。歌を歌うのが好きだったのだ。今日は中学に入って初めての部活動の日というのもあって、舞はついつい遅くまで学校に残ってしまった。その結果、先に帰った同級生と下校することは叶わず、舞は一人で帰宅することとなってしまったのだった。
「うぅ、なにも出たりしないでしょうね」
恐い、という気持ちを紛らわせるため声を出しながら舞は進む。
夕飯の時間だった。舞が通り過ぎる家々からは柔らかく温かな光とともに夕食のおかずのいい匂いが漂ってくる。くう、とお腹が鳴った。こんなときでもお腹が減ったという感覚はしっかりとあった。
「早く家に帰りたいな」
本格的に自転車を買ってもらおうかと舞は思案する。園原家に自転車がないわけではなかったけれど、それは父親の通勤のために使用されるのが主だった。これから部活で遅くまで残る日もあるだろうから、自転車を買ってくれとせがんだ所で咎められはしまい。休日に友達と街へショッピングをしに出かけるのも遥かにやりやすくなるだろう。それはとても魅力的なことのように思えた。
「帰ったらお母さんと相談しようっと」
曲り角を曲がる。いつの間にか舞の足取りは走っていると表現しても差し支えないものにまでなっていた。中途半端な舗装がなされた道を舞の新品のシューズが叩く乾いた音が木霊する。
広めの空き地を横切った。近所の男の子がよくサッカーをして遊ぶのに使うその空き地は舞にとってひとつの目印だ。そこは家と学校とを繋ぐ道のちょうど中間ほどに位置していた。あと半分の道のりで家に到着する……
「え?」
視界の端に奇妙な姿を捉えた。思わず舞は立ち止まる。アスファルトと靴とがぶつかる音が止む。一瞬にして静寂が訪れる。
太陽は完全に落ちていた。道を照らすのは途切れながら輝く電灯の頼りない明かりだけである。その明かりに群がる羽虫の飛び交う音までもが、舞には聞こえるようだった。
耳を澄ませばそんな静けさに混ざる小さな声が聞こえてくる。
『……が、―ぷの言う、……か』
「ええ……でしょ……じゃあ……ましょう」
二人が、話しているようだった。
舞は慎重に二つの声を伺う。それの出所は知れていた。舞は気付いたのだ。目印にしている空き地を走り過ぎたとき、そこに奇妙な影が立っているのを。
(確かに立ってた。とてつもない高さだったような気がする)
それは正に山と形容するのが相応しいような、そんな影であった。立っていたのではない。そびえていたのだ。一瞬横目に触れただけで良くは見えなかったが、五メートルは優に超えようかという富士山のような形の影、それを舞は捉えていた。
じり、と空き地まで近づいた。すぐ側の壁に肩と背を預け、息をひそめて会話の続きを窺う。
こんな田舎町に変質者もないだろう、とは思う。だが舞の脳裏にそびえる山の影の印象がこびりつく。なんだかアレは異質な気がした。舞にはときたまそういう感覚が訪れるのだ。「舞って霊感があるんじゃない」などとよく友達にからかわれるその感性が舞に引っ掛るものを告げていた。
声は舞の存在に気付くことがないようだった。
『だが、本当に、ここ、なのか?』
「そうね。最後に見たときと全く変ってないもの。この町で間違いないはずよ」
『だったら、どうする? 大事な、商売の時間を、削ることだけは、許さん、ぞ』
「知らないうちに仕事熱心になったわね、からすけ。はじめはあんなに文句を言っていたのにね」
『余計な、お世話、だな。それよりも、質問に、答えろチープ』
「もちろんよ。私だってやらなくちゃいけないことはしっかりとやるわ」
若い男の人の声。そして同じく若そうな高い女性の声である。
変だな、と思ったのは男の人の声だ。最初は遠くで聞いているせいで上手く聞き取れないだけかと思っていた。けれど、近くで聞いてもやっぱり男の声はどこか切れ切れだった。電波の悪いテレビ中継のような感じだ。女性の声はしっかり聞こえるのだから距離が足りていないはずはなかった。
会話から察するに、この二人はこの町になにか目的があってやって来たようだった。女性の方が前にもここにきたことがあるという風な言い方をしていた。そして『商売』。その単語が強く舞の耳に残った。
(もしかして前ここに住んでいて、それから引っ越した人なのかな?)
ありえない話ではなかった。近所でもよく聞く話だ。囁かれる内容のほとんどが都会の学校に通うため町を出ただの、単純に働き口を探して街へ越していっただのというものである。もしかしたらこの女性もかつてそういう町の外に出た人間なのかもしれなかった。
(どんな人なんだろう)
舞は壁から顔をほんの少しのぞかせた。
まず見えたのはあの大きな黒い山だ。こうして近場で見ればわかるのだが、それは最初の印象以上にデコボコしたもので何だか無数の物体を山型に積んでいるようにも思える。実際そうなのかもしれなかったが、暗闇が濃さを増したこの時間ではただの黒い塊りにしか見えない。
そして一人分の人影が、その山の前に立っていた。背丈の高い人影だった。二つの声のどちらか一方の主に違いなかったが、もう一方の話し手の姿は見当らなかった。もう一人は山の影に隠れた状態で話をしているのかもしれなかった。
どうするべきなのかなぁ……。お巡りさんに連絡しなきゃいけないことなのかな。
舞はこれから取るべき行動に頭を悩ませた。
すると、
「気になるの? どうせなら近くで話しましょうよ」
女性の声。明らかに舞に向けての発言だった。いつからかは知れなかったが、舞がこそこそと様子を窺っていることなどあちらは既にお見通しらしい。
舞はおろおろと周囲を見渡す。夕暮れの歩道には人の姿はなかった。
「あの、えと、すみません。覗くつもりとかはなくって」
ひょこひょこと舞は壁の影から出た。あたふたと弁解の言葉が口をつく。
「ふふ。別に覗いていったって構わないのだけどね」
長身の人影は女性のほうだったらしい。軽やかなソプラノが夜の空気に溶け込んだ。歌わせればなかなかの歌手になれるかもしれない。
遠めでは確認できなかったけれど、その女性は小さな皮の帽子を被っていて、そこからは粟色の長髪がこれでもかと溢れていた。ふわふわと触れば気持ち良さそうなその髪を見て舞はなぜもっと早くこの人が女性であることに気付かなかったのか、自分が不思議になった。
「私はチップ・チープ。どうもはじめまして」
そう言って女性、チップ・チープは涼やかな微笑みを浮かべた。その静かな笑顔はなんだかとても板についていて、ひどく自然なものに舞は感じた。素敵な笑顔だった。
「チープって呼んでね。舞ちゃん」
容姿端麗というのがしっくりくる女性だった。特徴的な長い髪によく似合うほっそりした胴や腰。脚もすらりと伸びていて舞は憧れの念を抱かずにはいられない。そして彼女は美人だった。端正で中性的な顔立ちはほとんど明かりのない空き地のなかでもはっきりと見て取れる。
だが彼女が美しい女性である分、服装が極めて異端に映った。上半身は薄い布地をそのまま巻きつけたような服が一着だけで、それには袖の部分がなかった。下のジーンズはあちこちが破れかけていて継ぎ接ぎすら施された様子もない。単純にきれいな人のチープが着用するにはあまりにも粗末な格好である。
「どうしたの? なにか私の顔にでもついてるかしら?」
「あ、いえ」知らないうちに見入ってしまっていたようだった。「……あれ? そう言えば今、わたしの名前」
舞はふと疑問を覚える。舞はまだ名乗ってなかった。なのにチープは「舞ちゃん」と自分を呼んだ。
「あら、ごめんね。それが見えたものだからつい名前で呼んでしまって」
チープが舞の胸のあたりを指差した。新品のセーラー服には青い布と合わせてくくりつけた長方形の板がある。「一年二組 園原 舞」と掘られた名札であった。
「園原舞ちゃん、ね。では改めて……舞ちゃんと呼ばせてくれるかしら? 私のことはチープって呼んで欲しいのだけど」
僅かな躊躇いを覚えた後、舞はにっこりと笑った。このチープと名乗る女性が悪い人間には見えなかった。
「ええ。もちろん良いですよ。えと、チープさん?」
「ふふ。チープ、よ。名前だけで呼んで。それとできれば堅苦しい敬語も止めて欲しいわ」
さすがにちょっと、と舞は口篭る。細かいところまでわからないがそれでもチープの年齢は二十代前半くらいと思われた。明らかに年上の人間に礼儀をわきまえない話し方をするほど舞は軽率でないつもりだった。
「私がそうして欲しいのだから遠慮なんてしないで。ね、舞ちゃん」
やんわりとチープは言う。ほかにどんな意図もない、純粋なお願いのようだった。
「はい……うん。わかった。チープ」脇をくすぐられるようなくすぐったい感覚が全身を通り抜ける。「チップ・チープって変った名前だね」
言ってから失礼な質問だったと後悔した。十分過ぎるほど軽率な人間の発言だった。けれどチープは表情を崩すことなく「そうかもね」と答えた。
「チープていうのは英語なのよ。粗末な、とか、安っぽい、とかそういう意味の言葉ね」
粗末な、安っぽい……彼女の服装には当てはまるかもしれないが、彼女の外観や漂わせる全体の雰囲気を考えるとやっぱりどこかちぐはぐな名前だった。チープという名前とチープという人間が全然噛みあっていない気がした。
でも音の感じから、かわいい名前かもと舞は思った。この場合もチープはかわいいというより美人なのでどこかズレた感じは否めないのだけど。
「チープは外国の人なの?」
「うーん。そうでもないかな」チープは遠くを見るような眼差しになった。「私は生まれた時からここにいたもの」
「ここ」というのが日本をさすのかこの町をさすのか、舞は少し疑問に思ったが、それを口にする前にチープが空き地を指して言った。
「ここで立ち話も疲れるでしょう? あそこで話さないかしら」
「え?」
躊躇したのは家のことが頭をよぎったからだった。あまり遅いと心配されるかもしれない。
だが同時に別のことも舞は考えた。結局、さっき目に入ったでこぼこな山の正体はわかっていない。それにチープと話していた男の人とも舞はまだ会っていなかった。すこしだけ興味はあった。
「そうね。ご家族もいるものね。迷惑だったかしら」
「あ、ちょっとくらいなら大丈夫」
反射的にそう答えるとチープは嬉しそうに微笑んで、舞を空き地に案内するようにして歩いていった。舞も彼女の後ろ姿を追う。
輝く月が空に浮かんでいた。その空の下に舞を縦に三人並べたくらいの高さをしたでこぼこ山はあった。すぐ側まで近寄って、舞はその山がたくさんの物が集まってできていることに気付いた。種類は様々ながらどれもが何かしら傷んだ部分のあるガラクタのような物ばかりだった。
間近で見れば見るほど、その山から舞は異質な感覚を受けた。
ガラクタ山の近くに置いてあった椅子(これも薄汚れている)に腰掛けながらチープは「これが商品なのよ」と言った。
「商品?」
もう一脚、脚の一本曲がった椅子があった。それに座りながら舞は訊ねる。かたん、とバランスの崩れている椅子が傾いた。
「そうよ。この山にある全部の物がね、私にとって商品なの。だから私は、旅をしながら中古品を売って生計を立てている、とでも言えば良いのかしらね」
「中古品……それでみんなキズがあったりするんだ」
横で佇むガラクタ山。舞は合点がいったとばかりに頷いた。そこではた、と舞は思いついた。
「売るって……もしかしてこの空き地で?」
「ええ。しばらくはこの場所を借りて商売をしようと思っているのだけど。怒られるかしら?」
「ううん。そんなことはないと思う」舞は首を振った。町のお巡りさんがそんなうるさい人間であるとは思わない。「そうか。ここでやるんだ。じゃあ、学校の帰りとかに来てもいい?」
チープはもちろん、と微笑んだ。本当に笑顔がよく似合う。
「商売はお昼頃から太陽が沈みきるくらいまでやっていると思うけど、商売のとき以外も私はここにいるから、いつでも訪ねていらっしゃい」
「いつでも?」
「いつでもよ。この町で商売する間はここで野宿する予定だから」
「野宿」
想像以上にたくましい女性であるようだった。いつもチープはそんなことをして過ごしてきたのだろうか? こんな田舎ならともかく、都会ともなれば女性が一人外で眠るなど危険極まりないことだと思うのだけど……。
(そうか、一人じゃないんだ)
舞は音飛びしたような若い男の声を思い出した。
「そう言えばチープ。もうひとり男の人がいるでしょ?」
「え? どうして?」
そう言ったチープの顔には明らかな動揺の色が走っていた。そんなチープの表情は、柔らかな笑顔とは対照的にひどく不自然だった。
さっき舞が覗き見ていることは気付いていても、会話まで聞かれているとは思っても見なかったようだった。
「あら、そんな声がしたかしら?」
空っぽの声で言った。全く誤魔化しきれていなかった。嘘は相当に下手くそな人であるらしい。
「してたよ。チープ、その人と話してた」
「うーん。話なんてしてたかしら。困ったわね」
「なにが困るの?」
「なにがというほどでもないのよ」
「んー? 怪しいなあ」
「あらあら」
「チープなにか隠してる?」
「そんなことはないわよ」
聞けば聞くほどチープが「しまったなぁ」とでもいうような顔になる。そんな彼女をからかうというわけではなかったけど、舞はつい調子づいて問いただす。
初対面の人間との会話なのに、既視感に似たものを舞は感じた。それは小学校以来からの友達と他愛ない会話をするような感覚だった。ふわりと心が浮かび上がるようで、ぽかぽかと温まってくるのが舞にはわかった。チープも困ったような表情を浮かべながらも会話自体を楽しむような素振りを見せる。彼女にははじめて会った人間の心にもするりと入り込んでしまう才能があるように舞は思った。
「ほうら、堅苦しいのはいやって言ったのはチープじゃない。正直に話してよぉ」
「なにもないわ。なにもないのよ舞ちゃん。だから、ごめんなさい、くすぐるのはちょっと……」
ついに舞は椅子から立ち上がってチープの粗末の肌着のうえからイタズラを始めた。まるで長年連れ添った友人とでもいるような気分だった。
その時。
『その、声と、いうのは、俺、だろう』
若い男の声が聞こえた。
質の落ちたテープを通したような、音飛びの激しい声。
舞はその声がどこから聞こえたのか判断できずに、戸惑う。その声は明らかに舞のすぐ後ろで聞こえたものなのに声の主がどこにも見当たらないのだった。最初にチープと男の声を伺っていたときと同じだった。
「からすけ!」
チープが大きな声をあげた。チープ自身も驚いているような声色だった。チープもまた舞の背後に向けて言葉を出していたのだが、相変わらず舞にはそのからすけ≠ニやらの姿は見えない。
『ここ、だ。娘。お前の、足元、に、俺はいる』
「?」
言われて足元を見る。ガラクタ山の麓のちょうど真ん中付近にあたるその位置には、あちこちが壊れるか汚れるかしているチープの『商品』が転がっているだけだった。
その中でも一際目を引いたのは随分と年季の入っていそうな一台のレコードプレーヤーだった。ラッパのような音を出す部分がすすけて真っ黒で、しかも一部がひしゃげていた。それを支える台の部分もいい加減にひび割れていて空洞な中身が覗ける箇所さえある。
『そう。それが、俺、だ』
その完全に壊れているとしか思えないレコードプレーヤー。それからはっきりとあの、飛び飛びの男の声が聞こえてきた。
「ひゃっ」
大声を出しそうになった。本当なら叫んでしまう所であったが、いざ叫び声をあげるそのタイミングでチープの呆れたような声が被さった。
「からすけ。人前でしゃべるなんてどうしたの? 騒ぎを嫌うあなたらしくないわね」
どこか諦めたような色を含んだ口調だった。からすけと呼ばれたレコードプレイヤーが言い返す。
『らしくない、と言えば、お前も、だぞチープ。何を、そんな娘と、長いこと、話している? 明日は、もう商売だ。それを、用意をしないうちに、よくも、まあ、気楽なもの、だな』
「別に構わないじゃない? あなただって最初は商売を嫌ってよく怠けていたじゃない?」
『余計な、お世話、だ。今は、そうでも、ない。だから、お前も準備を、しろ』
チープは嘆息して首を振った。そして口をぱくぱくさせたまま硬直している舞に笑みを投げかけた。
「ごめんなさいね、舞ちゃん。お話はまたの機会だわ。この子が急かすものだから」
「それ、それってどうなって……」
チープの言葉も耳に入らず、舞は焦点の定まらない指先でレコードプレイヤーを示そうとする。やはりそれは古ぼけて壊れた、ただのレコードプレーヤーだった。チープが腹話術をしているとか、そういう小細工ではなかった。声が聞こえたのだ。はっきりと。
レコードプレーヤーが自分の意思を持って話しているとしか思えなかった。
『ふん。驚く、か。それは、そうだろう、な』
どこか自虐的な声色でからすけは言う。
チープがどうしてあれほど「もう一つの声」について話そうとしなかったのかわかったような気がした。彼女はこのからすけという存在を隠そうとしたに違いなかった。
困ったような不安そうな顔になって、それでもあの柔らかい静かな笑顔を浮かべて、チープは最後に言った。
「本当に驚かせてごめんなさいね、舞ちゃん。もしまたここに顔を出そうと思ってくれたなら、その時にゆっくりとお話しましょう」
舞が帰るときまでチープはその笑顔を崩すことはなく、舞はやっぱり素敵な笑顔だなと思わずにはいられなかった。
全力疾走気味に家までの道を駆ける途中、見上げた空には不細工な形で光を放つ月の姿が見えた。
もうすぐ満月だ。なんとなしに、舞は思った。
「見てよ、からすけ。サッカーボールだわ」
夜中。園原舞がその空き地を訪れてから、もう何時間も経過していた。
都心から離れているせいか電信柱に備え付けられた電灯以外には明かりらしい明かりも見当らなく、チップ・チープたちのいる空き地は深い暗闇が漂っていた。
園原舞という少女がいたときと、今の空き地では決定的に違うことがあった。彼女がここに目を止めることとなったそもそもの原因であるところの山、大きなガラクタ山がなくなっているのだった。
あのガラクタ山を構成していた物のほとんどは地面に規則正しく並べられていた。地面を覆い尽くさんとするかのように配置されたその『商品』は、しかしそれぞれに一定の間隔が空けられていて、そこに訪れた人間が商品を直接手にとって見れるようになっていた。
時間帯が夜であるせいでその光景はシュールで気色の悪いものを感じさせたが、昼ともなればさながらどこかの市場にも見えるかもしれなかった。
なんでもかんでも揃っているのだが、どの商品も古びていて酷いものでは破損したりしてしまっている『古物市』の光景がそこにはあった。
「ねえ、懐中電灯のコがいたと思うのだけど?」
チープが声をかけると、その商品の羅列からなにかが動く気配がした。動き出したそれはすぅー、とチープの方まで飛んでいってそして、
かちり、
淡い光を放った。
丸い物を抱えたチープと、彼女を挿して光を放つ懐中電灯の姿が闇の中に浮かぶ。
「ありがとう。あらら、きみはガラスの部分が壊れちゃっているのね」
チープが言うと、そのランプを覆う部分がひび割れた懐中電灯は恥ずかしがるようにうなだれた。
光の直線が僅かに下がった。チープの顔に深い影が浮かぶ。
「大丈夫よ。きみにだってきっと素敵な持ち主が現れる。だから気にする必要なんてないわ」
言いながら手にしたサッカーボールを懐中電灯の光の下に照らす。それは今しがたこの空き地の隅っこでチープの見つけたものだった。
「ほら、からすけ。ボールを見つけたわ」
『そいつは、《九十九神》に、なって、いるのか?』
並べられた商品とは外れたところで途切れた若い男の声が響いた。懐中電灯がその方向に光を当てると、ぼろぼろに壊れたレコードプレーヤーが暗闇に浮かび上がる。他の『商品』と違ってこのレコーダーは完全に破損してしまっていた。どんなに古くて骨董としての価値があってもこれでは売り物になるまい。
しかしそのすすけてひしゃげたラッパ口からは、確かに若い男の声が聞こえてくる。
『九十九神なら、良かった、ではないか。明日からでも、商売に、出してやれば、いい』
「残念ながら違うみたいだわ。このボールはまだまだ持ち主に愛されてもらっているってことでしょうね」
『そう、か』
ありがとう、もういいわよ。チープが言って懐中電灯は彼女の側を離れていった。持ち場に戻ったのだろう。また周囲に闇が戻る。
しばらく誰も声を出さなかった。チープも。からすけも。
唐突に口を開いたのはからすけの方だった。
『ソノハラ、マイ……といったな、あの、娘は』
「聞こえていたのね」
『まあ、な。それで、思ったが、そいつでは、ないのか?』
「…………」
『話したく、ない、か。いや、終わらせたく、ないか』
無言のまま、チープは夜空を見上げた。田舎、といえば言い方が悪いかもしれないが、こういう所はやはり空気が澄んでいるのかもしれない。瞬く星がいくつも見える。その中心には完全な丸にはまだ足りない月があった。
「満月の夜には、ここは去ろうかしらね」
浸りすぎるのはお前の悪い癖だな。そう言ったきり、からすけは話さなかった。
○
舞がチープに会ったあの夜から、二日が経過していた。
謎の旅商人の開く『古物市』の話は風の噂程度には舞の耳にも届いている。なんでも売っている物は壊れかけたり古ぼけたりしているものばかりでも、その豊富な品揃えと安価な価格は評判がいいようで、近所の主婦のおばちゃんたちには早くも人気があるらしい。
昨日、つまりチープと出合った次の日に彼女の古物市に顔を出してみたという舞の友達が、そこで買ったアクセサリーを見せてくれた。
「ほら舞、見て見て!」
小さなクマのヌイグルミのキーホルダーだった。ちょっぴり生地の色がくすんでしまっていたけれど、鞄の隅にでもぶら下げればなかなか可愛いかもしれない。舞もちょっと欲しくなった。
「へっへーん。これなんと五円で買ったのよ!」
橋谷久美というその友達は自慢げにそのクマキーホルダーを見せびらかす。
「ご、五円?」
「そう! なーんか優しそうな感じの女の人がお店開いてたんだけどね、これ下さいって言ったら『そのコとあなたにご縁がありますように』って五円で売ってくれたのよ」
「本当?」
「ホントホント。ウチのお母さんも傘やらなんやら一杯買ってたけど、全部で三百円も掛からなかったんじゃないかなあ。それでお母さんたら大喜びよ。うちは弟の奴が何かと物をなくすからさ。それ全部買い揃えられたとか言って」
「へぇ……そうなんだ」
チープ、商売と言っておきながらそんな様子で生計を立てられるのだろうか?
それにあのからすけというレコードプレイヤーは商売に関して厳しそうな様子だった。あのしゃべるレコーダーは久美の話のような適当な値段の決め方で納得をするかは少し疑問だった。それともお金なんて考えていないのだろうか?
だったら何であのレコードプレイヤーは商売を熱心にこなすのだろう? 商品を売ること自体になんらかの意味があるのか……?
例えばこのクマ。ひょっとして夜中に勝手に語りだしたりしないとも、限らない。
「どしたの舞。そんなに見つめちゃって。そんなにあたしのクマちゃんが羨ましいかい?」
「え、そんなことはないけど」
「まーまー遠慮しなさんな。わかるよ。舞って昔からこういうヌイグルミとか好きだったもんね。どうよ、今日部活の後にでも空き地に寄ってみない」
「それは……」
舞は瞬間的に躊躇を覚える。チープにまた話をしようなどと誘われていても、舞は空き地に行こうとはしていなかった。昨日もあえてそこを避けるようなルートを選んで家まで帰っていたのだ。
「大丈夫。大丈夫。こういうのまだたくさんあったからさ。いくら安くても一日で売り切れたりはしないって」
久美が舞の内心も知るはずもなく、友人は屈託のない笑みを浮かべながら舞を誘う。チープの静かな微笑とはまた種類を別にした笑い方は、彼女の特徴のひとつだった。
「お店の女の人も良い人だったよ」
チープが悪い人間でないのは舞だってわかっている。それでもからすけの存在が頭にこびりついた。アレが悪いものであると決めつけた訳ではないけれど、それでもこの世の存在せざるものであるのは間違いないだろう。一人でに話すレコードプレイヤーなんてあるはずがないのだ。
戸惑いながらも、気付けば、舞は久美の誘いを断っていた。
「今日は私、部活居残っていくから」
「またぁ? 舞ったら部活熱心にも程があるっての。そりゃあんたは小学校のときから合唱部に憧れてたけどさ、たまにゃ幼馴染みにも付き合いなさいよ」
「久美の方こそたまには私と一緒に遅くまで練習しようよ。私だってひとりで帰るは寂しいもの」
「んー。それは構わないんだけどね。遅くまで残るとお店が閉まっちゃうと思うのよねー」
困ったように腕を組む久美。そんな友人に舞はひとつ思いついて言葉をついた。
「じゃあ、部活のない明日に二人で行こうよ。それで今日は私残っていくからさ。久美は今日だけは私抜きでお店に行ってきて」
それは何も友人を拒絶した言葉ではない。ただ『いつでも来て構わない』と静かに微笑んだ彼女たちに会って話すのは、なるべく二人きりが、いや三人きりが良かったのだ。
「合点よ。まあ、あんたが明日にするってんならあたしもそうするわ」
ここでチャイムが鳴って、休み時間を利用した舞の友人との会話は終りを迎えた。
「それじゃあ先生、さようなら」
放課後。部活を終えた舞は合唱部の担当教師に挨拶を済ませると早足で学校を後にした。去り際に校舎に取り付けられた時計を確認する。時間は午後六時三分……一昨日学校を出たのと同じような時間帯だった。チープはもう商売を終えているだろうか?
昨日あえて遠回りしたのとは違う、いつも通りの道順で舞は進む。考えれば朝もこの道を避けていたのだった。
チープのいる空き地へはすぐに到着した。
人が密集するような喧騒は全く聞こえてこない。どうもお店を畳んでしまったか、お客さんが全員とも帰ったのか、どちらにせよ人はいないようだった。
一昨日のように隠れるような格好で壁の脇に立ちながら、舞は深呼吸をして踏み出す。
「あら、来てくれたのね」
商品を片付けていたチープがすぐさま舞を見つけた。静かな微笑みは変らなく彼女を印象付けていた。
「もしかしたらもう話せないかもしれないと思ってたわ」
いざ、ここへ来て舞は言葉を失った。そもそも自分がどうしてこうも身構えているのか、それすらも曖昧になってしまった。言葉を話すレコードプレイヤー。あんなものは最初からなかった、そんな気さえ起こってくる。
苦笑しながら、チープはあのとき舞も座った椅子を用意した。取り出した二脚のうち、片方に腰をまかせもう片方を指して彼女は言う。
「とりあえず、座ってみないかしら?」
『その通り、だな。もっとも、その娘は、俺のことを、警戒して、いる、らしい』
「!」
夢でも幻でも、なかった。
調子の悪いラジオのような声が響いて、舞は身をさらに固くした。声はからかうような冷笑の色を纏っていた。顔の部分がぼけた男の口元が、さもおかしそうに歪められている光景を舞は連想する。
『だろう?』
「ごめんなさいね。いきなり壊れたレコードプレイヤーが話し始めたらそれは驚くわよね」
どうしてもぎくしゃくしてしまう動作で舞が椅子に腰掛けると、チープはまず丁寧な口調で謝ってきた。彼女が心底すまなそうな表情をしているのを見ると、舞はなんだか自分がとんでもない間違いを犯してしまったような気になる。
「ううん。そんな、チープが謝るようなことじゃないよ! 私が勝手に驚いて恐がってただけなんだから」
『やはり、ビビッて、いたのだな』
「う、それは……そうだけど」
『まあ、無理も、ない、がな』
からすけはどこか諦めたような自虐的な口調である。一昨日のチープを責める言い方はもっと粗野で荒っぽいものだったと思ったが、そういう雰囲気はここでは感じられなかった。
(やっぱり私が勝手に勘違いしてただけだったのかな)
舞は自分が恐がりな性格であることを承知していた。だが、それが却ってこのからすけをさらに恐ろしい存在のように錯覚させてしまったのかも知れなかった。
「ねえチープ。それとからすけ」
「どうしたの舞ちゃん?」『なん、だ』
同時に二人≠ェ反応する。舞は遠慮がちになりながらも胸につっかえていた疑問を告げた。
「からすけって、何者? もしかしてここの『商品』も皆が話し出したりするの?」
「話をするのはからすけ一人だけよ」
答えたのはチープだった。何を訊かれるか、概ね彼女はわかっていたのだろう。ゆっくりとした口調で彼女は話し始める。
「他の商品も、舞ちゃんは気付いているようだけど、普通ではないものよ。それでもからすけは特別なの。このコだけが自由に言葉を使えるのよ」
「どうして、からすけだけが?」
それに『普通ではない』というのはどういうことなのか。
「これは私が商売を始める前の話になるのだけれど……からすけはね、最初はただのカラスだったの」
思わず視線を足元へと下げた。壊れたレコーダーは一切の声を漏らさすことなく、淡々とそこに存在するだけだった。しゃー、と砂を流すような音だけがそれからは聞こえてくる。あえて何も言わずにいるのを誤魔化しているのだと舞にはわかった。
チープもからすけを見ながら、川を水が流れるように言葉を紡いでいく。
「悪ガキ、とでも呼ぶべきカラスだったのね。いつもあちこちから光り物を集めてきては自分のねぐらに飾っておくような、そんなカラスだったわ。いっつも誰かに迷惑をかけていて……。それが死んだのが私が商売を始めることになる前日かしらね」
『お前が、旅をするなどと、言い出したのは、俺の死んだ、その日の内だ』
「なら当日と言うことになるのかしらね」
「待って! じゃあ、からすけは」
『もちろん、死んで、いる。肉体が、という、意味ではな』
「そのカラスの魂をたまたま近くにあったレコードプレイヤーの残骸の中に放り込んだの。それがからすけなのよ。からすけっていう名前はカラスのお化け≠ゥら取ったものね」
『話せるのは、なんで、だろうな。自分でも、良くわからん。ただ、このレコードプレイヤー、という容れ物も、関係しているのだろう。あとはカラスとして培った、頭脳、とか、そんなものだろう』
「その中に入っていても空を飛んだり、それで遠くを見たりはできるのよね」
『魂と、いうか心、がな、飛翔する。景色も認識、できる。この体で、不自由したことは、ない』
と、からすけは言った。相変わらず表情なんて読み取れないけれど、もし顔があれば不敵な笑みでも浮かべていたかもしれなかった。
「それがどうして商売なんてやっているの?」
舞は次々と疑問を口にする。からすけの正体はわかった。でもそれが、この普通ではないらしい商品を売ることとどう繋がるのか、わからない。
『つき合わされて、いるだけだ』
「経緯を話すと長くなってしまうわね。かいつまんで言ってしまうと、からすけが大切にしていた宝石が九十九神だったのが始まりかしら。あれを持ち主に返したのがそもそもの商売の始まりね」
「つくも、がみ?」
知らない単語の出現で舞の頭はどんどんと混乱し始めていた。チープはやんわりと微笑みながら舞に説明をしてくれる。
「妖怪よ。物が化けた妖怪、というのが一番適切かしらね。あたし達が売っている商品はみんな九十九神という妖怪なの。本当はね」
「妖怪……?」思わずからすけを見た。
『俺とは、また違う』
「昔は物というのは長い年月大切に使えば使うほど、そこに魂を宿して妖怪に変化するなんて言われていたの。詳しく言えば百日使えばそれにはもう完全に魂が宿っているとされていたのね」
「へぇ」
本当だったらぞっとしない話だった。百日なんて長いようで簡単に過ぎていく日にちだ。舞は自分の周りがあちこち妖怪になった物ばかりで埋まっている光景を想像して、体を僅かに震わせた。チープはそんな舞の様子をしっかりと確認していたようである。
「やっぱり、恐いよね。勿論、昔の人間だって恐かったの。だから人間は百日使った物が妖怪になってしまわないように使い始めてから九十九日目にはそれを捨てるようにしていたの」
チープは淡々と語る。その表情は暗くなりだした空の色に隠れて上手く見取ることができなかった。
「人間はそれで満足したわ。でもね捨てられた物たちにとっては大変なことだったの。あと少しで完全な妖怪になれたのにあと一歩のところでそうはなれなかったのだから」
舞は意識せずとも規則正しく並べられた『商品』の列に視線を向けてしまう。物言わずそこに陳列されている品々が今夜にも夜の町を徘徊する光景を、舞は想像した。彼らはただ夜道を彷徨い中途半端な状態のまま自分たちを見捨てた人間に恨み言を吐いて回るのだ。
ふと舞は久美のことを思い出した。彼女の買ったクマのキーホルダーが今にも久美の背後に迫って歩く姿が頭に浮かんだ。
「やっぱり九十九神は人間のことを恨んでるの?」
思わず舞は尋ねてしまった。それを聞いたチープが「え?」と驚いたような声を上げた。舞はそんな彼女の様子に構わずまくしたてた。
「自分たちを捨てた人間を今でも恨んでて。それで襲ったりなんかするの? だったらどうしてチープはそんな物を他の人に売ったり、押し付けるようなことをするの?」
チープは「脅かしちゃったかしら……」と苦笑した。そして、
「大丈夫よ」
と言った。
「へ?」
「ごめんなさい。そんな恐い話に聞こえてしまったのかしら。私って説明が下手なのかもしれないわね」
『単に、その娘が、臆病な、だけだ』
「そういう言い方は失礼よからすけ。舞ちゃん、ごめんなさい。私って商売の話をすることって滅多にないものだから変な言い方をしてしまったのね。安心して。九十九神が人間を襲うとか、そういう話は聞いたことないわ。せいぜいがちょっとイタズラを起こすぐらいのことよ」
「えっと」舞はなんだか気恥ずかしいものを感じた。「そうなの?」
チープは怯えきった態度になった舞をおかしいと笑うでもなくからかうでもなく、ただいつもの笑顔のままで頷いた。
「ええ。むしろ九十九神は人間が好きなんだと思うわ。妖怪にはなれなかったけれど……ああこの表現がいけなかったのかな、とにかく半妖怪のままでも九十九神は人間に使ってもらいたいと今でも思っているのよ。しっかりと使い尽くしてもらえなかったことへの未練が彼らを動かせるけれど、決してそれは恨み辛みにはならないわ」
「そう、なんだ」
今でも彼らは人間と一緒に暮らしたがっている、とチープは舞に諭した。
「だからね。私は彼らのそんな願いを叶えるために手伝いをするの。まだ使ってもらいたい。そんな思いを抱えた九十九神を集めてそして人々に売って、それが出来れば私は満足だわ」
「九十九神はどうやって集めているの?」
「商売をしながら旅していると自然にあっちから集まってくるの。きっと訪れた土地の九十九神が『商品』の気配に釣られてやってくるのね」
『俺たちは、ただそいつらに、居場所を、与えて、やるだけ、だ』
からすけが最後にそう締めくくって、今日の舞とチープたちの談話は終了した。
明日は友達と来るね、と舞が言うとチープは、
「それではお待ちしているわね」
と柔らかく手を振って送り出してくれた。長い時間腰を預けていた椅子から立ち上がる。かたん、と椅子は揺れて舞のほうを向きながら右へ左へと腰掛の部分を揺らした。舞はチープとからすけとその椅子にさよならを言いながら並び揃えられた商品の列を渡った。どれもが舞になんらかの言葉を投げかけてくれているように舞は思った。
不思議とこの二日間、そしてここに来てから感じていた不安や恐怖というものはどこかへ吹き飛ばされているのが、舞にははっきりと自覚できるのだった。
舞が去ってからの空き地。周囲の家々と同じくそこも夜中という時間帯の支配下に置かれ、光という光が隅に追いやられていた。満月が近づくにつれて強さを増す月光が、ぼぅ、と浮かんでいるほかは明かりといえるものは何もない。
真っ暗闇の中で、チップ・チープは明かりの一つも灯すことなく壊れたレコードプレイヤーと会話をしていた。
『チープ、商売に、支障をきたすような、真似をする、なよ』
厳しい口調の、それでも音飛びだけは免れない、からすけの声が響く。光のない空間では、それは届けられるべき対象を見失い延々と広がる闇の奥に吸い込まれていくようだった。
「分っているわ。それほど問題になるようなことはしていないでしょう?」
チープは変らず落ち着いた口調で話す。からすけはふん、と鼻を鳴らす音を立てた。それは怒っているというよりは親しい友人の揚げ足をとるような行動であった。
『そうかも、しれんがな。第一、この町に来た、商売以外の目的が、それだ。だが、早く全てを、済ませるのが良いと、思うぞ。お前は、次の満月まで、などと悠長に構えている、がな。わかっているだろう? 厄介な、九十九神が、いる』
「もちろん、わかってるわ。大丈夫よ、ちゃんとするから。からすけは大人しく見ていて欲しいの。一昨日だっていきなり舞ちゃんの前で話しだすんだから……」
『お前が、じれったく、しているから、だ』
「それでもそのせいで舞ちゃんはここに来なくなっちゃったのよ」
『結局は来た、だろう。結果オーライ、というやつだ』
「まったくあなたって子は」
チープは嘆息した。やれやれと言わんばかりに首を振ったような気配があった。そんな彼女を無視してからすけは、
『とにかく、俺たちは、あの九十九神も招かないと、いけない。忘れるなよ』
「ええ。でもあれはちょっと」
難儀よね、というチープの呟きを最後に、空き地は夜の静寂に放り込まれた。
○
「あ、コレってあたしの弟のやつ」
「え、どれどれ?」
舞は昨日の約束通り久美と共にチープの古物市にやってきていた。
普段は遊びに来た子供しかいない空き地も、舞の予想以上のお客さんが集まってきていていつになく賑やかな様子であった。その喧騒の中で九十九神たちはじっと動かず待っている。彼らにとって新しい持ち主との出会いはすぐそこまで迫ってきているかもしれないのだ。
品物の配置はそれらの使用目的に沿って大まかな分類分けがなされていた。舞と久美はヌイグルミや玩具などが揃えられた列を歩いた。そうして色々な小物を眺めて回るうち舞たちは列の端まで到達し、そこで久美が一つのサッカーボールを見つけたのだった。
「多分、あたしの弟のボールだと思う。あいつったら空き地でなくしたとか言って騒いでたから」
ボールを持ち上げてしげしげと見ながら久美は言う。それが彼女の弟の物なのか自身が持てなくて困っているようだった。それにここは古物市なのである。例えそれが久美の弟のボールなのだとしても、落し物として拾われた時点で売り物にされている可能性がないとも限らないのだ。
(でもチープたちが売るのは九十九神のみんなだけだから売ったりはしないのかな)
舞はそうも考えたが久美がそれを知るわけがなく、また舞が教えるわけにいくまい。それに久美の弟のサッカーボールが既に九十九神と化している可能性もゼロとは言い切れない。そうであったらチープは売り物にしてしまっているのかも知れない。
「売り物だったら買うしかないわよねー」久美が悩みながら言った。「でもあのバカな弟のためにあたしのお小遣いを使うのも癪なのよね」
「でもここの物は安いって言ってたじゃない。それだったら買ってあげたっていいでしょ? それかチープに相談してみたら?」
舞が何気なくその名前を口にすると久美は首をかしげた。
「チープ? 誰?」
どうもチープはやたらと他人に名乗っているわけではないらしかった。
「ええと……あのお店の女の人のことみたい。擦れ違った人が話してた」
舞は咄嗟にチープの名前を間接的に知ったような言い方をした。チープやからすけたちと共に過ごした時間を秘密にしておこうと思ったからだった。チープはからすけや『商品』の存在はもちろんのこと、自分のこともあまり喋りたがってはいないようだ。舞がこの古物市の空間に長くいるほど、そんな印象が強まっていくのだった。だったら何故か舞とは積極的に話してくれた彼女たちのことも今は知らないふりをしておいた方が正解かもしれない。
舞の思惑をよそに久美はふうん、と頷いた。
「そうなんだ。じゃあそのチープさんに相談しに行こうかな。これはあたしの弟のですって。ゴメンね、舞。ちょっと待ってて」
久美はそう言ってチープのところへ駆けて行った。チープはあるおばちゃんと談話しているところだった。
『そう、か。持ち主が、現れた、か』
「からすけ!」
舞が一人になった途端、音飛びする若い男の声が聞こえた。こんな公衆の面前で声を出していいのかと舞は面食らってしまう。
『よくは、ない、だろうな。だから、不自然、にならんよう、辺りに気を、使え』
なかなか無茶をいうなあこのカラスのお化けも、と半ば呆れつつ舞は列の端からも大分離れたレコードプレイヤーの隣りに腰を下ろす。
「なんでチープはからすけが話すのを嫌がるのかな」
なんとなく浮かんだことをそのまま呟くと、からすけは人を見下すようなことを言う。
『本気で、そう思っているなら、お前もとんだ、阿呆だ』
さすがに舞もムカッと来たがそれでも反論の言葉も思いつかずに黙った。
『考えても、見ろ。もし、俺たちが、売っているのが、九十九神だと、妖怪だと、公表すれば、どうなる?』
「それは、凄い騒ぎになるんじゃないかな」
『その通り、だ。良くない噂が、たっては、誰も品物を、買いに来なく、なる、だろう。それは俺が、カラスの妖怪と、知れたところで同じ、だ。チープは、商売を、続けたい。九十九神の、ためにな。だからこそ、俺が一言、言葉を吐くのにも、気を使う』
舞はチープに初めて会った日を思い出した。その夜もチープはからすけのことを隠そうとしていたし、からすけが話し出しただけで慌てた様子を見せていた。それは彼女の柔らかい笑顔を崩してしまうほどの事態であったのである。
「だからチープはからすけを怒ったんだね。私がチープはなにか怪しい人だ、なんて噂を流したらお客さんが寄り付かなくなっちゃうから」
舞の言葉にからすけは少し考えるような時間を置いた。
『……いや、それは、あいつがお前に』
「舞―」
久美の元気な声が突如として響く。なにごとかを言いかけたからすけがぴたりと黙った。舞は腰を上げると嬉しそうな顔をした幼馴染みをむかえた。
「いやーあの人、チープさん? 優しい人ねー。これあたしの弟のかもって言ったら良かったどうぞ持っていってだってさ。しかもなんでかこのウェストポーチをタダでくれたのよ。タダ! なんだか素敵な響き」
「ご機嫌だね久美」
舞は相槌を打ちながら一瞬だけからすけを見やった。なにを言おうとしたのかすこしだけ気にかかった。
「それで、舞。なんのお人形さんを買うのかな?」
「え?」
急に話題を振られ舞は焦った。
「買うんでしょうヌイグルミ。何にするか結局決めたの?」
「あ、いいの。私、今日は何も買わないでおく」
商品の並んだ列を背後に舞は答えた。久美はあからさまに不信そうな表情で舞を見た。舞はそれをなんとか誤魔化しながら、
「じゃあ、もう帰ろうか」
と言った。これだけ主人に会えていない九十九神がいるのに、そこから一つや二つだけを選ぶということが舞にはどうしてもできないのだった。
ひたすら不思議がる久美を連れて舞は空き地を出る。最後に空き地と道路の境で勘定を上げるチープと、目があった。今度また会いに来ます、とそれだけ込めた視線を向けるとチープはどうぞとでもいうような笑みを舞に見せた。
それは舞がチープの古物市を去って、家に帰る途中。久美と交わした会話の一部である。
「お化け屋敷?」
久美が唐突に切り出したその単語に舞は目を丸くした。久美は冗談で言っているのかそれとも本気で言っているのか、楽しそうな顔で語る。
「そうそう。最近出るらしいよ」
舞はどうしてもチープやからすけ、そして九十九神の面々を想像してしまう。久美のいう最近がどれほどの日数を指しているのかわからないけれど、お化けや妖怪と聞いて舞が思いつくのは彼女らをおいて他になかった。
「三丁目の誰も住んでないような家にさ二、三日前からさ出るようになったんだって。舞の家から近くでしょ?」
確かにそういう家はある。舞がその家を知ったときにはもうそこには誰も住んでいなかったという、そういう建物だった。それにしても二、三日前となるとチープたちがやって来たのとちょうどよく重なる。
チープたちは野宿だと言っていたけれど、誰も住んでいない屋根のある家を見つけてそこを借りているとも限らなかった。春も半ばのこの季節ではやはり夜になると冷える。チープが暖かい家屋を求めなかったとは言い切れない。もしそうだとして、商品の皆が動き回っている様子などを誰かに見られようものならそれは噂になるだろう。からすけの言っていた良くない噂である。
「ちょっと舞ー。聞いてる?」
「あ、うん聞いてるよ。あれ? あそこって前からお化け屋敷だなんだって言われてた所だけど」
それに実際に『見た』という話は舞も初めて聞く。今ごろになってそんな噂が囁かれるということがまた舞の疑惑を深めた。
「そう最近になって急に噂になってきたの。誰もいないはずの家の窓からゆらりと揺れるヒトダマ。聞こえるはずのない何者かが動き回る音。そういうのを何人も目撃したり聞いてるんだってさ。ウチのクラスのだって目撃者がいるのよ。お母さんが言ってた情報だけど」
「情報通だよね久美のお母さんって」
「くはぁ……なんか適当な答えー。もっとこう、なにか騒いだり驚いたりみたいな反応はないの? 季節外れの肝試しがすぐそこまで迫っているのよ!」
「……それやる気?」
ぐ、と拳を固めて語る久美に舞はさすがに冷えた視線を送る。
久美は「あったりまえよ」と元気に答えた。そのまま舞とは別の道へ歩を進める。
「それじゃ、また明日ね舞」
「うん。また明日」
肝試しはやるわよー、と遠ざかる久美の声が聞こえた。本気らしかった。
お化け屋敷の幽霊。
チープにはまた明日、部活の帰りにでも尋ねようと舞は考えた。空を見上げると、暗くなったわけでもないのにうっすらと覗く月が見えた。完全な丸まであと一歩まで迫った白い形が蒼い空に浮かぶ。
明日は満月のようだった。
舞は次にチープたちと話すその夜のことを考えながらその日は床についた。
夢を見ていた。
その夢の中では、舞はまだ小学校にもあがっていないような子供だった。否、舞が幼くなったのではない。そんな幼いというよりはあどけない時代の自分がいて、それをどこか別の視点で舞は見ているのだ。
これは夢だ、とひどく自覚的に舞は思った。けれどそれで目を醒ますようなことはない。
夢の中の小さな舞は、たどたどしい歩みで暗闇の中をゆく。現在の、中学生の舞は彼女のあとを追いながら、どこを目指すのかと考える。その答えはすぐに出た。
誰かが舞を呼んでいる。
声が聞こえたわけではなかった。けれど誰かが自分を呼んでいるのだという感触が伝わってくる。それは小さな舞も同じようであった。誘われるようにして幼い頃の自分は夢の世界を進んでいく。
それは笑顔の素敵な彼女の呼び声か。それとも彼女の側にいるカラスの化身の呼び声か。それとも……
舞は暗闇の奥へ奥へと誘われるがままに歩くのだった。
やがて舞は歩くのを止めた。自分を呼ぶ声も止んだ。
三丁目の、お化け屋敷。
それが彼女を誘っていた。
中学生の、夢を見ている舞はその屋敷の中に『彼女』がいるような気がした。一方、幼い昔の舞もまた何か思うところのあるような複雑な表情をしていた。
恐れているようで、戸惑っているようで、悲んでいるような表情をしていた。
奇妙なことに舞もかつては目の前に佇んでいる女の子であったはずなのに、その表情の現すものが何であるのかどうしてもわからないのであった。幼い頃に自分が抱いていた何かを、今の舞はとうに失っていた。
小さな舞はその理解不能の表情を浮かべたまま呆けたように立ち尽くす。眼前にはお化け屋敷がある。舞を迎え入れるかのように玄関が開いている。
幼い舞はずっとそこで立ち止まったままだった。それを眺める舞もなんの行動も起こさないままで、やがて舞は目を醒ました。
翌朝、舞は普段よりも早い時間に家を出た。小走りにチープたちの空き地を目指す。変な夢を見た。だが、それよりもまずはチープたちだった。彼女たちこそお化け屋敷の幽霊であるのかもしれなかった。
チープは空き地にいた。
「あら、舞ちゃん。おはよう。今日は早いのね」
「おはようチープ」
何となく胸を撫で下ろしながら舞は挨拶を返した。考えてもみれば昨日の朝方も舞はこの空き地でチープと挨拶を交わしたのだ。彼女が例のお化け屋敷に居を構えているはずもなかった。もしそうであるなら商売の時間でもないこんな早くからチープが空き地にいるというのは不自然だった。
「どうしたの舞ちゃん。今日は朝早くから部活?」
「ううん。そういうわけでもないんだ」
舞が首を横に振るとチープはすこし驚いた様子だった。もっとも朝の部活はないけれどそれを言い訳に家を出てきたのは事実である。
「部活もないのに今日は随分と早起きなのね」
『早起き。それは、それで、良いこと、だな。三文の得、だ』
からすけが堂々と喋られるくらいにね、とチープは笑う。舞は自分がくだらない心配を抱いていたことが途端に恥ずかしくなってきた。チープがどれだけ商売を続けてきたのかは知らないけれど、それは長いこと続けてきたのだろう。舞がいちいち気を使わなくても彼女らが商売を台無しにするような失敗を犯すわけがなかったのだ。
ただ折角早朝から顔を出したのだから、舞はチープと話をしてから学校に行くことにした。
「さあ、どうぞ」
とチープはいつもの椅子の九十九神を舞に勧めて自分はからすけの隣りの地べたに座り込んだ。舞の頭に疑問符が浮かぶ。
「あら?」チープが舞の視線に気付いたようだった。「私は地面でも平気よ。だから遠慮はしないで。もう一脚いた椅子はちょうど昨日買ってもらえたのよ」
「そうなんだ」
舞は自分が腰掛けた椅子を見た。自分だけが残されてこの椅子もどんな気持ちなのだろう。
「そのコだけが残っているわけではないわ。他にもそこにたくさんいるでしょう? でもね、今はこの町では売れ残っているコでもいつかどこかで必ず買ってもらえるの。ずっとこの百鬼夜行に留まっている九十九神なんていないわ。必ず新しい持ち主に出会えるもの。だから大丈夫よ」
『俺は、ずっと、ここに、いるがな』
からすけが冗談めかして言うとチープも「あなたは売れ物になれないほどボロボロだからね」とからかう。そんな会話を三人でしばらく交わした。
「ねえチープ? 三丁目のお化け屋敷って知ってる?」
どれほど時間が経ったか、舞がそう切り出した。人の姿もちらほらと現れ始めてからすけは既に沈黙していた。舞もそろそろ学校にいかなければという時間帯になったので、最後に聞いておこうと思ったのだ。
「三丁目? 三丁目というのはあちらの方角かしら」
「うん。そうだよ。私の家もあっちの方だけどね」
「知ってるわよ」
頷くチープの顔はなんだか緊張しているとようなそういう表情を貼り付けていた。舞がチープに会った日の「もう一人の声」の話題になったときに近い顔だった。
「舞ちゃん。そのお化け屋敷が、どうかしたの?」
チープは言葉の一つ一つを噛み締めているような言い方だった。舞は困惑するのを隠せないまま「ええと」と口篭る。
「幽霊を見た、とか聞いてそれって九十九神、チープたちなのかなって思っただけなんだけれど。なにか悪いこと聞いちゃった?」
「そんなことはないわよ」
チープはほっとしたようだった。またいつもの笑顔を取り戻していた。
「じつはね、舞ちゃんの思ったとおりそのお化け屋敷は……」
「九十九神がいるの?」
舞はチープの言葉を遮るようにして言った。ええ、とチープは頷く。
「それでね、舞ちゃん。今日は私はそのお化け屋敷に行こうと思っていたの」
「その九十九神を連れて行ってあげるためだね」
舞はがっくり肩を落とした。だとしたら今日は帰りにチープたちと話をすることができないのだ。
「じゃあ明日の帰りにここに来るね」
「そのことだけど。私たちは今晩にでもここを発とうと思っているわ」
どきり、と心臓が硬直した。突然の話に舞は一瞬だけ頭が真っ白になる。チープのいたって真面目な表情が舞を現実に引き戻す。
「いつも同じ場所に滞在するのは二、三日くらいなのよ。それで今日で商売も最後にして私たちはこの町を離れるわ。最後にお化け屋敷に脚を運んでから、だけど」
「そ、そんな急に」舌がもつれる。それでも何か言わなくてはと、舞は思った。「もっと、ここにいたって……」
「そうはいかないの。商品の皆のためにもね。けれどね舞ちゃん」
チープは舞の眼をしっかりと見据えた。
「私は最後に舞ちゃんと話をしたいことがあるの」
「はな、し?」
「ええ。だから舞ちゃん。今日の夜、この空き地で待っていてはくれないかしら。もちろん、一度お家へ帰ってからというのでも構わないのだけれど。私はいくらでも待つわ。けれどその前に私はお化け屋敷の方へいかなければならないから」
だから待っていてくれないかしら、とチープは言った。舞はチープがここを離れるという突然の事態とどんな話をしたいのかという疑問に挟まれる。空き地の向かいの道。おしゃべりをしながら登校する学生がいる。彼らのざわめきもどこか遠くに流れてしまったようだった。
やっとのことで舞は声を絞り出した。
「お化け屋敷、私も一緒に連れて行って。チープが九十九神を誘うところ、見せて」
それは少しでも彼女といようとする、最後のあがきだった。いつの間にかチープという人間にここまで惹かれていたことに、舞は自分で驚いた。
チープは首を横に振った。
「ごめんね。舞ちゃんはここで待っていて欲しいの」
私は必ず来るから、というチープの言葉を最後に聞いて舞は空き地を出た。
学校へ到着するまでの間。舞はざらついて荒れた路面ばかりに視線を落としていた。
○
合唱部を終えた舞が空き地へ行くと、チープの姿は既にそこにはなかった。見当たらないのはチープとからすけだけで商品のみんなはまだ空き地に残っていた。ここを離れる準備だけは済ませておいたのか商品は昨日までの配置から変っていて、舞が初めてチープに会ったときの山のような状態になっていた。
舞がやってきたことに気付いたのかいつもの椅子の九十九神が一歩分、進み出た。どうやら座って待っていろということらしい。舞はおとなしく椅子に腰掛けた。
「チープはもうお化け屋敷にいったんだね」
誰にでもなくそう言うと舞の腰掛ける椅子が頷くようにかたん、と揺れた。
お化け屋敷にいる九十九神というのはどんな物の姿をしているのだろう。そしてその九十九神はいつからお化け屋敷と呼ばれる建物のなかにいたのだろう。舞の物心ついたときにはお化け屋敷はお化け屋敷で、最初から誰も住んでいない廃墟としてそこに存在していた。そんな中で件の九十九神はどれだけの時間を新しい持ち主がやってくるのを待って過ごしていたのだろうか。
そんな風に考えるうちに舞は今朝みた夢を思い出すのだった。自分を呼ぶように唸るお化け屋敷。そこには舞がかつてなくしたものがあるはずだった。舞を迎えるように開け放された扉の向うには舞にとって大切な何かが封印されているような気がした。或いは、それはチープがその屋敷の中に入っていったからこそ抱いた感想なのかもしれなかった。
チープはお化け屋敷にいるのだ。
そう考えると何故か舞はいてもたってもいられなくなる。彼女は今晩で舞の許から離れていってしまう。それはこれまで経験したことのない感覚として舞の心を蝕むのだ。
(違う……私、いつか昔にもこんな気持ちになったんだ……)
ぼんやりと、そんな考えが浮かんだ。開け放されたお化け屋敷の入口。その奥にには舞のかつて失ったものがある。
「やっぱり……やっぱり私、チープのところに行こう。お化け屋敷に」
そう呟いて舞は立ち上がる。椅子が慌てた様子を見せた。おとなしく座っているようにと舞を促す。
「ごめんね。チープに会いたいんだ」
舞はお化け屋敷に向けて走り出した。
春も半ばになってきて空が完全に黒に染まるまでの時間は、確実に長くなっていた。今は午後六時を少しまわった程度の時間であるはずだったが、それでもまだ多少の明るさが空には残っていた。満月を拝めるまでにはまだ時間がありそうであった。
舞は夢の通り誘われるような面持ちでお化け屋敷までやって来ていた。最初は小走りで道を進んでいたはずなのに今は非常にゆったりとした散歩でも楽しんでいるような歩調である。
お化け屋敷に到着する。玄関は、開きっぱなしだった。
ここにチープがいるんだ。だらしなく開いた扉から冷気のような白い靄が立ち込めるような気がした。もちろん、気のせいだ。そんなに冷えるわけがない。
ごくり、と緊張しながら唾を飲み込んだ。どうしてこんなに身構えてしまうのか自分でもよくわからない。この先で繰り広げられているチープと九十九神との対話への感心と来るなと言われたのにそれを破った背徳が、自然と舞の心を岩石のように固めていく。
舞は踏みしめるように一歩を乗り出して、お化け屋敷の中にすべりこんで行った。
空いた窓からから外の明かりが入ってくるとはいえ、家の中は相当な暗さであった。まるでこの空間だけが外界から隔離されて真夜中に放り込まれかのようである。手入れなど数十年もされていないような雰囲気であったので靴を履いたままで舞は床に上がった。
ギィ……と腐った木の床が不吉な音を立てた。まるで耳元で床が軋んでいるような印象を受ける。チープはどこにいるのだろう。
お化け屋敷は屋敷とはいってもそう広い建物であるわけではない。目と鼻の先のような距離のところにチープとからすけと、この屋敷の『お化け』がいるはずであった。
ギィ、ギィ……
いつ床が抜けてもおかしくなさそうだ。舞は慎重に足を運ばせながら居間から台所に至るまで、一階も二階も隈なく探索した。
チープもからすけも、どこにも見当らなかった。
いくら探してもどれだけ目を凝らそうとも、長身の女性のシルエットも壊れたレコードプレイヤーの形も見つけられない。いくら頼りとなる光が少ないとはいっても全く姿を捉えられないのは妙な話である。そしてこの屋敷にいるはずの九十九神も、それらしき物はどこにもなかった。ひとりでに動く人形とか、勝手に点いたりするテレビとかは全くないのだ。それどころか屋敷内にはそういった生活感を思わせるようなものは何一つない。前の持ち主がいなくなったときには何もかもが片付けられていたのではないか。そんな風に舞は思った。
チープたちはどうもここに巣食っていた九十九神を誘い終えてしまったらしい。
舞はそう結論せざるを得なかった。この場所にはあまりにも何も無い。こんな所にチープがいるわけがなかった。どうやら舞がここまで来る間にチープたちとはすれ違ってしまったようだった。
ふと気付けば、外の闇の色は相当に濃くなっていたらしい。眼が慣れてそんな気もしていなかったのだが、屋敷内はもうほとんど光のない状態であった。舞は諦めてここを出ることにした。チープとすれ違いになったなら彼女は空き地にいてくれるはずだ。だがもしかしたらいつまでたっても現れない舞に痺れを切らしこの町を離れてしまうかも知れないのだ。ぐずぐずしてる暇などなかった。
二階から舞は急いで階段を下る。足元がおぼつかないばかりか急な階段でもあったので危うく踏み外しそうになったのを何とかこらえる。
ギギィ……ギッギィィ
乱暴に走る度に床が崩れ落ちそうな音を奏でるが、そんなもの、舞は耳が慣れきってしまっていた。さほど気に止めることもなく一直線に玄関を目指す。何故か開いているはずの玄関はしっかりと閉じていた。
おかしいな、と思いながらも舞がその玄関に手を伸ばす。その手がドアノブに触れることはなかった。
とん、とんとんとんとん……
不意に、ゴムボールが弾んだような音が響いた。舞は思わず後ろを振り返る。
音がしたのは小さな部屋のある方からだった。この屋敷で唯一の畳張りの部屋。そこから確かに音が聞こえた。この屋敷の中に、あんな音をたてるような物は、ひとつとてないはずだった。
ギィィィィィィ…………
いやに間延びして床が軋んだ。舞は一歩一歩を慎重に、暗闇を警戒していた先程までとは違った慎重さで、畳部屋を目指す。すぐ近くだ。昼であれば玄関からも覗けそうな位置にその部屋はある。懐中電灯でも持って来れば良かったと舞は後悔した。だが今となってはどうしようもないことであった。
すぐに部屋には辿り着いた。畳の張られた六畳ほどの面積の床を見る。何も、なかった。ゴムボールなどの類は一向に見られない。あるのは積もりに積もった誇りだけである。
一体、なんの音だったの?
舞は息の詰まる思いで部屋に踏み入った。靴の上からでは畳のざらついた感触もなかった。
何もないじゃない。
舞がそう安心して部屋を後にしようとしたその瞬間。床ががばりと大きな『口』を広げた。光のない部屋の中でさらにいっそう深い暗さを湛えた闇がぽっかりと開いた。当然、舞がそれに反応できるはずもなく……
舞は、喰われた。
誰かの泣いているような声を聞いて、舞は目を醒ました。
実際に眠っていたわけではなかい。一瞬だけ気を失ってしまっていたようだった。凄い勢いで落っこちたのは確実なのに、どこかを強くぶつけたということはなかった。少なくとも舞はへいちゃらだった。
「舞ちゃん!?」
「……チープ?」
声がした方を見ればチープがいる。頭に被った皮の帽子からは柔らかそうな髪が腰の位置まで溢れている。粗末な作りの服に身を包んだ背の高いシルエットは正しくチープのものだった。側にはあちこちが破損したレコードプレーヤーのからすけもいる。
夜よりも暗い闇の中へ落ちたと思ったのに、どうしてかチープたちの姿ははっきりと視認できる。けれど周囲はどこが果てなのか一向に判断のつかない真っ暗闇が広がるばかりであった。ここはどこなのだろう?
「ここは、九十九神の内部とでも言うべき場所よ」
もしかしたら勝手にやって来たことをチープは怒るかもと思っていたが、チープは普段と変らない優しい口調だった。ほっと安心しながら舞はチープとからすけのもとへ駆け寄った。
「九十九神の中? 一体どんな九十九神なの?」
『お前らの言う、お化け屋敷、そのものだ』
答えたのはからすけだった。舞はからすけの言ったことが即座には理解できなかった。それを見越してかチープがわかりやすく説明する。
「このお化け屋敷、つまり建物自体が大きなひとつの九十九神なのよ。ここは『この子』の心の中みたいなところかしらね。実際に建物の地下にこういう空間があるわけではないわ。どうも私に会って興奮してしまっているみたい。それで建物に入った舞ちゃんも取り込んでしまったのね」
後半はあまりよくわからなかったが、それでも近所を騒がしていたお化け屋敷の正体、それがお化け屋敷そのものだったということはわかった。そして舞がこんな場所に落ちてきてしまったのは自業自得の結果であるらしいということも。
舞がとにかく何か弁解しようと口を開いたそのとき……
オオオオォオオォオォオォォ オオウオウオウオォォォォォ
泣き声が空間全体を埋め尽くした。まるで孤独なオオカミが群れを探して吼えるようなそんな泣き声が、びりびりと舞やチープを揺さぶる。これは『お化け屋敷』が泣いているのだ。直感的に舞がそう思った。
『人間を、招いたくらいで喜ぶのなら、おとなしく商売に、加わればいい、ものを』
毒づくようにからすけが言う。チープが声を張り上げた。
「さあ! 私と一緒に行きましょう。私があなたに新しい持ち主との出会いを提供するわ」
――黙れ。どうしてこのような図体をしていて貴様らの列に加わることができよう。
野太い声が暗闇中に響いた。遠吠えのような泣き声がすすり泣くような静かなものに変わる。これがこのお化け屋敷の声であるらしい。舞の知る限り言葉を話す九十九神はいなかったが、それはここが『お化け屋敷の心の中』であることに関係があるのかもしれない。
――おれは此処から動くこともままならぬ身。土地神にも縛られておる。いくら貴様がおれを迎えようが、おれが此処を離れるなど土台無理な話なのだ。
深淵の向こうからお化け屋敷は怒鳴った。その声の奥にはやはり悲しみの色が読み取れた。この屋敷がどれだけ放置され続けてきたか、ずっと同じ土地に住んできた舞も知らない。永遠に近い時間を孤独に過ごしてきた『彼』からすれば今更希望を指し示されても困惑するだけのようだ。
『土地神となら、もう話は、済んでいる。あとはお前が俺たちと、来るかどうか、その覚悟をするだけ、だ』
「さすがに建物の姿のままで移動するわけにはいかないわ。だからあなたは一度、それぞれの木材に解体してもらって、それで移動しましょう。めぼしい土地のある町についたら、そこの土地神さまと話し合ってあなたを置いてもらえるわ。そこで私はあなたの新しい持ち主を探してあげる」
からすけとチープは必死の説得にかかっていた。しかしそれでも尚、お化け屋敷は頑なにこの土地を動こうとしないのだった。
「どうして? どうしてチープたちと一緒に行かないの?」
舞はたまらずそう叫んだ。暗闇に舞のか細く高い声が浸透する。話し相手の姿はまったく見えないから、舞はどこを向けば良いのかわからない。
「チープはこれまでずっと商売を続けてきたんだよ。この町でだって九十九神のみんなを売って、新しい持ち主に合わせてあげてきたのに。どうしてチープやからすけに頼ろうとしないの? まるで、最初からチープを信用していないみたいだよ」
暫くの沈黙があった。お化け屋敷も、からすけも、そしてチープも、全員が口を閉ざして喋らなかった。舞自身がたった今言った通りチープはこれまでもずっと商売を続けてきたのだ。だからきっとチープはこんなこと慣れているのだろう。誘った九十九神に拒絶することなど何度も何度も経験してきたのだろう。チープもからすけもとても落ち着いている。それが場慣れしている者だけが持ちうる態度、姿勢であるのが舞にはわかった。
だから舞がでしゃばって話すことなど、チープたちにとっては迷惑でしかないのかも知れない。それでも舞は口を動かす。一昨日にチープが語ってくれた商売の目的。九十九神のもう一度人間に使われたいという願いを叶えるのは、本当に優しくて素晴らしい理由だと思ったから。何よりチープが、心から尽くそうとしているのが舞には伝わってきたから。
「本気なんだよ。チープは本気であなたに新しい持ち主を探してあげようとしているのに。どうして信用してくれないの? あなただって誰かにもう一度住んでもらいたいって思っているはずなのに。それだからチープをここに呼んだんじゃないの?」
そう。チープをこの家に招いたのは他ならぬお化け屋敷自身であるはずなのだ。でなければチープが来てから突然にお化け屋敷の噂が広がるはずがない。あれはお化け屋敷のチープたちへの精一杯の自己アピールだったのだ。
先に言葉を放とうとしたのはチープだった。同時にからすけも何かを言いかけたようだったがすぐに黙った。だがそんなチープの言葉も即座に遮られる。
「舞ちゃん。それはね……」
――その女もまた 九十九神 だからだ。
「え?」
今度は舞が言葉を失う番であった。
今、何て言った? 誰が、九十九神だって? からすけ……では、ない。からすけの出自を舞はすでにチープから聞いている。からすけと、チープから聞いたのだ。チープから。チープ。チープが……
「つくも、がみ?」
「ええ。私もまた、九十九神。本当は今日、最後に話すつもりだったんだけどね」
チープが微笑んだ。その微笑みは、この三日の間、一貫して変らなかった、あの柔らかな笑顔のままだった。
――貴様らが建物の中に踏み入って、はじめて気付いた。女、貴様もまた九十九神だ。だからこそ、貴様のやっていることはどこかで信用がおけないのだ。九十九神は誰かにもう一度使われたがっている、というのが貴様の考えなのだろう? ならば九十九神である貴様自身が『そう』思っているはずではないのか? それで何故、他の九十九神の持ち主を探してやるようなことをするのだ!
責めたてるようなお化け屋敷の声が響いた。それは最早、怒号と呼んでも差し支えないほど大きな雄叫びだった。
舞は石のように黙りこくる。からすけもまた自分の出番の必要なさを感じているのか、不気味なくらい沈黙を守っていた。やがてチープは言った。
「私は……他の九十九神とは異なるのかもしれないわね」
――なに?
「捨てられた、のよ。私は小さな人形でね。それは大切に使ってもらっていたわ。持ち主はまだ幼い女の子だった。彼女は私のことを友達、だなんて呼んでくれた」
澱みなくチープは語る。舞は不意に頭に込み上げてくるものを感じた。思い出すのは今朝に見た、夢。
「とても元気な女の子でね。昔から歌を唄うのが大好きな子だった。よく私に歌を聞かせてくれたものだったわ」
舞は頭を抱える。夢。お化け屋敷の前に佇む幼い自分。何年も前の舞はそのあどけない顔に深い悲しみの色を浮かべていた。
『幼い頃に自分が抱いていた何かを、今の舞はとうに失っていた』
「ただ何年も女の子の側にいる内に、私は布地も縫いつけも擦り切れて綻んで、やがて捨てられたの。女の子のお母さんに、よ。捨てられる前からもう捨ててしまえって注意されてたのよ。いい加減手放そうとしないものだから、お母さんが女の子の寝ている内にそっと私だけを連れ出した。そのまま気付けば私はゴミ処理場にいた。あの頃ね。私とからすけがあったのは。ねえ?」
『ああ、そうだ、な。ひとりで動く奇妙な、人形、だった』
失礼ね、とチープは笑った。それは、はじめて会ったときから舞がチープに親しみを感じてたその表情。柔らかな笑顔。それは、かつて舞の『ともだち』だった存在の――
『お前は、言った、な。寂しい、と。そして、会いたい、とも、言った。会って、伝えたいことがある、とな』
「私はやっぱり他の九十九神とは違うわ。私にとって新しい持ち主なんてどうでも良かった。それは言い過ぎかもしれないけれど、やっぱり二の次ではあったのよ。誰か別の持ち主の下で新しくやり直すことよりも、もっと大事なことがあった。『今まで大切に使ってくれてありがとう』て、一言お礼をいいたかった」
「ちー……」
彼女の名前を呼ぶことは叶わなかった。舞の喉はからからに渇いていた。
――貴様は。
やがてお化け屋敷が重厚な声をあげる。
――貴様はだから商売などをして全国を周っているのか。全国を巡り、その昔の持ち主を探し続けているわけだな。
「勘違いは、しないでね。私だって商売をないがしろに考えているわけではないわ。私も持ち主のいない九十九神の寂しさは知っている。だから私は彼らに新しい持ち主との出会いを提供し続けてきたのよ。それは私のこの旅で重要な目的のひとつだわ。決して『彼女』に会うことの、二の次ということではないわ。どちらも私にとって大切な道標なの。
さあ、お化け屋敷さん。これで私への不信を解いてもらえないかしら。九十九神である私が自分が新しく持ち主に出会うチャンスをどうしてわざわざ犠牲にするのか。そうやって深読みして私を信用してくれない九十九神は多いけど、答えは単純よ。私には新しい持ち主に出会うよりも大切な願いがある」
それだけだわ、とチープは微笑みを浮かべる。それは正に『彼女』の表情だった。
お化け屋敷はまだ判断を決めかねているようだった。だが、やがて決意を固めたように言った。
――おれを部品のひとつひとつに分解して移動させると言ったか。
「ええ。安心して。百鬼夜行には腕利きの大工さんに使われていた工具一式もいるのよ。綺麗に傷もなくあなたを解体してくれるはずよ」
――……頼む。
お化け屋敷は安心したような声を出した。辺りを覆い尽くしていた闇が晴れはじめた。霧が風に吹き飛ばされるように漆黒の空気が外界の空気に居場所を譲る。
視界がぐらぐらと揺る度、心地よい浮遊感を舞は感じた。春の風が肌をさらう。
お化け屋敷の『心』。その暗黒が完全に消えたとき、舞たちの立っているのはあの畳張りの部屋ではなく、玄関の前だった。道端の頼りなく蒼白い電灯に照らされて舞とチープ、そしてからすけの影が現れる。
空を見上げれば、そこは満点の星空で。渦巻くように並んだ星々の中心にはまん丸に象られた満月が浮かんでいた。
「さあ、舞ちゃん。私は、さよならとありがとうを伝えに来たの」
舞を見据えて、チープは静かに言った。
舞がその『小さなともだち』をすっかり忘れてしまったのは、いつの頃だったろう。
素朴な牧場の少女、をイメージして作られたその人形は三年前に他界した舞の祖母が手作りして舞にプレゼントしたものだった。
その人形と二人でどれだけの時間をどのようにして過ごしたのか、舞には記憶がない。それはきっと突然に人形が行方不明になってしまったその日から記憶の扉を閉ざしてしまったからなのだろう。ただ何時だって何をするにしたって、舞はその人形と共にあったのだということを舞は覚えていた。それだけその人形は舞にとってのお気に入りで、かけがえの無い『友人』であったのだ。
今、舞の前にその友人が舞い戻ってきていた。『彼女』はわざわざ舞と話をする、それだけのためにこの町まで戻ってきたのだ。
チップ・チープ、と名乗りながら。
「こんな姿になったのはどうしてかしらね。正直に言えば私にもよくわからないのよ」
お化け屋敷、その玄関前。星空と満月のしたに座りながら、舞とチープは静かに語り合っていた。チープの足元にはからすけが鎮座している。
「いきなり声が聞こえたの。『本当にその女の子に会いたいなら力を貸して上げる。その代わり君は他の九十九神の助けになる』ってね。私はまだ九十九神として目覚めたばかりで相手の顔もよく見えなかったわ」
『ふん。俺の魂を、こんな器に、放り込んだ、あいつ、か。いけ好かない、奴だった』
「私はもしかしたら神様みたいな存在だったのかな、なんて考えているのだけれど」
『まさか。俺は、奴の姿を、見た。神様なんて、とんでも、ない。悪魔みたいに、意地の悪そうな、目つきだった』
チープが語る話にときおりからすけが愚痴めいた相槌を打つ。舞は静かにふたりの話を聞いていた。
先程から舞たちの背後ではお化け屋敷の解体作業が行われている。万が一、近所の人に知られないようにできるだけ小さな音で作業は進む。解体にはチープの言っていた工具の九十九神はもちろん、今の時点で残っている商品のみんなが総出で参加しているようだ。
「それでチープはここまで来られたんだね。最初からそんな大人の格好だったの?」
「ええ。『商売をするならこれくらいの年齢に見えた方がいいでしょう』ていうことでね。始めのうちは本当に苦労したものだったわ。社会生活はよくわからなかったし、からすけは言うことを聞いてくれないし」
「からすけはワガママだったんだね」
『やかま、しい』
話す内に、お化け屋敷の大きな影はその形から崩れ去って随分と小さなものになっていた。家一軒があっという間に姿を失っていくその過程に舞は唖然とした。九十九神のみんなによる解体作業もどうやら大詰めのようだ。舞とチープが二人で過ごす時間も間もなく終りを迎える。
「チープはこれからも商品のみんなを売って旅するんだね」
なんとなく空を見上げながら立ち上がる。最後に話すことは、もっと何か意味のある会話にしたかった。けれど舞の口をつくのは平凡でとりとめのない言葉でしかなかった。
「ええ。それが私の生きがいだもの。舞ちゃんに会えた今となっては唯一の、ね」
「また、会えるかな」
聞いておきながら舞自身はどこかで察していた。恐らく舞はもうチープに会うことはない。そんな予感めいた感覚が沸いてくる。
チープは座ったままで舞を見つめていた。舞は立ち上がっているのでまるで舞の方がはるかに背丈が高いような錯覚を覚える。それはまるで何年も前に戻って、祖母の作ってくれた人形が側にいたあの頃に帰ってきたみたいだった。
「わからないわ。またこの町に来るとしてもその頃には十年以上も時間が経っているかも知れない。それまでに舞ちゃんはここを離れてしまっているかもしれない。そしてこの町でないどこかで会うなんていうのは、とてもじゃないけど有り得ない偶然だと思うの」
チープは微かに首を横に振りながら、答えた。自分でも予想していた答えだったけれど、どうしても寂しいものを感じた。舞は視線を上げる。別れの時に涙は、見せたくない。
けれどね、とチープの声が聞こえた。彼女もまた舞と同じように立ち上がる。
「私たちがこれから会うことはないかも知れないけれど、それでもお互いが繋がることはきっとあるわ」
「繋がる、こと?」
チープを見る。星を眺めて立つ彼女の姿はとても素敵だった。
「舞ちゃんが大切に使ってきた物が、いつか九十九神になって私たちの許にやってきて商品として列に加わることだってきっとあるわ。その時、舞ちゃんと私ははっきり繋がっているのよ」
「そう、なのかな?」
「ええ。きっと。だから舞ちゃんも私と別れることや会えなくなることなんて悲しむ必要はないんだと思うわ。会えないけれど、側にもいないけれど、けれど繋がることはあるから」
「そうか。チープの言う通りなのかも知れないね」
舞は頷く。夜風が一陣、颯爽と吹き上がった。風に攫われる髪を追って視線が自然と夜空に向けられる。小さな宝石のように瞬く星の粒が赤や緑など様々な光を放っていた。それらはまるで海に達する川の流れのようにひとつの大きな流れを作り出している。流れの中心に浮かぶのは夜の闇をくり抜いたように輝く満月だ。満月と星の奔流が一体となってどこか全くの別世界を演出していた。何年経とうと舞はこの光景を一生忘れないだろう。
そこで、お化け屋敷の解体をする音がついに止んだ。チープがこの町に留まる最後の理由がここで消えた。
『チープ。もう、出るぞ』
すぅ、と浮き上がってからすけが短く言った。壊れたラッパの部分が月の光を照り返してからすけの姿は暗い世界に浮き彫りにされていた。からすけの背後には作業を終えた九十九神たち、そして今夜から加わったお化け屋敷が木材の状態で揃っている。舞がはじめて彼らを見たガラクタ山。この三日間の商売の過程でその高さは目に見えて減ったようであったが、お化け屋敷が加わったことで以前のような存在感を取り戻していた。お化け屋敷がこれからどんな場所に移って、どんな人を済ませるようになるのか、それはまだわからない。きっと幸せな結果が待っているんだろうと舞は思う。
「さよならだわ。舞ちゃん。この三日間、私はとても楽しかったわ」
チープが商品たちの先頭に立った。
「うん。さようなら。私もとっても楽しかったよ。そうだ、最後に訊きたいんだチープ」
「何かしら?」
「チープが前に、私のお人形として側にいたとき。私はチープのことを何て呼んでたっけ?」
「ふふ。『うたね』よ。お祖母ちゃんが付けてくれた名前。『舞』ちゃんにちなんでいるのね」
チープは静かに、柔らかく、笑った。舞もそんな彼女の笑顔に負けないくらいの笑みを浮かべる。
「チープ。チープとしたお話はとても楽しかったよ。チープと会えるのが私はいつも待ち遠しくて嬉しかった。この三日間もそうだったし、昔だってそうだった。そしてチープがまた私に会いに来てくれて、私はすごく幸せ者なんだと思う。だからお礼を言わせて」
「ありがとう。うたねちゃん」
チープは一瞬はっとしたような表情を浮かべて、やがて大きな笑顔を見せた。それはこれまで舞の見たチープのどの表情とも異なっている。
「こちらこそ、どうもありがとう。まいちゃん」
破顔一笑。そう形容するにふさわしいとびきりの笑顔もまた、チープにはとても似合っていた。
そしてチープは背後を振り合える。そこにはチープの仲間であり商品である九十九神のみんなが並んでいた。全員がからすけと同じように宙に浮遊しいつでも出発できる体勢を整えていた。
「さあ、みんな。いつか来る別れの日まで離れちゃ駄目よ? チップ・チープの百鬼夜行は君達に最高の持ち主との出会いを約束するわ」
チープは月光に照らされた夜の道を歩き出した。その足取りはしっかりしていてもう舞を振り返ることはない。止まることなく彼女は次の町まで踏み進む。隣りにはからすけが浮かぶ。九十九神たちはそんな彼女の後ろについて行く。まるで音のしない移動の様子は確かに知らぬ者が見れば、奇怪な集団として彼らの目には映るかもしれなかった。しかし舞はあの百鬼夜行を知っている。あれは世界一やさしい行列なのだ。
煌き瞬く星の下、道先照らす月光を浴びて、チップ・チープの百鬼夜行は果てぬ行進を開始した。
翌日、お化け屋敷が跡形もなく消失したことは近所で随分な大騒ぎにもなり小さく新聞で報ぜられたりした。しかし「肝試しができなくなった」と歎く久美を置いて損をした人間がいたわけでもなく、時間が流れるに連れてその事件が囁かれることもなくなっていった。
誰一人としてチープたち九十九神のことを知らずに終わった。お化け屋敷の真実を知ることなく終わった。舞だけがひとり彼女たちの行列を、覚えている。
いつか縁の繋がる日を思って。
<THE END/CONTINUE TO EPIROGUE>
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2005/07/17(Sun)23:21:18 公開 / 春内けいく
■この作品の著作権は春内けいくさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
随分遅れてしまいましたが「チップ・チープの百鬼夜行」最終回の更新です。
遅れに遅れたのは僕の怠慢と力量不足がすべて原因です。毎度レスを下さった方には非常に申し訳ない気持ちで一杯です。
さてこれで二ヶ月に渡って続けてきたチープと舞の物語をも終わりとなりました。
ここまで読んで下さった方ならば「プロローグがあるくせにエピローグがない」と疑問をお持ちの方もいるでしょう(ていうか皆そうですよね^^;)。
すみません! これも僕の力不足なのです。最初はもちろんエピローグまで添えての完結の物語だったのですが、実はここまで書き終えた僕が「ここで終わってもいいんじゃ?」と思ってしまったのです。
そんなわけでこの小説はエピローグだけが分かれてしまっています。最後まで読みたいと言ってくださる方はEPまでで、エピローグなんぞなくて結構と仰る方はここまでで、「チップ・チープの百鬼夜行」を完結と致します。
それでは最後まで読んで下さったあなたに「ありがとう」の言葉を贈ってここは締めさせていただきます。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。