『en』 ... ジャンル:未分類
作者:紅月薄紅
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...en
「何を、しているんだい?」
ある春の日の真夜中に近い夜。雨の降る誰もいない公園で、男はその少女に出会った。
「座っているのよ」
ベンチに座る少女は、いきなりしゃべりかけてきた見知らぬ男を見つめ、“見てわからないのか”と言うような口調で答える。
「いや、それはそうなんだが……。濡れてしまっているじゃないか」
男は戸惑いながら言う。けれど少女は、困っている様子も、雨をよけることを諦めた様子もなく、
「濡れる為にいるんだもの」
と当たり前のように言った。
「そ……そうなのか」
見るところ、17歳ぐらいだろう。前髪はまっすぐに切りそろえられ、長い髪を背中へと流している。
服装は、薄手の黒いキャミソールに同じく黒い、ひらひらとしたミニスカート。それだけだ。
もう春だとは言っても、雨が降っていて今日は寒い。街行く人達は皆、上着を羽織っている。
それなのにこの少女は上着もなければ靴もはいていない。裸足だった。
男は差していた傘を閉じ、少女の隣に座る。
濡れるわよ。そう言われたが、「いや、いいんだ」と返した。
「君、名前は?」
気になって訊ねてみた。もしかしたら、両親とけんかでもして家を飛び出してきたのかもしれない。
「名前? そんなものないわ」
「ない?」
「えぇ」
しっかりと縦に首を振り、少女はまっすぐに男を見つめる。
そうして、何かを思いついたかのように口を開く。
「そうね……“en”とでも呼んでちょうだい」
「en?」
「そう」
「en……か」
男は呟き、
「どういう意味なんだい?」
と訊いてみた。
少女―――enは少し目を細め微笑むような顔をして答える。
「それはまだ教えてあげない。私とあなたがお別れする時、教えてあげる」
男は、始めてその少女の表情が変わるのを見た気がした。
「そうか、まだ秘密か」
はは、と小さく笑って俯く。自分でも気づかずに、ため息が漏れた。
「あなた、何か悩んでいるのでしょう?」
enが男を見ず、まっすぐに前を向いたまま言う。
「!? ……どうして、そう思うんだい?」
慌てて問い返すと、こちらを向いたenと目が合った。
「だって、ため息ついてたじゃない」
嫌でもわかるわ。
男はその言葉を聞いて、再び俯いた。
「そうか、わかってしまうか……」
膝の上で組んでいた指に、力が入った。
全身雨に濡れた身体は、雨が降っていることさえも忘れさせる。
「僕の話しを、聞いてくれるかい?」
返事も聞かず、男は話し出した。
「僕はね、愛しい人と別れたんだ」
あれは一週間ぐらい前だったろうか。
仕事が終わったあと、いつも通り二人で歩き、いつも通り同じ店に入り、いつも通りに食事をした。
いつもと違っていたのはその後。
デザートを食べ終わり、ゆっくりと食後のコーヒーを飲んでいたときだった。
「別れましょう」
突然そう告げられた。けれど、何を言われたのか、自分が今どんな状況なのか直ぐには理解できない。
「え?」
そう呟くと、彼女はコーヒーカップをテーブルに置き、もう一度その言葉を口にした。
「別れましょう。もう、さようならよ。私と貴方は、もう終わりなの」
「何を……言っているんだい?」
「ごめんなさい」
お金は払っておくわ。
そう言い残して、彼女は席を立ちあがり背を向けた。
僕はただ呆然とするばかりで。
追いかけることも、止める言葉も言うことができなかった。
それから彼女とは逢っていない。
一度だけ、街で彼女を見かけたことがあった。その時は、もう他の男と歩いていたよ。
悲しかった。彼女は僕の中でどれだけ大きい存在だったか。今更気づいたよ。
もっと大切にしていれば、もっとこの愛を伝えていれば、今頃僕はいつも通り彼女といたはずなのに。
もう、それもないんだ。
「それで?」
話を止め、深く俯いた男に、enは先を促した。
男は俯いたまま、続きを話し出す。
「死んで、しまいたいと思ったんだよ」
ふと気づけば、自分の中で死を考えてしまっていた。
彼女がいない現実など、もう生きることは出来ない。
こんなに辛い思いをするぐらいなら、死んでしまった方がましじゃないか。
家へと向かう足は、橋の方へと進んだ。
ここから飛び降りてしまって、すべてを水に沈めてしまおう。
そう、思ったんだ。思ったんだよ。
けれど、恐かった。急に恐くなった。
橋へと手をかけ、「さぁ、落ちてしまおう」と思っても。
手が震えて、足も震えて、目の前の川が地獄のように見えた。
このままここに落ちて、地獄に行ってしまったらどうする?
僕は天国へなんか行けないかもしれない。ちゃんとした良いことなんて、一つもした覚えがない。
いつもいつも、逃げてばっかりなんだ。
彼女といる時だって、どんな時だって、僕は逃げていた。
さもすばらしいことを言っているかのように、みんなのことを考えているかのように話をして、
結局は自分のことしか考えていなかった。汚い人間だよ。
今思えば、彼女は僕のそんなところが嫌だったのかもしれない。
自業自得だよ。さよならを告げられてしまうのは。
僕が悪いんだ。僕が―――。
だから死んでしまいたいんだ。けれど死が恐い。
どうしていいかわからなくなって、少し公園でゆっくり考えようとここへ来た。
そうしたら、君に出会ったんだ。
「これが僕のお話だよ。なんて情けなく滑稽なお話だろう。これじゃぁ、きっと一冊も売れないだろうな」
自分を嘲るかのように男は笑い、enの方を見た。
悲痛なその顔を、enは無表情に見つめる。
組んでいた指には力が入り、両手の甲には血がにじんでいた。
「en。僕をどうにかしてくれ。このままじゃ辛いんだ。答えをくれ」
「私が?」
「あぁ、そうだ」
「……」
enは男を見つめたまま黙り込む。
男は焦り、enにしがみつきながら叫んだ。
「死にたいんだ! でも死ねないんだよ! どうやったらこの苦しみは解ける!?
どうにかしてくれよ!! もう気が狂いそうだ……!」
「なら、私が殺してあげる」
「……君が?」
「そう、私が。どんな死に方がお望み? その通りに殺してあげるから」
「僕は……」
「私は悲しいけれどね。あなたが死んでしまったら。泣きはしないかもしれないけれど、
今日この時を一緒に過ごした人だから。だから死んでしまったら悲しいわ」
「……」
男はenの腕を掴んだまま、その言葉を聞いて目を目を見開いた。
enは続ける。
「でも、あなたがどうしても死にたいというのなら、殺してあげる。
生物の命は、作り出すことは難しくても消すことは簡単だから」
そんなものでしょう? この世のものって、なんでも。
enはまた、目を少し細め微笑むような顔をする。
「生きていれば辛くても何か手に入るかもしれない。死んでしまえば辛さはなくなるけれど何も手に入らない」
男の腕は、細かく振るえだした。
「どうする? 何がお望み?」
私は生きていたほうが良いと思うけれど。
問いかけるその声はただただ冷たい。
身体を濡らす雨よりも。橋の下を流れていた川よりも。
「僕は……」
声は雨の音に消された。
「何? 聞こえないわ」
「僕は……」
「あなたは?」
「en。僕に生きる目的を下さい。でなければ僕が死ぬのを止めないで」
「生きる、目的?」
問い返したenに、男は頷き返す。
細い腕を掴んでいた手はだらりと落ち、下を向いた男の顔は、雨だけでなく涙に濡れた。
必死に泣き声をあげてしまわないように、歯で噛んだ唇は白くなっている。
「そうね、じゃぁあげるわ。あなたの生きる目的を」
「……!」
ばっと顔を上げ、enを見る。
彼女は、微笑んでいた。今度は目を細めるだけじゃなく。本当に。
「あなたは、私のことを覚えていて。名前もない私のことを、いつまでも。
そうすることで、私は存在することが出来る。あなたの中に、この世界に……」
「……」
「こんな目的じゃぁダメかしら。あなたが生きることはできない?」
「……」
返事は、ない。
男はenの顔を見つめつづける。
「ダメだというのなら、私は止めない。あなたが死ぬのを。手伝ってあげるわ」
「……いや、十分だよ」
やっとだした声は、ひどく枯れていた。
enはもう一度微笑む。それにつられて、今度は男の顔も柔らかく歪んだ。
「十分だ。僕の生きる目的には。十分過ぎるぐらいだよ」
涙が溢れ出し、enの顔がぼやけて見えた。
こんなに幸せな涙を流したのは久しぶりだった。心地よい、温かいものが胸に広がる。
「ありがとう、en。僕に生きる目的をくれて。僕が死ぬことを悲しいといってくれて。ありがとう―――」
背広の袖で涙を拭き取り、男は立ちあがった。
「ありがとう」
もう一度、感謝の気持ちをこめて言う。
「いいえ、どういたしまして」
enは座ったまま、男の気持ちにこたえた。
いつのまにか夜は明けようとしていた。どれくらい話していたのだろう。雨もいつのまにか止んでいる。
enと話している時、時の感覚が無くなっていたようだ。
「そろそろ行くよ。また明日も仕事があるからね」
「えぇ」
enの顔は出会った始めの時のように、無表情に戻っている。
「帰る前に、頼みがあるのだけれど……。この傘を持っていてくれないか。僕が君と出会った証に。僕がここに存在していた証に」
君の中に、僕が存在し続けられるように。
差し出されたのは、飾り気も無い男物の真っ黒な傘。
「えぇ、頂くわ」
enは傘の受け取り、ばさっと音を立てて開いた。
白み始めてきた空に、黒い傘と黒い服の少女がそこだけ浮いて見えた。
その不思議な景色を見つめ、男は思い出したように言う。
「そうだen。君の名前の意味を教えてくれよ」
もう、お別れの時間だろう?
enは少し目を見張り、「そうだったわね」と頷いた。
「私の“en”は“empty”のen。そして“end”のen。私は、儚い願いに終わりを告げるもの。だから、en」
男を見つめる17ほどの少女は、真面目にそう語っていた。
「……そうか。僕も君によって願いに終わりを告げられたんだね。“死にたい”という願いに―――」
「そう」
「そうか……」
二人の間に沈黙が流れた。それはさよならを告げる前の、悲しく、けれど心地よい、忘れることの出来ない時間。
「さようならだね」
「えぇ、さようならよ」
「本当に感謝しているよ、en」
「えぇ」
enの返事は短い。けれど男にはわかっていた。これが、enなのだ。
「さようなら、en」
「さようなら」
男は背を向けて歩き出した。しっかりとした足取りで、一歩づつ。
その背を、enは見つめた。黒い傘を差したままくるくると回して。
公園の出口についた時、男は一度後ろに降り返った。
先ほどまで自分とenが座っていたベンチ。
数分前の、別れの時。enが座っていたベンチ。
そこには、誰もいなかった。
黒い服を纏った少女の姿は、なかった。
「さようなら、en」
僕の中でいつまででも存在しつづける人。
僕の存在がここにあったことを証明してくれる人。
儚い願いに終わりをくれた、人。
「また会おう、en」
僕はそう言って歩き出した。もう、振り返ることはしなかった。
「さようなら、私ために生きてくれる人」
少女の声が、遠い空に消えた。
...end
2005/05/28(Sat)13:47:56 公開 /
紅月薄紅
http://www.geocities.jp/usubeni25/index.html
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紅月薄紅さん
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■作者からのメッセージ
こんにちわ。以前ちょこちょこと作品を投稿させて頂いていました、紅月薄紅です。初めましての方が多い(というかほとんど/苦笑)だとおもいますので、どうぞ宜しくお願いします。
今回は、個人的にお題をお借りして書いている、「en」という小説の一つのお話を投稿させて頂きました。連載、というわけではないので、この1話だけで読めるようになってます。
まだまだ未熟者ですが、この掲示板でみなさんの作品を読み、学び、自分の力にして、少しでも成長した作品を投稿できるよう頑張りますので、どうぞよろしくおねがいします。でわでわ。
作品の感想については、
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