『【THE EVER……WHITE SONG】完結』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:京雅                

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【THE EVER……WHITE SONG】


 ユエは硝子細工のように繊細な声で、時々歌を歌った。


――静かな海で、離さないようにあたしを抱き締めて、

――遠くの、遥か遠くのあなたへこの手を差し出して。


Prologue【this not EVER Song】


 花瓶に挿してある淡紅色の傾きに、遠くから光が射し込む。
 窓の向こう側は暗く澱んだ空があった。霧雨も見えないくらいに降り注ぎ、さぁさぁと微かな音が聞こえる。天の鉛色達がおそらく喧嘩でもしたのだろう、可哀相に、雲と雲の隙間から迷い込んだ一線。出口を探す迷宮の冒険者にでも為りきったのか、薄い光は行き先を古惚けた屋敷の二階に定めて、硝子と被さった埃を掻き分けてそこへ辿り着いた。
 嫌な顔一つせずに空からの使者を受け入れる。
 照らされた一輪は、舞い降りる憂鬱を潜った勇者に、優しく微笑み掛けた。勿論喩えでしかないけれど、何せ彼等の出逢いは大きく意味を持っていたから、間違ってはいないと思う。空を支配する精霊は気まぐれで、あっという間に温かさは本来在るべき場所へと戻っていった――お姫様は哀憐を含む溜め息を吐いて、再びそっと項垂れる。
 「久し振りよね」と花瓶の隣に座った少女。歳月の深さを覚えた藍色の服を纏い、肩まで伸びた透き通る程の金の髪を掻き揚げ、棚の端で両脚を揺らして言う。遥か昔ユエと呼ばれた繊細な作り物の彼女は、口を結んだまま微笑った。
「だけど」
 ユエはクスクスと楽しそうに振る舞う。気にも留めないくせに細い髪を掻き揚げ、眠りの世界から誘いもなく欠伸する。魂を奪われた傀儡は、既に抱き締めてくれる主を見失って彷徨い退屈を極めていたから、薄れ行く記憶の中に未だあったヒトの仕草を模倣する事でしか己を維持出来ない。
「あなたをお迎えに来たわけではなさそう」
 解りきった事をわざわざ言う必要性は皆無である。枯れた泉から水を汲み出そうとする様な、自らも傷付け痛みを生むだけの愚かな行い。それを承知でありながらもユエが口を閉ざせない理由は、言葉を掛けられたマナもよく解っていた。
 凝ったつくりでもなくさほど綺麗でもない、ありふれた透明な花瓶。注がれた冷たい液体ももう殆ど吸い取られて、存在意義を失くしかけたその入れ物に、マナは初めて挿されたあの日と全く同じ姿で押し込まれている。あたしは随分と変わってしまったな、と眺めて思うのは何度目だろうか。
 そう言えば、もう幾日雨は降り続いているのだろう。
「ユエ……そのくらい、私も知ってるわ」
「そう?」
「木漏れ日に救いを求めるほど、未だ枯れてないの」
 此処は隔離された世界。所有者を持たない屋敷の一室と、時折陽の迷い子を誘う天空のみが存在する、閉じた空間だった。部屋には温もりを忘れたベッド、花瓶を飾った棚、樹を香らせる傷の散らばった床には幾つかの硝子片が転がっている。窓際に置かれた扉の開いた鳥籠、ベッドに敷かれた皺のついた白いシーツ、彼等はもう戻らない翼と持ち主を静かに待っていた。
 降り止まない雨、顔を出さない太陽にユエは幾らか苛立っている。
 この世界は何? 問い掛けようにも答えを知る大いなる存在すら不在で、何よりこの部屋の中でユエと話せるのはマナしか居ない。おぼろげな記憶の奥深く、あの鳥籠には翼の折れた利巧な鴉がヒトの言葉を真似ていたような気もする。いつの間に飛び立ってしまったのだろう、時間の概念すら曖昧であるから徐徐に薄れていくのか、記憶が。
「それでも嬉しいじゃない? 雷は偶に鳴るけれど、陽の光は殆ど来ないんだから」
 マナは何度目かの溜め息を吐いてユエに――自分に言い聞かせる。本当は木漏れ日であろうとうるさい雷鳴であろうと、救い出してくれるなら誰でもよかった。一瞬でも淡紅色の花片が光の前に映し出されれば勘違いもする。ああ、貴方が私をこの暗く湿った部屋から連れ出して、みなみなと潤った花瓶に移し替えてくれるの、何て願った。
「誰か迎えに来てくれないかな、って祈ってるのよ」
 ふうん、とユエは頷く。
「……そうなんだ」
 ざぁざぁ……。静かだった雨音が強まった。マナが未だ見た事のない大地と、おそらく蔦や草木に囲まれた屋敷、天からの来訪者が戸を叩く。ユエは不機嫌そうに脚をぶらぶら、何か言いたそうに唯一の話し相手を見上げた。「どうかしたの?」何か気に障る言葉を紡いでしまったかしら、ニュアンスを含めて問い掛ける。
 答えず、ユエは焦らす様に視線をゆっくり逸らした。
 その先――ベッドの上に掛けられた時計を、つられて眺める。癇癪をおこしかねない少女の、おぼろげな記憶の中では確かに動いていた漆黒の針。何故止まってしまったのだろう。時間の概念が曖昧な世界で、物が朽ち果てるとでも言うのか。マナは……それならマナもいつか枯れ落ちる。
「ねえ、ユエ。何か気に障ったの? どうしたの?」
「あたしはこのままでいい」
 人の形をした魂無き傀儡にも、絶対に嫌だと言い切れる事がある。ユエはそのヒトらしい思考が鬱陶しかったけれど、拒絶するには温か過ぎた。
「ユエ……」
 困惑するマナ。随分と長く一緒に居るのに、何一つ展開していかないこの世界で、言葉の真意を探せない。ユエ、あなたは救い出してほしくはないの? 問い掛けが自らに撥ね返ってくる。部屋を出て時間を取り戻したら……。
「ここでずっと、マナ、あなたと一緒に居るわ」
「えっ?」
 無邪気な子供が我が儘を言う、マナにはそう見えた。だけど、嬉しい。ぶっきらぼうに口を開いたユエはさらに不機嫌そうに脚を揺らして、「嘘よ、嘘」と漏らす。どこまで可愛いのだろう、と可笑しく思えた。雨音が強まった。
「……嘘吐き。私もユエと一緒に居たいわ」
「嘘だって言ってるのに……」


――あなたがもし静かな海へ身を投げても、

――あたしがきっと、救い出してあげる。

――あなたがもしこの世界を拒んでも、

――あたしはあなたを拒絶しない。

――ずっとずっと、一緒に居たい。


 歌が聴こえた。マナには聴こえなかった、ユエと同じ歌声。薄れかけていた記憶が、時間を逆流し呼び戻される。心の隅のほう、焼き付いていた景色と想いが許容量限界まで押し寄せて、失くしていた思い出が叫んだ。誰も居ない部屋、降り続いた雨、飛び散った硝子片と壊れた時計、翼の折れた鴉……。

――マナ。

――あなたがくれた一輪の花。

「ど、どうしたのユエ!」
 頭を抱えたまま記憶に呑み込まれていく少女に、マナは驚き、そしてどこか近付く終幕の瞬間を感じていた――いや、それは彼女達がこの部屋に迷い込んだ時既に知っていたのかも知れない。それでもそれを認めたくない気持ちが曖昧な時間の渦に巻き込まれ消えて行き、何よりマナとユエは互いに離れたくなかった。
 離れたくないから、この部屋に捕われたのだから。
「――マナ、もうお別れ」
「ど、どうして……」
 世界が崩壊を始めた。時間が巻き戻される。床に飛び散っていた硝子片が宙を舞い、時計へと吸い込まれていく。針が左回りに時を刻んだ。
「もっと、もっとユエと話したいわ! 一緒に居たいの……」
「ダメなの」
 一瞬間を空けて、
「――あたしに勇気があったら、また逢えるから……」


 真っ白な部屋で、白石ゆえは目を覚ました。
 朦朧と混濁した意識の中、聞き慣れない叫び声と機械音を受け流し、動かす事の出来ない体に重力と浮遊感を同時に覚えながら、視線だけをそっと滑らせる。
 棚に飾られた、やけに凝ったつくりの美しい花瓶に、一輪……。
 もう枯れてしまった淡紅色の花が首を傾げていた。
 ゆえの頬を流れた一雫は、白いシーツに染み込んで、消えた――。





――見上げた空に何もなくても、あたしにはあなたが見えている。

――たとえ、あなたともう逢えなくても。


First【nervous Kill me】


 息苦しい雑踏を通り抜ける。ひどく荒荒しい人の波は、縦横無尽に鳴り響く喧騒と重なって窮屈極まりない。土瀝青を蹴るたび重力とは違った重さを肩に覚え、ああ、それが外の空気に汚染され降り掛かった疲れなんだなと思うたび、溜め息を吐いた。
 その他大勢の群衆に埋もれながら、白石ゆえは行き先もなく彷徨う。肩まで伸びた髪を面倒そうに掻き揚げて目線を左右に揺らす。美麗さを侍らせていたとして、こう男も女も入り乱れ行き交えば色も褪せる。
 覗かれる事を好まない彼女は喧騒にまぎれ安堵した。見られていない、誰もあたしを見ていない。この瞬間はたっぷりと疎外感を味わえる。家に閉じ籠っていては虚しさだけが募るけれど、他人の中に在って何処にも存在しない、そんなすれすれの境界線に立てば恍惚に浸れた。思惑通り、ゆえは自然と微笑む。

――たぶん、あたしはおかしい。

 自覚はしている。自分の嗜好が誰にも理解してもらえない事を。
 まあ、趣味なんて人それぞれよ、と悲観的にはならない。生きていく上で障害になろうものなら矯正しなければならないが、人嫌いなのに人混みが好き、そんな理由で罰せられるわけでもないし。現在までこうやって生きてきたから。
「……ばかみたい」
 何気なく逸らした瞳に白石ゆえの姿が映った。営業中の美容室、全面に押し出された透明な壁に鏡の如く映り込んでいる。細く長い手足、最近流行だと雑誌に書いてあった服装で決め込み、器量の良い顔が退屈そうに自分を眺めていた。
 誰もが振り向くというわけではないだろうが、確かに惹きつける力は持っている。
「ばーか」
 ゆえは着飾ったそれがばからしく思え、加工もせず吐き出す。
 見せたいのだろうか、覗かれたいのだろうか。こうやって自分が目的もなく歩き回る意味をそこに求めた事もある。だから誰に見せるあてもなく流行には敏感で、定期的に美容院へも行くのかなと、強引に答えの枠を嵌めようとした。
 何か違う気がする。
 自分自身理解していない。おそらく周囲の一人として彼女の真意を掴み切る事は出来ないだろう。毎日飽きもせずぐるぐる同じ場所を同じ速度で廻る、ゆえの心情は誰にも理解出来なかった。何故ならゆえも求めているからだ。枯れ果て行く砂漠の旅人が水を求めるのと同じ、『意味』を渇望し必死で探している。もうずっと。
 歩き回る意味を歩き回る事で見つける、愚か者の行為。

――矛盾している、のかな。

「――よっ、と」
 ふらふらと亡霊の様に彷徨った挙句、辿り着く先は決まって寂れた広場だった。遊具も噴水も味気すら無い空間。背の高い樹木から陽が零れるベンチは最早指定席である。徘徊の途中自販機で買った飲み物を取り出す。
「しまった……」
 あたし珈琲飲まないんだよなあ、とよく確かめもせず選んだ事を後悔する――いいよ、何でも。僅かな後に中途半端な甘さと薄い苦味が喉を通った。まずい。
 一息ついて、木の葉と木の葉の隙間にのぞく太陽を見上げた。爛爛と煌めく光が頬に触れては退いて、波打ち際の泡沫を思い出させる。樹木の細やかな葉達、戯れるその光景をじっと眺めていたゆえは、いつの間にか視界いっぱいを緑で埋め尽されていた。惹き込まれると言う言葉はこの時使うものだと、ふいに感じる。
 耳を澄ませば鳥の鳴き声が、遠くから届く喧騒と一緒に舞い踊っていた。
 この世界で独りだ――ゆえは常常考える。生まれた時既に家庭は裕福で、一人っ子の彼女は両親の寵愛を全て引き受けた。大学もそれ程苦労せず卒業したし、表面上人付き合いのいい女性だったから知り合いは多い。人嫌いである事と、孤独を好む事は違う。根本的にヒトが嫌いで、しかし生きる為には必要だとも解っている。
 中途半端。自己矛盾。本当のあたしはどっちなの?
 永遠に出そうもない問題を抱え、もどかしさに叫び声を上げそうだ。たぶん、我が儘なんだろう。自分勝手に苦悩し自分勝手に拒絶している憐れな自分。故に独りだった――そう思い込む。
「……ママやパパには悪いことしちゃってるな」
 今は離れて暮らす両親に想いを馳せる。ろくに仕事もせず何か目指しているわけでもなくただただ足踏みして過ごす日々、何から何まで迷惑掛けっ放しだ。それでも彼等は何も言わずゆえを見守っている。
 情けないなあ、あたし。溜め息混じりに呟いた言葉はすぐに霧散した。
 目を瞑る。


――心の奥深くに閉じ込めた願いを、

――誰にも理解されない悔しさと共に、


 ゆえは時々歌を歌った――繊細な硝子細工の様に、触れれば壊れてしまいそうなほどか細い声で、思うままに言葉を繋ぐ。
 初めは気付いたら心の中に言葉を抱いていた。願うだけの毎日から脱け出して、溢れ出す感情を言葉として吐き出すようになったのはいつからだろう。はっきり言って音楽に興味はない。だから歌唱力がどの程度のものなのか解らなかった。それでも木漏れ日の下独りきり、絡みつくやわらかな風に撫でられると勝手に口が開く。誰かの為に歌っているのではなく、自分自身の為にゆえは歌う。


――あたしはあたしのまま生きる。


 木陰に隠れていた鴉や頭を揺らして歩く鳩達は、皆歌声に聴き入り暫しの間時間の概念から切り離されていた。太陽もこの瞬間は彼女にだけ光を注ぎ、広場に並んだ樹木は心地好さそうに身を傾ける――強い一陣の風が称賛の舞を踊ったのだ。
 胸に溜めた言葉を吐き出しきって、瞳の扉を開く。
「――素敵な歌ね」
 見られた……!
 瞼の向こう側から視界にゆっくりと入ってきた、目深に帽子を被った長身の女。相貌と表情は隠れて見えないが、どこか佇まいにやわらかさを孕ませている。間延びした調子で近寄る優しい雰囲気に、ゆえは口をきつく結んで睨みつけた。

――見られた……ほんとのあたしを。

 口元に微笑を浮かべた女は、対照的な不機嫌面をつくるゆえの真正面に立った。
「ごめんなさい。あまりにも透き通った声だったから……つい、ね」
「いいえ」
 なんだか、白いなあ。
 気さくに話し掛けてくる事に抵抗を感じつつ、ゆえは目の前の人物に明瞭としない印象を抱いた。単に服装の基調が白だという事もある。華奢な肩先やスカートから伸びた脚、その辺の目立たず露出された肌が雪の様に白く綺麗だ、それもあるだろう。けれどそういった見た目よりも先ず、直感的に『白』だと思った。
「すっごいうまいのね、あなた、歌手?」
 それも純白――きっと優しくていい人なんだ。
 あたしのママもそうだから。
「違う」
 視線を合わせないよう逸らしたまま、ゆえはぶっきらぼうに答えた。この時自己矛盾に陥る基本構造が、表面上人付き合いのよい一面さえ抑えつけて、彼女に口下手と人嫌いという現実を叩きつける。それでもすぐさま立ち去る事の出来ないのは何故?
 いっそ殺してしまいたい、半端な自分を。
 拗ねた子供の様な彼女を見て、白い女性は面白そうにクスクスと笑う。何が可笑しいのか解らないゆえは苛立つと同時に焦った。そんな、あたしだけを見て微笑わないで。
「綺麗な歌声なのに」
 そっと、帽子を脱いだ。温かい笑顔、顔を合わすのも恥ずかしいほど、綺麗。ゆえは上目遣いに覗き返した。黒曜石の瞳に映っていたのは、見蕩れている自分の顔。
「……こういうのを、惹きつけられるって言うのかしら」

――あたしはおかしい。

 自覚はしている。この気持ちは誰も理解してくれない。けれど境界線を越えた位置で目を背ける事の出来ないゆえは、じっと、その瞳を見つめていた。

――きっと、これが一目惚れなんだろう。





――どうしてこの手に掴んだものは儚くて、

――何も言わず消えてしまうのだろう。


Second【Going to the OASIS】


 ゆえは瞳を閉じて今日を振り返る。
 何故喜びはいつも哀しみを一緒に連れてくるの――ベッドの上で仰向けのまま、両腕を天に掲げ口の中で漏らす。
 切ない言葉に胸が押し潰されそうだ。
 こんな時は歌いたい。歌って忘れてしまいたい。
 嫌なものを全て吐き出したかった。けれど喉でつかえた重みは嗚咽になって、夜闇の静けさに還っていく。
 伸ばした指先が虚しく宙を掻いた。


――朝倉まなみ、ああ、あなたはどうして……。


「ちょっと待っててね、すぐ淹れてくるから」
「おかまいなく」
 決して謙虚な言葉でもないのに「いいからいいから」と足早に視界から遠退いていく様を見て、思わず溜め息が零れた。
 朝倉まなみの部屋にやってきて、もう幾度溜め息を吐いただろう。すぐそこだから上がっていってよ、そう誘われて断る事が出来なかった自分を理解しえない。木目柄のカーペットを撫でて、真っ白なベッドに背を預けながら白石ゆえは苛立っていた。
 一目惚れなのかな、この気持ち。

――あたしレスビアンじゃないしなあ。

 暫くして戻ってきたまなみの両手には、色違いのカップが一対握られていた。小ぢんまりとした樹造のテーブルにそっと置かれる。
 ゆえは中身を覗いて、あからさまに「しまった」という顔。
「……あれ? もしかして珈琲ダメだった?」
「だいじょうぶ、そんなことない」
 申し訳なさそうに眉を寄せられると、こっちの方が申し訳ない。
「いただきます――あちっ」
 口をつけては二度三度離す。熱過ぎて味はしなかった。
「むっ……」
 吐息でふうふうと冷まし恐る恐る再挑戦してみるが、沸かしたばかりのお湯で淹れられたそれはそう易々と攻略出来ないらしい。ゆえはふと、何でこんなにむきになっているんだろうと我に返った。髪を掻き揚げながらカップを戻す。
 やけに嬉しそうな笑顔のまなみに、口をきゅっと結んで目を逸らした。何が楽しいんだろう、あたしを見て……。
「冷ましてからでもいいのよ、ゆえちゃん」
「わかってます」
 嘯いてみた。そう言えば昔、舌を火傷する覚悟で一気に飲み干した事もあったな。勿論例外なくその通りになってしまったけれど。
「……今、何て?」
 受け流してしまうところだった。
「ゆーえーちゃん」
 むずむずする。その呼び方は止めてほしい。眉間に皺をつくって憤るゆえに、ほんとうに何が楽しいのだろう、まなみは子供を諭す様な慈愛に満ちた顔で「まあまあ」と肩を叩く。ひとり不機嫌な彼女は視線を足の爪先に下ろした。その姿に堪えきれなくなった張本人は、再び肩を叩いて微笑う。
「じゃあ何て呼べばいいかな」
「白石」
「それはないでしょ、もうお友達なんだし」

――お友達……。

 それは今まで知っていた表面上の意味ではなく、大切な言葉。手に入れようとして腕を伸ばしても届かない、蜃気楼のオアシス。そんな気がした、そうだと思っていた。目の前に現れた『それ』を掴んでいいのだろうか、人嫌いのあたしが――正直わからない。

――やっぱりあたしは中途半端なんだ。

「……せめて呼び捨てにしてよ」
 ぼそりと呟いた声はちゃんと聞こえたのか、少し不安に駆られる。おそらく瞬く間の空白、ゆえは感覚が痺れる程に長く感じた。俯いたままのあたしはどう見られている? あなたはどうしてあたしを覗くの? 問い掛けても心の声までは響かない。
「じゃあ私のことはまなみって呼んで」
「無理」
 はずかしい。
「もう――それならまなっていうのはどう?」
 ねえ、ゆえ。そう呼び掛けられて彼女は頬を赤らませる。やばい、あたしはいったいどうしたっていうの……黒く透き通った硝子の瞳に見つめられると、どうしようもなく胸が高鳴った。手の平が肩に触れると、妙に意識してしまう。言い知れぬ安堵感に心が寄り掛かる。言葉が溢れる――胸の奥から。
「……まな」
「ゆえ」
 名前を乗せた吐息が耳元に絡む。ゆえはテーブルの上に置かれた珈琲を、一気に口の中へ流し込んだ。未だ少し熱かったけれど、甘さを孕んだ充分な苦味に立ち止まる。そう言えば珈琲を誰かに淹れてもらう事なんてなかった。うまい。
「味、どうかな」
「……ふつう」
 合わせていた目をゆっくりずらして口篭りながら言うゆえに、まなみは微笑を絶やす事なく、寧ろ嬉しそうに瞬きして自分のカップに口をつけた。
「また淹れてあげるね」
 ありがとう。たった五文字の言葉なのに紡げない自分が嫌いだ。他人と深く接してこなかったゆえは、温かさに踏み込む事を躊躇する。
 怖い。弱くなってしまうようで、怖い。自己矛盾を撥ね退けようと手を伸ばしてみてもあと一歩が出せないでいた。踏み出した地面に地雷があれば今のあたしは死ぬ。いや、いっそ殺したほうがいいのかもしれない……けどできない。廻る自己矛盾。
 それでも。それでも朝倉まなみは限りなく『白』かった。
 出逢ったばかりだというのに、屈折したゆえの心を僅かにぼかしてしまっている。心地好い。自分も綺麗になった様な気がして、心地好かった。この瞬間綺麗だと思えるなら勘違いしたまま、一歩を踏み出してみよう――そう、思った。
 不器用な彼女はありったけの勇気を振り絞る。

――「おかわり」

「はい……!」
 部屋に来た直後の映像が再現された。
 胸を弾ませて遠退いていくまなみを、ゆえは溜め息を吐きながら見つめている。
「……はぁ」
 違うのは溜め息の意味、嬉しさの吐息。
 幾分空を漂う様な心境で木目柄のカーペットを撫で、余裕の生まれた視野で部屋を見渡していく。よく見ると異様な程質素な部屋だ。ベッドと樹造の棚、所所に置かれた物も生活必需品の他は殆どない。唯一目を惹くのは窓際に置かれた大きな鳥籠。今は囲う翼をもたないのだろう、鋼色の鉄格子は荒涼然として吊られていた。
「昔飼ってたのかな」
 あれ……?
 目を遣った先――棚の上に倒された写真立てが。
「なんだろう」
 思う前に指先が駆け出していた。
 きちんと整った空間の中で唯一埃を被った、時間と人間臭さを感じさせるそれに何となくゆえは惹かれたのだろう。軽く叩いて持ち上げる。
「あっ……」
 写真の中でまなみは優しく微笑んでいた。その隣に、苦笑して肩を組む男。

――居るんだ、一番大切な人……。

 哀しくはない。でも、少しだけ胸がちくっと痛かった。





――掴もうとして崩れた大切なもの、

――夢の中ですら手に入れられないの?


Third【I am SLEEPER】


 しとしと。微かな調べ。

 いつの間にか、彼方から侵蝕し始めた闇黒が外界を埋め尽くし、窓を打ちつけた。亜透明の硝子板に群がる雫達。するすると下へ垂れていき、彼等は大きな形を成して溝へと溜まる。水はやがて地面に染み込み、世界が廻ればいつかまた降り注ぐ。ヒトの両手で数えるには巨大過ぎるその循環を、大地は幾度となく目撃し、そのつど鳥達は樹木の隙間に潜んで晴天が来るのを待った。
 天空を覆った妖しきカーテン、廻り廻った君は何度目の空模様?

 しとしと、しとしと。震える音は儚く、そして力強い。

 ゆえは写真立てを握り締めたまま、視線を画の中の男に傾けていた。
 身長は高くない、隣に映るまなみが長身なだけに一層目立つ。顔は端正だ。細く高い鼻梁にシャープな顎、切れ長の瞳がカメラではなく彼女のほうを向いている。ひどく困った表情で、けれど本心から嫌がっていない事は解った。無機質な写真に浮かび上がる、恥しさに混じって漂う愛しさ。
 ゆえは写真をそっと元に戻した。
 うん、あたしは正常だ――哀しくなんかない、だいじょうぶ。彼女は髪を掻き揚げて勢いよく座り込む。その時になってやっと雨が降っている事を知った。ベッドの上に飾られた振子時計は一時半を差している。ああ、お腹すいた……。

――珈琲を飲んだら帰ろう、コンビニ寄って。

 よく見れば、質素な部屋も色づき始めた。
 思い出に溢れた物達が語る。テーブルもカーペットも、このベッドも。時間と空間に沁み込んだ朝倉まなみの記憶はゆえなんかには理解不可能な温かい感情に包まれ、思い知る程に居心地が悪い。ヒトの領域に踏み込めるわけでもなく、けれどこうしてふらふら迷い込んだ彼女を拒絶しないぬくもりは、両手で今も彼女の頭を撫でる。
 何だろう――せつない。
 込み上げてくる熱情。
 恋じゃない想い、それなのにあたしの心を深く深く突き動かす何か。単なる友情、勘違いの愛情、そんなんじゃない気がする。何故かは解んないけど。

 しとしと、しとしと……。天は感情の生まれる場所、雨は憂鬱の味。

 吐息さえ湿らせてしまう陰りが、物理的な壁を乗り越えてゆえを蝕む。雨音がすぐ傍から聞こえた。伴って、遠くのほうから足音が近付いてくる。じっと見つめていた真正面の先に、白く細い女性の脚が映り込んだ。
「お待たせ。ごめんね、お砂糖、袋から出してたの」
 色違いのカップをテーブルに並べながら、あははと笑うまなみをゆえは虚ろに見返す。
「そのカップって――」
「ん、何?」
 小首を傾げる様を見て、言い掛けた言葉を切った――それは彼氏のなんでしょ?
「ううん、何でもない」
 言ったところで何にもならない。意味のない事はしたくない。
 珈琲を口に含む。
 抵抗感なく受け入れられる味に思わず目を瞑った。あたたかい、うまい。そんな簡単な言葉でしか言い表せられないけれど、今はそれでいいかとゆえは思う。残り僅かな時間をゆっくり飲み干していく。
「ゆえは今何してるの?……」
 まなみは雨音に気をとられていた。
 テーブルの端を指で小突いている様をゆえは追う。握れば壊れてしまいそうなその繊細な指が、幾らか焦りを生んで踊っている。
「何って、座ってる」
「そうじゃなくて。仕事は何してるのかなって」

 コツコツ。口元に微笑をたたえたまま、奏でる音。

「……何も」
 言ってしまってから、フリーターにでもしておけばよかったと悔いる。まなみの丸みを帯びた優しげな瞳が哀しげに垂れ下がったのを見て、ゆえは溜め息を零した。あたし、もう何度幸せを逃したんだろうなあ。
「好きで何もしてないの。うち、お金には困ってないから」
「そうなんだ」
 拒絶しなければまなみは扉を開けて、暗く湿った心に眩しいくらいの光を届けてくれるのだろう。心地好い事なんだ、それは。それでもあたしのここだけは見せたくない、まなみには歪んだ人嫌いの一面を知ってほしくない。強く願うゆえは、秘密の隠し場所に入れないよう、察する事も出来ない程に鎖を巻いて鍵を掛けた。
 今この瞬間、ふつうのヒトを演じても咎めないで。

――偽りだらけのあたしでも、きっとあなたは見てくれる。

「ゆえはどうしてあそこで歌っていたの?」

 コツコツ。僅か気になる彼女の癖。雨音を掻き消す、断続的に。

「何となく……歌いたいから」
 言葉が溢れるから、歌う。
 ゆえの狭い心に抑えておける想いなんて、ほんとうに一握りでしかない。それは薄れる前に言葉として吐き出さなければ凝ってすぐに壊れてしまう。言葉は口から紡いで世界に解き放つ事でやっと『存在』する。溜め込んだままの言葉は『無い』と一緒。
 意味に執着し探し回る彼女には、言葉の価値は大き過ぎた。
「歌ってみてよ」
「……はあ?」
 右手で頬杖をついて、じっと見つめられる。瞳と瞳が合わさって、沸騰する高揚感に胸が締め付けられた――黒い水晶に明瞭とされたあたしは、鍵を掛けた扉の向こう側も見透かされている様な気がして、むかついた……。
「もう聞いたじゃん、勝手に」
「だから今度はちゃんと聞きたいの。あなたの目の前で」
 急に言われても――ううん、歌える。
 誰かに聴かせる為に歌った事はないけれど、言葉は既にあるから。
「……わかった」
 ゆえは視界を遮断して闇黒の世界へ降り立つ。研ぎ澄まされた精神に火が灯って、何度も何度も重なっていた雨音すら消え去って、彼女をとりまく全てが優しく揺らいだ。


――あなたがもし静かな海へ身を投げても、あたしがきっと、救い出してあげる。

 あたしは救い出してほしいのかな……。

――あなたがもしこの世界を拒んでも、あたしはあなたを拒絶しない。

 拒絶されたくない、ほんとうは……。

――ずっとずっと、一緒に居たい。


 目を開ける。
「ごめん――」
 一滴の涙を流して、まなみは言った。
 その言葉が怖くて、どうしようもなくて――ゆえは彼女の部屋を飛び出していた。


 濡れた体も拭かずベッドに沈んで、ゆえは泣く。
 どうして? どうしてあなたは優しくできるの? どうしてあの部屋はあんなにも温もりで溢れているの? どうして、あなたは微笑っていられたの?

――「死んだ恋人のこと、思い出しちゃって……」

 口の中にはまだ、珈琲の味が残っていた。





――夢なら覚めてほしい。

――もう耐えられないよ、あなたのいない世界なんて。


Fourth【mindless OF blizzard】


 夜闇が幕を引いた。
 一晩中降り続いた雨は未だ止んでいない。陽の光を遮る灰色の緞帳は蠢いて、まるで世界中の空を覆っているかの様に悠然と佇んでいた。
 憂鬱に包まれた目覚めの朝はひどく億劫で、睡魔の誘いに身を委ねる心を嫌う。冷たい土瀝青の傍らで羽を濡らした鴉は、その黒い躰を重たそうに歩いてくつくつ笑い、宙を舞う透明な風達は雫の隙間を掻い潜って優雅な姿を見せる。
 道を誤った風が白石ゆえの部屋へ向かい、騒がしく窓を叩いた。
「――っ……」
 おそらく眠ってはいないだろう。起きていた感触もない。夢と現の狭間を何度も行き来しながら、時として雨音の煩さに寝返りをうつ。その一連のやりとりに飽きたらしい体が深く浅い意識の波を彷徨っていたゆえを呼び戻し、目覚めた彼女は部屋の黴臭さとだるさに辟易しながら起き上がった。
 顔を洗おうとして、鏡の中の自分と目が合う。
「おはよう」
 時間の旋律に従って言葉を発する。やっと朝が来た、そんな感じ。
 蛇口から溢れる水を肌に触れさせた。一瞬シュッと細胞が縮まって、彼等もぼやけていた目を覚ます。寝惚けて丸みかかった表情が、いつものきつい仮面を被る。好きで不機嫌を装っているわけではないが、常に笑顔なんて無理。瞼を閉じて開いた先にあるのは見慣れた自分の顔だ、変わる事なんてない。
 少し瞳が紅かった。泣くなんて久し振りだから……。

――怖かった。

 言葉が届いた刹那、全身を駆けた衝動。
 思い出そうとすれば異なる二つの熱が今でも疼く。

――あの部屋が。

 朝倉まなみの思い出から滲んだ柔らかな優しさと、彼女が告げた言葉。温かさに抱かれたまま突き刺さった苦痛は、それまでぬるま湯に浸っていたゆえを灼獄に突き落として殺そうとした。掛けておいた扉の鍵も関係なく、全てを呑み込んで。
 あのまま心を晒していたら、あたしはあたしじゃいられなかった。幾分落ち着いた現在になってもなおそう思う。弱く屈折した精神の持ち主であるゆえにとって、ヒトの領域に踏み込む事すら烏滸がましいのに、ヒトの闇に触れて何故正気でいられる?
「――わけないじゃん」
 寝癖を整えて、一通りの支度は完成した。興味がないわけじゃないけれど、今は未だ素のままで人前に出られる器量のよさだから、化粧なんて殆どしない。と言うか面倒臭い。
 締め切られたカーテンを開いても、射し込んできたのは鉛の可視光線だった。ゆえは苛立たしそうに髪を掻き揚げながら、硝子の先に広がる景色を見遣る。建ち並ぶコンクリートに霧雨が降り注ぎ、遥か遠くのほうまでそれは続いていた。膨れ上がる暗雲は街の活気を吸い上げているのではないか。錯覚する程に静かだ。

――コツコツ。まなの変な癖……。

 廻る思考は彼女の事ばかり。
 雨音を嫌う様に鳴らしていたあれは何だったのだろう。考えて、真似してみる。断続的に響く不純物。心地好くはなかった――まなの微笑が浮かぶ。哀しみを抱えて何故壊れないでいられる――違う。きっと乗り越えたんだ。哀しみとか痛みとか全部背負って、それでも前を向いているから笑える。世界の痛みに触れようともしないあたしは、あんな風には絶対振る舞えない。だって、ヒトが死ぬって事は……。
 勝手な勘違い、かも。それでも思考は廻り、廻っては襲い掛かる。
 人は嫌い、ゆえはそう言い聞かせた。不器用な自己防衛のために。
 そして生まれた自己矛盾。

――だけどほんとは好きになりたい。



 雨が降っている。
 傘を差して、ゆえは雫の注ぐ道を歩いた。
 濡れた地面は脚を落とすたび、どこか遠くのほうからカツカツ足音が鳴る。気になって時々背後を振り返るが、そこには誰も居なかった。自分のものなのに怖く感じてしまうのは、今の行為こそが怖いからだろう。霧雨は音を濁して、外側と内側を薄く遮断してしまっている。狭い空間に閉じ込められた様な気がした。
「……はぁ。嫌になる」
 まなみの家へ向かう足取りは、正直重い。
 けれどこれを逃したら、もう二度と手に入らないと思った。
 ほんとうの友達――どれだけ望んでも、易易とは見えない大切なモノ。出逢った瞬間の熱は未だ冷めていない。少し埋まりかけているこの気持ちは、絶対に咲かせなくちゃいけない花の種。きっとまだ間に合う。彼女は許してくれる。
「嫌われてないと……いいけど」
 自嘲ぎみに笑って、視界の悪い世界を進む。
 直接家へ向かう道は覚えていない。だけどあの広場からなら、と僅かな記憶を頼りにしている。方向音痴と言うものはそう簡単に矯正出来るものではなく、幼い頃よく迷子になっていた事実を今も引き摺っていた。どうかすれば、広場の場所すら掻き消えてしまいそうだ――それだけは避けたい。


 冷たい空気を掻き分けてどれ程経った頃か、クツクツ――異質な音。
「……カラス?」
 闇色の華奢な躰を震わせて、鴉はひとり佇んでいた。
 光を吸い込んでは解き放ち拒む漆黒の瞳をぎらつかせ、人間の匂いに怯える風もなく、右肩を下ろした左右非対称な格好で毅然とゆえを見据えている。よく見ると、血は出ていないけれど歪に右翼が折れ曲がって痛痛しかった。しかしそいつはこちらの哀憐など構わないと言う様で、微動だにせずじっと彼女を睨んだ。

 人間が何だ、クソ食らえ。
 
 眼が語る。強く、鋭く。それは闇黒のマントを纏った気高い騎士が、腕を失くしてもプライドを捨てず最期まで立つ様を彷彿させた。昔読んだ漫画に、そんな場面があった。
 
 退け、そこは俺の通る道だ。

「――うるさい、トリ」
 一瞥をくれてやると、ゆえは踵を返して歩き出した。
 あたしって鳥類に喩えると鴉になるのかなあ、と薄ら呆けた事を思い浮かべながら彼女は先を急ぐ。気味の悪い動物とくだらないやりとりを繰り広げるなんて、利得もなければ意味もない。寧ろ一瞬可哀相と思ってしまった自分が可哀相だ。

――あいつ……飛べないのかな。

 僅か気になったけれど、振り向きはしなかった。


 微風が凍えていた。
 露出された肌に突き刺さる冷気。目が乾いて痛い。傘をどこに向けても風は懐く様にしなって寄りつき体が震える。水溜りを踏みつけて、飛び跳ねた水滴に思わず悲鳴を上げそうになった――何? 温暖化はどうしたの?
 苛立つ心に逆らって、脚がうまく動いてくれない。
 漸く広場まで着いた時、温度は一層下がった気がした。

――えっ……!?

 傘が地面に滑り落ちて全身に滴が降り掛かる――けれど、声は言葉にならず撓んだ。
 広場の真ん中に男が立っている。
 雨に濡れても端正な顔を歪ませず、それでもどこか不機嫌そうに見える表情。切れ長の瞳が空を見上げ憂鬱を全て受け止めていた。
 写真の男――朝倉まなみの恋人がそこにいた。





――あなたの瞳に映ったものは、

――穢れた真っ黒なあたし。


an interlude【Dead Destiny to Die】


 雁字搦めにされた魂。
 生きた喜びを全て忘れて、犯した罪さえ贖えず。
 命をかけて愛した者の顔も思い出せない。
 輪郭さえ曖昧な魂よ、どうしておまえは嘆き続ける?


 彼は目覚めた――唐突に。
 闇の混濁から意識を取り戻してみれば、どういうわけか雨に降られていた。
 見上げた空に時間を見い出す事は出来ない。明けたばかりの仄暗さか、それともこれから沈みゆく逢魔が時か。まあどちらでもいい、考える事すら疎い。厚く視界を覆った灰色を苛立たしそうに見つめながら、軽く脚でリズムをとる。
 雨音が聴覚を刺激して、自然と気持ちが昂ぶった。
 全身に降り掛かる雫をさして気にする様子もなく、首だけで辺りを見渡す。霧がかった空間は薄く膜をはった様に揺らめいて、遠くの景色を微妙に歪める。ここは何処なんだろう、あの先に微か映るものはひどく頭を垂れた樹で、その真下で半分濡れずにすんでいるものはベンチ、樹の陰からひょっこり顔を出しているのは土鳩らしい。それらは解る、しかしこの場所を俺は……。
 途端、雷が鳴った。
 大地に轟く壮大な雷鳴の息吹に、樹の上を寝床にしていた鳥達が一斉に飛び立つ。下界を眺める神は機嫌を損ねて、その怒りが雲の間を流れてさらなる稲妻を呼んだ。

――「俺は……誰だ?」

 低くかすれた、僅か艶やかさを孕んだ声。
 口から吐き出された音は雨に紛れ散る。聞き覚えがあるようで、ない。
 振り返れば、記憶と言うものをどこかに置き忘れていた。重大な事なんだろう、けれどそれらが淡白に感じる。名前や思い出が何故か要らなくて、不規則に彩られた音楽が頭の中を占拠した。遠退いていく雷鳴と共に、違和感も薄れゆく。
 雨脚が強まる――心地好い。
 曖昧に降られるよりも、いっそ溺れる程濡れたほうが落ち着いた。彼は肩まで伸びた髪を鬱陶しそうに掻き揚げながら、地面を侵蝕する水溜りに目を向ける。水面は静寂を知らないのか、激しさを増した雫達に煽られて踊った。
「……何?」
 切れ長の瞳を細める。
 視界の先で水が奇妙に渦を巻き始めた――撓んだ水面に影が射し込む。初めはそれが何なのか解らなかった。細い、華奢な女の姿と認識出来た経緯は知れない。シルエットを明瞭にしたのは追撃ちをかけた雷である。
 それは、

――まな。

 朝倉まなみの影を掴んだ時、彼の中でそれは溢れた。
 言うなれば黒褐色の写真。忘れていた記憶を写した、鮮明に色の欠けた思い出。

――まなみ!

 取り戻した感情は全て彼女への愛情である。
 理解出来ないくらいの言葉が心に響く。ベッドの上で囁いた誘いの言葉は甘く、夕暮れの木漏れ日で告げた想いの証が重たかった。うまく抱き締められないやりきれなさに叫んだ、あの瞬間の涙を、拾い集める事が困難なそれらの渦を、纏め上げたたった一言。
「……っ」
 神夜楓は切なさを零した。


 どれだけの時間、佇んでいたのだろう。
 雫は緩やかに降り注ぎ、幾らか空は白んだ様に見える。しかし覆い被さった厚みは、遠く見渡してみても途切れる事はなかった。太陽の位置を掴めない、いつまでも降り止まない気配に、楓は一瞥をくれて一歩踏み出す。
 逢いたい、今すぐ。
 心を支配する感情はそれしかなかった。それしか要らない。駆け出したい衝動を抑えているものは、纏わりつく弦楽器の調べにも似た旋律。体がうまく動いてくれず、彼の苛立ちは募る。雨音が邪魔だ。むかついて、髪を掻き揚げる。
「――あなた、誰?」
 唐突に呼び止められ、けれど驚く事はなく、遅い動作で振り向いた。

――真っ白。

 瞳に映り込んだ彼女を見て、楓は思うよりも先に見蕩れる。

――まなみに似た香り。





――海へ堕ちゆくあたしは、きっと輝いている。

――もう逢えないけど、最期まで見ていて。


Fifth【because BE sings out of TUNE】


「――あなた、誰?」
 毒を吐いた。
 宵闇と見間違うほどの暗さに染められた雨の中、ばらばらに散った薔薇の如き痛みを篭めて、白石ゆえは感情を剥き出しにしている。
 精細さに欠けた音を響かせる行為そのものに嫌悪感すら抱いた。
 それでも男――神夜楓を睨む。
 どれだけぶっきらぼうに振る舞おうと、どれだけ人嫌いの仮面を被って生きてきたとしても、これが初めて塗った毒の言葉。
 詞に意味を見い出そうとするゆえにとってそれはヒトの領域に踏み込む事。
 周りの誰からも嫌われたくないから表面と裏面を隔てて生まれた人嫌いの性は、ほんとうの意味で人を嫌えない。嫌えば否応なしに覗く。覗けば覗かれる。
 自己矛盾の仕組は、そうやって彼女を縛ってきた。
 薔薇の花を自ら握り締めて、掌を滲ませる――今のゆえはそうやって楓に挑む。
「ねえ」
「……――」
 声が届いていないのか、彼は表情一つ変えずどこか遠くを見つめていた。
 その視線の先に白石ゆえという人間は映っていない。真黒の瞳に漂ったさらなる闇色は輝きを失って、大きく歪んだ漆黒のみが波打つ。
 感情の破片を探し出せなかった。哀憐も熱情も、宿る器をもたないように。
 憂鬱を侍らせた雫は止む様子もなく、心は時間と共に蝕まれていく。ひどく凍えた風が頬を撫ぜた。細やかな肌に爪が食い込み、肉をえぐる。
 灰色に侵蝕されて気持ちが傾いた。
 思考は限り無く下降して、ありもしない方向を目指す。

 朝倉まなみの恋人は生きていて、目の前で茫然と佇んでいる。

 ありえない、まなは嘘を吐かない。
 出逢って話した時間は瞬く程で、信頼関係とかそういうものを結ぶには短過ぎて、けれどゆえにとって瞳を交わした瞬間の熱は時の流れを凌駕した。まなみは嘘を吐かない、そう彼女は信じ込んでいる。
 まなみが今居なくなってしまったら。
 絶対に泣く。きっと苦しい。耐えられない。
 あの燃え上がった理解不能の想いは――やっぱり一目惚れ。
 だからありえない、この男は違う人なんだ。

 解っている。そんな事は解っていた。

 けれど、ゆえの心は歯止めがきかなくなっている。厭らしくてねじれた部分が前へ前へと押し寄せた。一度柵を越えた憤怒とも嫌悪ともつかない苛立ちは異常に膨れ上がって、彼女自身よくわからないほど、溢れ出す。
 蛆がわくほどに滔滔と、暗く暗く激しく、静かに。

――嫌。

 仮面を捨てて、楓を見据える。

――嫌なの、あなたは。

 生きているとか死んでいるとか、そんなものはどうでもよかった。
 写真と同じ端正な顔。背は低く華奢にも見える引き締まった体と、そこから伸びた異様に長い手足。細く高い鼻梁とシャープな頬が知性を感じさせ、纏う雰囲気は刺刺しくも他人を惹きつける魅力がある。
 哀愁を帯びた不機嫌な面、たたえるのは微笑、それとも冷笑か。
 正直かっこいい。湿った肩までの髪も艶やかだった。
 その全てが気にいらない、その全てが嫌だ。
「ねえって。聞いてる?」
 まなを哀しませるこの顔が、あたしを泣かせたこの男が、憎い。
 死んでしまえとも思う。
 やめて――ゆえに内在する一面が訴える。制御出来ない心はそれまで片隅にある事すら憚った言葉達を連ね、そして沁み込ませた。
 真っ黒な内側が、もっとどす黒くなる。夜闇にも溶け込んでしまいそうなほど、闇黒面は何度も何度も黒で塗り潰された。行き先も見失って、黒く黒く……。


 ほんとのあたしは醜いの。
 綺麗じゃない、誰よりも卑怯で誰よりも暗くて。
 でも。
 でも、だから、真っ白なあなたに惹かれたんだよ。
 まな――。


 ありったけの毒を含んで吐き出せば、少しは薄まるかな。荒れ狂ったこのどうしようもない波は落ち着くのかな、そう願うように言い聞かせた。
 ずっと霧雨を浴び続けたせいか、軽く眩暈を感じる。むきになって、ぼやけてきた視界も無視して口を震わせた。そんなわけない、って。
「もう――」
「君はまなの何だ」
 低く甘い囁きがよぎった。
 宙に舞った響きはまだ尾を残して彷徨う。聞くだけで背すじにぞくっと、痺れの様な感覚に襲われた。ゆえとは全く違う、それでも奏でられるだけで耳を澄まさずにはいられない不思議な声の音色。思わず身じろぐ。
「あたしは」
 突如投げ掛けられた冷徹さに揺らいだ。怒涛の如く押し寄せていた熱情も一気に冷める。
 あたしはまなの何だろう。一瞬悩んでしまう。
 ゆえはまなみが好きだった。だけどまなみの気持ちなんて解らない。優しくしてくれたけれど、ほんとうはどうなんだろうと思考が廻る。廻って、悩んだのはほんの一瞬で、
「友達……」
「おともだち」
 聞き慣れないな、そんな風に言い放つ。
「た――大切な友達!」
 叫んでいた。
 周囲の騒がしさに邪魔されないくらい強く、自分でも驚くほどに。
「大切な友達」
 楓は反芻する。
 ゆえの言葉に篭められた気持ちを察して微笑む。表情は変わらなかったが、それでも確かに彼は微笑った。
 不器用で自分を責める、真っ黒だと思い込んだ、可哀相な優しい少女。
 楓は己の内に抱え込んだ闇を昇華しようとしたが、心の膿は思ったより深かった。内に溜まったはちきれそうな詞の奔流に、一言紡ぐのも躊躇う。なるべく優しくしよう、まなみのように、まなみを好きなこの子のために、そう願ったが――。
 叶わない。
 意思を喰われた。闇の色に、犯される。
「君に……」
 細くそれでいてしっかりした楓の腕が、ゆえの二の腕を鷲掴みにした。
「えっ――」
「まなはわたさない」
 触れられた刹那、開けた意識のうねり。溢れるじゃすまされない言葉の群れが、ゆえの内側に這入りこんできた。


 まなが望んだから、俺は帰ってきた。
 まなが俺を欲している。
 彼女が俺を呼んでいる。
 誰にも彼女をわたさない。

 俺はまなを愛しているから。


「――殺してでも、俺は彼女を連れていくよ」
 風も、雨も、雲達ですら楓の言葉に凍ってしまう。絶え間なく襲い掛かる歪められた想いと腕から零れた朱に絶叫も許されず、ゆえは遠退いた視界の先をぼんやり眺めた。
 彼が涙を流すそのわけを、ゆえは知りたかった。





――瞼を閉じて見えたあの頃の思い出、

――あたしは何も知らずに笑ってた。


Sixth【the CAWING of A Crow】


 ゆえと言う意識が曖昧なものに崩れていく間際、楓は泣いていた。
 その瞳から零れ落ちた透明は、降り掛かる雨とは混じり合わず、純潔を守って地面に吸い込まれる。鮮やかに映えた無色に、血の赤が注がれ穢れた。ゆえの腕から滲んだ真紅はその存在を知らしめるかの様に漏れて、あてもなく彷徨う。
 絶える事のない霧雨の静かな旋律に掻き消されたのか、ゆえの叫び声は小さく嗚咽に変わった。押しては返す心の言葉が胸につかえる。耳につく雑音が疎ましく、感覚が薄れて現実味を欠いた。ただ、光景の中に取り残された体は冷えて、肌の痙攣がなぜかくすぐったい。
 溢れたのは神夜楓と朝倉まなみの思い出、温かな微熱。
 それがひどく虚しいものに思えた。
 もう戻らない過去の残像は美しく、脆かった。
 薄れゆく映像は不明瞭に輝いて、周囲の景色も鉛のカーテンに覆われ見えない。視界の中心で涙する楓の真意を読み取れないまま、しかしまなみを想う気持ちだけは重く強く圧し掛かる。「意味」は解らないけれど、何となく彼の涙は綺麗だった。そんなどうでもいい事だけが頭を過ぎって、とうとう全てが消えていこうとした時、微かに聞こえた声。
「――ぇ」
 やけに遠くから響いた音色は、聞き覚えのある温もり。
「ゆえ!」
 ああ、来てくれた。
 ああ、またゆえって呼んでくれた。
 幻聴でもいいと願った彼女は、安堵して睡る――。


――あたたかい。

 真っ白なベッドの上で白石ゆえは目覚めた。
 なだらかな温もりに抱き締められて、体が起き上がる事を拒んでいる。考えるのも億劫で、開いた視界がすぐ閉じようとした。ぼやけた意識の境目に見慣れない振子時計が掛けられていて、カチカチと言う音が騒がしい。心地好さを途切れ途切れにされて、ゆえは不機嫌そうに寝返りをうった。まったく、煩い。

――あたし、何してたんだろう……。

 記憶を辿る。
 夢を見ていた気もする。友達のできる物語だ。夢の中のゆえは誰にも心を隠す事なく、両手を伸ばして痛みを受け入れられるほど強かった。儚い理想、いつの間にか潰えてしまった自分の姿を幻想に求めたのか。自嘲するように笑って、根本的に何一つ思い出していない事を莫迦らしく思う。ここは何処だろう、と仕方なく上半身を起こした。
 樹造の棚に横たえられた写真立てを映して、漸くここが朝倉まなみの部屋だと解る。シーツから香るにおいに心が埋まって、よけい動き出そうとしなくなった。怖れすら感じた優しさも何故か慣れている。慈愛を孕んだ空気に泣きたくなったけれど。
 どういう経緯でここに居るのか、それよりも先に温かさがある。
「……まだ、雨降ってるんだ」
 霞む目をこすって、耳障りな音に気をとられた。
 窓の向こう側は、まるで時間と言う概念を切り取ったかの様に色を変えず、時として見えないほど街を覆い、また激しく窓を打ちつける。灰色の世界から舞い降りる雫達は何を思って地面に飲み込まれていくのだろう、風は風で彼等の隙間を縫って泳ぐ。眠りまで忘れて働く自然はどういうわけか寂しい様に見えた。
 遠くで雷が鳴る――二度三度、雷鳴が響く。
 ゆえは落としていた記憶の破片を拾おうとして、次の瞬間また落とした。
「――あ、起きてる」
 ちょうど、まなみが服の袖を濡らして帰ってきたところである。
「ねえ、あれ、何」
 そのか細い腕に重たそうな買い物袋を抱える彼女に、ゆえは目を向けず訊く。
 扉の開け放たれた鳥籠に巣食う影、漆黒の翼。痩せた躰を精一杯伸ばして、威嚇しているのか背伸びしているのか、おそらく欠伸でもしているのだろう。右肩を下ろしたまま毅然極まりない態度で佇むそいつは、間違うはずもなくあの時の鴉だ。闇色の瞳がじろりとゆえを見据えている。そうだ、確かに遇った。
 唖然とする、と言うよりは無性に苛立つ。
「何って……たぶん鴉だと思うけど」
「そういう事じゃないって」
 小首を傾げるまなみに悪意はなさそう。
「どうしてこいつがここに居るの?」
「だって、ゆえの傍から離れなかったんだもん。幾ら呼び掛けても起きないからかな、何度も脚で頭を小突いてたけど……」
 いまいち言っている事の意味を理解出来なかった。一先ず頭を撫でてみると、少し痛い様な気もする。鴉はそんなゆえを見て、何を思ったか肩を揺らした。
「起きないって……あたし、どこで寝てた?」
「あの広場。覚えてない?」
 問い掛けられて、濁っていた情景が浮かび上がる。


 神夜楓の事を思い出した。瞳から零れた涙と、流れ込んできた想いを。

――あいつ……。

 ふいに左腕が痛んだ。
 自らの爪でつけた傷なのか、鷲掴みにされた時ついた傷なのかははっきりとしない。それでも赤く滲んだ血の痕はあの場面が夢ではなかったという証、ふわふわと浮き足立った記憶を信じるなら、男はゆえの目の前に存在していた――そう思考が廻って、彼女はそれらの出来事をまなみには話さないでおこうと誓った。
 ほんとうか嘘かよりも、ゆえはまなみの哀しむ顔をもう見たくないから。
 涙は刺激が強過ぎる。

「殺してでも、俺は彼女を連れていくよ」

――あたしはまだ生きている。



「あそこで何してたの?」
「何って、何が」
 木目柄のカーペットに腰を下ろして、ほろ苦い珈琲に口をつける。二十四時間、その時間があたえたこの味の懐かしさに感謝した。もう自販機でまずいやつは飲めないな、喉を通る熱に何度目かの同じ言葉を呟く。スプーンで掻き回すと、軽く渦をまいて波打った。
「……心配した?」
「雨の中倒れてたんだよ」
「そっか」
 何気なく聞いて、真剣な表情で返すまなみに思わず微笑ってしまう。あなたは真正面から覗いてくれるんだね、あたしのこと。幾らか眉を寄せる彼女に、ゆえは掌を振って見せる。ぜんぜんだいじょうぶだよ――嘘を吐いた。
「たぶん……風邪。頭ぼうっとするし」
「嘘!? あ、待って、お薬持ってくるから」
 しまった、間違えたかな。
 一目散に駆け出していくその慌てぶりに、知らない内に苦笑い。カップを揺らして、ぐぐっと飲み干した。一滴も残したくない、たくさん言いたい事があったけれど、それも一緒くたにして呑んだ。だって、幸せなんだからいいでしょ?
「はぁ」
 溜め息を掴むように、鴉が可笑しそうに鳴く。
「……あんたさぁ、あたしの頭蹴ったってね。トリのくせに」
 鳥籠の中にいる、黒い鳥。気味の悪い動物などではなく、見れば瞳のよく透き通った精悍な顔つきをしている。ゆえの悪態に澄まして気取り、首をひねって彼女を眺めた。やはり翼を垂らした容姿は、闇黒のマントを羽織った騎士の様。プライドなんてものは姫君の前ではいらないよ、と嘯く。
「トリのくせに、バカみたい」
 ありがとうと言えないゆえは、意味を言葉にのせて届ける。
 鴉は詞が解るわけもないのに、気恥ずかしそうに首を傾げた。
 嬉しいのか迷惑なのか、一声鳴いて――。





――あなたのぬくもりだけをのこして、

――思い出すら崩れていった。


Seventh【SMILE in a gloomy FEELings】


 窓の傍から遠くの景色を眺めた。
 蜃気楼の様に映る街の姿。霧がかった建造物は揺らめいて、果てしなく続く様相が現実とずれて見える。時折鳴り響く雷は鉛の間を一閃して、闇黒の空に亀裂を生んだ。
 待ち続けても降り止もうとはしない雨、神様は不機嫌らしい。
 亜透明の硝子にはりついた雫をゆえは人差し指でなぞった。洗いたての食器を触ったみたいにキュキュと鳴って、指先に絡む冷たさが心地好く、執拗に遊ぶ。
 何度か繰り返しているうち、天から大音響の稲妻がそれ程離れていないところに舞い降りた。激しい振動に揺さ振られた心は、一瞬閃光が焼きついて眩暈すら起こす。
 溜め息を吐く。漏れた吐息が部屋を漂って、温かさに馴染んでいった。
「嫌だなぁ、雨……」
 太陽は暗天の中に閉じ篭ったまま、じめじめと空気は澱んでいる。宵闇と夕暮れの静けさは境界線をもたず、いつ夜の帳が下りようとも気づけない灰色の闇。
 ゆえはむかついて鳥籠を叩いた。太陽、仕事サボるな。
 やつあたりを被った漆黒の翼は、抗議の鳴き声を上げる。
「……何?」
 細く尖った闇色の躰を見据えて、彼女はもう一度軽く小突いた。
 ぐきぃ、と何だか形容し難い不満を漏らす。透き通った黒の瞳に照らし出されたゆえの表情は、意地悪そうに微笑っていた。
 はっと我に返る。唇を真一文字に結んだ。
 何やってんだ、あたし……。
「ゆーえ、鴉くん苛めないのよ」
 髪を掻き毟るゆえに、穏やかな口調で諭す様に言う。
「はいはい」
 言いつつ睨み合う一人と一匹を視界に捉えて、まなみは珈琲に口をつけたまま、
「もう……」

 微笑んだ。


――あたしは逃げ出した。

 優しさの裏に潜んだ哀しみが怖かったから。
 まなの笑顔を怖いと思ってしまったから。
 今、目の前で微笑うあなたは、何を考えているの?

 あなたはあたしをどう思っているの?


 なぜか、ゆるやかな雰囲気の中で、ゆえは波打っていた。
 荒荒しく、感情が隆起している。
 逢いたかったはずだ。だからここへ来た。
 自分自身でがんじがらめにしてしまった心を、いとも簡単に解いてしまったまなみを求めて――雨の中を彷徨ったのだから。
 神夜楓という存在。流れ込んできた彼の想いが邪魔をする。
 その哀しみや喜びは、まなみのもつ哀しみや喜び。喪失の概念を味わった事のないゆえにとって、あまりにも大き過ぎる心の闇。
 彼女がこれまで避けてきた、痛み。

 まなみは微笑を絶やさない。
 目が眩むほどの真っ白な笑顔。出逢った瞬間やられた微熱。

 だから、怖いんだ。真意が知れなくて。闇の先が見えなくて。

――あなたはあたしを覗くのに、あたしはあなたを覗けない。


「――ごめん」
 思わず、言葉が溢れてしまった。
 慌てて口を塞ぐけど、恐る恐る見上げたまなみの表情はやはり曇っている。手に持っていたカップがテーブルに置かれて、そのコツという音が何だか響いた。
 ゆえは抑えようと頑張ったけれど、いつもよりは頑張ったけど、無理だった。
 ううん、ごめん、何でもないよ。そうやって「今」を守りたいのに。
「ごめん」
 唇が震える。くすんだ感情をどうにも止められない。
「あの時、逃げ出して……ごめん」
 俯いたまま反応を待った。
 振子時計の音色が気になる。鳥籠の中の鴉は羽ばたくのも毛繕うのも止めて、事の成り行きを静かに見守った。透き通った瞳に映った空気は温かいままだ。
 優しい思い出に包まれた部屋は、何も知らない顔で手を差し伸べない。
「……ゆえが謝ることじゃないよ」
 ぽつり、逃してしまいそうな微かな言葉。
「嬉しかったんだよ、あなたがうちに来てくれて」
「えっ――」

――どうして、微笑いながら、涙を流せるの?

「あの場所はね」
 まなみの瞳から頬をつたった一雫は、そのまま彼女の手の甲に沈んでいく。
 意識がその存在を認めた瞬間、ゆえは楓の涙を思い出した。純度を保った至極綺麗な無色は、今目の前で消えたそれと重なる。
 鮮やかな色彩のどれよりも背景に映えた真透明の結晶。
 見惚れてしまう。
 何故か、恍惚と。
 気づけばまなみの手には写真立てがあった。少し埃の被ったつづれ織り、思い出の残像を嘲笑うためにそれはあるのか。そうだとしても、彼女にとっては大切なもの。
「私が恋人とはじめて逢った、思い出の場所なの」
 そう言って写真を手渡される。二度目だったけれど、あらためて見ると神夜楓という男は不器用な微笑を浮かべて、まなみの肩に手を掛けていた。
 すごく嬉しそう。すごく幸せそう。
 現像の中だけでも、彼が優しそうだと思った。
 何かつらかった。
「あそこでね、彼はいっつも歌ってた……」


 楓が歌うとね、太陽はその輝きを増したんだよ。
 樹は微風に揺られてね、楽しそうに聴き入ってた。
 鳥達も、たまたま通りかかった人達も、みんなみんな。
 私も、はじめて逢った日から毎日聴いたけど、飽きなかった。
 歌手は目指してなかったんだ、彼。
 お金のためじゃないんだって。
 ひとりでもいいから聴いてくれればそれでいいって。
 私に聴いてもらえればそれでいいって。
 そう――言ってくれたのに。

 約束してくれたのに。

 雨の日、楓、死んじゃった……。
 私に何も言わないで、
 ひとりでどこか行っちゃった。


「ごめんね、ごめんね……」
 ゆえは途中から聞くのを諦めていた。
 何も着飾っていない言葉は、痛過ぎる。つらすぎる。哀しすぎる。
 やめて、もうやめて、そんな事は言えない。
 自分を抱き締めて泣きじゃくるまなみを、ひとかけらも癒す事はできないけれど。
 それでも震える両腕で、まなみを抱き締めた。
 知らないうちに、ゆえの頬を冷たさがつたった。





――せつなくて。

――せつなすぎて。


Eighth【word of force】


 狂ったのは雨の日だった。
 果てしなく続くと思っていた――勘違いしていた愛しさが潰えてしまったのは、霧のような空の滴がそそぐ、薄暗がりの瞬間である。傘をさすと視界は塞がって、それは相手側も同じ立場ではあるけれど、一つ違ったのは恋人同士になって初めて喧嘩したという事。
 契機は些細な、些細なすれ違いだ。
 不器用な神夜楓は素直な気持ちを言葉にできなかった。
 ありがとう。好きだよ。そんな単純な言葉も極端に怖かったから。
 自分に自信がなかったわけじゃない。だが愛されている自信があったと言えば嘘になる。どこまで好きでいていいんだろう、どうしたら嫌われないですむのだろう。どうしようもないほど不器用だったから、どうしようもないほど彼女を好きだったから、怖かった。
 朝倉まなみ。真っ白な女の子。黒く澱んだ心をあっという間に綺麗にしてくれた、ほんとうに白く美しいひと。離したくはない。できればずっと一緒に居たい。だから、嫌われたくなかった。もがいてもがいて、気づけば素直になれなくなっていた。
『あなたは私のことほんとうに好きなの!?』
 結局傷つけてしまった、と楓は嘲る。
 電話越しの彼女の科白は、夢の中でさえ言われたことのないもので、何も言い返せなかった。言われて、ああそうなんだ、と思ったくらいだ。伝えきれていなかったのは俺のほうか、なんて少し冷静を気取ってみたりする。振り返ると想いは胸に溜めたまま、吐き出していなかったらしい。いつか偉そうに語った、感情は言葉にしなければ無いのと同じだって。『無かった』のは楓のほうだった。
 降り止まない雨、いつもは好む湿っぽさが鬱陶しい。絡みつく冷たさに立ち止まってしまいそう。それでも彼は自分に言い聞かせて前へ進む。
 まなみは電話を切る時、一言『好き』と漏らした。言葉は重い。たった一つの言葉に籠められた想いがおおくて、重かった。なぜ素直になれなかった、なぜこんなにも感情を紡げないでいたんだ。楓は受話器を置いたあと、自問自答を繰り返しながら家を飛び出した――外はあいにくの雨模様で、ひどく神様を恨んだ。
 まだ、だいじょうぶ。今なら素直になれる。
 戻れると思う。いつものように彼女は微笑いかけてくれると信じた。
 何て言おうか、何て謝ろうか。言い訳にしかならないのを承知で、それでも言わないわけにはいかないであろうそれを、言葉にしてしまうとつまらないもののように思えて、胸に仕舞う。素直になるって誓ったばかりだろ。あまりの莫迦さかげんに嘲笑った。
 逢えばいい。逢って一言『愛してる』と言えば、それでいい。
 何も飾らなくたって、きっと届く。
 踏み出した脚が白線を越えた。横断歩道か。


 目の前に迫った車がひどく大きく見えて、驚いた。


 痛い。死ぬほど――痛い。
 痛かったんだ、たぶん。けれどそんなものすぐに無くなった。
 最期に思い描いたものはやっぱりまなみの笑顔で、それがとびきり可愛くて、ほんとうにほんとうに可愛くて、世界一の微笑みで、大切なもので、

 嫌だ。

 もう逢えなくなるのは、嫌だ。
 嫌なのに――。


 狂ったのは雨の日だった。
 愛しさだけがこびりついて離れない、運命の日。
 真っ白になった視界の先に、彼女を見た。



 ヒトの涙は綺麗だと思う。
 どんな色よりも控え目で、それでいてあらゆるものに映える透明の雫。泡沫のように、この世界に滲み出ては薄れていく。その繊細な結晶に籠められた感情はおよそ胸に抱えきれなかった、大きすぎるもの。哀しみ、喜び、切なさ、決して理解できない想いだってそこには眠っている。涙は小さいけれど、その意味は大きい。
 まなみの瞳から溢れてはゆえの胸元を濡らしていく涙。抱きつかれて触れた肌は、違和感があるほどに温かかった。
 ヒトのぬくもり。ぬくもりなのに、なんだか冷たい。
 楓に腕を掴まれた時直接流れ込んできたもの、それとは少し違う切なさは、高鳴る心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを伴う。あの時は彼の言葉がそのまま強引に這入りこんできたけれど、今ゆえが感じる言葉は優しかった。受け取らずにはいられない儚さを纏った言葉、ちゃんとしたかたちにはなっていない。それでも、意味は届く。

 あなたが居なくて哀しい、寂しい。逢いたい。今すぐ逢いたい。できるなら全て忘れてしまいたい、でも忘れられないよ、存在が大きすぎるよ、たすけてよ。

 自分にもたれかかって泣き続けるまなみを、ゆえはか細いと思った。体じゃない。大切なものを失ってしまったその心は隙間だらけで、いつ壊れてもおかしくはないくらい弱ってしまっている。細くて、脆い。
 唐突にゆえは自身を呪う。何も知らずに甘えようとしていた自分を。
 でも、何故?
 ほんとに手を差し伸べてほしかったのは彼女のほうで、崩壊しかけているのに。楓という水をなくして、枯れようとしているのに。どうして――。
 どうして微笑っていられたの?

 まなみの涙に見惚れた時、気づいた。

 まなみは――全てを背負った。どうにもならない哀しみを抱え込んで、それでも前を向いて歩こうと。幸せだった日々の思い出も、彼を失ったつらさも、心に負った闇に微笑んで一緒に歩いていくことを選んだ。そうやって、乗り越えた……。
『あなたが愛してくれた私を大切にしたい』

――あたしなんて、我が儘なだけだ。

 傷つきたくないから、他人を傷つけたくないから、誰も傷つかないように殻に閉じ籠ってほんとうの自分を隠して、人嫌いなふりをして、甘ったれていただけ。そうやって弱い弱い自分を見せないようにしていた。矛盾の檻に自ら入って、鍵をかけて。
 
 まなみへの愛しさは変わらない。

――あたしもまなのようになりたい……。

 願うだけの日々から脱け出したい。ただ、切なすぎたこの時間を、どうにか――。


「――あたし、歌うよ」
「ゆえ……?」
 抱き締める腕に力を込めた。冷たいと思った肌は、やっぱり想像したとおり温かい。
「その人のために、まなのために、歌うから」
 鴉が鳴いた。
「あんたのためにも歌ってあげるから」
 それから――自分のために。


――窓の向こうに見えた大切なもの、手を伸ばしても、届かない。

 あたしも、あなたも、皆が求めてるもの。

――どうしてあたしに翼はないの。今すぐにでも羽ばたきたい。

 あたしが天使だったら、まなを幸せにできるのに。

――この一言だったら届くのかな。あなたにも響くかな。

 すこしでもいい。力になってあげたい。

――大好きって気持ち、響くかな。

 あたしは変わる。強くなる。

――『愛してる』


 小さく拍手が聞こえた。
「……ありがと――」
 半泣き半笑いの顔で紡ごうとした刹那、

 じゃあな。俺は行くぜ――。

 鳥籠から飛び出した鴉が、窓硝子を突き破って闇黒の空に舞い上がった。
 両の翼を優雅にひろげて、薄闇を切り裂いていく。
 ゆえとまなみは、目を合わせて――二人して笑った。





――せつなさの海はあたしをのみこんで、

――最期の輝きすら闇にとけた。


Ninth【A FLORAL DESIGN】


 思い出の残像が霞む広場。
 闇を掻き分けて泳ぐ一羽の鴉を見送って、楓は溜め息を零した。
 頬には一閃の血の痕が通って、しかし飛び立ってしまった彼を見つめたまま微動だにしない。もう痛みなど感じなくなった躰は麻酔でもかけてあるように、指先を動かす事すら億劫である。最期の希望とは言えないけれど、その「光」ももう潰えた今、その躰を包むのは追い風であるはずなのに――意識も混濁として「闇」も鈍かった。
 冷たさを纏ったあいつは、あとどれくらい羽ばたいていられるだろうか。ふいにどうでもいい事を考えてみる。
 純粋に触れすぎた鴉はもう――。
 視界の中で闇色の翼が周囲の夜にまぎれていく様をそのままに、楓は瞳を閉じて些か不機嫌そうに両腕をひろげた。降り注ぐ雨粒を受け入れて、虚ろな心を満たしているように見える。仄暗い闇のひろがる心を、憂鬱が埋め尽くしていった。
 離れた光もどこかへ羽ばたいていって、もう二度と戻ってはこないだろう。
 何もかもが潰えていく。感覚が、感情が、思い出さえも。
 涙が頬をつたう。

 愛する者を想う気持ちが消えていく――哀しい。

 死んでしまう前に伝えたかった素直な言葉も、付き合い始めてから最期の日まで重ねたおおくの温もりも、非力な彼がもっていた僅かな強さも、朝倉まなみという女性から受け取った数えきれないほどの愛情も、繰り返し繰り返し悩み連ねた痛みも、全てが神夜楓という器から溢れて、消える。
 愛を忘れてしまう。積み重ねていたものが、『無い』ものへと変わってしまう。

 虚しい。哀しい。寂しい。やがてそれすらも泡になって、楓はこの世界から去る。
 こんなにもまなみを愛しているというのに――。

 楓は闇を見据えた。

 残酷な神様、どうか最期のチャンスをください。
 優しすぎる彼女の心に、俺への愛情と思い出、
 そして――迷いがあるうちに。


 夜闇が退いて朝陽が昇る。
 遠くから響く雨の調べ。どうやら降り止む様子はない。


 微かに物音がして、ゆえは瞼を開いた。
 薄らぼけた視界に映った割れたままの窓硝子は、雨をしのげるようゴミ袋を貼って適当に直されている。隣には再び宿る翼を失った鳥籠が、淋しそうに吊るされていた。あの鴉はほんとうにここに居たのだろうか――彼女にとってはどうでもいい事で、しかし空っぽのそれを見つめていると無性に虚しい。
 寝起きで意識が揺らぐ。何か、色色な事があった。不安になるほど心の澱みが取り払われてしまって、神夜楓と遇った事さえ夢幻のような気がする。苛立たしさだけを募らせた雨音が心地好く耳にはいって、知らないうちにリズムをとってしまう。
 今なら自分自身も綺麗と言える言葉を――歌にできる。そう思った。
 好きだよ、とか。
 ありがとう、とか。
「……あ、起こしちゃった?」
 声のしたほうを振り向くと、まなみが幾らか慌てた様子で立っていた。昨日ベッドでゆえと一緒に眠った時とは違う服装をして、右手には白い帽子を持っている。
「ううん、ふつうに起きた」
 髪を掻き揚げた。絡まって少し痛い。
「眠たかったら寝てていいよ、まだお昼になってないし」
 寝癖と悪戦苦闘するゆえを微笑んで見つめながら彼女は言う。ベッドの上を仰ぎ見ると、振子時計は十一時を知らせた。
「もう昼じゃん」
 苦笑いして上半身を起こす。
「どこか行ってた?」
「んー……ちょっと」
 む、と口を結ぶゆえに、まなみは楽しそうにまた微笑った。ほんとうに、彼女の微笑は喩えるなら「真っ白」だ。けれど――初めて見たその笑顔とは印象が違っている。やわらかくて優しい、そして力強い表情。眺めるだけで心が安らぐ。
 素直に素敵と思える自分が嬉しい。
「いいけどさぁ……」
「ゆえさ、お買い物行かない?」
「うん……? いいよ」
「玄関の外で待ってるから、用意できたら来てね!」
「う、うん」
 よくわからないゆえは首を傾げて、まなみが出て行くのを見届けてから起き上がった。体に纏わりつく気怠さも暫くすると落ち着く。
 洗面台に立って蛇口をひねる。正面の鏡に映し出された彼女の顔は、普段と何一つ変わらない見慣れたものであった。緩んで丸みを帯びた表情に、いつもの癖で偽りの仮面を被る。不機嫌面の仮面、可愛くない――両手で水をすくって浴びせた。零れて排水溝へ流れていくその中に、好きでもない仮面も一緒にして投げ込む。タオルで顔を拭いて、鏡に向かって笑いかけている自分のまぬけ面を可笑しく思った。
 出て行こうとして、棚の上に置かれた写真立てに目を遣る。埃がきちんと取り払われていて、もう寝かされていない。
 一瞥して、部屋を出た。
「はいっ」
 突然それを手渡される。
「……これ」
「さっきね、花屋さんに行ってたの」
 それは細くて今にも折れてしまいそうな一輪の花だった。傾げた首の先にある花片はうすい紅色、繊細なつくりがゆえの掌で鮮やかに色づいている。
「あたしのために……?」
「私の大好きな花だから――大切なひとにあげようって思ってたの」
 結局あげられなかったけど。
「だからもらってくれると嬉しいな」
「あたしでいいの?」
 聞き返してしまう。
「ゆえにもらってほしい」
 泣きそうになった。恥しくなって俯く。唇が震えて、一言搾り出すのも必死だ。

――「……ありがとう」

 言えた。
「一緒に、花瓶選びに行こう」
「うん」
 
 宝物を胸に抱えて、雨の降る道を二人で歩き始める。まなみの差した傘にはいって、霧雨を浴びる音に揺られながら。瞳から滴った大きな一粒が、淡紅色の花片を濡らした。

 なぜ、こんなにも心が騒ぐんだろう。
 まなからもらったプレゼントは小さくてすぐにでも壊れてしまいそうで、それは嫌だったからそっと包んでいた。なんだかとても温かい。
 傘の中ってこんなにもせまかったかな。隣を並んで歩く彼女との距離が、ほんの少ししかなくて、たまにぶつかる肌のぬくもりに癒される。時々鉛色の空から降りそそぐ雨に触れてそれはとてもつめたかったけれど、でも、心地好かった。
 この花の名前は何て言うんだろう。
 聞けばわかるけど――やめた。
 花瓶を買ったら、あたしの部屋の、ベッドの隣に飾ろう。いつも水は綺麗なままで、朝目覚めたら一番に声をかけたい。
 おはよう、まな、って。

 横断歩道の前で止まった。
「まな?」
 見ると、信号はまだ青だ。霧が覆った視界はまるで蜃気楼の様に靡いて、現実と夢の境界線がそこにある。音は雨の旋律しか聴こえない。まなみはその蜃気楼を見つめたまま、一歩を踏み出そうとしなかった。
「どうしたの――」
 視線の先には、灰色の闇にまぎれて佇む男の姿が映っている。
 切れ長の瞳、端正な顔の男――。
 じっと、まなみにそそがれた瞳の色はうすく、透き通っても澱んでもいなかった。
「楓」
 まなみは駆け出した。夢幻の境界線へ向かって。
「――楓!」
「だめ!!」
 響いた音色は壊れた不協和音。

 真っ白な少女は宙を舞う。
 その表情は、やはり美しいままだった。

『――殺してでも、俺は彼女を連れていくよ』

「ま――!」
 轢ね飛ばされたまなみに手を伸ばした瞬間、

 目の前まで迫った車がひどく大きく見えて、怖かった。

 二人の可憐な少女とともに、淡紅色の花がふわりと湿った地面に落ちる。
 水溜りは紅色に染まった――。


「おはよう、マナ」
「おはよう、ユエ」
 窓の外はいつまでも神様の機嫌を表した姿のまま、さぁさぁと止む気配のない雨が視界を覆っている。緩やかに流れる鉛色の空は時折その隙間の晴れ渡った一面を覗かせて、しかしやはり刹那の温かさだった。哀しい色に染まった遠くの景色も、何もかもが曖昧に揺らめいて時間の概念すら遠ざかる。奏でられる旋律は変わる事のない憂鬱の調べ、全ては古びた屋敷のこの部屋からしか眺める事の出来ない夢幻の姿。
 肩まで伸びた透き通る程の金の髪を掻き揚げながら、少女の人形は言った。誰も居ないこの部屋で、応えられる者など在るはずもなく、しかし応えはすぐ隣に置かれた花瓶から返ってくる。水がなみなみと注がれた中に浸かる淡紅色の花片は、首を垂らしたまま静かな声をしていた。ユエと呼ばれた人形は脚を揺らして、無表情を気取る。
 ユエは花瓶とは反対隣に置かれていた写真立てを持ち上げて、ベッドの上に飾られた振子時計にぶつけた。硝子が飛び散って、けれど音はなく、床に透明色の模様を生み出す。
「どうしたの?」
「時間なんて、いらない」
「ここはどこ?」
「ううん、知らない」
 ユエはマナを見上げて、口元を少しだけ綻ばせた。
「ずっとあたしと一緒に居よう。あなたは大切な友達だから」
 マナは何も言わず、嬉しそうに微笑うだけだった。
 哀しみは優しく部屋を包み込んでいる。





――闇の中は暗くて怖い。

――あなたへの愛が、あたしの掌を灯していた。


Tenth【for LOVE】


 世界が幕を閉じようとしていた。
 ゆえという名のヒトが生み出してしまった精神の牢獄が、崩れてゆく。終幕に伴い屋敷は塞き止められていた時間を取り戻して、砂時計を返したが如く急速に、刻一刻と全てが終幕へ向かう。屋敷に絡みついた草木は枯れてゆき、雷鳴はその鋭さを増して暗雲を駆ける――何より、ユエと呼ばれた入れ物は姿を無くして、マナと呼ばれた淡紅色の花片は風にまぎれて消えた。
 闇は深くなる。それはヒトの心に巣食う闇。ゆえの抱えた孤独。まなみの抱えた喪失。他人を拒絶することで自分を守ってきた、その虚無。楓を背負うことで生きようとしたつらさ、切なさ、哀しみ。ない交ぜになった数えきれないほどの感情が、この世界の空という模様を彩っている。奏でられる雷鳴は憤怒の連鎖、降り続く雨は寂寞の涙、深く深く傷ついた二人の心を映した巨大な空鏡は今荒れ狂っていた。
 雨の日、楓は死んだ――雨とは憂鬱の結晶で、哀しみを紡ぐ弦楽器である。
 この世界は叫ぶ。抱えきれない感情の隆起を、抑えられない憎しみを。
 この世界は歌う。ゆえの、まなみにそそぐ執着を。
 けれどそれは、かりそめの夢幻。

 ヒトの心は、生きているから在るもの。
 死んでしまった躰は心を――魂を宿さない。

 離れたくないという願いに呼応した世界は、終わろうとしている。ゆえとまなみの、現実世界の肉体に死神が降り立って、その鋭利な鎌を振り下ろそうと構えていた。生命の息吹がその微かな風を失くしたなら、辿り着くのは存在の終幕でしかない。

 思い出とは、生きている者のすがる過去。
 死者にそれは要らない。

「――俺は」
 崩壊してゆく世界を見下ろして、楓は薄れてゆく記憶をどうにか食い止めようともがいていた。もう、おおくの記憶は無くなっている。自分という存在が無くなってゆく、死に蝕まれてあらゆるものが消えた。まなみへの愛情も、どうにかすれば理解出来なくなってしまう――哀しい。哀しいと思う心も、既に薄れている。
「どこで、間違えたのだろう」
 わからなくなっていた。

 わかっていたはずなのに。
 彼女を幸せにしてあげられるのが、自分じゃないことくらい――。
 なぜ、俺はまなみを愛したのだろう。
 なぜ、俺はまなみを連れていこうとしたのだろう。

 なぜ、俺はこんなにも悔やんでいるのだろう――。

 無くなりかけていた哀しみが、胸に溢れていた。愛したことを否定する、自分の生きていた時間を否定する、自分自身を否定する。哀しい、けれどこの哀しいというものが何であるのかまでは、わからなかった。
 
 誰よりもまなみを守りたいと願った。
 誰よりもまなみを愛していた。
 ああ、それなのに――。
 その思い出は無くなった。

 雨が突き刺さる。闇黒の空から降る雫達は、最期の仕事を果たそうとしていた。
 異物――楓を追い払おうと。
 終幕のその瞬間まで、この世界に在っていいものはまなみとゆえの心だけなのだから。

『あなたは嫌い』
 世界が叫ぶ。
『あなたはまなを奪おうとする』
 楓はじっと、その詞を聴いている。
『でも――あたしは、どうしても憎めない』
 はっとして、闇を仰いだ。憎めない? なぜ?
『彼女を愛する気持ちは、あたしにもわかるから』

 愛する気持ち――。
 それは――なに?

「出ていけ――この世界から」
 低く響いた音色。どこか人を惹きつける魅力のある、不思議な声。
「お前はもう、神夜楓じゃない」
 振り向いた先に立っていたのは、闇色の瞳で楓を見据える男だった。肩まで伸びた艶やかな髪を鬱陶しそうに掻き揚げながら、彼に近づく。あまり背は高くないけれど、人形のように整った顔――同じ顔をした楓に向かって、冷徹な目をそそぐ。

 大音響の稲妻が世界を覆った。目が眩むほどの光に、二人は包まれる。
 楓を睨む男の背中に何かが見えた。
 それは――漆黒の翼。

「ヒトはオモイを重ねて生きてゆく生き物だから」
 一歩一歩、音もなく踏み寄る。
「オモイや感情を失くしたら、それはもう――」

 お前は何者なんだ。なぜ、涙を流している?

 俺は――誰?

「ヒトじゃない」


 俺は――どこで間違えたのだろう。
 胸に溢れているのは、何という名の感情なのか、俺にはわからない。
 けれど、そのせいなのか、胸が痛い。
 心臓を鷲掴みにされたように、痛くて――。


 まなみ――。
 俺は君を愛していたのかな。
 俺は、君に愛されていたのかな。
 わからないけれど、
 もう君の顔も思い出せないけれど、
 いますぐ、逢いたい――。


 闇に溶け込んで薄れてゆく楓を見送って、男は屋敷を見上げた。
 あと僅かで『無い』ものへと変わるそれは、凄然と精神世界の中心に聳え立っていて、ただ静かに崩壊する。幕が全て降りてしまったら、ゆえとまなみも『無くなる』。二人が出逢ってからの刹那的な思い出も。
「愛した意味なら、未だここにある」
 彼は胸に手を添えた。世界へ呼び掛けるように、淡淡と言う。
「まなみを愛する気持ちは変わらない。死んでいようが、生きていようが、思い出が消えてしまったとしても――」
 両手をひろげた。
「俺は君を愛している」

 だから――連れていこうとした。
 置き去りにはしない。君は連れてゆく。

「この翼で――」
 雨音に掻き消されそうな声で最期にそう呟いて、
 彼は闇の中へ羽ばたいていった。





――あなたに聴いていてほしい。

――あたし達を繋ぐ永遠の白い歌を。


Last word【THE EVER……WHITE SONG】


 わかってた。
 あたしの想いは届かない。
 それでも、泡沫の夢でも――離れたくないと願った。


 ゆえは見覚えのある部屋にひとり立っていた。
 真っ白な空間。無機質で穢れのない、時間の概念から切り離されていた世界。ベッドは静寂の中佇み、鳥籠は飛び立ってしまった翼を見送ったまま無言で、窓の向こうはいつだって止む事のない雨に覆われている。感情を顕現した空は重く、雨粒は涙であるかの如く透明をたたえていた。鉛色のカーテンは蠢いて、雷鳴が駆ける。
 思い出という見えない温もりに抱かれて、ひどく息苦しい。まなみの匂いに満たされたここは哀しみも漂っていた――胸が痛くなる。

 怖がっていた。
 崩壊してゆく世界に――。

「まな……」
 見渡しても彼女の姿はない。棚の上に飾られた空っぽの花瓶に目を遣る――マナ。そこに可憐で繊細な花は挿されていなかった。隣に座って脚を揺らしていた人形も居なくなっている。雨音が不思議なくらい心地好く響いて、そこに途方もない虚しさだけが募る。
 再び時を刻み始めた振子時計のメロディが、静けさの中を満たす。
 ゆえは蹲った――途端に涙が溢れる。

 過ぎるのは彼女の笑顔。失った――大切なもの。

 頬を流れる結晶は、切なさ。


 離れたくないと願った。
 指で数えられるくらいにしかないまなとの思い出はどれも鮮やかで、
 あたしのちっぽけな胸に仕舞っておくには温かすぎて、
 もっと優しさに抱かれていたかった。
 傍に居てほしい。ずっと、あたしの傍に――。
 我が儘ってわかってた。叶わないってわかってた。
 でも、あと少しでいいから一緒に同じ時間を過ごして、たくさん話して、
 まなの心にもっとあたしを刻みたかった。


 穢れた心を癒してくれる色は、あっという間にゆえの掌から零れて無くなる。傷つくことを受け入れようとしたのに、ほんとうに欲しかったたった一つの笑顔さえも、掴んだ瞬間に神様は奪った。愛情と哀しみが木霊して、ゆえという入れ物のあらゆるところを侵蝕し、削ぎ落としても痛みが波打つ。
 思い出を忘れてしまおうとしても、つらい現実の味が残る。

 こんなことなら、出逢わなければよかった。

 まなみの優しさを知らなければよかった。

 好きだって、思わなければよかった。

 一瞬でもそんなことを考えたあたしは、このまま重力に押し潰されればいい――。
 このままあたしも死んでしまえばいい――。

 愛しているのに。
 彼女を想う気持ちは、こんなにも大きいのに――。


「――ゆえ」
 見上げれば、涙で白く滲んだ視界に誰よりも逢いたかったひとが映っている。彼女の表情は出逢った時のままで、なんだか懐かしい。
「どうして泣いてるの?」
 変なことを訊く。そんなの、きまってるのに。
「……哀しいから」
 声が震える。硝子細工のようなそれは、壊れそうに宙を泳ぐ。
 手を差し伸べられた。すぐに受け取ろうとして、だけど一瞬迷って――掴む。
「逢いたかった――」
 力いっぱい抱き締めた。触れた肌は温かい。

 どうしてわかりたくもないことだけ、神様はあたしに教えてくれるのかな。
 これが最期だって、知りたくもないよ。

 でも、またまなに逢えて幸せだ――。


「ゆえ」
 ぬぐっても滲む雫が邪魔をして、彼女の姿がよく見えない。ただ、ぎゅっと包み込まれた体が体温と気配を感じている。背中で絡ませた指を解いたら、そのまま温もりが消えていってしまいそうで、ゆえは痛いくらい強く握った。
「なに、まな」
 わかってる。
「もう、お別れみたい」
 わかってるよ。
「……もっと一緒に居たい」
「あなたにはもっと歌っていてほしい」

 ゆえ――。
 弱かったの、私。
 どうしようもなく弱いから、人に優しくしてた。
 楓はそんな私を本気で愛してくれたから。
 私が傍に居てあげなくちゃ、寂しいと思うから。

 ごめんね、我が儘なのは私――。

 まなみは微笑む。目じりに溜まった涙は、ゆえには見えなかった。

「あなたに勇気があったら、また逢えるよ――」

 何か、鳥の羽ばたくような音がして――。


 出逢ったあの瞬間、体を駆け巡った微熱。
 今になって思えば、運命が廻ったのはあの時だった。
 運命なんて言葉は好きじゃないけど。
 人が嫌いなふりをして、街を歩いてた毎日も、
 あなたに出逢うための道だったのかな。
 珈琲、おいしかったよ。
 素直においしいって言えなくて、ごめんね。
 あの甘さと苦さは、あなたに溶け込んだ喜びと哀しみみたい。
 ふたつはぜったい離せないもので、ふたつあるからそれは大切なもので、
 あたしはふたつとも受け入れたいって思った。
 あなたはあたしを変えてくれた。
 不器用なあたしを救ってくれた。


「――まな」
 ゆえはもう居ない彼女を抱き締めた。

 涙を引き摺って扉を開ける――その先にひろがったのは白く輝く光の渦。

 はやく花瓶を買おう。
 枯れてしまったこの花のために、まなと選ぶはずだった花瓶を――。





 静かに躰が壊れてゆく。
 漆黒の揺り籠に揺られながら、楓は己の存在が闇に取り込まれてしまうのを他人事のように見ていた。生きている間に築いてきた思い出の破片を一つずつ捨てて、無知な胎児へと戻る。ゆらりゆらり、闇は人肌の温かさで楓を包んだ。その中で、彼はただただ空虚を眺めるだけ。ゆらりゆらり、心地好い振動に身をまかせるだけ――。
 遠く、光が映る。ぼやけた灯がずっと遠くにあった。
 楓は瞳を見開く。闇と見まがう黒曜石に、それは眩しいほど爛然として、在る。
 真っ白な煌めき――どこかで見たことのあるような女性。
 闇がざわめいた。想いの墓場に陽射しは要らない。深く濁ったこの場所に、白く輝く魂は眩し過ぎる。怖い。怖い。怖い――。
「――楓」
 光に照らし出されて闇にぽつりと浮かび上がった楓に、彼女は手を差し出した。すぐにでも折れてしまいそうな華奢な腕が、目の前で彼を誘う。
「もう独りにしないよ。ごめんね、寂しい思いをさせて……」
「君は」
 震える指先を掴まれて、力強く抱き締められる。楓の頬を優しく撫でて、彼女は唇を重ねた。胸が高鳴る。熱が――戻った。葬り去ったはずの思い出達が押し寄せて、戸惑うくらい感情が叫ぶ。曖昧になっていた彼という輪郭が闇から離れる。

 そうか。
 どうして忘れていたんだろう。
 好きだから、
 好きだから――愛したんだ。

「一緒に行こう」
「ああ――」
 楓の闇に、光る翼が宿った――。





 目覚まし時計の煩い音色に起こされる。止めようと叩いて、強く叩きすぎたのかそいつは地面に転がった――ああ、もう。不快感を剥き出しにして時計を拾い上げ、とりあえずお仕置きとして電池を抜いてやる。おかげですっかり眠気は去ってしまったけれど、こんな目覚めは正直御免だった。
 白石ゆえの不機嫌さを知らない太陽の陽射しは、カーテンの隙間から爛爛と射し込んでいる。絡まった髪を掻き揚げながら暗幕を開く。眩い光が視界の片隅で螺旋に見えた。
 窓を開けて風を取り入れる。清清しい。やっぱり朝は晴れているほうがいい。
 陽射しがベッドの隣に置かれた棚を射抜く。
 あまり凝ったつくりでもない質素な花瓶。そこに挿されている淡紅色の花は、潤った部屋に浸かって気持ち好さそうに首を傾げている。そのすぐ傍に敷かれた白いハンカチに寝そべっているのは、薄色の花片。
「おはよう、まな。あたし、今日もがんばってくるね……」
 一声掛けて、着替えて、顔を洗う。彼女の手元に偽りの仮面はもう無い。
「行ってきます」


 木漏れ日のそそぐベンチに座って、葉の間から青い空を眺めた。散らばった雲は風に揺られて漂う。鳥達の囀りと、遠くのほうから聞こえる喧騒がいつものように心地好く流れている。やわらかな微風に頬を撫でられた。くすぐったい。
 鞄から缶珈琲を取り出して、一口飲んだ。
 あまりおいしくないけど――いいや。


 目を瞑ると、そこに在る闇が怖かった。
 雨の降る日を思い出して、指先が震える。
 でも――胸に手をあてて、想う。


 あたしね、歌手になろうかって、最近思うんだ。
 歌うことが好きだって、気づいたから。


――この背中に翼はない。あたしはいつも空を見上げるだけ。

――だけど、あなたがそこにいるから。前に進めそうな気がするんだ。


 真っ暗な視界の中に光が溢れた。
 思い出はいつも心に在って、目を瞑ると怖いけど、見える――。

 優しい温もり。

『あなたに勇気があったら、また逢えるよ』

 いつだって、逢えるんだね、まな――。


――不思議なくらい、微笑えるよ。あきれるくらい、微笑えるよ。

 思い出はゆえの胸に在る。
 たとえ大切なひとがこの世界にもう居なくても――。
 ゆえが生きている限り――歌う限り、それは色褪せない。

――あなたが傍にいるみたいで、こんなにも……。


 ゆえの歌声は風にのって、青い空のもとへ羽ばたいていった。
 それを追いかけるように、一羽の鴉が天空を切り裂いてゆく。
 涙を零さないように、仰ぐ。
 瞼を通した光の先に、純白の笑顔を見た――。





2005/06/19(Sun)23:29:37 公開 / 京雅
■この作品の著作権は京雅さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
これまで感想をくださった皆様、一度でも目を通してくださった方、ほんとうに有難う御座いました!およそ1ヶ月前に始めた連載も無事終了。長いようで短い、読み難いようで本気で読み難い小説なのに、読んで頂いた事実は感謝以外の何でもありません!京雅はやりました!(とりあえず)

「綺麗」をテーマに掲げたこの作品、さて、ついてこれたでしょうか?ついてこれなかったと言う方、申し訳御座いません。何せこの京雅、文章力の無い愚か者で御座います。これが精一杯。そしてバッドエンドを期待した方もすみません。こんな仕上がりです。スランプなんて言いながら、実は最初から文章力無いんです。誰かください!
それでも無い力を振り絞って書きました。この物語は――綺麗だったでしょうか?何と言われようとも京雅の責任で御座いますけれど。
最期に……重ねて、お付き合いくださって有難う御座います。ありのままの言葉、少しでもこの物語が何かを刻んだのであれば、それを語ってくだされば至極幸せです!
※微修正。重ねて申し訳御座いません。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。