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『夜に響くピアノ 後編』 ... ジャンル:未分類
作者:上下 左右
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前編
僕がその話を聞いたのは、小学校一年生の時。
学校の探検をするために友達と三人で残っていた。
教室は夕焼けで真っ赤に染まっている。いつも見慣れている深緑の黒板も、茶色い机も、真っ白なカーテンも、まるでそこが別の場所であるかのように感じられた。
あまり遅くまで校舎に残っていると先生達に怒られてしまう。だから、ほとんどの先生達が職員室に戻るのを見つからないように教室で待っていたのだ。ここは夜に事務員の人が全教室の戸締りをすることになっている。
できるだけ僕らは音を立てないようにして廊下に出る。
リーダー的な存在である僕が、行きたい場所をいうと他の二人は何も言わずについてきた。
この学校は校舎が三つある。中央にある一番大きな建物は僕達生徒が授業をうける教室。学校生活のほとんどはここで行う。
そして東側にある小さな建物は、先生達が仕事をする職員室と、給食の置いてある場所。二階には体育館がある。
最後が西側の建物。中央の半分ぐらいのそれは、理科室や図工室といった移動教室が並んでいた。
先生達のいる東棟は危ないと思った僕らは、西棟を目指した。
棟と棟は橋で繋がっている。
グラウンドでは地域が行っている野球クラブが練習をしていた。それにはこの学校の先生も指導に当たっているから見つからないようにしゃがみながら移動する。
辺りはだんだん暗くなってきていく。見ると、太陽が山に半分ぐらい沈んでしまっていた。
光は弱くなってきているけど、ここでやめてはこの時間まで残った意味が無い。せっかくお母さんにウソをついてまで残っているのだから、出来るだけ長くここにいたい。
電気のついていないこの建物は思った以上に暗かった。
この棟は配置的に夕暮れ時には明るいはずだ。しかし、この建物の周りは多くの木が植えられていて太陽が当たりにくい。だから、東棟よりも日当たりがよくない。
二人は少し怖がっていたけど、僕はそれぐらいで動じることなく先へ進む。
理科室。まるで展示会のように飾られている人体模型は薄暗さもあって、いつも以上に気味が悪かった。おまけに木でできた古い校舎が追い討ちをかけている。
他にも図書室、家庭科室、図工室といろいろなところを回る。
音楽室に差し掛かった時だった。友達の一人がここだけはやめようと言い出した。
なんで、っと僕が聞くとその子はいやいやに話を始めた。
この音楽室には幽霊がでるのだという。
もしもそれが、もしも僕らがもう少し大人だったなら、単なる七不思議の一つとして受け止めていただろう。
だが、まだ純粋の塊だった僕はそれを完全に信じてしまった。
音楽室にはオバケがでる。そう思うとだんだん怖くなってくる。今にも泣き出しそうだ。
怖くて動くことができなくなってしまった。早く離れたいという気持ちがあるのに、体が動いてくれない。
その時、突然扉が開いた。
扉の向こうから現れたのは先生だった。
てっきり教室から出てきたのが幽霊だと思っていた僕は、安心感と共に泣き出してしまった。
もちろん、この後怒られたのはいうまでもないだろう。
先生がドアを閉めるときに、ピアノの前に誰かが座っているように見えた。
「ふぅ」
僕は地域が行っている野球チームの練習が終わると同時にため息を漏らした。このチームは小学生の行うものとは思えないほどの練習量だ。まだこのチームに入ってから一週間しか経っていないが、もうやめようかとも思っている。みんな、どうしてあのキツイ練習を平気な顔をしてこなせるんだろう。
好きだから始めた野球だったが、これほどきついとは思っても見なかった。コーチは試合に勝つことしか考えていないからあんなキツイ練習をさせるんだな、きっと。せっかくの楽しい遊びも、これではただの競争にしかならない。
冬場である今、太陽はとっくの昔に沈んでしまっている。はるか遠くの空が少し赤いぐらいだ。
グラウンドの端っこで、全員がコーチをしてくれた先生に挨拶をした。みんながみんな元気よくとはいかないが、勢いのある声を最後に発した。さすがはこれまでキツイ練習に耐えてきた人達だ。
周りの友達がそれぞれ家に帰っていく中、僕はあることを思い出した。
宿題のノートを忘れていたのだ。
学校が終わって一度家に帰った時に気が付いた。それで、練習が始まる前にとりに行こうと思っていたのだが、遅刻しそうになってしまって着いたと同時に猛特訓が始まってしまったのだ。
いつもならそのまま帰ってしまう所だが、それが何度も続いてきたせいで明日こそは提出しなければならない。
「先生。忘れ物をしたから教室に行ってもいいですか?」
東棟に戻ろうとした先生を無理やり捕まえて校舎の中に入る許可をもらった。
本当はこういう場合先生の引率が必要なのだが、許可を出すとすぐに職員室に行ってしまった。悪いことはしないと信用してもらえているからなのか、ただ単に面倒くさかっただけなのか。どちらにしてもこんな夜遅くに一人で中に入るのは初めてのことで少しドキドキする。
中は暗かった。窓から差し込んでくる月明かりのおかげで歩けないこともない。
階段に苦労しながらも、自分の教室の前までたどり着いた。
ドアは開いている。事務員のおじさんはまだ鍵閉めをしていないみたいだ。僕としてはありがたいんだけどね。
許可をもらっているから遠慮することなくドアを開ける。立て付けの悪いそれは、ガタガタと大きな音を放ちながら横にスライドする。
毎日友達としゃべっている空間。そこは雰囲気がまるで違った。いつもは明るく楽しい空間が、オドロオドロしいものに変わっている。
夜の学校というものは、昼間には絶対見ることができない顔を持っていた。
見るもの全てが恐ろしい。いつも見ているはずの黒板も、後ろに掲示してある習字もきれいに並べられた机も窓から差し込む月明かりも、まるでオバケ屋敷の中にいるかのような錯覚に陥ってしまう。
僕は自分の席に向かってノートをとると、さっさと教室を出た。
怖い。
そんな感情を抱きながら、来る時よりも早足で廊下を歩いていく。
突然、教室のドアを開けて幽霊が出てくるのかもしれない。あそこの角から何かが飛び出してくるのかもしれない。実は足音も無く後ろから何かがついてきているのではないのかと、いろいろなことを心配する。
なんだか、遠くからはピアノの音のようなものまで聞こえる。きっと恐怖心からくる幻聴なのだろう。
東、中央、西側に設置されている階段のうち僕は西側のを目指す。だんだん、ピアノの音は大きくなってきているような気がした。
いや、これは気のせいじゃない。その音は明らかに僕の耳に聞こえている。
その音はお母さんが趣味で弾いているピアノなんかとは比べ物にならないほどに旨い。今にも消えそうなほど繊細だが、どんな音にも負けないような矛盾した力強さを持っている。
僕は、いつしか階段を通り越して隣の棟につながっている橋を目指していた。
そっちの方からこの美しい音色が聞こえてくる。
学校にピアノがあるとすれば音楽室だけだ。
鍵のかかっていないドアを開けて、真っ暗な橋を渡る。いつもなら数秒で通りすぎてしまうところを一分ぐらい費やしてしまった。暗いというのもあるが、夜の学校には魔法がかけられているかのように前に進みにくい。
目に見えない威圧感に抵抗しながらようやく目的の場所にたどりつく。
ピアノの音はまだ聞こえている。
教室に電気はついていない。こんな真っ暗な中でピアノを弾くなんていったいどういう人なんだろう。
教室の扉に手をかけた時だった。
僕はここにきてあることを思い出した。
一年生の時に聞いたあの話。音楽室には幽霊が出るという噂。なにも聞いたのはそのときだけではなかった。どの学校でもあるような怪談話。その中にも音楽室から聞こえてくるピアノの音というものがあった。
もしかしると幽霊かも知れない。
ここを開けた先にはとんでもない世界が待っている。音楽室の中にある物は飛び交い、後ろに飾られている肖像画の目がぎょろぎょろと動くという恐ろしい光景を想像してしまった。
そんなところには入りたくない。
しかし、人間は怖い物見たさという命知らずな衝動にかられる。今の僕は断然、そっちの方が強かった。
心臓が破裂しそうなほどに高鳴っている。
どれほどの時間が流れただろうか。ピアノの曲は、まるで無限ループしているかのようになり続けている。実は、そんなに時間が経っていなくて一曲が終わっていないだけかもしれない。
よ し、と自分の心の中で気合を入れてゆっくりとドアを開く。
この前、このドアは立て付けが悪かったから修理されていたので音も無く開く。
そこにはきれいな月の浮かんだ真っ暗な空を背景に、一人の女の子がピアノを弾いていた。
女の子は、僕がドアを開けたのに気がついていないらしく、あまり体を動かすことなく静かにそれを奏でている。その光景はまるで真っ暗な森の中で、音を出すこともなく光り続ける蛍のようにも見えた。
彼女の発する音もさることながら、月光に照らされている姿はかなりかわいい。それと同時に神秘的な雰囲気を醸しだしている。
ここに入ってくる時とは別種類の心臓の高鳴りを体験した。
僕は、彼女に吸い寄せられるようにして少しずつ近寄っていく。
この曲はなんという名前なのだろうか。かなり落ち着いた感じ。音楽のことなどほとんどわからない僕でもいいと思う。家で何度もお母さんに聞かされているが、こんな曲は一度もきいたことが無かった。
ガシャン!
しまった。誰がここにおいていったのかわからないが地面に置いてあったタンバリンの入った箱を蹴飛ばしてしまった。
僕は引っかかった場所で転倒する。
その瞬間、きれいな音色は聞こえなくなり、女の子のかわいい顔がこっちを向いた。
あまりにも恥ずかしい格好のせいで、声が出なかった。
「誰か、そこにいるの?」
てっきり驚かれるか、笑われるのかと思っていた僕は少し拍子抜けしてしまった。
たしかに彼女は驚いているが、僕を見たからではない。
「痛た……。ごっ、ごめん。邪魔するつもりじゃなかったんだ」
僕は顔を真っ赤にしながらすぐに起き上がり、散らかした物など気にすることなく移動する。
彼女は僕を見ていなかった。
少女が見ているのは僕がさっき躓いて転んだ場所。最後に音をした方を見ている。
「ねえ……」
僕が話しかけたことでやっとこっちを向いてくれた彼女はかなり焦っているみたいだ。
「えっ、えと……。おはようございます」
女の子にはまだ高い椅子から飛び降りて僕に頭を下げた。
僕も、丁重なお辞儀につられて首を折る。
「この場合はこんばんはだね」
あまりにも意味のわからない挨拶に思わず突っ込みを入れてしまう。
彼女は、それを聞くと苦笑いをして漫画で見るような照れるしぐさをする。それを見て、僕の心臓は激しく鼓動を始めた。
「私、目が見えなくて。それで不快な思いをしたらごめんね」
僕が移動した後も、ずっとそこを見たままで、僕がなにか話すとすぐにこっちを向く。先ほどからのこの奇妙な行動も、これなら納得がいく。
自分にとって言いたくないことのはずなのに、満面の笑みで僕のほうを見ながらまた椅子の上に腰を下ろした。
目が見えない?
それにしては、先ほどのピアノはまるで目の見えている者が弾いているように思えた。いや、それ以上にきれいな音色を奏でていた。そんな彼女の目が見えないなんて信じることができなかった。
「ねえ、本当に目が見えないの?」
「うん」
僕は彼女が座っている椅子のすぐ横に立って聞いてみる。同い年ぐらいの女の子はこちらを見ることなく頷いた。
「だって、さっきの曲。どう考えたって目の見えない人が弾けるものじゃ……」
「みんなそう言うの。こんな子供が、しかも目の見えないのにこれだけの曲を弾けるわけが無いってね」
先ほどの曲は美しいものであるが、その分難しくて多くの鍵盤を押さなくてはならない。ピアノを長年した大人でもそれほど簡単に弾くことはできない。それを、盲目の少女が弾くというのは努力をすることでしか才を手にすることができなかった人たちにとっては信じたくない出来事だろう。
「実際、今までにも目の見えない音楽家達はたくさんいたのにね」
この歳でこれだけの曲を弾くことができるのだ。将来はさぞかし有名なピアイストになることだろう。僕なんかと違って彼女はおそらく、世にいう秀才というやつだ。僕も、これだけの才能があれば野球ですぐにうまくなるのに。
女の子は、またピアノを弾き始めた。今度の曲は先ほどの高い音ばかりを使った静かで悲しい曲ではなく、高低の差が激しい楽しいノリの曲だ。これは元々ピアノの曲じゃない。一昔前に流行ったバンドの曲をピアノでアレンジしている。
少しの間、音楽室の中だけでなく学校中に響くのではないかと思えるほどの力強い音が演奏され続けている。
今度は、邪魔することなくそれを最後まで聞いていた。
彼女が最後の鍵盤を指で押し、そこで曲が止まった。
僕の胸の中には感動という感情が生まれ、夢中で両手を打ちつけていた。
ピアノから手を離して、席を離れるとまるでコンクールの後のようにスカートの裾を持って僕にお辞儀をした。
「凄い凄い!」
僕は夜の学校というのをすっかり忘れ、大きな声でそう叫んでしまった。これはお世辞などではない。本当に心からそう思ったので無意識にこれだけ大きな声になってしまったのだろう。
さっきのは僕が聞いた元の曲なんかよりも心に染みてきた。彼女のアレンジがそれほどよかったのだ。もしも今の曲を精神病の人に聞かせたらすぐにでも治ってしまいそうなほどに凄い威力を持っていた。
「べつに、そんなに凄いことじゃないの。私だって君の野球と同じ。初めは好きでピアノを弾いていただけなの」
彼女は小さい頃から音楽をやっていた。目の見えない少女は、初めてピアノを弾き、自分で音を出すことができることに何よりも感動を覚えた。それまで回りに迷惑ばかりかけて、生きた心地のしなかった彼女が初めて生きていると思った瞬間だった。
それからは学校以外の時間はずっとピアノを弾いていた。いや、学校のあっていた時間もこうやって隠れて弾いていたのだという。
だが、そのうち母親の態度が変わってきた。それまで何も言わずに聞いてくれていた母親が演奏する曲を指定し、間違えるたびに怒るようになったのだ。そう、彼女のお母さんはその才能に気がつき、プロとしての教育を始めることを決意したのだ。
「それから家で弾くピアノは楽しくなくなってたの。私はただ楽しく弾くことができればよかったのに、お母さんはそれを壊した」
さっきまで咲いたばかりの花のような笑顔が消えた。それほどまでにピアノが好きだったのに、強制されると嫌になってしまう。
今の僕もそうだ。別にプロを目指しているわけじゃない。ただみんなと楽しく野球ができればいいのだ。あんなにハードな練習をしていやいや試合をしても全く面白くない。それは、ただの苦痛だ。
彼女の気持ちは、痛いほどによくわかった。
「あなたは、野球をやめないほうがいいよ。好きなことをやるのが一番なんだから。だから私は、今もこうやってピアノを弾いているの。やっぱり、人にやらされるのと、自分で楽しくやるのは違うもの」
そういって彼女は、少し悲しそうな顔で笑った。
キーンコーンカーンコーン。
静かな学校に響き渡った大きなチャイム。それは、この教室にも例外なくその時間を知らせた。
時計を見ると、ちょうど九時を指していた。
まだ、ここに来てそれほど時間が経っていないようにも思えた。しかし、いつの間にかこれだけの時間が過ぎているとは考えてもいなかった。
そろそろ帰らなければいけない。
彼女ともっと話したいという気持ちもあったが、さすがに遅くなりすぎると親が心配する。
「あっ、そろそろ帰らないと……。君は?」
「私ももう少ししたら帰る。もう少しだけピアノを弾いていたいから……」
かわいい女の子はそういうと、また椅子に座って鍵盤に指を置いた。
僕は小さくさようならと言って音楽室のドアを閉めた。
扉の向こうからはまたきれいな曲が聞こえてくる。
僕はその音楽を聞きながら真っ暗な廊下を歩いていく。もう、怖いという感情は無かった。それよりも、あんなに素敵な子と知り合うことができてよかったといううれしい気持ちの方が強い。
名前を聞くのをすっかり忘れていたけど、まあいいか。明日は休みだけど、明後日にでも全クラスを当たればわかるに違いない。
グラウンドの脇を通り、校門に来たところで振り向いた。音楽室にはやはり電気はついていなかった。そして、窓から見えるピアノの前には誰も座ってはいなかった。
ここに来て、やはりあの時帰るべきではなかったような気がする。なんだかとても悲しい感じになったのだ。もう、彼女とは会うことができないような気がしてならなかった。
二日後、僕はあの時の考えが本当になってしまったことに気が付いた。
学校に行ってからあの日の夜に会った子を探しては見たものの、どのクラスにも見つからなかった。みんなに聞いて回ったが、目が見えなくてピアノの上手い女の子なんて見たことが無いのだという。
しかし、もっとほかの事を耳にした。
あの音楽室にでる霊と言うのは少女の霊で、何人もの子がその姿を見たのだという。そのきれいな音色に惹かれていつの間にかあの音楽室の前に来ていた。
昔、あそこでピアノを弾いていた少女は音楽の才能を持っていたがそれゆえに周りからの重圧に耐えることができなくなり、あのピアノの前で死んでいた。その方法は誰にもわからない。この話もただの噂に過ぎない。
僕はそれを信じることができなかった。あんなに人間のように笑い、とても上手いピアノを聞かせてくれた彼女が、実は音楽室に出ると噂の幽霊だったなんて。
もちろんその後も学校の中を探し回った。夜の学校に忍び込んでもう一度音楽室にもいった。それでも、もうあのきれいな音楽を聞くことはできなかった。
そのまま少女のことを見つけることができないまま僕は小学校を卒業した。
中学生活は楽しいものがあった。新しい環境新しい友達。それのせいというのもなんだが、いつの間にかあの夜のこと、そこで会った女の子のことを忘れていった。
後編
あれから十五年が経過した。
俺はまた、この学校の前に立っている。
通っていた時よりも老朽化は進んでいたが何も変わっていない。広いグラウンド、東側にある職員室と体育館。真ん中の教室、そして西側の特別教室が並んでいる建物。どれもが俺の卒業した時の面影を残していた。
もう、完全に沈んでしまった太陽の代わりに、淡い光を放つ月が俺の母校を照らし出している。それが、木造の校舎を薄気味悪く仕立て上げていた。
俺は高校を卒業するとこの町を出て、都会にある大学に入学した。勉強で入ったわけではない。子供の頃から好きだった野球を高校でもやっていた。そして、大きな成果を挙げたのだ。
すると大学のほうから俺に来てくれといった。授業料も全て免除してくれる代わりに野球をするという条件で。
家庭はそれほど裕福ではなかったので大学に行くことができないと思っていた俺はそれを受け入れた。
そして、大学でも野球をやり続けてついにプロになった。
その時はあっという間だった気がする。
俺は懐かしのグラウンドの土を踏んだ。砂などどれも同じだと思っていたが、ここはなんだか違うような気がした。ほんとうに、ただ気がしたというだけだ。プロになってからは人工芝でやることが多かったので、砂を踏むのは本当にひさしぶりかも知れない。
プロに入った頃は俺もかなりの成績を収めていた。ヒットもホームランも他の選手の平均を上回っていた。このまま行けば、日本の歴史を塗り替えるかもしれないとまで言われていた。
しかし去年、足に怪我を負ってしまった。交通事故による足の複雑骨折。
普通に歩くことはできるまでには回復したが、あまり速く走ることはできない。それのせいで野球を続けていくことができなくなってしまった。
俺はプロを引退した。
そのせいで暇のできた俺は、この学校の最後を見にきたというわけだ。
ひさしぶりにこの町に戻ってくると、だいぶ変わってしまった町並みが俺を出迎えてくれた。田んぼで溢れかえっていた場所は完全に灰色に変わり、高い山々はほとんどが削られて高速道路が通っていた。
まだ家には帰っていない。突然帰ってびっくりさせるためだ。
変わり果てた町を歩いていると、自分が昔の通学路を歩いていることに気が付いたのだ。
この学校は明日取り壊すことになっていた。あまりにも校舎が古くなりすぎていて危険だからだ。もちろん、今はここは使われていない。町のほうに移動している。実は校門のところに立ち入り禁止と書いてあったのだが、無視して入ってきたのだ。
久しぶりにきたのだから母校探検といきたいが、それよりも先にやることがある。
校舎には鍵がかかっていたので、窓ガラスを一枚割り、進入する。どうせ壊してしまうのだから一枚や二枚どうってことないだろう。
中は本当に真っ暗だった。頼れるのは窓から差し込む月光だけ。
最初はその暗さに戸惑っていたが、だんだんと目が慣れてきて、先ほどよりは断然進みやすくはなった。
鍵をはずして、廊下にでる。
歩くたびに折れるのではないのかと思えるほど木の板が撓り、もの凄い音をたてる。
壊れないかとどきどきしながらゆっくりと歩いていく。そして、上にあがる階段に差しかかったときだった。
どこからともなくピアノの音が聞こえてきた。
俺は驚いた。この学校はもう誰もいないはず。それなのに、音が聞こえるということはすなわち、誰かがここにいるという証拠。さらに、ピアノということは音楽室だ。
心の中はひとつのことでいっぱいだった。
音楽室は、子供の頃の俺とあの少女が出会った場所だ。もしかすると、彼女に会えるかもしれないという希望に溢れている。学校に来たのも実は、彼女に再会できるかもしれないと思ったからなのだ。
十五段式の階段を上り、左に曲がる。このまま真っ直ぐに行けば目的の場所につく。
そこからは、確かにあの時に聞いた音色が流れていた。それも、俺が今のように暗い学校で、恐怖に包まれているときに聞こえたきれいで細いが、力強いという矛盾を持ったあの曲。
もう、床の危険を気にすることなく走るかのようにして音楽室の前に向かう。
やはりそうだ。ドアの向こうから聞こえる音は間違いなく俺があの時聞いた音色だった。
心臓が高鳴る。この先には果たしてあの子はいるのだろうか。子供の時、同じようにこの音楽室で出会った女の子。あの時あれだけかわいかったのだから、今では誰もが振り向くような美女になっていることだろう。
俺はその姿が見れることを願いながらドアに手をかける。
鍵はかけられていなかったが立て付けが悪くなり、レールがあるのにそれがそれの役割をほとんど果たしていなかった。
ガラガラッという大きな音をたてながらドアを力いっぱい開けた。
そして、俺は喜びに満ち溢れた。
目の前に広がった風景は前となんら変わりはなかった。真っ暗な部屋の中で、まるで彼女自身が発光しているかのように月明かりを浴びながら、音に気がつかなかったかのように夢中で演奏をしている。
俺は喜びに溢れながらも不思議に思った。
彼女は全く成長をしていないのだ。顔立ちも変わっていなければ身長も伸びてはいない。小学校の頃の記憶はほとんどないが、これ関連のことだけははっきりと覚えている。あの出来事は忘れようとしても忘れられなかった。
俺の中では美人の彼女と会うことができると思っていたのに、まだ幼くてかわいい女の子がピアノの前に座っていた。
俺の頭は混乱した。どうして彼女の姿はまったく変わっていないのか。
一瞬のうちに、もしかすると彼女の娘ではないのかと思ったが、そうではないことはすぐにわかった。いくら娘とは言っても普通、父親の遺伝子が混ざるのだから若干違ってくる。
そういえば、音楽室についての噂を聞いてショックを受けたものだ。
「……」
そんなことを考えながら俺は彼女の演奏が終了するのを待った。
なんて声をかければいいんだ。どこからどう見ても普通の少女にしか見えないというのに……。
いくつもの鍵盤を叩いて、曲が終了しる。
前に聞いたときよりも音のキレがよく、更に上手くなっていた。気がつけば、心の底から拍手をしていた。
それを聞いた彼女は驚いた顔で俺の方を向いた。誰もいないはずの学校なのだから、人が発するような音はしないと思っていたのだろう。
「久しぶり」
俺は目の見えないことを承知しながら片腕をあげて挨拶をした。
「えっ、えっと……。久しぶり」
かなりびっくりしながら笑顔で返事をしてくれた。
不思議なものだ。彼女は生きている者ではない。前まではそんなこと信じることはできなかったが、今のこの姿を見てはっきりした。彼女はすでに死んでいる。どうしてかは知らないが、こうやって俺の前に出てきている霊体なのだ。
そんな彼女に、恐怖というものを感じない。
「また来てくれるなんて思わなかった」
彼女は本当にうれしそうだ。見えていないが、そのきれいな瞳は俺のことをしっかり捕らえてくれている。
「私を見た人達って二度と会いに来てくれなかったもの」
俺も見つめてくれる瞳はどこか悲しみがこもっている。
もちろん、それが何故なのかはわかる。彼女は今まで、ここに一人で存在していたのだ。それも、ここ数年間は誰もここに入ってきたこともない。きたとしても肝試しや、ここを管理している人が見回りに来るぐらいだろう。
彼女も寂しかったのだ。誰に聞いてもらうでもなく、一人でピアノを弾いていた。ピアノを誰かに聞かせることを楽しいと感じていた彼女が。前には生徒もいたが、そいつらも彼女を見た瞬間に逃げてしまっていた。だから、おそらく彼女のピアノをこれだけ聞いたのは俺が始めてかもしれない。
「なあ、お前ってここに何年間いるんだ?」
彼女はもう生者ではない。十数年も同じ姿でここにい続けた。それは、いったいどれほど長い間一人でいたのか、とても気になった。
「よく覚えてないけど、たぶん君が生まれる前からだと思う。だって、この窓から何千人もの卒業生を見送ってきたから」
この学校は場所が場所だけにそれほど人数は多くない。俺達の時でも一学年約百人。卒業してからは更に子供の数が減ってきているから都会の学校に比べるとかなり少ないだろう。
「私にはこっちの時間は関係ないもの。だって、歳をとることもないし、死ぬこともないしね」
何でそんなことをこの子は笑顔で話せるんだ。自分が死んでいると認めるのがどれだけつらいことなのかは俺にはわからない。もしかしたら、それほどつらくないのかもしれない。それがわからないほどに未知の世界だ。
ピアノの前を離れた少女は、真っ直ぐに俺のほうに向かってくる。その足取りは、本当に目が見えないようでフラフラとしていた。そして、散らかった物のひとつに引っかかった。
「きゃ!」
何とか俺の届く範囲なので彼女が倒れる前に受け止めることができるはずだった。いくら怪我をしていたからといってもこれぐらいの運動ならできる。
俺は彼女を受け止めようとした時、彼女は体をすり抜けてそのまま倒れてしまった。
体の中を、冷たいものが通り過ぎた感じがした。体のあちらこちらに鳥肌が立つ。心では怖くないと思っていても、体は正直に反応してしまうようだ。
「……」
言葉が出なかった。
何故こっちに向かってこようとしたのかがわからない。彼女は俺をもう一度すり抜けてピアノの前に立つ。月を背景にしている時の彼女は、光を反射しているのではなく、自らが発光しているようにも見える。
「なあ、名前を教えてくれよ。せっかく友達になれたんだしさ」
まだ、彼女の名前を俺は聞いていない。昔、彼女と最初に出会ったときに聞くべきだったのだが、なんらかの理由でそれができなかった。
「私の名前?私の名前は××××っていうの」
このとき、彼女の名前をはっきりと聞くことができなかった。そこだけがまるで機械で修正したかのように消えていたのだ。
「えっ、なんだって?」
「ちゃんと聞いててよ。私の名前は××××」
やはり聞き取ることができない。
そういえば昔、ある本で読んだことがあるような気がする。幽霊というのは自分が死んだことは認めることはできるのだが、名前を言うことができない。自分では言っているつもりだが現世の人にそれが伝わることがない。
その本のとおり、たしかに彼女の名前を聞くことができなかった。しかし、俺にはあることがわかった。
彼女は俺と同じ苗字だ。何故わかるのかは俺自身が一番聞きたい。霊感があるわけではない。それなのにわかるというのはいったいどういうことなのだろうか。
「気がついた?」
少女は全てを悟っているかのような目で俺を見ながら微笑みかけてくる。
「私は、君が来てくれる前から知ってたんだよ。ずっと見ていたから……」
そういえば、母さんが死ぬ時にこんなことを言っていた。昔、俺には姉がいたのだが生まれる前に死んでしまったのだという。俺が誕生した時、全てを忘れようとして写真などは捨ててしまっていた。
俺に霊感があるから見えているのではない。彼女と俺は肉親関係だからだ。
姉は目が見えなかったが、ピアノを弾くことができる。そんなことをいっていた気がする。
こう考えると全てつじつまが合う。特徴も彼女と一致している。盲目で、天才的なピアノの才能を持っていたという。
頭が痛くなってきた。ここに来てから信じられないことが多すぎる。何十年も姿の変わらない少女。しかもその子は幽霊。そして、死んだ自分の姉。まるで漫画にでも出てきそうな場面だ。
「もしも俺と君が姉弟だから姿が見えるとして、どうして他に見える奴がいたんだ?」
「それは簡単なこと。人間、誰しも産まれたときは誰にでも霊感というものは存在するもの。もちろん貴方も持っていたし、私も持っていた。私の場合は、自分自身が幽霊になっちゃってるけどね」
まるで子供であるのが嘘のような真剣なまなざしで語っていたのだが、またすぐに外見と相応の少女らしさを取り戻す。
「でも、俺は霊感なんて全くないぞ」
昔、大学の友達と心霊スポットに行ったことがあった。
友達は全員がなにかの怨霊を見たといっていたが、俺だけは見なかった。寒気を感じることもなかった。これだけ霊感がないというのは逆に危ないような気もする
「だから、子供の頃はだってば。人間はその能力を受け入れない事が多く、無意識のうちにそれは薄れていってしまう」
子供の頃は、まだそれの制御の仕方をわかっていないから気が狂ってしまいそうになることもあるのだという。だから脳がそうならないように自然と消してしまうのだ。霊能力者というは、その時期に霊感が消えることなく残り続けてしまった人たちのこと。
彼女は大人びた口調でそう語った。
さすが、俺よりも長い間この世界にいるだけあって説得力があった。
漫画やドラマでも、子供が親に見えないはずのものが見えているような素振りをすることがある。きっと、そのことを表しているのだろう。
「そんなことより、あなたの話を聞かせてよ。ここでピアノを弾いているしかできないこの私に……」
ここで初めて悲しそうな表情をみた
そう、先ほどから平気そうな顔をしていたが、やはり死んでしまったことはとても悲しいことなのだ。俺らと違って成長もしなければここから動くこともできない。前は小学生を見ていることもできたけど、今はそれを行うこともできない。
そんな表情を見ると断ることなどできはしない。
「ああ、もちろんだよ」
俺も彼女の話を聞きたかった。
それからは、時間を忘れて俺達は話していた。こっちからは中学へと進学した後の話、野球界に入ってからの話を。彼女からはこの小学校であった笑い話や悲しかったことなどを語ってくれた。
「そういえば……」
話がちょうど俺達が初めて会った時の話になった。そして、思い出したかのように出てきた素朴な疑問を尋ねてみる。
「俺が見えたのはあの日だけだ。あれから何度もここにきているが俺が会うことはできなかった。これはどういうことなんだ?」
初めて会った日から、何度もここに足を運んだが、彼女に会うことはできなかった。
「それは仕方のないことよ。あなたの場合はあの時にはもう霊感は消えていたんだもの」
何かに一生懸命になると霊感というものは必要がなくなる。あの時はいやいやだったかもしれないが、すでに野球に没頭していた。だから俺からは早くもその力が消えてしまったらしい。
「どうして俺には見えたんだ?いくら姉弟だとしてもそれだけじゃ見えないだろう」
「貴方って何も知らないのね」
なんか、物凄く馬鹿にされているような目で見られている気がするんだが。
「いい?私のような霊体をもつ人は死んだ日に一番その力が強くなるの。だから私は自分の死んだ日にはほとんどの人たちに見えるようになるの。だから貴方にも見えたのよ」
えぇと……。彼女が言っていることがわからないわけではない。しかし、聞いても実感が湧くようなものではないので、なんだか頭に入りにくいのだ。
「じゃあ、俺が今見えてるのは……」
「そう、今日はちょうど私が死んだ日。貴方に会ってからちょうど十五年」
彼女が見える理由は、命日だからだ。ということは、何年か前のこの日に彼女は死んでしまったのだ。
そう考えると、自然に会話が途切れてしまった。
一時の沈黙が流れる。
それから何分間経過したのかわからないが、彼女が唐突に言葉を発した。
「さてと、私はそろそろ行こうかな」
「!!」
その言葉に、俺はかなり驚いてしまった。俺はまだ彼女と話したいことはたくさんある。俺のわがままだということはわかっていたが、まだ彼女には成仏してほしくはなかった。
「待ってくれ。俺は話したいことがまだまだあるんだ」
「それは無理よ。だって、ほら……」
少女が指をさした先には赤い色の空が見える。
まだ太陽は山の向こうに隠れているので町全体を太陽光が照らし出しているわけではない。しかし、それも少し経てばこの世界を明るくする。
もうあの世とこの世の交わる時間は終わり、生者の時間がやってくる。もちろん、その時間にこの少女も存在することは出来ない。
彼女は、消えなければならない。
「なあ、明日も会えるんだろ?」
「うんうん。それは無理」
彼女は笑顔で首を横に振った。
「もう無理。これ以上延ばしたら彼女に迷惑がかかるし」
「いったい彼女って?」
「君達でいう死神ってところかな。こっちではまた違う名前だけど」
こっちの世界ということは、俺達でいうあの世の話だろう。
彼女は本当ならすでにこの場所からはいなくなっていなければならない存在である。しかし、その死神とやらに頼んでギリギリまで待ってもらっていたのだという。俺が来るこの日まで……。
「死神なんて信じがたい話なんだがなぁ。まあ現に……って、おい!?」
俺がそういいかけて、驚いてしまった。少女の体は半透明になっていたのだ。
気がつけばすでに太陽は山を乗り越えて、まだ都会とはいえない町を明るく包み込んでいた。この教室にも例外はない。まだそれほど強くはないが、確実に太陽光が大きな窓から差し込んでいる。
「もう、今日から工事が始まる。自縛霊というものはその場所が破壊されるとこの世との接点がなくなって怨霊になってしまうの。そうなったら、迷惑をかけるから。彼女にも、貴方にも……」
少女の体は先ほどよりも更に薄くなっている。もう、表情がぎりぎりわかるぐらいでしかない。
「ありがとうね。私のこと忘れないでいてくれて」
もう、その声も遠くのほうから聞こえるほどでしかない。
まだ彼女には消えてほしくなかった。また明日の夜にでも会おうと言ってほしい。
だが、それはかなわない夢だ。そもそも、今死んだはずの彼女と話をしていることすら夢のような話だ。これ以上望むのはおかしいことなのかもしれない。
明日から、もう彼女に会うことは出来ない。永遠の別れ。悲しいはずなのに、涙を流すことがないというのは、俺が完全に大人になってしまったという証拠なのだろうか。
そんなことを考えているとき、彼女はいつの間にか完全に見えなくなっていた。
別れというものはもっと感動的だと思っていたのだが、実際に体験してみるとそうでもない。やはり一、二回あっただけではそれほど思いというものは生まれないのかもしれない。それがもしも、死んだ家族だったとしても。
ただ、知り合ったばかりの友達が突然引っ越してしまった。それぐらいにしか思えなかった。
心ではそう感じているのに、それほど悲しくはないのに何故だか泣いていた。
しかし、顔は笑っている。今まで生きてきた中で心のどこかにあった重み。それほど引っかかっていたのではないが、確実にそれはあった。なんなのかは当然わからなかった。
それがいつの間にかなくなっていた。もしかすると、この涙はそれがなくなったことに対しての喜びの涙なのかもしれなかった。
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2005/05/05(Thu)21:31:00 公開 / 上下 左右
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■作者からのメッセージ
今回でこれは終了で〜す。といっても二回だけですが……。
かなり描写も少ないですし突っ込みどころも満載だったと思います。
ぜひともそれを教えてもらえるとうれしいです。もしもそういうものが無くても気軽な感想も書いてくれればうれしいです。それでは、また別の作品でお会いしましょう
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