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『七月七日の想い出』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:ずんや
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七月七日、七夕の日の真実を私は知った。それは皆が知っていた物語で、そしてそれは皆の知らない真実が隠されていた。隠匿され、忘却されたその事実は語り継がれた夢物語の実在した真実。
―――とても哀しい悲劇の恋の結末。
―――それは、知られる事無く実在し続ける。
―――そして今も悲劇が繰り返されている。
〜 七月七日の想い出 〜
目覚まし設定されたミニコンポが陽気にリズムよく音楽を鳴らしている。その音で私は覚醒した。のそのそと布団から這い出る。デジタルの時計に目をやるとは文字盤は六時半を映している。窓に掛かったブラインドに手を掛け、それを引っ張った。
「んんー、今日も快晴だなぁー」
ブラインドが上がった窓から覗く外の天気は晴れ。空には雲一つ無く、太陽が東から日光を供給している。眩しさを覚える日の光が白い壁紙を更に白く栄えさせる。爽やかな朝だった。
ゆっくりベットから降りて伸びをすると着替えに手をした。軽快な音楽がコンポから流れ続けている。
「おはよ〜」
一階のダイニング降りるとパンツスーツを着た母がエプロンをし、せっせとお弁当の用意をしていた。母の手作りのお弁当は久しく食べていない。期待で少し胸が弾んだ。
「おはよう、香奈。 朝ご飯出来てるから自分でよそって済ませちゃいなさい」
「オッケイ」
台所に回ると既にお弁当に入れ終えたであろうおかずの残りがあった。それとご飯で食事をテキパキと済ます。食事が済めば顔洗って髪の毛梳いて準備完了だ。私は早速行動に移った。
私の家族は私も含めてたった二人。母と私。父は私が小さい頃に病気で急逝してしまった。それ以来、女二人で暮らしている。母は強い人だった。父が死んでも声を上げて泣く事はしなかった。ただ強く決意を固めた表情で一筋の涙を流していただけ。その時の私は大声で泣きじゃくっていたのに。その日以来、母は専業主婦を捨て、OLとしてバリバリ働き始めた。元々、学があった母は大手企業に就職が決まり、その仕事は多忙を極めていた。その所為か小さい頃はかなり寂しい思いもしたが私は辛いと漏らした事は無かった。母も辛いのだ。私が不安を煽る事をしてはいけないと思った。
そんなこんなで逞しい母に産んでもらい早十八年。私は市内の公立校の高校生になっていた。母のお陰で学費にも苦労せず、部活にも通えていた。まったく母には頭下がる思いだ。そんな母の様に強い女性に私はなりたかった。
「おはよっ」
教室の扉を開け、快活に声を上げる。教室には既に何人か登校していた。殆どのクラスメイトから返事が返ってきた。スカートを翻し教室に入ると、それぞれに朝の挨拶を交わした。そして窓際に座るある生徒に挨拶をする。その私は少し緊張気味。
「お、おはよう。 片瀬くん」
出来るだけ動揺を隠そうと努力したけど、私の顔は多分かなり紅くなってる筈だ。
「やぁ、野崎。 おはよう」
爽やかな笑顔で返され更に頬が火照るのが分かった。恥ずかしいやら嬉しいやらで結局、私は混乱。ほうほうの態で片瀬くんの席を後にした。
初夏の風が頬に当たる。朝の澄んだ清々しい空気とは裏腹に私の気分は優れない。
「恋愛下手の香奈にしてはよくやったじゃん。 ほんと香奈の初々しさといったらもう―――」
そう言うと私の親友、陸上部エースの笹貫 巴はトリップしていた。何やら不純な妄想を脳内にて先行上映中に違いない、この変態妄想狂め。
「ハァ……。 もうかなり緊張したよぉ〜」
肩を落とし、溜め息をつく私。恋愛対象にならない男子には緊張のキの字も無いのだが、好きな男子の前に立つと上がってしまうのだ。今日は本当によくやった方だ。いつもなら隠れるように逃げてしまう。その為か私の好きな人を知らない者はいつもいない。しかし問題の彼、片瀬 直彦くんはそれを知ってか知らずか他の人と同じように接してくれている。これは果たして喜ぶべきなのだろうか、それとも悲しむべきなのだろうか?
「気を付けないと、他の人に盗られる可能性があるわよ」
もう一人の親友、生徒会の重鎮、生徒会長 英田 和海がボソッと言った。彼女は掛けていた眼鏡を掛け直し押し黙り、再び二階教室のベランダから外を見ている。見ているというよりは登校している生徒を監視しているようだったが。
彼女の指摘は私の最も恐れた事だ。二枚目、スポーツ出来て、勉強出来て、人当たりが良く、話術に長ける。欠点の見当たらない、まさに完璧超人みたいな彼は男女問わず人気が高い。そしてそんな彼に好意を寄せる女子生徒も多い。私もその一人。
「ダイジョブよ香奈。 和海、あんたあの噂知ってて言ってるでしょ!?」
目付きを鋭くし、巴は和海を問い質す。いざとなったら運動部で叩き上げた体力にものを言わせ、暴挙に出かねない。男子でさえ敵わないといわれたツワノモな彼女だ。
「どうだかね」
鋭い視線をその一言だけで余裕で受け流す和海。フフンと鼻で笑っている。そのあたりこの子もかなりのツワモノだった。
「あたしの香奈を泣かす奴は例え和海であっても許さないわよ?」
私を抱き寄せ、更に鋭い目付きで和海を睨む巴。険悪だ。
「あ、あたしのって巴、あなたねぇ……」
その同性愛者紛いの科白が私の背に何か冷たいものを走らせた。身じろぐ私。
「本当に気遣うんだったら、もう少し冷徹になるべきね! 甘えは香奈に毒よ!」
さっきとは打って変わって、鋭い口調で巴に食って掛かる。その剣幕は巴に負けず劣らずだ。腰まで伸びたポニーテールを振り乱し言い捨てる。
「そんな事ぐらい分かってる!」
更に声を荒げる巴。いつの間にか私への拘束を解き、和海と睨み合っている。更に険悪。
「それで聞き忘れたんだけど、……噂って何?」
この話をした巴自身もすっかり忘れていたようだ。私の質問で二人は呆れた風に私を見て言った。
「「そんな話も知らなかったの!?」」
と言われましても私の方としましては噂など何が何やらさっぱりな訳で、結局二人からその話を聞く事となった。ある意味では一件落着かな?
「その噂って言うのが、」
呆れても教えてくれる根は優しい和海、
「片瀬は実は、」
元から私を偏愛している巴が、
「「オカマさんじゃないかって事」」
教えてくれた衝撃的な噂の内容。―――片瀬くん、実はオカマさんだった説。
「ハ? なんて言ったの、今」
面喰って問い質す私に、
「いやだからホモなんじゃないかって」
巴が私の気持ちも考えずケロッとそう言って。
「そんな、片瀬くんに限ってそんな訳――」
私が否定しようとすると、
「…………」
和海が何も言わずに目を閉じ、かぶりを振っている。
そんな馬鹿な―――
「………嘘よね?」
笑みが強張っていくのが分かった。絶望に苛まれる。オカマさんだったなんて!
「心外だなぁ、そんな風に思われてるなんてさ。 でも野崎は信じてくれてるんだろう?」
今一番聞きたくない声だった。しかし、常に聞きたい声でもある。それは片瀬くんの物。軽い割りには穏やかな口調。
「えっ? わっ!」
咄嗟に巴と和海の後ろに隠れてしまった。どうしよう、どうしよう。頭が上手く機能しない、ものの見事に混乱。
「それを言う前に噂の撤回でもしたら?」
いぶかしむ巴。お願い、あまり余計な事はしないでね? そう心の奥で願う。たぶん口にしても 無駄だろうから、巴の場合は。
「そう、確かに気になるわね。 何故? もう十人以上そでにいているじゃない。 別段彼女がい るわけでもないのに何故? 中にはあなたに見劣りしない子もいたはずよ?」
和海まで乗り出してしまった。これはもう手が付けられない。ごめんね、片瀬くん……。そして、私は赤面し、隠れるだけとなる。
「―――誰にも触れられたくない過去があるもんだ……。 笹貫、お前にだってあるだろう? 勿論、会長にもさ」
そう言われると二人はたじろいだ。片瀬くんは沈痛な面持ちでそう言った。今まで見せた事の無い悲しい顔だった。その傷は私にもある、父の急逝という傷が。皆必ず持っている心の傷。たとえ忘れようとも忘れられず、忘れたといえど思い出せないだけで必ず何かの拍子に蘇る。決して癒えない心の傷が。
「………ご免、悪かった」
「………私もよ、誤解して悪かったわ」
二人が謝ると片瀬くんは、いやいいさ、と言って許してくれた。
「それといい?」
「ん?」
暫しの沈黙の後、和海が片瀬くんに声を掛けた。
「いつから聞いてたの? あまり良い趣味じゃないわ、盗み聞きなんて」
「あぁ、それはすまない。 えぇと、大体お前ら二人のオカマさん発言辺りからかな?」
「まぁ、その辺ならダイジョブか……。 よし分かったなら許す」
和海に代弁し、巴がそう言い頷いていた。
「これからも変な噂はカンベンな?」
そう言うと教室の中へと戻っていってしまった。私はその背に、
「ゴメンナサイ!」
と頭を下げた。それと同時にチャイムが鳴る。
「あっ、ホームルームが始まる」
苦虫を噛み潰したような顔になる巴。
「ここでお開きよ。 さぁ、中に入った、入った。」
シッシッと手で急がせる和海。私達はそれに従い教室の中へ入った。
______________________
いつもと変わらぬ日常の風景。この頃は何の異常も無かったのに。でも、起こった事は私の生まれる前から続いてきた事らしい。必ずどこかで起こっていた。ただ、私も皆もそれを知らないだけ。
そう、次の日の事だった。片瀬くんは学校を早退した。少し心配だったけど、きっと風邪だと思って、それでそのまま私は日常通りに生活を続けた。わたしの好きな人はもうその頃には壊れ始めていたというのに。それが始まったというのに、私は気付かなかった
「片瀬くん大丈夫かなぁ」
私は今日彼が早退した事を心配していた。これで明日休んだらお見舞いに言ってあげようと心の奥で決意しつつ。
「ほんと、片瀬の奴ダイジョブかね? まぁ、あたしの香奈を悲しませる奴はたとえ香奈の想い人 であっても許さないね。 これ以上休んだら自宅に殴りこんで拉致っちゃる」
そう言って私に抱き縋る巴。制服をラフに着ている。リボンもしていない。生徒会長の前でこんな横暴が出来るのも巴ぐらいだろう。ショートカットの髪を躍らせ人込みの中、先陣を切って歩いていた。
「巴落ち着いて。 一緒にいて恥ずかしいよ? そんな事大声で言ってさ……」
恥ずかしいよりも呆れていたが、一応堪えて答えてあげた。まったくもう。でもやっぱり恥ずかしいので私は小さくなって歩くことにした。
「そうよ、走ってばかりで頭の中まで筋肉細胞にすげ変わったんじゃない? あなた。 もう少し公衆の面前だって事を意識したら?」
フフンと嘲笑を入り混ぜながら和海が言った。制服を綺麗に乱れた所の無いよう着ている。そこら辺から和海の人間性が窺えた。しかしだ、巴と喋る時、この子の口はいつも以上に悪くなる。それで起きる喧嘩を仲裁するのが私の仕事。和海も巴も私の事を考えてくれているのは分かったから。感謝はしているけど、ほんとに二人とも私の苦労も考えてね?
私達三人はいつものように三人一緒に下校していた。日はもう傾き、西に黄昏色の太陽がビルの間に沈まんとしている。夕方の駅前の通りは交通量が多い。それを掻き分けながら進む。まぁ、掻き分けているのは巴だが。
三年生になり部活も終わったのだが、巴は体育大への推薦がほぼ内定したようなものなので未だに陸上部に通っている。和海は生徒会の任期がまだあるため忙しい。私はというと元弓道部主将という肩書きもあり、その為終わった部活にせっせと顔を出し、連日新入部員の指導をしていた。今日もその所為で遅くなってしまったのだ。
「そう言う会長さんこそ、栄養がその豊満な胸にしか行っていないような気がするんだけど?」
反論に巴が口にした。確かにこの三人の中で一番大きい。というか多分、この高校一大きいのは間違いなく和海であろう。反則的な大きさだ。一方の巴は壊滅的な薄さだった。パットさえも気休めにしかならない。この話をすると彼女はヒステリックになる。禁句だった。
「何? 羨ましいの? この胸が。 まぁ、ブラを探す苦労を知らずに済むからいいんじゃない?」
胸の下で腕を組み、持ち上げ胸を強調している。地団駄を踏む巴。確かに彼女の頭には筋肉に一部取って代わられた部分があるのではないだろうか? と思ってしまう。しかし、胸に栄養が行き過ぎなのも納得できた。私は可笑しくなって笑いを堪える。それを余所に二人は口論を続けた。
こうして楽しい日常は過ぎてゆく―――。
想い人の狂いに、異変に微塵もに気付かずに―――。
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―――織り姫よ、何故あなたは俺の身代わりなどになった? ただの地の民に過ぎない俺に? 俺の代わりなど、俺以上の者など数多いるというのに。 俺があのまま無光の禁呪に落ちていればよかったものを、あなたは何故? 何故? 何故そこまでして俺を守る? あなたが俺の呪を背負う必要など無かった! 俺一人で充分だった! なのにあなたは俺の身代わりになった、自ら進んで! 何故だ! 俺にはあなたを救う力など無い! 地の民に天上の民は破れない! あなたを俺は―――救えない。あなたは希望の光さえも断たれるのに。 何故、俺の代わりなど―――
織り姫よ、あなたは俺に何を望む? 不死の禁呪により魂に死を刻まれ、永劫の輪廻転生を命じられた俺にあなたは何を願う!? 解ける事の無い、無光の禁呪に縛られ、醒める事の無い眠りにつき、あなたと苦痛しか介在しない無光無明の魂の牢で何を待つのです! 何を願うのです! 何を望むのです! 俺に何をしろと! この俺に生きろと言うのですか! 避けることない死を刻まれ、輪廻の輪に戻る事無く転生する俺に! 生の目的をとうの昔に無くした俺に!
―――あなたは生きろと言うのですか……。 織り姫―――
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部活の帰り道。もうすっかり日は沈んで街灯の心細い明かりだけが帰り道を照らしていた。静謐な夜は逆に不安を煽る。シンと静まり返った住宅街。耳を澄ませば辺りから生活の音が聞こえてきた。今日はいつもの二人とは別々だった。一人で黒く染まった空の下、黙々と帰路についていた。
「今日、母さん出張だったっけ……」
母は忙しく今日も遅くなる。バックから財布を取り出し、中を見た。夕食を済ませる余裕はあるようだった。
「んー、……仕方ないコンビニで済ませるか」
ひとりごちて私の足は自宅へ向かうルートから外れ、コンビニのある方向へと歩みを進め始めた。母の手料理で済ませればそれに越した事はなかったがそう贅沢も言っていられなかった。今朝起きてダイニングに向かうと、テーブルに、出張に行きます、と連絡先の載ったの置手紙と供に三日分の食費が置いてあった。いつもの事と自分に言い聞かせ、私は家を出たものだ。いつもそう。母の手料理は月一でありつければ幸運な方だった。
コンビニの前まで足を運ぶと幾分かそこは賑やかだった。乗用車が何台か止まり、中学生の不良グループだろうか、駐輪場にたむろしている。
「いらっしゃいませー」
コンビニの戸を開けると傍の棚に品を並べていた従業員の挨拶が聞こえた。私は店内で今日の晩餐に相応しい物を探し始める。かごを手にとり、中に適当な弁当や飲み物を入れた。
「あら、香奈ちゃん。 今日もお母さん残業? 健気ねー、サービスしようか?」
レジに立つとレジ員から声を掛けられた。近所のおばさんがパートに出ていて、このコンビニをよく利用する事から従業員にも顔見知りが多い。
「あっ、母は出張で…。 あ、いえ、結構です。 でも、ありがとうございます」
きちんと断ってから、きちんとお礼を言う。そういう事は昔から母に厳しく躾けられたものだ。
「もう、遠慮する事ないのに」
カッカッと笑っておばさんはお握りを一つ、清算を済ませた買い物袋に入れた。
「おばさんが後で清算しておいてあげるから」
小声で耳打ちされ、どうしたものかと困惑した。しかし、その好意に甘んじる事にした。自然と頭が下がり、お礼の言葉が口から出た。
「最近ではきちんと挨拶できない子も増えているのに、香奈ちゃんはしっかりしているねぇ。 うちの子達は―――」
そう言い溜め息をついているおばさん。後ろに他の客が並んだので退散する事にした。
「じゃあ、どうも」
「うん、じゃあね」
もう一度頭を下げ、コンビニの扉を押す。
「ありがとうございましたー」
扉が閉まる間際、他の従業員の声が聞こえた。
今度は自宅を目指す。やはり静まり返った夜の道は何か不安感を煽る。早く次の街灯の下へ、と思いついつい歩みが速まる。コツコツと私の靴音だけがあたりに響いた。時たま車とすれ違ったが歩行者に会うことは殆ど無かった。静かな静かな夜の住宅街。談笑が聞こえるときもあった。その度私はホッとする。
公園の前に着いた。昼間ならここは親子連れで賑やかになるだろう。しかし、夜の公園は静かなものだった。ここまで来ればもう少しで我が家だ。街灯の下で止まると、安心し再び歩き出そうとした。
―――キィ、キィ。何か聞こえた。 ―――キィ、キィ。はやり何か聞こえる。何かが軋むような音。―――キィ、キィ。
「えっ、何? 何!?」
普段、耳にしない音に戸惑いと動揺を隠せず、公園に足を踏み入れる。好奇心が探れと騒ぐ。恐怖心が逃げろと怯える。人間好奇心には勝てないよう神様に作られたのか、私の足は音のする方向へと一歩一歩確実に近づいている。音源はブランコのようだ。誰かがブランコをこいでいる、ないし座っているようだ。―――もしかしてケタケタ!?
公園の外灯に照らされ、その姿が見えてくる。男性だ。俯いていたので顔は分からなかったがその服は私の高校のものだ。少しラフに着流しているけど。セミロングで茶色がかったその髪形もどこかで見た事がある。その人がこちらに気付き、顔を上げた。やはり顔が陰になり誰かは判別できない。
「お前……野崎―――か?」
私はその声を知っている。忘れるわけも無く、覚えていないはずも無い。
「カッ、カカカ、片瀬くん!?」
ケタケタが出るよりもビックリだった。私はかなり動揺した。今、感情に任せて口を動かせば今のままでは日本語かさえ判別不能な事を言いそうなので、なんとか落ち着かせようとして、呼吸を整えて、慎重に言葉を選ぼうとする。しかし、それが中々困難。上がってしまう。きっと部活で初めて試合に出たときよりも緊張しているだろう。
「やっぱり、野崎だったか。 お前家この辺なのか?」
やはり片瀬くんだった。その顔をやっと光を受けはっきりと見えた。顔色が冴えない、顔つきも暗い。これで二度目だった。この顔を見るのは。
「えっ? あっ、ハイ!」
もう少しで素っ頓狂な声を上げてしまうところだった。セーフ。でも顔は外灯で見づらくても真っ赤なはず。……恥ずかしいよぉ。
「何そんなに改まってるんだ?」
片瀬くんは微笑んだが、何か疲れが残っているように見える。私は心配になった。思い切って声を掛ける。
「あの、……どこか具合、悪いの?」
「いや、大丈夫だ」
「でも、今日学校休んだし……」
「心配してくれてサンキューな。 でもホントにダイジョブだよ」
そう言ってブランコから立ち上がると、覚束無い足取りで公園の出口を目指した。かなりフラついている。その姿はやっぱり大丈夫に見えなかった。
「じゃあな、野崎」
その声はまるで最後の別れのように悲しい響きに聞こえて、普段の別れのように軽い声だった。置いていかれるような錯覚に陥って、私は片瀬くんの後を追おうとした。
その時、片瀬くんは足を縺れさせ倒れそうになる。私はそれを庇うように咄嗟に動いた。それほど距離がなかったため何とか間に合ったが、倒れ掛かる片瀬くんを支えるのは辛い。向こうは170cm近いがこっちは160cm位だ。体重差もあるし、力も私の細腕じゃ、やはり支えきれない。
「わわっ!」
結局耐え切れずに倒れてしまった。片瀬くんが覆い被さるように倒れて苦しい。ビックリして目を閉じていたがその目を開くと間近に片瀬くんの顔があった。顔色は優れず、脂汗をかいているのが分かる。微かにシャンプーの匂いが鼻につく。不謹慎だが心地良い。しかし、見る人が見れば押し倒されたように見えるんだろうなぁ。―――って、それは拙いじゃない!
「か、片瀬くん。 大丈夫? 誰かに見られたら勘違いされるよ!」
更に真っ赤になってそう言うが、片瀬くんの反応は今一鈍い。荒く乱れた息遣いで倒れている。仕方なくえっちらおっちら片瀬くんの下から這い出る。服に付いた砂埃を払い。何とかして片瀬くんを立たせた。やはり具合は優れないようだ。
「ひとまず、私の家に行って休もう?」
やっと立ち上がった片瀬くんに肩を貸し、私は自宅を目指す事にした。ここのベンチじゃこの季節、蚊も出るし、何せ誰かに見られて勘違いされたら困る。なにより恥ずかしい!
片瀬くんを支えながら歩くのは辛かったけど支えているのが片瀬くんだと思うと少し力が増した気がした。これがどうでもいいおっさんだったら私は確実にギブアップしているだろう。そんな片瀬くんの感触は少し骨っぽくて結構筋肉質でガッチリしていた。昔、私と母を置いて逝ってしまった父を思い出した。小さい頃はよく抱っこしてもらったりしたっけ。そんな事を思い出して感傷に浸ったらチョット涙腺が緩んだ。もう父は帰ってこないのだ。今、泣いても仕方ない。鼻を啜り、涙をグッと堪え私は自宅へ向かった。
自宅へ着き、片瀬くんを居間のソファーに寝かせる。毛布を架け、シャツを緩め、濡らしたタオルを額に架けてあげた。って言うかこの後どうすればいいの? 私は散々迷った挙句、先ずご飯を食べる事にした。腹が減っては戦は出来ぬ、って言うし。……いや、片瀬くん相手に戦してどうする私! そんな慣用にさえも気付けないほど動揺した私はご飯を食べる事にした。黙々とコンビに弁当を頬張る私。しかも、緊張気味に。ご飯を食べ終えたが今一味が分からなかった。ダイニングのテーブルから立ち、台所のゴミ箱に空の容器を突っ込む。
「―――ここは?」
私は文字通り飛び上がった。かなり、びっくりした。片瀬くんは気が付いたようだった。
「え、あ、あの…。 ここ、私の家で、それで…あの、」
緊張して、言葉に詰まる。なんて説明しようか。ただ説明すればいいものを混乱した私は迷ってまともな事が言えないでいた。どんくさいなんて思われてないかな?
「……あぁ、野崎が俺の事運んでくれたのか」
「そう、そうなの! それで……大丈夫?」
心配して片瀬くんを見ると先程よりは顔色も良くなっているようだ。少し安心した。緊張も少し解れる。
「あ、あのっ、お腹。 減ってない?」
そう言うとレジのおばさんに貰ったお握りを袋から出し、居間に向かった。
シーチキンの詰まったお握りを食べ終え、私の入れたお茶を飲み干した片瀬くんは私に向き直った。お茶を運んだお盆を持って私は緊張する。
「ありがとう、野崎。 お礼がしたいしさ、なんかあったら俺に言ってくれよ。 でも高すぎるものはカンベンな」
そう言って笑ってくれている片瀬くん。
「そんな、何か買ってもらうなんて! 私そんなの目当てじゃなくて、ただ、片瀬くんが困ってたから、好きな人が困ってたらやっぱり助けるのが普通かなっと思って―――。 あっ…………。」
言った後に気付いた。言っちゃった。言ってしまった! 面と向かってだよ、しかも! カァーッと紅くなり顔が火照るのが分かる。お盆でその顔を隠し、
「ゴメンッ!! 今のは聞かなかった事にしてッ!!」
きっと日頃の仕草というか挙動で分かってしまうだろうが、こうして面と向かって言うとかなりというか死にたくなるほど恥ずかしい。何でこんなときに言っちゃうんだよ、私のバカァッ!! 自分の愚かさ具合をかなり後悔しつつ、恥ずかしかった。とにかく悶死してしまいそうだった。
「―――なぁ、野崎。 織り姫と彦星の話、知っているか?」
動揺している私を尻目に片瀬くんはそんな事を静かに言った。その顔は落ち着き、その目付きはとても穏やかだった。
「えっ? あ、うん」
面喰ったためか普通に返事できた私。でもきっと間抜けた顔していたんだろうな。そんな私の想いなど関係ないかのように片瀬くんは続けた。
「あの話には、ちょっとした秘密があってな。 もう一つ、隠された話があるんだ」
はっきり言って私にはよく分からなかった。唐突にそんな話をされてもなんともしがたい。
「昔、織り姫という機織り娘がいました。 その子は天上の民を統べる、天上の帝の娘でした。 天上の帝はその娘、織り姫を溺愛していました。 そんなある日、織り姫は恋に落ちました。 地の民の青年に一目惚れしたのです。 無論、その青年も織り姫に一目惚れしました」
淡々と喋る片瀬くんは一言一言まるで昔を思い出しているかのように語っていた。私はそれに聞き惚れていた。
「二人は付き合い始めました。 青年の名は彦星といい、牛飼いを生業とし生計を立てていました。 二人は互いに愛し合い、永遠の仲を誓いました」
私もそれは知っていた。この後に二人は結婚するが織り姫は機を織らなくなってしまったのだ。それに怒った織り姫の親が彦星に試練を授け、最後には瓜を割らせ、そこから溢れた水に二人は裂かれた。その水が天の川になり、一年に一度、七月七日の七夕に再会できるというロマンチックなものだ。しかし―――
「しかし、その事を織り姫の父、天上の帝はそれを許しませんでした。 天上の帝は彦星に呪を掛けたのです」
片瀬くんはその隠された話を語り始めた。私はそんな話聞いた事もなかった。
「えっ? 呪って呪いの事?」
そう聞く私に片瀬くんは無言で頷き、そして続けた。
「その呪は決して不老である天上の民に掛けてはならない禁呪でした。 しかし、彼、彦星は地の民だったのです。 その禁呪はその魂を決して逃れる事の出来無い暗黒の牢に繋ぎとめ、そこで永遠に苦痛を感じ続ける恐ろしいものでした。 たとえ肉体が滅ぼうと、転生する事も、輪廻の輪に戻る事も許されず、ただその牢に捕らわれ続ける。 その為、不老である天上の民にこの呪を掛けると不老不死の者が出来てしまう。 その為この呪は禁呪とされてきたのです」
そこで私は異変に気付く。さっきまで穏やかだった表情の片瀬くんの表情が笑顔に歪んでいた。その笑みは自嘲的で冷たいものだった。背筋がぞくりとした。私は聞いてはいけないものを聞いているのではないかと。それでも彼、片瀬くんは続けた。
「その呪を掛けられた彦星は天上の帝により幽閉されました。 意識の戻らぬまま地下の暗黒に繋ぎ止められ、その魂も暗黒の牢に繋がれたまま、苦痛を繰り返し、ただ肉体の死を待つだけでした」
こんな話恐ろし過ぎる。私はそう思った。語り継がれてきた話とは似ても似つかぬ恐ろしい話だった。
「彦星は二度と光を見る事は叶わないと思われました。 勿論、愛する織り姫の姿も。 しかし、その暗黒の牢に一筋の光が射したのです。 そして、彼の目の前に織り姫が現れ告げました。 『あなたは生きてください』と、そして彦星は覚醒しました」
今まで自嘲に包まれていた片瀬くんの顔にいつの間にか深い深い悲しみが宿っていた。その顔は到底十八歳の青年には見えなかった。ただ後悔と悲しみと怒り、そう絶望に苛まれた表情だった。学校でも皆にも見せた事の無い悲しい顔だった。
「覚醒した彼、彦星の前には織り姫が横たわっていました。 彦星が話を聞けば、織り姫は彦星が呪を受け、幽閉されたのと時を同じくして機織りを止めてしまったのだそうなのです。 それを天上の帝が憂い、渋々彦星に会わせた、そこで織り姫はその呪を身代わりし、代わりにその呪を受け永い永い醒める事の無い眠りに就いてしまいました。 一方の彦星は天上の帝の逆鱗に触れ、再び、今度は別の呪を受けました。 それは不死の呪と呼ばれ、その記憶、精神、魂をそのまま保存し輪廻の輪に戻る事無く、再び同じ存在として転生させるというものでした。 その為、受けた苦痛を忘れる事は無く、苦痛も転生するたび増えてゆくのです。 その呪を受けた彦星は下界に戻される事無く、異界送りにされました。 そして今俺達の居るこの世界に流れ着き、終わる事の無い贖罪を続けるのでした…………」
まるで懺悔を聞いているようだった。そして片瀬くんの横顔を見ると彼は一筋の涙を流していた。私は声が出なかった。何をいって言いかわからなかった。ただその話を聞く以外なかった。今までに聞いた事の無いとても哀しい話だった。
―――これは七夕の丁度、一週間前の出来事。
______________________
長い時間が経ったように思えた。二人とも何も口にせず、ただ時間だけが過ぎている。不気味とも思える静寂が居間を包み込んでいた。
「野崎」
「え、な、何」
先に静寂を破ったのは片瀬くんだった。もう涙の見えない顔をこちらに向けて。その表情は見た事の無い真剣な表情。
「俺の事好きなんだろう?」
「え、あ、その……、えっと……。 ……ハイ」
私は紅くなり、小さく返事をした。片瀬くんの表情は以前固い。
「俺と、付き合いたいか?」
「……………………うん」
少し躊躇し、肯定した。あんあ話を聞いたばかりでとてもそう頷ける気分じゃなかったが念願かなったという思いもあり、何か場違いだと分かっていても肯定してしまった。
「どうしても?」
「―――いやっ、片瀬くんが嫌なららしょうがないけど、でもやっぱり、私、その、……うん」
否定しようとしたもののやはり本心が出る。小声だがこれも肯定。小さく小さく頷く。それを見て、片瀬くんは辛そうな顔になる。
「なぁ、さっき話したことがもしも本当だとしたら、お前どう思う?」
「どうって、…………酷過ぎるよ、織り姫も彦星も救われないじゃない。 そんなの哀し過ぎだよ……、こんな七夕私は嫌……」
私は彼の質問の意図が汲み取れないでいた。果たして彼、片瀬くんは何を思うのか。そして、その彼が一拍おいて口を開いた。もしかして―――、
「俺がその彦星だ」
冗談にしては笑えないし、冗談を言うには相応しくない状況で彼が口にした。その答えは私のもしかしてが見事、的中していた。しかし、彼は自身が何を言っているか分かっているのだろうか。私にはサッパリだった。しばらくの沈黙の後に片瀬くんは溜め息をつき、
「その顔、信じてないな? まぁ、仕方ないさ。 話の内容がこんなだしな。 以前、何人かに教えたが皆そんな顔をして、俺を嘲ったもんだ」
やっぱりか、ともう一度深く溜め息をついている。
―――でも、
「お前もそう思っただろ? そう思ったんだろ、野崎」
―――それは、違う、
「お前も俺を見限り、嘲るか?」
―――そうじゃない、私の中の何かがそう言ってる、でもそれを言葉に出来なくて、どうしようもなかった。私を支配する理性が有り得もしない馬鹿げた話を必死で否定していたから。根拠も何も無い戯言が、そんな事が現実に存在する訳が無い、と。そんな私に片瀬くんは今まで見せた事の無い冷たい態度で、見限ったような目付きで私を見ていて、自分を見限りそしてこの世の全てを諦めたような冷めた言葉を口にしていた。
「野崎、俺はお前とは付き合えない。 お前だけじゃない、俺はこの世の全てのモノと必要以上の関わり合いを持つ事は無い。 それにお前もこんなキチガイとは付き合いたくは無いだろう? もっとまともな相手を見付けろ……」
それを言うと片瀬くんはソファーから立ち上がった。私は今の言葉が耳にまだ残っている。その言葉を私はまだ理解していなかった。違う、理解したくなかった。その言葉は彼に突き放された事を意味していて、私の失恋と言う結果を証明させる言葉だったから、理解したくなかった。だから、理解したくなかったから、ただ呆けていた。
「………それと野崎、おにぎり。 サンキューな。 じゃ……」
扉が閉まる音が聞こえた。その音がやけに大きくて、響く事無く家の中を通り過ぎていった。家には私一人。やけに広いと感じた。静まり返った部屋が不安を煽る。私一人、悲痛なほど実感するこの空間。目元が熱い、喉元から堪えられなくなった何かが込み上げて来る。私は嗚咽を漏らした。堪えきれなくなって涙が溢れ出て来る。拭っても拭っても、止めどなく流れる涙。
「……うっ、うぅ、うぇっく……、寂しいよぉ、怖いよぉ、何でこんなに哀しいの? …もう嫌ぁ……」
―――寂しい、哀しい、怖い、嫌だ、嫌だ、一人は怖い、一人にしないで、こんな広い家に、泣いてしまうくらい寂しいの、叫びたくなるほど哀しいの、震えが止まらないぐらい怖いの、誰か私の傍にいて。 昔の病気が、もう治ったと思った病気が戻ってきた。父が急逝し、母が家を空けるようになってから始まった病気が。片瀬くんにふられた事がきっかけで、再発してしまった。ずっと母にも内緒にしてたのに、頑張って耐えて、堪えて、治った筈なのに、また、戻ってしまった。今、片瀬くんを追えば、一人じゃなくなる。でもきっと、さっき以上に突き放される。これ以上片瀬くんに嫌われたくはないし、何よりもう傷つきたくない。
一人という寂しさで嗚咽は慟哭に変わり、失恋の哀しさに涙が止まらなくなり、孤独の怖さから震えが止まらない。この広い家に一人、まるで私一人しかこの世に居ないみたいで、夜の闇が、家中に影を落とす夜の闇がまるで怪物のように思えて、片瀬くんの言葉が、最後の言葉がまるで、本当に最後の別れのように聞こえて、寂しくて、哀しくて、怖くて、どうしようもなくって、
―――もう、私の心は崩れそうだった。
私はベットに入り込み、ひとり震えていた。涙を流し、嗚咽を堪え、脳が睡眠状態になるのを必死で待った。でも眠気はやって来ない。かわりに来るのはあの感情だけ。不安にさせ、孤独を実感させ、恐怖を増長させる。必死で目を閉じた。これは悪い夢なんだと、覚めなければならないんだと自分に言い聞かせ、自分の意識を体から引き剥がそうと努力した。でも、どうせ眠ったってあの悪夢が今度は出てくるんだ。片瀬くんが言ったような、私しか居ない、私と苦痛しか存在しない孤独な世界の夢を見る。その夢は現実と同じくらい、不安で、孤独で、怖くて、何より辛かった。
私は夜が明けるのを待つ。朝になればこの気分は治る。デジタルの時計が一分毎表示を変えるのを待ち遠しく感じ、朝日が一刻も早く昇ることを必死で祈った。
祈るうち、いつの間にか私は意識を手放していた。私は朝日が上がるまで後一時間というところで眠りに落ちた。
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ここは夢と呼ばれる私の内の深淵。そこで目にするものは私の精神が納まる深淵の最下層。この時だけはっきりしている意識、なぜか理解できるこの深淵の中の知識も、覚醒すれば虚ろに霞み、その記憶も忘却される。私の精神が収められるはずのそこには他にもう一つの何かが存在した。黒い影の様なモノに縛られているその何かが確かにそこにあった。それはその影ごと二重三重に封じられてはいるけれど、確実に私の精神に影響している。現に悪夢として顕現していた。
苦痛しかない。存在しえる全ての苦痛を脳内に直接送られてくる。まるで片瀬くんの言っていた呪というそれと同じ。その苦痛に慣れようとしても津波のように大きな苦痛の波が私を襲う。悶え苦しむ私の精神と肉体。でも、それで死ぬことはない。本来これほどの苦痛ならショック死してしまうが、所詮は夢だ。しかし、私の中にある何かは私の中で眠り、永遠にこの夢を見続けている。何度も助けようとした、何度も呼びかけた、しかし、その何かからは返事は無い。ただ眠り続けているようだった。私が感じる以上の苦痛を感じて、覚める事無い永遠の悪夢を見続けているんだろう。しかし、それも夢から覚めれば私は存在さえも忘れてしまう。
夜が明けたようだ。私の意識は一気に遠退いて、夢から現実へと引き戻される。薄れる意識、朧に霞みゆく記憶。いつもこうして悪夢の事しか覚えていないようになるのだろう。私の意識はそれを取り残したまま覚醒していった。
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一体、何人目になるのだろう。ああやって自分の過去を漏らした相手は。最近になってかなりその人数が増えた。その数だけ俺が脆くなっているってことなのだろうか。数え切れぬ死を経て、今だ朽ちる事無く転生を繰り返す俺の末路は一体どうなるのだろう? いや、俺には末路など無い。あるのは果てる事無い無限の時間だけなのかもしれない。
街灯が黒い道を薄っすら浮き上がらせる。野崎宅を後にし、覚束無い足取りで俺は自宅に向かっていた。両親の元を離れ、この街で一人暮らし。その方が本当の親でもない肉親の顔を見ずに済む。
この心も体もその親の子ではなく、彦星としてこの世に生を受けたのだ。記憶もそのままの状態で。これまで馴染めた親などいなかった。馴染めるはずが無い。向こうはこちらを肉親と思うが、こちらは赤の他人も同じだ。ただ転生した先がそこだったというだけ。肉親ではない肉親。対処法はそこの子を演じるという事だけだった。面倒になったら出て行けば良い。生憎と俺は一人で生きる様な術を身に付けていた。
しかし、もう七夕も近い。十八の七夕。それが過ぎれば遅かれ早かれ俺は死ぬ。体の調子も悪くなってきた。幾許と繰り返してきた事だが死ぬのはかなりキツイ。苦痛しか存在せず、それが終わればまた新たに生を受ける。それも苦痛に一つだった。このまま全で一なる輪廻の輪に戻れればどんなに幸せな事か。しかし、それは叶わない。十八年で俺は死に、また蘇る。そうして幾千もの世界、次元を流浪し、その全ての果てを見てきた。この呪の力によって。不死による永遠の責め。それは終わる事無く今も続く。そして今回も終焉が近い。
「俺の身の内にあるのはこの呪と絶望、織り姫への想いだけか……」
こんな思考に何の意味があるのだろう。永遠に後悔していくのか? しかし、それがこの呪の責め。それが目的。人は後悔を覚えない事は無い。生き続けるだけでそれは大きくなり、増えていく。第一、俺は織り姫を忘れるわけが無い。忘れられるはずが無い。彼女がいなければ、生きることもままならず、魂のみの永遠の悪夢にうなされたのだろう。しかし、結局はこれも一緒だ。どちらも永遠に責めが続く。
「しかし、それが貴方への贖罪となるのならば」
彼女は今も眠り続けているのだろう。あの世界が平穏なままならば。彼女の為ならばこの永遠も耐えられる。そう自身に言い聞かせる。だが最近ではそれをも疑い初め、悲観的になっている自分がいる。
「いつになく弱気だな……俺」
気を奮い立たせ足へ力を入れる。重い足を前進させ、俺は我が家へ向かう。
しかし彼女、野崎香奈は何かがおかしい。何が違うのかはこう、なんとも感覚的で直感的なモノなのだが、彼女はこの世界の者の規格では無い。野崎が俺に駆け寄って初めて彼女の体に触れてから気がついた。
彼女は俺と同じだ。異界の民、漂流者、流浪人。とにかくこの世界の人の規格で一応大体は作られてはいるが、根幹に根ざす基礎はこの世界の規格とは別のモノだ。それが何かは流石に分からないが今まで過ごしてきた時間のお陰で、この世界における超能力と呼ばれるようなものを、この世界の法則の所為である程度限定されてはいるが一応行使できる。今回のもその一つだ。
「異界の規格……。 面白そうだな、今回の終焉の前に彼女について調べるのも」
この世界はかなり規制が厳しい。限定された物理法則が世界の構成の大部分を占めるのでこの世界。魂魄などの概念が薄いこの世界で初めて転生する際とんでもなく苦労した事を覚えている。他の世界ならば元素の力が強かったり、その元素の意識体がいたり、魔術といえるものが行使できたり、転生の際に魂魄体でその世界に侵入するのも楽なものだった。それがここじゃ、満足に顕現もできない、そんな面倒くさい所にわざわざ渡ってくる者などいるのだろうか? それとも流されたか? どちらにしても本当は彼女の事などどうでも良い。
「しかし、彼女の属する世界に解呪の術があるのなら……もしくは」
しかし、もしも彼女が知っていたら? そんな考えが俺の脳裏を過ぎる。俺は一時期、織り姫の呪を解ける存在を、それを知る存在を探していた。今まで渡ってきた世界には彼女の呪を解ける術を知るモノ、技術、文明は無かった。が、もしかすると野崎香奈はそのヒントを知っているかもしれない。他人とは深い関わりを持たないと誓っていたが、もしも彼女を救うことが出来るならばそんな事はどうでも良い。
さっきの事は適当に誤魔化して、謝ろう。そして彼女の招待を暴く。俺は野崎香奈へ接触する事を決意した。
「そうなるとあれは演技か?」
しかし、さっきの態度は、あれは普通な、一般的なこの世界のモノの反応だ。もしかして彼女自身も自分の事を分かっていないのか? あの態度から考えれば、それは演技かそれとも自身の事を知らないかだ。そういう事になる。
「知る必要があるのは彼女の真意、か……」
何にせよ、俺に残された時間は残り僅か。それまでには調べる必要がある。藁をも掴むとはよく言ったものだが、俺の場合、蜘蛛の糸を摘む程度だろう。それ程に絶望的に困難な解呪だ。少ない時間を無下には出来ない。
俺は画策し始める。彼女の、野崎香奈の正体を知る為に。重い足はほんの少し軽くなった気がした。
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私は今、登校している。いつも通りの通学路にはいつも通り学生や通勤するサラリーマンなどが目に付く。朝の湿った空気のせいで少しだけ蒸し暑い初夏の朝。
実は学校には行きたくなかった。片瀬くんに会うのが辛くて、怖いし、失恋で出来た傷は一朝一夕で治るわけが無い。しかし、一人はもっと嫌だ。日が昇っても、さして気分が良くならなかった。一人の家は孤独だった、どうしようもない程に。
「オーッス! おはよう、香奈」
後ろから声を掛けられた。振り向くと巴が駆け寄ってくる。日焼けして小麦色の顔に満面の笑みを浮かべている。
「うん……、おはよう……」
頑張って声を振り絞ったものの、俯いた私からは微かに聞き取れるか聞き取れないかの小さなものしか出なかった。そんな小さな声を確りとその耳で拾ったのか、巴が私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの!? その顔? 目許、真っ赤で腫れてるじゃない! もしかして、一晩泣き明かした?」
彼女の発言は見事的中していた。確かに私は昨晩開き明かした。実は家を出るまで嗚咽をし続けていのだった。
「ゴメン……。 今はこの事、詮索しないで。 後でちゃんと話すから」
そう巴に告げて私は口を噤んだ。彼女は何とか聞き出そうとしたが、俯き黙する私にそれ以上の詮索はせず、ただ黙々と脇に並んで学校を目指すだけとなった。居ずらそうに身じろぐ巴。私自身も何の整理もついていなかった。彼女にそれでなんと話せばよいのか分からず、ただ押し黙る以外に無かった。ただ不思議な話を聞かされて、突如フラれた。私は依然混乱したままだった。
暗澹たる気分で学校へ辿り着くと自分の座席にドッと腰を下ろし、うつ伏せた。いつも元気に挨拶をしていた私の挨拶が無い事を察し、クラスメイトが周りに集まってきた。どうしたの、と声を掛けようとしているのだろう。しかし、ドタバタと騒がしい音がして直ぐに静かになった。耳を済ましてみると廊下から巴の声が聞こえた。きっと彼女も私を察してくれているんだろう。私になるべく負担が加わらないようにとだろう。
「どうかしたの?」
和海が私の傍にやって来た。日頃中々聞かない、穏やかな声で私に問い掛ける。私は顔を上げると言った。
「お願い、後でキチンと説明するから、今はそっとしておいて……」
起き上がった私の顔を見て和海はかなり驚いたようだった。いつもの顔とはかなり違う。一応、鏡は見てきた。酷い顔だった。目許は赤く腫れあがり、隈も目立った。
「そっとしておいてはあげるけど、無理は駄目よ?」
そう言う彼女は心配そうな目を私に向けていた。
「ありがとう……
私はそうとしか言えなかった。ただ俯き続ける。何をするわけでもなく、何を考えるでもなく。長いようで、短いようで、時間は過ぎる。その間、クラスの何人かが私に話し掛けてきたが、ゴメンとかそっとして、としか言えなかった。
「野崎、大丈夫か?」
後ろから声がした。時はもう昼休み。私は昼食も食べずに俯き続けていた。その声の主は―――考えたくなかった。
「これ、」
そう言うと私の机に何かを置いた。それも結構な数。でも何をするのだろう? そっとしておいて欲しい。自分から突き放したくせに。そう言おうとしたが遮られるように彼の声がした。
「ここで昼飯食ってもいいだろ?」
置かれた物はパンだった。学校の購買部から買って来たのだろう、嗅ぎ慣れた惣菜パンの匂いがした。彼はそのパンを咀嚼し始めた。
「……あの、片瀬くん。 お願いだから一人にして?」
「昨日の事なんだ、少し聞いてくれないか?」
顔を上げ、私は懇願したが片瀬くんはそれを遮り、一人話し始めた。パンを食べる手を止めて、真剣な目をこちらに向けている。
「片瀬の奴か!? 香奈になんかしたの!」
「そう決め付けるのは早計でしょう、でもその説が一番有力ね……」
影から二人のやり取りに聞き耳を立てている。香奈を溺愛して止まない巴と、愛の鞭を信条にした和海の二人だった。いつもは突っかかっている二人だがこういう時、息が合っていた。
「でも本当に片瀬の奴が?」
「今まで香奈に近づいてた人達では一番積極的よ。 それにあの態度、まるで何かに対して謝罪するようじゃない? 匂うわ」
「シャワーは浴びたわよ」
「馬鹿、あんたはいつも汗臭いからもう馴れたわよ」
和海の鋭い洞察力は粗方の事情を読み取っていた。多分、片瀬くんが香奈をフッたんだろう。奥手の香奈が告白し、それを片瀬くんが冷たくあしらった。失意の香奈はあの通り塞ぎ込み、それに良心を痛めた片瀬くんが謝罪する。と、いったところだろう。後ろでは巴がキィキィ騒いでいる。
「まぁ、真相はこれから明らかになるわね」
ムッツリとして頬を膨らませている巴は渋々和海の言葉に従うように聞き耳を立て続けた。
「俺は昨日言った事を嘘だと言う気も無いし、それでお前を騙す気も無い。 俺は彦星だし、織り姫を今も想い続けている。 お前をフッた理由はそれだけだ。 だから、勘違いするな。 お前に落ち度は無いし、他と比べても断トツに一番だろう。 だが、俺の想い人は織り姫その人だ」
意味合い的には昨日と一緒、まるでそれを確認させるためだけに来たみたいだった。
「……終わったんだったら、もういいでしょ? 一人にして……お願い」
「まだだ、もう少しある」
彼は続けた。真っ直ぐな目を私に向けて、彼は続けた。
「だから、俺は君を幸せにする」
「えっ……?」
突然の彼の発言。幸せにする? 誰を? 私を? 片瀬くんが?
「これ以上、君が悩むのを見たくないし、俺の所為で悲しむ人が増えるのも耐えられない。 きっと織り姫もそれを望まない。だから、俺は君を幸せにする」
「あの、それって?」
今一、理解に苦しんだ。彼は昨日突き放しのに、私を。
「俺の時間を全て、君に捧げよう。 誓うよ。 俺は君、野崎香奈を幸せにすると」
これを瓢箪から駒とでも言うのだろうか、意外や意外だ。昨日フラれた人に今告白されている。私はとても複雑な気持ちに。果たしてそれは本当なの? しかし、片瀬くんは真剣な眼差しでこちらを見ていた。他意は感じられなかった。だから私は決心した。例えそれが嘘でも、少しずつ信じていけばいいんだ。そうやって二人の距離を詰めればいい。
「あ、あの……。 その――、よろしくお願いします……」
私が紅潮しながら言うと、彼は優しく微笑んで、手を差し伸べてくれた。少し躊躇って、私は差し伸ばされた手を握っていた。少し不安はあったけど、決して不快な事ではなかったから、私は彼の笑顔に答えるように微笑んだ。
「ちょっと、どうなってんの? 話が全然聞こえない!」
巴が溜まらずに漏らした。さっきまで微かにだが聞こえていた二人の会話が唐突に聞こえなくなった。それに焦れて和海に尋ねる。
「ねぇ、どうなってんの!?」
「…………」
しかし、和海は答えなかった。いつも以上に鋭い目付きで二人を見続けている。言い知れぬ迫力があった。それに巴は少したじろぐ。
「ちょっ、ちょっと。 返事ぐらいしなさいよ!」
和海の肩を掴み、こちらに向かせようとするが彼女は岩の様に固く、動かない。二人のやり取りを必死に監視しているようだった。
「―――まさかこの世界に居るとは」
「へっ!? あんた何言ってんの? っつーか、会話が聞こえているなら、内容を教えなさいよッ!」
猛禽のような鋭い目付きで二人を見ている和海。少し間を置いてやっと反応した。その目付きはいつも通りの鋭さに戻っている。それでも少しは面喰ったようになっている。
「……えっ!? あぁ、駄目、私も聞こえないわ」
「大丈夫? あんたも今日香奈に負けず劣らず変よ?」
巴はそう言うと、心配してか、和海の顔を覗き込んでいる。
「あなたが私の心配する方がよっぽど変よ」
「なっ!」
いつも通りの口論に戻った事で巴はどこか安心していた。あんな和海の姿は見た事は無かった。どこか空恐ろしいものを見た気分だった。
西日が差し込み、黄昏色に染まる教室。一人の女子生徒以外は誰も居ない。まとめられているものの腰まで伸びた黒髪のポニーテール。豊満な胸。縁の無い眼鏡から覘く目はとても鋭い。異様な気配を身に纏っている。その女子生徒はこの世界でその名を英田 和海と名乗っていた。その女子生徒は一人教室に佇む。
「彦星、この世界へとやって来ていたのか。 規制の強いこの世界ならばと思ったが、奴も確実に力を付けているな……。 姫様の御霊はこの身に代えても護らなければならない。 例え、今の姫様の体を破壊しようとも。 魂さへ無事ならば……。 それが帝様の勅命なのだから―――」
女子生徒は一人教室で呟いた。教室の中へ突如風が吹き込む。次の瞬間には女子生徒の姿はもうその教室には無かった。
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私と片瀬くんが付き合い始めて一週間近くが経過した。嬉しいはずの私の気持ちは冴えない。私以外にも片瀬くんに思いを寄せていた人達への罪悪かもしれないと考えたがそうじゃなかった。彼女達は相手が私ならばと、どこか妥協しているようだったし……。そのお陰か、横恋慕だと僻まれ、嫉妬される事無く平穏な高校生活を送れている。和海は、さすが高校で一、二を争う人気者ね、と皮肉っていたっけ。
しかし、それよりも私を慕っていた後輩や男子達の悲痛な気持ちの方が伝わってきた。この前部活に顔を出したら人一倍私に懐いていた後輩の女子が泣いているのを目撃した。嗚咽しながら彼女は私が取られちゃった、と口にしていたのを覚えている。―――どうか、片瀬くんに迷惑がかかりませように。私は祈るしかない。
考えが少しずれてしまった。何故、私の気持ちが冴えないのか。それは多分―――
「ゴメン、野崎。 待ったか?」
「―――えっ、あっ。 ううん、少し前に着いたばっかり」
この人、片瀬くんに原因があるのかもしれない。恋人になったばかりとはいえ、どこか他人行儀な所があった。時たまボーっと、遠くを見ているような寂しい目をしているし。やっぱり、あの事は本当なの?
「じゃ、行きますか。 で、どこ行っこっか?」
賑やかな、人通りの多い駅前。そこで私達は待ち合わせをしていた。今日は土曜日、片瀬くんとの初デートの日だった。片瀬くんが来て、私の不安、不満はどこかに吹き飛んでしまった。片瀬くんに微笑みかけられて私の顔が上気したのがわかる。
「あ、あの、じゃあ、昨日言ってた、新作の映画見に行こ」
「オッケイ、じゃあ行こうか」
私と片瀬くんは並んで歩き出した。目指すは近場にある映画館。片瀬くんとデート、と意識しただけで顔から火が出そうになるぐらい何故か恥ずかしい。私じゃ彼に見劣りして彼に迷惑がかかるんじゃないかな、と少し不安になる。小さくなり歩く事にした。
「……大丈夫だよ」
彼が優しく声を掛けてくれた。それで私の手を優しく握ってくれた。それだけでも安心して、チョット自信が付いた気がして、そして手を繋いでいる事でさっきよりも顔が赤くなることがわかった。
私と片瀬くんは歩く。休日の午後、私達の他にもカップルが多く目に付く。私達もあんな風に見られているのだろうか。また俯いて赤くなっているだろう。
「何も恥ずかしがる事無いだろう? 自分に自信持つ、オーケー?」
「オッ、オーケー……」
そう言われても一朝一夕には出来ないものだ。少しだけ顔を上げる。私と片瀬くんは映画館を目指す。少し早い気もする初夏の太陽がギラギラと輝いていた。例年に比べ今年は暑くなりそうだ。空梅雨だし。強い日差し、風は無く、吹いたとしても生温い。それでも片瀬くんと一緒にいると爽やかに感じた。
―――しかし、なんと不甲斐のない。片瀬直彦はそう心の中で呟いた。
素性を探ろうと野崎香奈に近づいた。しかし、何も出来ぬままズルズルと時間だけを無駄に浪費して、今に至る。残された時間は僅か。出来なかった訳では無いがその幸せそうな彼女の姿を見ていると、その彼女を欺いている自分を意識する。それで良心が痛まないほど自分は冷徹になり切れていなかった。手を繋いだ時に彼女の感情を読んだ。それで更に彼女を欺くのが辛くなった。彼女は今を幸福と感じている。彼女は俺と違い、一生限りの人生を必死で過ごしているのだ。それを俺なんかが壊す権利はない。
深く関わりを持ち過ぎたな……。
結局の所、全ての原因はそこにあった。常々人との関わりを断つと意識していたのにこの体たらく。不甲斐ないものだ、永遠と呼ばれる時間はどんどん俺を弱くしている気がした。どんなに関わりを捨てようとも、些細な、ほんの少しの関わりが生まれてしまう。その積み重ね、そしてその別れが俺を弱くしているのかもしれない。
ならば、彦星という名を忘れ、片瀬直彦として死ぬか?
いや、それは叶わない。織り姫を忘れない限り、俺は彦星のままだ。彦星を捨てるというのは彼女を置き去りにする事。そんな事は出来なかった。到底、出来るはずが無かったのだ。自分を犠牲にしてまで俺を想い、添い遂げようとした人。その人を忘れることなど考えられなかった。
時間は冷酷だ。重ねる毎に想い人の顔は薄れていく。そのくせ、その後悔や絶望、無意味な希望、そして想いばかりが強くなるのだ。
永遠の責め。その惨さを痛感する。自分がどれだけ絶望的な状況にいるのかを。至極普通で退屈な日常が自分を責め立てている。たとえ想い人を忘れ、その絶望から逃げても、心の拠り所を求めまた同じ事を繰り返すだろう。ならばせめて一つの絶望だけを見よう。在りもしない希望に縋りながら。
時間的にもクライマックスだろう。映画は終焉に近づいていた。悲しいお話だった。悲劇の恋の話。ある程度の内容は分かっていたけど見てみれば想像以上に絶望的だった。
私はそんな事をぼんやりと想いながらスクリーンを見詰めていた。
左手、片瀬くんと繋いでいる手に何かが落ちる感触があった。暗い館内、目を凝らし、感覚を鋭敏にする。するとそれが液体だと分かった。それからそれが落ちてきた方向、片瀬くんの顔を見上げた。
彼は泣いていた。スクリーンを真剣に見詰め、涙を流している。少しだけ、驚いた。涙脆いのか、感受性が高いのか。でもそういう風に物事を感じられる事は素敵な事だと想った。その横顔は整っていて、やっぱりハンサムだ。治まっていた顔の紅潮が再び戻るのを感じ、また気恥ずかしくなって私は俯いた。
暗い館内、響くのはスピーカーから流れる音。隣には見知らぬ女性。反対には野崎香奈という少女。同年代だが事実上かなり年下になる。俺の年齢は十八だが、今まで経験してきた人生を合計すると優に億や兆を超えていた。彼女とのデート俺の気持ちは偽りで彼女を騙すためのもの。彼女の隠れた素性知るために。繋いだ手は細く小さい。可憐な手。想い人、織り姫もこんな手をしていた。擦れた記憶からそんな事思い出す。
白いスクリーンに映されている映画はラブロマンスものだろうか、二人の男女が互いの別れを惜しんでいた。もう二度と会えない、と互いに抱き合い、口付けを交わしていた。最後の別れを惜しみながら。
その光景を見ていて、昔の事を思い出す。引き裂かれた仲は自分自身だった。この映画より惨い一方的な別れ。再会など許されぬ絶望的な別れ。それを経験した。
涙が出た。自然と涙が出た。拭う気にもなれず、ただスクリーンに映し出される映像を俺は見続けた。
映画が終わり、外に出ると空はオレンジ色になっていて、日は傾いている。ビルや店には灯りが灯り始めていた。
「他にどこか行く所はある?」
さっき泣いていた事など連想させないくらい片瀬くんは明るく優しげな表情だった。変わり身の早さに少し驚く。私は質問に少し迷ってから答える。
「もう、特に無いケド……」
今日はこれでお別れなの? 少し恥ずかしかったけどとにかく楽しかった、幸せだった。でもそれももう終わり。次にまた会えると分かっていても別れるは辛い。それ以前に家に帰れば、また一人だ。あの夜、再発したあの病気は片瀬くんと付き合っても治らず、それどころか、悪化した。大切な人が増えるたびに酷くなるようだ。一人は怖かった。
「じゃあ、今日はこれで。 最後まで送っていくよ」
家まで送ってくれるというその声に私は少し安堵した。でも、夜は長い。一人でいるには長過ぎた。でも、片瀬くんには迷惑は掛けられない。しかたなく、私は俯き小さく頷いた。
片瀬くんは歩き出す。今度は手を繋がなかった。なぜかは分からないけど。私はそれに付いて行く。夕焼けの空は燃えるように赤くて、遠くの峰に沈もうとする太陽は揺らいでいる。
バスで中心市街を離れ、住宅街に入ると、もう日は沈みかけで空は赤から、暗い蒼へと染まってきていた。住宅街の一角でバスを降りる。バス停に降り立ったのは私と片瀬くん。私の気分は優れない。それもそのはず。物の十分するかしないかで私は一人だ。また、あの不安、恐怖を一人耐えなければならない。
私達は黙々と歩き出す。私の家を目指し。薄暗くなった道に人気は殆ど無い。周りの家々から生活の気配が窺える。擦れて聞こえる談笑、生活感に溢れる物音、そして幸せを表すような灯り。それとは対照的に私は暗く落ち込んでいた。
一緒に歩いていた片瀬くんの表情を窺う。その表情はあまり冴えない。如何したのだろう? この気分を紛らわすためにも、この雰囲気を破るためにも、静寂を破り、私は片瀬くんに話し掛けた。
「あのっ……」
「ん?」
振り返った片瀬くん。相変わらず優しい微笑みを向けてくれる。
「片瀬くんって一人暮らしだよね?」
巴からの情報だった。敵を知り己を知れば百戦危うからず、とか言ってたっけっか。
「あぁ、そうだけど」
「えっと、今夜何か予定ある?」
恐る恐る予定を聞いてみた。最低限迷惑はかけない様にと心がけながら。
「……いや、特に何も」
かなり喜ばしい返事だった。でも次の事には快諾するとは限らない。
「あの、その、えぇと―――」
「着いたよ」
私がまごついている間に気が付けば自宅の前にいた。彼はこちらを向くと、
「じゃ、今日は楽しかったよ」
また明日な、と言っている。その前に聞いて、私の話を! 私は必死に声を絞り出した。
「今日、家に泊まって!」
人がいないとはいえ路上でとんでもない事を言った気がした。でも仕方無い。あの孤独はどうしようもない位怖いのだから。それから救われるためにも私は必死だった。
「え、いやでも、君んちの親御さんは―――」
「今日も仕事でいないし、……お願い」
片瀬くんの袖を掴み、必死で訴えかける。顔が熱い、目許がジンワリ熱くなるのが分かる。私は泣きそうだった。
「お願い……」
「―――分かった」
えっ?
「分かったよ」
本当?
「今日一晩でいいんだな?」
「えっ、…うん」
仕方ないな、と髪を掻き揚げながら私の私の方へ歩み寄ってくる。耳元へ顔を寄せると、
「意外だな。 結構、積極的なんだな野崎ってさ」
そう呟き笑っている。私は常識的かつ客観的に考え直して、赤面した。今思えばかなりの失言だ。
「あっ、あのこれは違うのっ、あの誤解しないで、あの、これには訳があって―――」
必死に弁明する私に彼はその私を笑うだけ。何でこんな風に言ってしまったのだろう。顔から火が出そう。
私達は家へと入る。安心して今夜は過ごせそうだった。
意外だった。こんな形で一夜を供にしようとは、しかも向こうから。冗談交じりで言ったが野崎香奈は本当に積極的なところがあるかもしれない。しかし、涙目で上目遣いは止めてくれ。俺もどこぞのお姫様に何度かやられた事があるがその時も断り切れず、色々と苦労してものだ。
この後どうなるのだろう。彼女は如何するだろうか。もしかしたら正体を知るチャンスなのかもしれない。これから慎重にならなければ。一言一言の言動に気を配らなければ、そして挙動にも。人の真相を知るにはもう少し深い関わりを持たねばならない、それに乗じて俺の考えが相手に伝わるかもしれないという危険を含むのだ。絶対に彼女に気取られてはならない。絶対に―――
______________________
……気まずい。会話が続かない。何を話せばいい? 如何すればこの空気を振り払える?
俺は緊張していた。柄にも無く。この所親しい者などいなかったからかこの手の雰囲気の対応が苦手になっていた。これはまずい。非常にまずい。冷や汗が背筋を流れ落ちた。無言の室内、壁掛け時計の時を刻む音だけが異様に強調され響いている。
「そうだ、そろそろ飯にしないか?」
「うん」
「何にする?」
「片瀬くんが食べるんだったら、何でもいいよ」
そう言って会話終了。おいおい、素っ気無さ過ぎないか? そうして再び訪れるいや〜な空気。まるで空気が粘度を増したように呼吸がしづらい。心臓が早鐘を打っている。脇に薄っすら滲む冷や汗。一方の彼女、野崎香奈は申し訳なさそうに俯いているだけだ。
「あの……」
「ん?」
やっと彼女の方から口を開いた。それに俺は勤めて明るく、爽やかに返す。動揺は見せずに。だが、そのせいかかなりぎこちなくなっている。結局動揺していることは隠せない。
「迷惑じゃなかった? いきなり泊まってなんて言って……」
顔を上げた彼女は真っ赤で、表情は曇っている。多分、自分が無理を言った事に罪悪感を感じているのだろう。このまま放って置いたら泣き出しそうな顔だ。
「そんな事無い、彼女の家にお呼ばれされて二人きり。 嬉しくない男は居ないさ」
「―――っ!」
それを聞いた野崎は先程よりも真っ赤になってまた俯いてしまった。俺は何か変な事言ったか? 再思考。自分の言った事を考え直す。
―――しまった! 何てこと言っんだ俺は。これは初心な野崎には効いただろう。ってか、これじゃまるで下心丸出しみたいに聞こえる。向こうもそう取るだろう。最低で最悪だ。俺は野崎でもないのに赤くなってしまう。
「…………」
「…………」
訪れるは静寂。包み込む気まずい空気。ただ向かい合って座っているだけでこんなにも息苦しい。相変わらず時計の音が耳に着く。鬱陶しい。一秒ってこんなに長いか? 恐ろしく長く感じる時間が過ぎる。今まで過ごしてきた時間と比べればどんなに短い時間のはずなのに。こんなにも長い。苦痛にも程がある。不快だ。この雰囲気から一刻も早く脱せねば。
「…………」
「…………」
しかし、掛ける言葉も無く。何をするでもない。正確には何も出来ない。まるで何かに思考を制限されているようだ。右往左往している俺の思考は一向にこの雰囲気を脱するための最良の答えを弾き出せないでいた。そればかりか焦りが募り集中が、思考が乱れる。鼓動は不規則になり、乱れている。
酷く、喉が渇いた。
「あぁ〜……。 その、なんだ…。 結局、飯どうする?」
苦し紛れでやっと言葉を紡ぐ。それは単調でなんとも知性の欠片も無い事。俺のイメージに反しているが、でも無言よりはましだ。この静寂は苦しすぎる。俺だけが一人テンションを上げて喋る。
「近くにコンビにあったよな、じゃあ俺が行ってなんか買ってくるよ」
財布の中には少なくとも二千円以上は残っていたから心配は無い。コンビニでの夕食はその程度で事足りる。
「えっ……あの、」
「じゃあ、少し待っててくれ。 俺行ってくるわ」
「―――待ってっ!」
ソファーから立ち上がり玄関を目指そうとした俺の袖がつっぱる。振り返ると野崎の手が俺の袖を掴んでいた。赤かった頬は心なしか蒼く見える。恥ずかしがっていた表情は不安で染まっていた。
「待って、お願い。一人にしないで……」
また俯いて俺の袖を離す。前髪が顔にかかっていて野崎の表情が窺えない。その声は微かに震えていた。
「おいおい、どうした? 別段帰る訳でもないんだぞ?」
軽い調子で言った。しかし、彼女は俯いたまま答えない。ただ向き合い立ち尽くす。
「どうしたんだ、俺でもよかったら相談に乗るよ」
さっきのくだけた口調とは打って変わって優しいものにする。彼女をソファーに座るよう促し、その脇に座る。
「で、どうしたんだ?」
「…………」
俯く彼女は喋らない。それはまるで何かに耐えるかのようだ。
「嫌なら今すぐ言えにとは言わないよ。 辛い事は口にするのも辛いから……」
少しの無音の後、彼女の口が開いた。そして語っていく。
「あのね……私、病気なんだ。 心の」
「…………」
無言でそれを聞く。
「症状が表れたのはまだ小さい頃だった。 お父さんが死んじゃって、お母さんが仕事で居なくなって、それで私いつもこの家に一人になってた」
どんな事情があるにせよ、それは酷だろう、そう思った。小さな子供が一人で過ごすにはこの家は広過ぎる。小さな子供なら寂しさもあるが、幼年期独特の想像から生まれる得体の知れない恐怖心もあるだろう。
「その時から、一人が、夜が、この家が怖くなったんだ。 でもお母さんに迷惑かかると思ってずっと黙って、一人で耐えてたんだ……」
俯く彼女の頬が光った。彼女の手に雫が落ちる。それは涙。彼女は泣いていた。堪えていたものがもう堪えられなくなったのだろう。涙を流して語り続ける。
「少し前まで治ったと思ってた。 でも、この前片瀬くんが来てからまたぶり返しちゃった。 でも別に片瀬くんを攻めてるわけじゃないから気にしないで」
彼女はそう言い顔を上げ、笑った。それはとても痛々しい笑顔。見ているこっちが救われない気持ちになる。その笑顔を見て、ある考えが沸き起こった。だが、俺ははたしてその考えを容認していいのだろうか?
織り姫と離れ、心に誓った。その誓いを、今屈折させ破ろうとしている。それで俺はいいのか? もしも、この先同じ事があり続けるとしたら、俺は、俺の心は持たない。確実に廃れ、堕ちて、歪んで、破れ、砕けるだろう。別れが待つのなら、悲しみは少ない方がいい、後悔は小さい方がいい、罪悪は薄い方がいい。そう、だから自らに誓約し今まで生きてきたのではないか。
俺は自ら、より辛い苦痛の道へと半歩踏み出している事になる。そしてもう半歩踏み出せば、一歩踏み出してしまえば、俺はもう戻れない。もし、今まで積み重ねた心の壁を崩したら、また積み上げるのはいつまでかかるのだろう。それも付けられた傷が癒えてからだ。しかし、心は壁が無ければ、絶え間無く傷付き、些細な事で古傷は開き、血を滲ませる。はたして俺はそれに耐えられるのだろうか。
何を考えているんだ俺は、何を迷う。今更、苦痛が増える事に意味など皆無だ。生ける死者といっても過言ではない俺が今更何を捨てようと迷う。
誓いを破ってしまえばこの少女、野崎香奈はきっと救われて、それでいて救われないのだろう。先に待つのは死という別れだけなのだから。転生しても再会できる可能性はあまりにも低い。そして彼女は転生した俺をどう見るだろうか? 姿形、心、記憶までもがそのままだ。しかし、俺の心が、彼女の心が変わらないとは限らない。だから、その再会はきっと救われないだろう。
例え、それでも救われるなら、一度でも救われるのなら、永遠の後悔が待っていようとも、
「それももう耐えられないの……。 もう駄目……」
彼女は笑って、泣いて。それは堪えられなくなった悲しみのせいなのか。一線を超えそうな、気の触れる直前。俺は知っている。この手の人間は何人も見てきた。たとえば戦乱の時代、前線に送られた少年兵として何人も見た、気の触れた者。それに酷似していた、その表情。
「もう、――もう折れても、――砕けてもいいよね」
儚い笑顔。そして彼女は崩れる、堪えていた心は破断する。それを俺は黙殺するのか?
あなたは生きてください―――
生きてください―――
生きて―――
「―――っ」
俺は野崎を抱き寄せた。しっかりと力強く。折れてしまわないように、砕けてしまわないように、崩れてしまわないように。野崎は何の抵抗も無く俺に抱かれている。
「――うぅっ、ぅうぅう…うぅぁああぁあぁあああああ」
彼女は泣き出す。俺の腕の中で、胸に顔を沈めて。その頭に手を置き、そっと撫でる。宥めるように、癒すようにそっと。
「大丈夫、君は一人じゃない。 俺が居る。 もう孤独な思いはさせない」
それは嘘だけれど、それでも彼女が救われるのならば。俺は野崎香奈を救おう。もう織り姫と同じ、あの儚い笑顔を二度とさせるものか。
あの笑顔を見て、過ぎったのは織り姫の最後の言葉。生を求めない俺がその言葉を口にするのは傲慢だけれど、望み願う事なら出来るだろう。君には生きる責務がある。たとえ俺が死にそれが枷になったとしても。君は生きなければならないんだ。なぜなら俺を知って、愛したのだから。ならば、俺の願いを、些細な願いをきく権利はある。生きろ。だから、俺を追う事は許さない。
始めの考えなど、どうでもいい。野崎香奈が誰なのかなど、どうでもいい。織り姫――、あなたは酷だ。最後のあの言葉を掛けなければ、俺はもう少しに気楽に生きられたのに。でも、感謝します、あなたのお陰で救われる、決して救われないと分かってはいます。でも今の決意に後悔は無い。失うものは失った。俺はあなたとの至福の時を得たんだ。その時の記憶だけでもう後は無いにもいらない。例えどんな苦痛が残ってもそれさえあればこの永遠にも俺は屈しない。たとえ行き着く先が絶望しかないと分かっていても。
「……香奈、聞いてくれ」
大分時間が経っただろう。俺は今だ泣き続ける彼女に語りかける。
「俺は長くない、もうすぐ死ぬ」
彼女に動揺が走ったのが分かる。腕の中で彼女は少し驚いたようだ。
「前にも言ったろ、彦星は呪を掛けられたって。 そのせいでね、後、一ヶ月足らずで俺は一度死ぬ。 だから、一つだけ約束して欲しい」
彼女はゆっくり顔を上げた。涙で腫らした顔で俺の顔を覗く。果たして俺はどんな顔をしているのだろう。
「例えどんなに悲しいことがあっても、どんなに生に絶望しても、死には逃げないでくれ。 生きろ。 生きてくれ。 生きるだけでいい、生きていてくれ、どんなことがあっても」
少しの逡巡の後、彼女は頷いた。
「ありがとう、それでいい」
それで俺は微笑みかける。どれだけぶりだろう、それは心からの笑みだった。
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暗い夜道を幾つもの灯りが照らしている。夜空には星が出ていた。しかし、星の光は人工の明かりに掻き消され、人々の目に届く事は稀だ。
そんな街の夜、昼と夜の区別が薄くなった現代の街を独り歩く。雑踏、それは昼間とはなんら変わる事の無い数。周囲には人々の群れ。群れているという意識は無いだろう。実際、人々は独りだと思っているだろう。しかし、そんな人の流れが集まり無意識下に群れとなる。
「意識しなくとも群れるのが人間か……」
まるで俺のよう。一人で生きようと思っても、必ず関わり合ってしまう。人であるがために抜け出せない、人の性。
「それを必死で否定してきたのか、俺」
そう、ほんの少し前までその性に抗い続けてきた。関わるものか、関わるものかと抗い続けてきた。ほんの少し前までは。
人の群れを掻き分け歩いて行く。様々な人とすれ違う。その中にはカップルがいた。手を繋ぎ歩いている。二人の姿は満ち足りていて、幸せそうだ。
そんな姿が自分達とダブる。
「なんて堕落だ」
今までの堅固な精神力は何処に行ってしまったのだろう。鉄の誓いを破り、自ら堕ちていっている。交えまいと必死になってきたはずなのに、今で他人と関わりを持ってしまっている。
「情けな……」
でも、俺はそれに後悔はしていない。たとえ、この先後悔しようとも、少なくとも今は後悔してはいない。少なくても今の、片瀬直彦を続けている間は。
「それにしても、あれは何だったんだろう」
本来なら、今は香奈と二人で過ごす約束をし、そうする筈だった。それなのに俺はこんな時間に独りで帰っていた。
「それもこれもあいつの所為だ」
そう、彼女の所為。
それは帰りのHRが終わった時だった。俺は声を掛けられた。
「ちょっと、話があるんだけどいいかしら、香奈抜きで」
そう帰ろうとした俺を引き止め言ってきた。
「あぁ、いいけど」
「ちょっと用事を済ませてくるから、少し教室で待っててくれるかしら?」
俺はそれに従い、香奈を先に帰した。必ず行くよ、と言って香奈を帰し、独り教室に残った。
そして待つこと二時間。日は傾き、沈みかけ。ちょっとにしてはあまりにも長い時間だった。
下校時間が近づき、校内に人の気配は殆ど無い。残っているのも恐らく教職員だけだろう。
「馬鹿にされたのか……やっぱり」
普通に考えてそうだろう。いや、普通に考えなくともそうだろう。ちょっとにしては長過ぎる。ちょっとどころではない。
下校する生徒が校門をくぐり、帰途についているというのに俺はこうして待っている。
「もう、帰るか……」
さすがに時間が時間だ。このまま待っていても無駄だろう。
俺は腰掛けていた机から立ち上がるとバックを手にした。教室の扉を目指す。
そして彼女は俺の背後に現れた。まるで霞みの様に、それまでの気配なんて微塵に感じさせないほど唐突に。
「ごめんなさい、待たせてしまって。 予想以上に生徒会の仕事が長引いて」
あまり上手な嘘とは言えなかった。生徒会室はこの教室の上だ。扉を開く物音や生徒の足跡ならこの教室にも響く。ましては誰も居ないのだから。上にいる生徒の気配など手に取るように分かるのだ。
「あぁ、もう少しで帰るところだ。 今度こんな機会があったならもう少し速く来てくれ。 待つのには馴れているからまだいいものの、次は確実に帰るからな」
声がした方向、後ろに振り返る。
「ごめんなさい……」
少し厳しく当たると彼女、英田 和海は心底申し訳なさそうに表情を曇らせる。そんな顔をされては罪悪感を感じてしまう。
「まぁ、悪いと思ってくれてるのならいいけどな……。 で、本題だ。 用件って何だ?」
場の気まずい空気を変えようと彼女の話について聞いた。
「えぇ、その話なんだけど―――」
彼女は表情を曇らせたまま、少し迷ってこう言った。
「野崎さんと、香奈と別れてくれないかしら?」
「え―――?」
「もう一度言うわ。 香奈と別れてくれないかしら。 これはあなたのためでもあるし香奈のためでもあるの。 だからお願い、香奈と別れて、片瀬くん」
そう彼女の話というのは俺に香奈と別れろというものだった。
「何故そんな―――」
「言ったでしょ、香奈のため、そして何よりあなたのためよ」
俺が言い切る前に、反論を許さないような厳しい口調で言う彼女。
さっきまでの曇っていた表情が嘘のようだ。今は一転して厳しいものになった。
「君が干渉する事じゃない」
勤めて冷静に答える。しかし、彼女はその厳しい視線を俺に向ける。重圧。一介の少女が出せる圧迫ではない。
俺は彼女の視線に耐え切れなくなり、それから逃れるように彼女に背を向けた。しかし、視線はなおも俺を貫く。
彼女は答えない。ただ俺を見据えている。
朱に染まった教室。俺と彼女、二人きり。俺は彼女に背を見せ、彼女は俺の背を睨んでいる。粘度を増したように重い空気が俺の身体に巻きついている。額に汗が滲んだ。
無言、静寂は続く。
―――キーン、コーン、カーン、コーン。
静寂を破り、下校を告げるチャイムが人気の無い校内に響いた。ほぼ無人となった校内、がらんどうの室内に電子の鐘音は耳障りなほど響く。
「下校時間だ。 用件は済んだろ?」
これ以上は耐えがたい。ここは逃げおおせる事にしよう。
「俺はこれで失礼するよ」
チャイムが鳴り止まぬ内、俺は歩み始めた。まるで牢獄のような教室から脱するために。
「返事―――」
それを彼女が引き止める。低く落ち着いた、やけに冷たい声だった。
まだ聞いてないわ」
「……保留だ」
そうして俺は教室を後にした。
「理に反すれば待つのは無残な終焉だけよ」
彼女の声、俺は背でそれを受けた。朱に染まった廊下に足音だけが空しく響いていた。
「……ったく、なんだったんだあれ」
毒づく。理不尽にも程がある。いきなり現れて別れろなど。
いきなり現れて―――、イキナリアラワレテ?
「何であの時気付かなかったんだ?」
一介の女子高校生が突如出現するなんてことは不可能だ。しかし、彼女は現れた。気配を消してどうこうの問題ではない。その程度俺にも分かる。
彼女は俺に近付いた。否。俺の背後に出現した、だ。
「英田 和海、―――か」
はたして彼女は何者か。
「香奈並み、いやそれ以上に異質かもな」
言い知れぬ不安が俺の胸に去来する。
「知らぬが仏か、な? 今は彼女の事でどうこう思う時じゃない」
そう、香奈が待っている。俺は人込みを掻き分けて野崎邸へと向かっていった。
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2005/06/25(Sat)19:58:43 公開 / ずんや
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■作者からのメッセージ
一ヶ月ぶりで更新です。すみません、放置してすみません、兎にも角にもすみません。今の私には謝る事しか出来ません。額がすれて額の骨が露出するほど土下座したいです、本当にすみません。
パソコンが危篤状態で、この前、峠を越えたばかりだったりしたので焦ったり驚いたり喜んだりしてここに至ったりします。放逐されたりしないでしょうか?不安です。
七夕をネタにして書き出して、もうそろそろ七夕だったりします、近いです。焦ります。もうちっとで終わるの筈ですのでお付き合いの程をお願いします。
ってかパソコンって発煙するもんなんですねぇ〜、おどろきました。では
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。