『鎖 姫』 ... ジャンル:ファンタジー ファンタジー
作者:光歌                

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142


 掟や法に縛られることは、神聖なことだと信じていた。



 鎖 姫



#1

 王家の長男が死んだ。
 少女の兄であり、この国の第一王子であった彼は、気立てが良く、皆から好かれていた。
 兄はいつも少女に温和な笑顔を見せ、この冷たい国の姫として生まれた少女に、生きる喜びを教えてきた。
 そして、兄は死んだ。
 少女がそれを知ったのは、兄の死から既に三年の月日が経った時だった。

「何故、教えて下さらなかったのです?」
 この国の姫であるこの少女は、真っ直ぐに伸びた腰まである銀髪を、春風にさらりと靡かせた。
 この少女は、この世に数多く存在する“術者”の中でも、かなり強い“術”を幾つも使いこなす少女だった。
 彼女の凛とした表情は、彼女の少女とは思えぬほど美しい顔立ちを、更に引き立てていた。
 美しくも冷たい表情と深海のように蒼い瞳が、彼女の長い銀髪に、驚くほど似合っていたのもまた事実だった。
「三年もの間、言う機会は沢山あったはずです」
 年頃の少女にしては少し低めの冷たい声が、静かな部屋に響き渡る。
 その声もまたよく透り美しく、この国の姫は全てにおいて出来上がった少女だった。
「お前はその時、まだ12になったばかりだっただろう」
 少女と同じ銀の髪を持ち、宝石の散らばる鉄の仮面を被った男が、重々しい声で言う。
「今となっては、お前だけがこの国の望みなのだ。12の少女には、兄の死は重い」
「幼い娘がショックを受けて引き篭るのを防ぐ為、15になるまで待った、とでも?」
「そうだ」
 男はがっしりとした赤い椅子に腰掛け、純白の服と銀の鎖を纏った少女に、雰囲気だけで微笑みかけた。
「聞き分けの良い我が娘・セリオネーゼよ。分かってくれるな?」

 昔から、父母の言う事に縛られて生きてきた。
 この寂しい国ルーセは、鎖の国だ。
 王族であるからか、父母の言うことは絶対だと思い込まされ、自由になどなれはしなかった。
 いつだって優しかった兄だけが、自分の気持ちを分かってくれた。
 10も歳が上だった為か、喧嘩どころか、言い争いさえしたことが無かった。
 兄だけが、自分の救いの存在だった。

「いいえ父様。私はそれ程聞き分けの良い娘ではありません」
 少女は銀の髪をふわりと靡かせ、赤い椅子に腰掛ける父に背を向けた。
 兄のいない今こそ、自分が自由になれる一生に一度だけのチャンスだと、少女は静かに理解していた。
 その様子に憤怒したのか、鉄仮面を被った男……ルーセ国王は音を立てて椅子から立ち上がり、懸命に怒りを抑えながらも荒々しい声を上げた。
「セリオン、お前はいつだって言うことを聞いてくれていたではないか。何を今更歯向かうというのだ?」
 国民からは“優しき国王”と好評なこの少女の父は、城内ではただの荒れ気味の男にしかすぎなかった。
 それを知るのは、家族である王妃と少女、そして城内を自由に飛ぶ、可愛らしい小鳥達のみだった。
「お前は国民からも“美しき鎖姫”と謳われる程の美貌と、賢い頭脳を持っているではないか。お前に反抗期など無いはずだ」
「父様は間違っておられます。私は美しくも、賢くもございません。無能な娘故に反抗期も存在致します」
 鎖の姫セリオネーゼは思わず王に歩み寄り、純白の服に飾られた、雅な鎖を静かに揺らした。
 それと彼女の銀の髪が絡まり合っては解け、城に出入りする小鳥達は、白銀の姫に密かに見惚れた。
「黙れ」
 ガシャンと音をたてて大きな椅子が倒れるほど、王は勢いよく立ち上がった。
「この無能な出来損ないが。親に育てられた恩を忘れたか」

 セリオンはその時、倒れた赤い椅子の影に、なにやら古ぼけた紙のようなものが落ちていることに気が付いた。
 ルーセは静かだが美しい国だ。古い、しかも紙切れなどが、城内に存在することはないはずだった。
 不自然なのだ。王の座る煌びやかな赤い椅子の側に、紙切れなど。
 それ程、この国は美しかったのだから。
「父様、こんな娘、居たところで邪魔でしょう。私は旅立ちます」
 まるで泣き出す子供を宥めるかのように、セリオンは静かに、王に語った。
「最後に一つ……お兄様が亡くなられたのは何故なのか、教えてください」
 その言葉が響き終わった瞬間から、鎖の国ルーセの姫は、故郷の国から姿を消した。
 
 彼女と入れ違いに、王の立つ間に、一つの影が現れた。
 同時に、ルーセ国王の生命は、この世から完全に消え失せた。


◇◇◇

「おいで」
 セリオンは、ルーセからさほど遠くない、澄んだ水の流れる浅い川に足を浸らせた。
 彼女の“力”を持ってすれば、冷たいあの国から抜け出すことなど、容易いことだった。
 セリオンはふわりと白い服を靡かせ、青々とした葉桜に止まる一羽の小鳥に手を差し伸べた。
「おいで……共にここを抜け出そう」
 桃色の長い羽毛を持つ小さな鳥は、少しぎこちなく翼を羽ばたかせ、美しい少女の手に止まった。
「……キュル」
 小鳥は独特な高い声で一度だけ鳴くと、自分の桃色の身体に嘴を差し込んで、身体を清めた。
 桃色の小鳥の小さな黒い瞳とその仕草が愛らしく感じられて、セリオンは思わずふわりと微笑み、自分でも気が付かないほど優しい声で小鳥に話しかけた。
「お前は、荊の国オティアを知っているか?」
 小鳥は嘴を羽毛から抜くと、円らな黒い瞳で、自分に話しかける美姫を見つめた。
「兄さんはそこで死んだ。これに記されていたんだ」
 セリオンは服の飾りである鎖の隙間から、古ぼけた紙切れを取り出した。
 紙は二つに折られていて、小鳥はその中身を読み取ることが出来ずにいた。

 彼女の潜在能力と強力な“術”をもってすれば、城を抜け出す序でに王の椅子の影に落ちていた物を拾うなど、簡単なことだった。
 セリオンは白く細い右手の人差し指を小鳥の額部分に当て、ふっと表情を和ませた。
 すると彼女の指から暖かい光が生まれ、それは消えるように小鳥の頭の中へ入っていったように見えた。
 それを確認するかのように、セリオンはまた小鳥に問うた。
「オティアを知っているか?」
「ここから少し南の国よ。お姫様なら、三日で着くわ」
 桃色の小鳥は、セリオンの腕に止まったまま、はっと身を凍らせた。
 今までただ鳴くことしか出来なかった自分の声が、目の前の少女と同じ言葉を発していたのだから、驚くのも無理は無いだろう。
 ただ、小鳥も人間と同じように身体を強張らせて驚くのか、と、セリオンは微笑みながら少し感心していた。
「私の“術”をもってすれば、簡単なことだよ」
 セリオンは小鳥を手に乗せたまま、柔らかい草の上に腰掛けた。
 薄地の白い服がふわりと草に被さり、その上からまた鎖がさらりと垂れている。
 流れる川が奏でる音が、セリオンの銀髪が揺れるのと重なり、手に止まる小鳥から見て、それは美しい光景だった。
 ごく普通の村娘がよくこの川辺で優雅に転寝していたのを小鳥は何度か見かけたが、姫とあろう者が川辺に座れば、側の雑草も春の花に見えた。
「小鳥、名を教えてくれないか?」
 セリオンは僅かに首を傾げ、肩に掛かった長い銀の髪を揺らした。
 そのふとした仕草に、ますます姫の虜になりつつあった小鳥が一瞬動きを止め、慌てて話し出す。
「あ……シェンです」
「シェン、お前は小鳥のくせに、あまりお喋りではないのだな」
 セリオンはふと立ち上がると、もうここにはいられない、とでも言いたげに、柔らかい羽毛を持つ桃色の小鳥を見つめた。
 強力な“術”を使ってまで城を逃げ出してきたのだ。いくらこの川辺が城の外といっても、もうじき王直属の兵が、慌しく探しに来るだろう。
 セリオンは自由が欲しかった。
 兄の死因を知り、それに納得した後、自由に暮らしたかった。
 それは彼女の希望であり、夢であった。
「道案内だけでもいい……来てくれるね、シェン」
「もちろんですお姫様。あたしもあの冷たい国、嫌いだもの」
 愛らしい黒い瞳が、セリオンの深い青い瞳を見つめる仕草がなんとも小鳥らしく、彼女は城内ではまるで見せたことの無い、無邪気な笑顔を見せた。
「では、行こうか」
 少女の服の鎖が、歩くたびにしゃらりしゃらりと音を立てた。

 セリオンが川辺を後にした、ちょうど同じ頃。
 ここより僅かに南の国の少年は、燃え盛る故郷を尻目に旅立った。

 荊の花は燃えやすく、一瞬で塵となって消える。


#2

「王妃様!王妃様!」
 黒い服の兵士は、マントに縫い付けられたこの国の証である鎖を揺らしながら、慌しく銀の扉を叩いた。
 大きく腕を振り翳し、扉に叩きつける為、袖の飾りの鎖が、ジャラジャラと音を立てた。
「王妃様!大変にございます!」
 返事をしない扉の向こうにいる人物に、少々苛立ちを覚えた兵士が、先程より大声で呼びかける。
 同時に、扉を叩く拳の力も強まったらしく、荒い音が静かな城全体に響き渡った。
「静かになさい。騒がしくてよ」
 兵士の苛立ちも限界に近づいた頃、銀の扉の向こう側から、おっとりとした美しい声が聞こえた。
 その澄んだ高い声の主は、ほのかに輝く銀の扉に手を沿え、驚くほど静かに扉を開けた。
 先端に軽くカールがかかった輝く金の髪が戸の隙間から見え、続いて深い青の瞳が兵士を見据える。
 朝日のように美しい金のティアラを頭に乗せた色の白いこの女性は、ルーセ国の王妃であり、姫セリオンの母親であった。
「ご用件は早めに済まして下さるかしら」
 王妃はゆっくりと話し、のんびりと微笑んだ。
 兵士は美しい王妃を前に、先程までの苛立ちも忘れ、扉の隙間から少しだけ顔を覗かせた王妃に、ぎこちなく跪いた。
「報告致します。先程国王様が何者かに暗殺されました」
 王妃のしなやかな細い指が、銀の扉の淵を握った。
 だが、彼女の表情は変わることなく、ただただ優雅に微笑んでいる。
「只今姫様が行方不明でございます」
「……セリオンが?」
 王妃はここで一度微笑みを消し、扉をある程度開きながら完全に部屋の外へ出た。
 兵士は自分の目の前に王妃が立っていることに緊張を覚えたが、出来るだけ無表情を装い、王妃の青い瞳を見据えた。
「はい。第一王女・セリオネーゼ様が。王を殺したのも、まさかとは思いますが……」
 王妃は肩に羽織った紺色のストールの端を握り締め、キッと口を一文字に結ぶと、一人静かに歩き出した。
「王妃様、どちらへ?」
 呼びかける兵士の声を無視し、王妃が向かった先は、王が殺された国王の間だった。

 王妃が国王の間へ向かった時、兵士達が部屋を片付けている真っ最中だった為か、ソレは既にそこには無かった。
 国王の赤い椅子の影に隠しておいたはずの、王族長男・ラーゼルバートの死に関する詩が書かれた、ただの紙切れは。
 この世の全てを知るといわれるエルフ族が書いたその詩を、王妃は王と共に、自ら隠したのだ。
――もし、セリオネーゼがエルフの国を目指しているとすれば……
 王妃の背に、氷のような風が吹きぬけた感覚が走った。
――今までセリオンを育ててきた意味が、無くなってしまう。
「王妃様、いかがなされました?」
 先程、王妃の部屋を訪れた短気な兵士とは違い、大らかな表情をした若き兵士が、王妃の顔を恐る恐る覗きこんだ。
 王妃は急いで笑顔を作り「なんでもない」とだけ返すと、綺麗に片付けられた国王の間を後にしようとした。
「王妃様!国王代理はどうなされますか?」
 年老いた兵士長らしき男が、掠れ気味に老化した声で、王妃の背中を呼び止めた。
 この国では、王が死ねば、新たな王を迎えなければならない。
 例え王妃が新たな王に愛情を注がずとも、必ず国王は必要なのだ。
 簡単に言ってしまえば、国王の死とは、それ程大したことではないとも言える。
 変わりの者等、いくらでもいるのだから。
 少なくとも、王妃はそう信じていた。
「兵士長、あなたが国民から推薦して決めなさい」
 王妃は無表情でそう告げると、今度こそ静かに国王の間を出て行った。

◇◇◇

 兄の名は、ラーゼルバート。
 両親からはラズと呼ばれていた。
 セリオンは冷たく厳しい両親が、兄を親しく呼ぶことが嫌で嫌で仕方なかった。
 いつか自分が大きくなったら、この愛の欠片も持ち合わせていない両親を殺してやろうと、幼い頃思っていた記憶がある。
 強くなりたいと、願った記憶がある。
 セリオンは知らぬ間に握られた拳に気付き、はっとしてその拳を解いた。
 自分はここまで兄想いだっただろうか、それとも単なるブラザーコンプレックスなのか……そんなことを思う度に、何故か父母の顔が頭に浮かんだ。
 あれほど優しかった兄の顔を、忘れてしまったとでもいうのだろうか。

「お姫様、誰か来ます」
 甲高い小鳥の言葉で、セリオンは我に返った。
 眼を凝らして前方を見れば、紺色の布が揺れながら近づいているのが分かる。
 紺色の布はマントか何かだろうか、シェンの言う通り、それは段々と近づいて来る。
 そしてセリオンはその紺のマントを羽織った者の髪の色が真っ赤であることに気が付いた。
 自分達に近づいてきているのか、それともこの先のルーセを目指す旅人なのか、まだこの時点では分からなかった。
 ただ、その人物が歩いてきた方向は……南。
 自分等が目指す、荊の国の方向だった。
 兄の死を知る国の方向からやって来た謎の人物に、セリオンは思わず一歩足を踏み出した。
 その弾みに、彼女の白い服の所々に縫い付けられた銀の鎖が、シャラシャラと澄んだ音を立てる。
「オティアから来たのか!?」
 一国の姫らしからぬ、大きな声で叫んだ。
 自分よりもまだ50メートルは先にいるだろうか、紺のマントを羽織った、赤い髪の人物に向かって。
「お姫様、あの人、まだ子供の男の子です!」
 シェンは落ち着きのない動きでセリオンの周りを羽ばたき、そして不意に彼女の肩に止まった。
 小鳥である為か、人間よりも視力が良いのだろう、シェンはその赤い髪を持つ少年を、黒い瞳でじっと直視した。
 少年は先程よりも大股で歩いたらしく、セリオンは自分と彼との距離が急速に縮まったような気がした。
「お前、叫ぶ前に名乗れ。失礼だな」
 血のように赤い髪の少年は、おそらくセリオンよりも冷たく低い声で、何の予告も無しに彼女に言い放った。
「オヒメサマなんだろ?その鳥が言ってたじゃん」
 彼は顎でくいっと、セリオンの肩に止まるシェンを差した。
 その態度に小鳥は激怒し、セリオンの肩で激しく翼を羽ばたかせた。
「何よ!あんたこそ失礼よ!この方はルーセ国のお姫様なんだから!」
「シェン、いいよ」
 セリオンは叫ぶシェンに手を上げて止める合図をし、じっと自分を見つめる赤い髪の少年に歩み寄った。
 少年の髪は首に沿って肩まで長く、瞳は少し濁った、黒に限りなく近い紺色をしていた。
 はっきりとした色の髪や瞳と違い、肌は少年とは思えないほどに白く、体格も痩せ型で、とても男らしくがっちりしているとは言えない。
 セリオンは彼の容姿を所々見ながらも、少年に近づいた理由……自分の名を名乗ることを忘れなかった。
「失礼した。私の名はセリオネーゼ。ここから少々北に位置する鎖の国・ルーセの王族長女だ」
 銀の髪がさらさらと風に靡き、沈み始めた太陽の光に当たって輝いた。
 その光が反射して少年の瞳を当て、彼はその紺の瞳を僅かに細めた。
 うざったそうに眩しがる少年を見て、シェンがセリオンの肩でくすりと笑った。
「三年前、兄が死んだ。その死の原因を、私は知らない。兄の死の原因を知る為、オティアを目指している」
 凛とした声でセリオンが言い終わると、少年は彼女と目を逸らして溜息を一つ漏らし、ゆっくりとまた目を合わせた。
「俺はエーシャ。髪の色とか見て分かったかもしんないけど、エルフと人間のハーフ」
「エルフと?」
「そう」
 セリオンが鸚鵡返しに聞き返すと、少年・エーシャはその赤い髪を掻揚げ、髪に隠れていた耳を見せた。
 彼の耳は先端が僅かに尖っていて、俗に言うエルフ特有の耳の形をしていた。
「俺の出身地、オティアだけど」
「本当か!?」
 セリオンは思わず、エーシャに更に歩み寄った。
 エーシャは色白の美しい少女がかなりの至近距離に来たというのに、少し捻くれた微笑を見せた。
 普通の男なら、セリオンとちらりとでも目が合っただけで、恥じらいの為思わず目を逸らすだろう。
 彼女はそれ程の美貌の持ち主だった。
「せっかちだな。どうせ暇だし、連れてってやらないこともないよ」
「本当か!?」
「ホントだよ」
 セリオンは今まで生きてきた中でも、一番の微笑を見せた。
 エーシャが無言で紺のマントを翻し、彼が今まで歩いてきた道を戻るように前へ行くのを、セリオンは少し楽しみな気持ちで見つめた。
「お姫様、あたし、あいつ嫌いよ」
「お前が嫌いでも、私は好きだ」
 
 何故、こんなにもあっさりとエーシャが仲間になってくれたのか、
 そして何故、彼が北の方向へ向かってきたというのに、態々南に戻ってくれる気になったのか、
 セリオンは、まだ知らなかった。
 彼女は、まだ世界に無知過ぎた。


#3

 昼夜問わず、日差しの調節は、世界の片隅に位置する国にひっそりと住むエルフ達が行う。
 エルフの国の姫は、この世の生物の生死を、全て知るという。
 ただ、彼女は絶対に人間には会わない。
 人間を、この世の何よりも嫌っているからだ。

 エルフ曰く、この世界の夜は、光の調節が難しい。
 白夜よりは暗く、普通の世界が考える“夜”よりは明るい。
 明るいからこそ、紺のマントがうっすらと見え、暗いからこそ、彼の赤い髪が際立って見えた。

 セリオンは考えた。
 前を歩くハーフエルフのエーシャを、どう思っていいものか。
 仲間と思い込んでしまえば、もしも裏切られた時、自分は落ち込んでしまうだろう。
 そして、弱くなってしまうだろう。
 反対に信用ならないと思い込んでしまえば、もしも力を合わせる場面に出くわした時、彼を悲しませるだろう。
 人を傷つけて、自分は決して強くなれない。
 セリオンは考えた。
 兄の死んだ地を目指すよりも、全ての生死を知るエルフの姫がいる国を目指すべきではないかと。
 しかし、瞬時に考え直した。
 エルフの姫は、人間を嫌うという噂だ。いくら自分も同じ姫の位を持っていたとしても、簡単に会ってはくれないだろう。

「あのさ」
 前方から、低めの声が響いた。
 顔を上げれば、見慣れない紺の瞳が自分を見据えている。
 セリオンは自分と同じ青系の瞳と目を合わせると、不快な違和感を感じた。
「あんた、術師だろ」
 突き刺さるような鋭い眼差しに、セリオンは警戒心を抱いた。
 おかしいと思ったのだ、こんなにあっさりと道案内してくれるなど……と、彼女の複雑に蠢く心が、意識していないことを思った。
 ふと、白い生地の袖に通された、自分の左肩を見る。案の定、肩に止まったシェンも、羽毛の手入れもせずにエーシャを見つめていた。
 彼自身は、そんなことは全く気にしていないようだったが。
「俺さ、術師って憧れるんだけど、使えないんだよね、術。だからさ、これからお前が教えてくれよ」

 以外だった。
 初めて聞く少年の無邪気な声は、セリオンの警戒心を一瞬で打ち砕いた。
 セリオンは寧ろ、今までエーシャを信じていなかった自分が、恥ずかしくなった。
 無邪気さとは、それ程に安心感を与えるものだった。
「勿論だ……!だが、術を使えぬお前は、いままでどうやって旅をしてきたのだ?」
 セリオンの声もまた弾んでいたことに、彼女は自分で気付くはずも無かった。
 それもその筈、それに気付いていたのは、彼女の肩に止まる、先程まで警戒心を怠ることの無かった、気の抜けた桃色の小鳥だけだったのだから。
「俺、竜術師だから」
「竜術師?」
「うん」
 こくん、とエーシャは頷いた。
「竜術師」
「はぁ」
 同じ言葉が何度も飛び交う中、エーシャはただ頷くだけだった。
 こちらから何か聞かなければ、きっとこれからもただ頷くだけだろう。
「……リュージュツシって何?」
 あきれ果てた声で、セリオンの肩に止まっていたシェンが聞いた。
 ご丁寧に、退屈そうに羽毛の手入れまで始めながら。
 エーシャは気が付いたように止まり、同時に何かが、カシャン、と音を立てた。
 セリオンはその音が妙に気に触り、何の音だ、とエーシャに問おうと少々息を吸った。
 が、彼女の言葉より一瞬早く、エーシャへの疑問の答えが返ってきた。
「事情があって詳しくは言えないけど、竜を使う術師。俺は術、使えないけど」
「何故言えない?」
 セリオンは探るような目つきでエーシャを睨んだ。
「……いつか言うから、今は勘弁して」
 彼は訳有り気な奇妙な表情を見せ、また紺のマントを翻しながら前を早歩きで進んでいった。
 セリオンは何故だろうか、世界に取り残されたような感覚に落ちていった。
 皆、自分達を置き去りにしていってしまう、と。
 だから兄さんも死んだのだ、と。
 15の少女には、この孤独感は耐え難かった。しかし、彼女は自分の強さを信じ、前を行く少年に少し遅れを取りながら、ゆっくりと歩を進めた。

◇◇◇

「エーシャの様子はどうですか?姫様」
 世界の何処だか分からない、遠いのか近いのか、この惑星の中にあるのかすら分からないほどの小さな国で、美しい赤い髪を持つ少女が、祭壇に座るもう一人の少女に問いかけた。
 祭壇は輝く黄金で出来ており、その上にふわりと座るパウダーピンクの可愛らしい服を着、美しい小さな水晶玉を手に乗せた少女が、優しげな微笑を浮かべている。
 一方、膝を折って祭壇の少女を見据える赤髪の少女は、髪と同じ真っ赤なドレスに身を包み、何とも心配げな表情をしていた。
「ルーセの姫に、出会えたのでしょうか……?」
「安心なさいファシア。彼は私の目的を、きちんと果たしてくれています」
 優しげな声で赤髪の少女を諭す彼女は、淡い翠の髪の巻き毛と、神秘的な金の瞳を持っていた。
「心配することはありません。あなたの弟はとても賢く、勘が良い」
 赤髪のファシアはほっと安堵の溜息を吐き、明るいオレンジ色の瞳を輝かせ、日差しに向けて顔を上げた。
 色の白い彼女に、赤い色と明るい日差しがとても良く似合っていると、祭壇に座る優しい翠の少女は思った。
「では、エーシャは無事なのですね……?」
「ええ……ですが」
 金の瞳の視線を少し下げ、翠色に髪をぎこちなく触れて、祭壇の少女は水晶玉を置いて立ち上がり、ファシアの元へゆっくりと歩み寄った。
 ただならぬその行動に、ファシアは顔を顰め、胸のざわめきを覚えた。
 翠の少女はファシアの傍らにふわりとしゃがみ込み、彼女の耳元でそっと、悲しげに呟いた。
「……彼は、あの事件以来……記憶を失っています」

 禍々しい思い出が、ファシアの脳裏を過ぎった。
 
 瞬間、パキリ、と音を立てて、水晶玉に罅が入った。
 その玉には、表情を凍らせる少女達の姿が、うっすらと映っていた。


#4

「兄の名は、ラズだ」
 セリオンは突然、そう言った。
「ラーゼルバート。聞いたことはないか?」
 俯き加減で話す彼女の一つ一つの言葉が、エーシャとシェンに何故だか痛々しく響く。
 エーシャは休まずに動く歩調を止め、男にしては長めの髪の毛を風に靡かせながら、ゆっくりと振り向いた。
 歩みを止めた為か、彼の纏う物の何かが、カシャ、とまた無機質な音を立てた。
「ラーゼルバート……ラズ?」
 低い声で呟く彼の表情を見て、セリオンは思わず息を呑んだ。
 エーシャの表情は、何とも言い難い……心の奥底にある触れてはいけないものに触れられたような表情をしていたのだ。
 濃い色の瞳は見開かれ、その中にある紺色の光が、ゆらゆらと揺れているのが分かる。
 その瞬間、そう、まさに瞬間的に、静かに冷たく育った鎖の姫は、その表情に鎖の奏でる軽い金属音に似た、寂しげなものを感じた。
 自分の純白の薄い服に縫い付けられた銀の鎖が、強い春風に微かに靡き、しゃらりしゃらりと悲しく歌った。
「あ……いや、いい」
 セリオンは遠慮がちに、そう言わざるを得なかった。

 エーシャは、気付けば14歳の少年で、砂漠の中の荊の国・オティアに、一人で自由に暮らしていた。
 何故だか、自分がハーフエルフに生まれた“エーシャ”だということは理解できていた。
 自分では自覚していなかったが、その時彼の心の中に残っていたものは、自分の名前と種族、そして優し気な言葉だけだった。
――ラズの……ラーゼルバートの妹を、よろしく頼みます、エーシャ……。
 心に響くその声は、羽根のように柔らかく青空のように澄みきり、それでいて寂しげな音色をしていた。
――彼女の行きたい場所、望むもの、全て叶えてあげてください。それと……
 声は、そこでぷつりと途絶えていた。
 ひょっとしたときにふと思い出せるだろうと、エーシャはあまりにも軽く考え過ぎていた。
 言葉の続きは、いくら時が過ぎても、不意に思い出せたことはなかった。
 そしてその時漸く、その言葉の主の顔も、人間である自分の父の事も、エルフであるの母の事も、思い出せないことに気付いた。
 そして彼は、初めて理解したのだ。
 自分は記憶喪失なのだ、と。

 1年後、彼は初めて、この国で処刑が行われた事を、近所に住む女性達の噂話で知った。
 不思議と興味をそそられたエーシャは、この国の中心に位置する漆黒の城へ向かった。
 オティア国王は、稀に城下町へ来ることがあり、国民に優しく声を掛けていた為、皆緊張感なく王に会いに行く。
 城内の大広間に置かれた、金銀の雅な椅子に座り、処刑されたのは仮面をつけた若い男だったと、オティア国王は厳かに言った。
「ここより僅か北の国、オティアの隣国ルーセの、心優しき王子だった。彼の父母も共に来ていた」
 国王は膝に肘を乗せ、荊をあしらった冠の乗る白髪混じりの頭を抱えた。
「恥ずかしい話だが、私に連絡が入ったのは、既に処刑が行われた後だった」
「何故ですか?」
 エーシャは慣れない敬語に少々違和感を感じながらも、少し声を潜めながら国王に訊ねた。
「相手もまた王族だった。とは言え、処刑場を勝手に利用したのは良いこととは言えぬが……。突然、ルーセの王と王妃がこの城で私に跪き、処刑場を利用した事を告白した」
 「詳しいことは分からない」と王は言い、結局最後まで頭を抱え込んだままだった。
 妙なことに、エーシャはルーセ王子処刑の話に、すぐに興味を無くした。
 王に聞かされた話も、一週間後には忘れてしまっていた。

 それからまた少しして、エーシャはオティアを出る。
 元々一人で暮らしていたし、記憶の中の声の主も探してみたいと、そう思って。
 何処を目指せばいいのか分からないまま国を出たエーシャは、適当に歩いていた。
 そして、前方からやって来る、白い服を着た凛々しい少女に出会った。
 ルーセの姫、と聞いても、あの時の王の話は、彼の脳裏には過ぎらなかった。

 セリオンの兄の名を聞いた瞬間に蘇った心の声は、いつも通り優しく澄んでいた。

◇◇◇

 エルフの国・セフィの17歳の少女は、世界の全てを悟るという。
 生まれつきその能力を持っていた少女は、セフィの姫として崇められ、美しい玉を手に、東屋のような木製の屋根の付いた、国中央の祭壇に座る。
 腰まである薄い翠の巻き毛が風にふわふわと揺れる様は、道行くエルフ達の胸を捕らえた。
 黄金の瞳を細め、優しく微笑む様は、祭壇の周囲を飛び交う小鳥達を憧れさせた。
 エルフ姫は、世界の太陽……国民であるエルフ達は皆、そう信じて疑わない。

 崇拝され続けている彼女が、唯一心を開ける相手。
 夕暮れ色よりも赤い色をした真っ直ぐな髪を胸の辺りまで伸ばし、明るいオレンジ色の瞳を持つ、心配性気味の少女・ファシア。
 彼女とは、多少の地位の差はあったものの幼い頃から友達同士であり、相談相手同士でもあった。
 自分より一つ年齢が年上ということもあってか、姫はファシアに、昔から誰よりも心を開いている。
 春になれば祭壇の屋根の下で語らい、夏になれば生温い雨に愚痴を言い合い、秋になれば雅な紅葉を見て微笑み、冬になれば純白の雪に心打たれた。
 ファシアが着ているのは、赤いドレスばかりだった。
 毎日違うドレスを着ているものの、その色は常に赤一色なのだ。
 血の様に赤い色は、色白の彼女に似合っていたが、どこか寂しげな雰囲気を漂わせる。
 その悲しい理由を姫は知り、そしてたった今彼女に打ち明けたばかりである為、そっと遠ざかるファシアから、静かに目を逸らした。

 バタン、と音が響く。
 電気をつけていない部屋は薄暗く、テーブルの両側に置かれた二つの椅子が、ファシアの目に痛々しく映った。
 一歩家の中に入れば、ドレスの衣擦れの音がする。
 彼女は窓辺まで静かに進み、それから窓脇のベッドに、うつ伏せに飛び込んだ。
 もぞもぞと手探りで何かを探せば、枕元に置いた小さな木の写真立てに指が触れる。
 写真立ての中、幼く幸せな姉弟と、優しく微笑む女性がそこにいた。
 無邪気に微笑む二人は、同じ真っ赤な色の髪を持ち、手には薄い桃色の花を沢山抱えている。
 一方女性の方は、しゃがみ込みながら幼い姉弟の肩を抱き、二人よりも薄い赤の髪を、後ろで一つに縛っていた。
 姉の方は明るいオレンジ色の瞳を輝かせながら無邪気に笑み、弟の方はくすんだ紺の瞳を細めて明るく笑い、そして母である女性は、娘に分けたオレンジの瞳で二人を見つめ、微笑んでいた。
 幼い姉が着ているのは、赤いワンピース。
 弟に言われて初めて気付いた、自分に似合う色の服だった。

 
 買ってもらったばかりの赤いワンピースを着た小さな少女が、幼い弟に、いっぱいいっぱいになるまで微笑み、言った。
「お姉ちゃんね、これからお花を取りに行くのよ」
「なんで?」
 弟は僅かに首をかしげ、無邪気に訊ねた。
「お花でね、冠を作るの。お姫様の為に。知ってるでしょ、いつも祭壇に座ってらっしゃる、ルシェラ様」
「うん!僕も行っていい?」
 もちろん、と姉は頷き、幼い弟の小さな手を引いて、笑いながら走り出した。
「転ばないように気をつけるのよ、ファシア、エーシャ!」
 背中の方で母の声が響き、それに答えて二人は笑顔で頷いた。
 途中で転びそうになった弟を、間一髪で姉が助けたりしているうちに着く、エルフ達の花畑。
 桃色の花が、満開に咲いていた。
「お姉ちゃん、その服、似合うよ」
 突然、弟がそんなことを言い出し、姉は嬉しさと不思議さの入り混じった表情で、自分より目線の低い弟を見た。
「お姉ちゃんは赤が似合うよ」
「バカ。何言いだすの、急に」
 バカと言われて膨らむ弟が可笑しくて、姉はクスクスと微笑んだ。
 それがまた気に喰わなかったのか、弟はとことんむっとした表情で姉に食って掛かった。
「僕、バカじゃないもん!人のことバカって言うヤツがバカなんだって、お母さんが言ってたよ!」
 それを聞いて、姉も負けじと膨らんだ。
「なによ、エーシャはあたしより3つも年下なんだから、あたしよりもバカに決まってんでしょ!」
「いつかお姉ちゃんよりおっきくなるもん!」
「なれないわよ!」
 こんな幼い言い争いを繰り返しているうちに日が暮れ、心配した母親が花畑で喧嘩する二人を見つけ、結局その日は花など摘めなかった。
 そしてその日の夜、幼いエーシャが眠った後に、姉は母とココアを飲みながら、言った。
「お母さん、またワンピース、買ってくれる?」
「いいわよ、何色がいいの?」
 母は微笑み、ココアの入った白いカップを手渡した。
 小さな姉は弟の眠る部屋のドアをちらりと見ながら、少しだけ俯きながら呟いた。
「……赤」


 ファシアはそっとクローゼットの戸を開けた。
 沢山の赤いドレスがハンガーに掛けてあるその隅に、一つだけ真っ青なドレスが掛けてあった。
 自分の髪と対照的な、青い青い色のドレスを、彼女はそっと取り出した。
 全身鏡の前で、その青いドレスを自分の服の上から合わせ、スカート部分の裾を持ち上げてみる。
 サイズは丁度良く、まさにピッタリといった感じではあったが、鏡に映る自分の姿に、ファシアは違和感に近いものを感じた。
 オレンジ色の瞳、真っ赤な髪の毛、そして一度着てみたかった青い服。
――お姉ちゃんは、赤が似合うよ。

 ファシアは腕をまわし、青いドレスを抱きしめると、そのまま床に叩きつけた。


#5

 涼しい春の夜風が心地良く、セリオンは靡く銀の髪を押さえながら、青い瞳を細めた。
 私は自由だ、と思う反面、親に逆らった罪悪感が脳裏を過ぎる。
 あんなに酷く束縛されて育てられたというのに、セリオンは自分が抜け出した城に居るであろう両親の顔を思い浮かべた。
 ルーセ王族の男性は、顔を銀の仮面で隠さなければならない。
 王族に生まれた子が男だと確認され次第、赤ん坊のときから仮面を付けるよう命ぜられるのだ。
 家族の前であろうと、外してはならない。
 何故なのか、何時からなのか、分からない。ただこれは、鋼鉄の掟だった。
 よってセリオンは、国民の男の顔しか見たことが無かった。
 父の顔も兄の顔も、思い浮かべれば銀の仮面の下。
 ルーセ王族の女性は、鎖の縫いつけたドレスを纏わされる。
 セリオンの服は純白の薄い生地で出来ていたが、ドレスとはいえなかった。
 腰の辺りにベルトのように鎖を巻き、先端部分は膝まで垂れ下がっていた。
 左肩から垂れた袖の端にも鎖が縫い付けられている。これが風に靡くと、悲しげな音を奏でるのだ。
 一方右肩からは袖がなく、ノースリーブ状態で鎖も装飾されてはいない。彼女の着物は、少し複雑な作りの服だった。
 セリオンの母は論外だ。
 掟を破り、鎖の縫い付けられたドレスを纏わないことが屡ある。
 城の兵士達も、これには呆れ果てていた。

「夜が明けるまでには着くよ」
 エーシャが振り返り、告げた。
 セリオンは頷くと、風に靡く髪を鬱陶しそうに耳にかけながら、言った。
「感謝する。兄の死因も、これで闡明になるのだな」
 少しばかり明るい声を出したセリオンの右手には、嘴を羽根に埋めて眠る小鳥が乗っかっていた。
 先程から妙に静かなのはこのせいか、とエーシャは理解し、静かにまた前を向いて歩き出す。
 カシャン、とまた音がした。
「エーシャ、先程から聞こうと思っていたのだが、今の音はなんだ?」
 セリオンが怪訝そうに訊ねると、前を行く少年はもう一度振り返り、歩みを止めた。
 やはりまた、無機質な音がした。
 エーシャは屈み込み、踝まである紺色のマントの裾を持ち上げた。
 丁度マントで隠れていたが、黒い靴に隠れた彼の踝あたりに、金の何かが見える。
 セリオンは青い瞳を凝らして、数秒間それを見つめた。
 そして、はっと何かに気付き、一歩後ずさりした。
 エーシャの足にはまるそれは、金の足枷だった。
 ただの足枷ではない。その黄金の表面に、赤黒い色が点々と滲んでいる。
 血痕の付着した、黄金の足枷だった。
 それは両足にはめられていたが、その二つを結ぶ金の細い鎖は必要以上に長く、まるで縛る意味の無い、足の動きに何不自由ない足枷だった。
「…………」
 エーシャは無言でまた歩き出す。
 よく見ると、長い金の鎖は、無残に地面に引きずられ、音も発せていなかった。
「いつから、それを付けているのだ?」
 少し小走りしながら、セリオンは問いかけた。
 そして、今まで前を歩いていたエーシャの隣まで追いつくと、彼に合わせて歩を進めた。
「付けている意味はあるのか? お前の家の掟かなにかでか?」
「知らない」
 あまりにもやる気の無いその物言いに、セリオンはますますエーシャに興味をそそられた。
 彼女は口の端を吊り上げて笑うと、探るような目つきをし、もう一度エーシャに話しかけた。
「知らないわけないだろう。外せないなら私が外してやっても良いのだぞ」
 そう言って、セリオンは胸の前で空いている左手を翳した。
 青白い光が音もなく集まり、彼女の左手の中で魔方陣を描く。
 始めは訳の分からない模様だったそれが、徐々に剣を模った陣に変化していき、終いには、その陣はセリオンの身長と並ぶ程大きなものとなっていた。
 明るい夜空を背景に輝くその青白い剣は、炎のように揺らめいては剣の形を作り、もう一度揺らめいては別の剣の形を作り、揺らめくごとに様々な形の剣を作った。
 エーシャはじっとその様子を見ていたが、不意に一つ溜息を吐くと、マントの裾を持ち上げ、足枷を露にした。
「お前は“剣”をルーセの古い言語で何と言うか知っているか?」
 ふとした問いかけに、エーシャは無言で首を振った。
 セリオンはもう一度口先を吊り上げて微笑むと、静かに呟いた。
「……“セリオネーゼ”」
 呟いた瞬間、青白い剣は刃先が異常なほど鋭く尖った諸刃の剣の形を成した。
 セリオンは右手で眠るシェンを落とさないように気を使いながら、左手でその剣があしらう柄の部分を素早く握った。
 その魔術の剣はセリオンの手の中でなおも揺らめいたが、諸刃の剣から形を変えることは無かった。
「恐れるならば目を閉じろ!!」
 彼女は素早く叫び、揺らめく剣を振り翳した。
 エーシャは恐れていないのか、目を閉じるどころか、“術”で作られた剣を握るセリオンを、感心したような目つきで見ていた。
 セリオンの左手が振り下ろされ、術剣は唸り声を上げてエーシャの足枷に向かって行く。
 その時、セリオンが僅かに微笑んでいるのを、エーシャは見逃さなかった。

 ガギン……
 鈍い音と共に、青白い剣は風に乗り、ふわりと消えた。
 セリオンは左手に感じた手ごたえに微笑み、エーシャは諦めきったように目を閉じた。
 瞬間、セリオンは我が目を疑った。
 エーシャの足枷は、外れるどころか傷一つ付いてはいない。
 金の表面が、セリオンの服の鎖が放つ光を浴びて、僅かに輝いているだけだった。
「……無理なんだ。外せる物なら、とっくに外してる」
「何故だ!? 私は確かに手ごたえを感じた!」
「だから……」
 強気な言い方にエーシャはもう一度溜息をつき、顔を上げて説明を始めることにした。
「何でか分からないけど、俺に足枷をつけた本人は、俺が術を使えないことを知っててつけたんだと思う。
 それに、絶対外れないように思ったんだろう。もし術師が俺の味方になっても外してくれることのないように、頑丈に作ったんだよ、きっと」
「……その言い方は何だ……? お前、自分に足枷をつけた奴を知らないのか?」
 本日何度目だろうか。セリオンは窺わしそうに訊ねた。
 銀の髪が風に靡いて揺れ、同時にエーシャの血のような髪も僅かに揺れた。
 朝日が昇るのも間近なのだろう、空は先程よりも明るくなっているのが分かった。
 ふわり、とまた風が吹き、目を覚ました鳥達が遠くで鳴いている声が風に乗って聞こえた。
 セリオンがいくらエーシャと目を合わせようとしても、彼は僅かに俯いていて、瞳と瞳は合わなかった。
「……俺、記憶が無いんだ」

 朝日を浴びた少女と少年の髪が、違う色の輝きを、静かに美しく放っていた。
 セリオンの右手で眠っていた小鳥も、朝日の眩しさに羽毛から顔を出す。
「もうすぐ、オティアに着くよ」
 エーシャはまた、セリオンの前方を歩き出した。
 セリオンは、無言でそれに続いた。
 銀の髪を、朝一番の風に靡かせながら。


#6

 小鳥達が歌っている。
 澄んだ声で、美しく囀っている。
 何故人間は、小鳥のように澄んだ声で歌うことが出来ないのだろう。
 何故人間は、自分の為に他のものを足蹴にし、突き落とすのだろう。
 だから……
 だから、一つの国が、沢山の人々が、死んでいくのだ。

「…………」
 僅か15歳余りの少年と少女が、滅びた国を見つめている。
 中央に聳える白は無残に崩れ落ち、元は城の庭に生えていた荊の蔓がその残骸に巻きつき、花を咲かせる準備をしていた。
 城下町も無残に崩れ、人々の死骸は既に干乾び、彼方此方が血痕で廃れていた。
 国の地面が乾いた赤い砂で覆われていたのは前からの事だが、その赤い砂が更に赤みを増し、一部は黒ずんで見えた。
 明らかに、この国は死んでいる。
 砂漠に佇む荊国は、死んでいたのだ。
「……いつから、オティアは死んでいたのだ……?」
 セリオンは震える声を抑えながら、必死にはっきりと発音しようとした。
 朝の涼しい風が吹き、彼女の髪を靡かせ、同時にオティアの赤い砂を、僅かに巻き上げた。
 舞い上がった砂に驚いたシェンが、砂を寄せ付けまいと懸命に羽ばたく。
「俺がオティアを出た時は、まだ栄えてた」
 エーシャが妙に落ち着いた声で、ぼそりと呟く。
「滅んだのは、つい最近ということか……人間技では無いな」
 セリオンが不意に瓦礫を押し退けると、一部分に沢山の折れた刃物が散らばっているのが目に入った。
 その全てが血塗れ、赤黒く変色していたことで、セリオンは悟った。
「オティアには処刑場があったのか」
 セリオンは腰に巻いた鎖に挟んであった、古ぼけた紙切れを取り出した。
 長い時間腰に挟んであったからか、紙は以前よりも古いものに感じられた。
 セリオンはそれを折り、無言でエーシャに手渡した。
 彼は音も無く髪を開くと、何やら言葉の意味が掴めていない子供のような表情をした。
「“王子 死 オティア 知 セフィ”……なにこれ」
「兄の死に関する手掛かりだ」
 セリオンは瓦礫の上を身軽に移動し、処刑場跡に無数に落ちている、錆びて刃毀れの進んだ刃物を一つ手に取った。
「兄の死を知る者が、セフィという名なのか……?」
 セリオンはしゃがみ込み、血痕の付いたその刃物を、ただ呆然と見つめて呟いた。
 それを合図にしたかのように、ふわりと彼女の腕に舞い降りたシェンが、セリオンの顔を覗きこんだ。
「セフィは国の名前よ、お姫様」
「国?」
 鸚鵡返しに聞けば、小鳥はちょこんと頷く。
「確実な場所は分かんないけど、あたしの友達にいたもの。セフィ出身の子」
 セリオンは、地図など持っていない。
 本当にセフィというのが国名ならば、位置が分からなければ意味が無い。
 オティアがもし滅んでいなければ、国民達に聞くことも可能だっただろうが、今となっては後の祭りもいいところだった。
「……シェンも分からないのだな」
「あたしは、元々ルーセの小鳥だったから」
 セリオンは溜息をついて、空を仰いだ。
 頭上に広がる朝の薄い色をした空と、髪を揺らす涼しい風が、透き通るように気持ちが良かった。
 視線を少し下げれば、滅んだ国の無残な姿があるというのに、空はそれを一瞬でも忘れさせてくれる程、澄み切っていた。
 セリオンは、孤独感が辺りを支配したように感じた。
 一晩共に旅したエーシャは、セリオンをオティアまで案内する為だけの存在のようなものだ。
 ここまで来てしまえば、また出会ったときの様に、紺のマントを翻して自由に歩いてゆくのだろう。
 シェンにもルーセ出身の小鳥だからといって、無理強いは出来ない。
 彼女は枝に止まり、自由に歌っていれくれればいい。
「お前達、もう自分の国へ……」
 帰れ、と言おうとして、背後に立ったエーシャの瞳と目が合い、セリオンは口を噤んだ。
 彼の瞳の色は元々、深く沈んだ紺色のはずだ。
 しかしセリオンの目と合ったそれは、全く違う色をしていた。
 鮮やかに燃える蝋燭のような、金の色。
「エルフの国」
「……え?」
 普段冷静なセリオンもこれには流石に驚き、目を見張るしかなかった。
「セフィはエルフの国……もし、貴女が望むのなら、セフィに連れて行って差上げましょう」
「あ……ああ」
 とにかく今は考えなくては、とセリオンは脳内で思考を巡らせた。
 瞳の色が違う。話し方が違う。声のトーンも、微妙に高く感じられる。
 人格がまるで違う。
「驚かれたのも無理はありません。私は今、一時的にエーシャの身体を借りているのですから」
「なら、お前は誰だ」
 セリオンは挑むような目つきで、瞳の違うエーシャを睨みつけた。
 同時に彼女は立ち上がり、腕に止まっていたシェンも、羽ばたいてセリオンから離れる。
 涼しい風がまた一つ、ふわっとセリオンの髪を揺らした。
「私は、セフィで貴女を待っています」

◇◇◇

「もうすぐ、ルーセの姫がやって来ます」
 祭壇に座るエルフ、翠の髪の少女・ルシェラは、小鳥が囀る中、独り呟いた。
 今日はまだ、ファシアの姿も見えていない。
 ルシェラは一つ息をついて、先程のセリオンと同じように空を仰いだ。
「……ラズ」
 呟いて、少女は一粒の涙を流した。
「人間なんて……皆死んでしまえ」


#7

「行っちゃうの?」
「大切な用事があるし、元々今日までの予定だったんだ。もう院長のおばさんとも話をしてきたし」
「嫌だよぉ、もっと一緒に遊んでよぉ……」
「泣くなよ、お前等男の子だろ」
 
 青年……いやまだ僅かに幼さの残る顔立ちの彼は、短い金髪を太陽の光に輝かせながら、幼い子供達の頭を撫でた。
 彼の身なりは一般的に言う“旅人”といった感じで、深緑の長い上着と黒いズボン、そして腰には木製のオカリナが、ベルトで括られていた。
 先日彼は、迷子になった一人の孤児を、この孤児院まで送った。
 少年を心配していた女性院長は涙を流して喜び、家が無いことを告げた青年に、泊まっていく様に勧めた。
 青年としてはありがたいのだが、彼にはやらなければならないことが山のように積み重なっている。
 おまけに孤児達に好かれてしまった今、無理やりここをでるしか方法は無い。
 彼に縋りついて泣く幼い少年達は5,6人といったところだったが、彼らの全てが顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。
「リセイルぅ〜」
「泣くなって」
 青年リセイルは、闇に苦も無く溶け込んでしまいそうな漆黒の長い絹を羽織り、それを風にひらめかせた。
 名も無き孤児院の入口付近で、絹を羽織った青年が子供達の相手をするその様子は、端から見れば少し珍しい光景だった。
「俺は、やらなきゃいけないことがあんだよ」
 薄い碧の瞳を細め、彼は優しく微笑んだ。
 その時リセイルの目に、院長である小太りの女性が微笑みながらこちらへ近づいてくるのが映った。
「ごめんねリセ君……この子達、あなたにすっかり懐いちゃって……」
 薄い茶の髪を後ろでくるりと結んだその中年の女性の両手には、内気そうな幼い少女が二人、ぴたりとくっついていた。
 それを苦笑いしながら見ていたリセイルは、しゃがみ込んで少女達に目線を合わせた。
「そんなに緊張しなくても、俺は変な奴じゃないって」
「リセ君は、あなた達のお友達を助けてくれたお兄さんよ」
 女性が柔和な笑みを浮かべ、少女達に優しく言った。
 リセイルはそれに複雑な微笑を見せると、首元だけで女性に頭を下げた。
「ありがとうございました、今まで孤児院に泊めてくださって」
「何言ってんの。またいつでも来なさい、あなたなら大歓迎よ」
 リセイルは最後にもう一度だけ微笑み、自分に縋りつく子供達を優しく振り払いながら、孤児院の粗末な門を潜った。
 子供達が泣きながら自分の名を叫ぶのが聞こえたが、笑いながら振り返り手を振れるほど、彼は純情ではなかった。

「……さてと」
 青年は右手を太陽に翳し、口元を僅かに動かし、まるで聞き取れない小さな声で何かを呟いた。
 一見、何も起きていないように見えた。
 しかし、太陽に向かって伸びた右手を動かせば、何かを握ることが出来た。
「……ルーセ姫は何処にいるのかな……?」
 リセイルはその陽気に澄んだ声で歌うように言うと、自分の右手に握られた何かを開く。
 それは、太陽のように光り輝く、一つの地図だった。
 大きな弓の形をした大陸が一つあり、自分が今立っている場所はその大陸の中心付近らしく、この地図の持ち主の現在位置を示す赤い光が、大陸の中央に輝いている。
 リセイルがまじまじと地図を眺めていると、自分の現在位置よりも南の方向に、薄い青の鎖を模った、細やかな紋章が浮かび上がった。
 それと同時に、金の翼の生えた女神の紋章もまた、鎖の紋章の隣に浮かび上がる。
「……ここから南か」
 リセイルは呟くと、明るく微笑んだ。
 輝く地図を握る右手をふとまた太陽に翳すと、地図は風に攫われ、金の砂となって散って行った。
 彼は次に、腰にある良く出来た木製のオカリナを取り出した。
 そして口には当てずにオカリナの指使いを数回繰り返し、一つ長い溜息をついた。
「久しぶりだから、上手く出来るかな」
 ようやくオカリナの先を口に当てると、リセイルは深呼吸するように肺一杯に息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
 笛とも金管楽器とも違う、柔らかな音が辺りに響く。
 その優しい音色に、小鳥達も囀りを一時中断した。
 リセイルの奏でるオカリナの音は、苦も無く風に乗り、そして一瞬舞い上がったような錯覚もあった。
 彼はその錯覚を感じると、オカリナをそっと口元から離した。
 口元を緩ませ、オカリナをまたベルトで括る。
 そうしている間に、リセイルの視界に影が差し、雨雲に取り囲まれたかのように、辺りは一段と暗くなった。
「よっ、久しぶり」
 リセイルは片手を上げてにかっと笑うと、その影の原因であるモノを陽気に迎えた。
「ルーセ姫んとこ、連れてってくれよ」

◇◇◇

「確か、前にオティアで俺の隣に住んでたおばさんが『いつかセフィに行ってみたい』とか言ってたけど」
 オティアの残骸である瓦礫の上を、まるで公園にある遊び道具のようにトントンと渡りながら、ゆっくりと後から付いてくるセリオンに、エーシャは言った。
「何処にあるか分からない、エルフの国らしい」
「そ、そうか」
 ぎこちなく銀の髪を触りながら、セリオンは何とか相槌らしきものを打つ。
 彼女の肩のシェンも、今は存在が無いかのように静かにしている。
 セリオンは先程のエーシャの豹変の一部始終を、目の裏に焼き付けていた。
 瞳の色も元の紺に戻り、我に返ったエーシャは、自分に起きた変化を何も覚えていなかった。
 いくらセリオンとシェンが説明しても「あっそう」とまるでしつこい子供の相手に半ば諦めたように、冷たくあしらわれるだけだった。
 きっとエルフの長である者が、同じエルフの血の流れる者の身体に魂か何かを飛ばし、自分に語りかけたのだろう……とセリオンは思考をめぐらせた。
 エルフ族は、そういう特殊な術が使えるのだろう、と。
 セリオンは一度咳払いすると、妙に改まった口調で、意味も無く瓦礫の上を進むエーシャに訊ねた。
「お前はオティアで生まれたのか?」
「さぁ」
 返ってきた答えが異常なほど冷たかったことで、セリオンは彼の記憶が無いことを思い出した。
 罪悪感に似た感情を覚えたセリオンがエーシャに謝罪の言葉を述べる前に、彼の口から言葉が漏れた。
「別に俺、自分の記憶を探ろうとか思わないし」
 不意を突かれたような表情で、セリオンは歩みを止めた。
「ただ、俺の記憶の中に、誰かの声がする。その声の主を探してるだけ」
「それだけなのか? ……もしかしたら、何処かでお前の家族が、お前の帰りを待っているかも知れない」
「待ってないよ」
「何故だ」
 セリオンの反論の声は低めで冷たく響いていたが、反論するのは彼女なりの気遣いでもあった。
 自分では自覚していないが、セリオンは冷たい環境と一握りの暖かさの中で、少しずつ優しさを身に着けていた。
 自分に唯一愛をもって接してくれた、兄のおかげで。
「俺は14の時からずっと、オティアに一人で住んでたから」
「それはきっと、お前が何らかの形でオティアに来てしまったのではないか?」
 突然のセリオンの考え無しの案が、不意にエーシャの心の奥の何かに突き当たった感じがした。
 別に失われた記憶が蘇る訳でもなく、家族の事を思い出す訳でもなかったが、確かに自分が生まれたときからオティアにいたとは、オティア国民からは一言も聞いていない。
「……セフィは……エルフの国なのだろう?」
 止めを刺すように、セリオンは語尾を強めながら、ゆっくりと言った。
「でも俺は、セフィの生まれじゃない……と思う。俺の父親は人間で、母親はエルフだってことは知ってるんだし」
「ならお前は……」
 自分が何歳の時からの記憶が無いのだ?と問おうとして、セリオンは日差しの変化に気が付いた。
 反射的に上空を見上げれば、雨雲のように大きな何かが、空を覆いつくしていた。
 それは巨大な翼の生えた生き物らしく、その翼の隙間から、僅かに漏れた日の光が差していた。
 
「あはは、いい感じにビビってる」
 唖然とした様子で自分の乗る生き物を見上げる少女と少年に、リセイルは陽気に笑った。
「登場シーンは最高だね」
 彼は黒いマントの淵をひらめかせ、遙か上空から、瓦礫の積み重なる国の跡地へ飛び降りた。
 風を斬る音が、耳元で煩く泣き喚いている。
「あいつがルーセ姫かぁ」
 にかっと笑い、リセイルは少年のように無邪気に、風を蹴りながら落ちていった。

#8

 巨大な物体が、セリオン達の頭上を占領していた。
 雨雲よりも黒く淀み、日の光を遮るそれは、地上を肌寒く感じさせた。
「お姫様、あれ、雲ですか?」
「いや……違う」
 セリオンは自分の肩から静かに訊ねるシェンに冷静に答えを返すと、再び上空の何かを見た。
 黒く、大きい。謎の物体をいくら観察しても、その二言しか言えることは無い。
「落ちまぁす」
 不意に陽気な声が響き、セリオンは考える余裕もなく脳内に疑問符を浮かべた。
「お姫様、あの黒いの、喋りました!」
「……あれが喋ったのか?」
 これは人間の勝手な思い込みなのだろうが……と、セリオンは考えた。
 空の一部を占領してしまうような謎の黒いものが、陽気な声など出せるものではない。
 ああいうような大きなものは、術をかけて話せるようにしたとしても、低く澱んだ声が多いことは、セリオン自身も理解していた。
 考えが進んだと思ったとき、何か重いものが地面に叩きつけられたような、ドォンという鈍い音がした。
 セリオンは思わずぎくりと背筋を伸ばしたが、視線の先にいるのは、砂埃の立つ地面を指差す赤い髪の少年だった。
「……何か落ちてきたけど」
 セリオンはエーシャの指差す砂埃に、そっと近寄った。
 地面に敷き詰められたオティアの残骸の一つである赤黒い砂が、歩く度にじゃりじゃりと嫌な音を立てた。
「オッス」
 突然、砂埃の中から明るい大きな声が聞こえ、セリオンはまたしてもびくりと警戒した。
 何なんだ、と怒りを覚えつつ、彼女は普段の凛とした冷静さを取り戻し、また一歩一歩砂埃に近づいた。
「無視すんなよ」
 明るい声は砂埃の中からもう一度響き、今度は少し焦ったような声色をしていたように感じた。
 やがて埃は風に乗って薄れ、声の主の姿が露になる。

 自分達よりは年上だろう、まるで少年のように目を細めて明るく笑う青年が、そこに胡坐を掻いていた。
 太陽の光のような金髪と薄い碧の瞳は、彼の明るい声に非常に似合っているように思えた。
「お前は誰だ。……それと、あれは何だ。お前、何か用か」
「質問攻めすんなよ、せっかちなオヒメサマだな」
 何処かで聞いたようなセリフだ、とセリオンは心の隅で感じつつも、まるで何も考えていないような笑みを浮かべる青年を、自分の澄んだ瞳できつく睨みつけた。
 その鋭い視線と数秒間目を合わせた彼……リセイルは、苦笑いを浮かべながら溜息を吐いた。
「俺はリセイル。あれは俺の仲間。俺はルーセ姫に用があります」
 リセイルはその笑みを絶やさずに、年下の姫君を少し馬鹿にした様なぎこちない敬語で言った。
「俺は、お使いを頼まれてやって来ました」
「お使いって何?」
 シェンがセリオンの肩からふわりと飛び上がり、リセイルの頭上を羽ばたいて訊ねた。
 彼は人差し指を差し出してシェンをそこに止め、変わらない陽気な声で答えた。
「ラズの関係者から頼まれた」

◇◇◇

 城の中は、朽ち果てたように静かだった。
 僅かに香る花の蜜の香りだけが、この城に人間がいることを悟らせる。
「王妃様。南の国が滅びました」
 黒衣の老兵士が跪き、宝石の鏤められた銀の椅子に優雅に腰掛ける女性に言った。
「おそらく、エルフ達の復讐かと思われます」
「あの事件に対しての、ですか?」
「はい」
 王妃は溜息を吐き、自分の艶やかな金髪を、少女のような仕草で何気なく触れた。
「……なんて勿体無いことを」
 企みを抱えたような皮肉を含む微笑みを浮かべ、王妃は静かに言った。
 老兵士は深く頭を垂れ、先程よりも幾分かすまなそうな口調で告げた。
「しかし、エルフの中心であるセフィの姫は、オティア壊滅のことに対しては関わっていない様子です」
「使えない姫なんて、処分してしまえばいいのに」
 王妃は自分のしなやかな指先を、それとなく眺めた。
 若々しい白い肌がそこにあり、彼女は満足気な微笑みを見せる。
「ラズが死んだのも仕方ないと思いませんこと?」
 若々しい王妃は優雅に立ち上がると、跪く老兵士を見下した表情で睨みつけ、対照的に優しげな声で言った。
「兵士長、いつもの術をかけてくださいな」

◇◇◇

「オティアを滅ぼしたのは、あなたの母です」
 優しい声で言う少女は、薄い色のドレスをふわりと広げ、祭壇に腰掛けた。
「死した後も、強い術力を持つ者の力は残る……唯でさえ魔力の強いエルフは、尚更です」
「母の力は、強かったのですか……?」
 無表情で問いかける赤い服の少女の明るい色の瞳には、僅かに影が差しているかのように見えた。
 セフィに座るエルフ姫ルシェラは、幼い頃から友達として接してきたファシアを姉のように慕っていた為、彼女のそんな落ち込んだ姿が痛々しく映った。
「子を想う母の力には、どんな力も通用しない」
 ルシェラが冷静に告げると、その場に沈黙が流れた。
 小鳥の囀る声が美しく響き、野に咲く花の香りが風に乗って心地良い、そんな沈黙だった。
「……エーシャの記憶が戻った時……きっとあの子は、私を怨むわ」
「何故?」
 ルシェラは一時祭壇から降り、俯きながら話すファシアの瞳を覗き込んだ。
 森の色をした髪が揺れ、ドレスにかかる。
 二人の少女の間に、もう一度涼しげな沈黙が流れた。
「……言えない事ですか?」
 黙り込んで影を浮かべるファシアを、普段以上に心配し、ルシェラが優しく訊ねる。
 ファシアは赤い髪をそっと掻揚げ、ようやく顔を上げた。
 揺れる瞳に日が差し、明るい色の瞳は光を浴びた直後、美しい雫を流した。
「…だって……」
 幼い子供が駄々をこねるような声で、ファシアは懸命に言葉を紡いだ。
「だって私はあの事件の時……弟を捨てて母の胸に飛び込んでいた」



#9

 月が出ない。
 月が、出ない。


「俺はセフィの長である、エルフ姫の使いだよ」
「エルフ姫?」
 シェンが暗い大地を飛び回る。
 リセイルは自分が発した言葉を鸚鵡返しに聞き返すセリオンに、笑顔で頷いた。
「そ。んで、あっちは俺の友達のウィーザ」
 陽気な声と微笑みを絶やさず、リセイルは上空を指差した。
 辺りを薄暗くしている張本人が、まるで地響きのような重々しい罅割れた声で鳴いた。
「……あれは……何の生き物だ?」
「竜だよ」
 投げかけた質問の答えが背後から返ってきた為、セリオンは銀の髪を揺らし振り向いた。
 生き物だということはセリオンにも理解できたが、まさか竜だったとは予想もしなかった。
 それが一瞬で分かるということは、エーシャは間違いなく竜の知識がある……即ち彼が竜術士だということを証明している。
「おお、よく分かったな」
「常識」
 目の前の青年と背後の少年のどことなく不自然な会話を耳にしながら、セリオンは未だ上空に存在する“竜”を見上げた。
 確かに蝙蝠のような翼も生え、ごつごつとした身体つきは、まさに竜と呼ぶに相応しいものだった。
 セリオンは目を細めると、再びリセイルの方に向き直った。
「で、そのエルフ姫はどういう理由でお前を使わせたのだ?」
「……ああ」
 リセイルは、そんなことかとでも言いたげに、気の無い声を出した。
「姫の言葉をそのまんま言うと「ルーセ姫の望むことを全て叶えてきなさい」ってヤツ」
「……え」
 セリオンは思いもよらぬ答えに思わず間の抜けた声を出し、呆然とリセイルを見つめた。
 彼はそんなセリオンの様子を面白そうに微笑んで見物し、それからセリオンの背後に佇むエーシャの顔色も伺ってみようと彼を見ると、見事に目が合った。
「……それって」
 年下の少年に、自分では出来ないような深刻な表情を見せられながら低めの声で呟かれ、リセイルは少々たじろいだ。
 セリオンもエーシャも、自分には無い重い雰囲気を背負っている。それが予想外だったのだ。
「あんたがその言葉をエルフ姫ってのに言われたんなら、俺はエルフ姫のところ……セフィに行く」
「……は?」
 先程のセリオンの声よりも更に間の抜けたセリオンとリセイルの声が、見事に合わさった。
「説明入れろ、説明」
「ああ」
「ああ、とか返事してる間に説明しろ」
 リセイルが慌しく、セリオンが冷静に言葉を挟む中、エーシャは一人落ち着き払った様子で告げた。
「俺の数少ない記憶の中に、声が響いてる。「ルーセ姫の望むもの全て叶えなさい」っていう声」
「……何……」
 先に小さな声をあげたのは、目を見開き驚愕の表情を露にするセリオンだった。
 上空に存在する巨大な竜の所為で、彼女の輝く髪も、今はただのグレーに見えた。
 ただの、灰色に。

「……私もセフィへ行こう」
 何分かは分からない。兎に角暫く経って、セリオンは口を開いた。
「私の望みを叶えさせようとするエルフ姫とやらに会いに行く。それが今の私の望みだ」
「……んじゃ、決まりでいいね」
 凛とした声に頷きながら、リセイルは上空のウィーザに、何やら手で合図した。
 途端に台風のような風が吹き、辺りに赤茶色の砂埃が勢い良く舞い上がる。
 セリオンは靡く髪を押さえながら、まだ見ぬエルフ姫の姿などを、意味も無く想像した。
 姫、というくらいなのだから、歳は若いのだろう。
 自分も姫という位にある。そうするとエルフ姫というのも、自分と同じような生活を送っているのだろうか?
 冷たく寂しい、静かな暮らしを。

◇◇◇

「ルーセ姫が来ます」
 ルシェラは突然、そう告げた。
「私の使いの者が手懐けている竜に乗ってくるのですから、こちらに着くのは時間の問題でしょう」
「ルーセ姫に、全てを告げるのですか……?」
 いつも通り深紅の服を纏ったファシアが、少し影が差し始めた明るい色の瞳で、台座に座るルシェラに尋ねた。
「……彼女が望むのならば……。それと、姫と共にエーシャも来ます」
 ファシアのオレンジの瞳に暗い色が差し、ルシェラには一瞬見開かれたように見えたが、一瞬のうちにまた普段の色を取り戻した。
 気持ちの良い涼しさを含んだ春風が、少女達の髪を僅かに揺らす。
 その時ルシェラは、竜の羽ばたきの音が、風に乗って聞こえたような気がした。
「……彼とは、何年ぶりの再会になるのでしたっけ……?」
「9年です」
 思っていたよりもあっさりと返ってきた答えに少々驚きながら、ルシェラは寂しそうに微笑んだ。
「成長しているでしょうね、エーシャ……いえ」
「ルシェラ様」
 祭壇の少女の静かな声を意図的に遮り、ファシアは普段より低い声を出し、静かに……呟くように言った。
「あの子の名前は、エーシャです……エーシャなんです」
 その言葉と共に、ルシェラは見た。
 オレンジ色の宝石のようなエルフ特有の瞳から、太陽の光を浴びた雫がきらりと零れ落ちたのを。
「……あの事件が起きなければ……ルーセは、あんなに冷たい国にはならなかったのに……弟も、記憶を失わずに済んだのに……」
 事件が起きた代償は、大きかった。
 ぽろぽろと涙を零しながら、赤い服の少女は、震える声でそれを懸命に告げた。
「……母様も、死なずに済んだのに……」
 ルシェラは悲痛な表情で、空を見上げた。
 翠色の髪をふわふわと揺らすこの少女は、世界の全てを悟る能力を発揮する。
「もうすぐ、全て終わるのです」

2005/05/28(Sat)17:10:18 公開 / 光歌
■この作品の著作権は光歌さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
9話です。
少しだけ修正。
自分の中で謎が増えてくばかり。
それを解決しようとして物語が進んでいく。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。