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『きさらぎ 【完結】』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:影舞踊
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晩秋 三日月 雲間を照らし
軟風 草木と 我を転がす
青虫 泣きそな 臭い体を
包む 闇夜の 夢の花
◆
消え入ってゆく夕日は微睡む我目を潰しそうなほどに明るく、せめて今からいづる月はこうではないことを願う。黒白の世界はどこにも見当たらない輝きを包み、くどいほどの色を湛える。
ふと目を落とすと、あぜ道に転がる大小様々な大きさの石。道の端には雑草が生い茂り、その真ん中を我は歩く。小さめの石一つを蹴ると走るつま先の痛み。
なんら変わらぬ風景に感じるは、少しばかりの感慨と後悔。懐かしい匂いと臭い。行き交う人々の会話は耳に垂れ流されるだけで、ただの雑音。月明かり、星明りだけで十分にわかる簡素な田舎道。必要のない道石が妙に馴染んでいる。
遠くに見える山々はこの地を閉ざすかのように聳え立ち、緑色をしていたはずの木々は秋の色に染まっている。風に吹かれて揺れる千々の木の葉は、秋の風情を限りなく吸い込んだまま、時期に訪れる拉く季節を待つ。
ただ何も考えず、ただ一心に先を見越して。
都に流れ、数多のことを知った。世の流れ、知るべきこと、知りたくないこと、知らねばならぬこと。決断を迫られれた時、たじろぐ事なく出した答えを我は信じてここに立つ。
問いかけるものがおらぬゆえ、答えが既に出た問いを我は何度も問いかける。
都よりも何もかもが不便なこの地で、我は何を思う。
金も、女も、名声さえも手に入らぬこの地に、我は何を待つ。
生業に疲れたのだと人は言う。呪いが蝕むのだと妖魔は言う。
否、そうではない。
たった一人の、たった一匹の、たった一つの呼び名もないあやかしを、我は待つ。
――きさらぎ
風にたなびく黒髪と、線の細い顔立ち。赤みのある肌、肉付きの薄い体躯。一言で言えば病弱な、そんな印象を持った女だった。
我はやつを、「きさらぎ」とそう呼んだ。
桃色の麻衣の着物は随分着古されており、そこから覗く手足はいつも汚れていた。愛嬌のある笑顔を持ちながら、人に媚びる事無く生きる様は外見から想像することが出来ぬほど逞しかった。
『きさらぎ、遊ぼう』
子供心に、やつの美しさに惹かれていた。纏められておらぬ黒髪も、傷のある手足も、頬にある赤い痣も、全てがやつの美しさに必要な気がした。
『うん』
一言。その一言を聞けるだけで自分が何よりも尊大なものになった気がした。特別な存在だと信じた。沼のある森の中、一軒の小屋の中。幼い子供が二人、他愛もない会話をする。
小屋とも呼べぬ瓦礫の積み重ね。誰が建てたか知るはずもない。否、建てたのではなく自然とそうなった、それが正しいのかもしれない。
森の中だというのに空気が悪く、光は少ない。生い茂る雑草に、無理に動けば手足が切れる。続くのは獣道しかない。
そんな処に、きさらぎは住んでいた。
◆
「きさらぎ、遊ぼう」
いつも交わす言葉の始まりは決まってこの言葉。清吾(せいご)は瓦礫の山に向かって叫ぶ。いつものようになかなか出てこないきさらぎは、返事も返さない。そのしんと静まり返った様子からは人が出てくる気配などない。誰か他のものであれば一抹の不安は拭えないだろう。
もしかしたら山犬に襲われたのかもしれない。沼に落ち込んだのかもしれない。
たった一人でこんな場所に住んでいるきさらぎは、風変わりな爺でもなく、毛むくじゃらの大男でもない。清吾と同じ年端もいかない女の子である。
つまりそんな風な厄介なことになっていても十分に信用できるほど、か弱いのである。
しかし、清吾は全く気にした風もなくきさらぎが顔を出すのを待つ。ここに来るまでに藪を掻き分けてできた傷を舐めて、周りを見回す。誰もいない。確認するまでもなくわかりきったことであるが、まぁそうでもしないとここにいる自分がよほどの変人に思えてくる。まるでここに迷い込んだかのような仕草をして、役者になれるのではないかと真剣に思う。
夜の闇に包まれて、月明かりもほとんど届かないこの場所には誰もいない。当たり前である。好き好んでこんな傷だらけになってしまうようなところへ来るものは少ない。ゴミを捨てに来るとしても、昼間であろう。
「うん」
間の抜けた声があたりに響く。透き通ったような柔い声色に、蝶が舞うような揺れる響き。何とも言えない沈黙の後、清吾が声を荒げた。
「おせぇよ」
何をしているのかなどは聞かないが、いつものことなのでそれだけで済ます。何度聞いても教えてくれないのだから仕方がない。そう言えば初めて会った時からこんな調子だった。
忘れもしない二年前の夏、たった一人で森に肝試しを仕掛け、そして迷った。度胸試しとして森の奥に咲いている花を取りに行っている途中だった。明かりも何も持たずに、ただ月明かりだけで十分だと、そう意気込んで出かけた結果の結末。どうしようもなかった。誰に文句を言うでもなく、自分の馬鹿さ加減を呪った。何とも浅はかな行為だと。闇の中で弱気になる自分を激しく罵った。
帰ろうかとも思ったが、帰り道もわからない。そもそも迷うとはそういうことである。どうしようかと、ただうろたえていると、遠くで山犬の遠吠えが聞こえた。低く唸るようで、喋っているような声。不意に思い出す記憶に辟易する。山犬など捕まえて肉にしてやるといっていた頃の自分が、どうしようもなく可笑しかった。
近づいてくるような遠吠えは、次々に木霊して恐怖をあおる。震える手足を強引に動かし、気がつけば走り出していた。走る度に藪に捕まえられる手足には傷が出来るが、そんなことは関係ない。ただ怖かった。もしかしたら自分はここで死ぬのかもしれない。生き延びたとしても明日の朝になっても誰にも見つけられず、この森で怯えながら死を待つしかないのではないか。思いを振り切るように、ただ全力で走った。足を前に前に前に、
ぬもっとした嫌な感触と共に足が動かなくなる。もう一方の足も勢いからその前にぬめりこんだ。ずぶずぶと浸食されてゆく足元はすぐに膝まで至り、気持ちが悪いぬるい温度が膝下を覆う。何とか抜け出そうと足を動かしてみるが、その度にずぶずぶと落ちていき泣きそうになる。
耳に入ってくるのは、山犬の遠吠えと、虫の声。変な鳥の声も混じってきていた。ずぶずぶと落ち込むことはわかっていても、恐怖からか動きは止まらない。ぬるい温度はへその上まで来ていた。
なぜこんなことになったのだろう。なぜあんな馬鹿なことを言ったのだろう。
神様、仏様、誰でもいいから助けてください。
普段信じぬ神に念仏を唱え、ぬるい温度を腕で押す。抵抗なくそれを受け入れるぬるい温度は清吾の腕から力を奪う。
死ぬと思った。事実、諦めていた。もうダメだ。助かったとしても、山犬に食われるのを恐れて暮らすよりもこのぬるい温度で楽になろう。そう思っていた時だった。
唯一ぬるい温度に浸かっていなかった頭を掴まれ、持ち上げられる。ぐいぐいと上がってゆく視界に映るのはほとんど区別のつかない闇だけであるが、首の痛さが持ち上げられているのだということを清吾に伝えた。
「大丈夫」
どんな獣に引き上げられたのだろう、この後どう料理されるのだろう、と思っていた清吾にとってこの問はかなり不自然に聞こえた。しかし次に何か言葉が来るのかもしれないと思い、黙っているともう一度同じ言葉が耳に入った。
「大丈夫?」
先程よりもゆっくりと、言葉が分からぬ者に話しかける感じで目の前の影は言う。やんわりとしていて、優しい感じを受ける声だった。落ち着いた頭で聞いた声に安堵感が生まれ、少し警戒心がほぐれる。もしかしたら、自分と同じ迷子なのかもしれない。有り得ないことだが、まだ幾らか錯乱状態の頭はそんな答えをはじき出す。
そうと決まれば何も怖がることはない。清吾は勢いよく「おう」と答えた。その様子に安心したのか、「そう」という声が返ってくる。何とも静かな声で、注意していないと聞き逃してしまいそうな声だった。落ち着いてきた清吾はよくよく目を凝らして顔を近づける。すると、そこにいたのは驚きと恥ずかしさが混ぜこぜになった表情をした少女だった。
「おん……な?」
清吾の唐突な言葉に少女は頷く。
「うん」
細い、華奢な腕をした少女だった。清吾を沼から引っ張り上げるだけの力を持っているとは到底思えない体つきに、か細い声。清吾は思ったままのことを口にする。
「お前、誰か他のやつがいるのか? 俺を引き上げたやつが」
少女は黙って首を振った。同時に風が吹き、木々がざわめく。雲間から月が出て、森の中をうっすらと照らした。
少女の顔が月明かりに露になる。整った鼻筋に大きな瞳。一重瞼が残す幼さを、長い睫毛が少し壊す。紅を差したような頬には赤い痣、何も引いていない口元は潤んでいた。
「じゃあ……お前が?」
「うん」
黙って頷く口から言葉がこぼれる。こいつはこれしか言えないのか。そんなことを思いながら清吾はとりあえず礼を言う。また、同じ言葉を言って少女は頷いた。
「ところで、お前も肝試し?」
「?」
少女の顔に理解できないという色が浮かび、清吾は「いや、何でもない」と自分の馬鹿さ加減をせせら笑う。月明かりが二人の間に入り込み、ほんのりと淡い空間を彩る。
「きゃ」
小さい声を出して、少女がその場を離れるのがわかった。「おい」という声を出して後を追おうとするが、泥だらけの着物が足に纏わりついて動けない。そう、清吾は着物を脱いで、ふんどし姿になろうとしていたのだ。「何だよ変なやつ」と言いながら、着物を抱えて後を追う。自分の感覚がおかしいとは微塵にも思わない清吾である。
「おーい、早く出て来いよー」
返事はしたもののなかなか出てこないきさらぎに流石にいらいらして声を掛ける。まさにうんともすんとも言わない状況である。大事な話があるのだ、早く出て来い。
「おー――」
そこに立っていたのは紛れもなくきさらぎだった。着物はどこで洗ったのかいつもよりも桃色が映えていて主張する。いつもは汚い泥だらけの腕も、足も、顔に至っては紅まで引いていた。何かを悟ったのだろうか。遊ぼうといつものように言ったはずだったが。いや、それにしては着物まで綺麗のは用意していたとしか思えない。
清吾があれやこれやと考えていると、珍しくきさらぎが先に口を開いた。
「清吾さん」
「ん?」
矢庭に話しかけられたきさらぎの言葉に思考を止め、まっすぐにその大きな黒い瞳を見つめる。吸い込まれそうな、優しげだがどこか翳りを持った瞳がそこにある。その思考はどこにあるのか、どうすれば理解することが出来るのか。吸い込まれれば吸い込まれるだけ、その迷宮に入っていく。それでもきさらぎの瞳から目が離せず、清吾は返事を待つ。
「私のことを、どう……思いますか」
暫くの沈黙。何か先を読む力でもあるのだろうか。これから話そうとしていたことに深く関わるその答えに、清吾は驚きながらも笑って答える。
「好いているよ」
「女として……ですか」
大人びた物言いにはもう慣れた。「うん」しか言わない時もあるかと思えば、このように有心に物を言うこともある。きさらぎという少女がわからない。そもそも名を付けたのは清吾であり、もともとは名を持っていなかった。名付け親が子の気持ちを分からぬなど、何とも不細工な話だが事実であるから仕方ない。
「あぁ、女として」
なぜこんなことを言い出すのかは定かではないが、真剣な相手には真剣に答えてやらねばならない。
きさらぎのことを女として好いている。
紛れもない本心だった。
「では――」
「――待て、その前に話がある」
きさらぎの答えを遮って、清吾が言う。瓦礫の山に差し込んでいた月明かりは、雲の流れか薄れて消えた。風と埃と闇の中、清吾が言葉を紡ぐ。
「俺は、都に行こうと思う。退魔師に、なろうと思うんだ」
「退魔師……」
少し悲しげな顔をしてきさらぎが繰り返す。
「そう、退魔師だ。妖怪を退治する。それを生業として生計を立てる。お前も言ってただろ、妖怪が嫌いだと」
「うん」
俯いた表情は闇に紛れて窺えないが、「うん」と答えるその声は確かな憂いを含んでいた。
「三年したら戻ってくる。その時に、俺はお前を迎えに来る。……いやか」
きさらぎは黙って首を振った。
「きっと……迎えに来てください」
「あぁ、きっと」
その後はいつものように意味のない会話をして、とりわけきさらぎの好きなおはじきやあやとりをした。辛かったのだろうか、きさらぎはその夜今まで一番よく笑顔を見せてくれた。
「――心変わりなどなさらぬように」
冗談めかしてそう言うきさらぎは黙って目を閉じ、清吾の肩に寄りかかる。月明かりもほとんどない森の中、瓦礫の家に腰掛けて、底なしの沼に生える草を見つめて、寄り添うようにもたれかかったきさらぎを、清吾はただ黙って抱きしめた。
◆
都に行くといってから三年が経った。会わねばならない。告げねばならない。
獣道を掻き分け、普通ならば近寄らぬ場所に我は立つ。沼の水は濁り、腐敗した動物の死骸には蛆が涌いている。虫達が飛び回り、しかしけして蝶などではない。どんなに綺麗な模様をしていても蝶には敵わぬと知った蛾が、毒の燐粉を振りまき必死に生きる。
悲しみ、苦しみ、痛み、辛み。それらを感じぬ存在ならばどんなにいいだろう。我は意を決して呼びかけた。
「きさらぎ、遊ぼう」
そう言った我の声が震えているのに、我は気づかぬ振りをする。瓦礫の山に呼びかける間抜けな姿を、我は気づかぬ振りをする。
あたかも長者の家に住む高貴な女子を誘うように。(無論そのような無礼な行為はできるはずもないが、気の持ち方としてはそうなのである)
――きさらぎ
かさりと音がする。がたりと音がする。
――できるならば……
穏やかならぬ心持は焦りを生み、焦りは判断を鈍らせる。
――あぁ、きさらぎ
「うん」
――我はそんな返事など聞きたくなかったのだ
◆
「赤い痣のある妖怪に気をつけろよ」
唐突にそう言われた我はなぜか苛立ちを覚えた。都での生活に慣れて大分経った頃、同業者の者が我に注意を促すために言った言葉。我が「そうか」とだけ相槌を打つと、それが気に食わなかったのか。それとも単なる喋りなのか、男はさらに詳しく話し始めた。
「男をたぶらかすんだそうだ。自分の子を産むためにな」
我は黙って耳を立てる。よくある話だ。低級な妖怪は知恵を持つために人間と接触しようとする。
「それも大層な美し女(くわしめ)だと言う。まぁ術のようなものは使わぬというところを聞くと、引っ掛かるやつはよほど女子に飢えておるのだろう」
男はヒヒヒと下卑た笑い声を上げ、「お前さんには関係ないかもな」と付け加える。
「かかればどうなる?」
気づけば我の口はその言葉を紡いでいた。不機嫌な声が飲み屋の中で静かに脈打った。
「なんだい、興味が出てきたのかい?」
男は何やら嬉しそうに、再び地を這うような笑い声で喉を振るわせる。
「そんなものに興味はない」
我はそう言い切った。興味などない。今後の参考にするだけ、そうそれだけだ。
さめた顔と口調で言い切る我の姿に、男は酒がまわっているせいもあるのかしばし呆然としてから答えた。
「その後のことはそりゃもう決まってろうよ。食われちまうのさ、蟷螂みたいにな」
「そうか」
我はそう言うと注いであった酒を飲み干した。熱燗だったはずが、すっかり冷めてしまっていた。
「所詮妖怪などそんなもの」
せまい飲み屋のどこかで誰かがそんなことを言った気がした。
「赤い痣を持つ妖怪か」
人知れず闇夜を好み、ひっそりと生きる女子がいる。そう聞いて我は都からそれほど離れておらぬ集落へとやってきていた。ここにその妖怪が出るとの噂が耳に届き、退治依頼を頼まれたのは三日前。しかし、ここに来て三日、否もう四日目になろうとしているが、現われたという報も見たという言も聞こえてこない。
「現われんな」
痺れを切らしたわけでも、村人の話を嘘だと思ったわけでもない。何か訳があるのだ。ここに来てから気づいた妖気の残り滓がそう告げる。
明らかに大きい。残り滓としては大きすぎるのだ。これが真にその妖魔の残したものであるならばそいつはどれほどの強大な存在であろうか。村一つぐらい容易く壊滅させてしまうのは間違いない。
我は腰に携えた刀に手をやり、苦虫を噛み殺す。おそらくは我の推測に間違いはないだろう。この三日間で村人全員に話を聞いて回った。その中で妙によそよそしかった者が一人。限りなく弱い妖気を感じたその者は、
男であった。
もう待った。三日間。否四日間。どれほどにその女を愛そうが、そいつは妖魔。うたかたの夢ならば覚ましてやらねばならぬ。叶わぬ恋路の闇に活路などない。あるのは一瞬の快楽と絶望だけなのだ。
借りていた空き家の戸を開き、夜風に乗る薫風を感じる。肌は妙にかさついて、指先は妙に冷えていた。
わらじ越しに伝わるじゃりじゃりとした土の感触はそれほど気持ちよいものではなく、先に向かう歩みを止めようとするが如く我の心につっかえる。何を感じているのか。いつもと同じ、妖魔一匹を切り殺せばそれで住むのだ。危惧したようなものであるはずはない。たとえそうであったとしても、経と札がある。村人を救う一時しのぎぐらいはできよう。
いつにもまして光り輝く月も我の心の中までは届かず、ただただ辺りを照らすのみ。昼間には感じなかった妖気も我の進む先に確実に蠢いている。
――夜だけか
夜にだけその者の所へ訪れるのだろう。目的などは知れたもの。おのれの子孫をより優性に、より利口にするため。細かい事情など持ち合わせてはおらぬ。本能のみが支配しているのだ。
『所詮妖怪などそんなもの』
我は立つ。葉桜へと推移する儚い桃色の花びらが舞う場所に。
大きな桜の木が横にずんと立ち、一見の小屋の中からの明かりを受けている。耳を澄ませば聞こえてきそうなさざめきが、ひどく不快で憐れでこの場から逃げ去りたくなる。
臆病だと言われたことはない。都に来りてはや二年が経とうとしている。言葉遣いも変え、身体つきも鍛えた。退魔師としての経験も積み、妖怪も両手で数え足りぬほど殺してきた。
そうであるのに感じるこの胸騒ぎはなんなのであろうか。この扉を開ければそこにいる妖怪を、いつものように叩き斬るだけなのだ。躊躇する手と、渇いた口が知らせるのは何なのだ。
春も終わりだというのになぜか小刻みに震える指先を押し付けるように戸に当てる。朽ちた、手触りの悪い襤褸戸であった。掛けた手をそのままにすうと一息吸い込む。数秒目を閉じた後、我は意を定めて扉を開いた。
――きさらぎ
意識していなければ口からこぼれてしまいそうなその言葉を、我はやっとの思いで飲み下す。胃の腑に落とし込んだそれは何とも奇妙にのた打ち回り、再び口から出てこようとする。
淡い衣に身を包み、美麗に整った桜唇は微笑を湛え、風もないのに舞いそうな黒髪は纏められておらぬ。
頬にある赤い痣と、何をも見通すようなそれでいて何をも通さぬような黒き瞳。薄い眉と細い顔を隠そうとするのは華奢な腕。
きさらぎだった。紛れもなく、ぼけた表情をしてこちらを向いている男の隣に座っているのは、我が故郷に置いてきた女子だった。
少し成長したような、しかしどこか幼さの抜けぬ出で立ちは変わらず、思わず見とれてしまいそうになる。
忘れたことなどない。見間違うはずもない。都に来てからも思い続けた女子。そこにいるのは紛れもないきさらぎであり、
――妖魔
呪縛から解かれるように動き出す時間と我の足。目に映るはただ一匹の妖魔。ひどく気落ちしたような表情でこちらを見据える男には言葉も掛けず、我は妖魔へ歩み寄る。
「貴様か」
「やめてくれ! 俺の女房となる女なんだ!」
取り乱したように我にすがりつく男を振り払い、我は続ける。
「名をなんと言う」
「ありませぬ。このお方に頂いた名ならば……鈴と申します」
ひどく落ち着いた様子で答える女はどこか物悲しい。あまりにも落ち着いた様子に、慌てふためく男の姿が滑稽に見える。
「そうか。我はお前を討つが、抵抗はせぬのか」
「いえ、では外に」
女は泣き崩れる男の肩にそっと手をやり、にこりと微笑む。袖を掴みわんわんと泣く男の手を女は緩やかに握り、何事か耳打ちする。はっとした表情に男は袖を離し、戸から出てゆく女の姿を見つめる。我も続いて襤褸家から出た。
村はずれの街道で我と女は向かい合う。なびく黒髪も、華奢な手足も見れば見るほどに似ている。雲間から出た月明かりが仄かに我らの間に落ちて、ひっそりとした空間が一瞬華やぐ。
何かを思い出させるように。何かを思い知らせるように。
凛とした女の姿形が、我にとってはもはや憎しみ以外の何者でもなかった。
――……さ……ぎ
雲の流れに抗う術もなく、月は再び顔を隠す。途端女が動き出す。どこにそんな力がと思うほどに速く、強く地面を蹴って。
一蹴の内に懐まで飛び込んだ女に、我は情けなど掛けぬ。引き抜いた刃は女の眼前でその動きを制止させ、振り払った刃は女の黒髪と薄い麻衣の着物を掠める。刀を引き抜いた我に動じず、女は間髪いれずに再び地面を強く蹴る。闇に紛れるように、その姿は一瞬にして視界から消え去り、我に幾ばくかの不安を抱かせる。
その一瞬。不安ではなく、不安など取るに足りぬと思った油断。それが牙を剥き我を襲う。
握りなおした刀の柄に、女の手が触れた。
刀を奪われては何もできぬ。経と札だけでは倒すことなどできぬ。我は持っていかれぬようにきつく握り締める。突如として襲い掛かる殺気。感知するが早いか、刀を手放し我は横に飛び退く。腹部には小刀を突きつけられたようにうっすらと血の跡が伝う。我の立っていたところには、刀を握りもう片方の手で我の腹があったところへ腕を突き出している女の姿があった。
「私は……貴方に討たれますか? それとも私は貴方を討ちますか?」
悩んだように項垂れて女は言った。低く繊細な言葉は落ち着きか諦めか。
「我がお前を打つに決まっている」
負け惜しみとも聞こえる我の言葉を女は黙って聞く。懐から経と札を取り出し、女の動き一挙一動を見逃さぬよう続ける。
「なぜそんなことを聞く。お主は我を討たねば討たれるのぞ。尤も、我を討ったとしても次なる退魔師が主を討ちに参ろう」
沈黙。そして女が顔を上げる。
「そうですね……私は、討たれるべき存在――」
女はそれだけ言うと、
自分の腹に刀を突き刺した。深く赤い血の色が、再び顔を現した月の下で激しく舞う。そんな中でにこりと微笑み、最後まで女の姿でいるこの妖魔に我はなんと声を掛ければよかったのか。一撃では死ねぬのか、何度も自らの手で命を絶とうとする女になんと声を掛ければよかったのか。
「鈴!」
嘆きの声ほど尖ったものはない。力尽き赤き血に倒れこむ女の躯を抱き起こし、男は泣く。我は女の命を絶った刀を見つめ、ただ強く強く握り締めることしかできなかった。
◆
かさかさと風に揺れる木の葉は乾いた音を立てる。沼から聞こえる蝦蟇の声は気味悪く、何者かを呼んでいるようで耳につく。朽ちた木と腐敗した躯。涌いた蛆がそこかしこに潜み、劣悪な環境をつくる。遠くの方では昔怯えた山犬の遠吠えが聞こえた。
あの頃となんら変わらぬ森の風景が我の視界の中でぼんやりと形を成し、そこにある。瓦礫の山を照らす月明かりがなぜか憎い。
いつかのように我は待っていた。きさらぎの返事を聞いてから、催促もせず。ただ黙って。
随分長い間待っているように思うが、こんな場所では時間など正確にわかるはずもない。不思議と心は落ち着いていた。
きさらぎをもう一度呼ぶ気はなかった。できるならこのままで。そんな淡い希望すら感じる時間だった。永遠というありもしない時の流れを、我はひたすらに信じようとしていた。きさらぎが出てこぬ時間をこれほど短いと感じたことはない。
終わりは唐突に、泣くような震えた声と共に止まっていた時を動かし始める。
「清吾さん」
白く華奢な体躯は昔と変わらず、ふらふらと今にも倒れそうな足取りは思わず手を差し出してしまいたくなる。闇よりも映える黒髪と血よりも鮮明な赤い痣。大きな瞳に取り込まれてしまわぬように、我は必死に目を逸らす。
「きさらぎ」
――伝えねばならぬことがある
「はい」
無垢な瞳が映すのは、依然と変わらぬ愛しさと変わってしまった我の顔。
「我が、好きか?」
「はい」
迷い無く答えるきさらぎの顔を直視できず、我は俯いたまま言葉を続ける。
「我は……、退魔師だ」
脈絡のない言葉に首を傾げながら、その実全てを悟ったような瞳できさらぎは答える。
「……はい」
長い沈黙が辺りを包む。
沼地が我の足元で蠢き、泥がわらじを包み込む。瓦礫の前に立っているきさらぎは、こちらを向いたまま何も言わず、ただ我の言葉を待っている。
蝦蟇の声も、山犬の遠吠えも、よくわからぬ鳥の声も、この沈黙を讃えるように静かになる。先ほどまで顔を出していた月も、居心地が悪そうに顔を隠した。途端にきさらぎの姿も闇に包まれる。もちろん我の姿も。
『所詮妖怪などそんなもの』
我は慎重に、口を開く。胃の腑に落ちてくる重い何かなどわからぬまま。
「きさらぎ――……。我は、君を――」
「三年」
そこまで言った時、きさらぎが我の言葉を遮るように口を開いた。今までになかったことだった。どんな時も我の言葉に耳を傾け一心に聞いてくれたきさらぎが示した僅かばかりの反抗。そうだったのかもしれない。
たとえそうであったとしても我は申し訳なさそうに語り始めるきさらぎの声をとめることなどできなかった。
「長いようで、あっという間でございました。胸にともした蝋燭の火は一向に消えず、蝋全てを溶かしても燭台に残った蝋を頼りに消えることは無く…………。頂いたきさらぎの名は、冬の寒さを凌ぐのに余りある温かさで私を包んでくれました」
「きさらぎ……」
ぽつりと言葉が漏れる。意図したわけでもなく、何も考えることができぬわけでもなく。我の中からその言葉が流れてゆく。
「わかっております。覚悟しております。……たった一人の慕い人。その方のお心をわからずして嫁ぐことなどできませぬ。――もともとそのつもりでおりました。……己の為に清吾さんと結ばれようとするこの身が、私は……憎く、辛く――恐ろしかった」
再び顔を出した月がきさらぎの顔を撫でるように照らす。幼いその表情に浮かべていた笑顔を忘れることなど出来はしない。黒い瞳は閉じられ、目尻から流れ出た涙を必死に隠そうとしている華奢な腕を、忘れることなど出来るはずがない。
「きさらぎ……すまぬ」
我は腰から刀を振り抜く。それを察してきさらぎは着物を脱ぐ。
細い指で、己の急所を指し示した。
「謝ることなどございませぬ――ですが……最後のお願いを聞いてくださいませ」
我は黙って頷いた。それだけしか出来ぬ自分に、覚悟を決めることが出来る自分に、腹が立った。
◆
晩秋 三日月 化粧となりて
冷えた体と 頬の紅
重ねて 名付けた 桜唇も
如月までは まだ遠い
◆
『最期の時を貴方の中で』
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2005/04/11(Mon)20:44:14 公開 / 影舞踊
■この作品の著作権は影舞踊さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
後編書き終えて、あれです。予想通りな展開になってしまっていたらごめんなさい(ていうかほぼこの展開しか考えられんですね 意外性を持たせたかったですけど、ははは(汗 きさらぎ殺すな的な批判がきそうですけど、ご了承を(そんなことないか(笑
ていうか学校始まると結構忙しいなぁ……あっ、サボりゃいいか(マテマテ この作品は(影舞踊にしては珍しく)後で色々修正したりするかもしれませんのでご了承ください。
まだまだ拙い所が多いのですが、読んで下さった方には本当に感謝いたします。貴重なお時間ありがとうございました。
感想・批評等頂ければ幸いです。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。