『サヤカ』 ... ジャンル:恋愛小説 恋愛小説
作者:あぎ                

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   1
何か話たいとか伝えたいとかと考えると面倒なことになる。言葉と物の難しさだとは思うけどもどかしい話だ。それに言葉がどんどん出てはきても、元々何でもいいから話したいときもあるからだ。何かに喩えたりしてすんなり相手に忍び込む言葉はそうそう見つかるものじゃないから。
サヤカが煙草を咥えた横顔を見た時ふっとそんなことを考えた。彼女が大きく吸い込んだ煙が自然に漏れてきた。何も話す気配はなさそうだった。
サヤカ
僕は話しかけたが彼女は視線をずっと窓に向けたまま答え様とはしなかった。その言葉が何の意味もないことを知っているからだ。
もう一度同じ言葉をかけ様としたがもともと何が話したかったかがわからず声が出なかった。それでも何か話さなきゃ。
ネェ、
彼女はやっと視線だけをこちらにむけて、人指し指を立て自分の唇の前に置いた。
何か聞こえるの?
サヤカは首を振ると
疲れただけ、と消える様な声で答えた。
そんなこと言わなくてもわかって、と言いたげだった。

彼女に会ったのは一月の土曜日のことだった。終日曇って晴れない日。朝からすっかりやられてしまっていた。
そう既に何年以上も僕の楽しみの大半競馬だけだった。きっかけはたわいもないことだ。妻の同僚の女の子とダブルデートの相手に連れられて始めただけのこと。
僕は完璧に未来を予測することの快感を知った。週の初めからデーターを集め一レースづつ予測していた。データーさえあれば全てを予測出来るはず。その能力差を順位づけ出来るはずだった。誰にも知ることのない未来の予測、誰も知らない馬の能力を引き当てること、少なくとも自分はそいつの隠れた異能さを知っている。その脆さや危うさを知っている。その優越感がずっと僕を捕らえていた。
始めた頃彼女がいた。ヒシアマゾンは女傑と呼ばれた。彼女はいつも最後方で我慢し、鮮やかに全ての奴等を抜きさった。彼女はいつも真摯に能力を出しきる性格だった。彼女は自分の型を持っていた。最後の直線で非凡な加速力を見せつけること。そのひたむきさは誰も裏切ったりしなかった。
その日彼女の再来がいた。型は多少違うがひたむきに走る馬。足を溜め直線に歯を食いしばって走る女。レッドチリペッパー。前走彼女はヒシアマゾンの妹を並ぶ間もなく抜き去った。
その日のレースで彼女は断然の一番人気だった。もちろん僕もそう予測した。そうして彼女は最後の直線で最加速し、必死に鞭に答え、楽楽に他の奴等を引き離し、終わった。
僕の間違えは二番手だった。サヤカだ。サヤカは二番人気だったが自分の型を持たない馬だった。逃げてみたり追い込んでみたり掴みどころのない馬だった。過去のレースで常に上位にいたがそれは展開のあやだ、と僕は思った。その彼女が淡々と走り、知らないうちにするすると二番手にいた。何となくそこにいた。

その日の夜仲間と街にくりだした。会社の後輩四人と飲む約束をしていた。その内の一人の転勤の送別会だった。
仲間内で僕は一番年上で役職も一番上だった。昔は同じオフィスで働いた後輩達だったが今は関東の支店にばらばらになっていた。その内の一人がついに九州に行くことになり今日が決まった。彼らは上の僕に気を使い自宅近くの関内で会うことになった。
僕の地位は都内の端の支店の長。一年前に辞令が出て新宿のオフィスから昇進した。あまり期待されていたわけでもなかったが業績は圧倒的だった。昨年の最優秀支店に選ばれた。ただ僕自身は特に経済的な才能があると思ったことはなかった。何となくそうなっただけだ。自分としては別な能力はあっても、その手の才能はほとんどないと思っていた。だから最近の自分の位置にはひどく居心地の悪さを感じていた。
今回の仲間はそういう意味ではあまり気の使わない連中であり、座り心地は悪くなかった。
一軒目は駅近くの居酒屋に入った。日曜日の夜のせいで人はまばらだった。僕たちは大き目のテーブルに陣取りビールから始めた。
彼らは時々僕にお追従を言ったりしたが、ほとんどが冗談だった。
先輩はすごいっすよ、と言われても僕はその度にビールを飲み干し若干の虚勢を張りつつ、ただ笑っているだけだった。話した奴も本気で言ったわけでもなく場繋ぎの無意味な言葉を放ったまでだ。
大体自分は世間で言う才能に恵まれない人と考えていた。僕はそこそこの大学を出て、そこそこの会社に入り、今そこそこのところにいる。周りはそれをそこそこに評価しているが、それは才能とは別なものだ。
僕の劣等感の根幹は大学の前にあった。小中高と一貫して冴えなかった僕は、本来才能のある奴は小さい頃から芽がある、と言う持論に悩まされ続けた。冴えない高校生活ですっかりそういう意味での自信、社会的な才能とでも呼ぶものがあれば、を喪失していた。本質と表面、あるいは哲学と人生、があるとすれば、本質や哲学にこだわることで全ての評価を平坦化し、自信を回復しようとしていた。
そんな時たまたまそこそこの大学に入ることが決まり周りは僕への評価を変えた。ただ自分では少しもそのことを変化と感じなかった。同じ自分のいる場所が変わっただけだと思った。その後今迄ずっとついていた。何もしない僕は場所だけを変えそれなりに生きてきた。
自分のいるべき場所は全く別の世界にあると考えても、そこがどこかはわからないままだった。
会は二時間以上続いた。ビールは二十本以上が並んだ。仕事や女の子の話を的外れに進めた。唯一まともなのは競馬の話しだったが、僕の熱弁は彼らにはうまく伝えられず、なぜ最後までサヤカとの馬連を買わなかったのかの説明が理解出来なかった様だ。
自分の型を持たない馬は危険なんだよ。そんなの押さえられるか。
先輩へたですよぉ。才能ないっすねぇ。
と答えられた。
僕は煙草を咥え言葉を繋げよう様としたがふと無駄に思え煙を吐いた。連中は既に呂律がまわらず、かなりきていた。
先輩そろそろ行きましょうか?
一番若いリュウが口火を切った。主役のカズキはビールに少し口をつけ視線をリュウに向けた。
もっと飲みましょうよ。
大体お前飲んでないくせに言うんじゃないよ。
リュウは叱りつける様に口を出す。それに続いてばらばらに言葉が飛び交った。
お前なんか早く九州にでも行っちまいなよ。
僕は辺りを見回した。店内は更に人がまばらになっていた。あいかわらずここだけが喧騒に包まれていた。言葉が僕の耳を打ちつけ続けた。その一つづつを理解するのは不可能だった。
カズキを本当に送別する会なのかどうかさえはっきりしなくなっていた。僕らがどんな気持ちかがはっきりしていない。本人すら転勤をどう思っているのかわからない。
どっか行きますか?こいつうるさいし。
カズキは子供の様に口を尖らせた。年下のリュウに言われたからというより素直な感情の発露に見えた。
どこに行く?
僕はちらっと時計を見た。九時を過ぎたとこだ。
あっちどうです。
ヤスは小指を立てうなずいた。
僕は伝票を取り上げて立ち上がった。四人は奇声を上げて続いた

外はピューと音を立てていた。駅前のアーケードの中を風が吹きぬけ刺す様な寒さだった。レコード店の看板がぺキぺキと囁き僕は身をかがめゆっくり歩いた。連中は何メートルか先をふらふらと歩いていた。道は徐々に暗さを増していた。視線を先に移しても彼らはもう見えなくなっていた。声だけが耳に届いたが、何を意味しているかはわからなかった。

店は〃リトルマーメイド〃といった。僕はかなり酔っていた。ふらついていたと思う。そこのところはよく憶えていないが、入り口だけが暗闇の中でポッと浮かび上がっていたのを憶えている。
僕らはやけに狭い待ち合い室に閉じ込められた。部屋に入ったたとたん誰もが静まり返った。僕は酔いの憂鬱の中で煙草を咥え、今から何が起こるのかわからず、天井を見つめた。何が起っても無気力が襲い、結局何もなかった様に明日が来る気がしていた。
扉が開くと
どうぞ、と男が顔を突き出し、笑った。
先輩先にどうぞ、とリュウが言う。僕は何が起きたかわからないまま、煙草を消し、誰にも聞こえない声で、おう、と言い立ち上がった。本当のところ何の変化も感じなかった。自分には何も起きないと信じていた。人生の不快さも愉快さも不思議さも感じる余裕がなかった。僕は人生が偶然で成り立っていることをその時も理解していた。但し、それは振り返ってから始めてわかることも事実だ、とは考えていなかった。

僕は隣の部屋に入った。ものすごく狭い部屋だった。明かりは小さく赤かった。彼女はその中心に下を向いて座っていた。ふっと立ち上がると近づいてきて、僕の服に手をかけた。僕の視線は彼女に止まらず、どこか遠くに向けられていた。
僕は彼女の第一印象をよく思い出せない。すっと立ち上がった自然さ、それは馬房で立ち上がる子馬を思わせた。人が近づいたことに気づいた条件反射の動き。繰り返される日常への倦怠を浮かび上がらせていた。
僕らはバスタオルだけを体に巻きつけてシャワーを浴びに行った。シャワーの間はほとんど何も話さなかった。たんたんとした時間の周りを回っている感じだった。ぼくはその時でもまだ彼女の存在を認めていなかった。
寝ている彼女の存在を認めるそれより前に、僕は彼女の唇を吸っていた。彼女は瞬間ふっと目を開いて驚いたが、すぐに閉じて力を抜いた。腕が巻き付く様に僕の背中を辿った。
何秒間かそうしていた。直後彼女は僕を誘い込むように腕を広げた。僕らはもう一度口を重ね、今度は貪る様に吸い込んだ。
彼女の顔が少し離れた瞬間、僕は何か話したい衝動に襲われた。がすぐに言葉は吸い付かれ、どこか遠くへ連れ去られた。彼女の右手は僕を握り締め更に遠くいざなう様にした。僕も彼女の中心部に手を伸ばし、そっと触れてみた。
僕が触れている間彼女は目を閉じて反応し続けた。時々目を開いて僕を見つめても、すぐに顔を近づけて唇を吸った。
彼女の体は尚も僕の指に反応し続けた。僕は彼女の体のリズムに合わせ、強弱をつけて手を動かした。
僕はもう一度何かを話してみようと思った。何が浮かんでくるのかじっと待って、言葉を選んだ。選ばれた言葉は頭の中でなかなか形にならない。つかみかけたものが声になる瞬間消えていく。
彼女も何も話さない。体が小刻みにリズムをとり、声にならない吐息が零れるばかりだった。僕も考えることを止め、目を閉じて、彼女の手の動きに合わせた。
僕がもう一度彼女の唇に触れた時、もの凄いスピードで何かが駆け抜けていった。網膜の裏を黒い何かが通り過ぎた。僕はその瞬間を恐れていた様に大きな溜め息をついた。
彼女も大きな溜め息をついた。目をゆっくりと開き、初めて僕のことをじっと見た。
何か言って。
僕は何か気の利いた声をかけたかった。
名前は?
沙里奈。
ふぅん。
変?
いや、いいよ。
本気?
さあ。
沙里奈は立ち上がり後始末をした。二人はシャワーを浴びて部屋に戻った。
僕が煙草を咥えると、後ろからそっと火を差し出してくれた。
どうだった。
馬が走って行くのが見えたよ。
すっごくよかった、てこと。
沙里奈は僕の背中にとりつき、指で背骨を辿った。
どんな馬?
よくわかんなかった。
じゃぁ、どんな場所?
とうもろこし畑。
沙里奈は僕の目を覗き込む様に見た。
嘘、今作ったでしょ
僕は笑って誤魔化そうとした。彼女は今度は背骨に舌をはわす。僕が背中越しに見ると、顔を鷲づかみにし、自分の顔を近づけ、僕の唇を吸った。舌がすっと僕に入って来たので、僕らの舌は抱きしめ合う様に絡みあった。
何か言って。ねぇ、何か言って。

翌日は二日酔いだった。横浜を抜け川崎で南武線に乗り換える時トイレに駆け込んだ。朝の駅はごった返していた。僕はどこにも入れず、手洗いの前で何度も吐いた。周りの人だかりはいっせいに離れていった。ぽつんと一人で立ちすくみ、大きく二度深呼吸をした。少しだけだが気分が良くなった。顔に水を叩きつけトイレを出た。
車両に乗り込むと一番角の席に座れた。少し眠れば更に楽になるだろうと思って目を閉じた。
昨日の沙里奈の表情をふっと思い出した。それが僕の周りをぐるぐる回り出し、スピードを増していく。表情はかなり鮮明に像を結んだが、具体的ではなかった。スピードは更に上がり、また吐き気を呼び起こした。
僕は目を開いてみた。
紺色の制服を着た女子高生が三人吊革に手をかけて話し込んでいた。その言葉が徐々に大きくなり、僕の耳を打ちつけた。紺の制服の上の黒いコートが目に入ると、急に寒気が思い出された。
黒いコートは体を動かす度にひらひらと舞った。その姿は天馬を思わせた。サヤカが目の前にいる錯覚に襲われた。彼女はじっとこちらを見ていた。僕はほっとして再び目を閉じた。
何分かは本当に眠ってしまった様だ。人はやけに少なくなっていた。車両越しに田園風景が見えた。僕に音は届かず、静かな時間が訪れた。いつも見る風景が新鮮に感じた。

オフィスに入ると既に部下は全員いた。
おはよう御座います、と女子社員の一人に声をかけられたが、僕は返事が出来なかった。一瞬なぜ声をかけられのか理解出来なかったのだ。
気分悪そうですね。飲み過ぎですよ。
と今度はケンイチに話しかけられ、やっと僕は思い出した。
ここは仕事場だ、と。
そうなんだ、完全に飲みすぎた、とやっと返事をした。
支店長、今日は暇そうですね。あまり申し込みがありません。
僕は自分の席に倒れ込む様に座った。現実の希薄さは相変わらずだった。
何でそんな報告を聞かなくちゃならないのだろう。

僕の気分の悪さは午後迄続いた。
A社に行ってくる、と外出したのは二時を過ぎていた。立川駅から中央線で東京方面に向かった。
車内は混雑していた。僕は扉近くで立って外を見ることしか出来なかった。学生や主婦らしき人が多かった。特別快速はほとんどの駅を飛ばして進んでいった。
僕はありきたりの住宅街をぼんやり見つめていた。急にいつもの風景が悪意に満ちていることに気がついた。僕の目に留まらぬ速さがどこか異次元の場所に思わせた。
このスピードは狂っている、そう感じた。
僕は視線を車内に移した。周りの人々が汚いものに見える。誰も彼もが生活感に溢れ、零れ落ちるほどの臭いを発していた。昨日迄と変わらないものが突然正体を現わした。
特に女性に対する嫌悪感が圧倒的だった。
人ごみの中に若いOLが本を読んでいる。偽善の確かな香りがした。僕はOLの顔を沙里奈の表情に重ね合わせた。沙里奈の顔のイメージがフラッシュする。すげ替えられた顔はやはりしっくりしなかった。僕はほっとした。
新宿で電車を降りた。構内を歩き、すれ違う女性を見る度、沙理奈と違うことを確認した。やはり彼女は彼女でなくてはならない。
このことを彼女に伝えられればいいのに、と僕は思った。


僕はやっと連れ出したサヤカを、ここからどこにも連れて行けない。そう感じた。
どこか行ってみる?
彼女は首を振っただけだった。サヤカは必死で何かを考えていた。
何か考えごと?
私って考えない方が自分らしいと思うんだけど、でも時々考えちゃう、何でもないことを真剣に。考えないことがとりえなのに。
サヤカは僕を見て微笑んだ。
僕は強くサヤカを抱きしめた。
何も言わずに抱いてくれるから好き。でも何か言って欲しい時もあるの。

その月の下旬再びレッドチリペッパーが出た。サヤカはいなかった。重賞初挑戦となったが、圧倒的一番人気となった。中段につけて、最後に力強く抜け出す様を皆が思い浮かべた。現代競馬の理想的走りだ。当然僕も彼女に思いっきり賭けた。
彼女はいつもどうり五六番手につけて、最後の直線で好位にいた。直線の彼女はいつもどうり力強く伸びた。全身がバネとなり他馬が止まっている様に伸縮した。目は前方だけを見つめていた。彼女は一歩一歩追いつめた。しかし、後半馬身のところでゴールだった。
レースの後の彼女はそれでも満足そうに鼻腔を広げた。後十メートルあれば抜いていたろう。彼女はきっと思ったろう。
今度は勝てる、と。

僕はあれからよく眠れなかった。生活の全てに攻撃的だった。何が原因かははっきりしなかった。仕事は遠くで起っている様に感じた。学生時代に感じた人間嫌いがぶり返したみたいだ。
実は二回サヤカの夢を見た。別に僕の心象風景を表わすものではなかった。あの日のサヤカのレースが、何度となく繰り返されるばかりだった。
カメラはレッドチリペッパーでなく、サヤカを追っていた。彼女はレースが終わっても平気な顔で流していた。
二着で充分、と言わんばかりだった。
走れと言われたから走っただけよ。
まるでなぜ走るのかわかっていなかった。
沙理奈の夢は見なかった。

その二日後、沙理奈のところにに行った。二日間全く眠ることが出来なかったからだ。取引先の接待の後だった。アルコールが思考能力を低下させ、ふらふらと行った。
来てくれたんだ、と言った。
僕らはこの前と同じ様にシャワーを浴びた。彼女は僕を寝かせると、覆い被さり四つんばいになった。顔を徐々に近づけ舌を出し、僕の唇を舐めた。舌はそのまま横に辿り、頬を舐めた。一呼吸おくと次ぎは上に動いた。鼻を舐めた。更に上に行って目に着いた。
ありがとう、
彼女は口を開き、その後僕の唇にキスした。
僕は彼女の草叢に手を伸ばした。周りを中指でまさぐった。彼女はすぐに湿り始めた。
彼女の手も僕を握り締めた。目を閉じ唇を重ね合わせた。舌が僕の中に入り、歯の一本一本を滑った。
僕の指は彼女に中に入っていった。沙理奈の体がその準備を既に済ませていたからだ。指が吸い込まれた瞬間、彼女はいななく様に顔を上げた。
僕は彼女の頭に手を回し、引き寄せ唇を吸った。
どうしてそんなにキスが好きなの。
どうして?
そう、どうしてか、知りたいの。
沙理奈は首を振り、たてがみを震わせた。
好きだから、と僕は答えた。彼女は目だけで微笑み、僕を更にぐっと握り締めた。僕の指は自然に彼女の中に入り込み、何かを探す様に動き回った。
沙理奈は僕に合わせ小刻みに体を震わせ続けた。首は少しづつ上下に動き、髪は風になびく様に揺れた。
二人は競い合い、先を急いだ。体を合わせ、息を荒げ、先頭のゴールを目指した。
僕は終わった瞬間、ふっと息を吐いた。沙理奈も息を吐いた。
いった?
僕はうなずいた。
ゴールした。
シャワーを浴びた後、僕は煙草に火をつけた。
最後に名前呼んだけど、誰?
沙理奈だよ
違ったもん。
彼女を横目で見る。髪をかきあげ、その手で僕をこずく。
だあれ?
誰でもない。
沙理奈は下を向きじっと動かない。何を見つめているのか、僕にはわからなかった。
別に良いけど。
沙理奈は下を向いたまま、消える様にそう言った。
イメージで何となく沙理奈って感じじゃないいんだ。
私のこと?
どうしてもサヤカって思っちゃうんだ。
ふうん。
サヤカって呼んでいい?
いいけど、いわくあり?
ないよ。
そう。
信じる?
だってそうするしかないもん。

僕は、翌日新規取引先に直行した。京浜急行に乗り三崎に向かった。
寝付けないのは相変わらずだった。昨日もあれから一人であてなく飲みつづけた。
車内は朝の下りでほとんど人はいなかった。僕はなぜ飲み続けなければならなかったのか、考えた。
あの後規則正しく地下鉄に乗り最寄り駅で降り、名前のない居酒屋に入った。
店内に椅子はなかった。外気を避けるのは暖簾だけだが寒くはなかった。五六人がカウンターに寄りかかり立っていた。何人かが静かに話していた。僕は一番外気に近い場所で熱燗を飲んだ。
一口飲んで僕は、彼女のことを思い出してみた。繰り返し繰り返し思い出したい、と思った。彼女の足や、胸や、中心部を感じる様に思い浮かべた。熱い物が喉を通る度に彼女を感じた。
しかし、全体として像を結ばなかった。イメージとしてしか浮かばなかった。特に顔がはっきりしなかった。
一度サヤカのことを考えるのを止めてみた。
冷めかけた酒をぐっと喉に通して、自分自身がどうしたいのか、考えた。
僕は後一歩踏み出すと、とんでもない場所に行きそうだ、と思えた。また、一歩さがれば、前の位置に戻れそうだった。
僕は更に飲み続けた。体に浮遊感が増した。
自分は社会のある側面に気づいた。それはなんだったのか未だにわからない。世界と自分を隔てていたものが突然なくなってしまった。サヤカと初めて会った翌日、僕の周りにあった膜が音を立てて破れた。僕と世界は一体となり境界線を失った。
どうして?
僕はもう一本酒を追加した。思考が停止した瞬間、隣の男たちの声が耳に届いた。その声はすぐに意味を失い音に変わった。音はどんどん僕を侵食し思考を妨げ続ける。
僕は新しいアルコールを注入した。再び音は止まった。
世の中との隔絶感をつのらせながら、同時に一体感も伴い、更に混乱した。
ふっとスリーコースと言う馬のことを思い出した。彼女は逃馬として少しだけ活躍した。その日を最後に引退し繁殖になる予定だった。やっと走ることから開放されるその瞬間、彼女はゲートで暴れ出した。ゲート内で横倒しになり、隣の馬に踏みつけられ、死んだ。あと一回だけ走ればよかった。
悲しい事故だった。彼女は何も知らなかった。今も未来も。
彼女がもし自分の未来を知っていたら、と考えた。彼女は死なずにすんだろうか。誰か教えてやることが出来たら、彼女はゲートで我慢したろうか。
結局彼女に誰も、そして何もしてやることが出来なかった。
もう僕の周りに音は存在しなかった。なぜスリーコースのことが浮かんだのかわからなかった。
その不幸な事故を僕はテレビで見た。
もし僕が彼女の側にいたら、どうにか出来たろうか。
彼女がゲートに入る瞬間に僕の存在を横目で確認する場面を思い浮かべた。その目は見るだけで全てを知り、すんなりゲートインをし、走りだす。
まるで現実の様にそんな場面が繰り広げられた。
僕は妄想を消すように飲み続けた。足元が柔らかく変質し、立っていられないほどになり、店を出た。何かに乗って歩いている感じだった。

窓の外の風景は相変わらずだった。いつもと違うルートもそうは感じなかった。変わらない日常は僕に過去を振り返れ、と話し掛けた。記憶は未来への予測と混ざり合い、過去は未来に変容した。過去は繰り返され、僕は同じコースを走り続けた。
目的地に近づくとさすがに風景は大きく変わった。海が薫る。今迄は家々の背景だった緑が主役になり、見ていると気分が軽くなる。僕は見つめながら眠っている感じだった。
終点の駅で降りた。外に出ると寒気にさらされたが、日光は黄色く降り注いでいた。
取り引き先には丁度の時間に着いた。雑居ビルの二階で、一階はコンビニエンスストアーだった。店の横の細い階段を上がると暖簾が見えた。
呉服屋の暖簾はグレーのコンクリートに囲まれて赤く浮き上がって見える。
失礼します。
奥から中年で和服の上品な女性が現れた。彼女は全てを聞いていると言わんばかりに、急に笑顔になり、中へ通した。
社長はすぐ参りますので。
僕は畳部屋横の事務室に待たされた。机は五つあり、社長のものと思われるそれの前に座った。
いつもどうりの対応が頭を駆け巡った。
先程の女性がお茶を出してくれた。僕は会釈をして答えたが、その時は既にサヤカのことを考えていた。
紺色の和服の男が僕の前に現れたのはそれからすぐだった。名刺交換を済ませ、二人は向かい合った。
社長は若々しい、というのが初印象だった。だが、向かい合うと髪の白さに老練さも感じた。目は細められ柔らかかったが、黒目は奥深さを表わしている様だった。
M社の外山様の紹介でお伺いしました、
と僕はいつもの挨拶から始めた。社長は手を振り、僕を止めた。
「お話しは聞いています。本題に入りましょう」
僕はうなずき、加盟申込書を渡し、記入について簡単に説明した。社長は書類を受け取ると、説明通り手続きを進めた。僕はしばらく見入っていたが、沈黙に耐えられず、お茶に手を伸ばした。
社長、景気はいかがですか?
男は記入の手を止め、顔を上げた。僕の顔を覗き込む様に視線を投げた。
「いいですよ。売れています」きっぱりと語尾を切った。
そうですか。それは良いですね。最近景気の良い話を聞きませんので
「呉服屋さんで今売れているところはどんなところでしょう。おわかりになりますか?」
僕はすぐ答えた。
昔からの地場の上の付くお得意様を持っているお店ですね。
社長は僕の方をじっと見た。
「違うね。まぁある意味では正しいかもしれないが、もっと具体的に話して下さい」
お客様のニーズを掴み、それに答えること。多様なニーズに答える品揃えを持っていること。
うん、男は答えた。
「やっぱりひっかかったね。だいたいよけいに抽象的になっている。ニーズ、ニーズって言うが、今のこの業界にニーズなんてものがあるかね。ある意味お得意様ならいいが、新しいお客様を考えると無理だね。お得意様と言っても、それだけでは経営はなりたたない、そうだろう」
僕は目を見てうなずいた。
「あなたの言われたのはある意味では正しい。ひょっとしたらそれしか生き残る道はないのかもしれない。ただ私の考えは違うんです。違う何かがあると思うんです」
僕は、はいとだけ言った。
「私がこの業界に入ったのはデザイナーとしてなんです。私が一番惹かれたのは、着物の美しさなんですよ。でもそれは芸術的な美しさじゃないんです。実用的な美しさなんです。居住まいを正す、とよく言いますね。この居は衣でもあると考えているんです。まさにそういうことです。和服を着るということは確実に何かを表わすことなんです。表現することです」
僕は何度もうなずきはしたが、その理論をよく理解したとは言い難かった。
「若い方がお友達の結婚式に出るとしますね。和服を着られる女性が多いが、私はいつもこうアドバイスするんです。安物を着れば、祝う気持ちも安い物に見えますよ、ってね。だから逆に安い物なら洋服で行けって言うんです」
社長は一気に話し、湯飲み茶碗に手をつけた。僕も煙草に火をつけた。
「もう一つ例を上げましょう。女性は結納に和服を着ることが多いでしょう。それを買いに来られるお母さんにこう言うんです。きちんとした着こなしで高級な物を着れば、相手方もそれに合わせた対応をするし、このお嬢さんは大事に扱わなきゃ、って身構えますよ、ってね。ところが、安っぽい着物で行って、相手が、これは大切なお嬢さんをいただいたなんて思いますか、ってね」
僕は煙を吐き出して、うなずいた。社長は窓の方に目をやり、考え込んだ。部屋は誰も入って来ず、静かな時間があった。
「戦後の日本は、アメリカの個人主義って言うか、まあそういうもののせいで大事な物を失ってしまった。他人との関係とか距離が掴めなくなっちゃてるんですね。私は言うんです、戦前に戻れってね。
自分のことしか考えないから、周りにどう思われているとか、周りのことをどう思いやってるかとかが考えられないんです。そんな大人ばっかりだから、これからの子供は最悪なんです。親が子供にどうしたらいいのか教えられないんです。当たり前のことです、今の大人自身が、自分のことしか考えない子供そのものなんですから」
僕は話に聞き入っていたが、ふっと男を見た。社長もこちらを見返してきた。
「この前三十代の夫婦が店に来たんですが、旦那の方が自分のことを、僕僕って言うんです。もちろん子供もいるんですよ。大の大人が商談の席でですよ、私が普通でしょ。それが僕ですよ。全く子供です。彼らが子供を育てるんですから末恐ろしい話です」
そうですね。私もそう思います。と小さな声で答えた。
「今の人は僕僕と自己主張する割には自分の意見を持っていない。こういう考えもある、ああいう考えもあるって、全てに対して受け入れ結論を出さないんです。人に何かを伝え様とすれば、どちらかを選ばなければならないが、それが出来ないんです」
そういう傾向はありますね。私も耳が痛いです。
「支店長は大丈夫です。その場の雰囲気に合わせられる人だから、中身は別にしていろいろな使い分けが出来る方でしょう。でなければ、その若さで責任者は出来ない。意見を言わないならそうするしかないからね。勿論支店長は意見をお持ちで、人にも合わせられるんでしょう。理想的な大人だ。もしそうならですが。」
話しが一区切りつき
「コーヒー二つ持って来て下さい」と奥に声をかけた。
窓から透明な光が入って来たので、社長はブラインドを降ろした。先程とは別の若い女性が、音も立てずに入って来て、コーヒーを静かに置き、失礼しましたと出て行った。
「今の大人は子供に優しすぎるんです。だから、何も教えられないんです。優しいだけで何もないんだよね。優しすぎる連中が三十代に多すぎるんですよ。女性が最近強いのは、男の責任の半分を放棄しちゃったって言うか、奪い取っちゃたからですが、戦後教育の失敗ですね。勿論、極端なんですが、戦前に戻せばいいと思います。女性から選挙権をなくしちゃってもいいと思います。そうすれば女だって楽なんだ。男が守ってやれるし、男が責任を引き受け強くなれるんです」
社長の声は徐々に大きくなり、部屋の中で乱反射した。
「仕事の話に戻りましょうか」
僕はその理論をもう少し聞き続けたい気がした。賛成するかどうかは別にして、社長のはっきりした口調は心地よかった。
「呉服の業界ですが、実は私は何軒かの方の指導を頼まれているんです」
一息つき、コーヒーを口に付け、目を僕からそらし窓に向けた。
「バブルの時期よく言われました。お前は商売が下手だなってね。あの頃は、誰でも高く売り、利益率を上げていたんです。私は今もその頃も同じ値段で売っています。そう言っていた連中は今はほとんど潰れていますよ。どうしてか分かりますか?」
ええ、バブルの楽な時代のことが忘れられず、同じやり方をしていたからでしょうね。
「違います。連中には元々プロ意識なんかなかったからです。何もしていなかった。だってそうでしょう。お客さんが勝手に買って行ってくれたんですから。じゃあなぜお客さんは買わなくなったんでしょう?」
バブルが弾けて贅沢品を買わなくなったからでしょうか。
「違いますね。和服を贅沢品として売っていたからです。さっきも言いました様に、呉服は自分を表現する必需品なんです。それをプロとしてお客さんに理解していただいていれば、今のこの業界の不況はなかったんです」
僕はコーヒーをすすり、うなずいた。
「何が必要で、何が必要でないか、そのことをはっきり分けないと生き抜いていけないんです」
社長もコーヒーを口に持っていった。見開いていた目を細め、僕に笑いかけた。
「講義はこのくらいにしましょう」
僕の煙草は灰皿の上で置かれたまま、ほとんど灰になり、薄い煙だけを上げていた。煙は光にさらされ、すっと消えていく。僕は煙が死んでいくのをずっと見つめ、溜息をついた。


サヤカと僕はローブだけをはおり窓際に立った。引かれていたカーテンを少し開け、横浜の夜を眺めた。
皆あんなに小さいんだね、と彼女は笑った。
ここは高いからね。
僕はサヤカを見つめた。彼女は夜の光の方からこちらに顔を向け、更に笑った。
こんなの初めて。夢みたいにきれいね。
今迄彼女と別れた途端忘れてしまう顔を記憶させ様と努力した。特にこんな笑顔は貴重だから。
夜ってこんなにきれいなのね。
何か飲む?
僕は目をそらさずに言う。彼女はまた笑顔で顔を上下に動かした。窓からの光でサヤカの顔の半分が弱く照らされ、浮かび上がった。僕は忘れまいと強く見つめた。
ブランデーグラスをサヤカに渡した。僕も同じグラスで液体を口に含んだ。彼女も少し口に入れた。
もっとはしゃぐ娘かと思ったよ。おとなしいんだね。
こんなの初めてだもん。緊張してんのね。自然な方がいいよね。
僕は首を振り、これが自然なのかも、と言った。
違うよ。私もっと変だもん。あなたに見せてないだけだよ。

レッドチリペッパーとサヤカのことを書く前に思い出したことがある。何年か前に二頭の馬が対決した。マーベラスサンデーとヒシワールド。二頭は同世代だったと思うが、もう一つ共通点があった。デビュー当初より期待されたエリートであったこと。それが怪我で挫折し、復活してきたことだ。その二頭が夏の重賞で戦うことになった。
そのレース内容を僕は記憶していない。ただ二頭が明暗を分ける分岐点だったことは確かだ。勝ったのはマーベラスサンデー。ヒシワールドは惨敗した。勝ったマーベラスサンデーはその後期待通りエリートコースを進んだ。G1を取り頂点を極めた。ヒシワールドはその後も負け続けた。今や一頭は種牡馬として悠々自適の生活を送り、もう一頭は今も条件戦を走り続けている。二頭を分けた差が僕には分からない。同世代で期待された二頭は同じじゃなかった。当たり前のことだけど、どこかが違った。馬にとっての幸せは競馬に勝つこととは限らない。どちらが正しいということでもない。ただそれぞれに考えがあったということだ。
レッドチリペッパーとサヤカは二度目の対決をした。既に季節は春を迎えていたが、今年は雨が多く肌寒い日が多かった。その日も雨だった。そのレースもそんな中の牝馬限定の重賞だった。レッドチリペッパーは圧倒的な人気でそれにサヤカが続いた。僕はレッドチリペッパーの単賞を買った。レッドチリペッパーとサヤカの馬連の馬券は配当の割には信頼出来ない気がした。勿論これは僕の単なる勘だが。
レースは荒れた馬場の中で見た目にも辛そうな戦いとなった。レッドチリペッパーサヤカ共に前々での競馬で二三番手につけた。最後の直線で先に抜け出したのは、サヤカだった。レッドチリペッパーもしかけ、二番手で追った。差は詰まらなかった。サヤカはマイペースで駆け抜けた。歯を食いしばって走ったレッドチリペッパーは二着だった。サヤカはいつもの様に何事もなかった風だ。レッドチリペッパーの疲れた姿とは対照的だった。
サヤカは自分の為に走り、レッドチリペッパーは皆の為に走った。そんな感じだった。サヤカは才能で走り、レッドチリペッパーは気持ちで走っていた。全く違う種類の生物の様な二頭だった。

サヤカの店に行ったのはそれから三日後だった。三度目だった。彼女の出勤の都合等々が重なり、この前より一ヶ月近くがたっていた。
サヤカは指名を受けた時点で僕だとわかったらしく、会うと下を向いて目だけで笑って挨拶をした。
何となく恥ずかしい。
どうして?
知ってる人とまた会うことあんまりないもの。三回目でしょ、全部知られてるって感じがして。
彼女は僕の手を引いて部屋にいざなった。いつもの部屋だった。赤い光が部屋をピンク色に染めていた。完全な密室だった。
僕らはいつもの様にシャワーを浴びた。サヤカはいつもより丁寧に洗った。最初は僕の中心部を洗った。その後、僕の手を洗ってくれた。手を手で揉む様にした。僕はこの前もこんな風にしたろうか、と思い返したが、記憶はなかった。多分同じ様なことはあったのだろう。今日は意識しているのだ、何もかも憶えている為に。
僕の体を洗っているサヤカは、かなり小さく見えた。僕は彼女の顔を見たいと思ったが、白い湯気が邪魔をしてはっきり見てとれなっかた。その上サヤカは終始うつむき加減だった。
サヤカ、顔を上げて。
僕は話しかけたが、水の音に消され、声は届かなかった。サヤカはそのまま僕の体を撫で続けた。
よし、私も浴びるから、先に部屋に行ってて。
僕はバスタオルを腰に巻きつけて部屋に戻った。仰向けに寝転がった。赤い光は安っぽく思わせぶりに見せたが、光源のシェードは割と洒落ていた。部屋は狭かったが、寝転がってみると、圧迫感はあまりなかった。シャワーを浴びる前ほど、空気も重くなかった。
サヤカも体にバスタオルを巻いて入って来た。僕は顔を動かさず、目だけで彼女を追った。サヤカは僕に被さってきた。顔が近づいてきたが、逆光でよくみえなかった。すぐに唇が近づいてきたので、顔を持ち上げ吸いついた。彼女の舌はいつもの様に軽やかに僕の中に入り、踊った。僕の舌は彼女のそれを追って走り回り、やっと捕らえると、今度は、彼女の方が僕の舌に絡まり付いた。
僕は知らないうちに、目を閉じて、その光景を感じていた。サヤカの顔が離れた時、僕は目を開いた。彼女は僕から目を逸らし、うつむきかげんだった。赤い空間に彼女の体が無重力で浮いている様だった。
今日は何か変だよ。やっぱり凄く恥ずかしい。
サヤカは僕の胸に顔を埋めた。僕は右手で彼女の顎を持ち上げた。僕らは見つめ合って、自然に、また唇を重ねた。
サヤカの右手はようやく僕の中心部にきて、柔らかく僕を包んでくれた。僕もサヤカの中心部へ左手を伸ばし、キスしたまま、右手で彼女の髪に触れた。ふわっとした暖かさだった。彼女はじっと目を閉じたままでいた。
僕の指がサヤカの中に入ると、彼女は顔を離し、口を少し開いて呼吸をした。僕はサヤカの閉じられた目や、半開きの口や、小さく膨らんだ鼻を見て、記憶に留め様と努力した。
見ちゃやだよ。
サヤカは目を開いて、僕を見つめた。僕は彼女の背中に右手だけを伸ばし、顔を引き寄せた。彼女の顔がゆっくり近づいてきた。サヤカは口を大きく開け、僕の口に噛みつく様に吸った。顔を離すと、舌を出し、鼻や口をところかまわず舐めた。
意外とさらっとした感じだった。サヤカの仕草は厩務員に甘える馬を思わせた。僕は彼女の髪を揉む様に撫でてあげた。彼女は気持ちよさそうに笑った。
サヤカは目を閉じ、僕の左手に体を委ねた。僕の左手は彼女の中心を上下に動いた。彼女の一番反応が強かった場所を探り当て、中指をそこに集中させた。彼女は遂に小さな声を上げた。
僕は左手をサヤカの中心から離し、彼女の顔の輪郭を包み、引き寄せ、唇を吸った。彼女は吸わせながらも
続けて、
と僕の口の中に言葉を吹き込んだ。その言葉は、サヤカの口だけでなく、鼻や、目や、耳からも漏れた。彼女の左手は無理なく僕の体を辿り、僕自身を優しく包んだ。僕の左手も元の位置に戻った。
僕は指を彼女の中にゆっくり入れた。彼女の口は僕の口の中で素早く振動し、何かの言葉を発した。
僕はそれでも冷静だった。それは全てを記憶に閉じ込めておこう、と考えていたからだった。僕は目を開いて、サヤカの全ての動きを監察した。
サヤカの左手は僕を包み、軽く動いたが、僕自身はあまり感じなかった。ただ彼女の方は僕の左手によく答えた。彼女の右手は、僕の背中に回され、しがみつく様に自分の体を支えていた。指が出たり入ったりする度に、右手に力が入り、僕の体にそれが伝わった。
僕はサヤカの髪を見た。ショートカットでさらさらした髪だった。小刻みに揺れて僕のの顔の上を動いたが、うっとうしい感じはなかった。彼女が顔を上げた時、まず目を見た。細くはなかったが、黒目勝ちの為、大きくは見えなかった。次に鼻を見た。上を向いてもいないし、横広でもなかった。整った鼻だった。口も見た。小さく、唇は薄かった。耳は大きかったが、左側は髪で邪魔されていた。全体は卵型で黒かった。
どうしたの?
いや、何でもないよ。
乗気じゃないみたい。
サヤカは眉を動かし、うつむき加減になった。僕はまた左手を激しく動かした。彼女は再び僕の胸に倒れ込んで、体を震わせた。
僕は更にサヤカの一番感じる部分に手を持っていき、愛撫した。彼女は今までより更に大きな声を出し、やがて動かなくなった。
しばらく僕の体の上でじっと動かなかった。サヤカは、僕に顔を見せないまま、どうしたの?ともう一度言った。
本当に何でもないんだ。
僕は彼女の顔を持ち上げ様とした。
少しだけこうしてていい。
構わないよ。ずっとこうしててもいい。
サヤカは答えなかった。ただ僕の体にしがみつき、眠っている様に動かなかった。
さらっとした行為だった、と僕は感じた。狭い部屋を見回した。全てが人工的で作為的に見えた。その中でサヤカだけが自然に見えた。
僕の胸の辺りに冷たい感触が走った。線となって下に落ちていった。それはサヤカの顔
から出ていた。僕の胸は彼女の顔からの液体で満たされていった。
何も言わなくていいよね。
サヤカは震えた小さな声で言った。
どうしたの、沙理奈?
彼女は顔を上げず、僕の胸の上で顔を左右に振った。彼女の涙が少し飛び散った。
もう少しこうしていたいだけ。
うん、とだけ僕は答えた。彼女の顔を見たかったが、我慢した。そのかわりにサヤカを強く抱きしめた。彼女も目一杯の力で僕を抱きしめてきた。
まだ時間大丈夫?
彼女は顔を上げ、時計を見た。
もう少し。
サヤカはすっきりした顔をしていた。僕の胸に顔を撫でつけて言った。
変な顔でしょ。
そんなことないよ。
サヤカは顔を上げ、僕をまっすぐに見て、笑った。サヤカは顔を僕の中に埋め、黙った。僕も何も話さずにいた。
無口なのね。
サヤカは僕の胸の中で肌に話しかける様に言った。僕の肌に震えが伝わり、体中に鳥肌が立った。僕も首を伸ばし、サヤカの頭のてっぺんに口を押し付けて、いや、と口を動かした。
彼女はびくっと震え、顔をこちらに向けて、
テレパシーみたい、と口に出した。そして、顔を僕の肌に付け
やっぱり無口だよ。だって必要最小限のことしか言わないんだもん、とゆっくり口を動かした。
今は話すと全て駄目になる気がするから。俺話すとまわりくどいんだ。何か全てを説明しないと気が済まなくなる。わかる?
よくわかった。もう説明してるもん。
顔を上げて笑った。僕も笑い返した。
目覚し時計が鳴った。僕らは立ち上がり、シャワー室に行った。
サヤカはさっきと同じ様に僕の体を洗った。僕は疲れていた。ぬるま湯が体中を流れると、少しすっきりした気持ちになった。心はすっきりしているが体が疲れているのか、体は元気だが精神が弱っているのか、わからなかった。体を洗い流すこと、それは全てを洗い流していく様で寂しくもあった。
サヤカの手は僕の左手を丁寧に洗った。僕の薬指までくると
指輪、ちゃんとしてるのね。
と顔を上げずに床に離しかける様に言った。
取れないからしてるだけだよ。習慣さ。
サヤカは石鹸を手につけ、僕の指を撫で、指輪をすっと抜いた。
抜けたわ。
僕は何を言っていいかわからず、彼女の手の中の物を見つめた。
捨てちゃっていい?
僕は彼女の目の中を見つめた。
サヤカは指輪を握り締め、アンダースローで投げるふりをした。それでも僕はサヤカを見つめ続けるだけだった。
とめないの?
サヤカは手を広げ、それがあることを見せた。それ以上話さず、僕の指に戻した。
やっぱり無口だわ。
彼女は僕の目を見て笑った。
シャワーが終わり、二人は揃って部屋に戻った。僕は服を着始めた。ネクタイを結んでいる時、サヤカが近くにいないことに気づいた。狭い部屋を見回した。サヤカは部屋の角で下を向いて座り込んでいた。彼女は必死で手の中の物を見つめていた。それはさっき鳴った時計だった。
まだ少し時間があるね。私が時間をセットし間違えたんだわ、と独り言の様に言った。
僕は上着をはおらず、サヤカに近づいて、上から小さな目覚まし時計を覗き込んだ。彼女は僕を見上げた。彼女の黒目がじっと僕を捉えていた。瞳の中に僕自身が映っているのが見えた。
僕はしゃがみこみ、サヤカを抱きしめた。唇を彼女の頬にあてた。
何か着ないと風邪ひいちゃうよ。
彼女は笑った。そのまま僕の唇を吸ってきた。僕も同じ様にした。
しばらく二人は舌を絡ませいた。唇を離した時、僕は全てを失ってしまうのではないか、という不安にかられて、もう一度抱きしめた。
何か聞いて。
何を?
何でもいいから聞いて。言って。
サヤカの潤んだ目は、走り終えた競走馬の目だった。自分の能力以上に馬は走る。その時の疲れた目だった。
番号教えてよ。
何の?
携帯。
電話するよ。いい?
彼女は自分のカバンを引き寄せ、中から携帯電話を出した。
買ったばかりで憶えてないの。
彼女はそれを差し出した。
僕は画面に映った番号を記憶する。それをじっと眺め、何度も心の中で反芻した。僕の中心に心地よい数字の配列が刻み込まれた。それをサヤカに返すと、彼女は両手でしっかり受けとめた。
僕の番号も教えようか?
彼女は首を振り、待ってる、と言って立ち上がった。
何か着なきゃ。風邪ひいちゃうね。本当に。


僕は生活について書いていない。書くべきほどのことがないからだが。僕は妻と二人暮らし。妻は僕と同い年でソフトウェアーの会社に勤めいる。大学を出てからずっと同じ会社に勤めているのでそこそこの地位とのことだが、僕も詳しく聞いたことはない。僕の会社と違い大会社の為、収入は僕よりいいぐらいだった。もう結婚して八年になるが、子供はいない。出来ないわけではなく、何となくつくらないだけで、それに関しては、二人共確たる考えがあるわけではない。
妻はごく普通で、そうとしか言いようがない。見た目からして、派手でも地味でもなかた。特別に嫉妬深いとか、キャリアウーマン然としているとかの特徴がない。
僕らの仲は悪くもなく、冷めてもいなかった。休日の日程は大抵彼女が僕のに合わせてくれるし、一緒に映画を見に行ったりもするし、大きな意見の対立もない。
だからといって、もしサヤカのことを話したら怒るだろう。よく聞くどろどろしたことにはならないと思うが。
僕は妻のことを嫌いではない。優しいし、仕事もまじめであり、他人からすれば欠点はあるだろうが、大半に満足していた。関係は極めてうまくいっている。何よりも気を使うことがないのがいい。
彼女は僕の大半のことに目をつぶってくれている。どんなことも受け入れて、小言はあるが、最後には許してくれている。
ただ一点だけが食い違っている。妻が本当の僕について知らず、多分僕も本当の彼女の姿を知らないだろう点だ。あるいは、僕がそう感じていることだ。

その翌日からは安定した精神状態だった。ここのところの不安定さは影を消した。ゆっくり眠ることも出来たし、物事に対して思いつめることもなかった。あんな状態の時でも与えられた仕事だけはこなしていたが、ここにきて更に順調になった。
理由は単純だった。サヤカといつでも話しが出来るという安心感からだ。携帯電話の中のサヤカという名前の登録を見るだけで、元気になった。
僕は早速電話をした。午前中は何時にかけるべきかまとまらなかったが、結局午後一時にかけることにした。
もしもし
ハイ。いつもより低い声だった。
沙理奈、俺だけど、わかる?
もちろん、わかるよ。
何にもないけど電話した。
うん。いつもの声だった。
寝てた?
とっくに起きてたよ。
そう。僕はもう何を話していいかわからなくなった。
今何してるの。仕事中なんでしょ。どこにいるの?
うん。赤坂辺りを歩いている。勿論仕事中だよ。沙理奈は何してた?
洗濯。ところでさ、
何?
サヤカって呼ばないの?その方がいいんでしょ。
うん、まぁ、そうしようかな。
私もなんか急に思い出したんだ。そうしたら、その方が私に合ってる気がしてきて。
じゃぁ、そうしよう。ところで、洗濯どうだった。
ええ、普通よ。きまってんじゃない。
そうか、今日は天気もいいからね。
そうね。
何か話したいことある?
うん、ないけど。
じゃあ、切るよ。明日も電話していい?
駄目。
どうして?
今日もう一度夕方電話して。
うん。
話すこと考えとく。
僕もそうするよ、サヤカ。

もしもし、サヤカ?
うん、私。
サヤカって呼ばれた感想は?
まぁまぁ。でもいい感じ、そう呼びたいんでしょ。
最近どうでもよくなった。サリナでもいいよ。
う〜ん、でもいい、サヤカって呼んで。
そうするか。
うん。
話し考えた?
指輪の話をね。
指輪?
お母さんが、指輪してたのずっと。勿論結婚指輪よ。聞いてる?
聞いてるよ。
でも太っちゃって、抜けなくなっちゃったのね。それからどうしたと思う?
離婚した。
馬鹿馬鹿しい。冗談のつもり?
怒った?
病院で切ってもらったの。もちろん指輪をよ。
何か教訓があるの?
結婚したら太らないこと。
なるほど。
あなたの指輪も取ってあげたい。
ありがとう。
お母さんみたいにひどいことになる前に。
サヤカに会いたい。
私も。
今日も行こうかな。
駄目よ。
じゃあ、やめよう。
うん。でも理由きかないの?
駄目なものは駄目だろ。理由なんて意味がない。結果が変わるわけじゃないからね。
彼女は答えなかった。僕は、会社の前で携帯電話にじっと耳を傾けていた。サヤカは何も話さなかったが、息づかいだけが聞こえた。それはやけにリアルで耳元にサヤカの口がある様な気がした。
何の話がしたい?
嘘つき。
何が?
考えとくって言ったじゃん。
考えてたよ。サヤカの声を聞いたとたん忘れちゃった。
それ本当?
さぁ、どっちだと思う。真実か、いいわけか。
会って顔見てれば多分わかるんだけどな。
本当だよ。嘘なんてつかない。
今も思い出さない?
うん。でもたいした話じゃないさ。すぐ忘れるぐらいだから。
今度どっか行こうね。
どこに行きたい?
普通のとこ。
普通?
明日までに考えてみて。
いいよ。
普通のとこよ。

僕は毎日電話した。いつも話は同じだった。新しい話題はなかった。新しい話題がなくても話しが尽きないからだろうか。僕も最初の頃ほど緊張しなくなった。僕は彼女の声が聞きたいだけだったから内容はもとからどうでもよかった。
僕はサヤカについて何も質問しなかった。今のことばかりで、過去や、未来や、周辺について、あまり知りたいという欲望が沸かなかった。サヤカも僕について何も聞こうとしなかった。聞かれたのは、今どこにいるとか、今何してる、程度だった。僕が言い出すのを待っている感じでもなかった。口調から興味がなさそうにしか思えなかった。それでも僕は彼女から話し出せば興味深く聞いたろうが、サヤカの方は僕から話しても聞く気なんかないのでは、と思えた。
話は普通のところに行くことについてだった。彼女にとっての普通の基準がわからないので、僕は無難に最初はディズニーランドと言った。彼女すぐには反応しなかった。しばらくすると
それは普通じゃなくてチンプよ。
えっ、何て言ったの?
陳腐。
ドキドキする響きだね。もう一回言ってみて。
彼女しばらく黙り、馬鹿にしてるの?、と言った。
それにしても難しい言葉を知ってるね。
やっぱり私のこと馬鹿にしてる。
確かに学があるとは思っていなかった。
う〜ん、でもあなたのそういうとこが好き。正直だもん。いくらなんでも学がないなんて言われたことない。
言い過ぎた。
一つ正直にされると全てそう思えるから不思議ね。私の言ってるのは言葉じゃなくて内容よ。はじめて行く所がディズニーランドなんて最低よ。
ごめん。でも普通ってそういうとこかと思った。
まぁいいわ。他には?
他に?豊島園。
私電話切る。サヤカはきっぱりと言った。
ごめん。考えてなかったたんだ。明日迄に考えとくよ。もっと真剣にね。
いいよ、許してあげる。でも本当に考えてね。
会うって、どんなことしたいの?
二人が楽しいと思うことはなんでも。
どんなことでも?
そう。
わかった。

サヤカが僕について聞くとすれば、今どこにいて何をしているかだった。
今どこにいるの。歩いてる?
うん、立川市内を歩いてる。駅前からはだいぶ離れてるけどね。
自動車の音がするわ。
大きな道沿いを歩いてるんだ。
何か見える?言ってみて。
ちょっと待って。道の向かい側に市の合同庁舎ががある。
ゴウドウチョウシャ?
市役所の親戚みたいなもんさ。
ああ、きれいなビル?
いや、新しくはないね。ねずみ色にくすんでいる。
大きいの?
大きくはないね。窓ガラスにテープで字が書いてある。
なんて書いてあるか読んでみて。
納税は便利な口座 替で。
えっ、何?
一つ窓があいてるから、字が抜けちゃてるんだ。
そうか、他に見えるのは、ちょっと後向いてみて。
こっちは公会堂みたいだね。
建物の周りに小さな花壇がある。行ってみるか。
なんの花?
俺詳しくないからわかんないよ。
色は?
赤が多い。白いのもある。座って話すよ。
うん、公会堂ってきれい?大きい?
新しそうだからきれいだね。入り口も自動ドアっぽい。
う〜ん、そうね。
どうしたの。
思い浮かべてるの、どんなとこか。
僕は携帯電話を左手から右手に持ち替えた。
座ってるの?
ああ、座ってる。今日は暖かいし、いい感じだよ。
花の近く。
うん、すぐ隣にある。
私隣に座ってもいい?
どうぞ、あいてるよ。
花の匂いがする?
するよ、そうしとこう。
いい感じ、花壇に二人で座ってるなんて。
こういうのって普通?
そうね。こういうのもいいな。今日経験しちゃったから、別のがいいけど。
なるほど。
何か思いついた?
うん、でも今日は話さない。
どうして?
明日の楽しみに。僕は語尾を優しく切った。
ずるいのね。サヤカの笑い声が僕の耳に振動になって伝わった。やはり耳元で囁かれている様な気にさせた。
僕はそれからも毎日電話をした。すぐ会うことになると思っていたが、場所が決まらずのびのびになった。毎日話題にする度に、その一回のデートがどんどん特別な日になった。僕は上野や、横浜や、品川や、八王子や、船橋や、中野や、神田から電話した。その度詳しく周りの情景をサヤカに伝えた。彼女はそれを聞いて、疑似体験をし、僕と何度も会っている気になった。僕もサヤカに会わないのに、いつも満足した気持ちでいられた。そして最後は会う場所について話し合った。
相変わらず彼女からは言い出さなかった。彼女は僕の提案に対して感想を言い、僕はそれをヒントに彼女にピッタリの場所を推理した。浅草の仲見世や、動物園や、開幕したばかりの野球場や、競馬場や、ゲームセンターや、思い切って一緒に札幌にでも旅行に行こうと言った。最後には、アメリカ西海岸も提案した。
もしそれがいいって言ったら、本当にそうなるかしら。
なるさ、勿論だよ。
アメリカ行けるの?
行けるさ。現実的な問題もあるから、今日明日ってわけにはいかないけど、準備すれば必ず行けるさ。
うれしいけど、もう待てない。現実的な問題としてね。
それもそうだな。これは未来の話だ。
私の行きたいとこ聞きたい?
ああ、そろそろ決めなきゃ。ストレスが溜まってきてるから。
公園があって、ショッピングとかが出来て、ゆっくりできる部屋があって、部屋では好きなだけ好きなこと出来るの、お酒を呑んだり、夜景がきれいだったりする、そんなとこ。
うん。
ある?そんなとこ。
あるよ。いつがいい?

会うのは一週間後の土曜に決まった。

サヤカが出走した。レッドチリペッパーはいなかった。
この二頭の未来について先に考えた。彼女らは外国で生まれたという共通点がある。四才の牝馬は春に二つの大目標がある。桜花賞とオークスというクラッシックレースだ。彼女達は実力実績共に充分だが、クラッシックレースは日本で生れないと出走出来ないという規定がある。そこで彼女らの唯一の目標はNHKマイルカップというG1レースになる。これは牡牝、生まれた場所に関係なく出られる。
二頭には生まれながらにしてハンデがあったのだ。どうしてこんな差別があるのかは極めて現実的な競馬産業界の問題があるのだろう。二頭共この唯一の大目標に向かうしかなかった。彼女達に未来はこの現実しかなかった。
サヤカがその前に出走したのが今回のレースだ。圧倒的な一番人気となった。メンバーは手薄であり、今度ばかりは彼女がどんなレースをしても勝ってしまうのではないか、と思った。
結論を言うと、サヤカは負けた。勝った馬は最初からスイスイと逃げ、あっさりそのままゴールした。サヤカは迫りはしたが、二着どまりだった。勝った馬はもともと良血の牡で自分の能力を出し切り、自分の型で逃げ切った。
サヤカはいつもどうりの自分のレース、それは型ではなく、自由に走ったが相手を抜けなかった。相手の馬は、サヤカと同等かそれ以上の能力の持ち主だった。勝ち馬はサヤカと今後の目標が違うので影響はないが、サヤカは始めてくやしがっている気がした。現実として、どうやっても自分が勝てない相手がいるかもしれない、と気づいた様な顔をしていた。

会う前日迄電話で話した。決まってからも、僕らは疑似デートを繰り返した。僕は、公園や、ショッピングセンターや、夜景の見える場所以外から電話した。サヤカは相変わらず自分のことを口にしなかったし、僕のことも聞かなかった。今何を食べているかについては事細かに話したが、昨日何を食べたとか、明日何を食べるかについては話さなかった。僕も今どこにいるかは話したが、さっき迄どこにいたとか、これからどこに行くかについては話さなかった。彼女の声は明るく、明るさは日を追うごとに増す様に僕には思えた。
明日だね。
本当にいいの。もう少しくらい遠い所に行こうか?何回も行ってるんだろ。
いい。それに何回も行ってるわけじゃないもん。
そう、ならいいけど。この次はもっと変わったとこ行こう。
サヤカは答えず、少し笑っている様な息づかいだけが聞こえた。
サヤカ、明日は泊れるんだろ?
私はいいけど、大丈夫なの?現実問題として。
大丈夫。
本当に、口だけじゃないよね。言葉だけじゃないよね。

一時に山下公園で待った。のっぽビルの上のホテルに予約をした。天気の良い日だった。もう暖かかったので、紺の薄目のジャケットをはおるだけで大丈夫だった。サヤカとの約束は一時半だったので、海を見ながら煙草を吸って待った。風が少しあって過ごし易かった。
僕の心配は、サヤカが来てもすぐわかるかどうかだった。毎日電話で話していたので、ものすごく身近に感じていたが、現実の彼女が思い浮かばなかった。店の中だけで会った彼女の仕草の一つ一つがよみがえったが、それはうつむき加減の姿だった。嬉しさと不安が入り交じって、僕の記憶を更に混乱させた。今はサヤカの声だけが頼りの気がした。
僕は二本目の煙草に火をつけ、海とその向こう側を身を乗り出して見た。
待った、とサヤカは僕の背中を軽く叩いた。彼女は薄い青のワンピースの上に、より青い上着をはおっていた。高いサンダルを履いていて、思ったより背が高く感じた。
サヤカを見て、僕のイメージは現実となった。思ったとおりでほっとした。声だけのサヤカは目の前の彼女とピッタリと一致した。
いい天気で良かったね。
僕はサヤカに見とれて返事が出来なかった。
何か言って、会ってから一言も話してないよ。
そうだった?
そうよ、サヤカは答えた。
僕は周りを見渡した。ほとんどのカップルが、海に向いたベンチを占領していた。それでも一組のカップルが立ち上がるのを見て、僕らはそこに急いだ。
とりあえず座って、しばらく海をじっと見つめた。
サヤカは黒いバックから何かを取り出した。見ると、それは筒型のポテトチップだった。中から一枚を取り出し、手の上で三つに割り、投げた。鳩がいっせいに降り立ち、僕らを取り囲んだ。
サヤカは僕を見て、見せたことのない笑顔になった。もう一枚を取り出し、砕き、また投げた。
サヤカは立ち上がり、僕の横にバックを置き去りにして、鳩に近づいて行った。鳩は馴れていて逃げなかった。彼女の周りに更に増えていった。彼女はその中心にゆっくり腰を降ろした。手をゆっくり開くと、鳩はその手に群がり、彼女はその中に消えていく様だった。
サヤカはしばらく手をつつく鳥達をじっと見つめていた。そのまま何分間も動かなかった。
サヤカがゆっくり立ち上がると、鳥は波の様な音を立て、ざわついた。彼女がこちらに戻って来ると、鳩もそれに従って後をついて来た。
サヤカは僕の横にちょこんと座ると、こちらを向いて笑った。いつもの笑顔だった。
本当はよく来るんだね。
そんなことないよ。でも、一年くらい前に来た時、おじさんが同じことしてたんだ。今日の朝そのこと思い出して、買ってきたの。
恐くなかった?
少し、でも面白かった。あなたもやってみる?
サヤカは筒からもう一切れ出し、右手で砕き、左手の上に乗せ、僕の前に突き出した。
僕はジャケットを両手で広げ、顔を突き出して、彼女の手の平をつついた。
サヤカは驚いて、手を引っ込めた。手の平からポテトチップがスローモーションで零れ落ちると、鳩はそこにいっせいに群がった。
サヤカは僕を見つめ一瞬動きをとめた。その後大きく口を開けて笑い出した。サヤカが声を上げて笑うのを初めて見た。
違うよ、違うのに。
口を膨らして、また笑った。
でも、今のギャグ、今迄で一番面白かった。

サヤカと僕は二時間以上そこのベンチに座って、鳩をからかったり、とりとめもない話をして過ごした。彼女はあまり話さなかった。僕が一人でしゃべった。音楽のことや、映画のことも話した。彼女はうなずきながら聞いていたが、本当に興味があるのかどうかはわからなかった。話を合わせているだけの気もしたが、彼女の表情の豊かさ、彼女の顔の変化に促され、浮かんでくる言葉を次々と放った。
ベンチを離れると、公園を山手に向かって歩いた。サヤカは花を見る度に立ち止まり、じっと見つめた。
カメラでも持ってくればよかったね、と僕が言うと
いいの私記憶力いい方なんだから、と口元だけで笑って答えた。
また、サヤカはあいているベンチを見つける度に、腰を降ろして話したがった。僕は横に座り、何かの話しをした。多分本当につまらない、ささいな話しだった。何かがまじめな話、そんなものがあるとすれば、をすることを拒んでいた。
僕らは港の見える丘公園を一周し、丁寧に見て回った。
今度は大きなショッピングセンターに行った。新しいそこはかなり混み合っていた。
僕らはいつしか手を握り合っていた。常にサヤカが僕の手を引いて歩いた。彼女に手を引かれて歩く度に、僕は誰かにぶつかって進まなくてはならなかった。
サヤカは数軒を通り過ぎる度に、立ちどまり、外からじっと眺めた。そこに一貫性は特になく、ブティックだったり、小物屋だったり、レトロの駄菓子屋だったり、レストランのウインドだったりした。
中に入ってみようか、と僕が言っても、彼女は首を振り、ただじっと外から眺めるだけで満足した。
唯一入ったのはレコード店で、僕はさっき話題にしたCDを何枚か取り上げ、サヤカに説明を追加した。彼女はうなずきながら聞いていた。僕は五枚のCDを買い、サヤカにプレゼントした。
サヤカはその包みを抱きかかえ、
聞いてみるね、何回も。
と小さい声で笑った。

夜になると、何か食べよう、ということになったが、どこの店も満員だった。予約してあるホテルの中で食べ様かと思ったが、サヤカは、そういうとこ私に合わないから、と言って首を振った。
もっと普通のでいい。
普通ね、食べたいものは?
なんでも食べるよ。好き嫌いないから、たくさん食べられるとこならどこでもいい。
僕らは歩き回った。
やっと見つけたのは、オープンのアメリカンレストランだった。量は多かったが、味付けは大雑把でおいしいとは言えなかった。それでもサヤカは驚くべきスピードでどんどん食べた。自分の分を全部平らげ、僕の残した分も食べた。
おいしね、と笑ったが、僕は反応に困り、ビールを飲んでごまかした。

ロビーでチェックインを済ませると、ホテルの最上階に向かった。
こんなとこ始めてだから、どうしていいかわかんない。もっといい服着てくればよかった。
そんなことないよ。今日のサヤカはすてきだよ、と僕は目で笑った。
それ冗談?面白くない。
ボーイに連れられて入った部屋は、確かに広々としていい部屋だった。僕は彼にアルコールのルームサービスを頼んだ。彼は背筋を伸ばし、深々と一礼して出て行った。
ボーイさんて本当にあんな風にするのね。と彼女は彼の後ろ姿を見送った。
ルームサービスが用意を終え出て行くと、サヤカは広いベットに飛び込む様に寝た。ベットの上で二三度体を転がした。
広いね。
あの部屋よりはね。
サヤカはベットから降り、窓に向かい、カーテンの隙間から夜の横浜を見た。
サヤカはじっとカーテンに首を突っ込んだままでいた。
すっごい、すごいね、と首を出して目を広げた。カーテンを背に立つ小さなサヤカを僕は見つめた。顔があり、手足があり、顔の中には目や鼻や口があり、いつもの彼女で、普通の女の子だったが、僕は遠い存在を見ている様な気になった。
サヤカは僕の方に向かってきて、唇を近づけた。僕は彼女の背中に手を伸ばし、唇を重ねた。ゆっくりと舌を絡ませ、長い間抱きしめたままでいた。サヤカはじっと動かず、僕の中で待っていた。
シャワー浴びてくる、と言って、一人でバスルームに行った。彼女がバスローブを着て出て来ると、交代に僕がバスルームに行った。僕は放心状態でシャワーを浴び、二度体を洗ってしまった。無意識にそうしたようだ。
バスルームから出てみると、サヤカがベットの中で天井を見つめているのが見えた。小さな彼女は大きなベットでより小さく弱々しく見えた。
僕はベットに入り、サヤカの上に顔を持っていった。僕が肩に触れると、びくっと体を震わせた。サヤカの体は凍りついた様に硬かった。
これ迄の僕らとは反対に、僕がサヤカに覆い被さった。
これが普通なんだよ、と僕が言うと、彼女は声に出さず小さくうなずいた。
僕はサヤカの唇を優しく吸った。彼女はいつもの様に急がなかった。
僕の手は始めに彼女の胸に伸びた。彼女の乳首を指先で転がした。
電気を消して、とサヤカは小さく囁いた。僕は彼女の言うとおりにした。
再びサヤカに覆い被さり、乳首を弄んだ。サヤカはもう吐息を漏らした。僕は片方の手を彼女の下半身へ伸ばした。彼女のそこは既に濡れていた。いつもよりゆっくり周りをなぞった。サヤカの吐息は少しづつ早くなっていく。彼女は僕のものを握ろうとしなかった。サヤカの腕はだらりとしたままだった。僕は彼女の一番反応する部分を撫でた。
僕はサヤカの唇をもう一度吸った後、舌を下に降ろしていった。まず乳首を弱く吸った。次に強く吸ってみると、サヤカは少し顎を上げた。吐息はそれに合わせて大きくなった。
顔を更に下げ、サヤカの下腹部に埋めた。腕で彼女の足を支え、舌をサヤカの中に入れた。彼女は大きな声を上げ、体を反らした。
舌でサヤカの下腹部を舐め、唇で吸った。
きて。
彼女は掠れた声を出した。
僕は体を動かし、ゆっくりサヤカの中に入った。彼女の体の暖かさが伝わってくる。その瞬間、彼女はもう一度大きな声を上げた。僕はサヤカに重なり、完全に一体となった。彼女の手が自然に動き、僕の体に巻きついた。
僕は体を揺らし、もっと奥へと進んだ。サヤカの体の全ての中に入りたいと、何度も試した。サヤカは部屋中に響き渡る声を上げた。その声は野生を思わた。それは耳から入り込み、僕の心を震わせ、僕の体のエネルギーに変わった。彼女の体は力が漲り、僕の体を強く抱え込んだが、それでも腕の力を押さえようとしていた。
遠慮しなくていいんだよ。
サヤカはうなずきながら声を上げた。

それは三十分以上続いた。サヤカは何度も昇りつめた。僕はその瞬間を感じる為、何度も耐えた。終わった時は魂が抜けた様にだらりとなった。
サヤカの息はいつまでも荒かった。顔を見ると、目を閉じ、疲れが抜けるのを待っている様だった。顔中に汗が浮いていた。僕の顔も汗だくだったので、腕で拭った。
サヤカは何も言わず、立ち上がり、バスルームに消えた。僕はその後ろ姿を目で追い、偶然に見つけた煙草を取り上げた。
彼女の後、僕も浴びた。サヤカはベットで静かに目を閉じていた。
疲れた?
少し、と彼女は目を閉じたまま答えた。
僕はサヤカの横顔をじっと見つめた。閉じられた目から睫が見えた。
こんなに長かったんだ、と発見した。耳を見ると小さなピアスが見えた。今迄全然気づかなかったのが不思議だった。

それからサヤカは無口になった。話す言葉は最小限の上に、反応も鈍くなった。僕もあまり話さなかったが、それは単に肉体的な疲れのせいだった。サヤカもきっとそうだろうと思った。
特に話すこともなく、僕は沈黙が嫌だというただそれだけの理由で、口を滑らしてしまった。その言葉自体に大きな意味などなかった。
今度はどこに行こうか?
サヤカは薄く目を開いていたが、僕の方を見ず、また答えもしなかった。
本当にアメリカに行くかい?
彼女はそれでも無反応だった。それは無視しているというより、聞こえていない様だった。
サヤカ、どこに行きたいの?
サヤカは動かなかった。
この前みたいに抽象的でいいから、言ってみて。俺がぴったりのとこを探すよ。
サヤカはやっとこちらを見た。僕を見たまま、表情は変えなかった。口だけが別の生き物の様に動いた。
次なんてないのよ。
優しくて小さな音だった。僕はそれがサヤカから出た声だと認識出来なかった。その小さな音は、僕の心の中で、コップが割れる時のパリンという響きに変容した。
サヤカは落ち着いていた。もう何年も前から決心していたことを話した後の顔つきだった。
何が言いたいのかわからないよ。
僕は声を絞り出した。ざらついた音で彼女に届いたに違いなかった。
次なんてないのよ。
サヤカはもう一度繰り返した。
どうして?
もともと何もなかったってわけじゃないのよ。あったのよ。確かにあったけど、次はないのよ。
僕には彼女の言うことが全く理解出来なかった。僕の頭の中になんの言葉も浮かんでこなかった。無意識に煙草をふかし、灰皿に置いた。
もう駄目なのよ。今日は最高だった。何もかも。なんでもないことも、どんなことも。ほんとよ。楽しみにはしてたけど、こんなにいいと思わなかった。歩いているだけでも楽しかった。さっきはもっとすごかった。でも駄目なのよ。
なんで?僕はそれしか言えなかった。
いいことなんて長続きしないわ。いつか今日のことも汚く、醜くなっちゃう気がする。私すっごく楽しみながら、ずっと恐がってた。ずっとね。疲れちゃうよ。ずっと怯えてるなんて。
僕はなんとか反論しようとした。ぼんやりとだが、サヤカの言う意味がわかったからだ。ただうまくまとめられなかった。それでも口が勝手にどんどん音を上げた。
楽しかったのになんで駄目なんだ。なんで楽しかったことが急に汚くなっちゃうんだい。そんなの馬鹿げてるよ。大事なのは今だよ。先のことを考えて怯えるなんて変だよ。
僕は一気に音を上げた。僕の気持ちどうりの言葉じゃなかった。僕は息を荒げ、サヤカを見つめた。
サヤカ、最初から本気じゃなかったのならそれでいいんだ。それだったらあきらめもつくよ。だろ、こんな変な話し始めてだよ。冗談だろ。それとも今迄のことは全部嘘だったのか?
僕はベットから降りて、立ち上がり、部屋の中を歩いた。
サヤカはまじめすぎる。世の中の奴は皆もっといい加減だよ。もっと気楽じゃなきゃそら疲れるさ。サヤカは若いんだ、これからどんなことでも出来るし、どんな者にでもなれるんだよ。未来のことに怯えてちゃなんにも出来ない。
話しちゃ駄目。話しすぎると、ほんとじゃないことまで言っちゃうから。だって、
彼女はベットの中でぼんやりと僕を目で追った。
私あなたの名前も知らないし、どんな人かもわからないのよ。ただ、優しすぎる人だってことだけ。私が知ってるのはそれだけだわ。でもいいの、その方がかっこいいもん。
サヤカの表情は変わらなかった。寂しそうでもなかった。怒ってもいなかった。ただ、サヤカの目から自然に涙が湧き出し、顔を横切っていった。それは止まらないで、永遠に続く様に、湧いては顔を伝った。
サヤカ、
僕はじっと見つめるだけで、それ以上何も言えなかった。
だって、だって。
サヤカの涙は口に辿り着き、言葉を塞いだ。
僕は別に隠してたわけじゃないんだ。なんだって言うよ。名前も、いつ生れてどこの小学校を出て、何年浪人して大学入ったかも、嫁さんのことが聞きたいのならそれも話すよ。会わせてもいい。俺の家に来たければ、いつでも来て構わない、本当さ。
彼女は首を振った。それは涙を振り払う為だった。
いいの。もう、いいのよ。現実的じゃないもの。もう言わないで。
話し始めると、また彼女の目から涙が溢れ出た。
現実?僕はここに立っている。サヤカはそこにいる。それが現実さ。未来のことなんて誰にもわからないんだよ。
僕はサヤカにどう言ったらわかってもらえるのか考えたが、思った様な言葉にならなかった。サヤカが間違っていて、僕が正しいのだというイメージだけがあり、それをうまく形容出来ないことに苛立った。もう一本の煙草に火をつけ、思いっきり吸い込んだ。サヤカは僕をじっと見つめ唇を噛みしめたが、涙は止まらず流れ続けた。
サヤカ、ごめん君のほんとの名前で呼ぶよ。教えて。
彼女は答えなかった。
サヤカは僕の気になっていた馬の名前さ。芦毛だけど、まだ若いんで黒鹿毛に見えるんだよ。いつも自分のペースで走るんだ。誰も気にせずにね。すっごく可愛い馬だよ。信じるかい?
サヤカは首を弱々しく振った。まだ涙は止まらなかった。僕の足は自然にサヤカの方に向かった。僕は手を差し出し、サヤカの頬に添えた。僕の手に彼女の涙が落ちた。その手の平はすぐに一杯になり、溢れそうに思えた。
優しくされると困る。何も言えなくなる。
サヤカの涙は更にスピードを増し、僕の手に溜まっていった。
僕の為にこんなに涙を流してくれた人は初めてだよ。
僕は彼女の目を見ず、上を向いて、囁く様に言った。僕は涙の溜まった手をこぼさないようにそっと自分に引き寄せ、自分の胸にあててみた。一瞬の冷たさが、やがて熱くなり、体を包んだ。
僕は立ち上がり、彼女のバックの方に向かった。バックの中に手を入れ、携帯電話を取り出した。
僕は夢遊病者の目でそれを見つめ、自分の名前と番号を登録した。
サヤカは何も話さなかったが、かすかに鼻をすする音が聞こえた。
サヤカ、俺の言うことがわかってくれたら、電話してくれ。いいね。もう一度考えてみて。俺は正しい、サヤカは間違ってる。気持ちはわかるけど、でも認めないよ。
サヤカは小さくうなずいた。
僕はサヤカに近づき、寝ているサヤカを優しく抱きしめた。
僕は泣かなかった。涙も出なかった。言葉ももう出なかった。サヤカに理解出来る言葉が欲しかった。

サヤカから電話はなかった。僕は酒を飲む気もおこらなかった。いつもの日々に戻った。無気力になった僕を見て周りの連中は逆に普通に戻った、と言った。無気力な僕は、情熱的で攻撃的になり、また元に戻ったということらしい。
あっという間にサヤカとのことは記憶になった。一日毎にサヤカのイメージは薄れていった。ことあるごとに思い出そうとしたが、努力すればするほど遠い事実になっていった。仕事帰りに山下公園に行って、ぼおっと辺りを見渡したりしても、もう戻らないことしかわからなかった。
あの日のことは楽しい事実として記憶しておくことしか残す方法がないのだろう、と考えた。あの時の涙の感触は忘れられないと思っていたが、それもいつか消えるのだろう。そう考えると、手の平を見つめ、放心状態になった。

NHKマイルカップの日、僕は一人でいた。妻は休日出勤で、起きた時は消えていた。
今日は特別な日だと思った。サヤカが遂に目標に対する日だった。レッドチリペッパーも出走する。さすがにこれだけのレースだけに一流のメンバーが揃った。それでもレッドチリペッパーは人気となったが、サヤカの人気はかなり低かった。妻はあなたの好きな二頭を買うわ、と馬連の一点を僕に頼んでいた。僕には馬券は買えなかった。
僕は昼から落ち着かず、ビールを飲んで、その時間が来るのを待った。二本目を飲み終えると、あの日のことが突然、映し出される様に思い出された。もう二度とこんなことは起きないだろう、と思い、目を閉じて、その瞬間を味わった。あの日のサヤカの姿がアルバムの写真としてよみがえった。鳩の中でしゃがむサヤカや、CDを抱きかかえるサヤカや、ステーキを頬張るサヤカや、バスローブを着たサヤカや、夜景を見て目を広げたサヤカや、ベットで小さくなってるサヤカや、涙が止められないサヤカがめくられていった。めくられた写真は二度と見ることが出来なかった。
テレビ中継でレースの時間が迫ると、僕の心臓は部屋に響くほど鳴った。このレースの時間はもう二度と来ないのだという思いが、僕の体を縛りつけ、時間がもっとゆっくり流れて欲しいと願った。周りが止まって見えても、時計の針はいつもより早く動いている様に思えた。
煙草に火をつけ、ビールをもう一本抜き、テレビの前で用意した。
時間は止まらない、いつかはゲートが開いてしまうんだ、と僕は意志を固め、テレビを睨みつけた。
サヤカもレッドチリペッパーもいつもと同じで落ち着いていた。ゲートに一頭一頭が入って行くのを、僕は、これが現実だ、と強く認識して見た。目を大きく開き、ビールを一気に飲み干し、煙草を吸い込めるだけ吸った。
ゲートが開いた。
サヤカは出負けした。後ろから二頭目を進んだ。致命的なスタートだった。
サヤカ、力一杯なんて走るな。いつもみたいに走れ。絶対に馬券の為になんて走るな。皆の為になんか走るな。いろんな奴がいる。サヤカはサヤカで走れ。
僕は酔った口調でテレビに大声で話しかけた。一瞬にして、スリーコースのことが思い出された。ターフで散った仲間、ライスシャワーやサイレンススズカが僕の目の前を走り回った。僕の唇は震え、目は開けているのがやっとだった。
サヤカは流れに乗れず、惨敗した。レッドチリペッパーは歯を食いしばり三着に入った。
レースの終わった後の馬達が映し出された。サヤカも画面の角に小さくだが見えた。いつものサヤカでひょこひょことゆっくり走っていた。まるで何事もなかった様子だ。
僕は画面が曇っていくのを感じた。久しぶりに僕の目から涙が零れた。頬を冷たいものが伝っていった。それは一度始まると、終わらず、ビールの中に何滴も落ちた。
サヤカがひょこひょこと走っている姿がもう一度僕の目の前に映し出された。それは現実か幻想か見分けがつかなかった。
今の君の存在を愛しているよ、サヤカ。
僕ははっきり言葉にした。
耳に幻聴の様な携帯電話の音が響いていた。

 エピローグ
 サヤカからは現実にその後二度連絡があった。直後は電話もつながらなくなり、店をやめてしまい連絡はとれなくなっていた。二ヶ月位後に留守番電話に
 サリナです又電話します
というメッセージが一回
 もう一度は、直接話すことが出来た。
 どうしてるの?
 色々、あなたは?
 普通さ、いつも君の電話を待ってた。
 ありがとう。でも会うのは無理だわ。
 どうして?
 どうしてもよ。
 相変わらずだね。
 あなたは私の事知らないじゃない。
 今からきくよ。
 もう遅いの。
 愛してもかい。
 愛してれば別だわ。でもあなたのは少しだけそれと違う気がするから。
 同情ってこと?どう言えばわかってくれるかな。
 そうじゃないかもしれない。楽しかった、
それでいいじゃないの。
 君にはどんな可能性だってあることはわかってくれるだろう。
 うん。
 彼女は会っていたときよりずっと静かに話す様になった気がする。
 幸せなの?
 彼女はとぎれる様に、
 かも、とだけ言った。

僕達夫婦は何事もなかった様にすごしている。
僕は変わらなかった。妻も変わらなかった。
何事もなかったのだろう。あの事は別の所でおきたことだ。

 三崎口の呉服店は一年後倒産した。しかし当社には奇跡的に被害もない。銀行のみが被害を受けた。お客からもクレームはなかった。

 馬のサヤカは、競走馬として聞かなくなった。良い母となったのだろう。

 会社での私は、すぐにボロがでた。一年は
つづいたが二年目には急落した。僕の評価も
当然平凡なものになった。サヤカに同情する。そんな資格などないと
言わんばかりの社会の評価だった。
 僕には今も何が愛かを言葉であらわせない。

2005/04/02(Sat)18:13:37 公開 / あぎ
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■作者からのメッセージ
3年かけて少しずつ書き上げました。言葉と物という極めて現代思想的な題材に取り組みました。皆さんの琴線に触れられれば幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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