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『「汚れたシーツ」 第一章』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:笹井リョウ
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第一章 錆び付いた日々
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人間模様を客観的に見ると、実に面白い。空の上から見てしまえば、こんな小さな世界なんてどこも全て同じなのに、ひとりひとり必死な顔して教室の中を蠢いている。グループ作って仲間はずれだあーだこーだって一体何が面白いんだろう。人と深く関わったからって何を得るのだろう。クラスの中で蠢く生徒達の関係を「深い」とは思えないのだが、その必死なつくり笑顔を見るとどうしても笑ってしまう。くすくす。君達一体何に向かってそんな引きつり笑い浮かべているの。くすくすくす。きっと、教室の隅でひとり座って薄気味笑いを浮かべている私を、皆は気味悪がって見ているのだろう。でも構わない。くすくす。だって、こうやってひとりで肘をついて君達を見ているのは、本当に面白いんだもの。くすくす。私を見て嘲笑するのは構わないけれど、私を利用して自分を優勢な位置に立たせようなんていう、咽返るほど埃臭い人間的な考えは持たないでね。
学校。小学校。中学校。高等学校。学校という場所は、社会を見事に縮小していると思う。どこのクラスに行っても見事に階級分けがされているのだ。部長?課長?そんなにしっかりとした綺麗な称号は似つかわしくない。どこのクラスにも存在するのは、黒幕。そして絶対的な権力者。その黒い称号を勝ち取ったものだけが、学校生活というモノクロのキャンパスを独断で彩ることが出来るのだ。その存在のもとでひたすらつくり笑いを浮かべて蠢くのは、…何だろう、貧民とでもいうべきか。私はどうも、この階級に属する人間が好かない。黒幕や権力者などに対しては、好かないというよりは視界に入れたくないといった感じなのだが、そこらをちょろちょろとゴキブリにように蠢く貧民達はどうしても視界に入ってくる。あの出来そこないの仮面のような引きつり笑いを見ていると、どうしても気分が悪くなる。だけど、皆が必死に動き回る様を、ただひとり冷静に見ているのはかなり楽しい。見たくないのに見てしまう。これってきっと、一種の人間の性なのよね。くすくす。
尖った風が窓を叩いて、外の世界の冷たさを知らす。十一月の校庭は、何処か寂しさを帯びていた。風は校庭の土をさらさらと弄んだ後、何も言わずに旅を続ける。掌の上で躍らされた土達もまた、何も言わずに元居た大地へと還っていく。その繰り返しに、なんともいえない虚しさと、それに似た寂しさを感じる。寂しさと共に寒さを帯び始めた校庭には、人影も無い。さらさらと土の動く音がする。サッカーボールが風に運ばれ何処かへ消えて行く。誰も取りに行かない。というか、誰もそんな映像を見ていない。権力者に気に入られようと必死なのだ。昼休みって何の為にあるのかな。何をする為に流れている時間なのかな。何処かどうしようもなく虚しくなって、冷たい机に突っ伏すと、机の内部から教室の鼓動が聞こえてくる。曇り硝子を通して見た時の景色のように、全体的に靄を纏ったような、鼓動の音。私の鼓膜を通過する、無数の足音、無数の息遣い、無数の声。どれもこれも人間が創り出す音なのに、どれもこれもが楽器の音のように聞こえる。私はやがて、突っ伏していた身体を起こした。新鮮な空気が私の身体を包み込む。一瞬にして、聞こえていた鼓動は消えた。さっと曇り硝子が取り払われる。教室内に溢れている雑音からは、楽器らしさなどもう消えていた。
この世界では、人間の醜さが露になる。それを必死に覆い隠すためのつくり笑顔で築かれた世界は、どうしようもなく息苦しい。私は昔から学校という場所が嫌いだ。友達が居ない、というか友達をつくらないので、学校という場所に楽しみを見出せなかった。大体数学って何?「分数のかけ算」とかいう単元あたりから、日常生活に全く関係が無いと思う。これから先、人生最大の分岐点に立った時に、平行四辺形の証明の定理が何の役に立つというの?絶対に役に立たない。数学なんて間違っている。別に孫文が中華民国を建国していたっていなくたって、私の人生は何も変わらないのに。
何の為に学校に行くのかと大人に尋ねれば、まず「勉強をする為」という理由を決まって第一に挙げる。そしてその後には「自分には子供の気持ちがわかる」と言いたげに「仲間と過ごす事を学ぶ為」とか、「友達とは何なのかを知る為」とかいう、どうしようもない答えが返ってくる。仲間?友達?こんなにも分かりやすく階級別にわけられ、自分自身を守る為にひたすら引きつり笑いを浮かべているこの連中が「仲間」だと?こんな人達から学べることといえば、間違った世の中の渡り方だけだと思う。権力者の機嫌の取り方?黒幕へはこの顔で頼み事をしろ?ごめんその顔今すぐ踏み潰したいんですけど。
こうやってひとりで頬杖ついている私がここに居る事、今認識している生徒はどれくらい居るのだろうか。このクラスが編成されてからもう七ヶ月以上経つが、私はクラスメイトの約二割程の名前しか覚えていない。名前と顔が全く一致しない。日本史や世界史のテストによくある光景だ。それと同じで、私のフルネームを知っているクラスメイトはごく少数だと思う。私のクラスでの存在感なんて、ひとえに風の前の塵に同じ。あ、国語が少し役に立った?
昼休みという名の無価値な時間は、刻一刻と過ぎていく。私という名の存在は、刻一刻と色を薄めていく。多分私の名前は松田悠己で、確か歳は十六。髪の毛は茶色っぽさを感じさせる黒色で、セミロング。どうだったかな。そうだったかな。鏡の前に立ったら私の姿は映るのだろうか。ひゅんと音がして、風が窓を叩いた。ばりばりと安っぽい、粗い音がする。窓さえもこんなに自己主張が出来る。私も一度強風に煽られてみようか。どこかに飛んでいって本当に消えてしまうかもしれないけれど、それはそれでいいのかもしれない。何で私は人間なんかに生まれたんだろう。こんなに疲れる動物になんて生まれたくなかった。
「松田さん」
す、と私の耳を通り抜けた細い声。ふ、と閉ざしていた瞼を開けば、無数の視線が私の存在を突き刺していた。
「号令するから。立って」
ああ、もう次の授業が始まるのか。私はがたり、とガラクタがコンクリートに投げつけられたような堅い音をたてながら、席を立った。松田さん。松田さん。他人の口から私の名字が発されたのはどれくらいぶりだろう。多分下の名前なんて、誰かがあんぱんまんの歌を歌わない限り発されないだろう。あんあんあん、あんぱんまん、優しい君は、愛と、悠己だけが友達さ。なんて。
礼、着席、と機械的に動く私達を見て、教壇に居る先生は満足げに頷いた。毒々しい艶を放つ黒髪をぴっちりまとめて結んでおり、黒渕めがねに紺色のスーツ。もう四十歳を迎えるというのに、左手の薬指は寂しいままの数学担当「一女」。一生処女という意味で付けられたそのあだ名は、すでに「数学担当の教師」の代名詞として生徒達に広く使用されている。
数学なんて絶対これからの人生に必要が無い。私は絵さえ描ければそれで良い。絵の具で薄く汚れた右手を、左手で包んだ。じんわり、という人肌のあたたかさが、少しずつ右手を染めていく。私が、こんなに面倒くさい動物に生まれて、このゴキブリだらけの学校に通っているわけは、決して大人達のいう「友達に会うため」ではない。「勉強するため」ではない。きっと、この手で絵を描くために私は人間に生まれて、そしてこの学校に通っている。神聖な、あの白いキャンパスと向き合うため。思うがままに、筆を走らせるため。そして多分、茶色い髪を風に靡かせる、岡本先生に会うため。
◆◆
帰りのホームルームが終わると、私は誰とも挨拶を交わさずに美術室へと向かう。薄汚れた私の右手が、震えるようにして疼く。もうすぐだよ。もうすぐで描けるから。落ち着くようにとそう言い聞かせながらも、歩幅は徐々に広がっていく。
電線に座っているのは鳴きつかれた小鳥だろうか。廊下から見る校庭の景色は、どこか味があって私は好きだ。特にこの時間だと、山の合間に夕陽が近づき、夕陽が朱色の光の帯を校庭全体に振りまく。尖った声をあげながらボールを追いかける生徒達が、この時だけ神聖に見える。声を合わせ足を合わせ走り去るソフトボール部。カキン、と目の覚めるような軽快な音をたてるのは、万年一回戦敗退の野球部。運動部なんて、先輩との関係が面倒くさくなるだけじゃないかな。古典的な考えしか持てない私は、いつもそう感じる。部活と聞いて思い浮かぶ風景は、岡ひろみが傷だらけで倒れこむ姿だけだ。
職員室から借りてきた美術室の鍵を、鍵穴に差しこむ。ごりごりと、金属が金属を抉るような感触がする。私はこの感触が好きで、子供のころによく鍵を差しこみまくっていた。はっきり言って奇怪な子供だといえる。そして頻繁に鍵を失くし、母親に頭を叩かれた。私の両親との記憶は、熟れ過ぎて柔らかくなったぶどうの房のように、触れてはぽとり、と墜ちていく。べちゃり、と汚い音をたてて地面に墜ちたそれは、もう二度と元には戻らない。
美術室のドアを開けると、新鮮な空気が私の身体を通り過ぎていった。一瞬、自分自身が透き通ったような、薄い冷たさを感じる。美術室はやはり寒く、私はすぐストーブに手を伸ばした。白く大きなキャンパスが、窓からの光を受けて、濃い影をつくる。光の強さが増すたびに、影は濃さを増していく。キャンパスは白さを増していく。
かばんを机の上に置き、キャンパスの前に置いてあった椅子の上に座った。キャンパスには、白い布が掛けられていた。所々、絵の具で汚れている。私が朝、使っていたキャンパスだろうか。白い布を取って、キャンパスを覗いた。私が朝使っていたものではなかった。明らかに、絵のタッチが違う。私の描く絵よりも、もっと柔らかいタッチで描かれていたのは、林檎だった。二つの林檎が、寄り添うようにして描かれている。長い間その絵を睨んでいると、やがて視線に負けて、輪郭線がとろとろと溶けていきそうなほどに、柔らかいタッチ。絵に描かれている林檎はきっと生の林檎なのだろうけど、このタッチで描かれると、一度火を通して柔らかくなった焼き林檎に見える。こんなに柔らかなタッチで絵を描ける人を、私は一人しか知らない。
「岡本先生、入らないんですか?」
私は、ドアの向こう側に見える人影に向かって、そう呼びかけた。
「いるの、わかってた?」
ドアががらり、と開いた。少し照れくささを帯びた笑顔で、岡本先生はそう言った。
「わかってました。先生、なんだか入りづらそうにドアの前に立ってましたよね」
すらりと背が高い岡本先生は、ドアの向こう側に立っていても、ドアの上部にある曇り硝子のせいで影が見える。だけど、服の色までは見えなかったな。白いカッターシャツに薄いグレーのネクタイが、凄く良く似合っている。
「本当に入りづらかったんだよ」
「どうしてですか?」
「松田さん、僕の絵を睨むようにして見ているから。恥ずかしいじゃないか」
そう言うと、先生は飾り気無くハハッと笑った。「この絵、今日の朝即興で仕上げたものだから。手抜きな部分が多くてさ、そんなに見ないでくれよ」私があっさりと取った白い布を丁寧そうにキャンパスに掛けると、シャツの袖を捲くって手を洗う。十一月の水は冷たい。雫が飛び散る度に、先生は小さく身震いしていた。
「松田さん、描かないの?」
細くしなやかな白い指を、負けないくらい白いタオルで拭きながら、先生は私に尋ねた。
「描きます。だけど、描きたいものが見つからなくて」
私は窓の外を朧気に見ながら、そう呟いた。
「朝、綺麗な木々を描いてたじゃないか」
「そうなんですけど。どうも気分が乗らなくて」
「芸術家だな」
先生はまた、やさしく笑う。そして、コトンと音をたてながら、指輪を細い指から抜き、机の上に置いた。どうしようもなく、自然な仕草。先生は筆を取る前に、必ず指輪を机の上に置く。汚したくないということだろう。その指輪が左手の薬指から抜き取られていることには、もうとっくに気付いていたけれど、私はいつも気付かないふりをしていた。
先生は、二十五歳。もう既に、結婚している。
「もうすぐ文化祭じゃないですか」
「そうだね。僕ら美術部がやっと部活らしく活動できる時だね」
「絵の展示、あるじゃないですか」
「あるね。僕はてっきり、松田さんはあの木々の絵を展示するんだと思っていたけど」
「私も朝まではそう思っていました」
先生は、ふ、と視線を下に落とすと、右手に筆を取った。長い睫毛が頬に掛かって、酷く綺麗だ。先生を被写体として絵を描けば、どんなコンクールでも制覇出来る気がする。もちろん、あの林檎よりも、ずっとずっと柔らかいタッチで。
「あの木々の絵を展示しようと思ってましたけど…でも、さっきの先生の絵を見てしまったから。私の絵なんて全然インパクトないし、テーマだってありきたりだし、描きなおそうと思ったんです」
「そうだったのか。なんだか責任感じちゃうな」
「…先生の絵って、本当に柔らかい感じだから。見ているだけであったかくなる感じ。私もそういう絵を描いてみたい」
「僕は、松田さんのタッチ好きなんだけどな」
先生は、キャンパスを見るのをやめて、私の方向へ椅子を動かした。先生は、私と話をする時、こういう風に私と向き合ってくれる。私が両親に求めていたぬくもりを、先生は持っている。
「タッチっていうのは、人それぞれだからさ。僕は、松田さんの、感情が剥き出しにされた、その鋭いタッチが好きだよ」
「でも、そんなタッチの人なんて腐るほど居ます。私は先生みたいな、人間性の出る、あたたかくて柔らかいタッチで絵を描けるようになりたいんです」
「…どうしてもタッチを変えたいっていうのなら、被写体を今までとは全く違うものに変えてみるといいよ。」
「例えばどんなものに、ですか?」
「松田さんは今まで、風景画を中心に描いてみるみたいだけど…うーん、そうだな、人物デッサンなんかもすごく勉強になると思うけどな」
先生はそう言うと、またキャンパスの方向に向き直った。向き直る瞬間に吹く風は、いつも冷たく、酷く寂しい。だけど、先生の背中の線は、決して母の背中の線とは重ならない。
「僕は逆に、この覚束無いタッチがあまり好きではなくて、違う感じの絵に挑戦したいと思ってるんだ」
先生は、僕達似ているね、と言いながら、林檎の絵に色を加え始めた。さっき先生は「即興で仕上げた」と言っていたが、まだ仕上がっていなかったのかな。先生が筆を走らせる。まるで魔法にかかったように、林檎が命を持ち始める。私は、自分を小さな存在だと感じて、窓の外を見ていた。朱色に染まりつつある雲を、じっと睨む。私の視線に負けて、雲が形を崩していく。あたたかな雪解けのように、とろとろと形を無くしていく。先生は何も言わずに筆を動かす。私は何も言わずに空を見つめる。まるで、夏の午後、日向に置いてあるアイスクリームのような時間だった。
「…この林檎を描き終えたら、新しい被写体に挑戦しようと思っているんだ」
先生は不意に喋り始めた。私は、空に泳がせていた視線を元に戻すと、先生の声に耳を傾けた。溶けていた輪郭線が、元の形を取り戻していく。
「何を描いたらいいかな?」
かたん、と筆を置くと、先生はまた、私の方を向いた。
「先生は、鋭いタッチに挑戦したいと思っているんですよね?」
「そうだよ」
私は、先生の目を見ていなかった。ただ、机の上に置いてある指輪を見ていた。先生から見たら、睨んでいるように見えたかもしれない。私はその視線のまま、言った。
「その指輪とか、描いてみたらどうですか」
何故だか、少し挑戦的な言い方になってしまった。尖ったような私の声が、先生の鼓膜を刺激した。
「…そうだね。今度はこの指輪でも描いてみようか」
アドバイスありがとう、と先生は笑った。
私は椅子を片付けると、鞄を手に取った。「私、今日はもう帰ります」そう言ってドアに手を掛けた時、先生は言った。「今度までに、何を描きたいか決めてきなよ」私は、「はい」とだけ答えると、ドアを開けた。冷たい空気の粒子が、私の存在をちくちくと刺す。
「あ、それと」
先生の声が聞こえる。私は振りかえった。
「他の皆にも部活来るように、言っておいてね」
「…皆って言っても、私抜いて三人ですけどね。わかりました」
先生の「じゃあね」を背中で受け取ると、私は足早に廊下を歩いた。途中で、先生に美術室の鍵を何処に置いたのか、伝えるのを忘れてしまったことに気が付いた。だけど引きかえす勇気も無くて、私はそのまま廊下を歩いた。本当に先生は、林檎の次はあの指輪を描くのだろうか。いっそのこと、あんな指輪盗んでしまえば良かった。
◆◆◆
暗くなった街並みをひとりで歩いた。「危ないから」と隣を歩く男子なんて要らなかった。私にとっては、「危ないから」と隣を歩こうとする男子の方がよっぽど危ない。下心剥き出しではないか。いくら顔が良くたって身体目当ての男なんて信じられるものではない。まあ、全く身体を求めようとしない、私の父のような堅物野郎もどうかと思うが。
父はきっと、今日も家には帰ってこないのだろう。私の父は弁護士事務所に勤めており、家に帰ってくる確率は月に二度か三度程。時々家に帰ってきても、仕事が忙しいと呟いては、父の威厳の欠片を精一杯に拾い集める。その後姿が何よりも哀れだということに気付いていないのだろうか。仕事だと言って弁護士事務所に寝泊まりしているというが、仕事をしているのかどこかの店でシゴトされているのか、どうかはわからない。
私の母は、毎日父の帰りを夜明けまで待つ。帰ってこないとわかっているのに、父の分の夕食をテーブルの上に置いては、御飯からたつ湯気を見つめるようにして、そこに座っている。毎日毎日夜明けまで。太陽が昇り始めた頃、冷め切った夕食を無造作に捨て、皿を洗い、床に着く。一度、夕食を捨てる母の後姿を見た事があるが、どうしようもなく虚しくて、途中で目を反らした。情けなく、萎んで見えた母の後姿。蛇口から出た薄く蒼い水が、冷め切った御飯を汚物のように流していく音が聞こえた。思い出しただけでも、酷く甘酸っぱい痛みが胸を染める。泣きたくなるような、暴れたくなるような、どうしようもない衝動。行くあてのない衝動は、どうせ自分に還ってくる。
ばかばかしい。かつかつ、と夜の街に反映されるように響く私に足音に合わせて、私の思考は小さく弾む。この世界には、男と女しか居ないことはわかる。だけど、だからといってなぜ愛し合わなければいけないのだろうか。お互いの傷を曝け出して、舐め合う愛は美しいのだろうか。愛からくる産物は、子孫と疲労だけではないのか。幸せだなんてそんなもの、きっと自分だけにしか理解できないのだから。
暗闇に、黒猫の姿は見えなかった。私の足元に絡まるようにして走りぬけた黒猫を、私は踏みつけてしまいそうになった。柔らかい毛に包まれた長い尻尾が、私の足首を触っていく。やがて外灯に照らされた猫は、こちらを一度振り向いて、何事も無かったように去っていった。私は、家の前に居た。
重い玄関のドアを開け、リビングの扉に手を掛けた。扉を開けると、生暖かい空気の粒子が、私の肌にべたりと付き纏った。私は、この暖房で創られる暖かさが嫌いだ。咽返るほどに人間らしい、人肌よりもリアルで生々しい暖かみ。不快感が募る。それに、何故か暖房の効いた部屋に入ると、目頭や頬ばかりが熱をもつ。大事な身体そのものは暖まらないのだ。この、目頭や頬の不自然な熱がまた気持ち悪い。夏のような粘りのある熱も嫌だが、私は暖房による不自然な熱の方が嫌いだった。
まだ六時だというのに暗い街に包まれて、このリビングも少し、暗い。母は、私に背を向けて台所に立っている。とんとん、とん。不規則なリズムで包丁を躍らす。とん、とんとん。
「…ただいま」
とん、とんとん、とん。
とん、とん。
私は、リビングの扉をぱたん、と閉めると、足早に階段を駆け登った。トントントン。私の軽快な足音が、母の不器用な包丁のリズムと重なる。母は、何も言わなかった。
二階の隅にある私の部屋は、やはり少し肌寒かった。しかし、リビングに充満していた、温くなった濃密な赤ワインのような空気よりかはいくらかマシだったので、私は暖房を付けないまま制服を脱いだ。だけどやっぱり少し寒くて、シャツの上にセーターを重ねた。心地よい暖かさが私を包む。
今日も母は、夕食を三人分作りつもりだろう。二人向き合って夕食を摂っているのに、母の隣にはもう一人分の夕食が置いてあるのだ。毎日。毎日。やがて消えた湯気の残像を見ているかのように、夜中中それを見つめながら父の帰りを待っている母。夫婦生活における悲しさや虚しさ、情けなさを全て凝縮させたような母の後姿。思い出すたびに胸を染める甘酸っぱい痛みと共に、私の脳に浮かぶ小さな考え。それは、湖の水面、春の小雨による波紋のように、少しずつ姿を現しては消え、また姿を現しては消える。私、絶対母のようにはならない。
ベッドに寝転んで、目を閉じた。毛布の柔らかさ、私の存在を優しく蝕む。目を閉じることで、今まで以上に聴覚が鋭くなる。道路を走り去る車のタイヤが地面を噛む音。草木が風に揺れ、言葉を交わす声。もう見えなくなった雲が、空を流れ行く小さな摩擦。この雑音だらけの街の中には、岡本先生の鼓動の音が融けている。何処かで確かに刻まれているそれは、今私の耳に捻じ込まれる。かすかな、かすかな音だから捻じ込まれる感触こそ無いけれど、確かに聞こえる。この雑音だらけの街の中には、先生の鼓動が融け込んでいて、先生の存在はまるで、マフラーの中に織り込まれている一本の毛糸のように、小さな街に織り込まれている。先生の隣に寄り添っているもう一本の毛糸も、同じように。
いつのまにか寝てしまっていた。ふと目を開けると、部屋の中は真っ暗だった。電気を点けていなかったのか。私はゆっくり立ち上がると、電気を点けた。パチリ。乾いた空気の粒子を突き刺すようなスイッチの音。鋭く尖った光が、部屋の内部に刺激を与える。肩を回すと、眠っていた身体の機能が、みしみしと軋むような音をたてながら、目を覚ましていく感じがした。授業中眠ってしまった後、必ず感じるこの感触。生きている実感のようなものと共に、浮かぶものは疲労。
本棚を物色していると、背後でドアが開いた。私は、本の列から貴志佑介の「天使の囀り」を取り出すと、後ろを振り返った。そこには、だらしなくエプロンを見に纏った母が立っていた。
「御飯よ」
母はそれだけ呟くと、私の反応もろくに見ずに身を翻した。鈍い足音が小さくなっていく。私は、後味の悪い感触を覚えていた。母と一瞬目が合った時、私は無意識に母のことを睨んでいた。母はそれを察したかのように、瞬時に目線を下に落とすと、「御飯よ」とだけ呟いた。他にも言いたい事があったのかもしれない。だけれど、私の目線がそれを踏み潰してしまっていたのかもしれない。「母」という存在が、なんとも脆く、そして憐れに感じた。貴志佑介の「天使の囀り」が、さっきよりも重みを増した。
私はお母さんに、「今日の御飯おいしいね」と言ったことがあっただろうか。
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2005/03/18(Fri)10:54:59 公開 / 笹井リョウ
■この作品の著作権は笹井リョウさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。笹井です。
笹井はもうすぐ高校生になります。部活も激しくなり、なかなか小説を書く時間もなくなってくると思います。もしかしたら投稿おさめ?になるかもしれない作品だったりそうじゃなかったり(はっきりしないなら死んで
この作品は実は14歳のときに書いたものです…中2です中2。これは自分の中でいろんなことを考え、思考錯誤しながら書いたものなので、みなさんの意見を聞きたいと思って投稿しました。一年も前となるとかなり文章も変わっていたり…そうじゃなかったr(強制終了
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。