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『花の舞う雨・1〜6』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:光歌
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序
死んだ猫。
小道の踏切。
籠の中のやさしい雨……。
白い花が舞った。
純白の桜や、秋桜、蒲公英、それ以外にも沢山。
全てが白い色をしていた。
絶望の色だと、少女は言った。
#1
路地裏で、猫を殺した。
白い白い、小さな猫だった。
目に怪我を負っていて、可哀相だったから早めに殺した。
小さな小さな猫だった。
自分の手が、真っ赤に染まった。
「絶対、殺してやる」
静かに、冷たく、澄んだ声が響く。
少女の瞳から雫が流れ、真っ赤に染まった猫を更に濡らした。
「死んでしまえ」
少女はふわりと微笑んで、血塗れた指の背で涙を拭った。
「……亜貴」
名を呼んで、少女はその真っ赤な両手で顔を覆った。
「……うあぁぁん……っ」
小さく声を上げて、彼女は泣いた。
少女、沙那の顔が、真っ赤に染まった。
血は、光の加減で少し黒ずんで見えた。
沙那のような少女が殺意を覚えるのには、変えられない事実と正当な理由がある。
彼女は生まれながらの人工生命……つまり、実験の過程で作られた人間の一人なのだ。
沙那の本名は……“Gelzel-Sana”。
……沙那や他の人工生命体を作った男は、元は途轍もなく冷酷な虐殺者だった。
人間も動物も容赦なく無残に殺す、残忍な虐殺者であり、天才的頭脳を持つ男。
それが、彼女の心を作ったのだ。
つまり、沙那の心には、虐殺者の心が存在することを意味する。
沙那は、言わばクラスの憧れの的だった。
いつも明るく、思いやりを持ち、成績も良く顔も良い方。
全てが整った彼女は、男女平等に好かれていた。
彼女が微笑めば皆振り返り、彼女が泣けば挙って理由を聞かれた。
唯一の欠点と言うと……少し面倒くさがりなところだろうか。
沙那はそんな、何の変哲もない少女だった。
沙那と同じクラスに、変わり者の少年がいる。
名は、亜貴といった。
微笑む時も口元を緩めるだけで、思い切り笑うということはしない。
いつもどこか控えめだが、成績は中の上。
無口で無愛想、それでいて本当は優しいのだが、感情を表に出すことが出来ない。
元から少し不思議で、面白いクラスメイトだとは感じていた沙那だが、沙那は亜貴に恋してしまったのだ。
いつからなのかは忘れてしまった。ただ純粋に、一人の人間の少女として、沙那は恋をした。
それが……
沙那の、憎しみの種となった。
死ぬ程愛していたのに。
今は、殺したい程憎くて。
「……安心して。最初には殺さないからね」
優しく微笑んで、誰もいない路地裏で、彼女は静かに泣いた。
涙が枯れることは無い。
「……あんたなんて……あんたなんて……」
彼女の長い髪が、さらりと風に靡いた。
髪の先が、少しだけ赤く染まっていた。
ふと、白い花が見えた気がした。
ふわりふわりと、風に優しく乗って。
沙那は背後に、不思議な違和感を覚えた。
「……ねぇ……そこに、いるんでしょ?」
沙那は泣きながら、静かな暗闇に問いかけた。
誰もいない路地で、死んだ猫を抱いて。
「……誰……?」
涙は、顔の血を流すことはなく。
ただ、当たり前のように流れた。
……ふわりと生暖かい風が吹く。
白い花が、背後でふわりと舞った。
沙那は、猫を路地に置いて、ゆっくりと振り返った。
手が気持ち悪いほどに濡れている。
「誰……?」
不意に空気が凍りついた。
――……寒い……
そう感じた瞬間、白い物が視界に入る。
「……なに……?」
沙那の背後にあったのは、つい先程までは無かった、白い箱。
否、純白の棺だろうか。
白い花びらが、沙那の頬を優しく掠める。
心臓の音が激しく高鳴り、沙那の瞳は、少しだけ恐怖の色を宿した。
柔らかい感触と共に、沙那は無意識に立ち上がった。
ゆっくり、そっと、棺に近づく。
白い花が溢れんばかりに入っているのが分かる。
いや、溢れているのだ。
沙那は、少しだけ恐れを感じながら、棺の中をゆっくりと覗き込んだ。
「……あ……」
思わず声が漏れた。
白い棺の中の、白い花。
そして……花に埋もれるように横たわる……少年。
肌も髪も服も嘘のように白く、見るからに死んでいる。
だが……沙那には、生きているように見えた。
否、無意識に“生きている”と感じたのだ。
少年の髪は腰まで長く、年齢は……外見上では、16,7というところだろうか。
その光景は、不気味と言うよりは……美しく見えた。
「……生きてる……?」
まだ少し涙声だったが、沙那は小さく問いかけた。
少年は瞼を動かしもせず、ただ、じっと眠っている。
「……お蔭様で、生きてるよ」
冷たい声。
沙那はびくっと背筋を強張らせた。
少年の口は動いていない。
ただ、冷たく声が響いた。
白い花が、風に舞ってふわりと揺れた。
彼の瞼が、ゆっくりと開く。
少年の瞳は、深い青だった。
髪は銀色で、透き通るように真っ直ぐだ。
沙那は突然起き上がった少年に掛ける言葉も無く、ただただ散っていく花を見ていた。
「俺はお前の絶望で蘇った」
少年が棺から足を出す。
「お前は殺したい相手がいるんだろう?」
少年の瞳が、沙那の瞳と合う。
「手伝うよ」
「……あたしを……?」
冷たい声が自分に放たれた瞬間、沙那の瞳から、何故だろう、また雫がこぼれた。
少年の瞳を見ると、何故だか目頭が熱くなるのだ。
見ず知らずの少年の、見慣れない瞳なのに。
「俺はゼシア」
白い花が、一層白く見える。
「お前と同じだよ。……お前はゲルゼル・サナだろう」
沙那の本名“Gelzel-Sana”を、教えてもいないのに知っている少年。
――『お前と同じ』……?
沙那の心に、一欠片だけ希望が湧いた。
「……殺したい。あたしは、亜貴を……」
「手伝うよ」
微笑んだゼシアの冷たい言葉が、沙那には嫌なほど優しく響いた。
血塗れた手が、小刻みに震える。
白い花が、自分を祝福しているようだった。
“手伝うよ”
亜貴を殺すことを……?
「な、手伝う」
ゼシアは先程沙那が殺した白い猫を抱き上げ、にっこりと微笑んだ。
沙那の手や顔を汚した猫の血が、彼の腕にも付く。
「亜貴って奴を、殺すんだろ……?」
沙那には分かった。
この白い花に囲まれていた少年……ゼシアは、自分の味方だ。
亜貴のように、裏切ることは無い。
ぽつり、と、沙那の頭に何かがあたった。
猫の血で染まった沙那の顔から、薄く染まった雫が落ちる。
雨はだんだんと、白い花も濡らしていった。
――……白い花が濡れてしまう……
何故だろう、沙那にとって、それは心を痛めた。
「答えは?」
ゼシアが、死んだ猫を路地にどさりと投げ捨てた。
信じられる人。
この人なら……亜貴を殺すのを、手伝ってくれる。
……沙那は、クラスメイトを虜にする、その優しい微笑みを浮かべた。
「うん」
白い花が、優しい雨に舞う。
微笑んだ沙那を、心から祝福して。
――私の名前は沙那。
――愛するあなたを、もれなく殺しにいきます……
#2
「亜貴ぃ?先に行くわよ?」
「…あ、ごめん姉ちゃん、先、行ってて」
「無いと思うけど、サボりはダメよ?早く後から来なさいね」
「お母さん、行ってきまぁす!」
宮澤亜貴には、二人の姉がいる。
五つ年上の、物静かで読書好きな真美と、一つ年上の、流行に五月蝿い里美。
亜貴は幼かった頃、姉達がピアノを弾いているのに憧れ、自分もやりたいと駄々をこねたことがあった。
その結果、今では姉達と、週一回ピアノ教室に通っていた。
ガサガサと鞄の中で楽譜を探していた亜貴だが、何かに気付いたように顔を上げた。
「……里美姉、俺の楽譜持ってったな」
亜貴は溜息を吐くと、靴紐を丹念に縛り、走って家を出た。
「亜貴!行ってきますくらい言いなさい!」
後ろから母の大声が聞こえたが、気にしなかった。
「あ、真美お姉ちゃん!亜貴、来たよ!」
明るく常にハイテンションな下の姉・里美が、物静かな上の姉・真美に、母似の大声で伝える。
「亜貴、遅いよ」
「里美姉ちゃん、俺の楽譜」
「え?……あ〜っ、ごっめん!」
里美は慌てて自分のバッグを開け、すぐさま弟の楽譜を見つけると、大声で謝った。
亜貴は溜息を吐き、無言で楽譜を受け取る。
平和な毎日。
亜貴はごく普通の少年だ。
姉達も、何だかんだ言いながら、優しい。
母も時には厳しいが、掟に縛るようなことはしない。
父は……常に仕事でいないが。
「亜貴、あんたのクラスに、可愛い子いるでしょ」
里美は常に、嫌な口調で亜貴に聞いてくる。
「その子、あんたに惚れてるって噂よ?」
「……そ」
「うわっポーカーフェイスに決めて!あんたねぇ……」
噂は聞いていた。
七城沙那が、自分を好いてくれている。
……嬉しかったけれど、どうしていいのかわからなくて。
学校に行くのは、気が向かない。
高校に入ってから、もう一年が過ぎ去ろうとしていたけれど。
クラスメイトとは親しくなれたし、成績だって悪い方ではないのだが。
――『その子、あんたに惚れてるって噂よ』……
噂をされるのは嫌いだ。
人が自分に好意を持ってくれるのは、嬉しい。
ただ、噂は嫌いだ。
進んで行くにつれて、偽りが混ざってくるから。
何が真実なのか、分からなくなるから。
「宮澤、あのさ、ここの問題なんだけど……」
――クラスメイトの女子が話しかけてくるのは構わない。
「ああ、ここはまず代入して…」
――質問に答えてやるのも構わない。
「ありがとっ!」
――……やめろ。
鳥肌が立つような言い方で、わざとらしく礼を言われるのは嫌だ。
いや、本人は、ただ感謝の気持ちを一言で述べただけなのだろうけれど。
もしかしたら、自分が妙に照れ屋なだけなのかもしれないけれど。
亜貴は“ありがとう”が嫌いだった。
◇◇◇
「……あなた、本当に何も知らないのね」
路地裏の白い花。
彼の側にいると、沙那には白い花が見える。
真っ白な桜の花弁が、自分達の周りを、ふわりふわりと優雅に舞うのだ。
「俺は俺自身が人工的な存在だってことしか知らない」
「七城望に作られたのよ、あたし達」
ゼシアは、長身の少年だ。
銀の髪を腰まで伸ばし、首の辺りで軽く縛っている。
陽気な笑みを見せるときもあれば、冷たい言葉を発する時もある。
沙那がゼシアに出会ったのは、昨夜。沙那が路地裏で白い猫を殺した、すぐ後のことだった。
――俺は、お前の絶望で蘇った
――手伝うよ。亜貴って奴を殺したいんだろ?
青い青い瞳には、裏切りの色など何処にも無く。
沙那の本心が揺らいだ。
信じてもいい、信じるべきだ……と。
「ななしろ?誰だ?」
「もう死んだ、天才虐殺者」
沙那は長い髪を耳にかけながら答え、退屈そうに欠伸をした。
「なんか、絞首刑になって死んじゃった」
沙那のその言葉は、純粋に澄んでいた。
無残に人を殺してきた者の“子”だけあって、死の言葉に何も感じないのだろう。
「会いたかったな、俺」
陽気に微笑んで、ゼシアは頭の後ろで腕を組んだ。
そんな彼を見て、沙那は無邪気な微笑を見せた。
「ホントだね」
別に七城望が死んだからといって、沙那には何の障害も無かった。
ただ、少しだけ勿体無い気がして。
「亜貴が死ねばよかったのに」
沙那がぼそりと呟いた言葉を、ゼシアははっきり聞き取った。
「ごめんゼシア、あたし学校行かなきゃ」
――……学校に行って、最初の的を探さなきゃ……
的から目を離してはいけない。
その隙に手元が狂って、的の中心を外してしまうから。
「あ……七城さん、おはよう」
クラスでも大人しい少女が、玄関で上履きに履き替えていた沙那に、おずおずと話しかけてきた。
「さっき一限、終わっちゃったよ……?」
「平気よ、義務教育じゃないんだから」
冗談を言うような口調で、沙那は少女に微笑んで答えた。
「勉強なんて出来なくても、生きていけるって」
――……結構勉強も出来る亜貴は、私が殺すけどね……
沙那の屈託の無い微笑みは、大人しい少女……由香の、憧れの的だった。
いつも暗く、教室の隅で本を読んでいる由香は、時折顔を上げては、友達と笑いあう沙那を見ていたのだ。
いつか自分も明るくなりたい、と、そう願っていても、話しかける勇気も、明るく笑う心も無い。ただ、静かに座っているだけ。
小学校時代から根暗だった為、今ではそれが由香の性格になってしまっていた。
「でも……七城さんは、頭いいからそういうことが言えるのよ……」
由香は俯いて、いかにも遠慮がちに、恐る恐る言った。
「あら、成績なら…宮澤亜貴の方が上よ」
明るいその言葉に、由香は素早く顔を上げた。
それを見て、沙那がくすりと笑う。
――……やっぱね……
由香が素早く顔を上げた理由が、沙那には一瞬で理解できた。
上履きを履いた足の爪先で床を叩きながら、沙那はその場を後にした。
自然と微笑が漏れてくるような、どこか嬉しい気分だった。
教室へ向かう足取りが自然と軽く、心はまるで、幼稚園生が遠足へ行く直前のように弾んでいた。
「あれ、沙那ちゃん、おはよ!」
「おはよう沙那ぁ」
「うん、おはよ、みんな」
いつも通りの笑顔と、明るい挨拶を交わしながらも、沙那は心の中で全ての人間を嘲笑った。
最終標的を見つければ、尚の事。
「おはよ、亜貴」
「……はよ」
――……恋する少女は無敵なのよ
――……だから、邪魔する奴は殺します
――……最初の的が用意されました
#3
「きゃあああぁあぁあっ!!」
悲鳴は唯一つ。
静まり返った廊下に、赤い色を残して、消えた。
昼休みの日差しが優しく、もうじき暖かい春が来る。
三月上旬の、気持ちのいい晴天の日、幕上げの為のプロローグが奏でられた。
「……皆さんに、重大な話があります」
担任の教師は、まだ三十代前半程の女性だ。
理科の教科を教えており、常に理屈っぽく、やはり女性だけあって口うるさい。
「崎元由香さんなのですが……」
五時限目の始まりのチャイムが鳴ったとき、彼女は深刻な表情で生徒達を見つめた。
彼女が重々しく口を開いたと同時に沙那は、教室のドアの外に、校長の姿がちらつくのを見た。
沙那は一瞬くすりと微笑んだが、重大な話をするというときに笑うのもどうかと考え、慌てて口元を引きつらせた。
教師の女性、春岡恵は、俯いて震えているように見えた。
――面白い生き物ね……
口元をさり気なく手で隠しながら、沙那は無邪気に微笑んだ。
「崎元さんが、昼休み……酷い怪我を負いました。……廊下で……その、倒れていたんです」
教師という職業は、自分のクラスの生徒に何かあれば、すぐに自分の所為だと思い込む。
例えそれが、誰の所為でもないことであっても……誰か別の人間の所為であっても。
「先生……それって、三回の廊下でしょ……?私見たわ、血が……付いてた」
何も知らない、女子生徒の言葉。
一瞬、教室内が静まり返る。
そして激しい動揺の為、全体が騒ぎ始めた。
春岡は止めずに、ただ下を向いて震えていた。
ドアの向こうで、校長と他の男性教師が、顔を見合わせて眉を顰める。
……沙那は、斜め前の席の少年……亜貴を、観察するようにじっと見た。
亜貴は、取り乱す気配は微塵も無く、ただ、周りの男子達とざわついているだけだ。
……当たり前だろう、崎元由香は、亜貴とはあまり親しくなかった。いや、話しているところ等、見たことも無い。
恐らく由香の心の中の、亜貴に対するアレは、単なる一目惚れか、常に遠くから見ていた為の憧れだったのだろう。
――……教えてあげなきゃね
沙那は適当にノートを破ると、シャープペンシルで何かを手短に書き、半分に折った。
そして彼女はその紙を手に、そっと亜貴の肩を叩く。
「……え……?」
「はいコレ」
無残に破かれたノートを折っただけの紙を亜貴に渡し、沙那は腕に頭をのせて、のんびりとした。
緊急事態には不似合いな行動と態度だが、周りはもはやパニック状態の為、気にする者はいない。
亜貴はその紙切れをゆっくりと開き、そこに書いてあった文を読み取る。
……段々と、彼の表情が引きつり、目が見開かれる。
小さな紙切れを持つ右手も、小刻みに震えていた。
沙那が後ろで、微笑みながらそれを見物している。
――……亜貴は最高の見せ物ね……
隠さずにくすりと微笑んでも、ざわついた教室内で、それに気付く者はいない。
――……仕返しはきちんとしなきゃね……亜貴
無邪気な沙那の澄んだ心は、愉快に躍っていた。
「……七城」
放課後。
亜貴が近づき、慣れない口調で沙那を呼んだ。
教室掃除の当番で、彼女は床を掃いていた。
だるい教室掃除も、当番となってはサボるわけにはいかない。
ましてや、沙那はクラスで一番の憧れの的。真面目に仕事もこなす少女を演じていなくてはならない。
「来てほしいんだけど」
「あたし掃除当番なんだよね。用があるならメールじゃダメ?」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、少しだけからかう様な口調で、沙那は言う。
……亜貴は、心底彼女を恐れた。
沙那の瞳の奥に宿る澱んだ光が、亜貴には手に取るように分かる。
自分に、憎悪の感情を抱いているということが、火を見るより明らかだ。
彼女は変に素直で……良いのだと思う。
沙那が亜貴に憎悪を抱く理由は、亜貴自身にあるのだから。
「……今日はいいや」
「そう」
――次は誰かな
沙那は亜貴が遠ざかったのを確認してから、真っ赤に染まったハンカチをブレザーのポケットから出した。
ハンカチはもはや歪に固まり、鼻につく臭いを放っていた。
「……違うわ」
微笑んで、そのハンカチを、窓から外へふわりと捨てる。
――私が欲しいのは、もっともっと濃い色……
「残念ですが……体内の全ての器官が破壊されています」
電気をつけているのに、白い壁が眩しい病室は、どこか薄暗かった。
「……外側の傷は……なんと言いましょうか、斬られた傷と言うよりは、引っかき傷の酷いもののようで……」
「……引っ掻き……傷……?」
白衣を着た年老いた医師と、スーツ姿の女性が、白い病室で静かに話していた。
女性は、沙那や亜貴のクラスの担任……春岡だった。
「……真に申し訳ございません、実は……彼女は、ここに運ばれてきた時…既に死亡して……」
春岡の耳には、もうそれ以上の言葉は入ってこなかった。
廊下で血塗れになって倒れていた少女。
無残にも、床や壁にまで、赤いものが飛び散っていた。
春岡はその時、悲鳴をあげながら彼女に近寄り、そして彼女に触れた。
生温い、嫌な感触。背筋を走る、痺れるような悪寒。
「……いえ……病院側の責任では……ございません……」
震える声で、春岡はそう言い、白いシーツの上に横たわる少女に目を移した。
包帯が全身に巻かれ、唇は裂けて青く、顔は不気味に青白い。
髪の毛も、所々赤く染まった部分があり、目は包帯で隠されていて見えない。
「……崎元さんのご両親は……離婚なさっていたそうで……。まだ……」
「……春岡先生もお疲れでしょう。そちらで休まれていてください」
医師は病室の外に置いてある長椅子を指差し、ぐったりと項垂れる春岡の肩に手を置いた。
春岡は唇を噛締め、とんでもない事態に頭を抱えるだけだった。
「次は誰がいい?」
クラスメイトの中でも、はっと目を引くような少女……七城沙那。
彼女の瞳の奥に宿る、憎悪の炎。憎しみの光。
静かに語りかけてくる声は、恐ろしく、しかしどこかとても優しくて……澄んでいて。
自分は今俯いてしまっているから、どんな表情かは分からないけれど。
「……亜貴は、最後」
放課後。
教室掃除が終わって、沙那は自分から、部活中の亜貴を呼び出した。
「誰でも殺せるんだから……」
「……誰でも……」
亜貴の背筋に、冷たいものが通り抜ける。
沙那の微笑みは、穏やかで優しい。いつも通りの笑顔だ。
「自殺しないでね、許さないよ」
……この無邪気で可愛らしいクラスメイトは、これから何人もの人間を殺すのだろう。
昼過ぎに渡された紙切れと、今の言葉で全てが分かる。
“由香ちゃんは、亜貴のこと好きだったんだよ”
“宮澤亜貴に何ら関わる人間は、全員殺す”
本日未明、血塗れで倒れた少女・崎元由香も、沙那が何かの手を使い、殺したのだろうか。
いや、そうとしか考えられない。
「泣かないの?あんたの所為で、由香ちゃん死んじゃったよ」
クスクスという嫌らしい微笑が、亜貴の耳に響く。
耳を塞ぎたい。今この場で、死にたい。沙那から離れたい。
――……嫌だ、やめろ、近づくな、あっち行け……!
亜貴の心を、何か熱いものが支配した。
――殺せ、殺すなら俺一人を殺せ。それでお前の気が澄むなら、何度でも死んでやるから……
「……俺は……殺していい」
やっと、絞り出すように、震える声が響いた。
「……いい、けど」
「他の人は殺すな、って?」
くすり、と、また嫌な笑いが亜貴に聞こえた。
「バカなこと言わないで。この地球は、亜貴で廻ってるんじゃないの」
可笑しくて仕方が無いといった口調で、沙那は亜貴に、歌う様に言った。
「あはははっ…!でも安心して。亜貴はまだ生きられるから。よかったね」
沙那の明るい笑い声が、亜貴の心にいつまでもこだました。
「おっ、おかえり亜貴。用事済んだか?」
陽気に話しかけてくる、同じ部活のクラスメイトは、何も知らない。
――俺に……話しかけるな
「……うん、ごめん恒一。俺に……話しかけるな」
自分と親しくしたら、もしかしたら……ということも在り得るのだ。
一人になって、心を閉ざして……それでも、生きるべきか、死ぬべきか。
「……どうした?悩み事なら腹割れよな」
『話しかけるな』という冷たい扱いを受けても、彼はにかっと明るく笑い、校庭へ走っていった。
その笑みが、亜貴には何だか羨ましくて、俯いた。
――俺と親しくしたら……殺される
「……あ……」
いつからだろう。いつの間にか。
亜貴の手の甲に、小さく血が付いていた。
前方から、ざわざわと何かが騒いでいるような音が聞こえる。
思わず無意識に顔を上げると、ざわついた校庭が目に飛び込んできた。
校庭にいた生徒達は、皆一点に集中して集まり、そして後ずさりしている。
幸いなことにそこにいた生徒は皆男子生徒で、悲鳴を上げて泣き出すものはいなかったが……。
つい先程話したばかりのあのクラスメイト・恒一が、そこにいた。
勿論、変わり果てた姿で。
「……あ、おい亜貴!お前も来い!」
「おいっ、誰か先生呼んで来いよ!」
呼びかける声が遠くで聞こえる。
校庭の固いコンクリートに映える、鮮やかな色。
深紅が、平らな地面を伝って、亜貴の足元にやって来る。
手の甲に付いた、血。
「……あぁあ……」
かたかたと、自分が震えているのが分かった。
ぐらりと視界が揺れる。頭が妙に重い。
それでも見える赤い色が、妙に美しく思えて……笑った。
自分は変わり者だから、変人だから、何だって綺麗に思える。美しく見える。
狂ってしまうほど可笑しくて、耐えられないほど笑えて。
「……っ…くくっ……あはははははっ!!」
こんなに笑ったのは初めてかもしれない。
自分はいつも、遠慮がちに口元を緩ませるだけだった。爆笑できる内容が、普段の会話に見つからなかった。
思いきり笑うということを、このとき初めて亜貴は知った。
……友人の死を感じた、この時に。
「……綺麗でしょ。亜貴だけの為に見せてあげたの」
耳元で聞こえる、澄んだ無邪気な若い声。
「赤い色、これからも見せてあげるね」
揺れた視界が、今度はぷつりと音を立てて……暗闇に変化した。
まるでその無邪気な声が、自分を眠らせる為に響いていたかのように。
「亜貴?」
校庭のクラスメイト達は、突然笑いながら倒れた友人に、ただ駆け寄るだけだった。
亜貴の身体は……まだ、赤く染まらない。
「次は誰にしよっかな」
路地裏で微笑んだ少女は、手にべっとりと付いた赤い液体を、楽しそうに眺めた。
白い桜の花弁が、彼女の笑顔を祝って、ふわりと舞う。
「亜貴はまだ殺さないからね」
彼女は血の付いた手で顔を覆って、肩を震わせながら笑った。
「……あははははっ!」
沙那の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
笑い泣きか……それとも、何か別の理由で悲しんでいるのか…それは、沙那自身にも分からなかった。
ただただ、涙だけが零れ……そして彼女は、笑い続けた。
路地裏で、歪に固まった小さな猫の死体が、ボロボロになって捨てられていた。
――あなただけの為に、綺麗な色を見せてあげましょう
――そして、笑ってあげましょう
――それで、あなたがまた思いきり笑えるように……
沙那の心も、亜貴の心も。
狂っていく心は、止められる事無く。
#4
ジリリリリリリ……
目覚まし時計が、自分を揺さぶりながら起こす。
ジリリリリリ……
起きるのが嫌で、ずっと眠っていたくて、ベッドの奥に潜り込んだ。
ジリリリリリ……
「亜貴〜!目覚まし鳴ってるわよ!起きなさいっ!」
「……ん〜……」
起きるのが気だるく、毛布の中から手を出し、手探りで時計を探し当てると、そのまま手探りでボタンを押す。
リン、という音がした直後、けたたましい音は止まった。
それと共に、今度は隣の部屋から、今止まったばかりの音が聞こえてきた。
「里美!目覚まし鳴ってるわよ、起きなさいっ!」
母の大声と、朝から響く雑音。
亜貴はだるい身体を起こし、母の怒声が自分に向かって轟く前に自ら部屋を出、重い足取りで洗面所へと向かった。
蛇口を捻ると、サーサーという音と共に、冷たい水が流れ出る。
水は透明で、色は無い。
飛び抜けて美しいと感じることも無い、ただの透明の液体だ。
「あ、おはよ亜貴」
「……おはよ、姉ちゃん」
ザブザブと顔を洗えば、その冷たさで眠気も飛んでいくだろう。
しかし何故か今朝は、何度顔を洗い、タオルで強く拭いても、気だるさが微塵も取れない。
「昨日のことで、疲れてるんでしょ」
体調不良を打ち明けると、姉は静かに言う。
「今日は学校休んだら?お母さんには、私から話しとくから」
長女であり、宮澤家姉弟の中で一番年上の彼女、真美は、土日や祝日以外は、朝からアルバイトの予定が入っている。
面倒見のいい真美は、昔から母のお気に入りだった。
「……いいよ。真美姉忙しいだろ」
「何言ってんのよ、亜貴はまだ子供でしょ」
「だから何」
「子供のくせに、大人ぶった口調で話すなってのよ」
優しく言うと、真美は亜貴の頭にポンと手を乗せ、笑顔で母の元へ向かった。
真美は一番年上だけあって、末っ子の亜貴を可愛がっているのだろうが、亜貴にはどうしてもそれが“子供扱い”としか考えられない。
亜貴は、からかわれるのが嫌いだった。
プルルル、と、今度は甲高い音が、家中に響き渡る。
「あら、電話ね」
目覚まし時計の次は電話か、などと気だるい気持ちで亜貴は思い、早朝から電話してくる電話コードの向こうの見えない相手に、少し怒りを覚えた。
「はい宮澤です。……ええ、ええ……」
洗濯物を干していた母が大急ぎで受話器を取り、忙しそうに電話機に頭を下げている。
「こんな朝っぱらから迷惑ね……誰よ」
ようやく起きてきた二番目の姉・里美は、明らかにイライラした表情を、律儀にも電話にお辞儀する母に向けた。
亜貴は、全くだと思いながらも、ただ電話に出ただけの母に里美の怒りの表情がぶつけられる事に、少し哀れみを覚えた。
「……ええ、分かりました。……はい、では失礼します」
カチャリと受話器を置いた母が、今度はくるりとこちらを向き、のろのろと朝食を取る亜貴と里美を見つけた。
「里美、亜貴、今日学校休みだって」
「マジ!?やった〜っ!」
亜貴と里美は同じ高校に通っている。
亜貴は一年三組、里美は二年二組だ。
里美は『学校休み』の言葉に激しく反応し、先程の怒りの表情は何処へやら、朝食のパンを笑顔で頬張った。
「緊急連絡網で回ってきたのよ。昨日、ほら……一年の子が」
亜貴はびくりと背筋を伸ばした。
元からだるかったのだが、一気にそれが激しさを増す。
一人にならなくては、と、亜貴の心が無意識に察した。
姉や母に、心配をかけてはいけない気がして。
「……母さん、俺寝ていい?」
――眠ってしまえば……現実から離れられる
そんな逃げ道を、心の中で描きながら。
「いいわよ、ご飯置いとくからね」
“現実逃避”も時には必要だと思った。
何も知らない母と、優しい姉。
無知だということはこの世で最も幸いなことだと、亜貴は思った。
◇◇◇
「死んでしまえ」
薄暗い路地裏の朝は、まるで夜のように暗く、地の底のように静かだ。
「死んでしまえ、死んでしまえ」
沙那は純白の秋桜を指先で弄り、微笑みながら優しく呟いた。
「死んでしまえ」
「うわ、おっかねぇ娘さん」
白い花は、全て彼……ゼシアによるものだ。
白い花の中で死んでいた彼が“目覚めた”切欠……それこそが、沙那の“絶望”だった。
何故彼がそんなもので目覚めるのかは、未だに明らかになっていないが、唯、ゼシアは沙那の“絶望”によって蘇った。
「いつになったら手伝ってくれるの?」
沙那は白い秋桜の花弁を一枚一枚抜き取りながら、今にも歌いだしそうな勢いで問うた。
今の彼女にとっては人間の命など、ふとした瞬間踏まれてしまう働き蟻の命ほどのものだ。
「俺が手伝うのは、本命の時だけだよ」
ゼシアは天を仰いだ。
薄い色の青い絵具が、自分の頭上を果てしなく塗りつぶしている。
人々が“空”と呼ぶそれは、この星に住む者達の全ての行いを見てきて尚、静かに頭上に広がるだけだ。
空は全てを知りつつ、何も語らない。故、空は人間との距離は遥かに遠い。
ゼシアの銀の髪が、まだ肌寒い風に靡き、微かに輝いた。
「……“白鳥の湖”って、知ってる?」
「は?……知らねぇ」
突然、沙那は口を開けた。
呟くにしてはよく聞こえる声で、独り言にしては語りかけてくる口調で、ゼシアは沙那の言葉に耳を傾けた。
「一国の王子が夜の森に白鳥狩りに行くと、その白鳥は美しい乙女に姿を変えた。乙女は白鳥になる魔法をかけられていて、夜にしか人間に戻れなかった」
「うん」
「魔法を解く方法は唯一つ。彼女を心から愛する者が現れ、愛を誓うこと。王子は乙女に恋し、明日、城で開かれるお后決めに来るよう、乙女言った。『必ず愛を誓う』とね」
「うん」
「ところが王子は誓いを破ったのよ」
「何で?」
ゼシアは何気なく興味をそそる物語に、感動に近いものを覚えた。
長い間眠っていたらしいゼシアが“物語”を聞くことは、初めてだったのかもしれない。
「……乙女に魔法をかけた魔法使いが、自分の娘を乙女そっくりに変えて、城の王子のところへ連れて来たのよ」
沙那は楽しそうに微笑むと、話に聞き入るゼシアを見た。
「現実は甘くない。……愛の力で、偽りを全て見抜けるわけじゃないの」
クスリと口の先を吊り上げて話す彼女の心は、初めて虹を見た子供のように、愉快に弾んでいた。
「もしかしたら、乙女オデットよりも、魔法使いの娘オディールの方が美しかったのかもね」
「お前はどっち?」
不意に、ゼシアは意味不明な質問を投げかけた。
沙那が頭上に疑問符を浮かべていると、彼はいつもの明るい声で笑い、言った。
「お前は悲しい乙女?それとも魔性の娘?」
沙那は成る程、と頷くと、微かに風に靡く髪を手で押さえながら、いつもの“七城沙那”の微笑を見せた。
「亜貴やゼシアの望む方に変化するわ。だから……オディールになっちゃうのかも」
「俺や亜貴は魔法使いなのか」
「亜貴は、誓いを破った王子様よ」
「……てか、何でそんな話すんの」
ゼシアがいかにも楽しそうな笑顔で、笑顔で語る沙那に聞いた。
沙那は無言で路地裏に座ると、側に咲いている茎や葉まで白い花を、ぷつりと一本摘んだ。
「……ちょっとだけ似てるの。あたしと亜貴の話に」
沙那が何気なく抜いた白い花弁が、優しい春風に乗って、ふわりと飛んでいった。
「あのね、次は……」
沙那は立ち上がると、懸命に背伸びして、ゼシアの耳元で何かを告げる。
傍から見ればこの二人は、二人だけの内緒話を打ち明ける、幸せな恋人同士に見えたかもしれない。
「……それ、いいな」
「でしょ」
微笑み合う二人は、まるで幸せの塊のようだった。
唯一つその場に不似合いなのは、彼らの足元に転がる、既に干乾びた猫の死体だった。
――……オディールになりきれない私だから
◇◇◇
「おかしいわよ」
リビングで暢気にテレビを見ていた里美が、傍らでハンドバッグを用意する真美に、さり気なく言った。
「学校側としては……普通なら、事件が起こった時点で、全校生徒を早退させるべきじゃない?」
「もう午後の授業しか残っていなかったんでしょ?先生方、油断してたんじゃないかしら」
真美は優しげに言うと、タンスからハンカチを取り出していたその手を止めた。
「……校長が無用心なのかもね」
薄桃色のタオルハンカチを丹念にたたみながら言う真美は、何時に無く深刻な表情をしていた。
「亜貴が部屋に閉じこもっちゃうのも分かるわね」
「……もう学校が怖くなってきたわよ」
話しているうち、真美はアルバイトに出かけていった。
リビングに一人取り残された里美はテレビのチャンネルをまわし、今だけ人気絶頂の明るいコメディアンが出演している、陽気な番組を暢気に見ていた。
心細くなったら、洗濯物を干す母の背中を、さり気なく見たりしていた。
普段明るい里美らしからぬ、少し怯えたような瞳で。
白い花弁は、人間の手の届かない空まで舞い上がる。
――……次は優しい、あなたの姉達
春の訪れを告げる風が、御伽の国の王子と魔性の娘の結婚を祝うように、花弁を一層高く舞い上げた。
#5
◇◇◇
あるところに、それはそれは美しい国がありました。
今日はその国の王子の、二十歳の誕生日です。
村人や友人は挙って城に集まり、愉快に踊りながら、王子の誕生日を祝いました。
宴が盛り上がってきた頃、王子の母である王妃がやってきて、王子に優しく言いました。
「あなたももう大人なのだから、そろそろお后を決めなさい。明日の夜、お后候補を城に呼んで、舞踏会を開きます」
しかし、王子はまだ結婚したくありませんでした。
王子は母からプレゼントの弓矢を受け取ると、踊る村人達を尻目に、悩みました。
そんなことをしている間に、宴も終わりに近づき、村人達は皆帰ってしまいました。
心細くなった王子は、夕暮れの空を白鳥達が優雅に飛んでいるのを見つけ、気分を変えて森へ白鳥狩りに出かけました。
夜の森は暗く、静まり返り、梟の不気味な鳴き声だけが、あたりにこだましています。
王子は湖の側で白鳥達を見つけると、そっと弓矢を構えました。
矢を放とうとした瞬間、王子ははっと手を止めました。なんと白鳥達が、次々と乙女に姿を変えていったのです。
そのうちの一人は飛びぬけて美しく、頭に冠を乗せていました。王子は思わず飛び出し、弓矢を投げ捨てて乙女達に駆け寄りました。
冠を乗せた乙女は驚いて王子から逃れようとしましたが、やがて王子が自分達を狙っていないと気付き、彼に全てを打ち明けました。
「私はオデット。遠い国の王女です。悪い魔法使いに、日が出ているうちは白鳥に変わってしまう魔法をかけられてしまったんです」
他の乙女達はオデットの侍女でしたが、オデットと共に魔法をかけられてしまったのです。
オデットの国はそれから栄えることは無く、女王は悲しみにくれて死んでしまったと、オデットは語りました。
「魔法が解ける方法は一つだけ。私を心から愛してくださる方が現れ、愛を誓っていただくことです」
王子は美しいオデットに心を奪われておりましたから、すぐさま彼女の手を取り、言いました。
「明日の夜、私の城にお后候補がやって来ます。その時、是非いらしてください。私は必ず、あなたに愛を誓います」
オデットも逞しい王子に心を奪われ、共に踊りながら夜を過ごしましたが、やがて朝日が差しました。
オデットは見る間に白鳥の姿に変わり、名残惜しそうに飛び去っていきました。
夜になり、城にはお后候補の美しい娘がたくさんやって来ました。
王子はそれらの娘を見ていきましたが、まだ来ないオデットが気になって仕方ありません。
そのうちにお后候補は皆踊り終わり、帰っていこうとしました。
その時です。新たなお后候補の入場を告げるファンファーレが鳴り響きました。
現れたのは、黒いマントを羽織った騎士を連れた、黒いドレスの美しい乙女です。
その乙女はまさしく、オデットそのひとでした。
しかし彼女の正体は、オデットそっくりに仕立て上げられた魔法使いの娘・オディールでした。
王子はそれに気付かないまま、オディールと踊り、そして遂に彼女に愛を誓ってしまいました。
その瞬間、城の入り口で悲しむオデットの姿が目に入りました。
オディールの連れの騎士は、見る間に醜い魔法使いの姿に変わっていきます。
高笑いする魔法使いと乙女を見て全てを理解した王子は、城を飛び出しました。
森では、オデットが王子の裏切りを乙女達に伝え、皆悲しみに暮れていました。
王子が森に駆けつけたとき、オデットは彼を優しく迎えました。
その時、梟の鳴き声と共に、魔法使いが姿を現しました。
魔法使いは王子に襲い掛かり、負けそうになった王子はその場に座り込んでしまいますが、オデットへの愛が勇気を生み、魔法使いと戦います。
凄まじい戦いと嵐の中、遂に魔法使いは倒れます。
朝日が差し、湖に静けさが戻ります。
乙女達は朝日を浴びる自分の姿を見て、喜び合いました。
その中で、王子とオデットが幸せそうに寄り添っていました。
穏やかな白鳥の湖の畔で、乙女達は二人を祝福します。
幸せに満ちた王子とオデットが、朝日を浴びながら微笑んでいました。
◇◇◇
「このお話には、終わり方が二パターンあるの」
本屋で買ってきたのだろうか、沙那は子供向けの大きな絵本を、ゼシアに手渡した。
朝、沙那が彼に聞かせた物語“白鳥の湖”を、沙那は態々用意したのだ。
「買ってきたのか?」
「パクってきた」
沙那は大通りの隅にある本屋を指差しながら、さらりと答えを述べた。
「絵本、外に置いてあるんだもん」
見ると、本屋の入り口付近に台が置いてあり、そこには様々な絵本が並べられてあった。
携帯電話やパソコンが流行るこの時代の中、道を行く小さな子供が、少しでも本に興味を持ってくれるようにとのことだろう。
無防備な絵本を無邪気に盗み出す少女も、いることはいるのだが。
「やっぱ、ハッピーエンドが多いんだよね」
「バッドエンドの話なのか?」
ゼシアは分厚いページを捲りながら、丁寧に描いてある白鳥の絵をまじまじと見つめた。
鳥達が乙女に変わっていく場面には、沢山の白い羽根に囲まれた、頭に金の冠を乗せた少女の絵が描いてあった。
「王子とオデットが死んじゃうっていうオチも、時々あるのよ」
「……魔性の娘の考えは、俺には分かりません」
ゼシアはもう一度、分厚いページを捲った。
そこに描いてあったのは、漆黒のドレスに身を包んだ、前頁に描かれていた白鳥の乙女だった。
――……現れたのは、黒いマントを羽織った騎士を連れた、黒いドレスの美しい乙女……
「愛の力で、偽りを見抜けるわけじゃない」
沙那は微笑んで、本に描かれた美しい少女を見た。
黒いドレスを纏い、頭に冠を乗せたその少女は、前頁のオデットにそっくりの、美しい顔をしていた。
「……行ってきます」
「え、何処行くの?」
突然、沙那は立ち上がり、仄かに昼の光が差す路地裏を、さり気なく出ようとした。
「亜貴のお姉ちゃん達のところ」
「亜貴はまだ寝てるの?」
洗濯物を全て干し、買い物から帰って来た母が、スーパーの袋から野菜を取り出しながら問いかけた。
「部屋から出てこないの、寝てるんじゃない?」
里美は騒ぎ立てるテレビを尻目に、素早く指を動かしながら友達にメールを打ち始めた。
「もうお昼じゃない」
母は聞こえよがしに溜息を吐くと、少々怒りの雰囲気を纏いながら、亜貴の部屋へ向かった。
里美はこれから母の怒りをぶつけられるのであろう弟に、ほんの少しの哀れみを覚えながらも、知らない振りを装い続けた。
「亜貴っ!」
一瞬、名を呼ばれた本人には何の予告も無しに、母の怒声が響く。
「もうお昼よ、いい加減に起きなさい!」
亜貴はもぞもぞと、毛布の中で蹲った。
母の怒声も、聞きなれてしまえば、ただの大声としか感じられない。
「亜貴!」
「…はい」
亜貴はどこと無く重い身体を無理矢理起こし、これ以上母の気に触れない為、のろのろと起き上がった。
部屋のドアノブを回せば、やはり怒りの表情を露にした母が自分を睨みつける。
「朝ご飯は?食べたっけ?」
「いらない」
亜貴はそっけなく答えると、なるべく母とは目を合わせないよう心がけながら、そそくさと姉のいる部屋へと向かった。
「遅いよ亜貴。真美お姉ちゃん、心配してたわよ?」
「……ごめん」
里美の少々きつい口調を流すように、亜貴は呟くように謝った。
「全くもう」
そう言って溜息を吐く姿を見せ付けられても、何だかんだ言いながら、姉は自分を心配してくれているのが、亜貴には理解できた。
宮澤家はどうも口下手な家系らしく、素直にものが言える人間は、亜貴の家族にはいなかった。
一見素直そうに映る上の姉の真美も、他人に迷惑をかけまいと本音を押さえるあたりで、良い口下手なのだろう。
家族の中で一番無口な亜貴にとって、この口下手な家は居心地の良い場所でもあった。
……故に、壊されてはいけない場所でもあった。
「……あるところに、それはそれは平和な家庭がありました……と」
「魔性の娘がクラスの憧れの少女に変わって、皆を欺きながら裏切り者王子に復讐か」
「よく分かったね」
大通りを歩く、見慣れぬ銀髪少年と可愛らしい少女に、都会人達は目を引かれた。
それぞれ、少女の手には可憐な白い花、少年の手には一冊の絵本を持って。
「明日、亜貴はピアノなんだ」
沙那は白い花を指先で弄りながら、日常にあった良い出来事を伝える子供のように、無邪気にゼシアに言った。
「だから明日、隙を見て姉達を殺すよ」
#6
死体は自分で処理してね。
少女は笑って、手を振った。
「あんた、このところ練習してなかったでしょ」
前方を早足で歩く少しだけ棘のある口調の姉が、不意に振り返って言った。
「ピアノ」
「…ああ」
思い出した、というように、亜貴はそっけなく返事を返した。
夜遅いこともあってか、普段は明るい都会人で賑わうこの小さな通りも、今では遠くで車のエンジンの音が聞こえるだけだ。
歩いているのは、前を行く二人の姉と、何やら気の乗らない表情で後ろを歩く亜貴だけだ。
「先生、溜息吐いてたわよ」
「里美」
どこか嫌味な口調の里美を少し睨みつけたような目つきをし、それまで黙っていた真美が、冷静に口を開いた。
「あなたは、一喝されたことあったんじゃなかった?」
「もう、忘れてよお姉ちゃん」
今までとっていた嫌味な態度とは裏腹に、里美は苦笑いして姉を見た。
そんな変に素直な里美を見て、真美がふっと優しげに微笑む。
その笑顔に安心したのか、里美は明るく笑うと、先程より更に早足で亜貴の前を歩いた。
カン、カン、カン、という音に、亜貴はふと顔を上げた。
前を行く姉達のその前方に、嫌に成る程赤いランプが、チカチカと光っている。
小道で、しかも夜ということもあってか、その赤い光を放つ踏切以外の音は全てかき消されてしまっていた。
「……きっと終電が通るのね」
「お姉ちゃん、帰り遅くなっちゃう!渡っちゃお」
里美が不意に駆け出し、段々と降りてくる遮断機をすり抜け、線路の向こうに出た。
それを追う様に、真美は慌てて駆け出す。
「亜貴、早く」
里美を追おうと前に出た足をぴたりと止め、真美は振り返って亜貴に言った。
亜貴はそれには答えず、ただ走っていく二人の姉の背中を、何も考えずに見ていた。
……カン、カン、カン、カン……
踏切の音が段々と遠く感じられるのは、自分が放心状態だからだろうか。
踏切の向こう側で、二人の姉がこちらを見ているのが分かった。
「亜貴〜!亜貴ちゃ〜ん!」
姉達が手を振っているのが見えたが、それに手を振って返そうとは思わず、亜貴はただ小さく頷いた。
瞬間、大きな音が近づいていることに気づいた。
ガタンガタンと音が響き、静まり返った小道を、少しだけ騒がしくする。
「お姉ちゃん達と離れちゃって、いいの?」
桜の花弁が舞うような、不思議で優しい感覚が、亜貴の背後に姿を現した。
「離れちゃっていいの?」
亜貴の全身に何か冷たいものが駆け巡った。
澄んだ声の持ち主は、考えずとも自然に思い浮かべることが出来た。
きっと今、背後の少女は微笑んでいるのだろう、と。
「いいんだね」
電車が音を立てて、自分の目の前の踏切を横切ろうと近づいてくる。
先程まで向こう側に見えていた姉達の姿が、突如として現れた、猛スピードで横切る電車に邪魔されて見えない。
亜貴は肩にかけてある黒いバッグを、無心のままぎゅっと握り締めた。
そのバッグの中には、いつも里美が間違えて入れていた、あの楽譜が入っていた。
分かっていた。
亜貴はこのとき既に、全てを理解できた。
真美と里美は、自分の背後にいたあの邪気の無い少女に、殺されるのだろう。
自分は何も出来ないのだろう、何もする必要はないのだろう……そう、理解できた。
……プアアアアン……
線路を走っていく電車が、一度だけ悲鳴を上げた。
遮断機の前で何も出来ない無力な少年に同情したのか、遮断機の向こう側で死を控えた少女達を悲しんでいるのか、分からない。
もしかしたら、闇の中で無邪気に生きる、一途な一人の少女の為に、泣いているのかもしれない。
静かな小道に、大きな悲鳴の余韻を残して、亜貴の視界から、泣き虫な終電が去って行った。
……カン、カン、カン、カン……
あと何度か鳴れば消えてしまう、寿命の短い遮断機の音が、まるで必死に助けを求めるかのように、亜貴の耳に響いた。
「死体は自分で処理してね」
背後で呟かれた声が、亜貴の耳に僅かに響いた。
……カン、カン、カン……
「姉ちゃん」
踏切を横切ってこちら側に来たのだろうが、亜貴には自分が歩いていた時の意識が、まるで無かった。
姉達の姿は、何処にも無い。
先に帰ってしまったのだろう、と、亜貴は思わず苦笑いが漏れてしまうような考えを浮かべ、独り家へと歩を進めた。
ピアノ教室へ向かう時は姉達と共に出て行ったが、帰りは一人で帰る勇気はあった。
母に怪しまれても、本当のことを言えばいいのだから。
踏切を待っている間に見失った……と。
カタン。
物音は一つ。
亜貴がちょうど家のドアノブに、手をかけた瞬間だった。
亜貴と里美の部屋がある二階の窓から、少し怪訝そうな顔をした母が、自分を見下ろしていた。
「……お姉ちゃん達と、どこで逸れたの……?」
その声はいつも自分を叱る活気に満ちた声ではなく、途轍もなく怖いお化け屋敷から出た直後のような……暗い声だった。
「亜貴……あがってらっしゃい。疲れたでしょ、コーラ飲む?」
頷くことも、首を振ることも出来ない。
亜貴に出来ることは、母の心境を察することだけだった。
ドアノブを回してドアを手前に引けば、全ての答えがそこにあるのだから。
昔から勘の当たる少年だった。
だからだろう、姉達のその無残な姿を見ても、亜貴は対してショックを受けずにすんだのは。
母の自慢だった白い壁も、今では紅を纏っていて、それはそれで美しいのだから、母の新たな自慢にもなるだろう。
姉達がいなくなれば、母が姉にしていた贔屓も無くなる。残った子供は、姉を失って初めて愛されて育つことが出来るだろう。
楽譜はもう必要ない。
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2005/04/21(Thu)19:49:20 公開 / 光歌
■この作品の著作権は光歌さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
こんばんは。
どうでもいいことですが、最近友達にこれを読んでもらって『登場人物の名前の由来って、セカチュウ?』と聞かれました。
あれはサクとアキだからか、これはサナとアキだもんね、とか思いましたが、名前の由来は違います。
今回少し出来が悪いと自分で思います。
次回はもっと手をかけて書きたいです……。では。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。