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『おちる日々』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:片瀬
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少しだけ、苦しいにおいがした。胸いっぱいに吸い込むと、むせてしまうようなにおい。冬のにおいは、いつも苦しい。一生懸命なにおいがする。
いつものあぜ道を自転車で走ると、新しく生えてきた草と、霜がおりて枯れかかっている草をつぶしてしゃりしゃりと音を立てた。
あぜ道を抜ければ、すぐに潮のにおいに変わる。
海。広くて、自分たちには何も出来ないことをいやというほど教えてくれる場所。それゆえ潔くて、千紗子は中々気に入っている。でも砂浜はきらいだ。だって足の指のあいだに砂が入るから。
小さいころ、海のむこうはすぐ手に届くぐらいに近いものだと思っていた。絶対に、水平線にたどり着くことはできるのだと。港には小さな漁船が群れをなしている。あんな漁船で、水平線までどうして届こう。
先に由を好きになったのは、佳代だった。何かあるごとに由のほうをみる佳代は、とても可愛らしい。由に笑いかけられると頬を染めてみたり、うん?と首をかしげたりするしぐさは、同性の千紗子が見ても文句なしに可愛いくらいなのだ。
でも、私はどうだろう。千紗子はうなる。少し浅黒い肌で、鼻はちょっと上を向いていて、目はただくりっとしているだけで、ちっとも可愛くない。髪の毛も佳代ちゃんみたいにさらさらじゃ――しかもかたくて直毛で少しもまとまらない――ない。でも、千紗子も由を好きになってしまった。それは致し方がないと思う。
恋とはおかしなものだ。すれ違いが重なって、それは偶然となり、必然となる。しかし、必然なしに偶然はなりたつはずもなく、運命という壁が立ちはだかっている。
運命(そう聴くと、ベートーヴェンを思い出すのは私だけなのだろうか)(だだだだーんっ、だだだだーんっ、と頭の中で習ったばかりの交響曲五番が流れる)。言葉にするだけでもむずがゆく、くつくつと笑い出したくなる。ばかみたい。でも、ちょっとだけ信じてあげることにした。目の前に由が現れたから。
佳代ちゃん、由くんにふられたんだってえ、と目をまんまるくした友達が千紗子の前に来たのは、つい先月のことだった。二人は『抜け駆け禁止』協定を組んでいたというのに、卒業が押し迫っていて焦っているのか、佳代は勝手に告白してしまったのだ。信じていたのは自分だけだったのだ。
告白!千紗子にとってそれはとても恥ずかしい響きなのだった。その告白を、軽々とやってのけたのが由だ。二月のとても寒い日――記憶が正しければ、その日の晩ご飯はお父さんの好きなかき鍋だったはずだ――に、彼は確かになんでもない顔で言ったのだ。チサが好きかも。片仮名的な、硬い響き。チサ。名前を呼ばれるだけでむずがゆくなってしまう。
「来ると思った」
「俺も」
にいっと白い歯を出して笑う。そこが千紗子は好きだ。ちょっととがった八重歯も、ぎざぎざした奥歯も。ついでに言ってしまうと、ハスキーな声も。
「後ろ乗れば」
ほら、と由が後輪を突き出す。千紗子は困ったように肩をすくめ、重いよ、と笑った。いいから、と無理に乗せて、ペダルをこぐ。ゆるゆると、景色が移り変わっていく。
海沿いを走る。もっとも、ずうっと整備されていないでこぼこ道なので、二人でおしりが痛いだの、頭痛がするだの、色々喚きながら走った。毎日こんな道を走ったら、ぢになっちゃうよねえ。
あの可愛い佳代が、目をつりあげて千紗子を睨んだのは、卒業式の予行演習の前の日だった。先生に言いつけられた、学級掲示の撤去を地味に行っていると、後ろのほうであの可愛らしい(でも密かに、千紗子は甘ったるい声だとも思っていた)声が、聞こえたのだ。ちさちゃん、あのね。振り返ると、いつもの佳代の顔ではなかった。あの、うん?と首をかしげる女の子ではなかった。怖い、少しくるってしまった女の顔だった。それ以来、佳代とは口を利いていない。
そっと、どちらも気づかぬうちに、自然な流れでお腹に腕をまわした。まるで由のお腹は千紗子の腕を待っていたかのようになじんだ。まるで何年も前からこうして走っているようだった。二人とも何も言わなかった。背中に鼻をくっつけると、少しだけ由の家のにおいがした。まったく苦しくないにおい。一度だけ、お邪魔したことがある。玄関にはお母さんが生けた花と、家族の集合写真――お父さん、お母さん、お兄ちゃん、由、ワイヤーホクステリアのプー助(いつ聴いてもなんともまぬけな名前だと思う)が並んで座っている――が立てかけてある。やはり、その写真の由も、八重歯を出して笑っている。
海岸のはしっこのほうへ行くと、この地域一帯を見渡せるようになっている。丘は目の前だ。田んぼと、木と、家と、海と、自分たち。それしかなかった。何て小さい町なのだろう、とびっくりした。目のはしからはしへと移り変わっていく景色に思う。いつ、ここから逃げられるのだろう。やりきれない思いになって、少しだけ腕の力を強めた。
「卒業だね」
自覚はなかったが、いつもより遠くで聴こえた自分の声は、涙声だった。由は何も言わない。
「逃げられたらいいのにね」
なぜだか、一緒に、とは言えなかった。まだ、丘のてっぺんは見えない。ゆるやかな坂は、だらだらとどこまでも続いているような気がした。由の顔をみると、向かい風を受けて、少し鼻が赤くなっていた。草と潮の入り混じったにおいがした。
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2005/03/12(Sat)08:08:13 公開 / 片瀬
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