『幻人 7』 ... ジャンル:ファンタジー ファンタジー
作者:霧                

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 目覚めろ。
 気づけ、お前が何者なのか。
 偽の自分を突き破り、大いなる力を行使するがいい。
 そして世界を。


【1】


 俺は目覚めた。俺の部屋だ。ゲームのポスターに、暖かい布団……。ここは確かに俺の部屋だ。
 何だ? 今の夢は? 妙に生々しい夢だった。冷たく、低い声の男。しかし顔は見えなかった。夢のことなのに、思い出すだけでぞっとする。
 時計を見た。6時だった。学校が始まるのは8時半だから、まだ早すぎる。もう一眠りしよう。



 ゲントは目覚めた。
 そして時計を見た。6時か……。ん? 6時?
 ゲントは飛び起きた。ベッドなどという洒落た物ではなく、冷たい床の上に、敷布団(と呼べるかどうかぐらいの薄さ)とタオル一枚を被って寝ていた。風邪をひくかと覚悟していたが、それは杞憂だったらしい。
 いや、それどころではない。
 寝坊だ。
 ゲントは階段を駆け上り、地下室を出た。そして、完全に遅れたと思った。
「飯の支度はまだなのか?」
 ブレトン兵士長が厨房にいた。まずい。
 料理長が何かか細い声で話している。
「すみません、何しろ人手が足りない物でして……」
 料理長はこちらをチラリと見、そこにゲントがいるのに気づいた。兵士長が料理長の目の向きに気づいた。ゲントは逃げようと思ったが、そんなことをすれば罪が重くなるだけだ。
「料理長、確かにあなたも悪いが、直接の原因は他にあるようだな」
 兵士長はこちらに近づいて来た。ゲントの心臓の鼓動は早くなった。
「何をしている?」兵士長は威厳たっぷりに言った。ゲントは何も言えなかった。
「寝坊か」
 心なしか、兵士長はどこか楽しんでいるようにさえ見えた。
「お前は王に拾ってもらった恩を忘れたのではあるまいな?え?王に忠誠を誓うということは、この城に忠誠を使うも同然。それなのに、寝坊とは一体何事だ?」
「すみません……」ゲントはぼそりと言った。
「その言葉を何度聞いたと思っている?」
 ゲントは兵士長を睨みつけることしか出来なかった。自分の無力さを感じた。
 兵士長は金髪で、がっしりとした体つきをしている。身長は180センチはある。
 対してゲントは、黒の濃い茶髪で、豪華なものを食べないせいか、年の割にやせていて、背は小さかった。兵士長と比べると15センチは差がある。だから、兵士長への抵抗はほぼ無意味だった。
 兵士長の説教は続く。
「王子はお前を気に入っているようだがな、私がどう思っているか教えてやる。お前などこの国には必要ない。今日、お前を城から追い出すために王に申し出るつもりだ」
 兵士長は意地悪く言った。料理長は黙々と作業に没頭している。
 兵士長は僕の反応を楽しんでいるんだ……。僕が泣いて、兵士長にすがりつくことを期待しているんだ。ゲントは何も言わなかった。
「黙っているということはお前は別に出て行ってもいいというのか?」
 ゲントは兵士長を睨みつけた。
「構いません」
 兵士長はゲントを見つめた。料理長も作業を止めた。
「構わない?」
「構いません」ゲントは繰り返した。
「その代わり、王に会わせてください。一言『お世話になりました』と言って、僕はここを去りましょう」
「王はご多忙だ」兵士長は冷たく言った。
「それはあなたが決めることじゃない」ゲントは挑戦的だった。兵士長が殴りかかろうとしているのが分かった。
 出ていってやる。こんな城。このフォール城で優しくしてくれるのは同年代のジンクス王子だけだ。それ以外の連中は皆ゲントを嫌っていた。ゲントがどんなに真面目にやろうとも、だ。たとえ、声には出さなくとも、分かる。ゲントは影で犬畜生のように言われているということを。
「よかろう。昼にまたここへ来る。王への面会を許可しよう。それまでここで料理を手伝っていろ。毒を入れなければいいがな。料理長。急げ。いつもより1時間も遅れているぞ」兵士長は乱暴にマントを翻し、厨房を出て行った。

 ゲントは王の間にひざまずいていた。
「王様。こやつはここから出て行きます」
 ブレトン兵士長は王の前では大げさというほどへりくだっていた。
「こやつは労働をほとんどやっておりません。本日も寝坊し、料理長に多大なる迷惑をかける始末です。これがこの城に忠誠を誓う者のやることでしょうか?それをこの小僧めに聞かせたところ、自ら城を出て行くと宣言いたしました」
 王はしばらく威厳のある眼差しでゲントを見つめていた。横にいる大臣が口をはさんだ。
「王様、やはり私がこの間お話した通りのことを兵士長は言っているのです。こやつは直にゲントを見ております。その信憑性も高いかと……」
「話はまことか、ゲント」
「はい。王に拾っていただき、僕は15年間生きてこられました。ですが、僕はどうやらこの城に必要ないようです。拾っていただき、ありがとうございました。僕はここを出て行きます」多少無礼かと思えるほどの口調でゲントは言った。
 王の眉がピクリと動いた。
「それはなるまい。ゲント。お前はここに残るのだ」
「王様!」ブレトンは即座に反応した。
「王様、よくお考え下さい。こやつはこの城には必要ありません。役に立たないただの小僧ですぞ! 城は宿屋ではありません! そして自ら出て行くと言っているのです!」
「黙れ」王がすぱりと言った。
「ゲントはこの城に必要なのだ」
「何故? 王はこの者を兵士にするつもりもないのでしょう?」兵士長も黙ってはいない。なんとかゲントをこの城から追い出したいと思っているに違いない。
「兵士長、もうよい」
 兵士長は声の主を見た。ゲントも。
 そこにはジンクス王子が立っていた。黒髪だったが目は青い。体つきは兵士長に負けず劣らずだ。
 ゲントはニヤリ笑いをかみ殺した。
「私の父上があのように言っているんだ。お前がいくら言おうが折れまい」
 兵士長はまだ何か言いたそうだった。ゲントを城から追い出すチャンスをむざむざ逃してはなるまいと思っているに違いない。
「下がれ」王と王子が同時に言うと、さすがの兵士長も何も言えなかった。兵士長は一礼して、そそくさと王の間から出て行った。
「ゲント。私と一緒に来い。部屋の掃除を命ずる。父上、構いませんね?」
「ああ」王は短く答えた。

「しかし、親父の前だと疲れるよなーー!」王子はベッドに大の字に倒れこんだ。
「あんなかしこまった話し方じゃストレス溜まるっつの!あーやだやだ」
「親子だろ?」ゲントはとがめるようにジンクスを見た。
 ゲントには、親子がいない。物心ついたころにはあたりまえのようにこの城にいて、そのことを疑問に思ったことが何度かある。だが、ここにいる連中はそんなことをゲントが尋ねられるような人柄ではなかった。
「そうなんだけどさ、一応兵士の前では威厳を保たなきゃいけないんだってよ。王族なんてそんなもんだよ。あ、座れよ」
 ジンクスが指揮するように人差し指を動かすと、椅子がそこに現れた。
「新しい魔法か?」
「ん、まあな。俺、専用の魔法倉庫持ってるんだよ。ほら、どこにあるか分からないけど、いつでも出して、いつでも消せるって奴。その倉庫の中に入れてるもんならなんでもこの魔法で持ち出せる」
「知らね。で? 掃除だって?」
 ジンクスはニヤリと笑った。
「そんなもん、お前をサボらすための口実に決まってるだろうが。掃除くらい自分でできるっての」
 ジンクスはふう、と一息ついた。
「それにしても、なんで兵士長はあんなにお前を嫌ってるんだ?」
「僕がろくに仕事しないからだろ。『雑用』の仕事をさ。だから僕を嫌ってるのは兵士長だけじゃない。この城の連中は皆僕のこと嫌ってる。大人だけじゃない。同年代の兵士見習いだって、僕のこと『雑用だ』って見下すんだぜ。出て行きたくもなるさ」
「まあまあ、俺が王位についたらそんな連中を雑用に回すからさ、お前が出て行くのはマジ勘弁。そしたら毎日つまんなくてやってらんねーよ」
 ゲントとジンクスはかれこれ11年ほどの付き合いだ。11年前は、両方4歳だった。
 ゲントはその頃には雑用で忙しくしていたし、ジンクス王子は同年代の友達がいなくて(何しろ4歳で城の中にいるものなど王族を除いてはそうそういない)から、ずっと退屈していた。
 ジンクスがゲントを呼び出すことは、両者にとってよいことだった。ジンクスは退屈しなくて済むし、ゲントは雑用をしなくて済む。勿論、ジンクスとゲントはお互いを親友だと思っている。
「だけどさ、親父が言うんだよ。『ゲントとはなるべく付き合うな』ってさ。意味分かんなくねえ? 俺がなんでかって聞いたら、『彼はお前とは種類が違う。雑用と王族が仲良くやってると、他の兵士に示しがつかない』ってよ」
 それは一理ある。王も別に僕のことを嫌っているわけではないのかもしれない。
「兵士になりたいな」ゲントは呟いた。ジンクスはしっかり聞いていた。
「お前強いのか? 強ければ俺が許すよ」
「筋肉は鍛えてる。だけど、兵士長も王様も僕に剣を握らせてくれない」
「じゃあ駄目だ」ジンクスはきっぱり言った。ゲントはジンクスを睨みつけた。
「残酷なようだけど、今から剣の修行したって遅すぎるんだよ。まあ10歳からはじめるくらいはセーフだけど、お前は今15だろ?」
「じゃあ、武道家として生きる」
「とりあえず、兵士長をぶっ倒せよ。拳で。そうすりゃ剣を使わない兵士になれる」
 ゲントはブレトンを想像してみた。自分より15センチも身長の高い兵士長(ゲントは小柄な方だった)、あの鋭い剣……あれに向かうんだったら城から脱走しているだろう。
「無理だ、それは」
 その無理な相手に、目の前の王子は挑戦しようとしている。勇敢なのか、馬鹿なのか。
「何言ってるんだよ。俺は明日あいつを倒すんだぞ」
「え……明日だっけ?なら、こんなことしてていいのか?」
「いーんだよ。リラックスリラックス。明日は大一番なんだから、リラックスも大事なんだよ」
 王子は16の誕生日に兵士長と真剣勝負をし、勝てば王位を得る権利が与えられる。負ければ2年間の修行に出かけなければならない。帰ってきたらまた挑戦する。それがこの国のつまらないならわしなのだ。
 しかし、ジンクスは全然緊張しているようにはみえない。『リラックス』のしすぎではないか、とゲントは思った。むしろ闘志にみちていると言った方がいいかもしれない。
「俺は勝つぞ」ジンクスはさやに入ったままの剣を振った。
「そのために今まで12年間、戦いを習ったんだ。ぜってー勝つ!」
 これで百回目かと思うくらい、ジンクスは「勝つ」という言葉を連呼していた。
 ゲントは戦わないが、ジンクスには負けてもらっては困る。ジンクスが2年間いないということは、ゲントの生活の楽しみがなくなるということでもある。
「そろそろ魔法の勉強があるな、行かないと」
 ジンクスとゲントは部屋を出た。
「明日、負けんなよ」ゲントは熱を込めた。
「勝つよ」ジンクスは拳を振り上げた。そして、二人は別方向に歩いて行った。
「ゲント、お前どこへ行ってた?」
 厨房に戻るやいなや、料理長が怒鳴った。
「王子の部屋の掃除に行ってました」ゲントは平気で言った。
「……まあいい。そこの皿全部洗っといてくれ」
 料理長が指差した先には、大量の汚い皿があった。おそらく昼飯の残骸だろう。
「やりますよ」
 ゲントは黙々と作業をはじめた。

 ジンクスは親友だが、たまに嫉妬を感じる。何故僕があの位置にいなくてここにいなければならないんだ? こんなことはしたくない。僕も修行をしたい。ジンクスが王としての位に立つのを眺めながら、僕は死ぬまでここで皿を洗っている運命なのか?
 そんなことを考える自分に嫌気がさす。
 今すぐこの皿をぶち壊したい気分だった。

 ゲントはその晩夢を見た。

 思い出せ、お前が何者なのか。
 お前はこんな所にいるような存在ではない。
 目覚めろ。
 お前にふさわしい剣を持ち、そして旅立て。
 そして世界を。



 俺は再び目覚める。今度は夢は見ていない。それでも、さっき見た夢は忘れていない。
 朝飯を食べても、学校の支度をしようとも、あの声は忘れられない。
 馬鹿だ俺は。たかが夢だろうが。そうだ、小さい頃にも似たようなことがあった。何がなんだか分からないが、とにかく恐い夢……。とにかく今回の夢だってそんなものだ。
 俺は「行って来る」と言い、いつものように家を出る。いつもは母さんの「いってらっしゃい」という声が響く。
 でも今日はその声は起こらない。母さんは家にいるはずなのに……。
 俺は気にしない振りをする。
 なんとなく、今日はいい日にはならないな、と思った。



 ゲントは目覚めた。5時……。今日は寝坊ではないらしい。
「おうゲント、起きたか。今日は時間どおりだぞ」厨房では料理長がすでに支度をしていた。
「今日は兵士長と王子の決闘だからな。気合を入れないと」
 あんたが気合を入れても仕方ないだろ?と思ったが、黙っていた。兵士長の料理に毒を入れたいという危険な衝動をなんとか抑えながら、ゲントは料理長を手伝った。

「今日は城の掃除もナシだ。試合観戦は城の者全員で行うらしいぞ」清掃長がゲントに告げた。
 そういうわけで、料理の手伝いが終わると、ゲントは久しぶりに堂々と自由に過ごすことが出来た。とはいったものの、嬉しいという感情とは程遠かった。
 昨日の件から見ても、兵士長はジンクスを慕っているとは到底思えない。むしろその逆だ。どんな手を使っても勝ちに来るだろう……。
 ひょっとしたら、ジンクスは殺されるかもしれない。一応二人は首や心臓などといった急所に鋼鉄の防具が装備されるため、死ぬことはまずないはずだ。が、あのブレトンならば、『事故で』ジンクスを殺してしまう可能性もなくはない。
 城内ではどっちが勝つだろうか、王子が勝ったら兵士長はどんなに悔しがるだろうか、などという話題が矢のごとく飛び交っていた。
 あの連中はただの『観客』なのだ。『身内』とは違う。どっちが勝ってもどうでもいいと思っている。
 王子が修行に出ている間に王が死ぬとは思えない。王がいる限りは王子がいなくても国は安心だ……というところだろう。
 国は安心かもしれないが、ゲントにとっては全く安心ではなかった。



 外は土砂降りだった。雨、雨、雨。傘をさしても学校に着くころにはバケツの水を被ったような有様になるだろう、と思った。
 仕方がない。覚悟を決めて、俺は歩き出した。
 第一歩目で、水溜りに足を突っ込み、靴の中に浸水が起こった。靴下が濡れ、足が異様に冷たくなった。
 唸り声が漏れた。



 ゲントは地下の闘技場の観客席に腰を下ろしていた。
 奇妙な感覚だった。早く試合が始まって欲しいようでもあったし、このまま一生始まらない方がいいようでもあった。
 ゲントの隣では同年代の兵士が座っており、ゲントの服装のみすぼらしさを嘲ったが、今はそんなことはどうでもよかった。
 ゲントの耳に入った情報によると、この闘技場は石版が60メートル四方の正方形にしきつめられているらしい。だが、そのほかには特に工夫もない、至って単純な造りだ。
 変わっているところといったら観客席くらいだ。何百とあるうちの数席だけが見上げるような高い位置にある。そこは王族の座る聖なる席だという。しかし、王はまだそこにいなかった。
 試合のルールは、闘技場から体が外へ出たら負けだ。空中でも、地上でも。それ以外では、気絶したら負け、急所を守る防具に傷がついたら負け、負けを認めたら負け。などがある。
 闘技場のど真ん中には、既にブレトン兵士長が立っていた。あのゲントを見る時の蛇のような顔は消え、そこには獲物を見据える虎のような目がった。これが、兵士長としてのブレトンであ。
 突然だった。ゲントを何か悪寒が包んだ。これは邪悪なものであるということを直感で悟れるほどまがまがしい感覚……。
 殺してやる……!十余年も待たされた。我が祖先の無念、今こそ晴らす時が来た……!
 ゲントは思わず立ち上がっていた。
 殺す殺す殺す……。
 どこだ? 声の出所は? 
 世界を闇に葬る日が来た……!
他の皆は誰も気づいていない。僕だけに聞こえている……?
 手始めに奴を殺す……!
 誰だ? 殺されようとしているのは?
「ゲント、何してる、座れ、王子の入場だ」
 隣の兵士の声と同時に、邪悪な声は聞こえなくなった。
「しかし、王はまだ来てないな……、息子の儀式なのに、一体何をやっているんだ?」
 ゲントの意識は兵士達の話から外れていた。顔からは冷や汗が流れていた。……今のは一体なんだったんだ? 誰を殺すつもりだったんだ?
 幻覚だ。ゲントはそう考えようとした。その方がずっと楽だ……。
 きっと疲れがたまってただけだ……。あとで医務室へ行こう……。

 気がつくと、試合が始まっていた。


【2】


 ジンクスは兵士長に一直線に突っ込んで、急所の防具目指して、一直線に突きをいれようとしていた。凄まじいスピードだ。兵士長はそれを左に飛んで交わした。
 兵士長が何事かを唱えると、炎の弾がジンクスに向かって飛んでいった。しかし、ジンクスはすでにそこにいなかった。はるか高いところに跳んでいたのだ。
 ジンクスが手のひらを兵士長に向けると、そこから無数の電気が現れ、闘技場を包んだ。兵士長は電気の直撃を受けた。
 競技場がけたたましい歓声に包まれた。ゲントもまた、大声を上げていた……そうすることで、あの声を忘れられるような気がした。
 だが、兵士長はすぐに立ち上がった。兵士達の歓声が闘技場に轟いた。
 魔法の鉄則だ。魔法の威力はその範囲に反比例する。つまり相手に当てようとして魔法の範囲を広くしても、決定打は与えられない。
 闘技場が静まり返った。二人は向かい合い、互いに攻撃の機を伺っていた。
 不意に、ジンクスが右手を上げた。ジンクスの周りから何十もの炎の弾が現れ、兵士長に向かって行った。
 兵士長はよけようともせずに、弾を全て受け止めた。ダメージはほとんどない。しかし、炎の弾はただの目くらましだった。兵士長が炎に気をとられている間、ジンクスは兵士長の背後に立っていた。
「終わりだ!」ジンクスが剣を左から右へと振った。
 空振り。剣は弧を描き、兵士長はその弧と紙一重のところにいた。王子は剣を振ったばかりで、左がわの守りががら空きだった。
 そこを突かれた。観客の何人かが目をつぶった。ゲントも。
 ジンクスの、負けだ……。
 しかし、ゲントの冷めていく心をよそに、闘技場は更なる盛り上がりを見せていた。ゲントはおそるおそる目を開けた。
 王子が左手で、兵士長の剣を握り締めていた。その左手からは、おびただしい量の血が、地面に垂れていた。王子は左手を捨て、急所の防具を守った……つまり、王子はまだ負けてはいない。勝利への執念が、相手に急所を差し出すことを許さなかった。
 兵士長は両手でジンクスの右手をなんとか切り落とそうとしているようだったが、ジンクスは右手に持つ剣を振り上げ、兵士長の首を狙った。兵士長は剣から両手を離し、その攻撃をかわした。
 ジンクスが魔法をはなつように右手を兵士長へ向けた。兵士長はとっさに身を引いた。
 しかしジンクスは魔法を放たなかった。かわりに、兵士長が離した剣を足で踏み、砕いた。
 闘技場が巨大な歓声に包まれた。ゲントもまた、大声で叫んだ。
 兵士長はこれで武器を持っていない。武器がないということは、魔法で戦うしかない。魔法はいずれ精神力が尽きて使えなくなる。
 つまり、ジンクスは魔法を避けていれば、絶対に負けはし。

 殺してやる、奴の血を引く者は、皆殺しだ……!

 ゲントは悲鳴をあげた。また、あの声だ。幻覚…なんかじゃない。今度ははっきりと聞こえるのだ。
「観戦は座ってみろ!」兵士が叫んだ。
 そんな言葉に構っている暇はなかった。ゲントはなりふりかまわず叫んだが、周りの騒音にかき消された。
「誰かを殺すつもりだ!」
「何?」兵士は臭い物でも見るような目つきになった。
「戦いを見て気が狂ったか?医務室に行け」
「違う!これは現実だ!」
 そう叫んだものの、兵士はもはや試合観戦に熱中している。駄目だ。まともなことでも僕が言うと小馬鹿にしてきた連中だ。こんなことを言って間に受けるわけがない。
 誰だ? 一体、誰を殺そうとしているんだ?
 不意に、さっき兵士達が話していたことを思い出した。
「王はまだ来てないな……息子の儀式だというのに、何をやってるんだ?」
 殺してやる……! 奴の血を全て根絶やしにしてくれる……!
「王」
 ゲントは王族の席を見た。王は、そこにいなかった。顔から血の気が引いていくのを感じた。
「誰かが王様を殺そうとしてるぞ!」ゲントは叫んだ。誰も聞いていない。
「くそ!」
 ゲントは走り、競技場を出て、城のホールに出た。まがまがしい気がゲントを襲う。頭が割れそうに痛んだ。
邪魔をするな!
 ゲントの頭の痛みが更にひどくなった。自分の周囲の景色が黒い霧に包まれている……。 やめろ……王がやられたら、次はきっとジンクスの番だ……。僕がここで力尽きたら……。
 ゲントの足に感覚がなくなった。ゲントは地面に膝をつき、両手をついた。まるでひざまずいているような格好になりながらも、ゲントは必死で立ち上がろうとした。
 やがて、腕の感覚さえもなくなった。ゲントは地面に倒れ、意識を失っていった……。

 王は書斎にいた。たった一人で部屋の真ん中に立ち、何かを待っていた。
 書斎の扉が開いた。
「来たか」
 そのモノは、真っ赤な剣を携えている。なんとか人の形をとっているが、その目は黄色い。体からは黒い霧のようなものが溢れ出ている。
「どうやら一人で殺される準備をしていたようだな……。感心だ」
 声すらまでまがまがしい。しかし、王は全く動じなかった。
「それは違うな。お前を封印する呪文を調べていた所だ……」
「ほう? 俺を封印だと?そんなことができるのか?」
「試してみるか?」王は杖を取り出した。
「その前に貴様は死ぬ!」そのモノが王に剣を振り上げた。王が剣をかわした。
「清き命を捧ぐ! 悪しき心を封印せよ!」
「その前に死ね!」そのモノが今度は王に剣を突き立てて突っ込んだ。
「ホーリーセイブ!」
 部屋中が白い光に包まれた。そして……邪悪なモノの足が、腰が、腹が瞬く間に消えていく・・…。
 何かが壊れた音がした。本棚が倒れる音がした。何か鈍い音がした。
 邪悪な高笑いが響いた。真っ赤な剣は、王の心臓をまっすぐに貫いていた。
 そして、邪悪なモノはそこから消えた。それと同時に、白い光も消えた。
 王の命も消えてなくなった。



 雨はかなり強くなってきた。傘の間を巧みにすり抜け、雨は俺の服に当たる。服はみるみるうちに濡れ、俺の体を冷やしていく。
 今日は厄日だ。
 まだベッドから出てから2時間も経っていない段階で、俺はそう思った。
 俺は歩きつづける。強い風が吹く。
 傘が折れた。


【3】


 ゲントは飛び起きた。王が、死んだ……。
 何故そう思うのかは自分でも分からない。ただ、ゲントは見たのだ。夢の中か?あるいは実際にこの目で見てしまったのかもしれない。それでショックで倒れてこの医務室のベッドに横になっていたのかもしれない。記憶ははっきりしない。
 ただ変わらないのは、今彼の頭の中には、心臓を貫かれた王の姿が映っているということだ。
 夢ではない。断定とまではいえないが直感のようなものだった。
 ゲントはベッドから出た。
「起きた? ただ気絶したみたいだったから、大丈夫なようならもう行きなさい」医師はこっちを見もせずに、何か報告書のようなものを書いていた。
 ゲントは口を開きかけた。あの夢のことを言おうと思ったのだ。そして、王が死んだということも……。
 しかし、すぐに止めた。ひょっとしたら王は生きてるかもしれない。今ごろ、何事もなくジンクスと兵士長の決戦を眺めているのかもしれない……。
 勿論、それはほんの少しの希望だった。それもわずか1%ほどの。だけど、王が生きていると思いたかった。
 あの人は、僕を今までここにおかせてくれた。この国にいるのはいやだったが、この国にいなければ僕はのたれ死んでいただろう。
「書斎に行こう」
 ゲントはそう呟くと、医務室を出た。



 俺は仕方なく走った。水溜りに何度も足を突っ込んだ。傘は、邪魔なので捨てた。
 幸い車は一台も通らなかったので、泥水をかぶることはなかった。
 が、どっちにしろ頭から足まで全身ずぶぬれになっていた。
 もうここまで濡れてるのだからいくら濡れても同じだ。
 学校が見えた。
 雷が鳴った。



 ゲントは書斎の扉の縁に立ち尽くしていた。
 目の前には胸に穴が開いた王の姿があった。
 どれ位ここにいたのだろう……。夢で見るのと実際にこの目で見るのとでは全く違う。死体から溢れ出る血の臭い。王の側には長い杖が転がっている……。その王の表情はどこか満足しているようにさえ見えた。重々しい空気が辺りを包んでいる。
 ゲントは王の死体の側に何か紙のようなものがあるのに気づいた。
 『我が息子、ジンクスへ宛てる』
 ジンクスへの手紙だった。ゲントはそれを手にとった。しかし、決して中身を見たりはしない。
 これから僕が何をすべきか。それは分かる。ゲントは手紙を丁重にしまい、競技場へと走った。

 兵士長はまだ粘っていた。王子の攻撃はすれすれの所で兵士長にかわされていた。その兵士長が隙を見てはジンクスから魔法で剣を奪おうとするので、ジンクスもうかうかしてられなかった。早く決定打を浴びせなければならない。
 兵士長が何事か呪文を唱えた。
 何も起こらない。
「どうやらやっと精神力が切れたようだな!」
 ジンクスは剣を構えた。あと一撃で終わりにしてやる!
「ウィンドリッパー」
「何?」
 ジンクスは足を止めた。兵士長の腕の周りをエメラルド色の風が覆っていた。その風は、兵士長の手から先まで及び、兵士長の腕が長くなったかのようになった。
 不意にその風が消えた。ジンクスは自分の目を疑った。
 兵士長の手には、新たな剣が握られていた。
 魔法剣……? さっき何も起こらなかったかのように思ったのはこれか……?
「王子、悪いが勝つのは私だ!」
 ブレトンが剣を一振りすると、そこから緑の風の塊がジンクスに向かって突っ込んできた。
ジンクスは反射的に剣で身を守ろうとした。
 無数の細かい金属が剣にぶつかったような音がした。緑の風は消えた。
 が、ジンクスの剣はボロボロになっていた。剣の刃はのこぎりよりひどく欠けている。これではあと一回やられたらぶっ壊れる……。
「風の剣……」
 聞いたことはあった。一種類の魔法を使って剣を作リ出すことができる人間がいる……。炎の剣、氷の剣、風の剣……。その剣を一振りすればその剣の性質と同じ魔法が飛ぶという。魔法剣。魔法剣士とよばれるごく少数の人間がなせる技だ。
 だが、まさかこんなに近くに魔法剣士がいたとは……。
 これは間違いなく兵士長の切り札だ。だからジンクスの魔法が尽きるまで待っていたんだ……。
 勝てるか……? いや、おそらく勝てない……。認めたくなかったが、彼の勘がそう言っている。
「俺は勝つ……」
「無駄です、王子。あなたにはまだ、実力が足りない。刀身もボロボロだ」
「ブレトン」その声はひどく弱々しく聞こえた。
 刀身はボロボロ……残り使える魔法も少ない……、しかし相手は無限に風の魔法が使える……。降参……。
 そんなもの俺にはない。
 王子は剣を握り締めた。
「ごちゃごちゃ言ってねーでかかって来い!」
 競技場が歓声に包まれた。兵士長は不敵に笑った。
 兵士長は剣を振った。風がジンクスの頭を狙った。しゃがんだ。足へ来た。跳んだ。正面から来た。右に跳んだ。
 兵士長自身が向かってきた。風とともに、剣をまっすぐに突き出してくる。
 ジンクスは無謀な行動に出た。ボロボロの剣を投げつけたのだ。兵士長は一度止まり、王子の剣をはたいた。
 そして、また突っ込んだ。だが、その先には王子はいなかった。ジンクスは兵士長が放たれた剣に注意を払っているうちに、兵士長の2メートルほど上にいた。
 ジンクスは全ての力を右手に集中させた。自分の魔法の力の全てを……。
「落ちろ!」
 ジンクスの右手から、雷が放たれた。雷は兵士長を直撃した。今度は一点だけを狙った。兵士長という一点だけを。
 王子は着地した。これで兵士長が気絶していれば、王子の勝ちとなる……。しかし、兵士長はまだ意識があった。しかし、立っているのが精一杯のようだ。
 ジンクスはさっき投げた剣を拾った。ボロボロだったが、防具を傷つけるくらいには充分だ。
「終わりだ」
 剣を構えた。
 その時だった。
「ジンクス!」
 手の動きが鈍った。兵士長は力を振り絞って剣をはたいた。突然の自分を呼ぶ馬鹿でかい声。気が散った。集中が乱れた。今の声は、なんだ……?
 ジンクスは声の方を見た。
 何かの手紙を持ったゲントが、そこに立っていた。

 競技場内は騒然としていた。王子も同じだった。
 何が、あった……? ゲントの顔は蒼白だった。恐怖、悲しみ、怒り……表情はそれらの感情の平均にあった。
「試合を止めて、話を聞いてくれ……!」
 ジンクスは驚きおののきながらも、頷いた。
 しかし、兵士長は雷で耳が聞こえなくなったのか、とにかくゲントの言葉に反応することはなかった。
 そして、完全に無防備になった王子に、風の剣を振り下ろした!
 王子の防具は壊れ、ジンクスは床に倒れた。



 俺は下駄箱に入る。靴を脱ぐ。上履きを取る。靴を入れる。上履きを履く。
 いつもの一連の動作の中で、何かおかしなことがあった。
「あれ?」
 下駄箱はふたなどはついていないものだったので気づいたのだ。
 下駄箱の中に入ってる靴は、俺のものを除いて全て上履きだった。
 
 誰も、この学校に来ていない。


【4】


「これは……王様!」大臣が王の死体に駆け寄った。
「しっかり!今、傷の手当……」
「駄目です。もう、王様は亡くなっています」ゲントは静かに言った。
「……何故だ?何故王が殺されなければならないんだ!おい小僧!貴様何か知っているな?」ブレトンはゲントの両肩をつかんで揺さぶった。兵士長はひどく取り乱していた。普段のあの冷徹な態度からは想像もつかない。
「僕は何も知らない……」
「では何故あの決闘の最中に抜け出した?分かっているぞ小僧!お前がやったんだろう!お前が王を殺した!よくも……」
「よせ!兵士長!」
 大臣が怒鳴った。
「この剣も持ったこともないような子供に王が殺せると思うかね?あのジンクス王子に戦いの心得を教えたのは王なのだぞ。それに、今はそんなことを議論している場合ではない。王の遺体を丁重に葬るのだ。棺を用意しろ。ゲント。お前は医務室にいけ。王子の側にいろ。そして、王がお亡くなりになったことを伝えるのだ」
 ゲントは返事もせずにそこから立ち去った。

 ジンクスにこのことを伝える……。これまで何度もひどい役目を負ってきたが、間違いなくこれが最悪のものだ。ゲントはジンクスの嘆き悲しむ顔を想像するのも辛かった。



 今日は、火曜日だ。昨日学校があったんだから、間違いない。それに、休みだったら何かの部活で来てる者に会うはずだ。
 しかし、誰もいない。学校は静まり返っている。
 まさか『豪雨のため学校は休みです』ということになったのではあるまいか?それで俺のところだけ連絡網が回って来なかったとか?
 だとしたら俺はもの凄い間抜けだということになる。俺は、一応教室を見ていくことにした。



「親父が、死んだのか……?」
 ゲントは黙って頷いた。
「殺されたんだ。誰かに」
「親父……」ジンクスはベッドから立ち上がった。
「遺体はどこだ?」
「王の間……かな。おい!」
 ジンクスは医務室を飛び出していった。

「親父!」
 棺に向かって叫ぶジンクスに、兵士長が手を置いた。
「王子。駄目です。王様は、もういってしまいました……」
 王子は地面に膝を着いた。
「誰がやりやがった……!」
 ジンクスは地面を殴った。王子が初めて見せる姿だった。
「誰がやりやがった!」
 ジンクスはゲント達を見て叫んだ。目が濡れている。
「説明してもらうぞ、小僧」
 兵士長がきついまなざしでこちらを見つめていた。
 皆の視線に耐えながら、ゲントは闘技場で邪悪な気を感じたところから話し始めた。

「その邪悪なモノとは、一体何者なんだ?」大臣。
「そもそも何故お前の頭に王の姿が浮かんだのだ?」兵士長。
「どちらも分かりません。僕は王が……その、本当に亡くなっているかを確認するために、書斎に行きました。そうしたら……王が……」
 それ以上のことを口にしたくなかった。ジンクスが目を手で覆った。
「そして、王の遺体の脇に、これが……」
 ゲントは手紙を取り出した。
「我が息子、ジンクスへ宛てる」
「親父が、俺に……?」
 ゲントは頷いた。
 王子はゲントから手紙を受け取り、読み始めた。



 やっぱり教室にも誰もいない。4階まで来て何もいないとは全く馬鹿馬鹿しい。
 だが、これで決定的だ。今日は学校が休みだ。とんだヘマだ。まあ、厄日だしな……。
 意味不明な理屈で納得する自分も馬鹿馬鹿しかった。さっさと帰ろう。
 俺は教室の戸を閉め、踵を返した。
 だが本当の厄日はこれからだ。
「待て」
 俺は再び教室を見る。



 ジンクスは手紙を丸めて懐にしまった。
「王子、手紙にはなんと……」
「ゲント。お前はこれを読んだのか?」王子は落ち着いて言った。どうやら冷静さを取り戻しているようだった。
「いや。見てない……」
 兵士長と大臣がいるのに気づいて慌てて「見てないです」と付け加えた。
「どうやら、父上を殺したのはこの城に封印されている邪悪な怪物らしい……。俺が生まれた年……つまり16年前に父上によりこの城に封印された。だが、察しの通り、封印の呪文は16年の間だけだった……。父上はこう記している……。『おそらく、封印が解けるのは4月13日だ。おそらくこの間封印した時よりも更に邪悪に、さらに強力になっているだろう……。そう、私の命を賭けねばならないほどに……。ジンクス。お前は次の奴の封印が解ける時のために修行をするのだ。命を投げ出さなくても奴を殺せるか、封印できる方法を見つけるのだ……!そうでない限り、この国はいずれ滅びる……。一国の王として、お前に任せた』」
「怪物……!そんなものが、この城のどこに……?」大臣も初めて知ったかのようだった。
「それは、ここには記されていないな。地下にでもあるんじゃないのか?そこは。だが、決して探索しようなどとはするな。封印の呪文は下手に刺激を加えるとすぐに解けてしまうようなもんだからな」
「分かりました」兵士長は頷いた。
「王子、これからどうするのです?修行をしろと書いてありますが……この兵士長と修行をされては……」
「大臣、それはなりませんぞ」
 兵士長はあのゲントに向けるような口調になっていた。
「王子は私に敗れました。しきたりに従い、2年間の武者修行に行かなければ」
「王子はあなたに負けてなどいない」
 ゲントは無謀にも言った。兵士長があやすような口調で言った。
「小僧。聞け。何が起ころうと、命がけの戦いでは常に『集中』という言葉が大事になる。お前のような輩が騒ぎ立てようが戦いに全神経を注ぐという『集中』がな。王子はその点で私に負けたのだ」
「あんたは雷のせいで耳が聞こえなかっただけだろう!」
 ゲントはだんだん怒りに満ちてきていた。こんな時にこの男は何を言っているんだ?王がいないということは、この城の王族は王子しか残されていないのだ。その王子を追い出すなんて、国にとってもよくない。勿論、僕にとっても。
 しかし、兵士長は動じなかった。
「俺の耳が聞こえなかったどうかは、お前が決めることではない」兵士長は意地悪く言った。
「しかし、兵士長。この状況で、国に王子がいないというのは……」
「大臣、王子が帰ってくるまでの間、あなたが政治をすればいい。16年かかって復活した怪物が、まさか2年で復活することはないでしょう。王子はとにかく修行に行くべきです。異存はないですね?王子」
 王子は頷いた。
「しきたりだからな。兵士長の言うとおりだ。どのみち俺は修行をしなければならないしな」
 ゲントはもう何を言っても無駄だと分かった。ジンクスはこうだと言ったことを決して曲げはしない。
「それなら、僕も修行に行きます」
「来るな」ジンクスは素早く言った。ゲントは意表を突かれた。
 ジンクスならば快く承諾してくれると思っていた……。だが、目の前の王子は、全く逆のことをしている。
「でも、ジンクス!王子……僕も力をつけたいんだ!力をつけて、この城の兵士となって、怪物と戦う!この国を守る!」
「言ったろう。ゲント。お前は来るな」
 ジンクスはすうと息を吸った。
「これは、俺の修行だ。しきたりでは修行は俺一人で行くことになっている。お前は来てはならない」
「でも、ジンクス……」
 王子はゲントに背を向けた。
「旅の支度をする。大臣、兵士長。来い。俺がいないあいだの2年間について、話がある」
「王子。葬儀には……」
「父上が俺に望んでることは葬儀ではない。いいから来い」
 そこにはゲントだけが残された。



「誰だ?」
 男が立っていた。茶色い髪、サングラス、真っ黒な皮製のコート。その身なりが、ここにいるべき人間ではないことを示している。
 こんな奴、さっき見たときはいなかった。じゃあ、一体どこから現れたんだ?
「お前を探していた」
 その男は言った。


【5】


  翌日には、王子はこの城を旅立ってしまっていた。ゲントには何も言わずに。
 何もなくなってしまった。ジンクスはこの城にはいない。恩人である王もいない。残ってるのはあの兵士長と雑用の仕事だけだ。
「お前がいなきゃマジ勘弁」
 ジンクスが一昨日そう言ったのが夢の中の出来事に思えた。
「よく言うよ」ゲントは朝食の皿を洗いながら呟いた。
 僕だってジンクスがいなきゃマジ勘弁だったのに。そう言ったジンクスが、ゲントに挨拶なしに出て行った。
 ゲントは王子に裏切られたような気がした。それもばっさりと。ジンクスは、一体何を考えているんだ?僕らは親友のはずじゃなかったのか?
 国の政治は大臣がするようになった。大臣はゲントを元々好ましく思ってなかったようだが、今度の事件のおかげで更にゲントを気味悪く思っているようだった。
 相変わらず兵士長はいくら頼んでも戦いを教えてくれないし、大臣もゲントを王子を追いに行かせることを許さなかった。
「くそ」
 皿を落とした。割れた。料理長の怒鳴り声が飛ぶ。箒を取り出し、床をはく。その後、また皿洗いをし始める。

 君は何をしているんだ?頭の中で声がした。
 こんな所にいる理由はもはやない。何故大臣の許可がいる?あんな背の小さいおっさんのいうことを、なんで僕が聞かなきゃならないんだ?
 君は普通の人間じゃないんだ。
 まるで頭の中で自分と自分が話しているようだった。
 そうだ。僕は普通の人間じゃない。あの邪悪な気を真っ先に感じ取ったのは僕だ。それは闇の力を体が拒絶しているからだろ。
 そう、君は、僕は、選ばれし者だ。特別な力を持ってこの世界に生まれたのだ。その選ばれし者を、あの二人は拒む。そんな間抜けな人間が仕切るこの国など、僕には意味がない。
 若さゆえのこの感情。それが危険なものであることを、ゲントは知る由もない。
 僕は力をつける。強くなる。怪物を倒せる力をつける。そのために。
 ゲント、君は今夜ここを出て行く。



「どういうことだ……」
 注意深く尋ねる。最近学校で物騒な事件が多発している。だが、こんな誰もいないような日を狙ってくるということは考えられない。
 意味、分かんねえ。
「お前は『選ばれし者』だ」
 その男は言った。
 また雷が鳴った。今度はさっきよりも近い。
 危険だ。



 用意は至って簡単に済んだ。元々雑用だったために、自分の物を一つも持っていなかったからだ。
 しかし、武器はどうする?何も持たずに外に出るというのはなかなか勇気がいる。あいにくゲントはそんな勇気を持ち合わせてはいなかった。
 この城には剣と槍があるが、保管されてるのは兵士の見張りがある倉庫の中だ。兵士とまともにやり合っても、勝敗はハッキリしている。
 魔法剣が使えればな……。
 ゲントはジンクスに魔法剣のことを聞いたことがある。
「でも、習得するには剣と魔法をある程度使えないといけないんだ」
 ゲントだって一応魔法は使える。歩くことを覚えると同じくらい自然に魔法は覚えるものだ。
 ただし、それは基礎的な話だ。歩くことからいかに速く走るか、いかに高く遠くへ飛ぶかに発展させていくのはまた別問題となる。
 つまり、ゲントは基礎中の基礎の魔法は知っていても、それの発展型が全く分からない。 練習するしかないのか?だが、僕はすぐにでもここから出て行きたい……。
「武道家して生きる」
「とりあえず兵士長をぶっ倒せよ、拳で」
 一昨日の会話が思い出される。ジンクスのことばっかり浮かんでくる自分が嫌になる。
 気を取り直す。
 武器はどの道今日は手に入らない。しばらくは素手で行くしかないな……。
 準備は済んだ。覚悟も決まった。この薄汚い地下室ともお別れだ。
 これからここを出て行く。
  
 ゲントは地下室から1階への階段を上った。
 物音を立てるな。兵士に見つかったら……。
「何をしている?」
 ゲントの足が凍りついた。ゲントがたった今恐れた兵士との遭遇。それがこんなにも早く実現してしまうとは。
 同年代の兵士だ。一昨日の試合でゲントの隣に座っていた。
「さっさと寝床に戻れ」
 だが、同年代の兵士なら勝てるかもしれない。武器を奪って……。
 しかし、すぐに弱気な自分が顔を出した。
 今日はやめて、明日にするか……。まだ兵士には僕が逃げようとしているとは思われていないみたいだし。今日の失敗はたまたまここに兵士が立っていたせいだ。今度は兵士の見回りを注意深く見るようにしなければ。
 そう考えてる自分への嫌悪感は更に増したが、ここで無理にいく必要もなかった。
「トイレに行こうとしたんですがね。戻りますよ」
 ゲントは背を向けた。兵士は満足げにゲントを眺めていた。
 ゲントは聞こえない程度に舌打ちした。くそ……。今日は駄目か。だが、まだチャンスはあるし、やはりゆっくり対策を練ってから。
 君は『選ばれし者』だろう?
 その声が起爆剤になったかのように、突然ゲントは振り向き、右手で兵士の服をつかんだ。
 ゲントの手がみるみる赤くなる。
「燃えろ……」
 ゲントが手を離すと、そこには火があった。しかし、あまりにも弱々しい。兵士はすぐに魔法で水を作り出し、消してしまった。兵士は鼻を鳴らした。
「雑用の力などこんなものさ。さあ、今なら許してやるぞ、ベッドに戻るんだ。さもないと次は剣を使うぞ」
 ゲント。君にはそんなものは効かないはずだ。君は選ばれし者だ。
「やってみな」
 兵士は剣を鞘から取り出した。輝く銀色の金属。その鋭利さはどこか美しい。これから一つの命を奪う、獣の『美しさ』
「責任はとらないぜ」
 圧倒的な力の差があった。それは彼にも分かっていた。何故ゲントはさっさとベッドに戻らないのか。彼自身分からなかった。ただ、本能がこう言っている。
 君は、僕は、まだ本当の力を出していない。
 行け!
 体が一気に軽くなったような気がした。縦振りを左にかわし、相手の顔に向かって飛ぶ、拳を振る。拳はあごに当たる。兵士の顔が後ろに反り返り、その顔からは意識がなくなる。そして床に倒れる。
 スローモーションを見てるようだった。兵士の全ての行動が遅く感じられる。
「見えるぞ」
 ゲントは確信する。
 やはり君は選ばれし者だ、と。


【6】


 ゲントは兵士の剣を奪い、それを持ち主の喉に突きつけた。
「騒ぐと殺す」
 勿論殺すつもりなどなかったが、ゲントの目は冷たくなっていた。
 血が騒ぐ。戦う者としての、血が。
 剣を持つとはこういうことだったのだ。相手をねじ伏せ、屈服させ、恐怖の表情を味わう……。思わず微笑が漏れた。一昨日僕を嘲った兵士が、今は僕を恐れおののいている……。兵士のプライドを、ずたずたに引き裂いてやる。
「どうした?雑用ってのは弱いんじゃなかったか?」
 兵士の目に激しい憎悪が見える。だが何も出来ない。兵士長を見るときのゲントのようだ。ここにきて、兵士長の気持ちがよく分かった。だがゲントはここには残らない。
 ゲントは兵士の腹を思い切り蹴った。兵士がうっとうめき声を上げ、気絶した。ゲントは城の出口に向かってまた歩き出した。
 いつまでもここで遊んでいるわけにはいかない。あの兵士はきっと最弱クラスだ。もっと強い兵士に出くわしたら……。
 ゲントは強く剣を握り締めた。手から汗がにじむ。が、ゲントはそこで目的のものを見つけた。
 城の入口の扉だ。ものすごく大きい。よし!これでこの城から抜け出せる……!ゲントは扉を引いた。動かない。扉を押した。動かない。鍵がかかっているらしい。
「くそ!」
 ゲントは剣で扉を切りつけた。
「まずい……」
 剣が壊れた。せっかく手に入れた武器を、こんな所で壊してしまうとは、間違いなくドジを踏んだ。しかも今の音……。城の連中に聞こえたんじゃないか……?ゲントはすぐ右側の小部屋に隠れた。
 ……入口の扉付近には誰も来ない。……どうやら、杞憂のようだ。
 ゲントはその小部屋を見渡してみた。窓がある。ゲントは気づいた。
 この窓を突き破って、抜け出せる……!しかし、ガラスの破片が体中に刺さる所を想像すると、それは実行しがたい……。剣ももうない。何かを投げつけてガラスに穴をあけるか……でも人間一人が入れるぐらい大きな穴をあけられるものなどそうそうない。どうす。
「小僧!そこまでだ!」
 ゲントは振り向いた。最も恐れた人物がそこに立っていた。ブレトン兵士長だ。後ろには兵士が群れをなしている。その中にさっき気絶させたはずの兵士もいた。蹴りの威力が足りなかったのか、それとも兵士長が魔法を使って復活させたのか……そんなことはどうでもいい。
 兵士長がゲントを捕まえようと向かってきた。
 この際仕方ない。
 ゲントは窓に向かった。
「馬鹿め!そっちは水路だぞ!」
 そうだ。城の周りは水路で囲まれていて、この城に出入りするには正門の橋を渡らなくてはならない。
 ゲントは泳げない。雑用をするのに必要なかったからだ。
 だが、このままでは捕まり、元々最悪だった城での暮らしが更に最悪なものになる。水路に飛び込んで溺れ死ぬか、捕まって更にひどい生活を送るか……。
 ……仕方ない。死ぬよりはマ。
 3つ目の選択肢。戦って逃げる。
 ゲントは兵士達に向かって突っ込んでいった。鋭利な刃物が目に映った。だが兵士達はゲントの予想外の行動に、剣を鞘から出すのが遅れた。兵士長でさえ、ゲントを捕らえ損ねた。兵士達が剣を取り出したときは、ゲントはすでに兵士の群れを突破していた。
「何してる!捕まえろ!」
 暗がりの中、兵士長の怒鳴り声が響く。
 さあ、どうする?兵士を突破したのはいいが、出口がないことに変わりはない。ぐずぐずしていると、すぐにまた追手が来る。
 階段を上るんだ!
 ゲントは階段を駆け上っていた。2階、3階、4階……。
 4階……。大臣の寝室がある。



 俺は確信する。
 こいつは狂人だ。まともじゃない。そもそもこんな格好でこの場所にいること自体まともではない。
 どうする?俺がこの教室から逃げたらこいつは追ってくるだろうか?誰もいないのか?あそこはどうだ。
 職員室。そこにいって助けを求める……。職員室は1階だから、4階のこの教室からはそこそこ距離がある。
 だが、ここにこのままいるよりはマシだ。
 勢いよく教室のドアを閉め、階段を駆け下りる。俺はちらりと後ろを見た。
 思わず俺は止まる。あの男は追ってきていなかった。



 大臣の寝室の見張りの兵士は眠っていた。ゲントはほっとした。その方が好都合だ。無駄な戦いはしない方がいい。
 ゲントは見張りの剣を盗り、寝室の扉をあけた。
 大臣は当然のごとく眠っていた。今何が起きているのか、これから何が起こるか、知ることもなく、夢の世界を貪っているのだろう。
「起きろ」
 大臣は目を覚ますと同時に目を見開いた。
 ゲントは大臣の喉に見張りから奪った剣を突きつけていた。

「何の真似だ」大臣の声は震えていた。
「黙れ。死にたいのか?」
 剣の切っ先が首に触れた。大臣は固まった。それこそ体の震えさえもなくなっていた。
「出口の鍵はどこだ?」
「兵士長が持っている」
 ゲントは舌打ちした。だが、大臣の利用価値はまだあった。
「兵士!僕はここにいるぞ!」ゲントは大声を出した。その声に反応するかのように、あわただしい足音が近づいて来た。城の灯りもついた。
 兵士長の軍団がやってきた。
「小僧!こんなことをしてただで済むと思っているのか!」
 兵士長はあの虎のような目でゲントをにらみつけていた。しかし、ゲントは動じなかった。
「思ってるとも。僕がここから出て行けば何もないさ」
「貴様はどこにも行かせん!ここに閉じ込め、生き地獄を味あわせてやる!」
「その前に、大臣を助けるべきじゃないか?」ゲントは剣に視線を移した。そしてその剣の先には大臣の喉がある……。
「出口の鍵をこっちに投げろ」
 兵士長はゆっくり鍵を取り出した。そして、憎しみを込めるかのように強く投げた。
 鍵はゲントの2メートルほど前に落ちた。
「ノーコン」ゲントはそう呟くと、剣を大臣に向けたまましゃがみ、鍵をもう片方の手で取っ。
「かかれ!」兵士長の声がした。ゲントが顔を上げたときには、剣は何かの呪文で吹っ飛ばされていた。
 兵士達が部屋に押し寄せてきた。狭い部屋なので、4、5人だったが、その中に兵士長もいる。
 この狭い部屋の中で5対1……。条件が悪すぎる。
 ゲントは背中を殴られた。まずい……。これじゃあ……。
 諦めるな!戦え!
 闘志。
 体が再び軽くなった。だがゲントはすでに兵士に囲まれていた。5本の剣がゲントの喉もとに突きつけられている。動けない。どの方向に動いても、剣はゲントを貫く。
「今度はお前の番だな。小僧」大臣は薄ら笑いを浮かべていた。
「泣いて詫びれば、少しは刑を軽くしてやるぞ」


【7】


 俺は職員室の前に来た。扉を開ける。
 静寂。
 誰も、いない。いや、一人いる。
 ただし、それはあの男だった。電気のついている職員室に、黒いコートを着た男が立っているというのはどう見ても場違いだった。
 俺はその場に立ち尽くしていた。馬鹿な。俺よりもはやくここに来ることができるはずがない……。
「……どうやったんだ?」
 俺は尋ねる。



 絶対絶命だ……。
 そんなことは関係ない。
 異常なことが起こった。兵士の剣が一斉に砕け散ったのだ。兵士長の剣を除いて。
 これには兵士達も驚きおののいた。その隙に、ゲントはまっすぐに扉に向かって駆け出していた。
「何をしている!捕まえろ!」大臣の声が響いた。兵士が扉の縁に立ちふさがった。
 ゲントは尚突っ込んだ。兵士との距離が近くなる。
 ゲントの拳はその兵士の腹に当たる。兵士が倒れる。
 自分でも信じられないくらいの覚醒だ。だが驚いている暇はない。
「逃がすな!」兵士長はそういうと、自らゲントを追いに出た。
 ゲントは階段を駆け下りた。4階……3階……2階……1階。
 扉まであと50メートル……40メートル……20メートル……!ゲントは扉に手をかけた……。
 背後に何か気配を感じた。振り向くと兵士長がゲントに剣を振りかざし、飛び掛ってきていた。
 かわせ!
 かわせなかった。
 兵士長の剣がゲントの左肩に深々と入って行った。
 赤い液体がほとばしる……この世の終わりのような痛みが肩にほとばしる、左肩が焼け落ちるような気がした。血が服につく。床に落ちる。だが兵士長はまだ剣を抜かない。かすかに笑っている。
「終わりだ、小僧。貴様の刑は」
 兵士長は剣をゲントの左肩から抜くと心臓に向かって突き出した。
「死刑だ」
 体が、動かない……。兵士長の剣が心臓に向かって飛んでくる……。
 足の感覚がなくなる。ゲントは地面に膝をついた。
 しかし、そのおかげで兵士長の剣はゲントから外れた。剣は出口の扉に突き刺さった。



「魔法を使った」
 俺は再認識する。やはりこいつは狂っている。
 だがそれと同時に新たな意見が出てくる。『絶対に違う』と考えているのに、頭の中ではその意見を認めている。
 こいつは本当に魔法を使ったのでは?
 俺は少しだけこの男を信じ始める。



 兵士長はすぐに剣を引き抜いた。今度はしっかりと狙いを定めている。もう他の兵士達も追いついてきていた。ゲントは包囲されている。
 僕は、ここで死ぬのか……。もうそれなりに覚悟は決まっていた。
 思えば惨めな人生だった。僕などは初めから存在しなければよかったのかもしれない。別の世界に生まれていれば……。いや。もう考えるのはよそう。僕はどの道ここで死ぬ。憎き兵士長に敗れて。
 いやだ……。死にたくない。ゲントを別な考えがよぎった。
 このまま終わりたくない。
 兵士長が剣を振り下ろす。それはゲントにはとても遅い速度に感じられた。
 全身を動かす力だ。力があれば……力が欲しい……。
 もっと強力な力が欲しい。
 いいだろう。君に授けよう。



「教員はどこへ行ったんだ?」
 俺の問いに、男は答える。至って感情のない口調だったが、その内容は衝撃的だった。「この世界には私とお前の二人しかいない」



 兵士長の剣を振ったところにゲントはいなかった。ゲントは兵士長の右横に立っていた。兵士長は一瞬驚いたが、もう一度剣を振った。空振り。
 ゲントの左肩からは相変わらず血がほとばしっている。だが、ゲントはそこに立っていて、しかもかすか微笑みさえ浮かべている。
 兵士達は恐ろしげに後退した。兵士長はまだその場に踏みとどまっていたが、その顔からは血の気が引いているのが分かった。
「お前は、一体何なんだ……?」
 ゲントは兵士長に一歩近づく。
「忘れたのか?」
 更に一歩近づく。兵士長がその不思議な威圧感に気おされているのが分かる。まるで磁石が反発するかのように、兵士長は常にゲントと一定の距離を保っていた。
「僕は、ゲント・ブラックアートだ」
 ゲントは鍵穴に鍵を差し込んだ。鍵を回す。扉を押した。扉が開く。ゲントはそのまま城を出て行く……。
 誰もゲントを止めなかった。
「おい!早く水路の橋を上げるんだ!あいつをここから出すな!」兵士長がそう言っている。だが、むなしい悪あがきだ。
「小僧、待て!」
 兵士長が声を振り絞った。ゲントは扉に手をかけたまま振り向き、こう言っただけだった。
「今まで生かしてくれてありがとう」
 ゲントは扉を閉めた。



 俺は何もいえない。その男が『冗談だ』というのを待つように。しかし、男は何も言わない。
 冗談ではないのか?誰もいない教室。誰もいない職員室。火曜日の平日真っ只中に、だ。
 それに……、走るのに夢中で気づかなかったが……今日学校に来る時に誰にも会わなかった気がする。生徒に限らず、普通の大人も。
 車も一台も通っていなかった。
 沈黙。雨風の音だけが響く。
「どういうことだ?」
「この世界の住人は、消された」
男は端的に述べる。
 端的に。

 馬鹿馬鹿しいと思うところだ。
 だが、この男には馬鹿馬鹿しいことを信頼させてしまう何かがあった。
「消された……って、誰に?」
「邪悪なものに。8時10分にな」
 8時10分。
 俺が家を出た時間帯だ。母親に「行ってきます」といい、水溜りに足を突っ込み……。
 その時から、この世界には誰もいなくなっていたのか?
「そんな馬鹿な」声が震えている。
「本当の話だ」
 違う。
「そんなわけがない。皆、今日は雨だから外に出ていなかっただけだ。魔法なんてあるわけない」
 俺がそう言うと、男は指をパチンと鳴らした。
 職員室の机の上に置いてあった書類がもの凄いスピードで宙を舞い、職員室の中を駆けずり回った。蛍光灯が揺れた。机も揺れた。
「止まれ」男が言った。
 すると、ちりばめられた書類は、自分の居場所を知っているかのように、もとあった所へ戻った。
 背筋が凍る。
「お前たちの世界では魔法は存在しない。が、我々の世界では」
 男が指先を部屋の外へ向けた。
 窓ガラスが一斉に壊れた。職員室の中に雨風が侵入する。
「魔法は存在する」

2005/04/10(Sun)18:23:08 公開 /
■この作品の著作権は霧さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ここが節目です。
謎がめっちゃ残っております。
えー、だから途中のゲントの冒険とかははしょって、ファイナルのみお伝えするとかは……。
却下。しませんよそんなこと。
とりあえずいけるとこまでいってみるんでよろしくお願いします。
読んでくださった皆様、ありがとうございました。甘木様、いつもレスありがとうございます。ゲント・ブラックアート。下の名前は今日考えたんですよね……。ちょっと危険な感じが出せたかな?と考えております。
ではこのへんで。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。