『ゴリラのにく』 ... ジャンル:恋愛小説 恋愛小説
作者:Vi-ma
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「この肉何の肉?」
智也は台所に置いてあった生の豚肉を指差して言った。一人暮らしを数ヶ月しかしなかったので智也はほとんど料理を作った事がない。智也の作る料理は男らしく荒っぽくて嫌いではないけれど、智也のきれいな手を水仕事なんかで荒れさせたくないから私も台所を触らせない。
私は昨日の動物園での出来事を思い出しながらうそぶいた。
「ゴリラのにくよ」
智也は顔をしかめながら冷蔵庫を開ける。
「気持ち悪いこと言うなよ」
取り出した牛乳をグラスについで、智也は台所を後にした。
智也とは大学一年生の時、バイト先で出会った。
一目見た瞬間くらくらする程好きになって私達は恋に落ちた。本当に、文字通り、すっぽりと、恋の中に私達は落ちていったのだ。
それは気の遠くなるほど深い穴で気がつくと出口なんか見えなくなっていた。もうもといた生活には戻れなくてそれは少し不安だったけれど、目の前に智也がいれば何も怖くはないような気もした。
私達は馬鹿みたいに愛し合った。どこにどうやって触れても皮膚と皮膚で隔てられている自分達のからだをもどかしく思ったこともある。混じり合って溶け合ってひとつの生き物になりたかった。でも所詮私達は別々の生き物なのだという事に私達は気づかないふりをしていた。
昨日、動物園へキリンを見に行った。智也が突然キリンを見てみたいと言ったからだ。
きっとテレビか何かで見て気になったのだろう。智也は時々訳のわからない事に興味を持つ。青汁を飲んでみたいだとか、金縛りにあってみたいだとか、子供のような事を言うのだ。
でも今回はわかるような気もする。私もキリンは恐ろしくおかしな生き物だと思う。長い首とか大きな目とか睫毛とか角(のようなもの)とかあの模様とか。
キリンは思ったよりも全然大きくて迫力があった。写真で見た通りの外見だったけれど、のそのそと歩きながらひたすら葉っぱを食べるキリンはちっとも可愛くない。
私はキリンへ視線を向けたまま智也に話しかけた。
「大きいね」
「圧巻だな」
智也は最近圧巻という言葉をよく使う。言葉の響きや字面なんかがきっと気に入っているのだろう。
「期待通りだった?」
「うん」
智也は小さく頷き、黙ったまま少し歩いてベンチに腰掛けた。私も黙ったまま着いて行った。こういう時、何を考えているのか知らないけれど、話しかけても智也は気の無い返事しか返さない。
ベンチに座ってまたキリンを見た。少しだけ小さく見えるキリンは錆びた柵の奥をやはりのそのそと歩いていて、とてもシュールで滑稽だった。そういえば小学生の頃キリンの絵を描いた事があった。あの時確か私は黄色の絵の具で塗ったけれど実際はむしろこげ茶に見える。今度キリンの絵を描く時はこげ茶で塗らなくちゃ、と私はなんとなく思った。
「窮屈そうだな」
突然智也が呟いた。たぶんキリンのことを言っているのだろう。あまり活発に動かないからそこまで窮屈には見えないけれど、私は「そうね」と呟いた。
智也は浮気をしたことがある。
急に服を買ってくれたり朝帰りが続いたりして様子がおかしくなった。友達に相談したら絶対浮気だと言われたけれど私は智也を疑えなかった。何がどうなって智也が私以外の女の人を好きになるのかわからない。
だから私は安心する為に智也は浮気なんかしていないという理由を作る為に智也の携帯を覗いたのだ。
付き合い始める時、私達は浮気をしたら何があっても絶対別れると決めていた。浮気を知ってから、私は別れなくちゃとぼんやり思いながら随分長い事黙っていた気がする。
不思議とその時はちっとも悲しくなかった。涙も零れなかった。智也に浮気をされたんだ、だから泣かなくちゃ、と思った事もあったけどどうしても泣けないのだ。
「智也が浮気をした」その事実はどこかふわふわして現実味がなく漠然としていた。ただ単に智也の浮気を信じられなかったのかもしれない。あるいは信じたくなかった。
あれは確か二人で遊園地へ遊びに行った日の晩御飯だったと思う。ジェットコースターの話をしていたからたぶんそうだ。しばらくとりとめのない話をした後、ふと会話が途切れ、その瞬間に私はほとんど無意識のうちに聞いていた。
「浮気相手の女の人はどんなひとなの」
智也はぎょっとしてそれから何度も謝った。言い訳もしなかった。でもただ、お前を一番愛してるんだと言った。私はそのことばを、自分でも驚くくらいすんなりと信じた。
「でも決めたことだから、別れなくちゃいけないわ」
私がそう言うと智也は泣きそうな顔をした。少し黙ってからひとつずつ慎重に言葉を選んで、でも力強く話し始める。
「俺達が別れなければ確かに約束を破る事になる。それは間違いなのかもしれないけど、でも俺達はまだ愛し合ってるじゃないか」
慎重だったのはそこまでで、後は耐え切れなくなってしまったように震えた声で必死に言った。だから別れるのはやめてくれないか、本当にすまないと思ってるんだ、お前を失いたくない、愛し合っていることが、答えにはならないのか。
それから智也に抱き締められた。痛いほど熱く情熱的で、溶けてしまいそうな抱擁だった。
そこで私はやっと泣く事ができた。どっと気持ちが溢れるようでどうしようもなかった。えっえっ、と嗚咽を漏らしながらすがるように泣いた。
私達はどこへ行けばいいのだろう、どうなってしまうんだろう、どうするべきなんだろう。私には分からなかった。確かに愛し合ってはいるけど智也がそれを裏切った事も答えのひとつなのだ。
でも結局私は智也を切り捨てられなかった。こんなにも深い穴の底で智也を失ったら、私はきっと孤独で死んでしまう。
四時頃動物園で、そろそろ帰ろうかと話していたら智也の財布がない事に気が付いた。
私達は急いで忘れ物センターに行き、財布が届いていないか聞いてみたけれど、受付のおばさんは「残念ですけど財布は届いていませんね」と面倒くさそうに言った。
それから「財布なんかはね、拾われてもここに持ってくる人はやっぱり少ないんで。職員が拾えばよかったんですけどね」とつけたす。もう誰かに拾われて中身も全部とられてしまったような口ぶりだったので私達は絶望的な気持ちになった。
どうしようもないので日も落ちかけた動物園のベンチに座ったまま途方に暮れてしまった。あの財布にはお金の他にも免許証とかクレジットカードとかとても大切な物が入っている。智也も私も何も言わずにただ呆然としばらくそのまま座っていた。
「キリンを見たいなんて言わなきゃよかった」
ぼそりと呟いた智也の言葉を聞いて私はほんとうに悲しくなる。
「この動物園人あんまり来てないし、まだ拾われてないかもしれないわ」
私がそう言うと智也は少し考えた後、顔を上げて「一応探してみるか」と言った。
ほとんど可能性がないことは充分わかっていたけれど、お金を使った場所を片っ端から回ってみた。
自動販売機にも昼食をとった店にもペンギンの餌を買った店にも財布はなかった。智也はほとんど何も話さなかった。だから私も何も話さず、ただ二人で黙ったまま歩いた。折角久しぶりに智也と二人きりで出かけたのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう。キリンの大きさと迫力を見て満足して帰るはずだったのにどうしてこんな事をしているのだろう。私は泣きたくなった。
財布はおやつとしてワッフルを買った売店の前のベンチにあった。
智也はすごく喜んで子供のように駆けて行く。私もそれはもう、ものすごく、とてつもなく安心して智也を追いかけたけど、財布の中身がぬきとられている可能性に気付いて笑うのをやめた。
財布はお金だけなくなっていた。智也は二万円も入っていたのに、とすごく怒っていたけれど、私は二万円くらいどうでもよかった。免許証やクレジトカードの方がどう考えても大切だと思う。「とられたのがお金だけでよかったじゃない」と言ったけどあんまり智也が怒るので「でもひどい人もいるものね」なんて言い訳みたいに言ってみたりした。
機嫌の悪くなった智也に帰ろうと促すと黙ったまま歩き始めた。ふと周りを見ると檻の中で毛むくじゃらのゴリラがバナナをむしゃむしゃと食べていた。私はとても奇妙な気持ちになる。財布のお金をとられて機嫌の悪い智也の横でゴリラがバナナを食べている。
すると、突然、ゴリラがおそろしく太く低く大きな声で、吼えた。
どこまでも遠く遠く響いていく、空気がびりびりと震えるような咆哮だった。バナナを片手に持ったまま、真っ直ぐに空を見上げて、何かにとりつかれたみたいに吼える。その瞬間だけ、動物園はゴリラの咆哮に支配されてしまったようで、少なくとも私にはゴリラしか見る事ができなかった。ゴリラが吼えていたのはたぶん一瞬だったけれど、その咆哮はあまりにも鮮烈だった。
キリンが思ったよりも大きかった事も、財布を探し回った事も、お金がなくなっていた事も、全て吹き飛ばされたようで、キリンを見に行ったのに吼えるゴリラだけが動物園の思い出になってしまった。たぶん、智也と遊園地に行った思い出や、浮気を知った時の記憶なんかの中でゴリラの咆哮は異質な存在としていつまでも残るのだろう。
気が付くとゴリラは吼えるのをやめていた。動物園は、奇妙に静かだった。
智也はゴリラの肉と偽った豚肉を美味しそうに食べている。
テーブルに並べられる料理はいつも質素なものだけど、智也は美味しいと言ってくれる。一人暮らしをしていた時、私は自分が美味しいものを食べる為に料理を作っていたし、それが当然だと思っていた。智也は、他人の為に料理を作る喜びを私に教えてくれた。
私達はやはり、まだ悲しいくらい愛し合っている。
一度壊れかけた関係をもとに戻す事は、一から関係を築いていく事よりもずっと難しい事だと私達は知っている。前のようにお互いを馬鹿みたいに信頼して触れ合えない事を私達は知っている。それでも智也が言うように愛し合っていることだけが答えになる日が、いつか来るのだろうか。
「豚肉だったんだな」
何の肉だか生だと分からないのに料理をすると分かるなんて、智也は変わっていると思う。でもそれが普通なのだろうか。
「ゴリラのにくよ」そう、私はまた偽った。
顔をしかめて「それやめろよ」と言われたけれど、私は返事をしなかった。
2005/03/06(Sun)17:17:14 公開 /
Vi-ma
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■作者からのメッセージ
はじめまして。
ゴリラのにくを読んでくださってありがとうございます。
これは「お題「ゴリラ」で恋愛小説を書く」というテーマで書いた小説です。
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