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『ミルキング・パーラー』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:恋羽
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「汚い仕事だと思うか?」
俺は目の前の金髪の男にそう言われた。
答えられなかった。
「だろうな。みんなその程度なんだ」
「いや、でも」
俺は反論しようとした。でも言葉は何も出てこない。
「この仕事は誰も認めてくれない。体が危険にさらされた時、誰も助けてはくれない。そして誰もが汚い仕事だとののしる」
小野寺さんは自虐的と言ってもいいほどの言葉を言い放った。
「そして、動物に対して飼い主みたいな愛情を持つ事も許されない。家畜とペットは違うんだ。ペットの子猫が病気の時、お前はここでするみたいに注射を打つ事ができるか?」
その言葉は余りにも重く、痛々しかった。
でも俺にとってもっと重かったのは、痛かったのは、向こうから現れた美沙が小野寺さんの方を見て涙ぐんでいる事だった。彼女の気持ちが小野寺さんに傾いていくような、そんな感じがした。
「それでも俺はこの仕事を続けていく。これからずっとな」
小野寺さんが言った言葉は俺にはほとんど届いてこなかった。
この牧場で働き始めて何ヶ月目の事だったっけ。三ヶ月目くらいかな。
俺は暗闇の中で、彼女を見つけたんだ。
600ccのバイクにまたがって、近所、といっても2,3キロあるコンビニまで俺は走っていた。
牧場では珍しく、自炊する事が義務付けられているうちの牧場では、アパートの一室みたいな欠陥住宅を一人一軒あてがわれる。
田舎の早い夕暮れに置き去りにされて、仕方なく一人で買い物に向かう途中の事だった。
それは本当に突然だった。
林みたいなのに囲まれた小さな公衆便所的な建物のバス停。そこから女が飛び出してきた。
俺は今までに身につけたバイクテクの全てを駆使するしかなかった。避けて通る事が困難なくらい、女との距離は短かった。
まずクラッチを切りアクセルを緩め、フロントブレーキをロックする。
すると、後輪がひとりでに前へ行こうとする。その後輪をバランスの調節によって体の右側へと流す。
そうなったら後はひたすらリアブレーキを踏み、体を上手く後ろ、バイクの左側にかける。
耳にはただタイヤとアスファルトが擦れる音だけが聞こえた。
俺はただ目をつぶり祈るだけだった。――上手くいってくれ……!
バイクが止まった。そこで左足をつく。タイヤの焦げる匂いが鼻についた。
俺は目を開ける。
女は微動だにせず、そこにいた。タイヤは、そしてものすごく熱いエンジンは、彼女の数十センチ手前で止まっていた。
「なにやってんだよ!」
俺は思わず叫んでしまった。
女は何も言わなかった。こちらを向いて立っているだけだった。
少し青白い顔。目深にかぶったデニム素材のキャップ。その端からやや濃い茶色の髪が見える。それらが与える暗い印象とは裏腹に、半袖のマリンブルーのシャツは短く、へそを出すような形で着られている。キャップに合わせたのか同じような色彩のパンツ。左の足首にはビーズらしきアンクレット。白の通気性の良さそうな靴は、妙に彼女の清廉さをアピールしているような気がした。そしてその背には大きめのボストンバッグが背負われている。
このボストンバッグ……、もしかして。
「ごめん、なさい」
女は小さな声でそれだけ言った。薄っぺらな、だけどどこか心のこもった、そんな言葉。
その言葉に俺はしばし沈黙してしまう。
――もういいや。俺は本心からそう思った。そしてバイクを立てなおすとスタンドを立て、情けないがタイヤのチェックをした。擦り切れて走れなくなってないか、確かめなければならないのだ。
彼女は、立ち去ろうとしなかった。俺の方をただ見ている。
「……どうした?」
俺は思わず聞いてしまった。聞かなくてはならない気がした。
「あの」
女は上手く言葉が出てこないようだ。もしくは何か話したくない事があるのかもしれない。
「別に、言いにくいなら言わなくていいぞ?」
しかし女は何かを伝えたいようだ。それが様子からわかった。
そういえば……、この女は何故こんなところにいるのだろう。ここらのバスは乗ったことが無いからわからないが、もう終わっている時間のような気がする。田舎は早いから。
もしかして……、幽霊? いや、それもないな。だって一応生気は感じられるし。血の通った女の子だろう。……これまた経験が無いからわからないが、おそらく十代後半の。つまり俺と同じ位の。
「あの、どこでもいいので寝られる場所に連れていってくれないですか」
女は急にはっきりとした口調に変わった。ずいぶんと溜めがあったからだろう。声にはだめもとで、という感じの響きがあった。
「泊まれる場所ってことか? ホテルとか、旅館とか」
女は首を振った。
「いえ、……あの、お金持ってないんです」
「え?」
俺はイヤな予感のようなものが当たってしまったのかもしれないと、少し落ち込んだ。
「……家出、か?」
俺がゆっくりとそう言うと、女は小さく、暗闇ではわからない程度にうなずいた。
俺は少し考えた。――金が無くても泊まれるところ……?
「……俺の家? で大丈夫か?」
俺は考えた末にそんな提案をした。
女は少し考えてからうなずいた。無表情に。
俺も妙な仏心を出したもんだ。実は慈悲ぶかいのかもしれないな、俺。
コンビニまで五分くらい。その間、俺はノーヘルで走った。後ろに乗せた美沙にヘルメットをかぶせて。走りなれた道だから、転ぶ事も無いだろうし。今まで一回も転んだ事無いし。
コンビニで今日の食材を買い揃える。といってもいつもならばめんどくさくて弁当か何かで済ませてしまうのだが、今日はなんとなくそういう訳にもいかない気がした。美沙がいるのだから。
「なんか欲しいものがあったら、買っといていいよ」
美沙はうなずく。やはり声に出して話すのは苦手らしい。
そして美沙が妙な行動を取っている事に気付く。
天井の四隅を見まわしているのだ。特に何の意味も無いのかもしれないが、その行動はやけに俺の目を引いた。
万引き……? よく万引き犯がやる行動に似ていた。
だが彼女は食べ物を買い物カゴにちゃんと入れている。万引きなんてする必要も無いはずだ。
それでも彼女は監視カメラから顔をそらし続ける。一体何の意味があるんだろうか。
俺は俺で、今日の分の食料をカゴに入れていく。――インスタントラーメン、スナック菓子、2リットル入りのジュース。チマチマとした肉のパックや、野菜類。それと食パンに、後は、煙草。
美沙は栄養補助食品みたいなのとか、菓子パンとか、そんな物を買った。――ああ、なけなしの諭吉君が……。
会計を済ませ、店を出ると俺はターボライターで煙草に火をつける。バイクに乗ってても火を点けられるターボライターは、ヘビースモーカーの俺には必需品だった。
すると急に美沙の視線が俺の顔に刺さる。
「……煙草、いやか?」
俺がそう言うと、美沙は首を振った。
「……欲しいのか?」
今度は一回だけうなずく。
俺はソフトパックを斜めに傾けると、小さく縦に振る。そうすると、二本の煙草のフィルターが飛び出る。――ちょっと失敗。
美沙はその内の一本を引きぬくと、それを咥えた。
俺は美沙の顔に火がかからないように、横に向けてターボライターの火をつけた。
そこに美沙は煙草の先をつける。
赤い火が、静かに灯った。
彼女はむせる事も無く、普通に吸いこんで吐き出す。
俺はしゃがみこむ。別によく街で見かけるアホ共のようにいきがっている訳じゃない。ちょっと、疲れたのだ。肉体労働の後の一服もせずにここまで来た訳だから。
それを見て、美沙が真似する。
「あのさぁ、言いたくなかったら答えなくていいけどさ、美沙は何歳なの?」
俺は気になっていたことを口に出した。他に色々聞きたいことはあるが、まず第一にそれだ。
「……十八」
彼女は少し詰まったが、言った。
十八、か。ということは俺の一つ下だ。
白い煙を吐く。コンビニの白っぽい明かりの下だと、それは余計に白く見えた。
沈黙、だった。特に何も交わす言葉が無い。かといって、無理に世間話をする間柄ではない。
俺が煙草を地面に押し付けると、美沙もそれに倣った。
そして俺達は再び、さっきよりも暗くなった道に戻ることにした。
牧場の静かだけれど生命の鼓動が聞こえてくるような、そんな空気が道路のところでも感じられた。
俺はその一本の道路の牧場とは反対側へ折れる砂利の坂道を、ゆっくり下った。
そして、三軒の小さい住宅が並ぶ内、その一番手前の家の前にバイクを止めた。
「ここ」
俺はそう言うと、バイクから降りて俺と美沙との間にはさんであった買い物袋を持った。
大して何も言うことなく、俺は玄関の扉を開ける。一応二重扉になっている。冬の為の対策だ。しかし、相変わらず鍵は掛かっていない。……鍵掛けたって、誰が泥棒に入るってんだ?
玄関を通り寝室兼食堂兼リビング兼トレーニングジム兼アトリエの電気をつける。安っぽい木製の壁はどの面もほとんどが俺の貼り付けた「作品」に覆われている。ついでに言えば床もだ。辛うじてパイプベッドの上と下だけが、なんとか守られていた。
「悪いな。女の子が来るならもうちょっと綺麗にしとくところだけど」
「……この絵……何?」
美沙は部屋を見まわす。……そりゃ驚くだろうな。
部屋は白い紙に鉛筆で俺の描きつけた髑髏だの般若だの鬼だの蛇だの竜だの虎だの鯉だの……、まがまがしい感じの絵で支配されていた。
「俺な、一時期本気でタトゥアーティスト目指してたことがあって。まあ挫折しちゃったわけだけど。そんで今でも好きでこうやって書いてるわけ」
俺は鼻の頭を掻いた。なんとなく、恥ずかしかった。
美沙は呆然としてその睨みつけるおどろおどろしい絵を見つめている。
「上手、だね」
彼女はかろうじてそう言った。まあ、そんなもんだろう。
「君も、なんか入れたかったら言ってくれればデザインしてやる。俺のイメージ通りに入れてくれるタトゥイストも、紹介してやるから」
俺はそう言ってから、美沙が未成年だった事を思い出す。――無理か。未成年は色々面倒だし。……俺もだけど。
それから俺達は買ってきた食料を食べつつ、話をした。ようやく少しは心を開いてくれたようで、美沙はたまに笑うようになった。
「生馬(いくま)クンは、いつから牛の仕事してるの?」
こんな感じで彼女の方からしゃべるようになった。
「ほんのちょっと前からだな。まだ駆け出しだよ」
「ふうん」
「しかし汚い仕事だね。毎日が糞との戦いだから。汚い話だけど」
食事をしながらする話じゃなかったが、それでも美沙は笑ってくれた。
しばらく下らない話が続いた。俺は笑いながら、今日の食事を終えた。
そして煙草に火を点けると、少し話題を変えることを思いついた。
「そういえばまだ聞いてなかったけど、美沙はなんで家出? したの?」
俺がそう聞くと、美沙は少し表情を固めた。
しかし俺は聞かざるを得なかった。何にしても、ちゃんと聞いておかなければいけない事なのはわかっていた。それ次第では俺が力になれることもあるかもしれない。思い上がりかもしれないが。
美沙は視線を下げて、少し考え事をしているようだった。
それを見て俺は彼女の痛みのようなものが伝わってくるような気がした。
「別にさ、正直に話さなくていいよ。要は俺が納得できればそれでいいんだ。嘘でもいい。だから、美沙の言葉で聞かせて欲しいんだ」
――それなら聞かなくてもいいんじゃないか? という考えも浮かびはしたが、俺は前言を撤回しなかった。今言ったのが俺の正直なところだった。俺が納得できる根拠が欲しいだけなのだ。
美沙は静かに、表情を緩めた。そして、再び硬く閉ざされた口を開く。
*
あたしは、高校には通ってない。最初の三ヶ月くらいでやめちゃった。
理由は……、特に無かった。ただ周りの子達と少し自分が違う事がわかった、それだけだった。
昔から煙草とか、万引きとか酒とか……、大抵のことは経験してきた。
そのせいかな。割と悪い人に抵抗が無くて。男の事だけど。
それで、高校をやめてからそういう仲間が出来ちゃって、いつのまにか暴走族が結成されちゃったんだ。あたしはそのチームのレディースの総長にいつのまにかされちゃって。
暴走族なんて古い? そうだね。確かにもうほとんど天然記念物になっちゃってるかな。
でも、あたしは離れられなかった。あたし達は、かな。表の社会でいじめられて、裏の社会でも上の連中にいいように利用されて。それでもやっぱり離れられなかった。
まあそんな感じでそのあと一年と少しは過ぎて。一般人を追いこんで。殴って、蹴って。むしりとって。なんとか生きてた。
だけど……、運が悪いよね。街中を流してる時に、一斉検挙に引っかかっちゃってね。バイクを飛び降りて逃げたけど、ほとんどのメンバーは捕まっちゃってね。
その上、あたしの場合もっと運が悪かった。ホゴカンが付いてたんだ。保護観察。一般の人にはなじみが無いかもしれないけど。これが付いている時に補導とか逮捕されると、かなり高い確率でネンショーに行く事になるんだ。少年院、だよ?
で、あたしは見事緊急逮捕。留置所、鑑別所、そして少年院っていう流れに乗った。
正直なところ、どうでもよかった。ネンショーのことは先輩とか知り合いとかから聞いてたし、別に今更怖がるほどのもんでも無いってことは知ってた。
でもねぇ、そんなに悪いところでもなかったよ? 信じられないかもしれないけど。
心が、痛くなった。なんか、自分の知らないところで苦しんでる人とか、今まで見えなかったようなものが少しずつ見えるようになってきたっていうか。フツーの人にはわかんない感覚だよね。更正っていうのかな、そういうの。
で、出てきてさ、「あたしは今度こそやり直すんだ」っていう決意? そういうのが体中に溢れてきた。
生まれて初めて仕事もしたし、煙草も喧嘩も止めた。酒とか、ましてやクスリなんてもってのほか。マジメライフスタート、だったね。じいちゃんばあちゃんの家で暮らす事になって、昔の仲間と関わる事もないはずだった。
……、それから。それからだよ。
出てきて二ヶ月過ぎて、あたしは毎日バイトの日々。カラオケの店員、なんてかっこ悪いかもしれないけどさ、楽しかった。
でもさ、今考えるとそんな仕事ホントは選んじゃいけないモノだったんだよね。マズったなぁ。
「美沙センパイ!?」
それが、あたしの人生をもう一度狂わせることになる。
後輩。ニコ下の男。そして、その仲間何人か。5,6人かな、あたしが働いてるとこに来ちゃったんだ。
あたしが顔を知ってたそのガキは、あたしらが作った族の取り巻きみたいな連中の頭、要するに金魚の糞みたいなチームを組んでたトップ。
「出てきてたんスか?」
「何してんスか、こんなとこで」
「もしかして働いてんスか?」
口数が多い奴で、ウザかった。
だけど、後輩がいる前で恥はかきたくなかった。こんなやつでも、こんなやつだからこそ、やたら大きい情報網みたいなのを持ってる。
「そんな訳、ないじゃん」
あたしの口からそんな言葉が出た。意味がわかんない。だけど一旦口から出た言葉は、もう戻す事は出来なかった。
「じゃあ、これからオレ等と遊びません?」
『殺し』文句。ホントの意味での、『殺し』文句ってやつ。
刺激に飢えてて、平和に飽きてきてたあたしは、そんな下らない誘いにも簡単に乗っちゃった。あの時の決意はどこにいったのか、自分でもわからない。
それから、昔の仲間とまた元の鞘に納まって、……。
*
「……それで?」
俺は彼女の話が始まってから、初めて聞き返した。彼女が何も言わなくなったからだ。
「なんでそれが家出につながるんだ?」
自分でもずいぶん残酷な事をしてるなと思いつつ、俺はあえて聞き続けた。
彼女はコップに注がれたジュースを飲む。
「また元通り、家や親や周りの人に迷惑をかけることになるのが怖くて。クスリに手ぇ出すのが怖くて。逃げるぐらいしかあたしにはできなかった。とにかくどこでもいいからって、逃げてたらいつの間にか、ここにいた……」
美沙は少し泣いていた。
俺は何も言わなかった。別に彼女を見下しているのではない。十代でタトゥアーティストを目指す人間だって、それなりにそういう世界をのぞかざるを得ない。実際それが嫌で俺はその夢を諦めたのだから。
ただ、何を言ってやればいいのかわからない。……、確か俺の記憶では、少年院を出た者もまた保護観察を受けるはずだ。知り合いがそうなったからある程度知ってる。彼女の話ではその期間はまだ終わっていないはずだ。
そして、彼女が家を出たことによってもし捜索願のようなものが出されていたなら、彼女の最近の行動が保護監察官に伝わっていたなら、いわゆる「再入」ということになりかねない。
彼女と接していて感じた限りでは、彼女はそんな事がわからないほど馬鹿では無さそうだ。それを知っていて、あえて逃げてきたんだろう。
それを考えればコンビニでのあの妙な行動も頷ける。
俺は、彼女にかけるべき言葉が思い浮かばなかった。
彼女と会ってから何回目かの沈黙。付き合い始めて間もないカップルみたいな。だけど気分の悪い。
その沈黙を打ち破ったのは……。ドアを開く音だった。
「おーい、生馬ぁー」
千春のアホな声、だった。
人間とは違う、もっと小型の生物みたいなのが千春だ。よく「人形みたい」と言われるようで、彼女自身もなかなか気に入っているようだ。多分小さいという事を上手く形容できなくてそう言われているのだと思うが。まだ中学生だというのに、この不気味な絵が入り乱れる場所によく来る。
淡いグリーンのフリースのパーカー、パッチワークがいくつも施されたジーンズ。田舎の子供には見えないファッションだ(というと田舎の子供に失礼だが)。
彼女の大きな目が、こちらを見ていた。心なしか、目がいつもよりも大きく見えた。驚いているのか。
「どうした、千春?」
俺が聞くと、千春はボロボロ涙をこぼした。
「千春?」
「生馬、……この人誰ぇぇーー!!」
遂には絶叫した。俺はその衝撃波に耳を塞ぐ。
「なんだよ、叫ぶなっての。コンビニ行く途中で拾ってきたんだよ」
俺が言うと美沙が小さく、「こんばんは」と言った。
しかし美沙を無視して、千春は俺を睨みつけた。
「……ナンパして来たの?」
なんか、浮気を責められる亭主みたいだ……。なんで俺が中学生に……。
「違うっつーの。……子供は早く寝なさい、子供は」
俺はイヤミっぽく言った。実際田舎の子供は通学時間が掛かるから、早く寝る。コイツが異常なんだ。
千春はしばらく変わらず睨みつけていたが、
「……もういい」
と言い放つと、部屋を出ていった。ドアが叩きつけるように閉められる。
全く……、なんだってんだ。俺の部屋に誰が居ようと俺の勝手じゃねぇか。
「あーあ」
突然美沙が言った。
「なんだよ」
俺が聞く。
すると美沙は笑った。……、なんで笑ってんだ?
「あの子、多分生馬クンのこと好きなんだと思うよ。気付いてないかもしれないけど。……あの子の目さ、さり気にメイクしてあったの、わかんなかった? なんかねぇ、今年の流行で目を大きくするのが好きな男を振り向かせる手段なんだって」
俺は黙る。こういうのって不公平だと思う。だって、鈍感に見えるかもしれないけど、俺だってそのぐらいの事はわかってた。だけど、千春がいると話しにくいだろうと思って俺なりに気ぃ使ったつもりだったのに。その報いがこれか? 鈍感に見える男って辛いな。
「あの子、何者?」
美沙はまるで曲者、みたいな言い方をした。
「俺の働いてる牧場の社長の娘。家がすぐそこにあって、よく来るんだ」
俺は言いながら煙草を咥えた。
美沙は俺がテーブルの上に置いた箱から一本煙草を取ると、ライターを俺のほうに差し出した。そして火が点く。
俺がさっさと青い火の中に煙草の先を突っ込むと、美沙はすぐに自分のほうに火を点けた。
「……、じゃあいいじゃん。結婚しちゃえば? そうすれば牧場、生馬クンのもんでしょ?」
「別に、ずっと続けようと思ってるわけじゃないしな。なんとなく田舎に住みたくて始めて、やめる理由が無いから続けてるってだけで。……それにあれと結婚する気は無いぞ、死んでも」
俺は煙を吐きながら言った。
「なんで? カワイイ子じゃん」
そう言われて俺は笑った。どこがだよ。
それで話が途切れた。いつまでも千春の話をしているのも変だし、かといって他に話題があるわけでもないし。
二十インチのテレビの横に置かれたデジタル時計は、もうすでに十時過ぎである事を表示していた。
俺は大きくあくびをした。……いつもならもう寝ている時間なのだ。何故なら朝は四時半から仕事だから。
「……風呂は? 入るでしょ?」
煙草を消しながら俺が聞くと、いつの間にか元の暗い雰囲気に戻った美沙が小さくうなずく。
「ユニットバスになってるから、あの狭ーい奴。あっちの奥にあるよ。……俺はもうシャワー浴びたからいいよ。俺、二人分の寝床作っとくからさ、入ってきていいよ」
俺は言うと、小さな押入れから冬用の毛布を2,3枚取り出す。
美沙は大きな鞄を背負って立ち上がった。あの中に着替えを入れているんだろう。
美沙が居なくなると俺は床の上の「作品」達を片付けて、冬用の毛布を絨毯の上に敷く。そして古臭い蛍光灯のカバーから伸びた紐を引き、灯りを小さくする。
俺はいつものように着ているものをパンツ以外全部脱ぎ去ってしまおうをしたが、美沙のことも考えて上はTシャツ一枚、下は少し長めのハーフパンツを履くことにした。
そしてさっさと寝床に入ってしまう。もちろん、毛布の方に。
――明日も仕事かぁ。
そんな事を考えていると、小さなシャワーの音が聞こえる。
聞こうとしないようにしても聞こえてしまう。なんとなく『愛のホテル』で、片割れを待つ男の気分だった。
――あーもう、余計な事考えんな。寝ろ。明日も早いんだ。
しかし聞こえる。その音がこの後に繰り広げられるめくるめく夜を想像させた。
――だから。めくるめかねぇって。もう六時間しかねぇんだぞ。
そんな葛藤がしばらく続いて、ようやく睡魔が打ち勝った時、風呂の戸が開く音が聞こえた。
眠い……。だが妙に緊張してしまって、どうにも寝る事に集中できなかった。
「……生馬クン?」
鼻に俺のとは違う香料の匂いが感じられた。自分のシャンプーとか、持って来てたんだ。
俺は美沙のその小さい一言にパッチリおめめになってしまった。
「美沙、俺ここで寝るから、男臭いかもしれないけどそっちのベッドで寝て」
しかし俺は美沙に襲い掛かる事は無かった。……別にねぇ、そんなんが目的で連れこんだわけじゃないし、好きでもない女に手ぇ出すのは嫌いなんだ。……と、言い訳しとく。
「そんな、悪いよ。あたしが下で寝るから」
「……ごめん、もう眠いから。起きあがるのダルイ」
俺はそれだけ言うと、今度はあっさり眠りについた。
遠くから野太い牛の鳴き声がゆーっくり聞こえてきた。
タトゥの海の中で、俺は美沙と抱き合った。
右肩に入れた、自分のデザインしたリアルな蛇のタトゥ。その辺りを美沙はじっくりと見つめた。
SEX? 違うと思う。性的な繋がりよりもっと深いところが、触れ合った。
全身に肌を削られるような、痛みと痒みが襲った。どこか官能的な感触。
美沙の全てが俺のデザインした生物や静物で埋め尽くされる。黒を背景とした空間に白い肌の美沙が浮かび、何機もの鋭利な機械が彼女の肌を動き回る。その機械が通りすぎた後、刺激的なグラフィックと腫れたよな痕が残される。
痛みにのけぞる彼女の顔は、俺の目を通過して神経を通り、脳に入って性的刺激として扱われる。
今度は俺。
……? なぜか機械が俺の顔ばかりを動き回る。……イテテ。
次は牛肉のステーキ用肉が、俺の顔にぶち当たる。……痛い。
「起きろってば。仕事だって」
耳元で千春の声がした。小さい声。
空気を切る音がして、俺の左頬に痛みが走る。平手打ちだ。
「イッテェ!」
目を開けて俺がそう叫ぶと、千春が人差し指を立てて唇に当てていた。
「うるさいって。起きちゃうだろが」
「あぁ?」
俺は夢から覚めて体を起こすと、すぐ横のベッドの上の美沙の顔を見た。
あ、そうか。こいつがいたんだったな。道理でいつも大声で俺を起こす千春が、妙な起こし方をするわけだ。
「ほらぁ、早く。遅れちゃうよ」
目の前の千春を見ると、ピンクのつなぎを着ていた。……あ、やべぇ、仕事だ。
「わりぃ、ちょっと出てくれ。すぐ用意する」
千春が出ていったのを見て、俺は青いつなぎを着た。
その時、美沙の顔が目に入る。――このまま寝かしといていいのかな?
だが考えても仕方ない。俺は彼女を起こそうなんていう考えには至らないんだから。
俺は少し考えて、テーブルの目立つ位置に五千円札を置いた。
俺は顔を洗って歯をぎりぎり磨き、さっさと家の外に出た。
外はさすがにまだ暗い。真夜中と言ってもいいぐらいだ。
もうすでに千春は俺のバイクの後ろに座っている。自分用に買った、ラメ入りの顔出しメットをかぶって。
「遅いぞ、早くしてよ」
俺はさっさとバイクをまたぐと、キーを回してエンジンを掛けた。
「あのさぁ千春」
俺は後ろ向きに千春に声を掛ける。
「何? 金だったら貸さないよ」
「誰がお前にそんな事頼むか。……あの女の事だけどさ、もし帰ってきても家に居たら妹ってことにしといてくれないか?」
俺が言うと、千春は一呼吸置いてから、
「いいよ。なんか事情があるんだろうし」
と言ってくれた。
なかなかいい娘じゃのう、とか考えていると、
「口止め料として、寒いからコーヒーおごってね」
と言いくさった。
今日はずいぶんとまた晴れているようだ。……いくらなんでもこれだけ星が出ていると、風流もクソも無い。
太陽が目を覚ますのはまだ先の話になりそうだ。
ボロクソに急かされたけど、実際まだ四時半までは十五分か二十分ある。俺はいつもこの時間を使って目を覚ますようにしている。
ほんの目と鼻の先の牛舎に行くのに、なんで俺と千春がバイクに乗ったかといえば、ちょっと寄り道をする為だ。
俺の、アメリカンタイプのバイクは一切改造をしていない純正パーツの寄せ集めだ。一時期は改造に凝ったこともあったけど、精神的におっさんになったのか、今はむしろ製作者の望んだ音に満足している。一本筋通った音。軽さと重さの共存。
ウチの牧場の牧草地を囲むようにして敷かれた道路。長さは大体一キロぐらいかな。そこを俺のバイクが疾駆する。後ろにクソガキを乗っけて。
煙草を咥えて、ノロノロ運転する。どうせこの道にはだーれも通んないんだし。
星の海の下で緑の草原の中を鉄の馬に乗って走る。気分が良くなって蛇行運転になる。そうすると腹に回された千春の腕がきつくなる。……はいはい、変な事はやめますよ。
しばらく走っていくと、煌々と輝く自販機。これが中間地点。
そこにバイクを止める。エンジンにも大分熱が入ってきたみたいで、暖かい空気が止まった瞬間バイクから上がってくる。
バイクを降りると、俺はとりあえず自販機に硬貨を入れる。
「一番左の細長い奴。他のは苦いから嫌だよ」
バイクから降りもせずに千春は俺に指示した。……偉そうに。
ガタン、っていう妙にやかましい音が鳴って、コーヒーが落ちてくる。それを取りだし口から取ると、後ろ向きに無造作に放り投げる。……地面に落ちた音は聞こえない。
「危ないっての!」
千春が叫ぶが俺は特に何も言わず、続いて自分用のミルクティのボタンを押す。
「なぁ千春」
ミルクティの缶を取り出すと、開けて一口飲む。
「なんだよ」
「今日って休日だったっけ」
俺は素直に聞いた。
千春が俺と一緒に仕事に出るってことは、今日は学校が休みってことだ。千春の親父もさすがに学校がある日までは手伝えとは言わないらしい。平日は俺を起こすだけがこいつの役目だ。
「何言ってんの、今日から夏休みだよ」
千春はかなり冷たく言った。
「そうだっけか」
「ニュースぐらい見なよ、よくやってんじゃん。『今日全道の小学校では終業式が行われました』みたいなの」
ニュース……。最近はあまり見ていない気がする。というよりもテレビ自体見ない。それにこういう仕事をやってると、曜日感覚が無くなる。労働者に思いやりがあるところだと、酪農ヘルパーとかいう制度があって休みもきっちり週一回もらえたりするんだけど、ウチみたいな人使いが荒いところは月一回もらえればいいほうなのだ。
「……、てことはこれからしばらくこのクソガキの顔を見なくちゃいけない訳か」
俺は落胆した。牛の世話以外にも子守りまで押し付けられるのか……。
「それはこっちのセリフだよ。こんな暑苦しい顔、頼まれたって見たくない」
千春は無表情で言った。……、こいつ朝怖いんだよな。
そんな話をしてると、ずっと遠くからプシュ、プシュっていう蒸気機関車の小さいバージョンみたいな音が聞こえてきた。ウチの牧場の音だ。
「そろそろ行くか。……小野寺さんに悪いし」
俺はそう言うと飲み終えた缶を自販機脇のくずかごに入れ、バイクに乗った。千春は結局バイクに乗ったまま缶を投げ、うまくかごに入ると「ナイッシュー!」とか言ってはしゃいでた。
*
誰か……、そうやって叫びたくなる。助けてって。あたしをここから救い出してって。
でもあたしは決してその声を外に出さなかった。
動物園のライオンとか豹とか、こんな気持ちなんだろうな。狭くて息苦しくて。いくら叫んでも目の前の鉄格子が無くならないのがわかってるから、疲れた表情をしたまま動こうとしないんだ。
与えられる餌を食べて。見せられる下らない映像に逆らう事も無くて。たまに現れる母親に泣き言を言って。そうやって生きる。
クリーム色に統一された重苦しい空気に満たされた場所で、あたしは静かに手首を噛み切る―――。
目を覚ましてすぐに、自分の手首を確認する。さっき噛み切った左手首。
大丈夫だ。何とも無い。
それを確認すると、また深い眠りに落ちていきそうだった。
その眠りに落ちる一歩手前。自分が不気味な場所にいるのに気付く。
ガイコツ、なんか怖い顔の女の人、そんなのがあたしを取り囲んでるのがわかった。
――なに、これ。
少し怯えながら上体を起こして、ますます視界が気味の悪い絵に支配された。
しばらく考えてから、昨日の出来事を思い出す。
――あ、そうだ。生馬クンの絵。
生馬クン。あの、変な人。
こうやって連れこまれたら、普通はなんていうか、手を出すものだと思うけど。別にそのぐらいいくらでも(いくらでもってことはないけど)どうぞって思ってたんだけど。先に寝ちゃうのは意外だったかも。
時計を見てみる。まだ四時半少し前。なのに生馬くんの姿は毛布の中から消えていた。
どこに?
考えてみるとあの人、牧場で働いてるんだよね。もう仕事に出たのかな。早いな、牧場の人ってこんな時間から働くんだ。
トイレに行こうと思って立ち上がると、テーブルの上に五千円札が乗ってた。
――? 無用心だなぁ、生馬クン寝ぼけてたのかな。
買い物してる夢の世界に浸ったまま、ホントにお札を差し出す生馬クンを想像して、あたしはちょっと吹き出した。
トイレから戻ると、そのお札を眺めてまたボーっとした。
あたしは、人の金をそうそう簡単に盗めるような人間じゃない。って言っても、結局はそれと大して変わらないような金で生きてきたんだけど。
「届けてあげようかな」
そう言うと立ち上がる。今度は少し立ちくらみがした。
でもそんなに気にせず、ドアを開けて小さな家を出る。鍵は、無いから掛けなかった。
――何の音だろう。
夏の夜らしく虫達が鳴く音に混じって、規則的な変な音が聞こえてきた。昨日通りかかった赤い建物から聞こえてくるみたいだった。自転車の空気入れの音? みたいな。
あたしはその音に誘われて歩く。やっぱり道路の向こうの、あの建物から。
道路を渡ると、すぐ右の方に青いビニールハウスがあって、正面にはサイロ。その脇に赤い大きな建物。大きいっていうよりも、細長いっていうか奥行きがあるっていうか。
ずっと感じてた、昔どこかで嗅いだ事のあるにおい。
そうだ、牛の糞のにおいだ。学校の行事で牧場に行った時と同じにおい。
んー、あんまり臭いとかって思わないな。あの頃は皆で臭い臭い言ってたんだけど。なんでだろ。
赤い建物の三つ見える白い扉の一つから、オレンジっぽい灯りが漏れてきてる。その向こうの方から生き物の気配がする。そして例の空気入れの音も。
あたしはおそるおそるその左側のすごい大きい扉をくぐってみた。ホンットに怖かった。
すごい低音。重い声。腹に響いてくるような。「も」っていう字に濁点を付けたような。牛の声のイメージより、もっと太い声。
そしてそれに混じって山羊みたいな声。ここの牧場、山羊も飼ってるのかな? 羊?
ビクビクしながらもちょっと怖いもの見たさみたいなのがあって、もう少し進んでみると、ね。
でかい。
化け物。
こわい。―――顔。
なんかメジャーリーガーみたいになんか噛んでる。口が止まらない。角もある。小さいけど。
「なんだこれ」
あたしがそう言うと、その顔がほえた。さっきからしつこいぐらい聞こえてるあの声で。
これ、牛? こんなに大きかったっけ? 牛って。
どうも牛らしいそれを見てて、あたしは外の少し肌寒い空気でも醒めなかった眠気が吹っ飛んでくのを感じた。
白い顔。ピンクの鼻と口。ものすごい大きさの体。アニメとかに出てくる牛と全然違うじゃん。こんなの詐欺じゃん。あたしの十倍ぐらいあるじゃん。
そうやって呆然としてると、だんだんその顔形にもなれてきて、あたしは少し奥の方に進んだ。
牛の顔、顔、顔。何個並んでるんだろ。すっごい数の顔。それも、一つ一つ違う顔。
違うのは顔だけじゃないみたい。あたしを見ていきなり鳴く奴、申し訳なさそうな顔をする奴、餌をくれるって勘違いしてるのか、寄って来ようとする奴。反応も少しずつ違う。
鉄の太いパイプがこのでっかい奴等とあたしを隔ててるんだけど、でもどうしても怖い。自分でも普通に歩けているのが不思議なぐらい。
それは、この牛達から敵意が感じられないかもしれない。
枯草みたいなのが散らばってる。もしかして、こいつらの餌はこれなのかな。
あたしは落ちてる長い枯草を一本拾って、一頭の牛に差し出す。
そいつは少しためらいながら、それでもゆっくり草に顔を近づけてくる。
すると横にいた牛が、それを素早い(牛なりに)動きで掠め取ろうとする。
「ほらほら喧嘩しないで」
ちょっと恐怖で震えながら、あたしはそう言う。そして、コンクリートの床からもう一本草を取ると、横の牛に差し出す。
で、それを二頭がほとんど同じに咥え取る。
その姿を見ていて、あたしは少し緊張が緩んだ。
――いいな、生馬クン。こんな面白い奴等と遊べて。
そして同時に思う。
――こいつらかわいそうだな。この鉄パイプの枠に繋がれたままで、一体どれくらいいるんだろ。ホントにかわいそう。
考えていて、気付かなかった。
あたしの歩いてきたところを通って、人がやってきてたのに。
すぐ近くに、いつの間にか男が立ってた。
「おい」
*
俺は帰り道を最高速目指して突っ走った。
今までのこの道での最高速は時速百六十キロ。それ以上はこの道では出せなかった。
当然の事だが、百六十キロといっても車とバイクでは感覚が全然違う。車のように守ってくれるものは無いし、風を全身に浴びるのも全然違う。車の窓を開けたのよりももっと強い風が、ぶつかってくる。
バイクは百キロを越えると世界が変わる。吹きつける風が、そのレベルを全く違うものにする。
倒れたら八割方死ぬ。百六十ともなると、九割九分死ぬ。
今まですぐ横にあったものが後ろに流れていく感覚。無理に横を見ないとそのものの存在すら気付けない事もある。
――あーあ、あほらしい。
俺だって好きでこんなことしてるわけじゃない。何がいいのかわからないが、千春のリクエストにお答えしているだけなのだ。
自分でリクエストしてる割に千春は俺の腰から腹にかけてまわしている腕を、ものすごい力で締め、俺の背中に抱きついている。もう少しで羽交い締めにされるんじゃないかってくらい強く。
――そうやって俺の背中にくっついてるんならさ、別にこんな飛ばさなくていいんじゃないか? 辛いのは俺ばっかりだし。
牛舎が見え始めたところで俺はアクセルを戻す。……五速でエンジンブレーキが掛かるって、どんだけ飛ばしてんの。
エンジンが最高潮の叫びを止めると俺はメーターを見る。
百六十五キロ。見事最高速達成! おめでとう、俺。
ブレーキは掛けず、シフトダウンで減速。
一速で、もうへろへろの状態になったところが、丁度牛舎の方へ曲がる場所。
その曲がり角を曲がって―――、その姿に気付く。
美沙……?
美沙が小野寺さんと一緒にいる。なんで?
俺は牛舎の前のいつもの場所にバイクを止めると、エンジンを止めて二人に駆け寄った。……千春を置いて。
二人はにらみ合っていた。なんで牛舎の前で?
「何やってんスか? 小野寺さん」
俺は小野寺さんに声を掛けた。
青い――俺と同じ――つなぎ。少し年齢にそぐわない金髪。普通なら許せないが、何故かこの人だと許せてしまう金髪じゃない真っ黒な髭と眉毛。黒の安っぽい長靴。三十なん歳のおじさんなんだけど、妙に若々しい。
「生馬クン、助けてよ」
答えたのは美沙だった。
「助けてって……」
「このコが勝手に牛舎に入ってたから事情を聞いてたんだが……、知り合いか? 生馬」
小野寺さんが言う。
「知り合いも何も、兄妹、だよね。生馬」
後ろから千春。
「……兄妹?」
小野寺さんは俺と美沙の顔をまじまじと見比べる。
……だませるかな。だませないかな。……だませない、よね。
「ほらー、よく見てよおじさん。よーく見て。目の感じとか、口元とか、少し似てるでしょ?」
千春がフォローをいれる。
美沙は俺の顔を見ている。いまいちよく事情がつかめていないみたいだ。
「似てるか……? 俺には他人に見えるけどな」
小野寺さんの視線は何度も俺と美沙の顔をいったりきたりして、結局そんな結論を導き出した。
……どうしよう。この人はそんな言葉に引っかかるような単純な人じゃないような気がする。
俺は千春に視線を送る。―――お前に任せたぞ。
千春は小さくうなずき、喉を鳴らす。
「……やっぱり思った通りだな。おじさん見る目無いよ。フシアナだね」
千春にそう言われて、小野寺さんは再度二人を見つめる。
しかしその動きを制して千春が美沙の手を取り、牛舎の方へ逃げるように歩き出す。
「行こ行こ。おっさんは置いといて。案内してあげる」
千春はそう言いながら小野寺さんの後ろに廻り、こっちに向かって小さく手を上げた。――がんばれよ、みたいな感じで。
そして二人はそさくさといなくなる。男同士を残して。
多分、だよ? もしかして一番厄介な仕事が俺に渡されちゃったんじゃないかな?
世界一のゴールキーパーの一歩手前でパスを受け取っちゃったみたいな気分。決めて当然みたいな場面でね。……最悪。
「妹か? あのコ」
「え? ええ」
俺はなんとか言葉を返した。
「なんでここにいるんだ? お前みたいに学校行ってないのか?」
やめてくれよ、質問攻めは。助けてくれ、千春ぅ。
「ああ、夏休みでして。……夏休みの課題で、『家族の職場を見学しよう』みたいなのがあるらしいんですよ」
おお、うまいぞ俺。ナイス、俺。
「……あのコ、高校生だろ? 今時そんな事やるのか? 小学生じゃあるまいし」
あああ、やばいぞ俺。ファイト、俺。
「いやぁ、知らないんですか? 最近増えてるみたいですよ? 最近の子供達は親がどんなところで働いているかも知らないっていうのが新聞で取り沙汰されてて、割とそういうことに敏感な学校なんですよ。先進的な校風なんですね。すばらしいなぁ、うん」
俺は口から出せるだけの嘘をつきまくった。……、美沙は確かはっきりと学校には行ってないって行ってたな……。完全に嘘、だな。親でもないし、俺。
「……ふうん」
良かった。だまされてくれたか。結構純粋なところもあるんスね、小野寺さん。……と、俺は思っておく事にした。
「まあいいや。とにかくさっさと仕事始めるぞ」
そうだ。仕事だ。こんな下らないことで時間を食ってる暇は無い。さっさと片付けちゃわないと、休憩が無くなる。
俺はツカツカ歩いていく小野寺さんの後ろについて、左の扉から牛舎に入っていく。
*
「ねえ、何の話? 妹って」
またさっきの牛の顔が並んでるところに戻ってきて、あたしは言った。
「……別にあんたが気にする事じゃないよ」
千春、って言ったっけ。冷たく言う。
「生馬がそうやって言っておいてくれって言うから。……それよりもさ、あんた。何者? 生馬が何も言わないから聞かなかったけど」
なんか、敵視されてる? 中学生に。睨まれてる。
昨日の雰囲気と違うな。朝だから機嫌が悪いってのもあるんだと思うけど、もっと別の部分が違う。
――嫉妬かな? もしかして、なんか勘違いされてない? あたし。
「別に、どうでもいいけどね」
千春は笑った。
「あの男が連れてきたんだもんね。なんとなくわかるよ。深い関係じゃないんでしょ」
意外に、かわいい顔で笑う。若いなぁ、いいなぁ、みたいなことを感じてしまうあたしって、もうばばあなのかな。
化粧っ気も無いし、髪も男みたいな短さだけど、でもかわいいな。これが恋をしてる女か。
「前にも一回あったんだよね、こういうこと。その時も昨日みたいに泣いちゃった。……、ウチが気にする必要なんて無いのにね。彼女でもないのに。で、その相手の人は実は生馬の従姉だったんだ。近くに住んでて、親と喧嘩したんだって。それで泊めてあげてたらしいよ」
ウチ? ……ああ、昔小学生ぐらいの頃使ってたっけな。男に媚を売らない自分の呼び方。
それにしても、これだけわかってもらってるのに、生馬クンはなんで気付こうとしないんだろう。さっきだって一緒にバイクでやって来たのに。そのぐらい普通わかるよね。
「ほれほれ、食べたいかー」
千春がしゃがんで牛に草を差し出し、遊んでいる。
中学生だから相手にしないのかな。それは言い訳だよね。恋愛は自由だよ。それに好きとか嫌いとか、そういう気持ちを伝えるのは、相手に対するマナーだよ。
「あ、そうだ」
千春が急に立ちあがった。
「あんた、そんな格好でいないほうがいいよ? ここ汚いから。どこにも汚れが潜んでるからね」
「え?」
「牛の糞と、小便と、ミルクと、あと子供を産んだ後に出てくる「オサン」ってやつには要注意ね。ちょっときなよ。ウチと大して体つき違わないよね……、作業服貸してあげる」
「あ、ああ、うん」
千春はさっさと先に行っちゃった。あたしが元レディース総長なんて知ったら、このコどんな反応するんだろう? とりあえず、喧嘩だと負けそう。
なんかなぁ、恋愛って苦手だからちょっとでもそういう話が出てくると緊張する。こういうとこ、弱点かも。
千春に連れられて牛舎の外に出ると、少し空が明るくなってきてた。
――夜明け前か……。いつ以来だろ、こんな時間に起きてるの。本格的に族やってた頃はしょっちゅうだったけど。
千春は牛舎から少し歩いたところにあるプレハブ小屋の中に入っていった。
中には色々な道具とか、麻縄みたいなのとか、とにかく壁一面に色々なものが掛けられていた。
「ごちゃごちゃしてるから気をつけてね。……いっつもはさ、学校から帰ってきてすぐに夕方の搾乳の手伝いするんだ。だからここで着替えてくの。あ、少し前に洗ってそのままだから、汚れてないよ」
そう言ってあたしにそのつなぎを差し出す。ピンク色、千春とおそろいだ。
「なんで、ピンクなの?」
あたしは興味本位に聞いた。すると千春は笑って、
「花が無いからね、牛舎ってのは。……いるのは皆雌牛なんだけど」
と言った。
あたしが着替える間、千春はボーっと待っていた。
着替えたものをプレハブに置いて、あたしと千春はまた牛舎に向かった。あの空気入れっぽい音を目指して。
そういえば、この音の事聞いてなかった。
「ねえ、このプシュ、プシュっていうの、何の音?」
あたしが言うと、千春がすぐ難しい顔をした。
なんだろ、とあたしが考えていると、千春はうーん、と唸った。
「なにから説明したらいいかな。んー……」
そんなに難しい事を聞いたのかな、あたし。
「あのね、この牧場の形式って、スタンチョンっていうの。繋ぎ飼いってこと。そんでね、これを別名パイプラインって呼ぶ事もあるんだよね」
「うん」
「パイプラインって言うのは、なんていうのかな、空気圧? なんかそんなのを利用して牛の乳房から牛乳を吸い出すんだ。それで、この音はポンプで牛乳を吸い出してる音。……わかる?」
あたしはうなずいた。頭の中で、ストーブに灯油を補充しているのを想像した。――あれが大きくなったみたいなものだね。
「ふーん、よく知ってるね」
そう言うと、千春は笑った。
「だてに十四年こんなとこで暮らしてないよ」
そんな事を話してるうちに、あたし達は牛舎に足を踏み入れていた。
「あんたこそ、珍しい人だよね。普通都会の人は臭い臭い言ってうるさいのに」
そう言われてあたしは少し驚いた。あー、もしかして煙草とかのせいで臭覚が鈍ってるのかもしれない。
「……かわいいもの見せてあげようか」
千春が笑顔で言ってくれた。――案外いい友達になれるかもしれない。
*
なんか疲れたなぁ、どっと疲れましたぜ。
俺は牛と牛の間に座りこみながら、ボーっとしていた。
この牛舎の構造ってのは単純で、牛と牛がケツを向かい合わせて並んでるってだけだ。それが二列、ダーっと続いてる。
それで、片方の列四十頭。計八十頭。そして、牛舎の入り口から向かって右側の列が俺の担当。
搾乳、糞の始末、餌やり、ブラッシング。大体そんなとこ。早朝のお仕事はブラッシング以外の三つ。
本当は俺の仕事はもう一つある。それは子牛の餌とミルク、つまり給餌ってやつ。
でもそれは千春がいるときには千春がやる。少しだけ仕事が楽になるわけだ。
――あいつ、なにやってんだ? さっきからメェメェ鳴きっぱなしじゃねぇか。なんて考えてると……。
突如、足に激痛が走る。
「痛ぇ、この馬鹿! 牛!」
俺は牛のケツをひっぱたく。足を踏まれたのだ。何百キロかの重みが、俺の長靴にかかる。
どうにかどかすと、俺はしゃがむ。
牛の乳房を触り、感触を確かめる。どうやら全て出切ったようだ。搾乳器具のガラス部分にも白いミルクは見えない。
「終わったんなら終わったって言えよ、お前」
――小野寺さんに大分差をつけられてんだから。
小野寺さんはもう一つの列を担当している。でも、同じ機械を使っているといってもやはり手際が全然違う。十年来この仕事をやっているそうだから。
それに牛舎に来る時間が違う。彼は三時くらいからもうすでに仕事を始めているのだ。それには理由がある。彼は特にこの時期忙しいのだ。牧草の刈り入れがあるから。
この牧場で最も収入が大きいものは何かというと、実は牧草なのだ。広い範囲の牧草地に、自分の所では使わない大量の牧草を作って、本州の牧場に売るというのがウチの社長の手口で、その一番の被害者が小野寺さんというわけだ。彼が広大な牧草地を機械で刈ってまわってるんだから。
小野寺さんは文句を言わない。
文句を言ったり、陰口を叩いたりしない。
社長が調子に乗って毎日遊び歩いても、「自分が稼いだ金で」なんてことは絶対に言わない。
俺は牛舎のずっと奥の方で、タコの吸盤みたいなのが付いた四本足の吸引機を持った小野寺さんを見た。
――なんで文句言わないかな。あの人はおかしいよ。
小野寺さんが1ヶ月にたった一回の休日を、医者に行って過ごしてることを知ってる。社長がいつまでも古臭い作業機械を使わせているからだ。機械にまわす金を自分が遊んで歩いて、椅子にスプリングも付いてない(作業機械には大体サスペンションは付いていない)機械に一番の功労者を乗せて、……あの社長を殴ってやりたくなってきた。
顔に牛の尻尾がぶち当たる。小便の染み込んだ尻尾が。
俺はすかさず首に掛けておいたタオルで顔を拭く。――早く仕事しろってか。……だよね。
これだからスタンチョンってのは……。
俺はさっさと次の牛の乳頭に、機械を吸いつかせた。
*
「そこのバケツ持って」
なんでいつの間にか仕事手伝わされてんの、あたし。
これ、何リッター入ってんのよ。
粉ミルクをお湯で溶かして、そこに適量の水を混ぜると、はいできあがり。子牛用のミルクでーす、ってねぇ。
何? この量。七、八キロはあるね、間違いなく。この重さだもん。
「根性ないなぁ、こんなの軽いよ」
千春が軽々と、というほど余裕があるようには見えないが、とにかく両手に同じバケツを持った。そんな小さい体のどこにそんな力があるの、おじょうさん。
でも根性云々言われると、あたしとしても引き下がるわけにはいかない。
「両手で同時に持てば少しは楽だよ?」
そのアドバイスを聞き、二つに挑戦。
そして、失敗。――無理だよ。上がんないよ。
「情けないな。……ほら、聞こえない? メェメェ鳴いてるの」
「羊? 山羊?」
あたしが聞くと、千春はバケツを持ったまま吹き出した。
「何言ってんの、あんた」
「何笑ってんの、あんたも」
そう言って二人で笑った。
なんか、ホント楽しいな。こういうのって。姉妹みたいだな。こういう妹、欲しいな。
でも、ん? 今鳴いてるのって羊とかじゃないの?
「んー、いくらそこでがんばってもラチあかないから、そこのちっちゃい方のバケツ持って」
あたしは重たいバケツから手を離すと、脇に置かれていた銀色のバケツを持ち上げる。軽い軽い、中身は空だけど。
そのバケツは妙な形をしていた。オレンジ色のゴムの変な物が付いてる。バケツの下の方に。
「ウチらの哺乳瓶と一緒だよ。子牛にミルクを飲ませる道具」
あたしが質問をする前に、千春は答えた。
これが、子牛用なんだ。長い。太い。こんなので飲むんだ。
そのバケツを四つ。カランカラン言わせながら持って。あたしは千春の後についていく。
牛の顔が並んでるとこ、三回目。今度はそこを通りすぎて、牛舎のずっと奥の方に向かっていく。牛達が変な顔してあたしを見たけど、極力気にしない。
鳴き声がだんだん大きくなる。さっきから聞こえてた、高い方の鳴き声が。
それで、ようやくあたしはその鳴き声の主とご対面した。
あたしの腰ぐらいの柵の中、枯草の上に、その主達はいたんだ。
子牛。誰の目にも明らかな子牛。パタパタ動き回って、可愛いおねだりをする子牛。白と黒と、まだら模様の子牛。
うわ、って思った。可愛い。子牛ってメェメェって鳴くんだぁ。
「かわいい、は駄目だよ」
千春がバケツを床に下ろしながら、あたしが言おうとした言葉を止めた。
「その言葉に敏感なおじさんがいるからね。あたしもそれ言っちゃって、昔怒られたことがあったんだ」
え? って思った。おじさん、さっきの人の事かな。
でもそんなこと言ったって可愛いものは可愛いし、そんなのおかしいよ。あの人も変な人だね。
あたしがそんなことを考えてると、千春は小刻みに顔を振った。
「ホントにやめてね。そうしないと」
その時、だった。男の怒鳴り声が聞こえてきたのは。
「……ああなっちゃうから」
千春は小さい方のバケツにミルクを移しながら、呟いた。
あたしは何の事かわからなかったし、その声が気になった。
その時正直迷った。子牛にミルクあげたいし、だけどあの怒鳴り声も気になる。ばかやろう、って聞こえたけど。気になるよ。
「あたし、ちょっと行ってくる」
「いや、いいってほっとけば」
「でも気になるし」
あたしはそれだけ言うと声がした方に、牛のお尻が並んでる方に、走り出した。
「あたしがあげる分の子牛、残しといてね」
と言いながら。
*
確かに、あんなミスするなんて気が抜けてた。薬を使った牛の牛乳を、普通の牛のミルクに混ぜてしまうなんて。
このミスをしてしまうと、牛乳タンクに入っている何トンかの牛乳は一瞬にしてその価値を失う。
だけどもっとまずかったのは、ただ謝っていれば良かったものを、開き直ってしまった。
「そんなもん、いくらでも弁償なり何なりしてやるよ」
それを言うと、仕事というものが成り立たなくなる。それは、冷静な頭の俺にはよくわかる。
でもそんなことよりも小野寺さんを刺激してしまったのは別の一言だった。
「なんならやめてやるよ、こんな汚ねぇ仕事」
これが、一番金髪中年の琴線にらしい。
「汚い……?」
俺は驚いた。
小野寺さんは一気に冷めた表情に変わったんだ。さっきまでの赤くなった顔をどこかに隠してしまった。
でも俺がもっと驚いたのは、牛舎の奥からやってきた美沙の姿だった。ピンクのつなぎを着た、美沙。
俺は逃げ出したくなった。なんでかわからない。美沙にこうやって開き直っている子供のような姿を見られたくなかった。
もし現れたのが美沙じゃなく千春だったら、もっと違ったと思う。その理由もわからないけど。
そして……、小野寺さんは静かに語り出した。
「汚い仕事だと思うか?」
小野寺さんはそう言った。
俺は答えられなかった。
「だろうな。みんなその程度なんだ」
「いや、でも」
俺は反論しようとした。でも言葉は何も出てこない。言葉のアヤってもんもあるだろ?
「この仕事は誰も認めてくれない。体が危険にさらされた時、誰も助けてはくれない。そして誰もが汚い仕事だとののしる」
小野寺さんは自虐的と言ってもいいほどの言葉を言い放った。
「そして、動物に対して飼い主みたいな愛情を持つ事も許されない。家畜とペットは違うんだ。ペットの子猫が病気の時、お前はここでするみたいに注射を打つ事ができるか?」
その言葉は余りにも重く、痛々しかった。
でも俺にとってもっと重かったのは、痛かったのは、向こうから現れた美沙が小野寺さんの方を見て涙ぐんでいる事だった。彼女の気持ちが小野寺さんに傾いていくような、そんな感じがした。
「それでも俺はこの仕事を続けていく。これからずっとな」
小野寺さんが言った言葉は俺にはほとんど届いてこなかった。
なんだろ。敗北感? そんな感じ。
さっさと仕事に戻った小野寺さん。その背中を追いかけるような美沙の視線。
こんな時俺はどうしたらいい?
小野寺さんよりもかっこいい台詞を言って見せればいいのか?
それとも小野寺さんに謝ればいいのか?
それもだめなら殴りかかってみるか?
考える全てが、間違いだった。どれもすぐにその間違いに気付くくらいの、レベルの低い。
そして、なんでこうも自分はタイミングが悪いのか恨みたくなった。
気付いたんだ。……、俺、いつの間にか美沙のことが好きになってたらしい。
でも美沙の視線は俺には向けられていない。小野寺さんの背中に向けられている。
――大切なものってのは、そばにある時には気付けないもんだぜ。
俺の中のダンディな俺が言った。
どうしたらいいか、俺には何一つ考えつかなかった。
そして、俺の行動のタイムリミットは過ぎてしまったらしい。
美沙は立ち去ってしまった。
なんだこれ。なんだ、これ。なんで俺にばっかりこういう無理難題を押し付ける? 神様。俺にはこんな難問を解き明かす力はないよ。気付いてくれよ。
俺は何か、無力感に打ちのめされて、敗北感に打ちひしがれて、ただ元の仕事に戻るしかなかった。
今日の分の牛乳全てが廃棄されるという、俺のミスを静かにかみ締めながら。
*
「やっと戻ったか、お姉ちゃん」
千春は老人みたいなことを言った。手にはバケツが持たれている。その吸い口に、あたしの太ももぐらいの体高の牛が必死に吸いついてる。
「ん、なんかいい事あった?」
そう言われてから、あたしは自分の顔が笑顔になっていることに気付いた。
なんで笑顔になってるんだろ。なんで、心がこんなに透き通ってるんだろ。
そしてなんで――あたしはたったあれだけの言葉に心を動かされたんだろ。
かっこいいとか、そういう感じの言葉じゃないのに。
「ほら、そこのバケツにあんたの分入れといたから。一番端っこの牛に飲ませてあげて」
あたしは軽く返事をして、バケツを持ち上げた。ちょっと重いけど、そんなに気にならない。
一番端っこの牛。子牛一頭ずつの木枠に入れられた、プルプル震えた子牛。他の子牛達よりももっとちっちゃい。
その木枠の隙間にバケツの吸い口を差し込むと、まわりの牛よりもゆっくりしたスピードで、黒目の多い目で、その人口の乳房を見つけると、弱々しく吸いついた。
――ん? どうしたの、君?
吸いついたのはいいけど、さっき千春がミルクをあげてた牛みたいな勢いが無い。吸いつきが弱い。
――大きくなりたかったら、もっと飲まなきゃ駄目だよ?
だけど、小さいその子はそれからしばらくそのゆっくりなスピードで飲みつづけた。
なんでだろう、飲ませ方が悪いのかな?
「ほらぁ、もう出ないっての! 食い意地張ってんなぁ、ったく」
千春が何メートルか向こうでそう言った。その後に、牛の口から吸い口を引きぬく音。ポンっていうか、チュポンっていうか。
「ん? まだ掛かってんの? 遅いなぁ」
そう言いながら千春があたしの方に来る。
そして、千春が何かを思い出したように、あ、と言った。
「ごめん、こいつ調子悪い牛だったわ。……代わる」
そう言って千春があたしの手からバケツを奪い取った。強引ではなかったけど、ちょっと冷たく。
「向こうに最後の一頭、ミルクやってない奴がいるから。……そうそう、あの騒いでる奴。あいつにミルクやって」
あたしはそう言われてその場所を離れたけど、少し後ろ髪引かれるみたいで振り返って、
見たんだ。あの子牛が、口からほとんどミルクをこぼして。
それでも頑張って吸いついてるのを。
―――ペットの子猫が病気の時、お前はここでするみたいに注射を打つ事ができるか……?
あたしは、頭がくらくらした。
それでもなんとか千春に言われたように、うるさい牛にミルクをあげた。
その牛にミルクをあげている途中、あたしの中にはさっきのおじさんの言葉が回ってた。
ペットの子猫じゃないけど。子牛だけど。
あんなにかわいい子牛に、注射を打つ……?
できる訳無いよ。そんなこと。
それから気付いた。
―――かわいい、は駄目だよ。
―――その言葉に敏感なおじさんがいるからね。あたしもそれ言っちゃって、昔怒られたことがあったんだ。
その意味、あたしなんかがわかるなんて言ったらきっと失礼だけど。でも、ほんの少しわかる気がする。
家畜はペットじゃない、か。それもなんとなくわかる。
それと同じ意味の言葉、ネンショーで聞いたな。
『先生は友達じゃない。親子でもない。法務教官と少年院生という関係を理解しなければならないのよ』
だっけ。同じ意味だと思うな。
ペットと家畜。似てるけど全然違うんだな。
そうやって考えてみて、ネンショーの先生達の言葉の意味が少しずつ違う意味を持ってることに気付いて。もっと大きな力を含んでたんだってことに気付いて。その言葉の意味を自分はわかったふりで通りすぎてきたんだってことに気付いて。
あたしは……、死にたくなった。
そして、その何倍も生きたいと思った。
自分でもよくわからない。自分で自分が気付いたことを上手く言えない。
ただ、あたしの中にあのおじさん、小野寺さん? あの人の顔が浮かんで、その顔が大きく膨らんで、誰よりも大きな風船になって。あたしの頭から離れなくなった。
心の中が辛くて痛くて、苦しかった。あの子牛に注射を打つ小野寺さんの気持ちなんて、あたしには少しもわからない。でも、あたしの中の小野寺さんは笑ってた。疲れたみたいな、弱々しい笑顔だけど、それでも笑ってた。そして元気になったあの子牛がいて……。
「……ねぇ、いい加減そいつにツッコミ入れてやってよ」
「へ?」
気の抜けた声があたしの口から出て、すぐ横に千春が立ってたことに気付いた。
それで、バケツが妙に軽くなったので、そっちを見てみる。
そこにはしつこいぐらいにバケツに吸いついている元気な子牛がいた。多分ずいぶん前からミルクは空になってたみたいで、バケツの中にはチョロっと残った吸い取れないミルクがあるだけだった。
「ばかたれ! 離しなさい!」
千春があたしの手から、またバケツを奪い取って牛の口から引き離した。
あたしは笑った。心から。楽しい。心から。牛の顔を眺めてた時みたいなニセモノじゃなくて、ホントウの楽しさだと思った。
ねぇ、生馬クン。あのね、今の千春の顔見たら、あんた絶対惚れると思うよ。
かわいいもん。それに、かわいいだけじゃなくてね、優しさが表情に表れてるもん。強くてかわいくて優しくて。あんたはホントに幸せもんだよ。こんなコに好きでいてもらえて。
「……あんた、泣いてんの?」
あたしは、目から流れてる涙を流れるままにした。
なんで泣いてるのかよくわかんないや。でもなんとなく気持ちいいから、そのままにしておこう。笑顔でしばらく泣いていよう。
*
あと、二頭で搾乳は終わりだ。
どの道捨てられる牛乳なんて搾らなくていいんじゃないか、って思う。もちろん、ホルスタインの乳房は人間の膀胱みたいなもんで、一日に何回か中身を出さないと病気になるっていうのもわかるけど。それに搾乳の途中でタンクを洗浄するなんてことはできっこない。酸性洗剤とアルカリ性洗剤で長時間掛けて消毒するような、デリケートな物ってのもわかってる。
でも捨てられる、それも自分のせいで捨てられる牛乳を搾るのって正直心が痛む。
『牛さんは子供にあげるミルクを分けてくれてるんですよ』
牛乳嫌いの子供に説明するどっかのキツイ眼鏡を掛けた母親が、頭の中で俺を責めた。……うるっせぇよ。お前に関係あるか。
それに、乳牛の出すミルクはほとんど全部人間のもんなんだよ。子牛に与えるのなんて三日分ぐらいの初乳だけだ。あとは全部人間のもん。親の総取りだ。
なんて下らないことを考えてたら、もう搾乳は終わってた。
次は餌をやって、糞を掃除して。
餌やり。これがかったるい。ここにいる牛だけがその相手じゃないからだ。
ここにいる俺の担当四十頭。小野寺さんの担当の四十頭。その他にもビニールハウスの牛舎に三十頭ぐらい。新しくこの牛舎の後ろに作られたフリーストール、つまり何頭かの牛が同じ柵の中で放し飼いにされる形の牛舎に四十頭ぐらい。計百六十頭。これに餌をやる。今日は千春がいるのでこの牛舎だけが俺の仕事。
小野寺さんはもうタンクの洗浄なんかをやってる。それが終わった後も餌やりは手伝ってくれない。すぐ牧草地に向かい、草を刈るのだ。
今日はなんだかんだあっていつもよりも時間が掛かっている。俺は餌やりに本気になった。
まずは配合飼料を積んだ台車を押して歩く。ものすごい重さだ。カラカラに乾いているとはいっても軽く百キロはある。しかもこれが片側の四十頭分しかないというのだから、俺がかったるいと思うのも無理ない事だと思う。
と、俺は自分で自分に同情しながら、雪かき用スコップ一杯半の配合飼料を配っていく。これまた薬を使っている牛には食べさせてはいけないという決まりがあるので、慎重に与えていく。しかもその上になんちゃらいうよくわからない白っぽい粉をかけて。
それを一列終えるとまた一列だ。ヒィヒィ言いながら俺はやり遂げる。
そして次は乾草を与えていく。牛達の顔が並んでいる列に、三つずつ乾草のロールがある。それにフォークを、といってもケーキを食べる奴じゃなく、長い柄の棒に尖った金属のみつまた(たまによつまたということもある)の金具が付いている、西遊記かなんかに出てきそうな奴だ。それを突き刺す。ロールをほぐして、牛達に分配していく。これまたものすごい量だ。
そういえばこの前社長に、とある牧場で機械で乾草のロールを運搬していて、それが人の上に落ちて腰が逆に折れ曲がったという話を聞かされた。それを聞いた時の小野寺さんの顔はなかなか言葉では言い表せない。もっと言い表せないのはそれを笑いながら話す社長の頭の中身だが。
ロールをほぐして与え終わると、ちょうどそこへ千春が戻ってきた。他の牛舎は全て給餌を終えたらしい。
「ほらね、終わってなかったでしょ? 生馬は鈍いから」
千春がそう声をかけた先には、当然ながら美沙がいた。
俺は……、美沙の顔を見る事ができなかった。恋をしている時の気まずさみたいなものと、先ほどの情けない姿を見られた気まずさが、これ以上無いというほど俺の心を気まずくした。
「うるせぇよ。さっさと糞の掃除しろや」
俺は目をそらしつつそう言うことしかできなかった。それを聞いて、二人は笑う。
なんで笑う?
俺は腹が立ったが、もう何も言わずに自分の仕事に戻る。
と言っても、結局こいつらとは同じ場所で働かなければならないのだが。
朝に掃除するのは搾乳する牛がいるこの牛舎だけだ。そして、たった二列の牛達の糞は一列にまとめられている。……どうしたって顔があってしまう。
俺は牛舎の奥に行くと、そこにある青いビニールシートの扉を開ける。
朝日はもう昇ってしまい、夏の朝の清々しさが辺りを支配していた。……、目の前の堆肥場以外は。
俺は古臭い機械のスイッチを入れる。
そうすると、牛達の後ろ足の少し後ろに作られた溝にはめ込まれた、自転車のチェーンが大きくなったみたいなものにバーが等間隔に取り付けられた物が、ゆっくりと動き出す。これはバークリーナーという物で、堆肥場に糞や尿を流すための機械だ。ここの堆肥場は崖のような造りになっていて、バーが運んでいく糞尿が高い位置から放り出されると、その崖から落ちていくというようになっている。
まあそんなことはどうでもいい。俺の仕事は単純だ。ただ牛の足元に残った糞や、濡れてしまった寝藁を取り替えてやるというだけのことだ。
俺はそのスイッチのところから仕事を始める。遠くの方で二人も仕事を開始したようだ。……そういえばなんで美沙が仕事してるんだろう、という疑問を残したまま。
俺は自分の担当の方の列を。美沙と千春は小野寺さんの方の列を。そうやって仕事をする。
……なんか、取り残された気がする。あの二人に仲間外れにされている気がする。
そんなことを考えながら、俺は二人と背中合わせにすれ違う。妙な気まずさは残ったままだった。
そうして端から端までやり終えると、今度は新しいフォークで寝藁を牛の体の下に入れていく。
これまた気まずくすれ違う。その時ちらりと美沙の方を見ると。
なんとなく、そう、なんとなくなんだけど。
昨日初めて会った時とは違う感じの、血色のいい感じの、元気な感じの綺麗さがあるような気がした。
こんな牛のケツに囲まれた中で、こんなのは変かもしれないけど。
単純に俺は、美沙のことが好きだと思った。
ホントになんとなく、だけど。
うーん、と思わず唸ってしまう。こんなところでこんな事考えてるのって、なんか変な気分だ。とりあえず、ロマンチックではない。それは俺にもわかる。
でもそんなこと言ったって、好きなもんは好きなんだなぁ。
俺はだんだん自分という人間がわからなくなってきていた。
とかなんとか考えている内に俺は再び青いビニール扉に戻ってきた。
スイッチを切り、俺はトボトボ入り口に向かう。
二人は待っていてくれた。が、俺は相変わらず美沙の顔を正視できない。
「さぁー、終わった終わった」
千春が元気に言った。
「お疲れ様ぁ」
美沙は俺に、そして千春に言った。
俺は何も言わず、何も言えず、二人の脇を通りぬける。
いいなぁ、女同士って。意気投合できて……。
俺は先程の失敗を思い出し、もっと落ち込んでいた。
「あ、生馬クン」
美沙が後ろから声をかけてきたのでゆっくり振り向く。
なんだろなんだろ。何? なんか誉めてくれるの? うれしいなぁ。
「千春ちゃんがね、朝御飯食べさせてくれるって言うから、ちょっと行って来るね」
……はぁ。そうですよね。俺に慰めの言葉なんて掛けてくれませんよね。別にいいですよ。
「……別に俺に断る必要無いと思うぞ」
俺はそれだけ言うと、牛舎を出る。それに二人がついてくる足音が続く。
空はこれ以上無いくらい晴れていた。快晴という奴だ。……俺の心を無視して。
俺は止めておいたバイクに乗る。チョークレバーを押し上げ、そしてエンジンキーをまわす。
エンジンが掛かると、やかましいほどの音が鳴った。それに呼応して牛達が叫ぶ。
チョークレバーを戻すと、俺は静かに走り出した。……たった五百メートルの旅に。
女二人が笑いながら歩いている。その脇を俺はまたすり抜けた。
*
さっきのプレハブで着替えながら、あたしはちょっといらいらしていた。
なんでだろ。なんで、生馬クンはああいう態度を取るんだろ。
何? あたしの言葉ってそんなにわかりにくいかな。
わかりにくいかもしれないけど、あたしは千春に気を使って生馬クンを誘ってあげたのに。
なんでだろ。わからなかったかな。腹立つなぁ。
「……変なこと言わなくていいよ。あいつ、そういうの嫌いだから」
千春がそうやって言った。
生馬クンとはやっぱり違うな。わかってるっていうか。
「ごめんね」
千春は怒ってなかった。笑いながらあたしの肩に軽く触れた。
わかんない。なんでこういう子があんな男を好きになるんだろ?
そして生馬クンのセリフを思い出す。
―――あれと結婚する気は無いぞ、死んでも。
おかしいでしょ、明らかに。ふざけてるよ。
何様のつもり? あいつは一体。
あいつには、絶対千春みたいな女の子はもったいないよ。
「……気にしないで。別にいつものことだよ」
あたし、もし男だったら千春のこと好きになってたと思う。そのぐらい、千春はいい子だった。そうじゃないと、表情から察するなんてこと、できる訳無い。
……腹が立ったら……、お腹空いた。
朝から何も食べてないんだよね、そういえば。っていうより、まだ朝だし。
「来なよ。朝御飯、食べよ」
千春がそう言ったのは、千春の家に着いたからかもしれないし、あたしの顔が『お腹空いた光線』を出していたからかもしれない。どっちでもいいや。
千春の家は、玄関の中に入るとひんやりしていた。綺麗な、ウッディな、ログハウステイストな、そんな家。
玄関を通って、そこから左手に階段を見ながら一階の廊下を歩いて、そして右側にあるドアを開けた。今通ってきた場所の全てが、洗練されたセンスと、独特のリズムに溢れていた。
本当はもっと、芳香剤の良い匂いがするのかもしれない。それとも何の匂いもしないのかもしれない。だけど今は、優しくて包み込むみたいな香りが満ちていた。
そしてその香りは、千春がドアを開けるともっと強くなった。
――味噌汁? スープ? どっちにしても暖かい家庭的な空気が、あたしの体を包み込んでいた。
眩しいくらいの朝の光が、白いレースのカーテンに吸いこまれて柔らかい光に変わり、間接照明みたいにリビングを輝かせている。
無駄なインテリアは無い。窓だって普通の物だと思う。置かれているソファにしたって、白い布を纏ったどこにでもあるようなありふれた感じだった。
だけど、それらの一つひとつは、高級品の風格っていうのかな、そういうのを放ってる気がした。
白い壁紙にしても、一点の汚れも無いし、窓に曇りがあるなんてことも無い。完璧に使いこなされてるのがあたしみたいな人間にもわかった。
「ねぇ、お父さん」
千春がうっとりしてるあたしの横で急に声を出した。
それを聞いて、リビングダイニングとつながったカウンターキッチンから、男が顔を出した。
胸元の開いた真白なシャツ。胸毛は見えなかったけど、でもなんとなくバレエダンサーみたいなセクシーさがある雰囲気。こっちからキッチンの中はあんまり見えなかったから、それしか見えない。
……あたしの直感みたいなものが、一瞬でそのお父さんと呼ばれた顔を判断する。
そして、その結果。
――この人は生馬クンに似てる。
なんだろう。なんでだろう。なんか、すごい腹が立った。
「……誰だ? そのコ」
あたしはその声を聞いてなんとなく落ち着いた。声までは似てない。
「ええっと、生馬の妹。名前は……」
千春はあたしの顔を見る。そうだ、名前教えてない。
「あの、美沙って言います。よろしくお願いします」
なるべく丁寧に言ってみた。
生馬クンに似てる千春のお父さんは、こっちに向けて軽く首を曲げる。……こういう適当なところもなんとなく似てるな。
「その、妹の美沙ちゃんが一体何しに来たの?」
声質が低くて、聞き取りにくい生馬クンの声とは違って、この人はよく通るちょっと高い声をしてる。
千春のお父さんは、
「ちょっと待って」
と言うと、キッチンから出てくる。
細い。繊細な感じがわかる。体つきも細いし、顔立ちも女の人みたいな中性的な雰囲気を持ってる。生馬クンの妙に鍛え上げられた体とは全然違う。……似てるっていうのは勘違いかもしれない。
明るいリビングに現れたのは、それこそ王子様みたいな、貴公子みたいな、牧場っていう場所とは全然合わない人だった。白くて少し大きめにも見えるシャツに合わせた黒い、少しだけ光沢があるパンツもやっぱりバレエダンサーのイメージにぴったりだった。
「どうも。この牧場の社長をやってます。秦野 真二と言います」
ちょっと大袈裟に微笑みながら、千春のお父さんはあたしの顔を見た。
高い身長の秦野さんを見上げていると、視界の外で千春がため息をつくのがわかった。
「美沙さんがここにいる理由なんてどうでもいいじゃん。……そんなことよりさ。生馬の所だとまともな物食べられないと思ったから、連れてきたんだ。もう出来てるでしょ?」
なんで千春は、こんな言い方をするんだろ。あたしは、こういう挨拶の仕方をされたのは初めてだけど、すごい嬉しいのに。なんで邪魔するんだろ。さっきまでの千春じゃないみたいだった。
「ん、ああ。出来てるよ。だけど三人分はあるかな……」
「だからさぁ、いつも言ってるじゃん。もっと多めに作っとけばって。あたしがいつこうやって人を連れてくるかわからないんだからさ。生馬だって、小野寺さんだって、連れてくることあるでしょ」
「……だけど、残してももったいないしな」
秦野さんがそう言うと、千春はまたため息をついた。
「もういいや。……あたしの分食べていいよ。あたし食欲無くなったから」
千春は不機嫌そうだった。そして今入ってきたばかりのドアを出ていった。あたしが「申し訳無いよ、いいよ」っていうセリフ言うのを待たずに。
玄関の扉が強引に閉められる音が聞こえた。残されたあたしと秦野さんの間には、変な沈黙が漂った。
……もしここであたしがお腹を鳴らせたら、どのくらい場が和むんだろ。なんでドラマみたいにお腹が鳴ってくれないんだろ。
気まずい雰囲気の中であたしはどうやったらお腹がなるのか、本気で考えていた。
そんな感じで少し頑張って、どうやらお腹っていうのは恥ずかしい時に鳴るものらしいってことに気付いて、顔を上げたら。
―――秦野さんは、泣いてた。
綺麗だなって思った。なんでだろ。男の人にそんなの、失礼なだけだけど、単純にそう思った。
涙は流れてない。目の下に溜まったまま動かない。だけど、それが妙に男の涙っていうものの綺麗さを感じさせた。
あたしの視線に気付いたみたいで、秦野さんはこっちを見る。
「すみません。見苦しいものをお見せして」
あたしは首を振った。
「いえ」
秦野さんは笑った。だけど、その表情は悲痛で、心が痛んだ。
もしも秦野さんが千春の父親じゃなかったら、あたしは本気で好きになってたかもしれない。それぐらい、あたしには痛いぐらい秦野さんの気持ちが伝わってきた。
「お腹、空いてますか? よかったら、朝食を用意してありますので」
少し後、そう言った秦野さんは、冷静にだった。ん、違うかもしれない。あたしみたいなガキにはわからないように、その痛めた心を隠してしまったのかもしれない。
あたしはうなずいた。本当はお腹のことなんか気にならなかったけど、でも素直に秦野さんに従うことにした。あたしに出来るのはそれぐらいだったから。
そして、お腹が鳴った。
「じゃあ、いつ頃から二人でここに住んでるんですか?」
あたしは綺麗に整頓されたダイニングで、秦野さんと向かい合っていた。ちょっと大きめのテーブルであたしは秦野さんが作った御飯をぱくついていた。
「いつから……、ええっと、十年と少しかな。千春がまだ三歳か四歳かの頃だから」
あたしはうなずきながら味噌汁をすすった。この味噌汁、千春の好みに合わせたものらしい。何か青菜と焼麩が入っただけのシンプルな物。だけど、それが朝には丁度良い感じがした。
「あの時は、どこでもよかったんだよ。私はその時の妻から娘を奪い取った形だったからね」
焼き魚。青魚とは思えないほど生臭さが無くて、魚嫌いのあたしでもおいしく食べられる。
「母方の祖父が牧場を開いていたのを思い出してね。逃げる様にここに来たんだ。……それからは苦労の連続だったよ」
卵焼き。甘い卵焼きが嫌いって言う人もいるけど、そんな人にはこれを食べさせてあげたい。優しいけどしっかり塩が利いてて、すごくおいしい。
秦野さんも御飯に手をつける。
おいしい。珍しく朝から動き回って、お腹を空かせたっていうのもあるんだと思うけど。それでも久しぶりに食べた朝御飯は、笑顔になるぐらいおいしかった。
「嫌な仕事の連続だった。もともと肉体労働に向いていないのかもしれないね。それで、牛乳以外の収入源を探したんだ。それで牧草を本州の牧場に売ることを思いついた。直接売買なら農協を通したりするよりもずっと高値で買い取ってもらえるからね」
そう言って秦野さんは微笑んだけど、はっきり言って意味がわからなかった。あたしは正直に首をかしげる。秦野さんは今度は口を開けて、声に出して笑った。
「……まあ、いいよ。私はそうやって他の牧場とは違う収入源を得て、家庭は裕福になった。そして、祖父が亡くなって。……それからだった。千春が牛舎で働くようになったのは」
あたしはもぐもぐしながらうなずいた。話は聞きたいけど、箸が休まる暇は無い。米もおいしい。どこの銘柄か後で聞いとこうと思った。
「本当は、牛舎は潰して牧草だけを生産する方向で話は進んでたんだ。もうその当時から牧場にも近代化の波が訪れていて、搾乳も給餌もほとんど機械化されていく流れにあった。それにBSEの影響は肉牛だけでなく、乳牛の業界にもあった。はっきり言って旧式のスタンチョン形式のうちの牧場ではその流れには抗し難いものがあったんだ。かといって、新しいミルキング・パーラー形式に切り換えるには費用が掛かる」
あたしは意味のわからない話にはうなずくだけで対処した。……キュウリの漬物もおいしい。適度な塩味って言うのはこういうのなんだよね。
「そんな時、千春は牛舎に出入りするようになった。……一人っ子で友達も近くには住んでいないあの子は、牛舎で遊びながら仕事を覚えていった。勘のいい子だからね、もしかしたら牛舎が無くなってしまうということがわかったのかもしれない」
秦野さんはしゃべりながら、さりげなくあたしの小皿に卵焼きを移した。食べ始めてすぐに無くなったことに気付いていたみたい。
「そして……、彼女は世に言う反抗期に入った。私には彼女が生き生きしている姿を見ても、ビジネスの為に彼女から牧場を奪い取る勇気は無かった。かつて自分の為に幼い千春から最愛の母親を奪った私には」
食べながら、あたしはちらっと秦野さんの顔を見た。……それはどう見ても父親の顔だった。あたしは自分の中でゆっくりと恋愛感情みたいなものが冷めていくのを感じた。やっぱり、あたしは小野寺さんだな、みたいな。
「それから何年かは、平穏に過ぎたような気がする。争うことも無く、いい親子関係が保てていた。それが、だ。あの男が現れて、また元の争いの絶えない家庭に戻ってしまった……」
「生馬クンですか?」
あたしはテーブルの上の物を全て平らげると、秦野さんが出してくれたお茶を一口すすって言った。……満足。
「……そう。妹の君にこんな話、申し訳無いけどね」
あたしはお茶を吹き出しそうになった。
そして、再び自分の置かれた環境を思い出す。同時に、自分がホゴカン中ということも。
「ごめんね、ありがとう。……誰かに聞いてもらえて良かったよ」
秦野さんはそれだけ言って、あたしの前の食器と自分の食器を取り、シンクで洗い物を始めた。
……なんだろ。気楽過ぎた。あたしはもっともっと暗い世界に住んでなきゃいけない人間なのに。この牧場に来てから、ちょっとおかしい。
いや、違う。違うよ。
これが本当のあたし。そうなんだ。こうやって気軽に人の話を聞き流すのが、あたしっていう人間なんだ。
あたしをそんな姿に戻してくれたのは、誰? 秦野さんでも、千春でも、小野寺さんでもない。ましてや化け物みたいに大きい牛でも食い意地の張った子牛でもない。
小野寺さんみたいにわかりやすい言葉で教えてくれることも無いし、はっきり言ってあたしよりずっとガキに見える。優しくも無いし、千春の気持ちに気付いてあげる柔軟さも無い。
生馬クン。そうだ。生馬クン。
秦野さんみたいに優しくないけど、……それでもあたしの過去を隠しておいてくれた。
小野寺さんみたいに仕事に情熱を持ってないけど、……それでも仕事を投げ出したりしない。
そこで千春の顔が浮かぶ。
……わかってるよ。あたしが生馬クンを好きになったりすることは無いよ。絶対。
あたしは、そんなんじゃなくて。ただ、千春がなんで生馬クンのことが好きなのかわかった気がしただけ。そして、不器用な優しさに気付いただけ。
だけど、だけどね。
……そういえば化粧するの、忘れたな。そういえばなんでかわからないけど、泣いたな。
あたしは急に気付く。そういえば……。
自分のぐちゃぐちゃな顔を想像して、あたしはすぐにテーブルに顔を伏せた。
*
俺は簡易キッチンで密かに朝食を作っていた。
スクランブルエッグ――目玉焼きの成れの果て――を、俺は白い皿に盛り付ける。そしてそれをテーブルの上に置きながら、ため息をついた。
――どうしてこうも上手く行かないんだろうか。
目玉焼きのことじゃない。いや、それもある。けど、それがメインじゃない。
なんだってんだろう。なんで俺がこんな不愉快な気分にならなけりゃいけないんだろう。
っていうよりも、だ。なんで俺はあんな変な場面で、そんな大切なことに気付くんだろう。もうちょっと早くそのことに気付いていれば、昨日の夜のうちに……、はぁ……。
自分の妄想に自分でとどめを差すと、俺は昨日買ってきた食パンを袋から取り出し、粗末な食事を開始した。
その時、ドアが開く音がして。そして、そこから美沙が明るい顔で現れた……、なら、どんなによかっただろう。
「なんだよ、お前かよ」
「なんだってことは無いだろ」
千春だ。それ以上でもそれ以下でもない。どこからどう見ても、千春だ。
しかも、つなぎのままだ。……もし千春の仕事のやり方がへたくそだったら、俺は即追い出していただろう。だが、器用な千春のつなぎは見た目には綺麗だった。
「せっかく天下の千春サマが、生馬んとこのまずい飯を食いに来てやったんだから」
「そんなこと、頼んでねぇよ」
そう言いつつ、俺はキッチンに立った。また親父と喧嘩したんだな、と思いながら。
まあ、あのなよなよしい男のことを考えると、千春の気持ちもわからないではない。俺が千春だったら、とっくに病院送りにしてる。
「なぁ。何、これ」
俺が振りかえると、千春はテーブルの上で湯気を上げている物を指差していた。
「……は? お前、目ぇ悪かったっけか。どう見てもおいしそうな目玉焼きチャンだろうが」
千春は顔をしかめる。……、まあそうだよな。
「生馬、相変わらず料理の腕上がんねぇな。ホントに」
「あぁ? 文句あんのか?」
「あるよ。どう考えても」
冗談のつもりだったのに、少し本気でキレそうになる。……こいつといると、いつもこうだ。
でも俺は一応大人だしね。こいつが俺のこの一言を待ってることぐらいわかってる。
「じゃあ、お前が作ってみろよ」
「わかった」
俺はテーブルのところに戻る。それと入れ替わりで、千春はキッチンに立つ。
……実際のところ。このキッチンにある調理器具は、ほとんど千春が揃えたといってもいいぐらいだ。
毎日のように父親と喧嘩して俺のところに来る千春は、いつも腹を空かせていた。それで俺が飯を食わせてやったりしたのだが、「インスタントは栄養が片寄る」とか、偉そうなことを言って遂には俺をスーパーまで連れていき、調理器具を買ったのだ。中学生と調理器具を買い揃える俺の顔は、想像すると笑ってしまうぐらい不機嫌だった。
千春はキッチンに立つ時、他のどの顔よりも輝いていた。……言葉は乱暴だが、料理は大して上手くは無いが。それでも認めたくはないが、その瞬間の千春は……、可愛かった。楽しそうだし、食べることよりも作ることを楽しんでいるようだった。
でもいつもこいつは忘れたまま帰っていく。大切なことを。
俺はさっさと食事を終える。そして、テレビをつけるとベッドに横たわった。
なんとなく、嗅ぎ慣れない香りがした。……昨日の美沙の残り香だった。香水ではなく、洗髪料の香料の香り。
その妙に健康的な香りに、俺は欲情することもなくウトウトし始めていた。
そのまどろみが完全な眠りに変わる頃。
「出来たぞぉ、生馬!」
という千春のアホな声が俺を心地良い眠りから、不機嫌な朝の世界に引き戻した。
「……うるせぇよ。ホントに」
俺は半分だけ目を開けてイライラを表した。
しかしこの中学生にはそんなものは通用しない。
「ほら、冷めないうちに食べないと駄目だって」
俺は鼻をひくひくさせる。……千春が作ったコンソメスープの匂いで、美沙の香りはかき消されてしまった。
これ以上逆らっても千春は引かないことは知っている。どこまでも食い下がってくることもわかってる。
俺は体を横に倒したまま、立ち上がらずに足からベッドを降り、そして丁度テーブルのところに座る。テーブルの上には二人分のスープとサラダが置かれている。
コンソメスープ。どこから持ってきたのか、絹さやと小さなサイコロ状に切られたニンジンが入っている。
それにサラダ。キャベツの千切りにさりげなくニンジンの千切りとピーマンの千切りを混ぜ込む辺りが、いかにも千春らしい。ノンオイルの中華ドレッシングがかかっている。下手くそな飾り切りを施された卵は、俺が嫌いで千春が好きな、完熟のゆで卵だった。
正直、俺の方が上手い。俺の作ったスクランブルエッグの方が芸術的だ。
「どうよ」
俺はいつも考える。こいつの料理に、俺はどんな反応をすればいいんだろう。
しかしその思考ははっきりいって意味がない。だって、いつもの様に俺は一番最初に思ったことを口にするだけだから。
「ピーマンとニンジン、嫌いだ」
正直なところだ。それ以上俺の今の心情を表す言葉は無い。
「ほらほら、そんなこと言わないの。好き嫌いは駄目ですよ、生馬クン」
そして千春は俺をガキ扱いする。ガキはお前だろ……。
仕方なく俺はスープを口にする。
「どうよ」
また、俺は考える。というよりもこれはどう考えても返答に悩んでしまう味だ。
正直うまくない。かといってまずい訳でもない。だが結局、俺の答えは最初から決まっている。
「ニンジンが無かったらもうちょっとマシになるかも」
「なんだよ、それ」
続いてサラダにも口をつける。
「ピーマン苦い。ニンジン気持ち悪い」
千春が怒った顔をする。……いい気味だ。眠りから起こされた俺の気持ちにもなってみろってんだ。
「そういうこと言ったら、小野寺さんに言いつけてやるからな」
「はぁ?」
突然のその名前に、俺は思わずゆで卵の黄身を喉に詰まらせてしまった。
「絹さやと、ニンジンとピーマンと。小野寺さんの家庭菜園から盗んできた」
千春はさらっと言ったが、俺は呼吸困難になった。たまらずニンジン入りのスープをがぶ飲みする。
普段寡黙な小野寺さんがただ一ヶ所だけ雄弁になる場所がある。それが、小野寺さんの家庭菜園。
俺が初めてそれを見た時、笑ってしまいたい衝動と見てはいけない物を見たような感覚で、倒れそうになった。土に語り掛ける三十代独身の金髪男性。余りにも面白すぎて、むしろ怖くなったぐらいだ。
その小野寺さんのかけがえの無い友達を、盗んできた? しかもよりによって、料理しちゃった?
「だいじょぶだって。ちゃんとえりこに食わせて証拠隠滅しとくから」
えりこ。ウチの牧場一の食い意地の牛。しかもいくら食っても乳量は増えないという伝説の牛。
「お前なぁ」
俺はとりあえずそう切り出したが、変な笑いがこみ上げてきてそれ以上何も言えなかった。
それと同時になんとなく思う。……美沙なんて、どうでもいいかもしれない、と。
別に美沙を嫌いになったわけでもない。けど千春とこうやって馬鹿みたいに笑ってる方が俺には合ってるのかもしれない。
だからといって、美沙が言葉に従って千春のことが好きになった訳でもない。
―――結婚しちゃえば?
……でも、この今の生活も、見る人が見れば半同棲なのかもな。もしくは別居の夫婦とか。
なんだろう。……別にいいんじゃない? 心からそう思う。
その後の行動について、俺は特に何も考えちゃいなかった。
考えるのが面倒だった。それもある。考える必要が無かった。それも正解だ。
俺は簡単に、そう、とてつもなく簡単にその行動を行った。
唐突にテーブルに右手をつくと、その反対側にいる千春の目を見つめた。俺は朝日が照らす奇妙な絵に囲まれて、左手を彼女の肩に掛ける。
千春は、一瞬体を硬直させたが拒むことは無かった。動くことすら忘れた置物みたいに、ただ目を閉じただけだった。
何秒かの沈黙と、妙に暗い朝の光の中で。俺は目を閉じる。
そして、何の理由も無いその行為に踏み切る。
キス。ただ唇と唇を重ねるだけの、淡白で薄っぺらい行為。
何秒後かに、俺はそっと唇を離す。
千春の顔が赤く火照っている。何かを期待した目で、彼女は俺を見ている。
それを見て俺は、……正直後ろめたかった。
なにやってんだろう。俺は。
好きでもない女に、なんでキスしてんだろう。俺はいつからそんな軽々しい男になったんだろう。
中学生相手に、なにやってんだろ。これじゃあ中年の変態親父と何も変わらない。気持ち悪い脂っこい男と変わらない。
千春の気持ちを利用して、女に振られたから腹癒せに他の女に近寄るなんて、卑怯以外の何物でもない。
「……ごめん」
俺はそれしか言えなかった。
「大丈夫だよ。別に怒ってないよ」
違うよ。謝ってるのは『突然』キスしたことじゃない。『キス』自体が間違いだって言いたいのに。
だが、俺はそれ以上何も言えなくなった。中学生の恋を邪魔したくないのもある。俺自身の虚脱感もある。
今のこの状況自体は別に何も悪くない。だけど、俺の中の千春に対する気持ちは、絶対恋愛感情なんかじゃなかった。そんな聞こえのいい文句じゃない。説明することすら難しい惨めな感情だった。
「ウチ、もう行くね」
そして、千春は去っていく。
残されるものは俺のたった何秒かの過ちと、永遠にも感じられるような自己憐憫、それに千春が手をつけずに残していった料理と洗い物だけだった。
*
……あたしの中で、何かが動き出したような気がした。
なんか、変な感じ。自分の中に、何かが棲みはじめてる。変な感じ。
恋愛が苦手。そうやって言い訳してた。……憧れ、失望、裏切り。そんな、経験したことの無い恐怖に怯えてた。
でも、それは違うと思う。
何があたしを変えたのかな? 何があたしをその恐怖から救ってくれたのかな?
……それは、この牧場に来て、小野寺さんの言葉を聞いて、昔から積み重ねてきたことが、なんかすごく大きな花を咲かせた、そんな感じ。
踏みにじられて。握りつぶされて。……傷つけられて。
痛くて、苦しくて。……誰かの助けを待ってたんだ。ずっと。
そして……、あたしは複雑な形でその誰かと出会った。
小野寺さん? 違うよ。小野寺さんは、あたしみたいな人間には気付かない。……それぐらいわかってるんだ。
千春? 惜しいけど、違う。千春は、確かにいくら尊敬しても足りないくらい良い子。……だけど、それに気付けたのは……。
秦野さん? ……うん。一番近い、かな。だけど、秦野さんは違う。違いすぎる。あたしがそう思うのは……。
――ねえ、生馬クン。あたしは、おかしいのかな。
秦野さんみたいに優しさを素直に表せない生馬クン。
千春の優しさや強さに気付かない生馬クン。
小野寺さんみたいにかっこいいことを言えない生馬クン。
――なんでだろう。うまく言えないけど、あたしは。
――生馬クンが好きになったみたい。
……千春、ごめん。なんか、おかしいね。あたし。あたしは、生馬クンよりも不器用なのかもしれないね。
初めてあたしに、迷惑そうに接した生馬クン。……なんでだろ。あの時、あたしは殴られるよりも、説教を受けるよりも、そんな簡単な怖さよりもずっと怖かった。
父親がいないから? そうだね。そうだと思う。
ずっと、怖い人達の優しい言葉に耳を傾けなかったから? そうだよ。あたしの周りの怖い人達は、すごく優しかった。
……でもね、そんなんじゃない。そんな簡単な言葉じゃ語り切れないくらい、あたしは難しい感情に包まれてる。
初恋って呼んだ物。周りの友達の真似をして、見た目のかっこよさを選んだ、あれとは全然違う。
それに、族の仲間にコクられて、同情心から付き合ったのとも全然。
なんだろ。心底嫌いな相手にだけ、感じるような深い感情。
あたしは千春の家を飛び出して、雑草が生い茂る砂利道を小走りに進んだ。
―――雑草の美しさ。野草のけなげさ。
その美しさに、心が曇っていたんだって気付かされる。
―――白い壁、赤い屋根。
綺麗だな。なんで気付かなかったんだろう。
―――夏の強い日差しと、明る過ぎて青さを感じない太陽。
魔法が解けたみたいに見える、その明るさに微笑む。
―――朝の魔法。朝の光が作り上げる魔法。
重い荷物を、太陽が消し去ってくれた。
だけど、高い空の上にある雲が作る影が……、あたしの背中にある重たい鉄の羽に気付かせる。
「千春」
重いよ。重い。
「あれ、もう食べ終わったの?」
苦しいよ。助けて。
「千春、生馬クンの所に行ってたの?」
なんでこんな物を背負わせるの。
「うん。ウチが料理を作って、生馬に食べさせてた」
……魔法が解けたんじゃない。あたしには、太陽の魔法がかかってたんだ。
「……そう、すごいね。千春」
あたしは太陽の下に居ちゃいけない人間なんだ。
夜の闇の中で走り回った。あの辛さとスリルみたいな物に、あたしは依存しなくちゃいけなかったんだ。
鎖に結ばれて。慕ってくれる仲間を引き連れて。ヘッドライトが照らす冷たいアスファルトに恋をして。
「……ねぇ、どうかした?」
「ん? なんでもない」
あたしはそう答える。
明るい太陽から、小さな雲が守ってくれる。白いけど、汚れを知ってる雲。太陽に騙されるあたしを、また元のあたしに戻してくれる雲。
「……ウチ、家に戻るけど。あんたどうする?」
千春の顔色が、さっきまでと違って少し暗い。……さっきまであんなに明るい顔をしてたのに。
「いいや。あたしちょっと生馬クンの所に行く」
そう言うと、千春が変な顔をする。
「だいじょぶだって。千春ちゃんの『生馬』を取ったりしないから」
その時あたし達を覆っていた影が、ゆっくり流れて、あたし達は太陽の下に立たされた。
それと同時、だったかはわからないけど。
「わかった。じゃ、後でね」
千春は確かに笑顔を取り戻した。
そしてあたしは一人、太陽の下に残される。
黒い鉄の羽を背負ったまま。
*
さっきのプレハブで着替えながら、あたしはちょっといらいらしていた。
なんでだろ。なんで、生馬クンはああいう態度を取るんだろ。
何? あたしの言葉ってそんなにわかりにくいかな。
わかりにくいかもしれないけど、あたしは千春に気を使って生馬クンを誘ってあげたのに。
なんでだろ。わからなかったかな。腹立つなぁ。
「……変なこと言わなくていいよ。あいつ、そういうの嫌いだから」
千春がそうやって言った。
生馬クンとはやっぱり違うな。わかってるっていうか。
「ごめんね」
千春は怒ってなかった。笑いながらあたしの肩に軽く触れた。
わかんない。なんでこういう子があんな男を好きになるんだろ?
そして生馬クンのセリフを思い出す。
―――あれと結婚する気は無いぞ、死んでも。
おかしいでしょ、明らかに。ふざけてるよ。
何様のつもり? あいつは一体。
あいつには、絶対千春みたいな女の子はもったいないよ。
「……気にしないで。別にいつものことだよ」
あたし、もし男だったら千春のこと好きになってたと思う。そのぐらい、千春はいい子だった。そうじゃないと、表情から察するなんてこと、できる訳無い。
……腹が立ったら……、お腹空いた。
朝から何も食べてないんだよね、そういえば。っていうより、まだ朝だし。
「来なよ。朝御飯、食べよ」
千春がそう言ったのは、千春の家に着いたからかもしれないし、あたしの顔が『お腹空いた光線』を出していたからかもしれない。どっちでもいいや。
千春の家は、玄関の中に入るとひんやりしていた。綺麗な、ウッディな、ログハウステイストな、そんな家。
玄関を通って、そこから左手に階段を見ながら一階の廊下を歩いて、そして右側にあるドアを開けた。今通ってきた場所の全てが、洗練されたセンスと、独特のリズムに溢れていた。
本当はもっと、芳香剤の良い匂いがするのかもしれない。それとも何の匂いもしないのかもしれない。だけど今は、優しくて包み込むみたいな香りが満ちていた。
そしてその香りは、千春がドアを開けるともっと強くなった。
――味噌汁? スープ? どっちにしても暖かい家庭的な空気が、あたしの体を包み込んでいた。
眩しいくらいの朝の光が、白いレースのカーテンに吸いこまれて柔らかい光に変わり、間接照明みたいにリビングを輝かせている。
無駄なインテリアは無い。窓だって普通の物だと思う。置かれているソファにしたって、白い布を纏ったどこにでもあるようなありふれた感じだった。
だけど、それらの一つひとつは、高級品の風格っていうのかな、そういうのを放ってる気がした。
白い壁紙にしても、一点の汚れも無いし、窓に曇りがあるなんてことも無い。完璧に使いこなされてるのがあたしみたいな人間にもわかった。
「ねぇ、お父さん」
千春がうっとりしてるあたしの横で急に声を出した。
それを聞いて、リビングダイニングとつながったカウンターキッチンから、男が顔を出した。
胸元の開いた真白なシャツ。胸毛は見えなかったけど、でもなんとなくバレエダンサーみたいなセクシーさがある雰囲気。こっちからキッチンの中はあんまり見えなかったから、それしか見えない。
……あたしの直感みたいなものが、一瞬でそのお父さんと呼ばれた顔を判断する。
そして、その結果。
――この人は生馬クンに似てる。
なんだろう。なんでだろう。なんか、すごい腹が立った。
「……誰だ? そのコ」
あたしはその声を聞いてなんとなく落ち着いた。声までは似てない。
「ええっと、生馬の妹。名前は……」
千春はあたしの顔を見る。そうだ、名前教えてない。
「あの、美沙って言います。よろしくお願いします」
なるべく丁寧に言ってみた。
生馬クンに似てる千春のお父さんは、こっちに向けて軽く首を曲げる。……こういう適当なところもなんとなく似てるな。
「その、妹の美沙ちゃんが一体何しに来たの?」
声質が低くて、聞き取りにくい生馬クンの声とは違って、この人はよく通るちょっと高い声をしてる。
千春のお父さんは、
「ちょっと待って」
と言うと、キッチンから出てくる。
細い。繊細な感じがわかる。体つきも細いし、顔立ちも女の人みたいな中性的な雰囲気を持ってる。生馬クンの妙に鍛え上げられた体とは全然違う。……似てるっていうのは勘違いかもしれない。
明るいリビングに現れたのは、それこそ王子様みたいな、貴公子みたいな、牧場っていう場所とは全然合わない人だった。白くて少し大きめにも見えるシャツに合わせた黒い、少しだけ光沢があるパンツもやっぱりバレエダンサーのイメージにぴったりだった。
「どうも。この牧場の社長をやってます。秦野 真二と言います」
ちょっと大袈裟に微笑みながら、千春のお父さんはあたしの顔を見た。
高い身長の秦野さんを見上げていると、視界の外で千春がため息をつくのがわかった。
「美沙さんがここにいる理由なんてどうでもいいじゃん。……そんなことよりさ。生馬の所だとまともな物食べられないと思ったから、連れてきたんだ。もう出来てるでしょ?」
なんで千春は、こんな言い方をするんだろ。あたしは、こういう挨拶の仕方をされたのは初めてだけど、すごい嬉しいのに。なんで邪魔するんだろ。さっきまでの千春じゃないみたいだった。
「ん、ああ。出来てるよ。だけど三人分はあるかな……」
「だからさぁ、いつも言ってるじゃん。もっと多めに作っとけばって。あたしがいつこうやって人を連れてくるかわからないんだからさ。生馬だって、小野寺さんだって、連れてくることあるでしょ」
「……だけど、残してももったいないしな」
秦野さんがそう言うと、千春はまたため息をついた。
「もういいや。……あたしの分食べていいよ。あたし食欲無くなったから」
千春は不機嫌そうだった。そして今入ってきたばかりのドアを出ていった。あたしが「申し訳無いよ、いいよ」っていうセリフ言うのを待たずに。
玄関の扉が強引に閉められる音が聞こえた。残されたあたしと秦野さんの間には、変な沈黙が漂った。
……もしここであたしがお腹を鳴らせたら、どのくらい場が和むんだろ。なんでドラマみたいにお腹が鳴ってくれないんだろ。
気まずい雰囲気の中であたしはどうやったらお腹がなるのか、本気で考えていた。
そんな感じで少し頑張って、どうやらお腹っていうのは恥ずかしい時に鳴るものらしいってことに気付いて、顔を上げたら。
―――秦野さんは、泣いてた。
綺麗だなって思った。なんでだろ。男の人にそんなの、失礼なだけだけど、単純にそう思った。
涙は流れてない。目の下に溜まったまま動かない。だけど、それが妙に男の涙っていうものの綺麗さを感じさせた。
あたしの視線に気付いたみたいで、秦野さんはこっちを見る。
「すみません。見苦しいものをお見せして」
あたしは首を振った。
「いえ」
秦野さんは笑った。だけど、その表情は悲痛で、心が痛んだ。
もしも秦野さんが千春の父親じゃなかったら、あたしは本気で好きになってたかもしれない。それぐらい、あたしには痛いぐらい秦野さんの気持ちが伝わってきた。
「お腹、空いてますか? よかったら、朝食を用意してありますので」
少し後、そう言った秦野さんは、冷静にだった。ん、違うかもしれない。あたしみたいなガキにはわからないように、その痛めた心を隠してしまったのかもしれない。
あたしはうなずいた。本当はお腹のことなんか気にならなかったけど、でも素直に秦野さんに従うことにした。あたしに出来るのはそれぐらいだったから。
そして、お腹が鳴った。
「じゃあ、いつ頃から二人でここに住んでるんですか?」
あたしは綺麗に整頓されたダイニングで、秦野さんと向かい合っていた。ちょっと大きめのテーブルであたしは秦野さんが作った御飯をぱくついていた。
「いつから……、ええっと、十年と少しかな。千春がまだ三歳か四歳かの頃だから」
あたしはうなずきながら味噌汁をすすった。この味噌汁、千春の好みに合わせたものらしい。何か青菜と焼麩が入っただけのシンプルな物。だけど、それが朝には丁度良い感じがした。
「あの時は、どこでもよかったんだよ。私はその時の妻から娘を奪い取った形だったからね」
焼き魚。青魚とは思えないほど生臭さが無くて、魚嫌いのあたしでもおいしく食べられる。
「母方の祖父が牧場を開いていたのを思い出してね。逃げる様にここに来たんだ。……それからは苦労の連続だったよ」
卵焼き。甘い卵焼きが嫌いって言う人もいるけど、そんな人にはこれを食べさせてあげたい。優しいけどしっかり塩が利いてて、すごくおいしい。
秦野さんも御飯に手をつける。
おいしい。珍しく朝から動き回って、お腹を空かせたっていうのもあるんだと思うけど。それでも久しぶりに食べた朝御飯は、笑顔になるぐらいおいしかった。
「嫌な仕事の連続だった。もともと肉体労働に向いていないのかもしれないね。それで、牛乳以外の収入源を探したんだ。それで牧草を本州の牧場に売ることを思いついた。直接売買なら農協を通したりするよりもずっと高値で買い取ってもらえるからね」
そう言って秦野さんは微笑んだけど、はっきり言って意味がわからなかった。あたしは正直に首をかしげる。秦野さんは今度は口を開けて、声に出して笑った。
「……まあ、いいよ。私はそうやって他の牧場とは違う収入源を得て、家庭は裕福になった。そして、祖父が亡くなって。……それからだった。千春が牛舎で働くようになったのは」
あたしはもぐもぐしながらうなずいた。話は聞きたいけど、箸が休まる暇は無い。米もおいしい。どこの銘柄か後で聞いとこうと思った。
「本当は、牛舎は潰して牧草だけを生産する方向で話は進んでたんだ。もうその当時から牧場にも近代化の波が訪れていて、搾乳も給餌もほとんど機械化されていく流れにあった。それにBSEの影響は肉牛だけでなく、乳牛の業界にもあった。はっきり言って旧式のスタンチョン形式のうちの牧場ではその流れには抗し難いものがあったんだ。かといって、新しいミルキング・パーラー形式に切り換えるには費用が掛かる」
あたしは意味のわからない話にはうなずくだけで対処した。……キュウリの漬物もおいしい。適度な塩味って言うのはこういうのなんだよね。
「そんな時、千春は牛舎に出入りするようになった。……一人っ子で友達も近くには住んでいないあの子は、牛舎で遊びながら仕事を覚えていった。勘のいい子だからね、もしかしたら牛舎が無くなってしまうということがわかったのかもしれない」
秦野さんはしゃべりながら、さりげなくあたしの小皿に卵焼きを移した。食べ始めてすぐに無くなったことに気付いていたみたい。
「そして……、彼女は世に言う反抗期に入った。私には彼女が生き生きしている姿を見ても、ビジネスの為に彼女から牧場を奪い取る勇気は無かった。かつて自分の為に幼い千春から最愛の母親を奪った私には」
食べながら、あたしはちらっと秦野さんの顔を見た。……それはどう見ても父親の顔だった。あたしは自分の中でゆっくりと恋愛感情みたいなものが冷めていくのを感じた。やっぱり、あたしは小野寺さんだな、みたいな。
「それから何年かは、平穏に過ぎたような気がする。争うことも無く、いい親子関係が保てていた。それが、だ。あの男が現れて、また元の争いの絶えない家庭に戻ってしまった……」
「生馬クンですか?」
あたしはテーブルの上の物を全て平らげると、秦野さんが出してくれたお茶を一口すすって言った。……満足。
「……そう。妹の君にこんな話、申し訳無いけどね」
あたしはお茶を吹き出しそうになった。
そして、再び自分の置かれた環境を思い出す。同時に、自分がホゴカン中ということも。
「ごめんね、ありがとう。……誰かに聞いてもらえて良かったよ」
秦野さんはそれだけ言って、あたしの前の食器と自分の食器を取り、シンクで洗い物を始めた。
……なんだろ。気楽過ぎた。あたしはもっともっと暗い世界に住んでなきゃいけない人間なのに。この牧場に来てから、ちょっとおかしい。
いや、違う。違うよ。
これが本当のあたし。そうなんだ。こうやって気軽に人の話を聞き流すのが、あたしっていう人間なんだ。
あたしをそんな姿に戻してくれたのは、誰? 秦野さんでも、千春でも、小野寺さんでもない。ましてや化け物みたいに大きい牛でも食い意地の張った子牛でもない。
小野寺さんみたいにわかりやすい言葉で教えてくれることも無いし、はっきり言ってあたしよりずっとガキに見える。優しくも無いし、千春の気持ちに気付いてあげる柔軟さも無い。
生馬クン。そうだ。生馬クン。
秦野さんみたいに優しくないけど、……それでもあたしの過去を隠しておいてくれた。
小野寺さんみたいに仕事に情熱を持ってないけど、……それでも仕事を投げ出したりしない。
そこで千春の顔が浮かぶ。
……わかってるよ。あたしが生馬クンを好きになったりすることは無いよ。絶対。
あたしは、そんなんじゃなくて。ただ、千春がなんで生馬クンのことが好きなのかわかった気がしただけ。そして、不器用な優しさに気付いただけ。
だけど、だけどね。
……そういえば化粧するの、忘れたな。そういえばなんでかわからないけど、泣いたな。
あたしは急に気付く。そういえば……。
自分のぐちゃぐちゃな顔を想像して、あたしはすぐにテーブルに顔を伏せた。
*
俺は簡易キッチンで密かに朝食を作っていた。
スクランブルエッグ――目玉焼きの成れの果て――を、俺は白い皿に盛り付ける。そしてそれをテーブルの上に置きながら、ため息をついた。
――どうしてこうも上手く行かないんだろうか。
目玉焼きのことじゃない。いや、それもある。けど、それがメインじゃない。
なんだってんだろう。なんで俺がこんな不愉快な気分にならなけりゃいけないんだろう。
っていうよりも、だ。なんで俺はあんな変な場面で、そんな大切なことに気付くんだろう。もうちょっと早くそのことに気付いていれば、昨日の夜のうちに……、はぁ……。
自分の妄想に自分でとどめを差すと、俺は昨日買ってきた食パンを袋から取り出し、粗末な食事を開始した。
その時、ドアが開く音がして。そして、そこから美沙が明るい顔で現れた……、なら、どんなによかっただろう。
「なんだよ、お前かよ」
「なんだってことは無いだろ」
千春だ。それ以上でもそれ以下でもない。どこからどう見ても、千春だ。
しかも、つなぎのままだ。……もし千春の仕事のやり方がへたくそだったら、俺は即追い出していただろう。だが、器用な千春のつなぎは見た目には綺麗だった。
「せっかく天下の千春サマが、生馬んとこのまずい飯を食いに来てやったんだから」
「そんなこと、頼んでねぇよ」
そう言いつつ、俺はキッチンに立った。また親父と喧嘩したんだな、と思いながら。
まあ、あのなよなよしい男のことを考えると、千春の気持ちもわからないではない。俺が千春だったら、とっくに病院送りにしてる。
「なぁ。何、これ」
俺が振りかえると、千春はテーブルの上で湯気を上げている物を指差していた。
「……は? お前、目ぇ悪かったっけか。どう見てもおいしそうな目玉焼きチャンだろうが」
千春は顔をしかめる。……、まあそうだよな。
「生馬、相変わらず料理の腕上がんねぇな。ホントに」
「あぁ? 文句あんのか?」
「あるよ。どう考えても」
冗談のつもりだったのに、少し本気でキレそうになる。……こいつといると、いつもこうだ。
でも俺は一応大人だしね。こいつが俺のこの一言を待ってることぐらいわかってる。
「じゃあ、お前が作ってみろよ」
「わかった」
俺はテーブルのところに戻る。それと入れ替わりで、千春はキッチンに立つ。
……実際のところ。このキッチンにある調理器具は、ほとんど千春が揃えたといってもいいぐらいだ。
毎日のように父親と喧嘩して俺のところに来る千春は、いつも腹を空かせていた。それで俺が飯を食わせてやったりしたのだが、「インスタントは栄養が片寄る」とか、偉そうなことを言って遂には俺をスーパーまで連れていき、調理器具を買ったのだ。中学生と調理器具を買い揃える俺の顔は、想像すると笑ってしまうぐらい不機嫌だった。
千春はキッチンに立つ時、他のどの顔よりも輝いていた。……言葉は乱暴だが、料理は大して上手くは無いが。それでも認めたくはないが、その瞬間の千春は……、可愛かった。楽しそうだし、食べることよりも作ることを楽しんでいるようだった。
でもいつもこいつは忘れたまま帰っていく。大切なことを。
俺はさっさと食事を終える。そして、テレビをつけるとベッドに横たわった。
なんとなく、嗅ぎ慣れない香りがした。……昨日の美沙の残り香だった。香水ではなく、洗髪料の香料の香り。
その妙に健康的な香りに、俺は欲情することもなくウトウトし始めていた。
そのまどろみが完全な眠りに変わる頃。
「出来たぞぉ、生馬!」
という千春のアホな声が俺を心地良い眠りから、不機嫌な朝の世界に引き戻した。
「……うるせぇよ。ホントに」
俺は半分だけ目を開けてイライラを表した。
しかしこの中学生にはそんなものは通用しない。
「ほら、冷めないうちに食べないと駄目だって」
俺は鼻をひくひくさせる。……千春が作ったコンソメスープの匂いで、美沙の香りはかき消されてしまった。
これ以上逆らっても千春は引かないことは知っている。どこまでも食い下がってくることもわかってる。
俺は体を横に倒したまま、立ち上がらずに足からベッドを降り、そして丁度テーブルのところに座る。テーブルの上には二人分のスープとサラダが置かれている。
コンソメスープ。どこから持ってきたのか、絹さやと小さなサイコロ状に切られたニンジンが入っている。
それにサラダ。キャベツの千切りにさりげなくニンジンの千切りとピーマンの千切りを混ぜ込む辺りが、いかにも千春らしい。ノンオイルの中華ドレッシングがかかっている。下手くそな飾り切りを施された卵は、俺が嫌いで千春が好きな、完熟のゆで卵だった。
正直、俺の方が上手い。俺の作ったスクランブルエッグの方が芸術的だ。
「どうよ」
俺はいつも考える。こいつの料理に、俺はどんな反応をすればいいんだろう。
しかしその思考ははっきりいって意味がない。だって、いつもの様に俺は一番最初に思ったことを口にするだけだから。
「ピーマンとニンジン、嫌いだ」
正直なところだ。それ以上俺の今の心情を表す言葉は無い。
「ほらほら、そんなこと言わないの。好き嫌いは駄目ですよ、生馬クン」
そして千春は俺をガキ扱いする。ガキはお前だろ……。
仕方なく俺はスープを口にする。
「どうよ」
また、俺は考える。というよりもこれはどう考えても返答に悩んでしまう味だ。
正直うまくない。かといってまずい訳でもない。だが結局、俺の答えは最初から決まっている。
「ニンジンが無かったらもうちょっとマシになるかも」
「なんだよ、それ」
続いてサラダにも口をつける。
「ピーマン苦い。ニンジン気持ち悪い」
千春が怒った顔をする。……いい気味だ。眠りから起こされた俺の気持ちにもなってみろってんだ。
「そういうこと言ったら、小野寺さんに言いつけてやるからな」
「はぁ?」
突然のその名前に、俺は思わずゆで卵の黄身を喉に詰まらせてしまった。
「絹さやと、ニンジンとピーマンと。小野寺さんの家庭菜園から盗んできた」
千春はさらっと言ったが、俺は呼吸困難になった。たまらずニンジン入りのスープをがぶ飲みする。
普段寡黙な小野寺さんがただ一ヶ所だけ雄弁になる場所がある。それが、小野寺さんの家庭菜園。
俺が初めてそれを見た時、笑ってしまいたい衝動と見てはいけない物を見たような感覚で、倒れそうになった。土に語り掛ける三十代独身の金髪男性。余りにも面白すぎて、むしろ怖くなったぐらいだ。
その小野寺さんのかけがえの無い友達を、盗んできた? しかもよりによって、料理しちゃった?
「だいじょぶだって。ちゃんとえりこに食わせて証拠隠滅しとくから」
えりこ。ウチの牧場一の食い意地の牛。しかもいくら食っても乳量は増えないという伝説の牛。
「お前なぁ」
俺はとりあえずそう切り出したが、変な笑いがこみ上げてきてそれ以上何も言えなかった。
それと同時になんとなく思う。……美沙なんて、どうでもいいかもしれない、と。
別に美沙を嫌いになったわけでもない。けど千春とこうやって馬鹿みたいに笑ってる方が俺には合ってるのかもしれない。
だからといって、美沙が言葉に従って千春のことが好きになった訳でもない。
―――結婚しちゃえば?
……でも、この今の生活も、見る人が見れば半同棲なのかもな。もしくは別居の夫婦とか。
なんだろう。……別にいいんじゃない? 心からそう思う。
その後の行動について、俺は特に何も考えちゃいなかった。
考えるのが面倒だった。それもある。考える必要が無かった。それも正解だ。
俺は簡単に、そう、とてつもなく簡単にその行動を行った。
唐突にテーブルに右手をつくと、その反対側にいる千春の目を見つめた。俺は朝日が照らす奇妙な絵に囲まれて、左手を彼女の肩に掛ける。
千春は、一瞬体を硬直させたが拒むことは無かった。動くことすら忘れた置物みたいに、ただ目を閉じただけだった。
何秒かの沈黙と、妙に暗い朝の光の中で。俺は目を閉じる。
そして、何の理由も無いその行為に踏み切る。
キス。ただ唇と唇を重ねるだけの、淡白で薄っぺらい行為。
何秒後かに、俺はそっと唇を離す。
千春の顔が赤く火照っている。何かを期待した目で、彼女は俺を見ている。
それを見て俺は、……正直後ろめたかった。
なにやってんだろう。俺は。
好きでもない女に、なんでキスしてんだろう。俺はいつからそんな軽々しい男になったんだろう。
中学生相手に、なにやってんだろ。これじゃあ中年の変態親父と何も変わらない。気持ち悪い脂っこい男と変わらない。
千春の気持ちを利用して、女に振られたから腹癒せに他の女に近寄るなんて、卑怯以外の何物でもない。
「……ごめん」
俺はそれしか言えなかった。
「大丈夫だよ。別に怒ってないよ」
違うよ。謝ってるのは『突然』キスしたことじゃない。『キス』自体が間違いだって言いたいのに。
だが、俺はそれ以上何も言えなくなった。中学生の恋を邪魔したくないのもある。俺自身の虚脱感もある。
今のこの状況自体は別に何も悪くない。だけど、俺の中の千春に対する気持ちは、絶対恋愛感情なんかじゃなかった。そんな聞こえのいい文句じゃない。説明することすら難しい惨めな感情だった。
「ウチ、もう行くね」
そして、千春は去っていく。
残されるものは俺のたった何秒かの過ちと、永遠にも感じられるような自己憐憫、それに千春が手をつけずに残していった料理と洗い物だけだった。
*
……あたしの中で、何かが動き出したような気がした。
なんか、変な感じ。自分の中に、何かが棲みはじめてる。変な感じ。
恋愛が苦手。そうやって言い訳してた。……憧れ、失望、裏切り。そんな、経験したことの無い恐怖に怯えてた。
でも、それは違うと思う。
何があたしを変えたのかな? 何があたしをその恐怖から救ってくれたのかな?
……それは、この牧場に来て、小野寺さんの言葉を聞いて、昔から積み重ねてきたことが、なんかすごく大きな花を咲かせた、そんな感じ。
踏みにじられて。握りつぶされて。……傷つけられて。
痛くて、苦しくて。……誰かの助けを待ってたんだ。ずっと。
そして……、あたしは複雑な形でその誰かと出会った。
小野寺さん? 違うよ。小野寺さんは、あたしみたいな人間には気付かない。……それぐらいわかってるんだ。
千春? 惜しいけど、違う。千春は、確かにいくら尊敬しても足りないくらい良い子。……だけど、それに気付けたのは……。
秦野さん? ……うん。一番近い、かな。だけど、秦野さんは違う。違いすぎる。あたしがそう思うのは……。
――ねえ、生馬クン。あたしは、おかしいのかな。
秦野さんみたいに優しさを素直に表せない生馬クン。
千春の優しさや強さに気付かない生馬クン。
小野寺さんみたいにかっこいいことを言えない生馬クン。
――なんでだろう。うまく言えないけど、あたしは。
――生馬クンが好きになったみたい。
……千春、ごめん。なんか、おかしいね。あたし。あたしは、生馬クンよりも不器用なのかもしれないね。
初めてあたしに、迷惑そうに接した生馬クン。……なんでだろ。あの時、あたしは殴られるよりも、説教を受けるよりも、そんな簡単な怖さよりもずっと怖かった。
父親がいないから? そうだね。そうだと思う。
ずっと、怖い人達の優しい言葉に耳を傾けなかったから? そうだよ。あたしの周りの怖い人達は、すごく優しかった。
……でもね、そんなんじゃない。そんな簡単な言葉じゃ語り切れないくらい、あたしは難しい感情に包まれてる。
初恋って呼んだ物。周りの友達の真似をして、見た目のかっこよさを選んだ、あれとは全然違う。
それに、族の仲間にコクられて、同情心から付き合ったのとも全然。
なんだろ。心底嫌いな相手にだけ、感じるような深い感情。
あたしは千春の家を飛び出して、雑草が生い茂る砂利道を小走りに進んだ。
―――雑草の美しさ。野草のけなげさ。
その美しさに、心が曇っていたんだって気付かされる。
―――白い壁、赤い屋根。
綺麗だな。なんで気付かなかったんだろう。
―――夏の強い日差しと、明る過ぎて青さを感じない太陽。
魔法が解けたみたいに見える、その明るさに微笑む。
―――朝の魔法。朝の光が作り上げる魔法。
重い荷物を、太陽が消し去ってくれた。
だけど、高い空の上にある雲が作る影が……、あたしの背中にある重たい鉄の羽に気付かせる。
「千春」
重いよ。重い。
「あれ、もう食べ終わったの?」
苦しいよ。助けて。
「千春、生馬クンの所に行ってたの?」
なんでこんな物を背負わせるの。
「うん。ウチが料理を作って、生馬に食べさせてた」
……魔法が解けたんじゃない。あたしには、太陽の魔法がかかってたんだ。
「……そう、すごいね。千春」
あたしは太陽の下に居ちゃいけない人間なんだ。
夜の闇の中で走り回った。あの辛さとスリルみたいな物に、あたしは依存しなくちゃいけなかったんだ。
鎖に結ばれて。慕ってくれる仲間を引き連れて。ヘッドライトが照らす冷たいアスファルトに恋をして。
「……ねぇ、どうかした?」
「ん? なんでもない」
あたしはそう答える。
明るい太陽から、小さな雲が守ってくれる。白いけど、汚れを知ってる雲。太陽に騙されるあたしを、また元のあたしに戻してくれる雲。
「……ウチ、家に戻るけど。あんたどうする?」
千春の顔色が、さっきまでと違って少し暗い。……さっきまであんなに明るい顔をしてたのに。
「いいや。あたしちょっと生馬クンの所に行く」
そう言うと、千春が変な顔をする。
「だいじょぶだって。千春ちゃんの『生馬』を取ったりしないから」
その時あたし達を覆っていた影が、ゆっくり流れて、あたし達は太陽の下に立たされた。
それと同時、だったかはわからないけど。
「わかった。じゃ、後でね」
千春は確かに笑顔を取り戻した。
そしてあたしは一人、太陽の下に残される。
黒い鉄の羽を背負ったまま。
*
ああ、ニンジンってなんでこんなに不味いんだろ。
俺は何故か千春が残していった料理をちまちま食べていた。捨てればいいのに、と思うが、生まれついての貧乏性か何かが俺の口に美味くない料理を運んだ。
ピーマン苦っ。大人になったら食べられるようになるって言われたことがあるが、こんなものを食べなきゃいけないんなら、俺は子供のままでいい。いつまでも。
料理がこんなに不味く感じるのも、さっきのことがあったからかもしれない。
キス、か。
よく甘酸っぱいキスって言うけど、あれはそんなんじゃなかった。その前にピーマンを食べたからかもしれないが、苦かった。とてつもなく。もしあれが甘酸っぱかったなら、俺はもう少し罪の意識を感じなかっただろう。だけど、……苦かった。
千切りにされたピーマンを食べる度に、俺はその罪の意識を再確認する。不味いな、と。
千春。お前はなんだってこんなろくでもない人間を好きになったんだ? きっと、お前の父親みたいな奴が世間的に認められる人間なんだぞ?
あんなに真面目な中学生が他にいるか、ってくらい千春は優等生なのだと誰かに聞いた。優等生っていうのはどうやら劣等生に憧れるものらしい。そこらへんが世の中の不思議なところだ。
千春、かわいいんだけどな。妹として。だけど恋愛感情なんてものはあいつには持てない。
なんであんなことしたんだろう、と考えて俺はやっぱり美沙が好きらしいと気付かされる。
千春が俺を好きな理由と同じぐらい、俺が美沙を好きな理由がわからない。
美沙。最初拾ってきた時なんかは野良猫みたいなもんだと思ってた。美沙の過去を知った時、『へえ、そんな奴もいるか』程度にしか感じなかった。
だけど、……いつの間にか、俺は美沙に飲まれていた。
これほどなんで俺があの人間の屑みたいな過去を持ってる人間を好きになるのか、正直わからない。俺は今まで優等生でも劣等生無かった。物事の中心にも、その取り巻きにも、俺はならなかった。常に傍観者として俺はどこにでも存在していた。それは存在しなかったってことと同じかもしれない。
世の中を冷めた目で見てきた。俺はどこかで世の中全てを馬鹿にしてきた。
皆死ねばいいと心から思っていた。それができないのなら俺なんて存在は消してしまえばいいと思っていた。
事実、俺は何度と無く自殺を考えた。だけどなんで俺が死ななきゃならないのか、その理由がはっきりと見えなくて、俺は踏み止まった。
だが、……俺が死ねなかったのは、心の片隅に追いやられた『普通』の感性が、世の中の面白さとか素晴らしさとか言うものを理解してたから、かもしれない。
難しいことを考えるのは嫌いだ。イライラする。
そんなことを考えていると、目の前の千春の料理まで食い尽くしていたことに気付き、俺は一人で、
「ニンジンピーマン美味いじゃん」
と言った。
……とにかく、俺が今好きなのは美沙だってことを、千春に伝えよう。それでいい。
残された皿を眺めていると、俺はいつも以上に皿洗いが楽しく出来そうだと微笑んだ。
小さな流し台に使い終わった食器と鍋やらなんやらを全てぶち込むと、俺はさっき自分で使ったフライパン――百円ショップで買った――を取って、なんか無駄な事をしてるような気がした。最初から千春に作らせればよかったような。
洗剤をスポンジに染み込ませて食器を洗い始める。最近は千春が洗い物を残していくせいで、そこらの主婦よりうまいぐらいにやってのける。自然と鼻歌が出るのは我ながら気持ち悪いが。
洗剤を洗い流している時に、ドアが開いた音に気付いた。
千春か? それならいいや。俺はふんふん言いながら洗い物を続ける。……終わったら本当のことを言って謝ることにしよう。
「……生馬クン」
俺は鼻歌を途切れさせた。洗い物をする手も止めた。聞こえるのは水の流れる音だけだ。シンクがたわむような変に重い音。
俺のことをクン付けで呼ぶのは、美沙と親父だけだ。
振りかえると、想像通り美沙がいた。
でも彼女の顔は最初に会った時のように青白くて、さっき牛舎で見た俺が好きだと感じた彼女じゃなかった。
「どうかした?」
俺はそう尋ねるしかなかった。
だけど、彼女は俺の問いに答える気は無いらしい。それ以前に俺の声が彼女の耳に届いているのかすら疑わしかった。彼女は一切反応を見せない。
何故彼女は俺の名前を呼んだのだろう。それ自体、現実だったのかわからない。それほど、彼女と俺の距離は遠かった。
「……、今千春とそこで会った」
暗い声色で彼女は言った。
たったそれだけ、彼女は言った。
それが俺にとっての死刑宣告みたいだった。
……最悪だ。クソ千春め、やられた。
ん? でもおかしくないか? なんで美沙はこんな暗い顔してるんだ? 昨日応援してたぐらいなのに。
……もしかして。美沙は、俺が、好きなのか?
なんだ、それなら万事オーケーじゃないか。自分の思ってることを正直に言えばいい。
「いや、あのさ。千春にしたことってのは偶然っていうか、一瞬の過ちっていうか……。正直に言うよ。俺はお前のことが好きなんだ」
俺がそう言うと、美沙の目がパッと華やいだ気がした。
「俺は、美沙が好きなんだ。千春には悪いけど」
千春、という言葉を聞いて、美沙の顔が少し歪む。……優しい女だ。
俺は美沙という人間のことが牛舎の中で見たよりもずっと好きになった。そして、俺は彼女を好きになった理由がわかった気がした。
最初美沙を見た時、俺は彼女に魅力を感じなかった。感じようとしなかったのかもしれない。綺麗な物はとっつき難いところを持ち合わせてるらしい。
だから、牛舎の中で、汚い場所で彼女を見つけた時、俺は彼女の美しさに気付いたのかもしれない。彼女が持っている魅力は、捻くれ者の俺にはそんな方法でしか気付けないような脆いものなんだ。
彼女なら、自分を愛してくれる。そんなどこか希望めいた物が、今の俺の中にはある。俺の犯した過ちを受け止めてくれるのだから。
「千春に、何したの?」
美沙は辛そうな目のまま、俺にそう問いかけた。……わかってるくせに。
「何って……、キス。チュー」
ああそうか、美沙は俺が千春に軽々しくそういうことをしたから、嫉妬してるんだ。
なんだよ、それならそうってはっきり言えよ。
俺は美沙の意思を尊重して、彼女の唇に……、殴られた。
「……千春に、後で謝っとけ」
ドスの聞いた声。鼻血の味。鋭い痛み。ドアを叩きつける様にして、出ていく音。
俺は考える。
『さっきねぇ、ウチ、生馬にキスされた』
『ええ、ホント?』
『いきなりだったけど、生馬もウチのこと好きだったみたい』
『おめでとう』
『ありがとう』
違ったのか? そういう会話があったんじゃないのか? それを知ってたから、美沙は暗い顔をしてたんじゃなかったのか?
俺はティッシュを真っ赤に染めながら、美沙の怒りの理由を追い求めて、難解なパズルが形作る負の螺旋に飲みこまれていく気がした。
*
あたしの目に――、涙は無かった。
一体何をあたしは望んでいたのかな?
これ以上どこにも逃げ場が無くて、すぐにでもいなくならなきゃいけないのに。……これ以上迷惑を掛けちゃいけないのに。
生馬クンの部屋を出て、あたしは牛舎へ向かった。
外の世界は夏の爽やかな暑さに満ちてる。何もかもが鮮やかな色彩に染まって、朝の優しくて切ない光があたしの周りの世界をそっと照らしてる。
その大きなスポットライトに……、あたしは照らされてない。それが手に取るようにわかった。
渇ききった土が薄い茶色の風になって流れていく。
それで初めて、あたしは泣いた。目にゴミが入ったから。悲しいなんて少しも思わない。だってここに来る前の自分に戻っただけなんだから。
大きな扉を開けると、……ほとんどの牛は寝転がってる。牛舎の中が暑いからかもしれない。
あたしはあたしを睨み付ける大きな牛達を気にしないで、あの子牛の所に向かった。
だけど素通りはできなくて、無数のハエがたかってるその牛達を見る。
――生きるって、こういうことなんだよね。
牛舎の中の綺麗とはいえない状態が、あたしには生きる事そのものに見えた。
食べる物を食べて、水を飲んで。自分の子供にあげるはずのミルクを差し出して、生きる。その代わりに餌をもらって、糞を片付けてもらって。……そうやって、生きてる。
――人間もそうなのかもしれない。
あたしは自分の中に色んな感情が溢れてくるのを感じたけど、頭が考えるのを拒否してるみたいで何も考えられない。……考えてどうなるの?
あの弱々しい子牛が見えてくる。
守ってあげなくちゃ生きていけない。その子牛の姿はあたしの中の何かにそう訴えかけてきた。
メェェ。そうやって鳴く子牛。あたしは汚れる事なんか気にしないで、柵を乗り越えて、優しく抱きしめた。
腕の中に子牛の呼吸がある。こんなに弱々しくても。病気になっても。この子はこうして。
生きてる。
*
テレビの中の妙な顔のおっさんが、
『まもなく八時半です』
なんてあたりまえの事を偉そうに口にした。それが、俺の仕事開始の合図。
だが俺にはすぐに仕事を始めるだけの気力が残されていなかった。
鼻血はすぐに止まったが、気力の方はどうにも戻ってこない。
――大体なんで、俺が殴られないとなんない?
なんでなんで、と長いこと考えたがその理由ははっきりわかってる。……若気の至りって奴?
――ああそうですよ。キスしましたよ。それの何が悪い?
そう開き直って考えもしたが現実はそう簡単に覆っちゃくれない。
何本も煙草を吸い潰し、灰皿を山にして。それでも美沙の無表情が俺の目に残像として残り、消えようとしない。
駄目だよこんなんじゃ。さっさと仕事にいかないとえりこが俺を待ってるんだ。このままじゃ駄目人間だよ。
だけどそんなことぐらいで俺の重い腰は上がろうとはしない。……えりこじゃ魅力が無さ過ぎだよ。
そうやってぐずぐずしてると。
「生馬ー!」
いつも以上に騒がしい千春の声が、俺の鼓膜を破る勢いで迫ってきた。
俺はつなぎを再度着直して「はいよぉ」とだけ答えた。そして玄関に向かう。その足の重さに何度もくじけてしまいそうになった。
「ほら、遅い遅い! おっさんはもう行っちゃったよ?」
だらだらしながら玄関を出ると、千春が仕事前だというのに嬉しそうに笑っていた。
「……千春」
俺はそう呼ぶ。
「何?」
「……うるさい」
とりあえず俺に言えたのはそれだけだった。それ以上踏み込んだ事を言うだけの気力は、相変わらず無い。
「うるさいってなんだよ!」
笑いながらじゃれついてくる。……うるさいっていうか、ウザイ……。
俺は玄関を出ると歩き出す。それに千春がついてくる。
溜め息をつきながら、人生って難儀なもんだなぁ、なんて悟りの境地に至ったりした。
「そういえばさ」
「あん?」
「あいついたじゃん、あの双子の雌」
俺は千春の言葉で一頭の子牛を思い浮かべる。そして真面目な表情になる。
二日前に双子のホルスタインが生まれた。……悲劇だ。
難しい事はよくわからないが、一卵性双生児で雄と雌のペアだった場合、雌が使い物にならないのだそうだ。牛乳が出ないとか生殖能力が無いとか。難産で双子が生まれたのに喜んでいた俺は、小野寺さんからそれを聞くと少しへこんだ。
ウチの牧場は牛乳の生産しかやってない。食用肉の生産はやっていないので、二頭の牛は両方とも他の牧場に引き取られる、はずだった。
だが。小野寺さんは二頭の内雌の方、毛色が黒の多い雌の方をウチに残した。
その理由は……、誰が見てもわかる。
――すぐに死ぬだろうから。
相手方の牧場に迷惑になる。肉になる前に、死んでしまう牛を渡しても意味が無い。
だから小野寺さんはあの牛を残した。
「それがどうかしたか?」
「うん……」
多少沈んだ顔になった千春は一旦言葉を切った。
「一応薬は打っといたけど。多分駄目だね。……今日中かも」
千春の口から重い言葉が出る。能天気な千春だがこういう時には言葉を選ぶ。
「そうか」
俺はそれだけ言うと先程と変わらず重い足を引きずった。
*
あたしはどのぐらい、そこにいたんだろう。
あたしの腕の中の子牛は苦しそうにもがいていた。
「……ごめんっ」
首の後ろに回した腕を外すと、子牛は小さく咳き込んだ。
あたしは何をしたらいいのかわからなくて、とりあえずその柵から外に出る。
頬の辺りがかさかさしていた。……思ったよりも涙が出てたみたい。
意外と今の心境はさっぱりしてる。むかつくことも、イヤなことも、悲しいことも、ちょっとだけ楽になった。
単純なのかな、と少し笑ってみる。でも全部忘れ去れるほどあっさりしてもいないんだよね、あたし。
「……なにやってんだ?」
後ろから男の声がした。まあ、すぐに誰かわかるんだけどね。
振り向くと……、やっぱり生馬クンがいた。
「別に」
「それならいいけど。……あんまりそいつには触んないでくれな。そいつ、病気だから他の牛にうつると困る」
生馬クンはそれだけ言うとすぐに牛舎の入り口の方に向かっていった。
なんか冷たい感じだったな。
やっぱり、殴ったのはまずかった……よね。
「姉ちゃん」
生馬クンがいなくなった後、今度は千春が現れた。
「なにやってた? ……ちょっと、その格好で牛舎に入ったら汚れるよ」
「あ、そうだよね」
あたしは自分の服装を見て頷く。
「洗っといてあげようか? 今日中には乾くと思うけど。着替え、あるんでしょ?」
「……あたし、つなぎでいいや」
「え?」
千春が変な顔であたしを見てる。
「小野寺さんって、どこにいるの? あたしそこに行ってくる」
あたしは早足で牛舎を出ると、さっき着ていたつなぎを着る為にプレハブ小屋に向かった。着替えた服を受け取るのに千春もついてくる。砂利道がザクザク鳴った。
プレハブの中は早朝の暗い時よりも、すごい埃がこもっているのがわかる。咳き込みながら、つなぎに着替えた。
「おっさんはねぇ、そこの脇道あるでしょ。その道を十分ぐらい行って左側に見える牧草地にいるよ。……でも、行っても何も無いよ?」
「ありがと。いいんだ、何となく行きたいだけだから」
あたしはそれだけ言って歩き出す。
……あたしはこのままいなくなっちゃいたいような気分にもなった。
*
ブラッシング。
スタンチョンにも二種類ある。牛を牧草地に昼の間だけ放牧するのと、完全に牛舎の中で飼い続ける方法。ウチの牧場は後者、つまり飼い殺しだ。
ほとんどの牛は牛乳を搾れるようになってからずっと同じ場所で立ったり座ったりを繰り返している。……慢性的な運動不足、そう獣医が言っていた。
「おとなしくしろっつの」
俺は牛の腰骨を叩く。……牛共はブラッシングされるのが好きなようで、体まですりつけてくる。自分の体重を考えずに。
「あー、暴力だぁ」
隣の列を担当する千春がこっちを見て笑った。
「動物愛護協会に怒られるぞ」
「……うるさい」
俺は構わず自分の仕事を続ける。
千春が動物愛護協会がどうこうと言ったが、……誰かおかしいと思わないのかね? 俺はいつも思っている。いや、動物を相手にする仕事をしている人間なら誰でも考えたことがあるんじゃないか。
確かに牧場って言っても結構違う物で、とある牧場なんかは牛の尻尾が邪魔だからと言って尻尾にぎっちりテープを巻きつけて、尻尾を壊死させてからもいでしまう所もある。頭の悪い奴なんかはもっとひどい。これから十年二十年と六、七百キロの体重を支え続けることになる子牛の足を、腹が立ったからといって蹴って折ってしまうこともあるくらいだ。そういう奴が批判の対象にされるのは別にいい。
だけど、だ。ペットと家畜を混同されるのは迷惑だ。家畜はペットじゃない。こうして毎日ブラッシングしているのは毛並みを整える為じゃない。牛舎の清潔さを保つ為だ。こいつらが汚れていると牛舎がより汚く見えてくるんだから。
足を踏みつけられたりした時や、綱を引いて牛を誘導する時には蹴ったりもする。それをひどいとか言ってる奴を見ると言ってやりたくなる。一回足踏まれてみろよ、と。人の仕事に口出すな、って。
それにお前らだって焼肉、ステーキ、そういう料理食べるだろうが。ヨーグルトとかチーズとか、それに牛乳だって飲むのに。それで文句言ってんじゃねぇよ、なんてことを思ったりする。……まあ誰かから抗議をされたわけでもないのだが。
そんなことを考えている内に、ブラッシングが終わる。
「次は……」
「デントコーン、だね」
千春も仕事終わらせて、俺の横に立つ。俺の肩より低い千春の頭を見下ろすと千春は笑っていた。何がそんなに楽しいんだか。
デントコーンと言うのは、まあわかるだろうがとうもろこしだ。牛の資料用で、甘味が全く無いとうもろこし。……「北海道の人間はとうもろこしの事をとうきびと言う」とかよく言うが、俺は普通にとうもろこしなんだな。どうでもいいけど。
「フォーク二本とスコップな」
「わかった」
千春はそう言うと牛舎を出ていく。デントコーンの小山に向かうのだ。
俺は牛舎の裏に回ると、タイヤショベルに乗る。たまに道路を走っていることもあるので見たことがあるかもしれないが、要するに直径が一メートルぐらいのタイヤの車の前にバケット、つまり鉄製のペリカンの口みたいなのが付いた作業用車両だ。……あまり北海道以外で見ることが無い物の一つだ。雪が無いと活躍の場が無いのだろう。
ディーゼルエンジンのやかましい音を聞きながら、俺はデントコーンの小山を目指す。といっても牧場の敷地内なのでそれほどの距離は無い。
その場所に着くと千春が手を振っていた。若いって本当にうらやましい。
俺はバケットを上向きにして車を止めて降りると、鼻をつく酸っぱい匂いを感じた。デントコーンは実と葉がごちゃ混ぜの状態でコンクリ敷きのスペースにブルーシートを掛けて放置されている。そのまま一冬を越えるため、完全に発酵しているのだ。そして俺と千春がやるのは、この大量のデントコーンの表面に出来た腐敗した層を堆肥場に捨てるという仕事。
俺は早速作業に取り掛かった。それを見て、千春がおかしな表情をして俺に近付いてくる。
「あのさ、あの姉ちゃんの事だけど」
……俺は少しむっとした。
「なんだよ」
「そんな怒んなよ。……あのね、小野寺さんの所に行って来るって。歩いて牧草地の方に行っちゃったよ」
だからなんだ、と言いかけてやめた。……千春にあたってもしょうがない。俺は千春の言葉を聞くだけ聞いて、それから仕事を始めた。
小野寺さん、か。あの人に一体何の用があるんだろう。いや、用が無くても行きたいのかもしれない。多分、美沙は小野寺さんに心を惹かれているんだろう。朝の牛舎の中での美沙の瞳が、無言でそう語っていた。
俺は溜め息をつきながら、牛の糞よりも臭いデントコーンの腐敗臭の中で懸命に働くしかなかった。
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2005/04/23(Sat)16:34:39 公開 / 恋羽
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■作者からのメッセージ
なんか汚い表現とか使ってしまってすみません、しかも更新遅っ。でもまあ絶対に完結させるつもりですので、気長に付き合ってやってください。
それでは、御感想などお願いいたします。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。