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『選ばれざる者達のタピスリー T〜U』 ... ジャンル:ファンタジー ファンタジー
作者:かえる
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T
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「生と死が共にあるように、男と女が共にあるように、はじまりとおわりは共にあるんだよ」
青い右目の少女は笑う。
1
世界とは一つきりではない。
これは〔術〕の始祖、『はじまりの術士』の言葉だ。この考えは〔術〕の基礎の基礎であり、同時に〔歪曲術〕の全てでもある。
〔術〕は「全ての可能性の存在」を知った事で生まれた、言わば副産物であり、〔創造術〕〔治癒術〕〔結界術〕などはおまけに過ぎない。
成宮師が、お決まりの演説を続けている。彼が〔歪曲術〕を至上のものとするのは、〔創造術〕の才能が欠片も無いからだと言う。現に彼が〔創造術〕を使うのを見た生徒は居ないので、彼等の間では非常に信頼度が高い噂だった。
〔術〕。
〔霊力〕により〔術式〕を描く事で発動するもの。
〔霊力〕とは世界に満ちた「力」を体内で変換したもの。
そして此処は、日本で最も多くの〔術士〕が育てられる場所。
鬼魔、と呼ばれている。
2
第二学級では、〔術〕の授業は一日二時間。
一時間は教室で知識を得、一時間は実践を行う。
第二学級所属の阿佐井野雛子は、実践が嫌いだった。一班は雛子と朝夷真郷、それに瓜生昂平の三人。昂平は概ね真面目にやっているが(時々サボろうとするけど)、真郷は師匠の言葉も聞かずに遊んでばかりいるのだ。
因みに師匠とは鬼魔における先生の呼称だ。何でも此処の長・木場家の先祖が『はじまりの術士』を「先生」と呼んでいた為、師匠達を先生と呼ばないのだとか。
閑話休題、彼が優秀な〔術士〕見習いであるのは万人の認めるところだが、其れは目上の者に無礼を働いていい理由にはならない。真郷は大人をナメきっている。師匠達は実戦経験もある立派な〔術士〕なのに。
3
実践は成宮師だけでなく、鬼魔の外で働く一色豊子師も付き添った。教室ではなく山中で行うので、一人ではカバーしきれないのだ。
「今日は私、仕事が休みだから、久々に後輩を苛めてあげようと思って」
うフふふフふフ、と妖しく笑う一色師。術士は姓で、生徒達は名で、と言うのが鬼魔での掟だ。これは昔から決まっていて深い意味は無いのだが、木場家現当主に言わせると「鬼魔の傘の下に居る餓鬼どもに苗字なんざいらねえ」らしい。
「よし、今日は模擬戦な。やり方は分かってるな?」
成宮師の声に、生徒達が応じる。
成宮師は右腕を持ち上げた。〔術〕の応用でくじ引きをして、対戦相手を決める為だ。
彼の右手、人差し指の先が弾けた。赤い血が珠となって浮かぶ。
成宮師は宙に赤い、この世のどの言葉とも違う文字を描く。円の中心からぐるぐると、円い〔術式〕を描く。円形の〔術式〕は、異なる時空を歪め繋げるゲートだ。
真郷が小さく鼻で笑う。〔術〕発動の結果を〔解〕と言うが、くじ引きの場合〔解〕がランダムでなければならないから〔歪曲術〕を使うのは当然だ。彼はそんな事もわからないのか、と雛子は苛々した。
〔術式〕の向こう側から八個の影が撃ち出される。第二学級は八班、二十四人なのだ。
影はそれぞれの班長の手に正確に飛んだ。一班班長の雛子は手の中を見る。
「青」
雛子の声が四班班長の武満久生に届いたらしい。久生はあからさまに嫌そうな顔をした。態度は兎も角、真郷は強い。一班と戦うなんて負けるに決まっている。
「班長は報告に来てねー」
一色師も、何時の間にか〔術〕を発動している。異なる時空のものが在り続けるのは、大なり小なり世界に悪い。〔解〕を元の場所に返そうとしているのだ。
雛子の手から青色が消えた。
「じゃあまず、青ね。一対四」
一色師は仕切りたがりらしい。成宮師の影が薄くなっていた。しかし「班」を抜かすと卑怯な喧嘩みたいだ、と雛子は思った。
「おっしゃ! 行くぜ雛子! 昂平!」
真郷が叫ぶ。何が楽しいのか知らないが無性に腹が立った。
「あーもう怒鳴らんでも聞こえるよー。じゃー適当に頑張ろーヒナっち」
力の入ってなさそうな歩き方で昂平が続く。
「…こーへい君。ヒナっちはヤメテ」
「善処するー」
駄目だ。多分忘れられる。雛子は潔く諦める事にした。どうせ一週間もすれば変更される。
「礼!」
向かい合って並び、頭を下げる。雛子はきちんと、真郷は僅かに、昂平は下げたまま数秒止まった。戻ってこないかと思った。
「始め!」
合図と共に、雛子と昂平は後ろへ。真郷は前に出る。こうしないと巻き込まれる。
「まずは…〔 …〕」
口頭による〔補助術式〕を唱えつつ、右手で〔術式〕を描く。〔術〕を知る者にしか読み取れない異形の文字。横書きの、数学の問題を解くような〔術式〕は、〔創造術〕の証だ。
「無形の赤き力よ、敵を貫け。ってトコかなー」
短い〔術式〕を見、昂平は呟く。
霊力が異常なほどに低く、今真郷が使った程度の〔術〕を二回発動しただけで倒れた三年前の彼を、雛子は憶えている。最近は実践の殆どを真郷に任せているので、彼は霊力を蓄えて多少は強力な〔術〕も使えるけれど、それでも術士になるには昂平は弱すぎた。だから彼は、霊力で戦うのを諦めて只管観察力を磨いたのだ。師匠達が使う〔術〕すらも完璧に理解できるようになってようやく、表立って昂平を嘲る者は居なくなった。
刹那の回想を終え、雛子の意識は現実に戻る。
四班の三人が右手を押さえて蹲っていた。掌には穴が開いている。
「よーし、次。〔 …〕」
随分大掛かりな〔術〕を使う気らしい。何行も〔術式〕を綴っている。
「まさと君の〔術式〕、読みづらい。こーへい君、分かる?」
「当然でしょー。マーくんは『南を守護する赤い鳥』を創る気だってさー」
「え? …つまり、朱雀?」
昂平は軽く言ってくれたが、偽物でも朱雀を創るなんて無茶苦茶だ。雛子は幾許かの焦りを込め、〔歪曲術〕の術式を描く。
真郷は描くのが遅い。〔補助術式〕を使っても遅い。だから朱雀とほぼ同時に、雛子は天使を呼び出せた。
「…『神は我が力なり』」
これは雛子の癖。呟いたのは〔術式〕ではなく、お呪いのようなものだ。
『神は我が力なり』=ガブリエルは朱雀と久生達の間に割り込み、朱雀の攻撃を受け止める。
朱雀は炎を鳥の形にしたような、不細工な出来だった。まともな鳥なら兎も角幼稚園児が描くような、羽が小さく胴が大きな形だったから、尚更だ。
「単純…頭の中からそのまんま持って来たようなものだからこそ、純粋に強い、って訳…!」
雛子は歯軋りする。真郷はガブリエルを呼び出したのが雛子だと気付かず、ガブリエルを倒そうと集中した。
天使といっても雛子が呼んだのは水の塊、炎には強い筈なのに蒸発させられるだけで消えそうだ。
「ぬううー。…よしっ!」
あ、と言う間もなくガブリエルが消えた。極度に弱体化したため、元の時空に還ったのだ。
朱雀と四班三人の距離は約三メートル。
炎が彼らに迫った。
しかし、彼らが炭と化す事は無かった。大きな〔門〕――〔歪曲術〕の術式が朱雀を吸い込んだのだ。
「素晴らしいですねー、一色師」
明らかにやる気の無い拍手が響く。昂平の言葉で、生徒達も状況が把握できた。
「いやいや本当、流石『レディ・リセット』」
成宮師の賞賛を聞いて一色師は、ぎゃーと頭を抱えた。
「そんなの名乗ってない! 嫌、そんな微妙に語呂が悪い通り名は嫌っ! 和尚師のバカぁー!」
「あー成程、木場和尚師が付けた仇名なんですかー」
木場和尚師が名前やフルネームで呼ばれるのは木場が彼一人ではないからだが、其れはさておき。
「…でも、あれだけ大きいのは時間がかかるから。雛子さんが止めてくれなかったら四班の皆、死んでたわ」
「オレが〔術式〕を読み取って、ヒナっちが止める。何時もの事ですよー」
あらそう大変なのねーと一色師が労うと、昂平がオレ疲れませんからーと返す。和やか過ぎて、時間が緩んだ気さえした。
空気は突然切り裂かれる。
「どういう事だ雛子! お前は俺の仲間だろ、邪魔すんなよ!」
真郷がようやく理解したのか、唾を飛ばして怒鳴る。
「何を言ってるんだお前は! 雛子が止めなきゃ四班の三人が、仲間がどうなったと思ってる!」
負けず劣らずの声量で怒鳴る成宮師。真郷は言葉に詰まるが、
「…どうせ〔治癒術〕で治るだろ!」
怒鳴り返す。またこいつは見当外れの世迷言を、と雛子は思ったが、口には出さない。其れは今、自分の役目ではない。
「死んでしまったら当然〔術〕でもどうしようもないし、腕とか失ったら、元には戻せない。〔治癒術〕に出来るのは、精々傷を塞ぐ位よ」
炎に焼かれれば、失った肉体は原形を留めてくれない。〔治癒術〕は再生など出来ない。
この世に存在する全ては「力」から創られている、と言う仮説を、少なくとも人体において立証した〔術〕。其れが〔治癒術〕だ。
元が同じでも、人によって身体は少しずつ違う。自分自身ですら本来「どうなっているか分からない」ものである、再生が出来ないのも当たり前と言えた。
「弱い奴が悪いんだろ! 俺は悪くない!」
苦し紛れで、きっと本心なんか一割も入っていない。けれどこの言葉で、ついに雛子が切れた。
ぱん! と音が響く。本当はぐしゃっ…とか音がすることをしたかったが、雛子には平手打ちで済ませられる分別があった。
「な! に、すんだよ…」
「もう一回言ったら、何に代えてでも殺す」
雛子は本気だった。殺意も本物。脅しではなく、警告に過ぎない。
真郷と昂平は、本当に仲が良い。昔から真郷が昂平を庇うのを何度も見た。真郷が一人で闘いたがるのは昂平と、恐らくは雛子をも守ろうとしているのだと、彼女は分かっている。雛子が今まで真郷の振る舞いに耐えてきたのは、真郷が只の莫迦ではないと思っていたからだ。
ところがどうだ。真郷はよりによって昂平の前で、彼を否定する言葉を吐いた。
弱さは悪だとでも? 強きものは常に正しいとでも?
仲間が仲間を見下すなんて、そんな事があってたまるか!
「あ」
能天気な声。
雛子は膝から崩れ落ちそうになった。折角緊迫していたのに、昂平が完全にぶち壊してくれた。
「…どうしたの?」
「上上ー。ユーフォー」
UFO? 何かの例えかと思いつつ見上げると、確かに。
其れは飛んでいた。
4
銀色の灰皿を二つくっつけたような、模範的な形のUFO。その、誰もが思い浮かべながら正体不明な円盤は、まさに未確認飛行物体と呼ぶに相応しい…って何故、あんな灰皿合体型円盤を褒めにゃならんのだ、と雛子は我に返る。
今までの経緯も全部忘れ、皆が固唾を呑んで円盤を見守っている。
「んー、式神、かなー」
『正解だ!』
がぱあっと、いや寧ろぐわぱァッと、円盤が口を開いた。
『此れは己、木場和尚の新型伝令用式神・USOアッシュ! 名前は今考えた』
鬼魔の長=木場家現当主、木場和尚。彼は十年ほど前から式神作りに凝っているらしい。質は良くてもネーミングセンスが最悪だった。
「伝令用ってか、通信用ですねー」
『応、確かに。じゃあ今から此れは新型通信用式神・プレート]]だ!』
意味判らん。
「…それで、何かトラブルでも? 木場和尚師」
成宮師の問いに、UFOは(プレート]]は)『OUCH!』って感じで揺れた。円盤の癖に、妙に感情表現が豊かだ。
『忘れるトコだったぜ…。一班の三人、至急己の部屋に来い。えーとそうだな、第三応接室だ』
用件を伝えるとプレート]]は口を閉じて滑らかに動き、真郷の頭上で垂直に停止した。
「?」
真郷が円盤の動きを目で追い、上向いた瞬間。
『とりゃあ!』
プレート]]が真っ二つに割れ、煙草の吸殻と灰が降ってきた。
「あー、だからアッシュ…」
昂平の静かな呟きを聞いたのは、雛子だけだった。
5
木場家所有の山、その麓には広い敷地がある。其処には鬼魔に属す者達の家や学び舎である建物が建ち並んでいる。
教室がある棟を幾つも通り過ぎ、最奥にある住居棟の更に奥、地下三階に第三応接室はある。存在する位置からも推測できるように、この部屋は密談用だった。しかし当主の座を和尚が父から譲り受け第三応接室の存在理由をなくして以来、此処は和尚の私室の一つとなった。
木場和尚。現代日本で十指に入る〔術〕の使い手。木場家当主が代々受け継ぐ最硬の〔結界術〕、『虹状結界』を完璧な形で維持しているらしい。以前雛子が意味を尋ねた所、師匠はあっさり教えてくれた。
何でも『虹状結界』は、特殊な刺青を〔術式〕とし、肉体そのものを結界と化す〔術〕なのだそうだ。つまり彼は『虹状結界』として完璧な肉体を保っているのである。
鬼魔の長は鬼魔の子供達全ての父親であり、術士の殆どは彼の下についている。即ち鬼魔の長は最高の兵力を持つ。和尚は浅黒い肌をした男で、長の名に恥じない独特な雰囲気を持っている。柔和であると同時に威圧的な風貌は、ただ威圧感を与えるだけの強面より余程恐ろしい。
和尚が三人に何の用かは知らないが、雛子は代表として扉を叩いた。
6
散らかっていた。
霊具や古文書が、俗っぽい雑誌や何かのおまけみたいなおもちゃと共に投げ捨てられていた。
菓子やツマミの袋が部屋の片隅に集められていた。
ノートとハードカバーの本が区別なく重ねられ、塔のように積まれていた。
もはや何だか分からない物達が、床に敷き詰められていた。
「応、良く来た。場所が無いから座るな」
「……」
何も言う気になれず、三人は扉の横に立ち、壁にもたれた。
「何の用だ。…ですか」
真郷も語尾を改める。憮然とした様子ではあるが。
「応。何だと思う?」
和尚師はニヤニヤと笑いながら問うて来た。
「そうですね…。私をまさと君、じゃなかった、朝夷真郷と違う班にして下さるとかだったら嬉しいんですが」
雛子が真顔で答える。真郷が衝撃を受けたような顔になったのを見、昂平は表情筋を抑え付けねばならなかった。
「外れだ。勿論同じ班が嫌だと言っても、班は変えねえぞ。一人の望みを叶えたらキリが無くなる」
大人になれやあ、と手をひらひらさせてくる和尚師に、雛子は頷く。
「分かっています。ですが、例えば私が第一学級に移りたいと言えば、駄目とは言わないでしょう?」
「まあな。止めようがねえよ」
第一学級は鬼魔の中で一日の大半を過ごす。この中で学校の勉強をするのだ。第二は外の学校に通う。第三もあって、其処はまだ〔術〕が使えない者達の学級だ。
「だが、春休みももうすぐだ。何も今移ろうとは思わんだろ?」
「…? はい」
訝しみつつも、彼女は素直に答えた。
其れを聞いて満足気な、というか「言ったな? 今更後悔しても遅いぞ?」と言いたげな笑みを浮かべた和尚師。流石の昂平にも予想がつかず、仕方なく質問する。
「一体、何なんですかー?」
自らの声に苛立ったような悔しがっているような響きを感じてやや不愉快な思いを味わいながらも、昂平は睨むようにして和尚師を見つめた。
「いい質問だ。心して聞けよ」
彼の表情にはからかうような色が浮かんでいたが、声は厳粛そのものであった。
神妙な面持ちで、三人は鬼魔の長を見つめる。和尚師は口を開いた。
「補習だ」
7
「ほっ、」
真郷が奇妙な声を出す。和尚は成宮から聞いた事を思い出した。
(不意打ちに弱い、か)
弱すぎる。力ばかり大きくても、実際闘えねば意味が無い。
「あ、あの、和尚師。私達、そんなに成績悪くないと思うんですけど…」
続く雛子の声は、矢張り成宮の報告どおり、控えめなものだ。確かに授業態度や知識量を合わせれば、彼女は真郷などより余程優秀だろう。
「そりゃそうだ。お前ら第二学級一班が適任だと思うから補習させるだけで、他意はねえ」
「補習って、そういうものでしたっけ…?」
雛子は、何処までも控えめだ。
昂兵が僅かに顔を伏せているのを見、和尚は声をかける。
「どうした? 昂平」
「つまり」
ばね仕掛けのにんぎょうのような動きで、昂平は顔を上げた。
「補習は建前なんですねー? 公には出来ない内容だから、不出来な生徒の教育、と言う形をとるとー」
鋭い子供だ。『彼女』も気に入る事だろう。和尚はそう思い、彼に頷き返した。
「応。餓鬼を働かせたとあっちゃあ、色々面倒な事になるんでな。法律が」
和尚が言った『法律』とは、日本国憲法とかそういう類のものではない。術士や異能力者達の間の取り決めで、実際には法律でも何でもない。只、破ると、場合によっては殺される。正直一般人の世界よりずっと厳しい。
「で、何やるんスか?」
やっとの事で立ち直ったらしい、真郷が口を開いた。
「あー…。何つったらいいかな、鬼魔の存続の為に、命がけで闘って貰う事になるかもな」
「何ですかその歯切れ悪い物言いは」
雛子が言う。どうでもいいが自分は余り敬われていないな、と和尚は思った。
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「鬼魔は元々、綺麗な組織じゃ無かったってのは、知ってるな?」
和尚師が確認してきたので、昂平は頷いた。真郷も一応頷いたが、雛子は初耳だったようだ。
「そうなんですか?」
「応。鬼魔は術士の養成を目的にした組織だ。八割がた身寄りのない子供だから、授業料なんざ取れねえ。それどころか生活費もこっちが出さなきゃいけないんだが、金ってな黙ってても入ってくるモンじゃねえんだ」
和尚が簡単に説明する。子供達に〔術〕を教えるのは鬼魔に住む術士達だが、彼らだって生活するには金が要る。鬼魔には資金源が殆どなかったのだ。
「だから、色々黒い事してお金を稼いでたんですよねー?」
「はあ、そうなんだ。でも今は違うんですよね?」
和尚師の返事は肯定。
「当主が代替わりして、己になった頃だな。己の親友の援助があって、大分まともになった」
しかし、と彼は続けた。
「親友、『在原』の奴だったんだが、そいつはもう死んじまったんだ」
『在原』とは、古くから続いた家系の一つである。昂平の記憶では、人と人にあらざる者との橋渡しをする役を担っていた筈だ。
「じゃあ、今は?」
真郷が問う。和尚師は渋い顔を見せた。
「己の妻でな、親友だった明斗の異母妹だ。そいつ、サラはな、姪を溺愛してんだ」
読めてきた。昂平は相槌を打ち、先を促す。
「今回お前等に頼みたいのは、サラの姪、楓の護衛だ。楓は始祖…『はじまりの術士』をも圧倒する力の持ち主だが、強くない。楓に何かあったら多分、即日鬼魔滅亡だ。頑張れよ」
室内の空気が一瞬停滞した。辛うじて雛子が口を開く。
「そんな危険な…。どうして御自分でおやりにならないのでございますか」
混乱している。
「まあ、そうだな、休み中は学校がない分楽だってのが一つ。もう一つはなー、実は己、小百合と温泉旅行に行」
「私用かよ! 小百合って誰だしかも! 愛人か畜生!」
「応。鋭いな」
「くっそむかつく!」
真郷はいつの間にか、和尚師に敬語を使わなくなっていた。
「あ、あの、和尚師。奥さんいるんですよね? 浮気ですよね? 堂々と言っちゃっていいんですか?」
雛子は冷静であろうとしているようだが、顔が引き攣ってしまっている。
「気にすんな。今に始まった事じゃねえから」
「公認か!」
「因みにお相手は何人…」
「百から先は覚えてない」
「ふざけないで下さい!」
大騒ぎする二人を横目で見、昂平は、彼らが自分より余程まともな精神構造を所有している事に何となくほっとした。見知らぬ誰かの為に怒れるのは良いなと、決して羨ましくはないけれど、そう思った。
「聞いていいですかー?」
「何だ? もう少し大きな声で言え」
「鬼魔即日壊滅って、サラさんとやらはー、一体何者なんです?」
真郷と雛子が口を閉ざす。奇妙な沈黙の中、和尚師は見たことも無い銘柄の煙草に火を点けた。
「『在原』の血を引いてるってだけじゃ、納得いかねえか?」
言葉と共に、赤っぽい色の煙が吐き出される。一メートル上昇した辺りで、煙は青く変わった。
「いきませんよー。在原は確かに《異能力者》の家系として有名ですけどー、木場には遠く及びません。木場は最も古い三つの…」
「三つ、だ。木場と並ぶ家系は、二つもあるんだぜ?」
昂平は瞬きした。煙がちかちかと瞬き始めたからだ。
「まさか…、在原だけじゃなく?」
「その通り。サラの母親、在原司寿佳の旧姓は、『藍川』ってんだ」
U
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「其れが世界の真理なら、差し詰めお前は『世界の象徴』だな。あらゆる生と死とはじまりとおわりを識る者であり、男にも女にもなれる存在なんだから」
虹色の男は、そう答えた。
1
広い部屋の中、女は着物が崩れるのも構わずに伏していた。長い黒髪は畳の上を滑り、無秩序に広がる。
美しい女だった。白い肌が微かに赤く染まり、紅を引いた唇は浅い息を吐いている。
其れは一幅の絵画のような光景だった。
但し、黒髪の間を縫って転がる幾つもの酒瓶さえなければ、の話であるが。
「ん〜…」
女は寝返りを打つ。薄い笑みを浮かべ、幸せそうに酔い潰れていた。
2
来てしまった。
春休みが、来てしまった。
朝夷真郷は同室の瓜生昂平に蹴り起こされ、最初にそう思った。
本来ならば鬼魔で、普段よりも少し長い時間〔術〕を学ぶだけだった筈の春休み。雛子を誘って出掛けたいとか思っていたのに。まあ此処数日は無視され通しだったから、どうせ無理だったけども。
「ほらー。早く起きないと遅刻だよー」
昂平が顔面めがけて目覚まし時計を落とす。真郷は間一髪で避け、腹筋を使って起き上がった。
「集合まで、後何分だ?」
「五ふーん。朝御飯は外で食べる約束だからねー、着ー替ーえーてー」
慌ててパジャマ代わりのTシャツを脱ぎ、投げてあった外出着に着替え始める。
「先行ってていいぞ」
「んー、怒られる時は一緒だよー。実はオレも寝坊したしー」
いつもの五割増に間延びした声で、昂平も眠いと確信した。
「そっか。…よし、行くぞ」
二人分の鞄を持ち、真郷は歩き出す。荷物があると昂平の動きは格段に鈍るので、急ぐ時は昂平を手ぶらにする。
何はともあれ、春休み。
鬼魔の存続を賭けた、長い二週間のはじまりだ。
3
目的地・在原邸は鬼魔から車で二時間弱の距離にある。箕安駅前商店街の裏側にある森全体が、在原の土地だそうだ。
森の真ん中、円形に広がる芝生の上に立って、昂平は辺りを見回した。
「うわー…」
自分自身でも何なのか分からない声を発した昂平に、真郷が目を向けた。
「どした、昂平」
「んー、色々凄くて。結界があるっぽいんだけどさー」
第二学級で、結界が知覚できるのは昂平の他二人だけである。真郷と雛子には出来ない。
「〔点〕に始まり、〔線〕を成し、〔線〕から〔面〕を創る。其れが一番簡単な結界で、最低三個の〔点〕で出来る平面なんだけどー。普通、封印する時とか建物を覆う時とかは、〔立体〕にするんだよ。でも此処の結界、〔点〕が〔面〕を構成する分しかないんだー。地面に円を描くように埋めてある…と思う。円柱形の結界をわざわざ創るって、不可能じゃないけど不安定だし、必要な霊力・魔力量が半端じゃない。無意味?」
長台詞を一気に言い終え、昂平は溜息を吐いた。基本的に結界を知覚できるのは、結界術を扱える者のみである。そして結界術は、術と呼ばれるにも拘らず術士には使えない。昂平(と他二名)が知覚できるのは「力」の気配を察知するのに長けているからだが、流石に〔点〕まで把握できるのは第一と合わせても昂平一人きりだ。そもそも学級内に三人、と言うのは十年に一度あるかないか、位に珍しい事らしい。其の中でも昂平の感知能力は飛び抜けている――と師匠達は言う。だか其れが褒め言葉ではない事を、本人だけは知っている。
どんなに強い匂いでも、慣れてしまえば分からない。其れと同じだ。余りに霊力が低すぎる為に、小さな違和感にすら気付く事ができる。無論、そうなるまでには結構な苦労があったわけだが――と、昂平はようやく思考を現在に戻した。
雛子が何かに向かって、膝を軽く曲げ、腰を落としていた。ファイティングポーズに見えなくも無い。
対するは白い犬。大きくも小さくも無い、標準的な体型で、やや腰が引けている。
彼女の行動は何も知らない人間が見れば奇異に映るだろうが、真郷と昂平にしてみればいつもの事である。
「かっわいー! 超可愛い! こっちおいでー!」
「犬びっくりしてるぞ」
真郷が呆れ顔で注意するが、雛子は聞いていない、と言うか彼を無視しっぱなしなので、助けを求めて真郷が昂平を見るのが分かった。
だが、そんな事をする余裕が、昂平にはない。
昂平は自らの価値を周囲に認めさせると言う目的もあって、常に油断なく辺りを観察している。結界にも即座に気付いたし、此処が元は藍川の地だったと言うに相応しい、異常な場所だと分かっている。
それでも、だからこそ、あの『犬』は異常に過ぎる。昂平の主観で表現するならば、「何もない所から突然に現れた」のである。
昂平は断言する。あの『犬』は一瞬前までいなかった。
そして、そんな現象が起こったという只それだけで、あれは警戒に値する。
(…あれは何だ?)
此処に現れる可能性があるもの。
一つ目。昂平達が来た目的、在原楓を狙う者。可能性は低いように思われる。彼女は所詮異能力者、つまり人間に過ぎず、あれは人ではない。人を超えた存在が人を手にする、或いは殺す為に、相手の領域で無茶をやらかすなどと言う割に合わない真似はしないだろう。よって一応、在原楓は安全。
二つ目。式神、或いは使い魔。これも違うと思う。送られてくる理由が無い。『犬』は少しずつ雛子に近づいていて、用があるとしたら彼女か、真郷、昂平だろうが、何かを持ってきた感じでもないし、式神を使う知り合いは和尚師位しか思いつかないが、彼が創ったものと考えるにはセンスが良すぎた。
(じゃあ他には? 他に…)
思い浮かんだ。此処の主、在原の担う役は、人と「人にあらざる者」との橋渡しである。即ち、
「その『犬』から離れろ!」
昂平は咄嗟に叫んでいた。考えての行動とは言えない。雛子がその鬼気迫る声に驚いて振り返り、『犬』から意識を逸らしてしまったからだ。
殆ど直感だけで結論を出した昂平は、しかし己の直感を信用していたので、
(やばい)
と思い、出し得る限りの全力を以てあれを殺すと決めた。真郷に頼むよりは自分で〔術〕を使った方が早いと判断したのだ。
雛子の背後で口が開いた。目で確認しても身体がついていかない速度だった。
口。
異常に大きい口。犬のものでは有り得ない大きさの口だ。
雛子を呑み込むほどに。
「〔 …〕!」
昂平は間に合わなかった。雛子は状況を理解出来ていなかった。真郷は棒立ちになっていた。
けれど『犬』は横に吹っ飛び、森に消えた。
「今の…誰だ?」
真郷は気が抜けたような顔をしている。
三人と一匹(?)はほぼ一列に並んでいて、『犬』、雛子、昂平、真郷の順。『犬』の側面を突くような真似ができる人間は、見える範囲にはいない。
昂平は、『犬』が消える直前に聞こえたあの声が、気になって仕方が無かった。
あの、如何なる文化圏においても表記不可能な、異形の言語。長い期間を経てようやく受容と理解を可能とするあれは、通常の言語より多くの情報を含む。故に〔術〕の発動には主に彼の言語によって術式が描かれる。其れは口に出すと表記より情報量で劣る為、常は補助として口頭に於ける術式として使われる。即ち、補助術式。
あれは、有り得ない。
さっきも使った気がする言葉だが、こちらの異常振りは犬もどきとは比べようもなかった。
「…今の、は」
声が裏返っているのを感じたが、どうしようもなく、昂平は言葉を続ける。どうせ二人に理解出来よう筈も無いのだから、説明してやらなければ。
「教本にある。赤の章、第一項」
二人にも思い当たる事があったようで、特に雛子の不愉快そうな顔は印象的だ。
「俺がよく使う、アレか。何だっけ、『無形の矢』?」
雛子の表情が唐突に変わった。言っておくが真郷の台詞はまったく関係ない…昂平の言わんとするところを察したのだろう。
「そう、それ。…ついこの間真郷が使ったのと、完全に同じだった」
術式に関して説明する時は、数学に例えると分かり易いらしい。一つの〔解〕に行き着く為の〔式〕が、無数にある。只一文字の違い、句読点の有無、記号の有無。術式には算数のように簡単なものは無いけれど、文字として、というか文章として言うなら、同じものは無くもない。
だが、である。術式は印刷物ではないのだ。自らの血を使って(発動後は周囲の「力」が勝手に指を直してくれるのがせめてもの慰め…かも知れない)自分で考えて描く。口で言おうと、本質的には変わらない。補助術式はあくまで口頭で唱えるものなので、おかしな表現ではあるが――筆跡まで同じ、と言うのは、流石に有り得ないにも程がある。そんな感じだ。
知らず、冷や汗が流れた。
どう考えたって、昂平達に見せる為に、相手は〔術〕を使ってみせたのだ。だが本来、十四歳の子供には其処まで分からない。此処から分かる事はとりあえず三つ。
一、相手は鬼魔の敷地内に入り込み山の中で実践を行っている真郷の術式を見ることが出来た。同時に相手は、その時既に真郷達が此処に来る事を知っていたのだろう、とも推測できる。
二、真郷の術式は無意味なまでに長ったらしくややこしい。其れを描くだけの時間があったと言うのは、つまり『犬』が雛子を(別に彼女とは限らないだろうが)襲うと分かっていた、と言える。
三、昂平がこれらを理解できると確信している。これは致命的だ。昂平は一応頭脳派――正確には肉体派になれないだけ――なので、敵と相対する時は策を練る事もある。だが昂平の得意とするのは観察、つまり情報収集であって、其れを上手く組み立てるのは雛子より少し上と言う程度だ。彼の強みは、如何にもひ弱そうな外見と実際貧弱な体力アンド霊力の為に相手が油断しきって、児戯のような策に気付かない所である。その為に普段からわざわざ、あんな力の抜ける口調でしゃべっていると言うのに。
この状況は不利に過ぎた。昂平は一つの可能性を考えていたのだが、絶対でない以上安心は不可能だった。
彼の動揺を見て取ってか、真郷が昂平を庇うように前に立つ。状況を理解出来ていないからこその無謀だと分かっているが、妙に安心した。皆、昂平が真郷の面倒を見ていると思うらしいが、其れは違う。いつだって昂平は、真郷に守られている。恥ずかしいので言った事はないが、親友という奴だった。
だから、真郷が昂平を守るなら、昂平だって真郷を守る。雛子の方にも神経を向けられるのは、ちょっとした進歩だ。
「…そう、緊張しないで良い」
術者が姿を現した。
美しい女性だった。少女と言ってもいい位若いが、外見年齢に不相応な落ち着きがある。藤色の和服を少しだらしない感じに着ていて、艶やかな黒髪は地に着くほど長く、右目が隠れてしまっていた。一言で表現するのは簡単である。絶世の美女だ。
昂平は拍子抜けした。予測のうち最も楽観的なものが正答だと分かったからだ。彼女ならば何を知っていても不思議ではない。『到達者』たる彼女ならば。
「悪い経験ではないと思うね。そして君の判断は正しい。今回は良かったけどね、これから先、予想を超えた最悪なんて幾らでもある」
相当迂遠な物言いだった。わざとではないのだろう、と昂平は思う。和尚師にもそういう所がある。
「でしょーねー。オレの観察力なんて、さして役に立つとも思えない」
本心から、彼は言った。矢張り力が必要だと痛感する。
彼女は中性的な美貌を笑みの形に歪め、予想を裏切らない美しい声で笑った。どことなくわざとらしい、下手な芝居のような仕草である。
雛子と真郷が、揃って首を傾げる。何だかんだ言って彼らは息ぴったりなのだ。昂平としては軽い嫉妬すら覚える。
「分からない理由が分からないよ」
彼女は眠そうに瞬きした。
「まーそう言わずに」
「ふう」
と彼女は如何にも不本意そうに溜息を吐いて、
「…僕の名前は在原サライ、木場和尚の奥さんだよ」
女性――在原サライ、和尚師言うところのサラは、やけに男らしく片手を上げてみせた。だが其れを認識しえたのは多分昂平だけで、残る二名は完全に凍り付いている。昂平にしたって意外ではあるけれども、それにしたって驚き過ぎではないか。
要するに。
彼女の夫、木場和尚は四十一歳。サラとは親子ほども年が離れているのだ。
4
…確かに、凍り付くほどおかしな話ではないだろう。年齢差のある夫婦なんて幾らでもいる。けれど、和尚師の話から、雛子は彼よりちょっと年下で、夫の浮気に何も言えない気弱な、地味な女性を(失礼だけど)想像していたのだった。和尚師が一方的に悪いのだと思っていたのだが、彼女を見ていると何か違う気がする。
親友の妹で、年齢的にきっと生まれた時から知ってるとかで、小さい頃は「おじちゃーん」「お兄ちゃんって呼べって言ってるだろー?」みたいな可愛らしい会話をしてたりして。
美人で、金持ちの、若い奥様。
何これ? 男の夢? 現実ってそんな良いものじゃないですよ?
「ひーにゃん、目ー覚ましてー」
「…はっ」
目が覚めた。と言うか意識を逃避世界から引き戻された。
「悪いのは、何も説明しなかったナオだからね。僕じゃないよ」
「いえ、其れは別にいいんですけど」
サラは和尚師の事をナオと呼んでいるらしい。何か可愛い。
「出来れば、説明とかしていただけると…」
「うん。十一の時に明斗が死んでね。其の妻、僕にとっては義姉に当たる人も心を悪くして。どうにか姪を守りたいと思ったんだけど、僕では何も出来なかった。だからナオに頼るしかない、でもナオは鬼魔を守るので精一杯。明斗がいなくなって、大切な資金源が失われたからね。其処をついて取引をした」
サラは具体的なことを言わなかったが、十分に伝わった。
「つまり、鬼魔への資金援助のために、和尚師は在原さんと…」
「サラでいいよ」
「…サラさんと、結婚したんですが」
「そんな感じ」
この感情は、自己嫌悪に似ていた。雛子は今、幸せだ。実の両親はいないけれど家族はたくさんいて、希望を言えば良い学校にも行けるし習い事も出来る。でも其の幸せは、サラが此れまでと此れからの人生を犠牲にした事で成り立つのではないだろうか。
だから和尚師が既婚者だと、自分達は知らなかったのかも知れない。
だからサラは、和尚師の浮気を容認しているのかも知れない。
だからサラは、木場でなく在原を名乗るのかも知れない。
「ひーにゃん?」
心配そうな声。でも答える気にはなれない。
「お、おい、雛子」
真郷の声だった。こいつには、こんな状況でなくとも答える気は無い。
「大丈夫だって、どうせ浮気してんのは和尚師だけじゃないだ」
身体が勝手に動いた。
「阿呆かあ!」
真郷が頭を押さえて蹲っている。見たところ踵が脳天を直撃したようだ。
「其処じゃないわよ! ていうか何処の下世話なおっさんだ!」
よりによって本人の前で言ってんじゃねえと言うかそもそも姪を守る代わりに資金援助ってお互い様の癖に片方だけが我慢するっておかしくないかいや元はと言えばそんな重要な事を素人に任せたあのおっさん…失礼、木場和尚師が悪いわけで…。
ちょっと混乱。
「落ち着きなよ」
言われた当人が一番落ち着いていた。退屈そうに、自らの美しい髪で細く三つ編みを作っている。
「さらはいッつもそォだ、どしてそンな…」
背後から、妙に舌足らずで独特の抑揚のついた声が聞こえた。全く気配がなく、声だけが湧いたような違和感がある。
雛子は振り向いた。
さっきの犬だった。
「喋っ、た?」
「うン」
犬は素直に頷く。綺麗な銀の虹彩と針のように細い瞳孔が、不自然な筈なのに良く似合っていた。
「何で生きてんだ!」
真郷が怒鳴る。訳が分からず昂平を見ると、彼の眼は焦点が合っていなかった。思考中らしい。
「成程ー、吹っ飛んだんじゃなく避けたんだー。良く考えなくてもあの〔術〕じゃ吹っ飛ぶ訳無いもんねー。不覚」
雛子が見ていない間に犬が消えた、あれの事だろうか。
「普通はね、補助術式が聞こえたら兎に角その場から逃げるんだ。やらないのはナオ位だよ」
『虹状結界』があるから、サラはそう付け加えて、テーブルに突っ伏した。いや、此処は和室だからちゃぶ台かな、と雛子は何となく考える。
「うゥ〜…」
サラは既に眠ってしまったようだ。時間にして約二秒。昂平が凄い特技だな、と妙な感心をしている。真似はしないでね。
「実はオレ、今かなり怒ってるんだー」
昂平は唐突に、唸り声を上げる犬に向かって言った。
「ちょっと、こーへい君。何言ってるの?」
「……」
犬は応えない。只、銀の眼で昂平を見つめるのみである。
昂平が怯むことなく静かな微笑を見せる。其れには、和尚師のような威圧感があった。
「教えてくれるかな。どーしてひーにゃんを殺そうとしたの?」
眼が笑っていない。本気で怒っている。
「どして、ッて…」
犬は相変わらず舌足らずに、返答に迷った様子を見せた。言えない答えがあるのではなく、敢えて表現するなら、英語の授業中に当てられたけれど答えが分からない感じ。
「聞き方を変えよっかー。ひーにゃんが此処にいる理由を知ってる?」
「えと、しらない」
「そっかー。良かった」
昂平の表情が柔らかくなった。はらはらして見ていた雛子が拍子抜けするほどあっさり、怒りを収める。何だか先程の会話に不穏な単語が混じっていた気がするけれど、考えない事にした。
「えーと、まだ名前聞いてないよね?」
犬は頷き、妙に嬉しそうな声で名乗った。
「おれは、りく。カンジデカクと、たいりくのりく」
「そっか。オレは、瓜生昂平だよー」
「うりゅう、こうへい」
頷きながら呟くと、続いて陸は雛子を見つめる。彼が言いたい事を察して雛子は答えた。
「私は阿佐井野雛子だよ」
「…朝夷、真郷」
「あさいの、ひなこ。あさひな、まさと」
陸が歌うような口調で復唱する。
昂平は常と変わりない表情のまま首を傾げた。
「えっとー、陸はサラさんとどー言う関係なのかな?」
陸はたっぷり三秒悩んで、さらに首を回して悩んだ。
「さらは、えと、ししょ? なンだよ」
…司書?
「…うんまーそれはいいや。楓って子知ってる?」
普段と比較すれば大分早口に、それでも世間一般から見れば標準的な速度で昂平は言葉を紡ぐ。ていうか昂平が思考放棄する所なんて初めて見た。明日は雨かな。
「うン。まもれッていわれたカラ、ココにいる」
素直に答える陸を見ると、雛子は骨が砕けんばかりの勢いで抱きしめたいという衝動に駆られるのだが、話がこじれそうなので必死に耐えた。
(あああっ、可愛いいぃ…)
そんな雛子の心中など知る由もなく、話は進む。
「だったら、目的は同じだねー。オレ達は鬼魔所属の術士見習いだから。因みに班長はひーにゃん」
「ひー…?」
「私の事」
「そか」
陸は納得したようなしてないような表情(犬の癖に、ちゃんと表情が表に出る。犬に表情筋ってあるの?)で畳に伏した。
「かずなおが、またドコカいッたンか」
そのまま、怒ったような唸りを上げる。雛子はつい問うていた。
「和尚師のこと、嫌いなの?」
「ン? きらいじゃないよ。かずなおは、セイカクワルイけど、つよくて、かッこいい」
和尚師を格好良いと言う奴を、雛子は初めて見た。確かに人間離れした強さを持つけれど、女好きでネーミングセンスが変で謎の煙を出すタバコを愛用していて…。幾ら強くても、格好良さは帳消しだろう。
そう言うと、陸は愉快そうに首を傾げた。
「さらミタイナこというね」
「サラさんも言ってるの?」
「『アノドウケシメ』ッて。かずなおがオミヤゲもッてきたあといッてた」
…はぁ?
陸の言葉は妙な抑揚がついている上に重要な筈の情報が抜け落ちていて、理解し難い事この上ない。
(…あれ?)
不意に閃いた。
「ねえ、陸。さっきの『シショ』って、ひょっとして『師匠』の事?」
「あー成程ー」
陸は首を限界まで捻り、そのまま停止して、やがて答えた。
「うン」
「そっかー、師匠か。じゃー陸ってさ」
物凄く嬉しそうな顔をして、昂平は真っ直ぐに人差し指を立てた。
「《異能力者》なのかなー?」
「そォだよォ」
5
世界に満ちた「力」を霊力に変える為の〔変換装置〕と呼ばれるものは、存在を知覚し変換量を上げる為に何年かかかるが、誰もが持っている。
ところが、極稀に変換装置を二種類持つ者が存在する。彼らを《異能力者》と呼び、彼らが持つ霊力以外の力を《魔力》と呼び、彼らが魔力を用いて発動する力を《異能力》、或いは単に《能力》と呼ぶ。
能力には術式が存在しない為、想像力と精神集中を必要とする。逆に言えば術式を描く必要が無い為に発動が速い。
魔力は霊力とは似て非なるもの。霊力より更に「力」を変質させたものである。よって、その力は個人差が大きい。霊力や魔力の個人差を指して、「属性」と呼ぶ。
属性は人によってばらばらだが、血の繋がりがあると似たような属性になる事が多いとされている。また、魔力の変換装置の多くは、血によって受け継がれる。古くから血によって変換装置を受け継いできた異能力者を、「番人」と呼ぶ。それ以外の異能力者は「突然変異」或いは「変異者」と呼ばれる。
基本的に、変異者は嫌われる。そこには様々な理由があるが、一つに犯罪者が多い事が挙げられる。嫌われ、忌まれ、排斥され、仕方なく生きる為に犯罪を犯すと言う悪循環。改善しようにも彼等の半数はそこそこ楽しんでしまっているので、どうしようもない。
しかし無論、犯罪者を放っておく訳にはいかない。かと言って只の人間が容易く捕まえられるほど、彼らは弱くない。だからこそ術士が存在し、秘密裏に彼らを捕らえ、時に殺す。
変異者の側も、殺されてはたまらない。だが術士は圧倒的に数が多く、一人でいては敵わない。よって彼らは集団となる。彼らの集団を『集会』、一般の術士・異能力者の集団を『組織』と呼ぶ。
6
(喋り出した辺りからそうだろうとは思ってたけど)
昂平は、何とはなしに溜息を吐く。
「集会派、じゃないよね?」
「ちがうよ。組織派でもないけど」
「そっか。良かった」
陸があっさりと首を振ってみせたので、雛子は胸を撫で下ろした。
ふと、真郷が口を開く。
「おい」
「ぷーい」
陸は顔を背けた。
「口で言ってんじゃねえ異能力者! ぶっ飛ばすぞ!」
「やれンならやッてみろ、ザコ」
(何で「師匠」は言えないくせに「雑魚」って言えるんだろ)
「ざっ…俺は一対一じゃ負けなしだっての! 雑魚言うな!」
「一タイ一とかいッてるジテンでザコだよ」
「どう言う意味だ!」
「あ、かえッてきた」
真郷を綺麗に無視して、陸が顔を上げる。昂平には音も気配も感じられないが、見た目が犬(?)だけあって、彼の感覚は鋭敏なのだろうか。
「ただいまー!」
数秒後に、玄関の方角から声と廊下を走る足音が聞こえた。現れたのは、宝石のような髪留めを着けた、一人の少女である。
可愛いと言ってもいいが魅力的では断じてない顔立ち。
光に当てると茶に見える、何の変哲も無い耳の下で切り揃えた黒髪。
地味な制服。
恐らくは彼女が「在原楓」なのだろう。
少女は三人を眺め回し、視界に陸の姿を認めると、首を傾げた。
「人間みたいに見えるけど、りっくんのお友達なの?」
「…かえで。おれをなンとおもッてンの?」
呆れた様子の、陸の声。
結局、真郷が何を言いたかったのか、分からないままである。
7
楓は地味なワンピースに着替え、事情を一通り聞いた後に質問した。
「わたしの力について、どれ位知ってる?」
此れには、既に班長だと自己紹介を済ませた雛子が答えた。
「其れが、和尚師はあんまり説明してくれなくて…『はじまりの術士』をも圧倒する、って言った位かな」
疑問を差し挟む余地も無い返答のように、真郷には思えたが、楓は不思議そうな表情で瞬きした。
「はじまりのじゅつし?」
「あー、そっか。異能力者は、『始祖』って呼ぶんだっけー。そっちは分かるー?」
「うん、それなら。でもオジサマ、ちょっと大げさじゃないかなあ。わたしはそんなに強くないよ」
昂平の解説に頷いた楓は、そのまま首を傾げた。
「で、具体的にどんな力なんだよ」
真郷が自分でも偉そうだと思う口調で問うと、昂平が咎めるような目付きをした。今回に限って言えば、故意にやった訳ではないので意に介さなかった。
「うーん、見た方が早いかも。家壊しちゃうといけないから、外出よ」
楓の方も一向に気にした様子はなく、手と言葉、両方で三人を促して立ち上がった。陸はいつの間にか、いなくなっていた。
…そして三人は、驚愕する事となる。
8
「も〜う終わりー? 楓ちゃんはまだまだ元気ですよー」
楓は元気なのを示すつもりで、両腕を広げくるくる回って見せた。
「…っそ…の野郎…」
対する真郷は、顔を真っ白にして肩で息をしている。楓は〔術〕の事は良く知らないが、あんなに血を使ったら貧血にもなるだろうなと思った。寧ろ健闘を称えたい。
「〔 …〕」
(三十、何回目だっけ? これが最後かな)
術式と言う奴はいつ見ても目が回る。だから楓は余り見ないようにしていた。
見ても見なくても、「結果」が変わるわけではない。
『KWAAAAAaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!』
「うわ!?」
少し驚いた。〔術〕によって創られた存在にも、声はあるのか。如何にも怪物的な叫びだ。
反射的に、楓は耳を塞いだ。真郷が創造した怪物――頭は鳥、胴は馬、脚は鰐だと思われる――が異常な速度で距離を詰める。
楓の動体視力では到底追いつかない。気付いた時、怪物は楓を噛み殺せる位置にいた。
(うわ、わ!)
それでも、楓の頭に浮かんだのは恐怖ではない。このまま襲われたらワンピースが駄目になる。それだけだ。
咄嗟に左手を伸ばす。こちらに向かって来ているのだから、嘴に触れるのは容易だった。
『GWWWAAaaaaaa――!?』
尻切れ蜻蛉のような断末魔。発声器官が消滅しては、叫ぶ事も出来ない。
楓が触れた凶悪な嘴が、眼が、首が、背が、腹が、脚が、尾が、消える。
「……」
最後に、真郷の血によって描かれた術式が、蒸発するように空気に溶けた。
真郷は目を伏せる。悔しさからか、或いは。
「いつもの事だけどさ」
楓は負け惜しみのように呟く。
真郷と、同じく霊力を使い果たした雛子の表情は、楓にとっては日常の一部といっても過言ではない。彼等の顔にはこう書いてある。
『こんな事があっていいのか?』
理屈も何もない。楓は只触れるというだけで、〔術〕を消し去れる。
「まあ、霊力って言うのはつまり『歪み』だから、其れを正すという意味ではその能力は…うん、いいんだけど」
昂平の表情には変化が無いが、相当混乱しているらしい事は分かる。
「霊力じゃなくて魔力でも、同じように消せるよ。そういうの、『還元』って言うんだって?」
「うん。理屈の上では可能だけど、指紋が一人ひとり違うみたいに霊力も一人ひとり違うから、完全に還元するのは無理だって言われてる。成程ねー」
喋っている内に余裕が戻ってきたらしい。しきりに頷いている。
「誰もが不可能と諦めてきたー、伝説みたいな能力だよー。和尚師の言いたい事がようやく分かった」
「…確かに、狙われるのも無理ない、と思う」
雛子が深呼吸しながら立ち上がった。まだ幾分顔色が悪い。
「でも、そんな強いなら守る必要ねえじゃん」
「マサやん…。馬鹿だ馬鹿だーとは思ってたけど、此処までとは…」
「んだとこら」
真郷は元気だった。回復力もあるらしい。
「わたしの能力は、只の暴力相手じゃ何の役にも立たないの。身体を鍛えようとか思っても、オジサマとかサラに止められちゃうし」
真郷と雛子は首を傾げるが、昂平はまだ延々と頷き続けている。
「身体を鍛えたりしたら、本当に弱点がなくなっちゃうからねー。秩序が乱れかねない」
楓も頷く。始祖をも圧倒する異常能力者の在原楓は「弱い」必要があるのだ。
「それでも、楓ちゃんを欲しがる人は大勢いるだろうねー」
「だから、か…」
彼等の会話を、楓は何処か遠くのもののように聞いていた。
楓が欲しいのではない、楓の力が欲しいのだ。楓は只の入れ物なのだ。
それでも、楓の周りにいる人達は優しかった。
サラは何だかなあと思うくらいに楓を溺愛しているし、その友人達も親切だ。
父は楓を嫌っていたようだけど、他の子供に接するのと同じように扱ってくれた(父は子供嫌いだったので、結局良い扱いではなかったけど)。
叔父は木場家当主の立場より父の親友としての立場を優先してくれた。『虹状結界』を発動しない限りは自分には何の影響も無いと分かると、子供好きの彼は楓をとても可愛がってくれた。会う度に菓子をくれる所為で、五歳頃の楓は子豚みたいだった。
だからこそ、自分の所為で死ぬ人間がいる事を忘れてはならない、と言った人がいる。欲しくて手にしたものでなくとも、持ってしまったからには責任があると。せめて貴方だけでも、彼らを悼まねばなりません、と。
楓は、何も背負いたくなんかないのだ。だから誰にも死んで欲しくない。けれど、楓の力を求める者は後を絶たないし、彼等から楓を守ろうと闘って死ぬ者も沢山いる。
「…楓ちゃん?」
黙りこくった楓を心配したのか、雛子が声をかけてくる。
「だ、大丈夫だよ。頑張る」
安請け合いとしか思えない台詞。彼女は何も知らないのだ。
「…うん」
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2005/04/24(Sun)12:22:46 公開 / かえる
■この作品の著作権はかえるさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
ごめんなさい盛り上がりませんでした。半分ノリで書いたので、良く分からないかもしれません。本当はもっと沢山書きたいのに、上手く書けなくて悩んでいます。此れがスランプ…!?
まず風邪を治そうと思います。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。